朝鮮

 鴨緑江・豆満江を挟んで中国東北部に東接する半島の地域・文化・国・民族名。地名としての朝鮮の範囲は時代によって変遷があり、古くは鴨緑江の西側とされたが、戦国燕の東方経営によって鴨緑江の西側を真蕃、東側を朝鮮と呼ぶようになった。 半島北西部には戦国時代末期から漢人の流入が増加し、B2世紀初頭に燕王盧綰の遺臣が亡命政権が建ててより一帯を朝鮮と呼ぶようになったが、半島全域を指すようになるのは近世以降のこととされる。雅称として青丘・韓・鷄林なども用いられる。
 半島北部はB2世紀末に漢に征服され、30年程で漢の支配は平壌を中心とした平安道地方に縮小したが、政治的刺激によって韓族が居住する南部でも部族国家の形成が進み、習俗や地勢によって馬韓・弁韓・辰韓の三韓が成立した。 高句麗の拡大に対応して三韓から百済新羅が成立し、7世紀に新羅によって統一された後は高麗李朝と長期王朝が続いた。 韓族は新羅時代には半島北部にも進出したが、北方のツングース系との混血を進めつつ半島全域に広がったのは李朝後期とされ、これが現在の朝鮮人の直接の祖とされる。
 諸王朝は文化面でも中国王朝を宗主国としたために大陸の情勢に国運を左右され易く、小中華思想と共に事大主義と呼ばれる独特の外交姿勢を涵養し、遼・清や日本も外交面で事大主義の理解に大いに苦しんだという。 近代日本の介入と東西冷戦の影響で北の朝鮮民主主義人民共和国と南の大韓民国が分立し、事大主義は北朝鮮に於いて尚おも健在している。
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 半島南部は比較的平野部に恵まれて農耕に適していたものの、山脈や丘陵・河川に分断されて政治的な統合が容易に進まず、分権傾向の強かった新羅が半島を統一した事で地方豪族の支配力が長く保たれ、外敵の侵入に対しては豪族の独断で頑強な抵抗戦を展開することも多かった。 隋唐やモンゴルが直接支配を断念し、豊臣秀吉の日本軍が失敗したのも地方豪族の抗戦によるところが大きく、中央権力が郷村に及ぶようになったのは近代になってからとされる。 朝鮮の文化は中国文化の影響を強く受けて儒教・仏教が主流だったが、独自のものに昇華させることに成功し、その代表が新字でもあるハングルの創設といえる。 又た近年ではキリスト教の拡大が著しく、社会的にも政治的にも無視できない勢力を形成している。
三韓  百済  新羅  高麗  李朝
 

檀君朝鮮
 神話時代の朝鮮。檀君は天神の子と熊神の間で地上で産まれた半神と伝えられ、阿斯達(平壌)の王倹城に拠って初めて朝鮮と称し、1500年後に箕子に国を譲って阿斯達の山神になったという。 朝鮮の建国は中国堯帝の即位50年目(B2333)にあたるとされ、朝鮮の檀君紀元はこれに基づいている。 檀君神話は高句麗や日本に共通する天孫降臨神話の類型とされ、熊に対する信仰も民間伝承としてユーラシア北部〜北米に広く分布する。
 檀君神話は高句麗の後期以降に成立したものと推測されているが、一般に広く浸透したのはモンゴルの侵攻に直面した13世紀頃とされ高揚する民族意識の象徴として定着したらしく、現在では北朝鮮では史実とされ、韓国でも何らかの史実を反映した伝承として扱われている。 又た高麗王朝のみならず高句麗や新羅・百済とのつながりにも言及していない点に、民間で発展した側面が看取される。

箕子朝鮮
 中国殷王朝の王族の箕子が、殷を滅ぼした周によって封じられたとされ、B2世紀初頭に中国から亡命した将軍満に滅ぼされるまで43代続いたと伝えられ、馬韓に逃れた末王の準が韓王となったとの説も生じた。
 箕子伝説は『史記』では言及がなく、1世紀に『漢書』で紹介されてより中国での東方仙山崇拝と相俟って急速に成長し、三国魏の頃には箕子朝鮮の王統や中国との関係史まで偽造され、隋唐の朝鮮支配の名目とされただけでなく、歴朝の事大主義の源泉の1つとなった。 箕子伝説は儒教の流布と尚古思想が発展した高麗時代に広く定着し、李朝は中国明朝の冊封を受ける際に箕子朝鮮を先例として自治を主張し、更に朱子学の発展と相俟って政策的に史実として公認され、箕子にまつわる様々な遺跡も捏造された。
 近年では中国の東北工程に対する反感から全くの創作として否定され、箕子伝説は寧ろ中国で肯定され、日本では史実をある程度反映した伝説と見做されている。

衛氏朝鮮  〜B108
 西漢前期の朝鮮北部にあった政権の俗称。開祖の満は漢の燕国の将軍で、B195年に燕王盧綰が討たれると浿水(清川江)を渡って朝鮮に逃れ、在地勢力を征服してB190年ごろ王倹城(平壌)に拠って建国した。 漢に対しては遼東郡を介して称藩したが、周辺諸族の征服を進めて朝貢を妨害し、孫の右渠の代には遼東の支配を漢と争った為、B108年に楊僕らを将とする漢軍に滅ぼされた。
 漢は朝鮮の地に楽浪・玄菟・臨屯・真蕃の四郡を設けて直轄化を図ったが、在地勢力の抵抗によって間もなく縮小し、平壌地方の楽浪郡に機能を集中して実質的に撤収した。朝鮮四郡については半島北半を支配したとする説と、半島全域を支配したという説がある。 又た開祖の満は『史記』では「将軍満」とあり、『三国志』によって初めて衛氏と言及されている為、衛の意味を辺涯とする見解もある。

 

三韓


 古代朝鮮半島南部の、諸小国家群の総称。半島南部での部族国家の形成はB1世紀頃より始まったと考えられ、小白山脈を分水嶺に習俗や言語の差異によって山脈以西を馬韓、以東を辰韓、半島南辺を弁韓と大別した。 これらを三韓と総称したが、それぞれの内部では地勢上の制約から統合が進まず、部族連合体として勢力を形成した。

馬韓 :慕韓とも。半島南西部の50余の小国から成り、漢江・錦江流域平野にあたる現在の京畿道・忠清道・全羅道にほぼ合致する。 可耕平野部が多く大国で1万余戸、小国でも数千戸を有し、中国との通交にも便利だった為に最も早く発展し、北部の伯済国を中心に国家連合が進んで4世紀頃に百済王国が成立し、6世紀中に百済による統合が完成した。辰韓・弁韓とは言語が異なり、住民も強悍だったと伝えられる。

辰韓 :秦韓とも。洛東江流域平野を中心とした現在の慶尚北道に重なり、12の小国があって大国で数千戸、小国は1千戸に満たず、言語は弁韓と類似していたという。 平野に乏しく発展が遅れ、4世紀初頭に楽浪・帯方両郡が壊滅したことを機に統一の機運が昂まり、西端の斯盧国を中心として新羅王国が成立したが、馬韓や倭の影響が強かった。

