元
1271〜1368〜1388中央では中書省を行政府とし、時に財務の尚書省が並立したが、大都・上都を首都として大ハーンが両都を季節移動し、最大行政区の行省が管下の軍事をも統轄するなど遊牧帝国としての側面も強かった。 路〜県の地方行政区画もモンゴル貴族の投下領が優先され、民戸・軍戸に分けられた住民がそれぞれ農業・軍事を世襲した。
圧倒的多数派の中国人を支配する必要から“モンゴル・色目・漢人・南人”に区別する身分制を用い、モンゴル至上主義を貫徹する一方で、行政・税制などには旧来の制度を衍用することも多かった。 開祖チンギス=ハーン以来のパートナーともいうべき定住イラン人・ウイグル人を主とした色目人が各種特権を享受してモンゴル人と共に支配層を構成した一方、漢人(女真・漢人)・南人(南宋人)は概ね支配層から排除され、下野した知識人による民間での文化活動が、知識層の下方拡大と市民文化の普及をもたらした。
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アジア最大の富国/南宋を併合した元朝は、海上交易も積極的に活用して世界規模の交易圏を形成し、日元交易も又た前近代の日中交易では最も繁盛していたといわれる。 世界的な商業圏の形成は国内の商業・手工業の発達を促して都市が栄えたが、これは銀と塩を基幹とした紙幣主義の通貨政策と併せて商人に対する農民の隷属化を促し、殊に河南・江淮での搾取が甚だしかった。
遊牧社会の伝統を保った事で相続法も確定されず、そのため継承紛争は容易に武力衝突に直結し、通婚氏族たるオンギラト族の内訌もあって、キプチャク軍団を中核とした侍衛親軍が実権を握るようになった。 世界規模の異常気象が確認されるモンゴル帝国の没落期には、元朝でも通貨政策の破綻や軍閥抗争なども重なって中央は統制力を失い、14世紀半ばには搾取の最も激しかった河南で白蓮教の叛乱が発生して全国に拡大した。 殊に産塩地の江淮を失った事で政府財務は完全に麻痺し、白蓮教団から派生した朱元璋の北伐で中国を失い、以後しばらくは明朝と長城地帯を争ったものの、満洲のジャライル軍が制圧された翌年(1388)には大ハーンが内紛で殺され、モンゴルは分裂期に入った。
世祖 1215〜1260〜1294
元朝の初代皇帝。名はクビライ。セチェン=ハーン。モンケ=ハーンの弟。兄の下で漠南漢地大総督とされ、チベット・雲南を攻略した後にモンケと隙を生じて南宋攻略からも除かれたが、後に襄樊攻略に失敗したタガチャル(東方三王家盟主)に代わって東路軍の主将とされた。
この南征中にモンケが歿した後も鄂州攻略を続け、雲南から北上するウリャンハダイを収容する傍ら、南宋の賈似道との講和を成立させて帰国し、翌年頭にアリクブカに先んじて上都にクリルタイを召集し、三王家と五投下の支持を背景に大ハーンを称した。
1264年にアリクブカを帰順させ、1266年より国都大都の造営を開始し、中書省・枢密院・御史台・尚書省の中央官庁が揃った翌年(1271)に国号を大元と定めて中国の正統支配を宣言した。
中央・地方の各官庁はオンギラト族出身のチャブイ皇后の影響下に置かれ、例えば枢密院を統轄する燕王チンキムはチャブイの実子であり、中書省を掌握する右丞相アントンはチャブイの甥で、尚書省の平章政事アフマドはチャブイの内臣に等しく、そのためクビライ政権は時にオンギラト政権とすら称された。
クビライの簒奪は西方の各ウルスの自立化を促し、1287年には元勲以上の存在だった東方三王家すらカイドゥに呼応して叛くなど、対外的には安定することがなかった。
シリギの乱の後、モンゴル本土の防衛には左丞相バヤンをアルタイに進駐させたが、自身が重篤となると嫡孫のカマラにモンゴル本土を継承させ、大都に召還したバヤンに後事を託して10日後に病死した。
サイイッド=エジェル 1211〜1279
賽典赤。サイイッドとはアラビア語の“(アリーの血に列なる)貴族”にあたり、チンギス=ハーンに降ったブハラのムスリム貴族の裔と伝えられる。
オゴデイ〜クビライに仕え、モンケの時代に燕京等処行尚書省が置かれると燕京路総管とされて尚書令のヤラワチを輔け、モンケの死後にはクビライを支持して燕京宣撫使・中書平章政事とされた。
漠北が平定されると陝西・四川の平章政事に転出して南宋攻略を準備し、1274年には雲南行省平章政事に転じて大いに治績を挙げ、死後に咸陽王を追贈された。
アフマドと同時期に活動した色目人であり、その業務にはアフマドと重なる部分もあったが、アフマドが粛清された後も一族は声望を保ち、殊に雲南地方の住民に思慕され、鄭和をはじめ多くの回族がその後裔を称した。
パスパ 1235?〜1280
八思巴。元朝の初代帝師。チベット仏教サキャ派の座主。
本名はロトェギェンツェン。1253年にクビライに招聘されて授戒し、チベット統治の要諦として諸教派の自立自治を認めるよう進言して信任され、クビライの即位とともに帝師とされてチベットにおけるサキャパ派の優位を築いた。
チベットの行政権とウルス全体の仏教を統括し、これより同派の法王が元朝の帝師と宣政院の長官を兼ねるようになったが、結果的にチベット仏教僧の横暴を招いて漢族の反モンゴル感情を助長した。
又たクビライの要請に応じてモンゴル語を表記する新文字をチベット文字を基に創案したが、このパスパ文字は公用文字とされながらも普及せず、ウイグル文字に圧倒されたものの、勅書・官印・碑文などに用いられて後にモンゴル国字・方形文字と呼ばれた。
史天沢 1202〜1275
永清(河北省)の人。字は潤甫。
父の史秉直は金末の真定で軍閥化し、いち早くムカリに通じてモンゴルに降った。
史天沢は1225年に兄から都元帥を継ぎ、華北経略の累功によって漢人四大軍閥にも数えられ、蔡州攻略やモンケ=ハーンの南征にも参加した。
クビライの信頼も篤く、モンケ死後の内戦でもクビライを支持して1261年には漢人最初の中書右丞相とされ、李璮の討伐にも従い、アリクブカが来降した後は漢人軍閥の解体と再編を積極的に支持して1267年に左丞相に転じた。
襄陽の呂文煥の開城にも功があり、翌年(1274)に始まる南宋攻略では副司令官とされ、作戦行動中に病死すると太師・鎮陽王を追贈された。
李全 〜1231
濰州北海の人。金末の混乱期に農夫から無頼に転じて紅襖軍に投じ、剛勇と鉄槍を以て李鉄鎗と号した。
首領/楊安児の妹婿となって組織を嗣ぎ、1218年に宋の招安に応じて京東路総管とされ、東海一帯を横行したが、しばしば中央の統制に背いた為に1226年にモンゴルに青州を攻囲された際には援軍が得られず、翌年にモンゴルに降って益都を中心とした東海一帯の専権が認められた。
