楚秦

  

 
 

 〜B223
 羋姓熊氏。伝承では、熊繹が成王から子爵として丹陽(河南省析川)に封じられたことに始まるという。 中原とは民族・文化を異にし、久しく荊蛮と蔑称され、周の穆王の伝承でも蛮夷として扱われているが、実際には雲夢文化の伝統を継承して、独自の冶金技術や絹織物・漆工芸などの水準は中原文化を凌ぎ、一時は中国でも珍しい方形の金貨を流通させていた。
 周室の東遷に重なる熊通(武王)の頃から詳細に記録されるようになり、嗣いだ熊貲(文王)の時代にを国都として中原への進出を開始したとされる。
 熊貲の子の成王が初めて中原諸国との正式な国交を始め、荘王の時には黄河に進出して邲に晋軍を大破する国力を有した。 称王以降も散見される敖の号は冒と同様に豪に通じて酋を意味し、支配権の不安定な君主に冠された。 B506年に昭王が呉に郢都を陥されて衰退したが、呉の没落と前後して復興し、秦によって雲夢を失うまでは秦・斉と並ぶ三強と目された。
 呉起の改革が頓挫したことで集権化を進められず、懐王の頃には親秦派と親斉派の対立で迷走し、済西の役と淮北経略に兵力を割いたことでB278年に秦に郢都を陥された。 以後は呉会と淮北の開発を進めてB240年には寿春に遷都したが、B224年に秦に大破されて翌年に滅ぼされた。
 秦と同じく王統が同一の血統に保たれ、これは王族が有力な山林藪沢を独占していたためであるが、その一方で王族に掣肘されて君主権を強化する事ができず、資力を一元化できなかったことが秦との差を決定的にした。

令尹
 楚の独特の官の1つ。尹(官長)を統べる者。宰相と中軍の将を兼ね、晋の正卿にあたる。 一説では殷の祭祀官であり、殷の遺民を吸収した結果、楚でも用いられたという。 左尹と右尹が令尹を輔佐し、内政では左徒(司徒)、司敗(司寇)と続き、軍政では司馬(大司馬)が続き、後に柱国が令尹に亜ぎ、上柱国は令尹と同格だったと考えられる。
 尚お、県令も尹と称され、通常は某‘君’や‘大夫’、王族県尹は某‘公’と呼ばれ、戦国時代に県令に改められた。

莫敖
 楚の官の一つ。敖は王号が行なわれるまでは楚君の称号として多く用いられ、王号が行なわれた後も短命君主に用いられたことから、本来は令尹とは同格の副王的存在だった可能性も考えられる。 儀礼を掌って令尹に亜ぐ格式があり、王族の屈氏が就くことが多かったが、実務重視の時流に伴って次第に地位が低下し、後には司馬を輔佐する左右司馬の下位に置かれた。

熊通  〜B741〜B690
 武王。兄の蚡冒の死後、その嗣子から簒奪した。 漢水流域の制覇を図って随と争い、時にと結んでケを伐ち、羅にも進出したが、随の攻略中に戦死した。後に成王から追諡された。

熊貲  〜B690〜B675
 文王。熊通の嗣子。初めて郢を国都に定めたとされる。 申・息・ケを滅ぼし、蔡・鄭を圧迫するなど楚の国力の抬頭期にあたるが、国内では宗族の闘緡の乱があり、又たと結んだ閻氏の乱に敗れた事で宰相の鬻拳にも叛かれ、帰国を拒まれたまま病死した。

成王  〜B672〜B626
 諱はツ。熊貲の子。実兄の杜敖の粛清を逃れ、亡命先のの支援で杜敖を滅ぼして即位した。 初めて周に遣使した楚君でもあり、召陵の盟で初めて中原諸侯と会同し、後の盂の盟では宋襄公を捕え、さらに翌B638年には泓水で宋軍を大破した。 晋を逐われていた公子重耳を歓待して秦に送り、B633年に北征した際には晋との開戦を避けたが、独走した将軍子玉城濮で惨敗した。
 廃黜を図って太子商臣に弑されたが、その際に事態の変化を待つために熊掌料理を求めたという。
中原諸国との国交の成立から、漢字文化の摂取と利用が想像されます。 成王の時代から記録も詳細になり、そういった意味では初めて王号を採用した可能性が高く、武王文王については追尊だと思われます。 もしそうなら、斉桓公の南征は称王に対する懲罰が目的だったのかもしれません。

