▽ 補注:北朝/人物.1

乙渾  〜466
 文成帝晩年の権臣。 465年に文成帝が歿するや偽詔で平原王陸麗ら大官を殺し、太尉・録尚書事となって万機を独裁した。まもなく丞相・太原王を称したが、文明太后らに謀られて誅された。

于栗磾  370〜444
 代の鮮卑人。膂力に秀でて騎射に長け、拓跋珪に従い、伐燕で井陘から中山を急襲して慕容宝を大破し、明帝の時には河東に鎮して劉裕に畏憚された。 太武帝の赫連昌討伐にも大功があって新安公に進爵され、虎牢鎮大将、鎮南将軍・枋頭都将、外都大官などを歴任した。 驍果でありながら士人には謙恭で、刑罰には慎重だったと伝えられる。

于烈  437〜501 ▲
 代郡の人。于栗磾の孫。貴顕の子弟として羽林中郎・殿中尚書を歴任して洛陽侯に封じられ、文明太后から拓跋丕陸叡李沖らと与に有罪不死の金策を下賜された。 洛陽遷都を支持して孝文帝にも重んじられ、497年に領軍将軍とされた。 宣武帝の即位後、咸陽王に剛直を忌まれて恒州刺史に出されると致仕し、宣武帝奪権に参与して車騎大将軍に進位したが、咸陽王を鎮定して程なくに急死した。

于忠  462〜518 ▲
 字は思賢。于烈の次子。宣武帝に近侍して親任され、北海王からの支持もあり、高肇に忌まれて一時は定州刺史に出されたものの、間もなく徴還されて延昌中(512〜15)に侍中・領軍将軍に進んだ。 宣武帝が歿すると領軍の兵力を背景に崔光らと与に孝明帝を擁立し、又た劉騰・侯剛・崔光らと与に宣武帝の正后の高氏を排斥して霊太后の垂簾を実現した事もあり、輔政の高陽王任城王を抑えて朝政を壟断して車騎大将軍・常山公に進んだ。 高陽王を罷免した事で朝野の怨恚を集め、霊太后にも大権を忌避されて征北大将軍・冀州刺史に出されたものの、旧恩を以て翌年(517)には徴還されて侍中・尚書右僕射に直された。

袁翻  476〜528
 陳郡項の人。字は景翔。文名を以て知られ、徐紇の薦挙で500年に著作佐郎となって李彪の史事を輔けた。 廷尉少卿・涼州刺史を歴任し、文名と附会によって霊太后に親任されて中書令となり、徐紇と倶に文翰を司掌したが、廷尉の時には不公正との毀議が連なり、又た他者を専ら排抑して奨抜する事がなく、河陽の変で殺された。

徐紇  ▲
 寒門ながらも好学多識で孝文帝に認められ、宣武帝のとき黄門侍郎に転じて門下・中書を統括し、全国からの文書を処理してその迅さと鑑識眼には定評が高かった。河陰の変に遭って梁に亡命した。

王慧龍  〜440
 太原晋陽の人。晋の尚書僕射王愉の孫。 王愉が劉裕に殺されると荊州に遁れ、司馬休之らに随って北魏に帰した。 しばしば明元帝に南征を求めて洛陽鎮将として金墉城に鎮し、明元帝が歿すると漢人の統兵権を忌まれて徴還されたが、崔浩の支持を得て南蛮校尉・安南大将軍左長史とされ、南朝の謝晦の乱に乗じることに失敗した後、滑台より王玄謨を撃退して龍驤将軍・長社侯とされた。 滎陽太守に転じ、「十年にして戦農併修、声績大著、万余家が帰す」成果を挙げ、しばしば到彦之・檀道済を撃退して「亡人の中、魯軌は頑鈍、馬楚(司馬楚子)は粗狂。慧龍と韓延之のみ深憚」された。 宋文帝によって反間が用いられた際にも太武帝の信頼は変わらず、太平真君元年に使持節虎牢鎮都副将・寧南将軍に叙されたが、赴任前に歿した。
 王慧龍の暗殺に失敗しながらも忠節を嘉されて釈放された呂玄伯は、後に墓側に居して終生去らなかった。

韓延之  ▲
 南陽赭陽の人。字は顕宗。魏の司徒韓曁の裔。晋安帝の下で建威将軍・平西府録事参軍となり、劉裕が司馬休之討伐の兵を挙げると、劉裕の父の字を以て用い、又た子には諱(翹)を充てて劉裕への不服従を明示し、司馬休之に従って北奔した。

王粛  464〜501
 琅邪臨沂の人。字は恭懿。南斉の雍州刺史王奐の子。 王奐が討平されたことで493年に北魏に亡命し、孝文帝に厚遇された。 翌年の南伐では義陽を攻略して六品以下の叙任が認められて都督・豫州刺史・揚州大中正とされ、第二次南伐でも義楊を攻略し、翌年に渦陽に裴叔業を大破して鎮南将軍・四州諸軍事を加えられた。
 孝文帝が歿すると尚書令とされて宰輔に列し、咸陽王らと親交して任城王とは反目した。 寿春の裴叔業が受降を求めた際には彭城王と与に赴援して蕭懿・李叔献を撃退し、ついで都督淮南諸軍事・揚州刺史に転じて能治を称された。
 強い功名心から軽佻と評されることもあったが、漢人名士として輿望が高く、又た旧事に通じていた事から孝文帝の朝議国典の多くを整定した。

賈智
 中山無極の人。字は顕智。賈顕智とも。北鎮の乱で爾朱栄に投じ、累功で金紫光禄大夫・美陽県伯に進み、爾朱栄が殺されると孝荘帝に帰順したが、兄の賈顕度が爾朱世隆に重用されていた為に難を免れた。 韓陵の役で爾朱氏が敗れると斛斯椿に従って洛陽の爾朱氏を執え、孝武帝が即位すると滄州刺史とされたが、貪縦として徴還されて侍中を加えられた。済州刺史に転じた後も東郡に留まり、長寿津で相州刺史竇泰に敗れて高歓に投じた事で孝武帝の東征を失敗させた。後に事に坐して45歳で殺された。

賈顕度  ▲
 北鎮の乱で爾朱栄に投じ、累遷して南兗州刺史・石艾県公に進み、爾朱栄が殺されると梁にいちじ逃れた後に爾朱度律に従い、韓陵の役の後は斛斯椿に同道した。孝武帝の下で左僕射・雍州刺史・西道大行台に至ったが、賈顕智の離叛を以て長安で賜死された。

賀抜允  487〜534
 神武尖山の人。字は可泥。賀抜度抜の子。神武郡は武川鎮が528年に廃鎮為郡されたもの。 胆略を称され、父が戦死すると兄弟と倶に恒州刺史の広陽王に依り、ついで爾朱栄に属し、長広王が立てられると燕郡公に進封された。 夙に高歓の才器を認め、遣柔然使の帰途に晋陽に入って高歓の帷幄に参画し、高歓の入洛で侍中・太尉・燕郡王に進められた。 弟のが孝武帝に与した後も高歓に信任されたが、孝静帝の擁立後に大逆を誣されて賜死された。

賀抜度抜  ▲ 〜524?
 武川鎮の人。 六鎮の乱で衛可孤に武川鎮・懐朔鎮が陥された後、宇文肱と与に義兵を募って衛可孤を殺したが、間もなく鉄勒に敗死した。

賀抜勝  〜544 ▲
 字は破胡。賀抜允の弟。 父の死後に兄に従って爾朱栄に依ると勇略を認められて河北に対する東門と称された井陘に進駐し、邢杲の討伐では前鋒に加わって功があった。 爾朱栄が殺されると河橋で爾朱世隆と別れて孝荘帝に近侍したものの、上洛した爾朱仲遠に降って節閔帝の擁立に参与し、高歓討伐では爾朱度律に従い、斛斯椿と倶に爾朱兆への諭使となって拘禁されたが、抗論が認められて釈放された。
 韓陵の役で高歓に降り、賀抜岳の支援を欲する孝武帝によって都督・荊州刺史・南道大行台とされ、沔北を略定して琅邪郡公に進封されたが、関中に逃れた孝武帝に参詣した間に侯景に荊州を占拠され、奪回に失敗して3年ほど梁に亡命した。 長安に帰参して太師とされた後は宇文泰の軍事に従い、弘農攻略では太守孫晏を擒え、沙苑の役河橋の役でも大功があり、542年に宇文泰の前軍大都督とされて玉壁に高歓を撃退した。 翌年の邙山の役では高歓に肉迫したものの段韶に遮られて追走できず、戦後に在東の諸子が鏖殺されて憤激から罹病し、翌年に病死した。
 義を重んじて財を軽んじ、重職に就いてよりは典籍にも親しんで文儒との討論を楽しみ、軍中でも常に泰若として宇文泰からも高く評価された。