揚州を攻略して趙范(趙葵の兄)に敗死した。
李璮 〜1262 ▲
益都の人。字は松寿。李全の子。父の軍閥を嗣いで益都行省を称し、淮北にも勢力を拡大したが、1262年に南宋と通じてクビライに離叛し、半年で史天沢らに鎮圧されて処刑された。
この事件を機にクビライは漢人軍閥の行政・徴税権を奪って地縁性を排除し、華北をモンゴル系貴族の投下領と朝臣による一元支配に再編した。
王文統 〜1262 ▲
北京大定府(内蒙古寧城)の人。益都軍閥の出身で、クビライが漢人統制の為に中書省を新設するとモンゴル政府と漢人勢力の橋頭堡の1人として期待されて平章政事とされたが、漢人知識人層は軍閥に反撥して中書令チンキムを支持した。
李璮の叛乱で失脚して処刑され、中書省の実権はチンキムを中心とする漢人知識人に完全に移行した。
劉秉忠 1216〜1274
瑞州(遼寧省綏中)の人。字は仲晦、本諱は侃、法名は子聡、号は蔵春散人。
幼時より学問を好んで17歳で出仕し、滅金後に邢台節度使府令史とされたものの、懐才不遇を歎いて武安山に隠棲して得度した。
モンケ=ハーンの時代にクビライに招聘されて従軍し、姚枢らと漢人幕僚の招聘を勧めて許衡らを出仕させ、モンケが陣歿した際には共にアリクブカに先んじて即位する事を進言した。
クビライの即位で賜名され、顧問とされて枢機に参与し、国号・元号の制定や大都の造営をはじめ元朝の諸制度の制定・整備に深く関わって太保参預中書事とされた。儒・仏・道の三教に通じ、漢人幕僚の筆頭として“黒衣宰相”とも呼ばれ、死後に太傅・趙国公が追贈され、1318年には仁宗より常山王が加封された。
郝経 1223〜1275
沢州陵川の人。字は伯常。
儒学者の家に生まれ、金末に河北に遷って張柔・賈輔延の幕僚となり、次いでクビライの幕僚に連なって信任された。
鄂州攻略中にモンケ=ハーンが歿すると北帰しての簒奪を勧めて南宋との和議を成立させ、1260年に遣宋使となって鄂州の役の糊塗を謀る賈似道により真州に抑留され、1275年に解放されて程なく病死した。
この間、蘇武の故事に倣って雁書を放ち、解放された年に雁書が発見されて忠節が確認された。
朱子学に則って蜀漢を正統とした『続後漢書』を著したが、論拠や分類には主観的な部分が大きいという。
姚枢 1200〜1280
許州の人。字は公茂。夙に文学者として知られ、金末にモンゴル帝国に仕え、やがてクビライの側近となって信任され、大理経略や南宋攻略で虐殺が回避されたのは姚枢の進言によるものとされる。
クビライに即位を強く勧め、主に軍事面での漢人幕僚として厚く信任され、クビライの即位後に太子太師・大司農などを歴任し、又た学士や文人を庇護して漢人社会にも影響力が大きかった。
許衡 1209〜1281
河内(河南省沁陽)の人。字は仲平。夙に精学して経史を修め、姚枢より朱子学を学んでクビライの下で学官を歴任し、朝儀・官制など朝廷の諸事制定に貢献した。
アフマドを弾劾して致仕したが、後に出仕して集賢殿大学士に国子祭酒を兼ね、モンゴル人子弟の教育や新暦の作成に参与した。後に元代三大儒と称された。
王実甫
燕京の人。字は徳言。金末元初の元曲作家として知られ、“西廂記”など14作品を遺した。
“西廂記”は唐の元稹の『会真記(鶯鶯伝)』をもとに脚色が重ねられたものを王実甫が戯曲化したもので、全5本21幕より成り、前4本が王実甫、後1本が関漢卿の作とされる。ドラマ性や典麗な曲辞、優れた心理描写などから元曲中の傑作と評される。
関漢卿 ▲
燕京の人。号は己斎叟。金末に太医院尹だったとも伝えられ、滅金後は仕官せず、元曲の作家として多くの名作を遺し、雑劇の始祖に挙げられる事もある。現在は63作中30作が存し、“竇娥冤”“救風塵”“単刀会”などが知られる。
劉整 1213〜1275
ケ州穣県の人。字は武仲。金末に南宋に亡命して孟珙に属し、勇略を以て「賽存孝(李存孝の再来)」と絶賛され、潼川安撫使・知瀘州軍州事に累進した。
呂文徳とは激しい確執を生じ、モンケ=ハーンを撃退した後に呂文徳と四川制置使兪興に誣された為に1261年に瀘州を以て元に降り、四川の経略を進めた。
孟珙の構築した南宋の北防体制を熟知していたことでクビライに襄樊攻略を強く勧め、自身は成都で水軍を編成し、1268年に始まる襄樊攻略では攻城を認められず、アジュに属して援軍の范文虎を大破した。
襄陽陥落で行淮西枢密院事とされ、バヤンの南征では淮南からの渡江を求めたものの聴かれなかったことで憤死した。
呂文煥
安豊(安徽省寿県)の人。南宋の荊湖制置使呂文徳の弟。知襄陽府・荊西按撫副使として1268年より始まるモンゴルの襄樊攻略に抵抗し、援軍を悉く撃滅された後も堅守したが、回回砲(トレビュシェット=錘式投石機)の投入もあって1273年に降伏した。
紙縒を衣とし、甲革を煮て糧としながらも叛兵を出さず、又た勇略もクビライに高く評価されて将軍に起用され、麾下の兵は近衛兵待遇とされた。
モンゴル軍の南宋攻略では水軍の先鋒となって多くの城塞を無血開城させ、臨安開城時には城内の軍民を按撫したが、現代に至るまで呂文煥を売国奴とする史評は殆ど生じていない。
張弘範 1238〜1280
易州定興(河北省)の人。字は仲疇。張柔の第9子。
父の軍閥を嗣ぎ、李璮鎮定の功で順天路管民総管とされ、襄樊攻略ではアジュの副将となり、一字城を築いて襄・樊の連絡を断って樊城を降した。
臨安が開城した後の江南攻略で鎮国上将軍・江南宣慰使・蒙古漢軍都元帥とされ、大先鋒として彼我の損害を最小限に抑えつつ追討を進め、五坡嶺に文天祥を捕え、克Rに陸秀夫ら南宋の遺廷を滅ぼしたが、帰途に病死した。
夏貴 1198〜1280
安豊(安徽省寿県)の人。字は用和。李璮の乱では両淮制置司として救援に北上したものの防禦線を突破できずに撤収し、1271年の襄陽救援では虎尾州で敗れて退いた。
1275年、バヤンの南征を迎撃する賈似道に従って蕪湖で大敗し、帰路を阻まれて淮西に逃れた後、臨安の開城とバヤンの説得で元軍に降った。日本再征(弘安の役)では蛮子軍(宋兵)の主将とされたが、出征前に憂死した。
范文虎 〜1301 ▲
賈似道の娘婿。1271年の襄陽救援では夏貴に次いで起用されたが、緒戦の敗北で戦線を離脱して10万の兵を失い、来援した李庭芝をも掣肘して襄陽救援を失敗させた。1275年の蕪湖の役にも従い、敗走後に安慶で元に投降した。
両浙大都督、中書右丞を歴任し、1281年の日本再征(弘安の役)では夏貴の後任として江南軍の蛮子兵(宋兵)を指揮したが、台風で船団が壊滅すると残兵を見捨て、腹心だけを随えて逃げ帰った。1301年に至り、日本からの送還兵による告発で処刑された。
