三國志 魏書

卷十九 魏書十九/任城陳蕭王傳

 文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口[5]。植與諸侯並就國。黄初二年、監國謁者灌均希指、奏「植醉酒悖慢、劫脅使者」。有司請治罪、帝以太后故、貶爵安郷侯[6]。其年改封鄄城侯。三年、立為鄄城王、邑二千五百戸。

 文帝は王位に即くと、丁儀・丁廙と併せてその男子を誅した[5]。曹植は諸侯と揃って就国した。黄初二年(221)、監国謁者灌均が聖旨を希(ねが)って上奏するには 「曹植は酒に酔って悖慢で、使者を劫脅します」。有司が罪を治める事を請うたが、帝は太后に配慮して安郷侯に貶爵した[6]。その年に鄄城侯に改封し、三年に立てて鄄城王とし、食邑は二千五百戸だった。
[5] 丁儀、字は正礼。沛郡の人である。父の丁沖はかねて太祖と親善だったが、当時は乗輿に随っていた[※]。国家が未だに定まらないのを見て、かくして太祖に書簡を与え 「足下は平生より常に喟然として匡佐の志がある。今がその時だ」 この時、張楊がたまたま河内に還っており、太祖はその書簡を得、かくして軍を率いて天子を迎え、東のかた許に詣り、丁沖を司隸校尉とした。後にしばしば諸将が来過して飲み、酒が美味で止められず、腸が酔い爛れて死んだ。

※ 洛陽に還御した後、衛将軍董承・輔国将軍伏完・尚書僕射鍾繇・彭城相劉艾ら十余人と共に列侯に封じられています。当時の官位は侍中。

太祖は丁沖が以前に開導してくれた事を常に徳とした。丁儀が令名の士であると聞き、未だ会っていないのに愛娘を嫁がせようとし、五官将に問うた。五官将 「女人とは容貌を観るもの。正礼の目はよろしくありません。誠に愛姉が悦ばないのではないかと恐れます。伏波将軍の子の夏侯楙に与えるに越した事はありません」 太祖はこれに従った。尋いで丁儀を辟して掾とし、到って与に論議してその才が明朗な事を嘉し 「丁掾は好士である。その両目が盲であっても娘を尚(めとら)せるべきだった。ましてやただ眇というだけではないか? これは吾が児が私を誤らせたのだ」 時に丁儀も亦た公主を尚る事ができなかったのを恨み、そして臨甾侯曹植と親善し、しばしばその奇才を称えた。
太祖には既に曹植を(太子に)立てようとの意思があり、丁儀も又た共に賛同した。(曹丕は)太子に立てられるに及び、丁儀の罪を治めようとし、丁儀を転じて右刺姦掾とし、丁儀に自裁させようとしたが、丁儀には出来なかった。かくして中領軍夏侯尚に対えて叩頭して求哀したが、夏侯尚は涕泣しつつも救えなかった。後に遂に職事に因って収捕されて獄に付され、これを殺した。

 上記の婚姻譚は面白く仕上がっていますが、「曹丕は才能より上辺を重んじた」 という事を、太子問題と絡めるための創作のようでもあります。話題の愛娘=清河公主は曹丕の異母姉で、夏侯惇が伏波将軍になったのは204年。この時点での曹丕は18歳なので、清河公主が曹丕と同年齢だったとしても、三公の嫡女としては些か適齢期を過ぎています。面食いで婚期を逃したにしても、夏侯楙がイケメンだと聞いた事はありません。 何より丁儀については列伝十二の東曹関係者と鋭く対立した事が重要で、東曹との政争に敗れた丁儀が曹植との関係を強め、危機感を煽られた曹丕が東曹に繋がり、結果的に太子争いが深刻になりました。

―― 丁廙、字は敬礼は丁儀の弟である。『文士伝』によれば、丁廙は若くして才能と姿貌があり、博学で見聞も頗る広かった。初め公府に辟され、建安中に黄門侍郎となった。丁廙が従容とした時に太祖に謂うには 「臨甾侯の天性は仁孝で、それは自然と発するものです。しかも聡明智達で、それは殆ど庶幾(心からの願い=理想)のようなものです。博学にして深く識り、文章は絶倫(冠絶)です。現在の天下の賢才君子は少長とを問わず、皆なその游行に従い、侯の為に死ぬ事を願っております。まことに天が大魏に鍾福し、永く無窮の祚を授けたものです」 こうして太祖を動かして(太子に)勧めようとした。太祖は答えて 「曹植は私も愛しているが、どうすれば卿の言葉通りにできようか! 私はこれを立てて嗣子としたいが、どうか?」 丁廙 「これは国家の興衰、天下の存亡に関わります。愚劣にして瑣賤な者が言及すべきではありません。私は臣を知る者として君主が最も適し、子を知るのに父以上の者は莫いと聞いております。君は明闇を論ぜず、父は賢愚を問わないのに、常に臣や子の事を理解できるというのはどういう事でしょう? 理解するのが一事一物ではなく、尽したのが一旦一夕ではないからです(長年月をかけて万事を理解しているからです)。ましてや明公の聖哲を加え、習之以人子。今、明達の命を発し、永安の言を吐くなら、上は天命に応じ、下は人心に合し、須臾にこれを得て万世に垂れる事になりましょう。私は斧鉞の誅を避けずに敢えて言葉を尽すものです!」 太祖は深くこれを納れた。 (『魏略』)

