西周  東周
 
 禹を開祖とし、17世代33王目の桀に至って殷の湯王に滅ぼされたとされる、中国最初の世襲王朝。 劉歆や『十八史略』は629年、『竹書紀年』は496年続いたとする。 は帝舜の時代に黄河の治水に成功し、その功績で舜から譲位されたという。 文字遺物が未出土の為に公認されてはいないが、王朝と同一視される二里頭文化の諸遺跡の多くが晋南豫西に存在することから、同地方に製塩によって殷に先行して成立した初期王朝が存在していた事はほぼ確定視されている。
 尚お、禹にかかわる伝説の多くが長江下流域に発祥し、禹が各地に課したとされる貢納品の殆どが長江流域の産物である点や、洪水伝説との時期的な一致などから、洪水によって滅んだ良渚文明の遺民による文化的刺激が建国の要因になったとの説があり、春秋時代末期に太湖地区に勃興したとの関連を認める見解もある。
 

 ?〜B1023?
 とも。子姓。現在公認されている最古の世襲王朝で、概ね奴隷制社会として認識されている。 殷の名称は、王朝が殷(安陽)に遷都してからのものと説明されるが、“商”は、の“郢”と同様に各王都に共通する冠称で、広域勢力としての自称そのものが甲骨文からは確認できず、周代に至って初めて国名として“殷”が用いられた。 『尚書』では一貫して“商”とあり、現代中国では“商”“殷商”と呼んでいる。
 王朝の前期・中期は豫東を、後期は北渡して冀南を王畿とし、安陽から出土した甲骨文によって、後期の約200年間の史実が確認されている。 鄭州商城の放棄以降は頻繁な遷都に象徴される政権の弱体化が著しく、安陽遷都の後に回復して巴地方や斉〜徐へも遠征したが、東方遠征中に西方のに急襲され、牧野で敗れて壊滅した。 尚お、克殷の年代については諸説あり、近年の中国の夏商周年表プロジェクトはB1046年としている。
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 殷の王族は、王の選出資格を持つ十干に対応した10氏族の連合によって構成され、神話の十日伝説とも密接な関係があり、干内婚と族外婚の禁止によって純血を保ち、殊に甲・乙・丁族が有力だったとされる。 伝えられている系譜上の血縁は、甲骨文の解釈によれば部族全体を一家族と見做した擬似的なものとなるが、異論も多く、定説には達していない。
近隣諸国(邦国/方国)とは主に婚姻を通じて都市国家群連合を形成して中原を支配し、その文化は湖北や四川・江南にも及んだ。
 殷末〜西周は中原の青銅器文化の全盛期にあたり、特に殷墟時代の青銅器には、同様の製法では現代でも再現不可能とされる物も存在する。
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 牧野の役で壊滅したのは紂王を核とした支配中枢に限られ、東方一帯の残存勢力はなお周に拮抗し、洛邑に造営された成周城の当初の目的も遺殷の監視にあったとされる。 周初に興殷を唱えた三監の乱は、遺殷勢力の呼応で容易に鎮圧されず、戦後に殷の遺民は王族の微子と、周の王族の康叔に分割支配され、周の支配を拒む勢力は定住せずに交易=行商に従事するようになり、商人の語源になったとも伝わる。

湯王
 成湯。諱は履、廟号は天乙。夏王朝の有力諸侯で、次第に衆望を集め、鳴条で夏の暴君桀王を大破して江東に放逐し、殷王朝を開いたとされる。 「その徳は禽獣にも及ぶ」と讃えられ、周の文王などとともに理想の君主の一人とされる。 清朝末期に王国維によって、卜辞の大乙・唐と同一人物であることが考証され、現在のところ史料によって実在が確認できる最古の君主とされる。
 また湯王の時代、王都では象や鯨が飼われていたことが遺物の出土で明らかとなっている。