魏子建  471〜533
 鉅鹿下曲陽の人。字は敬忠。武興氐が討平された後、鎮将・刺史の収奪で抵抗が続いた為に東益州刺史に叙され、恩威を併用して安定させた。 武興氐は反官的な気風が強かったが、六鎮の乱が生じると魏子建は州人を能く慰撫し、莫折念生の兵を悉く撃退し、又た上書して莫折念生に徴発された者の赦免を獲得した。 後に求めて徴還されて常侍・衛尉とされ、元の討平後に病を以て致仕すると左光禄大夫・散騎常侍・驃騎大将軍に叙され、洛陽で歿した。 博陵の崔孝振の姉妹を娶り、子の魏収は崔孝振の娘を娶った。

紇豆陵歩蕃  〜532?
 河西(河套西部)の人。 はじめ破六韓抜陵の挙兵に従い、後に朝廷に帰順した。 爾朱栄を誅した孝荘帝によって秀容討伐に派され、孝荘帝を廃した後に来攻した爾朱兆をしばしば破ったが、高歓の参戦によって敗滅した。

邢穎
 河間の人。字は宗敬。曹魏の太常邢貞の裔を称した。 431年に高允らと共に太武帝に辟召されて中書博士に叙された。440年には中書侍郎・仮通直常侍・平城子とされて宋に遣使した。

邢杲  〜529
 河間鄚の名族。幽州平北府の主簿だったが、鎮民の乱が生じると鄚を守って杜洛周・葛栄らに抵抗し、十余万の流民を率いて北海に依った後、河陰の乱を機に蜂起して漢王を称した。 翌年に上党王に討平されて京師で斬られた。

稽胡
 山胡・歩落稽とも。北魏〜唐の時代、離石を中心に活動した遊牧種。 人種帰属は不明とされ、活動範囲は隴東にも達し、しばしば討伐されながらも叛服が定まらなかった。

奚斤  360〜448
 代郡の鮮卑人。本姓は達奚。 拓跋珪に近侍して長孫肥らと共に宿衛兵を典領し、後燕攻略や高車遠征に従い、明元帝にも信任されて左輔に進んだ。 422年に明元帝の南伐の都督前鋒諸軍事とされ、兗州・豫州を経略して虎牢を抜き、明元帝の死で班帥したが、大将による拓疆は長孫嵩以来の快挙とされた。 太武帝が即位すると司空・宜城王に進められ、夏の攻略では長安を奪い、上邽に赫連昌を擒える大功を挙げたが、赫連定の追討で功を急いで捕虜とされ、太武帝の親征による平涼征服で解放された。 間もなく安東将軍・宜城公に直され、北涼遠征に対しては遠隔かつ水草に乏しい地である事などを理由に反対したが、戦後には弘農王・万騎大将軍に進められ、以後も元老として厚遇された。

奚康生  468〜521
 河南陽翟の人。本姓は達奚。代の歴世の部落大人。 柔玄鎮将・内外三都大官・長進侯奚真の孫。 487年に柔然を撃退した事で驍勇を認められ、494年の南伐で鍾離から孝文帝の退路を拓いて直閣将軍に叙された。 寿陽の裴叔業が来降した際には受降の援軍となって陳伯之らを撃退し、梁の臨川王の北伐に対しては武衛将軍に叙されて徐州で副帥の張恵紹を大破した。 華州刺史・州刺史を歴任し、明帝が即位すると領右衛将軍に叙されて宿衛を典り、520年に元叉らと謀って霊太后を幽閉した後は河南尹に転じたまま秉政に列したが、粗武高言の性で次第に元叉とは隔意を生じ、521年に霊太后の復辟に失敗して刑戮された。
 彎弓を用いた武名は江南でも遍く知られ、第二次南伐では王粛に従って“狂弩”と称され、南青州刺史の時に梁武帝から8尺の大弓を贈られて試射を求められると、難なく用いて賛嘆された。

元頤  〜500
 陽平王の嗣子。拓跋晃の孫。旧諱は安寿。 孝文帝に賜名され、487年に陸叡らと三路から北伐して柔然を大破し、懐朔鎮大将・朔州刺史とされた。 恒州刺史穆泰の謀叛では擁主に擬されたが、謀事を密奏して平定を扶け、宣武帝が即位すると青州刺史に遷された。

元ケ  〜530
 臨淮王。字は文若。太武帝の裔。 旧諱は亮だったが、同署した侍中穆紹の父の諱を避け、風采を以て荀ケに比せられて諱と字を下賜された。 宗室では文学を以て従兄の安豊王中山王と並称され、風流ェ雅は最上と称された。
 御史中尉・侍中・東道行台を歴任し、河陰の変で南奔すると江左でも風雅を讃えられ、孝荘帝が立てられると母の老齢を理由に帰国して尚書令・大司馬・兼録尚書に叙された。爾朱栄が殺されると司徒に進んだが、爾朱兆の入洛から逃れるところを執われ、拝礼を拒んで撲殺された。

元懌  487〜520
 清河王。字は宣仁。孝文帝の第4子。 経史に博通して寛仁容裕と称され、宣武帝の下で尚書僕射に進んだものの高肇と対立して不遇だった。 孝明帝の即位後に高肇を粛清し、太尉となって秉政したが、元叉に忌避されて謀叛を誣されて殺された。

元亶  〜537 ▲
 清河王懌の嗣子。 父の死後に家財の多くを奪った汝南王に返還を求めたところ、激しく打擲された。 元叉が失脚して襲爵が認められ、孝武帝が立てられると司徒とされ、孝武帝の西奔には随わずに洛陽に留まって高歓を迎え、大司馬として承制を行なった。 嫡子が擁立された後に粛清を懼れて南奔を図ったものの失敗した。

元悦  494〜532
 汝南王。孝文帝の子。兄の清河王が殺された後は元叉に阿附して太保・兼太尉に至り、河陰の変で南奔した後、530年に魏主に立てられて王辯を副に北伐した。 この時は爾朱兆の入洛に遭って南遁したものの532年に入洛を果たし、爾朱氏を討滅した高歓に天子に擬されたが、凶暴を忌まれて程なく殺された。

元淵  〜527
 広陽王の嗣子。字は智遠。太武帝の曾孫。『魏書』・『北史』では李淵に避諱して“元深”と記される。 孝明帝の時に恒州刺史となって臧賂と城陽王妃との淫通の嫌疑で失脚したが、六鎮の乱が起ると北道大都督とされて尚書令李崇に従って破六韓抜陵を討ち、李崇を枉陥して侍中・右衛将軍に進んだ。 河北の鎮民の乱で河間王が敗れると大都督とされて章武王元融・相州刺史裴衍らを督して鮮于修礼・葛栄を討ち、元融の敗死で定州に退くと異志を猜う刺史の楊津に逐われ、博陵で葛栄に擒われた後に輿望を忌まれて殺された。

元融  〜526 ▲
 章武王の嗣子。字は永興。拓跋晃の曾孫。 506年に梁城を陥した昌義之を撃退して幷州刺史に叙され、中護軍・河南尹に進んだが、苛斂誅求を指弾されて罷免された。 後に汾州・夏州の山胡討伐にも失敗したが、河北に鎮民の乱が再発すると車騎将軍・左都督として広陽王元淵に従い、搏野(河北省蠡県)で葛栄に敗死した。

元延明  484〜530
 安豊王の嗣子。文成帝の孫。 博識多通と能治の才を知られ、孝明帝の時に侍中に進んで崔光とともに服飾の制度を定め、後に尚書右僕射を兼任した。 元法僧が叛くと東道行台・徐州大都督とされて討伐し、梁の豫章王の投降で彭城を回復して都督・徐州刺史に転じた。 孝荘帝の下で尚書令・大司馬となり、529年には洛陽を陥したに従ったが、河橋で爾朱兆に大敗した後、元の敗滅で梁に奔って建康で客死した。

元煕  〜520
 中山王の嗣子。字は真興。 俊爽かつ文才に富んだ一方で軽躁浮動とも称され、しばしば廃嫡が図られたとも伝えられる。 清河王と昵懇だった為、孝明帝の時に光禄勲から相州刺史に出され、清河王が殺されると鄴で蜂起したものの長史の柳元章らに捕われて洛陽で殺された。