 陳寿が、丁氏の子に賄賂を拒まれた為に立伝しなかったという逸話があります。ここで丁氏の男子が滅ぼされているのに、という事が陳寿擁護の最大の論拠となっています。これには元ネタがあるそうで、東晋の裴啟『語林』の 「陳寿将為国志、謂丁梁州曰:若可覓千斛米見借、当為尊公作佳伝。丁不與米、遂以無伝。」 がそれなんだそうな。確かにこれには何処の丁氏だとは言及がありません。丁梁州と云うからには 「梁州刺史刺史の丁氏」 なのでしょう。
『晋書』の目次から丁氏を捜すと、丁潭がいました。非常に大雑把な捜し方ですが。「丁潭 字世康、会稽山陰人也。祖固、呉司徒。父彌、梁州刺史。 孫呉の丁固の子かよ! 他の丁梁州はちょっと捜し様がありません。 『語林』の信憑性は兎も角、こちらの方が蓋然性は高そうです。誰だ、最初に取り違えたのは。

[6]詔 「曹植は朕の同母弟である。朕は天下に容れざるものは無い。ましてや曹植をや。骨肉の親は(刑を)捨てて誅しないものだ。曹植を改封せよ」 (『魏書』)
 四年,徙封雍丘王。其年,朝京都。上疏曰:
 臣自抱釁歸藩,刻肌刻骨,追思罪&#x;,晝分而食,夜分而寢。誠以天罔不可重離, 聖恩難可再恃。竊感相鼠之篇,無禮&#x;死之義,形影相弔,五情愧赧。以罪棄生,則違古賢「夕改」之勸,忍活苟全,則犯詩人「胡顏」之譏。伏惟陛下コ象天地,恩隆父母,施 暢春風,澤如時雨。是以不別荊棘者,慶雲之惠也;七子均養者,尸鳩之仁也;舍罪 責功者,明君之舉也;矜愚愛能者,慈父之恩也:是以愚臣徘徊於恩澤而不能自棄者 也。
 前奉詔書,臣等&#x;朝,心離志&#x;,自分&#x;考&#x;口無復執珪之望。不圖聖詔猥垂齒召,至 止之日,馳心輦轂。僻處西館,未奉闕廷,踊躍之懷,瞻望反仄。謹拜表獻詩二篇,其 辭曰:「於穆顯考,時惟武皇,受命于天,寧濟四方。朱旗所拂,九土披攘,玄化滂流,荒 服來王。超商越周,與唐比蹤。篤生我皇,奕世載聰,武則肅烈,文則時雍,受禪炎漢, 臨君萬邦。萬邦既化,率由舊則;廣命懿親,以藩王國。帝曰爾侯,君茲青土,奄有海 濱,方周于魯,車服有輝,旗章有敍,濟濟雋乂,我弼我輔。伊予小子,恃寵驕盈,舉挂 時網,動亂國經。作藩作屏,先軌是墮,傲我皇使,犯我朝儀。國有典刑,我削我&#x;,將 ゥ于理,元兇是率。明明天子,時篤同類,不忍我刑,暴之朝肆,違彼執憲,哀予小子。 改封&#x;邑,于河之濱,股肱弗置,有君無臣,荒淫之闕,誰弼予身?煢煢僕夫,于彼冀 方,嗟予小子,乃罹斯殃。赫赫天子,恩不遺物,冠我玄冕,要我朱&#x;。朱&#x;光大,使我 榮華,剖符授玉,王爵是加。仰齒金璽,俯執聖策,皇恩過隆,祗承&#x;タ。咨我小子,頑凶是嬰,逝慚陵墓,存愧闕廷。匪敢&#x;コ,實恩是恃,威靈改加,足以沒齒。昊天罔極, 性命不圖,常懼顛沛,抱罪&#x;&#x;。願蒙矢石,建旗東嶽,庶立豪&#x;,微功自贖。危&#x;授 命,知足免&#x;,甘赴江、湘,奮戈&#x;、越。天&#x;其衷,得會京畿,遲奉聖顏,如&#x;如饑。心 之云慕,愴矣其悲,天高聽卑,皇肯照微!」又曰:「肅承明詔,應會皇都,星陳夙駕,秣 馬脂車。命彼掌徒,肅我征旅,朝發鸞臺,夕宿蘭渚。芒芒原隰,祁祁士女,經彼公田, 樂我稷黍。爰有樛木,重陰匪息;雖有&#x;糧,飢不遑食。望城不過,面邑匪游,僕夫 警策,平路是由。玄駟藹藹,揚&#x;&#x;&#x;剽沫;流風翼衡,輕雲承蓋。&#x;澗之濱,&#x;山之隈, 遵彼河滸,&#x;阪是階。西濟關谷,或降或升;&#x;驂倦路,再寢再興。將朝聖皇,匪敢 晏寧;弭節長&#x;,指日&#x;征。前驅舉燧,後乘抗旌;輪不輟運,鸞無廢聲。爰&#x;帝室, &#x;此西&#x;;嘉詔未賜,朝覲莫從。仰瞻城閾,俯惟闕廷;長懷永慕,憂心如酲。」
帝嘉其辭義,優詔答勉之[7]

