▽ 補注.1

絹織物
 生糸を原料とした中国発祥の織物で、絹・帛は総称。 古来から中国の特産品として国外で珍重され、ローマでは同重量の金と交易され、中国でも通貨価値を有して唐代までは賦税の一部として徴収された。 古代長江流域が発祥ともされるが、秦漢代には華北平野部を主産地とし、やがて各地に伝わって漢末の蜀地方では蜀錦が生産されるようになり、唐宋代には河北・山東・両浙・四川などが絹の産地として知られ、それぞれ特色ある絹布が生産された。
 織機による絹布の生産は古くから一般農家で行なわれたが、政府や諸侯も奴婢を使役して養蚕・織絹を行ない、南北朝時代には官営私営の工場が各地に建設され、織工の増加とともに織機・技術も飛躍的に発展し、長安には絹行=ギルドも存在した。 シルク=ロード交易が活発だった隋唐でも絹は依然として中国の主要な輸出品目で、この頃にはシリア方面から紋様とともに紋織技術なども伝来した。
 絹織技術が最高水準に達した宋代には、都市部では専業化・分業化が完成して労力・時間を要する花綾・刻糸などの生産も最高潮に達し、江南の農村では家内制工業による下級絹織物の生産が抬頭したが、個人作業用の腰機の形態は漢代のものと大差なかったと伝えられる。 明代には重税に苦しむ両浙の農家の多くが主産業を水稲米から養蚕・製糸に転換し、湖州産の湖糸は全国一の生産量となって全国の高級絹織物の原料とされた。
 日本でも弥生時代には絹の製法が伝わっていたが、江戸中期に漸く中国に比肩する品質に達した。19世紀には中国と前後して洋式設備を導入して海外市場の開拓を進め、20世紀初頭には世界最大の生産国となったが、日中の過剰生産によって絹の国際価格の暴落を招来した。

綿織物業  ▲
 木綿栽培の最古の痕跡はB6000年頃のメキシコで発見されたが、B5000年頃にはインドのインダス文明で栽培・織布が広範に発達し、9世紀頃にエジプトを経由して欧州にも伝播した。 中国で木綿の栽培・紡績が始まったのは唐代の両広地方とされるが、古くから貢納品・交易品として輸入され、漢〜三国時代には白畳と呼ばれた。
 貧農の副業として家内制手工業で生産されていた綿布も宋代には商品生産段階に達し、都市部では専業経営である機戸の出現とともに染色・艶出業も現れた。 綿業は元代には江蘇にも伝播し、一方では中央アジア経由で陝西にも伝わって明代には全国に普及したが、絹織の影響で紡績技術が発達していた江南に綿糸の出荷が集中して武進・嘉家・常熟などの綿布が著名となり、特に江蘇の松江産は「松布、海内に衣被す」と称された。
 清代に入って綿業の江南依存は更に拡大し、南京木綿・広東木綿と呼ばれて東南アジアを一大市場とし、18世紀以降は欧米を主要市場としたが、18世紀末に紡績機械を発明した英国製品が進出し、国内でも19世紀中頃よりは上海・漢口などに紡績工場が建設された。


 古くに原産地のインドから雲南経由で中国に伝えられ、西漢代の諸書で名が確認できる。 喫茶の習慣は漢末頃に蜀から江南に伝わって六朝で好まれ、7〜8世紀頃には華北にも伝播・普及して民間の生活必需品となり、喫茶の普及に伴って徳宗の建中年間に専売化された。 又た唐代には陸羽・常伯熊らによって茶道も勃興し、産茶地の長江流域〜福建・両広地方には銘茶も現れた。
 茶はビタミンの貴重な補給源としてウイグル・吐蕃・契丹・西夏・女真などでも愛飲されて茶馬貿易が振興し、そのため宋でも財源確保を兼ねて茶の専売制が確立し、同時に茶商が勃興して政財界に影響力を及ぼした。 茶馬貿易は明清代でも重要で、明代にはポルトガル・オランダ商人によって欧州にも喫茶の風習が伝わり、特にイギリス・ロシアでは日常の必需品となり、イギリスは輸入した茶を国内消費のみならず欧州諸国・植民地にも輸出したが、アメリカに対する茶の輸出は独立戦争の導火線の1つとなった。
 中国は茶・絹の輸出によって特に万暦〜乾隆年間に多額のが流入して好景気を招来したが、出超貿易に陥った欧米社会が始めた阿片貿易は後に阿片戦争をもたらし、中国の植民地化の第一歩となった。 又たイギリスはインド経営の進捗と野生のアッサム種樹の発見によってインド・セイロンに茶樹園を経営し、清末〜民国では中国茶の輸出は大幅に減少し、世界の茶市場はインド茶・日本茶が主流となった。
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 尚お、中国での喫茶は庶民の間では葉茶が一般的だったが、唐代の茶道では団茶(醗酵が不十分で硬く搗き固めた茶)を用い、茶文化の発達した宋代には研膏茶が珍重され、陶磁器と並行して茶器も発達し、茶を試飲して産地・銘を当てる闘茶も行なわれた。 研膏茶は五代に発展した製墨法の影響で香料を練り込んで金模様を施したもので、高級茶として宮中にも献上されたが、明初に献上が廃止されると衰亡し、葉を揉んだ後に蒸して酸化を防止した散茶(煎茶)が盛んとなった。 半発酵・全発酵の烏龍茶・紅茶の製法が開発されたのは清朝中期になってからで、主産地である福建省から海外に出荷された為に閩南音に由来する「tea」が欧米で定着した。
 日本への伝来は奈良時代、或いは平安初期とされるが、文化の国粋化とともに衰え、12世紀の入宋僧栄西によって禅宗と共に再伝・普及し、江戸時代に煎茶が伝えられるまで抹茶が日本茶の主流だった。

占城米
 ベトナム中部原産の稲・米。中国米に比して早期播種で栽培期間が短く、旱害に抵抗力があり、粒が小さく炊飯時に固めであることが特徴。中国では福建地方で僅かに栽培されていたが、1011年の江浙を中心とした旱魃の翌年、勅命で被災地に導入された。 以来、水稲として華中一帯で広く栽培され、湖広では品種改良による栽培期間の短縮化により増水期前の収穫が可能となって二期作を実現し、江浙が商品作物の栽培に転じたことで明代には湖広が穀倉と称されるようになった。

オオムギ
 中央アジア原産とされるイネ科の穀物。世界で最も古くに栽培された主食作物の1つで、B10000年頃にはメソポタミア・エジプトで栽培が行なわれており、コムギに比して塩害に強く、古代西アジア文明の発展を支えた。 又た中国では脱穀などが容易で粒状のままの調理(炊飯・粥)も可能だった為、上質・真のムギとして“大麦”と表記されたが、製粉技術の発達と普及でコムギが好まれるようになった。 世界的にも製粉技術が発達するとコムギが主流となり、ジャガイモやトウモロコシの普及もあって現在は飼料用・醸造用に多くが用いられ、生産量もコムギの1/4程になっている。

