▽ 補注:春秋戦国/人物

春秋  戦国
 

春秋時代

允常  〜B496
 越王。呉王闔閭の西征に乗じて呉を伐ち、これより呉とは仇敵となった。

轅濤塗
 陳の公族。B656年の召陵の盟の帰途に帰師への供資を嫌い、鄭の申侯にも諮って東夷への示威を桓公に奨めたが、申侯に背かれて不実として縛され、宣公の謝罪で赦された。
 後の東漢末、寿春に拠る袁術が轅濤塗を祖として陳との関係を説き、僭称の正当化を図った。

申侯  〜B653 ▲
 楚文王の寵愛を恃んで貪欲で、文王が歿すると鄭に出奔してにも寵愛された。 召陵の盟の帰途、陳の轅濤塗に背いて斉桓公に東夷経由の帰路を諫め、鄭邑の虎牢が褒賞とされたが、翌年の首止の盟で袁濤塗に勧められて虎牢を城塞化し、叛意を誣されて罰された。鄭が楚に通じて斉に伐たれると、謝罪のために殺された。

華向の乱  B522〜B520
 宋の公卿族の内乱。宋の六卿は右師・左師・司馬・司徒・司城・司寇の序列となっていたが(魚石追放の後は左師が筆頭になっていたと思われる)、当時、上位四卿を公族の華・向氏が占め、左師の華亥、右師の向寧、司徒の華定が元公に叛き、元公の要請で動いた司馬の華費遂も当初は中立を保っていた。 これに両家の家督問題が絡み、華費遂の子の華登は早期に華亥に与していたが、その弟の華多僚は元公に側近して弟の華貙放逐に血道を上げ、又た向寧の弟の宜・鄭が元公に与した。
 一度は互いに太子・世子を質子に出して和したが、鄭に奔った公孫忌・公子城・向宜・向鄭・楽舎・楽彊らが華氏に敗れると元公は司馬の華費遂に与力を求めて人質を殺し、両氏は陳に奔った後に人質を返還し、華費遂の子の華登は呉に奔った。 翌年、華多僚が華貙を讒言して華費遂にも追放に同意させたが、華貙は華多僚を殺して華亥・向寧らを呼び戻して合流し、又た華登が呉兵を率いて帰国したが、これは進駐していた斉軍に破られた。晋・楚のの介入も始まり、翌年に華亥・向寧・華定・華貙・華登らの楚への亡命が認められた。
 戦後、六卿から華・向氏は一掃され、右師・司城・司寇には楽氏が連なった。 尚お、華亥の兄の華合比は前任の左師だったが、B536年に宦官の柳の讒言で追放され、衛に亡命した。
同じ氏が入り乱れると状況を把握するだけで一苦労です。向寧は向戌の嗣子です。 華合比はおそらく多分、華臣に侮られた華皐比と同一だと思います。氏族同士の勢力争いがスッパリした結果になったので採り上げてみました。 因みに、楚の廃太子は亡命から三ヶ月で遭乱し、公子城らと共に鄭に遁れました。

華臣
 華元の次子。兄の華閭の死後、宗家の嗣子の華皐比を侮ってB556年に家令の華呉を殺した。 国体を重んじる向戌の進言で不問とされたが、程なく国人に逐われて陳に亡命した。

解揚
 晋の霍の人。B595年に宋が楚の荘王に攻囲されると、翌年に篭城を鼓舞する使者として宋に送られ、楚軍に捕われた。 援軍の無いことを伝えることを条件に助命されたが、城下では援軍のあることを宣言し、荘王からは忠勇を嘉されて赦され、帰国後は上卿として遇された。

釐負羈
 曹の人。晋を逐われた公子重耳が入国した際、共公に礼遇することを勧めたが聴かれず、密かに玉璧を忍ばせた料理を贈ったところ、玉璧は受け取られなかった(玉璧は曹君からの賜物:釐負羈の好意は受けても曹は赦さない暗喩)。 晋君に就いた重耳が曹を討った際、釐負羈の一族への危害は厳禁された。

