清朝.3

同治帝  光緒帝  宣統帝

 

穆宗 / 同治帝  1856〜1861〜1875
 清朝の第十代天子。諱は載淳。文宗咸豊帝の長子。 当初は東太后と実母の西太后が共同して垂簾し、叔父の恭親王が議政王として政務を司った。 太平天国が平定された一方で捻軍回民起義が拡大し、ヤクブ=ベクの乱やイリ事件(ロシアによるイリ占領)・台湾事件(日本による台湾占領)などもあったが、諸外国との和親や恭親王の執政による一時的な安定、洋務運動などによって同治中興と美称された。 朝廷の実権は概ね西太后にあり、又た曾国藩に象徴される郷勇系官僚の発言権が増し、相対的に軍機処の影響力が低下した。一説では、病臥の際に西太后によって充分な治療が許されず、そのため歿したという。
   
洋務運動 :咸豊末〜光緒年間に、恭親王の支持下に曾国藩李鴻章らが中心となって推進した、西洋の科学技術の採用によって中国の自強を図った政策。 西洋技術の優位は阿片戦争以降の諸外国の侵略戦争でようやく認識され、曾国藩らの要請を受けた恭親王・桂良・文祥らの上奏で咸豊10年末(1861)に“中体西用”を標榜して開始され、外務官署として北京に総理各国事務衙門が新設された。
 地方では同年に曾国藩が設けた安慶内軍械所を嚆矢として、太平天国の平定後に金陵機器製造局(安慶内軍械所を移設)、上海の江南製造局、福州船政局、天津機器製造局、西安機器局などの造船廠・武器製造廠が建設された。 これら官営工場は旧来の体制で管理され、製品の品質は低く採算性は度外視され、施設の維持・拡充のための資本の蓄積もしなかった。 そのため曾国藩の死後は李鴻章・張之洞らが中心となって工業資本を支える為の輪船招商局・礦務局・製鉄廠・織絨廠・製紙廠などが設置され、1879年には電報局も設けられた。
 一連の洋務運動は内乱鎮圧では効力を発揮したが、欧米技術の表面的模倣に終始し、後期には陸海軍学校・西洋書籍翻訳局・外語学校なども建設されて政府主導で少年のアメリカ留学も行なわれたものの、これは光緒元年(1875)に4年間で中止されて7年には全員の帰国が命じられた。 又た極東最大と謳われた海軍力も清仏戦争では有用性を示せず、日清戦争での敗北で洋務運動の限界が明示された。

奕訢  1831〜1898
 恭親王。宣宗道光帝の第6子。 皇太子に擬せられたこともあって兄の文宗に厭われ、そのためアロー号戦争では北京に残って軍機大臣として北京条約を成立させたにもかかわらず、顧命大臣から除外された。 文宗が歿した直後に西太后らと辛酉政変を起して議政王として執政し、曾国藩らを挙任して洋務運動を推進させるとともに総理衙門を創設して外交にも配慮し、同治中興と呼ばれる小康状態を現出したが、洋務を中華主義の放棄とする国粋派からは“鬼子六(洋子鬼たる六男坊)”と蔑称された。 次第に西太后に政敵と見做され、光緒10年(1884)に清仏戦争の敗戦に引責して致仕したが、日清戦争中に軍機大臣とされて戦中・戦後の処理にあたり、戊戌変法の直前に歿した。武術を好み、槍法や刀法に一派を立てたという。
   
辛酉政変 (1861):文宗の死亡直後の、西太后恭親王らによる政変。 文宗は夙に西太后の貪権を忌み、アロー号戦争で熱河退避に随行させた怡親王載垣、鄭親王端華・協弁大学士粛順兄弟、軍機大臣穆蔭らを遺詔によって賛襄政務王大臣として西太后・恭親王らの参政回避を図ったが、西太后らは東太后僧格林沁桂良らの支持を得て文宗の迎柩に乗じて賛襄政務王大臣を粛清し、恭親王が議政王、桂良らが軍機大臣となった後に穆宗の即位式を挙行した。

