581〜619
 北周の随国公楊堅が、外戚として実権を集めた後に簒奪した政権。 589年には南朝を征服して全国統一を果たした。 地方組織を州県制に簡素化して郡を廃するなど冗官の整理と地方官人事の吏部への一元化、九品官人制の廃止と科挙制の実施、三省六部制の制定、府兵制の整備強化など、各方面で門閥主義的な社会・制度に制限を加え、中央集権と君主権の強化が進められた。 又た外征や第造営を極力抑え、同時に賦役・量刑を軽減して社倉を設立するなど、民力の涵養を第一として短期間で国力が回復された。
 文帝の蓄積を背景として行われた煬帝の治世では、突厥に対する優位や朝貢貿易の活況、大運河の開削など短期ながらも統一帝国としての威容を内外に示したが、3次に及ぶ断続的な高句麗遠征の敢行と失敗は民生を甚だしく圧迫し、新附の山東・江南に対する求心力を著しく失わせた。 楊玄感の乱を機に関隴集団からも離叛者を出して統一は急速に瓦解し、江都で煬帝が禁衛兵に殺された後は洛陽長安に傀儡政権が立てられたが、それぞれ王世充李淵に簒奪された。
国号の表記は建国当初から“随”と“隋”が混用されていたようです。 一般的に流布している「“辵”が“走”と同義であることを忌んで除いた」というのは、「安歩」の意味がある“辵”を抜くことで、却って「裂肉(祭祀の余肉)」と同義である“隋”を用いてしまった事の無学を嘲笑する、南唐での説が敷衍したもののようです。
文帝  明帝  群雄
 

楊堅  541〜581〜604
 隋の太祖、文帝。北周の大将軍・随国公楊忠の嗣子。 漢の太尉楊震の裔として弘農華陰を本貫とした。 長女の楊麗華が宣帝の皇后とされた事で枢機に参与し、外孫の静帝の即位と宣帝の死によって左大丞相となって万機を総裁し、尉遅廻の乱を鎮定した事でほぼ独裁権を確立して大丞相、次いで相国・総百揆・都督内外諸軍事・随王とされた。 翌年(581)正月を以て禅譲を行ない、国内の整備を進める傍らで583年に突厥の沙鉢略可汗を大破して南北の優劣を逆転し、587年に西梁を、589年にはを滅ぼして全土統一を達成した。
 開皇律令三省六部を基幹とした中央官制、九品官人制の廃止と科挙制の開始、長安に新都の大興城を造営するなど次の唐朝に踏襲される多くを定め、他にも府兵制均田制の拡充、塩税・酒税の廃止、貨幣の統一、郡の廃止などによって集権体制の確立を進めた。
 猜疑心が強く、廷臣に対しても厳罰を用いたが、民政に於いては寛弘を旨とし、統一後は極力外征や築造を控えて民力の涵養に努め、又た仏教の復興と興隆に注力した事で“菩薩天子”とも称された。 恐妻家でもあり、独孤皇后(独孤信の娘)の存命中は妃妾を置かず、寵幸した宮女を殺された際にも郊外に奔駆して慨嘆するのみだったが、大事については必ず相談したと伝えられる。 晩年には高句麗遠征を強行して失敗し、又た太子の華美嗜好を嫌って讒言から廃黜するなど失策が増え、病床で楊勇の復辟を図った為に楊広に暗殺されたという俗説が一般に流布している。

楊素  〜606
 弘農華陰(陝西)の人。字は処道。隋の帝室とは出自を異にする。諸学に通じ、多芸多能で軍略と謀計にも長け、宇文護に仕えていた為に武帝の親政で零落したが、後に剛直と文才によって挙任された。 平斉や江北経略でも功を挙げ、丞相となった楊堅に通じて軍政両面で腹心とされるようになり、禅譲と共に上柱国・御史大夫・越国公とされた。
 平陳を主導して永安で艦船を建造し、実戦では水軍の行軍元帥となって江上を制圧し、賀若弼韓擒虎らの渡江を成功させて越国公に封じられ、戦後は年余で江南の叛抗勢力を悉く平定して讃えられた。 592年に尚書右僕射とされて高熲と共に文帝を輔弼し、内務の傍らで599年・601年には突厥の西可汗を大破し、左僕射に進んだ。 平陳では秋毫も犯させない綱紀と威容を以て“江神”とも称されたが、もとより権勢と謀略を好み、晋王や後宮と結託して600年に太子の廃黜に成功し、病床の文帝が太子の復辟を図った際には宮門を閉ざして煬帝の即位を実現したとも伝えられる。
 煬帝の即位直後の漢王の乱を平定して尚書令に進み、翌年には司徒に進位して楚国公に転封され、一門の権勢と帝室に匹敵する豪富は「貴盛は近古に稀なり」と評されたが、奔放な為人りは時に煬帝に対してすら傲慢であり、煬帝からの憎忌は後の楊玄感の叛乱の大要因となった。 文人としても優れ、薛道衡に贈った五言詩七百字は「詞気宏抜、凡韻秀上。一時の盛作なり」と評された。

