イルティシュ川
アルタイ山中から西流し、ザイサン=ノールを経てオビ河に注ぐ。
流域はジュンガリア〜シベリアの交通路にあたり、古来、遊牧勢力の根拠地とされた。18世紀以降はロシアの中央アジア侵出の幹線となった。
アルグン河
大興安嶺西麓を発したハイラル川が、満洲里付近で北転した後の呼称。
内蒙古自治区の中露国境を為し、黒竜江省境付近でシルカ川を合してより黒竜江となる。
オノン川 ▲
ヘンティー山脈に発する、黒竜江の一源流。ヤブロノイ山脈東南麓沿いに東北流してロシア領に入り、シルカ付近でインゴダ川と合してよりシルカ川と呼ばれ、大興安嶺西北麓でアルグン河に注ぐ。
流域にはチンギス汗の生誕地があり、水源部ではチンギス汗の即位式も行なわれた。
ケルレン川 ▲
ヘルレン川とも。ヘンティー山脈西南部に発し、東流してフルン=ノールに至る。
嘗て流域一帯は格好の放牧地で、古来より遊牧勢力の拠点となったが、現在では流水量は少なく、断流している時期もある。
チンギス汗の草創の地でもあり、チンギス汗の墓はケルレン川の河床にあるとの説もある。
フルン=ノール
ダライ=ノール(大湖)とも。内蒙古自治区北東部、大興安嶺西麓に位置する中国屈指の淡水湖。
ケルレン川を最大の水源として冬・春期には凍結し、水深は概して10mに満たないが、増水期には30km北方のアルグン河との水路が開ける事がある。
一方の水源であるバイル=ノールには東方からハルハ川が流入し、古くからフルン=バイルとして一大遊牧地区を形成した。
フルンはモンゴル語でカワウソ、バイルは雄カワウソを意味する。
ハルハ川 ▲
内蒙古自治区アルシャン市東郊の大興安嶺に発し、アルシャン市西北郊から中国とモンゴルの国境と重なりつつ東流して下流で南北に分流し、南流はバイル=ノールに流入し、北流はバイル=ノールとフルン=ノールとを結ぶオルスン川に合する。
流域一帯は湿地帯を形成して古くから遊牧の好適地とされた。
イェニセイ河
外モンゴル北西界のサヤン山脈東南麓に発し、ロシア領内を縦断して北氷洋に注ぐ、シベリア三大河の1つ。
全長では世界第五の大河。語源はテュルク語のアナ=セイ(母なる川)とも、エヴェンキ語のイオアネシ(大河)とも称される。
上流域には先史時代から人類が定着し、西方の影響を受けながら独自の青銅器文化が発達した。
セレンガ川
セレンゲ川とも。ハンガイ山脈に発するイデル川とデルゲルムルン川の合流後の呼称で、オルコン川などを合してバイカル湖に達し、そのためアンガラ河の源流にも数えられる。
オルコン川 ▲
オルホン川とも。ハンガイ山脈東南麓に発し、東北流してトゥーラ川を併せてセレンガ川に合流する。
セレンガ水系の流域一帯は統一を達成した遊牧勢力の多くが本拠地としたが、特にオルコン上流部の渓谷地帯は聖なる山ウトゥケン山と共に重視され、一帯にはホショ=ツァイダム、オルドゥ=バリク・カラ=コルム・エルデニ=ズー僧院などの遺構がある。
トゥーラ川 ▲
ヘンティー山脈南麓に発し、ウラン=バートル近郊で北転してオルコン川に合流する。
流域はモンゴリアで最も肥沃な一帯で、多くの遊牧勢力の牧地とされた。
黒竜江
シルカ川を併せた後のアルグン河の呼称。合流点以東の中国は黒竜江省となり、中露国境として小興安嶺北麓を東流し、松花江・ウスリー川を合して北転した後、沿海州の西境を為して間宮海峡に至る。
中国では古くから黒水・弱水・烏桓河などと呼ばれ、モンゴル語のハラ=ムレン、満州語のサハリアン=ウラも黒河を意味し、元朝以降で黒竜江と呼ばれるようになった。
シベリアに進出したロシアが17世紀より極東進出の最重要交通路とし、1858年の愛琿条約で航行権を獲得し、ハラ=ムレンがロシア語に転訛したアムールが国際的な呼称となっている。
松花江 ▲
長白山脈最高峰の白頭山頂のカルデラ湖/天池に発する、黒竜江最大の支流。満州語のスンガリ=ウラ(天河)。
吉林省を西北流し、嫩江を併せて東転した後、黒竜江省を東北流して同江付近で黒竜江に合する。中流域一帯は松嫩平原、下流域は三江平原と呼ばれ、南方の遼河平原と併せて東北大平原を形成し、狩猟・農耕に適したため古くからツングース系種族の天地となっており、12世紀には女真族によって金国が建てられた。
『魏書』の速末水、唐代には粟末水、遼代には鴨子河・混同江、金代には混同江・黒水と呼ばれ、契丹人は松阿哩江、女真族が松花江と呼んだ。
大型船舶の航行が可能なために東北地方の物流の幹線とされ、黒竜江や嫩江とも水運で結ばれており、清末には航行権をめぐってロシアの侵出が著しかった。
嫩江 ▲
大興安嶺北東麓に発する松花江最大の支流。概ねは黒竜江省と内蒙古自治区・吉林省との境を為して東南流し、洮児河を併せたのち松花江に合流する。下流域は松花江中流域と共に松嫩平原を形成し、中国屈指の穀倉・牧草地帯となっている。
遼河
大興安嶺東南麓に発する西遼河水系と、竜崗山脈西麓に発する東遼河が遼寧省北部の康平県で合した後の呼称。
遼河平原を貫流して遼東湾に注ぎ、伝統的に中国とツングース系民族の分水嶺とされた。
遼河平原は農耕にも適している為に古来から中国王朝と遊牧勢力の係争地となり、高句麗・渤海・契丹・女真などが進出した。
嘗ては渾河・太子河も支流であり、遼中県付近で本流の大遼河と西流の双台子河に分流したが、1958年の改修工事で大遼河水路は渾河水系として分離され、現在では旧双台子河が本流となっている。
シラ=ムレン ▲
内モンゴル自治区、赤峰市北部のヘシグテン旗(克什克騰旗)に発する遼河の支流。東流しつつ南方からするラオハ=ムレン(老哈河)と合して西遼河となり、遼寧省北端部で東遼河と合して遼河となる。モンゴル語では“黄川”を意味し、黄河との混同を避けて“潢”とも記された。
新石器時代には紅山文化が栄え、秦漢時代に鮮卑・烏桓が、4世紀頃からは奚が活動し、奚の一派とされる契丹はシラ=ムレン上流域から発展して10世紀初頭には大帝国を樹立した。
渾河 ▲
旧称は瀋水。遼寧・吉林省境に発して西南流し、太子河を併せて遼東湾に注ぐ。
流域最大の都市の瀋陽には後金の国都/盛京が置かれ、後に奉天と改称され、現在は遼寧省の省都として経済技術開発区・副省級市とされている。嘗ては遼河の支流だったが、1958年の工事によって独立した水系となった。
灤河
河北省張家口市北部の沽源県に発し、北流して内蒙古自治区を掠めたのち河北省を東南流し、渤海に注ぐ。
上流部には元朝の上都が置かれたことがあり、中流域の承徳市には清代に熱河庁が置かれ、熱河避暑山荘は夏季の副都として機能し、熱河省が成立すると省都とされた。
流域一帯は清朝の下では禁山区とされて自然環境が保たれ、民国成立後は濫伐によって灌木が殆どとなっているが、河水は農業・工業用水の需要が少なかっために近年までは水量・水質とも比較的良好に保たれた。
海河
天津市で大運河(南運河)が北運河(温楡川)・大清河・子牙河・永定河を併せて東転した後の、河口までの73kmの称。海河の称は明末に初見される。
諸河川の合流化は京杭大運河の建設に際して水運の便を図るために行なわれたもので、土砂の堆積による浅底化の進行と共に大洪水が頻発化し(1368〜1949年で387回)、1963年の大洪水を機に上流域では多くのダムが、下流域では多くの放水路が建設されて治水には成功した。
