南宋

 1127〜1279
 靖康の難の後、徽宗の子の康王(高宗)が宋を再興し、杭州に拠って江南を保った政権。 高宗の時代は岳飛韓世忠ら後に“抗金名将”と呼ばれる驍将を輩出したが、秦檜の復帰で和平派が優勢となり、紹興12年(1142)に秦淮を国境とする紹興の和議が締結された。 以後、金朝とは海陵王の南征(采石磯の役)の前後を除けば1206年まで大規模な軍事衝突はなく、特に江浙は占城米の普及・改良もあって“天下の穀倉”と呼ばれるようになり、文化面でも道学が盛行して朱熹陸九淵らを輩出した。
 理宗の時(1234)には新興のモンゴルと結んで金朝を滅ぼしたが、河南の回復を急いで敵対し、モンゴルとの抗争を通じて江淮の地は荒廃の極に達した。 軍事を軍閥に依存しつつ統制と抑圧を強めた事で国防力を弱め、加えて名分論を至上とする太学生勢力が朝議を停滞させる事もあり、1259年に四川を、1273年には荊湖を失い、1276年の臨安開城を以て事実上の滅亡とされる。 以後も張世傑陸秀夫ら一部廷臣は幼帝を奉じて海上に逃れたが、1279年に南界の克R(広東省江門市南郊)で暴風雨に遭って全滅した。
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 南宋の直轄版図・人口は南遷以前の2/3程だったが、進士の累計は2倍以上の4万人を数え、常備軍も100万人を維持した。 殊に軍費は歳出の8割を占め、増加した歳出は両税に多種雑税を付加する重税化によって賄われたが、発達した水稲農耕の集約性や安定性は華北の雑穀の比ではなく、連作すら行なわれて4倍に達した収穫量や商品作物の開発などで支えられた。
 南北両宋を通じて名分論に偏重したことは、秦檜・韓侂胄史弥遠賈似道ら宰相による長期独裁と並ぶ南宋の特色で、史書に「声容盛んにして武備衰え、議論多くして成功少なし」と評されたが、官僚優遇と相俟って亡国時の殉死者は歴朝最多であり、遺臣の文化活動も活発だった。 尚お、日中貿易は殊に南宋と平氏政権の間で活発だったが、その他の時期も民間レベルでの交流が活発で、宋からは銅銭・書籍・工芸品などが、日本からも金・銀・真珠などの原材料だけでなく工芸品が輸出されるようになっていた。
高宗  孝宗  寧宗  理宗  度宗  端宗
 

高宗  1107〜1127〜1162〜1187
 南宋の初代君主。諱は構。徽宗の第9子。北宋の康王。 1126年に兵馬大元帥に叙されて大名府で金軍を防ぎ、靖康の難の後、応天府孟太后張邦昌に迎えられて即位した。 正当な制誥に依らず即位したため終始正統性には疑問を呈され、建炎3年(1129)には親衛兵による叛乱も起こり、欽宗の帰国が叶わなかったのも譲位の可能性を厭った為だったとされる。
 南渡の当初は建康に奠都し、又た杭州を臨安府と改称して行在に定めたものの、叛乱と金軍の南下で紹興2年(1132)まで各地を転々とし、その為か和平論に傾斜した。 この傾向は同8年に秦檜を宰相に復帰させてから強くなり、河南・陝西を含む新黄河以南の獲得と金に対する称臣などで和平が成立し、これは国論の調整に失敗した金によって10年に破棄されたが、主戦派の岳飛の処刑を黙認する事で同12年(1142)に秦嶺を国境とする和約(紹興和議)が成立し、江南開発など各地の復興が進められた。
 異民族に滅ぼされた宋朝を再興した点で評価されるが、治世の多くを秦檜に専断され、言論統制や禁書活動なども活発だった。 皇太子が夭逝した事で族子の趙禕を嗣子とし、紹興32年(1162)に譲位した。
  
明受の変 (1129):南渡まもない杭州の朝廷で生じた、統制(禁軍将校)の苗傅・劉正彦らによる兵変。 薄賞に対する不満が直接の原因で、3月に高宗を廃して孟太后に臨朝を求めたが、翌月には張俊韓世忠らによって破られ、7月に討平された。高宗の正統性に対する疑問を名分とし、そのため高宗の欽宗に対する猜忌心が著しく強まったとされる。

隆祐太后  〜1131 ▲
 元祐太后とも。姓は孟。哲宗の皇后。宣仁太后の選定で元祐7年(1092)に立后されたが、哲宗には寵妃の劉婕、があり、紹聖3年(1096)に公主の治療に符水を用いた事を理由に太后派排斥の象徴として廃黜され、徽宗が即位すると向太后によって皇后に復したものの、向太后が歿した翌年(1102)に再び廃された。 後に瑤華宮の失火で相国寺前の私邸に遷り、そのため靖康の難を免れ、楚帝に擁立された張邦昌の求めで垂簾すると康王に入府と即位を勧進し、高宗が応じた事で撤簾して皇太后とされた。

宗沢  1059〜1128
 婺州義烏(浙江省)の人。字は汝霖。元祐6年(1091)の進士。 硬骨を忌まれて地方官を歴任した後、宣和末(1125)の金軍の南下に直面して知磁州とされ、河北義兵都総官を加えられた。 金軍撃退の功で副元帥とされて康王(高宗)を輔け、靖康の難が伝えられると義勇軍を組織して康王に即位を勧進し、李綱の薦挙で東京留守に進んで開封を堅守したが、開封還御・北伐の要請を悉く黙殺されて憤死した。 金軍からは“爺々”と畏敬され、その軍中からは韓世忠岳飛などの抗金名将を輩出した。

八字軍  ▲
 北宋末〜南宋初の義勇軍の1つ。「赤心報国、誓殺金賊」を刺青し、王彦を首領として太行山一帯で金軍の兵站を脅かし、冀南にも進出して河東の義勇軍/紅巾軍とともにしばしば金軍を撃破した。 李綱宗沢にも認められてその主戦論の一因となり、後に劉リを援けて順昌での兀朮撃退にも大功があったが、講和条約の一環として解散させられ、各地の義勇軍の活動も沈静化した。

張栄
 山東の人。梁山泊で漁業に従事していたが、宋江の平定後に実施された公田法が過酷だったために再起した。 靖康の難の後はしばしば金軍を悩ませて“張敵万”と称され、朝廷の招撫に応じて山東一帯を転戦しながら次第に南下し、淮南路高郵軍の樊梁湖に水軍を進駐させた。1131年に縮頭湖に金軍を大破して知泰州とされた。

鍾相  〜1130
 鼎州(湖南省常コ)の土豪。一帯の農民に浸透していた均産教を奉じ、1130年に金軍の来攻に対して抗金忠義軍を組織したが、まもなく朝廷に猜疑され、“均貧富・等貴賎”を標榜して蜂起し、楚王を称した。 官僚・富豪・宗教家などの非生産階級を殺し、湖南のみならず四川東部にも波及した。 鍾相の死後は子の鍾子儀を奉じた楊幺が湖中の水塞に拠って20数万の勢力を保ったが、紹興5年(1135)に岳飛に鎮圧された。

楊時  1053〜1135
 南剣将楽(福建省)の人。字は中立、号は亀山先生。煕寧9年(1076)の進士。 二程に師事し、地方官を歴任した後に秘書郎から国子祭酒に進んだが、蔡京らの三鎮割譲や金との和議を非難して罷免された。 南宋初期に工部侍郎・龍図閣直学士とされ、退官後は東林書院を興して著述・講学に専念し、二程の正統継承者と目された。