高熲  〜607
 渤海蓚の人。字は玄昭。経史を渉猟して弁辞にも長け、北周の宇文憲の記室参軍で起家し、平斉の役での武功で開府に進んだ後、丞相となった楊堅に認められて腹心となり、尉遅迥討伐でも前線で陥陣の功があった。 隋が興ると尚書左僕射・納言・渤海郡公とされ、諸制度の制定を主導して大興城の造営を統監し、平陳では元帥長史として晋王広を輔け、平陳の功で上柱国・斉国公に進んだ。
 文帝の治世を楊素と与に輔弼し、国策の決定や朝廷の統制、人材の薦挙などで王朝の安定に大きく寄与して“真宰相”と称されたが、剛直な為人りから潜在的な政敵も多く、平陳で晋王の求めを斥けて張麗華を斬り、寵妃を独狐皇后に殺されて悲歎する文帝に対しては「豈に一婦人を以って天下を軽んぜん」と諫めたことなどから晋王や独狐皇后にも憎まれた。 太子を支持していた事から廃太子に先んじて罷免され、煬帝が即位すると太常に叙されたものの直言と輿望を忌まれ、万里の長城の造営や突厥の啓民可汗に対する饗応などを批判した際の「近年殊に朝廷に綱紀無し」の発言を密奏されて処刑された。

韓擒虎  538〜592
 河南東垣(河南省新安)の人。字は子通。北周の新義郡公韓雄の嗣子。経史百家の書を渉猟し、胆略もあって宇文泰に将来を嘱望され、平斉や江北経略に従った後、合州刺史・和州刺史などを歴任して陳兵を悉く撃退した事で江南でも威名が高かった。 楊堅が即位した後に盧州総管とされ、平陳戦では少数で采石から上陸して建康の無血開城を果たし、軍功第一として上柱国に進位されたが、これを不服とする賀若弼と御前で諍った後に掠奪を誣されて昇爵は行なわれなかった。 武名は突厥にも達し、一時は金城に進駐して涼州総管とされ、後に長安で歿した。
 その軍は秋毫も犯さず、寛正で民衆に敬愛され、死後は閻羅王になったという伝説も生じた。李靖の養父でもある。

賀若弼  544〜607
 河南洛陽の人。字は輔伯。賀若敦の子。 剛毅で矜持が強く、弓馬と文辞に長けて博覧強記でもあり、韋叔裕の江北経略で数十城を陥して寿州刺史とされ、楊堅の即位後に高熲の薦挙で呉州総管とされた。 平陳十策が嘉称されて平陳の役では行軍総管として京口から南渡し、蒋山で抵抗する蕭摩訶を排撃して建康城に達したが、戦後、陳軍との対峙中に建康城を陥していた韓擒虎を御前で“偸功”と罵って互いに抜刀する事態にまで発展し、後に文帝の采配で上柱国・右領軍大将軍・宋国公とされて陳叔宝の妹が下賜されたものの両者の不和は改善しなかった。
 「楊素は猛将、韓擒虎は闘将、史万歳は騎将のみ」と蔑して自らを真将軍と自負し、一族も顕位にあって奢侈を誇ったが、592年に楊素が右僕射とされると偏向人事として朝廷を誹謗し、積功によって減死に処された後も更めなかった。 煬帝にも倨傲を忌まれ、楡林で突厥の啓民可汗を饗応した際に「功に驕り君を蔑す」として殺された。
賀若弼の最期は『隋書』と『北史』では異なり、『隋書』では可汗を饗応する席での傾奇っぷりが目に余り、高熲・宇文弼らにダメ人間判定されて殺された事になっていますが、『北史』では可汗を饗応する煬帝の豪奢志向を、高熲・宇文弼らと「ダメじゃね?」と相談した事を密告されて殺されたとあります。 高熲と宇文弼については、両書ともに“可汗の饗応を憂うる会”の議事録の一部をリークされて殺されたと一致しています。

