B221〜B206
 戦国時代のが、B221年に始皇帝のもとで諸国を征服・統一したもの。 始皇帝は統一政策・中央集権・君主独裁の確立を進めたが、性急かつ法治至上主義に撤したため、その死後3年で内乱によって崩壊した。
 中国史上最初の統一帝国でもあり、嶺南オルドスをも征服し、北辺の防牆を修築・連結延長して万里長城を構築し、中国本土の祖形を形成した。 殊に匈奴を漠北に駆逐したことは、遊牧民を介して秦の呼称を西方に伝えさせ、china・シナの語源となった。
始皇帝  二世 / 張楚  
 

始皇帝  B259〜B247〜B210
 諱は政。荘襄王の嗣子。即位当初はすでに中国の西半を支配し、呂不韋を相国として国事を一任していたが、成人後は呂不韋を排斥して李斯を任用し、親政下で君主権を強化しつつ、B230年の韓を皮切りにB221年までに諸国の併合を達成した。 統一後は皇帝号を定めるとともに諡号を廃し、度量衡・文字・貨幣・車軌などの規格統一、武器没収、徙民による人口・富財の首都集中などを行ない、また封建制復活の議を排して郡県制による中央集権を堅持し、頻繁に各地を巡幸して帝威を示した。
 君主権の強化や万里長城・阿房宮・驪山陵(西安市臨潼区)に代表される大土木工事、焚書坑儒や厳罰主義などによって隋の煬帝と並称されるが、歴朝で最も合理主義的・法治主義的な君主でもあり、全国統一の達成はその才に負うところが大きい。生来蒲柳の体質で、統一後は不老長生を欲して徐福ら斉の方士にしばしば騙された。
 坑儒を批判した嫡子の扶蘇を北防に転出させ、末子の胡亥を偏愛したが、巡幸中に重篤となると宦官の趙高に扶蘇擁立を命じて沙丘(河北省平郷)の平台で歿した。

李斯  〜B210
 楚の上蔡の人。荀子の門下で韓非と双璧と謳われた。 呂不韋の食客となり、その薦で秦王政にも認められて客卿に累進し、嫪毐の乱を機に出された逐客令の撤回に成功した後は秦王政に信任され、親政後は国事の中枢を担った。
 始皇帝が嫡長子の扶蘇を継嗣に定めて歿すると、宦官の趙高から蒙恬が丞相となる可能性を指摘され、胡亥の即位と扶蘇・蒙恬を自殺させる偽詔を作成した。二世皇帝擁立後、実権を握った趙高の讒言で族滅された。
 法家理論の集大成者である韓非に対して実務の第一人者と評され、屈指の名宰相とされる反面、焚書坑儒・韓非暗殺・二世擁立などで強く批判される。逐客令の撤回を求めた上書は名文として『文選』にも採録された。
  
焚書坑儒:始皇帝の思想統制政策の一環。 焚書はB213年に、封建制復活論に対する李斯の反駁から実現したもので、挟書律によって学官の蔵書や実用書以外の民間書が焼却され、違反者は極刑とされた。
 坑儒はB212年に、方士の盧生らが虚言の追求を懼れて失踪した際に始皇帝を誹謗したことを発端とし、咸陽の方士や学者を尋問した結果、浅学で自己弁護と他者の誹謗に終始する悪質な460余人を処刑したもの。
 先秦の文献史料の多くを失わせ、思想の縮小と断絶をもたらしたものとして長らく批判されてきたが、近年では古籍の亡佚は項羽の咸陽破却に求められ、坑儒の規模も疑問視されている。

鄭国
 韓の人。韓の間諜として秦に仕え、秦の国力消耗を図って灌漑網の整備を献策・指揮し、発覚した際には灌漑網の完成が秦の大利になると説いて助命され、事業を完成させた。 完成した水路は“鄭国渠”と呼ばれ、関中平野の開発に大きく寄与した。

尉僚
 魏の大梁の人。秦王政に合従の分断と各国内部の離間を献策して嘉され、やがて秦王の強い猜疑心を看破して逃亡を図ったが、慰留されて尉に叙された。 兵書『尉僚子』の著者とされる。

王翦
 頻陽東郷(陝西省富平)の人。夙に兵法を好み、B236年の鄴攻略より名将として知られ、趙攻略の中心となってB228年に邯鄲を陥し、余勢を駆って翌年には燕の薊都を陥した。 楚の攻略に際して60万の兵力を必要としたことで、20万と主張した李信が起用されたが、敗退した李信が3倍の兵力が必要と上申したので改めて楚攻略の上将軍とされた。 蒙武を副将としてB224年に楚王を攻殺し、翌年に楚の亡命政権を滅ぼした後は南征し、百越を服属させた。
 楚の攻略では秦のほぼ全軍を率いた為、遠征先から再三恩賞を求め、親族に顰蹙されながらも秦王の猜疑心を躱すことに腐心した。