その反面、諸河川での取水量の増加や降水量の減少、土壌流出などによる水不足は天津市の都市化の大きな桎梏となり、1983年より灤河からの取水による解消が図られたが、両河川の河口部に閘門が設置されたことで汽水域の生態系や漁業に深刻な事態を惹起している。
温楡河
北京と天津とを結ぶ北運河の支流。北京市昌平区の北面に発する北沙河・東沙河と、懐柔区北面に発する懐沙河が合流した後の称で、北京五大水系(永定河・潮白河・温楡河・拒馬河・泃河)で唯一、通年で水流を保っている。
北京市街の北東面を巡って東南流し、通州区で通恵河・小中河を併せた後に北運河となり、天津で海河に合流する。
渤海と北京を繋ぐ水路として重視される。
永定河
桑乾河と洋河が張家口市懐来県で合した後の呼称。金代には下流部は盧溝と呼ばれ、嘗ては流路が頻繁に変遷したことで無定河とも呼ばれたが、明初に治水を祈願して永定河と改められたと伝えられる。
張家口市の重要な水源であり、官庁ダムを経て居庸関付近で華北平原に出、北京市西南郊を通って天津市で海河に合す。
現在では年間の殆どが渇水状態となっている。
桑乾河 ▲
山西省北西部の寧武に発し、東北流して張家口市懐来県で洋河と合流して永定河となる。
名称は桑実が熟す頃に涸水することに由来するとも伝えられ、隋代には河口部までが桑乾河と呼ばれた。1997年より、ほぼ涸川となっている。
子牙河
滹沱河と滏陽河が合した後の称。天津市の静海県で大清河を併せて西河となり、南運河・北運河とも合して海河となる。近年では夏季以外はほぼ渇水状態となっている。
滹沱河 ▲
呼沱河とも。
山西省北部の忻州市繁峙県に発し、五台山系を南に迂回して東流し、河北省滄州市の献県で滏陽河と合して子牙河となる。
更始帝の時代に薊を逐われた劉秀の渡処は危度口と俗称され、東漢末に曹操によって饒河の旧河道から新溝水に流されてより、饒陽の北を流れるようになった。
石家荘市の重要な水源で、平時の水量は少ないながらも水流は急峻で、雨季にはしばしば大水害を起こした。
衛河
南運河とも。
河南省新郷県に発して東北流し、河北・山東省境を為して渤海に達していたが、大運河開削に伴い臨清より河道が利用され、南運河となって北流して天津で海河に合流するようになった。
黄河
中国第二の大河。青海省南部のバヤンカラ山脈北西部に発し、東西に大きく蛇行したのち甘粛省蘭州で北転し、陰山山脈南辺で東転、次いで南下して山西・陝西省境をなし、潼関付近で渭河を併せて再び東転し、華北平野を東北流して渤海湾に至る。
上流域の洮河・湟河・大通河、中流域の汾河・渭河、下流域の沁河・洛河を主な支流とし、中流域は黄土台地、下流域は黄土の沖積平野をなす。
融雪期・降雨期には水量が激増し、黄土含有率は時に50%を超え、平野部では河底に堆積する土砂によって天上河となっており、華北平野は現在でも8年で1kmほど前進している。
そのため増水期の氾濫で河道を変える事もあり、過去には7回の大変動が記録され、嘗ては滎陽付近で北東に転じ、衛河や永済渠の河道はその名残とされる。
1137年に南宋が金軍を防ぐために開封近郊で決壊させてより東南流して泗水に合し、そのため大量の土砂が淮河下流に流入して深刻な洪水被害をもたらしたが、1948年に嘗ての済水の河道を利用して現在の流路に整えられた。
黄河の氾濫で形成された華北平野は肥沃な沖積層で、農耕の発展とともに古代文明が発祥し、江南開発が飛躍的に発展した五代期までは政治・文化・経済の中心として重要視され、治水の難しさと併せて古来から「黄河を制する者は天下を制する」と称された。
済水 ▲
河南省済源市西北部の王屋山に発して東流し、鄭州付近で黄河と交わった後に定陶付近で南北に分流し、本流は鉅野沢を形成しつつ泰山北麓を経て渤海に注ぎ、南流は荷水となって徐州付近で泗河に合したという。
名称は黄河を“済(わた)った”為とも、黄河の調水弁として水流を“済(ひと)しくした”事に由来するとも伝えられる。
南流して淮河と合流していた黄河を渤海に導く為、1948年に済水の河道が流用された。
汴水
古汴河。戦国魏が拓いた水路で、洛陽東方の河陰から東南流して開封一帯を灌漑した。
西漢末に黄河が決壊すると治水機能を重視され、東漢の永平12年(69)より重点的に修築され、東流して徐州で泗河に合流した。
洛河
洛水。陝西省東南の洛南県に発して伏牛山脈北麓を東流し、河南省の洛陽盆地で雒河・伊河などを併せて鞏義県で黄河に入る。
洛陽の名はこの河の北畔にあることに由来し、古来から洛陽への漕運の主要水路として利用された。
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陝西省中部にも同名の河川があり、これは陝西省西北部の定辺県に発して東南流し、甘泉県より南下して大茘県で渭河に合流する。古くから関中の重要な灌漑河川で、戦国時代に鄭国渠で河と連結され、北周代にも龍首渠(洛恵渠の前身)が開鑿された。
渭河
渭水。甘粛省渭源県の西郊に発し、秦嶺北麓を東流しつつ天水・宝鶏・咸陽・西安などを経て潼関付近で黄河と合流する。
下流域の関中盆地には西周・秦・西漢・北周・隋・唐が国都を営んだ。
黄河中流域の主要な支流であり、関中に国都が置かれた時代には中原との漕運の大動脈として極めて重要視され、首都圏の東漸によって重要性が激減した後も陝西地区の中心として機能し続けた。
侵食による河面の沈降によって漕運に支障を来し、灌漑水の取水も困難となったことが長安の国都機能喪失の一因となった。
河 ▲
水。渭河の主要な支流。六盤山麓の寧夏自治区源県北郊に発し、東南流して関中の高陵で渭河に至る。本流の渭河との比較で“澄渭濁”の語もあるが、実際には泥土を多く含んで夏季には洪水も多く、枯水季にはやや清流となる。
流域渓谷は古代に義渠戎の根拠地となり、秦代には鄭国渠が開鑿されて関中の開発に多大に貢献した。
鄭国渠 ▲
戦国秦が、河を引いて中山(淳化県西)・瓠口(陽北城外)から洛河に開いた運河。
韓人の鄭国が秦の国力消耗を目的として開鑿を進言したもので、10年をかけて完成したが、幹線路の総延長120km余のこの灌漑網は水だけでなく肥沃な泥土を4万頃の耕地に供給し、関中を全国有数の沃野に成長させ、秦の全国統一を大きく前進させた。
汾河
汾水。山西省北部の忻州市寧武県に発し、呂梁山脈の東麓を南流して太原盆地を過ぎ、運城市河津県で黄河に注ぐ。
流域には西晋時代に匈奴劉氏が拠り、首邑の太原の他に臨汾市、侯馬県などの多くの歴史的都市・遺構が存在する。
嘗ては豊富な水産と就航可能な水量があったが、近年の工業的発展と上流の沙漠化・ダム建設などによって断流時期すら生じている。
賜支河
湟河、もしくは洮河が合流する以前の黄河の、羌族からの呼称。
北の湟河盆地を中心とした一帯は黄河を併せて“三河”とも呼ばれ、西羌最大の牧地としてしばしば中国と帰属が争われた。
青海湖
ココ=ノールとも。青海省北東部の中国最大級の湖水で、内陸塩湖。海抜3205mに位置し、最深部は28m。
嘗ては星海・西海とも呼ばれて黄河の水源と見做され、東方に隣接する湟河流域は羌などのチベット系遊牧種の必争の地とされた。