コムギ  ▲
 西アジア北部原産とされるイネ科の穀物。世界最古級の栽培作物で、比較的乾燥に強く亜寒帯での栽培も可能なために世界三大穀物にも数えられる。 製粉後に使用される事が殆どで、パン・麺など欧米〜中国で主食として用いられ、現在は穀類としてトウモロコシに亜いで多く生産されている。
 15千年前には栽培が開始されていたとされ、品種改良や交配などによってB5500年頃にはメソポタミアで普通コムギの栽培が行なわれ、B3000年頃にはヨーロッパ・アフリカにも伝えられた。 中国への伝来はB1世紀頃で、当時は粉食の習慣がなく、先来のムギに比して用途も限定されていたために偽・劣として“小麦”と表記されたが、江南で発達した碾磑が華北に普及したことが大きな要因となって、唐代に一般化した。

 

末塩
 海水・塩井の塩水から煮煎・精製した粉末状の塩。細塩・霜塩とも。 『周礼』中の散塩にあたり、中国製塩の大部分は海水から精製した末塩に占められていた。塩池から生産される塩は大粒なので顆塩と呼ばれた。

解州塩  ▲
 山西省西南の、解州(運城市区)の塩池に産する塩。 その販圏だった陝西省東半〜河北省南部・山東省西部は古代黄河文明圏とも概ね重なり、戦国時代には秦・三晋・魯・宋・斉などが興亡し、解州塩池の確保は中原勢力の消長に影響して殷・周の発展のみならず、始皇帝の覇業も魏から解州塩池を奪ってから本格化した。 塩の専売が制度化された宋以降は塩場が設けられ、清では都転塩運使が置かれた。

青白塩  ▲
 陝西省北部を横断する白于山脈の北麓、塩州(オルドス南西部)の内陸湖に産する塩。 良質低廉で、タングートの極めて重要な交易品として主に陝西・甘粛を販路とし、タングート諸部の交界地に位置していたことから、青白塩の利権問題が種族統合を大きく阻んでいた。 塩を専売化した宋が禁制品とした事がタングートの統合を促して西夏建国の原動力となり、両国が和した後も青白塩の禁輸が続けられた為、解禁を求めて西夏はしばしば宋と交戦した。

塩商
 塩を販売する商人。海岸線の少ない中国の内陸部では塩の入手は困難で、塩商は独占的な地位を占めて政財界にも大きな影響力を有し、殷末の膠鬲、春秋時代の猗頓、漢武帝代の大農丞の東郭咸陽らは古代の代表的な塩商とされる。 塩商による組織的な塩の把握は塩の専売制が整備された宋代に著しく発展したが、統制から疎外された小商が塩徒に転じる問題は歴朝の懸案となった。 明の万暦年間に揚州塩の独占販売を認められた新安商人は清代には山西票商とともに二大財閥を形成し、道光年間の流出による塩政の崩壊と伴に塩商も没落した。

塩の専売
 国家による塩の販売統制。 中国では漢武帝の財政再建策として始められてより廃置が続いたが、唐粛宗の至徳年間(756〜58)に漕運の財源として第五gの建議で行なわれてよりは常態化し、専売収入の塩課は歴朝で最重要財源として諸制度が整備された。 宋代には禁榷法によって晒塩地の規模や鉄鍋の容積・使用時間にも制限が加えられ、又た塩場によって販圏=行塩地と、行塩地への運搬路が指定されるなど厳重な塩法が制定されると共に塩商が抬頭した。 元朝では塩運司が塩務を管掌し、以後は塩運司は各塩場に置かれて塩務を担当し、各塩場の製塩事務は塩課司が担当した。
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 塩は指定の行塩地以外での販売は厳禁され、そのため宋代には青白塩問題を生じ、利権を保護された塩商と官との癒着も生じやすかった。 清朝では長蘆塩は河北省、山東塩は山東省、淮北塩は江蘇・安徽省と河南省の一部、淮南塩は江蘇・安徽・江西・湖北・湖南省と貴州省の一部、浙江塩は浙江省、福建塩は福建省、両広塩は広東・広西省、河東塩は山西省と河南・陝西省の一部、四川塩は四川省と貴州・雲南省の一部、雲南塩は雲南省が行塩地とされた。

竈戸  ▲
 塩戸・亭戸。塩の生産者。製塩は古代には罪人・軍人・良民などを使役して行なわれていたが、次第に専業の戸を生じ、明代には竈籍に編入されて鉄鍋・製塩場・草蕩を支給されて製塩業を世襲した。 製塩は一種のとして生産塩の全納の代償に雑役が免除されたが、製塩は重労働で、後には雑役免除も形骸化して逃亡者が絶えなかった。 弘治年間、開中法の変化によって塩場に移住して製塩に携わる富商が出現し、多数の労働者を雇傭し莫大な財を成して商竈と呼ばれたが、商竈の出現は塩の専売制を崩壊させて闇塩が横行した。清代でも商人の資本による製塩が多く、竈戸は富商に隷属する者が多かった。

 

牙行
 牙は互に通じ、唐代に定着した仲買業者組合の称で、これに属する店舗の牙戸・牙店・牙舗などをも総称した。 晩唐以降の商業の発達に伴ってその業務は外来客商への宿舎提供・取引斡旋、貨物の委託販売・保管・運送、代金取立てや支払い、通関手続き代行などの問屋・運輸業、更に不動産売買にまで拡大し、清代には前貸し制によって生産者を支配する者も現れた。
 富民が納税によって牙行営業の特許を受ける制度は宋代に始まって明代に整備され、官許の際に牙帖を下付されたことから清代には帖舗とも呼ばれた。 政府は牙税収入を財源として重視するとともに、牙行に商人・貨物の往来、納税状況を報告させるなど商税に関わる各種の統制業務をも負わせた。

牙人  ▲
 牙行に属する仲買業者個人。 生産地から消費地に商品を運搬する客商と、消費地の構店販売商人である坐賈の仲介者として商品貨幣経済の発達した8世紀中頃より抬頭した。 貴族の邸店経営の代理人として商品の委託販売も行ない、牙行と共に購入者に対しては商品の品質を、販売者に対しては代金支払いを保証する責任を負った。 取引商品ごとに専門の牙人があり、宋代には家屋の売買にも牙人が現れて荘宅牙人と呼ばれた。

山西商人
 晋商とも。 明代の開中法によって、北防の要衝の大同府や宣府に隣接する地利から大勢力を築いた山西出身の大商人の総称。 経済の発達による開中法の改変と新安商人の勃興で一時没落したが、塩商や辺鎮に対する典当業(高利貸)・票号(為替業)などで再起し、新安の徽商、福建の閩商と共に三大客商と称され、滅明後は清朝と密接な繋がりを保った。 三大客商は地元の低生産力と強い紐帯意識を共通の特徴とし、関帝媽祖などの地方的な共通の信仰対象を標像として全国的ネットワークを形成した。

