後梁 後唐 後晋
後漢 後周
燕 岐
呉 南唐 呉越
閩 荊南 楚
前蜀 後蜀
南漢 北漢
朱全忠 852〜907〜912
太祖。宋州碭山の出身。旧諱は温。唐朝より全忠と賜名され、即位後に晃と改めた。黄巣の乱に投じて一方の将に進んだが、後に朝廷の招撫に応じて節度使に任じられると黄巣平定に大きく貢献し、乱後は中原各地の対抗勢力を平定して梁王に封じられた。殊に経済の大要衝である開封に拠ったことは華北に支配権を確立する上で大きく作用し、対立する晋王李克用を圧し、朝廷を制圧して宦官貴戚を鏖殺し、907年には昭宗を殺して立てた哀帝から弑簒した。
後梁の支配は経済力を背景に各地の藩鎮に主権を認めさせたもので、そのため勢力基盤は脆弱で、晋王を襲いだ李存勗に次第に劣勢となった末、太子問題で不仲となっていた次子友珪に病床で斬殺された。黄巣からの離叛と唐朝簒奪によって悪評が高く、中国では未だに朱温と表記されることが多いが、実効を重視して口舌の徒を排し、長安で宦官とともに寄生地主化していた貴族層を滅ぼしたことは、貴族制社会にを完全に終焉させて次の士大夫時代を準備した。
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朱友珪の簒奪は河中(山西永済)の護国軍節度使の朱友謙を晋に奔らせ、翌年には次弟の均王朱友貞に滅ぼされた。均王政権は916年に劉鄩が晋に大敗したことで組織的な抵抗ができなくなり、この時は契丹の幽州侵攻で余命を永らえたが、923年、契丹と和した後唐の荘宗に滅ぼされた。
柏郷の役 911
河北三鎮の動向を巡って行なわれた、後梁と晋(後唐)の会戦。魏博軍の帰順を受けた梁軍が正徳軍を攻め、李存勗が正徳軍の求援に応じたことで武力衝突に発展した。周徳威らの勇戦によって晋の大勝に終わり、後梁は守勢に転じるようになった。
王彦章 862?〜923
鄆の出身。字は賢明。武勇・武略に優れ、軍卒から累進して後梁建国後に開国侯に封じられた。常に先鋒として勇戦して“王鉄鎗”の異名があり、後唐の周徳威と並称されて李存勗にも畏れられ、妻子を人質とされて帰順を求められると使者を斬って拒んだ。常に君側を糾弾したために久しく要職に就けず、923年になって宣義軍節度副大使知節度事に北面招討使を兼ねて晋軍を撃退したが、均王の側近の讒言と掣肘で後唐軍と戦って捕えられた。降伏を求められると「豹は死して皮をとどめ、人は死して名をとどむ」と拒んで斬られた。
張全義 852〜926
濮州臨濮の農民。字は国維。本名は言。黄巣の下で民生の安定に尽力して重んじられ、黄巣が敗死すると官軍に降って賜名された。後に河陽節度使を逐って洛陽令とされると私財を投じて帰農を奨励し、孫孺の劫掠で興廃の極にあった洛陽を数万戸に復興させ、城壁の修築を果たしたという。旧知の李罕之との対立から朱全忠に保護を求め、経営力を以て朱全忠の勢力強化を輔け、建国とともに魏王とされた。滅梁で後唐に降って河南尹・斉王とされたが、明宗の即位後は憂懼の末に病死した。
劉鄩 858〜921
青州平定中の朱全忠に降り、後に鎮南軍節度使・開封尹に至った。915年に漳河で李克用と対陣中に晋陽急襲を図ったが、果たせず貝州に回頭し、翌年に末帝からの出征督促に将兵が和すと、「上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、兵は怠惰」と歎き、李嗣源の守る魏州を攻めて来援した李存勗に大敗し、以後は守勢に徹して中央の召還にも応じなかった。梁軍を代表する将として楊師厚・王彦章と並称されたが、謀叛を疑われて暗殺された。
沙陀族