[7]魏略曰:初植未到關,自念有過,宜當謝帝。乃留其從官著關東,單將兩三人微行,入見清河長公主,欲因主謝。 而關吏以聞,帝使人逆之,不得見。太后以為自殺也,對帝泣。會植科頭負&#x;&#x;,徒跣詣闕下,帝及太后乃喜。 及見之,帝猶嚴顏色,不與語,又不使冠履。植伏地泣涕,太后為不樂。詔乃聽復王服。
    魏氏春秋曰:是時待遇諸國法峻。任城王暴薨。諸王既懷友于之痛。植及白馬王彪還國,欲同路東歸,以敘隔闊 之思,而監國使者不聽。植發憤告離而作詩曰:「謁帝承明廬,逝將歸舊疆。清晨發皇邑,日夕過首陽。伊、洛曠 且深,欲濟川無梁。汎舟越洪濤,怨彼東路長。回顧戀城闕,引領情&#x;傷。大谷何寥廓,山樹鬱蒼蒼。霖雨泥我 塗,流潦浩從。中逵&#x;無軌,改轍登高岡。修阪造雲日,我馬玄以&#x;。玄&#x;猶能進,我思鬱以紆。鬱紆將何 念?親愛在離居。本圖相與偕,中更不克&#x;。鴟梟鳴衡軛,豺狼當路衢;蒼蠅阡逓K,讒巧反親疎。欲還&#x;無 蹊,&#x;轡止踟&#x;。踟&#x;亦何留,相思無終極。秋風發微涼,寒&#x;鳴我側。原野何蕭條,白日忽西匿。孤獸走索 群,銜草不遑食。歸鳥赴高林,翩翩脂H翼。感物傷我懷,撫心長歎息。歎息亦何為,天命與我違。奈何念同 生,一往形不歸!孤魂翔故域,靈柩寄京師。存者勿復過,亡沒身自衰。人生處一世,忽若朝露晞。年在桑&#x; 閨C影響不能追。自顧非金石,咄咤令心悲。心悲動我神,棄置莫復陳。丈夫志四海,萬里猶比鄰。恩愛苟不 虧,在遠分日親。何必同衾&#x;,然後展殷勤。倉卒骨肉情,能不懷苦辛?苦辛何慮思,天命信可疑。&#x;無求列 仙,松子久吾欺。變故在斯須,百年誰能持?離別永無會,執手將何時?王其愛玉體,&#x;享&#x;髮期。收涕即長 塗,援筆從此辭。」