長孫晟  552〜609
 河南洛陽の人。字は季晟。北魏の太傅長孫稚の曾孫。戸部尚書長孫熾の弟。 経書に通じ、驍勇と明敏を楊堅に認められて突厥に嫁す千金公主の副使とされ、一矢で二鷲を射て沙鉢略可汗に賛嘆された事は「一箭双雕」の成語となった。 朔漠の地勢や突厥の内情などを偵察して内訌の助長を進言し、以後もしばしば突厥に使して離間策を施し、突利可汗の離叛を実現した。 600年に西突厥の達頭可汗が来攻したときは秦州行軍総管とされて晋王広に従い、河水に毒を流して突厥を大破し、603年にも鉄勒・僕骨を討ち、達頭可汗を大破して吐谷渾に追走した。 煬帝にも信任されて淮陽太守・右驍衛将軍に至り、後に煬帝が雁門で突厥に囲まれた際には、長孫晟の死後であることが非常に悔やまれたという。
 娘が後に唐太宗の皇后とされたことで、司空・上柱国・斉国公を追贈された。

  538〜597
 天台宗の開祖。潁川の人。俗姓は陳、字は徳安。荊州華容で生まれ、はじめ梁の元帝に仕え、江陵の陥落を機に出家して経・律を学び、560年より光州で慧思に就いた。 建康で法華を講じた後、575年に天台山に入って教学を確立し、南朝陳の同姓として篤く尊崇された。 陳末の争乱を廬山に避け、591年に隋の晋王広の要請で菩薩戒と法名“總持”を授けて智者大師の号を受けた。 論によらず経本位の教学を組織し、中国式仏教の大成者とされる。3世紀頃にインドの大乗仏教を体系化した龍樹を開祖として第四祖とする場合もある。

信行  540〜594
 魏州の人。俗姓は王。幼時に出家して相州で禅を学び、周武帝の廃仏で還俗した後、隋代に再び僧となった。 末法思想に強く影響され、戒律生活を独善的なものと否定して影塔を礼拝し、583年に無尽蔵行を唱えて三階教を興した。 589年には文帝に招聘されて長安の真寂寺に住した。
  
三階教:北斉の信行が開いた仏教の一派。仏教の正法・像法・末法を、第一階・第二階・第三階と解釈して現世を第三階と見做し、大乗仏教の汎神論性を追及した。 乞食行などの実践を重んじたことは、同様に末法思想を背景として念仏往生を唱える浄土教と好対照を為した。
 諸派混在が常例だった寺院に於いて三階院を設けただけでなく独自の寺院も有し、道俗の別なく厳しい戒律を厳守して華北の特に民衆に浸透したが、既存の信教を排撃したことで夙に異端視され、信行の死後程なく(600)に邪教として弾圧された。 弥勒信仰の強化と弾圧を繰り返して5回目に当たる725年の禁圧で衰亡し、典籍も散逸したが、20世紀に発見された敦煌文書から多数の教籍の写本が出現し、教義の解明が進められた。
 寺院内道場の“無尽蔵院”には信徒からの布施が集められて全国の寺院の修築に供され、開元元年(713)に勅で破壊された後もその思想は仏教諸派に普及し、布施等で収集された財貨を民間に貸与して利潤を得るシステムが確立し、宋代に長生庫、元代では解庫・解典庫と呼ばれた。

劉方  〜605
 京兆長安の人。北周末に尉遅迥討伐に従って開府儀同三司・河陰県侯とされ、禅譲で公に進爵された。 衛王の北伐に従って大将軍に進位し、甘州刺史・瓜州刺史を歴任した後、602年に楊素の薦挙で交州道行軍総管とされ、李賁の死後も抵抗を続ける李仏子を鎮圧した。 ついで驩州道行軍総管として林邑遠征に転じ、激戦を重ねて国都インドラプラを攻陥したが、軍中には風土病が蔓延して自身も帰国途上で病死した。