弁韓 :現在の慶尚南道・全羅南道南東部にあたり、習俗・言語や国家規模は辰韓とほぼ同じで12の小国が数えられ、辰韓と併せて“弁辰”とも呼ばれた。 豊富な産鉄で知られたが、傾斜の緩慢な洛東江で頻発する水害や、丘陵の点在など地理的な制約が多かった為に畢に統一政体に発展する事がなく、伽耶連合を形成した。

 

伽耶


 加羅とも。半島南部の洛東江流域一帯の弁韓諸国の後身にあたり、同地域の諸国連合の総称でもある。 駕洛国の後身の金官国(慶尚南道金海市)を中心として3世紀頃に諸国連合が形成されたものの、地勢上の制約などから政治的統合が進まず、5世紀には金官国に代って伴跛国(慶尚北道高霊郡)が大伽耶として抬頭した。 6世紀になると百済・新羅の進出が著しく、512年に4国が百済に、532年には金官国が新羅に併合され、百済と結んで新羅に対抗したものの562年に大伽耶が降伏して加羅地方は新羅に併合された。
 伽耶地方についてはどうしても任那との関係が避けて通れません。 広開土王碑の改竄説がボツ案になったり、日本製の勾玉が三韓各地で大量に出土していたり全羅南道方面でヤマト系の遺物を伴う前方後円墳10数基(5世紀後半〜6世紀中葉)が発見されたりと、ヤマト王権の政治的進出は否定できなくなっていますが、加羅諸国に対する影響力の程度については未だ決着していません。 前方後円墳が西に固まっていたりしているので、まあ、“統治機関”というのはナシだろうとは思いますが。
 任那成立の経緯や時期なども不明ですが、伯済国の抬頭に金官国が危機感を煽られたあたりかな?と。 因みに、和訓の「みまな」は、金官首露王の王妃が漂着した主浦(nim-nae)の転訳とするのが日本の学界の主流らしいです。

 

百済

 〜660
 和訓は「くたら・くだら」。『三国志』魏書韓伝の馬韓諸国中の伯済国が中心となって、4世紀中期の近肖古王の頃に半島中部西面一帯の周辺諸国を統合して成立し、漢江南畔の漢城(ソウル)を国都とした。 地理的環境から農産に豊み、又た中国南朝との緊密な外交や南方の倭との提携によって高句麗の南進に対抗し、新羅とも連盟したが、475年に高句麗の長寿王に壊滅的打撃を蒙り、南方の熊川畔の熊津(錦江畔の公州)に遷都して再建が進められた。
 漢城地方の壊滅と熊津遷都によって伝統豪族の勢力が後退して王権が伸張し、南方の旧馬韓諸国の殆どを併合して加羅地方にも進出し、高句麗に対抗するため新羅との国交も強化された。 国力の伸長と新附地経営のために538年には聖王が西南の泗沘(扶餘)に新都を造営したが、この頃より新羅との紛争が再燃した。 対策として採られた日本との同盟は大きな効果はなかったものの、軍事援助の代償として行なわれた物人両面の文化援助は、日本文化の形成に大きく寄与した。 新羅に対しては中国との外交を保ちつつ高句麗との連和で対応し、7世紀に入ると高句麗と中国の衝突に乗じて新羅を圧迫した。
 660年に新羅の要請に応じた唐の軍事介入で泗城が陥落して義慈王が降伏し、663年には王子豊璋を支援する日本軍を主力とした水軍が熊川支流の白江口で壊滅し、組織的抵抗はほぼ終焉した。 義慈王の太子だった夫餘隆は熊津都督・帯方郡王に冊封されて唐による羈縻支配が図られたが、程なく新羅の反攻で半島から唐勢力は一掃され、百済王族は新羅の貴族としてその支配浸透の一助とされた。
 高句麗の開祖と伝えられる朱蒙の弟の温祚王を伝説的始祖とし、又た泗に遷都した聖王が国号を南夫餘と改めるなど、王族は夫餘の出身だと考えられ、『梁書』『周書』などでは言語も高句麗に類似するとある。 『日本書紀』『古事記』などにも引用が多い『百済本紀』『百済記』は、高句麗と新羅の攻勢に対して日本の援助が求められた時期に編纂されたもので、日本の支援が歴史的伝統として強調している点に注意を要する。

近肖古王  〜346〜375
 百済の第十三代君主。肖古王・速古王とも。名は余句。百済の歴史時代最初の王とされる。 369年に高句麗を大破・撃退しただけでなく、371年には平壌を攻略して故国原王を戦死させた。 372年に中国に初めて百済王として朝貢して東晋より鎮東将軍・領楽浪太守に冊封され、その前年には倭に対しても七支刀を贈って高句麗に対する連和を模索した。

聖王  〜523〜554
 百済の第二六代君主。聖明王とも。名は余明。即位の翌年に南梁から使持節都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王に冊封され、538年に国都を泗沘(扶餘)に遷して国号を南夫餘と号した。中国の文物を積極的に摂取して国制を整備し、漢風の諱・諡号が始められたとされる。 南方への進出によって旧馬韓の殆どを征服した一方で加羅の帰属を巡って新羅との関係が悪化し、そのため日本との外交を重視して仏典・仏像をはじめ五経博士などの諸博士を送った事は日本の文化的発展に大きく寄与したが、日本からの援軍は殆ど得られなかった。 553年には高句麗から奪回して間もない漢山城を奪われ、大伽耶と結んで報復したものの敵中に孤立した王子(威徳王)を救援する途上で伏兵に遭って戦死した。

 

新羅

 〜935
 和訓は「しらき・しらぎ」。『三国志』魏書韓伝の辰韓諸国中の斯盧国が中心となって成立したもので、4世紀の奈乞王以降が史実と見做され、それ以前の朴氏・昔氏の王統は後世の創作とされる。 倭や高句麗の影響が後退した6世紀頃より史実が明確となり、真興王の時には高句麗を大破して咸鏡道方面まで軍を進め、百済の聖王を敗死させ、金官国など加羅諸国をほぼ征服した。 7世紀に入り、高句麗と百済の攻勢で劣勢に陥ると唐への事大外交に打開を求め、唐軍によって660年に百済が、668年に高句麗が滅んだ後は半島全域の羈縻支配を図る唐勢力を高句麗・百済の遺勢との提携で排除して半島の中部以南を一元支配した。
 唐との外交を成功させて百済を滅ぼした武烈王の時代より中代に区分され、独立を達成した文武王にかけて郡県制や律令制など唐制を積極的に導入して中央集権を強化し、中央と地方の身分を峻別するなど朝鮮独特の制度を行なったが、大貴族が運営する貴族会議が温存されるなど王権は決して強くなかった。
 下代に区分される8世紀末より王族の叛乱が続発して武力簒奪が相次ぎ、これに地方豪族が加わって各地で農民叛乱も頻発するようになり、10世紀に入る頃には開城(全羅北道)の甄萱と完山(江原道)の弓裔がそれぞれ大勢力となって後百済・後高句麗を称し、後三国時代と称される。 新羅は王都慶州とその周辺を支配する小勢力に没落し、935年に敬順王が高麗の王建に降り、翌年に後百済も高麗に征服されたことで半島部は再統一された。敬順王は王建の婿とされて正承公に封じられ、慶州を食邑として位階は太子の上位に置かれた。
   