伊尹
 湯王を輔佐したとされる賢相。はじめ庖人(料理人)として夏王朝に仕えたが、桀王に絶望して亳に戻り、湯王の腹心として覇業を輔けたという。 湯王の死後も歴王に仕えて王朝の基礎を固め、太甲の嗣子/沃丁の時代に歿した。
 『竹書紀年』では、太甲から簒奪したものの後に太甲に討滅され、遺領には伊陟ら諸子が分封されたとあるが、伊尹の祭祀が続けられたことは甲骨文でも確認されているため、信憑性に欠ける。尚お、伊国の由来を伊水とし、その後身を洛邑とする見解がある。

太甲
 第四代君主。湯王の嫡孫。即位当初は素行が治まらず、伊尹によって湯王の殯宮である桐宮に放逐されたが、改心を認められて3年後に復位した。 善政につとめて国威を保ち、死後に太宗と諡された。

太戊
 第九代君主。中宗。伊陟・巫咸らの賢臣を任用し、中興の祖とされた。伊陟は伊尹の子孫という。

祖乙
 第十三代君主。耿に遷都し、巫賢を登用して国勢を回復させた。

盤庚
 第十九代君主。『史記』によれば、湯王の故都亳(鄭州)に還遷して綱紀を正し、王朝を再び繁栄させたという。 現在では、『竹書紀年』の「奄から北冢に遷り、滅商まで徙らず」との記述が圧倒的に信頼されているが、殷墟出土の甲骨文が武丁以降のものであることや、殷墟自体の機能が疑問視されている事から、「武乙の代に亳より河北に徙った」とする『史記』の記述も再考を要する問題となっている。

武丁
 第二二代君主。高宗。卜夢によって刑徒の中から賢人傅説を見出し、政務を一任した。 近畿勢力の制圧で王権を再建した後、次第に遠方の“方国”を伐って国威を昂め、最後の中興を実現したと記される。 近年の研究によって、巴東の巴族政権を数次の遠征で屈服させたことなどが確実視され、皇后の婦好は記録上最古の女将軍とされる。

武乙
 第二七代君主。『史記』によれば祖祭と天神を蔑する無道の君で、亳から河北へ遷都し、狩猟中に落雷で即死したとされる。 武乙の祭祀方式は殷の伝統とは異なる自然崇拝にあり、そのため祖制を重んじる後代から暴君として描かれたものとも考えられる。
『竹書紀年』によれば、周の季歴と同時代で、参朝した季歴に土地を下賜したとしたとある。 又た、次代の文武丁(太丁)は、季歴を処刑したと記されている。

紂王
 第三十代君主。帝辛。“紂”は儒家による蔑称。祖祀を乱し、有蘇氏から献上された妲妃を盲愛して“長夜宴”“酒池肉林”に代表される遊興に耽り、“炮烙”“蠆盆”などの酷刑や苛斂誅求で人心を失い、姫周を盟主とする諸侯連合に滅ぼされたという。 儒家によって夏王朝の桀王と並称される典型的暴君と決めつけられ、“桀紂”は暴君の代名詞とされた。 『史記』では、猛獣と格闘し、自身の非行を修飾して臣下の諫言を封じられる程の才能を持っていたとある。
 甲骨文によれば、先代の帝乙とともに正統な祭祀を行ない、しばしば奴隷獲得と勢力拡張の為に淮夷に遠征したことが記されている。 度重なる遠征は厭戦気分を蔓延させ、東方偏重の政策が西方の後進国である姫周の拡大をもたらし、東征中に姫周に急襲されると先鋒の淮夷兵が離叛し、牧野で大敗して滅ぼされた。

費中・悪来
 ともに阿諛追従で紂王に認められ、讒言・中傷・汚貪など侫臣のあらゆる悪徳を備え、殷の滅亡に少なからぬ責任を負わされた。 悪来は剛力でも知られ、の遠祖とされる。

微子啓
 紂王の庶兄。『史記』では景帝の諱を避けて‘微子開’とある。紂王をたびたび諫めたが聴かれず、殷を去った。 三監の乱の後にに封じられ、殷の遺民の半ばを統治した。