胡安国  1074〜1138
 建寧崇安(福建省)の人。字は康侯。太学での門人に師事し、紹聖4年(1097)に進士に及第して太学博士となったが、まもなく蔡京らを批判して致仕した。 南渡後に給事中に直され、1131年には張浚の推挙で中書舎人・侍講とされ、宰相人事を諫めて下野したものの後に宝文閣直学士とされた。 王安石の春秋学排斥を批判し、『春秋』を研究して『春秋伝』30巻を著した。

李綱  1083〜1140
 邵武(福建省)の人。字は伯紀。徽宗の政和2年(1112)の進士。金軍の南進に対して強硬に主戦論を唱え、南遷を図る徽宗に太子への譲位を進言して兵部侍郎・東京留守とされ、次いで知枢密院事に進んだが、過度の強硬論を忌まれて金軍の北還後に罷免された。 高宗の即位とともに尚書右僕射に叙され、軍制の改編と軍備の増強を進めて左僕射に進んだが、黄潜善・汪伯彦ら和平派の進言で南京放棄と南遷が決した為に77日で致仕し、以後も湖広宣撫使・知潭州、江西制置大使・知洪州などを歴任したものの中央には復帰できなかった。 常に金使に安否が問われるほどの威望があったが、狷獪硬骨の度が過ぎ、著しく協調性に欠けていたと伝えられる。

王倫  1084〜1144
 大名府莘県(山東省)の人。字は正道。 靖康の難に際して任侠から官に転じ、自薦して兵部侍郎を遙授され、都内の治安を粛正した。 南遷後はしばしば金に遣いして紹興9年(1139)には同進士出身、端明殿学士・簽書枢密院事とされたが、金で臣従を拒んで拘留され、後に自害した。

呉玠  1093〜1139
 徳順軍隴干(甘粛省静寧)の人。字は晋卿。兵法に通じて騎射に能く、西夏や方臘との戦いで勇名を顕し、1128年の関中での金軍の撃退と、翌年の史斌の撃滅で宣撫処置使張浚にも認められた。 1130年に関中で宋軍が金軍に大敗した際には残兵を糾合して和尚原(鳳翔)で金軍を撃退し、再征した兀朮を再び和尚原で大破して威名を広く知られ、張浚の薦挙で陝西諸路都統制とされて四川を領した。 屯田を興して軍費に充て、民生にも意を用いて在任中は寸土も失わず、亦た静謐で読書を好んだが、晩年は酒色に溺れて軍略も鈍ったといわれる。
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 軍団を嗣いだ弟の呉璘(1102〜1167)は副将の楊政・郭浩と分掌して名目上は四川宣撫使の統制下に置かれ、紹興の和議が成った後も召還には応じず、民政と北防に尽力して「四川王」とも称された。 紹興31年(1161)の海陵王の南征に際して四川宣撫使とされ、金軍を撃退したのち関中攻略を示威して淮南への全軍投入を阻み、虞允文の下で陝西の回復を進めて孝宗より陝西河東路宣撫招討使を加えられた。

張俊  1086〜1154
 鳳翔成紀(甘粛省天水)の人。字は伯英。 騎射に長じ、16歳で匪賊から弓箭兵に転じて各地を転戦し、靖康の難の後は高宗に投じて張浚にも高く評価され、明受の乱で高宗を奪還して武寧軍節度使・御前右軍都統制とされた。 翌年に浙西・江東制置使に進んで韓世忠劉光世以外の諸軍を節度し、内乱鎮圧の傍らで劉豫に備えて紹興4年(1134)に淮西宣撫使に転じ、紹興6年に斉兵を大破して盱眙に進駐した。 将略と累功から宋の三大将軍に数えられたが、戦乱に乗じて多くの荘園を没収して将兵の掠奪も容認し、後に秦檜と結んで私兵の解体に積極的に応じて枢密使とされ、岳飛の枉陥にも加担した。紹興の和議から程なく枢密使を解かれたものの、清河郡王に進封されて富貴を全うした。

韓世忠  1089〜1151
 延安の人。字は良臣、号は清涼居士。貧農を厭って18歳で募兵に応じ、西夏との戦いで騎射と勇猛を知られ、方臘平定では「万人敵」と讃えられ、高宗の南遷でも護衛の功があった。 明受の乱では張俊と与に高宗を奪還して武成軍節度使・御前左軍都統制とされ、翌年に江南から撤収する兀朮を8千の兵で追撃して黄天盪で大破し、紹興4年(1134)にも淮南に金軍を大破して高宗に「中興の武功第一」と称えられた。 紹興3年より淮南の宣撫処置使として十余年間楚州に駐在し、同10年には金軍を追撃して淮陽城を陥したが、翌年に和約の一環として軍権を解かれて枢密使に直され、岳飛が処刑されると秦檜を難詰した後に致仕した。 「秋毫も侵さず」の実践や岳飛の擁護で名高いが、己に拝礼しなかった部将を無視し続けて自殺させた一面がある。
 妻女の梁紅玉も武勇・軍略に長じて戦場に同行し、代表的な巾幗将軍の1人に数えられる。

劉光世  1086〜1142
 保安軍(陝西省志丹)の人。字は平叔。方臘の鎮圧に従って耀州観察使とされ、靖康元年(1126)に金軍の南下に乗じた西夏兵を保安に撃退し、靖康の難で済州の康王に馳謁して奉国軍節度使に進み、江淮の制置使とされた。 建炎3年(1129)の金軍の南下と兀朮の渡江では共に開戦前に軍を壊乱させ、殊に江州(南昌)では連日の置酒高会で金軍の渡江を覚らなかったが、厳罰に処されることなく紹興元年(1131)には淮南宣撫使に直された。
 江淮の膏田3万余を占有し、巨富を経営して歌妓舞女を擁し、貪婪と冗費についても朝廷で糾弾されたものの不問とされ、紹興3年に韓世忠との易鎮で江東・淮西宣撫使に転じ、斉兵を撃退して少保を加えられた。 しばしば張浚に該奏されて同7年(1137)に軍権を解かれたが、却って庸俗として秦檜に警戒されずに富貴を保った。

劉リ  1098〜1162
 秦州成紀(甘肅省天水)の人。字は信叔。夙に軍旅に従い、西夏との戦いで頭角を顕し、川陝宣撫使張浚の富平の役(1130)にも従った。 紹興3年(1133)に臨安に召されてより侍衛武官を歴任し、紹興10年(1140)に金が南征軍を興すと陳規の守る順昌城(安徽省阜陽)への援軍となり、兀朮を大破して武泰軍節度使・知順昌府・沿淮制置使とされ、応変の用兵から“神機武略”と称された。 次いで淮北に進んで金軍を大破したが、秦檜が講和を決したために諸軍とともに撤退し、軍権を解かれて知荊南府に転じた後は専ら境内の治安維持と恵政に注力して“劉三相公”と敬われた。
 海陵王の南征では江淮浙西制置使とされ、淮西の王権が逃散した為に淮陰への進駐を断念して揚州を守り、そのため瓜州で金兵の東路軍を大破したものの失地の責を問われて軍権を剥奪され、終戦後に憂死した。 宋史では「儀状に美く、騎射に善く、声は洪鐘の如く、慷慨深毅。儒将の風あり」とある。