天山東部に遊牧していた西突厥の一派で、処月種とも呼ばれる。唐高宗のときに金満・沙陀の2州が設置され、玄宗のときに吐蕃に圧迫されて北庭方面に遷り、徳宗のとき吐蕃に服して甘州に遷されたが、河外への遷徙を嫌って808年に唐に奔って塩州に置かれ、族長の朱邪執宜は陰山府兵馬使に任じられた。
夙に勇兵として知られ、龐平定で勇名を馳せた朱邪赤心はこの執宜の子で、大同軍節度使に任じられて李国昌と賜名されたが、程なく太原・幽州の節度使の圧迫で漠南に逃れた。李国昌の子の李克用が河東軍節度使とされてより沙陀部は太原を中心に山西北部を根拠地とするようになり、後唐・後晋・後漢はいずれも晋陽(太原)地方の節度使が一族勢力を背景として樹立したもので、太原に拠った北漢が北宋に滅ぼされたことで沙陀政権は終焉した。
李克用 856〜908
太祖武帝。西突厥沙陀部の朱邪赤心=李国昌の子。黄巣の乱平定で武勲第一と称され、黄巣を関外に退けたことで河東軍節度使とされ、884年に黄巣を敗死させ、895年には晋王とされた。李克用は眇目だったために“独眼竜”の異称があり、またその軍は全員が黒衣を纏っていたので“鴉軍”と畏怖された。黄巣敗滅の頃より開封に拠る朱全忠とは不倶戴天となって河北の支配を争ったが、朝廷工作などには疎く、901年に朱全忠が河中を制圧してからは劣勢となり、太原で病死した。
李存勗 885〜923〜926
荘宗。李克用の長子。太原で父の晋王位を襲ぎ、劉守光を滅ぼして幽州を征服し、契丹と修好して河北に支配力を及ぼした。923年に唐帝を称して後梁を滅ぼした後は陝西西部に拠る李茂貞や四川の蜀を併合して長江以北をほぼ支配し、南方諸国をも藩属させた。
父以上の武将と評されたが、即位後は唐の遺風を慕ってその陪都だった洛陽に都し、歌舞音曲や酒色に耽って宦官・伶人など佞人を近づけ、政治を顧みなくなったために軍部の輿望を失った。大名府の銀槍兵討伐に向かわせた李嗣源が叛くと補給を絶たれ、親率する禁軍によって殺された。
周徳威 〜918
朔州馬邑の出身。字は鎮遠。夙に驍将として知られ、910年に寡勢で王鎔を救援し、913年に劉守光を滅ぼすと盧竜軍節度使とされ、915年には柏郷で梁軍を大破し、この時の戦術は五代戦史上の白眉と讃えられる。918年に李存勗の驕戦を諫止したものの聴かれず、突出した李存勗を救援して胡柳陂で勇戦の末に戦死した。胡柳陂の役は諸将の奮戦で大勝に終ったが、李存勗は諫止に従わなかったことを痛惜したという。
張承業 845〜921
字は継元。宦官として唐の僖宗に仕え、崔胤・朱全忠の宦官掃滅では李克用に匿われ、哀帝の即位とともに晋王の監軍とされ、主に軍政の大権を掌った。李存勗の補佐を遺嘱されてその華北制覇を実現させたが、登極を極諫して聴かれないと絶食死した。
郭崇韜 〜926
代州雁門の出身。字は安時。郭子儀の裔を称した。李克用の代より仕え、建国後に滅梁の勲功筆頭として侍中・正徳軍節度使とされた。荘宗の治世を輔け、唐の旧官僚を積極的に登用して宦官と対立すると、保身のために荘宗に魏国夫人劉氏の立后を密奏した。征蜀の議を主導し、925年に李継岌の副として率軍したが、戦後、宦官に唆嗾された皇后の密命で成都で李継岌に殺された。事件は郭崇韜造叛の噂となって伝わり、貝州の銀槍兵の造叛を惹起した。
李継岌は帰途、長安で迫られて自殺した。
李嗣源 867〜926〜933
明宗。第二代君主。元は雑胡だったが、李克用の仮子とされ、即位後に亶と改名した。夙に勇略を讃えられ、契丹防御・後梁攻略など後唐建国に大功があり、李存審と双璧と謳われた。大名府の銀槍兵討伐では、叛兵に同情した禁軍に推されて京師を攻囲し、荘宗が殺されると即位して開封に遷都した。自ら節倹に努め、宦官を粛清し、伶人・宮女を削減し、全国に検地を行なって課税の公平化を図るなど時流に応じた朱全忠の政策の多くを継承し、また財務機関として三司使を創設した。
