又た従来、古代中国文明は黄河文明として呼び習わされてきたが、各地の新石器時代遺跡の発掘調査と研究の進展から、黄河文明に匹敵する長江文明や、未解明な点が極めて多い遼河文明、特異な四川文明の存在が明確になりつつある。 個々の文化の発展や黄河文明との相関など不明な点は多いものの、中国文明の特徴とされる竜の意匠や鼎・玉器文化は何れも黄河文明以外の発祥であると推測されている。
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現在、中国の新石器文化は、燕遼区・雁北区(晋北)・海岱区(山東・淮北)・中原区(関中・晋南・冀南・河南)・甘青区・江浙区・両湖区・巴蜀区に大別され、中原文化は新石器時代末期にはさらに関中・河南・冀南豫北に分化し、両湖文化では江西区の抬頭が観取される。 又た、華北のアワ・キビ文化と、華中・華南のイネ文化は、西アジアのムギ文化、中米のトウモロコシ文化、南米のキヌア・ジャガイモ文化と同様に、独自に農耕が誕生した地域と見做されている。
中国の新石器文化の多くがB3000年紀末〜B2000年紀初頭に、地域社会の大幅な縮小や集落の解体、各種技術の衰退や生産様式の転換などの衰亡・断絶を示しており、その原因は未解明だが、B3000年紀中頃から始まる気候の冷涼乾燥化の中での、短期的な温暖化と低温化の反復が影響していると考えられている。 諸文化の交界地である河南地区のみが文化的連続性を保ちえた理由も、小規模社会と複合農耕文化である他は殆ど解明されていない。
かつては中国文明のほぼ唯一の源流とされたが、近年の長江や遼寧・四川地方での多様な文明文化の発見によって、中国文明が複数の文明の融合体であると認識されつつあり、中国文明の主幹は政治的には黄河中流域が主流となったものの、文化的には長江流域に強く影響された側面がある。
磁山文化 B6000?〜B4900?
太行山脈東麓南部に展開し、関東の先仰韶期文化として裴李崗文化とは双璧とされ、北辛文化の影響も看取される。
紅褐色の夾砂陶を特色とし、生活様式は裴李崗文化に類似し、500基以上発見された窖穴(貯蔵穴)からは最古級のアワの遺物が出土した他、トリ・イヌ・ブタの家畜化も確認されている。標式遺跡は河北省武安県の磁山遺跡。
裴李崗文化 B7000?〜B4900?
豫中・豫北に展開し、つや出しした赤褐色の陶器や磨製石器などを特色とする。
住居は円形・方形の竪穴式で、粟作などの原始畑作農業が行なわれ、世界最古と予想される養鶏のほか、ブタ・イヌの飼育も認められる。
標式遺跡は河南省新鄭県の裴李崗遺跡。
賈湖遺跡 B6800?〜B5700? ▲
河南省舞陽県。淮河支流の流域に位置する裴李崗文化遺跡。
大量の栽培稲が出土し、この遺跡の位置する北緯33.36度は、当時の栽培稲の北限とされる。
高床式住居が混在するなど黄河水系・長江水系文化の併存が顕著で、両文化交流の好例としても重視される。
老官台文化 B6000?〜B5000?