比干
 紂王の叔父。殷の宰相であり、強諫を紂王に憎まれ、「聖人の心臓には七孔がある筈」と心臓を抉り出されて殺された。 桀王を諫めて殺された関龍逢としばしば並称される。

箕子
 紂王の叔父。紂王をしばしば諫めて聴かれず、比干の処刑後は狂人を装ったものの投獄されたが、後に周の武王に顧問として遇された。後世、朝鮮に封じられたとの説話が生じ、箕子朝鮮伝説は中国の高句麗征服の口実とされた。

 

孤竹国
 冀北の方国。殷とは姻戚関係にあり、姜族とも通婚があった。 伯夷・叔斉を助命した太公望呂尚は、この姜族の族長家の出といわれる。

伯夷・叔斉  ▲
 孤竹国の王子。伯夷は父の意を察して弟の叔斉に譲位して出奔したが、叔斉も長幼の順に背くことを嫌って兄を追い、ともに周の西伯昌を頼った。 当時の周はすでに武王の時代で、東征途上の武王を、父の喪中の軍事が不孝不忠であると諫めたが聴かれず、姜子牙から「賢人である」として助命され、克殷の後は首陽山に篭って周の糧を拒んで餓死した。 孤竹国からの出奔と、紂王討伐を否定したことは民衆の存在を無視した行為ではあったが、孔子・孟子・司馬遷らからは至徳の賢人として絶賛された。

 
 

西周

 B1023?〜B772
 姫姓。はじめ半農半猟を営んでいたが、近縁の姜姓集団との通婚を保ちつつ、安陽文化期には汾河下流域の豳に移って定住社会に移行した。 古公の代に岐山に遷って勢力を増し、孫のの時代には殷から方伯とされ、殷の東方経略に乗じて次第に東進し、昌の子の発が武王を称して殷を滅ぼした。
 関中鎬京を宗周城として旧領統治と宗廟祭祀の中心とし、洛邑に王城・成周城を造営して東方支配の拠点とし、三監の乱を克服した成王の時代に統治体制がほぼ整い、昭王・穆王の代には漢水・長江中流域に遠征するなど最盛期を現出した。
 西周時代は殷の安陽期に比して文字史料の出土が圧倒的に少なく、王墓が未発見なこともあり、成王を襲いだ康王以降の実態も殆ど判明しておらず、金文や諸史には攜王・休王・夨王などの名も確認されている。 拡大の停止と体制の硬直化で次第に王室が弱体化し、財政強化を図った脂、は法治を強めて国人に追放され、中興と称される宣王も晩年には中央集権化で失敗した。 幽王が失政の末に玁狁に敗死したことで宗周政権は中絶し、関中の攜王と成周の平王がそれぞれ諸侯の支援で並立した。

亶父
 周王朝の始祖。古公とも。周辺諸族や殷の圧迫を避けて汾河下流域の豳から岐山麓の周原に遷り、都市国家を形成して周方興起の基を築いた。 孫の昌(文王)の大器に夙に着目していたという。

季歴
 亶父の末子。太王。両兄の太伯と仲雍が、季歴の子の昌に期待する亶父の意を察して出奔したことで首長となったという。 亶父の業をよく継承して周を発展させ、殷からは西面の方伯と認められ、文王武王の覇業を準備した。 『竹書紀年』では、殷王武乙の時代に拡大して牧師とされたが、急速な発展を警戒した文武丁(武乙の子)に処刑されている。

姫昌
 季歴の子。諡は文王。領地争いの調停を依頼に来た方君が、周人が道を譲り合うことに愧じて帰ったという逸話に象徴されるように、夙に寛仁の賢者として近隣諸侯に心服されたという。 対立する周辺勢力を征服して大勢力となっており、紂王から西伯の称号を与えられた後は殷の歴王を祭祀していたことが、周原出土の甲骨文で確認されている。 岐山から豊邑に遷り、姻族である姜族の族長の姜子牙との提携を強化し、国力を涵養しつつ殷の西方領を蚕食したが、東征の準備中に病死した。