煬帝  569〜604〜618
 隋の第二代君主。世祖、明帝。諱は広。文帝の次子。 隋の成立で晋王とされ、平陳戦では行軍元帥として全軍を節度し、楊素が江南経略を終えた後は揚州総管として江都で南朝文化に親しんだ。 廉貞を装いつつ楊素や後宮に通誼して600年には兄の楊勇に替って太子に立てられ、仁寿年間(601〜04)にはしばしば文帝の避暑に応じて監政し、弟の秦王蜀王を幽閉し、即位後には楊勇を殺し、漢王を鎮圧して帝威を確立した。
 万事に盛事を好み、東都や諸離宮の造営、大運河の開削や長城建造などを行なう傍らで吐谷渾攻略による青海地方の直轄化、林邑突厥遠征を成功させ、高昌など西域30余国の朝貢使を饗応した609年は『資治通鑑』にも「隋の盛時」と記された。 即位後は東都に多く滞在し、しばしば江都にも巡幸して新附地の慰撫を図ったが、612年に始まる高句麗遠征での負担が原因となって大運河沿線で叛抗が生じるようになり、第二次遠征中の楊玄感の乱を機に地方に対する統制が急速に失われた。 616年に江都宮に逃れた後は遊興に耽溺し、翌年に太原の唐公李淵が長安を陥した後、北帰を冀望する禁衛兵を率いる宇文化及に殺された。
 矜持が強く他者の優越を許容できない点は梁元帝に通じ、叛乱の増加に伴い独善が甚だしくなって諫臣の多くが粛清され、結果的に恩倖が重用されて関隴集団からも遊離した。 文人としては夙に声名があり、詩風を「梁陳に倣って淫蕩なり」と評された一方で、文は唐太宗に「文辞は奥博。堯舜を是とし桀紂を非とするを知る」、清の沈徳潜に「辺塞の諸作、矯然として独り異なる。風気まさに転ぜんとするの候なり」と高く評価された。
隋に対する叛抗が熾烈だった山東と江南は被征服地でもあり、殊に山東は黄河の決壊の翌年に第二次高句麗遠征ですから、楊玄感の乱は生死の瀬戸際に示された選択肢的な感じです。 楊玄感の乱が造叛の契機になったのは江南も同様ですが、こちらはどちらかというと北の混乱に乗じた元お貴族様連主導です。
 煬帝暴君説には、唐で編纂された『隋書』や、帝王学の指定図書『貞観政要』での徹底的な悪評の影響が極めて強く、伝説の桀紂に対し、始皇帝とセットで語られることが一般化されてきました。 なので、近年では正史主義の修正という潮流もあって、特に中国の流通体制の方向性を決定した大運河の功績や雄才大略を軸に煬帝の再評価も試みられてるようですが、目的と結果と歴史的成果は区別して評価されるべきで、始皇帝と同一視することは出来ないかと。
 余談になりますが“煬”は「礼に悖り、民に親しまない」諡号で、煬帝が陳叔宝に贈ってもいます。

楊諒  575〜605
 漢王。字は徳章。文帝の第5子。文帝に鍾愛され、593年より北防の要の幷州総管とされて太原で52州を統制し、高句麗遠征では行軍元帥とされ、翌年(599)に突厥の達頭可汗が侵犯すると晋王と共に行軍元帥とされて馬邑から史万歳を進ませた。 楊勇の廃嫡や蜀王の粛清で猜忌が募り、文帝の死と徴還の報に接して挙兵したものの戦略が定まらず、一戦で楊素に大破されて降伏した。煬帝の兄弟の故を以て減死に処され、庶民に貶された後に幽閉先で歿した。

薛道衡  540〜609
 河東汾陰の人。字は玄卿。魏の常山太守薛孝通の子。 13歳で『国僑(子産)賛』を作ってより才名を知られ、楊愔の薦挙で武成帝に側近した。 陳使傅縡との応酬詩は広く知られ、文林館待詔に加えらると盧思道李徳林らと声名を斉しくし、南朝風の華麗精巧な詩風は庾信にも讃えられて“一代の文宗”とすら称された。 隋文帝にも殊遇されて上開府を加えられ、楊素高熲牛弘ら権門や諸王からも尊重され、仁寿年間(601〜04)に楊素が万機を決裁するようになると検校襄州総管とされた。
 嘗て平陳から程なくに人事に携わり、「蘇威に与し旧知のみ用う」との該奏で嶺南の防士に徙された事があり、赴途で揚州の晋王に招かれた際に江陵に路を避けた事で晋王に憎まれ、煬帝の即位後に秘書監から司隷大夫に遷され、新令の決定が遅延したおりに高熲の即裁を懐旧したことで自殺を命じられた。
襄州総管への転出は、楊素と薛道衡の朝廷での結託を忌んだ文帝の措置とも、権力集中を図る楊素による排斥とも解釈されています。 司隷大夫は煬帝の即位後(607)に新設された正四品官で、天下知名の士が任じられる名誉職として実権は伴いませんでした。