白家文化・大地湾文化とも。関中渭河流域に展開し、暗紅色の夾砂陶を特色として、アワの栽培やブタ・イヌの飼育が確認されている。
標式遺跡とされている陝西省華県の老官台遺跡が小規模なことから、大量の遺物を伴う甘粛省秦安県の積層遺跡である大地湾遺跡や、ほぼ単層遺跡である西安市臨潼区の白家村遺跡による命名論争が続いている。
仰韶文化
B4800?〜B2500?従来は彩陶を出土する黄河流域の新石器文化を一括して仰韶文化と呼んだが、発掘研究の進展で各地の独自的発展が重視された結果、仰韶文化は仰韶期の諸文化と仰韶文化期との総称となり、中原の仰韶期文化は紅陶を主流とする前期の半坡類型期と、彩陶文化の全盛期である後期の廟底溝類型期に大別され、廟底溝類型期には多くの類型文化が派生した。 又た旧来は中原圏との一括化が行なわれていた冀南冀中の半坡類型期文化は、後岡一期文化として仰韶文化とは分別されている。
仰韶半坡類型文化 B4800頃〜B3600頃
裴李崗文化と老官台文化が融合発展したもの。母系制社会を営み、貧富の格差は殆ど確認されていない。
廟底溝類型文化 B3900頃〜B2700頃 ▲
半坡類型文化が拡大しつつ後岡文化や大汶口文化の影響を受けたもの。轆轤製法の土器が出現した。
周辺文化の影響などから半坡後期類型(関中)・西王村類型(晋南)・大司空村類型(冀南)・秦王塞類型(河南)・馬家窯文化(甘粛)に大別できる地方差が顕れ、社会の分業化・階層化も進み、貧富の格差も明確となった。
彩陶
メソポタミアの初期農耕文化を源流とし、アジア大陸に広く分布する土器様式。
中国では1921年に河南省の仰韶村で初めて発見されて以来、新石器時代前半の象徴的な遺物とされ、彩陶=仰韶文化と認識された。
同文化の経由地とされた甘粛省でも後に多数発見されたが、年代測定などによって、中国の彩陶は独自発祥とする見解が優勢となっている。
半坡遺跡
陝西省西安市郊外の仰韶期文化の遺跡で、早期と晩期に区分される。
早期のものは仰韶期前期の標式遺跡でもあり、原始氏族制社会を残す台地上の環濠集落跡で、住居は半地下の竪穴式。
環濠は幅・深さとも5〜6mあり、区画された共同墓地を伴う。
姜塞遺跡
前期仰韶文化期の代表的環濠集落遺跡。
遺構のほぼ全体が発掘された稀少例で、全家屋が中央広場に向けて戸口を設けている点は、半坡類型に共通した特色となっている。
家屋の配置から、五氏族によって構成されていたとされ、直径150mの環濠外に墓域が設けられている。
廟底溝遺跡
河南省陝県の、龍山文化への過渡期を含む積層遺跡で、仰韶期文化後期の標式遺跡。
仰韶文化層(廟底溝一期)の上層に初期龍山文化層(廟底溝二期)が確認されたことで、仰韶文化と龍山文化の相関関係が初めて確認された。
西山遺跡
河南省鄭州市の北郊で発見された、仰韶廟底溝類型期の秦王塞類型文化の城塞遺跡。
1996年までの北半部の発掘によって、総長300mの城壁の基底部や北門・西門の他に、城内からは200余棟の住居跡や228基の共同墓地が出土した。
華北最古(2000年現在)の城壁遺跡として黄河都市文明の原点と目され、伝統的な黄河文明優位論者からは五帝に言及する意見もあり、囲壁と城壁を峻別して城頭山遺跡非都市論や、城壁都市の黄河発祥論などが唱えられている。
又た集落の城塞化には広域の掠奪闘争が必須であるとして、長江流域で城頭山遺跡のみが突出して古い年代比定を疑問視し、遊牧勢力の南下によって黄河流域に城塞都市が成立し、撞球状に長江流域にも掠奪闘争が拡大したとする、伝統的な人口圧南下説なども出されている。
