革命後.1

辛亥革命  第二革命  第三革命  国民政府

 

中華民国

 辛亥革命後の中国の国号。1912.01.01に孫文を臨時大総統として南京に成立した革命政府によって定められ、02.12に清朝を廃し、北洋軍閥総帥の袁世凱が大総統となった後は北京を首都とした。 袁世凱の帝政回帰に反対する第三革命護法運動によって軍閥による内戦状態に陥り、北京政府の主導権は北洋軍閥系の安徽派直隷派奉天派で争われ、広州の護法軍政府を支持する西南派(雲南派広西派広東派)でも内訌が絶えなかった。 この間、喫緊の課題とされた土地問題は進展せず、反帝国主義・反軍閥の民意が昂まって第一次大戦後の1919年には五四運動五三〇運動などが起こり、こうした世相を背景に国民党と共産党との合作が実現し、1925年には広州の孫文と北京の馮玉祥との間で融和が実現しかけたが、孫文の死によって頓挫した。
 1926年より広州政府の蒋介石による北伐が行なわれて1928年には南京の国民政府による統一支配が実現したが、一党独裁と共産党に対する弾圧を進め、経済再建も日本の侵略などによって捗々しくなく、1936年末の西安事件を契機として抗日のために国共合作が再開され、国民党独裁も緩和された。 第二次大戦で敗れた日本が中国から撤退した後は国共の内戦が再開され、国民党を排除した共産党によって1949.10.01に中華人民共和国と改号された。
 

辛亥革命  1911〜1912
 武昌起義に始まり、清朝宣統帝の退位によって君主制の廃止を実現した運動。 武昌起義に対し16省が呼応し、中国同盟会内部で武昌派と上海派の主導権争いがあったものの、翌1912.01.01に孫文が南京で臨時大総統に就任して臨時中央政府を組織し、各省代表会が参議院を構成し、臨時約法を制定して民主共和国=中華民国が発足した。清朝の新内閣総理大臣袁世凱との折衝の結果、02.12には宣統帝の退位と帝制の廃止を実現した。
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 革命政権は新軍の軍事力によって軍閥化していた各省の連合政権でもあり、北洋新軍を擁した袁世凱の勢力が突出し、孫文との主導権争いに敗れた黎元洪が袁世凱と結びつき、03.10の袁世凱の臨時大総統就任と北京奠都によって革命は実質的に失敗した。 帝政を志向して革命派との公約を反故とした袁世凱に対して革命派は第二第三革命を起したが、反袁派内部でも軍閥同士の対立があって中国社会の諸問題の解決は進展せず、軍閥打倒は革命運動の重要目標となった。

武昌起義  1911.10.10 ▲
 中国同盟会急進派の共進会と湖北新軍による、武昌で成功した反清蜂起。 清末の同盟会主導による武装蜂起は悉く失敗し、黄花崗起義が失敗した後は共進会の重要拠点の武昌が革命運動の中心となり、湖北省の文学社や両湖地方の会党と提携し、湖北新軍にも影響力を扶植していった。 鄂軍が四川の暴動鎮圧に派兵された後、武昌での革命派弾圧に抵抗して一部の湖北新軍が革命派と与に蜂起し、武昌を占拠して全国で初めて反清起義を成功させた。
 共進会は湖北新軍協統の黎元洪を湖北大都督として同盟会と主導権を争い、武昌奠都には失敗したものの革命達成後は立憲派・旧官僚・軍人勢力と提携して中華民国政府の主導権を確立し、同盟会の分裂をもたらした。

中国革命同盟会
 孫文・胡漢民らの興中会(広東派)、黄興・宋教仁らの華興会(湖南派)、蔡元培・章炳麟らの光復会(浙江派)が、宮崎滔天らの斡旋で1905.08.20に東京で提携して結成した。 孫文を総理に、黄興を庶務に選出し、軍政府宣言・同盟会総章・革命方略を採択するなど従来の会党的性格から脱し、機関紙『民報』を発行して保皇派の『新民叢報』を批判するとともに三民主義を提唱して留学生や青年層のみならず会党・新軍の支持を得て全国規模の組織となった。 東南アジアにも拠点を設けて華僑への影響力を強めたが、1907年に孫文の強権を嫌って浙江派が分離し、又た中国での起義は悉く失敗し、1911年の武昌起義では半ば分離していた急進派の共進会が主導的役割を担った。 革命時は上海に本部を置き、南京臨時政府では9閣僚中3席を占めたが、北京奠都後に袁世凱支持に転じる会派が続発した。
   
国民党 :民国政府の北京奠都後の諸派の袁世凱支持に対抗し、国会での多数派獲得を目的として中国同盟会が改組されたもの。 宋教仁が主導し、蔡鍔の統一共和党など4党と合併して1912.08に成立し、同冬の選挙で圧勝した。 翌年に宋教仁が暗殺されると第二革命を主導したものの失敗し、正大総統となった袁世凱により解党させられた。


興中会
 1894年に孫文が「排満興漢」を唱えてハワイのホノルルで組織した。 翌年に香港の輔仁文社を吸収し、哥老会三合会との提携で勢力を拡大し、その際に「駆除韃虜・回復中華・創立合衆政府」を標榜する“興中会宣言”が発せられた。 1895年の広州起義、1900年の日本政府との連携による恵州起義に失敗したが、1905.08に東京で華興会光復会と合同して中国革命同盟会に発展した。

孫文  1866〜1925 ▲
 広東省香山(中山市)の客家。字は載之、号は逸仙・中山。兄を頼ってハワイに滞在した期間に西洋思想に触れ、帰国後に医学を修めてマカオで開業したが、清仏戦争を機に1894年にハワイで興中会を結成した。 翌年に広州起義に失敗して日本に亡命し、宮崎滔天を介して頭山満・犬養毅らと交わり、1900年に恵州起義に失敗した後は欧米を歴訪して華僑に遊説しつつ資金を調達し、1905年に東京で中国革命同盟会を結成して総理とされた
 辛亥革命に応じて帰国すると南京の中華民国臨時政府の初代臨時大総統とされたが、宣統帝の退位と帝制廃止を条件に袁世凱に譲位し、独裁を強める袁世凱に反対する第二革命に失敗すると再び日本に亡命し、1914年に中華革命党を結成して反袁闘争を継続した。 第三革命の翌年(1917)に広州に護法軍政府を組織したものの軍閥に依拠した事、中国の武力統一に固執した事などからしばしば失脚し、その間の1919年にロシア革命・五四運動に刺激されて中華革命党を中国国民党に改組し、第二次護法運動に失敗した翌年(1922)には上海で連ソ容共を宣言(孫文・ヨッフェ宣言)してソ連邦の支援下に広東政府を樹立し、翌年の党第一回全国代表大会では共産党との合作を実現した。 北京政府を掌握した馮玉祥の要請に応じて国民会議開催の準備に北上したが、3月に北京で病死した。
   