陳規  1072〜1141 ▲
 密州安丘(山東省)の人。字は元則。兵書に通じて防城に長け、靖康元年(1126)に知安陸県に叙されてから7年間、匪賊を悉く撃退して「九攻九拒、応敵無窮、十万百万、靡不退却」と称された。 後に知順昌府(安徽省阜陽)に転じ、紹興10年(1140)に金との和議が破れた際には府城を堅守して劉リの軍事を成功させ、知廬州府・淮西按撫使に転じて程なく歿した。 順昌時代に徳安での事跡と防城の知見を著述し、後人によって『守城録』として上呈された同書は、孝宗に絶賛されて乾道8年(1172)に全国に配布された。

岳飛  1103〜1141
 相州湯陰(河南省)の人。字は鵬挙。 農民の出で、1122年に募兵に応じ、靖康の難で宗沢の麾下に投じて驍勇を認められ、各地を転戦して紹興3年(1133)に“精忠岳飛”の宸筆の旗を下賜され、翌年には襄陽を奪還して清遠軍節度使を加えられた。 斉・金の兵を悉く撃退して太尉・荊湖宣撫使に進み、紹興10年には東京副留守の劉リを支援して朱仙鎮(開封南郊)で兀朮を撃破したが、和平を急ぐ朝廷の撤退命令が接踵して追撃を断念した。
 開封を堅守した宗沢と並んで金軍から“爺々”の尊称を受け、「山を動かすは易く、岳家軍を動かすは難し」とも評された。 当時の軍閥は官僚と不和で、軍閥間でも対立があり、殊に年少で矜持の強かった岳飛は軋轢が多く、これに乗じた秦檜によって1141年に枢密副使とされて軍を解体され、同年、和平交渉の為に養嗣子の岳雲、腹心の張憲らと共に冤罪で獄殺された。 孝宗の淳熙5年(1178)に武穆と追諡され、寧宗の嘉泰4年(1204)には鄂王に追封され、後に祀廟が建てられて岳王と尊称され、1914年以降は関羽とともに武廟に合祀された。 尚お、朱仙鎮での戦闘は金側の資料に記録がなく、又た当時の南宋の兵站の北限を大きく超えている事から戦闘自体が疑問視されている。

秦檜  1090〜1155
 江寧の人。字は会之。徽宗の政和5年(1115)の進士。 御史中丞のとき靖康の難に遭い、楚国樹立に猛反対して執われたが、後に粘没喝撻懶と結託して脱走を偽装して帰国し、高宗に信任されて帰参の翌日に礼部尚書とされ、翌年には右僕射・同平章事に進んだ。 主戦派が優勢となると失脚したが、間もなく復帰して金との和平を模索しつつ権勢を集め、紹興8年(1138)に右僕射・同平章事に復帰した後は撻懶との講和を進め、これは金側の政変で頓挫したものの、主戦派の首魁と目されていた岳飛を処刑した翌年(1142)に計50万の歳幣で金との講和(紹興和議)を成立させ、秦魏両国公とされた。 国内では朋党を結んで反対派を徹底的に弾圧し、高宗を抑圧して朝廷を亶断し、死後は申王に追封されたものの秦檜派と目された廷臣は悉く弾劾のうえ罷免された。
 軍事的に優勢な北朝に対して南宋が150余年の命脈を保ったのは秦檜の和平外交の成果でもあったが、1140〜41年の叛抗を利用せず徒に和議の再開を急ぎ、そのため死後は姦臣・売国奴の筆頭とされ、岳王廟前には鎖で繋がれた秦檜夫妻の銅像が据えられた。
朝廷に強固な係累を持たない一介の亡命士大夫が短期間で平和裏に独裁体制を確立し、長期に亘って権勢を維持した事は王船山などにも驚畏と評されました。  夫人の王氏の実家は英宗・神宗の宰相/王珪の裔で、当時は大海商として成功しており、孟太后にも連なる広範な縁故がありました。 秦檜はこれを利用して両浙・江南路の転運使などをほぼ独占し、羨余を自己の経済基盤の強化と朝廷工作の資とし、胥吏や商人団を組織的に活用したとされます。 他に告訐(密告制)や、弾圧の徹底なども長期独裁に寄与しましたが、欽宗への譲位の可能性を危惧する高宗の真意を正しく洞察した点も看過できません。

楊沂中  1102〜1166
 代州崞県の人。字は正甫。高宗に賜名された楊存中としても知られる。父祖はともに抗金中に戦死した。 兵募に応じて張俊に従い、忠勇を嘉した高宗の求めで侍衛に列して紹興2年(1132)には神武中軍統制に累進した。 同6年の斉兵の撃退にも大功があり、勇名は金軍にも広く知られ、9年に保成軍節度使とされ、11年(1141)には淮北宣撫副使として張俊に従って兀朮を大破・撃退し、濠州奪回には失敗したものの兼領殿前都指揮使とされた。 秦檜の執政中も失脚せず、紹興31年(1161)には同安郡王に進封され、海陵王の南征に対しては京口に鎮して金軍の渡江を牽制し、孝宗から「朕の郭子儀」と讃えられた。 張浚の北伐が失敗すると江淮都督とされて金軍に備え、江淮の拓屯に際しては楚州の私田3万9千畝を献じた。

李清照  1084〜?
 斉州章丘の人。号は易安居士。李格非の娘。学者の家に生まれ、幼時から詞作を好み、太学生だった趙明誠に嫁して共に詞を楽しんだが、義父の趙挺之が蔡京によって失脚すると、夫とともに青州に隠遁した。 書画骨董を蒐集し、家蔵の膨大な書籍と併せて校勘・分類したが、靖康の難に遭って蔵書の多くを失い、江南に遷った直後に夫と死別して洪州に移住したものの金軍の襲撃で家財の多くを失った。後に張汝舟と再婚したが、夫の虐待が止まず横領を告発して離別した。 宋代第一の女流詞人とされ、朱熹などにも絶賛された。

胡宏 1106〜1162
 建寧崇安の人。字は仁仲、号は五峰。胡安国の末子。京師で楊時に学んだのち湖南の衡山で精学したが、官には就かなかった。已発未発の説を唱え、人の察識と涵養を重んじ、湖南学を大成して朱子学にも影響を与えた。

鄭樵  1104〜1162
 蒲田(福建省)の人。字は漁仲。 熱心な読書家で、五経から地理・天文・文字・虫魚草木などあらゆる分野に通じ、『通志』200巻などを著した。 『通史』の一部を上呈して高宗にも認められたものの秦檜に排斥され、後に枢密院編集として徴還された。 『通志』で展開した断代史を否定する卓抜な史論は、章学誠に至って初めて真価を認められた。

孝宗  1127〜1162〜1189〜1194
 南宋の第二代君主。諱は禕、立太子で昚。秦王徳芳に連なる太祖7代の裔で、高宗に養子とされて皇太子となった。 金の世宗と前後して即位し、采石磯の役に対する報復は失敗したが、1165年の和議(乾道和約)で宋金関係を君臣から叔姪に、歳貢を歳幣に改めて国体を高揚させ、官制改革・軍備削減・江南開発などを進めて社会経済を安定させ、文化の隆盛をもたらした。 特に会子政策は紙幣価値を銭より上とした事で流通が大発展し、後世の範とされた。
 淳熙16年(1189)に太子に譲位した後も太上皇として発言力を保ったが、晩年は立太子問題などから光宗とは不和になったと伝えられる。

