▽ 補注:文化

九州
 中国の古称。太古の聖王が全土を九分割して統治した事に由来し、後には天下・世界とも同義として用いられた。 各州は諸書によって異なり、兗州・豫州・冀州・荊州・揚州・雍州は共通するが、他の3州は『尚書』禹貢で徐州・青州・梁州を、『爾雅』では徐州・幽州・営州を、『周礼』では幽州・幷州・青州を数える。 『尚書』では禹貢九州に幽州・幷州・営州を加えて十二州とする記述もあり、漢武帝は雍州を涼州、梁州を益州と改め、営州を除いて司隷部・交趾部を加えて十三州とした。

神仙思想
 道教の起源となった思想。渤海湾に面した山々を祀る八神信仰から蜃気楼現象と相俟って三神山伝説(蓬莱・方丈・瀛州)が生じ、そこに仙人が住まって不老長生薬があると信じられるようになった。 これに鄒衍の九州五行説が結合し、黄老の徒でもある呪術的な方士によって神仙説へと発展した。
 初期には神仙と接触して不老長生薬を得る事を目的としたが、B3世紀末頃になると修行による登仙も唱えられるようになり、殊に各種薬草や鉱物などを調合する煉丹術が重視された。 神仙思想は漢武帝の儒学支持で宮廷では非主流派となり、中央から疎外された神仙家は淮南王劉安の許に集って『淮南子』を著し、そのうちの‘中書’が後に太平道五斗米道にも強く影響して葛洪の『抱朴子』などに伝わり、道教の形成に欠かせない素因となった。 又た漢魏の頃から五嶽真形図なるものが重んじられ、信仰対象としての神山は内陸の銘山に移るようになり、五嶽信仰に結実した。

道教
 元始天尊を事実上の最高神とする多神的神仙思想を基盤に、陰陽・五行・卜筮・巫祝・讖緯などの神秘的要素が加わり、道家と仏教の哲学を導入して成立した。 自然崇拝を源流とする民間信仰から発生したもので、哲学的思想である道家思想とは由来を異にする。 骨子は不老長生の獲得にあり、医学・薬学・化学・錬金術などを伴い、方術の修得によって真人(神人・仙人)になることを目的としたが、民間では現世利益が説かれ、二元論的仏教が普及するまではしばしば暴動の原因ともなった。
 漢末の五斗米道(正一教)を源流とし、葛洪陶弘景寇謙之らを輩出して宗教としての体裁を整え、中国発祥の宗教として仏教と対立した。 唐宋では朝廷宗教として隆盛した一方で道士の頽廃が常態化し、金代に革新運動が興って全真教太一教新大道教が誕生した。文化革命での宗教弾圧をへて現在では正一教と全真教に収斂されている。

五行説
 木火土金水の五元素の循環で森羅万象を説明する思想。古くは穀を加えて六府としたらしく、人類に必要不可欠なものを指した。 戦国時代に鄒衍によって広く流布し、戦国末には陰陽説とも融合して中国の文化・思想とは不可分のものとなった。 五行交代の順序は木火土金水を相生、木金火水土を相剋といい、それぞれに複数の解釈が生じ、西漢は相剋説によって土徳を称したが、西漢末に劉歆が相生順を用いた終始説を唱えて漢を火徳とし、この論は宋代に至るまで用いられた。
 五行は季節や暦、方角、色、音階など多様に配当されて現在に至るまで用いられている。

黄老学
 黄帝と老子の学問。 儒家・墨家の人為主義を否定して無為自然を理想とし、老荘以前の戦国〜漢初に盛行し、老荘に比して神秘主義的な要素が強かった。慎到が法治を主張した事から、法家の学を“黄老刑名の学”とする場合もあるが、漢初の盛行は秦の法家至上主義に対する反動でもあった。

老荘思想
 道家思想とも。『老子』・『荘子』に基づいて宇宙や人生の根源を探求した学問・思想。荘子は人間の絶対的自由・万物斉同の理を主張し、個人主義・無政府主義を唱え、“無用の用”の処世術を説いた。
 官学が儒学に傾いた漢武帝の頃より「老荘」の語が使われ、魏晋の清談は老荘思想の形而上学的な面が発展したもので、哲学面の発達は仏教受容の媒介ともなり、玄学格義仏教が盛行するようになった。

清談
 魏晋時代に流行した、老荘思想から発した哲学的談論。 清議(人物評を用いた時政批判)によって党錮の獄や漢魏革命に伴う弾圧を経験した知識人層が、俗事=儒教的体制との距離を措くことで保身を図るようになり、超俗的な老荘思想を形而上学的に討論したもの。
 清談は魏明帝の頃の傅嘏・荀粲(荀ケの子)・裴徽(裴楷の父)らを先達とし、正始年間(240〜49)には執政の曹爽の幕僚である何晏・王弼らが老荘思想を以て『易経』の形而上学的な解釈を論じた事が“正始の音”と呼ばれ、清談流行の基となった。 正始の音では一種の麻薬を服用して時世にも言及したが、清談の象徴とされる竹林七賢に於いては酒による韜晦で政局からの遊離を図り、しばしば礼教主義者=儒者を揶揄した。
 嵆康の処刑で出仕回避すら粛清の理由となった事で批判精神を失い、西晋では貴族に必須とされる知的遊戯となり、孔子と老荘の差を「将無同」と応えて太尉掾に抜擢された阮瞻(阮咸の子)を好例に、人事考課にも影響した。 俗事からの遊離を貴しとする清談の蔓延は、官界の実務軽視・責任回避の風潮を醸成して西晋の滅亡の大きな要因となり、清談の領袖であり永嘉の乱の当時は太尉だった王衍の醜態を以て「西晋は清談に滅ぶ」とすら評された。
 普及しつつあった仏教の論理性の影響から学問として深化し、格義仏教玄学が成立した。

玄学  ▲
 老荘思想を以て、経伝の形而上学的な解釈を進めた哲学。 “正始の音”に始まる清談が仏教の影響で論理面・哲学面で深化したもので、『老子』『荘子』『周易』は“三玄”として重んじられた。 孔子を大聖として老子の上位に置いたことで政治的にも肯定され、南朝宋では儒学・文学・史学と並んで玄学にも学館が立てられた。軈て斉末〜梁初には空論に終始する玄学偏重への反省から、儒・仏・道の三教合一と経学への回帰が唱えられ、梁の天監4年(505)には五経館が置かれて経学が振興された。

格義仏教  ▲
 中国仏教の初期にあたる魏晋時代に行なわれた、老荘思想を以て仏教の解釈を試みた一種の仏教学。儒学の老荘的解釈を行なう玄学とは表裏を為し、貴族の教養の1つに数えられて東晋で盛行した。 老荘思想に類似した表現を持つ『般若経』や『維摩経』が好まれたが、仏教の“空”を老荘の“無”として捉えるなど、本来の意義から逸脱した中国的解釈が為され、仏教とは一線を画した存在となっていった。
 格義仏教に対する反省は釈道安に始まり、鳩摩羅什の大量の訳経によって仏教による仏典解釈に回帰した。