中華革命党第二革命の失敗で日本に亡命した孫文が、1914.07に東京で結成した革命団体。 軍政・訓政・憲政期を経ての三民主義(民主・民権・民生)の実現を綱領とし、中国同盟会での失敗に顧慮した孫文が絶対的な忠誠を求めた為に胡漢民らからすら異論が生じ、賛同を肯んじなかった黄興李烈鈞陳炯明譚人鳳ら非興中会系からは“孫文の側近集団”と評された。 日本の二十一箇条要求五四運動に対しては存在感を示せなかったが、段祺瑞政権に対抗して護法運動を展開し、1919.10に中国国民党に改組された。

欧事研究会  ▲
 中華革命党が結成された翌月、孫文の専制に批判的な同盟会会員によって東京で結成された。 欧事は第一次大戦を指す。 親黄興派が主唱し、熊克武・柏文蔚・陳炯明蔡元培陳独秀らが参加したが、渡米中だった黄興は加盟は承諾したものの領袖に就くことは肯んじなかった。 漸進主義を標榜したが、袁世凱の帝政が現実のものとなると第三革命を積極的に唱導し、袁世凱の死を以て事実上解散された。

光復会
 1904年に蔡元培を中心に上海で結成された反清組織。1902年に蔡元培・章炳麟らが上海に組織した中国教育会・愛国学社が『蘇報』を介して支持者を集め、章炳麟逮捕の後に結成された。 浙江出身者が主流で、後に興中会華興会と提携して中国革命同盟会に発展したが、徐錫麟・秋瑾ら実践派とは一線を画し、又た蔡元培ら指導層は変法派の影響から儒学を重んじて漢洋折衷を唱えるなど革命派としては異色の存在で、1907年に多くが同盟会から離脱した。

蔡元培  1868〜1940 ▲
 浙江省紹興の人。字は鶴卿。光緒18年(1892)の進士。 戊戌政変で致仕して紹興で新学による教育を実践し、1902年に中国教育会を、次いで章炳麟らと愛国学社を設立し、革命教育に尽力した。 1903年に光復会を組織し、翌年に中国同盟会に加盟し、辛亥革命後は南京臨時政府の教育総長とされ、袁世凱の独裁で下野して西欧に留学した。
 1916年に帰国して北京大学校長とされると陳独秀・胡適らを教員に迎えて指導体制の改革と男女共学・平等教育を推進し、研究の自由・学生自治などを唱え、五四運動の責任を追及されて1923年に辞職すると再び渡欧した。 後に南京政府に参加して監察院院長兼中央研究院院長とされ、1932年に宋慶齢魯迅らと中国民権保障同盟を結成して副主席とされ、国民党の特務統治に反対して抗日と国共合作を支持した。
 北京大学では白話運動を推進し、又た国民党政権下で国立音楽院(上海音楽学院)や国立芸術院(中国美術学院)など各種教育機関を設立しており、中国新文化の父と称される。

章炳麟  1868〜1936 ▲
 浙江省余杭の人。字は枚叔、号は太炎。日清戦争後に変法派の強学会や『時務報』に連なり、戊戌政変後に孫文唐才常らと交わって革命思想に傾斜した。 上海で蔡元培の愛国学舎で教鞭を執る傍らで『蘇報』で立憲保皇を否定して1903年に禁錮3年に処され、出獄後に渡日して革命同盟会に参加した。 辛亥革命後は省憲法制定・聯省自治を唱え、黎元洪らと共和党を結成して袁世凱を支持したが、宋教仁の暗殺を機に孫文と接近し護法運動では広州大元帥府秘書長とされた。 五四運動を批判して尊孔読経を提唱し、国共合作に執拗に反対した事で保守反動とも評され、満州事変後は蒋介石の“安内攘外”に反対した。

華興会
 1903年に黄興宋教仁らが長沙に結成した反清革命組織。 哥老会とも結合して「民主および自由国家の建設」を標榜し、在日留学生から下層農民・手工業者・鉱山労働者など広範の層に支持され、大衆的革命運動を展開して革命の牽引的役割を果たした。 1904年に長沙起義に失敗し、翌年に興中会光復会と提携して中国革命同盟会へ発展し、以後は湖南派として同盟会中で最も有力な孫文の対抗勢力となった。

黄興  1874〜1916 ▲
 湖南省善化(長沙県黄興鎮)の人。字は克強。 張之洞の両湖書院に学んで唐才常の起義にも連なり、1901年に東京に留学して軍事学を研究する傍ら章炳麟陳天華・劉揆一・宋教仁らと交わり、革命結社“軍国民教育会”に参加した。 1903年に長沙で華興会を組織し、翌年に長沙起義に失敗すると東京に渡って孫文らと中国同盟会を結成し、以後、南洋華僑に遊説しつつ軍事部門を担当し、鎮南関起義・庚戌広州新軍起義・黄花岡起義などを指揮した。
 武昌起義で総司令官に迎えられ、南京臨時政府成立とともに陸軍総長兼参謀長とされ、袁世凱が大総統に就いた後も南京に留まり、第二革命に失敗して東京に亡命した。 反孫文的な湖南派にあって宋教仁と孫文との仲介を果たしていたが、中華革命党の結成を通じて孫文との不和が決定的となって渡米し、第三革命に応じて1916年に上海に帰国した。中国革命同盟会では湖南派の中心人物として輿望が篤く、孫文・章炳麟とともに革命三尊と呼ばれた。
   