文盲ではあったが、側近に史学を講義させて統治に活用し、内治復興を重視して五代屈指の名君と謳われたが、即位の経緯から軍部を優遇したことで驕兵を生み出し、以後の軍による簒奪傾向を助長することとなった。
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明宗の死後は第3子の李従厚が襲いだが(愍帝)、翌年には明宗の義子の潞王李従珂が簒奪した。潞王は河東節度使の石敬瑭を警戒し、沙陀軍との隔離を図って山東の天平節度使への転任を命じたことを機に叛かれ、契丹の援軍を得た石敬瑭に敗死した。
霍彦威 872〜928
曲周(河北)の出身。字は子重。梁将霍存に養子とされ、朱全忠に仕えて各地を転戦したが、後梁が滅ぶと後唐に仕え、荘宗から李紹真と賜名された。李嗣源の下でしばしば契丹撃退に功を挙げ、帷幄にも参画して首都反抗や即位のことを勧め、検校太尉・中書令に進んで明宗の政権で重権を与えられた。在任中に歿した。
石敬瑭 892〜936〜942
高祖。突厥沙陀族の出身。李嗣源に従ってその即位を扶け、節度使を歴任して禁軍を統率し、明宗の女婿とされた。潞王李従珂とは声望を斉しくし、934年に潞王が即位すると圧迫されて挙兵したが、劣勢に陥ると契丹に援兵を求め、その助力で936年に後唐を滅ぼして即位した。伝統的に軽侮していた契丹への屈従は当時から暴挙と非難され、そのため帝権は弱く有力藩鎮の叛乱が続き、また契丹援兵の代償として称臣と莫大な歳幣だけでなく燕雲十六州を割譲し、燕雲割譲は次代北宋の一代を通じて禍根となった。
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継いだ甥の石重貴(出帝)は契丹への臣従を廃して歳貢も停止したために契丹の南征を受け、杜重威の離叛で惨敗し、契丹に幽囚されて954年以降の消息は伝わっていない。
燕雲十六州 ▲
南唐政権に叛いて劣勢となった石敬瑭が、支援の代償として契丹に割譲した華北北部の総称で、燕京(北京)・雲中(大同)を中心としたことに由来する。燕雲のほかに長城以南の涿・薊・檀・順・瀛・莫・蔚・朔・応・新・嬀・儒・式・寰州が含まれる。後に後周の世宗によって瀛・莫2州が回復され、宋代に易州を失い、また早くから契丹領となっていた平・灤・営州は含まれない。
燕雲の称は北宋徽宗の時代より用いられ、それ以前は燕代・燕薊・幽薊などと呼ばれたが、孰れにしても北宋一代を通じて国体問題の象徴となり、燕雲回復は澶淵の盟以降も最重要指針として標榜されたが、ついに果たされなかった。
劉知遠 895〜947〜948
高祖。突厥沙陀族の出身。後唐の明宗に仕え、後に石敬瑭を扶けて後晋建国に大功があり、節度使を兼ねたまま軍の要職を歴任したが、中央に在職することはなかった。契丹への燕雲割譲には極力反対したが、契丹侵攻の際には北京(太原)留守・河東節度使でありながら城を閉ざし、契丹の退却に乗じて追撃する一方で開封に入城して即位した。
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襲いだ第2子の劉承祐(隠帝)は建国以来の勲臣を粛清して君主権の強化を図ったが、950年には鄴都留守の郭威の挙兵を招き、軍部がこれに呼応したために開封郊外で敗死した。郭威によって高祖の甥の劉贇が徐州より迎立されたが、翌年には郭威に弑簒された。 ▼
史弘肇 〜950
鄭州滎沢の出身。字は化元。驍勇寡黙の人で、劉知遠の下で累進し、「軍紀厳粛で秋毫も犯さず」と讃えられた。漢建国で忠武軍節度使・侍衛歩軍都指揮使とされ、劉知遠の臨終では託孤四臣の1人となった。隠帝が即位すると中書令として朝政を主宰したが、強権の行使と酷法の運用・文官への憎侮などから隠帝らに憎まれ、謀叛を誣告されて出仕の途上で暗殺された。