捻軍
 嘉慶年間頃に豫南地方に興った白蓮教系秘密結社の捻子・捻党が、構成員の増加と伴に武装集団化したもの。 渦陽(安徽省)の張洛行を首領として太平天国の北伐に呼応し、咸豊5年(1855)の黄河の決壊によって勢いを増して黄・白・藍・黒・紅の“五旗軍制”を定め、太平天国の陳玉成と連携して清軍に抵抗した。
 天京陥落の後は太平軍の頼文光らが合流し、同治4年(1865)には曹州荷沢の高楼寨で猛兵として知られた僧格林沁軍を壊滅させた。曾国藩に逐われて湖北に入ったのち西捻と東捻とに分れ、天国軍系の東捻は李鴻章の淮軍によって7年に山東で殲滅され、西捻も陝西から直隷に転戦して程なくに攻滅された。

曾国藩  1811〜1872
 湖南省湘郷の人。字は伯涵、号は滌生。道光18年(1838)の進士。 母の喪中の咸豊2年(1852)に太平天国に対する団練の組織を命じられて湘勇を編成し、江忠源の死後は太平軍攻撃の主力となった。 4年に武昌を回復し、8年に九江を、欽差大臣・両江総督とされた翌年(1861)には安慶を回復し、同治3年(1864)に天京(南京)を陥して太平天国を滅ぼし、漢人として初めて侯爵に封じられた。 朝廷の猜忌に配慮して湘勇を解散した為に捻軍鎮圧には失敗したが、9年には直隷総督とされ、天津教案の処理を指弾されて10年に両江総督に戻された。
 同治中興第一の功臣と称され、洋務運動初期の指導者でもあったが、両江での軍備増強は督撫の軍閥化の端緒となった。 桐城派の学者・文人としても一流で、幕下からは李鴻章左宗棠郭崇Zら多くの人材を輩出した。
   
天津教案 (1870):天津での幼児の連続失踪と、孤児院での児童の疫病死を原因とした暴動。 両者の関係を捏造した郷紳の煽動と、デモの鎮静化に消極的な天津知県劉傑に対してフランスの駐天津領事が発砲した事で暴動に発展し、領事や神父・修道女・中国人信徒らが殺され、フランス領事館や近隣の教会が襲撃された。 7ヶ国艦隊の出動に対して直隷総督曾国藩が折衝し、償金と首謀者の処刑、天津知府・知県の罷免、フランスへの謝罪などで落着したが、著しく強硬に傾いていた朝廷・民衆は曾国藩を指弾し、開戦は回避されたものの仇教運動の激増を結果した。

李鴻章  1823〜1901
 廬州合肥の人。字は少荃。道光27年(1847)の進士。太平天国が興ると帰郷して団練を組織し、廬州の陥落後は曾国藩幕賓として随い、同治元年(1862)にその薦挙で署江蘇巡撫とされると淮勇を組織して江蘇の解放や捻軍の討伐を進めた。 又た南京回復の翌年に上海に江南製造局を設置し、同治9年(1870)に曾国藩の後任として直隷総督に就いた後は北洋大臣を兼ねて西太后に親任され、25年間の在任中に朝鮮関係を含む外務を掌握する一方、洋務運動の総帥として官営工鉱業の育成に努め、光緒14年(1888)には洋務運動の象徴でもある北洋水師を編成した。
 ロシアを外患の尤と見做す左宗棠ら塞防派に対してイギリスを最も危険視し(海防派)、清仏戦争でもイギリスを警戒して水軍を温存し、北洋艦隊が壊滅した日清戦争で下関条約を締結した後に失脚したが、海防派の巨帥としての影響力と西太后の庇護によって間もなく復帰し、日本に備えて露清秘密協定を結んでロシア軍の満洲での行動を大幅に認めた。 光緒26年(1900)に義和団事件が生じると直隷総督・北洋大臣に復し、翌年9月に辛丑条約を締結した。

