ベトナム

 ヴェト人(キン族/京人)を主要種族とする東南アジア半島東部の国家。B4世紀頃にソンコイ(紅河)流域一帯に、雲南文化の影響を受けた東南アジア最古とされる青銅器文化(東山/ドンソン文化)が興り、この頃には原始的な部族国家群も形成された。 ヴェト人は古代中国の越人の末裔とされ、ベトナムの漢字での音写は越南となるが、本来は南越、もしくは大越を自称とした。 北部のソンコイ=デルタ地方と中部のフエ地方、南部のメコン川河口部を幹部とし、嘗て北部では中国文化の影響の強いベトナム国家が、中部ではインド文化の影響を受けたチャンパが勢力を張り、南部地方はクメール国家の一部となっていることが多かった。
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 越人は古代中国の越国の遺裔とも伝えられ、楚や秦漢の圧迫を避けて漸次南遷し、B2世紀を通して両広地方を支配した南粤や、三国呉の内患とされた山越はその一派とされる。 B2世紀末の南粤の滅亡後、中国の進出で次第に南に圧迫されながらもしばしば独立闘争を展開し、唐末五代の混乱に乗じて曲承裕が自立してより独立の気運が現実のものとなった。
 越人最初の長期政権となった李朝以来、歴朝は中国王朝の冊封体制への参加と南併を国策とし、3度に及ぶモンゴルの侵攻を悉く撃退した陳朝や、ベトナムの直接支配を進める明軍を排除して成立した後黎朝も例外ではなく、後黎朝はチャンパのヴィジャヤ政権を滅ぼしてビンディン方面まで進出し、又た文運も隆盛してベトナム王朝の極盛期を現出した。 16世紀前期に後黎朝が中断した後は北部の東京鄭氏と南部の広南阮氏が並立し、いずれも18世紀後期に反広南政権として出発した西山阮氏によって滅ぼされた。
 19世紀初頭にはフランスに支援された広南阮氏(阮朝)が西山政権を滅ぼしてベトナム全土を支配したが、国交やキリスト教問題から排外的・反仏的となり、キリスト教弾圧を理由に侵攻されて1883年までに全土を保護国化され、植民地としてフランス領インドシナの一部に編入された。
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 第二次大戦後に王制の廃止とフランスからの独立を達成したが、その過程で親ソのベトナム民主共和国(北ベトナム)と親米のベトナム共和国(南ベトナム)に分裂し、米ソの軍事介入もあって深刻な内戦状態を経て、1976年に至って北ベトナム主導での南北統一を達成して国名をベトナム社会主義共和国と改めた。
 しばしば用いられる“安南”の称は、もとは中北部地方を指す中国からの他称で、ベトナムでは用いられない。
南粤  丁朝  李朝  陳朝  後黎朝  西山朝  阮朝
 

チャンパ


 林邑・占城。現在のベトナム中部、フエ地方一帯に古くに成立し、中国の資料では192年に日南郡象林県の区連が林邑王を称した事に始まるとされ、一説には137年に同地で蜂起した区憐の創始ともいう。 チャム人が主体となり、扶南の影響を受けてヒンドゥー教を柱としたインド文化が栄え、南海貿易の中継によって繁栄したが、香木以外の物産には乏しく、海岸沿いに北からアマーラヴァティ(ホイアン)・ヴィジャヤ(ビンディン)・カウターラ(ニャチャン)・パンドゥランガ(ファンラン)などの都市国家が並立していた。 唐代にはもっぱら環王国を称し、扶南が真臘に滅ぼされた後は王都のチャンパ=ナガラ(占婆城)に因って占城と呼ばれ、13世紀頃からイスラム教を受容した。
 トンキン地方が中国に支配されていた4世紀〜7世紀は中国との衝突が多く、446年には檀和之によって国都チャキェウが攻略され、又たジャワにもしばしば侵された。 9〜10世紀には中国・ジャワと修好したものの、10世紀末には黎朝ベトナムに大破されて中心をヴィジャヤに遷し、アンコール朝カンボジア(真臘)との抗争も激化した。
 ベトナムとは元朝の侵攻に直面して陳朝と修好・共闘したものの概して紛争が絶えず、1377年には昇龍に侵攻して陳君を敗死させたが、程なく離間などによって王都を陥される惨敗を喫し、明朝の介入でベトナム軍が退いた後はヴィジャヤ政権とパンドゥランガ政権に分裂し、ヴィジャヤ政権は1471年に後黎朝ベトナムに征服された。 パンドゥランガも広南阮氏の執拗な攻勢で1694年に滅ぼされたが、順城鎮と改称された国都での王家存続が認められ、4道を領有した。 順城鎮政権は阮氏による西山朝攻滅を支援して阮朝で優遇されたが、明命帝の集権政策によって1832年に廃された。

