5053(小学部1950年、中学部1953年卒業)会の開催 |
会の流れ
5月28日、12時30分から3時30分まで新宿中村屋5階の「レザミ」で開催されました。(2ヶ月前にこのTama’37で開催の「お知らせ」文を載せてもらいました)
ほぼ定刻にほとんどの方がそろったところで三浦文郷君の司会でスタート。 酔わないうちに?すぐに全員で記念写真。 その写真はすでにこのHPに掲載されている写真ですが、おかげさまで今回写真係を引き受けてもらった今井正孝君の高性能デジカメと腕でクリアに撮ってもらえました。 用事のため少し遅れて来られた熊沢初恵、丹野(稲垣)美穂子さんは入っておられませんのが残念でしたが。
次に私、徳座が「開会のことば」を話させていただきました。・・・この会を楽しいものにしていきましょう。お互いによく動けるのはあと10年ぐらいかもしれませんので。 懐かしい友人と楽しく歓談し仲間を増やし、今後もますます同窓会に積極的に参加して、それこそ来年の小中高の同期会の方にもより多くの方が出席できるようになると良いと思います。・・・という本日の一番の開催の意味を述べました。・・・次にすでに亡くなった、内木場先生、安川先生、そして11人の仲間のご冥福を祈りましょう・・・ということもふれました。・・・それから本日までの多くの発起人の方々に協力して頂いたことに感謝し、本日も特別に「合唱・指揮」を担当して下さる高橋 襄君、記念写真を担当の今井正孝君の紹介をしました。
いよいよ乾杯ですが、久しぶりの出席の白洲兼正君に元気よくやってもらいました。
その後はお酒、料理とともにしばらくゆっくりと互いに近況や思い出話などの歓談の時間です。(ぜひスナップ写真の参照を)
スピーチについては司会の三浦君からまず今回の幹事でもある越水源造君が指名されました。越水君は・・・自分は町田高校に進学したこともあり、玉川の思い出は中学時代だけであり、その中でも安川先生には特にお世話になり深く感謝している。 今月9人にアメリカンクラブでの先生の7回忌に出席し(Tama’37に安川先生の7回忌・・村川正治君の報告あり)、奥様や息子さんと約90人ぐらいの出席者の前で奥様宛の追悼の文を朗読したこと、今回の幹事の仕事を引き受けたことなどは、そういったいろいろな感謝の気持ちからです・・・といった純粋な気持ちを述べられていました。
次は榎本重孝君が指名されました。彼は「小中高大」と数少ない{純玉}の一人ですし、卒業後長期にわたって多くの同期の仲間とのゴルフ愛好会の推進、まとめ役をやってきていますし、お子さんを玉川に入れたことから中学部の父母会の仕事の重責を果たしたりと、玉川との関わりが深く長い仲間です。・・・自分は同級生結婚で妻は高等部から同級生となった田原弘子だが、今は病気療養中である。しかし心配してくれて声をかけてくれたり、お見舞いしてくれたりする妻の玉川の同級生が多いことはとても嬉しくありがたい。今後も自分はますます妻を大事にしていきたい・・・といった主旨でした。
しばらくまた飲んだり料理を頂いたりしたところで、結局は全員がマイクを持って近況、感想などを話す、「全員スピーチ」になりました。事前の幹事、発起人の準備会では時間の関係から、数人のスピーチを予定していたのですが、司会の三浦君の判断で全員39人のスピーチになりましたが、これは結果的にとても良かったと思います。 確かにスピーチの最中は料理を食べにくくなり、冷えたり残ったりもしましたが、一人一人のスピーチの長い短いはあってもお互いの声を聞き、気心を同時に全員で知りあえたことは大きな交流となったと思います。 なお今井正孝君の発言のこの会への批判のあったことや、5053会の件は後述(特記)したいと思います。
開始から2時間半も過ぎて3時近くになっていよいよ高橋ノンチャン指揮による合唱が始まりました。 愛吟集から<歓迎の歌、夜が明けた、水がめ、青春の歌、校歌、さようなら皆様>の歌を選びきれいにプリントしたものを嬉しいことにノンチャンは用意してきてくれていたのです。 おまけにそのA4のプリントの中には小中学部時代の懐かしいセピア色の写真が6枚も鮮明に散りばめられているのです。 このプリントはその感性だけでなく、さすがにもとビクターの技術研究部門で業績を上げた人だなあと感心する出来栄えでした。
本日の欠席者にも後日このプリントを送りたいと思っています。
合唱は指揮の良さのセイもありますが、卒業後50年!とは思えないハーモーニーと声量で全員口を大きくあけて思い切り歌っていたと思います。(その証拠はスナップ写真参照!)やはりこのような瞬間は小中学部時代の玉川の丘に心が戻っていき、懐かしさが強くこみ上げてきます。全員が同じ感慨というか一体感に包まれる・・同じ時代に同じ場所で育った仲間だからこそ持つことができる気持だと思いました。