王賁  ▲
 王翦の子。趙・燕の征服に従い、B225年に大梁を水攻して魏を平定した。B222年に遼東に遠征して燕王を執え、帰途にを滅ぼし、翌年には李信・蒙恬とともにを平定して秦による天下統一を達成した。

李信  ▲
 気鋭の将軍として秦王政に期待され、王翦の燕攻略に従って燕王喜を遼東に逐った。 楚攻略を諮問されると20万の兵力で充分として王翦を措いて起用され、蒙恬と共に出征したが、楚の反攻で大敗した。 B222年に王賁とともに遼東に燕を滅ぼし、ついで代を征服し、B221年には臨淄を陥して斉を平定した。

徐福
 斉の方士。字は君房。始皇帝の神仙嗜好を利用した方士の1人で、東海の蓬莱山に不死薬を探求すると称して援資を下賜され、巨富と童男童女数千人を載せた船団を組織して海上に逃れた。 船団の帰着先は日本・朝鮮半島から北米大陸説まであり、日本の和歌山県新宮市(紀州熊野)などに徐福の墓が伝わっている。

蒙恬  〜B210
 蒙武の子。蒙驁の孫。李信の副将となった楚の攻略では敗退したが、斉攻略の成功で内史(咸陽尹)とされた。 B221年にオルドスから匈奴を駆逐して朔漠を震撼させ、万里長城を増強して北辺に鎮した。後に中央を逐われた扶蘇を監軍に迎え、始皇帝の死後、趙高李斯が偽造した遺詔によって自殺させられた。

胡亥  〜B210〜B207
 二世皇帝。始皇帝の末子。趙高より刑律を学び、始皇帝最後の東方巡幸に同行していたことで、同行する趙高・李斯に擁立された。 即位後、直ちに嫡兄の扶蘇を自殺させ、蒙恬・李斯をはじめ功臣や宗族を粛清し、これより趙高に一切の政務を委ねて厳酷な法治と過酷な徴発が進行し、B209年に陳勝・呉広が挙兵すると各地に叛抗勢力が蜂起した。
 劉邦の武関入関とともに趙高に殺された。

趙高  〜B207
 趙の宗族の自宮者。律法に通暁していたので始皇帝に寵愛され、常に近侍して巡幸にも同行した。 B210年に巡幸中の始皇帝が歿すると丞相李斯と謀って胡亥を擁立し、偽詔を用いて扶蘇・蒙恬を自殺させた。 郎中令とされた後は李斯をはじめ功臣や皇族・反対派を悉く粛清して朝政を壟断し、法を厳酷に改悪して圧政を行なった。 馬を鹿と偽り献上して朋与を選別し、併せて二世皇帝を精神失調として公務から遠ざけたことはよく知られている。
 帝国崩壊の主因となった圧政の多くは趙高の独裁によるもので、叛抗を悉く秘匿した後に陳呉の叛乱の露見が不可避となると、一切の責任を二世皇帝に帰して宮中で暗殺したが、まもなく擁立した子嬰に誅された。

子嬰  〜B207
 三世皇帝。扶蘇の長子。始皇帝の嫡孫。二世皇帝を暗殺した趙高によって立てられた。 祭祀に仮託して趙高を招いて誅殺し、帝号を廃して間もなく、即位より46日で劉邦に降ったが、後続の項羽に殺された。

 

 

陳勝  〜B209
 陽城(河南省登封)の人。諱は渉。諡号は隠王。もとは農夫で、B209年に漁陽の守兵として徴発されて戍長とされたが、長雨による遅延から刑を恐れて呉広とともに挙兵し、扶蘇を称して各地で秦軍を撃破した。
 陳(河南省淮陽)に拠って張楚王を称すと短期間で大勢力となり、関東の各地に乱立した諸勢力に盟主とされて、中国史上最初の大規模な農民叛乱に成長した。函谷関を破った周章が敗死した後、秦将の章邯に大敗し、逃走中に馭者の荘賈に殺された。
 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」「王侯将相寧んぞ種あらんや」は彼の言葉とされる。

呉広  〜B209 ▲
 陳勝の同郷人。字は叔。陳勝とともに挙兵して項燕を称し、後に副王とされたが、滎陽で三川郡守の李由に苦戦し、章邯の迎撃の優先を主張する部下に殺された。