 
 

南粤

 〜B111
 秦末のB3世紀末頃に、南海郡を治めていた中国人の趙佗が建てた政権。番禺(広州市)に拠って嶺南〜トンキン地方を支配し、閩浙の諸越や雲南の夜郎にも影響力があった。 中国に対しては呂后の時代(B195〜B180)を除いて称藩を続け、趙佗を嗣いだ孫の趙胡(文王)の時には閩越の侵攻に対して兵を動かさずに漢の判断を仰いで嘉され、嗣王の趙嬰斉(明王/在:B122〜B115)は長安への入侍経験もあって僭号や独自の印綬も廃したが、趙佗以来、中国への入朝は一貫して履行しなかった。
 趙嬰斉の死後は樛太后とその情人の安国少季が実権を握り、両者が外来人だった事もあって土豪の不信から政情不安となり、漢への臣属が図られた為に丞相呂嘉による兵変が起されて明王の長子が擁立され、国内から中国勢力を一掃した。 一度は討伐軍を撃滅したものの、翌年(B111)に諸越や夜郎兵をも動員した伏波将軍路博徳と楼船将軍楊僕に平定され、その故地には儋耳・珠崖・南海・蒼梧・九真・鬱林・日南・合浦・交阯の九郡が設けられた。

趙佗  〜B137 ▲
 真定の人。 始皇帝のときに揚越の平定に功があって南海郡の龍川県令とされ、秦末に郡尉を代行して輿望を集めて自立し、隣接する桂林郡・象郡を併せて南粤武王を称した。 B196年に漢の招撫に応じて南粤王位を追認されたが、呂后の時代に鉄器の交易を禁じられたために叛いて長沙国を攻め、討伐軍を撃退して称帝した。文帝の時代に再び陸賈の説諭に応じて帰順したが、以後も国内では皇帝の儀杖を用い続けた。

 
 

徴側  〜43
 交趾麋冷の雒将(渠帥)の娘。雄勇と称され、漢制を強制する交趾太守に抵抗し、40年に妹の徴弐と与に挙兵した。 日南・九真・合浦の渠帥が呼応して嶺南65城を悉く陥したが、伏波将軍馬援に討たれて43年に敗死し、余勢も翌年中に鎮圧された。 漢軍の死者は半ばに達し、現在でもベトナムの英雄の1人として支持されている。

李賁  〜547
 俚族の出とも、中国人の裔とも称される。南梁の交州刺史蕭諮の圧政に対して541年に土豪と連携して挙兵し、翌年には交州治の龍編(ハノイ東郊)を陥落させ、544年には龍編で南越帝を称して国号を万春とし、世に李南帝と呼ばれた。 梁の交州刺史楊縹・陳覇先・定州刺史蕭勃らに伐たれ、屈ォ洞で斬られた。
 以後も趙光復と李天宝・李仏子らによって抵抗が続けられ、侯景の乱による梁軍の撤収と李天宝の死(555)後は龍編の趙光復と峯州(フート)の李仏子が並立し、李仏子が勝利した後、中国を統一した隋によって602年に滅ぼされた。

 
 
 

曲承裕  〜907
 海陽(ハイズオン)の土豪。 唐末に高駢に属した後、中国の混乱に乗じて交州(ハノイ)に拠り、906年に静海軍節度使を称した。 以後、三代に亘って中原王朝に通款し、静海軍節度使を世襲して一帯を支配したが、930年に孫の曲承美が南漢に滅ぼされた。

楊廷芸  〜937 ▲
 愛州(タインホア)の人。曲氏の下で将軍に進み、曲氏が滅ぼされた翌年(908)に南漢の交州刺史を逐って自立した。937年、西隣の峯州(フート)の土豪の矯公羨に殺された。