元禧  〜501
 咸陽王。字は永寿。孝文帝の次弟。 孝文帝の漢化政策を支持して重用され、侍中・太尉に進み、託孤の首輔として宣武帝を後見した。 宣武帝が親政すると驕奢貪淫かつ怠慢として削権され、以後も毀議が絶えなかった為に宣武帝の小平津への行幸に乗じて挙兵したが、内通から挙兵直後に于忠に鎮圧された。

元勰  〜508 ▲
 彭城王。字は彦和。献文帝の第6子。 497年の南伐に都督南征諸軍事・中軍大将軍として孝文帝に従って崔慧景蕭衍を大破し、司徒に進んだ翌年(499)の南伐では都督中外諸軍事・総摂六師として従い、軍中で孝文帝が歿すると任城王らと後計を定めて宣武帝の輔政にも列した。
 兄の咸陽王との不和で定州刺史に出され、裴叔業の来降で揚州刺史に転じ、徴還されて程なくの咸陽王の粛清を機に太師とされて実権を奪われた。 以後は私交を断って鬱々とし、高肇の姪の立后に反対した後、京兆王との通謀を誣されて殺された。

元詳  476〜504 ▲
 北海王。字は季豫。献文帝の第7子。 秘書監・中領軍・司州牧などを歴任し、孝文帝の託孤に連なって司空に進んだ。 咸陽王の粛清後も権を保って録尚書事に太傅・領司徒を加えられ、高肇・于勁(于烈の弟)と鼎立したが、高肇・崔亮に貪婪と収賄を該奏されて庶人に貶された。

元継  465〜528
 江陽王。字は世仁。道武帝の玄孫。 孝文帝の下で撫冥鎮・柔玄鎮の鎮都大将を歴任し、498年には高車の造叛を討平して威名があった。 宣武帝が即位すると青州刺史・恒州刺史を歴任した後に度支尚書に転じ、青州での臧賂を暴露されて官爵を剥奪されたが、子の元叉が霊太后に寵遇された事で復爵して録尚書事のまま三師を歴任した。 524年に侍中・太師に大将軍を加えられ、使持節・大都督として隴東の莫折天生を討って大敗し、元叉の死後は蟄居したが、528年に太師・司州牧に直された。

元恂  483〜497
 字は宣道。孝文帝の長子。493年に太子とされ、翌年の南伐では洛陽を留守した。 漢化政策には批判的で、洛陽の暑熱を理由に北帰を望んで胡服・胡語を続け、496年に諫臣の高道悦を斬って平城に奔った。 この時は杖罰を加えられて庶人に貶されたが、御史中尉李彪より謀逆が該奏されて賜死に処された。

元琛
 河間王。字は曇宝。文成帝の孫。 夙に聡明として孝文帝に愛され、宣武帝の時に后妹=高肇の姪を娶って驕横となり、孝明帝の即位後に罷免されたが、宦官の劉騰に通誼して都官尚書に直された。 秦州刺史に転じると再び収奪を行ない、521年に東益州・南秦州の氐族の討伐に失敗し、523年には貪婪として除籍された。 翌年に梁の裴邃が寿陽を攻囲すると王爵を回復し、揚州刺史長孫稚を救援して淮北の諸城を回復したものの、翌年に梁軍を追走して大破された。 526年に鮮于修礼に敗れて官爵を剥奪され、後に汾州・晋州の略定中に歿して王爵を追復された。

元天穆  〜530
 上党王。拓跋什翼犍の弟の裔。 六鎮の乱で諸軍を巡撫した際に爾朱栄と交結し、鎮民の乱で爾朱栄を輔けて幷州刺史に進み、上洛の際には後事を託され、孝荘帝が立てられると太尉・上党王とされて入洛した。 葛栄討伐では前軍都督となって世襲幷州刺史とされ、次いで邢杲を鎮圧し、に逐われた孝荘帝を河内に庇護し太宰に進んだ。 爾朱栄の腹心かつ朋友として親任と権勢は諸爾朱も及ばず、そのため孝荘帝に深く怨恚されて爾朱栄とともに殺された。

元愉  488〜508
 京兆王。字は宣徳。孝文帝の子。詩文を好んで文士を厚遇し、又た仏道を崇信した。 宣武帝の下で護軍将軍・中書監を歴任したが、驕奢無法でもあった為に冀州刺史に出され、508年に信都で造叛して称帝したものの尚書李平に制圧され、京師に送られる途上で暴死した。

元雍  〜528
 高陽王。字は思穆。献文帝の子。 孝文帝・宣武帝に親任されて衛尉・相州刺史・司州牧・司空公・太保などを歴任して枢機に参与し、孝明帝が即位すると宗師として太傅・侍中・領太尉公に進められたが、領軍の于忠に忌避されて罷免された。 于忠が失脚すると侍中・太師・領司州牧に直され、孝明帝の元服で太保を兼ね、崔光元叉とともに執政し、河陰の変で爾朱栄に殺された。

源賀  407〜479
 西平楽都の人。旧名は禿髪破羌。禿髪傉檀の子。 南涼が滅ぼされた後に北魏に降り、同族として太武帝より氏名を下賜され、河右平定に従って累功があった。 陸麗らと与に宗愛誅殺や文成帝の定策を主導して信任され、冀州刺史の時の治績は天下第一と評された。 隴西王・太尉に至り、471年に河西勅勒を討平した後は北防の改善に尽力した。

源懐  444〜506 ▲
 隴西王源賀の嗣子。北防に就く事が多く、501年に尚書左僕射・車騎大将軍・涼州大中正に至った。 鎮将による収奪など洛陽遷都後の辺鎮の弊風を上奏したものの改制には至らなかった。

源子恭  〜538 ▲
 字は霊順。隴西王源懐の子。 好学で知られて司徒祭酒・治書侍御史・豫州刺史などを歴任した後、元討伐に加わって右僕射・車騎将軍に進んだ。 爾朱栄が殺されると河橋から爾朱世隆らを逐って大行台・大都督とされ、上洛した爾朱兆に敗れたものの間もなく赦された。 南朝梁に煽動された諸蛮が蜂起すると荊州刺史に転じて平定にあたり、永熙年間(532〜534)に徴還されて吏部尚書に転じ、高歓に従って536年に魏尹に転じた。

胡琛  〜526
 高平勅勒の部酋。524年に高平鎮民の乱に呼応し、高平鎮(寧夏自治区固原)を陥して高平王を称した。 破六韓抜陵莫折念生に通誼し、万俟醜奴・宿勤明達らを派して洛・の間を席捲したが、526年に暗殺された。
胡琛暗殺の首謀者は、『北史』爾朱天光伝では破六韓抜陵となっています。 破六韓抜陵は前年に行方不明となっていて、何らかの違約を行なおうとして抜陵の旧臣に暗殺されたとも解釈できますが、地理的な関係からいっても莫折念生に暗殺された方が妥当っぽいです。もしくは大穴で万俟醜奴とか。

万俟醜奴  〜530 ▲
 胡琛の部将。州攻略を成功させた事もあって胡琛の跡を継ぎ、莫折念生の遺衆をも吸収して勢力を拡大させた。 北魏に敗れた蕭宝寅が来降すると称帝し、イランから献じられた獅子を奪って神獣と建元したが、530年には武功で賀抜岳に大破されて岐州を棄て、平涼でも驃騎大将軍爾朱天光らに大敗して洛陽で斬られた。

高閭  〜502
 漁陽雍奴の人。字は閻士。司徒崔浩の薦挙で448年に中書博士とされ、乙渾が誅された後は高允らと与に文明太后の輔政に列した。 薛安都の受降に同道して領東徐州刺史・昭武将軍・安楽侯とされ、文明太后が再び臨朝した後は中書令、尚書・中書監を歴任し、律令の編纂にも参与した。 文明太后が歿すると相州刺史に転じ、南伐策を上疏した一方で洛陽遷都には反対し、南伐が失敗した年(494)に本州を理由に幽州刺史を求めて「知進忘退」と評されながらも認められたが、老齢を以て致仕を求めると太常卿に直され、宣武帝により致仕を認められて金紫光禄大夫とされた。
 好学で経史に搏通し、文章と弁辞に長じ、国の詔令や頌などの多くを起草し、文に於いて高允と“ニ高”と称された。