新安商人  ▲
 徽商とも。新安は安徽省徽州府の古名。 弘治年間の開中法の銀納化へのシフトによって揚州の塩商として急成長し、清代には山西票商とともに二大財閥を形成した。 その活動は乾隆年間に最高潮となって多数の官僚を輩出し、政界と結託して経済界をも左右し、利潤追及に奔走して政事の紊乱を招来する一方で文芸を庇護・支援し、揚州は乾隆年間には学問芸術の中心地とされた。 道光年間以降、紹興商人の抬頭と銀流出による塩業不振から没落し、清朝の衰運にも甚大な影響を与えた。

紹興商人  ▲
 清の乾隆年間頃より上海を中心とする銭荘業によって抬頭し、道光年間には新安商人ら旧勢力を駆逐した。 華中経済界を主導し、後の浙江財閥形成の原動力となった。

公行
 清朝の広州で対外貿易全般を請負った牙行の組合を指し、粤海関が置かれた翌年(康熙25年/1686)に、関税徴収を請負った牙行=広州十三行に対外貿易業務を独占させた事に起源する。 康熙59年(1720)に有力商家16家で組織させ、強い閉鎖性などから多くの牙行の反対で翌年には解散されたが、雍正4年(1726)になると強力な統制権を持つ“保商”を有力牙行6家で組織させ、海禁再開後の乾隆25年(1760)に再編して9行を以てヨーロッパ商船を貿易対象とする外洋行に指定し、関税や貿易のみならず外交折衝すら担当させるようになった。 英国の記録では康熙59年を、中国の記録で乾隆25年を以て公行の成立としている。
 公行は徴税業務の一環として対外貿易の監督にも責任を負った事もあり、多額の供出金を伴う承認制によって統制を図り、清朝の鎖国政策と相俟って中国の対外貿易と貿易業務を独占して大いに繁栄したが、一方では多くの中小海商が正規の対外貿易から排除され、又た各種附加税や胥吏に対する手数料なども没落商を発生させて海賊への転向を助長した。 公行は1838年の阿片貿易の厳禁を機に没落に転じ、阿片戦争後の南京条約で貿易の独占権を失った。
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十三行 :明末清初、珠江沿岸に倉庫・店舗などを展開した牙行の俗称。その殆どが広州でも有力な牙行で、そのため広州の有力海商の総称として用いられた。

互市
 対外貿易の称。宋代では対北方貿易を互市、南海貿易を市舶と呼び、併せて互市舶と称した。 農耕社会との交易を必要不可欠とする北方遊牧民に対し、中国では伝統的に互市を懐柔政策の一環とし、朝貢政策はその変形とも見做す事ができる。 互市は国境地帯に設けられた関市・胡市・榷場など、あるいは朝貢貿易に伴って内地・国都の会同館で行なわれた。 遊牧民からは主に畜類・畜産品が、中国からは食料・日用雑貨・装飾品が輸出され、中国からの武器・原料の輸出は歴朝で厳禁された。 密貿易も頻繁に行なわれ、互市が縮小、もしくは遊牧民が拡大を望む際には、しばしば実力行使として中国侵寇が行なわれた。

馬市  ▲
 馬を主体とした互市の一種で、明代に長城地帯に定期的に開設されたものが代表的。明朝では1405年にウリヤンハイ三衛・海西女真の為に遼東の開原に開設されたものが最初で、後に女真に対して撫順に開設されたものは遼東馬市と呼ばれた。 1438〜48年にはオイラートの為に大同にも開設し、タタールに対しては1551年に宣大地区に開設し、翌年の閉鎖を経て1571年にアルタン汗との和議で再開し、後に山西・寧夏・甘粛にも開設して明末まで続いた。
 馬市は概ね年1回の官民共同の大市と民間による月1回の小市があり、陝西ではチベットの馬と中国の茶を主な交易品とする茶馬市も開かれた。

南海貿易
 東南アジア〜アラビア海方面との海上貿易の総称だが、概ねはインド以東との交易が殆どだった。 起源は有史以前の越族の番禺貿易とされ、始皇帝の嶺南経略も貿易場の番禺を確保することを主な目的とし、漢末に林邑が独立するまでは日南も重視された。
 中唐期にはアラビア人・ペルシア人が進出して活況を呈し、泉州揚州でも交易が行なわれ、広州・揚州には居留地も形成された。 この頃から中国人の南海進出も活発となり、宋代に飛躍的に発展した泉州は元代にかけて最大の貿易地となり、南海貿易は最盛期を迎えて各地に市舶司が設置され、華僑も増加した。 貿易品は、古くは象牙・犀角・玳瑁・真珠・宝石などの装飾材が輸入され、黄金・絹織物が輸出されたが、後世では香料や薬味が輸入品の主力になり、金・絹織物の他に陶磁器・銀・鉄器・銅銭が輸出された。
 明朝になると太祖がムスリムを排斥し、倭寇対策から海禁令を実施した為に沿岸民による密貿易が増加し、これが後期倭寇の背景となり、清朝でも鎖国政策はほぼ踏襲されて南海貿易は広東一港に限定された。

阿片貿易
 阿片は阿芙蓉とも呼ばれ、ケシの実から採取された乳液を乾燥させた麻薬の一種。 シュメール時代には既に薬品として知られ、B2000年頃にはヨーロッパや中央アフリカにも栽培法が伝わり、鎮痛剤や睡眠剤として使用された。 5世紀頃には中国にも伝わっており、陶弘景の著作にもアヘンへの言及があり、3世紀初頭に華佗が用いた麻沸散にも含まれていたとの指摘もあるが、いずれも後世まで薬剤として認識されていた。
 阿片を享楽に用い始めた時期は不明だが、中国にはヨーロッパ人の来航が繁くなった明朝の中期頃に吸引の風習が伝わったらしく、李時珍の『本草綱目』にも言及があり、雍正7年(1729)には福建で煙草に混入させての吸引を禁じる政令が出されている。 中国からのの輸入で深刻な銀流出に陥ったイギリスが、入超対策としてインド産阿片を輸出してより中国の阿片輸入量は増加の一途を辿って入超に転じ、銀の流出と高騰は中小地主や塩商の租税滞納や破産を惹起して政府財政を悪化させた。 加えて阿片の蔓延で民衆の衛生上の問題も深刻となり、しばしば阿片禁止令が出されたものの徹底には程遠く、朝廷では阿片の合法化による課税や統制強化が主流だった。
 道光17年(1838)に至って鴻臚卿黄爵滋や湖広総督林則徐の厳禁論が採用され、欽差大臣(全権大臣)として広州に派遣された林則徐は販売人・吸引者の猶予期限付き死刑や阿片の強制供出と焼却を行ない、同様の措置を欧米商にも適用した。 殊に阿片供出を拒むイギリスに対しては商館を封鎖して2万余箱を没収し、対英貿易を封鎖するなど補償を伴わない強行措置を執り、これが一因となって阿片戦争が勃発した。