屈瑕
 熊通の子。屈氏の祖。莫敖に任じられ、屈邑に封じられたことで氏とした。 しばしば外征を成功させたが、漢水流域の羅国(湖北省宜城?)攻略において、敵を軽んじて敗死した。

屈建  〜B545
 字は子木。父が歿して莫敖を嗣ぎ、B550年に陳哀公と共に慶氏の乱を平定し、B548年に令尹に進んだ。 当時の楚の与国は晋よりも少なかったが、弭兵の会では小国の晋楚両国への朝貢を認めさせ、楚の国際的地位を向上させた。 又た盟に臨んで軽鎧装を伯州犂に詰られると、利だけが目的であると今会盟の本質を明言した。

慶虎・慶寅  〜B550
 陳の人。B566年、哀公の参盟中に楚に包囲されると公子寅(哀公の弟)を人質に出し、哀公には楚による寅擁立を吹聴して離盟させた。 B553年に公子黄(哀公の弟)の晋との内通を楚に誣して出奔させたが、B550年に哀公が楚に入朝して黄の訟冤が認められると首邑に拠って叛き、哀公と楚軍に討たれて国人に殺された。

慶克  〜B574
 斉の人。霊公の生母の声孟子と淫通し、鮑牽国佐に咎められて蟄居したが、声孟子を通じて高氏・鮑氏・国氏を誣し、鮑牽は刖され、高無咎は放逐された。伐鄭から帰国した国佐に殺された。

  〜B522
 羋子木。平王の子。平王が即位すると太子とされ、伍奢・費無忌が傅となったが、費無忌の讒言と平王の側室が王子(昭王)を産んだことでB522年に廃嫡され、暗殺を遁れて宋に出奔した。 宋の内乱を避けて亡命した鄭で厚遇されたが、晋に内応を約したことが露見して殺された。

伍奢  〜B522 ▲
 伍挙の裔。 B529年に平王が即位すると太子建の傅とされたが、B522年に費無忌の讒言で建の謀首として殺された。

伍挙  ▲
 楚の人。即位してから逸楽に耽る荘王を諷諫して信任され、執政とされた。

高子彊
 斉の公族。高子尾の子。 B534年に高子尾が歿すると欒子旗に統制され、一時は抗戦を準備したが、田無宇の仲介で和した。 B532年に田無宇・鮑国に伐たれ、景公の確保に失敗して大破され、欒子旗とともに魯に亡命した。

高子尾  〜B534 ▲
 公孫蠆とも。公子高の子。頃公の孫。 B545年に田須無・欒子雅・鮑国らと宗廟の祭祀に乗じて慶氏を滅ぼし、慶封を出奔させた。 B542年に荘公の近臣だった閭丘嬰を殺し、併せて諸公子を放逐した。

公輸盤
 諱は班。魯昭公の子。楚に仕えて攻城用の雲梯を開発したが、王の御前の模擬戦で悉く墨子に防がれ、楚王は宋攻略を断念した。種々の工具や兵器を開発し、建築にも独創を凝らした為、後世では建築や大工の祖と認識された。

孔叔圉
 蒯聵の姉婿。衛の太宰(執政)に進んだ。 孔子から「敏にして好学。(戦の)問いを恥じず」と評され、蒯聵にも憚られた。 死後の混乱に乗じて蒯聵が潜入し、嗣子の孔悝は脅されて即位を支持したが、翌年には放逐されて宋に亡命した。

国佐  〜B574
 斉の人。鞍の役の後に晋への使者となり、郤克を宥諭して晋との和議を成立させた。 しばしば斉君の名代として征伐や会盟に連なり、B574年には諸侯と鄭を伐ったが、帰国すると慶克を殺して穀で造叛し、討平された。

子玉  〜B632
 楚の人。成得臣。B637年に陳を大破し、子文に譲られて令尹となった。 駻気強情で知られ、成王の重耳厚遇に批判的で、B632年の宋攻略中に晋軍が南下すると、成王の撤退に従わずに城濮で大敗して自殺した。