なお、本日の欠席者の方々からは返信はがきの連絡欄にいろいろなコメントが書かれていましたので、会場内にファイルに入れて観られるようにしておきました。 が、これは昨秋の小中高の同期会の幹事の方々が会が終わってから、一覧できるメモにして会計報告などと一緒に全員に送ってくれましたので、今回も同じようにしたいと思っております。 その中でも越水君が特別に出席要請?の長文を送った前田昌彦君から出席できないことの理由や皆さんへの挨拶が越水君宛に送ってきた返事があります。 それを三浦君が朗読し、前田のヨッチャンは欠席されてはいるが元気にすごしていることを紹介しました。
この後ご指名により、再び私、徳座が「安川さんの手紙」についての本が出版されたいきさつ、頒布方法などを話させていただきました。(この件についても後述(特記)させていただきます)
最後に今回の発起人で事前に何回も集まり知恵を出して下さいました山下靖夫君に閉会の挨拶をしていただきました。彼は三浦、仙田君と共に来年開催予定の小中高の同期会の幹事でもありますので、そういった橋渡しをも兼ねてのスピーチをして締めくくってくれましたが、物故者となった、内木場、安川先生をはじめ11人の仲間に対してご冥福を祈ろうと皆によびかけ、しばらく黙祷しました。
そして最後の最後に高橋ノンチャン指揮による校歌を少ししんみり歌い、めでたく閉会したのはもう3時30分でした。 後で会場費延長分5000円を支払ったくらいでしたが、3時間の長い同窓会を39人の参加者が一人も早退せず最後まで共に楽しい時間を過ごせたことはとても嬉しいことです。 来年の小中高の同期会や2年後の小中の同窓会・・5053会・・仮称・・にまたぜひ会いましょう!という参加者の気持ちを校歌を歌いながら強く感じたのは私だけではないと思います。
付記
当初、出席予定でご本人も楽しみにしていたのに、仕事その他の理由でこられなくなった<安藤 誠、小秋元 聡、ドタキャンで会費まで払ってくれた阪田 清>の3君からは維持会費を頂いています。 また最初から欠席予定することになっていた<賀川安規子、岡左久良>の両君からもすでに維持会費を送っていただきました。 ありがとうござます。
Tama’37にすでに紹介されている丹野(稲垣)美穂子さんの今後の活動予定のことで、ご本人のスピーチの中にあった{・・7月の朗読と遊び唄、11月〜12月に全国各地で行なう・・幸せ猫・・}の公演のことです。 これはぜひHPを開いて見て応援してあげてほしいと思います。
特記
「安川さんの手紙」の出版の過程と頒布に関してです。 このTama’37ですでに村川正治君が「安川先生・7回忌・追悼会の報告」で述べてくれているとおりです。 この場を借りて28日のスピーチより少し詳しく経過を述べさせていただきますが)・・・つまり安川先生の1周忌が麻布のアメリカンクラブで行われた時に、慶応の普通部出身の早山隆邦氏が「先生は筆まめな方でしたし、生前に教え子に出された手紙を集めて本にまとめたい」と呼びかけられ、玉川の教え子の方は私が約5年くらい前に、住所の判明する同級生全員に郵便で呼びかけたのです。{その結果は村川正治、高橋 襄、田中敏之、大日方百合子、中村(片山)洋子、堀口良子、三浦文郷、徳座照雄の方々から集まりその先生の手紙と受け取った本人のコメントが本に掲載されています} しかし集まった手紙も少なかったので、今度は昨年になって「早めに安川先生の思い出文を書いてほしい」という依頼が早山さんからあり、同級生全員に連絡もできず先生の手紙を提出してくれた人、1周忌に参列した人にだけ至急依頼する結果となりました。{村川正治、高橋 襄、田中敏之の3名からは書いて頂けたのですが、今年の出版直前に最終的に玉川の方の空欄を埋めることもあり徳座が少し長めに書かせて頂きました}・・・この本はほんとうに安川先生の人間として、教育者としてのお人柄がよく表現されています。また先生らしいスケッチや絵も楽しく散りばめられています。 パチクリさんにとって玉川生活は短かかったとはいえ、長い慶応生活に負けないくらい輝いていた青春時代だったのだということもわかるのです。{先生は慶応の普通部に転勤された後、玉川の話を楽しそうによく語られたと慶応の教え子の方がこの本の中でも書いておられます}