後岡文化
後崗文化とも。河南省安陽市の積層遺跡である後岡遺跡を標式遺跡とするため、第一期と第二期に大別される。
後岡一期文化(B5000?〜B4000?)は、嘗ては中原仰韶文化の半坡類型に包括されていたが、現在では冀南冀中系の文化と認識されている。仰韶文化や北辛文化の影響が看取されるが、磁山文化との相関は明確になっていない。
後岡二期文化は、中原龍山文化の晋南豫西類型に分類される。
龍山文化
B2500?〜B1700?1928年から発掘が開始された山東省章丘市龍山鎮の城子崖遺跡が標式遺跡とされたが、当初は龍山文化最大の特徴とされた卵殻黒陶が斉南地域の特徴と判明するなど、仰韶期文化と同様に各地の独自性が認められるようになってからは、中原龍山文化と山東龍山文化(斉魯文化)に大別されるようになった。
中原龍山文化
仰韶後期の中原の諸文化が発展したもの。
陝西類型(客省荘二期・陶寺)・山西(晋南豫西)類型(後岡二期)・河南類型(廟底溝二期〜王湾三期)に大別され、豫東廬西(潁河・渦河中流域)の造律台類型を加える場合もある。何れも縄紋灰陶を主流とし、卜骨の使用も確認されている。
中原に囲壁集落が多く出現した時代でもあり、初期には一時的軍事施設として造営されたものが殆どで、地域の中心集落としての機能は確認されず、大規模な城壁を有する山西南部の陶寺遺跡は稀有の例とされる。
新石器時代の諸文化が断絶する中、河南類型は二里頭文化に発展し、以後の中原文化の重要な基盤となった。
河南文化が継続した理由としては、長江文明に対して黄河文明の農耕規模が小さかったことや、雑穀と稲作の複合農耕が行われていた事により、気候や社会の大変動に対応できたためと考えられている。
陶寺遺跡 ▲
山西省襄汾県で発見された、陝西龍山文化の東部を代表する遺跡。
1500mx1800mの、華北の新石器時代最大規模の囲壁を有し、灰陶を主流とした土器のほか、玉器や銅器、中原最古級の蟠龍意匠などが出土した。
斉魯文化
後李文化 B6800?〜B5500?
斉魯地方に展開した、新石器時代初期の文化。紅褐陶を用い、家屋は方形の竪穴住居で、アワなどの雑穀の栽培や、イヌ・ブタの飼育が確認されている。
又た、済南市長清区の帰徳鎮の月庄遺跡から出土した炭化したコメは、黄河流域最古の栽培稲とされる。
標式遺跡は山東省臨淄県で1989年に発見された後李遺跡。
北辛文化 B5800?〜B4100?
後李文化が裴李崗文化・磁山文化の影響で発展したもの。
夾砂製の黄褐陶と紅陶を特色とし、より高温焼成した灰陶・黒陶も出土し、水牛の飼育や、紅鉢を死者の顔に被せる特異な埋葬儀礼が確認されている。
冀南の後岡文化や江北の青蓮崗文化の影響によって、大汶口文化に発展した。標式遺跡は山東省滕州市の北辛遺跡。
大汶口文化 B4300?〜B2600?
仰韶文化期に斉魯地方に行なわれた粟作黒陶文化。標式遺跡は山東省泰安県の大汶口遺跡。
前期(B4300?〜B3500?)は紅陶が主流だったが、中期(B3500?〜B3000?)には器種が多様化して黒陶・灰陶が主流となり、後期(B3000?〜B2600?)になると卵殻黒陶の高柄杯なども出現した。
頭骨の人工変形や抜歯の風習、三足器の出現や轆轤の使用、鳥をモチーフにした文様や象牙製品・玉製品など、南方文化の影響が強く顕れ、中期以降には父系氏族社会に移行して囲壁集落も出現し、分業化が進んで貧富の格差や集落間格差も明白となった。
西隣の後岡文化でも殉死を伴う墓葬が確認されている。
山東龍山文化 B2600?〜B1800?
