三國志修正計画

三國志卷十二 魏志十二/崔毛徐何邢鮑司馬傳 (一)

崔琰

 崔琰字季珪、清河東武城人也。少樸訥、好撃劍、尚武事。年二十三、郷移為正、始感激、讀論語・韓詩。至年二十九、乃結公孫方等就鄭玄受學。學未朞、徐州黄巾賊攻破北海、玄與門人到不其山避難。時穀糴縣乏、玄罷謝諸生。琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于是周旋青・徐・兗・豫之郊、東下壽春、南望江・湖。自去家四年乃歸、以琴書自娯。

 崔琰、字は季珪。清河東武城の人である。若いとき樸訥で、撃剣を好み、武事を尚(たっと)んだ。齢二十三で郷の移書(公式通達)により正卒となり、始めて(愧じて)激情を感(うご)かして『論語』・『韓詩』を読んだ。齢二十九に至り、かくして公孫方らと結んで鄭玄に就いて学んだ。学んで朞(満一年)にならずに徐州の黄巾賊が北海郡を攻破し、鄭玄と門人とは避難して不其山(青島市即墨)に到った。時に穀糴(購入穀物)が県には乏しく、鄭玄は謝して諸生を罷めた。崔琰は遣(はな)たれたものの、寇盜が充斥(横溢)して西への道は通じず、こうして青・徐・兗・豫の郊外を周旋し、東のかた寿春に下り、南のかた江・湖を望んだ。家を去ってより四年して帰り、琴・書を娯しんだ。

 大將軍袁紹聞而辟之。時士卒暴、掘發丘隴、琰諫曰:「昔孫卿有言:『士不素教、甲兵不利、雖湯武不能以戰勝。』今道路暴骨、民未見コ、宜敕郡縣掩骼埋胔、示憯怛之愛、追文王之仁。」紹以為騎都尉。後紹治兵黎陽、次于延津、琰復諫曰:「天子在許、民望助順、不如守境述職、以寧區宇。」紹不聽、遂敗于官渡。及紹卒、二子交爭、爭欲得琰。琰稱疾固辭、由是獲罪、幽于囹圄、ョ陰夔・陳琳營救得免。

 大将軍袁紹が聞いて辟した。時に士卒は横暴で、丘隴(陵墓)を掘り発いており、崔琰は諫めて 「昔、孫卿(荀子)には“士に教えを素よりせず、甲兵を利(と)がねば、湯王・武王といえど戦っても勝てない”との言葉がありました。今、道路には骨が曝され、民は未だに徳に見(まみ)えておりません。郡県に命じて骼(遺骨)を掩い胔(腐肉)を埋め、憯怛の愛(哀悼の意)を示して文王の仁を追うべきです」。
袁紹は騎都尉とした。後に袁紹が黎陽に兵を治め、延津に次(やど)った時、崔琰は復た諫め 「天子は許に在り、民は助け順う事を望んでいます。境域を守って職果を述べ、区宇(境内)を寧んじるに越した事はありません」
袁紹は聴かず、かくて官渡で敗れた。袁紹が卒するに及び、二子は交々争い、争って崔琰を得ようとした。崔琰は疾を称して固辞し、これに由り罪を獲て囹圄(牢)に幽閉され、陰夔・陳琳が営救(救助運動)によって免れた。

 太祖破袁氏、領冀州牧、辟琰為別駕從事、謂琰曰:「昨案戸籍、可得三十萬戸、故為大州也。」琰對曰:「今天下分崩、九州幅裂、二袁兄弟親尋干戈、冀方蒸庶暴骨原野。未聞王師仁聲先路、存問風俗、救其塗炭、而校計甲兵、唯此為先、斯豈鄙州士女所望於明公哉!」 太祖改容謝之。于時賓客皆伏失色。

 曹操が袁氏を破って冀州牧を兼領すると、崔琰を辟して別駕従事とし、崔琰に謂うには 「昨日戸籍を調べたら、三十万戸を得られるようだ。だから大州なのだな」。崔琰が対えるには 「今、天下は分崩して九州は幅裂し、二袁兄弟は親しく干戈を尋ね(交戦し)、冀方の蒸庶(万民)は原野に骨を曝しています。未だに路の先にて風俗を問い、その塗炭を救う王師の仁声を聞いていないのに、甲兵を校(しら)べ計える事を優先されるとは、どうして鄙州の士女が明公に所望した事でありましょうか!」 曹操は容(かたち)を改めて陳謝した。この時、賓客は皆な伏して顔色を失った。

 太祖征幷州、留琰傅文帝於鄴。世子仍出田獵、變易服乘、志在驅逐。琰書諫曰:「蓋聞盤于游田、書之所戒、魯隱觀魚、春秋譏之、此周・孔之格言、二經之明義。殷鑒夏后、詩稱不遠、子卯不樂、禮以為忌、此又近者之得失、不可不深察也。袁族富彊、公子ェ放、盤游滋侈、義聲不聞、哲人君子、俄有色斯之志、熊羆壯士、墮於呑噬之用、固所以擁徒百萬、跨有河朔、無所容足也。今邦國殄瘁、惠康未洽、士女企踵、所思者コ。況公親御戎馬、上下勞慘、世子宜遵大路、慎以行正、思經國之高略、内鑒近戒、外揚遠節、深惟儲副、以身為寶。而猥襲虞旅之賤服、忽馳騖而陵險、志雉兔之小娯、忘社稷之為重、斯誠有識所以惻心也。唯世子燔翳捐褶、以塞衆望、不令老臣獲罪於天。」世子報曰:「昨奉嘉命、惠示雅數、欲使燔翳捐褶、翳已壞矣、褶亦去焉。後有此比、蒙復誨諸。」

 曹操は幷州を征伐するに際し、崔琰を留めて鄴の曹丕の傅役とした。世子は仍(しきり)に田猟に出て、服装と乗り物を変易し、駆逐することを志した。崔琰が書簡にて諫めるには

「游田を盤(たのし)む事は『書経』が戒めるもので、魯隠公が魚漁を観た事を『春秋』は譏っておりますが、これは周公・孔子の格言で、二経の明義だと聞いております。殷が夏后氏を鑒とした事を『詩』は遠い過去ではないと称し、子・卯の日に楽を為さないのは、『礼』が忌んだからです。これは又た近年の得失でもあり、深く洞察せずにはおられません。袁族は富彊でありながら、公子はェ放で盤游(遊び歩き)して奢侈は滋く、義の声を聞かず、哲人・君子には俄かに色斯(退去)の志が生じ、熊羆の壮士は呑噬の用(併呑の道具)に墮ちました。これぞ百万の徒を擁して河朔に跨りながら足を容れる場所を失った理由であります。
 今、邦国は殄瘁(疲れ尽)し、恩恵と安康とは未だ洽(あまね)からず、士女が踵を企(そばだて)て思っているのは徳であります。ましてや公が親しく戎馬を御し、上下とも労慘(疲弊)しておれば、世子は大路に遵って慎んで正しきを行ない、経国の高略を思い、内は近戒に鑑み、外は遠節を揚げ、深く儲副(世子かつ副弐)たる事を惟(おも)われて自身を宝とするのが妥当です。しかるに猥しき虞旅の賤服を襲(かさ)ね、忽ちに馳騖(馳駆)して険阻を陵(こ)え、雉兔の小娯を志して社稷を重しとする事を忘れるとは。これぞ誠に有識者が心を惻(いた)ませている理由であります。唯だ世子は翳(たて)を燔(や)き褶(短袷)を捐(す)てて衆望を塞(み)たし、老臣が天に罪を獲ないようされん事を」