この本の頒布係として、越水源造、山下靖夫、三浦文郷、徳座照雄の4人がチームを組み、早山さんからとりあえず玉川分として50冊を買い取りました。この出版は一冊1000円では赤字ですが、越水君が先生への恩返しということでより多くのお金を寄付して下さいましたので、それに多少3人で加えて定価の何倍かのお金にして早山さんにお渡ししました。そのお金もいずれ出版費約140万円の半分ぐらい負担されている奥様のところに届くはずです。
中村屋の会場で以上の話をもう少し簡単に申し上げ説明し、解散後の出口で頒布させてもらいましたが、当日持参した25冊分はおかげさまで全て完売しました。 残りの25冊は徳座が担当し本を預かっていますが、まだ頒布の方法(送金と郵送方法)がはっきりしていませんのでまもなく今回の会計報告や写真を出席者、欠席者全員に送る時に注文方法を文字にして同封するつもりです。(もし急がれる方は普通の封筒に本の1000円の代金と郵送料200円分の切手・・郵送は実際は390円以上かかりますので多くてもかまいませんが・・最低50円の切手4枚を同封して徳座宛に郵送して下さい)
このTama’37主宰者でもある今井正孝君がスピーチの時に「今回この小中の同窓会の開催にあたり、高等部出身者の一部の方々から批判があった。 つまり<自分たちを除け者にしようということになるのではないか。 小中高の同期会として合同して仲良くやってきたのにどうして高だけをはずすのか>ということで、自分も説明はしたのだが、そういった気持ちを持っている人もいることも配慮してほしい」と話したことです。このことは何度も今井君から私はメールでも聞いてきたことです。 5月9日にパチクリさんの追悼会後の二次会の席で彼と私たち幹事、発起人との考えを話しあう機会もありました。 その批判をされている一部の人はだれなのか分かりませんが、私たちは高等部だけの出身者を除け者にする?気はまったくないのです。 特に私は高等部出身ですし、個人的には後に高等部の教員を15年もやらせてもらい、小中高の同窓会を最初「学友会」と名づけたころから含めると何度も幹事役を担当してきました。 ですから私も含めて私以外の今回の発起人の三浦、山下、仙田君などは来年の小中高の幹事なのですし、その顔ぶれも見てもっと信用もしてほしいと思いました。 それから不満があればもっとはっきり電話でもして話し合ってほしいものです。 確かに「小中」だけだと「高」の人は出席できないわけで、つまらない、さみしいといった気分を持たせてしまうかもしれませんが、一方「小中高の同期会」ばかりでなくもう少しお互いによく知っているもの同士だけの「小中の同窓会」の方なら出たいという人もかねがねいて、今までずーっと遠慮してさみしい思いをしてこられた人も案外いるのです。 お互いにもう少しオトナになって今後元気な時間が残り少ないもの同士として理解しあいたいものです。
この小中の会が楽しい会として成功すれば親しい同窓生が身近にでき、今後積極的に参加する気持ちも強くなり、来年の中高の同期会にもより多くの仲間が出席できるようになれば良い・・ということを私は開会の辞でも話しましたが、とにかくこれが今回私が幹事を引き受けた個人的な気持の中心で他意は一切ありません。
今井君はこのHPを主宰し長年苦労し時間を使ってきてくれています。いろいろな仲間との交流があり、あちこちからの声を聞き、調整する役?をやらざるを得ないこともでてきているのでしょう。 この件では今井君は高等部出身者の中で批判を言う人と私たちとの間に入ってやや板挟み?なのだろうと私は想像しています。 つまり彼は名称についても「小中高の同期会」に対して「小中の同窓会」というのはなにか対立的、分断的なのでもっと工夫したらどうかと心配し、具体的にいくつかの名称を考えてくれています。 私は名称を変えても内実は同じという考えですのであまり賛成ではありませんが、苦労している今井君の提言を尊重したいことや、いろいろな配慮から「5053会」(1950年小学部卒、1950年中学部卒の略)が少しクールな名称とは思いましたが、28日前に幹事、発起人が集まった席で相談しました。 その結果次回の同窓会からこれでいこう、それまでは(小中の同窓会の仮称)という了解をとり、28日当日に山下君の閉会の辞のあとに会場で発表させてもらったのです。 これには賛否両論あると思いますがしばらくこの方向でいくことを皆さんにも了解してほしいと思っています。
以上いささか個人的、主観的な見解があって申し訳なく思いますが、いろいろ書かせていただきました。なおこれはTama’37用に書きましたので手直しをした上で、5053会の皆様に会計報告や写真などと一緒に今回の幹事の報告として送付するつもりです。
2004年5月31日
徳座照雄
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