大汶口文化が発展したもので、轆轤を用いた高度な製陶法は江浙文化の影響とされ、冀南の後岡二期文化とも密接に相関した。
同文化最大の特徴とされた卵殻黒陶は、東南沿岸部に展開した両城鎮類型の特色でもあり、中部山地以西の城子崖類型では灰陶が主流で、卵殻陶は少ない。
磨製石器を使用して双孔石包丁が共通して出土していることから、収穀率の飛躍的な増加が想像される。
龍山文化期初期には集落間の階層化と集落群の統合も行なわれていたらしく、城子崖遺跡を含む章丘遺跡群の他、東阿遺跡群・陽谷梁山遺跡群・両城鎮遺跡群などの中心集落の面積は20万uを超えている。
山東龍山文化の断絶後に、同地方に興った岳石文化は集落群が解消されて集落自体も縮小・減少し、轆轤による製陶技術も失われたが、殷王朝時代にも泰山以東で継続した。
B3000年紀末頃から急速に衰亡し、石製武器の増加や養豚の放棄、狩猟・漁労への移行など文化の断絶が認められるが、印文陶文化を共有の文化基盤としたことは、後の楚の拡大の一助となった。 楚文化は長江文明を継承して大型の青銅器や優れた漆器を伴い、曾侯乙墓はその精華の一端を示している。 未だに体系化された文字が発見されておらず、調査研究も不充分なために文明としては公認に至っていない。
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20世紀末には、湖南省道県の玉蟾岩遺跡や江西省万年県の仙人洞・吊桶環遺跡から、B14000年〜B12000年頃の、人工栽培の可能性を示す野生稲の稲籾が出土したことで、稲の起源が長江中流域に修正されるとともに、中国農耕の開始がオリエントに匹敵する独自のものであることが示唆された。
江と河、没・莫と否・非、嘴と口、牙と歯、眼と目、首と頭など、中国で同意異音語が多いのは北方アルタイ語系の黄河文明と、南方語系の長江文明が混合した結果とする見解があり、象形文字から発展した“川”に対し、“河”はモンゴル語の川“rool”に、“江”はモン=クメール語の川“kroung”に起源するという。文語の混合や文字の本格的な形成はB2000年頃に比定され、良渚文化の崩壊と時期的に一致する点が注目されている。
江南文化
河姆渡文化 B6000?〜B4500?
長江下流域では最古の稲作文化。住居は木造の高床式家屋で、多量の稲籾の堆積が出土したことから組織的な稲栽培が判明したが、野生・家畜動物の骨や木器・骨角器が多く出土していることから、半農半猟の生活をしていたとされる。標式遺跡は1973年に浙江省余姚市で発見された河姆渡遺跡。
淮河下流域一帯に行なわれた稲作文化。海岱の北辛文化と相関して発展した。標式遺跡は江蘇省淮安県で発見された青蓮崗遺跡。
馬家浜文化 B5000?〜B3500?
河姆渡文化の影響で、太湖地区に成立した稲作文化。
当初は淮河下流域の青蓮岡文化に含まれたが、1977年に独自文化と認められた。
やや高温で焼成した無紋紅陶の他に玉器が多く作られ、玉器・鼎が出土し、ブタの飼育も確認されている。
B4000年頃の草鞋山遺跡では谷状の低地に細長く展開する粗放水田址が確認され、灌漑水田への移行期とされている。
標式遺跡は浙江省嘉興県で1959年に発見された馬家浜遺跡。
ッ沢文化 B3900?〜B3200?
河姆渡文化や青蓮崗文化の影響で馬家浜文化が発展したもの。
紅陶の他に高温焼成の黒陶や灰陶だけでなく、調理器の鼎や副葬品とされた玉器が多数出土し、刻画紋や刻画符号を刻した土器片も出土している。
上海市青浦区のッ澤遺跡を標式遺跡とし、1982年に命名された。
良渚文化 B3300?〜B2000?
気候の冷涼乾燥化による太湖周辺の退水によって、ッ沢文化が発展した新石器文化。
1936年に浙江省杭州市余杭区で出土した良渚鎮遺跡を標式遺跡とする。
良渚遺跡からは外周4.5km・基底部の幅50mの城壁や、670mx450mの宮殿基壇などが発見され、単体もしくは複数の記号を刻印した土器・玉器も出土したが、囲壁集落は発見されていない。
又た発掘された墳墓群の状況などから、後期の政治的な中心は太湖北の常州市武進区の寺墩地区に遷ったと考えられている。
長江文明の極盛とされる高水準の加工玉器のほか、養蚕・絹織や麻織、竹編物、轆轤による黒陶・灰陶製造がおこなわれ、殊に鼎・壺・豆のセットを祭器として重視する伝統は、殷から漢代まで継承された。
社会の分業・階層化も進み、殉死者を伴う族長墓は王の存在した可能性を示唆し、発達した地域統合社会は中原の初期王朝成立にも多大な影響を及ぼしたと思われる。
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多くの良渚文化遺跡が洪水層の下から出土している事から、長江の大洪水で衰亡したとされ、続く馬橋文化は玉器文化を持たず、農産力や社会水準も大きく後退している。
山東龍山文化の急衰との関連も指摘され、以後の黄河文明に良渚文化の伝統が遺されていることから、江南からの人口圧が山東を経て夏王朝を成立させたという見解もある。
夏祖の禹王の会盟地や埋葬地は会稽(紹興)と伝承され、埋葬には“帰葬”と表現されるなど長江流域との縁故が強く、また禹の大事業とされる治水についても、同時代の黄河流域遺跡からは大洪水の痕跡は検出されていない。
尚お、良渚文化の終末時期についてはB2000年頃の比定が主流となっているが、山東龍山文化に良渚文化の影響が看られない事から、B2500年頃とする意見も根強い。
鄱陽文化
呉城文化 B1400?〜B1000?
