徴側 〜43
交趾麋冷の雒将(渠帥)の娘。雄勇と称され、漢制を強制する交趾太守に抵抗し、40年に妹の徴弐と与に挙兵した。
日南・九真・合浦の渠帥が呼応して嶺南65城を悉く陥したが、伏波将軍馬援に討たれて43年に敗死し、余勢も翌年中に鎮圧された。
漢軍の死者は半ばに達し、現在でもベトナムの英雄の1人として支持されている。
李賁 〜547
俚族の出とも、中国人の裔とも称される。南梁の交州刺史蕭諮の圧政に対して541年に土豪と連携して挙兵し、翌年には交州治の龍編(ハノイ東郊)を陥落させ、544年には龍編で南越帝を称して国号を万春とし、世に李南帝と呼ばれた。
梁の交州刺史楊縹・陳覇先・定州刺史蕭勃らに伐たれ、屈ォ洞で斬られた。
以後も趙光復と李天宝・李仏子らによって抵抗が続けられ、侯景の乱による梁軍の撤収と李天宝の死(555)後は龍編の趙光復と峯州(フート)の李仏子が並立し、李仏子が勝利した後、中国を統一した隋によって602年に滅ぼされた。
曲承裕 〜907
海陽(ハイズオン)の土豪。
唐末に高駢に属した後、中国の混乱に乗じて交州(ハノイ)に拠り、906年に静海軍節度使を称した。
以後、三代に亘って中原王朝に通款し、静海軍節度使を世襲して一帯を支配したが、930年に孫の曲承美が南漢に滅ぼされた。
楊廷芸 〜937 ▲
愛州(タインホア)の人。曲氏の下で将軍に進み、曲氏が滅ぼされた翌年(908)に南漢の交州刺史を逐って自立した。937年、西隣の峯州(フート)の土豪の矯公羨に殺された。
呉権 897〜944 ▲
楊廷芸に認められて婿とされ、愛州刺史とされた。楊廷芸が殺された翌年(938)に矯公羨を攻殺し、次いで来援した南漢軍を白藤江で大破し、939年に古螺(ハノイ)で称王した。在地有力者を刺史に任じて各地の掌握を進めた。
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呉権の死後は楊廷芸の遺児の楊三哥が託孤に背いて簒奪し、刺史に任じられていた有力者が自立して十二使君と通称された。
呉権の二子/呉昌岌・呉昌文は950年に奪権して共治し、楊三哥も赦されて諸侯として遇されたと伝えられる。呉昌文は964年に征旅中に戦死し、呉昌岌の遺児の呉昌熾は平橋(タインホア)周辺を支配して十二使君に数えられ、966〜67年に丁部領に制圧された。
丁部領 924〜966〜979
丁先皇とも。
華閭(ニンビン)の部酋として楊廷芸に従い、呉権より驩州刺使とされた丁公著の子。
呉権の死後の内乱で自立して十二使君の陳覧と結び、その基盤(タイビン地方)を嗣いで十二使君の討平を進めて大勝王と呼ばれ、トンキン地方を統合した翌年(968)に大瞿越皇帝を称し、華閭に国都を営んで全土を十道に区画した。
中国に対しては帝号を用いずに恭順を示し、殊に宋に対しては事大的な外交を行なったと伝えられ、官制の整備や元号の制定、円形方孔銭/太平興宝の鋳造など中国に倣った国制を整え、975年には交阯郡王に冊封された。
末子の丁頊郎を太子とした為に内訌を生じ、頊郎が暗殺された同年に長子の丁lと共に大臣に暗殺された。
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遺児の丁璿が事態を収集した十道将軍(総司令官)の黎桓に擁立され、宋やチャンパの侵攻に直面して黎桓への集権が強化され、即位翌年(980)の母后の楊太后と黎桓との成婚を以て廃黜された。丁璿は衛王に封じられ、内乱平定中の1001年に戦死した。
黎桓 941〜980〜1005
黎大行とも。丁部領の下で十道将軍(総司令官)に進み、丁部領が暗殺された後の国内の混乱を収拾して全権を掌握し、反対派を粛清したのち宋の南征に対応して王母后を娶って称帝し、宋軍を撃退して勢威を確立した。