郭侃 〜1277
華州の人。字は仲和。
郭子儀の裔を称し、史天沢に認められて20歳で百戸長とされ、スベデイの金朝経略に従事した。
殊に攻城戦に長じ、千戸長としてフレグの西征に従った際にはアラムート砦をはじめ計128城を抜き、アッバース朝の首都バグダード城を陥してカリフを捕え、シリア・アナトリアでは十字軍の120余城を抜き、常勝不敗の戦績と卓抜な用兵から“東天の神人”と称された。
モンケ=ハーンの訃報によって中国に帰投し、李璮の乱では呼応した徐州総管李杲哥を平定して夏貴を撃退し、以後は主に内乱鎮圧に従事して万戸長に進んだ。襄樊攻略や南宋征服にも参加し、知寧海州事とされて1年で歿した。
シリギ
モンケ=ハーンの子。
モンケ死後の内戦ではアリクブカを支持したものの、クビライにもモンケのオルダの相続を認められて1267年には河平王に封じられた。
北平王ノムガンの西征に従った際、軍中のアリクブカの諸子と結んで造叛し、カラ=コルムに拠って西方諸ウルスとの提携を模索したものの不調に終り、オルコン河畔で左丞相バヤンに大敗して西奔した。1282年にバヤンに降って虜囚のまま歿した。
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シリギの乱 (1276〜1282):北平王ノムガンの主導する中央アジア制圧軍での、シリギを盟主とする造叛。
クビライの奪権以来、オゴデイ家のカイドゥを軸に混乱する中央アジアに対し、クビライは北平王ノムガン・右丞相アントンを主副として派兵し、翌年(1276)にはチャガタイ=ウルスの根拠地のイリ渓谷を制圧させてカイドゥらを圧迫した。
これに従軍していたシリギは、アリクブカの遺児ヨブクル・メリク=テムルらと与にアルマリクで造叛し、主副両将を執えてイリの進駐軍を瓦解させた。
カラ=コルムを占拠してノムガンをジュチ=ウルスに、アントンをカイドゥに渡したものの両者の呼応は得られず、内部の結束性にも欠け、江南から急派された左丞相バヤンに各個撃破されて高原から駆逐された。
乱の末期にヨブクル・メリク=テムルがカイドゥに帰属した事でアルタイ以西のトゥルイ家領の多くがカイドゥに与する事になり、これにカイドゥのオゴデイ家西方領とドゥアのチャガタイ家西方領を併せたものが、ペルシア語記録で“カイドゥの国”と呼ばれる。
チンキム 〜1285
クビライ嫡出の第2子。
夙にクビライの漢人幕僚に支持され、中書令とされた翌年(1262)には王文統の失脚で中書省を掌握し、燕王に封じられた翌年(1264)に枢密院が分離された後も判枢密院事を兼ねて腹裏の庶政を総覧した。
中書右丞相アントンとの繋がりも強く、1273年に皇太子とされ、1279年より国事の決裁にも携わった。
財務官のアフマドとは、行政への干渉や漢人に不評な税制の執行などを批判して党争し、チャブイ皇后の死後に王著によるアフマド暗殺を結果した。1284年には軍の中核の五投下が親衛隊として認められたが、その翌年に急死した。
太子府は未亡人バイラム=エゲチの管理下に隆福宮と改称され、その富財はクビライ死後の政界すら左右した。
アントン 1245〜1293
ジャライル部のムカリ国王の曾孫。
父のバートルはクビライの謀首で、モンケの死に際して鄂州攻略とウリャンハダイ救出で声望を高めてからの北上・僭称を献策し、これによって三王家と五投下に代表される左翼勢力や華北在駐のモンゴル勢力の支持を得、クビライの奪権を大きく前進させた。
バートルの夫人テムルンはオンギラト出身で、チンギス=ハーンの第一夫人ボルテの姪、クビライの正妃チャブイの同母姉に当る。
アントンは1261年にバートルが歿すると宿衛として宮中に迎えられ、1274年にアフマドを失脚させて政府首班の右丞相とされ、次いで北平王ノムガンを輔けてアルタイの防備に当ったが、シリギの乱で執われてカイドゥの許に送られた。
1284年頃に大都に送還されると右丞相と凖皇族としての待遇を安堵され、翌年に盧世栄を失脚させたが、サンガの排斥には失敗して1291年には右丞相を退いた。
アフマド 〜1282
ファナーカティーとも。シル=ダリア上流のファナーカトの人。
クビライの第一夫人チャブイ皇后に仕え、クビライにも認められて1262年に諸路都転運使とされ、1266年より中書平章政事に国用使司(財務機関)の長官を兼ね、1270年に財務機関として尚書省が独立するとその平章政事とされて中書省に伍す格式を備えた。
税制の整理や戸口の把握、殊に南宋を征服した後は塩の専売制や通商の振興と商税の整備などで元朝の財政を支えたが、重税を課して私庫にも充てるなど西アジア的徴税吏の性格が強く、漢人のみならず一部の色目人からも強く嫌悪された。
1272年に中書省と尚書省が合併した後は行政にも参与するようになり、又た一族縁故が多く行財政の要職に就いた事もあって絶大な権勢があり、そのため燕王チンキムと対立し、チャブイ皇后が歿した翌年に皇太子派の王著に暗殺された。
王著はクビライに処刑されたが、間もなくアフマド一党の不正が露見して尽く処罰された。
サンガ 〜1291
桑哥。ウイグル人。
国師タンバの弟子で、諸国語に通じて通訳官より抜擢され、初代の総制院使とされた。
又た財政の事にもしばしば言及して財務手腕を以て盧世栄を推挙し、その死後の1287年には復置された尚書省の平章政事とされ、同時に行中書省が行尚書省に改変された事で行政にも絶大な発言力を有した。
兌換価値の低落していた交鈔/中統元宝に替えて至元宝鈔を発行し、塩・茶税の増税などを行なって緊急的な増収を果たし、1289年には大運河を衛河に連結して江南と大都を直接させる事にも成功した。
クビライに絶大に信頼されて尚書右丞相に進められたが、サンガ派の官界進出は譜代や中書省の既得権を侵し、そのため私党を組んで不正が多いとの糾弾が続いて処刑された。
盧世栄 〜1285 ▲
大名(河北省)の人。財務への通達を以てサンガに推挙され、1284年には中書右丞相に至って通貨整備・税制改革の断行、常平塩局の創設による塩税の増税、対外貿易の国営化などを行ない、歴戦で悪化する財政の再建に努めて重用された。
包銀や地税の減免なども行なったが、朝野の反感の昂揚と横領の露見で処刑された。
楊l真伽
チベットの仏教僧。帝師パスパの弟子。
クビライに寵遇されて1285年に江南仏教を総監する江南釈教総統となり、サンガと結託して南宋諸帝の陵墓や重臣の墓を劫略したと伝えられる。
臧賂・横領をはじめ権勢によった横恣な行為が多く、漢人の元朝・チベット仏教に対する反感を大いに煽り、サンガに連坐して失脚した。
ナヤン 1258〜1287
