A9〜A23

王莽  B5〜A9〜A23
 元帝の王皇后の庶弟/王曼の次子。字は巨君。 夙に父を亡くして伯父の大司馬王鳳の秉政下でも不遇だったが、身を慎んで却って王太后に将来を嘱望され、B16年に新都侯に封じられて顕官を歴任した。 名声を重んじて富貴となっても清貧に甘んじ、次男の王獲が奴隷を故なく殺したのを責めて自殺させたこともあった。 王氏を斥けた哀帝が歿すると平帝を擁立して大司馬に就き、王舜劉歆らを幕僚として周公の再来を志し、讖緯を交えて古文学を称揚し、安漢公と号した頃には聖人とすら称された。 呂寛の獄で平帝の外戚や反対派を粛清して娘を皇后とし、元服直前の平帝が急死すると劉嬰を擁立して摂皇帝・仮皇帝を称し、A9年に禅譲を敢行した。
 禅譲後も『周礼』に則った復古改革を実施し、官制や地名の変更、全土の国有化と兼併厳禁などを試みたが、過度の中華思想による貶号によって周辺諸民族が離叛し、殊に匈奴の復権と北伐の失敗は財政を著しく悪化させた。
 以後は秤量を無視した高額貨幣の発行など、実情と乖離した新制を断続的に改廃した為に政治・経済が破綻し、各地で叛乱が頻発して赤眉軍緑林軍の拡大を助長した。 無塩・宛で軍の主力が壊滅し、各地に僭君が乱立し、緑林系の更始帝に長安を陥されて殺された。

劉歆  B53〜A23
 字は子駿。後に諱を秀、字を穎叔と改めた。劉向の子。 諸子の学を修め、成帝に招聘されて父とともに校秘書となり、哀帝のときに光禄大夫まで昇ったが、『左伝』などの古文経学に学官を求めて誹忌され、地方官を歴任した。 平帝を立てた王莽に迎えられて三統暦の作成や讖緯による古文経書の解釈など、王莽の政策に儒学的保証を与えた。禅譲後は国師とされ、諸制の策定にも参与したが、新末に王莽の暗殺を謀って失敗し、自殺した。
 東漢での古文学の盛行だけでなく、歴朝の式儀典礼や五行終始説なども劉歆の提唱が基礎となり、又た哀帝の世に六芸の群書種別を集めて『七略』7巻を編したことは、経籍目録学の嚆矢となった。

楊雄  B53〜A18
 蜀郡成都の人。字は子雲。40余歳で上京して大司馬王音に文才を認められ、成帝に招されて黄門侍郎とされた。 司馬相如の賦を尊崇して自身も名手と謳われたが、やがて経学に転じて多くの著作を行ない、『楊子法言』を『論語』に、『太玄経』を『易経』に倣って作り、名文と讃えられた。 好学博識だが吃音で論・議を好まず、言説に対する批判には著述で応じた。 王莽の簒奪後、門弟の劉棻(劉歆の子)が符命の禁を破って新符を上呈して殺されると、自殺を図って果たせず、不問とされて大夫に直された。

呂母
 琅邪海曲(山東省日照市区)の小豪の妻女。県吏だった子が微罪で処刑されたため、家産を投じて無頼・遊侠を集めて海上に遷り、亡命者数千人を集めて将軍を称した。天鳳4年(17)に県城を攻めて県宰を斬り、万余の衆が参集した。 王莽末期の大乱の嚆矢とされ、死後、衆の多くは赤眉・銅馬などの諸賊に吸収された。

 
 

赤眉軍  18〜27
 王莽末期の農民叛乱。天鳳5年(18)に樊崇を首領として青州琅邪に興り、飢荒に迫られた民衆を吸収して強勢となった。 当初は方略に欠け、拠点を持たずに各地を流転し、「殺は死・傷は償」を約規とするのみで組織化や号令も行なわれず、長を“三老”と呼び、互いに“巨人”と称していた。 山東各地を席捲して地皇3年(22)に討伐軍を無塩(泰安市東平)で殲滅したが、会戦に先立って眉を朱に染めて標別としたことで“赤眉軍”と称号され、衆は十余万に達した。
 長安を陥した更始帝との対決を鮮明にし、更始3年(25)に弘農(河南省霊宝)で全軍を30営に再編するなど簡素ながらも組織化が図られ、軍中の劉氏から城陽景王の裔の劉盆子を天子に選出して正統性を競った。
 長安の更始政権を滅ぼした後は無政策と兵の暴掠から輿望を失い、翌年(26)の正月には長安を焚掠して西進したものの、安定・北地では多数が凍死して隗囂にも敗れ、反転してケ禹を逐って再び長安に入った。 「人相い食み、白骨は蔽野す」る大飢によって東進し、崤底(洛陽市洛寧)で馮異と光武帝に挟撃され、不殺の約を得て宜陽(洛陽市)で光武帝に帰降した。
当時、斉人の多くが城陽景王を祀っていたことで軍中にも巫覡が随っていましたが、劉氏を立てた緑林への対抗から、巫覡による景王の裔の擁立の託宣が演出されたものと解釈できます。軍中の景王の裔は70余人いましたが、血統が最も正しい式侯の子から、籤によって劉盆子が天子とされました。