黄花崗起義 (1911.04.27):黄興が主導した、中国同盟会による広州での武装蜂起。第二次広州起義とも。 それまでの革命運動の失敗を憂慮した孫文が1910.11.13にマレー半島のペナンに召集した方針会議で決定され、南洋華僑からの資金を元に計画された。 黄興ら800余の党員が実動したが、両広総督署の襲撃に失敗して多数の党員が戦死し、72烈士の遺骸が黄花崗に埋葬された。 1932年の調査で埋葬烈士は86名と確認されたが、以後も“黄花崗七十二烈士”と呼ばれている。

宋教仁  1882〜1913 ▲
 湖南省桃源の人。字は得尊、号は敦初。黄興の影響から反清活動を行なって武昌普通学堂を放校され、1903年に黄興・陳天華らと華興会を興して副会長とされた。 翌年に長沙起義に失敗して渡日すると法政大学に学び、宮崎滔天を介して孫文とも交流し、革命同盟会を成立させた。 帰国後は広州を拠点とした辺境革命論を唱える孫文に対して華中連携を唱えて武昌新軍に対する工作を強化し、武昌起義が生じると武昌に入り、各省都督代表連合会には湖南省都督府代表として列した。 革命後は南京臨時政府の法制院総裁として臨時約法の制定に尽力し、袁世凱が大総統となると同盟会を国民党に改組し、事実上の党首として議員内閣制の確立を訴えて12月の選挙で大勝したが、翌年3月に上海で袁世凱の刺客に暗殺された。
 同盟会内部では反孫文の急先鋒でもあり、大総統による行政府独裁を主張する孫文に対して議員内閣制を唱え、袁世凱に対する抑制力も軍事より制度を重視し、孫文を凌ぐ発言力があった事から、同調者かつ理解者の北一輝などは暗殺の主唱者を孫文だとした。 一時は革命右派と批判されたが、近年では現実的な愛国者として再評価されている。

第二革命  1913.07
 1913.03の宋教仁の暗殺を機に行なわれた、国民党系諸省による反袁世凱の武装蜂起。 江西都督李烈鈞・安徽都督柏文蔚・広東都督胡漢民や北京国会の国民党による袁世凱の弾劾と、北京政府による3都督の罷免の後、7月に江西省の李烈鈞、江蘇省の黄興、上海の陳其美、広東省の陳炯明、安徽省の柏文蔚、四川省の熊克武、福建省の許崇智、湖南省の譚延闓らが蜂起し、黄興が独立を宣言して李烈鈞を七省討袁聯軍司令とした。 諸軍は連携を欠き、各地で政府軍に敗れて翌月には李烈鈞の拠る南昌も陥され、黄興らが南京を逐われたのち赤十字会の仲裁で終結した。
 こののち袁世凱は正式に大総統に就き、程なく国民党だけでなく国会を解散させて国民党員を弾圧し、日本に亡命した孫文らは翌年に東京で中華革命党を結成した。

陳其美  1878〜1916
 浙江省呉興(湖州市区)の人。字は英士。商紳の家に生まれ、1906年に日本に留学して蒋介石との交流を通じて中国同盟会に加わり、帰国後は上海で会党や立憲派との連携を進めた。 武昌起義に呼応して上海起義を成功させて滬軍都督とされ、12月には南京を占領し、孫文を南京に迎えて革命政府の樹立に大きく関与し、又た江浙での光復派の削勢を進めた。 北京奠都と伴に唐紹儀内閣の工商総長とされたものの内閣解散に抗議して下野し、第二革命では上海討袁軍総司令とされて上海独立を宣言したが、軍部の掌握に失敗して日本に亡命した。 中華革命党の総務部長に就き、帰国後はしばしば上海で武装蜂起を計画したものの悉く失敗し、北京政府の刺客によって暗殺された。

譚人鳳  1860〜1920
 湖南省新化の人。字は石屏、号は石叟。 天地会を通じて華興会に加わり、1906年に反清蜂起に失敗して日本に亡命したのち中国同盟会に加入したが、孫文の南方偏重に反対して1911年に宋教仁陳其美らと中部同盟会を結成し、総務会議議長となった。 武昌蜂起にも加わって武昌防御使兼北面招討使とされて段祺瑞馮国璋ら北洋軍と対峙し、南京臨時政府の成立後は南北講和や国民党運動を疑問視して北伐を主張し、第二革命に失敗すると日本に亡命した。 孫文と黄興の融和に尽力し、第三革命護法運動に参加したのち上海で歿した。

譚延闓  1879〜1930
 湖南省酃県(荼陵)の人。字は組庵。両広総督譚鍾麟の子。光緒30年(1904)の進士。 郷里で立憲運動を指導して湖南諮議局議長に選出され、武昌起義後に革命派と湖南省の主導権を争って湖南都督に就いたが、以後は革命派とは対立せず、国民党にも加盟して湖南省支部長とされた。 第二革命に与した為に失脚し、袁世凱の死で湖南省長兼督軍に迎えられたものの府院之争で黎元洪を支持した為に逐われ、第三革命以後は広西派と結んで1920.06に復帰したが、程なくに内訌から失脚して護法軍政府に投じた。 1924年には北伐軍総司令とされながらも敗退したが、蒋介石の国民党政権下でも要職を歴任して1928年からの後期北伐では軍事部長と第二軍長を兼ね、北伐完了後は国民政府行政院長とされ、国民党の長老として影響力を有した。

 

第三革命  1915.12〜1916.07
 護国運動・洪憲の役とも。1915.12.12を以て中華帝国皇帝に即位した袁世凱に対する、雲南新軍をはじめとする各省の反対闘争。 南洋華僑からの資金援助や蔡鍔を通じて雲南将軍唐継堯に運動するなど、欧事研究会梁啓超ら立憲派が準備を主導し、1915.12.25に雲南省の独立を宣言して護国軍を組織したことに始まる。
 翌年1月に曹錕を総司令とする政府軍を大破すると貴州省が追随し、3月の広西省の独立宣言で帝政が撤回された後は袁世凱の下野を求め、4月には広東省・浙江省が、5月にも陝西省・四川省・湖南省が呼応し、広州に雲貴両広4省から成る軍務院が組織された。 6月に袁世凱が歿すると孫文・蔡鍔・梁啓超・黄興らの要求で黎元洪が大総統に就任し、中華民国臨時約法と国会の回復が宣言され、7月に軍務院の解消と各省の独立撤回を以て終結した。
 黎元洪は北洋軍閥を統制できずに翌年7月には復辟事件を招いて失脚し、馮国璋段祺瑞政権下で臨時約法が停止されただけでなく北洋軍閥は内戦状態に陥り、孫文に賛同して護法運動を興した南西諸省も団結できず、孫文が中国の武力統一に固執した事もあって中国は南北対立の大勢のなか省単位の軍閥化が進行した。