郭威 904〜950〜954
太祖。字は文仲。卑賤の出だったが劉知遠に認められ、後漢建国を扶けて枢密副使に進んだ。隠帝が即位すると枢密使とされ、内乱鎮圧や契丹撃退で声望が高まると隠帝に猜疑され、自殺を命じられて挙兵し、隠帝を攻殺して劉贇を立てたが、まもなく軍に推されて即位した。民生安定、特に農村復興を重視し、武器進奉の廃止と藩鎮からの地方行政の回収、文官による政策上奏の認可は、軍紀粛正と中央集権の上で旧制からの一大転換となった。<
軍部出身の郭威の下での文官復権は、契丹入寇時の軍閥の非力と弊害が、統一論の昂揚と軌を一にして時流の変化をもたらした結果と観ることができ、その過程で馮道ら改良主義派は旧官僚として退場を余儀なくされた。
馮道 882〜954
瀛州景城(河北)の出身。字は可道、号は長楽。劉守光・李存勗に仕えて荘宗に翰林学士とされ、明宗のときに中書侍郎・平章事とされた。以後、後晋を滅ぼした契丹を含む五朝八姓十一君に仕え、『資治通鑑』『新五代史』など朱子学が主潮となった後世からは破廉恥な無節操漢と排撃されたが、常に人民の安定に尽くし、時人からは寛厚の長者と讃えられ、李卓吾も「孟氏曰く、社稷を重しとなし君を軽しとなす。まことに至言なり。馮道、之を知れり」と絶賛した。
柴栄 921〜954〜959
第二代君主、世宗。邢州竜岡の出身。郭威の皇后の弟で、郭威の養子となってその成功を輔け、郭威の一族が隠帝に鏖殺されていたために太子とされた。即位直後に入寇した北漢と契丹を撃破し、戦後は軍紀を粛正し、精鋭を選抜して皇帝直属の殿前軍として軍の中核とした。殿前軍によって強化された帝権は相対的に節度使を弱め、また対外的も後蜀の4州、南唐の江北を奪って後顧の憂いを除き、北伐して燕雲十六州の3州を制圧したが、幽州で病死した。
内政面では、廃仏によって仏教教団を統制粛正し、“大周刑統”を制定して国法を明らかにするとともに、租税の軽減や開墾・治水灌漑を振興して農業生産の回復と発展につとめ、次の北宋による統一事業を準備した。五代随一の名君と謳われ、中国史を通じても屈指の賢君といえる。
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継嗣/第4子の柴宗訓が幼少だったために衆望は都点検の趙匡胤に集まり、翌年には譲位して鄭王に封じられて湖北房州に遷された。柴氏は宋一代を通じて勅命によって手厚く庇護された。
李茂貞 856〜924
梁州博野(河北)の出身。字は正臣。本名は宋文通。神策軍の兵卒より累進して田令孜に仮子とされ、朱玫の乱で僖宗を護衛した功で賜名され、武定軍節度使とされた。鳳翔節度使簒奪後に楊復恭追討の功で兼領を認められ、後に検校太尉・侍中・隴西郡王を加えられた。楊復恭討滅後はほぼ自立し、地利から朝政に容喙し、不遜横暴な言動を嫌う昭宗の二度の棄京をもたらし、二度目の896年には長安を劫掠して荒廃させたが、李克用に大敗して朝廷とも和した。901年に岐王とされ、昭宗を拉致したことで朱全忠に大破されてより不振となり、管下20余州は後梁・前蜀の蚕食で7州まで減少したが、後唐に降ると礼遇された。
劉仁恭
人心収攬に長け、李克用と結んで幽州盧竜節度使を簒奪した。攻城戦、特に掘坑戦を得意として“劉窟頭”と称された。李克用が劣勢になると管内の沙陀勢力を排除して自立したが、906年に滄州で朱全忠に大敗し、会戦に先んじて管内の15乃至70歳の男子20万全てに黥面を施したという。朱全忠と李存勗の抗争が激化すると享楽に耽るようになり、907年に実子の劉守光に幽閉・簒奪された。
劉守光 〜913 ▲
