春秋時代.2

        

 
 

  (姜)

 〜B381
 姜姓呂氏。初代の姜子牙は姜族の首長と推定され、文王・武王の同盟者として克殷に大功があり、斉の営丘(臨淄)に封建された。 当時の営丘一帯は塩地が多く、東夷の雑居する“東僻の痩土”だったが、春秋時代に入る頃には強国の1つに発展していた。 B7世紀、桓公が最初の方伯として公認されたが、その死後の相続争いで中原の覇権を晋に握られ、復権を図って楚と結んで晋に対抗することもしばしばだった。 国内では非公族の大夫に実権が移って公室は没落し、陳の亡命公族の裔の田氏に簒奪された。

釐公  〜B731〜B698
諱は禄父。荘公の嗣子。鄭・魯と結んで宋・衛に対抗し、B706年に北狄に攻められた際には鄭の援軍に救われた。 東方諸国の盟主でもあり、荘公死後の鄭の内紛に介入する国力を有した。最晩年には同母弟の遺児の公孫無知を偏愛し、太子と同等に待遇した。

襄公  〜B698〜B686
 諱は諸児。釐公の子。近隣都邑の征服と直接支配を進めて斉の雄飛の基礎を固めたが、魯侯に嫁した実妹の文姜との密通を抗議されると、公子彭生に桓公を殺させて彭生を処刑するなど、礼に外れた独善的な手法は多くの政敵を作り、辺防兵の不満を煽動した従弟の公孫無知に宮中で殺された。
襄公と文姜といい、魯の慶父と密通した哀姜といい、どんな兄妹なんだ…。 魯に厄介ドコロを押付けたって印象もありますが。襄公の弟君の桓公が晩年に女性問題でミソ付けたのも納得です。

公孫無知  〜B686〜B685
 荘公の孫。釐公に同母弟/夷仲年の遺児として鍾愛され、そのため太子の諸児(襄公)に憎まれ、襄公が即位すると待遇を貶されて怨恚した。 B686年、再三の辺防任期の延長を恨む連称・管至父と結んで宮中で襄公を弑したが、翌年には雍林で旧恨に暗殺され、斉の政情はおおいに混乱した。

桓公  〜B685〜B643
 諱は小白。襄公の弟。襄公が横死すると母国の莒に亡命し、公孫無知が殺されると魯の異母兄の糾と帰国を競って管仲に襲撃されたが、戦死を装って糾に先んじて帰国して斉君に即き、糾を大破して魯に殺させた。
 傅役の鮑叔の進言で、糾の傅役だった管仲を宰相に迎えて国政を一任し、富国強兵に成功した後は外事に転じて諸国の内紛を治め、燕から戎狄を逐い、衛を再興し、B656年には召陵の盟で楚の北侵を抑制した。 B651年には葵丘の盟を主宰して周王から正式に方伯とされたが、以後は驕慢となって封禅すら図り、管仲の死後は佞人・小人を重用し、死後に五公子による相続争いが内戦に発展して遺骸は2ヶ月間放置された。
  
召陵の盟(B656):楚が初めて中原諸侯と行なった会盟。桓公は一時帰国させた蔡妃が再嫁したことに立腹して諸侯と共に蔡を伐ったが、この私戦を奇貨とした管仲の勧めで汝水を越え、楚成王の求めに応じて召陵(河南省漯河市区)に退いて会盟を行なった。
楚を諸侯と認めることで、周室への貢納など中原諸侯としての規範を承諾させたものとして高く評価された。 桓公は同時に昭王不帰のことを問責したが、これは成王に一蹴された。
  
葵丘の盟(B651):斉の桓公が葵丘(河南省蘭考)で中原諸侯と行なった会盟で、周室に尊王攘夷を宣誓して方伯とされた。 同年秋にも同地で開催され、その時には魯・晋なども加わったが、晋献公は桓公の驕慢を周の卿士から伝えられて参列せずに帰国した。

管仲  〜B645 ▲
 諱は夷吾。仲は字。公孫無知の乱で襄公の公子糾を奉じて魯に逃れ、公孫無知が横死すると莒から帰国する公子小白(桓公)を襲撃して失敗したが、斉に送還されると鮑叔の仲介で宰相とされた。 以後、殖産興業・商業振興とともに戸籍を整備して斉を富強に導き、桓公を方伯とすることに成功して“仲父”と尊称され、晩年には周室の乱を鎮めて戎狄を撃退し、襄王より下卿に叙された。
 無名の折には鮑叔をしばしば欺いたが、事情を知る鮑叔は交誼を易えず、管仲をして「我を生んだのは父母だが、我を知る者は鮑叔に如かず」と云わしめ、その親交は“管鮑の交”として後世まで伝えられた。 私生活は豪奢でありながら、公正だったために怨嗟は起らなかったという。 管仲は法家に数えられ、「倉稟満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」に集約されるその思想は『管子』にまとめられているという。