穆王  〜B626〜B614
 諱は商臣。成王の嗣子。 廃黜に反抗して成王を弑して即位し、その為か蜂眼・豺音の典型的な刻薄子だと形容される。又た当時の楚は、伝統的に少子を太子にしていたとの発言が見られる。
 江・六・蓼・夔を滅ぼし、鄭・陳を伐って服属させた。

荘王  〜B614〜B591
 諱は侶。穆王の嗣子。即位するや、諫臣の処刑を宣言して遊蕩に耽ったが、3年目に諷諫した伍挙と直諫した蘇従らを挙任して人事を刷新し、離叛した諸小国を伐って国力を充実させ、中原進出を再開した。 陳を伐ち、を大破し、を援けて晋を却け、B606年には伊河流域の陸渾戎を伐って洛陽に達し、この時に周室に鼎の軽重を尋ねたとされる。
 帰国直後に王族若敖氏の叛乱を鎮め、B598年に陳の内乱に介入して征服し、翌年には鄭の帰属を争って邲で晋軍を大破し、晋を圧倒する国力を示して中原諸国に畏怖された。 B595年にも宋を伐ち、華元の請和を認めて帰国した。
  
の役(B597):邲(河南省滎陽)での楚と晋の会戦。 晋君は景公、楚君は荘王。 B597年、荘王は盟に背いて晋と和した鄭を自ら伐って包囲し、晋の対応が遅れた為に鄭は援軍の到着前に開城した。 晋軍では和戦両派が対立し、先穀の突出によって黄河を渡った後も方針を定められずに講和使が楚に宣戦し、避戦を模索していた荘王もこれを受けて晋軍を急襲して大破し、中原に対して優位を確立した。

闘椒  〜B605
 令尹の子文の甥。伯賁とも。子文が歿して司馬とされ、令尹の闘般(子文の子)が殺されて任を嗣いだ。 集権化を進める荘王の闘氏削勢を憎んでB605年に一族を率いて造叛し、荘王に王族の質子を諮らせる勢いがあったが、一戦で討平されて族滅された。

恭王  〜B591〜B560
 諱は審。荘王の嗣子。晋に伐たれた鄭を救援するために親征したが、鄢陵での緒戦で負傷して撤退し、このため楚の敗戦と見做された。 諸侯に晋の回復が認識された為に宋・鄭の帰属が不安定となり、の抬頭にも直面した。
  
鄢陵の役(B575):鄢陵(河南省)で行なわれた晋と楚の会戦。 宋の華元が成立させた晋楚の和約中のB577年に鄭が許を伐ったことを契機とし、親楚に転じたを討つために南下した晋軍と、鄭救援に北上した楚軍が衝突した。
 晋はが、楚は恭王が臨戦したが、恭王が緒戦で負傷したことに加え、中軍を率いる司馬の子反が泥酔して軍議に加われなかったことで楚軍は撤収し、晋軍の勝利と見做された。

屈巫
 巫臣。楚の人。諱は子霊。陳を滅ぼした荘王や将軍子反に夏姫を断念させ、後に夏姫を奪って晋に亡命したが、この時に遣斉使の任を放棄したことで、斉は単独で晋を迎撃して鞍で大敗した。 晋の郤至を頼って執政の郤克にも重用され、楚で一族を鏖殺されると求めてに渡り、戦車戦術を教授して呉を晋の友邦として楚から独立させた。

康王  〜B560〜B545
 諱は招。恭王の嗣子。鄢陵の役以来、呉の勃興もあって与国の維持に苦しんだが、屈建を起用してより陳の内乱平定や呉王の敗死などで国威を回復し、弭兵の会では諸国の両属朝貢を認めさせ、晋に先んじて牛耳を執った。

霊王  〜B541〜B529
 諱は囲。康王の弟。康王の嗣子の郟敖より令尹とされたが、病中の郟敖を扼殺して大宰の伯州犂を殺し、有力な諸弟を国外に逐って即位した。 申に諸侯を呼集して呉の慶封を殺し、・蔡の内訌に乗じて両国を亡ぼすなど覇業の再建を志したが、呉に対する出征は概ね失敗し、鐘離・巣・州来に築城した。
 賞罰は矩則に乏しく、游興を好み、乾谿(安徽省亳)に離宮の章華台を造営するなど国人を苦しめ、章華台に滞在中に弟の棄疾曼成然らの造叛で郢都を征圧されると扈従にも悉く逃げられ、鄢に向う山中で縊死した。

