千金公主
北周の趙王宇文招の娘。
579年に突厥の沙鉢略可汗の求めで皇女として入嫁した。
楊堅の簒奪後に楊姓を下賜されて大義公主と改められたが、簒奪を怨恚して都藍可汗に入冦を煽動し、そのため隋に通誼した突利可汗の讒言で殺された。
王韶 526〜593
太原晋陽の人。字は子相。
北周では豊州刺史・開府儀同三司・昌楽県公に進み、禅譲で霊州刺史・大将軍・項城郡公に直された。
硬骨の士として文帝に「文は王子相、武は李広達」と信任され、晋王広や秦王俊が総管となった際には輔導を託され、柱国に進位した。
牛弘 545〜610
字は里仁。安定鶉觚の人。
北周では内史下大夫・大将軍に至り、禅譲で秘書監に叙され、583年に民間から図籍を収集させて秘書を充実させ、奇章郡公に進封された。
寛容好学で特に礼制に詳しく、礼部尚書のとき勅で五礼を修撰し、又た586年に太常卿に転じた後は礼楽や音律の定制に参与し、楊素と雖も敬服して執礼を疎かにしなかったという。
愚直かつ謹慎、言辞は温順で、煬帝にも敬重されて上大将軍・右光禄大夫に進位し、文帝・煬帝を通じて終始信任された唯一人とされる。南巡に随って江都で歿した。
貞観年間に完成した『周書』は、牛弘の未完の国史に依るところが大きかったとされ、そのため宇文政権に対する配慮が踏襲されている点で批判される。
虞世基 〜618
会稽余姚の人。字は茂世。博学多才で草書・隷書を能くし、夙に江左で盛名があって太子中庶子・散騎常侍・尚書左丞に至った。
平陳後の困苦の後、煬帝が即位すると内史侍郎に抜擢されて章書を典って能名があったが、高熲らが粛清された後は帝旨に迎合する事が多く蘇威・宇文述らと“五貴”に数えられ、一族の驕侈もあって朝野に憎まれた。
江都の変で殺された。
史万歳 549〜600
京兆杜陵の人。騎射に長じ、兵書を好み、564年の邙山の役で初めて従軍し、平斉の役で父が歿して太平県公を襲いだ。
尉遅迥の乱では常に行軍総管梁士彦の前鋒となって上大将軍に進み、583年の北伐での功で上儀同に直されて車騎将軍を加えられ、平陳の役で上開府に進んだ。
翌年の楊素の南伐に行軍総管として従い、東陽から高智慧を深追して700余戦に連勝し、597年に南中の昆州刺史爨翫が叛いた際にも行軍総管とされ、諸葛亮の紀功碑を越えて西洱河を渡り、渠濫川から1千余里を進んで爨翫を再び入朝させて柱国に進んだ。
河州刺史に転じた後、漢王楊諒の北伐を輔けて大斤山で達頭可汗を大破したが、軍功を妬忌した楊素の誣告で論功前に皇太子派として殺された。
薛世雄 555〜617
河東汾陰の豪門。字は世英。
武帝の平斉に従ってより周・隋で累功があり、開皇年間に儀同三司・右親衛車騎将軍に進位し、604年に番禺の叛乱を鎮定して右監門郎将とされた。
為人りは清廉謹直で、煬帝の吐谷渾遠征で秋毫も犯さなかったことで称賛されて右翊衛将軍に転じ、608年に伊吾遠征を成功させた。
第一次高句麗遠征では宇文述と共に平壌で敗れ、敗走中に重囲に陥ると精騎200による突撃で脱出・帰還して勇武を讃えられた。
楊玄感が叛くと高句麗再征から転じて東北道大使・守燕郡太守とされて突厥に備え、第三次高句麗遠征では左禦衛大将軍・涿郡留守とされた。
617年に李密に逼られた洛陽救援に向って河間で竇建徳に阻まれ、濃霧の中での夜襲を受けて大敗して涿に帰還し、程なく病死した。
蘇威 542〜623
京兆武功の人。字は無畏。北周の美陽県公蘇綽の嗣子。
宣帝の下で大将軍に列し、楊堅が秉政すると高熲の薦挙で与に朝政に参与した。
禅譲で太師少保・邳国公に進められ、民部・刑部・吏部尚書などを歴任し、法制の整備など隋初の礎を築いて589年に尚書右僕射に進んだ。