楊玄感  〜613
 楊素の子。姿貌雄偉で美髯を称され、好学で弓馬にも長じ、父の歴功で無功のまま601年には柱国に位した。 人士との交際を好んだものの驕倨でもあり、煬帝に門勢を忌まれ、吐谷渾親征の帰途の達斗抜谷で秦王の擁立を謀ったとも伝えられ、613年の第二次高句麗遠征で督糧官として黎陽に留められると、運糧を停滞させ、ついで来護児の造叛と討伐を喧伝して挙兵した。 洛陽攻略に固執して黎陽を失い、武衛将軍屈突通・左翊衛大将軍宇文述・右驍衛大将軍来護児らの接近で関中攻略に転じたが、弘農で追兵に大敗して自殺にも失敗し、洛陽で殺された。
 楊玄感の乱は3ヶ月で終わったが、第二次高句麗遠征の頓挫と元勲家の叛乱は隋朝の権威を大きく失墜させ、支配層の分裂と叛乱の頻発をもたらした。
“勇は項羽に伍す”と称される事がありますが、これは本来は楊玄感の謀首となった李密がかねて「項羽たらん」と嘯き、史書でも「李密の才は項羽に伍す」とされた事に由来する誤解です。

宇文述  〜616
 代郡武川の人。字は伯通。北周の上柱国宇文盛の子。 尉遅迥の平定に従って上柱国・褒国公に進められ、隋の建国で右衛大将軍に叙され、平陳では六合から渡江して石頭城を陥し、韓擒虎・賀若弼を支援した。 平陳の頃から晋王に通じ、煬帝の即位で左衛大将軍・許国公に進んだ。 吐谷渾遠征(608)を成功させた後は蘇威と共に人事を管掌し、煬帝に阿附して親任も篤く、蘇威・裴矩裴蘊虞世基らと併せて“五貴”と称され、絶大な権勢があった。 第一次高句麗遠征では鴨緑江を渡って薩水(清川江)に達したが、欠糧から終戦を急いで佯降によって乙支文徳に大破され、渡江した隋兵30万5千人のうち2700人のみ遼東城に帰還する惨敗を喫し、減死に処されて庶人とされた。 翌年に楊玄感が挙兵すると高句麗遠征から回頭して洛陽を救援し、西走した楊玄感を追討して弘農の閿郷で大破した。 突厥の始畢可汗の包囲を遁れた煬帝に江都への行幸を勧めて喜ばれ、翌年に江都で病死した。

張須陁  565〜616
 弘農閿郷の人。斉郡丞のとき、612年に飢饉に際して独断で官庫を開放したことを煬帝に称揚された。 斉魯の各地に王薄・裴長才・郭方預ら諸賊が蜂起すると寡兵で悉く討平し、翌年(614)に十余万の兵を擁して蹲狗山(山東省煙台市招遠)に拠る左孝友を討平して斉郡太守・河南道十二郡黜陟討捕大使とされた。 河北から南下した盧明月を大破し、又た度々翟譲を破って畏敬されたが、滎陽太守に転じた後、退走する翟譲を追撃して李密の伏兵に大破され、重囲に残された属僚を救出する中で戦死した。

来護児  〜618
 南陽新野の人。字は崇善。江都に居し、幼少から詭計に長じ、奇行が多く武事を好んだ。 叔父を殺した郷豪を殺して名を知られ、平陳の役では大都督として賀若弼に属し、次いで楊素の江南経略に水帥督として従い、越州(浙江省紹興)の高智慧や歙州の汪文進らを大破して柱国・泉州刺史とされた。
 煬帝に篤く信任されて上柱国・右驍衛大将軍・黄県公に進められ、行幸にもしばしば随い、第一次高句麗遠征では平壌道行軍総管として海上から平壌城に迫ったが、掠奪を放置したことで奇襲に敗れ、陸軍との連携を行えないまま帰国した。 再征・再々征でも水軍を督したが、楊玄感の乱や高句麗の称藩によって戦果は挙げられなかった。 613年に栄国公に進封され、煬帝の南奔に同道して左翊衛大将軍に進み、江都の乱で宇文化及に殺された。
 来護児の諸子の内でも殊に第6子の来整は驍将として知られ、高句麗遠征で「六郎の槍は官軍十万に優る」と畏れられたが、江都で父兄と共に戦死した。

楊義臣  〜617
 代郡の人。秦興県公尉遅崇の嗣子。父が尉遅迥の親族だったにも関わらず楊堅を支持し、建国の翌年に突厥を迎撃して戦死した為に宮中で養育されて賜姓された。 598年に行軍総管とされて突厥の達頭可汗を白道に撃退し、翌年には史万歳と塞外に突厥を追討したが、史万歳が刑死したために論功を抹消された。 601年に朔州総管に転じ、604年の漢王の乱で代州を救援して上大将軍に進位し、607年より中央に転じて宗正卿・太僕卿を歴任して609年の吐谷渾遠征にも従った。 第一次高句麗遠征では前鋒となって鴨緑江を越え、副帥とされた第二次遠征中に楊玄感が叛くと検校趙郡太守に転じた後に隴東の混乱を鎮定した。 第三次遠征の後に河北・山東の叛乱平定に転じて高士達張金称ら叛徒の殆どを討平したが、功の集中を忌まれて召還され、礼部尚書として歿した。

