文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口[5]。植與諸侯並就國。黄初二年、監國謁者灌均希指、奏「植醉酒悖慢、劫脅使者」。有司請治罪、帝以太后故、貶爵安郷侯[6]。其年改封鄄城侯。三年、立為鄄城王、邑二千五百戸。
※ 洛陽に還御した後、衛将軍董承・輔国将軍伏完・尚書僕射鍾繇・彭城相劉艾ら十余人と共に列侯に封じられています。当時の官位は侍中。
太祖は丁沖が以前に開導してくれた事を常に徳とした。丁儀が令名の士であると聞き、未だ会っていないのに愛娘を嫁がせようとし、五官将に問うた。五官将 「女人とは容貌を観るもの。正礼の目はよろしくありません。誠に愛姉が悦ばないのではないかと恐れます。伏波将軍の子の夏侯楙に与えるに越した事はありません」 太祖はこれに従った。尋いで丁儀を辟して掾とし、到って与に論議してその才が明朗な事を嘉し 「丁掾は好士である。その両目が盲であっても娘を尚(めとら)せるべきだった。ましてやただ眇というだけではないか? これは吾が児が私を誤らせたのだ」 時に丁儀も亦た公主を尚る事ができなかったのを恨み、そして臨甾侯曹植と親善し、しばしばその奇才を称えた。上記の婚姻譚は面白く仕上がっていますが、「曹丕は才能より上辺を重んじた」 という事を、太子問題と絡めるための創作のようでもあります。話題の愛娘=清河公主は曹丕の異母姉で、夏侯惇が伏波将軍になったのは204年。この時点での曹丕は18歳なので、清河公主が曹丕と同年齢だったとしても、三公の嫡女としては些か適齢期を過ぎています。面食いで婚期を逃したにしても、夏侯楙がイケメンだと聞いた事はありません。 何より丁儀については列伝十二の東曹関係者と鋭く対立した事が重要で、東曹との政争に敗れた丁儀が曹植との関係を強め、危機感を煽られた曹丕が東曹に繋がり、結果的に太子争いが深刻になりました。
―― 丁廙、字は敬礼は丁儀の弟である。『文士伝』によれば、丁廙は若くして才能と姿貌があり、博学で見聞も頗る広かった。初め公府に辟され、建安中に黄門侍郎となった。丁廙が従容とした時に太祖に謂うには 「臨甾侯の天性は仁孝で、それは自然と発するものです。しかも聡明智達で、それは殆ど庶幾(心からの願い=理想)のようなものです。博学にして深く識り、文章は絶倫(冠絶)です。現在の天下の賢才君子は少長とを問わず、皆なその游行に従い、侯の為に死ぬ事を願っております。まことに天が大魏に鍾福し、永く無窮の祚を授けたものです」 こうして太祖を動かして(太子に)勧めようとした。太祖は答えて 「曹植は私も愛しているが、どうすれば卿の言葉通りにできようか! 私はこれを立てて嗣子としたいが、どうか?」 丁廙 「これは国家の興衰、天下の存亡に関わります。愚劣にして瑣賤な者が言及すべきではありません。私は臣を知る者として君主が最も適し、子を知るのに父以上の者は莫いと聞いております。君は明闇を論ぜず、父は賢愚を問わないのに、常に臣や子の事を理解できるというのはどういう事でしょう? 理解するのが一事一物ではなく、尽したのが一旦一夕ではないからです(長年月をかけて万事を理解しているからです)。ましてや明公の聖哲を加え、習之以人子。今、明達の命を発し、永安の言を吐くなら、上は天命に応じ、下は人心に合し、須臾にこれを得て万世に垂れる事になりましょう。私は斧鉞の誅を避けずに敢えて言葉を尽すものです!」 太祖は深くこれを納れた。 (『魏略』) 陳寿が、丁氏の子に賄賂を拒まれた為に立伝しなかったという逸話があります。ここで丁氏の男子が滅ぼされているのに、という事が陳寿擁護の最大の論拠となっています。これには元ネタがあるそうで、東晋の裴啟『語林』の 「陳寿将為国志、謂丁梁州曰:若可覓千斛米見借、当為尊公作佳伝。丁不與米、遂以無伝。」 がそれなんだそうな。確かにこれには何処の丁氏だとは言及がありません。丁梁州と云うからには 「梁州刺史刺史の丁氏」 なのでしょう。