 六年,帝東征,還過雍丘,幸植宮,&#x;五百。太和元年,徙封浚儀。二年,復還雍丘。 植常自憤怨,抱利器而無所施,上疏求自試曰:
 臣聞士之生世,入則事父,出則事君;事父尚於榮親,事君貴於興國。故慈父不 能愛無益之子,仁君不能畜無用之臣。夫論コ而授官者,成功之君也;量能而受爵 者,畢命之臣也。故君無&#x;授,臣無&#x;受;&#x;授謂之謬舉,&#x;受謂之尸祿,詩之「素餐」所由作也。昔二&#x;不辭兩國之任,其コ厚也;旦、&#x;不讓燕、魯之封,其功大也。今臣 蒙國重恩,三世于今矣。正&#x;陛下升平之際,沐浴聖澤,潛潤コ教,可謂厚幸矣。而竊 位東藩,爵在上列,身被輕煖,口厭百味,目極華靡,耳倦絲竹者,爵重祿厚之所致也。 退念古之授爵祿者,有異於此,皆以功勤濟國,輔主惠民。今臣無コ可述,無功可紀, 若此終年無益國朝,將挂風人「彼其」之譏。是以上慚玄冕,俯愧朱&#x;。
 方今天下一統,九州晏如,而顧西有違命之蜀,東有不臣之&#x;,使邊境未得&#x;甲, 謀士未得高枕者,誠欲混同宇&#x;以致太和也。故&#x;滅有扈而夏功昭,成克商、奄而周 コ著。今陛下以聖明統世,將欲卒文、武之功,繼成、康之隆,簡賢授能,以方叔、召虎之 臣鎮御四境,為國爪牙者,可謂當矣。然而高鳥未挂於輕&#x;,淵魚未縣於鈎餌者,恐釣 射之術或未盡也。昔耿&#x;不俟光武,亟&#x;張&#x;,言不以賊遺於君父。故車右伏劍於鳴 轂,雍門刎首於齊境,若此二士,豈惡生而尚死哉?誠忿其慢主而陵君也[8]。夫君之 寵臣,欲以除患興利;臣之事君,必以殺身靖亂,以功報主也。昔賈誼弱冠,求試屬 國,請係單于之頸而制其命;終軍以妙年使越,欲得長纓占其王,羈致北闕。此二臣, 豈好為夸主而燿世哉?志或鬱結,欲逞其才力,輸能於明君也。昔漢武為霍去病治第, 辭曰:「匈奴未滅,臣無以家為!」(固)夫憂國忘家,捐&#x;濟難,忠臣之志也。今臣居外,非不厚也,而寢不安席,食不遑味者,伏以二方未克為念。
 伏見先武皇帝武臣宿將,年耆即世者有聞矣。雖賢不乏世,宿將舊卒,猶習戰陳, 竊不自量,志在効命,庶立毛髮之功,以報所受之恩。若使陛下出不世之詔,効臣錐刀 之用,使得西屬大將軍,當一校之隊,若東屬大司馬,統偏舟之任,必乘危蹈險,騁舟奮 驪,突刃觸鋒,為士卒先。雖未能禽權馘亮,庶將虜其雄率,殲其醜類,必效須臾之捷, 以滅終身之愧,使名挂史筆,事列朝策。雖身分蜀境,首縣&#x;闕,猶生之年也。如微才 弗試,沒世無聞,徒榮其&#x;而豐其體,生無益於事,死無損於數,&#x;荷上位而忝重祿,禽 息鳥視,終於白首,此徒圈牢之養物,非臣之所志也。流聞東軍失備,師徒小衂,輟食 棄餐,奮袂攘袵,撫劍東顧,而心已馳於&#x;會矣。
 臣昔從先武皇帝南極赤岸,東臨滄海,西望玉門,北出玄塞,伏見所以行軍用兵之 勢,可謂神妙矣。故兵者不可豫言,臨難而制變者也。志欲自效於明時,立功於聖世。 &#x;覽史籍,觀古忠臣義士,出一朝之命,以徇國家之難,身雖屠裂,而功銘著於鼎鍾,名 稱垂於竹帛,未嘗不拊心而歎息也。臣聞明主使臣,不廢有罪。故奔北敗軍之將用, 秦、魯以成其功[9];&#x;纓盜馬之臣赦,楚、趙以濟其難[10]。臣竊感先帝早崩,威王棄 世,臣獨何人,以堪長久!常恐先朝露,填溝壑,墳土未乾,而身名並滅。臣聞騏驥長鳴,則伯樂照其能;盧狗悲號,則韓國知其才。是以效之齊、楚之路,以逞千里之任; 試之狡兔之捷,以驗搏噬之用。今臣志狗馬之微功,竊自惟度,終無伯樂、韓國之舉, 是以於邑而竊自痛者也。
 夫臨搏而企竦,聞樂而竊抃者,或有賞音而識道也。昔毛遂,趙之陪隸,猶假錐&#x; 之&#x;,以寤主立功,何況巍巍大魏多士之朝,而無慷慨死難之臣乎!夫自衒自媒者,士 女之醜行也。干時求進者,道家之明忌也。而臣敢陳聞於陛下者,誠與國分形同氣, 憂患共之者也。冀以塵霧之微補益山海,&#x;燭末光搴P日月,是以敢冒其醜而獻其 忠[11]