東方三王家の盟主/オッチギン家の当主。クビライの即位を支持したタガチャルの孫。テムゲ=オッチギンの玄孫。日本再征の負担や元朝官吏の横恣などから政府と不和となり、1285年に遼陽行省が新設されたことで完全に対立した。
1287年に三王家を率いて挙兵し、カイドゥとの東西からの挟撃を図ったが、遼河畔でクビライに大破されて処刑された。
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ナヤンの乱 (1287〜1292):東方三王家の乱。ナヤンは三王家盟主のオッチギン家の当主。
東方三王家はクビライ政権の正統性の象徴でもあったが、日本再征の準備を通じて元朝政府と不和となり、1287年にカイドゥとの呼応を図るナヤンに従って蜂起した。
ナヤンが遼河畔で侍衛親軍を親率するクビライの急襲に惨敗した事で三王家の乱自体は2ヶ月余で平定され、カイドゥもクビライのカラ=コルム進駐で後退したが、カチウン家傍流のカダアンは抵抗を続けて北満から朝鮮方面に転戦し、1292年にカダアンの子のラオディが鴨緑江畔で滅ぼされて一連の乱は終息した。
各王家の当主を含めてナヤン以外の処刑者は極少数で、以後も三王家は存続を許されたが、元朝での発言力は大きく後退した。
バヤン 1236〜1295
伯顔。バーリン部出身。曽祖父がチンギス=ハーンに従ってよりモンゴルに仕え、父と共にフレグの西征に従軍し、使節として1264年に来朝した際にクビライの求めで大都に留まり、アントンの妹婿となって中書左丞相とされた。
1274年に始まる南宋征服では総司令官とされて襄陽から東下し、1276年には宋都臨安の無血開城を果たしたが、征路では抵抗する城市を除いて秋毫も犯さなかった。
翌年にアルタイでシリギが叛くとカラ=コルム行枢密院事とされて漠北に急派され、叛乱軍を鎮圧して中央アジアに対する防備を再構築した。
ナヤンの乱でも東進するカイドゥを能く抑え、1293年に危篤となったクビライに召還されると中書平章政事として腹裏の統軍を委ねられ、翌年にクビライが歿するとカマラ派を一喝してテムルの大ハーン選出を成功させた。
死後に淮安王を追贈された。
アジュ 1227〜1280
阿朮。ウリャンハダイの子。
勇略に長け、大理・ベトナム遠征や李璮討伐に従い、1264年には征南都元帥として両淮を経略し、臨安を震撼させた。
襄樊攻略では総司令官され、夏貴・范文虎らの援軍を大破し、襄陽を開城させた。
1274年に始まる南宋征服では荊湖行省平章政事とされて左丞相バヤンの前軍となり、僚将の呂文煥と共に長江の渡江を果たして漢陽・顎州を降し、翌年に蕪湖で賈似道を大破し、建康を陥すと江北攻略に転じて1276年に李庭芝の拠る揚州を陥した。
温厚静謐でありながら戦場では苛烈で、民を侵すことを厳禁したという。
シリギの乱の追討中にビシュバリクで病死し、河南王を追贈された。
ジャマール=ウッディーン 〜1301?
イラン=ムスリム。
モンケの時代に来朝してクビライに仕え、1267年にアラビアの天文機器とともに万年暦を献じた。
1271年には大都に建設された回回司天台の初代提点(長官)とされ、次いで秘書監をも兼ね、マラーガの天文台から先進的なアラビアの天文学・暦学・科学を移入し、後に精密なアジア地図の作成を志したが、半ばで歿した。
万年暦は中国暦法の一大変革となり、以後も改良を重ねて1280年には「中国最善の暦」と称される郭守敬の授時暦に結実した。
ラッバン=ソーマ 〜1294
ウイグル出身のネストリウス派キリスト僧。
大都のラッバン(景教の長老)となった後、1275年頃にクビライの認下で弟子のオングート人マルコスとともに聖地巡礼に赴き、バグダードで景教の総主教から巡回総管大主教に任じられ、西アジア各地を巡ったものの治安問題からイェルサレム巡礼は断念した。
総主教の死(1281)でマルコスが後継に選ばれてマール=ヤバラーハIII世となった後、欧州諸国との対マムルーク朝軍事同盟を模索するイル=ハン=アルグンの求めで、国使として1287年にコンスタンティノープル・ローマ・パリなどを歴訪して英王エドワードI世とも面謁し、その間にエトナ火山の噴火にも直面した。
帰国後の1291年にフレグ=ウルスの首都マラーガに景教の会堂を建て、落成の翌年にバグダードで歿した。
欧州諸国との軍事同盟は成立しなかったもののモンゴルと欧州との交流の活発化を促し、バチカンによるモンテ=コルヴィノの大都派遣などが行なわれた。
ラッバン=ソーマの旅行記はシリア語書物の中に良好な形で遺され、当時の欧州諸国の事情を知る貴重な資料とされている。
隆福宮
皇太子チンキムがクビライから分与された財産の保管機関を母体とし、これを管理していたチンキム未亡人のバイラム=エゲチ(オンギラト族)が、成宗テムルの即位で皇太后とされた事に伴って旧皇太子府が隆福宮と改称されたもの。
領地領民の統治機関として徽政院が設置されるなど、その財富は1ウルスに匹敵したと伝えられる。
テムルの死後、監国のブルガン皇后(バヤウト族)が権勢の維持を図って傍流の安西王アナンタを擁立すると、オンギラト派はチンキムの孫のアユル=バルワダを迎立してクーデターを成功させ、隆福宮を確保しただけでなく安西王家を廃して東宮領とした。
アユル=バルワダの嗣子シディバラは、1323年に祖母のダギ太后(オンギラト族)が歿するとダギ派の排除を進めた為に暗殺され、次いで迎立されたエスン=テムルの時代にはオンギラト族の内訌が表面化し、これが結果的にオンギラト勢力の凋落をもたらした。
エスン=テムル死後の天暦の内乱で晋王派が敗れた事で、オンギラト勢力を中心とした五投下時代は終わり、同時に元朝の衰退の分岐点ともなった。
成宗 1265〜1294〜1307
元朝の第二代皇帝。名はテムル。オルジェイト=ハーン。チンキムの末子。クビライの孫。
1293年に皇太子とされ、クビライが歿するとバヤンの強力な支持で大ハーンとされ、兄の晋王カマラからも既得権の安堵を条件に承認された。
即位後は激化する対カイドゥ作戦と平行してチベット・雲南・貴州を経略し、1301年にカイドゥを大破した後、1304年にはチャガタイ家のドゥア・カイドゥ家のチャバールの請和を認めた。
又た綱紀粛正や内政整備などで元朝を安定させたと伝えられるが、生来の病弱から治世の前半は太后バイラム=エゲチが、後半は正皇后のブルガンが主導していた。
嗣子なく歿し、監国となったブルガン皇后はチンキムの次弟/安西王アナンタを迎立したが、チンキムの孫のアユル=バルワダを奉じるオンギラト派との政争に敗れて殺された。
カマラ 1263〜1302