世子が報(こた)るには 「過日に嘉命を奉じ、数々の雅志を恵示され、燔翳捐褶せよとの事。翳は已に壊し、褶も亦た去った。以後もこの様な事があれば、復た誨(おし)えの諸々を蒙ろう」

 太祖為丞相、琰復為東西曹掾屬徴事。初授東曹時、教曰:「君有伯夷之風、史魚之直、貪夫慕名而清、壯士尚稱而氏A斯可以率時者已。故授東曹、往踐厥職。」魏國初建、拜尚書。時未立太子、臨甾侯植有才而愛。太祖狐疑、以函令密訪於外。唯琰露板答曰:「蓋聞春秋之義、立子以長、加五官將仁孝聰明、宜承正統。琰以死守之。」植、琰之兄女壻也。太祖貴其公亮、喟然歎息、遷中尉。

 曹操が丞相となると、崔琰は復た西曹属となり、(次いで)東曹掾の徴事(人事担当)となった。

 西曹・東曹とも府の挙任を担当。属は副官/二百石、掾は長官/比四百石。

初めて東曹を授かった時の教書には 「君には伯夷の風や史魚の直[※]があり、貪夫はその名を慕って清くなり、壮士は称(ほまれ)を尚(たっと)んで(はげ)み、これぞ時を引率する者である。だから東曹を授けたのだ。往ってその職を踐め」

※ 史魚は春秋衛の大夫。霊公に人事を諫めても聴かれず、そのため臣節を全うできなかったとして死に際して葬礼に則る事を拒み、窓下に屍を置かせた。会葬した霊公は真意を知って人事を改め、蘧伯玉を登用したという。孔子が忠直を絶賛した。

(213年に)魏国が初めて建つと尚書に拝された。時に太子は未だ立てられず、臨甾侯曹植には才があって愛されていた。曹操は狐疑逡巡し、函(封緘した文書)によって密かに外部に訪(諮問)した。ただ崔琰のみ露わにした板書で答え 「『春秋』の義では子は年長者を立てると聞きます。加えて五官将は仁孝聡明で、正統を承けるに妥当です。私は死を以てこれを守ります」 曹植は崔琰の兄の娘壻だった。曹操はその公正明亮を貴び、喟然として歎息し[1]、中尉(執金吾)に遷した。

 琰聲姿高暢、眉目疏朗、鬚長四尺、甚有威重、朝士瞻望、而太祖亦敬憚焉。琰嘗薦鉅鹿楊訓、雖才好不足、而清貞守道、太祖即禮辟之。後太祖為魏王、訓發表稱贊功伐、襃述盛コ。時人或笑訓希世浮偽、謂琰為失所舉。琰從訓取表草視之、與訓書曰:「省表、事佳耳!時乎時乎、會當有變時。」琰本意譏論者好譴呵而不尋情理也。有白琰此書傲世怨謗者、太祖怒曰:「諺言『生女耳』、『耳』非佳語。『會當有變時』、意指不遜。」於是罰琰為徒隸、使人視之、辭色不撓。太祖令曰:「琰雖見刑、而通賓客、門若市人、對賓客虬鬚直視、若有所瞋。」遂賜琰死。

 崔琰の音声と容姿は高暢で、眉目は疏朗、鬚は長さ四尺、甚だ威厳が重く、朝士は瞻望し、曹操も亦た敬憚した[2]。崔琰は嘗て鉅鹿の楊訓を薦めた事があり、才は充分ではないが清貞にして道を守っていると。曹操は即座に礼辟した。後に曹操が魏王になると、楊訓は討伐の功を称賛して盛徳を褒述する上表を発した。時人の或る者は楊訓が浮偽によって希世(俗誉を希求)した事を笑い、崔琰は挙任を失敗したと謂った。崔琰は楊訓より上表の草稿を取ってこれを視、楊訓に書簡を与えるには 「上表を拝見した。佳い内容だ! 時よ時よ。いずれ(評価も)変じる時があろう」 崔琰の本意は、譏論者は譴呵を好んで情理を尋ねないというものだった。
崔琰のこの書簡は世に傲って怨謗したものだと白(もう)す者がおり、曹操は怒って 「諺言に“女を生んだ耳(のみ)”とあるが、”耳”とは佳語ではない。“会当有変時”が指す意味は不遜である」 こうして崔琰を罰して徒隸とした。(崔琰の様子を)人に視させた処、言辞・気色とも撓んでいなかった。曹操が布令するには 「崔琰は刑されたとはいえ賓客と通交し、門前は人の市のようだ。賓客に対しては虬の如き鬚で直視し、瞋っているようだ」 かくて崔琰に死を賜った[3]

 始琰與司馬朗善、晉宣王方壯、琰謂朗曰「子之弟、聰哲明允、剛斷英跱、殆非子之所及也。」朗以為不然、而琰毎秉此論。琰從弟林、少無名望、雖姻族猶多輕之、而琰常曰:「此所謂大器晩成者也、終必遠至。」涿郡孫禮・盧毓始入軍府、琰又名之曰:「孫疏亮亢烈、剛簡能斷、盧清警明理、百錬不消、皆公才也。」後林・禮・毓咸至鼎輔。及琰友人公孫方・宋階早卒、琰撫其遺孤、恩若己子。其鑒識篤義、類皆如此。

 始め崔琰は司馬朗と親善で、司馬懿が壮年になると崔琰が司馬朗に謂うには 「子の弟は聡哲明允で剛断英特であり[4]、子はとうてい及ぶまい」 司馬朗は然りとはしなかったが、崔琰は毎(つね)にこの論を秉(と)った。 崔琰の従弟の崔林は若い時は名望が無く、姻族も猶お多くが軽んじたが、崔琰は常に 「これは所謂る大器晩成という者だ。終にはきっと遠きに至るだろう」。 涿郡の孫礼・盧毓が始めて軍府に入った時、崔琰は又た名(たたえ)て 「孫は粗亮昂烈であり剛簡能断、盧は清警明理にして百錬不消。皆な三公の才である」 後に崔林孫礼盧毓は咸な鼎輔(三公)に至った。
崔琰の友人の公孫方・宋階は早くに卒し、崔琰はその遺孤を撫養したが、恩愛は己が子のようだった。その鑑識眼と篤い義は皆なこのような類いだった[5]

