ツングース族

 中国東北地方〜極東シベリアを主な住地とした、アルタイ諸語系に属するツングース諸語を母語とする諸種族。 歴史的に主として狩猟経済を営んで遊牧や農耕にも順応し、中国史では高句麗・靺鞨・渤海・女真などが知られる。 東北地方の平野部は農耕にも適し、そのため中国との接触によって次第に半農半狩猟経済に移行し、騎馬の風習に対応したものの遊牧に比して地縁属性の強い狩猟・農耕に依拠した為、中国進出への強い志向と、その後の急速な漢化・定住化が常だった。 奥満洲の粛愼系と遼東〜朝鮮の濊貊系に大別され、両者は史書で「異言語」とされているため濊貊系を非ツングースとする見解も根強い。
 B2世紀頃に濊貊の中から北西部に夫餘が勃興し、次いで紀元前後には南東部に高句麗が抬頭し、数世紀に亘って東北地方を占有した。 夫餘の勃興で中国との音信が絶たれた粛愼の故地には挹婁が住い、これが女真に連なる勿吉・靺鞨の前身とされる。
 668年に高句麗が滅ぼされるとその故地には唐が羈縻支配を行なったが、7世紀末には高句麗遺民を吸収した靺鞨が渤海国を樹立して唐の支配から脱し、高句麗の故地の多くを回復して唐をして「海東の盛国」と云わしめ、10世紀初頭に契丹によって滅ぼされた。
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 契丹の支配下で渤海遺民は女真と総称され、12世紀初頭に統合と独立を達成して1125年には契丹を滅ぼし、東北地方だけでなく華北をも支配して漠東にも勢力を及ぼしたが、1234年にモンゴルに滅ぼされた。 モンゴルを中国から逐った明朝は女真族を海西建州野人の三大集団に大別して羈縻下に置いたが、建州女真のヌルハチが17世紀初頭に再統一を遂げ、17世紀を通じて中国全土の征服を完成させた。
 女真族は清朝初期に満洲族と改称したが、中国支配を通じて次第に漢民族に同化吸収され、現在は中国東北地区と新疆省に若干残るのみで、文化面ではほぼ漢化している。 大小興安嶺のオロチョン族、松花江下流域のゴルジ族、嫩江流域のソロン族、ロシアのエヴェンキ族などもツングース系で、それぞれ諸方言を形成している。
夫餘  高句麗  靺鞨  渤海    後金
 

粛愼
 記録に現れる東北地方最古の種族。『書経』や『左伝春秋』にも現れるが、奥満洲で楛矢(毒矢)を用いた原始的狩猟に従事していた以外の詳細は不明。 後に同地に確認される挹婁の祖であればツングース系となるが、その存在が知られた春秋戦国時代では一帯の異民族の総称として用いられていたらしく、7世紀頃まで挹婁を粛愼と呼ぶ用例が散見される。 日本史での粛愼(みしはせ)は、北方異民族の呼称として用いられた他は中国の粛愼との繋がりはない。

濊貊
 松嫩平原〜朝鮮半島東北部に住んだ種族。 濊・貊の呼称や勢力圏は時代によって変遷があって解釈に諸説あり、B128年に衛氏朝鮮の右渠に叛いて遼東郡に称藩した濊君南閭の為に置かれた蒼海郡は、佟佳江(渾江)流域方面に比定される。 又た貊族はB3世紀〜B2世紀に匈奴と漢に圧迫されて東遷し、朝鮮半島中部にも進出した。
 濊貊の分派とされる夫餘高句麗沃沮百済などの言語は粛愼系とされるツングース諸語・韓語と大きく異なるとされ、亦た『魏書』で室韋との近似性が指摘されている事などから、濊貊の言語をツングース系とする説の他に、粛愼系を純ツングース種として濊貊をモンゴルとの混合種、モンゴル系とする見解もある。

夫餘  〜494
 B2世紀頃に吉林省農安(長春地区)付近に建てられた、濊貊系最古の王国。 松嫩平野を占め、2〜3世紀に最盛期を迎えた。 濊の故地に建てられたために夫餘王は濊王とも呼ばれ、領内の濊城(黒竜江省賓県の慶華古城)は建国以前の先住地に比定されている。中国とは朝貢によって概ね親善して玄菟郡楽浪郡の維持を支援したが、王権は弱く結束に欠けた為に高句麗鮮卑の抬頭に苦しみ、遼東公孫氏との通婚で対抗を図ったこともあった。 285年に鮮卑の慕容廆に大破され、王は自殺してその子弟は沃沮に亡命し、この時は西晋の介入で再興したが、4世紀前半に慕容皝に大破されて分裂し、5世紀前期に東夫餘が高句麗に征服され、北夫餘も494年に勿吉によって滅ぼされた。
 高句麗百済の王室は夫餘王族の出と称している事から相互の近縁性が考えられ、中国の史書では高句麗・沃沮・百済は類似した言語を用いると紹介されている。

沃沮
 B2世紀〜4世紀頃、咸鏡道方面に拠っていた濊族に対する呼称で、夫租(咸興)一帯の濊を『三国志』で誤記したものが定着したと考えられている。 言語は高句麗と殆ど同じとされ、B2世紀頃に夫租一帯に居して衛氏朝鮮に従属し、後に武帝の朝鮮征服で玄菟郡の管下に置かれた。 B1世紀の玄菟郡縮小とともに楽浪郡管下となって次第に高句麗の影響力が強まり、3世紀の魏の毌丘倹による高句麗討伐の後は魏に従属した。東沃沮と記される事もあり、又た住地の関係から北沃沮・南沃沮に大別される事もある。 後に白山靺鞨と称され、高句麗の滅亡後は渤海人に同化した。

 

高句麗

 〜668
 古代東北地方の濊貊系種族とその国名で、開祖の朱蒙が夫餘の王族とされるなど夫餘との関係が強く、日本や朝鮮では朝鮮国家と認識されている。 鴨緑江支流の佟佳江(渾江)畔の桓仁一帯で狩猟・牧畜・原始農耕に従事し、中国による遼東経営の後退と伴に朝貢を通じて部族集団が形成され、1世紀末頃から部族連合体を形成して五部族によって運営された。 3世紀に入る頃に内訌によって輯安(丸都城/吉林省)に中心が遷り、しばしば遼東に入寇した為に244年に毌丘倹に討破され、遼東に進出した鮮卑慕容部とも争ったが、4世紀初頭に中国の混乱に乗じて楽浪郡帯方郡を滅ぼし、多数の漢人知識人を得て文化面でも大きく発展した。
 慕容部との抗争で国力が低迷し、371年には故国原王百済に敗死するほどだったが、4世紀末〜5世紀には中国の淝水の役参合陂の役などでの華北の混乱に乗じ、広開土王長寿王の下で遼東を含む東北地方南半〜朝鮮半島中部を支配する大国に発展し、平壌に遷都して最盛期を現出した。 長寿王の死後は中国北朝の安定と羅済同盟によって対外発展は停滞し、北朝に対しては朝貢しつつ南朝や突厥との通好で牽制したが、中国が隋によって統一されると遼東の帰属を巡って対立を明確にし、突厥との紐帯を強調した。 隋の文帝煬帝、唐の太宗による計5回の遠征を悉く撃退して隋の滅亡を招導したが、国力の疲弊が深刻となり、百済と結んで新羅を攻めたことで宗主国である唐の再征を招き、668年に唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた。
 碑文史料によれば、5世紀中頃には“高麗”を自称し、6世紀の中国でも“高麗”が正式名称として用いられたが、後世、王氏高麗と区別するために便宜的に用いられた“高句麗”の称が定着した。