護法運動  ▲
 第三革命の後、臨時約法の護持を訴える孫文による、新政権樹立闘争。 第三革命後の北京政府は張勲による復辟事件とこれに続く北洋閥政権によって臨時約法が反故とされ、孫文が臨時約法を遵守する新政権の樹立を唱えたところ約100人の元国会議員や第一艦隊のほか桂軍滇軍などが応じ、09.01に孫文を大元帥とする中華民国軍政府(護法軍政府)が組織された。 この時、桂軍の陸栄廷と滇軍の唐継堯は孫文主導を嫌って元帥就任に応じず、孫文が両派の武力排除を試みた事で反撥派による連合会が結成され、北京政府との和議と軍政府の改組が求められた。 翌年に海軍も連合会を支持した事で直属兵力を殆ど持たない孫文の劣勢が決定的となり、5月に7総裁による合議制に改組され、孫文は上海に退去して護法運動は頓挫した。
 孫文は1920.11に広東を回復した粤軍に迎えられて再び軍政府を組織し、翌年4月には民国政府へ移行して大総統に就いたが、軍の実権を掌握する陳炯明と衝突して06.16に武力排除され、第二次護法運動も頓挫した。
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 以後の孫文は粤軍第一師を中心に独自の軍の創設を進め、翌年には連ソ容共を宣言(孫文・ヨッフェ宣言)してソ連邦の支援下に滇軍新桂軍とも結んで民国政府を再興し、孫文の死後、北伐思想は蒋介石に継承された。

程璧光  1861〜1918
 広東省香山(中山市)の人。字は恒啓。 在米華僑の子で、父の死で帰国して水師学堂で学んだのち軍務に就き、日清戦争で解職されて郷里で興中会に加入し、翌年の起義が失敗してペナンに逃れたが、1896年に訪欧途上の李鴻章の勧めで出仕して海軍部第二司司長まで進んだ。 袁世凱死後の段祺瑞内閣で海軍総長とされたが、府院之争で黎元洪を支持した事から北洋閥と対立し、南渡を拒む黎元洪と別れて第一艦隊を率いて孫文に合流し、護法軍政府が成立すると海軍総長とされた。 孫文直属の貴重な戦力だったが、連合会と孫文の対立が表面化した後は護法軍政府の存続を優先させて連合会との妥協を孫文に求め、そのため改組が承諾されて程なくに親孫文派に暗殺された。

 

広東派
 粤軍とも。第一次護法軍政府で陳炯明が組織した。 広東省は辛亥革命で胡漢民・陳炯明ら革命派が掌握したが、第二革命で袁世凱派の龍済光が広東都督・省民政長とされ、第三革命で護国派の圧力に屈して独立を宣言したのち桂軍に支配されていた。 粤軍は第一次粤桂戦争で桂軍を駆逐して孫文の第二次護法政府を成立させたが、孫文と陳炯明の対立により分裂し、孫文に従った粤軍第一師は革命軍の有力な主柱となり、後に国民革命軍第四軍に改編されて“鉄軍”とも呼ばれた。

陳炯明  1875〜1933 ▲
 広東省海豊の人。字は競存。広東法政学堂を卒業後、広東省政に携わりつつ革命同盟会に加わって黄花崗起義や辛亥革命に参加し、広東都督に進んだのち第二革命に失敗して香港に逃れた。 1917年に孫文と与に広州に戻って護法運動を輔け、次いで閩南より安徽派を駆逐して教育改革を進め、孫文が失脚した後、「粤人治粤」を唱えて1920年に広州より桂軍を駆逐(第一次粤桂戦争)して孫文の復権を実現した。
 翌年に軍政府が中華民国政府に改組されると陸軍総長・内政総長に粤軍総司令・広東省長を兼ねて聯省自治・民力涵養を唱え、北伐を推進する孫文と対立し、黎元洪政権が国会を召集した事を以て護法の達成として孫文に下野を求めた為に離叛と断じられ、1922.06.16に広州の総督府を砲撃して孫文を退去させた(六.一六事変)。 翌年には滇軍新桂軍を糾合した孫文に敗れ、1925年の広州攻撃が失敗した後は香港に逃亡して中国致公党を結成し、福建革命に参加する直前に病死した。
   
福建革命 (1933.11): 福建事変・閩変とも。粤軍第一師団の後身の革命軍第十九路軍が中心となり、蒋介石の政権復帰に抵抗して1933.11.22に福州に中華共和国の樹立を宣言したもの。国民党内に賛同者を得られず、共産党との提携にも失敗し、翌年01.13に中央軍に制圧された。

 

雲南派
 滇軍とも。第十九軍を掌握して辛亥革命に呼応した蔡鍔唐継堯らにはじまる雲南軍閥。 蔡鍔を雲南都督として第二革命では袁世凱を支持し、蔡鍔が北京に迎えられた後は唐継堯が雲南都督を継いだが、袁世凱の帝政復活に反対して1915.12には雲南省の独立を宣言し、護国戦争(第三革命)を展開した。
 護国戦争後期には四川省にも進出し、1918.02の成都占領後は陝西・湖南・福建省とも連和して西南地方に絶大な影響力を有し、桂軍と結んで護法軍政府での孫文一極体制に抗った。 桂軍閥が優勢となった後は孫文の復権を支持したが、以後も雲南省の自主路線を堅持し、孫文の死後は国民革命軍の北伐の成功に触発された龍雲らの政変で親国民党的となったものの、日中戦争後に雲南モンロー主義に回帰して蒋介石と対立し、1949.12に共産党に帰属した。