侯淵  〜535
 神武尖山(=武川鎮)の人。 鎮民の乱で杜洛周に従った後、義兄の念賢と共に爾朱栄に帰順し、葛栄討平では首勲として驃騎将軍とされた。 ついで薊城に拠った韓楼を討平して平州刺史とされ、爾朱栄が殺されると元曄に通じて驃騎大将軍・定州刺史・漁陽郡公に進められた。
 広阿で爾朱兆が敗れると高歓に降って斉州刺史に転じたが、兗州刺史樊子鵠・青州刺史の東莱王元貴平と結んで自立を謀り、534年に東莱王らと更迭を拒んで州城を逐われたものの高歓の招撫に応じ、行青州事とされて東莱王を討平した。 翌年に樊子鵠が討平されると猜懼から挙兵して光州・青州を劫掠したが、将兵の離背に遭って南朝に奔る途上で殺された。

樊子鵠  〜535 ▲
 代郡平城の人。六鎮の乱で爾朱栄に投じて信任され、行唐州事・晋州刺史・都官尚書・殷州刺史などを歴任した。 爾朱栄が殺された後は孝荘帝を支持した為に爾朱氏に兵権を奪われたが、韓陵の敗報が伝わると爾朱仲遠を追討し、ついで譙城の元樹を佯和で執えて吏部尚書に驃騎大将軍を加えられた。 533年に梁に呼応した膠州を討平して兗州刺史に転じ、翌年に孝武帝が西奔すると挙兵して南青州・徐州の呼応を得たが、婁昭に討平された。

侯莫陳悦  〜534
 代郡の人。河西(河套西部)に居して騎射に長じ、河西に六鎮の乱に呼応した牧子の乱が生じると爾朱栄に帰順した。 爾朱天光の関中経略では右廂大都督とされて左廂の賀抜岳と功を競い、万俟醜奴を討平した後に驃騎大将軍・秦州刺史・白水郡公に進められた。
 韓陵の役の後は賀抜岳と与に高歓に通じ、孝武帝が即位すると都督隴右諸軍事を加えられたが、賀抜岳との格差が生じた為に高歓との通好を密かに保ち、霊州攻略の軍議中に賀抜岳を暗殺した。 水洛城(甘粛省庄浪)に遷って西征兵の糾合を進めたたものの、夏州刺史宇文泰に伐たれて霊州に奔る途上で自殺した。賀抜岳を殺した後は夢に賀抜岳に追われることが常で、錯乱している事が多かったと伝えられる。

崔延伯  〜525
 博陵の人。 縁淮の戍主として武壮を謳われ、太和年間に北魏に投じ、胆略によって出征の毎に功を挙げて征虜将軍・荊州刺史・定陵男に進んだ。 515年のz石奪回の際には鎮南将軍崔亮の別将として下蔡に梁の援軍を防ぎ、征南将軍・兗州刺史・鎮南将軍などを歴任した。
 勇名は奚康生楊大眼と斉しく、斉王蕭宝寅が西征するにあたっては「賊勢の強勁は崔公に非ずば定む能わず」と特に求められて使持節西道都督・征西将軍として前駆し、莫折天生を大破して「関・張の如し」と讃えられた。 次いで安定に万俟醜奴を追討したものの佯降を受けて大敗し、雪辱を急いで独行して乱戦中に戦死した。

崔宏  〜418
 清河東武城の人。字は玄伯。三国魏の司空崔林の裔。 前秦が瓦解すると拓跋珪の招聘に応じ、多く政術を諮問されて信任され、制度・儀礼の制定を総理した。 明元帝にも敬信されて戦略にも参与し、天部大人・白馬公に進められた。 家は衛瓘の書法を伝え、盧玄と並ぶ書の名手と称された。

崔光  451〜523
 清河の人。崔道固に与して代に徙された父に従って北居したが、482年に中書博士・著作郎に叙されて秘書丞李彪の纂史に参与し、学識を以て孝文帝から“文宗”と称された。 宣武帝の死後に領軍将軍于忠と与に孝明帝を擁立して特進・搏平県公に進み、国子祭酒を領して帝師として重んじられ、しばしば古礼を以て霊太后の垂簾と遊興を諫めて奉還を上書したものの害されなかった。 晩年には司徒や太師に擬されたものの固辞して受けなかった。
 為人り沈毅で毀譏を口にせず、顕貴となっても驕横とは無縁で漢人士人の輿望も篤く、孝明帝擁立時の安定には崔光の存在が不可欠だったと伝えられる。

崔亮  458〜521
 清河東武城の人。字は敬儒。魏の中尉崔琰の裔。 父が沈文秀の兵乱で戦死した為に祖父の弟の崔道固に依り、与に北徙されたものの後に李沖や族兄の崔光の薦挙で中書博士に叙され、洛陽遷都後に制礼に参画して太子中舎人・中書侍郎・尚書左丞を歴任した。
 宣武帝の下で吏部郎として人事に参与した後、度支尚書に転じて軍費の拡大に対応して歳費の削減を図り、雍州刺史に転じると河床の堆土によって舟運が滞っていた渭河の架橋を実現し、又た碾麿を行なわせて三輔の民に敬服された。 定州刺史の時、515年に鎮軍大将軍李平・揚州刺史李崇と与にz石(安徽省鳳台)を奪回して鎮北将軍に進号され、淮堰攻略中に病臥して帰還した事を該されたものの旧功を以て不問とされた。
 羽林の変の後に吏部尚書に進み、武人の文官就任を年功序列に画一化する事で武人の不満を緩和した。 劉騰に阿附して尚書僕射に進み、洛陽城西に碾麿数十区を作って国用に資したが、まもなく背に疽を発して歿した。

司馬楚之  390〜464
 字は徳秀。司馬懿の弟/司馬軌の裔。 劉裕の禅譲を認めず、奚斤の河南経略に応じて北魏に亡命して荊州刺史とされた。太武帝が即位すると安南大将軍・琅邪王に進み、宋の到彦之を長社で破り、又た仇池征討や柔然遠征に従って雲中鎮大将・朔州刺史に進み、北辺に威名を保ったまま歿した。

爾朱仲遠
 爾朱栄の従弟。 爾朱栄が盛勢となった後、爾朱栄の書・印を偽造して官職を斡旋して大財を為し、孝荘帝の即位で清河公・徐州刺史・督三徐諸軍事とされた。 爾朱栄が殺されると賀抜勝らを破って入洛し、弟の世隆らと節閔帝を立てて彭城王・使持節都督五州諸軍事・徐州刺史・東道大行台とされたものの大梁に鎮し、やがて督東道諸軍事・兗州刺史に転じた。 冨家を枉陥して財口を没し、滎陽以東の輸税を悉く私服するなど、諸爾朱中で最も専恣と称された。 後に太宰を加えられて東郡に遷り、高歓が信都に挙兵すると爾朱度律と与に陽平に進んだが、離間策によって広阿の爾朱兆と対立して撤退し、翌年(532)に韓陵の役で大敗すると南朝に投じて江左で客死した。

爾朱世隆  500〜532 ▲
 字は栄宗。爾朱栄の従弟、爾朱仲遠の弟。 孝明帝に近侍して直閤・前将軍に進み、孝明帝が殺されると洛陽から遁れ、孝荘帝の即位で侍中・領軍将軍・領左右・楽平郡公とされた。 梁と結んだが北上すると前軍都督とされて虎牢に進駐し、滎陽の陥落で遁走したことで孝荘帝の蒙塵と洛陽陥落を招いたが、元が討平されると散騎常侍・驃騎大将軍・尚書左僕射に直されて元天穆と与に朝廷を統制した。
 爾朱栄が殺されると建州に逃れ、晋陽の爾朱兆らと合して太傅・尚書令・行司州牧・楽平郡王とされたが、爾朱栄の入朝と暗殺を防げなかった事や、爾朱兆の不在の間に長広王を廃黜したことで爾朱兆と反目を生じた。 節閔帝を立てた後は人事・賞罰を恣にし、韓陵の役の直後に長孫稚賈顕智らに執われ、高歓に送られた後に兄の彦伯らと共に洛陽で斬られた。

爾朱度律  〜532 ▲
 爾朱栄の従父弟。 為人りは朴訥寡黙で、孝荘帝が即位すると楽郷県伯に封じられ、やがて衛将軍に京畿大都督を兼ねた。 爾朱栄が殺されると爾朱世隆と倶に晋陽に奔って長広王を擁立し、太尉公・四面大都督・常山王とされて爾朱兆と与に入洛し、兆が北帰した後も洛陽に鎮守して使持節・侍中・大将軍・太尉公に進んだ。
 高歓が挙兵すると大将軍に使持節・東北道行台を加えられて出征し、陽平で爾朱仲遠と合流したが、高歓の離間で兆と不和となったうえに諭使の賀抜勝斛斯椿が兆に執われた事で撤収した。 翌年の韓陵の役からの敗走中に斛斯椿に擒われ、高歓に送られて洛陽で爾朱天光と倶に斬られた。