山上王  〜197〜227
 延優。高句麗の第十代君主。 兄の故国川王が無嗣で歿すると桓仁に拠る兄の発岐と内訌を生じ、輯安(旧玄菟郡高句驪県/吉林省集安)に拠って即位した。 発岐は遼東の公孫度に通じて即位したが、後に劣勢となって敗死したとも遼東郡に遷されたとも伝えられ、山上王による支配が確立した。
 輯安に丸都城を築いて国都とし、これより伝統勢力の五族が弱体化して国王直属の五部が抬頭し、王位継承も父子相続に移行した。 3世紀初頭頃には丸都城に隣接する平地に国内城を造営して王宮を置いたが、丸都城とは強く連携し、この山城と平城の一体性は朝鮮半島では普遍的なものとされる。

東川王  209〜227〜248
 憂位居。東襄王とも。高句麗の第十一代君主。山上王の子。 魏の公孫淵討伐には援軍を送って協力したが、遼東進出を志向して242年より対立し、246年には毌丘倹に丸都城を陥される大敗を喫して南沃且まで逃れた。 魏軍の撤収により帰国したが、論功行賞が側近を中心に行われた事から逃亡中に五族の支援は殆ど無かったらしく、部族連合体制から原始貴族制への転機となったと目されている。247年に国内城の近傍に平壌城を築いて遷都した。

美川王  〜300〜331
 乙弗。好壤王とも。高句麗の第十五代君主。東川王の玄孫。暴虐として廃された先代の烽上王の甥。 父の咄固は謀叛の嫌疑で烽上王に殺された。八王の乱永嘉の乱による西晋の混乱に乗じて313年に楽浪郡を、翌年に帯方郡を滅ぼした。 当時は遼西の慕容廆の攻勢に直面し、西晋の平州刺史に与して慕容廆と交戦したものの敗れ、319年には崔が来奔した。以後も慕容部に苦しめられ、330年には後趙の石勒に朝貢した。

故国原王  〜331〜371
 斯由。国岡上王とも。高句麗の第十六代君主。美川王の子。 339年に前燕の慕容皝に大敗して城下の盟を余儀なくされ、丸都城を修築して遷宮したが、同年(342)に大破されて東方に逃れ、王母と王妃とが捕われて美川王の遺骸も奪われた。 翌年に更めて称臣して美川王の遺骸が返還され、355年に亡命者を送還して王母を返還された際に征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に冊封され、高句麗が中国王朝から冊封される嚆矢となった。369年に百済を攻めて大敗し、371年にも南侵して平壌で近肖古王に敗死した。

小獣林王  〜371〜384
 丘夫。小解朱留王とも。高句麗の第十七代君主。故国原王の子。 国力の回復に注力し、即位の翌年に前秦から仏僧順道を受入れたことは仏教公認の始まりとされる。 同時に律令を制定して太学を創建したとされるが、律令は旧来の慣習法の成文化と見做されている。

広開土王  374〜391〜412
 好太王とも。高句麗の第十九代君主。小獣林王の甥。即位後まもなくに百済に進攻し、396年に漢江以北を奪って百済国都の漢城(ソウル)を攻囲し、400年には新羅国都から倭軍を一掃するなど、南部を除く半島全域を支配した。 倭とはしばしば百済・新羅の宗主権を争い、西方では凋落著しい後燕と争って遼東に進出し、北に契丹を破り、東夫餘を経略して沿海州方面にも遠征した。内政面では中国の制度を一部導入し、長史・司馬・参軍などの中央官職を新設した。

長寿王  〜412〜491
 高句麗の第二十代君主。広開土王の子。北燕の凋落に乗じて遼東支配を確立して遼西にも進出し、南方に対しては倭と半島南部の主導権を争いつつ百済を圧迫して427年に平壌城に遷都した。 475年には百済の首都漢城(ソウル)を攻陥して蓋鹵王を殺し、百済を熊川に遷都させた。 この時期の高句麗は最大版図を有し、中国に対しては南北両朝に朝貢して概ね良好を保ち、高句麗の最盛期とされる。

陽原王  〜545〜559
 陽崗王とも。高句麗の第二四代君主。長寿王の玄孫。 東魏・北斉にのみ朝貢し、550年に使持節・侍中・驃騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高句麗王に冊封された。 突厥の入冦などもあって新羅に劣勢を強いられ、 又た557年には丸都城で城主の叛乱が発生し、鎮圧はされたものの王権の動揺を露呈した。

平原王  〜559〜590
 平崗王とも。高句麗の第二五代君主。陽原王の子。 北斉が新羅をも冊封した事で外交上の優位が後退し、南朝や北周への朝貢を再開した。 北斉から560年に使持節・領東夷校尉・遼東郡公・高句麗王、陳から562年に寧東将軍、北周から577年に開府儀同三司・大将軍・遼東郡公・高句麗王に冊封された。 隋が興ると直ちに朝貢して大将軍・遼東郡公に冊封されたが、平陳の直後から防備を強化した事で関係は俄かに悪化した。

嬰陽王  〜590〜618
 平陽王とも。高句麗の第二六代君主。平原王の子。 即位後に隋より上開府儀同三司・遼東郡公・高句麗王に冊封された。 598年に遼西に入冦したことで文帝の遠征を惹起し、霖雨による隋軍の難渋と嬰陽王の謝罪で和したが、607年に突厥との通交が露見して煬帝による高句麗遠征が行なわれ、612年に薩水で隋軍を大破した。613年・614年の遠征も撃退し、隋の衰亡を促進した。

乙支文徳
 高句麗の将軍・大臣。隋の第二次高句麗遠征(612)では佯降して隋軍の内情を偵察して帰陣し、宇文述ら隋の前軍を奔命に疲れさせた後に撤退するところを薩水で殲滅した。 これは世に“薩水大捷”と称され、遼河を渡った隋兵30万5千のうち遼東城に帰還できたのは2700に過ぎず、現代の韓国では1018年に契丹の侵入を退けた姜邯賛、1592年に日本水軍を大破した李舜臣とともに救国英雄の筆頭とされている。