張浚  〜1164
 漢州綿竹の人。字は徳遠。進士出身で朝廷の南遷に従って礼部侍郎に累進し、常に北防を唱え、明受の乱では張俊・韓世忠らを動かして事態を収拾し、知枢密院事に進んだ。 程なく四川確保を強調して川陝諸路宣撫使に転じ、関中奪回は果たせなかったものの呉玠らを任用してしばしば金軍を大破した事から“張枢密”と畏敬され、粘罕にも匹敵の存在として四川攻略を断念させた。 紹興5年(1135)には右僕射・同平章事に知枢密院事を兼ねて主戦論を展開したが、和平派の秦檜の執権で失脚した。
 海陵王の南征に直面して中央に復帰し、戦後に枢密使に進んで報復戦を主導し、北伐には失敗したものの右僕射を兼ねて北防と再征を進めたが、左僕射の湯思退ら和議派による涜武との該奏で致仕し、程なく憤死した。

湯思退  1117〜1164
 処州の人。字は進之。 紹興15年(1145)に博学宏詞科に及第して顕官を歴任し、秦檜に後事を託された際に金千両を受けなかった為に嫌疑を免れ、紹興27年には右僕射に進んだが、30年に秦檜の党人として罷免された。海陵王が南征を起すと臨安留守とされ、張浚の北伐が失敗した事で兼枢密使に復した。 金が経略を進める海・泗・唐・ケ州の割譲による和議を唱え、これが秦檜の政策の踏襲だとして該奏され、張浚の失脚には成功したものの講和に失敗して罷免され、永州に謫される途上で追訴を憂えて病死した。

史浩  1106〜1194
 明州鄞県(浙江省寧波)の人。字は直翁。紹興14年(1144)の進士。 建王(孝宗)に近侍し、海陵王の南征に際しては建王の元帥としての出征を強諫した。孝宗が即位すると参知政事とされ、翌年(1163)には尚書右僕射に進んで岳飛の名誉回復を進言し、張浚の北伐論に対しては北岸の堅守を唱えて反対した為に知紹興府に出された。 淳熙元年(1174)に徴還されたのち右丞相に復し、致仕後は太保・魏国公として西湖に隠棲し、死後に会稽郡王に追封された。

李顕忠  1109〜1177
 綏徳軍青澗(陝西省)の人。本諱は世輔。 歴世の武門の出で、17歳で初陣してより卓越した勇武を示し、延安が陥されると父子とも金に仕えて兀朮からも剛勇を絶賛された。 南奔に失敗して西夏に投じ、延安攻略に従ったのち再び南帰を図って討たれたものの却って夏兵を大破して四川の呉玠に帰し、臨安に参じて高宗より顕忠と賜名された。
 歴戦に従って保信軍節度使・浙東副総管に進み、陝西の回復を唱えて秦檜によって台州に逐われたが、後に都統制・寧国軍節度使に復し、海陵王の南征では和州を放棄した王権に替り、虞允文と倶に金軍を大破して淮西を回復し、淮西制置使・京畿等処招討使とされた。 采石磯の役に際して李顕忠が参戦した事で、宋軍の志気は甚だ高まったと伝えられる。 張浚の北伐に従って霊壁・宿州を陥し、戦後に敗将として潭州に謫されたが、乾道元年(1165)には浙東副総管・観察使に復し、次いで威武軍節度使・左金吾衞上将軍に進んで京師に賜邸された。

魏勝  〜1164
 宿遷(江蘇省)の人。字は彦威。弓箭に長じ、海陵王の南征に際しては南宋の招撫に応じて東海で挙兵し、海州(江蘇省連運港)を陥して一帯を席捲した。 宋から知海州・山東路忠義軍都統制とされ、戦後も海州を保ってしばしば金軍を撃退したが、知楚州(江蘇省淮安)に転じて間もなくに大兵に攻囲されて戦死した。

虞允文  〜1174
 隆州仁寿(四川省)の人。紹興23年(1153)の進士。同31年に海陵王が南征軍を興すと江淮参賛軍事として出征し、采石磯で金の水軍を撃滅して海陵王の横死と金軍の撤退を結果した。 戦後に川陝宣諭使に転じて陝西の回復を進め、孝宗が即位すると江淮回復を至上とする朝議に敗れて知夔州に遷されたが、張浚の敗戦に対応する為に徴還されて参知政事・知枢密院事とされ、呉璘死後の四川諸軍の再編の為に四川宣撫使に転じたのち乾道8年(1172)には左丞相・枢密使に至った。 多くの人材を推挙して兵制の改革を進め、一貫して陝西の回復を唱えたが、和平論が優勢となった為に同年再び四川宣撫使に転じて任地で歿した。
  
采石磯の役 (1161):金の海陵王を宋が撃退した戦。金軍は南宋征服の為に開封遷都と並行して東西から大軍を南下させたが、四川では呉璘の堅守によって撃退され、東海でも南宋に応じた魏勝が海州を陥し、又た北面では契丹の大乱に直面した。
 多数の艦船を伴う海陵王の本営に対して南宋は劉リを淮陰に、王権を廬州に進駐させたが、王権の逃散によって防衛線を長江に後退させ、淮西軍は中書舎人・参賛軍事の虞允文が指揮した。 虞允文は金軍を渡江させて和州の南岸の采石磯(安徽省馬鞍山市花山区)で水陸挟撃し、突撃用の海鰌船と投石器・突火槍炮などを併用して金軍を壊滅させ、淮東でも劉リが瓜州で金軍を撃滅した。
 海陵王は間もなく軍中で暗殺され、宋でも積極派の孝宗が即位したが、主戦派の政争から虞允文が失脚し、江淮からの北伐を実現した張浚も1163年に符離(安徽省宿州市区)で敗退し、1165年に乾道和約が成立した。

胡銓  1102〜1180
 吉州廬陵(江西省吉安)の人。字は邦衛。建炎2年(1128)の進士。 紹興7年(1137)に枢密院編修官に叙されると一貫して金との和議に反対し秦檜王倫・孫近を「三奸臣」と罵倒し、「狂妄凶悖」として福州簽判に出され、紹興18年には吉陽軍(海南島)に謫された。 秦檜の死後に召還されて実録・起居注編纂・国史院編修・資政殿大学士などを歴任したが、以後も金との和議に反対してしばしば激烈な上奏を行ない、乾道7年(1171)に致仕した。

張栻  1133〜1180
 漢州綿竹の人。字は敬夫、号は南軒。張浚の子。 胡宏に師事し、直秘閣から地方官を歴任したのち右文殿修撰とされた。 主戦派でありながらも国防・民政についての見解を異にする虞允文と反目したが、孝宗から信任された。 二程子の学問を承け、朱熹との親交を介して学問を深化させ、朱子学の成立にも影響があった。

李Z  1115〜1184
 眉州丹陵の人。字は仁甫。紹興8年(1138)の進士。地方官を歴任したのち乾道3年(1167)に秘書少監・実録院検討官とされ、しばしば虞允文の政策を批判して湖北転運副使に転出したが、治績を挙げて中央に復し、敷文閣学士・侍講同修国史を以て致仕した。
 博学で特に史学に通じたものの為人りは急峻狷獪で、王安石を嫌悪してその書は読まず、司馬光の『資治通鑑』に倣って北宋史『続資治通鑑長編』978巻を編纂した。実証的な同書は現今に520巻が残り、北宋代研究の貴重な資料となっている。