蔡鍔  1882〜1916 ▲
 湖南省邵陽の人。字は松坡。長沙の時務学堂梁啓超唐才常に認められて日本に留学し、陸軍仕官学校を卒業して帰国すると広西新軍の要官を歴任しつつ黄興とも交流したが、革命派からは保皇派と目されて1910.10に雲南に異動された。 武昌起義に呼応して昆明で挙兵して雲南省を掌握し、初代雲南都督として省政の刷新を進め、第二革命では梁啓超の影響もあって袁世凱を支持し、地方軍閥の拡大を嫌う袁に召還されると唐継堯を後任として上京した。 袁世凱によって帝政が再興されると梁啓超の援助で雲南に逃れ、12.25に唐継堯・梁啓超らと討袁・雲南独立を宣言して護国運動を開始し、護国軍第一軍総司令となった。 1916年に討伐軍を大破して桂軍らの呼応を招導し、袁世凱に帝政を撤回させて四川督軍兼省長に就いたが、結核治療の為に渡日して福岡で病死した。

唐継堯  1882〜1927 ▲
 雲南省会沢の人。雲南高等学堂から日本陸軍仕官学校に留学して革命同盟会に参加し、帰国後は雲南新軍に属した。 辛亥革命で雲南都督蔡鍔の参謀長とされ、次いで貴州省を制圧して初代貴州都督となり、蔡鍔の上京により後任の雲南都督とされた。 袁世凱の帝政再開に反対して蔡鍔と共に護国戦争を展開し、省長を兼ねて孫文の護法運動にも参加したが、桂軍の陸栄廷と同様に孫文の一極主権には賛同せず、桂軍とも決裂した後は靖国軍を組織して四川省・貴州省・湖北省・湖南省・陝西省・福建省・河南省と通じて靖国軍八省聯軍総司令を自称した。 第一次粤桂戦争で粤軍を支援した後、聯省自治に賛同する一方で呉佩孚に通じて四川省・貴州省に侵攻したが、四川軍に敗れた駐川軍の離叛によって香港に逃亡した。 翌年に将校の龍雲らの支援で復権したものの、雲南モンロー主義を標榜して1927.02には龍雲らの政変で軟禁され、5月に昆明で病死した。

 

広西派
 清末の広西提督陸栄廷が築いた軍閥。桂軍とも。辛亥革命後に袁世凱に通じて勢力を確立したが、第三革命では滇軍に呼応して袁世凱に帝政を撤回させる決定打となり、次いで李烈鈞と連携して湖南省・広東省をも支配し、北京政府からも両広支配を追認された。 護法運動で孫文を支持したものの大元帥孫文を頂点とする政体には賛同せず、湖南省で北京政府軍を撃退した後は北京政府との連立を主張し、1918.05に護法軍政府が7総裁による集団指導体制に移行すると主導権を掌握したが、粤軍の反攻=第一次粤桂戦争と沈鴻英の離叛で1921年に崩壊した。
 以後の広西省には呉佩孚の支援で省東北部を支配した沈鴻英と、孫文に与した李宗仁(定桂軍)、北京政府の支援で1923.11に省督弁として南寧に入った陸栄廷が鼎立し、1924年に陸栄廷が敗れ、翌年に沈鴻英も排除された。

 

新広西派
 新桂軍とも。1921年の桂軍の壊散後、将校の李宗仁・白崇禧・黄紹р轤ェ広州軍政府の孫文に与して興した国民党広西定桂軍を核とし、旧桂派の排除と滇軍の撃退によって広西全省を支配したもの。 1927年には革命軍第七軍として国民政府の北伐に加わり、呉佩孚孫伝芳らを大破して江西を制圧し、江南経略の成果から“鋼の七軍”と呼ばれた。 四.一二事件でも蒋介石に与して後期北伐を援け、この間に湖南省や広東省をも勢力下に収め、新桂軍と両湖軍を以て第四集団軍が組織された。
 軍閥解体を決定した三全大会以降は護党救国軍を組織して蒋桂戦争・第二次粤桂戦争(1929)や中原戦争(1930)で蒋介石に抵抗したものの敗れ、汪兆銘らの広州国民政府に加わると粤軍と与に西南派を結成した。 満州事変で南京政府と合流した後は却って発言力を強めて広西省の独立状態を維持し、皆兵と教育による軍事力強化を柱とした自衛・自治・自給の“三自三寓”を推進した。日中戦争・国共内戦でも善戦して国民党軍の主力となり、新桂軍の壊滅を以て総統代理李宗仁はアメリカに亡命、国民党政府は台湾に退去した。

 

五.四運動  1919.05.04〜
 第一次大戦後のパリ講和会議に反対する北京の天安門広場での学生運動が、反日・反帝国主義運動と化して全国に拡大したもの。 二十一箇条要求の承認を伴うヴェルサイユ条約の拒否、民族独立、親日要人の罷免などを求める帰国留日学生のデモが暴徒化して二十一箇条条約調印の責任者の曹汝霖邸を襲撃し、曹と会談中の駐日公使章宗祥を負傷させたうえ曹邸を全焼させた。 北京の学生は逮捕された学生32人の釈放を求めて05.19より授業を放棄し、これに主要都市の学生や商人・労働者などが同調して罷市・罷工を伴う全国的な運動に発展し、北京政府は06.10に学生の釈放、親日要人の罷免とヴェルサイユ条約の調印拒否を決定し、以後の中国では反帝国主義運動が昂揚した。
   
二十一箇条要求 (1915.01.18):第一次大戦に乗じて日本が中華民国政府(袁世凱)に要求した条項。 山東省のドイツ権益の日本への譲渡、南満・東蒙の日本人への開放、政府・軍・警察への日本人顧問の派遣などが求められ、一部修正のうえ05.09に受諾された。 交渉経過の暴露などにより反日運動が昂揚し、大戦後に復帰した列強諸国の圧力もあって山東租借などの日本のみに有利な条項は大幅に修正・破棄された。