同省の農工業などの開発や気候の乾燥化などによって流入河川の多くが渇水化し、湖水量が減少しつつある。
淮河
淮水。河南省南境部の桐柏山北麓に発する中国第三の大河。奎濉河・渦河・沙潁河・洪汝河など主要な支流の多くは北面から流入している。
1千km超の全長と200mに過ぎない標高差に複雑な流路が相俟ってしばしば氾濫したが、1128年に黄河が合流して土砂の堆積が加わってより暴れ河となり、“壊河”とも俗称された。
殊に1194年の黄河の大氾濫の影響は大きく、下流部には洪沢湖・高郵湖・邵伯湖などが形成され、流出水路は長江にも通じるようになった。
1855年の黄河の北転後も壊河の状況は変らず、20世紀半ば以降の上流部でのダム建設や植林、旧河道を利用した蘇北灌漑総渠による黄海への放水などで漸く治まった。秦嶺山脈とともに中国南北の象徴的な分水嶺でもあり、しばしば“秦淮”と併称される。
泗河 ▲
泗水。山東省新泰の蒙山南麓に発して西流し、泗水・曲阜を経て済寧市南郊で大運河中の微山北湖に注ぐ。
嘗ては淮河下流の大支流であり、南北の舟運の幹線として重視され、現在の魚台から東南流して泗口(淮安市淮陰区)で淮河に注いでいたが、南宋初期に決壊された黄河が徐州付近で合流した結果、大量の土砂が堆積して1855年に黄河が北転した後も復旧できず、徐州以南の旧水路は現在は廃黄河として大運河に並走している。
通済渠
俗称は汴河。唐の広済渠。現在は恵済河。
汴水を605年に隋の煬帝が改修し、東南に拓いて商邱・宿県・霊璧などを経て盱眙に至って淮河に結んだ運河で、文帝が平陳を目的に587年に修復した邗溝(山陽瀆)によって長江に達し、大運河の幹線を構成した。現在の恵済河は、亳州市区で渦河に合している。
広済渠は隋代にも開かれましたが、これは水量の不安定な渭河の代替水路として文帝が584年に開鑿したもので、大興城をへて臨潼付近で黄河に合し、大運河とは無関係です。
又た明の景泰年間に黄河を治水する為に、徐有貞が寿張(山東省陽谷)から范・濮を経て黄河・沁河に拓いた水路も広済渠と呼ばれました。
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永済渠:旧黄河と衛河の河道を利用して、武陟と涿を結ぶ為に608年に開かれた運河。
江南の物資を高句麗遠征に利用する事を直接の目的とし、三会海口(天津)を経て幽州(涿)に達し、610年に太湖の東を経て杭州に達する江南河が開削されて大運河が完成した。
大運河開削は女性を含む民衆百万人を徴発した突貫工事でありながら、当時は官資運送と煬帝の遊覧を主な目的とした事で煬帝の暴政を象徴するものとなった。
唐以後に漕運の大動脈となって中国の南北を有機的に結合したが、急速な水流と冬春の渇水、黄土の堆積などが克服できず、宋末以来の南北途絶で放棄された。
大運河
京杭大運河。元朝が開鑿して明朝が整備した、北京〜杭州の運河。その嚆矢は春秋呉が北伐の為に長江と淮河を繋いだ邗溝にあり、7世紀初頭に隋朝が開いた大運河を祖型とする。
隋の大運河は文帝が改修した邗溝(山陽瀆)の他は煬帝によって開鑿され、610年の江南河の開通を以て完成したもので、国都長安と幽州涿・杭州銭唐が開封と黄河を経由して直結したが、金の華北征服によって存在意義と機能をともに失って荒廃した。
京杭大運河は南宋を征服した元朝が整備・開削を進め、南流黄河を利用して開封経由で行なわれていた漕運(開封〜衛河は陸運)を江南から大都(北京)に直通させる事を目的とし、1283年に泗河・汶河を利用して済州河(淮安〜東阿)を、1289年に東阿〜臨清に会通河を開いて衛河に連結し、1292年には白河畔の通州から通恵河を開いて大都市街に到達した。
当時は整備・維持の労力と、対外貿易を重視した海運が主流だった為に殆ど利用されなかったが、明朝の北京遷都によって重要性が再確認されて整備が進められ、万暦年間には徐州経由の迂回路を廃して淮陰〜済寧に水路を開き、今日の大運河が完成した。
以来、京杭大運河は江南物資の輸送を中心に南北交通の大動脈とされたが、海運が主流となった清末より整備が不徹底となって不通区間が増え、共和政府成立後に改修が進められて灌漑にも利用されている。
長江
華中を東西に貫流する、中国第一、世界第三の大河。中国内では“江”として通用し、形容詞を付して大江・長江と云い、外国で知られる揚子江は、本来は鎮江より下流の称で、この名がヨーロッパに紹介された為に一般的となった。
チベット自治区と青海省を画すタングラ(唐古拉)山脈北麓を水源とし、青海省を経て四川省の西・南境を画し、雅礱江・岷江・嘉陵江などを併せつつ東流して三峡から湖広平野に入り、湘江・漢水・贛江などを併せて上海で海に注ぐ。青海省では通天河、四川省境では金沙江とも呼ばれる。
嘗て先秦時代の中・下流域は火耕水耨と称される粗放な水稲農耕を行なう未開の地と見做されていたが、近年の発掘調査によって水稲農耕発源の地であると同時に最古の都市文明を築いた地域の1つと判明し、第五の大河文明として、また中国文明の源流の一半として注目が高まっている。
上流の巴蜀についても、20世紀後期には三星堆遺跡などの独自の文化を持つ都城遺跡が発見され、世界の古代文明がいずれも麦作で繁栄したとする学界の定説を覆した。
中・下流域の江南部の開発は六朝時代を通じて飛躍的に進められ、五代期の開発によって宋代以降は経済文化の中心地域となった。
殊に江浙の発展は著しく、清末の開国によって河口部の上海は世界屈指の大都市に成長し、鎮江以東の三角洲は中国一の人口密度を有する。
20世紀半ばに立案された長江総合利用流域規画の一環として行なわれた三峡ダムの建設は、1994年に着工されて2006年に完成し、全国の1/10(当時)の消費電力を賄う世界最大規模の水力発電や灌漑施設のほか、1万t級の船舶の重慶への航行も可能となったが、水質汚染や400万人近い強制移民の貧困化、多数の史跡の水没による観光収入の激減などが懸念されている。
太湖
江蘇・浙江省境の大湖。60kmx45kmで湖上に多数の島嶼があり、風光明媚で知られて国家重点風景名勝区にも指定されている。
元々は長江・銭塘江からの土砂による潟湖(ラグーン)だったが、多雨の気候や流入河水によって淡水化が進み、現在では中国第三の淡水湖となっている。
太湖と長江による灌漑は一帯の飛躍的発展を支え、又た景勝の他に太湖石の産地としても知られ、この太湖石の輸送(花石綱)は北宋末の民乱の原因の1つにもなった。
しばしば氾濫し、范仲淹の治水の後も風浪の危険や匪賊の巣窟として知られ、20世紀の解放後に大規模な治水工事が行なわれてようやく安定するようになった。
黄浦江 ▲
太湖水系の淀山湖に発し、上海市内を縦断して長江に至る。
戦国楚の春申君によって浚渫され、黄歇浦・春申江とも呼ばれる。初期には太湖の水量調節用の分流の1つだったが、1404年の范家浜掘削によって長江と繋がり、後に呉淞江閉塞によって太湖〜長江の本流となり、現在は汽船航行も可能となっている。
一帯は河川・運河が主要交通路となっているので舟運が発達し、上海の繁栄に多大に貢献している。
鄱陽湖
江西省北部、長江南岸の中国最大の淡水湖。往古の彭蠡澤・彭澤。
修江・贛江・撫河・鄱江など江西省内の殆どの河川が流入し、長江の天然の治水ダムとしても機能する。