盧竜節度使劉仁恭の子。父の妾と密通して追放されたが、907年にに父を幽閉し、兄を殺して簒奪し、やがて燕帝を称した。父同様に享楽に耽ったが、勢力拡大を図って易定節度使を攻略し、来援した李存勗に敗死した。
楊行密 852〜902〜905
呉の太祖。廬州合肥の出身。字は化源。群盗から官兵に転じながらも朔方で兵乱を起こし、麾下を率いて廬州を占拠し、883年に招撫に応じて廬州刺史とされた。892年に揚州を占拠して淮南節度使とされ、895年には弘農郡王・開府儀同三司を加えられ、朱全忠が昭宗を洛陽に遷した902年に呉王を称した。黄巣軍残党の孫儒を滅ぼし、その精鋭を接収して黒雲都と呼んで軍の中核とし、李克用によって北上を抑えられた朱全忠と、淮水を境にしばしば争った。
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20歳で襲位した長子の楊渥は失政を続けて908年に権臣の徐温に暗殺され、ついで擁立された次弟の楊隆演が920年に24歳で病死すると末子の楊溥が立てられ、軈て徐温の養子の徐知誥に簒奪された。
王建 847〜903〜918
前蜀の高祖。許州舞陽の出身。字は光図。塩徒から官兵に転じ、黄巣討伐に功を挙げて禁軍の将校となり、宦官の田令孜の仮子とされた。蜀へ逃れた田令孜によって璧州刺史(通江県)とされると四川各地を経略して勢力を拡大し、891年には成都の西川節度使陳敬瑄を降して成都尹・剣南西川節度使とされた。901年までに剣南東川・山南西道を併せて四川のほぼ全域を統一し、903年に朝廷より蜀王に封じられ、907年に梁が建国されると称帝した。
四川は唐末より中原の有力者の避難する者が多く、王建による文人の保護優遇と、蜀の豊かな物産と独特の気候風土と相俟って独自の文化が高度に発展し、また木版印刷の普及と絹織物業の振興は高く評価される。山峡や大散関・桟道の天険を押さえたことで晩年には政務に倦み、後宮勢力が政事に容喙して国力を弱め、徐妃に暗殺された。
後主王衍の治世は、秘密警察/尋事団の横恣化と放漫政治で民心を失い、925年に後唐軍6万によって滅ぼされた。
高季興 858〜912〜928
荊南の開祖、武信王。陝州z石(河南)の出身。字は貽孫。汴州の富豪/李譲の奴隷だったが、後に養子とされた。朱全忠の軍将として功を重ねて後梁建国とともに荊南節度使とされ、朱全忠の死後は湖北に自立して末帝より渤海王とされた。925年には後唐に称藩して南平王とされたが、明宗によって蜀への進出を阻まれたことから断交して呉に称藩した。
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荊南は五代諸国で最も狭小で、季興を襲いだ長子高従誨は中原諸王朝と呉・南漢・閩・後蜀に称藩し、巧みな外交と交易による経済政策によって独立を保ち、948年に歿した。襲いだ第3子の高保融も後周・宋に称藩して国を保ち、保融を輔佐した弟の高保勗が960年に襲いだが、華美を好んで国力が衰え、保融の長子高継冲の時、963年に北宋の湖南討伐軍に国内通過を認め、同時に滅ぼされた。高継冲は開封に遷され、宋に厚遇されて973年に歿した。荊南は南平・北楚とも呼ばれる。
馬殷 852〜896〜930
楚の開祖、武穆王。許州鄢陵の出身。字は覇図。はじめ秦宗権の部将の孫儒に従い、孫儒が呉を攻めて敗死すると劉建峯の部将となって南下に従い、896年に長沙に拠って湖南留後を称した。湖南一帯を支配し、後梁に称藩して楚王とされてよりは中原王朝への称藩を国策とした。唐太宗を範として国家組織を整備し、鉛銭の鋳造や製茶・売茶の奨励などによって湖南のほぼ全域を保ち、927年には後唐からも楚王とされた。