花郎 :国仙徒・風流徒とも。新羅の青年戦士集団。真興王が盛装の美少年2人を花郎と称して両名の下に青年戦士団を組織したことが嚆矢とされ、「道義を重んじ、歌楽山水など風流を愛で、艱苦を厭わず、人材を薦む」ことが求められ、養成機関を兼ねた。 花郎は貴族の子弟で構成され、大伽耶国を滅ぼした斯多含や、統一戦争で軍部を宰領して統一の双璧と謳われた金廆信を輩出するなど、三国統一にも大きく貢献した。
 花郎は三韓時代の原始的青年集会舎に源流するらしく、新羅時代にも尚お、背に開けた穴に綱を通して丸太を引くなど原始的呪術的性格も併せ持ち、韓国の民族主義運動でもその精神が鼓吹された。
 

味鄒尼師今  〜262?〜284?
 新羅の第十三代君主。金氏最初の王とされる。尼師今は後の麻立干と同様に新羅の君主号。 昔氏との通婚によって国人に擁立されたと伝えられ、百済の攻勢を悉く撃退したが、その死後も暫くは昔氏の王統が続いたと伝えられる。 8世紀の恵恭王の時代に五廟が定められると金氏の始祖とされた。

奈勿尼師今  〜356?〜402?
 新羅の第一七代君主。始祖の味鄒尼師今の甥かつ婿と伝えられる。高句麗への従属によって百済・倭に対抗し、382年に単独で前秦に朝貢した際に初めて国号を新羅と称した。 一時は倭にも臣属し、400年には国都金城(慶州市)を占拠されたが、高句麗の来援で解放された。

智証麻立干  437〜500〜514
 新羅の第二二代君主。奈勿尼師今の曾孫。宗家の王統が絶えた為に擁立された。 殉葬を廃し、国号を新羅、君号を王に定め、州郡県制による地方行政や官制・軍制を整備し、新羅の国家形成を大きく前進させた。

法興王  〜514〜540
 新羅の第二三代君主。智証王の嫡嗣子。 中国の律令に倣った官制の整備を進め、貴族層の反対を排して仏教を公認するなど文化の刷新にも注力した。 又た百済と提携して521年に南梁に入朝し、532年には加耶の金官国を併合し、その王族を国都に徙して準王族として厚遇した。

真興王  534〜540〜576
 新羅の第二四代君主。法興王の甥かつ外孫。 即位当初は生母が垂簾して百済との同盟を保ち、551年には小白山脈を北に越えて高句麗より10郡を奪ったが、553年に百済が奪還して間もない漢山城(京畿道広州市)一帯を奪った事で国際的に孤立し、百済・伽耶連合に伐たれたもののこれを大破して聖王を戦死させた。 562年には大伽耶を滅ぼして加羅地方=洛東江下流域を制圧し、一代で新羅の境域を著しく拡大した。
 又た国史の編纂、花郎の制度化、各種軍団の創設や仏教の奨励・拡充など法興王の政策を発展させて国家体制を強化し、中国の南北両朝へ頻りに朝貢して565年に北斉から使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王に冊封された。
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 真興王の後も王権は安定せず、嗣子の真智王(在:576〜79)には廃黜説も根強い。 真智王を嗣いだ甥の真平王(在:579〜632)の治世は国威も低迷し、晩年には高句麗・百済の同盟や高官の叛乱もあり、その死後は男子の聖骨(両親とも王族)が不在だった為に呪術者的能力を期待されて二代続けて女王が立てられた。

善徳女王  632〜647
 新羅の第二七代君主。 父の真平王の死後、聖骨(両親とも王族)の男児が不在となった為に巫女的能力を期待されて立てられた。 新羅の国際的な孤立と劣勢を打破する為に唐に積極的に朝貢し、635年には柱国・楽浪郡公・新羅王の襲封が認められたものの外圧は緩和されなかった。 旧加耶地方を失った翌年(643)に唐に乞援したところ女王の廃黜と李氏の奉戴が求められ、そのため647年には中央貴族の領袖でもある親唐派の上大等(宰相)毗曇が造叛し、金庾信らによる鎮圧戦の最中に歿した。

真徳女王  〜647〜654
 新羅の第二八代君主。善徳女王の従姉妹(『三国史記』)、或いは妹(『旧唐書』)。 毗曇の乱の最中に善徳女王が歿した為、直ちに金庾信らによって立てられた。 即位後間もなく毗曇らを誅滅したが、金春秋を重用して親唐外交を保ち、649年に唐制の衣冠を採用し、650年には唐の正朔を奉じるなど事大外交を進め、同時に唐の官制の導入によって中央集権の強化を図った

武烈王  602〜654〜661
 新羅の第二九代君主。太宗。諱は春秋。真智王の孫。 真智王の甥/真平王の婿でもあり、善徳女王の義弟にあたる。百済の攻勢で苦境に立たされた新羅の外交を担い、高句麗・日本への乞援に失敗した後は親唐外交に注力し、真徳女王の下で衣冠の改正や奉正朔などの事大政策を推進した。
 真徳女王が歿すると金庾信の強力な支持で即位し、唐からも開府儀同三司・楽浪郡王・新羅王に冊封され、法制の整備や新興層の抜擢による王権の強化、軍備の増強などを進めて660年には唐と与に百済を滅ぼした。 新羅による半島統一の基を築いたが、唐と呼応した高句麗攻略の途上で病死した。初めて廟号を建てられた君主でもある。

金庾信  595〜673
 金官国の末王/仇衡王(仇亥)の曾孫。武烈王の義兄。文武王の外叔。母は真智王(武烈王の祖父)・真徳女王の従姉妹にあたる。 年少で花郎となって歴戦で武功を挙げ、上大等(宰相)毗曇の叛乱と善徳女王の急死に直面した際には真徳女王を擁立して毗曇を鎮圧し、真徳女王の死後は武烈王の即位を実現させた。 唐と呼応した百済攻略や高句麗遠征では新羅軍を統率するなど統一事業を通じて元勲の筆頭であり、660年に大角干、668年に太大角干に至ったが、いずれも当時の最高官として金庾信の為に創設されたものだった。 9世紀には興徳王(在:826〜36)より興武大王に追封され、『三国史記』では新羅最大の功臣と評されている。