 

布銭
 先秦代の晋南・中原を中心に流通した青銅貨幣。鋤型農具を祖型とし、布の称は『詩経』中の農具/鏄の借字とされる。 春秋後期に洛陽一帯で行なわれた空首布を初期型とし、戦国時代には広域で流通して小型化・柄部に穿孔が施されて平首布となり、地域によって平首方足布・平肩撰足布・円型円足布などが派生した。 戦国時代には鋳造した都市名を表面に記したものが多く、平首布は三晋で多く鋳造されたが、趙の安陽布が易県・鄭州・済南で発見されたように他地方でも流通した。
 同時代に沿海諸国では刀子を模した刀銭(刀泉)が、楚では貝貨が発展した蟻鼻銭や方形金貨が、秦では円銭(環銭)が用いられていた。

半両銭
 始皇帝が統一後に、統一政策の一環として鋳造した銅銭で、典型的な円型方孔銭。 方孔の左右に半両の2字を刻し、漢武帝の五銖銭流通まで行なわれた。

五銖銭  ▲
 漢武帝によって始められた銅銭で、中国史上最も長期に亘って流通した通貨。 漢初は秦の半両銭が継続されたが、私鋳の放任から次第に物価が騰貴し、加えて武帝代の外征の連続で財政難となり、B120年に発行した三銖銭が信用度が低く殆ど流通しなかった為、B119年に改めて新貨幣を制定し、五銖の量目と、表面に“五銖”と刻印された事から“五銖銭”と称された。 五銖銭は両面ともに周郭で磨耗を防ぎ、B113年より水衡都尉署での官鋳のみとし、実質を法定重量の2倍としたので非常に信頼された。
 漢末や三国では粗製五銖の発行や兌換性に乏しい高額貨幣が発行されて貨幣経済自体が退潮し、この傾向は銅鉱不足や閉鎖経済的な荘園経営が普及した南朝でも継続したが、流通経済の再建が図られる際には標準貨幣として五銖銭の発行が試行される事が殆どだった。 洛陽遷都後の北魏や北斉でも概ね旧銭や私鋳銭が限定的に流通し、又た北周では銅銭による対外交易を禁じた為に国内経済は比較的安定したとされ、北周を継いだ隋は従来の貨幣を禁じて統一規格の新五銖銭の発行を進めた。

開通元宝  ▲
 唐の武徳4年(621)に初鋳され、約300年間流通した円形方孔銅貨。 秦の半両銭、漢の五銖銭に続く安定通貨で、1/10両の質量を以て1銭(2銖4匁)と定められた。 表面には四字が刻印され、初鋳の文字は欧陽詢の書になるが、廻読で“開通元寳”、対読で“開元通寳”と訓まれ、開元26年(738)の『唐六典』に「鋳開通元寳」とある一方、『旧唐書』中の詔勅に「鋳開元通寳銭」とあり、訓読については古来より論争が続いている。 玄宗の年号として“開元”が人口に膾炙したため、一般には“開通元寶”が通用している。
 この銅銭の重量は日本では1匁として扱われ、円形方孔の形状とともに和同開珎のモデルとなった。

飛銭
 便換・便銭とも。唐宋代の送銭手形制度(為替行)の称。 中唐以降の商品貨幣経済の発達で物量・販路が拡大し、それに伴い一度に扱われる銅銭量が増加した為に軽便・防犯性が求められて発達した。 代金と手数料(刻銭)を納める事で手形(帖・拠)を交付され、この手形と振出人が送付した手形を現地で照合して換金されるもので、初めは民間の富商と地方商人の間で行なわれたが、やがて藩鎮が京師に設置した進奏院や政府の三司のほか、禁軍を掌握する宦官などが模倣し、手数料収入の独占を図る朝廷がしばしば禁じたものの実効性は乏しかった。
 広域の大規模流通が不可能だった唐末五代に廃れたが、宋代になると便銭務が振出事務を管掌して民間での取扱いを厳禁し、手形提示に対しては即時支払いが原則とされた。 他に塩引・茶引など榷貨務取扱いの手形も同様に扱われたが、四川では紙幣として交子が流通し、南宋になると会子が主流となった。

交子
 宋代、主に四川で発行された紙幣。四川では銅銭より不便な鉄銭が強制されていた為、成都の富豪16戸が組合を結成して飛銭に倣って交子を発行し、その店舗は交子舗・交子戸と呼ばれた。 軽量簡便で信用も高かった為に紙幣として流行したが、やがて弊害が生じたので1024年から官営となり、交子務が管理して私造を厳禁し、3年ごとに新券と交換された。 1068年の改革を経て西夏戦役に際しては陝西にも行なわれたが、徽宗代の濫発で兌換が停止された為に信用を失墜して経済界を混乱させ、陝西・河東・河北で発展していた銭引が導入された。銭引も間もなく信用を失い、南宋では会子が行なわれた。

会子  ▲
 宋代の手形。北宋代に飛銭の一種として商人・金融業者が発行し、信用度の高いものは紙幣として扱われた。南宋では1161年より兌換紙幣として政府が発行し、当初は膨張する軍費に応じて兌換準備なしに濫発されたが、孝宗が1168年に銀を放出して回収し、不換紙幣に改めて3年の兌界、1界の発行総額を1000万貫と定めるなどした為に額面1貫が600〜770文と安定し、庶民生活の安定と経済発展をもたらした。 券種は6種あり、官会・東南会子とも呼ばれた。区域限定の会子もあったが、13世紀前後から種々の弊害を誘発して信用を喪失した。

交鈔
 金・元の紙幣の総称。華北を征服した金朝の海陵王が南宋の会子に倣って始めたが、紙幣の通弊に漏れずに主に軍費捻出の目的で濫発され、信用失墜と新交鈔発行の悪循環が続いた。
 モンゴルは1236年より交鈔を発行し、クビライが中央・地方に印造機関として印造庫を、兌換機関として交鈔庫・平準庫を、造幣収蔵関係事務には元宝庫を設置し、中央の交鈔提挙司が統括した。 元朝初期の中統元宝・至元宝鈔などは多額の兌換準備金が用意された為に信用が高かったが、中期以降は濫発と準備金回収で無価値となり、塩の売買には交鈔を用いる事が強制されたものの実効性に乏しかった。明朝では大口取引に限定され、不換紙幣でありながら増刷が続いた為に次第に没落し、弘治年間以降は完全に消滅した。