荀済  〜547
 もとは蕭衍と布衣の交を結んでいたが、仏法への傾倒を諫めたことで憎まれて北魏に逃れた。 元瑾・劉思逸らと高澄暗殺を謀って失敗し、文才を惜しまれて減死が諮られたが、高澄をと罵って焚刑に処された。

元瑾  〜547 ▲
 広陽王元淵の子。高澄の門客でもあったが、尚書祠部郎の時、孝静帝が宴席で高澄に侮辱されたことで荀済の謀議に加わり、高澄の邸に穿坑したところを察知されて殺された。

劉思逸  〜547 ▲
 高澄の恩倖。武邑太守だった父の劉直が叛に加わって殺された時、宦官とされた。 後に平東将軍に進んだが、荀済の謀議に加わって殺された。

叔孫建  365〜437
 代の人。父の叔孫骨が拓跋什翼犍の王太后に養育されて諸王子と同遇された事から拓跋珪に近侍し、智勇を讃えられて賀蘭部への退避にも扈随し、代政権が再興されると外朝大人とされて枢機に参与した。 劉裕の北伐で滑台が失われると広阿鎮将とされ、422年に使持節・都督前鋒諸軍事・徐州刺史に転じて青・兗州を席捲し、檀道済らの北上で東陽城(青州治)を陥せず撤退したが、威名は河南でも広く知られた。 定州の丁零の乱を討平した後、430年に汝陰公長孫道生と共に再び兗州を席捲して青州に達し、平原鎮大将・征南大将軍・丹楊王とされ、次いで河南を経略し、来援した檀道済の糧道を断って撤退させて滑台攻略を成功させた。

常景  〜550
 字は永昌。孝文帝に学識を認められて太常博士とされ、宣武帝の時に尚書、孝明帝の時に中書舎人、節閔帝の即位で車騎将軍・右光禄大夫・秘書監・濮陽県子に進み、鄴奠都で儀同三司とされた。為人りは清廉で産業を好まず、歴帝に学識を重んじられ、北魏末期の文宗と目された。

薛永宗  〜446
 河東汾陰の大姓。445年に関中で蓋呉が蜂起すると宗族を糾合して呼応した。 河東・弘農一帯を制圧して朝廷を震撼させたが、翌年に太武帝が来伐すると薛洪祚に与した宗族が官軍に呼応して討平された。

薛辯  379〜422
 河東汾陰の大姓。晋の梁州刺史薛濤の孫。父の薛強は王猛との交誼があったがを営んで前秦に仕えず、淝水の役の後に姚興の辟召に応じて七兵尚書・馮翊郡公とされた。
 薛辯は後秦を滅ぼした劉裕に称臣して寧朔将軍・平陽太守とされた後、長安の陥落で北魏に帰し、中原の略定に功があって平西将軍・東雍州刺史・汾陰侯とされた。 数千家の部曲を擁し、赫連氏との対峙を以て重遇され、幷州刺史として歿した。

薛謹  401〜444 ▲
 字は法順。薛辯の嗣子。劉裕の相府記室参軍の時に父に北帰を知らされて彭城から北奔し、河東太守とされた。 奚斤の赫連昌討伐や奚眷の山胡討伐に従って涪陵郡公に進められ、又た太守としても治績を挙げた。 440年には内都大官に転じて輔政に列したが、太武帝の柔然親征で軍中での中山王拓跋辰らの謀叛に連坐して誅された。

薛洪祚  427〜484 ▲
 薛謹の長子。 太武帝が薛永宗に親伐した際に宗郷を糾合して永宗と蓋呉の通行を断ち、初古拔と賜名されて中散大夫・永康侯とされた。 450年の南征では都将として従い、469年に文成帝の公主を降嫁されて散騎常侍・駙馬都尉とされ、同年に彭城の薛安都に対する受降使として豫州刺史とされた。鎮西大将軍・開府儀同三司・河東公として歿した。

薛孝通  〜540
 河東汾陰の大姓。字は士達。薛謹の曾孫。 元の入洛に対して河東太守元嬰を輔けて一族の離叛を抑えた事で嘉され、爾朱天光の西征に従って汾陰侯に封じられ、節閔帝の擁立に参与して銀青光禄大夫・散騎常侍とされた。 信都で高歓が蜂起すると帝に薦めて賀跋岳を関西大行台・雍州牧としたが、孝武帝の下で常山太守に転じた為に入関には従えず、高歓が剣履昇殿を認められた後も拝跪の礼を執らない事を容認されたが、賀跋岳・宇文泰との交誼を以て鄴に軟禁されたまま歿した。

祖瑩
 范陽遒の人。字は元珍。道武帝の中山征服で魏に降った家で、歴世で太守を輩出した。 少時から好学耽書して“聖小児”と称され、中書監高允にも文藻を認められ、孝文帝に徴されて太学博士に叙された後、司徒の彭城王の下で袁翻と名を斉しくし、王粛にも嗟嘆された。
 しばしば貨賄や横領で罷免されたものの文才と博識によって重用され、孝明帝の嬪だった爾朱栄の娘を孝荘帝の后とする際には、晋文公が懐公の妃/懐嬴を娶った故事を挙げて受納され、そのため爾朱氏にも重んじられた。 爾朱兆の入洛で礼楽が喪われると録尚書事長孫承業・侍中元孚らと金石雅楽を復元し、車騎大将軍に進んだ。 孝武帝の入関には従わずに孝静帝から文安県伯に進封された。 文才は安定せず、玉石兼有と称された。

宗愛  〜452
 太武帝の中常侍。 かねて不和だった太子を讒言してその側近を枉陥した為に太子が憂死し、太武帝の痛惜が誅殺に向う事を懼れて翌年に太武帝をも弑し、東平王を奉じる尚書左僕射蘭延らを粛清して南安王を迎立し、大司馬・大将軍・太師を称した。 間もなく奪権を謀った南安王をも殺したが、直後に拓跋濬を奉じた尚書陸麗・羽林郎中劉尼・殿中尚書源賀らに誅された。

拓跋余  〜452 ▲
 南安隠王。太武帝の第6子。太武帝を弑した宗愛に立てられた。 求心力を得る為に賞賜を濫発して国庫を枯渇させ、遊興を好んだとも伝えられる。宗愛の専横を憎んで奪権を謀った為に殺された。

拓跋翰
 東平王。太武帝の子。公正寛大で羌戎からも敬され、官は侍中・中軍大将軍に至った。太武帝が弑されると尚書左僕射蘭延らに奉じられたが、年長を厭う中常侍宗愛に鏖殺された。

拓跋晃  428〜451
 恭宗。太武帝の太子。443年の柔然討伐で軍才を示してより枢機にも参与するようになった。 耕地や耕牛の貸与による農業の振興や、廃仏令の発効を遅らせて多数の仏僧を逃がすなど寛仁の君として輿望が高かったが、宦官の宗愛に圧迫されて憂死した。

拓跋子推  〜477
 京兆王。拓跋晃の子。456年に冊封されて侍中・征南大将軍・長安鎮都大将とされた。 沈着で大度があり、470年の柔然遠征では献文帝に従い、軍中で献文帝が病臥した際には継嗣に擬された。 孝文帝のとき侍中・本将軍・青州刺史とされたが、赴任途上で歿した。

拓跋斉
 拓跋翳槐の玄孫。勇壮を太武帝に愛されて近侍し、427年に赫連昌討伐に従った際には統万城攻陥に加わって浮陽侯に封じられ、432年に北燕遠征に従って尚書・浮陽公に進んだ。 442年に南朝宋に陥された仇池を回復して河間公に改封され、翌年には武都王楊保宗を制圧して来援した宋兵も大破し、仇池を平定して内都大官に叙された。

拓跋丕  〜444
 楽平王。太武帝の弟。夙に“将器”と評され、422年に冊封される際に車騎大将軍とされた。 軍紀厳正で、楊難当討伐に於いては高允の進言を納れて略奪・追撃を禁じ、又た高句麗に逃れた燕王馮弘に対して軍事が控えられたのにも丕の進言があった。 柔然遠征中に劉潔の謀逆で擁主に擬され、連坐を憂えて歿した。