鄱陽湖平原一帯に展開した青銅器文化。圏内には稲栽培の源流とされる万年県仙人洞・吊桶環遺跡が存在し、B3000年〜B2500年頃に山背文化が行われていた事も確認され、華中華南に共通する幾何印紋陶文化の核心区とされているが、文化の連続的な展開は解明されていない。
呉城文化は良渚文化や石家河文化の崩壊後に二里崗文化の影響で抬頭したもので、重要な銅鉱産地の銅嶺遺跡(瑞昌市)を有して高度な鋳銅技術や印紋陶を特色とし、盤竜城衰亡の原因を担ったとされている。
二里崗文化の影響は強いが、豊富な印文陶や釉陶のほかに原始磁器も出土し、中国磁器の源流に再考を促した。
また土器や鋳型に刻された符号の総数は170を超え、1点に12個を列記したものも出土している。
標式遺跡の江西省宜春市樟樹県の呉城遺跡の規模は4万uに過ぎず、地区的な中心都市だったと考えられる。
1989年には吉安市の新干大洋洲商墓から大量の青銅製品が出土しており、又た近年では王都址と期待される規模の都城址(61万u)の発見も報告されている。
新干大洋洲商墓 ▲
江西省吉安市の贛江中流沿岸の新干県から1989年に出土した、殷後期にあたる呉城文化二期の大規模な墓。
両面神人頭像や大鉞に代表される多数の青銅器や、玉器を含む2千点近い副葬品が出土した。
青銅製品486点中252点が武器類で、礼器49点の殆どに使用痕があり、甗や一号方鼎など、同時代最大級のものも含まれる。
絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来は西周時代に鐘が変化したものとされてきた楽器の鏄などに象徴される独創的な出土品から、青銅器文化時代における鄱陽湖地方の独自性と重要性が再認識され、『尚書』に記された苗民の社会の原型とも指摘されている。
出土した青銅器には先周文化の影響を示すものもあり、当時の渭河流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。
雲夢文化
彭頭山文化 B7500?〜B6000?
環洞庭湖一帯に展開し、土器の混和材として大量の稲籾が使用されている事から、栽培稲による水稲農耕が公認されている最古の文化。
標式遺跡の彭頭山遺跡は湖南省澧県で1980年代に発見され、面積約1万uの中国最古級の恒常的集落で、河水を利用した中国最古の環濠跡も発見されている。
同文化期後期の澧県八十壋遺跡は、3.2万uの環濠集落に発展した。
城背渓文化 B7000?〜B6000?
当初は遺物の類似性から彭頭山文化に包括されていた。
両湖平原北西の峡江地区一帯で行なわれ、土器胎土中からイネの籾殻が検出されたことで栽培稲文化に加えられた。
湖北省襄樊市宜城県で1983年に発見された標式遺跡の城背渓遺跡は前期に属し、宜昌市枝江県の枝城北遺跡は後期の遺跡とされる。
大渓文化 B4800?〜B3300?
彭頭山文化を継ぐ湯家崗文化(p市文化)と城背渓文化が融合したもので、峡江地区・両湖地区で行われた。
彩文紅陶を特色とし、末期には江南文化との交流によって黒陶・灰陶が出現し、符号の使用も認められる。
灌漑農法の確立で大規模な水稲農耕が可能となったことで集落の多くが水畔から平野部に移動したが、三峡ダムの建設によって主要遺跡の多くが水没した。
標式遺跡は四川省巫山県の大渓遺跡。
屈家嶺文化 B3300?〜B2800?