武王
 初代周王。諱は発。文王の長子。 父同様に姜子牙を師父とし、諸方と同盟して紂王の東征に乗じて朝歌を攻略し、牧野で紂王を撃滅した。 戦後、洛邑を行宮として東方の鎮撫に注力したが、殷の遺民に対しては紂王の遺児の武庚を朝歌に封じて懐柔せざるを得ず、弟の叔鮮・叔度を管・に封じて武庚の監国とし、姜子牙と甥の伯禽を斉・魯に封建して東夷・淮夷を警戒したが、3年程で病死した。

姜子牙
 太公望、呂尚とも。姜姓呂氏。子牙が字とされる。の開祖。 姜族の族長と思われ、文王に通じ、武王と挟撃して克殷に大きく貢献した。 克殷後は本領である営丘に封建されたが、西南の魯には伯禽が封建されていたことから、多分に警戒されていたものと思われる。
伝説的な軍師として漢の張良と並称され、兵書『六韜』は呂尚の著作として伝えられた。
姜姓族は姫姓族とは族外婚の関係にあり、姜姓族は殷の与国の孤竹国とも姻戚関係にあったことから、克殷後の警戒につながったとの説があります。 又た殷から祭祀奴隷(生贄)の供給源とされた羌族と姜姓族を同一視する見解もありますが、事実関係は不明です。

成王
 第二代周王。諱は誦。武王の子。幼少で即位したことで周公旦に後見された。 三監の乱を平定した後は召公・畢公らの輔佐もあり、東方経略の拠点として洛邑に王城・成周城を造営して中原支配を確立し、一族功臣を各地の交通の要衝に封じて藩屏と植民基地を兼ね、冀北や淮河流域まで勢力を拡大した。

三監の乱
 殷の武庚・管叔鮮・蔡叔度の叛乱。叔鮮と叔度は成王の叔父で、殷人を治める紂王の遺児の武庚を監視していたが、幼少の成王を後見する周公の簒奪を猜疑し、武庚を擁して挙兵したもの。 殷の遺民の他に淮夷などの東夷諸族も加わり、践奄の役に発展して周は鎮圧には3年を要したが、結果的に殷の遺勢の分断・弱体化に成功して東方支配を確実なものとし、諸侯封建が本格的に進められた。

管叔鮮  ▲
 武王の弟。管(河南省鄭州市)に封じられ、兄弟の叔度とともに武庚を監視したが、武王の死後に周公旦の簒奪を疑い、あるいは自ら簒奪を図って叔度とともに武庚を擁して挙兵し、敗死した。

康叔封
 武王の弟。の開祖。三監の乱が鎮圧されると、康から朝歌に転封されて衛侯とされ、殷の遺民の半ばを統治した。成王が親政をはじめると司寇とされた。

周公旦
 諱は旦。武王の弟。主に内政面で武王を輔けて周(陝西省岐山)に封建され、武王の死後は召公とともに成王を後見して三監の鎮圧にも成功した。執政7年で成王に国務を奉還し、以後も国政全般に大きく関わって周の中原支配体制を確立した。 孔子が理想とした人物で、旦の直系は周公として中央貴族に列し、長子の伯禽は東方の魯に封建された。

伯禽  ▲
 周公旦の長子。武王よりに封建された。魯では周制の徹底を図って3年で初めて上京し、斉に封建された姜子牙が現地の風俗に周制を適合させて半年で上京したことと比較した周公が、魯がいずれ斉に制せられることを予知したという。 魯の公室では後々まで周制である長子相続が定着せず、両開祖の周制の用い方は、後世の勢力比から創られた寓話に過ぎない。