平王  〜B529〜B516
 諱は棄疾。霊王の末弟。霊王の下で将軍として・蔡を滅ぼして蔡公(県尹)とされたが、曼成然ら反霊王派と通じ、晋に亡命した兄のを迎立して郢を陥し、その直後に霊王の還御を喧伝して両兄を自殺させて即位した。
 輿論に配慮して陳・蔡を再興させ、鄭に掠地を返還し、国内の政教を整え治めて国力の涵養に注力した。 太子の為に秦に公女を求めたが、費無忌の勧めで秦女を奪い、B522年に太子を逐って伍家を滅ぼしたものの、伍子胥の捕縛には失敗した。 宋の内訌に介入して叛臣を支援し、又た呉を威圧するために東巡を行なったが、却って乗じられて鐘離・居巣を失った。

昭王  B522?〜B516〜B489
 諱は軫。平王の嗣子。生母は平王が太子から奪った秦の公女。 即位早々に令尹の子常費無忌を誅して輿論の安定を図ったが、呉では伍子胥に輔けられた闔閭が即位して攻勢を強め、又た子常の横恣から蔡・唐が呉に奔った。 B506年に柏挙の役で大敗して呉軍に郢を陥され、雲夢周辺を彷徨した後に秦軍の来援で救われた。 以後も呉の攻勢に苦しんで令尹の子西に諮って鄀(湖北省宜城)に遷都したが、その一方で呉の王子夫概を堂谿に保護し、或いは唐・頓・胡を滅ぼし、呉に伐たれた陳を救援するなど復興への動きも示し、陳から退く陣中で歿した。

恵王  〜B489〜B433
 諱は章。昭王の嗣子。生母は越王勾践の娘。 陳・鄭の帰属を争う中で白公勝の造叛に遭い、内乱に乗じて入冦したを滅ぼした。 B477年に巴を撃退し、B447年に蔡を、B445年には杞を滅ぼすなど国力の回復は著しく、越が淮南を保てないこともあって泗水流域にも進出した。

白公勝  〜B479
 平王の廃太子の子。 伍子胥に伴われて呉に逃れたが、楚恵王に招かれてB487年に帰国し、居巣に封じられて白公と称した。 鄭を不倶戴天の敵としたが、楚の国策は属国としての鄭の確保にあったため、B479年に呉軍撃退の余勢を駆って朝廷を襲い、恵王を幽閉して簒奪した。 まもなく王族の葉公らに討滅された。

悼王  〜B405〜B385
 諱は疑。恵王の曾孫。父の声王が賊に殺されて即位した。魏から亡命した呉起を起用して令尹に抜擢し、国制の改革を一任して軍事面でも強盛となった。 伐秦の準備中に歿し、直後に王族によって呉起が殺され、改革も頓挫した。

呉起  〜B385
 衛の人。矜持が強く剛硬で、母の喪に帰国しなかった事で曾子に破門された。 魯で将軍とされて斉軍を撃退したものの、斉出身の妻を殺して起用された酷薄を誣されて出奔し、魏では司馬穰苴に優ると絶賛されて文侯に起用され、秦軍を撃退して要衝の西河太守とされたが、田文(孟嘗君とは別人)と宰相を争い、さらに後任宰相の公叔痤と衝突して楚に出奔した。 軍中では士卒とともに起居し、背中の膿を吸い出してやるなど大いに人望を集めたという。
 楚悼王に認められて数ヶ月で令尹に至り、信賞必罰の法家的改革によって君権を強化して富国強兵の実績を挙げたが、冗員・冗官の廃止で既得権を失った王族に怨恚され、悼王の死の直後に宮中で殺された。 その際、悼王の遺骸に近侍して害が遺骸にも及んだため、叛乱者は粛王に鏖殺されたが、改革は頓挫して王族専任の政体が続いた。
 兵法家として評価が極めて高く、著書とされる兵書の『呉子』は、『孫子』と並称される。