孝公  〜B642〜B633
 諱は昭。桓公の太子。宋の襄公に後見されたが、桓公が歿して公子無詭が自立すると宋に逃れ、翌年、宋の支援で無詭を粛清して即位した。

昭公  〜B633〜B613
 諱は潘。桓公の庶子。兄の孝公が歿すると太子を殺して斉君に即き、晋の文公に通誼して践土の盟にも連なったが、狄の侵入に苦しんだ。

懿公  〜B613〜B609
 諱は商人。桓公の庶子。かねて人士と交わって昭公の太子舎より輿望が高く、兄の昭公が歿すると新君の舎を殺して斉君となった。 旧勢への回帰を図って魯・曹を侵したが、馭者の丙戎と陪乗の庸職に暗殺された。

恵公  〜B609〜B599
 諱は元。桓公の庶子。斉君を弑した弟の商人(懿公)に譲られると固辞して衛に逃れ、懿公が殺されると国人に迎立された。 恵公の下で斉は稍く安定し、魯の宣公を支援して東面の指導力も回復させつつあったが、一連の擾乱で国力・威信とも大きく損ない、晋の覇権を甘受した。

頃公  〜B599〜B582
 諱は無野。恵公の嗣子。桓公の孫。国威の低下した晋を侮って晋の正使の郤克の不具を嘲笑し、楚との密通を晋に知られると魯の変節を詰って出兵し、鞍の役を惹起した。 晋に惨敗して謝罪したところ、郤克から“殞名の礼(捕虜君主に対する礼)”で遇されたが、甘受して国益を守り、以後は遊苑の開放や賦税の軽減、孤寡や貧窮者への振恤など国力の涵養に尽力し、斉の再興を果たした。
 
鞍の役(B589):晋と斉の戦。邲の役で楚に大敗した晋に対し、斉は覇権回復を志向して楚とも密通し、これが露見すると魯への誅伐を名とし、晋の機先を制して出兵した。 かねて斉の頃公の無礼を恨んでいた晋の執政の先克は、魯の救援を名として邲の役を凌ぐ戦車800乗を発し、魯・衛と与に斉軍を大破して斉の復権を封じた。

霊公  〜B582〜B554
 諱は環。頃公の子。君権強化のために公卿族の国・高氏を粛清し、楚に密通してしばしば魯を侵したが、B555年に晋に討たれると戦場から逃散して大敗をもたらし、臨淄を囲まれた後もしばしば脱出を図り、太子光の強諫と楚の救援で難を免れた。 翌年、太子光を廃して少子牙を立てたが、まもなく不予となると近臣の崔杼が光を迎え(荘公)、霊公の死とともに牙も殺された。

荘公  〜B554〜B548
 諱は光。夙に父/霊公の名代として会盟や征伐に加わり、晋に臨淄が攻囲されると霊公の遁走を強諫した。 翌年に霊公が愛児の牙を立てる為に太子を廃されたが、霊公が不予となると権臣の崔杼に迎えられ、霊公が歿すると牙を殺した。 崔杼を執政としたが、晋を逐われた欒盈の支援や朝歌攻略を強行し、又た崔杼の妻に淫通したために崔杼の邸で殺された。 豪奢と勇武を好んで諫言を嫌い、欒盈の庇護を諫めた晏嬰を遠ざけた一方で、荘公に養われた多くの壮士が荘公に殉じて戦死した。
 狩猟中に馬車に対して斧を振るう蟷螂を無双の勇者に喩え、車を避けさせた寓話は、“蟷螂の斧”の起源となった。

崔杼  〜B546
 恵公の寵臣で、恵公が歿すると国・高氏に逐われて衛に逃れたが、霊公より大夫とされて寵任された。 霊公が歿すると荘公を迎立し、執政して荘公を輔けたが、欒盈の支援を諫めて聴かれず、妻女に淫通されたこともあってB548年に自邸で荘公を殺して景公を立てた。 このとき「崔杼弑君」と記した太史を殺し、同様に記したその弟も殺したが、太史の末弟がまた記したことで断念した。 右相として大夫の慶封とともに政を専断したが、諸子の争いの仲介を依頼した慶封に一家を滅ぼされて自殺した。慶封の出奔後、屍体は街に晒された。

慶封  〜B538 ▲
 慶克の子。霊公より大夫とされて崔杼を輔け、景公擁立後に左相とされた。 崔家の内紛に乗じて鏖殺し、崔杼の自殺によって大権を掌握したが、B545年に子の慶舎との反目に乗じた田・鮑・高・欒氏に逐われ、呉で朱方に封じられて巨富を築いた。後に楚の霊王に捕われて殺されたが、刑に臨んで霊王の旧悪を暴いた。

景公  〜B548〜B490
 諱は杵臼。荘公の異母弟。荘公を殺した崔杼によって立てられた。 斉は君側の新興大夫と公族の政争によって安定を欠き、就位直後に晋より朝歌の役に報復されたが、晏嬰司馬穰苴を任用し、慶封の追放後は弭兵の和もあって政局が安定した。
 晏嬰の輔佐によって国威を保ち、B532年には田・鮑氏を援けて公族の欒・高氏を逐って君権を強化したが、素より奢侈安逸を好み、晏嬰に市場の動向を訊ねて「刖刑徒の靴が高い」と刑罰の濫用を諷諫されるようなことがしばしばあった。 晩年はの内訌に介入し、又た末子の荼を太子としたことで死後の内紛を醸成した。