浄土教
 阿弥陀浄土に対する信仰。『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』を経典とする。 2世紀後半頃には経典が中国に伝わり、廬山の慧遠が興した白蓮社が中国浄土教団の嚆矢とされる。 華北では晋陽の石壁山玄中寺の曇鸞から道綽善導へと伝わり、善導に至って平易な“称名念仏”が、8世紀中葉には法照によって読唱的な“五会念仏”が唱えられたた。 会昌の廃仏後は浄土信仰として民間で信者を集め、士人層に支持された禅宗と相互に影響しながら中国仏教の二大主流となったが、民間信仰として発達したために土俗宗教などと混交しやすく、白蓮教などを派生した。

禅宗
 達摩によって中国で始められた仏教。 禅(座禅)は一種の瞑想として初期仏教の頃から重要な修行とされたが、不立文字を唱えた達摩が経典研究を棄てて禅の実戦を強調し、以後、中国で独自に発展した。 唐初に神秀慧能によって北南二宗に分派し、殊に南宗は江西・湖南を中心に教勢を拡げ、会昌の廃仏後も存続して主に士大夫層に支持され、民間の浄土教と共に中国仏教の主流となった。
 浄土教とは理念的・実践主義を共通項とし、宋以降は禅浄双修の教説が盛んとなって臨済・曹洞などの五宗派が成立した。 又た実践主義の普及は経学に対して訓詁学から道学への転換を促し、陽明学の成立や、古文運動・文人画の抬頭にも強く影響した。

関帝
 関聖帝君とも。漢末の武将の関羽が神格化されたもの。 死後間もなくから勇将として象徴化したが、中唐頃に武神として官祭に加えられ、宋代には封号も贈られるようになり、明朝からは太公望に代る武廟の主神として関聖帝君、清朝からは関聖大帝の神号が贈られた。 宋代には民間信仰としても広く行われ、後には万能の武財神として万民に尊崇され、中国で最も有名な神格の1つとなっている。 殊に晋商が信仰した事もあって商神として認識され、そのため中華街や華僑の街の殆どに関帝廟や祭壇が営まれている。

媽祖
 宋初に実在した福建蒲田県の巫女/林黙娘が、海難に遭った父を捜索に出て神格化した航海神。 千里眼と順風耳を随え、媽祖信仰が盛行した浙江省の舟山列島では観世音菩薩との習合も進み、江南を征服した元朝により天妃と尊称され、清の康熙23年(1684)には天后とされた。 媽祖信仰と福建商人の活動圏がほぼ合致することから福建に限定された地方神と見做すことができるが、福建商人が華僑の主流だったこともあって国際的に拡大し、文化大革命で根絶が図られたものの、現在では山西系の関帝と並ぶ信仰圏を形成している。
 媽祖は閩南語では“ノモ”“ノマ”と発音し、鹿児島の野間岬・長崎の野母半島との関連も指摘され、殊に野間権現は媽祖を御神体として林氏が神主を世襲している。

 

儒教
 儒学・名教・礼教・孔子教とも。孔子を祖とし、身分秩序・仁愛を根本とした社会を理想とし、修身から斉家・治国を経て平天下を論じる一種の倫理規範・政治規範。儒教の学問的側面を以て儒学と呼ぶが、明確な差異は認められない。 “儒”は元来は知識人に対する呼称らしく、孟子に至って自派の呼称に用いて“儒家”と称した。
 戦国時代には八派に分かれ、孟子や荀子に継承されたものを正統とし、五経を経典とした。 西漢末に国教として確立してより唯一絶対の社会規範として作用し、経学が低迷した魏晋六朝でも絶対的権威を保ち、時に天子すら規程した。 士庶の別を明確にしつつその倫理規範は主に士大夫以上を対象としたが、宋代の印刷術の発達や仏教の影響から次第に大衆化し、明代には庶民にも儒教が浸透した。
 儒学が官学となった事で、儒教思想は人事や考課の重要基準となっただけでなく社会的評価にもつながり、中国の風俗を規定する上で絶大な影響力を有した。 そのため辛亥革命後は、中国社会の停滞をもたらした階級制擁護の思想として糾弾されたが、20世紀末頃から中国の伝統文化の1つとしての再評価が急速に進んでいる。

経学  ▲
 儒学に於ける経書の解釈や、学説の発展過程の研究などを指す。狭義の儒学。 西漢で旧典には存在しない皇帝の存在意義を証明してより重んじられ、王莽の時代に唯一の官学として国教的地位を確立した。 漢の官学としての経学は一経専修・師説厳守の今文学だったが、東漢では古文学が流行して数経兼修が讃えられ、章句の解釈を重んじる訓詁学が発達した。
 魏晋六朝でも経学での古文学優位は続いたが、学問の主流は老荘的な玄学にあり、伝統的な訓詁学は寧ろ北朝で重んじられた。 南北朝末には仏教学の影響から各国で義疏(経伝の注に対する解説)が施されたが、隋による統一後は諸派の異同が問題となり、『五経正義』の編纂によって解釈の統一が図られた。
 宋代には訓詁学に対する反省や禅宗の影響から、章句の解釈より思想面を追及する義理学が興隆し、道学朱子学などが誕生して四書が重視されるようになり、明代には実践主義である陽明学が盛行した。 清代には道学以来の主観性が批判され、漢学回帰が唱えられたことで考証学が発達し、後期には『公羊学』が再評価されて清末の政治思潮にも大きな影響を与えた。

五経正義  ▲
 唐太宗の統一事業の一環として、孔頴達らが永徽年間(650〜55)に完成させた、『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『左伝春秋』の五経の義疏(経伝の注に対する解説)。 南北両朝で行われていた諸注の統一を目的としながらも理論面・哲学面でより発達していた南朝の注・疏が多く採用され、又た科挙(明経科)のテキストとされた事は学問の普遍化をもたらした反面、学問の多様性や多角的発達を阻害した。
 このとき、『周易正義』は王弼注が、『尚書正義』は偽孔安国伝が、『毛詩正義』は毛伝鄭箋(毛亨毛萇伝鄭玄箋)が、『礼記正義』は鄭玄注が、『春秋正義』は杜預注(集解)が採用された。

讖緯
 讖は符命・符図・図讖とも称され、自然・超自然現象によって顕れた啓示=予言を指し、災害や現象を預言の一種と見做す災異説とは表裏を為した。緯は“横糸”を意味し、経書を“縦糸”と見做すことに由来し、経書の預言的解説を指した。 儒学の国学化が進行した西漢末、新政の正当化を目的として緯が盛んに活用され、当時の碩学でもある劉歆楊雄が関与した事もあって、孔子ら先賢の隠された真意を解説したものとして経伝に匹敵する権威を備えるに至り、往々に讖の解釈にも用いられて“讖緯”の語が普及した。
 そもそも経書では説明できない皇帝制を是認する為に用いられ、それまで公認されていた漢土徳説を否定した漢火徳説も左伝学者の劉向・劉歆父子が緯書に依って唱えたもので、馬融鄭玄ら東漢を代表する碩儒すら緯書による経書解釈を当然のものとし、桓譚鄭興張衡などの大儒といえど、讖緯を否定したことで異端とされた。 讖緯は現状を否定する典拠ともなり、王朝の交代期に好んで活用された後に新政権に危険視される事が常で、晋以後はしばしば禁令が出され、初唐に概ね散逸した。