982年にチャンパに親征して国都を陥した事でチャンパの南遷を促し、宋に対しては冊封関係を回復して993年には交阯郡王に封じられ、対外関係を安定させた。全国を宋に倣って路州府制に改め、各地に諸子を藩王として分封したが、諸王の内訌によって治安は安定しなかったと伝えられる。
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黎桓の跡を第3子の黎龍鉞が襲いだものの3日で弟の黎龍鋌に弑簒された。
暴恣と伝えられる黎龍鋌が1009年に廷臣に殺されると幼君が立てられ、王族の離叛を討平した李公蘊に輿望が集まって1010年に簒奪された。
陳国峻 〜1300
太宗の甥。興道王。陳興道とも。1258年のモンゴルによる第一次侵攻で国都昇龍を劫掠して撤収するウリヤンカダイを追撃し、興道王に封じられた。
元朝のチャンパ攻略への協力を拒んだ事で起された第二次侵攻(1285)では国公として全軍を統帥し、昇龍放棄と清野策、チャンパと協働したゲリラ戦などによって元軍を疲弊させ、疫病で撤退する元軍を追撃・大破して昇龍を回復した。
1287年末に起された第三次侵攻でも昇龍を放棄したのち雲屯(ハロン)で元の補給艦隊を撃滅し、撤退する元軍を水中に立てた杭と潮の干満を利用してソンコイ=デルタの白藤江で大破し、陸上でも伏兵と追撃戦で大勝し、元朝の国内事情もあって以後のベトナム攻略を断念させた。
一連の勲功によって大王に進位されて尚父の尊号を受け、税役の免除など戦後処置にも尽力し、現在でもベトナム至上最高の名将と讃えられている。
明宗 1300〜1314〜1329〜1357
陳朝の第五代君主。
造営事業を好み、幼少の実子を相次いで立てて実権を保ち、タイ遠征には悉く失敗した。
死後に親政を始めた裕宗(在:1341〜69)も暗君と伝えられ、在位中に歿すると甥の陳日礼が明宗の皇后/憲慈皇后の支持で即位したが、大粛清を用いた朝廷の刷新を図った為に翌年には廃弑されて国姓を剥奪された。
芸宗 1321〜1370〜1372〜1394
陳朝の第九代君主。明宗の子。憲宗・裕宗の弟。
陳日礼を廃した勢力によって立てられ、これら権臣を粛清したのち弟の睿宗に譲位した。チャンパに親征した睿宗が敗死するとその子の陳晛(後廃帝/在:1377〜1388)を立て、外戚の黎季犛の抬頭と執権をもたらした。陳晛は黎季犛の粛清に失敗して廃されたのち殺された。
胡季犛 1336〜1400/1400〜1407
清化(タインホア)の人。本姓は黎。浙江からの移民の裔とされる。
芸宗の外戚としてその上皇政治の中で抬頭し、チャンパ撃退の功で枢密大使から同平章事に進められ、1388年には陳晛を廃して順宗を擁立した。
芸宗死後の1397年にはタインホアに遷都させ、1400年に簒奪して国号を大虞、姓を胡氏に改めたが、同年には子の漢蒼に譲位して上皇政治を行ない、チュノムを用いた文芸の奨励や紙幣の発行、行政区画の再編、私有地の制限などの改革を進めた。
最晩年の1406年より陳朝復興を名分とする明軍に侵攻されて翌年には国都も陥落し、河静(ハティン)で明軍に擒われて南京で処刑された。
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胡季犛の処刑後、明軍による直轄化が進められ、タインホアの陳氏政権も1414年に制圧されたが、1418年より藍山で黎利の叛抗が始まり、明朝の永楽帝が歿した事もあって1427年までに明朝勢力を一掃した。
黎利 1385〜1428〜1433
後黎朝の太祖。タインホアの藍山(ラムソン)の土豪。胡氏を滅ぼした明朝の支配に抵抗して1418年に挙兵し(藍山起義)、1427年までに明朝勢力を国内から一掃して、翌年ハノイで即位して国号を大越とした。
即位後は国内を東・西・南・北・海西の五道に分けてそれぞれに行遣・衛軍を置いて地方の分権化を進め、均田制・科挙制などを整備し、学校を興すなど儒学の振興にも意を用いた。明朝に対しては朝貢してベトナムの主権者であることを認められたものの、王号は認められず権署安南国事とされた。