栄留王  〜618〜642
 建武王とも。高句麗の第二七代君主。嬰陽王の異母弟。 新興の唐との和親を重んじて622年に捕虜交換に応じ、624年には唐の正朔を奉じて上柱国・遼東郡公・高句麗国王に冊封された。 唐は東突厥を覆滅した630年より威圧的となり、これに応じて夫餘城(吉林省農安)〜渤海湾に千里長城を築いて備え、新羅に対しても守勢に転じた。 対唐外交をめぐって権臣の淵蓋蘇文と対立し、クーデターによって近臣百余名とともに殺された。

宝蔵王  〜642〜668〜682
 高句麗の第二八代君主。栄留王の弟/大陽王の子。 栄留王を殺した淵蓋蘇文に立てられた。即位直後に百済と同盟して新羅を圧迫したが、新羅の唐に対する称藩をもたらして660年に百済が滅ぼされた。 淵蓋蘇文の死後はその3子の内訌が発生して唐と新羅に乗じられ、668年に国都が陥されて長安に連行された。 677年に羈縻政策の一環として遼東州都督・朝鮮王とされたが、高句麗再興を図って遺民を糾合して靺鞨とも通じ、681年に露見して卭州(四川省卭崍)に流された。死後、長安の頡利可汗の墓の傍らに葬られたという。

淵蓋蘇文  〜666
 高句麗の有力貴族の出身。父から大対盧(第一等官)を襲ぎ、唐との対決が不可避として親唐派貴族と対立した。 642年に王弟の大陽王が歿して栄留王との反目が尖鋭化するとクーデターを起こして宝蔵王を立て、自ら莫離支に就いて軍政の大権を掌握した。 百済との同盟の維持と軍国主義体制とによって唐の攻勢を悉く撃退したが、死後に諸子が内訌を生じ、これに乗じた唐・新羅によって668年に高句麗は滅ぼされた。 『旧唐書』『三国史記』では唐祖李淵に避諱して泉蓋蘇文、『日本書紀』では音写によって伊梨柯須彌と記されている。

 
 

挹婁
 古代の三江平原〜沿海州方面に住したツングース族。挹婁は粛愼の故地に住まう種族に対する他称で、3世紀前期に夫餘から独立した後も中国では粛愼との混用が続き、『三国志』にも「肅愼氏一名挹婁」とある。 深い竪穴を住居として言語は濊貊系とは異なり、養豚・毒矢の使用・人尿による洗顔など多くの習俗が勿吉・靺鞨と共通している。邑落ごとに分立して沃沮・夫餘などと抗争し、楛矢を以て漢・魏・晋・前秦などに朝貢したが、政治的に統合される事はなかった。
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 住地の関係から歴史的に粛愼の裔と見做され、亦た習俗や遺物・比較言語学などから女真の祖である事がほぼ確実視されている。 そのため挹婁とは言語の大きく異なる濊貊系の夫餘・高句麗の言語的帰属には諸説を生じている。

勿吉
 5世紀頃から史書に現れるツングース族。 挹婁の故地の松嫩平原東辺〜沿海州南部に住して北魏・東魏に頻繁に朝貢し、周辺諸族を冦掠して「東夷最強」と称され、494年に夫餘を滅ぼした。 『魏書』には挹婁の裔とあり、言語は「独異」として近隣諸種との違いが指摘され、隋の頃より靺鞨と記されるようになった。

靺鞨
 東北地方に居住したツングース族に対する総称で、直接には勿吉人国家の遺民を指した。 勿吉が靺鞨と呼ばれるようになる直接の原因は不明で、隋代には各部が地域ごとに自立し、『隋書』では粟末・伯咄・安車骨・仏涅・号室・黒水・白山の七部族が紹介され、最北の黒水部が最も勇健だったとあり、多くは高句麗に服属して南方の粟末部と白山部は隋とも交渉を持った。 高句麗が滅ぼされるとその遺民と合して渤海国を建て、渤海人と称したが、以後も黒水部は長らく自立を保ってしばしば渤海と攻伐した。 渤海国が滅んだ後は朝鮮半島に逃れた者も多く、満洲に残ったものの多くは黒水靺鞨も含めて女真と呼ばれた。

 
 

渤海

 698〜926
 高句麗の故地に建てられたツングース系国家。王族の大氏は高句麗人(『旧唐書』)とも、粟末靺鞨(『新唐書』)とも伝えられる。 高句麗の滅亡後も、高句麗人と靺鞨人は唐の羈縻支配に抵抗を続け、7世紀末に大祚栄が契丹の松漠都督の造叛に乗じて挙兵し、東牟(吉林省敦化)に拠って震国王を称した事に始まる。 713年(開元元年)には唐の宗主権を認めて渤海郡王・忽汗州都督に冊封され、続く武王文王の時代に境域の拡大と体制の整備が進められた。 文王の死後は2代続けて王位を巡る政変が起き、その後も概ね短命な君主が相次ぎ、唐や日本との緊密な国交や国内の安定は保たれたが、818年に簡王が在位1年で歿すると大祚栄の嫡統は絶え、大祚栄の弟/大野勃の曾孫の大仁秀(宣王)が立てられた。
 宣王の時代に渤海国は最盛期を迎え、遼東地方を除く旧高句麗領をほぼ回復したばかりか黒水靺鞨を経略して北方に大きく拓疆し、唐に対しては藩礼を保って国威を再建した事で、『新唐書』などでは「海東の盛国」と評された。 宣王の後も唐とは親善を保ったものの詳細は殆ど伝わらず、終始敵対関係にあった契丹によって926年に滅ぼされ、渤海人を統制する為に東丹国が置かれた。
 渤海は日本とも頻繁に交流し、初めは唐・新羅に対する軍事同盟の性格が強かったが、後には文化交流と交易を目的としたものとなり、日本の遣唐使を凌ぐ34回の遣渤海使を迎えた。宣王の時代には下賜品の負担を厭う日本によって12年の期界を設けられ、後に6年1期に緩和された。

武王  〜718〜737
 渤海国の第二代君主。諱は武芸。高王大祚栄の嗣子。726年(開元14)に黒水靺鞨が唐に朝貢して黒水都督府長史とされてより黒水靺鞨の経略を国是とし、親唐派の弟/大門芸の遠征途上での唐への亡命を招来した。 報復として732年に登州(山東省蓬莱)を侵し、契丹・日本に通じて唐・靺鞨・新羅に対抗した。