『晋書』の目次から丁氏を捜すと、丁潭がいました。非常に大雑把な捜し方ですが。「丁潭 字世康、会稽山陰人也。祖固、呉司徒。父彌、梁州刺史。」 孫呉の丁固の子かよ! 他の丁梁州はちょっと捜し様がありません。 『語林』の信憑性は兎も角、こちらの方が蓋然性は高そうです。誰だ、最初に取り違えたのは。
[7]魏略曰:初植未到關,自念有過,宜當謝帝。乃留其從官著關東,單將兩三人微行,入見清河長公主,欲因主謝。 而關吏以聞,帝使人逆之,不得見。太后以為自殺也,對帝泣。會植科頭負,徒跣詣闕下,帝及太后乃喜。 及見之,帝猶嚴顏色,不與語,又不使冠履。植伏地泣涕,太后為不樂。詔乃聽復王服。
魏氏春秋曰:是時待遇諸國法峻。任城王暴薨。諸王既懷友于之痛。植及白馬王彪還國,欲同路東歸,以敘隔闊 之思,而監國使者不聽。植發憤告離而作詩曰:「謁帝承明廬,逝將歸舊疆。清晨發皇邑,日夕過首陽。伊、洛曠 且深,欲濟川無梁。汎舟越洪濤,怨彼東路長。回顧戀城闕,引領情傷。大谷何寥廓,山樹鬱蒼蒼。霖雨泥我 塗,流潦浩從。中逵無軌,改轍登高岡。修阪造雲日,我馬玄以。玄猶能進,我思鬱以紆。鬱紆將何 念?親愛在離居。本圖相與偕,中更不克。鴟梟鳴衡軛,豺狼當路衢;蒼蠅阡逓K,讒巧反親疎。欲還無 蹊,轡止踟。踟亦何留,相思無終極。秋風發微涼,寒鳴我側。原野何蕭條,白日忽西匿。孤獸走索 群,銜草不遑食。歸鳥赴高林,翩翩脂H翼。感物傷我懷,撫心長歎息。歎息亦何為,天命與我違。奈何念同 生,一往形不歸!孤魂翔故域,靈柩寄京師。存者勿復過,亡沒身自衰。人生處一世,忽若朝露晞。年在桑 閨C影響不能追。自顧非金石,咄咤令心悲。心悲動我神,棄置莫復陳。丈夫志四海,萬里猶比鄰。恩愛苟不 虧,在遠分日親。何必同衾,然後展殷勤。倉卒骨肉情,能不懷苦辛?苦辛何慮思,天命信可疑。無求列 仙,松子久吾欺。變故在斯須,百年誰能持?離別永無會,執手將何時?王其愛玉體,享髮期。收涕即長 塗,援筆從此辭。」
[8]劉向苑曰:越甲至齊,雍門狄請死之。齊王曰:「鼓鐸之聲未聞,矢石未交,長兵未接,子何務死?知為人臣之 禮邪?」雍門狄對曰:「臣聞之,昔者王田於囿,左轂鳴,車右請死之,王曰:『子何為死?』車右曰:『為其鳴吾君 也。』王曰:『左轂鳴者,此工師之罪也。子何事之有焉?』車右對曰:『吾不見工師之乘,而見其鳴吾君也。』遂 刎頸而死。有是乎?」王曰:「有之。」雍門狄曰:「今越甲至,其鳴吾君,豈左轂之下哉?車右可以死左轂,而臣 獨不可以死越甲邪?」遂刎頸而死。是日,越人引軍而退七十里,曰:「齊王有臣,鈞如雍門狄,疑使越社稷不血 食。」遂歸。齊王葬雍門狄以上卿之禮。
[9]臣松之案:秦用敗軍之將,事顯,故不注。魯連與燕將書曰:「曹子為魯將,三戰三北而亡地五百里,向使曹子計 不反顧,義不旋踵,刎頸而死,則亦不免為敗軍之將矣。曹子棄三北之恥,而退與魯君計。桓公朝天子,會諸侯, 曹子以一劍之任,披桓公之心於壇之上,顏色不變,辭氣不悖。三戰之所亡,一朝而復之。天下震動,諸侯驚 駭,威加、越。」若此二士者,非不能成小廉而行小節也。
[10]臣松之案:楚莊掩纓之罪,事亦顯,故不書。秦穆公有赦盜馬事,趙則未聞。蓋以秦亦趙姓,故互文以避上 「秦」字也。
[11]魏略曰:植雖上此表,猶疑不見用,故曰「夫人貴生者,非貴其養體好服,終竟年壽也,貴在其代天而理物也。夫 爵祿者,非張者也,有功コ然後應之,當矣。無功而爵厚,無コ而祿重,或人以為榮,而壯夫以為恥。故太上立 コ,其次立功,蓋功コ者所以垂名也。名者不滅,士之所利,故孔子有夕死之論,孟軻有棄生之義。彼一聖一賢, 豈不願久生哉?志或有不展也。是用喟然求試,必立功也。嗚呼!言之未用,欲使後之君子知吾意者也。