茅子元  〜1166
 呉郡崑山の人。法名は慈照。19歳で出家して天台を学び、円融四土説の図形化や、四句の偈歌や五念往生などの平易な教説を説いて多数の信者を得、白蓮社に倣った念仏結社として白蓮会を称した。 殺生や肉食葷酒を禁じた半面で在家妻帯や男女混交の夜聚暁散などを行なって1133年に江州に流され、教団も喫菜事魔として禁止されたが、後に赦されて孝宗から慈照宗主の号を贈られた。

洪适  1117〜1184
 饒州鄱陽の人。字は景伯。弟の洪遵洪邁とともに“鄱陽三洪”と呼ばれた。 紹興12年(1142)に弟の洪遵とともに博学宏詞科に及第し、秦檜に忌避されて父とともに嶺南に出されたが、秦檜の死後は知徽州などを歴任して乾道元年(1165)の内に翰林学士から参知政事・権枢密院事を経て同平章事に進んだ。学識で有名で朝野に期待されたが、3ヶ月で致仕して学究に余生を費やした。

洪遵  1120〜1174 ▲
 字は景厳。洪适の弟。紹興12年(1142)に博学宏詞科の魁選となって進士出身とされ、秦檜の死後に湯思退の薦挙で起居舎人とされて起居注編纂を復活させた。 紹興30年(1160)には翰林学士に進み、湯思退と浮沈を共にして江西各地の知州を歴任した後、知建康府から資政殿大学士に進んだ。

洪邁  1123〜1202 ▲
 字は景盧。洪遵の弟。紹興15年(1145)に博学宏詞科に及第し、秦檜の政策を批判して金使接待や賀登位の遣金使とされた際にも一貫して金を敵視した。孝宗の隆興元年(1163)に知泉州に出されたが、乾道2年(1166)に起居舎人に直されて中書舎人兼侍読・直学士院に進み、一時は地方官に出されたものの各地で治績を挙げて淳熙11年(1184)に徴還され、同13年に翰林学士に進み、寧宗の嘉泰2年(1202)に端明殿学士を以て致仕した。
 代表的著作に『夷堅志』がある。

光宗  1147〜1189〜1194〜1200
 南宋の第三代君主。諱は惇。孝宗の子。生来の柔弱を憂慮する孝宗に譲位されたが、嘉王の立太子を上皇に拒まれた事で上皇と李皇后の対立が悪化した為、1191年頃より心疾を患って畢に上皇に通謁しなくなった。 孝宗の葬儀の主宰をも拒み、呉太后(高宗の后)・趙汝愚韓侂冑らに廃された。

趙汝愚  〜1196
 字は子直。太宗の子/漢恭憲王元佐の裔。乾道2年(1166)の進士。 紹煕2年(1191)に中央に転じて吏部尚書とされ、同4年に知枢密院事に進んだ。翌年に上皇(孝宗)が歿すると韓侂胄らと図って光宗を廃して寧宗を立て、右丞相に進んだが、程なく韓侂胄の讒言によって永州に謫され、途上の衡州で病死した。 朱熹呂祖謙ら道学者を庇護した為に保守的な士大夫層に忌まれ、慶元の党禁に発展した。

范成大  1126〜1193
 蘇州呉県の人。字は致能、号は石湖居士。紹興24年(1154)の進士。 乾道6年(1170)に遣金使とされた際には恫喝に屈せずに国威を保って嘉された。 淳熙元年(1174)に四川制置使に転じ、同5年には参知政事に進んで刑法・塩法・馬政などの改正に貢献し、資政殿大学士を以て光宗の紹熙3年(1192)に致仕した。
 四川から帰京するまでの旅行記は『呉船録』と命名されたが、蜀の記述に関しては陸游の『入蜀記』より詳しい部分が多く、『出蜀記』とも呼ばれる。黄庭堅の詩風を継いで楊万里に賞賛され、南宋四大家にも数えられる。

呂祖謙  1137〜1181
 婺州(浙江省金華)の人。字は伯恭、号は東莱先生。呂公著の裔。 祖父/尚書右丞呂好問の蔭によって仕官し、孝宗の隆興元年(1163)に進士に及第して国史・実録編纂に携わり、淳熙4年(1177)には勅命で『宋文鑑』150巻を編纂した。 その学問は朱熹に近く『近思録』の共著者でもあったが、陸九淵とも親しかった事から両者の融和を図って対論を仲介した。 史学・詩・文にも長じたが、議論は好まなかった。

陸九淵  1139〜1192
 撫州金溪(江西省)の人。字は子静。号を以て陸象山とも。 兄の陸九韶・陸九齢も学者として著名だった。孝宗の乾道8年(1172)に進士に及第し、国子監正に至った。 その学問はに発し、心を性(本性)と情に分けて性と理(宇宙に普遍的な原理)を同一視した朱熹に対し、心と理を同一とする“心即理”を説き、理一元論を展開した。 しばしば朱熹とは書簡によって討論し、1175年には呂祖謙の肝煎で直接対論(鵝湖の会)したが、ついに理解には至らなかった。

寧宗  1168〜1194〜1224
 南宋の第四代君主。諱は擴。光宗の第2子。光宗を廃した趙汝愚韓侂冑らによって擁立された。 趙汝愚を宰相とし、朱熹を起用して親政を始めたが、間もなく外戚の韓侂冑の亶権を容認し、道学の禁止を伴う慶元の党禁を生じた。1206年に北伐を行なったものの失敗し、韓侂冑を殺して金との和議を成立させた史弥遠が以後の朝政を亶断した。

韓侂胄  〜1207
 相州安陽の人。字は節夫。韓gの曾孫。 高宗の皇后/憲聖呉太后の甥で、寧宗擁立の際に太后の密詔を得る事に成功して廃立を実現し、寧宗の信任を背景に右丞相趙如愚を失脚させ、偽学の禁を起して専権を確立した。 娘を皇后とし、徒党を執政官に就ける一方で自身は側近である枢密都承旨に留まって実権を確保し、呉太后・皇后が相次いで歿するとモンゴルの興起に乗じた失地回復で権威の維持を図った。 1202年に偽学の禁を緩和し、1204年に岳飛を鄂王に追封して秦檜を貶爵するなど輿論に配慮したのち平章軍国事(宰相の上位)に就き、その翌年(開禧2年/1206)に北伐軍を起したものの大敗し、金の要求で殺されて首を北送された。
  
偽学の禁 (1196〜1207):慶元の党禁とも。南宋中期に韓侂冑が主導した党錮。 宰相趙汝愚の排斥に伴い、趙汝愚の徒党と見做された士大夫を対象としたが、朱熹に与する道学者が多く含まれた。 道学に対する批判は北宋の煕寧(1067〜77)の頃より続いていたが、殊に朱熹の学説は時政への糾弾と相俟って矯激として忌まれ、知台州府の唐仲友に対する執拗な該奏は宰相王淮(朱熹の故将であり唐仲友の姻戚)や吏部尚書鄭丙による道学批判に発展し、1188年には兵部侍郎林栗が朱熹を指して「乱臣の首」と該奏する事態も生じていた。
 寧宗を擁立した趙如愚による朱熹ら道学者の挙用は保守的な士大夫の警戒感を助長し、独裁権の確立を謀る韓侂胄は守旧派と結んで趙如愚・朱熹らを排斥した翌年(慶元2年/1196)に道学を偽学として朱熹を禁錮とし、同3年には趙汝愚・朱熹ら59名が偽学逆党として禁錮・徐籍され、翌年になると道学が全面的に禁じられた。 朱熹の死後、輿論に配慮して1202年には党禁の緩和が図られ、韓侂胄の失脚で事実上撤廃された。