文王  〜737〜793
 渤海国の第三代君主。諱は欽茂。武王の嗣子。唐との国交修復に尽力して唐への留学や文物の摂取を積極的に行ない、三省六部制五京制・府州制などを導入して中央集権化を進め、755年に長安大興城を模して造営した上京龍泉府(黒竜江省寧安市東京城)に遷都した。 安史の乱に対しては国境を固めて静観し、762年には渤海王に進封された。
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 文王は継嗣を定めずに歿した為に内訌を生じ、武王の弟が王位を得たものの反対派を弾圧した為に数ヶ月で殺され、擁立された文王の嫡孫/成王も半年足らずで病死して末弟/康王が立てられた。康王(在:794〜808)は文王の時代への回帰を唱え、綱紀を粛正して政情を安定化させ、唐や日本との国交を積極的に進めたと伝えられる。

 
 
 女直とも。渤海国敗滅後のツングース系諸族の総称。部族ごとに分れて契丹に支配され、嘗ての黒水靺鞨は豆満江流域〜咸鏡道方面で契丹・高麗に朝貢して黒水女真・東女真などと呼ばれた。 遼河平原の女真は開明的として“熟女真”と呼ばれたのに対し、北方の女真は化外の蛮民として“生女真”と呼ばれた。
 契丹では早くから「女真、万に満つれば敵すべからず」と称されて分割支配が進められたが、中央の政治的弛緩と契丹官吏の横暴などから、生女真の中から按出虎水(アルチュフ川/阿什河)流域(阿城県一帯)の完顔部が次第に勢力を増し、完顔阿骨打によって女真統合が達成されて金国が建てられ、十数年で契丹の遼と中国の宋を相次いで断絶させて華北平原をも支配した。 漢字や契丹文字を参考に独自の女真文字を創案し、又た草創期の重装騎兵は当時の北アジア最強の兵団だったと伝えられる。 金は1234年にモンゴルによって滅ぼされ、満洲で再び多くの部族に分裂してモンゴルに支配された。  
 

 1115〜1234 ▲
 完顔氏を支配氏族とする女真族国家。松花江支流の按出虎水(アルチュフ川)流域(阿城県一帯)に興り、太祖阿骨打の下でからの独立と東北地方の統合を果たした。按出虎水では砂金を産した事が国号の由来になったという。 大同・燕京方面にも進出し、1125年に太宗が遼を滅ぼし、1127年には宋を断絶させて河南にも進出した。 初め中国には張邦昌劉豫の漢人君主を立てて間接統治を行なったが、1137年に煕宗によって直接統治に転じて秦淮を南宋との国境に定め、1153年には海陵王が上京会寧府(ハルビン市阿城区)から中都大興府(燕京)への遷都を行なった。
 海陵王を打倒した世宗の下で宋との和議と国制の再建が行なわれたが、燕京遷都で加速した女真の漢化と窮乏化を改善することはできず、12世紀末頃から天災とタタールの活発化で国力は急速に疲弊した。 13世紀初頭にはモンゴルの攻勢が始まって開封遷都と契丹の離叛で燕雲以北を悉く失い、1232年に開封を放棄し、1234年に蔡州の朝廷ががモンゴルと宋の連合軍によって滅ぼされた。
 女真社会は猛安・謀克を基本単位とし、猛安は10謀克で、謀克は300戸で編成されて兵力供出の単位として機能し、華北征服後は多くが中国各地に屯田した。 歴代皇帝の多くが漢文化に心酔してその摂取・模倣につとめ、北宋文化は質は低下しつつも金朝に継承されたが、その一方で女真文化は急速に失われ、世宗による女真文化の維持政策も殆ど実効は挙がらなかった。
太祖  煕宗  世宗  章宗  宣宗
 

完顔阿骨打  1068〜1115〜1123
 金の初代君主。太祖。阿骨打(アクダ)は俗称のアブーチ=掠奪者の音訳とされる。中国名は旻。 完顔部が生女真の中で求心力を強めた父の劾里鉢(世祖)の時代から要職にあり、兄の烏雅束の時代には実質的な君主だったという。 1113年に完顔部長となると契丹支配の排除と女真の統合を進め、寧江州(吉林省扶余)を陥した翌年(1115)には会寧(ハルビン市阿城区)で称帝して金朝を興し、数年で満洲を完全に征圧した。 1120年に遼の上京を陥落させると宋と攻守同盟を結び、中京・西京を含む長城以北を征服しただけでなく、1122年には宋の要請に応じて燕京をも陥落させたが、これは約定を遵守して宋に返還した。遼の天祚帝の追討中に罹病し、帰途に瀋陽付近で病死した。

太宗  1075〜1123〜1135
 金の第二代君主。呉乞買(ウキマイ)。中国名は晟。阿骨打の弟。 太祖の時代に諳班勃極烈=副帝として国務を総理し、即位後も多くは会寧府で内政を整備して外征は概ね一族の将軍に委任していた。 1125年に遼を滅ぼし、次いで1127年には契丹との密盟など背信を続けた宋を滅ぼして黄河以北を占有し、河南・陝西に対してもの傀儡国家を樹てて間接支配を行なった。 又た高麗西夏に臣礼を執らせるなど国力の発展は著しかったが、君主専制は確立されておらず、一族諸王の圧力で太祖の嫡孫(煕宗)を継嗣とした。

斡離不  〜1127
 オリブ。中国名は宗望。太祖の第2子。 遼の天祚帝追討や燕京攻略などで功を挙げ、開封攻略では副帥として河北から進み、山西方面から南下した粘没喝と呼応して徽宗・欽宗以下多数の皇族・官僚を捕虜とし、勲功第一とされた。 生涯不敗の名将として宋人より二太子(アルターツ)と俗称され、行政面でも有能だったが若くして頓死した。

粘没喝  1079〜1136
 ネメガ、粘罕。中国名は宗翰。太祖の伯父/劾者の嫡孫。 太祖の挙兵以来従軍して戦功を累ね、1125年に左副元帥とされて大同方面で遼の天祚帝を擒え、開封陥落でも大功があり、大同に駐屯して華北の経営・経略や対宋交渉を担当し、河南に張邦昌劉豫を君主とする傀儡国家を相次いで樹てた。 太宗が歿すると遼王斡本と結んで煕宗を擁立し、尚書令・領三省事・晋王とされたが、斡本との政争に敗れて失脚し、程なく病死した。

劉豫  〜1143
 景州阜城(河北省滄州)の農民の出で、哲宗の元符年間(1098〜1100)の進士。 靖康の難では河北路の提点刑獄を棄官して江北に逃れ、高宗から知済南事に任じられたが、1128年に撻懶に攻囲されると守将の関勝を殺して開城に応じた。 張邦昌の後任として1130年に大斉国皇帝に擁立され、1132年に陝西が治下に加えられると大名府から開封に遷都し、宋制に倣った統治を行なった。
 僭称の事や金の傀儡政権だったために史評は極めて悪いが、在野挙人の積極登用や小規模な群盗・匪賊の軍籍編入、鋳銭や交鈔の発行などで社会を安定させ、結果として金朝による中国の直接統治を早め、以後も河南に改俗令(辮髪強制)が用いられなかったことは注目に値する。 粘没喝が失脚した翌年(1137)に斉国は廃され、臨潢府(内モンゴル巴林左旗)に徙されて曹王として歿した。