楊侑  605〜617〜618〜619
 恭帝、代王。煬帝の嫡孫。元徳太子昭(584〜606)の子。はじめ陳王に立てられ、後に代王に遷された。 高句麗遠征では長安の総留事とされ、煬帝の南遷に随わずに長安に鎮し、長安を陥した李淵に擁立された。 翌年に煬帝が弑されると李淵に禅譲して酅国公とされたが、翌年に暗殺された。

楊侗  〜618〜619/619
 恭帝、越王代王の庶兄。 煬帝の外征では洛陽に留守する事が多く、煬帝の南奔の際にも洛陽に鎮して瓦崗軍と対峙し、煬帝の訃報が伝わると東都の百官に擁立された。 瓦崗軍を大破した王世充に逼られて譲位し、翌月に殺された。 『資治通鑑』では元号によって皇泰主と記される。

王世充  〜621 ▲
 西域の支姓の人。字は行満。父がその生母の再嫁に随って、義父の王氏を称した。 好学で、夙に兵書を好んで詭詐に長じ、開皇年間に軍功で兵部員外郎とされた後に法律を修めた。 煬帝の即位後に江都丞・江都宮監となって親任されるようになり、楊玄感の乱の後、劉元進孟譲格謙盧明月ら江淮の叛徒の多くを討破して威名を挙げ、興洛倉を陥された東都への援軍となって越王に従った。
 618年に煬帝が弑されると諸卿と図って越王を立てて吏部尚書・鄭国公とされ、李密を大破した後に粛清によって全権を掌握し、619年には越王を廃して鄭帝を称したが、圧政によって離背者が続出し、竇建徳と結んで李世民に対抗したものの、621年に大敗して降伏した。 益州への流謫の途上の雍州で旧怨から暗殺された。

宇文化及  〜619
 代郡武川の人。左翊衛大将軍宇文述の長子。軽薄公子と称されながらも楊広には信任され、後に弟の宇文士及が南陽公主を降嫁されると貪婪横恣が甚だしくなり、突厥人との密貿易が発覚した際には父の懇願で蟄居に減刑され、父の遺言によって右屯衛将軍に直された。 煬帝の南遷に従い、北帰を望む禁軍の将兵を抑えられずに618年に煬帝を殺し、楊俊の嗣子/秦王浩を擁立して北上したが、洛口で王世充に阻まれ、童山で李密に惨敗し、魏県で秦王を殺して許帝を称した。 翌年に竇建徳に大敗し、襄国で殺された。

 
 
 

張金称  〜616
 清河鄃県(山東省夏津)の人。611年に遼東遠征での徴発を逃れて蜂起し、忽ち万余の衆が従った。 冀南一帯を劫掠して最も惨暴と称されたが、614年に高句麗遠征軍の残兵を転用した楊義臣に大破され、616年に捕われて磔刑とされた。 余衆の多くは竇建徳に投じた。

  〜617
 東郡韋城(河南省滑県)の人。東都法曹だった時、些事で投獄されて獄吏の扶けで脱走し、611年に同郡の単雄信・徐世勣らと瓦崗で挙兵し、周辺の蜂起勢力を糾合して瓦崗軍と呼ばれた。 煬帝の苛政に苦しむ大運河沿道を中心とした関東の反官感情を吸収して急速に拡大し、李密を迎えた後は戦略や組織化が進んで河南討捕大使張須陁の撃滅に成功し、翌年には興洛倉・黎陽・回洛倉などの大倉庫を抜いて河南に勢力を確立した。 家門や学識を重んじて李密を魏公に立てて自身は上柱国・司徒を称し、江都から東都に来援した王世充を大破し、竇建徳らを帰服させたが、指導部が官僚地主層に占められた後に李密に謀殺された。