甘麻剌。燕王チンキムの嫡長子。カイドゥらの蠢動で自立化の著しい中央アジアに対してアルタイに進駐し、1289年に大破されたものの、1291年には晋王に改封されてチンギス=ハーンの四大オルドとその牧民を継承した。
そのためクビライの死後には大ハーンに推す声もあったが、テムルを支持するバヤンの存在と、先の敗戦やチンギス=ハーンの祖訓に対する理解などからテムルが新ハーンに選出された。
1300年に始まるカイドゥの大攻勢でも累敗し、甥のカイシャンの援軍で撃退したもののその翌年に歿し、晋王家の所領も大きく削減された。
ノムガン ▲
クビライの第4嫡子。
1266年に北平王に封じられ、高原の牧民と四大オルドを託されてチンギス=ハーンの祭祀を執行するなど、副王的な存在と見做された。
1275年には中書右丞相アントンを従えてチャガタイ=ウルスの制圧に成功したが、翌年に軍中のシリギの造叛に遭って執われ、遠征軍の瓦解によって中央アジアの諸ウルスの自立化が進展した。
ジュチ=ウルスに送られたのち1282年に解放され、以後も北安王として漠北に進駐したものの統軍権は左丞相のバヤンにあり、死後は無嗣によって王家も廃された。
顔輝
江山(浙江省衢州)もしくは廬陵(江西省吉安)の人。字は秋月。南宋末には画家として知られ、成宗のとき宮廷画家として江西省吉州の道観に壁画を描き、絶筆と称されたという。
仏教・道教の図像や鬼神画を得意として「筆法奇絶、八面の生意あり」と称され、又た肖像画や猿猴画にも長じた。
宋代の写実的作風に独自の新生面を開き、幽玄な怪奇さを強調した。
道釈人物画の名手として知られ、後の日本の画壇にも大きな影響を与え、京都知恩寺に伝わる双幅の蝦蟇鉄拐図は、公認されている唯一の作品とされる。
高克恭 〜1310
大同の西域人、あるいはウイグル人。字は彦敬、号は房山。
父に従って房山に移居した当初は家業の経学を修め、後に出仕すると刑部尚書に至り、人材登用に意を用いて科挙の再開を進言し、民治にも治績があった。
詩・画に秀で、画は米父子に学び、後に李成・董源の画法をも会得して山水画の名手と称され、墨竹画も得意とした。
武宗 1281〜1307〜1311
元朝の第三代皇帝。名はカイシャン。クルック=ハーン。成宗の甥。チンキムの次子ダルマバラとオンギラトのダギ妃との長子。
ダルマバラはチンキムの死後、クビライに将来を嘱望されながらも1292年に歿し、ダギは成宗によって嫂婚の対象とされたこともあった。
カイシャンはダギを敵視するブルガン皇后によって、カイドゥの攻勢が激化したアルタイ戦線に派遣されたが、善戦して1301年にはカラ=コルム郊外にカイドゥを大破し、1304年に懐寧王とされた。
アルタイで成宗の訃報に接すると親衛のキプチャク軍団を率いて上都に入り、即位式を挙げたのち大都に迎立された実弟のアユル=バルワダに譲位させたが、内紛を避けるために己が子を継嗣とする事を条件にアユル=バルワダを正式に皇太弟とし、又た隆福皇太后ダギの為に隆福宮の上位に新たに興聖宮が建てられた。
在位中はモンゴル諸ウルスの和合に努めてモンゴル帝国の再現をほぼ実現したが、その一方で官爵や歳賜の濫授に象徴される放漫財政はチベット仏教への傾倒とともに元朝の財政を逼迫させ、新交鈔(至大銀鈔)の発行も失敗し、又た側近団を優遇した事でオンギラト派の不満を鬱積させた。
アナンタ 〜1307
安西王マンガラの嗣子。クビライの孫。1280年に王位を襲いだ。
カイドゥの攻勢が激化したアルタイに進駐し、1306年に来降したアリクブカ家のメリク=テムルを伴って大都に上京したが、成宗の病死と重なった為に権勢保持を図るブルガン皇后によって擁立された。
間もなく河南から迎えられたオンギラト系のアユル=バルワダを擁した兵変でブルガン・メリク=テムルらと共に捕えられ、即位した武宗によって殺された。このとき安西王家も廃されたが、天暦年間(1328〜30)にアナンタの子のオルク=テムルを以て再興され、文宗の末年(1332)に廃された。
マンガラ 〜1280 ▲
クビライ嫡出の第3子。1272年に安西王に封じられ、クビライの即位前の京兆領を嗣ぎ、京兆と六盤山を王庭として陝西・甘粛・四川一帯を支配し、オゴデイ東方領たるコデン=ウルスやチャガタイ東方領たるチュベイ=ウルスをも統制した。
シリギの乱が生じると漠北に転戦して事態の収拾に尽力した。
モンテ=コルヴィノ 1247〜1328
イタリアのモンテ=コルヴィノ出身のフランシスコ会修道士。名はジョヴァンニ。
モンゴルに対する宣教を任とし、1289年にはラッバン=ソーマを介したイル=ハン=アルグンの要請に応じてバチカンから派遣され、フレグ=ウルスからインドを経て1294年に大都に入った。1299年には大都に最初のカトリック教会を建て、宣教の傍らで景教を排撃し、1307年には大都の大司教とされた。
『新約聖書』をモンゴル語に翻訳し、中国で歿した。モンテ=コルヴィノの布教は一定の成果を挙げたらしく、ローマでは武宗改宗の噂が信じられたという。
仁宗 1285〜1311〜1320
元朝の第四代皇帝。名はアユル=バルワダ。ブヤント=ハーン。武宗の実弟。成宗のとき母のダギと共に河南の懐孟領に徙されたが、成宗が歿するとオンギラト派のクーデターで擁立され、まもなくアルタイ方面から転進したカイシャンに譲位したものの、カイシャンの子を継嗣とする条件で皇太弟とされ、カイシャンが急死すると直ちに大ハーンとされた。
儒仏を好むなど漢文化に傾倒し、『貞観政要』のモンゴル語訳を行なわせ、一時的な科挙復活は、武宗が復置した尚書省の廃止と共に漢人知識人層によって絶賛されたが、政府の実権はダキ太后と、ダキの側近でもある中書右丞相のテムデルにあった。
太后ダギが五台山信仰に狂奔したために極度に財政が逼迫し、科挙復活は漢人の協力を欲する迎合策の側面があったとも称されが、一般には征服王朝の成熟期として高く評価される。
カイシャンの遺児は1316年にダギによって廃嫡され、仁宗の長子のシディバラが皇太子とされた。
趙孟頫 1254〜1322
湖州呉興の人。字は子昂、号は松雪道人。趙子昂として知られる。
1286年にクビライに召されて兵部郎中とされ、後に翰林学士承旨・栄禄大夫・知制誥まで進んだ。
宋の宗室でありながら元朝の高官となったため、以後の知識人の多くに変節漢と糾弾された。
詩文書画に長じ、王羲之を学んだ書は楷行草書に優れ、貴族としての風格は同時代では冠絶すると讃えられ、又た画は南宋院体画を否定して六朝文人画の復興を実践し、呉興派を興して元末四大家にも多大な影響を与えた。死後、江浙行省平章事・魏国公を追贈された。
英宗 1303〜1320〜1323