完顔希尹  〜1140
 金朝初期の将軍。本名は谷神。太祖に挙兵当時より従い、1119年には漢字に倣って女真大字を制定した。 古北口で遼軍を大破し、西京を陥し、開封攻略でも功を立てて揚州まで進出した。煕宗擁立にも参画して尚書左丞相に侍中を兼ねたが、讒言によって殺された。

煕宗  1119〜1135〜1149
 金の第三代君主。合剌(ホラ)。中国名は亶。太祖の嫡長孫。1132年に太宗より諳班勃極烈とされて継嗣と認められた。 即位後は中国型の官制を導入して勃極烈制(執政大臣会議)を廃し、権臣の粘没喝を排除して斉国を直轄化するなど中央集権・君権強化を進め、1142年には淮河を国境として南宋の臣事と銀・絹各25万の歳貢を以て和議を成立させた。 進まない君権強化や廃黜への猜疑から宗室・勲貴の粛清や酷刑を濫用し、晩年には酒毒も加わって暴虐的となり、従兄の迪古乃(海陵王)に暗殺された。南朝君主に倣って東昏王に貶され、世宗によって煕宗に直された。

斡本  〜1141
 オベン。中国名は宗幹。太祖の庶長子。太宗が歿すると晋王粘没喝と結んで煕宗を擁立し、次いで従弟の蒲魯虎と結んで粘没喝を失脚させて大権を掌握した。 南宋との講和を急ぐ蒲魯虎・撻懶らに対しては異母弟の兀朮と結んで対抗し、1139年に蒲魯虎らを粛清して太祖の直系による執政体制を構築した。
 煕宗の養父でもあり、そのため煕宗は斡本の死を大いに歎いたという。 次子の迪古乃(海陵王)が簒奪すると徳宗・明粛皇帝と追尊されたが、世宗の世に梁宋王に貶された。

蒲魯虎  〜1139
 中国名は宗磐。太宗の嫡子。 一時は太宗の継嗣に擬されたが、勃極烈会議で合刺(煕宗)が選出された。 煕宗が即位すると尚書令・宋国王に直されて斡本粘没喝と共に領三省事とされ、斡本と結んで粘没喝を失脚させた後は腹心の撻懶と与に宋との和議を推進し、過剰な譲歩を弾劾されて共に謀叛の誣告で処刑された。

撻懶  〜1139 ▲
 ダラン。中国名は昌。太祖の従弟。 伐宋戦では河南・淮北・山東を経略して大功があったが、粘没喝らによる斉国樹立で既得権を失った。又た太宗の嫡子の蒲魯虎の立太子を支持して合剌(煕宗)を推す斡本・粘没喝と対立したが、煕宗の即位後も蒲魯虎の腹心として権勢を保った。 斉国樹立に対抗し、秦檜を南宋に帰国させて朝廷工作を進め、1139年に宋との講和を成立させたが、河南・陝西の割譲を認めた事を斡本・兀朮らに弾劾されて和議は破棄され、自身は大逆に枉陥されて祁州で殺された。

兀朮  〜1148
 ウジュ。斡啜/オットとも。中国名は宗弼。太祖の第6子。兄の斡離不に従って征遼戦で頭角を顕わし、開封攻略康王追討などで偉功を累ねた。 江南に宋が復興すると高宗を追って長江を越え、この時は帰途の黄天盪で韓世忠に大破され、直後の陝西経略では張浚を破って関中を奪回したものの、南下して和尚原で呉玠に大破されたが、苛烈な用兵は女真騎兵の象徴として畏怖され、宋人から四太子(スーターツ)と呼ばれた。
 講和派の蒲魯虎らが粛清されると都元帥・燕京行台尚書省に進んで名実ともに金軍の主柱となり、華北経営と並行して四川〜河南の各地を転戦し、1140年には河南を奪還して尚書左丞相に進んだ。 斡本の死後は宋との和議を推進して戦場に出る事も減り、太師・領三省事に進んだ翌年に歿した。

海陵王  1122〜1149〜1161
 金の第四代君主。迪古乃。諱は亮。太祖の庶長子/遼王斡本の子。 兀朮の河南奪回に従軍したのち尚書左丞・右丞相などを歴任し、1149年に唐括弁らと謀って煕宗を廃弑して即位した。 卓越した教養人であり、漢文化に心酔して金の完全な中国王朝化を図り、1153年に上京から燕京に遷都し、1156年には中書・門下省を廃して行政機関を尚書省に統一した。 一方で太宗や粘没喝の一族を鏖殺するなど宗室・功臣・諫臣の粛清による独裁化を進め、奢侈に耽って搾取を重ね、女真人・契丹人・漢人による叛乱が各地で頻発した。
 1161年に開封遷都と南宋攻略を強行したが、契丹人を大量徴発した為にタタールも備える契丹人の大乱を惹起し、采石磯の敗戦で戦局が膠着するうちに本国では従弟の完顔雍が僭称(世宗)し、揚州の陣中で世宗派の完顔元宜に殺された。世宗によって海陵郡王とされ、後に庶人に貶された。

蔡松年  1107〜1159
 真定の人。字は伯堅、号は蕭閑老人。北宋の宣和の末年(1125)に父の蔡靖に従って燕山を守った。 金に降った後は太宗・熙宗・海陵王の3君に仕えて1158年に右丞相とされ、衛国公に封じられた。 文人として高名で楽府を最も得意とし、文詞は清麗と評され、呉激と名を斉しくして元好問からは「国朝第一手」と評された。

世宗  1123〜1161〜1189
 金の第五代君主。烏禄。中国名は雍。太祖の孫、海陵王の従弟。 韜晦によって海陵王からは魯鈍と評され、南征に際しては東京留守(遼陽)とされたが、南征中に反海陵王派に擁立されて即位し、中都(燕京)に入って海陵王の廃位を宣言すると殆どの国民が従った。 海陵王は間もなく前線で暗殺され、宋軍の撃退と講和、造叛した契丹人の鎮圧、官吏の粛正と財政再建などによって国内外を安定させて“小堯舜”と称された。
 漢文化に深い理解があった一方で、女真族の急速な漢化と窮乏化の改善に意を用いて税制の改変と女真文化の維持保存につとめたが、殆ど効果を挙げなかった。 特に戦後復興を急務とした税制改革は実質的な増税で、却って民生を圧迫して小規模な叛乱が絶えなかった。