書院
 唐の開元13年(725)に集賢殿に置かれ、図書の校正筆写や収集を学士に行なわせたものが発祥となったが、通常は官学に対して地方に置かれた私塾の一種を指す。 宋代の科挙の盛行と共に形骸化した官学府に代わる民間の学問所として各地で興され、総合的学問と人格陶冶を主眼として寄宿制と規律を特徴とし、勅額・学田の賜授など政府からも奨励されて普及した。
 宋代には江西廬山の白鹿洞書院を筆頭に、河南商丘の応天府書院、河南太室山の嵩陽書院、湖南岳麓山の岳麓書院が四大書院と称されたが、科挙の有力な学問場となったことで受験勉強に特化する挙場と化して当初の理念を失い、学閥による党争にも発展して王安石の改革項目にも加えられ、南宋では慶元の党禁が行なわれた。 明代では湛若水王陽明により盛んとなり、学問所の正道回帰を標榜したが、政局を論じたことでしばしば迫害され、東林党弾圧はその象徴とされる。清朝は書院をも官学化し、書院も科挙塾と化した。

道学
 唐代の古文運動と軌を一にして興った新たな経学。 従来の訓詁学を否定して“理(万物の摂理・真理)”を追及したために“理学”とも呼ばれ、宋代に張載周敦頤・程頤・羅従彦らによって隆盛し、考証学(漢学)が盛行した清代に“宋学”と呼ばれた。
 道学の称は北宋の元祐年間(1086〜94)に生じ、朱熹の時代には矯激者・剛直者の同義語として人口に膾炙していたが、朱子学の普及と共にその別称となった。 実践主義の陽明学が普及した後代には「半日静坐・半日読書」に象徴される道学は守旧的士大夫の学問とされ、固陋な規範主義者や迂遠な形式主義者を揶揄する蔑称となった。

朱子学  ▲
 道学の一派。北宋の二程子らの理学を、朱熹が集大成した学問。 仏教的思想で儒経を解釈した事で“新注”とも称され、成立当時は過激な異端思想と見做されたが、13世紀前期に至って儒学の正統と公認された。
 万物の本質を“理”とし、絶欲・静心によって気質を善導し、万物に内在する理を窮めて知識を完全とする格物致知こそ聖人に達する道と説き、経書の精読に始まる万事の徹底的な探究を唱えた。 五経よりも四書を尊重し、宋末には訓詁学が主流だった華北にも伝えられ、姚枢郝経らが学んだことで普及して道学と同義となった。 明代には四書は五経に並ぶ聖典となって科挙の試験科目となり、『朱子家礼』は以後の士大夫の日常生活の規範となり、朝鮮・日本でも統治理論として普及した。

心学
 朱子学の性即理に対し、陸象山王陽明の唱えた心即理の学統。 陸象山の頃から禅宗に倣って修養重視・不立文字を唱えたことで疎学の学として批判され、王陽明の学問は空疎・狂禅・倡狂無忌憚などと朱子学者からは非難されたが、明代中期を席捲した。 殊に左派は熱狂的伝道によって道徳・習俗の破壊者として強く非難されたが、王艮李摯らに至って頂点に達した。東林学派の運動はこれに対する反動が一因となっている。

陽明学  ▲
 心即理・致良知・知行合一を主旨とする、王守仁の思想哲学。 理を極める為に朱子が必須とした読書だけでなく、六経を心の注釈書としてその修学すら不要とし、経書の絶対的権威すら否定した。
 朱子学の静座静学に対して実践を重んじ、排理尊情の風潮もあって盛行し、禅学に傾倒した王畿(龍渓)・王艮(心斎)は性を無垢としてその欲求を肯定する説を展開し、李卓吾に至って儒教の枠を超越した。 又た王心斎の系統には万物一体思想から人間平等思想に至る者や、以道救民と知行合一を以って遊侠になる者もあり、朱子学が国学とされていた事や禁書政策が推進されていた事もあってしばしば異端邪説とされた。
 陽明学は清末の一時期を除いて現代に至るまで公式な評価が低く、王朝時代にあっては伝統儒学を批判する反動精神が忌まれ、近現代では儒教の徳目を赤心の発露として宣揚する退行的な思想と見做されている。

東林党
 明朝の万暦22年(1594)に顧憲成・顧允成・高攀龍らが無錫に再興した東林書院に集い、江南士大夫を中心として政治活動を行なった集団・学派に対する反対派からの呼称。 顧憲成らは万暦帝や時の内閣と対立して下野したもので、鄒元標・趙南星ら著名な知識人が多数参加して時政を論じた為に朝野に大きな影響力を有し、反鉱税派の李三才の入閣を内閣首輔の葉向高に運動した事から李・葉を指して“東林党人”の語が生じた。
 思弁的な陽明学を批判して実社会への貢献を重んじ、道徳的修養と政治的活動を区別して水利や技術開発を推進し、キリスト教宣教師からヨーロッパの自然科学的知識も摂取したが、実践主義が時政批判を一層過激にした。 殊に内監派を激しく批判して三案に於いて明確な政治勢力となり、天啓(1621〜27)の初めには新安商人汪文言の投資もあって司礼監と提携して内閣を主導したが、過度の教条主義から帝意を得られず、又た偏狭な朋党意識から他派の結託をもたらし、天啓5年(1625)に魏忠賢によって東林書院は封鎖されて大弾圧を受けた。 崇禎帝が即位して魏忠賢が誅されると東林党員への迫害も終息し、その運動は復社に継承された。

復社  ▲
 明末の文学・政治結社。崇禎元年(1628)に太倉の張溥が蘇州に興した応社を中心とし、松江の畿社などの各地の文社(民間の科挙予備校)が、古学復興を唱えて崇禎6年(1633)に組織化されたもの。 宦官主導の政治の粛正を唱えて小東林とも称され、高級官僚は少数だったものの東林派の子弟と合して朝野に大きな影響力を有し、崇禎の末期には東林派内閣を成立させたが、理想主義に堕して程なく失敗した。
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 北京陥落後は南中国で反清活動を展開したが、北京残留者の多くが李自成を支持した為に福王政権では奸党として排斥された。 清軍が入城した北京では魏忠賢の腹心だった馮銓がドルゴンの招請に応じ、嘗ての反東林党(宦官党・閹党)から冀党と斉党を以てドルゴン支持の北党を組織していたが、東林派も陳名夏を橋頭堡として政界に進出してドルゴンを支持する南党を組織し、共に清朝への漢人士大夫の参政の一助をなした。