五.三〇運動  1925.05.30〜
 上海でのデモに対する弾圧を発端とした反帝国主義運動。 1925.02に上海の日本資本の紡績工場で発生した女工虐待に対する労働条件改善・賃上げ要求ストライキを発端とし、05.15に工部局巡査の発砲によって死傷者が発生した事で滬江大学・文治大学の学生がストに参加し、街頭デモによって6人が逮捕された。 05.30の裁判で5人の投獄が決定されると数千人規模のデモ隊が組織されて反帝国主義が呼号され、そのため共同租界警察が実力行使に出、イギリス人警部エヴァーソンの発砲命令によって死傷者25名、拘引者53名を出した(五.三〇事件/五卅慘案)。 これよりゼネストが全国的に拡大して広州・香港では翌年10月まで続けられ(省港大罷工)、民衆運動が学生運動から大衆運動に転化した象徴的な運動として、又た広州国民政府成立の要因として評価されている。

 
 

国民政府

 孫文の死後、国民党によって組織された政府。 汪兆銘を首班として1925年に広州に成立し、北伐の進展によって翌年12月に武漢に奠都したが、1927.04に反共を唱える革命軍総司令官の蒋介石が南京に右派政権を樹立して二府が並立し、武漢政権も程なくに反共化して9月に南京政府に統合された。 1928.06に北伐を完了させて政府機関を行政・立法・司法・考試・監察の五院十部制とし、蒋介石を主席として国民党大会を事実上の最高決定機関とする一党独裁が行なわれた。
 孫文の建国方略に従って軍政からの脱却を標榜したが、成立直後から浙江財閥や地主の利権を擁護して欧米列強・財閥と妥協し、軍閥整理の過程で生じた中原戦争(1930)を頂点とする一連の内戦もブルジョアジーの支持によって勝利し、蒋介石の独裁体制が強化された。 以後は反共を最優先として対外譲歩と政治・経済の停滞をもたらし、汪兆銘ら反蒋派による政権分離や西安事件があったが、日中戦争が始まると1937.09.22に第二次国共合作が成立して抗日が最優先とされた。 同年末に南京が陥落して党政府は重慶に移転し、1945年の日本の敗戦直後から国共内戦を再開したものの、ソ連邦政府に支援された共産党に敗れて1949.10.01に台湾に退き、アメリカの保護支援を受けながらも1971年には国連の議席を喪失した。
   
武漢国民政府 :第三次北伐中の1926.12に、広州の国民政府が武漢に奠都したもの。右派首脳の多くが北伐軍に帯同していた事に乗じた左派と共産党員が主導したもので、南昌に進駐していた蒋介石の革命軍司令部と対立し、汪兆銘を主席に迎える事で正統性の確保を図った。 汪兆銘は中山艦事件で失脚していたものの療病を理由に渡仏した為に政府主席を失っておらず(蒋介石は軍事委員会主席・常務委員会主席として実権を掌握)、帰国後に蒋介石とも和解して党の分裂を回避した。 蒋介石が右派主体の南京政府を樹立した後、国民党の分裂に乗じた共産党員による奪権計画が露見して7月には武漢政府も反共に転じ、9月に南京政府に合流した。

国民党
 第一次護法軍政府の崩壊後、五四運動などの大衆の政治意識の高揚を背景に1919年に孫文汪兆銘らが中華革命党を改組したもの。 第二次護法軍政府が失敗した後はソ連邦からコミンテルン代表のボロディンを最高顧問に迎えるなどソヴィエト共産党を範とし、当初は民族主義を標榜して中国共産党と敵対したが、1923.01の孫文・ヨッフェ共同宣言で容共に転じ、コミンテルンの指導で1924.01には第一次国共合作が成立した。 孫文の死後は左派の汪兆銘を首班とする広東国民政府を樹立したが、首脳の廖仲トが暗殺されるなど内部分裂が深刻で、北伐中に左派と右派に分裂してともに反共路線に回帰した。

胡漢民  1879〜1936
 広東省番禺(広州市区)の人。原諱は衍鴻、字は展堂。光緒25年(1899)の挙人。 日本留学中に中国同盟会に参加し、機関紙『民報』の論客として知られ、辛亥革命では広東省の独立を指導して都督と孫文の大総統秘書長を兼ね、宋教仁の国民党では広東支部長とされた。 第二革命で失脚した後は孫文に随って中華革命党政治部長、護法軍政府交通部長、第二次護法軍政府総参議などに就き、北伐では大元帥代理・広東省長として広州で執務した。
 孫文の死後は西山会議にこそ加わらなかったものの反共右派に傾斜し、そのため廖仲ト暗殺を疑われて失脚したが、南京政府を樹立した蒋介石に迎えられ、翌年(1928)には立法院長とされた。 蒋介石の専制化に反対して1931.02に解任・幽閉され、これより反蒋運動が再燃して5月には汪兆銘らによって広州国民政府が樹立され、満州事変もあって10.14に釈放された。以後も西南派の中心人物として隠然たる勢力を保ち、1936.01に香港で急死した。

廖仲ト  1876〜1925 ▲
 広東省帰善(恵州市区)を本貫とするサンフランシスコ華僑の子。帰国後に渡日して1909年に早稲田大学を卒業し、その間に孫文と交流して革命同盟会に参加した。 武昌起義に応じて帰国して広東省の運動に加わり、都督府総参謀・理財政とされ、第二革命の失敗で日本に亡命して中華革命党に加わった。 以後は孫文に随って第二次護法軍政府では財政部次長兼広東省財政庁長とされ、孫文の失脚後はソ連邦との交渉を担当して連ソ容共路線の規定などに尽力し、1923年に孫文が復権すると大元帥大本営財政部長兼広東省長とされ、党中央執行委員・軍需総監・大元帥府秘書長などを兼務して孫文を輔佐した。 孫文の死後も容共左派路線を保ち、そのため反共右派との対立が熾烈となり、1925.08.20に党本部正門前で暗殺された。