煬帝の即位後、高熲に連坐して罷免されたものの間もなく復官して納言に進み、宇文述・裴蘊らと朝政を秉執して“五貴”と称されて房公に進封されたが、楊玄感の乱の後はしばしば諫争し、616年には裴蘊らの讒言で投獄された。
煬帝の南奔にも随い、江都の変の後は秦王・越王に従い、王世充が討平されると唐に降って長安で歿した。
何妥 ▲
西域何国(ウズベキスタン内)の人。益州に居した富商の子で、音律を以て知られた。592年に国子博士とされて鐘律の定制に参与して蘇夔(蘇威の子)と対立したが、朝臣の多くが蘇威の勢を憚って蘇夔に与したことから、蘇威を「朋党を以て人事を壟断す」と弾劾した。
長孫熾 549〜610
河南洛陽の人。字は仲光。長孫稚の曾孫。
群書を渉猟して武事にも長じ、又た道教への通暁を以て武帝の起した通道館学士とされた。
県令・太守を歴任して能治を称され、丞相となった楊堅に丞相府功曹参軍に抜擢され、禅譲で内史舎人・上儀同三司に直され、次いで東宮右庶子を兼ねて太子にも重んじられた。
長安県令・諫議大夫を兼ねた傍らで東南道や河南道・西南道に持節・大使となって巡撫し、煬帝の即位で大理卿に転じ、吐谷渾撃退にも従って銀青光禄大夫を加えられた。
陳稜 〜619
廬江襄安の人。字は長威。陳の譙州刺史陳峴の子。
平陳の後、父が廬江諸豪の造叛の盟主となる事を拒んで殺されると文帝に投じ、煬帝の即位で驃騎将軍に進位され、607年には武賁郎将に進んだ。
610年に流求国に遠征して右光禄大夫を加えられ、第一次高句麗遠征で宿衛に列し、楊玄感の乱では黎陽を抜き、次いで江南の孟譲を討破して光禄大夫・信安侯とされた。
煬帝の南奔に従って右禦衛将軍に進み、煬帝を弑した宇文化及により江都太守とされ、翌年に李子通に江都を逐われて杜伏威に投じたが、宇文化及に与した事を以て殺された。
裴蘊 〜618
河東聞喜の著姓。裴邃の兄の曾孫。
父の裴忌は呉明徹の北伐に従い、578年の敗戦で共に北周に擒われて北周・隋に仕え、開皇14年(594)に歿した。
裴蘊は陳で直閣将軍・興寧令を歴任したのち平陳に遭い、南朝の名士として文帝・煬帝に重んじられ、太常の楽人の大幅拡充や戸籍掌握のための連座制を建言して煬帝に喜ばれ、御史大夫に進んで宇文述らと倶に“五貴”と呼ばれた。
上意を察する事に巧みで枉法する事もしばしばで、薛道衡や蘇威を枉陥するなど刑理を恣にし、楊玄感の乱に与した叛徒の鏖殺も裴蘊の提言によるとされる。江都の変で殺された。
楊爽 563〜587
衛王。字は師仁。文帝の異母弟。
年少を以て楊堅に鍾愛され、禅譲から間もなくに雍州刺史・領左右とされた。
582年に涼州総管に転じ、翌年には行軍元帥として突厥に北伐して諸路の軍を統督し、朔州の白道で沙鉢略可汗を大破した。
586年にも元帥として突厥を撃退し、徴還されて納言となって程なくに頓死した。
楊勇 〜604
隋の文帝の嫡長子。楊堅が北周の丞相となった後、洛州総管・東京少冢宰とされて関東を総督し、次いで上柱国・大司馬・領内史御正に転じ、禅譲で隋の太子とされた。
好学で詩文に能く、又た温寛で多くの文人と交わったが、奢侈や女色を好んで礼節に欠ける点を両親に忌まれ、これに乗じた弟の晋王の詐貞や楊素に承旨した後宮の讒言などから600年に廃黜されて庶人に貶された。煬帝が即位すると遺詔を理由に賜死され、房陵王に追封された。
楊俊 571〜600
秦孝王。隋の文帝の第3子。禅譲後に上柱国に任じられて河南道行台尚書令・洛州刺史、秦州総管、山南道行台尚書令を歴任し、平陳の役では山南道行軍元帥として30総管を統督して漢口に屯した。