朱熹  1130〜1200
 徽州婺源(江西省)の人。字は元晦・仲晦。紹興18年(1148)の進士。 地方官を歴任して社倉法義役法などを行なう一方、道学の探求を第一として講義を重んじ、知南康軍事の時には管内の廬山に白鹿洞書院を復興したが、経書の真偽に疑義を示しただけでなく、時政を痛烈に糾弾した事からその学問は矯激として多くの士大夫から排撃された。 寧宗を擁立した趙如愚により待制・侍講として迎えられたが、趙如愚の失脚により40日で罷免されただけでなく趙如愚の政敵の韓侂胄により偽党として禁錮され、そのまま病死してその学問も偽学として厳禁された。
 朱熹個人の名誉は韓侂胄の死後に回復され、理宗の淳祐元年(1241)には王安石に替って孔子廟に従祀されて朱子学が儒学の正統と公認された。

辛棄疾  ▲
 歴城の人。字は幼安、号は稼軒。家は金に仕えたが、海陵王の南征に乗じて宋に投じて承務郎とされた。 知州・按撫使などを歴任し、茶商の頼文政の叛(1175)をはじめとする内乱を多く平定したが、武備の増強を唱えた事から和平派の弾劾で罷免され、信州上饒(江西省)に隠棲した。1191年に福建提点刑獄に直され、龍図閣待制・知江陵府に進んだのち枢密都承旨に叙されたものの勅使の到着前に歿した。 朱熹と親交があり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。 詩人としても高名で、蘇軾と並称される事もある。

周必大  1126〜1204
 吉州廬陵の人。字は子充・洪道、号は平園老叟。紹興21年(1151)の進士。 狷獪不羈の故に孝宗の初めに地方に出されたが、後に徴還されて翰林学士承旨・参知政事・枢密使などを経て1189年には左丞相・許国公に至った。 韓侂胄を批判して1195年に致仕し、1201年に至って偽学の党人に加えられた。

楊万里  1127〜1206
 吉州吉水の人。字は延秀、号は誠斎先生。紹興24年(1154)の進士。 孝宗より東宮侍講に抜擢され、孝宗・光宗の近侍官を歴任して朱熹ら60余人の人材を薦めたが、孝宗の服喪に伴う太子の執政を諫めて地方に出され、更に光宗の鉄銭流通に反対して罷免され、寧宗が即位すると出仕したものの韓侂冑を忌んで致仕した。 張浚に就いて学び、詩は黄庭堅に代表される江西派を重んじたが、後に誠斎体と呼ばれる独自の詩風を確立して南宋四大家にも数えられ、俗語の多用が特徴とされる。

陸游  1125〜1209
 越州山陰の人。字は務観、号は放翁。 夙に文才を賞揚されていたが、郷試で秦檜の孫を措いて首席となった為に憎まれて省試に及第できなかった。 孝宗が即位して参知政事史浩の薦挙で同進士を賜り、1170年に虁州通判(重慶市)とされて四川制置使范成大と親交したが、放埓非礼として罷免され、暫く成都に寓居した。 後に宰相の周必大に認められて召還され、光宗・寧宗の下で修史官を歴任し、孝宗・光宗の実録を完成させて1203年に致仕した。
 蜀に赴任する際に記録した158日間の旅行記は後に『入蜀記』として全6巻に編纂され、内容は風物のみならず歴史評論にも及んで名著と評されている。 南宋四大家に数えられる詩人でもあり、はじめ黄庭堅の詩風を学んだが、後に修辞主義を脱して憂国詩を詠い、晩年には内面を重視した田園詩が多かった。

梁楷
 寧宗の嘉泰年間(1201〜04)に画院待詔とされた宮廷画家。宮廷人としては異色の洒脱な為人りから“梁風子”とも呼ばれ、精妙な院体画を描いた一方で減筆法を好んで用い、牧谿と並んで室町日本の山水画に多大な影響を与えた。 白描と省略を併用する減筆法は写意・気韻を重視する唐末五代の水墨画家の間から具体化したとされ、梁楷に至って白描と水墨の二要素を厳しく駆使し、没骨法などとともに中国画の特異な技法の1つとなっている。

馬遠
 河中(山西省)の人。字は遙父、号は欽山。徽宗時代の宮廷画家馬賁の曾孫。家は仏画を家業とし、馬賁以来、子の馬麟に至るまで5世7人の宮廷画家を輩出し、馬遠は孝宗・光宗・寧宗・理宗に仕えて秀一と評され、殊に寧宗の楊皇后に庇護されて画院待詔に至った。 李唐を学んで山水・人物・花鳥を能くし、殊に断片的小景を得意として“馬一角”とも呼ばれ、夏珪とともに南宋画院の山水画に“蒼勁”の一派を開いた。

夏珪  ▲
 銭塘の人。字は禹玉。寧宗期の画院侍詔。 李唐に学び、馬遠とは南宋院画山水の双璧と謳われ、李唐・劉松年・馬遠と共に宋の四大家とも称される。 水墨山水に長じ、馬遠同様に辺角の景を用いて画院の沈滞を一新し、日本の室町山水の周文・雪舟・狩野派などにも多大な影響を与えた。

理宗  1205〜1224〜1264
 南宋の第五代君主。諱はホ。太祖の子/燕王徳昭の裔。 史弥遠によって民間から迎えられ、寧宗の不予に乗じて太子に立てられて即位した。 史弥遠の死後、親政を開始した翌年(1234)にはモンゴルと結んで金の攻滅に成功し、又た朱子学に傾倒して真徳秀ら人士を挙任して改革を志したが(端平更化)、モンゴルとの関係は三京(開封・応天・洛陽)回復を唱える趙范・趙葵らの独走から交戦に転じ、理想主義に傾いた改革が頓挫した後は政務を厭って遊蕩に奔った。 晩年にはモンゴルのモンケ=ハーンの親征があり、モンゴル軍が退去した後は外戚の賈似道が執権した。

史弥遠  〜1233
 明州鄞県(浙江省寧波)の人。字は同叔。史浩の子。 淳熙14年(1187)の進士。起居郎の時に韓侂胄による北伐が行なわれ、韓侂胄の首を求める金に応じることを主張して韓侂胄暗殺と金との和議を成功させ、1208年に右丞相・枢密使に進んで宰相独裁を行なった。 寧宗の不予に乗じて太子を廃して理宗を擁立する事で権勢を維持し、朱熹の名誉回復や理学の奨励などで輿論にも配慮し、1232年には太師・左丞相兼枢密使・会稽郡王に進められた。

  〜1225 ▲
 旧名は貴和。秦王徳芳の裔。 寧宗の弟/沂王の嗣子に紹封された後、寧宗の諸皇子が全て早逝した事から1221年に太子とされた。 かねて史弥遠に対して批判的で、寧宗が不予となった間に楊皇后と結んだ史弥遠によって廃され、済王に貶されて湖州に逐われた後に暗殺された。

真徳秀  1178〜1235
 建州浦城(福建省)の人。字は景元、後に景希、号は西山先生。慶元5年(1199)の進士。 碩学の理学者として知られ、内外の諸官を歴任したのち理宗が即位すると中書舎人・礼部侍郎・直学士院に抜擢され、10年間での上奏は都合数十万言に及んで偽学の解錮と理学の振興を実現した。 史弥遠に忌まれて知泉州に出され、理宗の親政で徴還されて1235年には参知政事に叙されたが、程なく病の為に資政殿学士・提挙万寿観・侍講に退いて致仕した。明の正統年間(1436〜49)に、孔子廟に従祀された。