考証学
 漢学とも。客観的根拠に依拠した論証を第一とする、清代に隆盛した学問。 明末清初の黄宗羲顧炎武を先駆の双璧とし、仏教に影響された道学と主観的解釈の陽明学をいずれも異民族による征服を招来したものとし、又た最も信頼されてきた唐代の学問が偽典を典拠としていた事が証明された為、漢代の学問をこそ正統として経史研究への回帰が唱えられたもの。 黄宗羲は史学・暦学などに精通し、顧炎武は経史・文字学などに詳しく、ともに着実な研究によって厳密精確な考証を行ない、顧炎武の友人の閻若璩が『古文尚書』の偽作を証明したことで、経学の主流となった。
 文献学の発展と康熙〜乾隆年間の学問奨励によって興隆し、『四庫全書』の編纂を通じて宋学を凌いで最盛期となり、胡渭毛奇齢恵棟戴震銭大マ段玉裁王念孫・崔述らが代表的人物で、恵棟(蘇州)の呉派と載震(安徽)の皖派が学界を二分した。 呉派と皖派は共に顧炎武を祖とする浙西学派(音韻学・訓古学・金石学)に分類されるが、黄宗羲から続く浙東学派は歴史学を重視し、万斯同章学誠邵晋涵らがあった。
 漢学は主として東漢の学問に基礎を求めたが、清代中期には西漢の経学、特に公羊学に基づく常州派が興隆し、古文学に基づく漢学は衰退していった。

皖派  ▲
 清朝漢学の浙西学派から発した、江永戴震の門下から興った学派。懐疑主義に発し、規範的な法則を用いて得られた研究結果を重んじ、段玉裁王念孫程瑤田・凌廷堪・王引之・孫詒譲らを輩出した。 帰納的論理的な分析を規範とし、小学(文字学・音韻学・訓古学)を起点に経学だけでなく諸子学を考証して思想の研究へと発展させた。

呉派  ▲
 清朝漢学の浙西学派から発した、恵棟に始まる学派。その学問は余蕭客・江声をへて王鳴盛銭大マらによって大成された。 漢代の経学、殊に鄭玄・許慎の学説を尊崇して小学(文字学・音韻学・訓古学)に長じ、宋学を批判した。

常州派  ▲
 公羊学派とも。清朝漢学の、荘存与・劉逢禄に始まる学派。今文経学、特に『春秋公羊伝』を重視し、微言大義の解釈を以て皖派・呉派に遅れて盛行した。 劉逢禄に学んだ魏源龔自珍が“経世致用ノ学”を吹鼓して広がり、輿論に多大な影響を及ぼした。 光緒年間には廖平が古文経を劉歆の偽作と断じ、孔子を改制者と定義したその主張は康有為に継承され、六経は復古に仮託した孔子の手に成る改革思想の書とされて公羊学は変法運動の理論的根拠となった。

 
 


 漢詩と散文の中間に位置する、韻文の文体の一種。『詩経』では事物の直叙描写と定義されているが、通常は『離騒』より継承されて漢代に成立した叙事文を指し、抒情的な騒体賦(離騒体)と併せて“辞賦”とも称される。 序・本文・乱の三部より構成され、本文は対句を根幹として助詞を多く伴う韻文で、『漢書』芸文志に「歌わずじて誦ず」とあり、漢賦は宮廷文学として国事を華麗かつ叙事的に頌諷した。駢賦の前期の魏晋賦は個性・抒情性を重視して音楽など無形物をも素材とし、後期の南朝賦では詩文の影響で駢文の要素が導入されて描写が細密化したが、貴族的・遊戯的となって清新味を喪失し、長編作品も殆ど現れなくなった。 隋唐では科挙の賦試のために声律規定の厳格な律賦が興り、韻や字数・韻字なども制限されて代表的文学は詩に移行した。
 古文復興運動では賦も又た漢風への回帰が唱えられて散文的な文賦が行なわれ、漢賦と併せて古賦とも称されたが、漢賦に比して質実さが好まれた。清代に江南出身の文人によって魏晋の風が一時再興された。

楽府
 楽に合わせて歌う漢詩の一形式。楽府体とも。 楽府は本来は民謡採集のために漢武帝が設立した音楽官署で、同時に文人にも作品を募り、協律都尉に任じた李延年に楽を作らせた事に始まる。後に楽府で用いられた歌謡自体を楽府と呼ぶようになり、漢魏の古曲に基づく楽府を楽府古辞、六朝時代の民間歌謡に基づくものを楽府民歌と呼び、これらを古楽府と総称した。 唐代になると古楽府はほとんど演奏されず、古楽府の題や形式を模倣した詩歌が行なわれるようになり、中唐以降に白居易らが創始した“新題”楽府は新楽府と呼ばれる。民間の歌謡全般を指して楽府と称する場合もあり、宋詞元曲も広義の楽府に括られる。
  
:旋律を前提に作られながらも、文辞のみでも成立する賦。 定型に囚われない為に“詩余”とも称され、しばしば「曲と分離した『楽府』」とも説明される。 南唐・後蜀で完成して宋で隆盛し、後には前人の作品の平仄や字数・押韻などを踏襲して作られるようになり、朗読される詩歌の一種となった。

駢文
 四六文・四六駢儷文とも。4字句と6字句を対句によってリズムよく並べる文語文体の一種で、韻律の制約を受け、典故と藻飾の多様を特徴とした。“駢”は2頭の馬が並走することを表し、対句を基本とする文体であることを比喩する。
 中国は単音節である為、言語の構造上から対偶形式が発達し、詩では早期から四言体が興り、東漢以降は散文にも採用されて魏晋の頃に4字・6字の形式が定着し、形式重視の貴族社会である南朝で最も栄えた。 斉梁代に興った音律研究で周顒・沈約らが四声を発見して一層栄え、唐初に至ってさらに華美となった一方で形式偏向が甚だしくなり、韓愈らの古文復興運動を惹起して衰退したが、以後も詔勅などに継続して用いられた。 “四六”の称は晩唐から使われはじめ、宋〜明に普遍的となり、清代に至って“駢文”と呼ばれるようになった。

永明体  ▲
 南斉武帝の永明年間(483〜493)に流行した詩風で、竟陵八友の王融謝朓沈約らが牽引した。 竟陵王の西邸で盛んだった韻律研究が大きく影響し、東晋以来の観念的・哲学的な玄言詩を脱却して音律や形式を重視し、近体詩的な短詩が比較的多く制作された。 後に沈約が唱えた“四声八病説”によって整備・簡略化が進んで近体詩(絶句・律詩)に結実し、唐代近体詩に対して永明体以降の南朝詩を“六朝新体詩”と総称することもある。