文武王  〜661〜681
 新羅の第三十代君主。諱は法敏。武烈王の嗣子。 即位前から使者としてしばしば唐と折衝し、660年の百済攻滅では金庾信と与に唐軍に従い、旧百済領を略定した。 即位の翌年には開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王に冊封され、668年には唐に従って高句麗を攻滅したが、663年には鶏林州大都督に任じられており、又た旧百済に熊津都督府が、旧高句麗領に安東都護府が置かれるなど羈縻支配が進められた為、670年に高句麗の宝蔵王の庶子を高句麗王に封じて対抗し、676年に白江で唐軍を大破して安東都護府を後退させ、新羅による半島の統一を実現した。 又た武烈王同様に新興層や旧百済・旧高句麗からの投降者を重用し、京位と外位による区別を撤廃するなど中央貴族の抑制と王権の伸長を進めた。 唐との関係は孫の孝昭王が699年に朝貢を再開した事で復旧した。

景徳王  〜742〜765
 新羅の第三五代君主。諱は憲英。唐に緊密に遣使して九州制の実施、地名・官名の改称など国制や文化の唐化を推進し、監察の貞察や弾劾機関の司正府を設け、757年には貴族会議の議長である上大等を初めて罷免し、中央集権化を図った。 官僚の月俸を廃して禄邑制の復旧で貴族層に配慮したものの王権と貴族層の対立は深刻となり、嗣子の恵恭王の時代になると貴族の叛乱が頻発した。

宣徳王  〜780〜785
 新羅の第三七代君主。諱は良相。774年に上大等とされ、時に王の集権化を諫めたが、王宮を攻囲した貴族の叛乱を鎮圧した際に弑簒した。 王統が武烈王の系統から移っただけでなく、上大等が簒奪する事態の嚆矢となり、『三国史記』では宣徳王以降を下代に区分している。

憲徳王  〜809〜826
 新羅の第四一代君主。諱は彦昇。元聖王(宣徳王の簒奪に協力したのち嗣位)の孫。 甥の哀荘王が即位すると摂政し、次いで上大等となったのち弑簒した。 唐との修好を保って819年には平盧藩の李師道の鎮圧に派兵したが、国内では京畿優遇に対して地方の自立化が進行しており、822年に金憲昌が熊津に拠って蜂起すると国原(忠清北道忠州)・西原(忠清北道清州)・金官(慶尚南道金海)を含む旧百済領の殆どが呼応し、この乱は1ヶ月で制圧されたものの、乱に加担しなかった地方の租税を7年間免除した事などは京畿主義への一層の傾斜と見做される。

閔哀王  〜838〜839
 新羅の第四四代君主。諱は明。元聖王の曾孫。叔父の孝徳王の死後、継嗣として最有力だった上大等の均貞を攻殺して僖康王を即位させ、838年に宮中で兵変を起して簒奪したが、このとき貴族層の承認を経ずに即位した。 均貞の遺児の祐徴を戴く清海鎮大使の弓福に敗死した。

弓福  〜846
 張保皐・張宝高とも。中国の徐州に渡って武寧軍の鎮将となったのち帰国し、興徳王に国人の奴隷としての流出の防止を建議して828年に清海大使(全羅南道莞島郡)とされた。 以後は海上貿易で大勢力を為し、838年に閔哀王に敗死した均貞の遺児の祐徴(神武王)を迎えると閔哀王を敗死させて神武王を立て、感義軍使とされた。神武王を嗣いだ文聖王より鎮海将軍に叙されたが、娘の王妃冊立が拒まれた為に造叛して暗殺された。円仁の在唐と帰国を支援した事でも知られる。

弓裔  〜918
 新羅王の落胤と称し、出家の後に群盗に投じて北原(江原道)の梁吉に属し、半島中部を席捲して多くの在豪を帰属させ、梁吉を大破したのち自立して松嶽(開城)で後高句麗王を称した。 904年に国号を摩震と改めて鉄原に遷り、南は甄萱を圧迫して北では大同江を越えたが、弥勒仏を自称して次第に尊大・凶暴となったため、諸将の支持を集めていた部将の王建に殺された。

甄萱
 尚州(慶尚北道)の人。農夫から転じて軍で裨将まで進んだが、892年に挙兵して武珍州(光州)・完山州(全州)を陥し、900年に完山に拠って後百済王を称した。 旧百済領の殆どを支配し、中国とも通好して弓裔に対抗したものの次第に劣勢となり、弓裔の死後の927年に新羅王都の慶州城を陥して新羅王を改廃したが、高麗の優位が進行する最中の935年に子の神剣に簒奪されて王建に帰順した。 高麗では尚父の尊号を受けて厚遇され、簒奪の翌年に自ら高麗軍の先鋒となって神剣を滅ぼした。

 
 

高麗

 918〜1392
 新羅末期の混乱期、松嶽(開城)の土豪の王建後高句麗を簒奪した政権。 935年に新羅を、翌年には後百済を滅ぼして半島を統一し、李成桂に滅ぼされるまで34代457年間続いた。 高句麗の失地回復を標榜した為にしばしば契丹に侵され、994年に契丹の正朔を奉じたものの江東(平安北道西部)の帰属を巡って1009年より侵攻が再開され、1020年に奉正朔と江東の領有で講和した。 又たこの頃には唐制を模した国家体制が整備され、文官優遇・中央禁軍の拡充・科挙や国子学の実施など宋制にも強く影響されたが、中央では少数の貴族官僚が多数の奴婢・農奴を支配し、地方の五道二界制や郡県制も実質的には在地豪族の既得権を追認するものに過ぎず、擬似貴族制社会を特色とした。 王室を中心に官僚豪族が特権化した事で血縁・閨閥を軸をする党争が続き、過度の尚文軽武に対する反動として1170年に武臣による奪権が行なわれて武臣時代を迎え、この頃には社会の窮乏も深刻となって各地で叛乱が頻発した。
 武臣政権が打倒された後は宗主たる元朝の武力を背景に王権が強化されたが、国内にはダルガチ(代官)をはじめモンゴル軍が駐留し、2度にわたる日本遠征の前進基地となるなど元朝の完全な属国と化した。 王位は征東行省の意向で左右され、モンゴル=ハーンにケシク(侍衛官)として近侍して駙馬となった者が就く事が慣例化し、朝廷ではモンゴル文化が流行したという。 武臣時代の戦乱と開城還都後の元朝による様々な徴発に続き、14世紀半ばに始まる倭寇は社会に深刻な疲弊をもたらし、元末の1356年に恭愍王が元朝と断交して失地回復を進めた後は親元派と親明派が対立し、親明派の李成桂のクーデターによって簒奪された。
 高麗の文化は宋の文化を基調としたが、仏教と工芸の面では高麗文化とも呼ばれるべき特色を示し、殊に高麗青磁は中国の磁器を凌ぐ逸品として世界に知られている。陶器の他には漆工業、特に螺鈿技術が発達した。