粛王  〜B385〜B375
 諱は臧。悼王の嗣子。即位直後に呉起を殺して悼王の遺骸を損った造叛者を鏖殺し、70余家が連坐して廃されたが、呉起の改革は継続されなかった。巴蜀の攻勢が強まり、茲方を奪われると扞関を設けて備えた。

宣王  〜B375〜B346
 諱は良夫。兄の粛王が無嗣で歿した為に即位した。 昭奚恤を重用し、中原諸国が昭奚恤を畏怖しているとの噂の真偽を問うたところ、昭奚恤は虎を欺いて従えさせている狐にすぎず、諸国は虎を見て畏れているのだと指摘された(=虎の威を借る狐)。

威王  〜B346〜B326
 諱は商。宣王の嗣子。楚に侵攻した越王無彊を敗死させ、次いで越に楚攻略を使嗾した田嬰の懲罰を唱えて北上し、徐州に斉を破った。

懐王  〜B326〜B297〜B296
 諱は槐。威王の嗣子。斉と結んで秦に対抗していたが、秦から来た張儀の提示した商於六百里の割譲を条件に斉と断交し、割地を反故とされて秦を伐って丹陽(河南省浙川?)で大敗し、漢中を失った。 以後も朝廷では側近の上官大夫靳尚や寵姫鄭袖・末子の子蘭らに代表される親秦派が親斉派を抑え、B297年に秦昭襄王との会盟に応じて抑留され、一度は趙に逃れたものの、送還されて秦で客死した。

屈原  〜B278?
 諱は平。歴世で莫敖を輩出した王族。 懐王に左徒とされて斉との合従を重んじたが、剛直な性格と上官大夫らの讒言によって退けられ、楚の国策も秦との連衡に転じた。 後に三閭大夫として復帰したが、頃襄王の即位で親秦が国策となって罷免され、郢都陥落に悲観して汨羅に入水自殺した。
 『楚辞』に於ける代表的詩人でもあり、代表作の‘離騒’は幻想的な憂憤詩として極めて高く評価されてきた。

陳軫
 はじめ秦の恵文王に仕えて張儀と権を争い、張儀が宰相となると楚に奔り、使秦の途上の魏で犀首に合従を勧めた。 張儀が魏に逐われると秦に復帰し、秦使として斉に在った時、魏を大破した勢いで斉の攻略を図る楚の上柱国昭陽に蛇足の故事を語り、功を重ねることの危険を説いて斉攻略を断念させたが、利敵と糾弾されて楚に遁れた。
 B313年に張儀が商於の割譲による秦楚同盟を提唱すると、割地の虚偽と楚の孤立を以て懐王を諌め、また商於の報復も諫めたが、ともに聴かれなかった。

頃襄王  〜B296〜B261
 諱は横。懐王の嗣子。懐王が秦に拘留されると斉から迎立された。 懐王に入秦を勧めた末弟の子蘭を令尹として秦と和し、済西の役に乗じて琅邪に拠るを滅ぼしたが、淮北経略の隙を衝かれてB278年に白起に郢都を陥された。
 陳に遷都したものの、翌年には秦の蜀守若によって巫・江南(沅江流域)を奪われ、呉会からの徴兵で兵力を補ったが、雲夢の山林藪沢と南方交易路を失ったことは、秦との国力差を決定的にした。

考烈王  〜B261〜B237
 諱は完、又は元。頃襄王の嗣子。秦に質子とされていたが、頃襄王が不予になると傅役の黄歇(春申君)の策で密出国し、王位を襲いだ。 春申君を令尹に任じて国事を一任し、雲夢の代償に淮北の孟諸や呉会の具区の開拓を進めてB249年にはを併呑し、B241年に寿春に遷都した。寵妃の兄で、幼太子の伯父でもある李園に後事を託して歿し、直後に李園によって春申君が暗殺された。

春申君  〜B237
 黄歇。戦国四君では唯一の非王族。博学能弁を認められて秦の質子とされた太子(考烈王)の侍臣とされ、頃襄王が歿すると太子を密かに帰国させたが、范雎に助命されて帰国した。
 考烈王に令尹とされて庶政を総覧し、長平の役で敗れた趙の救援や信陵君の合従への参加、魯の討滅や寿春遷都など、 考烈王の施策の多くを主導した。 雲夢の補完として東方経略を重視し、B248年に封邑の淮北12県を返上して呉会に封じられたことは大沢開発の安定の結果と思われるが、B241年に主導した合従の失敗の直後に行なわれた寿春遷都は、東方経営の重視か、秦の報復を恐れたものかは不明。
 B238年に考烈王が歿すると、権力独占を図る王の寵妃の兄の李園に暗殺されたが、『史記』によれば、この寵妃は春申君が懐妊した愛妾を王に勧めたもので、幽王の実父は春申君としている。