 初、太祖性忌、有所不堪者、魯國孔融・南陽許攸・婁圭、皆以恃舊不虔見誅。而琰最為世所痛惜、至今寃之。

 曹操の性は嫌忌で、堪えられない者として魯国の孔融[6]、南陽の許攸[7]と婁圭があり[8]、皆な旧縁を恃んで虔(つつし)まずに誅された。そして崔琰が最も世に痛惜され、今に至るも冤罪とされている[9]

 大した落ち度もなく、死に到る経緯や罪状がハッキリしていない為、崔琰伝を読むと非常にモヤった気分になります。曹操の性格的な問題で殺された扱いですが、類例として挙げられた三者とは日常的な言動で一線を画していて、崔琰伝に書かれている死因は表面的なものでしかありません。崔琰の死は次の毛玠の失脚とセットの事件で、しかもその次の徐奕伝注『傅子』には、政敵の丁儀の讒言で殺されたとあります。

[1] 曹植の妻は繡衣を着用していた。曹操は台に登って望見すると、制命に違えているとして家に還して死を賜った。 (『世語』)
[2] 崔琰は清忠高亮、雅識経遠、推方直道、正色於朝。曹魏の初期に銓衡(人事選考)の任を委ねられ、清議を総斉すること十有余年。文武の群才の多くを明らかにして抜擢した。朝廷は高きに帰し、天下は太平を称えた。 (『先賢行状』)
[3] 崔琰の書を得た人がおり、幘(頭巾)の籠で包み、都の道中を行った。時に崔琰とはかねて不和な者がおり、遥かに崔琰の名が幘籠に着いているのを見、従ってこれを視てから建白した。曹操は崔琰が腹誹心謗していると考え、かくして獄に収付し、髠刑として囚徒に輸(うつ)した。以前に崔琰の事を申した者が復た白して云うには 「崔琰は徒囚とされながら、虬鬚にて直視しており、心中は穏やかではありません」 時に曹操も亦た然りとし、かくて殺そうとした。かくして清公な大吏を崔琰の経営(?)に往かせて、吏に命じるには 「三日を期日として消息(連絡)せよ」 崔琰は悟らず、数日の後に吏はそのため崔琰の平安とした様子を白した。曹操は忿然として 「崔琰はどうあっても孤に刀鋸させたいのだな!」。吏がこの事を崔琰に教告すると、崔琰は吏に謝して 「迂闊だった。公の意がここまで至っていたとは知らなかった!」 遂に自殺した。 (『魏略』)
[4] 裴松之が調べた処、“跱”は或る著作では“特”である。竊かに思うに 「英特」 が正しかろう。
[5] 明帝の時、崔林が司空陳羣と共に冀州の人士を論じた折、崔琰を称えて首席とした。陳羣は 「智は身を存続させなかった」 として貶した。崔林 「大丈夫とは邂逅を問題とするだけだ。卿ら諸人などは貴とするに足るだろうか!(真君=司馬氏に邂逅していない君らは糞だ)」 (『魏略』)
[6] 
孔融

 孔融、字は文挙。孔子の二十世の孫である。高祖父の孔尚は鉅鹿太守。父の孔宙は泰山都尉。孔融は幼時から異才があった。時に河南尹李膺には重い名望があり、門下に命じて賓客を簡抜して通し、当世の英賢および通交ある家の子孫でなければ会見しなかった。孔融が齢十余歳の時、その為人りを観察しようと李膺の門に行き、門者に語るには 「私は李君の通家の子孫です」 李膺は孔融と会見して問うには 「高明(貴君)の父祖は嘗て僕との間を周旋されたか?」 孔融 「然り。先君たる孔子は君の先人たる李老君とは徳と義とを比べれば同じく、(老子は)師であり友でもありました。だから私は君とは累世の通家なのです」 座中の人々はこれを奇とし、皆な 「異才の童子だ」 と。太中大夫陳煒が後に至ると、同坐の人は陳煒に告げたが、陳煒は 「人は小時に了了(理解が早い)たる者でも、大きくなっても亦た必ずしも奇才とは限らない」 孔融が答えるには 「御言葉の通りなら、君は幼時にはさぞ慧かったのでしょう!」 李膺は大いに笑い顧みて謂うには 「貴君は長大になればきっと偉器となろう」
山陽の張倹は中正であるために中常侍侯覧に忿疾され、侯覧は章書を州郡に下して張倹を捕えさせた。張倹は孔融の兄の孔裦と旧交があり、亡命して孔裦に投じたが、たまたま孔裦は外出していた。時に孔融は齢十六であったが、張倹は年少だとして(来意を)告げなかった。孔融は張倹が長者だと知り、迫られている気色を窺い、謂うには 「私が一人では(客人たる)君の主人になれないとでも!」 因って舎に留めて匿した。後に事が泄れ、国相以下が密かに掩捕に就いたが、張倹は脱走でき、登時(即座)に孔融および孔裦を収捕して獄に送った。孔融 「保納して舎に藏したのは私です。私が(罪に)坐すべきです」 孔裦 「彼が来たのは私を求めてだ。罪は私に由来し、弟の過ちではない。私が坐すべきだ」 兄弟で死を争い、郡県では疑惑して決せられず、かくして讞(さば)きを上書した処、詔書にて孔裦を連坐させた。孔融はこれによって名を遠近に震わせ、平原の陶丘洪・陳留の辺譲と揃って俊秀だとされ、後進の冠蓋(筆頭)だとされた。
孔融は経書の理を論じる事は辺譲らに及ばなかったが、秀逸な才と博識では超えていた。司徒(楊賜)や大将軍(何進)が辟して高第として挙げ、北軍中候・虎賁中郎将・北海相に累遷した。(北海相に就いた)時に齢三十八だった。黄巾に残破された後を承け、城邑を修復し、学校を崇び、庠序(学舎)を設けた。賢才を挙げ、儒士を顕彰し、彭璆を方正とし、邴原を有道とし、王脩を孝廉とした。高密県(濰坊市)に告げて鄭玄の為に特に一郷を立て、名付けて鄭公郷とした。又た国人で後嗣の無い者および四方の游士で死亡した者、皆なに棺木を用意して殯葬した。郡人の甄子然は孝行で名を知られ、早くに卒したが、孔融は会えなかった事を悔恨し、県社に配食(合祀)させた。賢者を礼遇するのはこの通りだった。郡に在ること六年、劉備が上表して孔融に青州刺史を兼領させた。建安元年(196)、徴還されて将作大匠となり、少府に遷った。朝会の毎に諮問に対える折、そのたび議主となり、諸々の卿大夫は名を寄せるだけだった。 (『続漢書』)
―― 孔融は北海に在った時、自らを智能優贍で、溢才は命世(著聞)し、時の豪俊は皆な及べないと考えた。亦た大志を自認し、加えて軍を挙げて甲兵を耀かせ、群賢と功を揚げたいとし、自身は海岱に根本を結殖しており、碌碌として郡守として平居しているような状況を肯んぜず、方伯に事えて期会に赴くだけだと考えていた。そのため任用する場合は奇を好んで異を取り、皆な軽剽(軽佻)の才だった。稽古の士(古学者)が至れば偽って恭敬し、礼遇はしても国事を論じる事を与にはせず、高密の鄭玄を鄭公と称え、子孫の礼を執った。その高談・教令は官曹に盈溢し、語気は温雅で、玩弄して読誦するものではあったが、事を論じ実際を考究すれば、悉くを行なうのは困難だった。ただ(法を)張磔網羅したが、その管理は甚だ疏略だった。租賦が少しく稽滞すると一朝で五部督郵を殺した。姦民汚吏は朝市を猾乱したが、亦た治められなかった。
幽州の精兵が作乱して徐州に至り、忽ち城下に到り、国を挙げて皆な恐れた。孔融は直ちに出て説き、異志を無くさせた。かくて別校と謀って夜間に幽州軍を覆し、幽州軍は敗れ、悉くその軍兵を有したが、幾許もせずに復たまた叛き亡れた。