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死後は寵姫の子で暗愚として知られた馬希声が立てられたが932年に頓死し、ついで殷の第4子の馬希範が立ち、中原王朝との修好は保ったものの、晩年は奢侈を好んで財政を悪化させた。947年に希範の同母弟の馬希広が立てられると異母兄の馬希萼も称王して自立し、950年に希広が敗死すると弟の馬希崇が自立し、翌年には内紛に乗じた南唐に滅ぼされた。
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馬氏の滅んだ後、馬希萼の部将だった周行逢が湖南に勢力を張って称王したが、962年に子の周保権が立ってまもなく、その支配を不服とした部下の叛乱が起こって宋に併合された。周保権は宋に仕えて武平軍節度使、并州刺史とされ、985年に歿した。
銭鏐 852〜907〜932
呉越の太祖、武粛王。杭州臨安の出身。字は具美。塩徒から転じて郷兵となり、黄巣討伐での功で杭州刺史とされた。後に楊行密から蘇州・常州を奪い、彭城郡王とされて鎮海節度使・鎮東節度使を兼ね、杭州に拠って両浙地方を支配した。呉・南唐をはさんで中原王朝と結ぶ為に称帝はせず、907年に後梁より呉越王とされて後に尚父の尊号を加えられ、後唐建国のときには帝王に擬することを認められた。杭州城の大拡張や銭塘江の治水、太湖地区一帯の大干拓事業など両浙の開発・安定に注力した。呉越の風俗は欧陽脩ら南唐系の人士からは、粗暴・狡猾・吝嗇・貪欲と酷評される。
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932年に子の銭元瓘が襲ぎ、呉・南唐の南下をよく防いだが、941年の大火で負傷してまもなく歿し、13歳の太子銭佐が襲いだ。「有能にして徳望あり」と評された銭佐は弟の銭倧と協調して君主権を確立し、国内の叛乱を平定して呉越を大いに興隆させたが、947年に早世して銭倧が即位した。銭倧は同年、禁軍の叛乱を機に異母弟の銭俶に譲位して越州(紹興)に隠棲し、971年に歿した。銭俶の治世は南唐の凋落もあって比較的平穏で、978年に自ら宋に献国し、優遇されて988年に歿した。
王潮
光州固始(河南)の出身。はじめは群盗の王緒に従って秦宗権に属したが、程なく王緒に従って福建に到り、衆望を得て王緒を殺し、迎えられて泉州刺史とされた。886年には福州の陳巌に譲権され、893年までに福建をほぼ征し、招撫に応じて福建観察使とされた。
王審知 862〜909〜925 ▲
太祖昭武帝。光州固始(河南)の出身。字は信通。王潮の弟。王潮を襲ぎ、威武節度使、琅邪王に進んだ。後梁に称藩して閩王とされ、また呉にも修好して国を保った。性恭謙で節倹につとめ、また名士を厚遇して学問が栄えたという。
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死後は後継者争いで国力を急速に消耗し、まず長子の王延翰が立ったものの翌年には実弟の王延鈞に簒奪され、延鈞は935年に長子の王昶に簒奪され、937年には後晋に称藩してあらためて閩王に封じられたが、道教を狂信して一族を刑戮し、939年に太祖の末子の王延羲に簒奪された。延羲も虐殺を好んだために943年に弟の王延政が建州に拠って殷王を称し、翌年には廷臣に殺されて王延政が国内を統一したが、内紛に乗じた南唐に滅ぼされ、王族は金陵に遷された。
劉隠 874〜909〜911
南漢の開祖、烈宗。家は河南の上蔡を本貫とし、唐末には閩中に移住していて南海貿易で財を成した。父の劉謙が歿して封州(広東)刺史を襲ぎ、広東の兵乱を鎮圧して嶺南を支配し、904年に静海軍節度使となり、909年には後梁より南平王とされた。中原の戦乱を避けて移住した名士を招聘して国政に参与させ、また南海貿易によって国富を誇り、911年に南海王に進められてまもなく歿した。