黎宜民 1439〜1459〜1460
後黎朝の第四代君主。前廃帝とも。太宗の庶長子。生母が非勲門だったために太子を廃され、1459年に挙兵して異母弟の仁宗を殺して簒奪した。勲門を粛清した為に8ヶ月で叛かれて廃弑された。
聖宗 1442〜1460〜1497
後黎朝の第五代君主。諱は灝、或いは思誠。太宗の子。
前廃帝に対する禁軍の兵変で立てられた。
宰相の廃止と六部の設置に代表される明制に倣った中央集権化や地方行政区画の再編、戸籍法の制定と税制の改定、ベトナムで最も著名な成文法となる『洪徳律例』の発布など統治体制を固め、又た堤防の改修や屯田による未開地の開墾、福利厚生の充実や弊習の禁止などで国力の涵養に尽力した。
その傍らでチャンパ征服を進め、特に1470〜71年の親征ではヴィジャヤ政権を征服し、又た1479年にはラオスにも侵攻してランサーン王国の国都ルアン=パバンを劫掠し、シエンクワン地方を直轄化した。
科挙制の改革や文学院の創設など学問の奨励発達にもつとめ、文化事業として高く評価される『大越史記全書』や全国の地図などを作成し、その治世は中国の『明史』でも“光順中興”と讃えられ、ベトナムの極盛期を招来した屈指の名君とされる。
鄭松 1550〜1623
鄭検の次子。鄭検の死(1570)に乗じて来攻した莫氏を撃退し、勢に乗じて長兄の鄭檜を廃して節制各処水歩諸営を嗣いだ。1573年に英宗を弑して世宗を立て、1592年には昇龍(ハノイ)を陥して莫朝を滅ぼし、1599年に平安王を称した。
1619年に次子の鄭椿と結んで兵変を謀った景宗を弑して神宗を立てたが、最晩年に鄭椿が造叛し、世子の鄭梉による鎮圧の前後に急死した。
莫登庸 〜1527〜1529〜1541
海陽(ハイフォン)の漁師出身。
長じて力士となり、後に仕官して昭宗の下で内乱鎮圧に累功があって禁軍を掌握し、昭宗を圧迫して西京(清化)の鄭綏の下に出奔させた。
昭宗の弟の恭帝を立てて1527年に鄭綏らを滅ぼすと恭帝に逼って譲位させ、黎氏とその外戚を滅ぼして親族政治を展開した。
兵制・田制の改制や貨幣の改鋳など弊政の刷新を図り、1529年に太子に譲位した後も上皇として執政を続けた。
黎荘宗を擁した阮淦をはじめとする抵抗勢力に対して明朝への臣属で打開を図り、明の軍事介入を回避したものの求心力を低下させた。
阮文岳 〜1778〜1793
帰仁(クイニョン)西方の西山(タイソン)村の出身。
小商から税吏となったのち官に追われ、1771年に弟の阮文侶・阮文恵と共に西山寨に拠って蜂起した。随所で阮氏の兵を破って1773年には帰仁城を陥し、翌年に富春城(フエ)を陥した鄭氏に帰順した後も広南の経略を続け、阮氏を殲滅した翌年(1778)に帰仁城に拠って称王した。
1786年には弟の阮文恵がハノイを陥して鄭氏を滅ぼし、帰仁で中央皇帝を称して嘉定(サイゴン)の阮文侶を東定王に、フエの阮文恵を北平王に封じたが、阮文恵とはハノイ陥落の前後からその威望を忌んで不和となった。嗣子の阮文宝は富春政権の前に劣勢となり、阮福映と通じた事が露見して1798年に滅ぼされた。
阮文恵 〜1788〜1792 ▲
阮文岳の弟。軍才に長け、両兄と共に蜂起してしばしば偉功があり、嘉定(サイゴン)の略定後はタイと結んだ阮福映を悉く大破・撃退した。
1786年にはハノイに拠る鄭氏を滅ぼして北平王に封じられたが、その威望を猜忌する阮文岳とは不和となって黎帝を存続させ、黎帝の乞援に応じた清軍20万を撃退すると富春(フエ)で称帝した。チュノムを公用語とし、南征の途上で歿した。
嗣徳帝 1829〜1847〜1883
阮朝の第四代君主。祖父の明命帝の鎖国・禁教を強化して1858年にフランス・スペイン連合軍にコーチシナを占領され、1862年のサイゴン条約でサイゴンを含むコーチシナ東部を割譲し、1867年には西部3省も奪われた。