子文  〜B607? ▲
 闘伯比の子。闘穀於菟。野合の子として棄てられ、名は虎(於菟)が乳(穀)で養ったことに由来する。 B664年に子元が鎮定されて令尹とされ、私財を投じて王室を扶けたことで成王から登朝の毎に干肉一束と乾飯一籠を下賜され、令尹に対する楚の恒例となった。
 夙に甥の闘椒の強駻を憂え、臨終に際しては闘椒が執政したら亡命するよう一族に遺言した。

闘伯比  ▲
 楚君若敖の子。武王を輔けた。

若敖  〜B764 ▲
 諱は儀。熊咢の子。若の地に葬られた。

訾敖  〜B529/B529
 諱は比。霊王の弟。B541年に霊王が簒奪すると、弟の子ルとともに晋に亡命した。 B529年に弟の棄疾の求めで蔡に入り、楚の反霊王派とも結んで郢を陥して即位したが、程なく霊王の還御と大軍の到来が喧伝され、畏れて子ルとともに自殺した。

子元  〜B664
 諱は善。熊貲の弟。令尹。熊貲の死後は兄嫁の息嬀を誘惑し、B664年に王宮に乱入して闘氏に討平された。

息嬀  ▲
 陳の公女。はじめ息侯に嫁し、宗族の嫁した蔡国で哀侯の非礼に遭い、蔡は息侯に使嗾された楚に伐たれたが、擒われた哀侯は息嬀の美貌を吹聴して熊貲に息を滅ぼさせた。息嬀は熊貲の夫人とされて柏・ツを産んだが、二夫に仕えた事を愧じて殆ど口を利かなかったという。 熊貲の死後は義弟の子元に再婚を求められ、子元の乱を惹起した。

子常
 楚の人。B519年に令尹となり、B516年に平王が歿すると太子(昭王)の年少を理由に子西を推したが、子西の峻拒で断念した。 郤宛を枉陥した費無忌を誅して人心を安んじたが、生来貪欲で、蔡侯と唐侯に珍宝を求めて断られると3年間抑留し、後に進呈されて解放したものの両国を呉に結ばせた。 B506年に呉軍が侵入すると功に逸って独走して大破され、柏挙でも惨敗して鄭に出奔した。

郤宛  〜B515 ▲
 左尹。誠実かつ温和で輿望があり、費無忌に妬まれて子常に誣され、自殺した。

子西  〜B479
 諱は甲。平王の庶長子。平王が歿すると太子(昭王)の年少を危ぶむ令尹の子常に即位を勧められたが、峻拒して昭王が立てられた。B506年に昭王が郢から逃亡すると昭王の所在を偽装した後に扈従し、還都の後に令尹とされた。 B504年に弟の子期が呉攻略に失敗したことを機に鄀(湖北省宜城)に遷都し、孔子の登用を諫めた。
 陳から退く軍中で重篤となった昭王の譲位を拒み、昭王の死後に弟の子期・子閭に諮って王子章(恵王)を擁立した。 王孫の帰国を認めて居巣に封じたが、後に造叛した勝に朝廷で殺された。

子期  〜B479 ▲
 諱は結。子西の弟。昭王の兄。 昭王に大力を愛されて扈従し、随では昭王の身代りとなって捕えられたが、随人が占いで翻意した為に死を免れた。 軍中で重篤となった昭王からの譲位を拒み、弟の子閭が指名されたが、昭王が歿すると子西・子閭と諮って公子章(恵王)を擁立した。
 B479年の白公勝の造叛では、大木を引き抜いて敵を殺して戦死した。

子反  〜B575
 楚の人。諱は側。邲の役には右軍の将として従い、B594年の伐宋では華元を荘王に仲介し、楚宋の和を実現させた。 荘王が陳を滅ぼした後、巫臣の諫止で夏姫を娶ることを諦め、その為、巫臣が夏姫を伴って晋に亡命すると、その一族や襄老の家を滅ぼし、巫臣の指導による呉の抬頭をもたらした。
 鄢陵の役では中軍の将とされたが、緒戦で敗れた恭王が召集した軍議に泥酔して加われず、撤退の途上で令尹の子重に責められて自殺した。