[12]魏略曰:是後大發士息,及取諸國士。植以近前諸國士息已見發,其遺孤稚弱,在者無幾,而復被取,乃上書曰: 「臣聞古者聖君,與日月齊其明,四時等其信,是以戮凶無重,賞善無輕,怒若驚霆,喜若時雨,恩不中,教無二 可,以此臨朝,則臣下知所死矣。受任在萬里之外,審主之所授官,必己之所以投命,雖有構會之徒,泊然不以為懼者,蓋君臣相信之明效也。昔章子為齊將,人有告之反者,威王曰:『不然。』左右曰:『王何以明之?』王曰: 『聞章子改葬死母;彼尚不欺死父,顧當叛生君乎?』此君之信臣也。昔管仲親射桓公,後幽囚從魯檻車載,使 少年挽而送齊。管仲知桓公之必用己,懼魯之悔,謂少年曰:『吾為汝唱,汝為和,聲和聲,宜走。』於是管仲唱 之,少年走而和之,日行數百里,宿昔而至。至則相齊,此臣之信君也。臣初受封,策書曰:『植受茲青社,封於東 土,以屏翰皇家,為魏藩輔。』而所得兵百五十人,皆年在耳順,或不踰矩,虎賁官騎及親事凡二百餘人。正復不 老,皆使年壯,備有不虞,檢校乘城,顧不足以自救,況皆復耄耋罷曳乎?而名為魏東藩,使屏翰王室,臣竊自羞 矣。就之諸國,國有士子,合不過五百人。伏以為三軍益損,不復ョ此。方外不定,必當須者,臣願將部曲倍道 奔赴,夫妻負襁,子弟懷糧,蹈鋒履刃,以徇國難,何但習業小兒哉?愚誠以揮涕揄ヘ,鼠飲海,於朝萬無損益, 於臣家計甚有廢損。又臣士息前後三送,兼人已竭。惟尚有小兒,七八已上,十六七已還,三十餘人。今部曲 皆年耆,臥在牀席,非糜不食,眼不能視,氣息裁屬者,凡三十七人;疲風靡,疣盲聾者,二十三人。惟正須 此小兒,大者可備宿衞,雖不足以禦寇,粗可以警小盜;小者未堪大使,為可使耘穢草,驅護鳥雀。休侯人則 一事廢,一日獵則業散,不親自經營則功不攝;常自躬親,不委下吏而已。陛下聖仁,恩詔三至,士子給國,長 不復發。明詔之下,有若t日,保金石之恩,必明神之信,畫然自固,如天如地。定習業者並復見送,若晝晦, 悵然失圖。伏以為陛下既爵臣百寮之右,居藩國之任,為置卿士,屋名為宮,冢名為陵,不使其危居獨立,無異於 凡庶。若柏成欣於野耕,子仲樂於灌園;蓬茅,原憲之宅也;陋巷單瓢,顏子之居也:臣才不見效用,常慨 然執斯志焉。若陛下聽臣悉還部曲,罷官屬,省監官,使解璽釋,追柏成、子仲之業,營顏淵、原憲之事,居子臧 之廬,宅延陵之室。如此,雖進無成功,退有可守,身死之日,猶松、喬也。然伏度國朝終未肯聽臣之若是,固當 羈絆於世繩,維於祿位,懷屑屑之小憂,執無已之百念,安得蕩然肆志,逍遙於宇宙之外哉?此願未從,陛下必 欲崇親親,篤骨肉,潤白骨而榮枯木者,惟遂仁コ以副前恩詔。」皆遂還之。
[13]植常為琴瑟調歌,辭曰:「吁嗟此轉蓬,居世何獨然!長去本根逝,夙夜無休閨B東西經七陌,南北越九阡,卒遇 回風起,吹我入雲閨B自謂終天路,忽焉下淵。驚接我出,故歸彼中田。當南而更北,謂東而反西,宕宕當 何依,忽亡而復存。飄周八澤,連翩五山,流轉無恆處,誰知吾苦艱?願為中林草,秋隨野火燔,糜滅豈不 痛,願與根連。」
孫盛曰:異哉,魏氏之封建也!不度先王之典,不思藩屏之術,違敦睦之風,背維城之義。漢初之封,或權r人 主,雖云不度,時勢然也。魏氏諸侯,陋同匹夫,雖懲七國,矯枉過也。且魏之代漢,非積コ之由,風澤既微,六合 未一,而彫翦枝幹,委權異族,勢同木,危若幕,不嗣忽諸,非天喪也。五等之制,萬世不易之典。六代興亡, 曹冏論之詳矣。
[14]志別傳曰:志字允恭,好學有才行。晉武帝為中撫軍,迎常道公于,志夜與帝相見,帝與語,從暮至旦,甚器 之。及受禪,改封城公。發詔以志為樂平太守,章武、趙郡,遷散騎常侍、國子博士,後轉博士祭酒。及齊王 攸當之藩,下禮官議崇錫之典,志嘆曰:「安有如此之才,如此之親,而不得樹本助化,而遠出海隅者乎?」乃建 議以諫,辭旨甚切。帝大怒,免志官。後復為散騎常侍。志遭母憂,居喪盡哀,因得疾病,喜怒失常,太康九年 卒,諡曰定公。
[1]魚豢曰:諺言「貧不學儉,卑不學恭」,非人性分也,勢使然耳。此實然之勢,信不矣。假令太祖防遏植等,在於疇昔,此賢之心,何有窺望乎?彰之挾恨,尚無所至。至於植者,〔豈能興難?〕乃令楊脩以倚注遇害,丁儀以 希意族滅,哀夫!余覽植之華采,思若有神。以此推之,太祖之動心,亦良有以也。