呉権  897〜944 ▲
 楊廷芸に認められて婿とされ、愛州刺史とされた。楊廷芸が殺された翌年(938)に矯公羨を攻殺し、次いで来援した南漢軍を白藤江で大破し、939年に古螺(ハノイ)で称王した。在地有力者を刺史に任じて各地の掌握を進めた。
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 呉権の死後は楊廷芸の遺児の楊三哥が託孤に背いて簒奪し、刺史に任じられていた有力者が自立して十二使君と通称された。 呉権の二子/呉昌岌・呉昌文は950年に奪権して共治し、楊三哥も赦されて諸侯として遇されたと伝えられる。呉昌文は964年に征旅中に戦死し、呉昌岌の遺児の呉昌熾は平橋(タインホア)周辺を支配して十二使君に数えられ、966〜67年に丁部領に制圧された。

丁部領  924〜966〜979
 丁先皇とも。 華閭(ニンビン)の部酋として楊廷芸に従い、呉権より驩州刺使とされた丁公著の子。 呉権の死後の内乱で自立して十二使君の陳覧と結び、その基盤(タイビン地方)を嗣いで十二使君の討平を進めて大勝王と呼ばれ、トンキン地方を統合した翌年(968)に大瞿越皇帝を称し、華閭に国都を営んで全土を十道に区画した。 中国に対しては帝号を用いずに恭順を示し、殊に宋に対しては事大的な外交を行なったと伝えられ、官制の整備や元号の制定、円形方孔銭/太平興宝の鋳造など中国に倣った国制を整え、975年には交阯郡王に冊封された。 末子の丁頊郎を太子とした為に内訌を生じ、頊郎が暗殺された同年に長子の丁lと共に大臣に暗殺された。
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 遺児の丁璿が事態を収集した十道将軍(総司令官)の黎桓に擁立され、宋やチャンパの侵攻に直面して黎桓への集権が強化され、即位翌年(980)の母后の楊太后と黎桓との成婚を以て廃黜された。丁璿は衛王に封じられ、内乱平定中の1001年に戦死した。

黎桓  941〜980〜1005
 黎大行とも。丁部領の下で十道将軍(総司令官)に進み、丁部領が暗殺された後の国内の混乱を収拾して全権を掌握し、反対派を粛清したのち宋の南征に対応して王母后を娶って称帝し、宋軍を撃退して勢威を確立した。 982年にチャンパに親征して国都を陥した事でチャンパの南遷を促し、宋に対しては冊封関係を回復して993年には交阯郡王に封じられ、対外関係を安定させた。全国を宋に倣って路州府制に改め、各地に諸子を藩王として分封したが、諸王の内訌によって治安は安定しなかったと伝えられる。
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 黎桓の跡を第3子の黎龍鉞が襲いだものの3日で弟の黎龍鋌に弑簒された。 暴恣と伝えられる黎龍鋌が1009年に廷臣に殺されると幼君が立てられ、王族の離叛を討平した李公蘊に輿望が集まって1010年に簒奪された。

 
 

李朝

 1009〜1225
 前黎朝の内訌を収拾した李公蘊の創始になる、ベトナム最初の長期王朝。 首都を昇龍(ハノイ)に定め、儂智高が平定された1054年よりは国号を大越(大ヴェト)とした。 12世紀初頭頃までが盛時で、南隣のチャンパを3度征伐して現在の中部ベトナムを割譲させ、また1075年に将軍李常傑が宋軍を撃退して独立を認めさせ、1174年には安南国王に進封された。
 国制は概ね唐制・宋制を模して整備されて科挙制も導入され、1070年にハノイに文廟が建てられ、1127年には国子監も設けられ、諸帝の仏教信仰によって寺塔も多く建立された。 豪族が諸侯として割拠する体制は保持され、そのため高宗(在:1175〜1210)・恵宗(在:1210〜24)父子が暗愚だった事もあって内乱・叛乱が頻発し、有力豪族で外戚の陳守度に実権を掌握された。恵宗は陳守度に逼られて幼娘の昭皇に譲位し、翌年(1225)に昭皇が陳煚(陳守度の甥)を婿に迎えたのち譲位した。
 
 