 これはおそらく黄巾軍を伐つ為に来援した公孫瓚の軍を指していると思われます。

黄巾が至ろうとした時、孔融は醇酒を大いに飲み、躬ずから騎乗し、淶水の畔で防禦した。寇賊は上流の部隊に命じて孔融を拒がせ、両翼が河水を真直ぐ渉り、真直ぐ郡治の城に到らせた。城が潰え、孔融は入城できず、転じて南県に至ったが、左右の者はようよう叛いた。連年の傾覆に対して救済の効も無く、遂には四境の鄣塞も保てず、郡を棄てて去った。
後に徐州に徙り、北海相として自ら還って青州刺史を領し、北陲(北辺)で郡を治めた。山東を附し、外は遼東に接して戎馬の利を得、根本を建樹せんとし、一隅に孤立して(群雄とは)共にしなかった。時に曹操・袁紹・公孫瓚は共に首尾を為していたが、(孔融の)戦士は数百に満たず、穀糧は万斛に達していなかった。王子法・劉孔慈ら凶弁小才の士を信じて腹心としていた。左丞祖・劉義遜ら清雋の士は席に坐して備わっているだけだったが、民望があるから失えないと言っていた。左丞祖は彊国に託すよう孔融に勧め、孔融は聴かずに殺した。劉義遜は棄て去った。かくて袁譚に攻められ、春より夏に至り、城は小さく寇賊は多勢で、流矢は集雨のようだった。しかし孔融は几に倚って安坐し、読書や論議をして自若としていた。城が壊れて軍兵が逃亡すると、身ずから山東に奔り、室家(家族)は袁譚に捕虜とされた。 (司馬彪『九州春秋』)

 『続漢書』の聖人孔融像に、『九州春秋』は真っ向から異を唱えてきましたが、実はそれほど両者は矛盾していません。学者特有の、学問はピカ一だけど実務はね…、という典型ですし、自身の身が安全な限りは名声を得る事を最優先として行動しているだけです。軽剽の士や凶弁の士というのは当時流行りの弁論に特化した人材で、煽てておけば評判を流布してくれる存在です。彼らを形容するのにマイナス印象の言葉を使い、孔融を群雄希望者として捉えた司馬彪に悪意があった事は否定できませんが。

―― 孔融は郡に在ること八年、僅かに一身で免れた。献帝が初めて許に奠都すると、孔融はほぼ旧制に依り、王畿を定め、司隸校尉の所部を正して千里の封とするのが妥当だと考え、かくして公卿を率いて上書してその義を言上した。このとき天下は草創期で、曹操と袁紹の権勢は未だ分たれず、孔融の建議は時務を識らないものだった。又た天性の気性は爽直で、平生の意を一方的に推し、曹操に対しては狎れて侮った。

 爽直と訳しましたが、原文では“爽”のみで、筑摩訳では 「さっぱりした気性」 とあります。意訳すれば「本心のままに行動した」 となるんでしょうが、“爽”と“狎侮”の食い合わせはどうなんでしょう。ちなみに“爽徳”となると、悪徳を意味するようになります。

曹操が(穀糧不足に対応して)禁酒令を制定すると、孔融は書簡で啁(あざけ)り 「天には酒旗の星があり、地は酒泉の郡を列べ、人には旨酒の徳がある。だから堯が千鍾を飲まねばその聖業は完成しなかったでしょう。しかも桀紂は女色で国を亡ぼしたのに、今も命じて婚姻を禁じないとは」 曹操は外見はェ容ではあったが、内心では平静でいられなかった。

 この時の書簡での応酬は『後漢書』に詳しいです。曹操としては醸造に回す穀物すら惜しいという本音は云えないので、孔融もそこを衝いて酒の美徳を陳べて解禁を求め、これに曹操が酒の悪徳を挙げて正当性を唱えた処、孔融は 「じゃあ仁義や謙譲や儒学や好色で国を滅ぼした奴もいるのに、その原因を禁じないよね? 穀糧を惜しんでいるからだろう! 尤もらしい理由はまやかしだ!」 とやってしまっています。他、袁術を惜しんで劉表の討伐を否定したり、劉備への委譲を勧めたり、しかもこれを皮肉や嘲笑に混ぜ込んでくるので、曹操じゃなくても“内心不平”になりますわ。

御史大夫郗慮はその旨を知り、法によって孔融の官を罷免した。歳余にして太中大夫を拝した。
権勢を失って家に居したとはいえ、賓客は日々その門に満ち、才を愛し酒を楽しみ、常に歎じて 「坐上には客が常に満ち、樽中の酒は空にならない。私に憂いは無い」 虎賁の士で蔡邕に容貌が似ている者があり、孔融は酒が酣となる毎に引き入れて同坐し、「老成の人は無くとも尚お典刑(旧法)は有る」 士を好む事はこの通りだった。 (張璠『漢紀』)
―― 太尉楊彪は袁術と婚姻していた。袁術が僭号した後、曹操は楊彪と隙を生じ、このため楊彪を執えて殺そうとした。孔融はこれを聞くと朝服にも着替えず、往って曹操に通見し 「楊公(の家)は累世の清徳があり、四葉(四代)に光輝を重ねております。『周書』には“父子兄弟には罪は及ばず”とあり、ましてや(姻戚の)袁氏の罪などとは。『易』が称している“積善の余慶(が子孫に及ぶ)”が人を欺く事になります」 曹操 「国家の意向である」 孔融 「仮に成王が召公を殺させようとしたら、周公は知らないと言う事ができましょうか? 今、天下の纓緌搢紳の士(官吏や名士)が明公を瞻仰しているのは、明公が聡明仁智で漢朝の輔相であり、直士を挙げて枉士を措き、雍熙(太平の世)を招致すると思えばこそです。今、無辜を勝手に殺せば、海内で観聴きした者の誰が国体を理解しましょう? 私は魯国の男子であり、明日にも衣を褰(たた)んで去り、再びは入朝しますまい」 曹操は意を解き、かくて審理して楊彪を釈放した。 (『続漢書』)
―― 袁紹が敗れると孔融は曹操に書簡を与え、「武王は紂王を伐った時、妲己を周公に賜ったものです」 曹操は孔融の学識が博く、書伝が記している事だと考えた。後にまみえてその事を問われると、対えて 「今回の事から測って、そうだったんだろうと想っただけで〜す!」
建安十三年(208)、孔融が孫権の使者と応対した際、訕謗の言があったとして棄市に坐した。二子は齢八歳であり、時に弈棋をしており、孔融が収捕されても端坐して起たなかった。左右の者が 「お父上が執えられたのに、起たないのは何故です?」 二子 「どうして巣が毀たれて卵が破られない事があろうか!」 かくて倶に殺された。
 孔融には高名と清才があり、世の者は多く哀しんだ。曹操は遠近の議を懼れ、かくして布令して 「太中大夫孔融はその罪に伏したが、世人の多くはその虚名を採り、核心を実検する者は少ない。孔融の浮豔にして変異を好んで行なう事を見、その誑詐に眩み、風俗を乱した事を推察しようとはしない。この州の人が、平原の禰衡が孔融の論を受伝していると説いているが、父母と人とが親縁で無いのは、譬えるなら(親は)缻器の様なもので、(子は)その中に寄盛してるのだと。又た言うには、もし饑饉に遭い、そして父が不肖なら、寧ろ余人を贍活(救済)せよと。孔融は天に違え道に反き、人倫を敗り理を乱し、市朝に列べたとはいえ猶を遅かったと悔恨している。更めてこの事を列挙し、諸軍の将校・掾属に宣示し、皆なに聞見させよ」 (『魏氏春秋』)