負芻  〜B228〜B224
 考烈王の庶子。考烈王の嗣子の幽王が歿すると、嫡弟の哀王を弑して即位した。 B226年に秦に敗れて十余城を失い、B224年に将軍項燕が李信蒙恬を撃退したものの、重来した王翦に大敗して擒われた。

昌平君  〜B224〜B223
 楚の王子。秦に質子となり、B226年に楚を大破した秦により郢に遷された。 B224年に楚王負芻が擒われると将軍項燕に擁立されたが、翌年に王翦・蒙武に討たれて敗死し、項燕は自殺した。

 

 B754?〜B221〜B209
 嬴姓。伝承では趙と同祖とされ、殷の悪来の裔とされる。 西周時代には秦(甘粛省清水)に拠る西戎の有力勢力だったらしく、攜王が滅ぼされた後に平王に帰順し、宗周一帯を与えられて諸侯に列したが、長らく蛮夷と蔑まれた。 繆公が他国人を任用して富強となり、晋に互す国力を有して西戎の伯とされたが、繆公の死後は低迷して会盟にも招請されなかった。
 伝統的に他国人を任用することが多く、B4世紀に商鞅の変法によって再び抬頭し、次の恵文王の時代に称王し、巴蜀経営に成功して雲夢をも併合した昭襄王の時代に列国最強となった。
 以後も軍事と調略を併用して諸国を圧迫蚕食し、始皇帝に至って全国を統一した。

繆公  〜B660〜B621
 諱は任好。百里奚・蹇叔ら外来の人士を任用して国制を整え、献公の死で混乱する晋に恵公を立て、恵公が河西の割譲に背くとB645年に韓原で晋軍を大破し、恵公を捕虜として河西を割かせた。 又た質子のが無断で帰国したこともあり、晋の公子重耳の即位を支援した。
 晋文公死後のB627年、百里奚らの諫止を聴かずを攻め、帰師が殽で晋に大破されたが、報復としてB624年に親征して王官で晋を大破した。 翌年には由余を迎えて西戎に領域を拡大し、周室から西戎の方伯とされたが、死に臨んで重臣3名を含む177人を殉死させたことは蛮夷の所業とされ、以後の秦の低迷の原因として後世からも非難された。『春秋』での秦の詳しい記述は穆公の時代より始まる。

献公  〜B385〜B361
 諱は師隰。霊公の子。霊公の死後、君統は霊公の弟の簡公の門に移っていたが、簡公の孫の出子を弑した庶長によって迎立された。 殉死の厳禁と櫟陽(西安市臨潼)遷都で旧制の刷新を図り、B362年には少梁(陝西省韓原)で魏軍を大破して公叔痤を擒え、魏の大梁遷都を促した。

孝公  B381〜B361〜B338
 献公の嗣子。繆公の盛世への回帰を志向して広く人材を求め、魏を出奔した衛鞅を起用して信賞必罰の法治体制や戸籍税制の導入など国刷新を進め、B352年に桂陵の役に乗じて魏の旧都安邑(山西省夏県)を攻囲し、B350年には咸陽に遷都した。
 秦に列国に伍す国力をもたらした衛鞅の新法は、後の昭襄王の遠交近攻策とともに秦の国策の基幹となったが、無功王族の排除については孝公の死後まもなく旧に復したらしい。