元朝の第五代皇帝。名はシディバラ。ゲゲーン=ハーン。仁宗の嗣子。即位当時は太后ダギと宰相テムデルが朝政を専断して帝室財政は極度に悪化しており、1322年のダギの死を機にアントンの孫のバイジュを中書右丞相とし、助役法を実施するなど強力に改革を推進した。
一方では孔子の末裔を優遇するなど漢文化を尊重したが、大量の粛清を伴う急進的な改革と漢人優遇はダギに連なるオンギラト派に憎悪され、夏期の移営の際にテムデルの子の御史大夫テクシにバイジュと共に殺された。
泰定帝 1293〜1323〜1328
元朝の第六代皇帝。名はエスン=テムル。晋王カマラとオンギラト妃との子。チンキムの孫。
英宗を暗殺したオンギラト派のテクシによってハンガイ地方より迎えられたが、ケルレン河畔で即位した後に大都に派兵してテクシ一党を粛清し、ダウラト=シャー(タラシャ)を重用してモンゴル至上主義に回帰した。
英宗以来の政争はオンギラトの内紛に他ならず、五投下筆頭のオンギラトの分裂は元朝の弱体化を促した。
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天暦の内乱 (1328);泰定帝死後の、上都の晋王派と大都の旧カイシャン派による内戦。
泰定帝が歿すると、宰相ダウラト=シャーは上都に太子アスギバを立てたが、大都のキプチャク軍団長エル=テムルはカイシャンの次子トク=テムルを立てて対抗し、上都側が大都攻略で敗退した後、復権を図る三王家のカサル家=斉王が大都勢力に呼応して上都を陥した事でオンギラト派は政権を失った。
天順帝 〜1328
元朝の君主。名はアスギバ、アリギバ。泰定帝の嗣子。母はオンギラト出身。父が歿すると左丞相のダウラト=シャーによって上都に立てられたが、天暦の内乱でトク=テムルを擁する旧カイシャン派に敗れて2ヶ月足らずで廃された。
明宗 1300〜1328〜1329
元朝の君主。名はクシャラ、コシラ。武宗の長子。母はイキレス氏族出身。武宗が弟のアユル=バルワダを皇太弟に定めた際、その継嗣とする事が約されたが、1316年に反故とされて周王に降格され、雲南へ遷される途上で暗殺を逃れてアルタイ方面に奔り、チャガタイ諸王と同盟した。
天暦の内乱で弟のトク=テムルが擁立されると、武宗に倣って東行してカラ=コルム郊外で即位を宣言し、翌年早々に玉璽が譲渡されたが、秋にトク=テムルと会見した4日後に急死した。エル=テムルによる暗殺とされる。
文宗 1304〜1329〜1332 ▲
元朝の君主。名はトク=テムル。明宗の弟。母はタングート族出身。英宗が即位すると海南島に流されたが、泰定帝の時に懐王に封じられて江陵に遷された。
泰定帝の死後に大都のエル=テムルに迎立されて天暦の内乱に発展し、上都勢力には勝利したものの、即位式の勅書で兄クシャラへの譲位を仄めかす一節があり、これを理由にカラ=コルムで即位を宣言したクシャラに譲位して皇太弟となった。
クシャラが急死した事で改めてエル=テムルに立てられ、クシャラの徒党を悉く排斥してエル=テムルの独裁状態となり、政権は政争と利権争奪の場となった。
文宗自身は漢文化に傾倒して朱子学を保護し、元朝の諸制度を漢文で記した『経世大典』を編纂させるなど文運隆盛の時代と称される。
欧陽玄 1273〜1357
瀏陽の人。字は原功。特に宋学に通じ、仁宗代に進士となり、累進して翰林学士承旨とされた。『経世大典』『四朝実録』を編集し、『遼史』・『金史』・『元史』の撰修総裁官とされ、在官中に宗廟朝廷の文冊制誥の多くを司った。
寧宗 1326〜1332/1332
元朝の君主。名はイリンジバル、リンチェンバル。明宗の子。母はナイマン出身。
父の死後に大都で鄜王とされ、文宗の死後、その遺言として明宗の遺児擁立を唱える監国のブッダシュリ皇后(オンギラト族)の求めで立てられた。在位43日で急死した。
エル=テムル 〜1333
クビライの侍衛親軍の中核となったキプチャク騎兵団長トトハの孫。
カイシャンに寵遇され、その死後は不遇だったものの、泰定帝の時代には僉枢密院事に進んで大都に重きを為し、上都で泰定帝が歿すると河南省平章政事バヤンと結んで大都に挙兵し、江陵からカイシャンの遺児のトク=テムル(文宗)を迎立して天暦の内乱を惹起した。
上都を覆滅した後、文宗に譲位させた明宗を暗殺し、文宗を復辟させて朝廷の全権を掌握し、文宗の死後は手許で養育した皇子エル=テグスの擁立を図ったものの、文宗の遺志を唱えるブッダシュリ皇后に妥協して明宗の遺児のイリンジバル、次いで自ら広西に放逐したトゴン=テムルを已むなく擁立した。
エル=テグスを立てる為にイリンジバルを暗殺したとも伝えられ、トゴン=テムルの即位式を認めないまま3ヶ月後に病死した。
エル=テムルの死後は弟のサトンとその子のタンギシが相次いで左丞相を嗣ぎ、又た娘のダナシュリはトゴン=テムルの皇后となって一門の権勢を保ったが、右丞相バヤンとの政争に敗れ、1335年に造叛したものの敗れて族滅された。
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キプチャク騎兵団はクビライが各ウルスから招致・編成した侍衛親軍の中核を為し、ナヤンの乱で初めて実戦投入され、トトハはこのとき軍団長として大功を挙げた。
以来、侍衛親軍はモンゴル族として遇され、トトハの子のチョングルも軍団長としてカイシャンの軍事的成功に大きく貢献し、これよりカイシャンの血統を尊重する精鋭組織となった。
ブッダシュリ 〜1340
オンギラト出身。文宗トク=テムルの皇后。
カイシャンの父/ダルマバラの外孫。トク=テムルの配流にも従い、トク=テムルの即位と共に皇后とされた。トク=テムルの死後、権臣のエル=テムルに養育された実子のエル=テグスを措いて文宗の遺志として明宗の子の擁立を強く主張し、イリンジバル、次いでその兄のトゴン=テムルを即位させた。
成人したトゴン=テムルが右丞相バヤンの排斥に成功すると、皇嗣とされていたエル=テグスと共に追放され、配所の東安州で暴死し、エル=テグスも高麗への途上で暗殺された。
恵宗 1320〜1333〜1370
元朝の君主。順帝。名はトゴン=テムル。明宗の長子。母はカルルク族出身。
明宗の死後に権臣エル=テムルによって広西に放逐されたが、弟の寧宗の急死によって大都に迎えられ、翌年にエル=テムルが歿してようやく即位した。
実権は中書右丞相となったバヤンにあり、バヤンの甥のトクトと結んで1340年にバヤンの排斥に成功したが、以後も政争を利用して権臣の抑制を図った結果、全国の疲弊を助長して各地で叛乱が続発した。