史嵩之  〜1256
 字は子由。史弥遠の族子。寧宗の嘉定13年(1220)の進士。 主に荊湖(荊西湖北)に鎮して1232年には荊湖制置使・知襄陽府に進み、滅金後の主戦論を批判して下野したものの三京回復の失敗で刑部尚書に直され、孟珙を荊湖制置使に抜擢した。 1239年には右丞相兼枢密使・都督両淮四川荊湖軍馬に進み、以後も相職を保って1244年に父が歿した際も起復(喪中の留任)したが、太学・武学などの学生339名に非礼不孝を糾弾されて下野し、これは亡宋の一因に挙げられる学生争議の先例となった。 最晩年に漸く観文殿大学士とされ、死後に魯忠簡公に追封されたが、恭帝の初年(1275)に奪諡された。

孟珙  〜1246
 隨州棗陽の人。字は璞玉。累代の武門で、父の忠順軍を嗣いで主に荊襄方面で活動し、モンゴルと協働した金の攻滅で江陵府副都統制に進み、戦後は三京回復に反対したものの出征が決すると従い、モンゴル軍の反攻を支えて全軍の壊滅を防いだ。 1236年に興されたオゴデイ=ハーンの南征軍を大破・撃退し、襄陽など漢水中流域を回復して荊湖制置使とされ、以後はモンゴルの来攻を悉く撃退した。又た諸軍区の体制を再編して防衛網を再構築しただけでなく、華北から逃れた漢人を収容して荊湖に屯田を興し、民政にも配慮した。 『易』に造詣が深く、仏教にも帰依し、撤収の際には常に香を焚いたという。

余玠  〜1253
 広済(湖北省武穴)の人。字は義夫。廬山の白鹿洞で学んだ事もあったが、人を殴殺して襄・淮に逃げ、淮東制置使趙葵の幕下に投じた。顕示欲が強く大言壮語を好み、1242年に自薦して四川按撫制置使・知重慶府に任じられ、汚官の弊害を除き、四川に屯田を布いた。又た合州の釣魚城をはじめ各地に城砦を築いて能くモンゴルの侵入を防いだが、自立の造謡から召喚されて自殺を命じられた。

趙葵  1186〜1266
 字は南仲。京湖制置使趙方の子。 しばしば兄の趙范と与に父の軍事に従って累功があり、一貫して山東の李全の受降に反対して討伐を求め、後に李全が叛くと淮東提点刑獄・知滁州とされて趙范を援けて討平した。 淮東制置使・知揚州の時(趙范は両淮制置使・節制軍馬兼沿江制置副使)に金が攻滅(1234)されるとモンゴルの北還に乗じた失地回復を兄と与に強硬に唱えて出征し、三京(開封・応天・洛陽)を回復して(端平入洛)権兵部尚書・荊河制置使・南京留守(趙范は荊河関陝宣撫使・東京留守、全子才は関陝制置使・西京留守)とされたもののモンゴルの逆撃で大敗し、淮東制置使・知揚州とされた。 淳祐4年(1244)に同知枢密院事に転じ、参知政事・督江淮荊湖軍馬を経て同9年には右丞相・枢密使に進んだが、非進士として辞し、以後は主に北辺の軍事を歴任した。

丁大全  1191〜1263
 鎮江の人。字は子万。理宗の嘉煕2年(1238)の進士。内官の董宋臣や閻妃らと結託し、1256年に宰相の董槐を弾劾で失脚させると右丞相・枢密使となり、太学生陳宜中ら六君子を悉く配流するなど朝政を壟断した。 モンケ=ハーンの南征で東路軍に攻囲された鄂州からの乞援とモンゴル軍の渡江の報を隠蔽した事が露見して罷免され、南海への移送中に藤州で暗殺された。

度宗  1240〜1264〜1274
 南宋の第六代君主。諱は祺。理宗の甥。理宗より「言動に節度あり」と評されて太子に迎えられた。 賈似道の専権を抑えることができず、加えてモンゴルの攻勢が本格化し、1271年に襄陽への援軍が壊滅して1273年には北防最大の要衝の襄陽城も陥され、荊湖地区の征服が進んでいる最中に歿した。

賈似道  1213〜1275
 台州(浙江省臨海)の人。字は師憲。淮東制置使だった父/賈渉の蔭で任官し、姉が理宗の貴妃となったために1238年に進士出身とされた。 孟珙の後任の荊湖制置使となってより両淮制置使や参知政事・枢密使を歴任してモンケ=ハーンの南征では両淮・湖広・四川の軍事を統領し、1260年にモンケの死によって退去するモンゴル東路軍を鄂州で破って軍中で右丞相に叙され、宰相として入朝した。
 まもなく理宗が歿して度宗が即位すると有力宦官を一掃し、交子改革・公田法などで一定の成果を挙げたが、人事の偏りや権・利への執着が強く、西湖畔の葛嶺の私邸で政務を裁断する頃から胥吏的な腹心が朝政を壟断した。 加えてクビライの即位を伝える元使の郝経を拘留した事が露見してモンゴルの再征を惹起したが、綱紀粛正によって軍との確執を生じており、襄陽落城後の荊湖軍区一帯の無血降伏はその結果だとされる。 1275年に出征して蕪湖でバヤンに大敗すると陳宜中らに弾劾され、漳州に流される途上で暗殺された。
 書画骨董の蒐集家・鑑定家としても著名で、特に鑑定眼は当代随一と評され、軍との対立や公田法の悪評などもあって、しばしば秦檜と対比される。

呂文徳  〜1269?
 安豊(安徽省寿県)の人。荊湖管区の有力な軍門での出で、モンゴルのモンケ=ハーンの南征に応じて入蜀し、戦後に四川制置副使として財賦の総領を認められ、程なく荊湖制置使・知鄂州に転じたものの夔路策応使、次いで四川策応使を兼ねて四川に対する影響力を維持した。元朝による襄樊攻略が始まって程なくに病死した。

李庭芝  1219〜1276
 随州の人。字は祥甫。 江防策を孟珙に認められて知建始県とされ、理宗の淳祐元年(1241)に進士に及第した。 1269年に権知揚州から荊湖制置大使に転じ、夏貴とともに襄陽に赴援したものの水軍の壊滅で帰還し、襄陽の陥落後は再び揚州に鎮守した。 1275年に蕪湖でバヤンに大敗した賈似道・夏貴を収容して参知政事・知枢密院事に進み、揚州は小朝廷と称された。 程なく元軍に攻囲され、翌年に臨安が陥落した後も謝太后の降伏勧告を拒み、糧食が尽きると東海に奔って泰州で捕われ、帰順を拒んで殺された。

恭宗  1271〜1274〜1276〜?
 南宋の第七代君主。諱は㬎。度宗の子。江南がモンゴルに征服される過程で即位し、謝太后が摂政したが、即位の年には鄂州が失われ、翌年には賈似道が蕪湖で大敗して軍事力の殆どを失った。 以後も各地で散発的な抗戦はあったが、翌年正月にはバヤンに臨安を開城し、上都に護送されて瀛国公に封じられた。

王応麟  1223〜1296
 慶元府(寧波)の人。字は伯厚、号は深寧。理宗の淳祐元年(1241)の進士。 小官を歴任した後、殆どの官僚が疎学に堕す現状に発奮して宝祐4年(1256)に博学宏詞科に及第した。主に国史・実録の編纂に携わって起居郎・吏部侍郎に進み、科挙で文天祥を状元とするなど人材の挙任と直言を好み、そのため賈似道に忌まれて致仕した。 賈似道の失脚後に復帰・累進して左丞相に至ったが、陳宜中と対立して致仕し、以後は究学に専念した。