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弟の劉龑が継いで913年に称帝し、翌年には国号を大越から漢に改めた。南漢の地は唐代では官僚の配流地とされたことで文化水準は高く、中原名士の優遇・科挙官僚による地方統治と節度使の不在など、文官支配の盛唐の制度を再現し、酷刑の濫用なども特徴とされる。子の劉玢が942年に襲いだが、実権は弟の晋王洪煕にあり、翌年には簒奪された。劉洪煕は晟と改名して湖南から数州を奪うなど対外的には有能だったが、殺戮を嗜んで功臣とその一族の多くを虐殺して政情不安をもたらし、958年に襲いだ子の劉eのときに宋に併合され、一族は開封に移されて封侯された。
李昪 888〜937〜943
南唐の開祖、烈祖。字は正倫。旧名は徐知誥。楊行密に仕えてその養子に擬せられたが、才知を忌んだ他の兄弟の反対で徐温の養子とされた。徐温の勢力拡大を扶けて参知政事に至り、937年に呉を簒奪して名を李昪に復した。当初は国内復興と文化振興に注力して呉越とも和親し、殊に従来の銭貨偏重の税制を銭穀併用に改め、銭価を実情に合致させた事は高く評価される。南唐は天下の穀倉と淮塩を擁して諸国で最も富強かつ安定し、多数の文人が流入した。
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南唐の繁栄と安定は李m・李U父子の時代に南唐文化を開花させ、詞においては李m・李Uのほか馬延巳・張泌ら、絵画では徐煕・董源・韓煕載ら多数の名手を輩出し、工芸面でも澄心堂紙や廷邽墨・歙硯などの名品が作られた。絵画では鬼神道釈画のほか近世的な花卉山水画が興隆し、没骨法のような空前の画法も生まれ、また李mの設けた画院は北宋宣和画院の先駆とされる。
李m 916〜943〜961
南唐の第二代君主、元宗・中主。字は伯玉。烈祖李昪の長子。946年に福建の閩を、951年には湖南の楚を併合して東南の大勢力となったが、956年から始まる後周の南征で湖南・江北を失い、958年には江南国主と貶称した。文学を保護し、また詞の名手として子の李Uと並称される一方で、956年には永寧宮に幽閉した楊氏とその郎党600余人を鏖殺し、“永寧宮の難”として五代史上最大の惨劇とされた。
徐煕
鍾陵(江西)出身。江南名族の出で、生涯仕官しなかった。花鳥魚果画に長じ、南唐後主が蒐集につとめ、後に宋の内府に収められた。「黄氏は富貴、徐氏は野逸」と黄筌と並称され、その手法は徐氏体と称されて主に文人画家に継承された。
徐氏体は花鳥画の様式の1つとされ、徐煕の画風は写生主義の黄氏体に対して気韻を重んじて写意的傾向が強く、構図は自由で、墨と淡彩を交えた瀟洒野逸な趣きがあったという。
没骨法を始めた徐崇嗣は子とも孫とも伝えられ、水墨に変えて彩色を用い、輪郭線を除いたぼかしの技法を用いて徐氏体を完成させた。徐氏体と黄氏体はともに宋代には共存すべき二類型としてそれぞれ珍重され、模範とされたが、明清時代に文人画が高揚されると徐氏体は文人花鳥画の源流と視られるようになり、殊に清朝画院に絶大な影響を与えた。
馬延巳 903〜960
広陵の出身。字は正中、諡号は忠粛。李昪に仕えて秘書郎とされ、李mが即位すると諫議大夫・同平章事に進み、いちじ詐報を弾劾されて昭武軍節度使とされたが、952年には左僕射・同平章事に復して庶政の一切を掌った。湖南と江北の喪失で引責したもののまもなく宰相に復し、後周の正朔を奉じるようになると太子太傅に退いた。文人として優れていたので李mに愛されたが、宰相としては無定見で南唐の衰亡を早めた。
董源 〜962?