汪兆銘  1883〜1944
 浙江省紹興の人。字は季新、号は精衛。汪精衛として知られる。 広東省三水(仏山市区)で生まれ、官費留学生として日本の法政大学に学んで同盟会に加入し、卒業後は孫文と行動を倶にした。 1910年に摂政王載澧の暗殺に失敗したものの翌年末の大赦で釈放され、中華民国成立の際には宣言文書を起草し、第二革命の失敗でフランスに亡命して帰国後は第一次護法軍政府最高顧問、国民党中央執行委員などに就いた。
 孫文の後継者として蒋介石と輿望を二分し、広州国民政府武漢政府の主席として左派政策を推進したもののいずれも失敗して右派に合流し、中原戦争で反蒋派に与したのち広州非常会議を招集して反蒋派の広州国民政府主席に就いたが、満州事変を受けて翌年1月には蒋介石の下野を条件に南京政府と合流し、行政院長に鉄道部長を兼ねた。 以後は対日和協を唱えて活動し、1935.11.01に抗日派に狙撃されたものの日中戦争でも主張を変えず、そのため国民政府が抗日に転じた後は連日政権の樹立を模索して1938.12に重慶を脱出し、1940.03に日本の支援下に南京政府を樹立した。 1943.01に英米に宣戦布告した後、嘗ての銃弾が悪化して療病先の名古屋で病死し、南京郊外の梅花山に埋葬された。 南京政府はポツダム宣言の受諾が公表された翌日(08.16)に解散され、翌年1月にコンクリートで保護された汪兆銘の柩は暴かれ、焚却された遺灰は撒棄された。

陳済棠  1890〜1954
 広東省防城(広西自治区防城港市区)の人。字は伯南。 清末に中国同盟会に加入し、広東陸軍速成学校を卒業して国民党軍に加わり、孫文の死後は反共思想を以て蒋介石に共鳴した。 北伐後の1929年には討逆軍第八路軍総司令とされて広東の軍権を掌握したが、中原戦争後の削兵を不服とし、1931年の胡漢民の軟禁を機に反蒋の改組派に与して広州非常会議を開催し、汪兆銘を首班とする広州国民政府に参加した。 翌年に南京政府と合流した後も半独立を維持し、1936.05に蒋介石に抗日優先を求める軍事蜂起に失敗して亡命したが、国民政府の抗日転向で帰国し、国共内戦で人民解放軍に敗れて1950年に台湾に退いた。

蒋中正  1887〜1975
 浙江省奉化の人。字は介石。蒋介石として知られる。1906年に保定軍官学校に、翌年に日本の東京振武学校に入学して孫文の革命運動に共鳴し、武昌起義で帰国して陳其美の活動を輔佐した。 第二革命の失敗で渡日して中華革命党に参加し、護法運動で参謀・実動指揮の両面で認められ、1923年の第一次国共合作に際しては軍事視察としてソ連に派遣され、帰国後は黄埔軍官学校校長とされた。
 孫文の死後、中山艦事件で実質的な党首となって北伐を興し、四.一二事件で国共合作を放棄して南京に右派主体の国民政府を樹立した。 北伐の完了後は専制強化と軍閥縮小を進めて中原戦争を頂点とする反蒋戦争を惹起したが、いずれにも勝利して独裁権を強化し、汪兆銘を首班とする広州政府と合流するに際して政府主席兼行政院長を辞したものの参謀総長兼軍事委員長として実権を保ち、日本軍の進出に直面した後も共産党弾圧を優先し、1930〜34年に共産党の農村革命根拠地に対して5次に及ぶ掃討戦を行なって長征を余儀なくさせた。 西安事件の翌年に日中戦争が始まると国共合作を再開して抗日戦に臨み、1943年には政府主席に復帰したが、戦後はアメリカの調停を排して内戦を再開して民衆の支持を失い、人民解放軍に敗れて1950年に台湾に退去した。

宋子文  1894〜1971 ▲
 広東省文昌(海南省)の人。長姉の宋靄齢は孔祥煕に、次姉の宋慶齢は孫文に、妹の宋美齢は蒋介石に嫁した。 実業家の子として上海に生まれてハーバード大学・コロンビア大学に学び、帰国後は広東国民政府で財務に携わり、汪兆銘政権で財政部長兼広東省財政庁長に進んだ。 南京政府でも財政部長や上海中央銀行総裁などに就き、日中戦争ではアメリカとの支援交渉を担って1941年に外交部長に就き、終戦期には行政院長とされたが、経済政策の失敗を指弾されて失脚し、中国代表団長としてサンフランシスコ会議から帰国したのち広東省主席とされた。 人民解放軍に敗れて1949年にアメリカに亡命し、台湾政府の参政要請に応じずサンフランシスコで歿した。 蒋介石・孔祥煕・陳兄弟(陳果夫・陳立夫)と共に中華民国後期の経済界を支配する四大家族に数えられ、物心両面から蒋介石を支えた。

李烈鈞  1882〜1946
 江西省武寧の人。字は協和。江西武備学堂から日本の東京振武学校・陸軍士官学校に留学して中国同盟会に参加し、江西陸軍で革命思想を喧伝して武昌起義では九江軍政分府の総参謀長に就き、武昌の革命軍を救援して江蘇・安徽・広東・湖北・江西の五省聯軍総司令兼中央軍総司令とされた。 民国元年に江西都督とされ、翌年の第二革命では江西・江蘇・広東・安徽・四川・福建・湖南の七省討袁聯軍司令に就き、第三革命で護国軍第二軍総司令とされて桂軍と与に広東省を制圧し、孫文の護法軍政府では大元帥府総参謀長とされた。
 国民党が結成されると代理大元帥として広州の事務を管掌し、北伐に際しては大本営総参謀長とされ、孫文の死後は西山派の反共路線を支持し、蒋介石が南京に国民政府を樹てると常務委員兼軍事委員会常務委員とされた。西安事件の後は宋慶齢・馮玉祥らとともに蒋介石に連共抗日を要請した。

西山会議  1925.11.23
 孫文の死後、国共合作の継続に反対する国民党右派が、孫文の霊柩が安置されている北京の西山碧雲寺で開いた反共会議。 国民党内での共産党員の勢力拡大に対し、党からの共産党員の追放、政治顧問ボロディンやロシア人軍事顧問の罷免、汪兆銘の6ヶ月間の党籍削除、国民党中央執行委員会の上海移転、政治委員会の廃止などを決議した。 載季陶を理論的指導者とする同派は西山会議派、或いは極右派に対して新右派と呼ばれ、翌年1月の国民党二全大会で除名や警告処分とされたが、3月に上海で独自の二全大会を開催して対抗し、国民党の分裂・反共化の起点となって以後も親蒋・反蒋勢力で共に影響力を保った。