拓跋範  〜444 ▲
 楽安王。楽平王の弟。沈着温和で、太武帝に信頼されて都督五州諸軍事・衛大将軍・長安鎮都大将とされた。 仁慈の人として関中での輿望が甚だ篤かったが、劉潔の謀叛を黙認した事が露見した直後に暴死した。

張彝  〜519
 清河東武城の著姓。字は慶賓。 経史に博通して平陸侯を襲ぎ、恭謙を重んじる文明太后に倨豪として忌まれたが、督察の才を以て排斥されず、後に孝文帝の遷都にも参与した。 宣武帝が即位すると尚書・侍中となり、後に秦州刺史に転じると威撫の併用と旧弊の刷新で羌胡を帰順させて良牧と称されたが、陳留公主の降嫁を競ってより高肇に怨恚されて罷免された。 孝明帝が即位すると征西将軍・冀州大中正とされたが、貪婪・奢侈や競功によって朝野から忌避され、羽林の変で殺された。

長孫嵩  358〜437
 南部大人拓跋仁の嗣子。拓跋欝律の孫。 代政権の崩壊で劉庫仁に依った後、386年に拓跋珪に帰順し、軍事での累功から世襲大人の号を認められた。 明元帝の下で奚斤崔浩らと枢機を司掌して“八公”と称され、太武帝が即位すると北平王に進封されて太尉・柱国大将軍に進み、元勲かつ宗室の長として敬重された。

長孫道生  370〜451 ▲
 北平王長孫嵩の甥。拓跋鬱律の長子/拓跋仁の孫。 忠厚かつ謹慎な為人りを嘉され、道武帝に近侍して軍国の枢機に与り、明元帝が即位すると南統将軍・冀州刺史とされた。 太武帝の即位で汝陰公に進爵され、廷尉卿に遷り、柔然遠征や赫連昌征伐でも功があり、又た河南に転じて叔孫建と与に宋兵を撃退し、司空・侍中・上党王として歿した。 廉約を重んじて晏嬰に比せられ、又た出征中に子弟が第宅を修築した際には、霍去病が匈奴の討滅を志して家事を顧みなかった事を比喩し、子弟を切責して第宅を毀たせたという。

長孫稚  〜535 ▲
 字は承業。上党王長孫道生の曾孫。6歳で襲爵した際に孝文帝に賜名された。 娘婿の侯淵元叉との交誼から孝明帝の世に領揚州刺史・都督淮南諸軍事に進み、524年の梁の北伐では裴邃から寿陽を堅守したものの、叛意を猜疑されて河間王臨淮王・尚書李憲らが遣援された。この時、裴邃を追討して河間王のみ大敗した事で遺恨が生じた。
 鮮于修礼が挙兵すると討伐の大都督とされたものの、河間王に大都督を、酈道元に行台を奪われ、又た速戦を促した河間王の怠慢で大敗して罷免された。 汾曲の絳蜀の乱を鎮定し、次いで蕭宝寅を大破して雍州刺史に叙され、孝荘帝が即位すると大行台とされて司徒公を遙授された。 節閔帝が立てられると太尉公・録尚書事に遷り、孝武帝の即位後に太傅・録尚書事に転じて入関にも随った。

杜洛周  〜528
 柔玄鎮民。破六韓抜陵の蜂起に呼応し、六鎮の乱が鎮圧されると河北に徙されたが、525年に上谷(北京市域)で再び蜂起し、河北に徙された鎮民の多くが呼応した。 翌年に幽州を抜いて行台の常景を敗死させ、528年には定州を陥したが、程なく葛栄に敗死して併合された。

韓楼  ▲
 杜洛周の一党。杜洛周が殺されると薊州に拠り、侯淵に討平された。

鮮于修礼  〜526 ▲
 懐朔鎮民。六鎮の乱が鎮定されて定州(保定市域)に徙された後、杜洛周の挙兵に呼応したところ十余万の衆が従った。 驃騎将軍長孫稚・河間王元琛を撃退したが、定州刺史楊津の離間策で部将の元洪業に暗殺され、元洪業は間もなく葛栄に殺された。

念賢  〜539
 金城枹罕の人。字は蓋盧。 経史を渉猟しながらも文筆の功を卑しみ、六鎮の乱中に懐朔鎮の奪回や雲州の高車の招撫などの功で平東将軍・屯留県伯とされ、爾朱栄の上洛に従って車騎将軍・右光禄大夫・太僕卿とされた。 東道行台・瀛州刺史・殿中尚書を歴任して第一領民酋長に進位し、孝武帝の高歓討伐では中軍北面大都督・安定郡公とされ、西魏では秦州刺史・河州刺史を歴任して太師・録尚書事に至った。 河橋の役で懈怠して率先して退却したことで声誉を著しく損ない、秦州刺史として歿した。

皮豹子
 漁陽の人。武略があり、太武帝の下で開府儀同三司・淮陽公に進んだ後、横領に坐して統万に流されが、442年に仇池が宋の裴方明に陥されると使持節・仇池鎮将・淮陽公とされて建興公古弼・琅邪王司馬楚子らと与に征伐した。 翌年に楽郷や濁水で宋兵を大破して都督秦雍荊梁益五州諸軍事・征西大将軍に進められ、次いで宋と通じて葭萌に氐・羌を糾合した楊文徳を大破して仇池を平定した。 453年にも氐・羌を煽動して武都を攻囲した蕭道成を撃退し、尚書・内都大官を歴任して死後に淮陽王を追贈された。

慕容白曜  〜470
 昌黎棘城の人。慕容皝の玄孫。 文成帝に信任され、文成帝が歿すると尚書右僕射・南郷公に進んで乙渾と与に朝政を宰領した。 間もなく、宋の徐州刺史薛安都・冀州刺史崔道固・青州刺史沈文秀らへの援軍として使持節・都督諸軍事・征南大将軍・上党公を加えられて出征し、南朝に再帰した崔・沈の両将を伐って468年に冀州を、翌年には青州を制圧し、青冀の民を北方に徙民した。 青州刺史・済南王とされたが、乙渾の党与として謀叛に枉陥されて殺された。
慕容白曜の南征については酈範伝に詳しいんですが、そこでは慕容白曜は戦脳の典型的な北族武人として描かれていて、漢人士大夫である左司馬酈範の開明的な輔佐があって成功した風味です。 例えば、やたら屠城とか城民総奴婢化とかをしたがる白曜に恩信の重要さを諭したり、力攻めより招撫を併用させたりと。 又た、開戦直後に敵の防備が整っていない事を一人察して進軍を急がせて城を陥させたり、逆に決戦の遙か以前に沈文秀が受降と援軍を求めた際には、佯降を察して崔道固との挟撃を危ぶみ、激しく諫争して白曜に行軍を停止させるなど大した軍師っぷりです。
 最終的には平東将軍・青州刺史・仮范陽公まで進んでいますが、事績といえば慕容白曜の軍師役と、南朝との通謀を誣されて徴還されて洛陽で歿した事くらいです。、慕容白曜伝には酈範の名はなく、子の酈道元の伝は酷吏伝に立てられるという塩梅で、魏収が范陽酈氏に何を求めたのか気になるところです。

穆泰  〜497
 穆崇の玄孫。本諱は石洛。文明太后が孝文帝の廃黜を図った際に切諫した事から孝文帝に信任され、賜名されて駙馬都尉・馮翊侯とされ、殿中尚書・洛州刺史・尚書右僕射・定州刺史などを歴任した。 漢化政策には批判的で、遷都後に病を称して平城の恒州刺史に転じ、前刺史の陸叡と謀叛して朔州刺史の陽平王元頤を盟主に擬したが、元頤の密表で露見し、任城王に討平されて代で処刑された。

穆崇  〜406 ▲
 代郡の人。 拓跋部に従属した氏族の出で、拓跋珪に随って親任が篤く、劉顕の異心を伝えて賀蘭部へ退去させ、賀蘭部に拓跋窟咄への内応が生じた際にも拓跋珪に告げて北遁に随った。 拓跋珪が称王した後は中原経略に従い、侍中・豫州刺史・太尉・宜都公に進められた。

穆亮  451〜502 ▲
 字は幼輔。穆崇の玄孫。献文帝の駙馬とされて侍中・征南大将軍・長楽王となり、孝文帝が立つと秦州刺史・敦煌鎮都大将を歴任して能名があり、宕昌内訌と吐谷渾の入冦で乱れると征南大将軍・護西戎校尉・仇池鎮将となって鎮定した。 488年に斉の陳顕達を撃退して司空とされ、洛陽遷都で武衛大将軍を加えられ、穆泰の乱に兄の穆羆が加担していた事から自該して冀州刺史に転じ、宣武帝のとき司空公に直された。