唐宋八大家
 唐宋代の古文復興運動の代表者で、唐代の韓愈柳宗元、宋代の欧陽脩蘇洵蘇軾蘇轍王安石曾鞏を指す。 修辞に特化して形式に偏重した四六駢儷体に対し、達意を重視する西漢の散文系文章への回帰を提唱したもので、韓愈(散文体)・柳宗元(散駢体)によって広く認知されるようになった。 宋代になると欧陽脩が『新唐書』を編纂した事もあって文壇の主流の地位を確立し、その門下から出た三蘇・王・曾らによって宋代の文体は大成されて“散文”と称され、蘇軾は韓愈を「文を八代の衰に起す」と評した。
 一説では、詩賦を得意とする南人の政界進出を阻止する政策運動であり、欧陽脩が知貢挙となった科挙に於いて、古文体を是とする自身の文学論に基いて合否を決したことが分岐点になったとも伝えられる。 明代の茅坤が『唐宋八大家文鈔』で初めて唐宋八大家の名を用い、清代の沈徳潜の『唐宋八家文読本』によって流行した。

西崑体
 北宋初期に流行した、李商隠に倣った詩風。李商隠の詩の特徴は、僻典に取材した難解かつ幻想的・哀愁的な艶情詩にあり、耽美とも称されて存命中から愛好者が多く、最晩年の白居易や温庭筠からも絶賛された。 北宋の楊億・銭惟演・劉筠らが、李商隠の詩風を範として『西崑酬唱集』を編纂したことで“西崑体”と呼ばれるようになったが、欧陽脩ら古文派からは「李商隠を稚拙に模倣した技巧主義」と批判された。

八股文
 制義・制芸・時文・四書文とも。明清朝での科挙の答案用の文体。明代の科挙は朱子学に則って五経より平易な四書を重視し、解答においても文辞を得意とする南人偏重を避けるために規格化を行ない、回答の本論=正文を4対の段落で構成した為に八股と呼ばれた。 四書を中心とした古典解釈と時政から出題され、答案は題前と正文がそれぞれ4章から成るが、一篇全体の構成だけでなく論旨の展開法、章法・句法・字数などが厳格に規定され、文体の修得のために基本的な学問研究は等閑となって胥吏官僚の蔓延を招来した。

題跋
 書物や絵画に記された短い評文や感想。題は書物の巻頭や巻末、書画の余白に書かれ、跋は題の一種として必ず巻末に記された。 題は復数人が寄稿する事が常で、最上格の人物がやや長文の書序を担当した。

桐城派
 清代の古文作家の一派。提唱者の方苞ら中心人物の殆どが安徽省桐城の出身。 唐宋八大家、特に韓愈欧陽脩の古文を範とし、明代の帰有光を学んで謹厳・質実を理想とした。 古典精神への回帰を唱えながらも、措辞に“義法”と称した種々の法則を設けた事で古文辞派同様に形式主義に堕し、漢学派からは「八股文の変形」とまで批判された。 後に曾国藩・厳復らによって面目を一新したが、新時代には対応出来なかった。

金石学
 古代の銘文や刻画などを研究する学問で、陶器・漆器や金属器のほか、画像磚・石碑・墓碑・石経、あるいは古銭・銅鏡などを研究対象とする。 開拓者とされる欧陽脩は拓本を収集研究して『集古録』を著し、劉敞が古銅器研究には器形学・文字学・歴史学の必要なことを説き、器形を研究した徽宗の『宣和博古図』は現在の古銅器の名称でも多く依拠されている。 南宋の薛尚功いらい文字解読が進展した半面で器形学は疎かになり、元明では金石学自体が衰退したが、清代考証学の発達とともに活発となった。
 清初では顧炎武朱彜尊が著名で、又た銭坫は文字学に長じて金文解読に独自の境地を開き、清末では呉大澂も重視される。 石刻の研究では銭大マ畢沅などの地域別の石刻蒐集が盛んになり、時代別の蒐集も行なわれた。 民国になって金石学の巨星といわれる王国維が現れ、金文解釈のみに傾斜していた清代金石学から脱却して器形学・書体論を展開しただけでなく、金文を古代史料として駆使して歴史研究にも多大に貢献した。

 
 
 

篆書
 小篆とも。西周末の金文を起源として主に関中で発達し、秦の統一事業で整備されて公文書体となったが、吏員の使用書体として隷書が普及した為に、王莽政権で一時的に復権した他は漢代を通じて概ね装飾用に用いられた。 古文学の盛行した東漢で学問的に重視されて『説文解字』も著されたが、漢末以降は装飾書体が大量派生して本来の姿を失った。 唐〜宋の古文復興運動で再評価されて書道・石碑文字として確立し、印章などにも用いられるようになった。

隷書  ▲
 始皇帝代、程邈の発明になるとされるが、戦国楚の遺物から類似の文字が出土している。 李斯の整備した篆書より簡便で、篆書の走書体(秦隷)として秦の吏員の間で普及し、漢で公文書体として確立して正常発展的な“古隷”の他、速記の“草隷”、装飾的な“八分”などが派生した。 東漢では草隷が発展した“章草”や、速書体として行書・楷書の原型も生じ、石碑書体としては桓霊の頃を境に八分体が主流となり、又た漢末には隷意を失った章草が草書として確立し、張芝が名人と謳われた。
 嘗ては隷書から楷書が、楷書から行書・草書が生じたとされてきたが、近年では隷書と草書の折衷として行書が発生し(=行狎書)、漢末〜三国時代に行狎書や草書の影響を受けた隷書から楷書が発生したとされている。尚お、当時の楷書は後世では“隷書”または“今隷”呼ばれるため注意を要する。

花鳥画
 花卉鳥獣画の総称。六朝の宮廷では鳥獣画=翎毛画が主流だったものが、中唐の辺鸞によって草木花卉画が隆盛し、五代宋初に興った写実的な黄氏体と、幽玄的な徐氏体が“富貴”“野逸”とも称されて以後の花鳥画の二大潮流となった。 黄氏体を主流とする画院の花鳥画は北宋徽宗の時代に頂点を迎え、徐氏体も画院に影響を与えたものの寧ろ士大夫や文人・僧侶に支持され、在野派として文人画とも結合した。

院体画
 北宗画・北画とも。花鳥・山水などを写実的かつ精密に描くことを重視して画院で発展し、北宋で南唐・蜀から画壇を移植した後に宣和年間(1119〜25)に最盛期を迎え、明初まで画壇の主流を為した。 辺角的景観表現と、“斧劈皴”と称される切立った皴法や濃淡による立体表現などを特徴とし、技巧に長じて習練に適した反面、職業的・類型的な工匠画に陥り易く、文人画を集大成した董其昌により対立的に院体画と命名され、或いは南宗画に対して北宗画と呼ばれた。
 董其昌によれば、禅宗同様に画風の南北分化も唐代に生じ、着色山水の李思訓李昭道を北画の祖とし、五代の趙幹・北宋の趙伯駒・趙伯驌・李唐徽宗、南宋の馬遠夏珪、明の戴進に及んだとするが、実際には唐代に分派を認めることは困難で、北派と称された画家が李思訓を学んだ記録も無く、南画を明快に差別化するために系譜化が行なわれたものと考えられている。 尚お、日本に招来・愛好された中国画は、ほぼ南宋院体画と南宋禅機画に偏っている。