[8]劉向&#x;苑曰:越甲至齊,雍門狄請死之。齊王曰:「鼓鐸之聲未聞,矢石未交,長兵未接,子何務死?知為人臣之 禮邪?」雍門狄對曰:「臣聞之,昔者王田於囿,左轂鳴,車右請死之,王曰:『子何為死?』車右曰:『為其鳴吾君 也。』王曰:『左轂鳴者,此工師之罪也。子何事之有焉?』車右對曰:『吾不見工師之乘,而見其鳴吾君也。』遂 刎頸而死。有是乎?」王曰:「有之。」雍門狄曰:「今越甲至,其鳴吾君,豈左轂之下哉?車右可以死左轂,而臣 獨不可以死越甲邪?」遂刎頸而死。是日,越人引軍而退七十里,曰:「齊王有臣,鈞如雍門狄,疑使越社稷不血 食。」遂歸。齊王葬雍門狄以上卿之禮。

[9]臣松之案:秦用敗軍之將,事顯,故不注。魯連與燕將書曰:「曹子為魯將,三戰三北而亡地五百里,向使曹子計 不反顧,義不旋踵,刎頸而死,則亦不免為敗軍之將矣。曹子棄三北之恥,而退與魯君計。桓公朝天子,會諸侯, 曹子以一劍之任,披桓公之心於壇&#x;之上,顏色不變,辭氣不悖。三戰之所亡,一朝而復之。天下震動,諸侯驚 駭,威加&#x;、越。」若此二士者,非不能成小廉而行小節也。

[10]臣松之案:楚莊掩&#x;纓之罪,事亦顯,故不書。秦穆公有赦盜馬事,趙則未聞。蓋以秦亦趙姓,故互文以避上 「秦」字也。

[11]魏略曰:植雖上此表,猶疑不見用,故曰「夫人貴生者,非貴其養體好服,終竟年壽也,貴在其代天而理物也。夫 爵祿者,非&#x;張者也,有功コ然後應之,當矣。無功而爵厚,無コ而祿重,或人以為榮,而壯夫以為恥。故太上立 コ,其次立功,蓋功コ者所以垂名也。名者不滅,士之所利,故孔子有夕死之論,孟軻有棄生之義。彼一聖一賢, 豈不願久生哉?志或有不展也。是用喟然求試,必立功也。嗚呼!言之未用,欲使後之君子知吾意者也。