子孔  〜B554
 諱は嘉。繆公の子、子駟の弟。外交をめぐって親楚派の子駟と対立し、子駟を鎮圧して執政となった。 夙に鄭の多頭体制に批判的で、一度は独裁を断念したが、後に楚に通じて簒奪を謀り、楚軍が撃退された後に露見して誅された。

子皮
 諱は虎。子皮は字。父の子展が歿して執政を嗣いだが、翌年には子産に譲ってその執政を輔けた。

子展  〜B544 ▲
 諱は舎之。七繆の罕氏。子罕の子。親晋派ではあったが、往時の威勢を回復しながらも楚との対決を避ける晋に不満で、晋楚両国による攻伐の後に晋の積極的な擁護が得られるとして、浮揺外交を苦肉の国策として勧め、B555年にようやく晋と強く盟した。 B554年に子孔を誅して摂政とされた。

子罕  ▲
 諱は喜。繆公の子。七繆の罕氏。 成公が歿して釐公が立てられると執政とされたが、実権は宰相の子駟にあり、軍事は司馬の子国が担当した。

子良
 諱は去疾。繆公の子。七繆の良氏。夙に声望があり、霊公が殺されると継嗣に擬されたが、長幼を以て兄の堅(襄公)を推した。 賢臣として定評があり、襄公の繆氏放逐を諫めたが、外交においては晋・楚への両属を肯定した。B554年に子孔の謀叛に連坐して楚に出奔した。

叔嚮
 晋の人。羊舌肸。封邑を以て楊肸とも記される。 博学多識で知られて平公の傅となり、節義と徳を重んじて諸卿に多く諮問され、国外からも畏敬された。

叔段
 鄭荘公の弟。共叔段とも。生母の武姜に偏愛され、大邑の京に封じられて太叔と号し、諸邑を支配して国中国の観を呈した。 B722年に武姜の内応もあって挙兵したが、荘公に敗れて共(河南省輝県)に出奔し、B719年にもと結んで鄭を伐った。

申生  〜B655
 晋献公の長子。はじめ太子に立てられていたが、献公が後妻に迎えた驪姫に子が生まれると疎んじられ、夷狄討伐の将にされるなどしばしば排斥が謀られた。後に献公を毒殺しようとしたとの嫌疑を受けると曲沃に奔ったが、弁明をすれば老齢の父は愛妾を殺さねばならず、亡命すれば父の非道を喧伝する事になるとして自殺した。

石碏
 衛の上卿。かねて荘公が庶出の州吁を偏愛している事を憂え、州吁の立太子か排斥を迫った事もあった。荘公の死後、州吁が簒奪すると、陳を仲介に周に通誼する事を勧めたが、一方で陳には州吁殺害を依頼し、このとき州吁と親しかった実子をも殺させ、“大義滅親”と世人から賞賛された。

専諸  〜B515
 呉の堂邑の人。入呉した伍子胥に胆勇を認められ、その推挙で公子光から賓客として厚遇された。B515年、王僚が光の邸での招宴に応じると、給仕に変装して焼魚の中に忍ばせた匕首で、衛兵に環視された中で王を刺殺した。 専諸も直ちに殺されたが、光が即位するとその子は上卿として待遇された。

孫良夫  〜B584?
 武公の裔。衛の正卿として穆公・定公の庶政を総覧し、穆公の末年(B589)に魯を援けて斉に敗れると魯と共に晋に求援し、で共に斉軍を大破した。