湖北大渓文化に鄂東の辺畈文化・河南の仰韶秦王塞類型文化などが影響して成立。同文化期の遺跡の殆どが大渓文化期の集落が発展したもので、轆轤製成による定型化された黒陶や、陶製の鉢、彩色した紡錘車を特色とする。
河南地方にも影響を与え、河南省浙川県の下王崗遺跡では、上層から順に龍山文化、廟底溝第二期文化、屈家嶺文化、仰韶秦王塞類型文化、仰韶半坡類型文化の積層が発見された。石家河遺跡の都城化を以て石家河文化の開始とされる。
標式遺跡は湖北省荊門市京山県の屈家嶺遺跡。
城頭山遺跡 B3100?〜 ▲
湖南省澧県東渓郷。1991年の発掘調査の結果、中国最古とされる城壁址が出現した。
都城プランは直径約330mのほぼ円形で、環濠と4基の城門や版築基壇、舗装された直交道路や運河の存在が確認されている。
石家河文化 B2800?〜B1800?
屈家嶺文化において石家河遺跡に大都城が成立した後の呼称。
環濠集落から発展した版築城壁の都市が出現し、それらの規模は6万u〜30万uほどで、江北では方形、江南では比較的小型で楕円形のものが多い。
灰陶器を主流とし、銅器もみられる。
標式遺跡でもある石家河遺跡は鄂東の大洪山南麓に位置し、1990年に湖北省天門県で発見され、基底幅50mの1400mx1100mの城壁が確認された。
加工玉器の水準は良渚文化に比肩し、出土品の造形には竜・鳳凰などの他に人頭像(神像)・獣面など独自性が看られ、総体的に宗教色は薄いとされる。城外からは夥しい彩色紡錘車のほか石器・玉器などの工場址も発見され、銅鉱や銅片の出土から冶金工房の可能性も考えられる。
B2000年頃より急速に衰えて集落群も崩壊し、後続する青竜泉三期文化からは寧ろ中原文化の強い影響が看取できるとされる。
石家河文化の衰亡は、全国的な気候変動に加えて中原勢力による断続的な攻伐によるものとされ、『呂氏春秋』などの堯〜禹による三苗討伐が該当し、『尚書』の、苗民が祭祀より刑法を重んじた旨の記述も、石家河文化に合致するという。
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石河家文化の後の湖南文化は、湖北文化と同様に久しく中原の二里頭・二里崗文化の類型的に扱われ、1958年に長沙市寧郷県の黄材で人面方鼎や四羊方尊などの特異な造形の大型青銅器が出土した際も、殷文化の地方類型と分類されたが、出土例の増加に伴い、動物型青銅器や銅鐃などの独自性が見直されて、暫定的に青龍泉三期文化と呼ばれている。
出土した大型青銅器には中国最大級のものが含まれ、鋳造技術や意匠表現などは殷文化を凌ぐとすら評される。
殊に銅鐃文化には突出したものがあり、鐃王をはじめ中原文化のものとは比較にならない大型の銅鐃が多く出土している。
広域社会の中心的な大型遺構は未発見で、出土した青銅器の殆どは山水に穿たれた埋納坑から発見されており、この風習は楚にも継承された。
四川盆地ではB3000年頃までは頻繁な洪水で平野部での定住化が進まず、遺跡の殆どが盆地周縁部から出土している。 新石器時代の四川文化は、東部峡谷地区・川西山地地区・北部台地地区に大別され、東部文化は大渓文化の類型的なもので、川西文化は遊牧色の強い定住文化であり、北部文化が後の四川農耕文化に最も強く影響を与えたと考えられている。
水害の沈静化とともに平野部への進出が開始され、次第に新津竜馬古城と広漢三星堆を中心とする二大集団に統合され、屈家嶺・石家河文化の影響を受けてB2800年頃には都城を伴う宝墩文化が出現した。 宝墩文化の衰亡で蜀文化の中心は三星堆に遷り、中原への鉛の供給を介して殷の高度な冶金技術が導入され、独特の青銅器文化である三星堆文化に発展して文明の水準に達した。 長江中・下流域の諸文化と同様に文字遺物が出土していないことが、文明と公認される上で最大の障碍となっている。
三星堆文化に続く十二橋文化が巴文化と融合したことで、独自の文字を伴う巴蜀文化に発展したが、B316年に司馬錯の指揮する秦軍によって征服された後は、秦漢を通じて大規模な植民による同化政策が推進され、西漢による滇王国征服によって四川文名は名実ともに終焉した。
宝墩文化 B2800?〜B1700?