王建  877〜918〜943
 高麗の太祖。松嶽(開城)の人。海上交易で勢を為した一門で、新羅末期の戦乱で弓裔に従って累功があり、弓裔が兇暴となったため諸将に推されて918年に弑簒し、国号を高麗と改めた。 開城を国都として尊王を名分とし、935年に後百済の甄萱の来奔と新羅王の献土を受け、翌年に後百済を征服して三国を統一した。 仏教を尊崇し、副都として西京(平壌)を重視し、行政機構などは新羅の制を踏襲して貴族・豪族層の既得権を安堵する事で混乱の早期収拾を図った。 対外的には高句麗の再興を標榜して契丹と対立し、数万の渤海遺民を受容した。

穆宗  980〜997〜1009
 高麗の第七代君主。実権は生母の献哀太后にあり、嗣子を巡って対立して西北面巡検使康兆に上京と事態の収拾を促したが、反対派を粛清した康兆に弑された。 この為かねて江東(鴨緑江南岸)の回復を狙っていた契丹に問責の名分を与えて国都が占拠され、江東の返還と入朝を以て和したものの履行せず、数次に亘る侵攻を招来した。
   
姜邯賛 (948〜1031):成宗の2年(983)に科挙に及第したのち顕宗(1010〜31)の初めに宰相となった。 1018年には契丹軍の侵攻に対して上元帥とされ、開京から帰還する契丹軍を亀州で壊滅し、このとき帰還した契丹兵は数千人だったという。 亀州での勝利は“亀州大捷”と称され、現代の韓国では高句麗の乙支文徳、李朝の李舜臣に並ぶ救国英雄に数えられている。

武臣政権  1170〜1270
 文臣貴族官僚が要職を独占した高麗にあって、兵変によって武臣が執政した期間を指す。 崔氏が世襲した第二期を挟んで3期に区分され、モンゴルに攻滅されるまで続いた。 高麗の官僚は文班と武班に峻別されたが、貴族制の維持と宋制に倣った徹底した尚文軽武の中で武班の不満が鬱積し、毅宗の時には遊興や造営にも軍士が酷使された為、1170年に毅宗の遊幸に将軍として扈随した李義方・鄭仲夫らが蜂起し、文臣粛清と奪権が行なわれた(庚寅の乱)。
 武臣間で主導権が争われたのち1196年に崔忠献が執権し、執政機関の教定都監を創設してその長官(別監)を世襲した事で武臣政権の安定と崔氏の執権体制が確立された。 崔氏は私邸で執政し、私兵組織の都房を拡充して三別抄を簡抜した一方で有能かつ同調的な儒者・文人を重んじた。 モンゴルの侵攻に対しては1232年に江華島に遷都して抵抗を続け、本土が蹂躙されたすえ1258年に文臣と武臣の合作で崔氏政権が打倒されたが、親元派と反元派の武臣の内訌が生じ、反元派が主導権を握ったのちモンゴルの援兵を得た王党派によって滅ぼされた。
 武臣時代は各種の社会問題の露呈期にもあたり、武臣が政争に終始した第一期には各地で大小叛乱が頻発し、1174年に平壌留守が起した乱は7年間続き、1194年に慶州(慶尚北道)で発生した農民叛乱は密陽(慶尚南道)・江陵(江原道)に波及する大乱に発展した。 崔氏に対する叛乱も続発し、モンゴルの侵攻に対して洪福源が率先して降伏した事は当時の朝廷の統制力の著しい低下を示している。
   
三別抄 :崔氏政権時代に編成された私兵団。 別抄は精鋭を意味し、盗賊追捕の左右の夜別抄とモンゴルからの脱走兵の神義別抄とから成り、崔氏政権の確立と伴に正規軍として扱われた。 モンゴルの侵攻に際しては国防の主力となって1232年の江華島遷都にも従い、武臣政権が打倒されて開城還都が行なわれると珍島、次いで耽羅(済州島)に奔って抵抗を続け、1273年に討平された。

恭愍王  1330〜1351〜1374
 高麗の第三一代君主。紅巾軍による元朝の末期状態に乗じて親元勢力を一掃し、1352年に胡俗を撤廃したのち1356年には元朝の正朔と官制を廃し、断交を明確化した。崔瑩李成桂ら武臣を用いて失地を回復し、中国より元朝を逐った明朝の正朔を奉じて冊封されたが、王妃を喪ってより仏教に耽溺して政治を乱し、親元派の宦官に弑殺された。

文益漸  1329〜1398
 江城(慶尚南道山清)の人。恭愍王の時代に使節団に随行して元朝中国から禁制の木綿の種子を持ち帰り、義父の鄭天益とともに栽培と織布に成功した。それまで朝鮮の衣料布は貴族が苧布と絹布、庶民は麻布が主流だったが、以後は木綿と綿布が普及した。

崔瑩  1316〜1388
 鉄原(江原道)の人。倭寇討伐で抬頭した武臣で、元朝への援軍で名を知られた。 恭愍王の下では元朝から失地を回復し、紅巾軍の侵攻に対しては全軍を統督して撃退し、内乱鎮圧にも大功があって佐命功臣一等とされた。 以後も元軍の撃退や内乱鎮圧・倭寇の撃滅などで累功があり、1388年に明朝が鉄嶺以北の領有を宣言すると反明親元を鮮明にして遼東遠征を行なったが、威化島から回軍した前鋒の李成桂に敗れて処刑された。朝鮮王朝が興されると李成桂によって武愍と追諡された。

 
 

李朝

 1392〜1910
 高麗を簒奪した李成桂に始まり、その政治史は概ね三期に分けられる。 前期は、王権を維持した世祖の死後、中央から王族が排斥されて勲旧派と士林派が対立し、士林派を弾圧した士禍事件が続発した。 16世紀中葉の宣祖に始まる中期は士林派が朝政を主導して朋党による党争の激化と弊害が顕著となり、同時に日本の豊臣秀吉の侵攻と、臣属を求める女真によって全土が荒廃の極に陥った。 18世紀に始まる後期は、英祖による朋党の粛正で王権が安定した後は、外戚の安東金氏が長期に亘って朝政を壟断し(勢道政治)、王権や国力を衰退させた。 勢道政治の末期には諸外国の進出が顕著となって鎖国・攘夷で対抗し、結果的に日本による支配が進行して1910年に王統の断絶と併合が宣言され、朝鮮総督府による支配が開始された。
 李朝の時代に初めて国号を正式に朝鮮とし、その文化は文治主義、特に朱子学を中心とする文教が興隆して編纂出版などが活況を呈し、これに関係して活字の鋳造やハングルの制定などが行なわれた。 太祖は旧来の荘園制=農荘を否定して科田法を制定したが、郷紳的貴族の一掃に成功しなかった後は彼らの協力によって政権を安定させるようになり、再び両班の農荘が形成・増大するようになった。
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 日本に対する独立闘争は日韓併合より断続的に続けられ、日本による統治は1931年の満州事変以降は植民地的支配となり、金日成らによる抗日パルチザンが展開され、1936年には祖国光復会が組織されて中国の抗日運動と提携し、満州全域で武装抗争を展開した。
 第二次大戦での日本降伏とともに朝鮮は独立を回復したが、米ソの対立による分割管理によって38度線を境として北の朝鮮民主主義人民共和国と南の大韓民国が成立した。
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 日本や中国では古朝鮮と区別する為に“李朝”“李氏朝鮮”と呼ぶ事が多いが、韓国では“朝鮮”“朝鮮王朝”と呼ぶ事が一般的で、日本でも学術面で“朝鮮王朝”と呼ぶ事が普及しつつある。尚お、1897年に日本の統制下で清からの独立を宣言した際には国号を“大韓帝国”と改称している。
太祖  世宗  世祖  宣祖  英祖  正祖  大院君 / 両班  士林派
 