孫林父  ▲
 孫文子。孫良父の子。B584年、驕横を定公に憎まれて晋に出奔し、B577年に郤犨の仲介で帰国が許されたが、傲慢を更めずに献公にも憎まれた。 献公に招かれながらも違約されたことを憤り、又た献公に叛意を揶揄されたこともあり、諸公子を殺して抗意を顕かにし、献公は斉に出奔した。 擁立した殤公(定公の弟)は晋・魯・宋・鄭にも認められたが、B547年にィ喜との政争に敗れて戚を以て晋に帰し、しばしば衛に出兵した。

ィ喜  〜B546 ▲
 孫林父とともに殤公を立てたィ殖の子。孫林父と権を争い、孫氏を滅ぼして孫林父を出奔させると殤公を弑して献公を復辟させたが、専権を厭われて翌年には殺された。

趙献子  ▲
 〜B408 諱は浣。献侯。代成君の子。趙襄子の従孫。世子を退いた兄を徳とする趙襄子によって趙の継嗣とされたが、襄子が歿するとその子の桓子に逐われた。同年、桓子が歿すると国人によって桓子の嗣子が殺され、更めて擁立された。
『史記』には偶然桓子が病死したっぽくありますが、復辟の経緯からして、献子の逆襲が成功したと見るべきでしょう。

趙周  ▲
 代成君。趙鞅の旧の世子/伯魯の子。兄を追思する趙襄子により代君に封じられた。 襄子に先んじて歿し、遺児の浣が趙の継嗣とされた。

田無宇
 田須無の子。諡号は桓子。剛力を荘公に愛された。高子尾の死後に欒子旗高子彊を和解させたが、B532年には密告を奇貨として鮑国と結んで両家を伐ち、欒子旗と高子彊は魯に亡命した。 両家の家財を悉く景公に奉じて莒に隠棲し、両氏に逐われた諸公子を召還して邑を分与したため、景公に嘉されて高唐(山東省禹城)が加えられた。

田須無  ▲
 田完の曾孫。諡号は文子。 欒盈を庇護した荘公を晏嬰とともに諫めて疎まれた。 B545年に欒子雅・高子尾・鮑国らと結んで慶氏を滅ぼしたが、予め子の田無宇を慶封の狩猟に同行させて還路を毀ち、又た景公に造叛ではないことを釈明した。

杜敖  〜B675〜B672
 諱は柏。堵敖・荘敖とも。熊貲の嗣子。 母は息嬀。弟のの殺害を図って失敗し、随に出奔したツに敗死した。

唐山  〜B576
 蕩沢とも。桓公の玄孫。 共公の末年には司馬の任にあり、共公が歿すると公子肥を殺して自立を図ったが、華元に討平されて桓氏は駆逐された。

魚石  ▲
 目夷の孫。宋の左師。唐山の乱では出奔を図る華元を引きとめて収拾を任せたが、唐山が討滅された為に愧じて楚に亡命した。 B573年に楚が宋の彭城を陥して魚石らを封じたが、翌年に諸侯に伐たれて晋軍に開城した。

目夷  ▲
 字は子魚。桓公の子。襄公の庶兄。桓公の死後、襄公の譲位を固辞して左師とされ、これより左師を世襲した。 襄公の宰相として国内をよく治めたが、覇業を求めて外事に妄執する襄公を制止することができず、B638年には泓水の大敗を招来した。 この時、楚軍の渡渉中の襲撃や、布陣前の攻撃を進言したが聴かれず、襄公は股に重傷を負った。

闘韋亀
 字は彭生。子文の玄孫。B529年に霊王に封邑を奪われた。

曼成然  〜B528 ▲
 字は子旗。闘韋亀の子。 霊王による奪封を怨恚し、同志を糾合して東辺で叛き、蔡公棄疾(平王)とも結んで郢都を陥した。 ついで霊王の反攻を喧伝して訾敖を自殺させ、平王が即位すると令尹とされたが、驕恣が国人の叛意につながることを懼れる平王に誅された。 擁立の功を以て子の闘辛は鄖公とされた。