中山艦事件  1926.03.20
 軍艦“中山”による蒋介石拉致計画を理由とした反共疑獄。 当時、右派とは別に抑共を唱えていた黄埔軍官学校校長の蒋介石は孫文の遺志として北伐の再開を主張していたが、共産党員李之龍を艦長とする軍艦中山号が広州から黄埔に突如現れた事を以て共産党員による自身の拉致計画と断じ、共産党員とソ連軍事顧問団の関係者を逮捕し、省港罷工委員会の糾察隊の武装を解除して広州を戒厳令下に置いた。 共産党はソ連邦の意向に沿って積極的には反抗せず、蒋介石は軍総監から軍事委員会主席に躍進し、党中央執行委員会主席・政府主席の汪兆銘が失脚して蒋介石の指導力が著しく強化された。

四.一二事件  1927.04.12
 上海クーデターとも。武漢奠都後に北伐軍総司令蒋介石によって行われた共産党弾圧と、それに続く南京政府の樹立。 国共合作は中山艦事件の後も継続されたが、右派と左派の反目は武漢奠都によって拡大し、蒋介石は1927.03に上海・南京を占領すると共産革命を警戒する列強や浙江財閥と提携し、04.12に上海・南京などで共産党の武力弾圧を開始した。 04.18には容共左派が主導する武漢政府に対抗して蒋介石を主席とする南京国民政府を樹立し、武漢政府も7月には反共に転じて第一次国共合作は完全に崩壊した。

北伐
 国民党政府による、中国の武力統一を目標とした軍事行動。 広州に第二次護法軍政府を組織した孫文が呼号し、この時は陳炯明の抵抗で失敗し、第三次広東軍政府を組織した孫文が1924.09に発した北伐宣言は北京政変と孫文の死によって実行されなかったが、孫文の死後に国民革命軍総司令となった蒋介石が1926.07に再開して1928年に達成し、通常はこの蒋介石による北伐を指す。
 1927年中に湖南・江西を征服して翌年3月には南京・上海をも占領したが、政府の移転問題で容共を唱える左派と決裂し、四.一二事件の後は国民党の分裂・再統合などで北伐は停滞した。 1928.04から再開された北伐は権益保持を目的とした日本軍の山東出兵に妨げられたが、馮玉祥閻錫山らと妥協したのち張作霖を逐って06.15に北京を占拠し、北伐の完了が孫文の霊柩に報告された。

西安事件  1936.12.12
 張学良・楊虎城らが、挙国抗日を求めて蒋介石を西安に監禁した事件。 当時の国民党政府は共産党の掃討を優先して日本の侵略に対して妥協後退で応じていたが、西北剿共副総司令の張学良と西安に拠る第十七路軍総指揮の楊虎城は総攻撃命令を無視して掃共作戦を停止し、督戦に訪れた蒋介石を監禁して即時停戦・政治犯の釈放・愛国運動の自由化・救国会議の開催など8項目を要求した。 国民党の暴発による中共の壊滅を危惧するスターリンの意向もあり、周恩来らを交えた協議の結果、蒋介石は要求を原則的に承認して剿共の停止を指令したが、翌年の国民党三中全会では中共の完全掃滅が決議され、偶々日中戦争が勃発した為に抗日のための第二次国共合作が成立した。


 

魯迅  1881〜1936
 浙江省紹興の人。本名は周樹人、字は豫才。 医学に志して清末に日本に留学したが、中国人の精神改造を急務として文学に転じ、東京で文筆活動を行なった。 帰国後に中華民国臨時政府教育部員に就き、北京奠都と伴に北京に移って教職の傍らで文筆活動を続け、処女作『狂人日記』(1918)は文学革命の端緒となった。 中国近代文学の先駆とされるその作品は人民に対する愛情、社会悪・人間悪に対する徹底した糾弾と闘争精神に貫かれ、外国文学の翻訳、中国古典文学の研究、木版画の奨励などでも不朽の業績を遺した。
 代表作『阿Q正伝』は、喧嘩に負けると虚勢・譲勝を誇って精神的勝利感を得るか、強者への阿諛追従や弱者虐待を行なう阿Qを、中国人一般の奴隷根性に擬して鋭く批判したもので、中国文学史上の傑作の1つに数えられ、中国革命では“阿Q的人間”との闘争が強く叫ばれた。

李大サ  1888〜1927
 河北省楽亭の人。字は守常。辛亥革命に参加したのち日本の早稲田大学に入学して反袁を呼号し、袁世凱の死後に帰国して新文化運動に参加し、1917年に蔡元培によって北京大学教授・図書館長とされた。 1918年以降はマルクス主義を強調して五四運動にも指導的役割を果たし、1920年にはコミンテルンと接触して陳独秀らと共産主義グループを組織し、翌年の中国共産党創立にも参画して中央委員として華北での活動を指導した。 国共合作を進めて1924年には国民党第一回中央執行委員に就き、孫文の死後も華北の国民党を指導したが、北伐軍の南京占領の際の各国領事館・居留民に対する襲撃(南京事件)をソ連と共産党との共謀とされ、責任者の1人として張作霖に処刑された。

陳独秀  1879〜1942 ▲
 安徽省懐寧の人。字は仲甫。官費留学生として1901年に渡日し、東京高等師範学校の速成科を卒業したのち辛亥革命に参加して安徽省教育司長に就き、第二革命に応じて棄職して日本に亡命した。 李大サの叱咤で帰国すると上海で雑誌『新青年』を刊行して旧文化・旧道徳を徹底的に批判し、蔡元培に迎えられて1917年より北京大学文学部長とされ、傍らで『新青年』の編修を続けて新文化運動を指導した。
 この頃より李大サらとマルクス主義を奉じて大衆運動を支持し、共産党の創設にも積極的に参与して1921年の中国共産党の成立と伴に党中央委総書記に選任され、コミンテルンの指示で国共合作を推進して四.一二事件後も武漢政府と妥協して農民運動・土地改革・武装暴動を抑えた。 1927.08に右翼日和見主義と批判されて総書記を辞した後はコミンテルンの指導を糾弾し、1929年にはトロツキストとして除名され、以後はトロツキスト政党を組織して国民党・共産党と対立した。1932年に逮捕投獄され、第二次国共合作の実現で釈放されると四川省江津に隠棲した。


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