晏嬰  〜B500
 字は仲。晏子。斉の士族。社稷の臣を自認して国家と君主を峻別し、荘公の死では殉死も崔杼への合力も否定し、田・鮑氏と高・欒氏の内戦でも中立を保ち、景公に召されて初めて入殿したが、声望が高かったために殺されなかった。
 景公に宰相とされ、礼制の秩序と国体を重んじて斉の安定を実現した手腕は、管仲と並称されて孔子からも高く評価され、後に晏嬰に仮託して『晏子春秋』も著されたが、否定的な俗説も多く遺されている。
 子の晏圉は、景公の死後の紛争で田乞に敗れて魯に亡命した。
有力な三勇士を滅ぼすために二桃を争わせて自滅させ、或いは夾谷の盟で魯定公を侮辱して孔子に窘められた俗説が有名ですが、前者は荘公の時代を思わせますし、後者の夾谷の盟は晏嬰の最晩年にあたり、発案者は景公側近の犂錯です。 孔子を評価しない晏嬰にムカついた儒家の曲筆とも思えます。

司馬穰苴
 田完の裔。B548年、晋・燕軍に伐たれた景公より、晏嬰の薦挙で将軍とされた。 違期した監軍を「将、軍に在っては君令も受けざる有り」と刑して軍律を徹底させ、晋・燕軍を追撃して失地を悉く回復した。 大司馬に直されて司馬氏を称したが、田氏の一門として鮑氏・高氏・国氏に誣され、景公にも疎まれて病死した。 司馬穰苴の軍律と兵法は、後に威王に重んじられて『司馬法』が編纂された。

晏孺子  〜B490〜B489
 諱は荼。景公の末子。景公の最晩年に太子とされると、諸公子が放逐されて高氏・国氏に後見されたが、翌年には公子陽生(悼公)を奉じる田乞・鮑牧に廃弑された。

田乞
 諡号は釐子。田無宇の子。陳完の裔。 景公に大夫とされ、徴賦には小斗を、施恤には大斗を用いて人心を収攬し、晏嬰を憂慮させた。 晋の内戦では景公に范・中行氏の支援を勧めて衛とも結んだ。 B490年に景公が歿すると魯から悼公を密かに迎え、鮑牧ら諸大夫と結んで国・高氏を伐ち、晏孺子を廃弑して悼公を立て、宰相とされた。

鮑牧
 斉の大夫。景公の死後、田乞と結んで高氏・国氏を放逐したが、田乞が強行する公子陽生(悼公)の擁立を批判して悼公に疎まれた。
『左氏春秋』では謀叛の嫌疑でB487年に殺されていますが、『史記』では呉の北上に直面すると悼公を弑して呉に釈明する一方で、簡公を擁立して海上の呉軍を撃退し、艾陵の役の後に来訪した伍子胥に子息を託されています。

悼公  〜B489〜B485
 諱は陽生。景公の子。末弟のが太子に立てられると諸公子とともに放逐されて魯に逃れたが、翌年に国氏・高氏を放逐した田乞鮑牧に迎立された。 に伐魯の援軍を求めながら翌年には一方的に断ったために出兵され、釈明の為に国人に弑された。

簡公  〜B485〜B481
 諱は壬。父の悼公が殺されて立てられ、悼公問責に北上した呉軍を海上で撃退したが、翌年には艾陵で大破された。 父の近臣だった闞止を寵任して田恒に対抗し、B481年に闞止を滅ぼした田恒に舒(河北省大城)で弑された。

田恒
 諡号は成子。漢では文帝に避諱して田常と記された。田乞の子。 簡公に支援された闞止と権を争い、B481年に挙兵して闞止を滅ぼすと簡公を舒に遷して弑し、簡公の弟の平公を立てて宰相となった。
 公族や有力氏族を滅ぼす一方で魯・衛に城邑を返還するなど諸国と和し、斉の東半を悉く封邑として諸侯としての実質を具えた。 “恩愛の源泉”と称して簡公に賞賜の権を残し、“怨恨の源泉”と称して刑罰の権を得たことで権勢を高めたとされる。
『史記』仲尼弟子列伝によれば、他氏の兵力を削ぐために呉に与した報復と称して魯に出兵したところ、子貢から「弱魯を討つより強呉を討てば、勝てば功となり、負けても将を罰せる」と勧められて呉の出兵を待ち、呉が北上すると軍を南下させて艾陵の役になったとあります。 これより斉では田氏と闞氏の対立が先鋭化し、子貢の思惑通り魯はしばらく斉の外圧から解放されただけでなく、呉の滅亡と越の覇権まで招来したとして司馬遷から絶賛されました。
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艾陵の役(B484):呉と斉の戦。斉は悼公が伐魯の約を一方的に破棄したことで呉王夫差に伐たれ、邗溝の開鑿を伴うB485年の北討は撃退したものの、翌年の北討には兵車800乗を動員しながらも艾陵(山東省泰安)で大破された。