闘辛  ▲
 曼成然の子。父の旧勲を以て鄖公とされた。 B506年に郢を逐われた昭王が来奔すると弟の闘懐が弑殺を勧めた為、昭王を護って共に随に出奔した。 呉兵が撤退すると功臣として賞され、同時に闘懐も父への孝を認められて赦された。

伯州犂  〜B541
 晋の人。B576年に三郤の讒言で父の伯宗が殺されると楚に亡命し、翌年の鄢陵の役では晋の軍令を解説した。 鄭に備えて郟を守っている時に公子囲(霊王)が簒奪し、与力を拒んで攻殺された。

費無忌  〜B515
 楚の人。B529年に平王が即位すると太子の少傅とされたが、秦に太子妃を迎えた帰途に先行して平王に奪わせ、讒言で太子と伍奢を枉陥した。蔡の太子を廃黜させ、令尹の子常に左尹の郤宛を殺させるなど讒言を多く用い、後難を厭う子常に族滅された。

  〜B650
 晋の大夫。太子申生の廃黜に批判的で、献公の死後は里克とともに奚斉・悼子を殺して夷吾を迎立した。 秦への河西割譲を反故とする使者となって里克に連坐することを免れたが、秦の穆公に恵公の側近を殺すことを勧めて自ら招致の使者となり、入国して殺された。

百里奚
 姓は孟。虞の人。B655年に虞が晋に滅ぼされ、晋と秦の通婚の際に献公の公女の侍臣とされ、逃亡に失敗して楚の宛で捕えられたものの繆公に迎えられ、裘5服で購われたことから五羖大夫と称した。 ついで友人の蹇叔を推挙し、両者の執政によって秦は晋に伍す勢力に発展した。

孟明視  ▲
 百里奚の子。B628年、鄭から内応が打診されると、蹇叔の子の西乞術・白乙丙とともに鄭攻略に発したが、道中で鄭の商人から牛12頭を贈られたことで鄭の備えを察し、晋の与国の滑を滅ぼして回頭した。 帰途の殽で晋に大破されて捕虜となったが、襄公の生母の文嬴の仲介で解放され、以後も共に将軍として遇されて奮起し、B625年に晋を伐って彭衙で敗れても(拝賜の師)問責されず、翌年にも晋を伐ち、黄河を渡った後に船を悉く焼いて王官で晋軍を大破した。

苗賁皇
 闘椒の子。若敖氏が滅ぼされて晋に亡命し、苗に封じられた。 鄢陵の役では、楚兵の多勢と亡命した伯州犂の存在を畏れる晋人に対し、楚の精鋭が中軍のみであることを指摘して左右両翼を伐たせ、恭王の苦戦と撤退をもたらした。

夫概
 闔閭の弟。B506年の柏挙の役では独断で子常の中軍に突して呉軍大勝の契機を為し、入郢後は王子子山から令尹の邸を奪ったが、罰されなかった。 秦軍の介入で闔閭が動けなくなると帰国して称王したが、闔閭に伐たれて楚に亡命し、堂谿に封じられて氏とした。

丙戎
 斉の人。父が狩猟で公子商人(懿公)に勝ったことがあり、懿公が立つと父の屍に刖刑が加えられ、自身は馭者とされた。 B609年に懿公の遊池に随って陪乗の庸職と互いの境遇を嗤い、懿公を殺して逐電した。

庸職  ▲
 妻女を懿公に奪われ、自らは陪乗とされた。丙戎と与に懿公を殺して逐電した。

鮑国
 鮑牽の弟。はじめは宗家を憚って魯に仕えたが、B574年に兄の鮑牽が霊公に刑されると召還されて宗家を襲いだ。 B545年に田須無・欒子雅・高子尾らと結んで慶氏を滅ぼし、B532年には欒氏・高氏の挙兵を誣す密告を奇貨として田無宇と結んで両氏を伐ち、公族勢力を大きく減衰させた。 魯を逐われた陽虎が討伐を求めると、景公を諫めて陽虎を捕えさせた。