 この布令は誰よりも曹丕さんに熟読させるべきでした。孔融は他に、鍾繇の建議した肉刑の復活に反論して断念させています。肉刑推進派は鍾繇のほか荀ケ・陳羣ら曹操周辺の潁川名士。こんな所にも郷党の対立がありました。

―― 孔融の二子は、皆な齠齓(歯の抜け替り)の頃だった。孔融は収捕されると二子を顧みて謂うには 「どうして別辞をせぬ?」 二子は倶に 「父上ですらこの通りです。どうして復た別辞する必要がありましょう!」 必ず倶に死ぬと考えたのである。 (『世語』)
―― 裴松之が考えるに、『世語』が孔融の二子が別辞をしなかったのは、必ず倶に死ぬと知ったと云っているが、猶お些か理解できる。孫盛の言(『魏氏春秋』)は誠に譬えようがない。八歳の小児が禍福を玄了(深い理解)したのなら、特達した聡明さは遠くに卓然としていた筈である。その憂楽の情は成人以上でなければならず、どうして父が収執されているのに容色を変えず、弈棊して起たず、余暇に在る者のようでおられようか?

 いや、聡明=感情ではないだろう。孔融の子なんだから、寧ろ斜に構えていて当然だと思うんだが。

昔、申生は父命に就い(て自殺した)が、語る際には父を忘れず、己が身が死に臨んでも念父の情を廃てなかった。父が安んじて猶おこの通りなのに、ましてや顛沛(顛倒)の中で。孫盛はこれを美談としているが、その人の子を損なう事は無いだろうか! 奇を好む事の情が多い為、理を傷なって居る事を理解していないのであろう。

 多い。多いよ文量! 司馬政権の人どんだけ孔融好きなんだよ! やっぱ孔氏のステータスに文才が加わったから? これじゃあ范曄が『後漢書』で伝を立てる訳です。それに曹操を貶したければ孔融を讃えるのが近道ですし。そのため范曄書では基本的に硬骨の聖人路線が貫かれ、「性は寛容で嫌忌は少ない」 との一文を捩じ込んだりしています。鄭泰と荀ケとセットで一巻になってる点がミソでしょうか。

[7] 許攸、字は子遠。若い時に袁紹および曹操と親善した。初平中に袁紹に随って冀州に在り、討議の席に坐していた。官渡の役では袁紹を諫め、曹操と攻伐する勿れと。物語は袁紹伝に在る。袁紹は自身を彊盛だと考え、その兵勢を極めずにはおくまいと考えていた。許攸は謀りごとをしても無駄だと知り、かくして逃亡して曹操に詣った。袁紹が破れて逃走し、後に冀州を得た事には許攸に功があった。許攸は自身の勲労を恃み、時には曹操と相い戯れ、席に連なる毎に自らは制限せず、曹操を小字で呼ぶに至り 「某甲阿瞞よ、卿は私を得なければ冀州を得なかった」 曹操は笑いつつ 「汝の言う通りだ」 としたが、内心では嫌悪した。その後に一行に従って鄴の東門を出た際、顧みて左右に謂うには 「この家は私を得なければこの門を出入り出来なかったろう」。(これを)白す人があり、遂に収捕された。 (『魏略』)
[8] 婁圭、字は子伯。若い頃に曹操と旧縁があった。初平中に荊州の北界にあって手勢を糾合し、後に曹操に詣った。曹操は大将としつつ兵は典領させず、常に討議の坐に居らせた。河北が平定されるに及び、冀州に随行した。その後、曹操が諸子を従えて出游する際には、婁子伯も時に随従する事があった。婁子伯は顧みて左右に謂うには 「この家の父子は今日の様に楽しんだ事があろうか」 (これを)白す人があり、曹操は誹謗の意図を隠していると考え、遂に収治(処刑)した。 (『魏略』)
―― 婁子伯は若い頃に猛志があり、あるとき歎息して 「男児たる者が世に居れば、数万の兵と千匹の騎馬を得て後世に名を著すだけだ!」 儕輩はこれを笑った。後に亡命者を匿した事に坐し、繋獄されて死罪に当てられた。獄を踰えて脱出し、追捕者の追及が急しかったが、婁子伯は衣服を変じて助捕者のようにし、吏は覚れず、かくて免れる事ができた。おりしも天下に義兵が起き、婁子伯も亦た手勢を糾合して劉表と協力した。