召公奭
 武王の弟で、の開祖とされる。はじめ召に封じられ、克殷後は中央で周公とともに成王を後見し、陝西(=関西)の治安を担当したという。成王親政の後は太保とされ、成王が歿すると諸侯を説いて康王に忠誠を誓わせた。
 近年の研究では周とは異姓であり、豫西を占めた方伯国の君長で、召方の動向が克殷の決定的な要因になったとされる。克殷後は匽(河南省郾城県)に封じられ、周公の簒奪を猜疑したものの、践奄の役を援けて北燕(北京)に封邑を増した。

唐叔虞
 武王の子、成王の弟。の開祖。周公旦が唐の叛乱を平定した際、成王が戯れに、桐の葉を珪(封建の証)として虞に与え、後に「王に戯言なし」として太史官が虞の封建を要請し、周公旦にも支持されて唐に封建された。
 嗣子の燮の代に国号を晋と改めたとされるが、国号のみの改変か首邑を変えたものかは不明。

康王
 第三代周王。諱はサ。成王の子。成王と併せて40余年間の治世は、刑罰を用いない太平の世だったと称される。 金文史料によれば、康王の世にも征伐が多く、康王の時代に周による支配と諸侯封建が完成したと考えられる。

昭王
 第四代周王。諱は瑕。康王の子。即位直後に発生した淮夷の乱を平定し、充実した国力を背景に、数次の南方経略が起こされて東夷26邦を従わせ、燕の旧都(琉璃河遺跡)や山西の晋侯墓の造営も行なわれた。
 『史記』では南方巡狩から帰ってこなかったとあるが、早くから楚に遠征して戦死したとも、漢水で溺死したとも伝えられ、斉桓公の楚成王に対する問責でも、昭王の消息不明が挙げられている。

穆王
 第五代周王。諱は満。昭王の子。B10世紀前半を中心に55年間の在位が伝えられる。 『史記』によれば、穆王が即位した頃には王室は徳と国勢が衰え、西巡中に徐国が叛いたり、犬戎討伐を強行したことで入朝しない諸侯が現れ、甫侯の建議で始められた甫刑(呂刑)や金銭による免罪などで国人の信頼を大きく失ったとされる。
 実際には、昭王の拡大政策を継続し、穆王の西征は後に伝説を生じた。 又た甫刑や免罪銭の制定は、諸侯封建による直轄地からの租税の減少、富の集中と階級格差の拡大など、社会の変質が進んでいたことを示唆している。
 昭王・穆王の治世が周の事実上の最盛期にあたることは、当時の青銅器の紋様や文体にも反映されているが、外征の連続と階級格差の拡大で醸成された諸侯や国人との不和が、『史記』の記述に繋がったものと推察されている。

夷王
 第九代周王。諱は燮。穆王の子。『史記』では紀侯の讒言によって斉哀公を烹殺したとある。 斉討伐を示す金文史料もあることから、諸侯に対する威信回復を図っていたと思われる。 又た兄の懿王同様に東夷・淮夷の統制を重視した。

脂、  〜?〜B842〜B828
 第十代周王。諱は胡。夷王の子。『史記』によれば、貪婪と称される栄夷公を卿士に抜擢したことで収奪・賄賂が横行し、国人の批判が高まると密告を奨励し、「国人は道に目して語らず」とある。B841年に国人に叛かれて追放され、14年後に彘(山西省霍州)で歿した。
宗周鐘の金文によれば、外征を行なって淮河流域の東夷・淮夷を朝貢させており、脂、の政策は王室の威信回復と、穆王以来の懸案とされていた社会改革を同時に行なったものと思われるが、貴族層と新興階級の調整を軽視して性急かつ強引に進めた事が失敗につながったものと考えられる。
 脂、の追放後は共伯和が執政し、共和時代と呼ばれる。

宣王  〜B828〜B782
 第十一代周王。諱は静。脂、の子。脂、の死を以て即位した。国威再建につとめ、尹吉甫を宰相として北狄を、方叔・召伯虎を将軍として荊蛮・淮夷を討伐するなど武威を回復したが、魯の襲爵に介入したことで諸侯の信を大きく損なった。 後に外征が劣勢に転じると中央集権・専制体制の強化を図って戸口調査を強行し、又た籍田令の廃止なども国人・諸侯の不満を増し、これが次代の幽王に対する諸侯離叛の伏流になった。