康公  〜B406〜B381
 諱は貸。宣公の子。平公の孫。B393年、宰相の田和によって海浜に遷されて1邑を食邑とし、B388年には田和が諸侯に列した。 死後は無嗣によって廃された。

 

 〜B286
 子姓。殷の紂王の庶兄/微子啓践奄の役の後に商丘(河南省)に封じられ、遺民の半ばを治めたもの。斉の抬頭以前は強国として鄭・衛に伍し、商業の発達によって文化も隆盛していた。 斉桓公の晩年にも往時の余光があったが、襄公が楚に大破されたことで凋落し、以後も晋楚の和睦を仲介するなど外交力は有したものの、殷の余裔としてしばしば嘲りの対象にもされ、その遺痕は「守株」「宋襄の仁」などの成語・諺言に遺されている。
 宋には山林藪沢として名高い孟諸があり、その潜在力は斉一国に匹敵するとまで称された。 戦国時代に孟諸の開発を進めたは称王して諸国の脅威となり、そのため諸国連合軍によって滅ぼされたが、滅亡後も孟諸の帰趨は容易に決しなかった。

宣公  〜B748〜B729
 諱は力。武公の嗣子。殷制を重んじ、死に臨んで兄弟相続を公義として、子の与夷(殤公)を措いて弟の和(穆公)を継嗣とした。

殤公  〜B720〜B710
 諱は与夷。宣公の子。穆公の甥。宣公を嗣いだ穆公に継嗣とされたが、輿望に乏しく、B719年にと結んでを伐った後は鄭の侵攻が続いて国人に憎まれ、大夫の華督に弑された。

荘公  〜B710〜B692
 諱は馮。穆公の子。夙に輿望があり、与夷(殤公)への譲位を図る父の穆公に鄭に出されたが、殤公を弑した大夫の華督に迎立された。 B701年に来訪した鄭の祭仲を脅して公子突()を立てさせ、斉・衛にも支持されたが、放逐された詞の復辟には失敗した。

華督  〜B681
 華父督とも。戴公の孫。軍事の繁劇を糾弾して殤公と大司馬孔父嘉を殺し、鄭から公子馮(荘公)を迎立したが、孔父嘉の妻女を奪う口実だと称された。 大宰とされて鄭との親善を進め、斉・魯・陳にも通誼して宋を安定させた。閔公を弑した南宮万に殺された。

南宮万  〜B682
 宋の大夫。剛力で知られた。B684年に魯の乗丘を攻めた際に一時捕虜とされ、B682年にこれを侮辱した閔公を殺し、さらに華督をも殺して公子游を立てた。亳に逃れた閔公の弟の禦説に敗れて陳に逃れ、游が殺されて禦説(桓公)が立てられると陳から送還されて誅された。

襄公  〜B651〜B637
 諱は茲父。桓公の子。荘公の孫。桓公の死後、庶兄の目夷に譲位を諮り、拒まれると宰相とした。 斉桓公に太子昭の後見を託され、桓公死後の斉の内乱を鎮めて昭(孝公)を即位させ、これより方伯を自認してB639年に盂に会盟を開いたが、楚に破られた。翌年にも違盟を理由に鄭を撃ったものの泓水(商丘市柘城)で楚に大敗し、この時の戦傷が原因で歿した。
 目夷の諫言の多くを聴かず、泓水の役でも楚軍の布陣が整うまで兵を動かさず、その理想論は“宋襄の仁”として後世まで揶揄されているが、来奔した重耳を敗戦の直後にもかかわらず歓待したことは、晋による庇護をもたらした。
高名な学者先生の中には、襄公の理想主義を“実利主義に傾く春秋時代の一服の清涼剤”などと評価している方もいらっしゃるそうです。随分と御目出度い方のようです。

昭公  〜B620〜B611
 諱は杵臼。襄公の孫。父の成公の死に乗じた公子禦(成公の弟)の乱が鎮圧されて立てられた。 公族の穆・襄氏の放逐を図って国人に伐たれ、諸卿の仲介で鎮静化したが、恣行が多く輿望を失い、王姫(襄公夫人)に首邑を逐われて敗死した。 出奔に際して亡命を勧められると「祖母や国人に逐われた者を容れる国はあるまい」と拒み、財貨を近臣に悉く分与して逃亡させた。

文公  〜B611〜B589
 諱は鮑革。昭公の弟。華元の薦挙で右師となった後は仁慈に徹して内外の信望を集め、昭公を敗死させた王姫(襄公夫人)に擁立された。 B609年に公族の武・穆・昭氏の謀叛を鎮定・追放して国内を安定させたが、の攻勢に苦しみ、殊にB595年には楚使を捕えたことで首邑を攻囲され、晋の援軍が至らずに講和し、心労から程なく病死した。

華元
 華督の曾孫。文公に重用され、B595年に首邑が楚軍に攻囲されて越年すると、城中の窮乏を自ら荘王に直訴して講和を許された。 楚の子重と晋の欒書との親交を活かしてB579年に両国の和平に成功したが、B575年には鄭を巡っての晋楚の交戦で破綻した。 嘗て(B607)楚の指嗾で来攻した鄭に捕われたことがあったが、これは戦前の饗応に漏れた馭者が車を鄭軍に突入させた為で、又た文公の葬儀を豪奢に営んで識者に顰蹙されもした。
 B576年に共公が歿して右師とされたが、司馬唐山の乱を平定すると左師の魚石をも楚に逐って平公を立てた。