玉澗
 婺州(浙江省金華)の人。俗名は曹若芬、字は仲石。芬玉澗とも。 杭州の天台系の上天竺寺の執事となった後、諸方を遊歴して郷里の芙蓉峰の玉澗の畔に隠棲し、玉澗または芙蓉峰と号した。自然を讃美し、好んで山水・墨竹を描いて名を知られた。日本には『廬山図』や『瀟湘八景図』が伝存し、水墨画家としては牧谿とともに高く評価され、多くの画家に影響を与えた。
 宋元時代、他に瑩玉澗・孟玉澗・彬玉澗など同号の画家が存在した。

牧谿
 蜀の人。法名は法浄。牧谿は画号。浙江の径山で禅宗の無準に師事した後、理宗期〜元初に杭州・江南で水墨画家としても活動して禅林高僧に賞讃され、賈似道とも交流があった。 水墨を好んで禅の道釈画を得意とし、彩色は一切用いず、簡素な画風は内面描写を重視し、宋代絵画の理想主義と写実主義との対立の超克に成功したとされる。 宋末元初の混乱で作品の多くが散佚し、明代以降の中国では酷評されたが、日本での評価が高く室町時代に絶賛され、多くの優品が日本に現存する。

鄭思肖  1241〜1318
 連江(福建省福州)の人。字は憶翁、号は所南、三外野人。 太学上舎生から博学宏詞科に応じたが、元軍の南下で辞し、亡宋後は蘇州に隠棲して居処を“本穴”と称し、以て大宋の遺臣を任じた。 墨蘭画を得意とし、自身を蘭に譬えて蘭根を描いて土を描かず、元朝に仕えた趙子昂とも絶交した。

端宗  1269〜1276〜1278
 諱は昰。度宗の長子。益王。恭宗が臨安を開城して無条件降伏すると、陳宜中陸秀夫張世傑ら抵抗派の一部官僚と共に福州に逃れて即位した。 しばしば元軍に追われて海上に逃れ、碙州(広東省呉川)で病死した。

衛王  1272〜1278〜1279 ▲
 諱は昰。度宗の第3子。臨安の陥落で端宗らと共に逃れ、端宗の死で擁立された。元軍に追われて潭江口東岸の克R(江門市南郊)で船団が壊滅し、陸秀夫に背負われて入水した。

陳宜中
 温州永嘉(浙江省)の人。字は与権。 太学生の時に連名で宰相の丁大全を糾弾して建昌軍に謫され、世に“六君子”と称された。後に赦されて理宗の景定3年(1263)に榜眼で進士に及第し、賈似道の下で要職を歴任して1274年には簽書枢密院事・権参知政事となり、賈似道が失脚すると弾劾の急先鋒となって右丞相・枢密使に進んだ。 臨安が陥落すると温州に逃れ、福州で端宗の擁立に加わって左丞相に至り、福州を逐われると亡命の準備と称して占城に奔ったものの帰らず、元軍が占城を攻撃するとタイに亡命したのち客死したとされる。
陳宜中については賈似道に対する掌返し、実務能力の欠落と逃亡癖、何より文天祥に対する異常なライバル意識と文天祥潰しを最優先した事が批判されます。ですが当時の朝廷は陳宜中の独裁ではなく、陸秀夫や張世傑にも文天祥を支持する言動がない点を含め、文天祥にも相応の問題があったようです。ぶっちゃけ、克Rで死んでればかなりの批判を回避できたであろう人です。

陸秀夫  1236〜1279
 楚州塩城(江蘇省)の人。字は君実。理宗の景定元年(1260)の進士。 初め李庭芝の幕下にあり、1275年に中央に推挙されて宗正少卿・起居舎人に抜擢され、翌年に礼部侍郎とされた。 臨安が開城すると益王衛王らを奉じて福州に逃れ、陳宜中張世傑らと端宗を擁立して端明殿学士・簽書枢密院事とされた。 モンゴル軍に追われて海路潮州に逃れ、1278年に碙州(広東省呉川)で端宗が歿するとその弟の衛王を立てて左丞相とされたが、克R(江門市南郊)でモンゴル軍に包囲され、妻子を殺した後に幼帝を背負って入水自殺した。

張世傑  〜1279
 范陽の人。華北の張柔の下で猛将として知られたが、罪を得て呂文徳に投じて重用され、累功で保安軍節度使に進んだ。 臨安開城後は益王を立てて枢密副使とされ、抗戦を続けつつ海上に逃れ、益王の病死後はその弟の衛王を奉じた。 1279年に克Rで張弘範・李恒の猛攻で船団が壊滅し、衛王らが自殺した後も楊太妃を奉じて占城での再起を図ったが、颱風に遭って溺死した。『十八史略』では「船、遂に覆る。世傑溺る。宋亡ぶ」として記述を終えている。

文天祥  1236〜1282
 吉州吉水(江西省)の人。字は宋瑞・履善、号は文山。理宗の宝祐4年(1256)の科挙で王応麟に絶賛されて状元となった。 1259年のモンケ=ハーンの南征の際、遷都派を弾劾して罷免され、後に再挙されたものの賈似道を批判して下野した。 元朝が南征軍を興すと勤王の勅に応じて義勇軍を組織し、1276年には陳宜中に替る講和使節となって右丞相・枢密使に叙されたが、才気を惜しまれてモンゴル軍に拘留され、臨安陥落後に脱走したものの李庭芝に疑われて揚州への入城を拒まれ、福州の益王に合流した。間もなく陳宜中らと対立して江西地方を転戦し、1278年に五坡嶺(広東省海豊)で張弘範に敗れて擒われ、大都に送られた後もクビライの説得を獄中で拒み続けて『正気の歌』を詠み、惜しまれつつ処刑された。

謝枋得  1226〜1289
 信州弋陽(江西省)の人。字は君長、号は畳山。宝祐4年(1256)の進士。賈似道を激しく弾劾して下野した。 元朝の南征に直面して江東提点刑獄・知信州とされて義勇軍を組織したものの惨敗し、亡宋後は売卜と教書を生業として各地を転遷したのち福建に居した。 元朝からの辟召を悉く拒み、上京を強制されると道中から絶食して大都で歿した。
 科挙受験者の為の模範文例集『文章軌範』(7巻)の編者でもあり、唐宋の古文および諸葛亮の『出師表』、陶潜の『帰去来兮辞』から編纂された同書は江戸後期の日本で愛読された。

蒲寿庚
 福建のイスラム系西域商人。アラブ人とも伝えられる。父の蒲開宗の時に泉州に移住し、兄とともに海賊を撃退して招撫使に叙任され、強力な水軍を擁した。 理宗の淳祐年間(1241〜52)に泉州提挙市舶司とされ、以後は対外貿易を管掌して宋の海運を掌握し、両広随一の富豪と称された。 臨安陥落後は福州政権から協働を求められたが、却って元軍に開城して水軍を供出して福建行省中書左丞相に任じられ、南海諸国の招懐など通商関係の樹立に奔走して泉州を大きく発展させた。 泉州開城の際に宋の宗室を鏖殺したことが強く非難されるが、それまでの宗族の驕慢・横恣に対する市民の感情の発露とする解釈も強い。


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