陳朝

 1225〜1400
 ナムディン地方の豪族の陳守度が、甥の陳煚(太宗)を擁して李朝を簒奪した政権。首都は昇龍(ハノイ)。 陳氏は福建からの移民の裔とされ、漁業と水運で抬頭し、李高宗の末期の戦乱で王室を護持して外戚として集権し、女帝を立てたのち通婚によって簒奪した。 陳朝最大の事件としては3度に及ぶモンゴル・元朝の侵攻があり、いずれも昇龍を放棄して兵站の不備を誘い、殊に第二次・第三次戦は陳国峻の指導もあって撤退する元軍を大破し、フビライ=ハーンの死後には冊封関係も回復させたが、元軍の撃退には国土の深刻な荒廃を伴った。
 南隣のチャンパに対しては太宗が1252年に王都ヴィジャヤを陥してクアンチ方面を割譲させており、元朝の撃退でこそ共闘して1306年には通婚の代償に北部(フエ地方)が割譲されたものの、程なく関係が悪化して1312年には英宗が親征し、再びヴィジャヤを陥してチャンパ王を廃立した。 14世紀半ば以降は農村の疲弊と綱紀の弛緩、王族の内戦や農奴の造叛などによる国勢の衰えとともにチャンパの侵攻が激化し、1371・1377年には昇龍が陥されて睿宗が敗死した。
 一連の混乱の中で抬頭した外戚将軍の黎季犛によって1400年に簒奪され、このため明朝に軍事侵攻の名目を与え、平定後には直轄化が進められた。 明軍に対して陳朝遺臣はタインホアに簡定帝を立てて抵抗し、1409年以降は重光帝に継承されたが、1414年に制圧された。
 陳朝では成人した太子に譲位する上皇制が原則とされ、幼君の即位による外戚の専横や上皇の並立は回避されたものの上皇の執政による王権の低落は避けられなかった。又た一族の紐帯と支配力を保つために王族間の通婚が奨励され、睿宗が黎季犛の従妹を皇后としたのは稀有の事だった。

陳国峻  〜1300
 太宗の甥。興道王。陳興道とも。1258年のモンゴルによる第一次侵攻で国都昇龍を劫掠して撤収するウリヤンカダイを追撃し、興道王に封じられた。 元朝のチャンパ攻略への協力を拒んだ事で起された第二次侵攻(1285)では国公として全軍を統帥し、昇龍放棄と清野策、チャンパと協働したゲリラ戦などによって元軍を疲弊させ、疫病で撤退する元軍を追撃・大破して昇龍を回復した。 1287年末に起された第三次侵攻でも昇龍を放棄したのち雲屯(ハロン)で元の補給艦隊を撃滅し、撤退する元軍を水中に立てた杭と潮の干満を利用してソンコイ=デルタの白藤江で大破し、陸上でも伏兵と追撃戦で大勝し、元朝の国内事情もあって以後のベトナム攻略を断念させた。 一連の勲功によって大王に進位されて尚父の尊号を受け、税役の免除など戦後処置にも尽力し、現在でもベトナム至上最高の名将と讃えられている。

明宗  1300〜1314〜1329〜1357
 陳朝の第五代君主。 造営事業を好み、幼少の実子を相次いで立てて実権を保ち、タイ遠征には悉く失敗した。
 死後に親政を始めた裕宗(在:1341〜69)も暗君と伝えられ、在位中に歿すると甥の陳日礼が明宗の皇后/憲慈皇后の支持で即位したが、大粛清を用いた朝廷の刷新を図った為に翌年には廃弑されて国姓を剥奪された。

芸宗  1321〜1370〜1372〜1394
 陳朝の第九代君主。明宗の子。憲宗・裕宗の弟。 陳日礼を廃した勢力によって立てられ、これら権臣を粛清したのち弟の睿宗に譲位した。チャンパに親征した睿宗が敗死するとその子の陳晛(後廃帝/在:1377〜1388)を立て、外戚の黎季犛の抬頭と執権をもたらした。陳晛は黎季犛の粛清に失敗して廃されたのち殺された。