四川省の川西平原で栄えた新石器時代晩期の文化。標式遺跡とされている成都市新津県龍馬郷の宝墩村では、古くから城壁遺構に対して諸葛亮築城伝説があったが、1995年の発掘で新石器時代の遺構と確認された。
宝墩遺跡を含む龍馬古城遺跡は1000mx600mの城壁都市で、城内からは大型建築物の基壇址も出土しているが、本格的な発掘調査には至っていない。岷江扇状地や川西平原では都江堰市の芒城遺跡、温江区の魚鳧遺跡などの中規模の囲壁集落も発見されている。
宝墩文化の凋落は、中国の他の新石器文化の衰亡に連動したものと考えられている。
三星堆文化 B1700?〜B1000? ▲
宝墩文化の衰退によって隆盛となった、広漢市の三星堆遺跡を中心とした川西文化。
三星堆に城壁都市が出現したのは龍馬古城と前後するB2600年頃とされるが、宝墩文化の衰退によって巨大都城が築かれた段階を以て三星堆文化の開始とされる。
城壁の規模は2000mx1800mに達し、同時代でも最高水準とされる多数の独特な青銅器が出土したが、初期的な金属器が発見されていない事から、殷王朝から冶金技術者が組織的に移動したものと考えられ、出土した金製品の純度86%は驚異的な数値とされる。
金器・青銅器・玉器・象牙・子安貝など多くの祭祀遺物が人工的な竪坑から出土し、発掘初期に発見された埋湮坑が三星堆文化の末期に比定されたため、当初は祭祀坑説と侵略者による廃棄坑説が拮抗していたが、年代の異なる複数の埋蔵坑が発見されたことにより、祭祀坑説が有力になっている。
中原や長江中・下流域に比べて自然崇拝的な要素がより強く、“立人像”“神樹”“縦目仮面”などに代表される青銅器製品は、従来の中国文化とはまったく異質の文化系統を示しているが、神樹については十陽神話につながる扶桑樹との強い関連も指摘されている。
十二橋文化 B1300?〜B500?
三星堆文化に続く川西文化。尖底土器を特徴としてB13世紀頃から成都方面に抬頭し、成都の金沙遺跡は三星堆王朝を滅ぼした後の政治的中心とされる。
西周文化の影響が強く、克殷を援けた代償に多量の文物が導入されたものと思われ、十二橋の宮殿址や、羊子山の100m四方の基壇址なども発見されている。
春秋時代中期頃に頻発した洪水で衰退し、東方から進出した巴人に征服されたが、川西文化は巴文化と融合して巴蜀文化に発展した。
巴蜀文化 B500?〜B316
川西の十二橋文化と東部峡谷文化の巴族文化が春秋中期頃に融合したもの。
巴族はもとは巫山山脈地方に拠り、甲骨文では“巴方”と記されて伝統的に殷王朝と対立し、しばしば武丁・婦好によって伐たれた事が確認され、殷周革命では周に与して勇猛を謳われた。
大渓文化を母体としながらも独自色の強い投剣や懸崖船棺葬などの風習を有し、殊に船棺葬は水上生活の名残とされる。
製塩によって富強となったが、楚の拡大に圧されて川東地区に進出し、やがて川西をも征服して巴蜀文化を誕生させ、B316年に秦の司馬錯に征服されるまで継続した。
巴蜀文化の特徴とされる円鉞や把槍剣は巴文化の名残とされ、懸崖葬が土葬になった後も船形棺は用いられ、長江流域の船棺葬は清代まで継続したことも確認されている。巫山地方に残った巴族は巴蛮と称され、東漢にしばしば叛抗して江夏に徙され、大別山地の巴蛮は六朝期には豫州蛮と呼ばれた。
『華陽国志』などによれば、魚鳧(=三星堆文化)を滅ぼして成都に成立した杜宇王朝(=十二橋文化)は、春秋中期に洪水に苦しんで東方の鼈霊族(巴人)に助力を求め、治水の成功で声望を高めた鼈霊族に滅ぼされて開明王朝が始められたという。
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巴蜀文字:巴蜀文化で用いられた、中国唯一の非漢字系統の文字。
印章の他に楽器や武器などにも施されたが、インダス文字同様に解読はおろか、絵文字・象形文字・表意文字・音節文字など文字系統の判別もされていない。
巴蜀文化の言語系統の特異性は、『説文解字』などでも「言語異声、文字異形」「蜀左言」と夙に指摘され、言語矯正は秦の蜀政策の最優先事項とされた。
燕遼文化
興隆窪文化 B6200?〜B5400?
