▽ 補注:西漢

衛尉
 九寺の1つで、B143年に中大夫令が改称されたもの。 南軍を統べて宮城内の警備を司り、光禄勲・執金吾とは重層的に帝都の兵力を構成した。 隷下の南軍は郡国からの徴兵が輪番で担う衛士より構成され、材官(歩弓)・軽車・騎士・楼船(水兵)に区分された。

執金吾  ▲
 秦から続く中尉がB104年に改称されたもの。 三輔から徴集・選抜された材官(歩弓)・騎士で構成された北軍を統べ、長安城内の治安維持を担当し、儀仗兵としての側面も有した。

恩沢侯
 丞相就任と共に与えられる爵位。漢初は列侯が丞相に就任する事が通例だったため、無位の公孫弘は丞相就任に先んじて平津侯に封じられ、これより恩沢侯が通例となった。

五経博士
 B136年に董仲舒の建議によって置かれたとされる、『易経』『書経』『詩経』『礼経(儀礼)』『春秋経』の学官の総称。 博士は官学を教授する官として秦代から置かれ、董仲舒以前に儒学からは『詩』『易』『春秋』の博士が立てられていた。 宣帝期に12人に増員され、東漢では14博士が置かれた。
一般に中国での儒学の国教化は、五経博士の設置を以て定義されてきましたが、武帝の治世を支えた張湯桑弘羊ら多くの官僚は法家に分類され、儒学は統治の一助として官学に加えられたに過ぎません。 続く昭帝・宣帝の治世では、塩鉄会議石渠閣会議に象徴されるように儒家の進出は著しかったものの、それでも宣帝は循吏(儒家)と酷吏(法家)の併用をこそ“漢家の法”と唱えて、儒家重用を奨めた太子(元帝)こそが漢家を乱すであろうと評しました。 実際、儒学の国教化はこの元帝の治世に著しく進行しています。
 儒学と官学がイコールになるのは、元帝の外戚の王莽が、簒奪の正当化に古文学を用いた事で完成したと見做すことができます。

  ▼
 漢の祠祀・祭祀制は、B32年に匡衡によって既存の漢制が否定され、郡国廟などの古礼制に合致しないものは全廃されましたが、災異が頻発したことと劉向らの建言から、B15年には漢制に戻り、郡国廟も半ばが再置されました。 この後、不祥に対する王太后の動揺から、B7年に成帝が歿すると古礼が是とされ、B4年の哀帝の死で漢制に復し、A5年に至って王莽が劉歆らに諮って古礼制が採用され、以後の中国諸王朝の標式となりました。
 天子の礼制の要ともいうべき明堂制を定めたのも王莽の治世で、光武帝の明堂の様式・典儀も王莽の制に依拠して行なわれ、以後の歴朝もこれに准じました。

石渠閣会議  B51 ▲
 宣帝が主催し、五経経伝の異同を学者に検討させて解釈の統一を図ったもの。同時に法家的な『穀梁伝』が宣帝の即位を正当化するものとして支持され、学官を立てられて盛行したが、元帝の治世には低調となった。『穀梁伝』の成文化を、この会議に求める見解もある。

校尉
 軍を構成する“部”の高級指揮官。秩禄は比二千石。 常置の軍事指揮官として位階は中郎将に亜ぎ、司隷校尉・城門校尉・北軍五校尉などが知られ、辺防将校の護羌校尉・護烏桓校尉などは東漢では半ば常設化された。 “部”は制度上は2500人規模の部隊で、軍候を士官とする“曲”によって構成され、曲の下には“屯”があり、非常時には部を以て“軍”が編成され、将官(中郎将・将軍)に指揮された。
 漢末には群雄によって中郎将と共に最も濫造され、兵制の変遷によって縮小・降格され、唐代の兵力は500に満たず、官品も六品以下が殆どとなった。

都尉  ▲
 “部”の指揮官として、中央の校尉に対する地方駐留兵の指揮官。 郡の軍事を担当する郡尉=郡都尉が代表的なものだったが、光武帝が辺地の属国都尉と中央以外の諸都尉を廃した後、中央の都尉官は天子に親侍したことで名誉官化した。