文人画  ▲
 南宗画・南画とも。写実を旨とする院体画の職業的工匠画に対し、気韻を重んじた自由な画風を指し、詩情豊かに花卉や山水画を水墨や淡彩で描き、素人画を標榜した。 南斉の謝赫が最も重視した気韻生動を、作者の主観的精神を反映するものと解釈して思想の核とし、北宋の郭若虚は『図画見聞誌』で「骨法用筆以下の五法は学修し得るが、気韻は作者の人品・教養であり、根本的には先天的なものである」と唱えた。
 宋代の文人画は僧侶や道士・処士の墨戯が禅宗の抬頭と共に発展したもので、花卉は竹蘭梅菊の四君子や水仙が好まれ、山水では自然の全景を大観した構図を主とした。山岩の屈曲には“披麻皴”と呼ばれる柔らかな線を重ねる技法を用い、主に線の積層による遠近表現や、斑点による陰影表現を特徴とした。 この画法は五代宋初の董源巨然をはじめ宋の二米らにも見られるもので、元末四大家を経て明の沈周文徴明らによって一大潮流を為し、董其昌に至って集大成された。
 董其昌は持論を宣揚するために、当時盛んだった禅の南宗に擬して「画の南宗」と称し、唐の王維を開祖に据え、この説と呼称は清代には一般にも定着した。 尚お、文人画とは本来、貴族制社会である六朝隋唐時代に、文人士大夫が非職業的に描いた画迹を指した。

 


 翡翠 - jade -を含む美石の総称で、硬玉-jadeite-と軟玉-nephrite-に大別される。硬玉は硬度6.5〜7、比重3.3〜3.5、白色・緑色または青碧色の亜半透明ないし半透明で、中国に産する暗緑色ないし青碧色を帯びて半透明のものは“琅玕”と呼ばれる。 軟玉は透角閃石または陽輝石の集合体で、硬度6〜6.5、比重2.96〜3.1、透角閃石系は乳白色で、陽輝石系は暗緑色を呈し、亜透明もしくは不透明。
 中国では玉器の原料として貴重され、玉器は秦漢以前のものを古玉、宋代以降のものを新玉と区別し、三国〜唐では玉器製作は沈滞していた。 玉器の意匠は遼西系・江南系・山東系が源流とされ、山東文化では大型有刃器が特色だったが、江南文化系の鉞・j・璧などが中原や四川でも重視された。 玉器が祭祀・政治上で最も重視されたのは新石器時代後期〜青銅器時代初期に於いてで、玉器崇拝は黄河流域より長江流域で盛んで器型も多く、良渚文化三星堆文化は玉器文化の最高峰とされる。 又た殆どの二里頭文化遺跡では玉器は未発見で、続く殷文化では江南系のみならず山東系・遼西系の玉器も行なわれた。
 玉器には、武器を祖型として権威を象徴する圭や璋、方柱穿円孔の祭祀用のj、有孔円盤状の璧や瑗(孔径が盤の1/3を超える璧)があり、璧は圭とともに最も重視され、富の象徴としても用いられた。 又た葬玉の類としては死者の口に含ませる蝉型の含玉、両目に置く眼玉、鼻孔・耳孔を塞ぐ瑱玉、両手に把握させる豚玉などがあり、容器などを模した玉器も少数ながら存在する。玉の原産地としては、陝西省藍田と新疆ウイグルのホータンが殊に著名だった。

青銅器
 銅と錫・鉛の合金によって作られた製品。硬度に欠ける銅器とは峻別され、錫の含有量によって硬度・脆度と色彩が変化する。 中国での青銅器製造の開始時期については未確定で、製法についても西方渡来説と独自起源説が存在し、又た長江青銅器文化と黄河青銅器文化との関係についても未解明な点が多い。華北では二里頭文化で青銅器の制作が確認されており、華中の石家河遺跡からも銅鉱・銅辺が出土しているが、いずれも西方アジアでの青銅器時代に遅れる為、西方起源説が優勢となっている。
 中国の青銅器文化は、鉛が加えられるようになった殷末に大型化・装飾性が進んで全盛期を迎え、殷末周初には中原からの技術の流出によって四川や長江中流域でも秀品が出現し、世界史的にも特異とされる冶金技術に到達した。 殷と西周の青銅器は、殷は酒器中心、西周は食器中心との相違があるものの製法は基本的に同一で、周では長銘文が出現した一方で装飾・器形は簡素化された。 西周の崩壊によって流出した製造技術や鋳銘技術を以て諸国でも青銅器製造が開始され、戦国時代に入って鉄器が農具以外に使用されるようになっても青銅器は祭器として漢代まで用いられた。青銅器の表面に刻された銘文、いわゆる金文は史料として非常に高く評価されている。

鉄器
 鉄鉱石から作られた製品。1000℃以下で還元剤によって酸素分を放出させた錬鉄(海綿鉄)に始まるとされる。 西アジアでは、半熔状態の錬鉄を反復鍛打して炭素などの不純物を除く鍛鉄に発展し、鍛鉄は延展性はありながら硬度に欠けるが、B2000年紀中頃にはヒッタイトが滲炭法による表層硬化の製法を発見・独占し、ヒッタイトの崩壊によって西アジア各地やヨーロッパに製鋼法が伝播したとされる。
 中国は春秋後期(B5世紀頃)には農具・工具を中心に鉄器時代に入ったとされるが、製陶・製銅で吹鼓を利用した高温を獲得していたことで錬鉄から鋳鉄(1250℃前後)に発展した。 鋳鉄は硬度が高い反面で延展性に欠けて脆く、利器に向かない事から悪金と呼ばれたが、それでも農具・工具への転用は戦国時代の開拓・開墾の飛躍的拡大を促し、高温下で鋳鉄の炭素分を鍛鉄に浸透させる滲炭鋼も出現した。
 漢代には利器の鉄器化が急速に進んで素封家に数えられる製鉄家も現れたが、高温生成に大量の木材を伐採し、東漢時代には木材の激減によって華北の墓葬では磚を用いた磚室墓が普及した。 又た滲炭鋼の確立後も鉄製利器の主流は鍛鉄にあり、三国時代にも青銅製武器が併用され、蜀漢では鋼剣が“神刀”と呼ばれるなど鋼製品は珍重された。 尚お、近現代の製鉄技術上で云われる錬鉄は、鉄を溶解(1535℃)させて炭素成分を放出させたものを指す。

饕餮紋
 殷周代の銅器の代表的装飾。竜・虎の発展意匠として巨瞳を特徴とし、両目を中心として胴部に至るまで左右対称をなす。 『左伝春秋』文公18年条では貪欲の代表として挙げられ、『呂氏春秋』先識覧には「首あって身なきもの」とされている。 殷代後期〜西周で流行し、春秋代に凋落した。

虺竜紋  ▲
 饕餮紋から発展したとされる、殷周代の青銅器の蟒紋様。 側面描写を基本とし、左右対称や、同方向に連続する紋様もある。 春秋時代には互いに絡み合った蛟蜃紋と虺竜紋の複合紋様である蟠螭紋が現れ、これは戦国代には代表的紋様となった。