李成桂  1335〜1392〜1398〜1408
 朝鮮王朝の太祖。永興(咸鏡南道)の人。射術に長け、高麗の東北面兵馬使を襲いでモンゴルのナハチュ紅巾軍の撃退、倭寇討伐で累功があり、1388年の遼東遠征では右軍都統使となって先行したが、威化島から回軍して反明派の崔瑩や王禑を排除して実権を掌握した。 荘園的農荘を否定した土地改革に着手したのち1392年に簒奪して国号を朝鮮としたが、晩年は元勲の鄭道伝と第5子李芳遠の対立に立太子問題が加わって内戦が生じ、次子の定宗に譲位して郷里に隠棲した。 芳遠が即位した後、1402年に国璽を授けて嗣王として承認した。
『李朝太祖実録』によれば全州李氏の出とされていますが、同地の住民は李朝に征服されるまで女真が主で、全州李氏は元朝ではダルガチとして一帯の女真を統べていました。李成桂の軍事的成功も麾下の女真兵に負うところが大きく、李成桂自身も女真との紐帯が強いなどの傍証から、全州李氏は女真系と説明される場合も多いようです。

太宗  1367〜1400〜1418〜1422
 朝鮮王朝の第三代君主。名は李芳遠。太祖の第5子。 父の覇業を輔けて大功があったが、建国後は集団執政を唱える鄭道伝と対立し、末弟の李芳碩が鄭道伝の薦めで太子とされた後、1398年に諸兄弟と結んで鄭道伝・李芳碩を攻殺し、太祖に薦めて次兄の李芳果(定宗)を立てて丞相となった。 1400年に削兵に抵抗する兄/李世幹の乱を平定すると定宗に譲位され、1402年には父とも和解して王位を認められた。
 私兵の廃止や議政府を頂点とする執政体制、寺院に対する統制強化と特権縮減など君主権の強化と中央集権化を推進し、退位後も上王として大権を保って朝鮮王朝興隆の基を築いた。集権化の過程で多くの一族・功臣・外戚を粛清し、退位後の1419年には倭寇対策の一環として対馬に派兵した(応永の外寇)。

世宗  1397〜1418〜1450
 朝鮮王朝の第四代君主。太宗の子。太宗の死後に親政を始めた。 1425年に鋳造した朝鮮通宝は貨幣価値の設定に失敗して普及せず、又た仏教に対しては廃仏的な統制を行なったが、学問所と諮問機関を兼ねた集賢殿を開設して儒学の振興と文化の向上、農業技術の発展などに注力した。殊にハングル(訓民正音)を創始した事は高く評価され、後世からは「海東堯舜」「世宗大王」と称される。 又た豆満江方面に出兵して建州女真を江北に逐い、6鎮を設置するとともに咸鏡道方面の開拓を進めた。

世祖  1417〜1455〜1468/1468 
 朝鮮王朝の第七代君主。 幼君/端宗の下で権力を集めた後に簒奪し、反対勢力を徹底的に粛清して王権を確立した。議政府を廃して六曹を君主直轄とし、軍制の改編や『経国大典』の編纂など集権化を進め、官吏への支給田を制限した職田法の実施で叛乱が続発したが、悉く鎮圧した事で却って中央集権が強化された。 対日外交を安定させて交易が発展し、朝鮮王権の頂点を築いたとも称されるが、要職には概ね側近を充てて所謂る勲旧派の形成をもたらした。
 世祖の死後は幼君や短命君主が続き、勲旧派が王族の執政関与を禁じた為に反対勢力として士林派が抬頭した。

燕山君  1476〜1495〜1505〜1506
 朝鮮王朝の第十代君主。前王成宗の長子。世祖の曾孫。 即位前から粗暴・厭学の人として資質に疑義が呈されていたという。即位後は遊楽に耽って名刹の円覚寺や最高学府の成均館で妓生を養成させ、経筵や司諫院などを廃止し、ハングルによる時政誹謗が行なわれるとハングル書籍の焚書を行なった。 又た諫言を嫌って多数の士林派の粛清を伴う戊午(1498)・甲午(1504)の士禍を惹起し、異母弟の中宗を擁したクーデターで喬桐島に追放された。

宣祖  1552〜1567〜1608
 朝鮮王朝の第十四代君主。前王明宗の甥。中宗の孫。 儒学に傾倒して士林派を重用したが、結果的に士林派内部の党争を激化させた。 1592年には日本に侵攻され(文禄の役/壬辰の乱)、国都漢城を逐われて北辺の義州まで逃れ、明の援軍と日明交渉で還都を果たしたものの交渉の決裂で1597年に再征され(慶長の役/丁酉の乱)、豊臣秀吉の死で終息した。日本とは1607年に修好したが、両度の戦役で国土は著しく荒廃し、党争によって回復は容易に進まなかった。 又た後継問題も党争に明朝の意向が加わって混迷し、嗣子を定めず歿した事で政争を助長した。

李舜臣  1545〜1598
 徳水(咸鏡道)の人。1576年に武科に及第し、対女真戦線を転戦したのち全羅道の士官に転じ、1591年には東人南派の領袖の右議政柳成龍の薦挙で全羅左道水軍節度使に抜擢された。 1592年の文禄の役(壬辰の乱)では亀甲船を用いて日本水軍を大破して三道水軍統制使に進んだが、慶長の役(丁酉の乱)の直前に讒言で罷免され、水軍が壊滅した後に水軍統制使に再任され、終戦期に増派された日本水軍との交戦中に戦死した。20世紀の日本統治時代に事績が再確認され、現在では乙支文徳姜邯賛と並ぶ救国英雄として支持されている。

光海君  1575〜1608〜1623〜1641
 朝鮮王朝の第十五代君主。宣祖の次子。宣祖に嫡子が無かった為に世子に擬されたが、長幼に拘る明朝に拒まれて立てられず、1606年に嫡子(永昌大君)が誕生した為に朝論が大北派(光海君)と小北派(永昌大君)二分された。 宣祖が歿した為に立てられ、小北派や兄弟を粛清して漸く再建策の実施が可能となったが、明軍の女真遠征(サルフの役)を軍事支援した事で女真に伐たれ、両属状態を是認した。 このため大北派以外の結集をもたらし、仁祖を擁したクーデターで廃されて江華島に謫され、後に済州島に徙されて歿した。