洞庭湖の水量減少によって中国第一の淡水湖となったが、季節的な表面積の差が著しく(146ku〜3,210ku)、水量の減少が問題化している。
絶滅危惧種の揚子江カワイルカの生息地としても知られ、西隣には観光地としても有名な廬山が聳える。
贛江 ▲
淦水とも。江西省を縦断して鄱陽湖に注ぐ、長江下流域最大の支流。
同省南部の贛州市章貢区で貢江と章江が合した後の称で、吉泰盆地を挟んで南北に峡谷地帯があったが、万安ダムの建設で上流部の急流の多くが水没した。
年間の平均流量は黄河を凌ぎ、中流以降は船舶の航行も可能で、鄱陽湖平原には呉城文化系の古代遺跡が存在する。
貢江は石城県の武夷山中に発して瑞金東郊を南下したのち西転し、湘水・梅江・平江・桃江などを併せ、章江は江西・湖南・広東省境に発して大余を貫流して東北流した後、南康で上猶江と合流して程なく章貢区に入る。
又た章江南方の大庾嶺(梅嶺)中の小梅関は、粤漢鉄道の開通までは嶺南に通じる主要な街道とされていた。
漢水
沔水とも。陝西省漢中市西南部の寧強県に発する長江最長の支流で、中国の主要河川の1つでもある。
秦嶺と大巴山脈の間の漢中盆地を東流したのち丹江水系や唐白河水系を併せ、湖北平野を横断して武漢市で長江に注ぐ。
中流域の襄陽、河口部の鄂州=武漢は交通・戦略上の要衝として古来より重視され、元朝が南宋を征服する際にも漢水からのルートが利用され、鄂州の陥落が戦況を決したともされる。
平野部では舟運の利用が活発で、殊に長江とも接近する下流域右岸は沼沢地でもあって夙に水運・灌漑が発達したが、地勢の関係によって洪水被害も頻発している。
丹江・浙水との合流点に建造された丹江口ダムは、華中の水を華北に供給する南水北調計画の一環に加えられ、引漢済渭計画も進められているが、漢水の水不足や環境破壊などが懸念されている。
白河 ▲
唐白河とも。往古の淯水。河南省の伏牛山脈南麓の樊川県に発し、東南流して南陽市・新野県を過ぎ、唐河など伏牛山脈南麓に発する諸河川を併せて襄樊市で漢水に注ぐ。
洞庭湖
湖南省北西部、長江南岸に位置する中国第二の淡水湖。
汨羅江・湘江・資江・沅江・澧江などの湖南省の殆どの河水が流入し、鄱陽湖同様に長江の天然の治水ダムとしても機能し、平均2,800kuの表面積は夏季増水期には20,000kuにも達する。
嘗ては長江の北にも広がる中国第一の大湖であり、往古には周囲に雲夢沢と呼ばれる広大な湿原を形成し、両湖平原の沃土の源となって独自の文化圏が営まれたが、現在では長江両岸に沼沢を遺すのみで、長江からの堆積物と干拓などによって縮小が進行している。
名勝・旧蹟にも富み、“洞庭秋月”は瀟湘八景に数えられ、北岸の岳陽には岳陽楼があり、近郊の君山(湘山)には帝舜の両妃(娥皇・女英)の廟がある。
汨羅江 ▲
江西省修水県東部に発する、洞庭湖東岸最大の河川。正しくは、汨羅市で汨水に羅水が合した後の呼称。
戦国楚の屈原の入水地や、龍舟競争・粽子の発祥地として知られる。
湘江 ▲
広西自治区北部の臨桂県に発して東北流し、永州で瀟水、衡陽市で耒水を合してより北流して洞庭湖に注ぐ。
源流域との標高差は小さいが、永州市までは急峻な峡谷地帯で鍾乳洞なども多く分布し、河口部には雲夢沢の名残の沼沢が散在している。
西の沅江水系とは雪峰山脈によって画され、源流部の興安県では秦代以来の霊渠によって珠江水系の漓江と結ばれている。
烏江
黔江とも。貴州省西端の畢節地区の威寧自治県に発する三岔河と、同地区の赫章県に発する六沖河が貴陽市西北郊で合した後の称。
重慶市涪陵区で長江に注ぐ貴州省最大の河川で、流域には多数のダムが建設されて中国有数の水力発電地帯となっている。
嘉陵江
渝水・閬水とも。陝西省宝鶏市鳳県の秦嶺山脈南麓に発し、同県の嘉陵谷から南下して略陽県で西漢水を、四川省広元市の昭化で白龍江を併せ、重慶市の合川地区で涪江・渠江と合流したのち重慶市街の東部で長江と合流する。
嘉陵江の流域面積は長江の支流中最大で、白龍江合流後は航行も可能となり、広元〜合川の200kmの直線距離を600kmで蛇行する。
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上流部最大の支流の白龍江は、四川・甘粛省境西部(アムド東部)の岷山山脈に発し、甘粛省を東南流して隴南市武都区を過ぎ、碧口で九寨溝付近から発する白水江を併せて四川省に南下する。
沱江
四川省阿壩自治州茂県に発する綿遠河と、その南郊に発して綿竹市と什邡市を画境する石亭江が、成都市金堂で合した後の称。綿遠河が本流と見做され、金堂では岷江の分流の柏條河(毗河)や青白江も合流し、成都市の東郊を南下して瀘州市で長江に注ぐ。
綿竹市以北は急峻で、金堂を過ぎた辺りで龍泉山脈を越え、資中以南の下流域は水深・河幅とも大きくなる。
尚お、石亭江の支流/鴨子河の南畔に三星堆遺跡が存在する。
岷江
汶水とも。四川省阿壩自治州北部の岷山山脈南麓に発して南下し、四川盆地西縁の成都平原を縦貫して楽山市で大渡河と合し、宜賓市で金沙江と合して長江となる。
岷江水系は長江の支流でも最大の流量があり、明末に金沙江が確認されるまでは長江の本流と認識された。
岷江水系が形成する成都平原は四川盆地でも最も肥沃で、戦国秦の李冰父子が平野部への出流地に造営した都江堰は治水・灌漑・水運などに絶大に資し、改修を受けながら現代まで機能している。
大渡河 ▲
大金川と小金川が四川省の丹巴で合流した後の称。
大雪山脈東麓を南下して賀安市南部で東転し、楽山市で岷江に合流する。全長・水量ともに本流の岷江を凌ぐ。
流域の殆どが険峻な山岳地帯の為、康熙年間に雅安西方の瀘定に瀘定橋が吊設されるまでは横断は至難とされ、太平天国軍の翼王石達開も大渡河の横断に失敗して清軍に投降した。
大金川 ▲
青海省玉樹自治州のバヤンカラ山脈東南麓に発する麻爾柯河(馬可河・脚木足河)と、その西方に発した多可河(杜柯河)が金川県北境で合流した後の称で、大渡河の上流域を形成する。
流域一帯は康熙・雍正年間に清朝に帰属し、現在の甘孜自治州丹巴県地方に土司が設置されたが、乾隆年間に小金川との抗争から大叛乱に発展した。1776年に四川省に直属する阿爾古庁が置かれて改土帰流が徹底され、ついで美諾庁に併入された。
小金川 ▲
大渡河と岷江を分つ卭崍山脈西麓に発し、四川省阿壩自治州の小金県西郊を流れ、丹巴で大金川と合流する。一帯は古くから氐・羌族の住地で、唐代には吐蕃の勢力圏となり、元・明代に土司が置かれ、清には順治年間(1644〜61)に帰順した。
乾隆年間に大金川と対立抗争して清朝への叛乱に発展し、二次に及ぶ遠征で1775年に平定された。
金沙江
青海省玉樹自治州の巴塘河口〜岷江合流点の長江上流部の称で、砂金を産することに由来し、チベット族の呼ぶディチュ河の一部でもある。
現在では四川省と西蔵自治区を画すが、チベットの認識するカム地方を東西に二分し、瀾滄江(メコン上流部)・怒江(サルウィン川上流部)とはそれぞれ山脈を隔てて三江併流を形成する。
雲南省で虎跳峡を含む大峡谷地帯を大きく蛇行して四川省に入り、雅礱江を併せて再び四川・雲南省境を為し、宜賓で岷江を併せて長江と呼ばれるようになる。