游雅  〜461
 広平任県の人。字は伯度。431年に高允らと共に太武帝に徴されて中書博士とされ、著作郎・太子少傅・秘書監などを歴任して律令の制定にも参与したが、国史編纂には消極的だった。 清廉潔白で仁政を施し、文名は高允と斉しく、殊に高允から高く評価されていたが、強い矜持から高允をも認めなかった。

楊侃  〜531
 字は士業。楊播の嗣子。琴・書に善く、計策に長じ、勢門でありながら交遊は好まなかった。 31歳で襲爵が認められ、長孫稚の西征に鎮遠将軍・行台左丞として従い、蒲坂からの渡河を勧めて長安攻略を成功させ、岐州刺史に叙された。 元の討平に従って済北郡公に進封され、後に侍中・衛将軍・右光禄大夫に進み、爾朱栄の誅殺に参与した為に爾朱兆の入洛で遁郷した後、爾朱天光に殺された。

楊播  〜513 ▲
 弘農華陰の人。字は延慶。曾祖父の楊珍の代に中山が陥されて道武帝に仕え、歴世で国相太守を輩出した。 文明太后の外姑を母とし、貴戚の子弟として諸弟と倶に孝文帝に近侍し、陽平王の柔然遠征や孝文帝の南伐にも随い、宣武帝の下で安西将軍・華州刺史・華陰伯に進んだ後、借田を該奏されて布衣のまま歿した。 孝明帝の煕平中(516〜18)に諸子の積訴が認められて鎮西将軍・雍州刺史・華陰伯が追贈された。

楊c  〜531
 字は元略。楊椿の子。揚州刺史李崇・恒州刺史楊鈞の元叉への贈賂を奏してより元叉と遺恨を生じ、庇護者の霊太后が幽閉されると済陰内史に出され、中山王への通謀を誣されて一時は拘禁された。 元叉が失脚すると復官し、北海王や蕭宝寅の関中経略に携わった後に鎮東将軍・徐州刺史・東南道都督に転じ、泰山太守羊侃が南奔して間もなく、の来攻に征東将軍・右光禄大夫・南道大都督とされたが、滎陽を陥されて擒われた。 孝荘帝の還御で前官に復し、爾朱栄の死後は東道行台とされて爾朱仲遠を防ぎ、洛陽の陥落で遁郷した翌年に爾朱天光に殺された。

楊椿  455〜531 ▲
 華陰伯楊播の弟。字は孝文帝の賜字により延寿。 兄と並んで孝文帝に近侍し、親政の後に武都氐や秦州羌・州屠各の造叛を討平して太僕卿・安東将軍とされ、宣武帝の時に冗兵の削減に一定の成果を挙げたが、横領や兵の私用で罷免された。 六鎮の乱では都督雍南豳二州諸軍事・雍州刺史・車騎大将軍に累進して行台として関西諸将を節度したものの、急病を称して致仕し、孝荘帝の下で太保に進位し、致仕帰郷した翌年、爾朱天光に殺された。

楊津  469〜531 ▲
 太保楊椿の弟。字は孝文帝の賜字により羅漢。 夙に孝文帝に近侍して南伐より直閣に列し、宣武帝の即位後に直閣の兵を以て背いた咸陽王に従わなかった事で嘉された。 岐州刺史・華州刺史・肆州刺史・右衛将軍などを歴任し、定州に鮮于修礼が挙兵すると安北将軍・定州刺史・北道行台とされ、離間によって鮮于修礼の排除に成功したが、援軍を得られずに内応から葛栄に擒われた。
 葛栄の敗滅で解放され、元の来攻では中軍大都督・兼領軍将軍として孝荘帝に従った。 爾朱栄の死で司空に都督幷肆等九州諸軍事・驃騎大将軍・兼尚書令・北道大行台・幷州刺史を加えられて北伐し、洛陽の陥落で子の光州刺史楊逸や甥の東道行台楊cとの協働を模索したが、爾朱仲遠による東郡の陥落で断念して還洛したところを殺された。

楊大眼  〜518
 氐族の武都王楊難当の孫。 驍勇敏捷は比類なく、3丈の縄を髪に結んで走っても縄は地と水平を保ったと伝えられ、孝文帝の南伐に際して李沖に自薦して勇武を認められた。 宣武帝の世になって中山王の軍事に従う事が多く、504年の義陽攻略、梁の臨川王の撃退などで「勇は六軍に冠たり」と絶賞され、梁兵からは「関張に優る」と大いに畏怖され、江南では「楊大眼至」と聞くと童児は悉く泣き止んだという。 鍾離の役では浮橋の守備を果たせずに兵卒に貶されたが、永平年間(508〜12)に中山内史に復し、514年より太尉長史・平南将軍として淮北に鎮し、浮山堰の攻略に従った後、荊州刺史に転じて任地で歿した。
 戦場では常に陣頭に在り、勇猛かつ慈兵によって絶大な信望があったが、再任後は喜怒が極端となって士卒を捶撻するようになり、頗る忌避された。
 夫人の潘宝珠も武略に長じ、常に征旅に随って「潘将軍」とも呼ばれたが、楊大眼の配流中の淫通を後に密告されて自殺を命じられた。 3人の遺児は後妻に圧迫され、葬列から父の遺骸を奪って梁に亡命し、侯景の乱で戦死した (『梁書』では、長子の楊華は大眼の死後に霊太后に淫通を逼られ、部曲を率いて梁に亡命したとあります)

李順  〜442
 趙郡平棘の著姓。字は徳正。李霊の従父弟。 経史に博通し、太武帝の柔然遠征に随って計策の功があり、赫連昌遠征では一方の将に擬されたが、娘婿の叔父かつ妹婿の兄でもある崔浩の毀誹で挙任されなかった。 統万城攻略や赫連定討平での帷幄の功から太武帝に寵遇され、沮渠蒙遜への受降使となって使持節都督四州諸軍事・長安鎮都大将・寧西将軍・高平公とされ、又た四部尚書・散騎常侍に転じて崔浩と寵を競い、遣涼使となること前後12回に及んだ。
 征涼の是非についても崔浩と対立して水草の不足を理由に奚斤らと与に避戦を唱えたが、出征後に姑臧の牧地が確認されて信頼を著しく損ない、戦後に蒙遜からの臧賂でその悖辞や曇無讖殺害を隠匿した事などが露見して殺された。 崔浩が殺されると旧功を以て赦され、献文帝より侍中・鎮西大将軍・太尉公・高平王を追贈された。

李霊  391〜453 ▲
 字は武符。 戦国趙の武安君李牧・楚漢の李左車を遠祖とした。 431年に高允らと共に太武帝に辟召されて中書博士に叙された。 拓跋濬(文成帝)に侍講して高邑子に封じられ、文成帝が即位して洛州刺史に叙された。

李崇  455〜525
 頓丘の人。字は継長。文成元皇后(献文帝の生母)の兄/陳留公李誕之の嗣子。 孝文帝の時に荊州刺史・兗州刺史として理劇の才を讃えられ、502年に魯陽蛮が叛くと中山王や東荊州刺史楊大眼らと協働した。 鍾離の役の後は征南将軍・揚州刺史に転じて寿陽(寿春)に鎮し、寡兵で梁兵を悉く撃退して“臥彪”と号して南人に畏憚され、514年の浮山堰構築に始まる梁の北進に対しては、鎮軍大将軍李平の督下にz石を攻陥した。
 間もなく侍中・尚書令に転じたが、軍将として果断、統治官として寛厚だった一方で蓄財・経営を好み、百官に官庫を解放して布帛を取らせた際には、章武王と共に最も多くを獲抱して転倒負傷し、世人に譏蔑された。
 523年に柔然の阿那瓖を撃退した後に北鎮の為州と編戸による鎮兵の不満緩和を上書したものの聴かれず、六鎮の乱で臨淮王が大敗すると使持節・北討大都督とされて破六韓抜陵を伐ったが、督下の崔暹の敗北で平城に退いた後、広陽王に長史祖瑩の詐功を該されて布衣に貶された。 翌年(525)、徐州刺史元法僧が叛くと官爵を復されて徐州大都督とされたものの篤病で受けられず、相州刺史に改叙されて歿した。
 嗣子の李神軌も征旅で将領の才を示したが、霊太后への阿附で寵遇され、河陰の変で殺された。