 三年,徙封東阿。五年,復上疏求存問親戚,因致其意曰:
 臣聞天稱其高者,以無不覆;地稱其廣者,以無不載;日月稱其明者,以無不照; 江海稱其大者,以無不容。故孔子曰:「大哉堯之為君!惟天為大,惟堯則之。」夫天 コ之於萬物,可謂弘廣矣。蓋堯之為教,先親後疎,自近及遠。其傳曰:「克明峻コ,以 親九族;九族既睦,平章百姓。」及周之文王亦崇厥化,其詩曰:「刑于寡妻,至于兄 弟,以御于家邦。」是以雍雍穆穆。風人詠之。昔周公弔管、蔡之不咸,廣封懿親以藩屏王室,傳曰:「周之宗盟,異姓為後。」誠骨肉之恩爽而不離,親親之義實在敦固,未有 義而後其君,仁而遺其親者也。
 伏惟陛下資帝唐欽明之コ,體文王翼翼之仁,惠洽椒房,恩昭九族,羣后百寮,番 休遞上,執政不廢於公朝,下情得展於私室,親理之路通,慶弔之情展,誠可謂恕己治 人,推惠施恩者矣。至於臣者,人道&#x;緒,禁錮明時,臣竊自傷也。不敢過望交氣類, 脩人事,敍人倫。近且婚媾不通,兄弟乖&#x;,吉凶之問塞,慶弔之禮廢,恩紀之違,甚於 路人,隔&#x;之異,殊於胡越。今臣以一切之制,永無朝覲之望,至於注心皇極,結情紫 闥,神明知之矣。然天實為之,謂之何哉!退唯諸王常有戚戚具爾之心,願陛下沛然垂 詔,使諸國慶問,四節得展,以敍骨肉之歡恩。全怡怡之篤義。妃妾之家,膏沐之遺,&#x; 得再通,齊義於貴宗,等惠於百司,如此,則古人之所歎,風雅之所詠,復存於聖世矣。
 臣伏自惟省,無錐刀之用。及觀陛下之所拔授,若以臣為異姓,竊自料度,不後於 朝士矣。若得辭遠遊,戴武弁,解朱組,佩青&#x;,&#x;馬、奉車,趣得一號,安宅京室,執鞭 珥筆,出從華蓋,入侍輦轂,承答聖問,拾遺左右,乃臣丹誠之至願,不離於夢想者也。 遠慕鹿鳴君臣之宴,中詠常棣匪他之誡,下思伐木友生之義,終懷蓼莪罔極之哀;&#x; 四節之會,塊然獨處,左右惟僕隸,所對惟妻子,高談無所與陳,發義無所與展,未嘗不聞樂而拊心,臨觴而歎息也。臣伏以為犬馬之誠不能動人,譬人之誠不能動天。崩城、 隕霜,臣初信之,以臣心況,徒&#x;語耳。若葵&#x;之傾葉,太陽雖不為之回光,然向之者 誠也。竊自比於葵&#x;,若降天地之施,垂三光之明者,實在陛下。
 臣聞文子曰:「不為福始,不為禍先。」今之否隔,友于同憂,而臣獨倡言者,竊不 願於聖世使有不蒙施之物。有不蒙施之物,必有慘毒之懷,故柏舟有「天只」之怨,谷 風有「棄予」之歎。故伊尹恥其君不為堯舜,孟子曰:「不以舜之所以事堯事其君者,不 敬其君者也。」臣之愚蔽,固非虞、伊,至於欲使陛下崇光被時雍之美,宣緝熙章明之コ 者,是臣&#x;&#x;之誠,竊所獨守,實懷鶴立企佇之心。敢復陳聞者,冀陛下儻發天聰而垂 神聴也。
詔報曰:
「蓋教化所由,各有隆弊,非皆善始而惡終也,事使之然。故夫忠厚仁極草木, 則行葦之詩作;恩澤衰薄,不親九族,則角弓之章刺。今令諸國兄弟,情理簡怠,妃妾之 家,膏沐疏略,朕縱不能敦而睦之,王援古&#x;義備悉矣,何言精誠不足以感通哉?夫明貴 賤,崇親親,禮賢良,順少長,國之綱紀,本無禁固諸國通問之詔也,矯枉過正,下吏懼譴,以 至於此耳。已敕有司,如王所訴。」
 植復上疏陳審舉之義,曰:
 臣聞天地協氣而萬物生,君臣合コ而庶政成;五帝之世非皆智,三季之末非皆 愚,用與不用,知與不知也。既時有舉賢之名,而無得賢之實,必各援其類而進矣。諺 曰:「相門有相,將門有將。」夫相者,文コ昭者也;將者,武功烈者也。文コ昭,則可 以匡國朝,致雍熙,稷、契、&#x;、龍是也;武功烈,則所以征不庭,威四夷,南仲、方叔是 矣。昔伊尹之為&#x;臣,至賤也,呂尚之處屠釣,至陋也,及其見舉於湯武、周文,誠道合 志同,玄謨神通,豈復假近習之薦,因左右之介哉。書曰:「有不世之君,必能用不世之 臣;用不世之臣,必能立不世之功。」殷周二王是矣。若夫齷齪近&#x;,遵常守故,安足 為陛下言哉?故陰陽不和,三光不暢,官曠無人,庶政不整者,三司之責也。疆&#x;騷 動,方隅&#x;侵,沒軍喪&#x;,干戈不息者,邊將之憂也。豈可&#x;荷國寵而不稱其任哉?故 任益隆者負益重,位益高者責益深,書稱「無曠庶官」,詩有「職思其憂」,此其義也。
 陛下體天真之淑聖,登神機以繼統,冀聞康哉之謌,偃武行文之美。而數年以來, 水旱不時,民困衣食,師徒之發,&#x;&#x;搨イ,加東有覆敗之軍,西有殪沒之將,至使蚌蛤 浮翔於淮、泗,&#x;鼬讙譁於林木。臣&#x;念之,未嘗不輟食而揮餐,臨觴而&#x;腕矣。昔漢 文發代,疑朝有變,宋昌曰:「&#x;有朱&#x;、東牟之親,外有齊、楚、淮南、琅邪,此則磐石之 宗,願王勿疑。」臣伏惟陛下遠覽&#x;文二&#x;之援,中慮周成召、畢之輔,下存宋昌磐石之固。昔騏驥之於&#x;阪,可謂困矣,及其伯樂相之,孫郵御之,形體不勞而坐取千里。蓋 伯樂善御馬,明君善御臣;伯樂馳千里,明君致太平;誠任賢使能之明效也。若朝司 惟良,萬機&#x;理,武將行師,方難克弭。陛下可得雍容都城,何事勞動鑾駕,暴露於邊 境哉?
 臣聞羊質虎皮,見草則ス,見豺則戰,忘其皮之虎也。今置將不良,有似於此。故 語曰:「患為之者不知,知之者不得為也。」昔樂毅奔趙,心不忘燕;廉頗在楚,思為趙 將。臣生乎亂,長乎軍,又數承教于武皇帝,伏見行師用兵之要,不必取孫、&#x;而闇與之 合。竊揆之於心,常願得一奉朝覲,排金門,蹈玉陛,列有職之臣,賜須臾之問,使臣得 一散所懷,&#x;舒蘊積,死不恨矣。
 被鴻臚所下發士息書,期會甚急。又聞豹尾已建,戎軒&#x;駕,陛下將復勞玉躬,擾 挂神思。臣誠竦息,不遑寧處。願得策馬執鞭,首當塵露,撮風后之奇,接孫、&#x;之要, 追慕卜商起予左右,效命先驅,畢命輪轂,雖無大益,冀有小補。然天高聽遠,情不上 通,徒獨望青雲而拊心,仰高天而歎息耳。屈平曰:「國有驥而不知乘,焉皇皇而更 索!」昔管、蔡放誅,周、召作弼;叔魚陷刑,叔向匡國。三監之釁,臣自當之;二南之 輔,求必不遠。華宗貴族,藩王之中,必有應斯舉者。故傳曰:「無周公之親,不得行周公之事。」唯陛下少留意焉。
 近者漢氏廣建藩王,豐則連城數十,約則饗食祖祭而已,未若&#x;周之樹國,五等之 品制之。若扶蘇之諫始皇,淳于越之難周青臣,可謂知時變矣。夫能使天下傾耳注目 者,當權者是矣,故謀能移主,威能懾下。豪右執政,不在親戚;權之所在,雖疏必重, 勢之所去,雖親必輕,蓋取齊者田族,非呂宗也。分晉者趙、魏,非&#x;姓也。唯陛下察 之。苟吉專其位,凶離其患者,異姓之臣也。欲國之安,祈家之貴,存共其榮,沒同其 禍者,公族之臣也。今反公族疏而異姓親,臣竊惑焉。
 臣聞孟子曰:「君子窮則獨善其身,達則兼善天下。」今臣與陛下踐冰履炭,登山 浮澗,寒&#x;燥濕,高下共之,豈得離陛下哉?不勝憤懣,拜表陳情。若有不合,乞且藏之 書府,不便滅棄,臣死之後,事或可思。若有豪釐少挂聖意者,乞出之朝堂,使夫博古 之士,糾臣表之不合義者。如是,則臣願足矣。
帝輒優文答報[12]