商鞅  〜B338
 公孫鞅・衛鞅とも。衛の人。刑名学を好み、魏の宰相公叔痤に寄食して奇才と認められたが、恵成王に用いられなかったために秦に出奔し、孝公に富国強兵策を説いて認められ、B359年より変法と呼ばれる大改革を断行した。
 変法は二次に分けて行なわれ、血族集団や大家族の解体による戸籍の掌握と人頭税の徹底、土地制度の改革、隣組制度による治安維持の強化、郡県制の施行、軍功による授爵などを骨子とした。 新法は旧制を一変させるものだったため、実施に先立って市場に柱を立て、移した者には賞金を出すと布告して厳守し、国令の信用を高めてから行なわれた。 B341年、変法によって充実した国力を背景に、馬陵の役に乗じて魏を大破して商に封じられ、商鞅と呼ばれるようになった。
 信賞必罰主義は王族の既得権を大きく侵し、王専用の馳道を私用した太子を罰するために、その傅役を肉刑に処したことで反対派を太子の許に集結させ、孝公が歿するや粛清に逼られて亡命にも失敗し、車裂刑に処された。 刑に臨んで「法の弊害はかくの如く」と嘆いたとされるが、これは法治主義を軽蔑する儒家による粉飾と思われる。
 変法はその後も概ね維持され、漢の法制整備にも大きく影響を及ぼした。

恵文王  〜B338〜B311
 恵文君、恵王とも。孝公の嗣子。太子のときに国法を犯して商鞅に罰された為、即位するや直ちに商鞅を処刑したが、新法は概ね継続した。 はじめ公孫衍を宰相とし、B331年に魏を大破して河西(渭河流域)を割譲させ、B324年には称王するに至った。 称王に対して結成された合従をB318年に大破した後は巴蜀征服に転じ、B316年の征服後もしばしば叛抗されたが、巴蜀経営の安定は秦の雄飛を結果した。
  
逢沢の盟孝公が20年(B342)に召集して周王に謁したとされる会盟。
平勢隆郎氏によると、これは同年に魏恵王が行なった、逢沢での譲胙の儀が誤記されたもので、なおかつ、秦は恵文君が20年(B319)に同様に逢沢で譲胙の儀を行ない、この時に魏王に御者を、韓王に陪乗を務めさせたとしています。
魏の逢沢の遇は馬陵の役と、その翌年の秦・趙・斉の来攻による大敗を招き、秦の逢沢の会は楚を除く諸国の合従を成立させ、秦は勝利したものの東出を控えざるを得なくなったとのことです。
 確かに、B342年時点では秦が方伯とされる理由が不明ですし、そもそも当時の秦の国力では、開封近郊とされる逢沢に諸侯を召集するのは若干無理が感じられます。 譲胙の儀が諸侯の討伐を招くという様式にも魅力と説得力は感じまが、斉の計画に反応したのが楚の徐州攻略のみというのはどうなのでしょう。

張儀  〜B309
 魏の人。蘇秦の同門とされる。関東での遊説に失敗した後、秦の恵文王に説いて客卿となり、魏に上郡を割譲させたことでB328年に宰相とされ、B323年に斉との合従を模索する魏に入って連衡を成立させ、B318年に秦の宰相に復帰した。 ついでB313年にに宰相となって商於の割譲を条件に斉と断交させ、割地を反故としながらも楚との連衡を成立させたが、恵文王が歿して謀略を好まない武王が立つと讒言を避けて魏に奔り、魏の宰相として終わった。

公孫衍
 犀首。魏の陰晋(陝西省華陰)の人。 はじめ秦で大良造に至り、魏を大破して河西を放棄させたが、連衡を主唱する張儀が重んじられるようになると魏に奔り、張儀の入秦後に、訪秦途上の陳軫の勧めもあって魏・趙・燕の合従を成立させ、張儀を失脚させて三国の宰相を兼ねた。 B318年の伐秦は失敗し、B314年にも岸門で秦の樗里疾に大破され、が秦との連衡に転じた。
 B309年に秦の宰相に迎えられて連衡を主導したが、甘茂と反目して武王に放逐された。

義渠戎
 甘粛省寧県付近に拠り、西周時代には西戎の代表的勢力とされていた。 戦国時代には大茘戎と並称されて秦・魏の憂患となり、B327年に秦に帰属して県制が行なわれた後も自立は守り、犀首から「秦が義渠を尊重する時は諸国に攻められたときである」と説かれた後、秦から重幣が贈られた事で秦の窮状を知り、犀首の合従に加わって秦軍を破った。 B3世紀初頭に昭襄王に滅ぼされた。『墨子』によれば、火葬の風習が伝えられている。

武王  〜B311〜B307
 恵文王の嗣子。勇武を好んで陰謀を嫌い、張儀を逐って樗里疾甘茂を左右の丞相とした。側近に大力の士を集め、鼎挙げを競って脛骨を折って歿した。