仁祖  1595〜1623〜1649
 朝鮮王朝の第十六代君主。光海君の甥。光海君を廃した西人派によって立てられた。 女真に対する臣属を拒み、明朝の毛文龍の鉄山(平安道)進駐を認めるなど反女真を鮮明にしたが、1636年にホンタイジの親征で国都の漢城府を陥されて南漢城に奔り、翌年に江華島が陥されると拝跪の礼を以て降伏した。

肅宗  1661〜1674〜1720
 朝鮮王朝の第十九代君主。即位当時から儀礼論争で南人西人の対立が激化しており、更に西人も外戚問題で老論派と少論派に分裂し、他派の完全な排斥が常態化していた。 その為、故意に儀礼問題を起して執権党を換局する事で朋党の弱体化を図り、大同法を全国的に実施するなど王権の強化と求心力の回復に一定の成果を挙げたが、世子(景宗)を支持する少論派と次子の延礽君(英祖)を推す老論派の対立で継嗣問題が紛糾した。

英祖  1694〜1724〜1776
 朝鮮王朝の第二一代君主。粛宗の庶子。 粛宗の時代から老論派に支持され、そのため即位当初は少論派を排斥したが、次第に派閥の均衡(蕩平策)に傾斜し、同一党派による要職の独占を禁じた双挙互対や党派内の通婚の禁止、死刑に三審を義務化する三覆制度の復活などを行なった。 又た力役の代納の布帛を半減し、救荒用に甘藷(サツマイモ)を普及させるなど民生にも配慮したが、朋党禍を治めきれずに1762年には老論派の讒言で荘献世子を自殺させた。
   
荘献世子 (1735〜1762):英祖の庶子。2歳で世子とされ、少論派に就いて修学したため老論派に否定的だった。 1749年より庶政を執務したが、老論派と正母后に讒言されて次第に精神を病み、1762年に誣告によって廃されて餓死させられた(壬午事変)。

正祖  1752〜1776〜1800
 朝鮮王朝の第二三代君主。荘献世子の子。 壬午事変の後は英祖の長子/孝章世子の嗣子とされたが、即位の際に荘献世子の子である事を宣言した。 老論派の抑圧を図って侍衛の洪国栄を信任し、所謂る勢道政治が行なわれ、1779年に洪国栄を罷免した後は蕩平策と外戚・老論派の削勢による親政化を推進した。 又た国都に奎章閣を設置して学問・文芸を振興し、人材育成にも注力した。この頃には朱子学に批判的な実学派も朝廷に進出し、その影響で庶子の官吏就任なども認められるようになり、文芸文化が庶民層にも波及して後世から世宗に並ぶ文化君主と讃えられた。
 朋党に掌握された五軍営に代る侍衛団/壮勇営を新設して兵権を掌握し、同時に暗行御史を各地に派遣して両班の郷村に対する支配力の抑制と王権の浸透を図ったが、党争は王権派=時派と、老論派主流の僻派となって継続し、両者は天主教(カトリック)の拡大に対しても概ね制限(信西派)と厳禁(功西派)を唱えて対立した。

純祖  1790〜1800〜1834
 朝鮮王朝の第二三代君主。正祖の子。正祖と対立していた貞純王后(英祖妃)が垂簾して僻派が朝政を掌握し、時派と天主教の排斥が進められた。1805年に貞純王后が歿した後は王妃の父の金祖淳が執権し、これより3代に亘って安東金氏による勢道政治が行なわれた。

興宣大院君  1820〜1898
 朝鮮王朝の第二六代君主/高宗の実父。大院君は直系以外から迎立された国王の父の称号。 朝廷の内紛に乗じて高宗を即位させて実権を掌握し、安東金氏の排斥、均田制の試行、書院の廃止と科挙の修正、排外・鎖国主義などを推進した。 一連の新政で権益を侵害された両班を政敵の閔妃(高宗の妃)と結ばせ、又た鎖国のための軍備増強は国民の生活を著しく圧迫し、1873年に閔妃派の政変で失脚し、閔妃との政争は後に壬午事変乙未事変を招来した。

閔妃  1851〜1895 ▲
 明成皇后。高宗の王妃。興宣大院君の夫人の同族として1866年に入宮して王妃とされたが、太子を得てより大院君との政争を展開し、1873年に高宗の元服を理由に大院君を失脚させることに成功した。 高宗の厭政に乗じて朝廷を掌握し、開国を唱えて特に日本との提携による新軍建設を進めたが、冷遇された旧軍と大院君派を結ばせて壬午事変が起された。 以後は事大主義に転じた為に改革派による甲申事変を生じ、又た民生に対する無配慮は日清戦争の原因となる甲午農民戦争を招来し、戦後は日本と結んだ大院君に対抗して親露姿勢を強め、乙未事変で殺された。
   
壬午事変 (1882):大院君に煽動された旧軍兵士による、日本公使館焼討ちと閔妃派官僚の殺害。 大院君による閔妃派からの奪権を目的としたが、王宮を脱した閔妃を保護した清国駐留軍の袁世凱が暴動を鎮圧し、大院君を逮捕して閔妃政権を回復させた。大院君は戦犯として中国に護送されて天津に3年間幽閉された。

甲申事変 (1884) ▲ :壬午事変の後、事大外交に傾斜した閔妃政権に対する改革派の反動。 日本軍と結んだ金玉均・朴泳孝・徐載弼らが主導したもので、清仏戦争に乗じて起されたが、袁世凱の介入で日本軍が撃退されて失敗し、日中の朝鮮に対する軍事顧問の派遣と軍隊駐留の禁止、派兵時の事前通告などを定める天津条約が結ばれた。

乙未事変 (1895):日清戦争後、大院君派と日本軍が親露の閔妃を襲撃・殺害した事件。 当時の朝鮮は三国干渉による日本の影響力の後退によってロシアと結んだ閔妃派が勢力を回復させていたが、却って大院君派と改革派・日本との結託を促し、朝鮮兵と日本兵による景福宮襲撃に発展した。事件後、大院君は高宗と決裂して失権し、大院君の葬儀にも高宗は参列しなかった。

東学党
 西学(キリスト教)の盛行に対し、1860年に慶州の崔済愚が興した民間宗教。 儒仏道の三教を折衷した、単純かつ迷信的な宗旨によって短期間で全国的に拡大し、そのため危険視されて1864年には邪宗として禁絶された。 当初は非暴力を唱えたが、弾圧の中での拡大で次第に革命的となり、1894年に全羅道で発生した農民一揆は東学党の指導によって大規模な革命的暴動に発展した(東学党の乱=甲午農民戦争)。 独力での鎮圧を断念した朝鮮政府は清朝に乞援したが、朝鮮での利権拡大を図る日本もまた出兵し、乱の平定後の日清間の摩擦が日清戦争に発展した。