向戌
 宋の大夫。右師の華元が平公を立てると左師とされ、華元の死後に華氏に内訌が起こると、華臣の放逐を唱える平公を宥めて不問とし、又た太子痤の楚との通謀の嫌疑を支持して自殺させたが、後に冤であることが判明した。 趙の正卿の趙盾と楚の令尹の屈建と親しいことから、両者を周旋してB546年に弭兵の会を成功させ、諸国の和平を実現した。
  
弭兵の会:B546年、宋の右師向戌の主導で諸国の和平が承認された会盟。 長期の和平が実現した半面、晋楚両国への貢納を認めたことで諸国の負担が増し、又た長期の和平は晋の諸卿の対立と楚の呉に対する警戒が主因とされ、会盟自体の拘束力は低かったと考えられて後世の評価は高くない。 尚お、列席した諸侯国の代表はいずれも卿大夫で、当時の諸国の実権の所在を如実に示している。

元公  〜B532〜B517
 諱は佐。平公の子。宦官の柳を鍾愛し、又た卿族の華・向氏を厭ってB522年には両氏の造叛を惹起し、晋・楚の介入でB520年に鎮定した。公族でもある華・向族は壊滅的に勢力を損い、楽氏が抬頭した。

景公  〜B517〜B454?
 諱は頭曼。元公の子。謀叛の嫌疑で追放した右師の楽大心を支援すると対立し、来攻した曹軍を撃退してB487年に曹を滅ぼした。天文に宋の災禍が顕れた際、司星官が禍を宰相や人民や歳に移すよう勧めたのを悉く聴かず、仁君であると賞讃された。
 尚お、滅曹の6年後に斉の田恒が簡公を弑し、その翌年には楚がを滅ぼした。
件の天文現象は「煢惑、心に宿る(火星がアンタレスと接近)」という、「煢惑入南斗」と並ぶ、中国史では大災厄の前兆として有名な現象です。単純計算で約15年に一度発生。超有名どころでは始皇帝や漢高祖の死亡と重なっています。

昭公  〜B454?〜B408?
 諱は特。景公に殺された公孫糾の子。元公の曾孫。景公が歿すると挙兵し、太子を攻殺して自立した。

康王  〜B332〜B286
 諱は偃。兄の剔成から簒奪した。国内の大沢を開発して宋の国力を飛躍的に高め、B322年に称王した。 斉・楚・魏を破り、魯を圧して諸国の脅威となったが、かねて宋の併合を図っていた斉の主導する諸国連合軍によって滅ぼされた。
 その暴政から“桀宋”とも称され、人血を容れた革袋を射撃の的にして「天を射る」と称したなど不遜の振舞いが多かったとされるが、これは殷で行なわれた太陽祭祀の一変形ではないかとも云われる。

 

 〜B478
 嬀姓。武王が帝舜の末裔とされる満を宛丘(河南省淮陽)に封じたことに始まる。 十二諸侯国に数えられたが、春秋時代には楚の属国同様となり、B598年に夏徴舒の乱に介入した荘王に一旦滅ぼされ、さらにB534年に哀公が内乱で自殺すると霊王に併合された。 5年後には再興されたが、B478年、白公の乱を鎮めた余勢を駆る恵王によって滅ぼされた。

  〜B707〜B700
 諱は佗。先君桓公の弟。母は蔡の公女。桓公が歿すると蔡人を煽動して太子を殺して自立し、桓王を援けて繻葛で鄭に大敗した。蔡の公女を娶り、蔡で遊蕩して蔡妃の姦淫を咎めず、弟の躍(利公)・林(宣公)・杵臼(詞)に殺された。

宣公  〜B693〜B648
 諱は杵臼。詞の弟。672年に、寵妃の子の款を立てるために太子禦寇を殺した。 B656年、の伐蔡に加わって楚に進み、帰師への供資を嫌って袁濤塗の勧めで東夷への示威を桓公に奨め、不実として伐たれた。

穆公  〜B648〜B632
 諱は款。宣公の嗣子。はじめはに与したが、泓水の役の後に楚の子玉に伐たれて楚に属し、B632年に共に城濮で晋に敗れた。

田完
 号は敬仲。詞の子。 宣公の太子禦寇と親しく、禦寇が殺されると斉に亡命して桓公に庇護され、封邑を以て田氏を称した。

霊公  〜B614〜B598
 共公の子。穆公の孫。共公の喪に弔意がなかったことを恨んで楚から晋に転じ、これより楚・晋にしばしば伐たれるようになった。 大夫の夏御叔の死後、孔寧・儀行父とともに寡婦となった夏姫に淫通したが、その事を揶揄して夏徴舒に弑された。