胡季犛  1336〜1400/1400〜1407
 清化(タインホア)の人。本姓は黎。浙江からの移民の裔とされる。 芸宗の外戚としてその上皇政治の中で抬頭し、チャンパ撃退の功で枢密大使から同平章事に進められ、1388年には陳晛を廃して順宗を擁立した。
 芸宗死後の1397年にはタインホアに遷都させ、1400年に簒奪して国号を大虞、姓を胡氏に改めたが、同年には子の漢蒼に譲位して上皇政治を行ない、チュノムを用いた文芸の奨励や紙幣の発行、行政区画の再編、私有地の制限などの改革を進めた。 最晩年の1406年より陳朝復興を名分とする明軍に侵攻されて翌年には国都も陥落し、河静(ハティン)で明軍に擒われて南京で処刑された。
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 胡季犛の処刑後、明軍による直轄化が進められ、タインホアの陳氏政権も1414年に制圧されたが、1418年より藍山で黎利の叛抗が始まり、明朝の永楽帝が歿した事もあって1427年までに明朝勢力を一掃した。

 
 

黎朝

 1428〜1527/1533〜1789
 ベトナムに進駐する明軍を撃退した黎利の創始になる王朝。国号は大越、首都はハノイ。980年に始まる短命の黎朝に対して後黎朝とも呼ばれ、莫登庸の簒奪によって前後に分けられる。 前期は勲門の勢力が強かったものの科挙官僚の登用も始まり、黎宜民(前廃帝)の簒奪の後に勲門に立てられた聖宗の時代はチャンパのヴィジャヤ政権の征服、律令の整備や文運の隆盛などもあってベトナムの極盛期とされ、優れた学者・文人を輩出した。 聖宗は君主集権の一環としてタインホア出身の勲門を抑制するためにトンキン人を多く科挙に及第させたが、両者の対立が以後の政治の停滞をもたらした。 粛宗(聖宗の孫)の死後は暴君と内乱が続いて急衰し、禁軍を掌握した莫登庸と昭宗を庇護した西京(タインホア)の鄭綏が対立し、鄭氏を圧倒した莫登庸によって1527年に簒奪された。
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 黎朝は荘宗が哀牢(ラオ東部)で阮淦に擁立された事で1533年に再興し、1545年に阮淦が暗殺された後はその娘婿の鄭検が全権を継承し、その嗣子の鄭松によって1592年にハノイが回復された。 黎朝を支配する鄭氏と、順化(フエ)に逐われた阮氏はハノイ奪回でこそ共闘したものの反目を続け、1627年より軍事衝突を生じてドンホイ北郊の霊江(sông Gianh)を境とし、鄭氏は北河・東京国、阮氏の政権は南河・広南国とも呼ばれた。
 広南地方(ダナン以南)をも掌握した阮氏はポルトガルから造船技術や火器を導入して鄭氏に備える一方でクメールチャンパの征服を進め、鄭氏はオランダとの交易で対抗し、ラオスではアユタヤ朝とも争った 国際交易の発展は華僑の来住とキリスト教の伝来を伴い、広南国では1640年にイエズス会による布教が公認されたが、1646年には禁圧に転じた。
 南北の抗争は国力を疲弊させて各地で造叛が続発し、殊に広南ではカンボジアを巡ってタイとの抗争が激化したために賦役が過重となり、1771年にビンディンの西山阮氏が蜂起して、これに乗じた鄭氏は1774年に富春(フエ)を陥した。 阮氏は香堆(サイゴン)に逃れたのち1777年に西山阮氏に鏖殺され、鄭氏も亦た内訌に乗じられて1786年に滅ぼされ、ハノイの愍帝は西山阮氏と鄭氏遺族の討滅を清朝に求め、この援軍が阮文恵に殲滅されると中国に亡命した。

黎利  1385〜1428〜1433
 後黎朝の太祖。タインホアの藍山(ラムソン)の土豪。胡氏を滅ぼした明朝の支配に抵抗して1418年に挙兵し(藍山起義)、1427年までに明朝勢力を国内から一掃して、翌年ハノイで即位して国号を大越とした。 即位後は国内を東・西・南・北・海西の五道に分けてそれぞれに行遣・衛軍を置いて地方の分権化を進め、均田制・科挙制などを整備し、学校を興すなど儒学の振興にも意を用いた。明朝に対しては朝貢してベトナムの主権者であることを認められたものの、王号は認められず権署安南国事とされた。

黎宜民  1439〜1459〜1460
 後黎朝の第四代君主。前廃帝とも。太宗の庶長子。生母が非勲門だったために太子を廃され、1459年に挙兵して異母弟の仁宗を殺して簒奪した。勲門を粛清した為に8ヶ月で叛かれて廃弑された。