李平  〜516 ▲
 字は雲定。彭城公李嶷の嗣子。李崇の従弟。群書を渉猟して礼と易に通じ、大度があって文才を備え、孝文帝・宣武帝の下で通直散騎侍郎・太子庶子・河南尹・相州刺史などを歴任し、清静方直や儒学の振興などで讃えられた。 信都で叛いた京兆王を討平した後、尚書令高肇・侍御史王顕に枉陥されて布衣に貶されたが、512年に官爵を復され、孝明帝が即位すると吏部尚書とされて冀州での旧功から武邑郡公に改封された。
 515年に西z石が陥されると、使持節・鎮軍大将軍・行台右僕射とされて鎮南将軍崔亮・揚州刺史李崇を督して奪還し、帰還して尚書右僕射・散騎常侍とされて程なくに歿した。
  
浮山堰:梁の太子右衛率康絢が寿陽(寿春)攻略の為に、516年に淮河の浮山(安徽省五河・明光と江蘇省泗洪の交界)に完成させた堰堤。 長さ9里、高さ20丈(48m)、頂幅45丈、底幅140丈の規模は当時は古今未曾有と称されたが、着工した514年より20万人が投入され、難工事と疫病の発生で工夫の過半が失われたと伝えられる。 北魏は鎮東将軍蕭宝寅を都督淮東諸軍として壊堰を図ったものの成功せず、上流に新渠を開削して対策としたが、秋の霖雨で浮山堰は決壊し、以下流の住民10余万人が海に漂入した。
 尚お、梁が作戦の一助として515年に西z石(安徽省鳳台:対岸には東z石)を陥した為、北魏は鎮南将軍崔亮・揚州刺史李崇に対処させたものの両将の反目で難航し、翌年に鎮軍大将軍李平を統督として増派し、下蔡(安徽省鳳台)の崔延伯昌義之・王神念らの来援を阻んだ事もあってz石攻陥に成功した。

李沖  450〜498
 隴西狄道の人。字は思順。西涼王李ロの曾孫。敦煌公李宝の少子。 献文帝の時に中書学生に挙げられ、孝文帝の即位後に禁中の文書を典るようになって文明太后に信頼され、三長制を建議・推進して中書令・隴西公に進み、枢機にも参与するようになった。 後に太子少傅を加えられて孝文帝からも「李中書」と尊称され、漢化政策の中枢に連なって律令・礼義の定制や洛陽造営を指揮し、家格評定で隴西李氏は范楊盧氏・清河崔氏・滎陽鄭氏・太原王氏・趙郡李氏に並ぶ漢族五姓に数えられた。
 遷都後は尚書僕射に進み、太子が廃された後も信頼は変わらず、又た第二次南伐では任城王元澄・御史中尉李彪と共に留守したが、李彪とは故将に対する敬意を払われなくなってから険悪となっており、李彪の追訴で太子が賜死された事もあり、南伐中に倨傲無礼として任城王と連名で該奏して罷免させた。 為人りは温厚だったが、李彪との確執で度々異常な怒気を発した事が元で病死した。

李挺  477〜540 ▲
 隴西成紀の人。字は神儁。李神儁とも。敦煌公李宝の孫。 司徒祭酒・中書侍郎などを歴任し、荊州刺史の時には都督崔暹・別将王羆・裴衍らの来援を得て梁の曹義宗を却けたが、葛栄の乱では怯懦から滞留して徴還された。 孝荘帝が即位した後は外戚の望として中書監・吏部尚書に進んで爾朱栄と対立し、爾朱栄の死後に衛将軍・右光禄大夫に叙されたものの爾朱兆の入洛で逃竄した。 孝武帝に出仕して散騎常侍・驃騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司とされ、孝静帝の下で侍中として歿した。 博学多識で多くの名士と交わり、又た後進の汲引を好んだ一方で節行に欠けるところがあって声誉には乏しかった。

李彪  444〜501
 頓丘衛国の人。字は道固。 貧苦しつつ好学で知られて漁陽の高悦らと親交し、悦の兄の高閭の許で精学して高閭や平原王陸叡の称揚で京師に辟され、殊に李沖に厚遇されて中書博士から秘書丞・参著作郎に進んだ。 6度の遣斉使を経験し、孝文帝に寵遇されて御史中尉・領著作郎に進み、剛直な性と劾糾の多さから汲黯に比せられ、或いは「崔光の博、李彪の直」とも称された。
 孝文帝の南伐では度支尚書を兼ねて尚書僕射李沖・任城王元澄らと後事を参理したものの、硬直から諍議が絶えずに李冲の上書で罷免され、学識を愛惜されて挙用が図られたが、孝文帝の李冲への配慮と、太子に関しての誣抑を指摘されて果たされなかった。 宣武帝が即位すると王粛邢巒北海王らの進言で、白衣修史(無官)として国史の編纂を進めたが、正官となることは許されなかった。 崔浩の国史を紀伝体に再編し、又た春秋三伝を合して十巻とした。
太子の死を最終的に決した人でもあり、李沖との確執でも李彪の傲岸や恩人である李沖への非礼が強調されたりと、李彪の非の方が大きいというのが史書の見解です。 ただ、『魏書』も『北史』も隴西李氏に対してかなり配慮している点を差引く必要があり、李沖が該奏の執筆中に、「瞋目大呼、投折几案。尽収御史、皆泥首面縛、詈辱肆口」したり、遂には「發病荒悸、言語乱錯・猶扼腕叫詈、稱李彪小人」だったりで、“暴恚”と表現されている点を考えると、否定される事に慣れていないという意味でかなりガキンチョなお貴族様メンタルだったのが窺えます。李彪も別の時代なら、「社稷の臣として故恩を顧みず」くらいの評価はされたものかと思います。

陸麗  〜465
 代の人。旧姓は歩六孤氏。歴世の大姓として重んじられ、南部尚書の時に殿中尚書源賀・羽林郎中劉尼らと宗愛誅殺と文成帝擁立を主導して平原王に封じられ、撫軍大将軍・司徒公に至った。 好学で、篤行の士を遇して輿望があったが、文成帝の死で混乱する宮中に反対を排して入り、乙渾に忌まれて殺された。
  
嗣子の陸叡は487・492年の北伐で一軍を担って柔然を大破するなど功名を兼備して定州刺史に至ったが、穆泰と与に謀叛を主導して誅された。

劉尼  〜474 ▲
 代郡の独孤氏。膂力と弓術を太武帝に愛されて近侍し、宗愛が南安王を暗殺した事を殿中尚書源賀に報じ、南部尚書陸麗とも通じて文成帝を擁立した。 後に征南将軍・東安王に進んで定州刺史・殿中尚書・司徒などを歴任したが、泥酔による怠慢が多く、470年の北伐前の閲兵での失態で減死に処されて罷免された。

劉昶  436〜497
 字は休道。南朝宋の孝武帝の弟。義陽王。 465年に前廃帝に叛意を猜われて徐州で挙兵したものの吏卒に背かれ、北魏に投じて駙馬・丹陽王とされたが、専ら犬馬を好んで武事を愛し、褊躁の質や品行の欠もあって諸王に軽侮された。 宋が滅ぼされた直後の南伐に失敗した後、儀曹尚書を領して李冲らと衣冠の定制に参画した。 後に宋王の号を加えられ、遷都の翌年(494)使持節・都督呉越楚彭城諸軍事・大将軍に進んで彭城に鎮し、在任中に没した。

劉騰  464〜523
 譙の人。字は青龍。孝文帝・宣武帝に仕えて大長秋卿・金紫光禄大夫・太府卿を歴任し、臨朝した霊太后にも親任され、河間王の赦免にも力があった。 520年に元叉と結んで霊太后を幽閉し、併せて清河王を殺して元叉と与に朝政を専断し、死後に霊太后が復権すると全ての官爵と資財が没収され、遺骸を暴かれて野に遺棄された。

盧玄
 范陽涿の名族。字は子真。盧ェの曾孫。 儒学を家学として中山の陥落で北魏に仕えた家で、431年に漢人名士の筆頭として高允らと共に太武帝に徴されて中書博士とされた。 後に外兄の崔浩に連坐したが、かねて偏向的な漢化政策を諫止していた事を以て宥恕されて寧朔将軍・散騎常侍に至り、遣宋使とされて文帝にも謁した。 盧志の代より鍾繇の書法を学んで歴代で能名があり、衛瓘の書法を伝える崔宏と名を斉しくした。

盧淵  454〜501 ▲
 字は伯源。盧玄の嫡孫。温雅寡欲で学問を好み、父祖の風有りと称され、官は秘書監に至った。 亦た書を能くし、魏の代宮の額の多くを揮毫した。

△ 補注:北朝

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