大明宝鈔  ▲
 明初の交鈔。 明朝は当初、社会の安定による流通の拡大で南宋以来の原銅不足が深刻となると、鋳銭を停止して民間での金銀交易を厳禁するなど徹底した現物経済を推進したが、通商や俸給の利便のために1375年より銅銭と紙幣の併用を認め、額面1貫文の大明宝鈔と銀1両(37g)・米1石(170L)・銅銭1千を同額とした。 官僚の俸給は現物と紙幣の折半だったが、大明宝鈔は増刷一方の不換紙幣だった為に額面価値は下落の一途を辿り、1387年に1/4、1394年に1/6、永楽年間には1/8になっていた。
 宣徳3年(1428)の禁銀令を最後に政府はの黙認に転じ、正統年間(1435〜49)に官僚の要求で俸給・租税の銀併用が行なわれた事で宝鈔は意義を失い、成化(1464〜87)初頭には3/1000の価値となって程なく使用されなくなった。

銀本位経済
 銀を主力通貨とした貨幣経済。 銀は古代から西アジアなど世界各地で信用度の高い安定した高額貨幣として使用され、貨幣を介した流通経済の発達と共に銀を主力貨幣とした銀本位経済に移行し、資本主義の進展と共に銀を標準貨幣とする銀本位制、或いは金銀本位制が成立した。 銀鉱に乏しい中国でも東西交流の活発だった唐代以降は銀の重要性が増し、元朝では正貨として扱われたが、多くは国際交易の対価として多量の銀が国外に流出した。
 自作農の復興を国是とした明朝は国際交易だけでなく貨幣経済すら否定し、現物と宝鈔を流通経済の柱として銀の使用を極度に制限したが、運搬や換金の不便さや宝鈔価値の下落から銀の解禁が求められ、正統年間(1435〜49)には宦官の王振の進言もあって俸給・租税の銀併用が認められ、これより銀経済は急速に拡大した。 この解銀の際に銀1両が米麦4石に換算されたものの、都市部でのみ循環していた銀の賦税化は一次生産物の買取価格の決定権を商人に委ねるに等しく、成化年間(1465〜87)に開中塩の銀納化が認められた事で中国の経済が事実上の銀本位制に移行した後は、農民の商人に対する隷属化と没落が決定的となって「農は豊年にしてなお食なき」事態となり、明朝後期の社会不安を醸成した。

外国銀  ▲
 産銀量が少ない中国では、銀の流通が本格化した15世紀以降は外国銀、特に“洋銭”と呼ばれる欧米の銀貨が大量に使用された。 16世紀後半以降、銀はスペイン人のマニラ貿易を経て、後にはイギリス東インド会社を主体とする広東貿易によって中国に流入したが、流通量の多いスペイン銀貨は本洋、もしくはメキシコ産だった為に墨銀とも呼ばれた。
 17〜18世紀にはオランダ銀貨(馬銭)、ポルトガル銀貨(十字銭)も相当量流通し、19世紀になって本洋の流入が停止するとアメリカ銀貨や新メキシコ銀貨(鷹洋)がこれらに替わり、また日本銀も早くから中国経済界で重用されていた。 中国ではこれら銀貨はすべて秤量貨幣として用いられたが、19世紀に入ると外国銀貨に倣った銀元が鋳造されるようになった。 尚お、明代の経済の活況はメキシコ銀の発見に依るところが大きいとされる。

 

常平倉
 春秋時代に始り、漢で制度化された穀物価格の調整施設。 管仲李克も同様の施設を政策に用い、宣帝の五鳳4年(B54)の創案で常平倉と命名された。 この時は辺郡に設置され、穀価低廉の際に購入し、穀価が高騰すると放出して価格調整を行なった。 以後の歴朝の多くが踏襲して初期には機能を発揮したが、地方財政の多くが常平倉で賄われるなど弊害を露呈して廃止される事が常だった。

社倉  ▲
 義倉の一種。隋の開皇5年(585)に諸州の社に置かれた当初は義倉の別名で、唐にも継承されて地税として正税化し、宋以降は官営を義倉、民営を社倉と呼んだ。 民間の社倉は南宋の朱熹が提唱した社倉法によって清朝に至るまで広く設置され、官営の常平倉と共に救荒施設の一翼を形成した。

悲田坊
 唐代、仏教の福田思想によって設置された、養老育児を行なう貧窮孤独者の収容施設。 武后代から各地の大寺に養病坊と共に設置されて官が監督し、後に国家事業として州ごとの1ヶ寺に設置され、経費は官給として僧尼が事業の一切を担当した。 会昌の廃仏でも存続し、長安・洛陽の養病坊には寺田10頃、地方では規模・収容人員に応じて5〜7頃が給与された。

 

黄河治水
 黄河の氾濫防止と、灌漑・水運などへの対処。 黄土台地を通過する黄河は多量の土砂を含み、特に渭河と合した後はその量が激増して下流域の河床に堆積し、増水期には堤防を破壊して河道を変えて甚大な被害を出すため、有史以前から黄河治水は重視されて「黄河を制する者は天下を制する」との俚諺さえ生じた。
 戦国時代以降に確認できる本格的な治水工事は河床浚渫と堤防改修が主要で、漢武帝代の瓠子堤決壊口の閉塞、漢明帝代の王景による築堤などが特に大規模で、王景の事業では東南地方との水運が重視された。 元朝以降は大運河の保全が第一とされたが、元末の賈魯による黄河治水は韓山童の叛乱を招来し、元朝滅亡の原因ともなった。
 黄河は太古には太行山脈を越えたあたりで急角度に東北に転じていたが、十六国時代には調水弁でもあった済水の河道が本流となり、北宋末の人為的な決壊によって東南流して淮河に合流するようになった。 明朝は潘季馴の建議によって淮河の水流を強化して黄河の土砂を海に排出する方法を根本策とし、清朝もこれを継承したが、清末には通用しなくなって氾濫が頻発し、毛沢東の時代の治水によって現在の河道となった。現在ではダム建設・堤防の徹底的強化による発電・灌漑が重視されている。