鮑牽  ▲
 鮑叔の玄孫。声孟子に淫通する慶克を咎めた為に、誣されて刖刑に処された。

鮑叔  ▲
 斉の人。鮑叔牙。公子小白(桓公)の傅役とされ、公孫無知が殺されて帰国した桓公に管仲の任用を強く勧め、自ら下風に立つことに甘んじた。 小白の政敵の糾の傅役だった管仲とはかねて親交があり、“管鮑の交”と讃えられた生涯不易の親交では、人格者としての鮑叔が強調されている。

由余
 晋の人。晋を逃れて戎に入り、秦に使したときに祭器を示して礼楽と法律の必要性を説く繆公に対し、規矩による統制こそが乱の根源であるとして戎の質朴の徳治を称揚し、繆公を畏怖させた。 そのため秦の調略で戎君が酒色に耽ると秦に迎えられ、伐戎の策を献じて繆公を西戎の伯とした。

養由基
 夙に弓の名手として知られ、鄢陵の役では七襲の鎧を貫通させて絶賛され、恭王の眼を射た魏リを一矢で射殺した。

欒子旗
 諱は施。欒子雅の子。B534年に高子尾が歿すると高氏の家宰を殺し、併せて高氏に与する頃公の諸子を放逐して高氏の混乱を制し、田無宇の仲介で高子彊と和した。 B532年に田無宇・鮑国に伐たれ、景公の確保に失敗して大破され、高子彊とともに魯に亡命した。

欒子雅  〜B539 ▲
 公子欒の子。頃公の孫。 B545年に田須無・高子尾・鮑国らと結んで慶氏を滅ぼし、諸公子の放逐にも与した。

里克  〜B650
 晋の大夫。献公が歿すると継嗣の奚斉を攻殺し、ついで立てられた悼子も殺し、重耳から帰国を拒まれて夷吾(恵公)を迎立した。 夷吾から汾陽の封邑を約束されたが、帰国後は実権を奪われ、二君の殺害を諷詰されて自殺した。


 

戦国時代

 

楽羊
 魏文侯に仕え、中山国征服に加わった功で霊寿(河北省平山)に封じられた。 中山国攻略に際し、質子となっていた子の羹(あつもの)を平然と食して不退転の決意を示したが、後に禽獣の所業と誣されて疎まれたとも伝えられる。
 楽氏は中山国の再興後も霊寿に留まり、中山王に仕えた。

楽間
 楽毅の子。趙に亡命した楽毅が帰国を肯わなかったため、燕恵王より昌国君に封じられ、楽毅の往来も認められた。 王喜が趙の疲弊に乗じて出兵することを諫争したが聴かれず、一族の楽乗が趙に擒われたこともあって趙に亡命した。

楽乗
 燕の人。B251年の伐趙では卿秦とともに下軍の将とされ、廉頗に敗れて擒われたが、武襄君に封じられて燕攻略に従った。 B247年に即位直後の悼襄王が廉頗を更迭すると後任とされ、離背した廉頗に敗れて出奔した。

魏斉
 魏の公子、宰相。遣斉使の須賈の讒言を信じて随員だった范雎を拷詰し、そのため秦に逃れた范雎が宰相となると首を求められ、平原君を頼って出奔した。 平原君が秦に抑留され、趙王が捕吏を動員すると虞卿を頼って共に信陵君に庇護を求めたが、信陵君の逡巡に悲嘆して自刎した。

  〜B315?
 燕王の太子。 執政の子之の簒奪を猜疑して将軍市被と結んで挙兵したが、市被が敗れると国人に背かれ、市被とともに敗死した。
 『史記』では、子之に敗れて背いた市被を滅ぼし、後に斉軍の排除にも成功し、昭王として即位した。

蔡沢
 燕の人。説客となって久しく認められなかったが、范雎に禍福と商君・呉起・大夫種の事を説いて引退を暗喩し、後任に推された。 数月で讒言を機に致仕して剛成君に封じられ、秦王政の代には燕に使者となって太子旦を入質させた。