水衡都尉  ▲
 銅を扱う上林三官(運輸の均輸・選別の弁銅・鋳銭の鍾官)を統轄する為に、B115年に少府に設置された。 B113年には五銖銭の施行に伴い貨幣鋳造権をも少府から移管され、郡国・民間での私鋳を厳禁するために警察権も附与された。

中郎将
 光禄勲に属し、侍従武官である中郎を統率した。 禁軍を統率する常置の将官として左・右・羽林・虎賁などに設けられ、使匈奴中郎将など辺塞に例外的に置かれる事もあった。 東漢では外地に遠征する将軍に対して国内の軍事に対応し、漢末には左右(東西)に南北2員が追加されて黄巾軍討伐に四中郎将が黄巾派遣されたが、やがて将軍と校尉の中間の高級将校として群雄によって私制濫造されるようになり、又た211年には五官中郎将が新設されて丞相の副官とされた。

三輔
 狭義の関中と同義で、西漢の首都圏である京兆尹左馮翊右扶風の総称。 秦の内史にあたり、渭河を境に内史を左右(南北)に分割した後に、右内史を更に東西に分け、右内史東部が京兆尹、西部が右扶風、左内史が左馮翊と改称された。 猶お、滅秦後の封建では、右内史に塞国、左内史には雍国が立てられ、高祖によって渭南郡・河上郡と改められてB197年まで続いた。
 洛陽を国都とした東漢でも司隷部の西部を構成して名称も継続されたが、九卿に準じた特権的地位は失い、三国魏では雍州を構成した。
『漢書』地理志では、内史の分割は武帝の建元6年(B135)に行なわれ、右内史の分割と三輔の改称は太初元年(B104)に行なわれたとされていますが、同書の百官公卿表では、内史の分割は景帝が行ない、武帝が右内史の西部を主爵都尉に管掌させ、ついでそれぞれを改称したとあり、主爵都尉は、秦制では列侯を管掌していた主爵中尉を景帝が改称したものと説明されています。

西域都護
 騎都尉や諫大夫への加官。烏塁城に開府が認められた軍政官で、西域諸国を羈縻的に統括した。 西漢宣帝の神爵3年(B59)に、匈奴の日逐王を降伏させて西域の南北両道を制した鄭吉が初めて任じられた。 鄭吉は既に車師討伐で護鄯善以西南道に任じられ、日逐王の来降を以て護車師以西北道を加えられており、護官を都べるのが本義だったと思われる。
 王莽の対外政策の破綻とともに放棄され、棄西論が潜在した東漢では断続的にしか設置されなかった。

戊己校尉  ▲
 B48年に元帝が設置。車師前国に鎮して西域諸国を鎮護し、秩禄二千石で属官に丞・司馬・候などがあった。 戊己の称は戊校・己校の2部隊を主力とした為とされる。東漢初期に西域経営が行なわれていた時にも、西域都護の副官的存在として設置された。

河西四郡
 匈奴の渾邪王・休屠王の故地の河西回廊に武帝が置いた四郡。 初めに張掖郡酒泉郡が置かれ、ついで休屠王の故地を以て武威郡が分置され、最後に酒泉郡の西半を以て敦煌郡が新設された。
張掖郡・酒泉郡の設置年次については、『漢書』武帝紀では渾邪王が来降した元狩2年(B121)、地理志では李広利が大宛遠征に発した直後の太初元年(B104)とあって確定はされていません。 当時の河西を取り巻く状況を考えると、烏孫を河西に招致する策が失敗した(B115)後に郡県制が行なわれたと考えるのが妥当なようです。

朝鮮四郡
 武帝の元封3年(B108)に、衛氏朝鮮の故地に置かれた諸郡。 初め楽浪郡・真番郡・臨屯郡が置かれ、翌年に玄菟郡が加えられた。 政府財政の悪化と在地勢力の抵抗によって縮小し、昭帝の始元5年(B82)に真番・臨屯郡が廃止され、元鳳6年(B75)には玄菟郡も遼東に後退し、朝鮮経営は平壌地方の楽浪郡に集約された。 相対位置は楽浪郡の南に真番郡、東南に臨屯郡、北東に玄菟郡が置かれたが、楽浪郡の他は郡治の所在や彊域について不確定な点が多い。
 204年に楽浪郡南半を帯方郡として分置したが、両郡とも313年に高句麗に滅ぼされて中国による朝鮮経営は終焉した。