聖宗  1442〜1460〜1497
 後黎朝の第五代君主。諱は灝、或いは思誠。太宗の子。 前廃帝に対する禁軍の兵変で立てられた。 宰相の廃止と六部の設置に代表される明制に倣った中央集権化や地方行政区画の再編、戸籍法の制定と税制の改定、ベトナムで最も著名な成文法となる『洪徳律例』の発布など統治体制を固め、又た堤防の改修や屯田による未開地の開墾、福利厚生の充実や弊習の禁止などで国力の涵養に尽力した。 その傍らでチャンパ征服を進め、特に1470〜71年の親征ではヴィジャヤ政権を征服し、又た1479年にはラオスにも侵攻してランサーン王国の国都ルアン=パバンを劫掠し、シエンクワン地方を直轄化した。
 科挙制の改革や文学院の創設など学問の奨励発達にもつとめ、文化事業として高く評価される『大越史記全書』や全国の地図などを作成し、その治世は中国の『明史』でも“光順中興”と讃えられ、ベトナムの極盛期を招来した屈指の名君とされる。

鄭松  1550〜1623
 鄭検の次子。鄭検の死(1570)に乗じて来攻した莫氏を撃退し、勢に乗じて長兄の鄭檜を廃して節制各処水歩諸営を嗣いだ。1573年に英宗を弑して世宗を立て、1592年には昇龍(ハノイ)を陥して莫朝を滅ぼし、1599年に平安王を称した。 1619年に次子の鄭椿と結んで兵変を謀った景宗を弑して神宗を立てたが、最晩年に鄭椿が造叛し、世子の鄭梉による鎮圧の前後に急死した。

 
 

莫朝

 1527〜1592
 黎朝の禁軍を掌握した莫登庸が簒奪した政権。諸制の改正や貨幣の改鋳で弊政の刷新を図ったが、黎朝の再興を標榜する阮淦に西〜南辺を制圧され、阮淦の暗殺には成功したものの全権を継承した鄭氏に対して劣勢となり、1592年に莫茂洽がハノイで鄭松に敗死した。 以後は北辺の高平(カオバン)に逃れて中国王朝の庇護下に入り、土司として1677年まで存続した。

莫登庸  〜1527〜1529〜1541
 海陽(ハイフォン)の漁師出身。 長じて力士となり、後に仕官して昭宗の下で内乱鎮圧に累功があって禁軍を掌握し、昭宗を圧迫して西京(清化)の鄭綏の下に出奔させた。 昭宗の弟の恭帝を立てて1527年に鄭綏らを滅ぼすと恭帝に逼って譲位させ、黎氏とその外戚を滅ぼして親族政治を展開した。 兵制・田制の改制や貨幣の改鋳など弊政の刷新を図り、1529年に太子に譲位した後も上皇として執政を続けた。 黎荘宗を擁した阮淦をはじめとする抵抗勢力に対して明朝への臣属で打開を図り、明の軍事介入を回避したものの求心力を低下させた。

 
 

西山朝

 1778〜1802
 ビンディンの西山(タイソン)村出身の阮文岳・阮文侶・阮文恵らの樹てた政権。 当時のベトナムはハノイの後黎朝を戴く鄭氏政権(東京国)とフエの阮氏政権(広南国)に分裂していたが、広南政権の摂政張福巒の苛政に対する叛乱として始まり、民衆の支持を背景に急速に勢力を拡大させた。 1774年に広南国都のフエを陥した鄭氏に臣属したが、南部に逃れた阮氏を鏖殺した翌年(1778)に自立し、1786年には鄭氏の内訌に乗じてハノイを陥し、後黎朝を存続させたままベトナムを三分した。
 1789年には黎愍帝の乞援に応じた清軍を撃退したが、ハノイ征服の前後から兄弟間の不和が表面化し、タイやフランスの支援を得た阮福映によって1788年にはサイゴン(ホーチミン)を失い、1802年にフエを陥されて滅ぼされた。 蜂起以降の活動は、広南阮氏から興った阮朝の史観から“西山党の乱”とも称される。