樊崇  〜27 ▲
 琅邪莒(威海市)の人。天鳳の末に蜂起した山東の群盗の1人で、勇猛を知られて逢安・徐宣・謝禄らと合し、大勢力となった。 無塩の大勝の後に権威を慕って洛陽の更始帝に詣降したが、紊政に失望して対決に転じ、更始3年(25)に劉盆子を推戴すると、自身の不識字を理由に御史大夫となって丞相を元獄吏の徐宣に譲り、逢安を左大司馬、謝禄を右大司馬とした。
 建武3年(27)に光武帝に帰降した後は諸将と同様に洛陽の賜宅に徙されたが、逢安と逃亡を謀って刑誅された。 謝禄は劉玄の仇として劉恭に殺され、徐宣は後に帰郷を許された。

緑林軍
 王莽末期の反政府集団。新末の紊乱と飢饉で、天鳳4年(17)に新市の王匡と王鳳が大洪山中の緑林山(湖北省京山)に拠って挙兵したもの。 農民主導の赤眉軍に対し、早期から舂陵劉氏や地主階級が指導層を形成した。
 地皇2年(21)には討伐の州兵を大破したが、翌年に疫病で半数を喪うと下山して王常・成丹らの“下江軍”と、主力の王匡・王鳳・馬武および朱鮪張卬ら“新市軍”の2派に分かれ、鄂東・豫南を席捲した。 新市軍には陳牧・廖湛ら“平林兵”も加わり、4年(23)に合一して宛・昆陽を陥し、劉玄を更始帝に立てると各地の群雄が蜂起・呼応した。
 秋には洛陽・長安を攻陥して王莽を斬り、翌年に洛陽から長安に遷都したが、以後は内外の綱紀が急速に弛緩して各地の進駐軍は放縦となり、隴西の隗囂・山東の劉永ら帰順者が独立を保っただけでなく、河北では舂陵系の劉秀が自立した。 更始3年(25)には赤眉軍の来攻に直面しながらも内戦を展開し、9月に長安を陥されて壊散した。

劉玄  〜23〜25/25 ▲
 更始帝。字は聖公。舂陵戴侯の曾孫。蒼梧太守劉利の孫。光武帝の族兄。 食客と里吏との諍いから母の郷里の平林(湖北省随州市区)に遁れ、緑林起義に加って更始将軍とされた。 宗家の没落後は南陽劉氏の宗と見做され、地皇4年(23)に宛城で天子に立てられて更始と建元した。
 長安の王莽を滅ぼして翌年には長安に遷都したが、政事は右大司馬趙萌に委任して酒色に耽り、諸将を統制しなかったために急速に民心を失った。 赤眉軍の西進と劉秀の離叛に直面した後、南陽遷都を主張する張卬らに叛かれ、程なく赤眉に敗れて投降すると長沙王とされたが、民の漢への帰心を忌まれて殺された。

張卬
 緑林の渠帥。王匡らと新市軍を称し、劉玄即位の議では剣で地を撃って劉縯派を恫喝し、長安で淮陽王とされた。 更始3年(25)にケ禹に河東を逐われて長安に奔ったが、赤眉軍の入関に直面して廖湛・申屠建・隗囂らと南陽遷都を謀り、更始帝と決裂して長安を占拠したものの、程なく李松らに敗れて赤眉に帰順した。 長安を陥した赤眉に劉玄の殺害を教唆した。

王匡  ▲
 江夏新市(湖北省荊門市京山)の人。王鳳らと挙兵して緑林山に拠り、馬武張卬らと形成した新市軍は漢軍の主力を為し、劉玄擁立・劉縯殺害などを主導した。
 王匡は洛陽を経略し、長安遷都で比陽王とされて三輔に大権を揮い、河東でケ禹に敗れた後は新豊(西安市臨潼区)に進駐したが、張卬に逐われて来奔した更始帝が猜疑から陰平王陳牧を殺すと、襄邑王成丹と与に逃れて長安の張卬に合した。