楽浪郡  ▲
 B108年に衛氏朝鮮を滅ぼして設置された。朝鮮県(平壌)を郡治に25県を領し、東部7県を東部都尉が、南部を南部都尉が管轄した。 30年に土着漢人の王調が独立政権を建てたが、半年余で東漢に滅ぼされた。 東漢末には遼東の公孫氏が実質的に支配し、204年に嘗ての真番郡北部を以て帯方郡が分置された。
 238年に公孫淵が滅ぼされて中央直轄とされ、八王の乱に乗じた鮮卑や高句麗の冦掠が激化し、313年に高句麗に征服された。

玄菟郡  ▲
 B107年に遼東郡の東、楽浪郡の北に設置され、扶餘東沃沮高句麗を管轄した。 B82年に郡治が夫租から高句驪県(吉林省集安市)に後退し、B75年には遼東郡の玄菟城(遼寧省新賓県永陵鎮)に遷されて東部7県が遼東郡に編入され、実質的に放棄された。東漢は107/108年に遼東郡の中部都尉を以て玄菟郡とし、郡治の高句麗県は瀋陽方面に遷され、旧玄菟郡は完全に放棄された。 内地化した玄菟郡は、遼東城(襄平城)が高句麗に征服された404年頃まで存続したと考えられている。

東越
 漢武帝の時代、閩浙に立てられた王国。漢初に再興された東甌と閩越の総称。
 東甌は浙江省温州地方に、閩越は福建省福州地方に比定され、君王は勾践の裔を称して騶を氏とし、始皇帝の全国統一で共に王号を廃されて閩中郡が置かれたが、社会組織は維持された。 秦末に東甌王搖と閩越王無諸は番君呉芮に従い、滅秦後は項羽の行賞を不服として劉邦に与し、B202年に無諸が閩越王に封じられ、閩越君とされた搖もB191年に東海王とされて、世に東甌王と称された。
 呉楚の乱で呉王に呼応した東甌王は敗走する劉濞を殺して賞罰相殺されたが、呉世子の子駒を庇護した閩越王に伐たれてB138には王貞復が敗死し、襲いだ王望は漢に求めて江淮の間に遷され、東甌王国は廃された。
 閩越王郢は越人の主権を争って建元6年(B135)に南粤を伐ち、漢の討伐を畏れる弟の余善ら国人に殺され、無諸の孫の丑が新たに越繇王として立てられ、余善も東越王とされた。 元封3年(B112)に南粤が叛くと、余善は漢と南粤に両通して兵を動かさず、南粤が滅ぼされると露見を恐れて叛いたが、繇王の離叛で暗殺され、繇王は東成侯に更封された。 武帝は東越の険峻な地勢と閩越人の剽悍を忌み、閩浙の住民を悉く江淮の間に徙して東越の地は無人となったという。

交趾部九郡
 西漢の元鼎5年(B112)に嶺南に置かれた諸郡。 嶺南には秦によって南海・桂林・象郡が置かれていたが、南粤を征した漢は改めて南海・蒼梧・鬱林・合浦・珠崖・儋耳・交趾・九真・日南の9郡を置き、以て交趾部とした。
 交趾部では珍玩珠宝を多く産することと、中央からの遠隔によって官吏による収奪が絶えず、海南島の珠崖・儋耳郡は執拗な叛抗から初元3年(B46)には廃された。 歴史的には林邑の地を含み、そのため「言語は各々異なり、訳を重ねて通じ」、中国の罪人を多く雑居させて漢化が図られ、そのため漢籍では「漢人によって農耕や礼制が伝わり、学校が振興された」と強調される。
 ベトナム史でも特筆される徴則の乱も、交趾太守蘇定による漢制強要が原因で、一時は交趾部65城が悉く呼応する大乱に発展したが、伏波将軍馬援に平定され、渠帥300余が零陵に徙された。

△ 補注:西漢

Top