590年より幷州総管に転じたが、奢侈・非法に傾いて政情を乱し、病臥を機に597年に長安に召喚されて官爵を除かれ、後に重篤となってから上柱国を戻されたが、恢復することなく歿した。楊俊の好色を妬忌した崔妃による毒害として、崔妃は賜死された。
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子の楊浩は煬帝の即位後に襲爵を認められて南奔にも随い、江都の変の後に宇文化及に擁立されたが、半年で廃されて毒殺された。
楊秀 573〜618 ▲
蜀王。秦孝王の次弟。
禅譲で上柱国に任じられて益州総管・西南道行台尚書令・内史令などを歴任し、後に復た蜀に出鎮した。
長兄が廃嫡された後は楊広に対する不満を隠せず、そのため僭儀と奢侈を誣告されて602年に庶人に貶され、煬帝の即位後も幽閉を解かれなかった。
江都の変では初め継嗣に擬されたものの、衆議で廃されて殺された。
楊暕 585〜618
斉王。煬帝の第3子。
かねて文帝に鍾愛されて開皇年間に豫章王に封じられ、煬帝の即位で斉王に転じた。経史を好んで武事にも長じ、豫州牧・雍州牧・河南尹などを歴任し、太子の楊昭が歿した後は継嗣に目されたが、そのため驕慢・軽佻となって巫蠱などが該奏され、京兆尹に転出されて常に武賁郎将に監督された。後に江都の変で殺された。
李穆 510〜586
隴西成紀の人と称した。字は顕慶。
北周の陽平郡公李遠の弟。諸兄と行動を倶にして宇文泰に謹慎大度を嘉され、邙山の役で宇文泰を救った事で篤く親任されて武衛将軍・安武郡公に加えて恕以十死の鉄券を下賜された。
于謹の江陵平定に従った後に大将軍に進位し、原州刺史、雍州刺史・兼小冢宰を歴任し、甥の李植に連坐して程なくに復官し、567年に申国公に進封され、平斉で幷州総管・上柱国に進んだ。
宣帝の即位後は総管のまま左大輔・太傅を歴任し、尉遅迥の乱では楊堅に通誼して朔州・潞州を回復すると共に即位を勧進し、禅譲で太師に叙されて贊拜不名や大逆以外の不問の特典が加えられた。復た子・孫は褓襁でも儀同を加えられ、一門からは百余の執笏を出すなど盛門として栄えた。
李渾 〜615 ▲
字は金才。李穆の子。
尉遅迥が討平されると父の功で安武郡公に封じられ、禅譲後は晋王広に従軍して煬帝の即位で右驍衛大将軍とされた。
申国公を襲いだ甥の李筠を暗殺し、妻兄の宇文述に通じて襲爵が認められたが、約束した謝礼(歳賦の半ば)を履行しなかった事から不和となり、讖緯「当有李氏応為天子」の図讖を以て謀逆に枉陥され、従子の李敏ら宗族32人と共に殺された。
又た宇文述の使嗾で謀逆を上訴した妻女も自殺を命じられた。
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李敏は李穆の長兄/李賢の孫にあたり、父/李崇の広宗公を襲いで将作監に進んだが、幼名が洪児だったことから、洛陽水没の夢を忌む煬帝に李渾の収捕を機に併せて殺された。
李徹 〜599
朔方巌緑の人。字は広達。
宇文護に謹直と職事を嘉されて車騎大将軍・儀同三司に進み、平斉の役では斉王に従い、宣帝の即位後の淮南経略では韋叔裕の前鋒となった。
禅譲で上開府とされて左武衛将軍に転じ、歴戦の宿将として文帝に「文は王子相、武は李広達」と高く評価されて幷州に進駐した晋王の軍事を典領し、間もなく衛王の元帥府長史に転じて突厥の沙鉢略可汗を大破し、突厥の内訌が表面化した後は行軍総管として平涼に鎮した。