長江の全長の半ば近くを構成するが、流域は概して深谷急流で舟運に向かず、明末の徐宏祖の踏査で初めて長江の本流と確認された。
雅礱江 ▲
青海省玉樹自治州南部のバヤンカラ山脈の中部南麓に発し、大雪山脈西麓を大渡河・金沙江とそれぞれ山脈を隔てて並走して南下し、四川省西南部の涼山自治州で南北に蛇行したのち雲南省境の攀枝花市で金沙江と合流する。
長江の支流でも屈指の全長があり、源流から合流点までの標高差(4400m以上)と豊富な水量を利用した大型ダムが多く建設され、流域は中国屈指の水力発電地帯となっている。
珠江
旧称は粤江。正しくは本流の西江が広州で北江・東江と合した後の177kmを指すが、一般には中国第四の大河である西江の源流域からを指し、或いは流入水系の総称としても用いられている。
流域一帯は南嶺山脈の南にあることで古来から嶺南と呼ばれ、黄河・長江流域とは長らく文化風俗を異にしていた。
流域面積は長江に亜いで黄河に数倍するが、水系の95%近くが山地と丘陵で、河口部では無数の分流によって広東デルタを形成し、香港・深圳・広州・マカオなどの大都市が密集して中国の輸出産業の一大集積地となっている。
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西江は雲南省東北部の沾益県に発する南盤江を源流とし、広西・貴州省境で北盤江が合して紅水河となり、広西自治区で南下する柳江を併せて黔江となり、桂平で鬱江(郁江)を併せて潯江となり、梧州で桂林から南下する桂江(漓江)を併せてより西江と呼ばれる。
霊渠 ▲
長江水系の湘江と、嶺南の珠江水系の漓江を結ぶ、現存する最古の運河。
全長34kmで、36の水門を具える。
嶺南攻略のために始皇帝が開鑿させたもので、湘江上流を南北に分流して南渠を漓江に接続させ、20余回の改修をへて現在も湘桂運河として機能している。
唐代の改修で大船の航行が可能となり、宋代には灌漑施設としても利用され、長らく嶺南と長江水系を結ぶ大動脈として機能したが、1842年の南京条約での諸港開港によって機能を大きく失い、この時の大量の失業者の発生が太平天国初期の急速な拡大の背景となった。
アルタイ山脈
北アジアと東トルキスタンを分かつ山脈。
山脈南麓にはイルティシュ川が流れ、ステップ=ルートを擁する事もあって北アジア制覇を図る牧民国家必争の地とされた。
アルタイはトルコ=モンゴル語で“金”を意味し、中国でも金山と呼ばれ、嘗ては鉄などの鉱物資源を豊富に産し、鍛鉄技術で強盛となった突厥の発祥地でもある。
17世紀後半よりロシア人の進出が始まり、現在はモンゴル国のゴビ=アルタイ県・ホブド県・バヤン=ウルギー県、中国の新疆ウイグル自治区のアルタイ地区、ロシアのアルタイ共和国・アルタイ地方、カザフスタンの東カザフスタン州などに分れている。
アルタイ諸語とはテュルク諸語・モンゴル諸語・ツングース諸語などから成る言語グループの総称で、日本語・朝鮮語を含むとの説もある。
テュルク諸語にはトルコ語・アゼルバイジャン語・チュヴァシュ語・バシュキル語・キルギズ語・ウズベク語・ウイグル語・ヤクート語などが属し、モンゴル諸語にはハルハ語・ブリヤート(バイカル)語・オイラート語などを含み、ツングース諸語には満州語・コルド語・ウデヘ(沿海州)語・エヴェン語などがある。
共通する特徴が多い一方で、基礎語彙にすら隔絶がある為に語族・語群化には否定論が強い。
ハンガイ山脈
杭愛山。アルタイ山脈の東北方を東西に並走する、モンゴル高原中央部の山脈。平均的な標高は2000〜3000m程で、小規模ながら氷河も存在する。北麓にはセレンガ・オルコン両川が発源し、森林ステップを形成して古来から遊牧勢力の一大拠点とされた。
唐代には燕然山と呼ばれ、薛延陀征服の後に燕然都護府が置かれた。
ウテュケン山 ▲
現在のハンガイ山脈、あるいはその一部と推定される、古代漠北のトルコ種族の聖地。
突厥・薛延陀・ウイグルなど東方トルコ諸族の可汗帳が置かれた。
ヘンティー山脈
バイカル湖東のヤブロノイ山脈南西部の、モンゴル国内での称。
チンギス汗の生誕地・墓所があるとされるブルカン岳が含まれ、オノン川・ケルレン川・トゥーラ川などが発源する。
陰山山脈
内蒙古自治区の、河套の北方を東行して大興安嶺南麓に連なる古期造山帯。
険峻な南斜面と緩慢な北斜面を有し、漠朔に接しているため古来から北方遊牧民の南下の拠点となった。
南麓にはB4世紀中頃に趙が長城を造営して秦始皇帝の万里の長城の一部となり、北魏で北鎮、唐では三受降城などが設置され、中国盛時の北防線とも見做された。
興安嶺
内蒙古自治区東部を縦断する山系。遼寧省〜黒竜江省のものを大興安嶺、大興安嶺北部から東南への支脈を小興安嶺と呼び、黒竜江北方のヤヴロノヴィ=スタノヴォイ山脈を外興安嶺と呼ぶこともある。
木葉山
遼寧省内、シラ=ムレンとラオハ=ムレンの合流点に位置する。
8世紀中葉、契丹族が部族の結成を達成した場所であることから聖地とされ、遼朝を通じて祭山儀が行なわれた。
燕山山脈
河北省北部を覆い、太行山脈と大興安嶺を繋ぐ山塊群。狭義に北京市北部を軍都山脈、密雲池以東を燕山山脈と呼ぶ事も多い。
万里の長城の起点として東端に山海関が置かれ、北京の北辺には防衛線として長城が重層的に構築され、軍都山中の八達嶺の南に設けられた居庸関は難攻不落と称された。
太行山脈
大興安嶺から連なる山脈の1つ。
山西省と河北・河南両省との境界を為して南下し、伝統的に華北を“山東・山西”に大別する分水嶺でもあった。
北部には五台山・恒山の二大聖地を擁し、各所に峠があって貫流河川も少なくはないが、東峻西緩な地勢で東側には1000m級の断崖も存在する。
古くから石炭の産地としても知られ、宋代には開封に炭煤務が設置されて京師の需要に応じた。
泰山
東嶽。岱山・太岳とも。山東省済南市南方、太安県北郊にあり、標高は1524mに過ぎないが、平野部に孤立する山容の秀麗さから信仰を集め、中国最高の霊峰として歴朝で国家的祭祀が営まれ、始皇帝をはじめ歴朝の天子が太平治の宣言として封禅を行なった。
五岳の東岳でもあり、東漢の頃から泰山府君の居所とされて道教では東岳大帝と呼ばれたが、後にその息女の碧霞元君信仰の昂揚とともに泰山娘娘と呼ばれた。
秦嶺
陝西省南辺部を東西に走る山脈。崑崙山系の東端に連なって陝西省西部の太白山(3767m)を最高峰とし、東では河南省を南北に分かつ伏牛山脈や湖北省と河南・安徽省の境の桐柏・大別山脈が続き、長江を越えて安徽省南界の天目山地に達する。
大散関・嶢関などの交通の要衝を擁し、渭河と漢水の分水嶺を為すだけでなく、淮河とともに中国南北の自然地理・生活文化の分水嶺でもあり、しばしば秦淮と呼ばれる。
岐山
陝西省宝鶏市の岐山県北東。殷末、殷や北方異民族の圧迫に逐われた古公亶父が豳から山麓の周原に移住したことで、姫姓部族の発展とともにその発祥地とされた。
六盤山脈
寧夏回族自治区西南面を甘粛省と画境する全長約240kmの山脈で、南端部は隴山とも呼ばれる。
隆徳北郊の主峰/六盤山(米缸山)の標高は2942m。チンギス汗の終焉の地としても知られる。
隴山 ▲
陝西省西端北部に位置する、六盤山脈の南端部。
古くは中国と塞外の分水嶺とされ、河西が直轄化された後も隴東・隴西の称は長く使用され、しばしば中国西面の最終防衛線と見做された。