太一教
 金の煕宗の天眷年間(1138〜41)、河南の蕭抱珍によって興された道教。教義の詳細は不明だが、飲酒や妻帯を禁じるなど初期の天師道への回帰を唱えたものと考えられ、急速に教勢を拡大して1148年には朝廷に通じて公認され、以後の祖師は蕭氏に改姓した。 第4代の蕭輔道はカラ=コルムでクビライ汗への謁見に成功し、第5代蕭居寿が太一掌教宗師の印を下賜されて最盛期となったが、以後は人を得ずに衰退した。

真大道教
 1142年、滄州楽陵(山東省商河)出身の劉徳仁(1122〜80)が、儒・仏を摂取して塩山(河北省)に興した道教。 はじめ大道教を称し、忠孝仁の強調と厳格な戒律を以て農民層に支持され、1167年には世宗への通謁を果たし、東嶽真人の号を贈られて燕京の天長観に居した。
 第5代の酈希誠に至って燕京の天宝宮に居し、モンゴルのモンケ汗より“真大道教”の称を与えられ、クビライ汗にも庇護されて山東〜江南に教勢を張ったが、後に全真教に吸収された。

王嚞  1113〜1170
 咸陽の人。旧諱は中孚。字は智明、号は重陽。王重陽として知られる。 科挙に落第したのち武挙に合格したものの、卑職を厭って酒色に耽ったが、1159年に漢鍾離・呂純陽の2隠者に啓発され、家族を棄てて道士になったという。 1167年頃より全真教を称して山東での布教を始め、山東北部で馬丹陽・邱処機ら七真人を弟子として教団の基礎を固めた。

全真教  ▲
 王重陽によって興された、道・仏・儒の三教を融合した新道教の一派。 道徳経の他に般若心経・孝経の修養を奨励する一方、呪術・錬丹術を否定し、大乗仏教的な済民や実践主義を提唱して民間にも拡まった。 王重陽の死後、高弟の邱処機=長春真人が金世宗に法号を与えられてより盛行し、モンゴル時代にも華北道教の正統と公認されて正一教と勢力を二分したが、1280年に仏教との法論に敗れ、明代になると正一教が優遇されて凋落した。
 明代には亦た世俗的な全真南宗(金丹道/丹術派が改称したもの)との融合も進んで旧道教に回帰し、清代に教勢を回復した。 現代中国の道教教団は概ね正一教と全真教に大別され、全真教は北京の白雲観を本山としている。

章宗  1168〜1189〜1208
 金の第六代君主。麻達葛。諱はm。世宗の嫡孫。女真文化の維持に尽力した世宗に将来を嘱望されたが、中国文化に傾倒して諸制度の中国化を積極的に進め、文化人としては宋徽宗を範とし、書・画に於いては“小徽宗”と呼ばれる名手となった。 その治世は黄河の氾濫やタタールの活発化、女真族と漢人との反目の尖鋭化などに終始した。 1206年に南宋の韓侂胄が起した北伐を撃退して歳幣を増額させた他、捐納や度牒の販売、交鈔の発行など財政改善も図ったが、交鈔は濫発に直結して信用を失い、社会不安を好転させることはなかった。

王庭筠  1156〜1202
 辰州熊岳(山西省)の人。字は子端、号は黄華山主。大定16年(1175)の進士。詩文の才を以て1192年に応奉翰林文字とされ、翰林院修撰に進んだ。 翌年(1196)に趙秉文に連坐して罷免されたが、間もなく再挙されて1201年には再び翰林院修撰となった。書画にも能く、特に山水墨竹に長じた。

衛紹王  〜1208〜1213
 金の第七代君主。果縄。諱は允済、後に永済。章宗の叔父。瀟洒な貴公子として知られ、章宗の遺詔で衛王から迎立された。 1211年に西北辺から侵入したモンゴルに華北を席捲され、これに呼応した耶律留哥の離叛によって軍事力の多くを失った。 山西防衛に失敗した右副元帥・権尚書左丞の胡沙虎に中都で殺され、帝号も剥奪された。

宣宗  1163〜1213〜1223
 金の第八代君主。吾賭補。諱はc。章宗の庶兄。衛紹王を弑した胡沙虎に擁立され、即位直後に始まったチンギス汗の第二次親征の中で胡沙虎は暗殺されたが、多くの州がモンゴル軍に陥されて、翌春に中都城下で講和した。 間もなく開封に遷都したために西夏を従えたモンゴルに再征されて翌年には中都を陥され、更に交鈔の濫発で華北の経済と治安を大混乱させ、各地に後に漢人世侯と呼ばれる軍閥が形成された。

耶律留哥  1165?〜1220
 契丹人。北辺の千戸長だったが、1211年にモンゴル軍の侵攻に呼応して上京路西南辺(長春・四平方面)の契丹人を糾合して離叛し、モンゴルと結んで1213年に遼王を称した(東遼)。 契丹兵の離背と遼東の失陥は金国の軍事力を一気に凋落させ、蒲鮮万奴らを撃退して咸平(遼寧省開原)を国都に定めた翌年(1215)には東京(遼陽)を陥して遼西にも進出した。1216年に弟の耶律廝不が離背し(後遼)、1219年までにモンゴル・高麗との協働で平定した。
   ▼
 耶律留哥の死後は王妃の姚里氏が監国とされ、1227年より嗣子の耶律薛閣(1193〜1238)が執権した。 耶律薛閣はチンギス汗の西征やオゴデイ汗の南征・高麗遠征にも従軍し、蒲鮮万奴の敗滅を機に王国を廃されたが、以後も耶律氏は遼東の地方官を世襲する藩侯として存続した。

蒲鮮万奴
 女真人。1214年に遼東宣撫使として耶律留哥を討伐したものの大敗し、翌年に東京遼陽府に拠って大真国王を称した。 再度耶律留哥に敗れて豆満江下流域に東遷し、時にはモンゴル軍と結んで高麗を攻略するなど勢力を維持・拡大したが、1233年にグユク率いるモンゴル軍に滅ぼされた。

哀宗  1198〜1223〜1234
 金の第九代君主。寧甲速。諱は守緒。宣宗の第3子。 当時の金はモンゴルの攻勢で黄河以北を失っており、西夏との同盟も事態の好転につながらず、西夏が滅ぼされるとモンゴルの攻勢が本格化した。 1232年に三峯山で軍の主力を撃滅されて開封を包囲されると棄京して各地を転遷したが、1234年に蔡州(河南省汝陽)をモンゴル軍と宋軍に攻囲され、族弟の完顔承麟(太祖の兄/烏雅束の裔?)に譲位して自殺した。
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 完顔承麟(末帝)は譲位されるや蔡州からの脱出を試みたが、城外で乱兵に殺されて蔡州は陥落し、金は名実ともに滅んだ。