李密  582〜618
 遼東襄平の人。字は玄邃。隋の蒲山郡公李寛の嗣子。西魏の八柱国/北周の趙国公李弼の曾孫。 家門に対する矜持から楊氏を蔑し、叙任の日に煬帝に左親衛府大都督(東宮護衛)を罷免されたが、楊素からは項羽たらんとする自負を絶賛され、楊玄感と刎頸の交を結んだ。
 後に楊玄感が叛くと謀主に迎えられたものの、薊の煬帝襲撃や長安攻略の進言は聴かれず、楊玄感の敗滅後は翟譲に投じて副帥とされた。 滎陽で張須陁を敗死させ、翌年に興洛倉(河南省鞏県)を陥した事を機に魏公と号して瓦崗軍の首領となり、東郡の孟譲や虎牢の裴仁基らを帰服させ、洛陽の王世充と攻防した。 一時は越王と和して宇文化及に対処したが、内部では疲弊と不和が進行し、総動員で偃師に来攻した王世充に惨敗すると長安の李淵に投じて光禄卿・邢国公とされたものの、再起を図って出奔する途上で盛彦師に斬られた。
煬帝による李密の罷免は「ツラが気に入らない」せいだと史書にも明言されています。超プライド同士“ウマが合わなかった”の一言に尽きます。 それはさて措き、李密の罷免は過失とは無関係ですから、辞表が必須です。そこで宇文述が仲介に立ちましたが、才能と将来性を褒めそやされた李密は「大都督なんぞは役不足」と精学を勧められると、嬉々として辞表を提出したそうです。 新参者を過剰に気にして、総参謀長からの“おだて”で舞い上がった武将もそうですが、どうもこの手のタイプは賛辞には滅法弱いようで。

高士達  〜616
 信都蓚の人。611年に遼東遠征を嫌って高雞泊(河北省故)に拠って蜂起した。 616年に涿郡を抜いた後は守勢に転じ、楊義臣に討平された。

竇建徳  573〜621
 貝州漳南(河北省故城)の人。611年に高句麗遠征の徴発を逃れて高雞泊の高士達に投じ、その死後を継いで張金称らの残兵も糾合し、討伐が中原に集中した事もあって大勢力に発展した。 617年に楽寿(河北省献県)で長楽王を称し、翌年に宇文化及を滅ぼして河北のほぼ全域を掌握すると夏国王を称し、洺州(河北省永年)に奠都した。
 為人りは恭倹で大度があり、殺掠を控えて官吏・士人すら保護したこともあって隋末群雄の中で最大の勢力を築いたが、隋の旧臣や地主層を指導部に加えたことで反官性を失い、洛陽の越王に称臣して唐に対抗した。 621年に洛陽を襲われた王世充の要請で出兵し、虎牢で李世民に大敗して長安で殺されたが、称帝した王世充が助命されたことで李氏に対する関東の反感が助長され、劉黒闥徐円朗らによって抵抗をが継続された。

劉黒闥  〜623 ▲
 貝州漳南(河北省故城)の人。 竇建徳とは旧知で、隋末には李密・王世充らに従った後に竇建徳に帰し、斥候と騎兵を用いた奇襲を得意として“神勇”と称された。 竇建徳が殺されると郷里に残兵を糾合して貝州・魏州を抜き、李神通・徐世勣らを撃退し、兗州の徐円朗や幽州の高開道と結んで突厥の援軍も得、半年ほどで竇建徳の故地の殆どを回復した。 翌春に相州を陥すと漢東王を号し、洺州(河北省永年)に拠って総管の羅士信を敗死させるなど威勢があったが、間もなく李世民に大敗して突厥に遁れた。 以後は突厥兵を率いてしばしば河北に入冦し、一時は洺州を回復したが、冬に李建成・李元吉に館陶で大破され、翌年に饒陽で捕われて洺州で殺された。

劉武周  〜622
 瀛州景城(河北省泊頭)の人。馬邑に居して騎射と驍勇で知られ、高句麗遠征では楊義臣に従った。 617年に馬邑太守を殺して挙兵し、突厥に称属して雁門・定襄・楼煩などを攻略し、突厥から定揚可汗に立てられると称帝した。 上谷の宋金剛を帰服させ、619年に唐の李元吉・裴寂を破って太原を陥し、宋金剛が晋州を陥した事で河東でも呼応する勢力が続出した。 翌年、宋金剛が絳州・介州で李世民に大破された為に突厥に奔り、馬邑への逃亡が露見して殺された。

高開道  〜624
 滄州陽信(山東省)の塩商。 隋末に格謙に投じて豪勇を謳われ、格謙の死後は海滄州一帯を劫掠して勢力を拡大させ、618年には北平・漁陽を陥して燕王を称した。 620年に竇建徳に攻囲された幽州総管羅芸の乞援に応じた事で蔚州総管・上柱国・北平郡王とされて李姓を下賜されたが、翌年には幽州の飢饉に乗じて突厥や劉黒闥と結び、恒州・定州・幽州・易州などを劫掠した。 623年には頡利可汗と共に馬邑を抜いたが、麾下の多数を占める山東人は帰郷を渇望し、これを煽動した部将の張金樹に殺された。
 張金樹は唐に降って北燕州都督とされ、一帯には嬀州が新設された。