 武帝紀を補う『魏略』によれば、荊州での婁圭は劉表と結んで亡命者から手勢を編成しており、王忠に味噌を付けられています。

後に曹操に帰順して用いられ、軍国の大計には常に参与した。劉表が亡くなり、曹操が荊州に向った。劉表の子の劉jが降り、臣節にて曹操を迎えたが、諸将は皆な詐計を疑い、曹操は婁子伯に問うた。婁子伯 「天下は擾攘となり、各々が王命を貪って自らを重くしています。今、臣節によって来たのであれば、これは必ず誠意からのものです」 曹操 「大いによろしい」 かくて兵を進めた。婁子伯を秩禄にて寵遇し、(そのため)家は千金を累ね、「婁子伯は孤によって富楽となった。ただ権勢が孤に及ばぬだけだ!」 馬超らの撃破に従い、婁子伯の功は多かった。曹操は常に歎じて 「子伯の計に孤は及ばぬ」。
後に南郡の習授と(車を)同じくして載り、曹操の出御を見た。習授 「父子でこうだとは、何とも快挙であるな!」 婁子伯 「世間に居って、自らそうすれば良かったのに、ただ他人を観るだけとは!」 習授はかくして白し、遂に誅された。 (『呉書』)
―― 魚豢曰く、古人の言葉に 「鳥を得るのは羅(網)の一目である。しかし一目の羅を張っても終に鳥を得る事はできない。鳥は遠く飛ぶ事ができ、遠く飛ぶのは六翮の力である。しかし衆毛の助けが無ければ飛んでも遠くはない」 これによって推量すれば、大魏が作られたのに功臣の力があったとはいえ、亦た必ずしも附随するこれらの輩に由来しないとはいえない。
[9] 崔琰の兄の孫の崔諒は字を士文といい、簡素を称えられ、晋に仕えて尚書・大鴻臚となった。 (『世語』)
―― 崔諒は崔琰の孫である。 (荀綽『冀州記』)
 

毛玠

 毛玠字孝先、陳留平丘人也。少為縣吏、以清公稱。將避亂荊州、未至、聞劉表政令不明、遂往魯陽。太祖臨兗州、辟為治中從事。玠語太祖曰:「今天下分崩、國主遷移、生民廢業、饑饉流亡、公家無經歳之儲、百姓無安固之志、難以持久。今袁紹・劉表、雖士民衆彊、皆無經遠之慮、未有樹基建本者也。夫兵義者勝、守位以財、宜奉天子以令不臣、脩耕植、畜軍資、如此則霸王之業可成也。」太祖敬納其言、轉幕府功曹。

 毛玠、字は孝先。陳留平丘の人である。若くして県吏となり、清潔公正を称えられた。乱を荊州に避けようとし、未だ至らずして劉表の政令が明瞭ではないと聞き、かくて魯陽に往った。曹操は兗州に臨むと、辟して治中従事とした。毛玠が曹操に語るには 「今、天下は分崩し、国主は遷移し、生民は生業を廃して饑饉に流亡し、公家には歳を経る儲(たくわ)えも無く、百姓には安住の志も無く、持久するのは困難です。今、袁紹・劉表の士民は衆(おお)く彊いとはいえ、皆な経遠の慮(長久の策)も無く、未だ基を樹て根本を建てておりません。そも兵事は有義の者が勝ち、位を守るのは財によるもの。天子を奉じて臣たらざる者に号令し、耕植(農事)を修め、軍資を畜えるのが宜しく、この様にすれば霸王の業も達成されましょう」
曹操は敬服してその言葉を納れ、幕府の功曹に転じた。

 太祖為司空丞相、玠嘗為東曹掾、與崔琰並典選舉。其所舉用、皆清正之士、雖於時有盛名而行不由本者、終莫得進。務以儉率人、由是天下之士莫不以廉節自勵、雖貴寵之臣、輿服不敢過度。太祖歎曰:「用人如此、使天下人自治、吾復何為哉!」文帝為五官將、親自詣玠、屬所親眷。玠答曰:「老臣以能守職、幸得免戻、今所説人非遷次、是以不敢奉命。」 大軍還鄴、議所并省。玠請謁不行、時人憚之、咸欲省東曹。乃共白曰:「舊西曹為上、東曹為次、宜省東曹。」太祖知其情、令曰:「日出於東、月盛於東、凡人言方、亦復先東、何以省東曹?」遂省西曹。

 曹操が司空や丞相の時、毛玠は東曹掾であり、崔琰と揃って選挙の事を典った。挙げ用いたのは皆な清正の士で、時の盛名がある者でも行ないが本心に由らない者は終に進挙されなかった。倹素によって人を率いるよう務め、これに由り天下の士で廉節に自ら励む事をせぬ者は莫く、貴寵の臣といえど輿服で度(のり)を過ぎようとはしなかった。曹操は歎じ 「人を用いることこのようであれば、天下の人を自ら治めさせ、私としては何もしなくとも良い!」
曹丕は五官将になると、親しく自ら毛玠に詣り、親近の眷属(の挙用)を嘱託した。毛玠が答えるには 「老臣は職事を守りうる者として幸いに戻(罪)を免れております。今、説かれた人は遷次には該当せず、このため命を奉じる事はできません」
 大軍が鄴に還ると、(部署の)併省の事が議された。毛玠は請謁(嘱託の依頼)を行なわせず、時人はこれを憚り、咸な東曹を省く事を望んだ。かくして共に白(もう)すには 「旧制では西曹を上位とし、東曹が次ぎました。東曹を省かれるのが宜しいかと」 曹操はその内情を知り、布令して 「日は東より出、月は東方で盛んとなる。凡そ人が方角を言う時も亦た東を先にする。どんな理由で東曹を省くのか?」 かくて西曹を省いた。

 そもそもこれは何時の事よ? 毛玠が丞相東曹掾だったのは208〜13年。その間、「曹操が軍を率いて鄴に還った」 と武帝紀で言及されているのは、関中から還って三典を授けられた212年と、濡須から帰還して魏公とされた213年の二度です。事が東曹単体の話ではなく、改制の一環として論じられたのなら、魏国に尚書・侍中・六卿が置かれた213年に絞られます。魏国に人事担当の尚書を置くに当り、職掌のカブる東西曹のどっちを潰そう、って。実際、東曹から尚書に人材がシフトしていますし。因みに、この時の魏国の尚書官は、尚書令荀攸、尚書僕射涼茂、尚書毛玠・崔琰・常林・徐奕・何夔という布陣です。
ただ、魏国が成立した時点で“西曹掾丁儀”との語が桓階伝にはあるので、212年に西曹を廃し、一年未満で復活させたのかもしれません。

初、太祖平柳城、班所獲器物、特以素屏風素馮几賜玠、曰:「君有古人之風、故賜君古人之服。」玠居顯位、常布衣蔬食、撫育孤兄子甚篤、賞賜以振施貧族、家無所餘。遷右軍師。魏國初建、為尚書僕射、復典選舉。時太子未定、而臨甾侯植有寵、玠密諫曰:「近者袁紹以嫡庶不分、覆宗滅國。廢立大事、非所宜聞。」後羣僚會、玠起更衣、太祖目指曰:「此古所謂國之司直、我之周昌也。」

曹操が柳城を平定した当初、獲得した器物を班(くば)り、素屏風・素馮几を特に毛玠に賜り、「君には古人の風がある。だから君には古人の服を賜るのだ」。毛玠は顕位にあっても常に布衣・蔬食し、孤児となった兄の子を撫育すること甚だ篤く、賞賜は貧族に振施して家には余財が無かった。右軍師に遷った。
魏国が初めて建てられると尚書僕射となり、復た選挙を典った[1]

 武帝紀によれば、建国時の尚書僕射は涼茂で、毛玠は尚書です。涼茂はこの後に中尉に転じ、その後任として毛玠が尚書僕射に昇ったのを陳寿が省略したんでしょう。曹操への勧進表や涼茂伝を見ると、涼茂と毛玠はほぼ同格の存在で、しかもかなり曹丕寄りの立場だったようです。