天台山
浙江省台州市の天台県の南郊に位置し、華頂峰を中心とする諸山の総称。五台山・峨眉山と並ぶ中国三大霊山の1つ。
神仙道の霊場として開かれたが、晋代には仏教勢力が優勢となった。575年に智が入山して修善寺に天台宗を開き、入寂後に晋王広の保護下に国清寺が建立され、以来、天台宗の総本山とされた。
廬山
江西省北部で長江・鄱陽湖に面し、平地に屹立する山容のために古くから信仰され、4世紀末頃には慧遠が白蓮社を結成して南方仏教の一大中心地となった。
「天下の奇峰」とも称され、数多の文人墨客の題材ともなって名勝旧蹟を多く擁し、現在は国家風景名勝区に指定されているほか、廬山自然公園としてユネスコの世界遺産にも登録されている。
沿海州
シベリア東南端、黒竜江・ウスリー江以東の地。
古くからツングース族が住い、明代にはいちじ奴児干都司が置かれた。
ロシアの進出後、清朝康熙年間にネルチンスク条約で中国領と確認されたが、1858年の愛琿条約で両国共管地とされ、2年後の北京条約でロシア領とされた。
現在の行政区画としての沿海州地方=プリモルスキーは嘗ての沿海州の南半にあたる。
フルン=バイル
大興安嶺北西麓の、フルン=ノールとバイル=ノール一帯の称。
『山海経』には大澤と記され、古くから遊牧勢力が拠り、モンゴル帝国ではオッチギン領とされ、北元のトクズ=テムル汗が藍玉に大敗した地でもある。
清朝では黒竜江将軍の管下に置かれて長らく遊牧社会が保たれ、満州国の支配を経て1948年にフルン=バイル盟が設置されて内蒙古自治区に属した。
満洲里・ウランホトが自治区直轄市となった後、2001年にフルン=バイル盟が撤盟設市してハイラル区を中心とするフルン=バイル市が成立した。
長城地帯
中国と北方遊牧勢力の文化・経済の交錯地帯。時代によって南北に変遷する長城の移動幅にも相当し、中国人の可耕地の限界として、必然的に中国本土の北限でもあった。
中国の支配が漠北まで及んだ唐代や、征服王朝の金・元・清朝では長城同様に政治的意義は少なかったが、概ねは北防の最前線として重視され、明朝では九辺鎮や馬市が設けられ、鎮軍維持と馬市の運営は政治・経済上の重要課題とされた。
幽州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。古名は燕。
現在の河北省北部〜遼寧省にあたる。伝統的に薊(北京)を首府とし、東北の異民族に直接する僻地とされ、殊に遼東平原はツングース系勢力との係争地となり、2世紀後期には公孫氏が平州牧を称して遼寧地方を以て独立した。
北魏の下でも分割が進んだが、東北辺の要衝として北周では東北道総管府が置かれ、隋煬帝の廃州為郡で燕郡を併せて涿郡とされ、9県を統轄した。
大運河の完成で重要性を高め、712年には范陽節度使=盧龍節度使が置かれ、唐末には劉氏が独立政権を樹立した。
唐以降も范陽郡と改称された一時期(742〜58)を除いて幽州と呼ばれたが、燕雲十六州の1つとして938年に契丹に割譲されると副都の燕京が置かれ、行政区画名としての幽州は用いられなくなった。
遼東
遼河〜鴨緑江の地域を指すが、歴史的にはしばしば遼河平野を中心とした東北地方南半を指した。
遼河平野は伝統的に中国と烏桓・鮮卑やツングース勢力との係争地となり、東漢末に公孫氏が独立勢力を形成して高句麗・扶餘を藩属させたが、西晋末より慕容燕の勢力基盤となり、慕容政権の崩壊後は南北朝時代を通じて高句麗の版図とされた。
古代の遼東郡は上谷・漁陽・右北平・遼西とともに戦国燕の昭王が新設した郡の1つで、長城の東端に位置して現在の遼陽に郡治が置かれ、幽州、次いで平州に属し、高句麗が唐に滅ぼされると遼州が設置された。
平州
漢末に幽州北部を支配した公孫度が平州牧を称した事に始まり、三国魏や西晋でも昌黎郡(大凌河流域)以東を以て平州とし、刺史は東夷校尉を兼領した。
永嘉の乱後は鮮卑慕容部と高句麗の係争地となり、313〜14年に高句麗の拡大に伴って玄菟・楽浪・帯方郡が放棄され、遼東郡などの西部は慕容廆に実効支配された。
北魏では営州の分置によって灤河流域に南下し、隋代には1郡2県を管轄して607年に北平郡と改称された。
唐以降も金に至るまで平州の称は用いられ、元が永平路に改めて明清にも踏襲された。
営州 ▲
古九州の1つ。青州にあたる。
2世紀末に遼寧の公孫度が山東半島に一時的に復置した。
同時代の鄭玄は古営州を遼東地方に比定し、そのため北魏は北燕の故地を営州として大凌河畔の龍城(遼寧省朝陽)を州治とした。
隋煬帝の廃州で柳城郡とされて1県を管轄し、唐代には北防の要衝として719年に平盧節度使が置かれた。
安史の乱の後、761年に奚に攻没され、昌黎県方面に後退した営州治も五代後唐の同光年間(923〜26)に契丹に占領され、1142年に金によって平州に併合された。
冀州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。
現在の河北省南半〜河南省北端部にあたる。
古くは磁山文化や後崗文化が栄え、殷(朝歌)や戦国趙(邯鄲)などが国都を置き、東漢や曹魏の興隆の地でもあった。
永嘉の乱後は異民族政権の中に没し、北魏の下で細分化が進んで冀州は旧領の北辺に置かれ、隋代になって607年に管下の2郡に広宗郡・鉅鹿郡を併せ、信都郡に改編されて12県を統轄した。唐初に冀州に戻って河北道に属し、以後は概ね信都周辺の数県を管轄し、1993年に冀県から冀州市に昇格した。
兗州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。
沇水(済水)に由来して山東・河北・河南省の交界部一帯を領し、冀州・豫州と与に司隷部に亜いで重視され、概ね昌邑(済寧市金郷)が州治とされた。
永嘉の乱の後、南朝が江淮部に僑立した一方、北魏では分割が進み、隋代の607年に魯郡に改編されて10県を統轄した。
唐代には瑕丘を州治とし、金代になると嵫陽に州治が稍移され、1948年に滋陽県は兗州県となった。
豫州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。
概ね現在の河南省南部にあたり、古九州では九州の中心とされた。漢末より州治は譙から許、項、安城と遷移し、永嘉の乱後は兗州同様に江淮に僑立され、華北では前秦の崩壊後は洛陽周辺が豫州とされた。
北魏で汝南に遷されて蔡州に、北周末の580年に舒州に改称され、隋で豫州に復したものの、程なく溱州・蔡州と改称が続いて607年に汝南郡とされた。
一方、洛陽一帯は司州、次いで洛州と改称された後に605年に陝州・熊州・和州を併せて豫州とされ、607年に17県を統轄する河南郡に改編された。
唐代に再び洛州となり、行政区画としての豫州の称は廃された。
青州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。現在の山東省に相当する。
古くは斉魯・海岱とも呼ばれ、臨淄が政治的な中心となり、中原とは文化圏を異にした為に政情が不安定になると民乱が発生しやすく、秦末の田氏、1世紀の赤眉などが代表的なもので、漢末の黄巾の乱でも1つの大集団を形成した。