武臣  〜B209
 陳の人。陳勝の挙兵に呼応して従ったが、張耳陳餘とともに趙を略定して邯鄲を陥すと、両者の勧めで趙王を称した。 趙・燕の平定を進めて函谷関攻略には応じず、燕を経略させた韓広が燕王を称した後、燕との国境を微行中に捕われたが、まもなく張耳・陳餘の自立を恐れた韓広に解放された。李良の造叛で敗死した。

陳餘  〜B204
 魏の大梁の人。儒学を学んで名声があり、年長の張耳に兄事した。 矜持が強く、魏が滅んで懸賞された際に張耳の半額であることを自嘲し、郷吏に侮辱されて激昂しかかるところを張耳に窘められたこともあった。 張耳とともに武臣の征趙に従い、武臣に称王させて大将軍となり、武臣の死後は旧趙の王族を探して趙歇を趙王とした。 鉅鹿(河北省平郷)の張耳が章邯に攻囲されると常山で援兵を募ったが、兵力差に逡巡して交戦を避けた為に張耳から深く恨まれ、鉅鹿が解放されると隠遁した。
 滅秦後に趙歇が代に徙封されると南皮の3県を以て封侯されたが、常山王とされた張耳との差異を恨んで田栄と結び、張耳を大破して趙歇を趙王に直すと代王とされた。 韓信を軽視してB204年に井陘で敗死した。

趙歇  〜B208〜B205 ▲
 戦国趙の王族。趙王武臣の死後、張耳陳餘に擁立されて信都(河北省冀州)に拠った。 章邯に伐たれて鉅鹿(河北省平郷)に遁れ、項羽の援軍によって救われたが、その際に諸侯の援軍は秦軍を恐れて参戦しなかったことで項羽の覇権が確立した。
 滅秦後は代王に徙され、斉と結んだ陳餘に迎えられて趙王に直されたが、後に井陘で韓信・張耳に大破されて襄国(河北省邢台市区)で殺された。

魏咎  〜B208
 戦国魏のィ陵君。秦による滅魏で庶人とされた。称王した陳勝に従い、魏を経略した周市によって臨済(河南省陳留)に魏王とされたが、周市を撃滅した章邯に攻囲されると、人民の安全を条件に開城して焼身自殺をした。

魏豹  〜B204 ▲
 戦国魏の宗族。兄の魏咎が敗滅して楚に逃れ、援兵を得て魏を略定した後に項羽より魏王とされ、関中攻略にも従ったが、後に平陽の西魏王に遷された為、漢中から北上した劉邦に帰順した。 彭城で劉邦が敗れると帰国して項羽に通じ、韓信に討たれて降り、後に赦されて滎陽の守備を命じられたが、再度の離叛を警戒する周苛に殺された。

田儋 〜B208
 田斉の宗族。陳勝の部将の周市が狄に迫ると、県令を殺して周市を退けて斉王を称し、斉地を経略した。 翌年、章邯に伐たれた魏咎を援けて臨済近郊で敗死した。

田栄  〜B206 ▲
 田斉の宗族。将軍として従兄の田儋に従い、田儋が章邯に敗死すると東阿に逃れたが、章邯が趙攻略に転じると斉の経略を進め、斉人が立てた斉王田仮(田建の弟)を逐って田儋の子の田市を王とし、自ら宰相となって弟の田横を将軍とした。 項梁が田仮を庇護した為に、章邯に対して劣勢となった項梁からの求援に応えず、項梁の敗死で項羽と仇を結んだ。
 滅秦後、項羽によって田市が即墨に膠東王とされ、楚軍の田都が斉王とされ、田建の孫の田安が済北王とされて斉が三分されると、田栄は陳餘と結んで田都を逐い、項羽を恐れて即墨に遷った田市をも殺し、更に田安を滅ぼして斉王を称した。 三斉を平定してまもなく項羽に惨敗し、平原で住民に殺された。

田横  〜B202 ▲
 田斉の宗族。兄の田栄の敗死後に散兵を糾合したところ、項羽の屠城を恨む斉兵数万が呼応し、項羽の劉邦追撃に乗じて失地を回復し、田栄の子の田広を斉王に立てて丞相となった。
 B203年、酈食其の説得に応じて漢への帰順を決めたが、韓信に伐たれて酈食其を殺して楚と結び、龍且と田広の敗死で斉王を称した。 灌嬰に大敗すると彭越を頼ったが、彭越が梁王とされると家属と共に海上に逃れ、劉邦の威嚇で長安に向かう途上、酈食其の弟の酈商と同席することを愧じて自殺した。 田横と行動を共にした者たちも悉く自殺し、当時の人々は大いに讃嘆したという。