昭襄王  〜B307〜B251
 昭王とも。諱は稷。異母兄の武王が歿し、趙を介した魏冉によって燕から迎立され、B305年に庶長の王子荘を中心とする王族の乱が生じた。 幼君として生母の宣太后に臨朝され、后弟の魏冉をはじめ外戚が朝政を主導して軍事拡大が著しく、B301年に蜀の内乱を平定して郡県制を行ない、B297年に楚懐王を抑留し、B293年に伊厥で韓軍を大破し、B288年には斉と称帝を競い、B276年までに郢都を含む楚の湖南を制圧して南郡・黔中郡を設置した。
 范雎の進言で、B265年の太后の死を機に魏冉ら外戚勢力を一掃して親政を始め、B259年には長平で趙軍を殲滅し、又たB256年にを併合するなど一代で秦領を大きく拡げ、諸国の脅威となった。 殊に雲夢を併合したことは諸国の勢力バランスを根本から崩し、この時点での秦領は、劉邦の時代の漢の直轄領を凌いでいた。

樗里疾  〜B300
 恵文王の異母弟。樗里に邸を構えた。B318年に合従を迎撃して韓の脩魚に大破し、B314年にも岸門で魏・韓を大破して犀首を敗走させ、B312年には魏章とともに韓を援けて丹陽(河南省浙川)に楚を大破し、漢中征圧の功で封建されて厳君と号した。 武王が即位して張儀・魏章が放逐されると右丞相とされ、昭襄王にも重んじられた。
 夙に“智嚢”と称されて「力の仁鄙、智の樗里」とも謳われ、司馬遷も「秦が中原に勢力を伸ばしたのは、樗子と甘茂の策略があったればこそ」と評した。

甘茂
 楚の下蔡の人。百家の説に博通し、張儀・樗里疾の推挙で恵文王に将軍とされ、魏章の伐楚や司馬錯の陳荘平定にも従った。 武王が即位すると智謀第一と讃えられて左丞相とされ、韓の宜陽を陥して三川への路を拓き、右丞相の樗里疾犀首向寿と権勢を争った。 武王の死後に韓との講和を唱えて武遂を返還したことで向寿に誣され、斉に亡命して上卿とされた後も家族は秦で厚遇されたが、向寿が秦の宰相となったために帰国できず、魏で客死した。

司馬錯
 B316年に蜀からの求援と韓の来攻が重なった際、蜀を僻痩の地とする張儀の征周論に対し、諸国の介入がなく損兵も僅かと征蜀論を展開して恵文王に支持され、内乱鎮圧を名としてを10ヶ月で征圧した。 B310年に蜀相の陳荘の乱を平定した後も各地を転戦し、B286年に魏の安邑を抜き、B280年には蜀から出征して楚の黔中(烏江流域)を征服し、翌々年の白起による郢攻略を準備した。
  
 蜀を征服した秦は巴王を巴君に貶して嬴氏との通婚を課し、蜀郡・巴郡を置いて若を蜀の郡守とし、又た王子通を蜀侯に封じて陳荘を相とした。 蜀には1万戸を移住させて文化・制度の同化を促す植民地化が進められたが、それだけに反撥も強く、B313年に漢中郡を分置した後、B310年に蜀相の陳荘が蜀侯を殺して造叛し、司馬錯に鎮圧された。
B308年に更めて武王の王子のツ(〜B301)が蜀侯とされ、その死後はツの子の綰(〜B285)が立てられたが、共に謀叛の嫌疑で討伐されたことは、蜀の抜きがたい叛意が中央にも自覚されていたためと思われ、綰が殺された後は郡守が置かれるのみとなった。
 蜀の経営は生産力だけでなく戦略面でも有益で、B280年から始まる楚攻略には蜀からの出兵が不可欠だった。