完顔彝  1192〜1232
 豊州(吉林省)の人。字は良佐。小字を以て完顔陳和尚として知られる。 モンゴルの中都攻略(1215頃)で捕えられたが、数年後に監吏を殺して開封の宣宗に投じた。 やがて諸種族から混成した忠孝軍を組織し、1228年に400騎でモンゴル軍8千騎を撃退して定遠大将軍・平涼府判官とされ、これより常に先陣となって河南・陝西を転戦し、1231年には猛将として知られるスベデイを倒回谷(陝西省藍田)で大破して禦侮中郎将に昇った。 翌年の三峯山(河南省禹州)の役ではトゥルイに敗れ、退走先の鈞州城(禹州)で捕われると自ら望んで処刑された。
 文人の王渥と親交して『孝経』『論語』『左伝』などの大意に通じ、軍中でも詩文を賦したという。

元好問  1190〜1257
 太原秀容の人。字は裕之、号は遺山。 幼時より詩文に長じて神童と称され、戦禍を避けて河南に退避したのち科挙に及第し、金末に尚書省の左司都事に進んだ。亡国後は済南の厳実に庇護され、モンゴルに仕えることなく金史編纂のために各地を巡って資料を蒐集し、真定で病死した。 蒐集した資料は『金史』編纂で多く利用されたものの、文学者としては銭軒益に認められるまで知られなかった。

 

三大女真

 金朝の敗滅後、東北地方の女真はモンゴルによって部族ごとに分割支配され、明朝では開原以南の平野部が遼東都指揮使司の直轄として漢人入植地・軍事基地とされたが、他の地域では専ら招撫策による羈縻支配が行なわれた。 明代の女真は松嫩水系の海西女真、太子河・渾江水系の建州女真、黒竜江下流域の野人女真に大別され、有力な部族には朝貢権を伴う衛所が置かれ、羈縻支配による分割支配が維持された。
 朝貢権は衛所を核とした部族再編を進行させ、亦た明朝が貢勅の配布を最有力の首長に一括して委託(建州女真1000通、海西女真500通)した事や、16世紀中頃の北虜南倭に明朝が忙殺された事などから、貢勅権を巡る抗争を通じて広範な統合が進んだ。 明朝による女真の再統制は16世紀後期こそ遼東総兵官李成梁の遠征と招撫で成果を挙げていたが、やがてその庇護下で抬頭した建州女真のヌルハチによって全女真は再統一され、1616年には後金国と号して明朝からの独立を宣言し、1635年のモンゴル宗家の征服を以て民族名を満洲族、国号を清と改めた。

野人女真
 明代の女真族の大区分の1つ。三江平原部にあって最も勇猛だった。 狩猟を生業とし、ウェジ・ワルカ・コルカ部に分かれていたが部族ごとの結束は弱く、17世紀に後金に帰属して明朝攻略に大きく貢献した。

海西女真
 明代の女真族の大区分の1つ。 松花江中流域を占め、1449年にオイラートによって壊滅的打撃を蒙ったもののまもなく回復し、ナラ氏を王族とするウラ(呉喇/烏拉)・ハダ(哈達)・イェヘ/エホ(葉赫)・ホイファ(輝発)の4部が中心となり、王家が呼蘭江から興ったことに因んでフラウン/フラン=グルン(忽剌温国)を称した。 はじめ北方のウラ部が強盛となり、16世紀中頃に交易の利便によってウラ部から独立した開原南東のハダ部が急速に抬頭し、貢勅1千通を収集して一時は建州女真の一部をも支配したものの一代で衰え、以後はモンゴル王族と紐帯の強かった開原北方のイェヘが主導した。 グレ山の役(1593)で建州女真のヌルハチに大敗して女真での優位を失い、以後は諸部の反目などから各個撃破されて1619年までに征服されたが、ウラ=ナラ氏・イェへ=ナラ氏はモンゴルのホルチン部と同様に清朝を通じて戚族として尊重された。
   
グレ山の役 (1593):建州女真のヌルハチが、海西女真を中心とした9部連合を大破した戦。 拡大政策に転じたヌルハチに対する懲罰としてイェへが主導したもので、海西女真だけでなく長白山方面の建州白山部やモンゴルのホルチン部など9部が連合した。 3万余の兵力でグレ山を占領した連合軍は緒戦でイェへ王が戦死した為に壊乱し、ヌルハチは女真における優位を確立しただけでなくホルチン部とも修好した。 ヌルハチは1597年に至ってフルン4部とも和したが、1599年にイェへのハダ侵攻に乗じてハダを滅ぼし、1607年にホイファを、1613年にはウラを征服した。

建州女真
 明代の女真族の大区分の1つ。 原住地は松花・牡丹江の合流する三姓(依蘭)の斡朶里とされ、元末頃より野人女真に圧されて次第に南下し、豆満江流域に遷った集団もあった。 15世紀初頭に鳳州(綏芬河)付近にあった胡里改部の阿哈出(アハチュ)が建州衛指揮使とされ、次いで会寧府近傍の斡朶里部の猛哥帖木児(マング=テムル)が建州左衛指揮使とされて2衛が成立し、次第に南遷して土木の変の頃には建州衛は佟佳江(渾江)流域に、建州左衛も蘇子河上流域の興京地方(撫順市新賓)にあり、建州左衛から建州右衛が分離された。
 建州女真は開原・撫順での馬市を通じて中国文化の影響を強く受け、16世紀中頃に建州右衛の王杲が抬頭し、王杲が1575年に李成梁に討平された後は建州左衛のヌルハチによって統合が進められ、17世紀初頭には全女真を統一して後金国を樹立した。

李満住  〜1467 ▲
 建州女真の部酋。初代建州衛指揮使李誠善(阿哈出)の孫。李顕忠(釈迦奴)の子。 1422年頃に建州衛指揮使を襲ぎ、永楽帝の北伐やモンゴル軍の鳳州侵攻によって部衆千余戸と共に婆豬江(渾江)下流域に遷り、1426年に都指揮僉事、1447年に都督同知とされた 糧食に窮してしばしば朝鮮へ強引に朝貢し、李朝やモンゴルとの攻伐で興城(蘇子河畔/渾河上流)・桓仁方面・輝発河上流域などを転遷し、成化3年(1467)に朝鮮軍に敗死した。

 