 

劉永  〜27
 梁郡睢陽(商丘市区)の人。梁孝王の嫡統。 洛陽の更始帝に帰順して梁王とされ、沛の周建・東海の董憲・斉の張歩・西防(済寧市金郷)の賊帥佼彊らと結び、更始帝が破れると兗・豫・徐州の28城を以て天子を称した。 建武2年(26)に虎牙大将軍蓋延に大敗し、呉漢に睢陽を逐われて酇(商丘市永城)に奔る途上で部将に殺された。
 嗣子の劉紆も後に呉漢に敗死した。

蘇茂  〜29 ▲
 陳留(開封県)の人。更始帝に従って李松と共に劉嬰を滅ぼし、洛陽陥落で光武帝に降った。 翌年の劉永討伐の途上で蓋延と対立し、広楽(商丘市虞城)で劉永に帰順して大司馬・淮陽王とされたが、蓋延・呉漢に累敗して睢陽に合流した。 劉永の死後は周建と与に<劉紆を立て、後に董憲に合し、龐萌を援けて大敗すると張歩を頼ったが、張歩が光武帝に降る条件として殺された。

董憲  〜30
 東海郡の人。赤眉に呼応して挙兵し、下邳に拠ると梁王劉永に通じて翼漢大将軍とされ、劉永の死後はその遺衆を併せて豫州に跨る巨勢となった。 龐萌の帰順を機に光武帝に親征され、呉漢に大破されて龐萌と共に朐城に敗走し、翌年に琅邪太守陳俊に平定された。

  〜30 ▲
 山陽郡の人。始め下江軍に加わり、更始帝が立つと冀州牧とされて尚書令謝躬の王郎討伐に従い、謝躬の敗死で劉秀に降った。 為人りは遜順で、劉秀から“託孤の臣”と信任され、建武5年(29)に蓋延と共に董憲を伐ったが、詔命が蓋延のみに下ったことから蓋延の讒誣を猜疑し、楚郡を奪って叛くと董憲と連和して東平王を称した。 龐萌の離叛は張歩親征中の光武帝を赫怒させ、先鋒の呉漢に大敗して董憲と与に逃れ、琅邪で殺された。

張歩  〜32
 琅邪不其(青島市即墨)の人。字は文公。王莽の末に挙兵し、青州一帯を領して劉永と連和した。 建武3年(27)に伏隆の招降に応じながらも、後に劉永に転じて伏隆を殺したが、光武帝が彭寵・劉永討伐を優先したことで斉の12郡を保った。 5年(29)に建威大将軍耿弇に大破されると、帰附していた蘇茂を斬って光武帝に降ったが、8年(32)に家族と与に臨淮に奔り、琅邪太守陳俊に討平された。
耿弇による張歩討伐は、歴城(済南市区)を中心とする済南平定から着手され、故意に逃がされた祝阿(長清区)からの敗走兵を収容した鍾城(禹城)が恐惶から自壊し、歴城も偽報によって発した援兵が大破されたことで抵抗力を失いました。 当時、張歩は劇(濰坊市寿光)に拠り、西安(淄博市桓台)・臨淄と呼応していましたが、耿弇が喧伝する西安攻略に安閑としていた臨淄が即日で陥され、敗兵を収容した西安も恐惶で自壊し、張歩は蘇茂に求援したものの、耿弇の寡勢を侮って自ら佯敗を追ったことで伏兵に大敗しました。

方望  〜25
 平陵(咸陽市区)の人。隴西で挙兵した隗囂の招聘に応じたが、更始帝への詣謁の諫止が聴かれず下野した。 更始3年(25)に定安公劉嬰を臨(甘粛省鎮原)に迎えて天子とし、自ら丞相を称したが、李松蘇茂に討滅された。 弟の方陽は赤眉に帰降し、劉氏擁立を頻りに進言した。

劉聖  〜23
 西漢の鍾武侯。昆陽の役の後に汝南に自立し、納言将軍荘尤・秩宗将軍陳茂に帰順されて天子を称し、荘尤を大司馬、陳茂を丞相としたが、翌月には更始の奮威大将軍劉信に滅ぼされた。