阮文岳  〜1778〜1793
 帰仁(クイニョン)西方の西山(タイソン)村の出身。 小商から税吏となったのち官に追われ、1771年に弟の阮文侶・阮文恵と共に西山寨に拠って蜂起した。随所で阮氏の兵を破って1773年には帰仁城を陥し、翌年に富春城(フエ)を陥した鄭氏に帰順した後も広南の経略を続け、阮氏を殲滅した翌年(1778)に帰仁城に拠って称王した。 1786年には弟の阮文恵がハノイを陥して鄭氏を滅ぼし、帰仁で中央皇帝を称して嘉定(サイゴン)の阮文侶を東定王に、フエの阮文恵を北平王に封じたが、阮文恵とはハノイ陥落の前後からその威望を忌んで不和となった。嗣子の阮文宝は富春政権の前に劣勢となり、阮福映と通じた事が露見して1798年に滅ぼされた。

阮文恵  〜1788〜1792 ▲
 阮文岳の弟。軍才に長け、両兄と共に蜂起してしばしば偉功があり、嘉定(サイゴン)の略定後はタイと結んだ阮福映を悉く大破・撃退した。 1786年にはハノイに拠る鄭氏を滅ぼして北平王に封じられたが、その威望を猜忌する阮文岳とは不和となって黎帝を存続させ、黎帝の乞援に応じた清軍20万を撃退すると富春(フエ)で称帝した。チュノムを公用語とし、南征の途上で歿した。

 
 
 

阮朝

 1802〜1945
 広南阮氏に連なる阮福映(嘉定帝)が、西山朝を滅ぼして樹立したベトナム最後の王朝。国都はフエ。はじめ国号を南越としたが、往古の南粤への回帰を警戒する清朝の抗議で越南に改め、盛時にはラオス・カンボジアをも領してベトナム史上最大の版図を有した。 阮福映は西山朝に滅ぼされた広南阮氏唯一の生存者で、タイに支援された反攻が悉く失敗したのちフランス人宣教師を介してフランスの支援を得、ベトナムの再統一に成功した後は清制に倣った国制の整備や『皇越律令』の編纂を行なったが、ハノイを中心とした北城総鎮とサイゴン(ホーチミン)を中心とした嘉定城総鎮が並立する体制を以て中央集権には慎重だった。 嗣子の明命帝(在:1820〜41)は省県制の導入や科挙の本格的運用などで中央集権を強化した一方で、国境を接するタイや通商を求めるフランスとの関係が悪化して排外政策に転じ、亦た集権化に対する造叛の続発などからキリスト教を弾圧した。
 明命帝の政策を支持した嗣徳帝の時代にはフランス・スペインによるコーチシナへの軍事侵攻(1858)が行なわれ、メコン川の制圧を進めるフランスによってカンボジアの保護国化と並行してコーチシナの征服が進められた。 1873年以降はソンコイ河の航行権を巡ってしばしばハノイが占拠され、黒旗軍を用いてフランス軍に対抗したものの1年間で4度の君主改廃を生じる内訌に乗じられ、1884年に保護国化された。
 清仏戦争で締結された天津条約(1885)でフランスによるベトナムの保護領化が追認され、植民地的支配が行なわれて君主の廃立・流謫もしばしば行なわれた。 第一次大戦後は反仏独立運動が熾烈になり、第二次大戦末期には保大帝が日本の進駐に乗じて独立を宣言したが、日本の敗戦により完全独立を求めるベトミン(ベトナム独立同盟)に逼られて退位し、ベトナムの王朝時代は終わった。
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 ベトミンはハノイを首都にベトナム民主共和国(北ベトナム)を樹立して再駐したフランスからの独立を宣言し、これに対抗するフランスの主導で1949年にはサイゴンを首都とするベトナム国(南ベトナム)が樹てられた。 1954年のジュネーヴ条約で北緯17度線での停戦や2年後の国民選挙などが約束されたが、南ベトナムは翌年の国内選挙でベトナム共和国として体制を一新すると協定を破棄し、北ベトナムは南ベトナム国内に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を組織してゲリラ戦を行なわせた。 この内戦にアメリカが軍事介入した事で、1965.02には北ベトナムにも戦火が波及して米ソの代理戦争の様相を呈し、1968.03には和平の気運が生じたものの頓挫し、1973.01に漸くアメリカと南北ベトナム、革命政府の間に和平協定が成立した。 次いで1975.04に革命政府軍に対する南ベトナム政府軍の敗北が確定し、翌年の南北統一で国名をベトナム社会主義共和国と改めた。