漕運
 国家事業として各種租税を水路で国都に輸送することを指すが、広義には辺軍への糧秣輸送や海運なども含む。 秦漢では主に華北から国都への糧秣輸送と北辺への軍糧輸送を行ない、六朝期には概ね低調で、隋が大運河を開鑿すると沿岸の要衝に倉を設けるなど漕運は重要性を増した。
 唐では均田制府兵制が崩壊すると漕運にも改革が逼られ、転運使が新設された翌年(734)には淮南江南転運使裴耀卿によって、大運河の漕運は洛陽まで同一の船舶を用いる直運法から、河陰(孟津)で積替えを行なう転搬法に転じ、各水路の水深と漕船の調節で制限されていた輸送量が緩和された。 次いで742年に水陸運使韋堅が渭河南沿に華陰の永豊倉に達する漕渠を開削した事もあって、年間漕運量は400万石に達した。
 大運河を利用した漕運は安史の乱で崩壊したが、代宗の時に転運使劉晏が各河川に適した漕船を配し、漕夫の官傭化や要所に倉庫を設置するなど転運法を強化して漕運の安定に尽力し、その運用の財源として塩の専売制を整備した。 そのため朝廷は大運河を扼する淮西藩の順地化を重視したが、晩唐には大運河沿いにも藩鎮が割拠して漕運が阻害され、南方の節度使に発運使を兼ねさせもしたが実効は挙がらなかった。
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 元朝は初め京杭大運河を開鑿して漕運の整備を図ったが、大運河の水量不足などから海運に転じ、明朝は北京奠都の後、倭寇の猖獗もあって会通河を改修して漕運を再開し、運糧法は支運から兌運、ついで15世紀後期には改兌運が行なわれた。 支運は水運の要衝に設けられた官庫に民間が納糧した後、運軍が回収して転搬するもので、兌運は民間が耗米を付して運軍衛所に運搬し、運軍が直達する法、改兌運は運軍が地方に出向して漕糧・耗米・運賃=脚価米を回収して直達したが、不透明な加耗率や運兵の低賃金から問題が絶えなかった。
 清朝は淮安府に漕運総督を置いて改兌運を行なったが、1845年の黄河の大氾濫で大運河が機能不全に陥ると海運を併用し、太平天国の乱による大運河の改修の遅れや汽船の導入で海運が本格化した。 更に鉄道の建設もあって内陸河川を利用した漕運は凋落し、北京〜太沽(天津)間に鉄道が敷設された翌年(1901)には官による漕運が全面的に廃止された。

山林藪沢
 古代史において、金石竹木あるいは皮革や羽毛など軍需物資を豊富に産した為、しばしば国富の基とされる地の総称。代表的なものに宋の孟諸、楚の雲夢、越の具区、趙の鉅鹿などが挙げられ、戦国韓の新鄭遷都や魏の大梁遷都もそれぞれ滎沢・濁沢の直轄化を目的の1つとしていた。 著名な山林藪沢は君主権の伸張や下剋上だけでなく、国力の浮沈をも左右し、戦国宋の滅亡や斉の没落を招いた済西の役も、「これに淮北を加えれば万乗の国に匹敵す」と評された孟諸の帰属争いが原因だった。 又た孟諸の帰属で紛糾する諸国の耳目を盗んで楚の雲夢を奪った秦は、全国制覇に向けて大きく優位に立つようになった。

 

塢壁
 塢堡とも。塢の原義は土手。軍事目的の小規模な要塞や、防壁を有する集落を指す。王莽末期の戦乱で民衆が自衛のために築き、漢末の戦乱期に普及して永嘉の乱の前後にも頻出した。 郷里の紐帯を核とし、郷豪の名望者を塢主に擁立して自治法を定めて結束したが、流民を収容して数千戸に拡大した集団もあった。 しばしば移住を目的とした移動も行なわれ、その際に塢主は行主と呼ばれた。
 晋代には“乞活”と呼ばれる武装集団も存在し、名望以外に導率された集団を指していたものとされる。

万里長城
 全国を統一した始皇帝が、戦国諸国が造営した長城のうち、趙・燕の北防長城を修築造営したもの。 臨洮(甘粛岷県)〜山海関(河北秦皇島)に及び、現在の赤峰やオルドスを内包した。 河西を征服した漢武帝によって敦煌の玉門関に延長され、北朝で次第に南下して隋代にほぼ現在の長城線に至り、明代の大規模な修築で現在の概容となった。 嘗ては河北省の山海関が東端とされていたが、1989年の調査で錦州・瀋陽・撫順をへて丹東の虎山城に達する長城が確認され、総延長は2009年に8851.8kmと修正発表された。
尤も、この虎山長城線は従来は長城とは峻別された東北辺牆と重なり、虎山城は辺墩の1つに過ぎません。 もともと山海関を東端第一関と呼んだり関東・関西の境界としたのも、山海関以東の構造物が長城として認識されていなかった、もしくは長城として機能していなかったからだと思われ、始皇帝が真っ先に想起される長城の名を辺牆に与えた事は、“高句麗史=中国辺境史”説を補強する政治目的だとの指摘もあります。

辺牆
 明代の満洲に構築された牆壁。明朝は宣徳年間以降、対外策に消極的となって北防線も縮小し、塞外の遼東では辺牆を以て女真やモンゴルに対する防衛線として開原〜丹東以西の確保を図った。 山岳地帯では天嶮を利用して石・泥煉瓦などで牆壁とし、平地では主に土塁と木柵を用い、要所に設けられた墩台は辺墩と呼ばれて長城とは区別された。 一条は義県・北鎮の北辺を通ったのち遼河を越えて南東の海城に達し、一条は遼東の開原・鉄嶺から撫順・清河を経て丹東の鴨緑江岸に達するもので、遼西では1442年頃より、遼東では1472年頃に着工し、しばしば修築された。

柳条辺牆  ▲
 清朝が故土防衛を兼ねて構築した一種の国境線。土塁の傍らに穿塹し、その土で築いた堤上に柳を植えて柵としたもので、要所に関門を設置して兵を配置した。山海関〜奉天(瀋陽)西北〜吉林に構築され、開原で東に分岐した牆は鴨緑江に達する。 鴨緑江付近は太宗代に、遼西は順治年間に、法庫門付近は康熙初年(1662)頃に、開原・吉林付近は康熙20年(1681)頃に造られた。

藩鎮

九辺鎮
 明代に北防の為に長城地帯に設置された要塞都市とその管区。 遼東(遼陽)・薊州・宣府(宣化)・大同・山西(偏頭)・楡林(綏延)・寧夏・甘粛(甘州)・固原を指し、土木の変後に再建された北防体制の枢軸とされた。各鎮には歩騎数万が常駐し、鎮守総兵官を頂点に協守副総兵・分守参将・遊撃将軍・坐営中軍官・守備・備禦・操守などが配された。

 

京観
 戦死や処刑した敵兵を積み上げて作られた記念碑的な戦勝塚。『春秋左氏伝』宣公十二年に既に京観の存在が明記されている。 後には慰霊碑の側面をも有し、京観を破壊することは一種の宣戦布告と見做された。日本などでは小規模ながら首塚や耳塚として模倣された。

廃仏
 仏教排斥運動。 中国では仏教が民間にも浸透し始めた3世紀頃より、道教を奉じる国粋的な士大夫層が廃仏論を展開したが、王朝主導の廃仏政策は、賦役の免除を目的とした私度僧の増加、賦税回避を目的とした貴顕による田地の寄進や、教団による荘園経営・大量の奴婢の保持などを原因とした。 勅令で廃仏を行なったのは北魏太武帝・北周武帝・唐武宗・後周世宗で、後世で“三武一宗の法難”と称された。
 一連の宗教弾圧は時に君主の道教信仰や、仏教を異教と蔑む中華思想も一因となったが、宗教組織自体を粛正対象として道教も整理に加えられる事もあり、賦役の供給源としての良民を増加させる事を最大の眼目とした。
  