以後も揚州に移鎮した晋王の副官や突厥の撃退によって城陽郡公に転封されたが、親交のあった高熲の失脚と共に疎まれ、間もなく恨言を誣されて宴席で毒殺された。
李徳林 531〜591
博陵安平の人。字は公輔。
夙に博学と文才で知られ、高隆之・魏収にも将来を嘱望され、557年に定州刺史の任城王に挙げられてより鄴で文書の官を歴任し、572年に中書侍郎に叙されて文林館にも列した。
平斉で長安に徙されて上開府とされ、楊堅への禅譲文を起草して内史令とされたが、宇文氏の鏖殺を強諫した為に禅譲後も品位は加えられず上儀同を授けられたのみだった。
律令の制定にも参与し、585年に安平県公に進爵され、平陳後に柱国・郡公に進められたが、間もなく土地売買の不正を以て蘇威らに該され、懐州刺史に左転されて歿した。
斉史の勅撰を進めていたものの未完のままで、子の李百薬が『北斉書』を完成させた。
梁睿 532〜595
安定梁氏の人。字は恃徳。北周の信都県公梁禦の嗣子。
功臣の子として宮中で養われ、禅譲後に蒋国公に進封され、しばしば軍功を挙げて敷州刺史・涼安二州總管・柱国に進んだ。
尉遅迥に応じて叛いた益州総管王謙を討平して上柱国に進位し、益州総管として南中の慰撫を進め、西州での声望は甚だ高かった。
禅譲後は平陳策や北辺鎮守の計を上書して嘉されたが、久しく外州に大兵を擁している事を自懼して求めて徴還され、間もなく病を称して閉門した。
王謙を討平して益寧を略定した当初は楊堅の猜忌に配慮して臧賂によって自穢し、後に当時の人事の不実を以て糾察されたものの不問とされた。
格謙 〜616
河間郡の人。613年に渤海の厭次県豆子䴚(山東省恵民)で挙兵して燕王を称した。
しばしば官軍を破ったが、楊義臣に敗死した。
裴仁基 〜619
河東郡の人。字は徳本。張須陁の後任の河南道討捕大使として虎牢で瓦崗軍の西進を防いだが、讒言に遭って翌年(617)に李密に帰順した。李密の大敗によって王世充に降り、僭称で礼部尚書とされたが、謀叛が露見して殺された。
輔公祏 〜624
斉郡臨済(山東省章丘)の人。
夙に杜伏威と親交して起義にも従い、副弐としての信任も篤く、杜伏威が長安に通款した際には淮南道行台僕射・舒国公とされた。
杜伏威が長安に入朝した際には丹楊に留守したが、兵権を右将軍王雄誕との分掌とされた事を不満とし、翌年(623)に王雄誕を殺して挙兵した。
一時は海州(江蘇省連雲港市域)にも達して宋帝を称したが、翌年に李孝恭・李靖に当塗で大破され、武康(浙江省)で捕われて斬られた。
王雄誕 〜623 ▲
曹州済陰の人。杜伏威の仮子30人のうち、“大将軍”闝棱と与に名を知られて“小将軍”と呼ばれた。
後に右将軍とされ、杜伏威の入朝後は丹楊で輔公祏と兵権を分掌し、これを不満とした輔公祏に殺された。
闝棱は杜伏威と同邑の猛将で、刃長丈余の両刃刀を“陌刀”と称して一揮で数人を殺したという。
後に左将軍とされ、杜伏威の入朝に随って左領軍将軍・越州都督に叙され、輔公祏の討伐でも功が多かったが、杜伏威と与に殺された。
孟讓
斉郡の人。613年に挙兵して王簿らと与に長白山(山東省鄒平)に拠り、張須陁に敗れた後は南下して盱眙に入り、十余万の衆を集めて江淮を席捲した。
江都丞王世充に惨敗した後は東郡に逃れて再起し、ついで瓦崗軍に投じ、瓦崗軍の崩壊で行方不明となった。
劉元進 〜613
餘杭(浙江省杭州市)の人。
任侠を好み、徴発から逃れた士卒を匿い、楊玄感の乱に乗じて挙兵すると呉郡の朱燮・晋陵の管崇ら三呉の呼応を得て呉郡で称帝した。
討伐に大敗して建安(福建省南平)に退いた後、隋将が召喚されて頽勢を回復したものの、後任の王世充に討平された。