陶器
 中国では釉薬を塗った土器の総称。殷代には普及しており、周代の江浙で行なわれていた駰器が漢代の古青磁の先駆となった。 又た漢代の華北では緑釉・褐釉を用いた彩釉が行なわれ、窯の構造も南方の登窯式・北方の丸窯式との差異があった。 南北朝末期には彩釉から脱して天目・白磁が出現したが、当時は無地白色の白磁は好まれなかった。 唐代には貴族の生活文化の発達と飲茶の流行から陶器の需要が増し、現在でも越州青磁・邢州白磁が著名だが、中原で生産された唐三彩が唐代を象徴する陶器とされる。
 五代では紫窯(開封)・秘色窯(余姚)が著名で、最盛期とされる宋代では30余ヶ所の窯跡が知られ、中でも(河南省陳留・浙江省杭州)、(浙江省竜泉)、汝(河南省臨汝)、定(河北省曲陽)、(河南省禹州)が五名窯とされ、青磁・天目などは輸出品としても好まれた。 元代ではペルシア方面から孔雀釉(コバルト顔料)が輸入されて白磁に彩色したものが流行し、瑠璃瓦なども大量に生産され、明代には染付・赤絵・辰砂などの紋様表現が流行し、最大の窯場となった景徳鎮には官窯も設置された。 清代には釉色・器形などは多様化したが、明代までの改良に留まった。

磁器  ▲
 1200度以上の高温で焼成された陶器を指し、陶土中の長石や珪石などのガラス質が融解する為に、陶器に比して硬質で金属製の叩音を発し、吸水性がなく透光性を有するなどの点で区別されるが、厳密な分類定義は存在しない。 焼成に必要な高温は11世紀の北宋で実現したものだが、本来の磁器は磁州産の白土を用いた陶器の総称で、紀元前後から発展していた。 高温の焼成技術は特に景徳鎮で発達し、絵付けが普及した明代には最良の生地として全国を席巻するに至った。 高麗に伝わって“高麗青磁”に到達したものは磁州系の焼成技術で、日本に伝えられたものは景徳鎮系の技術だったとされる。

越州窯
 漢〜唐代、東南地方で経営された窯の総称で、生産された青磁の称でもある。 安徽の寿州窯、浙江の徳清窯・九巌窯、福建の福州南台窯などが確認され、いずれも高い生産技術を有し、唐五代の青磁は碧色系の色を以て特に“秘色”と呼ばれて珍重された。

官窯
 北宋政和年間(1111〜18)に開設された、朝廷直営の製陶工場。それまで民間からの貢献で賄われていた天子御用の什器類を制作する為に設けられたもので、初めは汝窯(河南省臨汝)に置かれ、徽宗期には開封に移設され、南遷後は杭州に設けられた。 鳳凰山下の修内司窯(内窯)と烏亀山麓に新設された郊檀窯(新窯)があり、内窯の青磁は発色が冴え、紫口鉄足とも呼ばれた新窯の製品は薄手で灰黒色を帯びている。 元朝は進貢に頼ったが、明清では官窯制を復活し、景徳鎮を廠窯と呼んだ。

吉州窯
 江西省吉安県西部の永和鎮の窯。唐代から続く窯で、唐代には青磁の産地として著名で、北宋では白磁・絵高麗・黒掻落を、南宋では黒褐色・黄褐色の鉄釉を使用した玳玻盞(吉安天目)を、南宋末には砕器窯青磁を産した。明清では主に赤絵・白磁を生産した。

均窯
 汝窯などの河南の窯で焼かれた、不透明な乳白青磁の総称で、紅斑・紫斑を有する物も多い。窯としての均窯は河南省禹州市神垕鎮にあったもので、名称は金・明が置いた鈞州に由来するが、最盛期は北宋代にあり、1575年に禹州となった後も均窯と呼ばれた。

竜泉窯
 浙江省竜泉市を中心とした、麗水市の窯の総称。 世界的に知られた中国最大の青磁の産地で、明代では処州府に属したために処州窯とも呼ばれた。 南宋代には著名で、隣接する越州秘色に比して青味が強く、“秘青”と称された。内地需要のみならず日本・朝鮮・満蒙・東南アジア・中央アジア・西アジア・欧州にまで大量に輸出し、殷周青銅器を模倣した器も製造されたが、南宋末には濫造のために原料・技術ともに低下した。 日本では南宋時代の物を砧青磁、元以降の物を天竜寺青磁、明代中期以降の物を七官青磁と呼んで珍重した。

景徳鎮
 江西省にある中国最大の陶磁器の産地。 北宋の景徳年間(1004〜07)に昌南鎮を改称したもので、天下四大鎮にも数えられ、製陶都市として世界的にも知られている。 製陶業は漢代に始まると伝えられ、北宋では官窯が置かれて白磁を主力とし、高温焼成を必要とする高嶺土を使用した事で発達した焼成技術から、“影青”と絶賛される青白磁が生産された。 元代に染付に転じ、現在の窯場に定まった明代には赤絵を行なったが、絵付けの生地として白色化の研究が進められた結果、最良の品質として国内需要の過半を生産するに至った。 16世紀後半の人口は50万に達し、製陶技術が最高水準に達した乾隆年間には宋白磁の水準に逼る事に成功し、太平天国の乱をへて同治年間に復興した。

唐三彩
 唐代に盛行した彩色陶器。低温焼成した肉厚の素地に多種の彩具で化粧掛けを施し、鉛釉を塗って再び焼き上げたもので、壺器類のほかに香炉・枕・像などの多様なものが作られた。現存品の大部分は中原地方の墳墓から出土したもので、実用品は少なく、西域風の意匠紋様や明快な色調と洗練された姿形などは国際的だった唐代貴族文化を反映したもので、美術品として国際的にも高く評価されている。 鉛釉陶器は漢代から続くもので、素色の磁器が好まれた宋代でも三彩は暫くは製造された。

遼三彩  ▲
 唐三彩を模倣した、遼金代の代表的陶磁器。1930年頃より存在が知られたが、1943年に赤峰市西南60kmで乾瓦窯址が発見されるまでは製陶地は不明とされていた。乾瓦窯の創始は1060年代とされるが、単色釉陶は10世紀には製造されており、遼三彩は文様を型押しにし、遊牧社会独特の様式を表現したものとして注目される。

青磁
 白磁と並ぶ、中国で発達した陶磁器。殷代の灰釉から発展し、東漢〜西晋時代の江南地方で青磁として成立し、宋以前は紹興の越州窯が殊に有名だった。 宋による全国統一で職人が北徙されたことで華北にも青磁が再伝播し、青磁の最盛期とされる南北宋では陝西の耀州窯、河南の汝窯、浙江の竜泉窯官窯などが名窯として知られたが、明代には原料の枯渇もあって技術・生産力とも減退した。
 青磁は1200度を超える高温と、釉薬の厚さ(2〜3mm)などの高度な技術が要求されながらも発色は不安定で、そのため中国のみならず海外でも珍重され、殊に高麗青磁は中国製のものに伍す評価が与えられている。