嗣徳帝  1829〜1847〜1883
 阮朝の第四代君主。祖父の明命帝の鎖国・禁教を強化して1858年にフランス・スペイン連合軍にコーチシナを占領され、1862年のサイゴン条約でサイゴンを含むコーチシナ東部を割譲し、1867年には西部3省も奪われた。 又たトンキン地方の治安維持のために黒旗軍の割拠を黙認し、1873年にソンコイ河の制圧を図るフランス軍にハノイが占拠されると黒旗軍に請援して撃退した。1882年にフランス軍が再度トンキン地方に侵攻した際には清朝にも乞援して清仏戦争が実質的に始まったが、その最中に急死した。
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 継嗣に立てられた甥の育徳帝は3日で廃され、次いで立てられた協和帝(嗣徳帝の弟)もフランスを頼った奪権に失敗して4ヶ月で廃弑され、この間にフランスの保護国となる事が承認された。 協和帝の死後は嗣徳帝の養子中もっとも期待された甥の建福帝が立てられたが、権臣の粛清に失敗して半年で暗殺され、弟の咸宜帝が擁立された。
 咸宜帝は即位の翌年に抗仏勤皇に応じてフエを棄て、各地で反仏抗戦を訴えた末に1888年に執われてアルジェリアに謫され、フエでは咸宜帝の出奔直後にフランスによって兄の同慶帝が立てられた。

清仏戦争  1884〜1885
 ベトナムの帰属をめぐるフランスと中国清朝の戦争。 通常は1884.08のフランス海軍による台湾砲撃を以て開戦とするが、清仏のベトナムでの交戦状態は1882年にフランス軍がハノイを占拠した事を機に始まっている。 ベトナム政府は黒旗軍によって1883.04にフランス軍司令官リヴィエールをハノイで敗死させていたが、直後に嗣徳帝の死で内訌に陥り、フランス艦隊が増援されると保護国化を受諾して当事者能力を放棄していた。
 フランス海軍は中国では緒戦に福建艦隊を撃滅した他は殆ど戦果を挙げられず、ベトナムでもトンキン=デルタを占領した後は膠着状態に陥り、清仏とも厭戦派が主導権を執った事で広東の海関総税務司ロバート=ハートの斡旋もあって1885.06に天津条約が成立した。 これによってフランスによるベトナムの保護国化が承認され、1887年にはカンボジア・コーチシナを加えて仏領インドシナとなり、1893年にはラオスも加えられた。

劉永福  1837〜1917
 広東省欽州(広西自治区)の人。はじめ太平天国に参加し、戦後にトンキン地方に逃れて1867年頃に黒旗軍を組織し、阮朝に帰順して匪賊の平定を任とした。 兵数は3千人前後で、保勝(老開)に拠ってソンコイ河での渡税や商税の徴収・略奪を黙認され、1873年にはフエを占拠して北上したフランス軍司令官ガルニエを敗死させ、1883年にもハノイで司令官リヴィエールを敗死させたが、嗣徳帝の死後、阮朝とフランスが講和すると国外退去を命じられた。
 清仏戦争では清朝を扶け、天津条約で黒旗軍を解散して両広総督張之洞に迎えられ、日清戦争では黒旗軍を再結成して台湾防衛を担い、戦後に台湾割譲を拒んで台湾民主国の幇弁(代理総統)として抗日を継続した。 1895.10に抗日を断念した後も義和団事件では湖広で排外運動を展開し、1902年には広東碣石鎮総兵に進み、辛亥革命で広東都督胡漢民の要請で広東民団総長となり、二一ヶ条要求に対する抗日戦の準備中に歿した。

保大帝  1914〜1925〜1945〜1997
 阮朝の第十三代君主。諱は福晪。 幼時よりパリに留学し、父帝の死で帰国して即位した後、再び渡仏して1932年に帰国した。 1945.03の日本軍によるフランス軍排除によってベトナム帝国皇帝として独立を宣言し、日本の敗戦が確定的になるとホー=チ=ミンの指導する八月革命によって退位し、ベトナム民主共和国議員・政府最高顧問とされた。 1946年に香港に亡命し、フランスや反ホー派と接触して1949年にはフランス連合内のベトナム国の元首とされたが、フランスでの豪遊などの強い親仏色が嫌われ、ジュネーヴ協定でフランス軍が撤収した翌年(1955)の国民投票で首相のゴ=ディン=ジェムに敗れて退位し、パリに亡命した。


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