永嘉の乱後は410年に東晋の劉裕によって回復され、暫く南朝と北朝の係争地の1つとなったが、5世紀半ばの薛安都の乱で北魏に接収され、斉州・光州などが分置されて分割が進んだ。
隋代の607年に北海郡に改編されて10県を統轄し、唐代に青州総管府が置かれ、宋代には京東東路の路治となった。
金の下で益都府と改称されたが、明初に青州府に復し、1913年に青州府が益都県に改められた後、1986年に青州市に昇格された。
徐州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。
現在の安徽省・江蘇省の凡そ北緯32度以北にあたる。
曹魏になって州治が郯(臨沂市郯城)から彭城(徐州市区)に遷され、永嘉の乱後も南半を保ったが、豫州・南豫州・兗州・南兗州などに分譲され、治所も京口に遷された。
華北諸国もそれぞれ徐州を置き、北魏が皇興年間(467〜71)初頭に廃止したが、隋が復置して3郡6県を統轄し、607年の廃州為郡で彭城郡に改編されて11県を領した。唐が621年に彭城を州治として復置し、元では徐州路が置かれ、清の雍正年間(1723〜35)に徐州府に昇格して1州7県を管轄した。
滅清での廃州で彭城には銅山県が置かれたが、汪兆銘の南京政権によって徐州市に改称された。
幷州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。
現在の山西省〜陰山南麓にあたり、1世紀半ばには陝西北部以北の朔方部を併せた。
匈奴をはじめとする遊牧勢力の王庭の至近に位置した為に紛争が絶えず、東漢は度遼営の復置や南匈奴の徙住で対処したものの、215年には旧朔方部を含む北辺部を放棄した。
中部の離石(呂梁市区)は匈奴の劉淵が拠って永嘉の乱発祥の地となり、後趙によって河套部には朔州が置かれ、北魏の下で肆州・汾州などが分離して分割が進んだ。
州治の太原は一帯の要衝として北周では河北道総管府が置かれ、隋代の607年に太原郡に改称されて15県を統轄し、唐代には河東節度使が置かれ、唐朝興隆の地として723年に北京太原府とされてより行政区画としての幷州の称は使われなくなった。
河套 ▲
オルドス。
長城以北の黄河大彎曲部の両岸一帯を指し、オルドスの呼称は明代にモンゴルのオルドス部が占拠して以来のもの。
草原と砂丘が連なる海抜1500m前後の高原部で、B6世紀頃〜B1世紀頃にはスキタイ様式の青銅器文化(オルドス文化・綏遠文化)が行なわれたが、遊牧・水渠農耕がともに可能な為、古来から中国と北方勢力の係争地となった。現在では、2002年に伊克昭盟が撤盟したオルドス市が大半を占めている。
雍州
上古の九州の1つで、南流黄河以西を指した。
漢末に河西四郡を以て涼州より分離し、一時は南流黄河以西を雍州としたが、曹魏では河西部分が涼州となり、魏末には隴西地方も秦州として分離された。
分割の進んだ北魏でも長安一帯を保ち、607年に京兆郡として22県を統轄し、713年に京兆府と改称した事で雍州の呼称は用いられなくなった。
関中 ▲
渭河盆地を中心とした陝西省中部の俗称。
東の函谷関や潼関、西の隴関・大散関、北の簫関、南の武関に代表される天嶮に囲まれ、シルク=ロードの起点として東西文化の交流地でもあり、殊に三輔の中心の長安周辺には周・漢・隋・唐の国都が置かれて京兆と呼ばれた。
嘗ては秦漢の発展を支える沃野でもあったが、漢末以来の戦乱で荒廃し、江南の開発も加わって経済的にも政治的にも後進地域に没落した。
北魏末より鮮卑系軍閥の主導下に王畿として復興し、隋唐では国都として長安に大興城が造営され、シルク=ロードや江南と繋がる消費地として最盛期を迎えた。
やがて土地の含塩濃度の上昇や渭河や地下水位の低下が問題となり、河西回廊の維持が困難になった事もあり、唐末〜五代で漕運に有利な開封が国都とされた後は全国の中心に復帰する事はなかった。
宋以降でも東西交通や軍事の要衝としては重視され、現在では水利復興・近代工業化によって新側面を開きつつある。
隴西
隴右とも。隴山以西〜北流黄河以東を指し、古くは中国の西限と見做された。
秦の昭襄王が匈奴を駆逐して初めて隴西郡を置き、これより匈奴・氐・羌族に対する戦略基地として重視された。
西漢で天水・安定・金城郡などが分置されて天水郡が一帯の中心となったが、地方としての隴西は長らく意識され、曹魏・西晋では南隣の陰平郡などを加えて秦州が置かれ、隋の廃州為郡で天水郡に改編された。
涼州
漢武帝の十三州の1つで、概ね現在の甘粛省に合致する。
曹魏では姑蔵を州治として河西部に縮小した一方で、涼州刺史は戊己校尉を兼領して西域に対する実権が認められた。2世紀の羌族の動乱以来、関中や中原の混乱で自立する傾向が強く、永嘉の乱では涼州刺史の張軌が自立し、その下で分割が進んだ。
北周が姑臧に涼州総管府を置き、隋唐で武威郡・涼州と呼ばれ、しばしば吐蕃に征服された後、宋代の1028年にタングートに陥されて西涼府と改称された。
明では涼州衛が置かれ、清の雍正2年(1724)に涼州府に改編され、中華民国の成立で廃されたものの涼州の名は武威市の市轄区として2002年に復活した。
河西 ▲
甘粛廻廊。甘粛省の黄河以西、旧張掖地区(武威・張掖・金昌・酒泉・嘉峪関)の総称。中国〜西域の幹線路でもあり、B2世紀より河西四郡が置かれ、北辺には長城が東方より延長された。
漠朔・南山山脈に接するオアシス地帯で、遊牧地としても交易路としても重視され、匈奴以来、漢民族と北方遊牧種の係争地となり、匈奴は月氏から河西を奪ったことで内陸アジアに覇を唱え、オルドスに続いて河西を喪失したことで勢力を大きく衰えさせた。
以後は概ね中国王朝に支配され、北宋代には西夏と青唐羌が帰属を争い、明朝の海上朝貢路の確立によって衰退した。
秦淮
秦嶺山脈〜淮河のラインを象徴とする、中国の南北を分つ分水嶺。
年間降水量1000mmの境界でもあり、その南北では麦作・稲作の主食農法をはじめとして自然・人文において著しい対照をなし、「淮南のタチバナを淮北に移せばカラタチとなる」「南船北馬」などの語を生じ、歴代の南北対立でも概ねこの線が画境とされた。
揚州
楊州とも。上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。
現在の江蘇省江南部・安徽省淮南部〜浙江省・福建省・江西省に相当する。
孫呉の開発で漸く郡の分立が始まり、291年には中枢部の江浙地方以外を以て江州が分離された。
南朝では長江両岸に南兗州・南豫州・南徐州などが置かれ、滅陳で州治の建康一帯は蒋州と改称され、隋の廃州為郡で丹陽郡に改編され、唐代では江寧府が置かれた。
現在の揚州市の前身となる唐の揚州は南朝の南兗州を発祥とし、北周での呉州を経て滅陳で揚州と改称され、607年の廃州為郡では江都郡に改編されて11県を統轄し、大運河と長江の結節点にあって“揚一益二”と称される繁栄を示した。
揚州は東魏でも置かれ、これは北斉で信州、北周では陳州と改称され、607年に淮陽郡に改編されて宛丘・項城など11県を統轄した。
江南 ▲
長江以南の総称で、概ね鄱陽以西を指し、江東・江左・呉会・三呉・江浙とも呼ばれる。