仲山甫  ▲
 宣王の臣。外征での損兵補充のために戸口調査を図る宣王を諫めたが、聴かれなかった。 又た入朝した魯の2公子のうち、を世子とすることを諫め、これも聴かれなかった。

幽王  〜B782〜B772
 第十二代周王。諱は涅。宣王の子。貪官として知られる虢石甫を任用して諸侯や国人の信を失い、又た褒姒を盲愛して諸侯・国人を酷使したという。 申后母子を廃して褒姒母子を后・太子とした為、申后の父の申侯に煽動された犬戎によって宗周を陥され、驪山、或いは戯に逃れて殺された。
褒姒の笑顔を求めて緊急用の烽火・太鼓を濫用したために、犬戎が侵攻したときにも諸侯の来援がなかったという伝承は、褒姒の存在を含めて後世の付会とする見解が優勢となっています。 幽王の悪政を明示する史料も無く、脂、以来の懸案の集権化や財政策をめぐって、虢公を代表とする側近勢力と申侯・鄭侯ら諸侯との反目が尖鋭化していたところへ犬戎に侵攻されて壊滅したもので、申侯の背信すら懐疑する見解もあります。 『竹書紀年』では、幽王を敗死させたのは玁狁とされています。

 

東周

 B770〜B256
 犬戎に敗死した幽王の廃太子(平王)が、諸侯に擁立されて成周に再興した政権。 王室は自立化に進む諸侯を統制する実力に欠けたが、桓王繻葛の役で鄭に惨敗した後も統一と権威の象徴として存続し、有力諸侯が王室公認で諸侯を束ねる覇者の時代となった。 戦国時代には完全な都市政権に没落し、更に東西に分裂してB256年頃に秦に滅ぼされた。
 旧来、この時代には公・侯・伯・子・男の五等爵が行なわれたとされるが、『詩経』『書経』や“金文”には公・侯・男のみが現れ、公は殷の方伯に比定される有力諸侯の称号として爵位的な世襲は疑問視され、又た男は国人に対する呼称とされている。 殷の方=邦は都市群の首長、方伯は方の盟主であり、この点から、周は殷の間接統治を模倣・強化しただけという意見もある。

攜王  〜B772〜B759
 諱は余臣。幽王の子と伝えられる。『竹書紀年』や金文では確認されていたが、『史記』には現れないことで長らく知られなかった。 犬戎の難で幽王が敗死すると、攜で西虢君らに立てられ、程なく鎬京で称王し、成周で申侯ら東方諸侯に立てられた平王と並立した。 後に西虢が平王に臣従したため、晋の文侯に滅ぼされた。
この虢と晋の動向の対比は、この先300年以上続く成周との確執のイントロとして、「周を援けた晋」という伝統のスタートに見せようとしているような気がしなくもありません。なんたって『竹書紀年』ですから。 そういえば晋での曲沃による簒奪を邪魔したのも周と虢でしたか。
 平勢隆郎氏によれば、戦国魏の紀年で書かれた『竹書紀年』の「晋文侯二一年、攜王を殺す」を、無条件で晋が主語だと解釈することが間違いだそうで、この年に製作された青銅器=虢季子白盤の「平王十二年正月、虢季子白、玁狁討伐の功を以て盤を作る」的な記事は、成周に対抗する西方勢力を一括して玁狁と蔑称していた可能性があり、玁狁=攜王ではないかとしています。さすがにちょっと無理がありますが。
因みに、秦が岐西を献じて封建されたのは攜王が滅ぼされた後の事になります。