王郎  〜24
 王昌とも。趙国邯鄲の人。卜相を生業として星暦にも明るく、河北に王気を観た後は故の趙穆王の子の劉林を通じて趙の大豪と通宜し、密かに成帝の子/子輿を称した。 更始元年(23)末に赤眉の来報に乗じて邯鄲で天子を称すと幽・冀州の多くが靡き、翌年には薊の呼応で劉秀を信都(河北省冀州)に奔らせたが、漁陽上谷真定に支援された劉秀に大敗し、逃亡中に殺された。

秦豊  〜29
 邔の人。長安で律令を学んで県吏となったが、更始元年(23)に挙兵して襄陽・新野・穣など荊北の12県を領し、黎丘(湖北省宜城)に拠って楚黎王を称した。 更始帝の故将や諸賊が乱立する荊州の雄と目され、田戎延岑らも帰依したが、しばしば岑彭に討たれて衰微し、朱祜に擒われて洛陽で斬られた。

李憲  〜30
 潁川許の人。王莽の末に江賊討伐で偏将軍・廬江連率に進められ、王莽が敗死すると淮南王を称した。 建武3年(27)には9城を擁して天子を称したが、翌年より揚武将軍馬成らに討たれて6年(30)に舒(安徽省廬江)を陥され、遁走中に殺された。 余党の淳于臨らは潛山(安徽省霍山)に拠って揚州牧欧陽歙を却けたが、程なく朝廷の招降に応じた。

隗囂  〜33
 天水成紀(甘粛省秦安)の人。字は季孟。地皇4年(23)に挙兵して更始帝に称臣し、竇融らの帰順もあって甘粛のほぼ全域を支配した。 一時は長安に出仕し、一門の離奔を密告して御史大夫とされたが、張卬らとの棄京の謀議が露見すると遁帰して西州大将軍を称し、人士を厚遇して三輔からも名士が帰属した。
建武2年(26)に光武帝に帰順してケ禹や馮異の西征を援け、建武5年(29)には来歙馬援の勧めで長子を入侍させたが、自立の維持を冀んで蜀討伐には従わなかった。
 同年(30)、天水に集結した伐蜀軍を襲って公孫述に称臣し、安定の馮異・汧(陝西省隴県)の祭遵と対峙したが、略陽の失陥と牛邯の離脱で弱体化し、失意から病床で憂死した。嗣子の隗純も翌年には敗れて帰順した。
隗囂は当初、光武帝から敵国(対等)の儀を以て遇されていました。 隗囂の幕下には文士が多く、上書が京師の士大夫に賞誦されたことから、光武帝も隴への文書には特に注意し、韓歆に曲諫されたりもしました。

公孫述  〜36
 扶風茂陵(咸陽市興平)の人。字は子陽。哀帝のとき父の蔭で清水(甘粛省天水市)の県長とされ、異能として5県を兼摂し、天鳳年間(14〜19)に導江卒正(=蜀郡太守)に進んで臨邛(邛崍)に治した。
 中央が乱れると成都の豪侠に招かれて益州を治め、更始3年(25)には天子を称して国号を成、元号を龍興とし、越雟ののほか、陳倉の呂鮪、荊州の延岑田戎、隴西の隗囂ら光武帝に敗れた諸将が帰順したが、勢力拡大の資とはならなかった。 略陽の来歙を防いでいる間に岑彭に逼られ、両者の暗殺には成功したものの、翌年に成都で呉漢臧宮に敗死した。
 虚飾を好んで旧知の馬援には“井蛙”と評され、近親偏重の人事と血縁の専横、酷薄苛烈などによって著しく人心を失ったとされるが、7年(31)に中国で初めて鉄銭を流通させた際にも経済の混乱は伝えられず、白帝城には現在まで公孫述の祀廟が遺されている。

盧芳
 安定三水(寧夏固原市区)の人。字は君期。王莽の末に武帝の曾孫の劉文伯と称して挙兵すると安定属国の羌胡とも結び、長安の更始帝に帰順して西方を委ねられた。 更始帝が敗れると漢帝を称して匈奴と通じ、建武5年(28)に朔方部の諸豪に迎えられて頻りに北辺を侵し、大司馬呉漢・驃騎大将軍杜茂らをしばしば却けたが、専制的となって諸豪が離背し、12年(36)に九原の守将が叛いたために匈奴に逃れた。
 16年(40)に高柳(山西省陽高)から光武帝に帰降して代王とされたが、翌年の朝見を止められると猜疑から復た匈奴に遁れ、十余年後に病死した。


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