東北地方南部の新石器文化。中国最古の玉器文化でもあり、狩猟採集を主力として牧畜・農耕が併用された。
標式遺跡とされる興隆窪遺跡は内蒙古自治区赤峰市東部の敖漢旗から出土し、24万uの敷地に百棟近い竪穴住居を伴う環濠集落で、当時の中国では最大の地域人口を擁していたと推測されている。
又た阜新査海遺跡からは、全長19mの竜形遺跡や赤色竜の浮彫を施した土器など、中国最古級の竜の造形や玉器が出土し、これらは趙宝溝文化を経て紅山文化で最盛期となった。
紅山文化 B4700?〜B2900?
西遼河上流域に展開した、彩陶と細石器が行なわれた新石器文化。竜の造形と発達した玉工芸を特色とし、天円地方思想と共に後の黄河流域文明に多大な影響を与え、後期地層からは青銅製品も出土している。
最大の遺跡は遼寧省朝陽市の牛河梁遺跡で、多数の精巧な玉器を伴う大規模な女神廟や祭壇などが出土したが、大廟の出現は農耕経済の発達や、近隣集落との合作が予想され、政治的中心核や三層以上の階層社会の存在を示唆している。標式遺跡は内蒙古自治区赤峰市の紅山後遺跡。
紅山文化に続く小河沿文化では大規模な遺跡・遺構は未発見で、紅山文化は断絶したものと考えられている。
甘青文化
馬家窯文化 B3800?〜B2000?
甘青地区の新石器時代末期の文化。甘粛彩陶文化とも。多数の彩陶に青銅器を伴い、関中の仰韶文化が現地で発展したものとされ、石嶺下類型(B3800〜B3100)・馬家窯類型(B3100〜B2700)・半山類型(B2700〜B2300)・馬廠類型(B2300〜B2000)に分類される。
標式遺跡は甘粛省定西市臨洮県で1923年に発見された馬家窯遺跡。
斉家文化 B2400?〜B1900?
1923年にアンダーソンによって甘粛省広河県で発見された斉家坪遺跡を標式遺跡とする、甘粛東部の金石併用期文化。
発見当初は陝西・河南の彩陶文化の母体と考えられた。
陝西龍山文化客省荘類型の影響が強く、アワの栽培や家畜の飼育、甲骨による卜占などが確認され、文化遺跡は武威市や湟河流域・寧夏回族自治区でも発見されている。末期には東方に縮小して人口も激減し、農耕経済から牧畜経済への大転換が進行した。
喇家遺跡 ▲
青海省東部の民和自治県官亭鎮の新石器文化遺跡。B2000頃の大地震による黄河の決壊で水没し、2000年に発見された。
泥中での密封状態で発見されたことで“東方のポンペイ”とも称され、玉器や磬を含む多くの遺物が当時の状態を保っていたことで極めて重視され、殊に2005年に出土した麺類の遺物は世界最古とされている。斉家文化との関連が考えられている。