時に太子は未だ定まらず、しかも臨甾侯曹植に寵があった。 毛玠が密かに諫めるには 「近頃では袁紹が嫡庶を分別せずに宗族を覆して国を滅ぼしました。(世子の)廃立は大事であり、(曹植の事を)聞かれるのは妥当ではありません」 後に群僚と会食した時、毛玠が更衣に起つと、曹操は目で指しつつ 「これは古えの所謂る国の司直というもので、私にとっての周昌だ」

 崔琰既死、玠内不ス。後有白玠者:「出見黥面反者、其妻子沒為官奴婢、玠言曰『使天不雨者蓋此也』。」太祖大怒、收玠付獄。大理鍾繇詰玠曰:「自古聖帝明王、罪及妻子。書云:『左不共左、右不共右、予則孥戮女。』司寇之職、男子入于罪隸、女子入于舂稾。漢律、罪人妻子沒為奴婢、黥面。漢法所行黥墨之刑、存於古典。今真奴婢祖先有罪、雖歴百世、猶有黥面供官、一以ェ良民之命、二以宥并罪之辜。此何以負於神明之意、而當致旱? 案典謀、急恆寒若、舒恆燠若、ェ則亢陽、所以為旱。玠之吐言、以為ェ邪、以為急也? 急當陰霖、何以反旱? 成湯聖世、野無生草、周宣令主、旱魃為虐。亢旱以來、積三十年、歸咎黥面、為相値不? 衞人伐邢、師興而雨、罪惡無徴、何以應天? 玠譏謗之言、流於下民、不ス之聲、上聞聖聽。玠之吐言、勢不獨語、時見黥面、凡為幾人? 黥面奴婢、所識知邪? 何縁得見、對之歎言? 時以語誰? 見答云何? 以何日月? 於何處所? 事已發露、不得隱欺、具以状對。」
玠曰:「臣聞蕭生縊死、困於石顯;賈子放外、讒在絳・灌;白起賜劍於杜郵;晁錯致誅於東市;伍員絶命於呉都:斯數子者、或妒其前、或害其後。臣垂齠執簡、累勤取官、職在機近、人事所竄。屬臣以私、無勢不絶、語臣以寃、無細不理。人情淫利、為法所禁、法禁于利、勢能害之。青蠅生、為臣作謗、謗臣之人、勢不在他。昔王叔陳生爭正王廷、宣子平理。命舉其契、是非有宜、曲直有所、春秋嘉焉、是以書之。臣不言此、無有時・人。説臣此言、必有徴要。乞蒙宣子之辨、而求王叔之對。若臣以曲聞、即刑之日、方之安駟之贈;賜劍之來、比之重賞之惠。謹以状對。」時桓階・和洽進言救玠。玠遂免黜、卒于家。太祖賜棺器錢帛、拜子機郎中。

 崔琰が死んだ事を毛玠は内心で不悦(不快)だった。後に毛玠の事を白(もう)す者があり、「(毛玠が)外出して黥面されて返された者を見た際、その妻子は官奴婢として収没されており、毛玠が言うには“天が雨を降らせないのは恐らくこの為であろう”と」 曹操は大いに怒り、毛玠を収捕して獄に付した。大理鍾繇が毛玠を詰問するには
「古えの聖帝明王より、罪は妻子に及ぶもの。『書経』でも“(陪乗する)左が左を共にせず、右が右を共にしなければ、予は汝の孥(子)を刑戮しよう”と云っている。司寇の職は、男子を罪隸に入れ、女子を舂稾に入れるもの。漢律では罪人の妻子を収没して奴婢とし、黥面する。漢法が行なう黥墨の刑は古典にもある。今、まことに奴婢の祖先に罪があれば、百世を歴しても猶お黥面して官に供するものだ。一には良民の命をェ(すく)い、二には併罪の辜(つみ)を宥す為だ。何を理由に神明の意に負(そむ)き、旱を致した事になるのだ?
典籍を調べて謀るに、(政治が)急(きび)しければ恒に寒く、舒(ゆる)ければ恒に燠(あつ)いもの。ェければ陽気が亢(のぼ)り、旱となる理由だ。毛玠の吐言は何をェとし、何を急とするものか? 急しければ陰霖(長雨)となるのに、どうしてかえって旱となる? 成湯の聖世に野に生草は無く、周宣は令主(明主)だったが、旱魃が虐を為した。旱が亢って以来三十年を積んだ。黥面に咎を帰すのが該当すると思うか? 衛人が(誅罰の為に)邢を伐つ時、師を興すと(旱天に)雨が降った。(邢の)罪悪には徴候が無かったのに、天は何に応じたのだ?
毛玠の譏謗の言葉は下民に流れ、その声は聖聴にも上聞している。毛玠の吐言は状況として独り言ではない。黥面を見た時、凡そ幾人いた? 黥面の奴婢は識知している者か? どんな因縁があって会う事ができ、相対して歎じたのか? そのとき誰と語った? 何と云って答えられた? 月日はいつか? 場所は何処か? 事は已に発露し、隠し欺く事はできない。具さに状況を対えよ」
玠曰:
「臣聞く。蕭生が縊死したのは石顕に困(くる)しみ、賈子が放逐されたのは絳侯灌嬰の讒言によると。白起は杜郵で(自殺用の)剣を賜り、晁錯は東市で誅され、伍員は呉都で絶命したと。これらの数人はそれ以前に妒(ねた)まれ、その後に害された者です。臣は垂齠(垂髫/幼少)より書簡を扱い、累勤によって官となり、職務は枢機に近く、人事を竄(ぬす)んできました。臣に私親を嘱託する者が絶える事は無く、臣に冤罪を語れば詳細を審理せずにはおれません。人の情として利欲に淫する事を法は禁じていますが、法が利欲を禁じても往々にして害されるものです。青蠅が横行して臣を誹謗しており、臣を誹謗する人は状況からして他に在りません。
昔、王叔陳生が王廷で正しきを争い、(范)宣子が事を平理した時、契(証拠の書きつけ)を挙げさせて是非・曲直を論じ[※]、『春秋』はこれを嘉して書き記したのです。臣が言わないのは時・人とも無いからです。説かれている臣の言葉にはきっと徴(しるし)がありましょう。宣子の弁護を蒙って王叔の対応を求めたいものです。もし臣の過ちを聞けば、刑に即く日もまさに安駟の贈与だと思い、賜剣が来ても重賞の恵みだと致しましょう。謹んで対えるものです」