漢末や永嘉の動乱で多数の漢人が流入して開発が進められ、その経済力は南北朝時代に飛躍的に発展し、侯景の乱で荒廃したものの唐代には再び中原に比肩し、五代期の発展を経て宋代には中国の経済・文化の中心となった。
両浙 ▲
呉会・三呉・江浙とも。銭塘江東南の浙東と、西北の浙西の総称で、江蘇省の江南部と浙江省に相当する。
唐代に設けられた浙東・浙西の両観察使に由来し、浙東は越州(紹興)を、浙西は蘇州・昇州・杭州などを治所とし、北宋では五代呉越の境域を以て江寧府(南京)を含まない両浙路が設置され、杭州に治所が置かれた。
南朝以来の開発によって穀倉地帯として知られ、五代呉越による整備もあって宋代には「江浙稔れば天下足る」とすら称され、そのため政権による搾取が苛酷となって商品作物が重視されるようになった。
南宋が杭州を行在所としてより手工業も発展し、殊に絹織物業の普及と成長は著しく、経済・文化の大中心となった。
絹織物業に対する比重は貨幣経済の農村浸透と伴に増し、明代中期には全国最大の産地となり、穀物に関しては消費地に転じたが、北京が首都となった後も経済の繁栄を背景に文化の最先進地域樽を保って多数の官僚を輩出し、征服王朝の清朝でも政治・経済を牽引した。
殊に考証学では浙東史学と浙西経学が二大潮流を為し、又た浙江財閥が上海の開港と繁栄を背景に急成長し、国民政府とも密接な関係を保った。
荊州
上古の九州、漢武帝の十三州の1つ。
現在の湖北省・湖南省に河南省の伏牛山脈以南と両広北部を加えた地域に相当し、殊に両湖地方は異文化の楚の本拠地として“荊楚”とも呼ばれた。
東漢では南陽が帝郷となった事もあって漸く湖南の開発も進んだが、武陵蛮を中心とした抵抗が続き、又た漢末には曹魏と孫呉に分割されて襄陽と江陵がそれぞれの中心となり、郡の分割も進んだ。
西晋では南部を広州に、東部を江州に、北西部を梁州に割き、又た南朝にかけてしばしば南部を以て湘州が分置され、劉宋では襄陽一帯を以て雍州が、江夏方面では郢州が分離された。
梁末には西梁が分立し、隋の廃州為郡で南郡に改編されて10県を統轄した。760年に荊州から江陵府に昇格された。
湘州 ▲
西晋が307年に荊州の南半を以て分置し、臨湘(長沙市区)を治所としたが、439年まではしばしば廃置が続いて安定しなかった。
梁・陳の下で州の分割が進み、589年に隋によって潭州と改称されて総管府が置かれた。
譚州は607年の廃州為郡で長沙郡に改編され、唐初に譚州に戻り、以後も一帯の中心として元代には1274年に譚州路に改められると共に湖広等処行中書省の治所が置かれ、譚州行省とも呼ばれた。
梁州
上古の九州の1つ。本土の南西を指した。魏末の263年に漢中地方を以て益州から分置され、晋の南遷後は南北勢力の係争に在地政権の抗争が加わって治所や境域がしばしば遷移した。
607年の廃州為郡で漢川郡に改編されて8県を統轄し、唐代では山南西道の首府となり、784年に長安を逐われた徳宗が行宮を定めた事で興元府と改称された。
漢中 ▲
陝西省南西部、秦嶺山脈と大巴山脈に挟まれた漢水上流域の狭長な盆地。もしくはその中心都市。
古来から関中の門戸・巴蜀の咽喉とされ、漢水によって湖北平原への進出も可能なため兵家必争の地とされ、漢中に封じられた漢王劉邦が王朝を創始したことで、中国を表す“漢”の由来ともなった。
戦国後期には秦と楚が支配を争い、西漢では益州に属し、西漢末には五斗米道が宗教王国を形成し、西晋の梁州の中心となった。
南北朝では典型的な係争地として帰属は転変し、唐の徳宗が興元元年(784)に行在してより興元府と改められ、北宋で置かれた利州路は1001年に四川路に統合され、金末にはモンゴルに征服されて南方からの開封攻略が行なわれた。
元朝より陝西行省に属し、明朝で漢中府とされて現在に至っている。
中心都市の南鄭はしばしば漢中と俗称され、1949年に南鄭県の市街地中心部が南鄭市として分離された後、1953年に漢中市と改名され、現在は1市轄区と10県を管轄している。
益州
漢武帝の十三州の1つ。古九州の梁州の地に置かれた。
四川省東半と重慶市に漢中地方と雲貴高原北部を加えた境域に相当し、北部の漢中盆地、中部の巴蜀、南部の南中地区はそれぞれ独自性が強く、魏末の263年に漢中地方を以て梁州が、晋初の271年には南中を以て寧州が分置された。
553年に西魏に征服されてより州の分割が進み、607年に蜀郡に改編された際には13県を統轄した。
627年に剣南道が置かれてその首府となり、742年の為郡の後、757年に長安から遁れた玄宗が行幸した事で成都府に昇格された。
巴蜀 ▲
狭義の四川の地。長江に南を画された四川盆地を指し、岷江・沱江・嘉陵江水系が流れ、伝統的に中央西部を縦走する龍泉山脈によって西方の岷江水系の蜀地方と、東方の嘉陵江水系の巴地方に大別され、春秋前期に巴と蜀の文化融合が進んだことで巴蜀の呼称が生じた。
温暖な気候と沃土から農耕に好適で、井塩や鉱物などの物産にも恵まれ、B3千年頃に四川文明が開花してより1つの小世界を形成し、公孫述・劉備・李雄・王建・孟知祥・明玉珍・張献忠らが独立政権を樹立したが、概ねは短命に終った。
交州
漢武帝の十三刺史部の1つ。
漢末の203年に交趾刺史部から交州に改編された。当初は嶺南全域とベトナムを支配したが、ベトナム領は林邑などの抵抗で次第に縮小し、又た呉末に州治の番禺を含む東半の主要部を以て広州が分離され、雷州半島以西、欝江以南を領してハノイ地方に州治が置かれた。
南朝で分割が進んでその境域はソンコイ=デルタに縮小され、唐代には宋平県(ハノイ)を中心に8県を統轄した。
9世紀アッバース朝の地理書にある貿易港ルーキンは龍編の転訛とされ、ソンコイ河口に比定されている。
嶺南 ▲
南嶺山脈以南、或いは珠江水系流域一帯を指す。
狭義の華南でもあり、清代の両広、現在の広東省・広西自治区・海南省に概ね合致する。
古くは百越の地と呼ばれ、B214年に秦に征服されたが、秦末に南粤国が独立し、B112年には漢が交趾部を置いて再び直轄化を進め、呉末には西の交州と東の広州が並立した。
中原とは人種・風土・文化を異にしたため、後世まで同化政策に対する抵抗が断続的に発生し、殊に広西部では南粤の征服後も徴則・李賁らの大規模な抵抗が発生した。
唐では交州・広州・桂州・容州・邕州の5都督府が置かれ、679年より安南都護府に統轄され、嶺南出身の張九齢が梅関古道を開いてより南北の交流が漸増したが、北宋に至っても流刑の地との認識は強く、儂智高の乱なども発生した。
台湾
福建省の対岸の島。原住民は高山族だが、人口の9割以上が明清以降に移住した漢人。
三国呉が遠征した夷州に比定され、『隋書』の流求とする見解も多く、元朝が13世紀末に行なった瑠求遠征は2度とも失敗している。
明代には倭寇の根拠地となり、林鳳・顔思斉・鄭芝龍らが活動した。
17世紀にはオランダが台南にゼーランジャ城を構築して支配を進め、1662年に鄭成功が外国勢力を駆逐して征服し、1683年に清朝が鄭氏を屈服させて台湾府を設置して統治したが、林爽文の乱などの叛乱・械闘が絶えなかった。
1858年の天津条約で開港され、1895年の下関条約で日本領とされて台湾総督府が設置され、1945年に中国に返還された後、1949年に人民政府に敗北した国民政府が拠って独立国を宣言した。