 北魏の太平真君7年(446)に行なわれた太武帝の廃仏は、宰相崔浩・帝師寇謙之の影響で太武帝が道教に帰依した結果とされ、蓋呉の乱が契機となった為に仏教に対する弾圧は徹底的で、寺院や仏像の破壊だけでなく還俗を拒んだ沙門は坑殺に処された。 太子の掣肘で勅令の発布が遅らされ、太武帝の死(452)で再興を許された仏教教団は、曇曜の指導下に廃仏以前を凌ぐ勢力に回復した。
  
 北周の建徳3年(574)に武帝が発した廃仏令は、北斉討伐の兵員と軍費確保を主眼として道教に対しても行なわれ、平斉後は関東にも実施したが、同時に長安には通道観を設置して還俗した僧・道士から通道観学士を選抜し、仏道二教を研修させた。 教団に対する統制は仏教により厳しく、578年に武帝が歿して宰相の楊堅が宗教復興策に転じた後も、仏教界では廃仏の原因を顧慮して三階教浄土教・律・などの実践的な信仰運動が発生し、房山では保存の為の石刻による護法運動も起った。
  
 唐は老子を祖宗として道教を国教とする一方で仏教に対しても保護を加え、太宗の道先仏後や玄宗の庇護で道教が優勢だったものの則天武后の時代より仏教勢力も拡大を続け、中唐には韓愈ら復古派から蛮夷の教えとして激しく排撃された。
 武宗の会昌5年(845)に実施された会昌の廃仏は歴代で最も撤退した廃仏とされ、武宗の死によって1年余で停止されたものの中国仏教界は壊滅に瀕し、根本的な再編を余儀なくされた。
  
 後周の 顕徳2年(955)に行なわれた世宗の廃仏は最も道教色が薄く、国力増強を主眼として宗教組織を整理したもので、仏教教団は勅願寺2694と僧尼6万余人の他は悉く官没・還俗され、後周の経済的増強の一助となった。 宋代にも徽宗が道教に傾倒して仏教の道教的改装が一時行なわれたが、廃仏には至らなかった。
一連の廃仏運動は“法難”とも呼ばれていますが…、宗教側としてはそう表現するするのでしょうが、どうも反省よりも被害者意識が前面に出ているように感じられて、使いたくない表現です。

文字の獄
 著述の表現・解釈や、禁字の使用などで筆禍を招いた事件の総称。 しばしば禁書措置と並行され、明朝の洪武・永楽年間、清朝の康煕・雍正・乾隆年間のものが最も大規模で、明朝、特に洪武年間のものが恣意的・無原則であるのに対し、清朝のものは歴朝で最も整備・徹底されたものとされる。 清朝では華夷の別、女真誹謗に対するものが最多で、時代が下る程に政治的なものが増え、康熙帝は懐柔的、雍正帝は説得的、乾隆帝は強圧的と称される。殊に乾隆年間では明末清初の著書の多くが厳禁され、『四庫全書』の編纂も禁書措置の側面が強く、文字の獄の副産物として考証学が隆盛した。

 

塩徒
 塩の密売人。宋代では塩賊、清代では塩梟とも呼ばれた。 塩の専売化と伴に発生し、政府による塩課の横恣な増徴、混砂などに対し、官塩の半値程で良品を提供して民衆に支持され、禁圧の強化によって却って組織化・武装化・広域化が進んだ。 又た下級官吏・軍人・胥吏・郷豪とも連携したことで、一度蜂起すると大乱に発展しやすく、唐末の王仙芝黄巣徐温、後梁の朱全忠・前蜀王の王建・呉越王の銭鏐、元末の方国珍張士誠はいずれも塩徒出身だった。

倭寇
 元明時代に朝鮮・中国沿海地方を劫掠した日本海賊。貿易の一変態で、明代のものは海禁策に対し互市公許を求める武力闘争でもあり、中国人の偽倭も多く、元末明初の前期倭寇と、嘉靖年間の後期倭寇に大別される。 前期では朝鮮半島〜山東半島を主な対象とし、朝鮮では高麗滅亡の一因となった。
 後期倭寇は華中・華南沿岸を主な対象とし、嘉靖2年(1523)の寧波事件で対日貿易が禁止された事を発端としたが、中国人が主体となって活動も前期より一層激化した。 これは日本がの最大の供給源であった事、嘉靖21年(1542)の海禁令に密貿易商人が武装で対抗した事、倭寇の主力が沿岸部の郷紳・官吏と結託していた為に官軍の対処が不徹底だった事などが原因に挙げられ、明朝の重大な外患としてモンゴル禍とともに“北虜南倭”と併称された。
 海禁令を機に双嶼港を支配した新安商人の許棟と海盗の李光頭とが日本・ポルトガル商人や福建・浙江の郷紳と結んだ事で本格的になり、当時の双嶼は海外の商人からはアラビア以西で最も栄えている港町とも称された。 両者が嘉靖27年(1548)に朱紈に鎮圧された後は日本の五島列島に拠った王直が猛威をふるったが、王直の制圧とマカオ・台湾などの新貿易場の発展、日本の豊臣政権の朱印船による貿易統制や1567年の対日貿易以外の互市の解禁などで稍く終息した。

抗租
 佃租(小作料)をめぐる、佃戸と地主の抗争。 明清代に頻発し、1448年に福建で発生したケ茂七の乱は、佃租に関する明確な要求を掲げた最初の事例とされる。 ケ茂七らの要求のうち、地主に対する労役奉仕の廃止、量租升の統一、租額の減額などは何れも切迫した状況下のものではなかった事から、佃戸の地位が向上していた事が示唆され、佃柤の不払に踏み切る佃戸はしばしば頑佃と呼ばれて各地で一田両主を生じた。

礦税禍
 銀経済が浸透した明朝での、官の横暴な銀鉱経営に対する鉱夫の組織的な抵抗。 明朝では15世紀の銀解禁より銀に対する需要が急速に高まり、既に各地の銀鉱は概ね枯渇していたにも関わらず請負制によって銀鉱が再開され、鉱監が請負額に対する不足分を付近の住民からの徴発や鉱夫への給与削減で賄い、或いは鉱山から私的採掘を排除した為、組織的な抵抗が行なわれるようになって鉱賊と呼ばれた。 最も活発だった浙江・福建では、銀経済の普及で零落した農民を主体とした叛乱としばしば共闘し、葉宗留の乱のように大規模なものに発展することもあった。
 鉱税問題が深刻になったのは万暦24年(1596)の大火で焼失した諸宮殿の再建費用捻出に宦官を鉱監・税監として各地に派遣してからで、監官の苛斂誅求で各地に暴動が頻発し、一部官僚の強い反対もあって33年(1605)に撤回されたが、間もなく再開されて神宗の死まで続けられた。 鉱税問題は社会の混乱を助長し、明朝の衰退を決定的にした一大失策とされる。