懐王  〜B208〜B206
 諱は心。楚懐王の孫とされる。陳勝の死後、項梁に擁立されて懐王を称し、項梁を武信君に封じ、陳嬰を上柱国として盱眙に都した。 項梁の敗死で彭城に遷り、宋義劉邦をひそかに項羽の対抗勢力とし、関中攻略では最初の入関者に関中王を約して項羽と劉邦を競わせたが、先行した劉邦は項羽の独断によって漢中王とされた。
 咸陽陥落後は義帝とされ、長沙郡の酃(衡陽市衡陽)に遷される途上で項羽に承旨した英布呉芮に暗殺された。

項梁  〜B208
 楚の将軍項燕の子。項氏は楚の王族にあって武門として知られ、項燕は楚王に従って一度は李信を撃退したものの、王翦に敗死した。
 項梁は潜伏中に陳呉の挙兵に応じて会稽郡守を殺し、甥の項羽とともに陳勝に従った。 陳勝の死後は范増の策を納れて楚の王族を懐王に立て、造叛軍の中核と看做されるようになったが、章邯を侮って定陶で敗死した。

項羽  B232〜B202
 下相(江蘇省宿遷市区)の人。諱は籍。羽は字。陳呉の挙兵に呼応した伯父の項梁に従い、項梁の敗死直後にはを救援して章邯を鉅鹿で大破し、反秦勢力の首魁となった。 B206年、劉邦に遅れて咸陽に入城すると秦王子嬰を殺して城を破壊・焼却し、劉邦を漢中王に逐って関中には秦の降将を封じ、自らは彭城に拠って西楚の覇王と号した。
 勇武と戦術に卓絶し、怒声で対岸の弓手を驚死させるなど中国随一の猛将と評されるが、義帝暗殺や偏頗な叙封などによって諸侯の叛乱が絶えず、漢中から北上して関中を制した劉邦との抗争で次第に劣勢となった。 B202年に垓下(安徽省霊壁)で大敗し、南奔して長江畔の烏江(安徽省和県)で自殺した。
 滅秦直後、「闇中飾錦」を理由に関中奠都を拒み、これを「猴面冠者」と嘲笑した識者を烹殺したが、四周を天険要害に囲まれた関中の地勢は諸侯国の乱立する当時にあっては理想的な拠点であり、生産力でも秦の開発によって西楚を大きく凌駕していた。

范増  〜B204 ▲
 居巣(安徽省巣湖市区)の人。陳呉の乱の当時は70余歳で、項梁に楚王擁立などを献策し、項梁の死後の趙救援では宋義項羽に亜ぐ末将とされ、以後は項羽の軍師として覇業達成に大きく貢献して亜父と尊称された。 咸陽陥落以後は劉邦を最大の敵とし、鴻門の会で劉邦暗殺に失敗すると漢中王とし、南鄭への封じ込めを図った。 中原争覇でも劉邦を苦しめたが、後に陳平の離間策で項羽に疑われて致仕し、帰郷途上に憤激から背に廱を発して彭城で歿した。
  
鴻門の会(B206):咸陽占領を巡る項羽と劉邦の咸陽城外での和議。 懐王はかねて最初の咸陽入城者を関中王とすると宣していたが、咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じ、一時は交戦となるところを張良項伯の周旋で鴻門での和睦となった。
 項羽の軍師の范増は会盟中の劉邦暗殺を謀ったが、項羽の逡巡と項伯・樊噲・張良の機転で果たせず、散会後に「豎子、ともに図るに足りず」と罵嘆し、これが後の項羽と范増の不和の最初になったとされる。

章邯  〜B205
 秦の少府だったが、張楚軍の周章が函谷関を破ると将軍に転じ、徒刑囚や奴隷を徴発して周章を大破し、司馬欣・董翳を増援されて陳勝を敗死させた。 ついで劉邦を破り、周市田儋を敗死させて魏を平定し、田栄支援に北上した項梁を定陶で討滅した後、趙王武臣を殺した李良の帰順で趙の略定に転じたが、鉅鹿で項羽に大破され、二世の譴責と趙高の讒言に接して項羽に降った。
 滅秦後は内史西部に雍王に封じられ、廃丘(槐里/陝西省興平)に都して劉邦の北上を抑えたが、項羽に降った際に兵を悉く坑殺されたことで輿望がなく、B206年に陳倉で韓信に大敗し、廃丘を包囲されて自殺した。


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