平王  〜B770〜B720
 東周の初代君主。諱は宜臼。幽王と申妃の子。犬戎の難では申侯・鄭君・魯君ら東方諸侯に護られて成周で即位し、鎬京攜王と並立した。 B759年に攜王を滅ぼしたが、王室の再興と統一が諸侯主導であることは明白で、宗周一帯に対しても号令は及ばず、西戎でも開明的なを封建した。
 『春秋』は平王49年から記述されるが、通常は平王の東遷以降を春秋時代とする。

桓王  〜B720〜B697
 第二代君主。諱は林。平王の孫。王権の再興を図り、B718年に晋の内乱制圧に成功したが、鄭に対しては威信の確立に失敗したばかりか、魯との無断での祀邑交換や朝覲拒否などが行なわれ、鄭への懲罰を唱えたB707年の繻葛の役では、蔡・衛・陳を率いながらも大敗して肩を負傷し、王威の凋落を天下に明示した。 B704年に再び虢に晋の内訌を鎮めさせ、B691年には衛を逐われた公子黔牟を保護した。

荘王  〜B697〜B682
 第三代君主。諱は佗。桓王の子。B693年に王弟の克を擁した周公黒肩の謀叛が露見し、黒肩は誅したものの克は燕に亡命した。 晩年には王子穨を鍾愛したため、穨の勢力は太子に匹敵するものとなり、孫の恵王の時代の政治的混乱をもたらした。

恵王  〜B677〜B652
 第五代君主。諱は閬。荘王の孫。即位後、大勢力となっていた穨派を圧迫したが、桓王のときに衛の公子黔牟を保護したことが原因となり、B675年に穨らの乱に応じた衛に王都を逐われ、鄭の櫟に居した。 B673年に鄭・虢が穨を滅ぼして還都したが、虢にのみ爵を与えて鄭には与えなかった。 晩年には少子の叔帯を鍾愛し、次の襄王の時代に王室は更に衰弱した。

襄王  〜B652〜B619
 第六代君主。諱は鄭。恵王の子。異母弟の叔帯による簒奪を警戒して圧迫し、B649年に戎狄と結んだ叔帯に叛かれた。 叔帯は敗れて斉の桓公を頼り、戎狄は斉の管仲に鎮圧され、後に叔帯は赦されて帰国した。 B636年に叔帯によって放逐され、晋の文公の助力で叔帯を滅ぼして還都すると、文公を覇者と公認した。 B633年に文公が主宰する践土の会盟に招かれて列席したが、『春秋』ではこの事を忌んで「王、河陽で狩す」とある。

敬王  〜B520〜B477
 第十四代君主。諱は匄。景王の子。景王の死歿当時は庶長子の朝と嫡長子の猛が継嗣を争い、猛(悼王)が朝に敗死すると、匄は晋の後援で称王した。晋の介入の本格化によって優勢に転じ、B516年には朝を楚に逐って成周城に入り、B505年に朝を暗殺させて翌年の朝派の造叛を惹起したが、B502年に晋の後援で平定した。

考王  〜B441〜B426
 第十九代君主。諱は嵬。父の貞定王の死後に長兄の去疾(哀王)が立ったが、3ヶ月で弟の叔(思王)に殺され、考王はこの兄の叔を殺して即位した。 弟(桓公)を河南に封じて周公の官職を復活させた。
  ▼
河南の周は次第に勢力を加え、第三代の恵公が末子を東部に封じたことで西周と東周が並立した。

威烈王  〜B426〜B402
 第二十代君主。諱は午。考王の子。B403年に趙・魏・韓を諸侯として承認した。『資治通鑑』では、この威烈王23年を戦国初年としている。

  〜B315〜B256/B256?
 隠王とも。周の末王。洛陽周辺の王畿一帯を保有するのみで、それも王城(洛陽市区)の西周君と鞏(鄭州市鞏義)の東周君に二分され、周王は王城に依って王権は無に等しかった。 しばしば韓と結んで合従・連衡を模索したが、B256年に連衡に背いたことで秦に伐たれると西周君とともに邑と国人を悉く献じ、間もなく歿した。 降伏時には36邑と3万人を保つにすぎず、東周もB249年には秦に征服された。


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