徐円朗  〜623
 兗州の人。617年に蜂起して斉魯の南部を席捲し、李密に従った後、619年に唐に降って兗州総管・魯郡公とされたが、劉黒闥の蜂起に呼応して任城で盛彦師を擒え、魯王を称すと兗州〜河南の群盗の多くが応じた。 劉黒闥が大敗した後、李神通・李世勣らにしばしば敗れ、兗州城から退走する途上で殺された。

盧明月  〜617
 涿郡の人。614年に蜂起し、祝阿(山東省斉河)に拠って十余万の兵を擁した。 張須陁に大破されると淮北に逃れ、数十万を擁する勢力に拡大して無上王と号したが、南陽で王世充に敗死した。

薛挙  〜618
 河東汾陰の人。父に随って蘭州金城に居し、騎射に秀でて驍勇を知られ、巨富を擁して交遊を好んだ。 隋では金城府校尉とされたが、617年に一帯の飢饉に乗じて子の薛仁杲とともに挙兵し、隴西を支配して秦帝を称した。 扶風に進出して李世民に敗れると唐に臣従したが、突厥の莫賀咄設(頡利可汗)との連和に失敗しながらも翌年再び叛き、劉文静らを撃退して程なくに病死した。
 嗣子の薛仁杲は「万人敵」と称される猛将だったが、父の死後に来攻した李世民に敗れ、長安で斬られた。

李子通  〜622
 東海郡(山東省棗庄市域)の人。 漁師だったものが長白山の群盗に投じた後、内訌から南奔して海陵(江蘇省泰州)に拠って615年に楚王を称し、煬帝が殺されて間もなくに江都を陥して遷り、翌年に呉帝を称した。 次いで丹楊を降し、沈法興を逐って毗陵(常州市区)を陥すと江南人士の多くが帰服したが、程なく杜伏威に敗れて南奔し、呉郡に沈法興を大破して餘杭に拠ったものの、翌年(621)に杜伏威に討平されて長安に送られた。 李淵に田邸を与えられて礼遇されたが、杜伏威の上京を機に再興を謀って出奔し、藍田で捕われて殺された。

沈法興  〜620
 湖州武康の人。陳の護軍将軍沈恪の子。 大業(605〜18)の末に呉興太守とされ、618年に宇文化及誅伐を唱えて挙兵したのち浙西・江南を略定して毗陵(常州市区)に拠り、次いで丹楊を抜いて江表の十余郡を支配すると江南道総管を称した。 又た東都の越王に通じて大司馬・録尚書事・天門公を称し、越王が殺されると梁王を称して多く南朝の官を復立したが、専ら厳刑に依って威信を求め、輿望を失った。 周囲を杜伏威陳稜李子通に囲まれ、江都の陳稜救援に失敗して間もなく李子通に毗陵を逐われ、呉郡で土豪の聞人遂安に伐たれて自殺した。

蕭銑  583〜621
 曲阿武進(江蘇省)の人。西梁宣帝の曾孫。西梁明帝の弟だった祖父/蕭巖が隋に背いた後に平陳で殺された為に不遇だったが、明帝の娘が煬帝の皇后とされた事から羅川令に叙され、617年に岳州の校尉董景珍・雷世猛らが挙兵するに際して梁王に擁立された。 翌年には称帝して江陵に拠り、湖広を支配して兵力40万と号したが、擁立の諸将が各々兵権を掌握して統制できず、又た自身の猜疑心もあって内訌が絶えず、唐の李孝恭李靖らが巴蜀から東下すると離叛者が相次ぎ、江陵を囲まれて開城した。 降伏に際しては唐兵による殺掠の禁止を求め、長安で自身を田横に喩えて処刑された。

杜伏威  〜624
 斉州章丘の人。貧苦によって夙に偸盗を行ない、613年に長白山(山東省章丘)に投じて衆を集めた後に淮南に遷って勢力を拡大し、617年に討伐軍を大破すると歴陽に拠って総管を称したが、煬帝の拠る江都との対立は回避した。 将兵と甘苦を共にし、治下では賦税の減免や貪汚官吏の粛正、殉葬の禁止などによって輿望を集め、煬帝の死後には東都李淵に通款し、それぞれから楚王・東道大総管、呉王・東南道行台尚書令・賜李氏とされた。
 620年に李子通を江都から逐うと丹陽に移鎮し、洛陽攻囲に援軍を発するなど李氏との通誼を強め、622年に劉黒闥徐円朗らが討平された事を機に入朝して太子太保とされたが、長安に軟禁された後に丹楊を留守する輔公祏が造叛し、討平の後に毒殺された。


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