白磁  ▲
 青磁と並ぶ東洋独特の磁器。白色の器地に透明な釉薬をかけて高温で焼成したもので、六朝時代の広東地方が起源とされる。 北斉代に華北に伝わり、唐代には河北の邢州窯が有名で、端渓硯とともに広く愛用され、江西の景徳鎮吉州窯では青味がかったものが焼かれた。 宋代には定窯(河北省曲陽)が天下第一と称され、山西の平定窯、安徽の泗州窯・宿州窯、江蘇の蕭州窯などでも白磁が焼かれ、特に景徳鎮の青白磁は竜泉窯の秘青に対して“影青”“饒玉”と称され、又た広東の潮州窯は大量生産によって海外に輸出した。 元代には景徳鎮製の“枢府”銘のものが有名になったが、この頃から釉下に文様を施すようになって製陶自体の技術は衰退し、明清代でも染付け・赤絵が流行した。

赤絵
 高温生成した白磁に、低温で上絵具を焼付けたもので、赤色顔料を使用したものが最も多かったことが名称の由来となった。 12世紀に発明され、当時は磁州窯(河北)・修武窯(河南)で焼かれ、14〜15世紀に景徳鎮で焼かれるようになって発達し、嘉靖・万暦年間に飛躍的に発展して康熙〜乾隆年間に最高水準に達した。日本にも影響を及ぼし、江戸初期に肥前有田で柿右衛門が創案し、現在では九谷焼が最も著名となっている。

 

瓦子
 瓦市・瓦舎とも。宋代の都市部で発達した総合娯楽場。 宋は唐以前と異なって夜間通行・商店の出店区域などに対する制限が極めて寛容で、五代での殖産興業の発達を受けた商業経済の発達もあって商店は城内各処に出店し、殊に飲食店・妓楼街などの歓楽街には常設の勾欄・寄席など各種娯楽施設が密集して不夜城の観を呈した。 後世の平話などの通俗文芸は、瓦子で口演された講史書・小説などの語り物を母胎として発達した。

元曲
 元代に盛行した雑劇と散曲を総称したもので、より普及した元雑劇を指す事が多い。 元雑劇は歌曲を中心とするドラマで、歌は主役によって独唱され、その間に科白を交え、原則的に四幕から構成されるが、多くは他に楔子(補助幕)を設ける。 初期のものは大都を中心とする華北で行なわれて北曲とも呼ばれるが、南宋征服後は江南に重心が移って南戯と融合し、これは南曲と呼ばれるようになった。 南曲では幕数の制限もなく、歌唱の担当者も限定されず、より自由になるとともに複雑化した。
 元曲の発達は、モンゴル〜元朝の人種政策で仕官を断たれ、或いは出仕を拒む士大夫層が代償的に参入した点に負うところが大きく、この傾向が先進的な江南に波及したことで文化活動は民間にも浸透し、元曲は時代文学の代表として1つのジャンルを確立した。

羅針盤
 方位磁石の別名。鉄器の盛行した戦国時代の後期に天然磁鉄の指極性質が知られ、当時は指南針・司南と呼ばれた。 11世紀になると人工の磁針が発見されると伴に磁気子午線と地理上の子午線の誤差=磁偏角も発見され、12世紀には航海にも使用されるようになり、西方貿易を通じてアラビアを介して西方に伝えられたとされる。


 植物などの繊維を織らずに絡ませて薄く平らに成形したもの。“紙”自体は西漢の頃には存在し、地図が描かれたものも出土しているが、筆記用紙の製造法は東漢の蔡倫によって発明され、“蔡侯紙”の製法は世界四大発明にも数えられる。 以後も暫くは重要文書は絹布に記され、竹簡・木牘を使用した地域も多かった。
 製紙法の改良による紙質の安定と低廉化による全国的な普及は、左思の『三都賦』に伴う洛陽紙価の高騰があった4世紀前後に想定され、改良によって低廉化と大量生産が可能となって五代〜宋の印刷術の発達を支えたが、以後も長らく庶民には高価な存在だった。 紙は蜀などの長江流域が主産地で、安徽省宣城の宣紙や、竹製の竹紙は上等品とされ、殊に10世紀の南唐で開発された澄心堂紙は長らく絶品と評された。
 751年のタラス会戦で捕虜とされた製紙工によってアラブ世界に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が建設され、1100年に漸くモロッコに伝わり、イベリア半島を経て1189年にフランスにも製紙工場が造られた。

印刷術
 木版印刷・活字印刷とも中国で最も早く行なわれたとされるが、木版印刷の開始時期は不明で、現存する中国最古の木版印刷物とされる敦煌出土の咸通九年(868)銘『金剛経』が高水準に達しているため、6〜7世紀頃の開始と考えられている。 活字印刷については畢昇(〜1052頃)の膠泥活字に始まるとされる。 当初の印刷物は主に暦関係や仏典・仏菩薩像の類と思われ、現存する世界最古の印刷物とされる日本の百万塔陀羅尼(百万小塔に納められた陀羅尼:770年刊行)も中国の影響によるものと考えられている。
 唐末の蜀では民間で印刷が行われていたらしく、馮道の三教印刷(932〜953)も、前蜀の滅亡で中原にもたらされた蜀の印刷術が基となった。 蜀・南唐での製紙技術の発達と、科挙の普及による経史書・参考書に対する需要の増加によって印刷界は11世紀には活況を呈し、状元の答案なども市販され、書物の形式も巻子本から冊子本に転換した。印刷文化の普及は諸書の定本化を招来し、宋代の空前の集大成運動の原動力となった。
 印刷の普及に伴って活字印刷術が発明され、11世紀の陶製活字をへて13世紀末には輪転排字架などの印刷用具も案出され、金属活字も出現したが、膨大な活字量が必要となって普及しなかった。 金属活字は朝鮮で普及して1436年には世界で最初に鉛活字が用いられ、これに伴って粘度の高い油性インクも開発された。
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 印刷術に限らず火薬や製鋼法なども中国は世界に先駆けて発明もしくは量産化に成功したが、より高度な活用や組織化には畢に至らず、この停滞性が15世紀〜16世紀の東西文明の逆転をもたらした大要因の1つとされる。

火薬
 世界四大発明の1つ。 中国人によって発見され、初期の黒色火薬が硝石・硫黄・木炭を用いたことから、錬丹に携わる方士の発明になるとも称され、唐代には混合法も周知されていた。 宋代の曾公亮は3種の火薬の製法を記し、開封には火薬工場が設置されて火箭などとして実戦にも転用され、金・モンゴルにも伝播した。ヨーロッパへはモンゴル軍の大西征によって伝わり、14世紀前期には火薬の製造も開始され、後には砲弾発射の推進力としても利用され、16世紀以降は東洋に逆輸入された。

火箭  ▲
 969年に岳義方・馮義昇が発案した、火薬によって殺傷力を増強した箭。鏃の後方に慢性燃焼性火薬を備えたもので、実戦で頻繁に使用され、11世紀中頃の西夏戦でも貢献し、射手の多くは江南に輩出した。後に投石器を使用して火薬包を発する火砲も製造された。

△ 補注:文化

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