又たトンキン地方の治安維持のために黒旗軍の割拠を黙認し、1873年にソンコイ河の制圧を図るフランス軍にハノイが占拠されると黒旗軍に請援して撃退した。1882年にフランス軍が再度トンキン地方に侵攻した際には清朝にも乞援して清仏戦争が実質的に始まったが、その最中に急死した。
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継嗣に立てられた甥の育徳帝は3日で廃され、次いで立てられた協和帝(嗣徳帝の弟)もフランスを頼った奪権に失敗して4ヶ月で廃弑され、この間にフランスの保護国となる事が承認された。
協和帝の死後は嗣徳帝の養子中もっとも期待された甥の建福帝が立てられたが、権臣の粛清に失敗して半年で暗殺され、弟の咸宜帝が擁立された。
咸宜帝は即位の翌年に抗仏勤皇に応じてフエを棄て、各地で反仏抗戦を訴えた末に1888年に執われてアルジェリアに謫され、フエでは咸宜帝の出奔直後にフランスによって兄の同慶帝が立てられた。
清仏戦争 1884〜1885
ベトナムの帰属をめぐるフランスと中国清朝の戦争。
通常は1884.08のフランス海軍による台湾砲撃を以て開戦とするが、清仏のベトナムでの交戦状態は1882年にフランス軍がハノイを占拠した事を機に始まっている。
ベトナム政府は黒旗軍によって1883.04にフランス軍司令官リヴィエールをハノイで敗死させていたが、直後に嗣徳帝の死で内訌に陥り、フランス艦隊が増援されると保護国化を受諾して当事者能力を放棄していた。
フランス海軍は中国では緒戦に福建艦隊を撃滅した他は殆ど戦果を挙げられず、ベトナムでもトンキン=デルタを占領した後は膠着状態に陥り、清仏とも厭戦派が主導権を執った事で広東の海関総税務司ロバート=ハートの斡旋もあって1885.06に天津条約が成立した。
これによってフランスによるベトナムの保護国化が承認され、1887年にはカンボジア・コーチシナを加えて仏領インドシナとなり、1893年にはラオスも加えられた。
劉永福 1837〜1917
広東省欽州(広西自治区)の人。はじめ太平天国に参加し、戦後にトンキン地方に逃れて1867年頃に黒旗軍を組織し、阮朝に帰順して匪賊の平定を任とした。
兵数は3千人前後で、保勝(老開)に拠ってソンコイ河での渡税や商税の徴収・略奪を黙認され、1873年にはフエを占拠して北上したフランス軍司令官ガルニエを敗死させ、1883年にもハノイで司令官リヴィエールを敗死させたが、嗣徳帝の死後、阮朝とフランスが講和すると国外退去を命じられた。
清仏戦争では清朝を扶け、天津条約で黒旗軍を解散して両広総督張之洞に迎えられ、日清戦争では黒旗軍を再結成して台湾防衛を担い、戦後に台湾割譲を拒んで台湾民主国の幇弁(代理総統)として抗日を継続した。
1895.10に抗日を断念した後も義和団事件では湖広で排外運動を展開し、1902年には広東碣石鎮総兵に進み、辛亥革命で広東都督胡漢民の要請で広東民団総長となり、二一ヶ条要求に対する抗日戦の準備中に歿した。
保大帝 1914〜1925〜1945〜1997
阮朝の第十三代君主。諱は福晪。
幼時よりパリに留学し、父帝の死で帰国して即位した後、再び渡仏して1932年に帰国した。
1945.03の日本軍によるフランス軍排除によってベトナム帝国皇帝として独立を宣言し、日本の敗戦が確定的になるとホー=チ=ミンの指導する八月革命によって退位し、ベトナム民主共和国議員・政府最高顧問とされた。
1946年に香港に亡命し、フランスや反ホー派と接触して1949年にはフランス連合内のベトナム国の元首とされたが、フランスでの豪遊などの強い親仏色が嫌われ、ジュネーヴ協定でフランス軍が撤収した翌年(1955)の国民投票で首相のゴ=ディン=ジェムに敗れて退位し、パリに亡命した。