鍾陵(江西)出身。字は叔達。南唐の李mに仕えて北苑使とされた。水墨画を王維に、着色を李思訓に学び、稀少な南人山水画家として、その雄渾な筆勢と平淡な画法は特異なものとして称揚され、山水画の首峰として巨然と双璧とされる。
李U 937〜961〜975〜978
南唐の第三代君主、後主。旧諱は従嘉、字は重光。兄5人が早世したために王位を襲ぎ、Uと改名した。文芸・仏教に熱心で自らも造詣が深く、特に詞においては中国最高の作者と評される。また文芸振興にもつとめ、廷邽墨や歙硯、清朝乾隆帝が苦心の末に復活させた澄心堂紙など、後世絶品と評される文房四宝の開発改良に自ら加わり、多くの名匠を輩出した。反面、政治に対しては全く無気力で、国費を遊興・技芸に濫費した。後周に代った宋にも称臣したが、朝見拒否を理由に征伐され、975年に滅ぼされて違命侯とされた。太宗の時代に隴西公とされ、まもなく毒殺された。
▼ 澄心堂紙
南唐の宮廷で作製された最高級紙。唐代には蜀郡成都の錦江浣花潭産が最高級紙とされたが、南唐後主は文化の振興・奨励政策の一環として新紙を研究・開発させ、初代烈祖の建立した堂の名を冠した。これは桑皮を原料とし、厚手の大型牋と薄手の蔵経紙大の大判の2種があり、大判は北宋でも使用され、牋は清の乾隆年間に宮廷で復元され、ともに最高級品として詩・画用に供された。
韓煕載 902〜970
北海の出身。字は叔言。後唐の同光年間に進士に挙げられ、文章と書画に巧みで京洛で名を知られた。父親が青州の乱に連坐して処刑されると江南に奔り、南唐に仕えて秘書郎とされ、李mの治世で知制誥まで進み、李Uのとき中書侍郎・光政殿学士承旨に至った。文章では徐鉉と並称され、碑記銘文の依頼者が後を絶たなかったが、政治家としては李Uの遊惰を諌めず、また国難に直面しても無策だったという。
孟知祥 874〜934/934
後蜀の高祖。邢州竜岡の出身。字は保胤。李存勗に仕えて後唐の前蜀征服で成都尹とされたが、軍備増強を明宗に猜疑され、荊南を捲き込んでさまざまな謀略が行なわれた。930年に挙兵し、932年までに蜀の全域を制圧して翌年には蜀王と認められ、934年に称帝した。前蜀の文化を継承発展させて詩作などが盛んに行なわれ、成都の城壁は花で飾られて“芙蓉城”と呼ばれたという。
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襲いだ第3子の王昶の時代は五代蜀文化の全盛とされるが、政治的には旧臣と中原王朝の進出に苦しめられ、宋に滅ぼされて開封で頓死した。
黄筌
成都出身。字は要叔。孟知祥に仕えて翰林侍詔から如京副使に進んだ。若年から画家として著名で、宮廷画家として花鳥画を得意とし、“富貴”の画風は徐煕と対比される。その画風は宋朝の画院に継承されて従来の画風を一変させ、花鳥画時代をなした。