[12]魏略曰:是後大發士息,及取諸國士。植以近前諸國士息已見發,其遺孤稚弱,在者無幾,而復被取,乃上書曰: 「臣聞古者聖君,與日月齊其明,四時等其信,是以戮凶無重,賞善無輕,怒若驚霆,喜若時雨,恩不中&#x;,教無二 可,以此臨朝,則臣下知所死矣。受任在萬里之外,審主之所授官,必己之所以投命,雖有構會之徒,泊然不以為懼者,蓋君臣相信之明效也。昔章子為齊將,人有告之反者,威王曰:『不然。』左右曰:『王何以明之?』王曰: 『聞章子改葬死母;彼尚不欺死父,顧當叛生君乎?』此君之信臣也。昔管仲親射桓公,後幽囚從魯檻車載,使 少年挽而送齊。管仲知桓公之必用己,懼魯之悔,謂少年曰:『吾為汝唱,汝為和,聲和聲,宜走。』於是管仲唱 之,少年走而和之,日行數百里,宿昔而至。至則相齊,此臣之信君也。臣初受封,策書曰:『植受茲青社,封於東 土,以屏翰皇家,為魏藩輔。』而所得兵百五十人,皆年在耳順,或不踰矩,虎賁官騎及親事凡二百餘人。正復不 老,皆使年壯,備有不虞,檢校乘城,顧不足以自救,況皆復耄耋罷曳乎?而名為魏東藩,使屏翰王室,臣竊自羞 矣。就之諸國,國有士子,合不過五百人。伏以為三軍益損,不復ョ此。方外不定,必當須&#x;者,臣願將部曲倍道 奔赴,夫妻負襁,子弟懷糧,蹈鋒履刃,以徇國難,何但習業小兒哉?愚誠以揮涕揄ヘ,&#x;鼠飲海,於朝萬無損益, 於臣家計甚有廢損。又臣士息前後三送,兼人已竭。惟尚有小兒,七八&#x;已上,十六七已還,三十餘人。今部曲 皆年耆,臥在牀席,非糜不食,眼不能視,氣息裁屬者,凡三十七人;疲&#x;風靡,疣盲聾&#x;者,二十三人。惟正須 此小兒,大者可備宿衞,雖不足以禦寇,粗可以警小盜;小者未堪大使,為可使耘&#x;穢草,驅護鳥雀。休侯人則 一事廢,一日獵則&#x;業散,不親自經營則功不攝;常自躬親,不委下吏而已。陛下聖仁,恩詔三至,士子給國,長 不復發。明詔之下,有若t日,保金石之恩,必明神之信,畫然自固,如天如地。定習業者並復見送,&#x;若晝晦, 悵然失圖。伏以為陛下既爵臣百寮之右,居藩國之任,為置卿士,屋名為宮,冢名為陵,不使其危居獨立,無異於 凡庶。若柏成欣於野耕,子仲樂於灌園;蓬&#x;茅&#x;,原憲之宅也;陋巷單瓢,顏子之居也:臣才不見效用,常慨 然執斯志焉。若陛下聽臣悉還部曲,罷官屬,省監官,使解璽釋&#x;,追柏成、子仲之業,營顏淵、原憲之事,居子臧 之廬,宅延陵之室。如此,雖進無成功,退有可守,身死之日,猶松、喬也。然伏度國朝終未肯聽臣之若是,固當 羈絆於世繩,維&#x;於祿位,懷屑屑之小憂,執無已之百念,安得蕩然肆志,逍遙於宇宙之外哉?此願未從,陛下必 欲崇親親,篤骨肉,潤白骨而榮枯木者,惟遂仁コ以副前恩詔。」皆遂還之。