向寿
 楚の人。宣太后の一族だったことで夙に昭襄王と親しく、犀首・甘茂らと権勢を競った。 甘茂が出奔した後は秦の宰相となって甘茂の帰国を妨げ、韓から武遂を奪って親楚を唱導した。

聶政  〜B398
 韓の軹邑深井里の人。殺人を犯して斉に逃れ、畜屠を生業とした。 宰相の俠累と対立して韓を出奔した厳仲子に親交され、母の死後に厳仲子の依頼に応じて庁内で俠累を刺殺し、自ら面皮を剥ぎ目玉を抉って素性を隠してから自決した。 韓では屍骸を曝して懸賞したところ、姉が韓に入って素性を明かし、屍骸の傍らで自殺した。

任鄙  〜B288
 大力を好んだ武王に重用され、武王の死後も用いられてB294年には漢中の守とされた。

趙括  〜B259
 馬服君趙奢の子。 上党の帰属を巡る長平の攻防で廉頗に代わって主将とされたが、功を焦って攻勢に転じて白起に敗死し、趙兵40万が失われた。 兵法論では父を凌ぎながらも机上の空論のみとして父には認められず、兵の士気に無頓着だったことをも危惧する母は、趙括の敗戦に連坐しないことを予め孝成王に認めさせていたという。

趙章  〜B295
 安陽君。武霊王の長子。 武霊王が孟姚の子を寵愛した為に太子を廃され、B296年に更めて代に封じられて安陽君と号した。 武霊王と恵文王が沙丘に幸した隙に乗じて恵文王を伐って肥義を殺したが、公子成らに妨げられて武霊王に庇護を求め、武霊王の許で歿した。

鄭安平  〜B256
 半死で魏斉の許を遁れた范雎を匿い、秦使の王稽に通じて秦に亡命した。 范雎が秦相になると将軍されたが、趙討伐に失敗して投降し、武陽君とされた。

王稽  〜B254 ▲
 范雎を昭襄王に推挙し、范雎が宰相になると官位を求めて河東太守とされた。 職務に怠慢で刑賞は公正を欠き、17ヶ月を要した邯鄲攻略に失敗すると謀叛を誣され、この時は范雎の弁護で赦されたが、後に諸国に内通して誅された。

田嬰
 威王の末子、或いは末弟。 威王の頃から要路にあって馬陵の役にも加わり、B323年には宰相とされて薛(山東省滕州)に封じられ、靖廓君と号した。斉の発展を支えつつ、楚に対する備えを担った。

田忌
 斉の将軍。B353年の桂陵の役と、B342年の馬陵の役では共に孫臏を軍師として魏軍を大破した。 宰相の騶忌とは不和で、帰国後に騶忌に枉陥されて楚に出奔し、楚王によって江南に封じられた。

蒙驁  〜B241
 斉の人。秦に遷って昭襄王に仕え、上卿に至った。 B249年に韓の成皋・滎陽を陥して三川郡を置き、翌年には王齕とともに趙の37城を抜いて太原郡とした。 信陵君の合従に敗れたものの、以後も三晋を伐ってB243年には魏の酸棗などの20城を陥し、東郡を置いた。

王齕  ▲
 秦の将軍。長平の役では白起の副将とされ、ともに趙軍を大破し、邯鄲攻略の陵が苦戦すると後任とされたが、の援軍に敗れて退いた。

呂礼
 魏冉と不和で、粛清を逃れて斉に出奔し、合従派の周最を逐って宰相とされた。 秦との連衡を図って合従派と対立し、蘇代・孟嘗君に煽動された魏冉が斉を伐ったことで出奔した。

楼緩
 趙の人。武霊王の胡服騎射の支持者で、間もなく秦に送られたが、秦に服してB298年には孟嘗君の後任の宰相とされ、魏冉との政争に敗れてB295年に罷免された。 秦が長平の役に続く邯鄲攻囲に失敗すると、入趙して割地と連衡を進言したが、虞卿の合従策が認められて出奔した。

△ 補注:春秋戦国

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