後金

 1616〜1636
 愛新覚羅氏のヌルハチが満洲に再興した女真族王朝で、自らはマンジュ=グルン(満洲国)と称した。 八旗制を基礎組織として満洲文字を用い、建国以前からの居城ヘトゥアラ(興京老城/(撫順市新賓)を国都とし、1619年にサルフの役の勝勢で全女真を統合した。 明朝に対しては1618年に宣戦布告してより攻勢を維持して長城以北をほぼ征服し、嗣子ホンタイジの時代には西方経略に転じて1635年にモンゴル宗家のチャハール部を降伏させ、その翌年に満蒙漢族の皇帝として改めて即位し、国号も大清と改めた。
 後金の建国以前にヌルハチが制定させたとされる満洲文字(無圏点字)はモンゴル文字を応用したもので、音韻上の問題から不都合も多く、ホンタイジの時代に圏点を加えるなど満洲語の発音に対応した表記(有圏点字)に改良された。 マンジュは仏教の文殊菩薩を起源とし、東方鎮護と智慧を象徴する仏尊として夙に女真で崇拝され、太祖はしばしば文殊菩薩の化身を称し、水に因んだ漢字を転用して国名・民族名に用いた。

ヌルハチ  1559〜1616〜1626
 奴児哈赤/弩爾哈赤。清朝の廟号は太祖。女真号はゲンギェン=ハーン、モンゴル号はコンドレン=ハーン。 建州女真の一部族長の家門で、明軍と提携した祖父と父が、1583年に李成梁のハダ部討伐で誤殺されると貢勅30通を含む庇護を与えられて次第に勢力を拡大させ、1589年までに建州五部を統合した。 1593年のグレ山の役で長白山方面を征服しただけでなく女真における優位を確立し、1603年には拠点都市としてヘトゥアラ(興京老城/(撫順市新賓)を造営し、モンゴル族との通好などで東北地方の中心部を掌握した。
 日本の朝鮮侵攻などに乗じて勢力を拡大し、明朝が李成梁を罷免して海西イェヘの支援に転じると海西女真の征服を進めて女真を八旗に編成し、1616年にハーンを称して後金国を樹立した。 1618年に貢勅を廃されたことで“七大恨”を掲げて明朝に宣戦布告し、翌年のサルフの役で明の遠征軍を撃滅し、遼東経略使熊廷弼の罷免に乗じて瀋陽・遼陽を陥して遼河平野を征服したが、1626年に寧遠城(遼寧省興城)で袁崇煥に大敗し、戦傷によって間もなく歿した。
 明朝との朝貢貿易の再開と独占を主眼とした一方、1599年頃にはモンゴル文字を母体とする満洲文字の創成に着手し、国号もマンジュ=グルン(満洲国)と定めるなど建国前から民族の独立と文化の保持に配慮していた。
   
サルフの役 (1619):撫順を占拠した後金のヌルハチが、遼寧省興城北方のサルフ山一帯で明の遠征軍を撃滅した会戦。 中国全土からの徴発によって編成された公称47万、実数10余万の明軍は開原(北路軍)・瀋陽(西路軍)・遼陽(東路軍)・寛甸(東南路軍)から出兵して朝鮮や海西イェへにも援軍を求めて興京老城の包囲を図り、一方のヌルハチは北郊のサルフ山に布陣した。 諸将の不和や降雪によって連携を欠いた明軍に対し、ヌルハチはサルフ山麓で西路軍、北路軍、東南路軍を4日間で各個撃破し、北路軍に帯同したイェへは戦わず却き、東南路軍と同道した朝鮮軍は兵力の半数を失って投降し、李如松の東路軍のみが瀋陽の本営の指示で撤退を果たした。3軍を殲滅された明朝は、以後は後金に対して完全に守勢に立たされた。

ホンタイジ  1592〜1626〜1643
 皇太極。清朝の廟号は太宗。女真号はスレ=ハーン、モンゴル号はボグ=セチェン=ハーン。太祖の第8子。 ホンタイジとは皇太子の訛化したもので、本名はヘカンとも称される。ヌルハチの4人の執政大臣の1人。 即位当時、朝鮮が仁祖のクーデターで親明反満となったことや、明とチャハール部の提携で苦境に陥り、朝鮮の討伐・属国化によって太祖以来の宿痾だった毛文龍の無力化に成功し、1631年に大凌河城(凌海)を攻陥して遼寧平野をほぼ制圧した。 又たヌルハチの政策を転換して漢人を優遇し、旧の執政貝勒を排斥して君権を強化する一方で満洲貴族で構成された議政王大臣による合議制を確立し、行政については1631年に明朝の六部制を模倣した。
 1631年よりモンゴル経略に転じてチャハールのリンダン=ハーンを追討しつつ漠南を征服し、チャハールの投降で元朝伝来の印璽を入手した翌年(1636)に満蒙漢3族の皇帝を宣言し、国号を大清と改めた。 第二次即位の後は内閣の原型となる内三院都察院を設置する一方、モンゴル・漢族にも八旗制を適用し、1637年に再び朝鮮を討って完全に臣属国としたが、畢に山海関を陥す事はできなかった。

ダハイ  1595〜1632
 達海。満洲正藍旗人。祖父の代からヌルハチに随い、漢文にも通じたために重用され、文館(内三院の前身)にあって対明・対蒙・対朝外交文書を典り、1629年以降の対明降伏勧告状の多くを起草した。 又た『明会典』などの漢籍を翻訳する一方で従来の満洲文字を満洲人の音韻に合わせて改良し、満洲文字の普及に多大に貢献した。

マングルタイ  1587〜1633
 莽古爾泰。ヌルハチの第6子。 天命元年(1616)に和碩貝勒とされて正藍旗を統べ、後に四大貝勒の第3位として「三貝勒」と呼ばれた。 サルフの役や瀋陽攻略など多くの征旅に軍功があったが、太宗の専権強化の一環として天聡5年(1631)に奪権され、死後には宗籍と爵位を剥奪された。

アミン  1586〜1640
 阿敏。ヌルハチの弟/荘親王シュルガチの次子。 夙に父を喪ってヌルハチに養育され、天命元年(1616)に和碩貝勒とされ、四大貝勒の第2位として「二貝勒」と呼ばれた。 ヌルハチに従ってサルフの役や瀋陽・遼陽攻略に従い、天聡元年(1627)の第一次朝鮮侵攻では主帥とされて李朝に臣従を誓わせたが、天聡3年(1629)の南征では永平を陥しながらも、明の援軍の接近で4城を捨てて逃帰した。幽閉中に歿し、爵位を剥奪された。

ダイシャン  1583〜1648
 代善。ヌルハチの第2子。紅旗王。 天命元年(1616)に和碩貝勒とされ、四大貝勒の筆頭として「大貝勒」と呼ばれた。サルフの役ではホンタイジと協働して東南路軍を殲滅し、イェへ征服や瀋陽攻略などにも功があり、ホンタイジの即位後も多くの征旅に従って尊重され、崇徳元年(1636)の建号では和碩礼親王とされた。 太宗が歿すると黄旗王のホーゲを後継に推したが、後に順治帝擁立に転じた。


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