 其年冬,詔諸王朝六年正月。其二月,以陳四縣封植為陳王,邑三千五百&#x;。植&#x;欲 求別見獨談,論及時政,幸冀試用,終不能得。既還,悵然&#x;望。時法制,待藩國既自峻迫, 寮屬皆賈豎下才,兵人給其殘老,大數不過二百人。又植以前過,事事復減半,十一年中而 三徙都,常汲汲無歡,遂發疾薨,時年四十一[13]。遺令薄葬。以小子志,保家之主也,欲立 之。初,植登魚山,臨東阿,喟然有終焉之心,遂營為墓。子志嗣,徙封濟北王。景初中詔 曰:「陳思王昔雖有過失,既克己慎行,以補前闕,且自少至終,篇籍不離於手,誠難能也。 其收&#x;初中諸奏植罪&#x;,公卿已下議尚書、祕書、中書三府、大鴻臚者皆削除之。撰&#x;植前 後所著賦頌詩銘雜論凡百餘篇,副藏&#x;外。」志累摎W,并前九百九十&#x;[14]

[13]植常為琴瑟調歌,辭曰:「吁嗟此轉蓬,居世何獨然!長去本根逝,夙夜無休閨B東西經七陌,南北越九阡,卒遇 回風起,吹我入雲閨B自謂終天路,忽焉下&#x;淵。驚&#x;接我出,故歸彼中田。當南而更北,謂東而反西,宕宕當 何依,忽亡而復存。飄&#x;周八澤,連翩&#x;五山,流轉無恆處,誰知吾苦艱?願為中林草,秋隨野火燔,糜滅豈不 痛,願與根&#x;連。」
    孫盛曰:異哉,魏氏之封建也!不度先王之典,不思藩屏之術,違敦睦之風,背維城之義。漢初之封,或權r人 主,雖云不度,時勢然也。魏氏諸侯,陋同匹夫,雖懲七國,矯枉過也。且魏之代漢,非積コ之由,風澤既微,六合 未一,而彫翦枝幹,委權異族,勢同&#x;木,危若&#x;幕,不嗣忽諸,非天喪也。五等之制,萬世不易之典。六代興亡, 曹冏論之詳矣。

[14]志別傳曰:志字允恭,好學有才行。晉武帝為中撫軍,迎常道&#x;公于&#x;,志夜與帝相見,帝與語,從暮至旦,甚器 之。及受禪,改封&#x;城公。發詔以志為樂平太守,&#x;章武、趙郡,遷散騎常侍、國子博士,後轉博士祭酒。及齊王 攸當之藩,下禮官議崇錫之典,志嘆曰:「安有如此之才,如此之親,而不得樹本助化,而遠出海隅者乎?」乃建 議以諫,辭旨甚切。帝大怒,免志官。後復為散騎常侍。志遭母憂,居喪盡哀,因得疾病,喜怒失常,太康九年 卒,諡曰定公。

曹熊

 蕭懷王熊,早薨。&#x;初二年追封諡蕭懷公。太和三年,又追封爵為王。青龍二年,子 哀王炳嗣,食邑二千五百&#x;。六年薨,無子,國除。
 評曰:任城武藝壯猛,有將領之氣。陳思文才富&#x;,足以自通後葉,然不能克讓遠防, 終致攜隙。傳曰「楚則失之矣。而齊亦未為得也」,其此之謂歟![1]

[1]魚豢曰:諺言「貧不學儉,卑不學恭」,非人性分也,勢使然耳。此實然之勢,信不&#x;矣。假令太祖防遏植等,在於疇昔,此賢之心,何&#x;有窺望乎?彰之挾恨,尚無所至。至於植者,〔豈能興難?〕乃令楊脩以倚注遇害,丁儀以 希意族滅,哀夫!余&#x;覽植之華采,思若有神。以此推之,太祖之動心,亦良有以也。