艇盗
 乾隆年間末期〜嘉慶15年(1810)に広東〜浙江沿岸に跳梁した海賊の称。清朝との抗争や内乱に苦慮するベトナムの西山朝が、財政補助の一環として華僑に中国商船を襲わせた事に始まり、阮朝の成立で後援を失うと福建の蔡牽・広東の朱濆らを頭領とし、多数の民衆が参加する大動乱に発展した。 浙江提督李長庚の討伐で大打撃を受け、1807年に李長庚を戦死させたものの1810年に鎮圧された。

民変
 都市民による暴動。狭義には、明末清初の江南都市民による反宦官党争を指す。明中期以降、財源調達に各地に監官として派遣された宦官が苛酷な搾取を行なった為、都市民は商品経済の発展で抬頭しつつあった手工業労働者を主力として各地で暴動を起こして抵抗した。 又た一連の増税策に反対する東林党官僚に対する枉陥にも実力で抗議抵抗し、万暦年間の織傭の変、天啓年間の開読の変はその代表とされる。

械闘
 武器を擁して行なわれる集団同士の闘争を指し、特に集落間闘争が多い。中国では閉鎖的・孤立的同族集落が長く残り、農業水利・地境・墳墓をめぐって利害が対立し、あるいは族人の報復などが実力で解決されることが多く、清代では福建・両広にこの傾向が強かった。 福建の漳州・泉州、広東の潮州が特に知られ、械闘前に成員男子は宗祠で宣誓し、又た族産を資金として犠牲者の遺族の生活を保証した。 共産党政府の発足で解消したとされるが、現在も類似の事例は多く報告されている。

弥勒教
 弥勒菩薩信仰に基づく大衆仏教の1つ。 末法思想の敷衍と共に革命的性格を備えるようになり、6世紀初頭の北魏や7世紀の隋代にも弥勒教系の叛乱が発生している。 弥勒信仰は唐の則天武后が政権強化に利用した事もあったが、会昌の廃仏後は二元論を唱える明教(秘密結社化したマニ教)の影響から破壊的革命思想が強まって両者の区別が曖昧になり、士大夫層にも累が及んだ11世紀の王則の乱も弥勒信仰が紐帯となっていた。
 強い民間信仰と革命思想の故に、弾圧を避けて秘密結社化した諸宗派に影響を及ぼし易く、元末には白蓮教と習合して紅巾の大乱に発展し、殊に徐寿輝とともに天完国を興した彭瑩玉は“弥勒教徒”と明記されている。 民間宗教との混交が進展したために教団としての存続は確認できないが、明・清代の叛乱ではしばしば弥勒下生が称された。

白蓮教  ▲
 宋代に興り、清代まで各地で行なわれた、弥勒下生を願う民間信仰。 南宋初期の慈照子元によって始められた当時は阿弥陀浄土信仰の宗教結社で、平易な教説から江南に急速に拡大した為に世俗迎合の邪宗として禁圧され、教勢の維持・拡大の為に秘密結社化したことで弥勒教・明教(中国化したマニ教)などとの混交が次第に進んだ。 1281年に杜万一が白蓮会を称して蜂起した後、廬山東林寺の普度は“白蓮宗”を称して正教化運動を行ない、1311年には復教が公許されたが、この頃には正宗と民会とは完全に隔絶し、1351年に著しく弥勒信仰に傾斜した紅巾軍が白蓮教を称して挙兵した際も、普度の正宗は禁じられなかった。
 明初に邪宗として禁絶された後は各地で反政府的秘密結社と化して様々な名称で蜂起し、殊に清朝では民族主義とも融合し、乾隆〜嘉靖年間には湖北を中心とした5省に拡大する大規模な叛乱を惹起した。 明朝天啓年間(1620〜27)に直隷で蜂起した聞香教も白蓮教の一名で、後に天理教や八卦教を称し、義和団の起源になったとする説もある。 華中・華南でも会党として存続し、太平天国辛亥革命に大きく関与した。

羅教
 無為教とも。 山東出身の羅清(1443〜1527)が禅宗を基に浄土教・道教などを加えて成立させ、明清代には江蘇・浙江・福建・広東で行なわれた。森羅万象の理を“虚空”と称し、自己の本性たる心を絶対視するなど同時期の陽明学と通じる教理を唱え、三教一致・禅浄双修・在家得道などを強調した。 禅宗の大衆化の一面があり、戒律・修行・禅定などを不要有害とし、郷紳や士大夫層から弾圧された結果、秘密結社化と弥勒教の混交が急速に進んだ。特に運輸・漕運業者を介して江南各地に拡大し、清代の結社・結会の風潮を促進し、青幇の組織化の核ともなった。

天地会
 三合会・三点会とも。清初に福建で組織された互助団体に発源するらしく、乾隆年間を通じて反政府的となって弾圧され、秘密結社化して反清復明を標榜した。 福建山中の少林寺が清兵に焼かれた後、逃れた寺僧が毅宗の孫を奉じて天地を祀ったとの縁起を有する。 林爽文の乱に参加してよりしばしば反清起義の原動力となり、官憲の追及を避けて多くの異称があり、広東では三合会とも称した。 各地の会党と提携して南中国を覆う情報網を有し、太平天国や捻軍の蜂起・拡大にも深く関与し、同時に排外主義を強めて仇教運動でも指導的役割を担った。 又た19世紀半ばには華僑の拡大と伴に海外にも勢力を伸ばし、後に哥老会と共に興中会中国革命同盟会の基盤ともなり、人民共和国の成立後は香港に拠点を移した。

哥老会  ▲
 天地会との交流によって滅満興漢を標榜した華中の秘密結社。 兄弟義結による伝統的な擬制家族的結合を紐帯として反清運動・反仏暴動を展開し、天地会との連合で発展して興中会・中国革命同盟会の民衆組織の基盤となった。 辛亥革命に多大に貢献したが、革命後は幹部と会員の遊離によって遊侠的集団に戻った。

仇教運動
 清末のキリスト教排撃運動。 1860年の北京条約での布教公認後、列強の尖兵として強引に教勢拡大を進める宣教師に対し、官吏・郷紳が中国人本来の排外感情を煽動した結果でもあり、各地で紛争を生じて宣教師への暴行・殺害、信徒迫害などの教案が続発した。 更に、教案の都度に列強が一方的に清朝の責任を追及して法外な要求を受諾させたことで仇教運動は激化の一途を辿り、1900年には義和団事件に発展した。 反侵略闘争としての仇教運動は五四運動以降の反キリスト教運動にも継承され、キリスト教徒内部にも反省から三自運動(自養・自治・自伝)が行なわれた。

△ 補注

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