1348年に浙江に方国珍が、1351年に河南に紅巾軍が、1353年には淮南に張士誠が挙兵して腹裏以外を失い、元朝経済の要である淮南の回復を急務としてトクトを派兵したものの、讒言から行軍中のトクトを罷免したことで討伐軍が瓦解し、政府としての組織力も失った。
1356年には皇太子アユル=シリダラを擬主とした簒奪計画も発覚し、これより皇太子派と反対派の政争が激化し、後にそれぞれが軍閥と結んで抗争した事で江南の分立状態に有効な対応ができず、朱元璋の北伐軍によって1368年に大都を逐われ、塞外の応昌で病死した。
チベット仏教への傾倒で仏僧の放恣を助長した結果、漢人の反感を募らせて元朝滅亡の多くの要因を負わされ、高麗人を皇后とした事すらクビライの祖法を無視した亡国の原因とされた。
バヤン 〜1340
メルキト族出身。
アルタイ以来のカイシャンの部将で、武宗の即位後は要職を歴任して平章政事に至った。
武宗の死で失脚したが、泰定帝の時には河南省平章政事に至り、天暦の内乱では大都のエル=テムルと結んで中書左丞相・知枢密院事とされ、1333年にエル=テムルが歿すると恵宗を即位させて政府首班の中書右丞相となった。
1335年にはエル=テムルの遺児タンギシの兵変を鎮圧して政・軍の大権を掌握したが、恵宗に忌まれて1340年に甥のトクトに奪権され、配所の広東に赴く途上で頓死した。
漢人の叛抗に対し、張・王・劉・李・趙の五姓を滅ぼす政令を建議したことでも知られる。
トクト 1314〜1355 ▲
バヤンの甥、養子。バヤン奪権後の1338年に御史大夫とされ、恵宗と結んで1340年にバヤンを追放して中書右丞相となり、全権を掌握した。
1344年に旧泰定帝派と結んだ恵宗によって甘粛に逐われたが、1349年に徴還されて中書右丞相に復官し、久しく決壊が放置されていた黄河の治水に着手し、同時に至正交鈔を発行して治国の再建を進めた。
科挙の再開や『金史』『遼史』『宋史』の編纂なども行なわれたが、世界規模の異常気象もあって漢地は末期症状を呈しており、強行的な黄河の改修から生じた白蓮教徒の乱が全国に拡大し、1354年に淮南の張士誠を伐って大破したものの、実権回復を謀る恵宗によって軍中で解任され、雲南に流される途上で毒殺された。トクトの死で元朝は組織能力を失い、元朝の中国支配の事実上の終焉となった。
ボロ=テムル 〜1365
平章政事タシ=バートルの嗣子。父に従って雲南・四川などを転戦してその軍団を嗣いだ。
1358年に河南省平章政事とされて河南・山東の各地で紅巾軍を大破した後、山西を北上した紅巾軍を追って翌年には大同を占拠し、上都にも追討して大勢力となった。
上都掌握を図った事で皇太子アユル=シリダラと不和となって大都の反皇太子派と結び、又た太原の支配をチャガン=テムルと争った結果、皇太子とチャガン=テムルが連和した。
1364年に大都に入城して皇太子を逐い、中書右丞相となってチベット仏教僧や宦官を放逐して綱紀粛正を図ったが、厳刑を濫用した事で人心を得られず、翌年に皇太子を擁したココ=テムルに大破され、大都で恵宗に暗殺された。
チャガン=テムル 〜1362
穎州沈丘(安徽省臨泉)に土着したウイグル化したナイマン人。字は廷瑞。
1352年に紅巾軍に対して自衛軍を組織し、李思斉らと提携して紅巾軍を退け、朝廷より汝寧府達魯花赤とされて私領を安堵された。
腹裏の紅巾軍を伐って河北行枢密院事へ進められ、1357年に陝西行省の全権となって関中の紅巾軍を殲滅し、1359年には開封を奪還して大宋紅巾軍を瓦解させた。
以後は大同のボロ=テムルと太原の帰属を争い、その関係で皇太子アユル=シリダラと結んだが、ボロ=テムルとの抗争は張士誠ら叛抗勢力に再興の余地を与え、自身は山東の紅巾軍を討伐中に益都で暗殺された。
ココ=テムル 〜1375 ▲
本姓は王。チャガン=テムルの甥、養子。
義父の兵権を継ぎ、益都の叛将田豊・王士誠らを平定し、太原の占拠にも成功してボロ=テムルとの対立が激化した。
1364年にボロ=テムルに大都を逐われた皇太子アユル=シリダラを迎え、翌年にはボロ=テムルを大破して中書左丞相・河南王とされた。
叛軍討伐に各地を転戦し、その勇略は朱元璋にも畏敬されたが、漢人将兵の厭戦と皇太子の猜忌に直面して朱元璋の北伐に対応できず、1368年に河南で敗れると太原を放棄して甘粛に退いた。
1370年にカラ=コルムで即位した皇太子(昭宗)に合流して国事を総覧し、1372年にはトゥーラ河畔に明の大将軍徐達を大破して政権を安定させ、後にアルタイ地方を鎮定した。
方国珍 1319〜1374
黄巌(浙江省)の塩商出身。方国真とも。
1348年に海賊との交易を密告されて海上に逃れ、数千人を集めて海賊を行なう一方で政府軍を撃退する勢力を示し、元朝の招撫と離背を繰返しつつ制海権をほぼ掌握し、1366年には浙江行省左丞相・衢国公に至った。
元朝のほか朱元璋・陳友諒らと通好するなど自己勢力の保全に努め、張士誠が滅ぼされた翌年(1367)に湯和に討たれると投降し、広西行省左丞相に叙されたまま京師で歿した。
方国珍による討伐軍の撃退は元末の群雄蜂起の嚆矢となり、方国珍の降伏によって朱元璋の南中国平定は完了したと見做される。
韓山童 〜1351
灤城(河北省)の人。白蓮教(明教)の教主として河南・江淮地方に信徒を集め、黄河修復に徴発された河南農民の不服を利用し、劉福通らと謀って天下大乱の妖言を流布した後、弥勒下生を説くとともに徽宗八世の裔を称して一斉蜂起を謀ったが、挙兵前に露見して処刑された。
劉福通 1321〜1363 ▲
穎州(安徽省界首)の人。1351年に白蓮教の教主の韓山童を擁した造叛を謀り、これが露見すると穎州で蜂起し、1355年に亳州に韓山童の遺児の韓林児を擁して宋国を興し、韓林児を小明王として自ら丞相となった。
1358年には開封を陥して宋都に定めたが、翌年にはチャガン=テムルに大破されて安豊に退き、1363年に張士誠に敗死した。
韓林児 〜1366 ▲
韓山童の子。
父が捕われると母とともに武安に逃れ、1355年に亳州で劉福通に擁立されて小明王と称し、国号を宋、元号を龍鳳と定めた。
1359年に開封でチャガン=テムルに大敗して安豊に遁れ、1363年に劉福通が張士誠に敗死すると朱元璋に迎えられたが、応天府に赴く途上の長江上で朱元璋の命令を受けた廖永忠に溺死させられた。
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紅巾軍 (1351〜1366?):元末大乱の発端となった宗教的農民暴動。
白蓮教が母胎となり、紅巾を被って標識とした。