夏姫
 鄭繆公の娘。陳の大夫の夏御叔に嫁して夏徴舒を産んだが、霊公らの淫通を拒まなかったために夏徴舒の叛乱を惹起し、鎮圧された後は楚に連行された。 楚では荘王と子反が求めたが、いずれも夏姫を不祥とする巫臣の諫止で断念し、下賜された連尹の襄老が翌年の邲の役で戦死した後は、襄老の子の黒要と通じた。
 邲の役で捕虜となった王子穀臣と襄老の遺骸と、楚が捕虜とした智罃との交換の為に巫臣の勧めで鄭に帰国し、鄭で巫臣を迎えて共に晋に亡命した。

夏徴舒  〜B598 ▲
 大夫夏御叔と夏姫の子。宣公の曾孫。父の死後、霊公と大夫の孔寧・儀行父が夏姫との密通を隠さずに夏氏の邸で侮辱したため、霊公を殺して自立した。 楚に亡命した孔寧・儀行父の求めで荘王に討滅され、陳は一旦は直轄の県とされたが、間もなく晋に亡命していた公子午(成公)が迎立された。

哀公  〜B569〜B534
 諱は弱。成公の嗣子。親楚派の慶虎・慶寅と諸公子の反目が内乱に発展し、楚によって鎮定されたが、翌年(B549)に楚に従った伐鄭の道中での狼藉が無道で、鄭の子展子産に首邑を陥され、謝罪して赦された。危篤になると悼太子を殺した諸公子に宮室を包囲されて自殺し、鎮乱を名とする楚に滅ぼされた。
  ▼
 平陳を指揮した王子棄疾(平王)が楚を簒奪すると、諸侯に対する配慮から、晋に亡命していた公孫呉(恵公/悼太子の子)が迎立された。

懐公  〜B506〜B502
 諱は柳。恵公の嗣子。呉による伐楚への従軍を拒み、B504年に呉に招かれて勾留され、呉で客死した。

  〜B502〜B478
 諱は越。懐公の子。B494年に柏挙の役に報復する楚に従って随・許と共に蔡を攻囲したが、これよりしばしば呉に伐たれた。 艾陵の役の後に楚に背いて呉に入朝し、白公勝の乱に乗じて楚を侵した為に滅ぼされた。

 

 〜B473
 伝承では、古公亶父の長子/太伯、次子/仲雍を祖とし、そのため『史記』世家では第一に記され、仲雍の裔が王位を継承したとされる。 中原諸国や楚とは人種・文化を異にし、地理的にも遠隔地だった為に未開の蛮族とされていたが、良渚文化の遺風から冶金術が発達し、高い潜在力があった。
 B6世紀の寿夢の代に楚の牽制を図る晋の軍事援助を得て強盛となり、姑蘇(蘇州市区)を首邑とし、闔閭の代に伍子胥孫武らを任用して楚都郢を占領するに至った。 この頃より楚の援助で抬頭したとの抗争が激化し、闔閭の嗣子の夫差は越の属国化に成功すると北方経略に転じ、艾陵で斉を大破してB482年には黄池(河南省杞県?)に達したが、連年の外征で国力が疲弊していたところへ越が侵攻し、B473年に滅ぼされた。
 呉越の抗争を記した書として『呉越春秋』『越絶書』などがあるが、いずれも史書とは見做されない。

寿夢  〜B561
 晋の巫臣に戦車戦術を教授されてより強盛となり、隣接する親楚勢力を攻略して称王し、中原諸侯の会盟にも連なるようになった。

諸樊  〜B561〜B548
 寿夢の嫡嗣子。舒(安徽省舒城)の帰属を楚と争って敗れ、巣(安徽省巣湖)攻略で負傷して歿した。 嘗て中原の礼制に通じた末弟の季札への譲位を諮って固辞されたため、兄弟相続を遺言して歿した。

余昧  〜B544〜B527
 諸樊の弟。兄の余祭が越人の奴僕に殺されて即位した。B538年に楚に朱方を陥されて慶封が殺されたが、概ねは楚軍を撃退し、楚は鐘離(安徽省鳳陽)・巣・州来(安徽省鳳台)に城壁を築いて呉に備えた。B529年に徐攻略から帰る楚軍を豫章で殲滅し、ついで州来を攻陥した。

  〜B527〜B515
 余昧の子。季叔の季札が即位を拒んだために立てられた。従兄の(諸樊の子)を任用して外事に積極的で、B521年に宋の内乱に介入し、B519年の州来奪還には失敗したものの来援した楚軍を撃退し、B518年には平王の東巡に応じて巣・鐘離(安徽省鳳陽)を攻陥した。 B515年、平王の喪に乗じて子の掩余・燭庸に潜(安徽省霍山)を伐たせ、季札には中原の諸侯を聘問させた。
 夙に光の不満を察して常に警戒し、光に招宴されると警固を厳重にして邸内も衛兵で満たしたが、専諸に刺殺された。
『左氏伝』では寿夢の子、『公羊伝』では季札の庶兄となっています。