魏冉
 楚の人。昭襄王の母/宣太后の異父弟。昭襄王迎立を主導し、B305年に王子荘らの造叛を鎮圧して武后を追放し、宣太后の垂簾を輔け、B295年に楼緩を、翌年には呂礼を逐って丞相とされると万機を総覧した。
 秦の軍事拡大を主導し、白起を挙用して伊闕で韓・魏を大破し、斉を伐って穣(河南省ケ州)・陶(山東省定陶)に封建されて穣侯と号し、封邑を維持拡大するために魏の河内を制圧した。 済西の役を支援した後には楚の隙に乗じて郢都を陥し、B275年に相国とされた。
 自身が将となることも多く、以後もしばしば魏を破って大梁に逼り、一族の富と権勢は王室を凌いだが、B265年に宣太后が歿すると昭襄王の弟の陽君とともに罷免されて関外に出され、陶で歿した。

范雎
 魏の人。字は叔。はじめ遣斉使の須賈の随員となったが、交渉が不調に終わりながらも斉王に認められたことかた内通を誣され、宰相魏斉に処刑されるところを脱走し、鄭安平の協力で秦に逃れて張禄と称した。 昭襄王に外戚の排除と遠交近攻策を献じて客卿とされ、B265年の宣太后の死を機に王の親政を実現して丞相とされ、応侯に封じられた。 器量には欠けたものの、秦の組織化と君権強化を推進し、白起とともに昭襄王の覇業に大きく貢献した。
 B260年に離間を用いて廉頗の更迭に成功し、長平の勝利を導いたが、白起の功の突出を猜忌して邯鄲攻略を認めなかったことから不和となり、程なく昭襄王に讒言して自殺させた。 その後、鄭安平らの不祥事が生じると連坐は免れたが、説客の蔡沢を後任に推して致仕した。

白起  〜B257
 郿(陝西省)の人。穣侯の推挙で昭襄王に起用され、後に不敗の名将と謳われた。 B293年に伊厥で韓軍を大破し、翌年に魏の河内を征圧し、B278年には楚の郢都を陥して武安君とされた。 B274年に華陽に三晋を大破し、B263年に韓の野王を陥して上党を孤立させ、B259年には長平の役で趙兵40万を坑殺したが、邯鄲攻略から外されたことで宰相の范雎との不和が決定的となった。
 邯鄲攻略が進展しない中、病が平癒した後も出陣を拒み、また邯鄲攻囲の無謀を喧伝していた為に庶人に貶され、陰密(甘粛省霊台)に流される途中で自殺を命じられた。

李冰
 秦の昭襄王末期の蜀の郡守。岷江に分流嘴である都江堰を設けて成都平原の洪水を防ぎ、灌漑に便宜を図って蜀の生産力を大きく増強した。そのため蜀では神として信仰され、後の二郎真君のモデルとなった。

孝文王  〜B251/B251
 昭襄王の嗣子。はじめ安国君に封じられ、B265年に太子が歿したために嗣子とされた。 又た寵妃の華陽夫人の請願で、趙に質子としていた子楚を華陽夫人の養子とした。
 即位から3日で歿し、そのため『史記』では次の荘襄王の元年を孝文王に充てている。

荘襄王  B281〜B251〜B246
 諱は子楚。孝文王の嗣子。生母に寵がなく趙に質子とされたが、商賈の呂不韋に奇貨として支援され、父の寵姫の華陽夫人の養子となることで嗣子とされ、子楚と改名した。 B258年に秦軍が邯鄲を攻囲すると呂不韋の支援で秦へ逃れ、即位後は呂不韋を洛邑の十万戸に封じ、相国に任じて万機を委ねた。 B249年に東周君を滅ぼして三川郡とし、翌年には蒙驁王齕らが上党全域を接収して太原郡を設置した。

呂不韋  〜B235
 陽翟(河南省禹州)出身の商人。邯鄲に質子となっていた秦の王子子楚(荘襄王)を支援して太子(孝文王)の嗣子とすることに成功し、子楚が即位すると丞相とされて万機を総覧し、洛邑10万戸に封じられて文信侯と号した。
 荘襄王が3年で歿して太子の政(始皇帝)が即位すると、仲父と尊称されて摂政し、太后との密通の発覚を懼れて士人の嫪毐を宦官と偽って太后に近侍させた。 後に造叛した嫪毐に連坐して洛陽での蟄居を命じられたが、諸侯との交際を続けた為に蜀へ流され、途上で自殺した。
 門下には食客数千人が集まり、その見聞・知識の集大成として『呂氏春秋』を編集し、「一字の加減も能わず」と豪語した。子楚の求めで譲った愛妾が年余で政を産んだことから、一般には始皇帝の実父とされる。


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