宋の再興を唱えた教主の韓山童による1351年の挙兵は失敗したが、河南の劉福通をはじめ鄂東の徐寿輝、淮西の郭子興、漢水流域の北鎖紅巾・南鎖紅巾など多くがこれに呼応し、1355年には劉福通が亳州に韓山童の遺児の韓林児を擁立して宋国の再興を宣言した。
1357年には益都・開封・潼関を陥して三路から北伐し、大都に迫り、関中を席捲して霊武に達し、大同を陥した一軍は遠く上都を抜いて高麗を掠めたとも伝えられるが、北伐の主力は1358年には大都で大破され、翌年には開封が陥されて著しく勢力を損い、安豊を守る小政権に凋落した。
各地の紅巾軍は自立性が強く相互の連携に欠け、殊に西系紅巾とも称される徐寿輝の集団は全く系統が異なっていたと伝えられる。
そのため各集団は内訌もあって各個に元朝系の在地軍閥や官軍によって撃滅され、1363年には安豊政権を支えていた劉福通が張士誠に敗死した。
朱元璋に庇護された韓林児が1366年に殺害され、白蓮教禁絶の詔勅の発布を以て紅巾軍の活動は終わったとされる。
徐寿輝 〜1360
羅田(湖北省)の人。一名は貞一。布商から転じ、弥勒教を唱える彭瑩玉らと1351年に蘄州で挙兵し、紅巾軍を称して一帯の叛乱勢力を糾合した後、蘄水(湖北省浠水)に拠って天完国皇帝を称し、治平と建元した。
開封政権に対して西系紅巾とも呼ばれ、盛時には四川・湖広・江西を支配して江浙にも進出したが、実権は彭瑩玉にあり、蘄水(1353)の失陥で彭瑩玉が戦死した後は漢陽に遷って倪文俊が独専し、倪文俊を殺した陳友諒に鉄槌で殺された。
陳友諒 1320〜1363 ▲
沔陽(湖北省)の人。漁師から胥吏を経て徐寿輝の部将の倪文俊の幕僚となり、1357年に徐寿輝に叛いた倪を黄州で殺し、1360年には徐寿輝を殺して漢帝を称した。
長江中流域を圧して最大の軍事力を擁したが、応天府攻略を急いで鄱陽湖上で朱元璋軍の火攻で大破され、自身も乱戦中で歿した。
漢国では貨幣として天定通宝と大義通宝が発行された事が確認されており、又た鄱陽湖の水戦は『三国志演義』の赤壁戦のモデルになったと伝えられる。
嗣子の陳理は翌年に朱元璋に降伏して帰徳侯とされたが、怨言を忌まれて1372年に帰義侯の明昇(明玉珍の子)と共に高麗に徙された。
明玉珍 1331〜1366
随州(湖北省)の人。原姓は旻。マニ教(明教)を信奉して改姓した。
地主の家で、はじめ徐寿輝に対して自衛団を組織したが、1353年に降って沔陽の統軍元帥とされ、次いで重慶路を陥して巴蜀の経略を委ねられた。徐寿輝が殺されると瞿塘峡を塞いで巴蜀を以て独立し、翌年には大夏国皇帝を称し、雲南・貴州にまで勢力を伸ばした。
内政にも意を用い、朱元璋とも通好し、死後は子の明昇が襲いで1370年まで明朝と通好を保ち、1371年に開城して帰義侯に封じられた。
翌年に帰徳侯陳理(陳友諒の子)と共に高麗に徙され、李成桂と親交したと伝えられる。
郭子興 1302〜1355
定遠(安徽省)の郷豪。任侠との交誼を好み、紅巾軍を称して1352年に濠州(安徽省鳳陽)で蜂起した。
朱元璋の魁貌を重んじて娘を娶せ、朱元璋の雄飛の起因となったが、郭子興の軍団は部将の内訌が絶えずに小集団に終始した。
張士誠 1321〜1367
泰州(江蘇省大豊)の塩商出身。
1353年に諸弟と与に塩丁を糾合して挙兵し、泰州・高郵など江北各地を占領して翌年には周の誠王を称した。
淮塩の産地と大運河の要衝を押えた為に右丞相トクトに討破されたが、トクトの解任で窮地を脱し、これより江南に進出して1356年には平江路(蘇州)を占拠し、隆平府と改めて国都とした。
拠点を江南に移した為に応天府(南京)に拠る朱元璋との攻伐が激化し、1357年に常熟が徐達に抜かれると元朝に帰順して太尉とされ、方国珍とも通誼して朱元璋に対抗した。
地主勢力に支援されたために元朝よりも紅巾軍を敵視し、製塩地と穀倉を押さえて群雄の中では最も富強だったが、文化の隆盛に象徴される奢侈への傾斜も早く、不正の横行など綱紀の弛緩も著しかったと伝えられる。
1363年には紅巾軍の劉福通を敗死させ、間もなく呉王を称して元朝から離叛したが、陳友諒との連携による朱元璋の挟撃を拒むなど積極性に欠け、陳友諒を滅ぼした朱元璋の攻勢に劣勢となった。年余の包囲の末に1367年に徐達に隆平府を陥され、応天府への護送中に自縊した。
鄭玉 〜1357
歙県(安徽省)の人。字は子美、号は師山。春秋学に通じて仕官はせず、師山書院を建てて多数の弟子を養成したが、明軍の徽州入城の際に捕えられ、獄中で縊死した。その学問は陸子に連なり、心学と朱子学の折衷説を提唱して明学の嚆矢となった。
楊維禎 1296〜1370
諸曁(浙江省)の人。字は廉夫、号は鉄崖。父の楊宏が鉄崖山中に楼閣を築いて書院とし、撤梯のうえ修学したと伝えられる。泰定4年(1327)に進士に及第したものの狷介の質から間もなく致仕し、元末の乱を江浙に避けて晩年は松江に居し、終生任官に応じなかった。
“鉄崖体”と称される古楽府の詩体は一世を風靡し、高啓とともに元明を通じて双璧と謳われ、又た書家としても高名だった。
元末四大家
元末〜明初、趙子昂の画風に共鳴して董源・巨然らの水墨山水画を学び、それぞれ独自の画風を確立した。
明中期の沈周・文徴明らに絶賛され、文人画の優位を主張する董其昌の評価によって絶大に支持された。
黄公望 1269〜1354 ▲
常熟(江蘇省)の人。字は子久、号は大痴道人。元末四大家の1人。
地方の吏員を歴任し、1315年に上官に連座した事で官途を断たれた。50歳頃に全真教に帰依するとともに画を始め、趙子昂に就いて董源らを学び、水墨による写実的山水に秀でた。
晩年は富春山に隠棲し、“富春山居図”は中国水墨画史上の傑作とされる。
呉鎮 1280〜1354 ▲
嘉興(浙江省)の人。字は仲圭、号は梅花道人。
元末四大家の1人。官途に就かず、巨然の点描法を学んで山水・墨竹画を能くし、易に通じて詩書にも巧みだった。
村塾や易卜・売画で生計を立てたが、富貴には売画せず、他の四大家とも交流しなかったと伝えられる。
倪瓚 1301〜1374 ▲
無錫((江蘇省)の人。字は元鎮。号は雲林。元末四大家の1人。
董源の画法を学び、荊浩・関同・李成らを参考に独自の風を開いた。
気韻第一と称され、詩も能くした。米芾に似て潔癖症で、又た俗事に疎かったために“倪迂”とも呼ばれた。
張士誠の招聘を拒み続けたという。
王蒙 1308〜1385 ▲
湖州(浙江省)の人。号は黄鶴山樵。元末四大家の1人。
黄公望に師事し、趙子昂や董源・巨然の画を学んで写実的山水画を能くし、時に南画の大成者とも評される。
張士誠の幕下にあって名を知られていたため、張が滅ぼされると黄鶴山に隠棲したが、後に出仕して知泰州事に至り、胡惟庸の獄に連座して獄死した。