※ 王叔陳生は周の卿士。伯輿と権を争って出奔した後、仲裁を委ねられた晋の范宣子に訴状の証拠となるものを提出できず、結局晋に亡命した

時に桓階和洽が進言して毛玠を救った。毛玠はかくて免黜され、家で卒した[2]。曹操は棺・器・銭・帛を賜い、子の毛機を郎中に拝した。

 陳寿の書き方と毛玠の返答から推察できるのは、崔琰と共通の相手に讒言され、それが人事絡みだったらしいという事です。「徐奕伝を読んでもらった上で、種明かしは何夔伝で」 という、陳寿には珍しい手法が採られています。
崔琰が殺されたのは216年以降で、毛玠の罷免は更にその後となり、鍾繇は216年秋に大理から離れているので、ともに216年の事となります。

[1] 玠雅亮公正、在官清恪。其典選挙、抜貞実、斥華偽、進遜行、抑阿党。諸宰官治民功績不著而私財豊足者、皆免黜停廃、久不選用。于時四海翕然、莫不励行。至乃長吏還者、垢面羸衣、常乗柴車。軍吏入府、朝服徒行。人擬壺飧之求A家象濯纓之操、貴者無穢欲之累、賤者絶姦貨之求、吏鋸ー上、俗移乎下、民到于今称之。 (『先賢行状』)

 美辞麗句ばかりなのでスルー。

[2] 孫盛曰く、魏武帝はこれによって政刑を失った。『易』は 「明らかに庶獄を折(さだ)める」 と称し、伝(『論語』)には 「直を挙げ枉を措く」 とある。庶獄が明らかなら国に怨民は無く、枉直が妥当なら民に服従しない者は無い。未だ青蠅の浮声を徴とし、信浸潤する譖訴を信じ、そうして四海をよく治め、清輝の世をを紡いだ者はいない。昔、漢高祖は蕭何を投獄したが、出して復た相とし、毛玠は一責によって永く擯放(排斥)された。二主の度量はどうしてこうも異なっているのか!
 

徐奕

 徐奕字季才、東莞人也。避難江東、孫策禮命之。奕改姓名、微服還本郡。太祖為司空、辟為掾屬、從西征馬超。超破、軍還。時關中新服、未甚安、留奕為丞相長史、鎮撫西京、西京稱其威信。轉為雍州刺史、復還為東曹屬。丁儀等見寵於時、並害之、而奕終不為動。出為魏郡太守。太祖征孫權、徙為留府長史、謂奕曰:「君之忠亮、古人不過也、然微太嚴。昔西門豹佩韋以自緩、夫能以柔弱制剛彊者、望之於君也。今使君統留事、孤無復還顧之憂也。」魏國既建、為尚書、復典選舉、遷尚書令。

 徐奕、字は季才。東莞の人である。江東に難を避け、孫策が礼によって辟命したが、徐奕は姓名を改め、微服して本郡に還った。曹操は司空になると辟して掾属とした。馬超への西征に従い、馬超を破って軍は還ったが、時に関中は新たに服したばかりで未だ甚だ安定せず、徐奕を留めて丞相長史とし、西京を鎮撫させた処、西京はその威信を称えた。転じて雍州刺史となり、復た還って東曹属となった。丁儀らが当時は寵され、揃って(人事を)侵害したが、徐奕を終に動かす事ができなかった[1]。(そのため)転出して魏郡太守とされた。
曹操は孫権を征伐する際、徙して留府長史とし、徐奕に謂うには 「君の忠亮は古人でも及ばぬが、微(いささ)か太(はなは)だ厳しい。昔、西門豹は(自戒として)韋(なめし革)を佩びて自らを緩めた。そも柔弱によって剛彊者を制する事こそ君に望む事だ。今、君に留事を統べさせ、孤には復た還顧の憂いは無い」
魏国が建つと尚書となり、復た選挙の事を典った。尚書令に遷った。

 曹操が関中遠征から帰還したのは211年暮れ。征孫権に出発したのが翌年十月。この一年未満の間に徐奕は夏侯淵と共に長安に鎮守し、次いで雍州刺史に転じ、入府して東曹属となり、丁儀らとの因縁が生じた模様です。

 太祖征漢中、魏諷等謀反、中尉楊俊左遷。太祖歎曰:「諷所以敢生亂心、以吾爪牙之臣無遏姦防謀者故也。安得如諸葛豐者、使代俊乎!」桓階曰:「徐奕其人也。」太祖乃以奕為中尉、手令曰:「昔楚有子玉、文公為之側席而坐;汲黯在朝、淮南為之折謀。詩稱『邦之司直』、君之謂與!」在職數月、疾篤乞退、拜諫議大夫、卒。

 曹操が漢中に遠征した時、魏諷らが謀反した為、中尉楊俊を左遷した。曹操は歎じて 「魏諷が敢えて乱心を生じたのは、吾が爪牙の臣に姦事を遏(さえぎ)り謀りごとを防ぐ者がいなかったからだ。どうすれば諸葛豊[※1]の如き者を得て楊俊に代えられようか!」 桓階 「徐奕がその人です」 曹操はかくして徐奕を中尉とし、手書にて辞令し 「昔、楚には子玉があり、文公はそのため側席して坐した[※2]汲黯が朝廷に在り、淮南はそのため謀りごとを折(くじ)いた。『詩』では“邦の司直”と称えているが、君の事であろうか!」 在職数月にして疾が篤くなって退官を乞い、諫議大夫に拝され、卒した[2]

※1 諸葛豊 云わずと知れた諸葛瑾・諸葛亮らの祖宗とされる人です。経書への通暁と剛直によって知られ、初めは御史畑を進み、元帝によって司隷校尉に抜擢され、貴顕や寵臣の関係者でも構わず検挙した。そのため政敵を増やして排斥され、司隷校尉は節を取り上げられ、自身は布衣として歿した。司隷校尉が節を帯びなくなった原因を語る他は、元帝が佞倖を信任して人材を遠ざけた証例の一人にすぎず、特筆するような事績は遺していません。
※2 側席は喪中にある者の儀礼で、自分だけに席を設けて賓客を断っている事を示すもの。子玉の存在がそれほど晋文公にとって脅威だった事を示しています。

[1] 或る者が徐奕に謂うには 「史魚の硬直と蘧伯玉の(応変の)智は孰れが秀でるか? 丁儀は今や貴種として重んじられている。下に付く事を思った方が宜しい」 徐奕 「曹公は明聖であり、丁儀がどうして久しくその偽りを行なっていられようか! しかも姦によって君に事える者を私は禦ぐ事ができる。子は寧ろ他事によって私を規律するべきだ」 (『魏書』)
―― 武皇帝は至明の人である。崔琰・徐奕は一時の清賢であり、皆な忠信は魏朝で顕著だった。(それでも)丁儀が間隙を為すと、徐奕は位を失い、崔琰は誅された。 (『傅子』)
[2] 文帝は朝臣と会同する毎に、未だ嘗て徐奕の為人りを思って嗟歎しない事は無かった。徐奕には子は無く、詔してその族子の徐統を郎とし、徐奕の後を奉じさせた。 (『魏書』)

 「曹丕が忠直の士を好むのはこの通りだった」 みたいな解釈でもいいんですが、東曹での丁儀との確執を考えると、曹丕が支持者を追慕したと思えなくもありません。

 


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