季札
 寿夢の末子。中原の礼制に通じて夙に継嗣に擬されていたが、父の死後に継承を峻拒し、そのため長兄の諸樊は兄弟相続を遺言したものの、末兄の余昧の死後も従わず、王位を襲いだ甥の僚から延陵(江蘇省武進)に封じられた。
 王位を拒むごとに評価は高まり、使者として諸国を歴訪して中原にまでその名は著聞し、殊に鄭の子産との交誼は“一見にして旧知の如く”と後世まで絶賛された。 余昧の代の歴訪の途上で徐君が佩剣を欲していることを察したが、儀杖用である為に気付かぬ態を装って後日の献上を期し、帰途に徐君の死を知って墓前に供えた逸話は殊に知られる。
 B515年に諸樊の子の光が弑簒すると僚の死を嘆いたが、光を非難はせずに即位を認めた。

闔閭  〜B515〜B496
 諱は光。闔盧とも。諸樊の嫡子。寿夢の嫡孫でありながら王位を襲げなかった事を不服とし、B515年に王の二王子が出征先で退路を断たれたことに乗じて僚を暗殺して即位し、首邑の姑蘇を城邑化した。 伍子胥・伯嚭・孫武ら他国出身者を幕僚とし、国力を充実させてB508年には巣を陥し、蔡・唐が通誼したB506年に大挙して楚の郢都を攻陥して深甚な被害を与えたが、秦の来援と越の侵攻、弟の夫概の叛乱が重なって翌年には帰国した。
 叛乱の鎮圧と越の撃退後は伍子胥の進言で越の討滅を最優先としたが、B496年に越王交替に乗じて侵攻して檇李(浙江省嘉興)で勾践大敗し、戦傷が原因でまもなく歿した。
  
柏挙の役(B506):呉軍が楚の主力を粉砕した戦。 楚への大挙侵攻を決した呉王闔閭は伍子胥・孫武を左右の将軍とし、蔡・唐を従え、先行する孫武が陽動に徹して楚軍を奔命に疲れさせ、その後に主力が淮河から進んで柏挙(湖北省麻城)で楚の主力と対陣した。 子常の中軍に対する夫概の急襲が奏功して呉軍3万は楚軍20万を大破し、10日間で5戦5勝して郢都を陥落させ、楚昭王は火牛を呉軍に放って雲夢に遁れた。

伍子胥  〜B485
 楚の人。諱は員。太子建の傅の父/伍奢費無忌の讒言で平王に殺されると出奔し、が鄭で誅された後は王孫のを伴い、B520年に入呉して王子に信任された。 専諸・孫武らを推挙して光の簒奪を成功させ、以後は筆頭謀臣として国力増強に腐心し、B506年に楚の転覆を達成して、郢都で平王の屍骸を鞭打って雪辱した。
 闔閭の死後は夫差の即位を輔けたが、越の討滅を至上として、中原進出を志向する夫差と対立し、又た剛直で君威を憚らない強諫や伯嚭の讒言で厭われ、後に憎まれて賜死された。 死に臨んで「我が墓に梓を植えて夫差の棺材とせよ。己が眼を城門に掲げて呉の滅亡を見せよ」と遺言し、激怒した夫差は鴟夷(酒用の革袋)に死体を入れて江に棄てさせ、これを憐れんだ呉人が祠を建てたことが胥山の由来になったとされる。 一説では、艾陵の役の直後に斉に使して子を鮑氏に託し、これを叛意の証拠とされて属鏤の剣を下賜されたともいう。
人々が競って死体を引き揚げたことが竜舟競争となり、供物の粽が竜神に奪われないために香草(笹や蘆)で包むよう託宣したなど、屈原にも同じ説話があります。又た胥山の比定地については蘇州市区説、杭州市区説、浙江省嘉興説があります。

孫武
 斉の人。伍子胥の推挙で闔閭に仕え、呉の富国強兵に大きく貢献して楚の覆滅を成功させたが、以後の事跡は不明。 政戦両略に通じ、法家・兵家の事実上の始祖といえる。 初めて闔閭に謁した際、女官の調練を命じられると命令に従わない寵姫二人を斬って軍紀の重要さを示した逸話が人口に膾炙しているが、これは後人の創作とする見解が有力となっている。 将軍として楚の与国を伐ち、B506年の伐楚では一軍を率いて楚軍の主力を誘導して奔命に疲れさせ、柏挙の役を有利に進めたが、以後の事績は殆ど伝わらない。
 著書『孫子』は、内政・外交を重視して非戦の勝利を重んじた至上の兵書として、後世武人の必読書とされた。

夫差  〜B496〜B473
 闔閭の次子。伍子胥の薦めで太子とされ、即位後は“臥薪”して内政・軍備を整え、B494年に越を大破して会稽山に越王勾践を包囲したが、臣従を条件に助命した。 以後は中原進出を国是として伍子胥と対立したが、楚・魯を伐ち、長江と淮河を結ぶ邗溝を開鑿し、B484年には艾陵の役で斉を大破した。
 B482年の黄池の盟では晋と並立したが、連年の大事業は国力を疲弊させ、黄池の盟に乗じた越の侵攻に敗れた後は連年の入冦に苦しみ、B478年に笠沢で大敗し、B473年に夫椒山に包囲されて自殺した。 この時、勾践による助命を謝絶し、「伍子胥に会わせる顔がない」と顔を覆って自刎した。
  