両班
 朝鮮王朝時代の政治社会を代表する擬似貴族階級。その名称は高麗時代の官吏が文班と武班に分かれていたことに由来する。 高麗は中国に倣って科挙制度を介した官僚制度を導入したが、当時の貴族制社会に対応させるために制度を変容させて運用し、高麗の官僚制としての両班制度は武臣政権と共に事実上崩壊した。
 朝鮮王朝の両班は、建国期に李成桂を支持した京畿の儒臣と地方の中小地主を主柱とし、科挙の受験資格を認められ、官職や政治上の権益の世襲すら保証された事実上の貴族階級を形成した。 やがて身分制度が定められると良民の最上位に置かれ、文人士大夫としての学識を保ちつつ次第に選民意識が肥大化し、「転んでも自力では起きない」「箸と本より重いものは持たない」などと肉体の使用を極度に厭うようになった。
 建国当初は全人口の3%前後と推測される両班は、日本や女真の侵攻で身分制度が流動化した後は売官や族譜売買などで戸籍上で爆発的に増加し、日本の統治で官僚の母胎としての機能を喪失した後も地方社会においては隠然たる勢力を保った。

大同法
 大同米とも。農民に課されていた貢賦を免じる代償に、地税として米穀を徴収したもの。 それまで農民は田税・軍役の他に政府や王室に現物上納する貢納・進上を課され、これは生産から運搬に至るまでを負担する最大の課役だった。大同法は光海君が1608年に宣恵庁を設けて京畿道で試行され、粛宗が江原・忠清・全羅・慶尚道に拡大して全国的に行なわれた。 貢賦は全廃に至らず、貢納請負人が運搬の代償に穀・絹を徴収するようになったが、その額は物価の十倍に達する事もあり、銅銭の流通と伴に銭納に改められた。

士林派
 朝鮮王朝の中期を中心に政界を主導した、士大夫/科挙官僚の総称。 世祖の即位を支援した功臣の家門=勲旧派への対抗勢力として成宗の頃より朝政に参与し、儒学(朱子学)を修めて名分論を重んじ、燕山君の世で弾圧され、続く中宗の時にも急進的な改革に着手して1519年に己卯士禍を惹起した。
 士林派の執政は外戚を排除した宣祖の時代に始まり、1575年には西人派東人派に分裂し、東人派は1591年に執政した直後から穏健的な南人と排他的な北人に分れただけでなく北人が宣祖の継嗣問題から大北と小北に分裂し、それぞれが他派の排斥に血道をあげた。 1623年に仁祖を擁した政変で西人派が執権を回復して南人派と協調したもののやがて儀礼論争から対立し、1680年に優位を確立した頃には外戚問題で穏健派の老論派と強硬派の少論派とに分裂し、粛宗によって南人を交えた交互執権(換局)が行なわれた。
 英祖のとき四派(老論・少論・南人・小北)均用の蕩平策が用いられたが、1762年の壬午事変の後は正祖を支持する南人・少論を中心とした時派と、守旧的な老論派を中心とする僻派とに再編され、又た天主教(カトリック=キリスト)の受容を巡って時派を中心とした容認派の信西派と、僻派を中心とした排斥派の功西派の対立も生じた。 キリスト教問題は正祖の晩年に位牌の焚却や宣教師の密入国などの重大な違法が問題視されて1791年より規制が強化され、殊に正祖の死後の1800年の大弾圧で時派は潰滅状態となったが、1804年に執権した外戚の金祖淳が同郷の安東金氏のみを任用する勢道政治を始めたため士林派は退潮した。

東人派
 士林派の一派。宣祖時代の分裂当時の領袖の金孝元らが漢城の東に住んでいた事に由来する。 1584年に大司憲李珥が歿すると党争は熾烈となり、1591年に世子問題で復権したが、その際の西人の粛清に対して穏健派の南人と厳刑派の北人に分裂した。
   
 東人派の分裂当初は南人が優勢で、領袖の柳成龍が文禄の役の直前に日本の侵攻の可能性を否定したにも拘わらず信任されたが、1602年に対日講和を唱えて排斥された。 南人派は17世紀に西人派に与して仁祖の擁立を成功させて復権し、仁祖の末年には政権を掌握したが、粛宗のとき西人派を誣告して却って勢力を失い(1694)、英祖末〜正祖初に多くが西人系の少論派と結んで時派・信西派に属した。

北人派  ▲
 1591年に東人派から分れた士林派の一派。領袖の李山海が漢江の北に、李溌が北岳麓に住まった事に由来する。 当初は南人が優勢だったが、文禄の役では義兵将兵の多くを輩出し、1602年に対日講和を唱える南人が失脚した事で執権した。 宣祖の継嗣問題で庶長の光海君を推す大北派と嫡幼の永昌大君を推す小北派に分裂し、光海君の時代に西人・南人・小北を弾圧したが、内訌のすえ1628年に西人派を中心としたクーデターで光海君と共に失脚・没落した。

西人派
 士林派の一派。宣祖時代の分裂当時の領袖の沈義謙らが漢城の西に住んでいた事に由来する。 1591年に世子問題で東人派に敗れ、文禄の役の直前には日本の侵攻の可能性を唱えたものの聴かれず、国防の増強も禁じられた。 光海君の末期に反大北派の結集に成功して仁祖を擁立し、南人と協調して執権したものの顕宗の世(在:1659〜74)には礼葬問題から対立して南人派と外戚の結託を招き、一時的(1674〜80)に政権を逐われたが、1680年に南人派の拡大を嫌う粛宗によって復権した。 このとき反外戚の少論派と穏健な老論派に分裂し、正祖(1776〜1800)の時には政権体制やキリスト教問題から現状肯定的な時派/信西派と守旧的な僻派/功西派に再編された。

 
 
 

邪馬臺国


 『三国志』魏書東夷伝倭人条に現れる、古代日本の小国。詳述された日本の政治勢力としては最古のもので、大和王権との関連を含めて注目されてきた。 東夷伝の曖昧な記述から、近畿説・北九州説が二大主潮となっており、“臺”を“壹”の誤記とする意見や、古代中国の南・東混用論など様々な解釈が為されているが、“邪馬臺”を“ヤマト”の音写とする見解が大勢で、比定地の殆どがヤマトを手懸りにしている。 さらに北九州説の延長線上には、崇神王朝による九州征服説、九州崇神王朝の東征(大和征服)説などがあり、この場合の九州勢力は邪馬臺国あるいは邪馬臺国を滅ぼした狗邪国とする説が強い。
 発音に依った“邪馬臺=ヤマト”論自体は正しいアプローチだと思いますが、『倭人伝』の固有名詞すべてが近世音で比定されているのは若干無理があるのではと、素人ながらに思うのです。 実際、これまで邪馬臺国の属国として注目されることのなかった好古都国が、3世紀当時の中国語の発音では“ハカタ”に近いという検証結果も出されています。 いずれにせよ、邪馬臺国論争には我田引水的な論法が多く、古代日本像全体を解釈するうえでも、一つの大きな枷になってしまっているのは残念なことです。


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