黄池の盟(B482):河南省開封付近での晋・呉と諸侯の会盟。艾陵の役の後、夫差は覇権を求めて中原に積極的に進出し、黄池で晋をはじめ諸侯と会盟した。 会盟では晋定公と盟主を争ったが、越に姑蘇を攻囲されて急遽帰国し、越と講和したものの、以後の越の攻勢を支えられずにB473年に滅ぼされた。
黄池の盟主は、『春秋左氏伝』や『史記』呉世家では晋、晋世家・秦本紀では呉とされています。 呉世家と晋世家が相手を立てているのが奇異な感じです。 より窮迫している呉が譲ったとか、呉の暴発を懼れた晋が譲ったとかありますが、執牛耳と先盟者を別にしたとの折衷解釈もあります。

伯嚭  〜B473
 伯州犂の孫。B541年に祖父と父が楚霊王に殺されて呉に亡命し、伍子胥とともに闔閭を輔けて楚を大破した。 夫差が立つと太宰とされたが、討越では贈賄されて勾践の助命を勧め、夫差の北進策を支持してしばしば伍子胥を誣した。 姑蘇が陥落すると不忠として殺されたが、『左氏伝』では太宰として越に仕えたとされている。

 

 〜B334/B280?
 姒姓。后帝少康の裔を称し、会稽(紹興市区)に拠って浙江地方一帯を支配した。 呉同様に良渚文化圏にあって冶金術が発達し、また海上交易によって経済的にも豊かだったらしい。
 B6世紀末の允常の代に楚の支援で強盛となって呉と争い、嗣子の勾践はB473年に呉を滅ぼし、徐に会盟を主宰して方伯とされた。 勾践の死後は衰退したとされるが、魏で編纂された『竹書紀年』で越王の動向が確認できることから、中原に対して一定の影響力を維持していたことも考えられる。
 末王の無彊が楚に敗死したB4世紀前期に滅んだとされるが、斉の庇護下に琅邪に存続して江淮地方を楚と争い、済西の役に乗じた楚による琅邪陥落まで続いたらしく、春申君の淮北経営は占領地政策と見做される。
 無彊の敗死後も越人の多くは閩浙に留まって楚に服し、各地で支族を形成して“百越”と称され、秦の統一に服した東甌・閩越は後に東越を構成し、南下した集団は秦末に南粤国を樹立した。

勾践  〜B496〜B467
 鳩践とも。父王の允常の死に乗じて来攻した呉王闔閭を檇李(浙江省嘉興)で敗死させたが、B494年に呉を攻めて夫差に惨敗し、呉の属国となることで赦された。 以後は夫差の下僕を称し、謀臣の范蠡を人質とする一方で文種に内政を委任し、“嘗胆”しつつ国力を涵養した。
 范蠡の帰国後は軍備も進め、B482年に黄池の盟に乗じて呉都を陥して太子を殺し、以後しばしば呉に侵攻してB473年に滅ぼし、ついで北上して徐の盟で方伯とされた。 滅呉の後は猜疑心が強くなって范蠡の出奔と文種の賜死をもたらし、復興著しい楚に対して淮南を保つことが困難となり、『史記』では「淮南を楚に与え、呉の侵した地を宋・魯に還した」と記される。
 当時の呉越の冶金術は諸国に冠絶していたようで、欧冶子・干将などの名工は中原にも知られ、祭器だけでなく、夫差や勾践らにまつわる武具も多数発見されています。殊に湖北省江陵の望山から出土した“越王鳩践”銘の銅剣は、未だに十数枚の新聞紙を切断できるそうです。

范蠡
 勾践の謀臣。中国史を通じて屈指の傑物とされる。越の軍事・外交を一任されて富国強兵につとめ、奇策を用いて檇李で闔閭を敗死させたが、勾践の逸戦を制止できずに“会稽の恥”を招来し、呉への臣従を以て勾践を助命させた。 自らも呉に人質となり、伯嚭を通じて夫差と伍子胥を反目させ、あるいは美女西施を献上して呉に大事業を強いたと伝えられ、帰国後は軍備強化と調略を並行させてB473年には呉の討滅に成功した。
 滅呉まもなくに「越王の相は長頸烏喙。労苦は共にできても栄華は共にできない」と斉に亡命し、商業で巨富を得て宰相に迎えられたが、家財を処分して陶(山東)に移住し、朱公と称して再び巨万の富を積んだ。このとき西施も伴ったとする伝承もある。 陶朱公は牧畜で財を成した猗頓とともに、古代の大富豪の代名詞とされた。

文種
 種、大夫種とも。范蠡・計倪と並ぶ勾践の謀臣で、主に内政を担当したとされるが、詳細は不明。 滅呉の後、范蠡の勧めを聴かず越に留まったが、病と称して出仕せず、讒言によって賜死された。 討呉七策のうち勾践は三策を用いて呉を滅ぼし、四策を先王允常の為に用いるよう命じられたという。 范蠡が文種に亡命を勧めた手紙の中に、「蜚鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗煮らる」という一節があり、人口に膾炙した。


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