徳宗 / 光緒帝  1871〜1875〜1908
 清朝の第十一代天子。諱は載湉。宣宗道光帝の第7子/淳親王奕譞の第2子。西太后の甥。 即位時から実権は西太后にあり、元服後の親政も実体は全く伴わなかった。 治世中は琉球の喪失(1876)、イリ問題清仏戦争日清戦争などが続き、光緒24年(1898)に康有為らを起用して戊戌新政を実施したが、西太后らによる戊戌政変で頓挫して幽閉された。 西太后の死の前日に急死し、2008年に砒素による毒殺が確定したが、犯人については西太后説、袁世凱説、宦官の李蓮英説など定まっていない。

西太后  1835〜1908
 慈禧皇太后。満洲鑲藍旗人、イェへ=ナラ(葉赫那拉)氏。 穆宗の実母でありながら貪権の質を以て晩年の文宗に忌避されたが、文宗が歿すると恭親王らと結んで辛酉政変を起し、正太后(東太后)と並んで垂簾して朝廷の実権を掌握した。 穆宗が歿すると同輩不立の通例を破って外甥でもある徳宗を擁立して権勢を維持し、光緒10年(1884)には清仏戦争の敗戦責任を追及して恭親王を失脚させ、13年に徳宗が元服した後も亶権を解かなかった。
 当初は洋務運動にも肯定的だったが、頤和園の造営や大寿祭に国防費を流用した事は日清戦争の敗因にも挙げられ、又た太后排斥に傾いた戊戌新政を挫折させた後は排外的となり、26年(1900)には義和団事変で列国に宣戦し、中国の国際的立場をより悪化させた。 事変後も実権を保って28年より維新を進めたが、支配階級の既得権に配慮した甚だ不徹底なもので、徳宗の死を確認した翌日に徳宗の甥の溥儀を帝嗣に指名して歿した。

丁日昌  1823〜1882
 広東省豊順の人。字は禹生。郷試に及第しなかった秀才で、恵潮嘉道李璋Uの幕僚となって太平天国に抗戦し、咸豊末年(1861)より曾国藩の幕賓に連なって洋務運動を支えた。 同治6年(1867)より江蘇布政使、江蘇巡撫、福建巡撫を歴任して蘇州洋礮局(江南製造局)・輪船招商局を創設し、外国人を招いて技術指導にあたらせ、又た台湾に炭鉱を開き、鉄道敷設や電線架設などを推進し、主権の保持・回収、綱紀粛正と雑税の整理、科挙の改革と海外留学の推奨、華僑の管理などを提言した。光緒4年(1878)より南洋水帥を指揮し、総理衙門大臣を兼務した。

左宗棠  1812〜1885
 湖南省湘陰の人。字は季高・樸存、号は老亮。道光12年(1832)の挙人。 太平天国が蜂起したのち胡林翼の薦挙で湖南巡撫張亮基の幕僚となって団練を組織し、後に曾国藩に従って各地を転戦し、自軍を特に楚勇と号した。 同治2年(1863)に浙江巡撫、次いで閩浙総督に抜擢され、福州に馬尾船政局を設立するなど閩浙の復興と並行して洋務を進め、湘勇出身の督撫として李鴻章と並称されたが、自身を諸葛亮に比す強い矜持から他者との軋轢が絶えず、時に曾国藩をも侮罵して楚勇からすら顰蹙された。
 5年に陝甘総督に転じて回民起義の鎮圧にあたり、ヤクブ=ベクの乱が拡大すると光緒元年(1875)に欽差大臣とされて新疆の軍務を督弁し、平定後に省制の実施を上奏した。 この間に領土征服を伴うロシアを最大の外患と認識し、新疆支配の再建を急務として李鴻章ら海防派と対立し、イリ地方の武力回復を唱えた事から伊犂条約の交渉の障害として南洋大臣・両江総督に異動された。 清仏戦争では福建沿岸防衛の欽差大臣とされ、翌年に任地で病死した。
   
陝甘回民起義 (1862〜73):ドンガン(東干)の乱とも。ナクシュバンディー教団の影響下にあった陝甘地方の回民は、清朝の支配に従順なフフィーヤ(老教)と独立志向のジャフリーヤ(新教)に大別されていたが、太平天国軍・捻軍に対する漢人の団練結成は被抑圧民である回民側の警戒心を促して武装化が行なわれ、太平天国に呼応した回民の蜂起を結果した。 同治5年(1866)より陝甘総督に転じた左宗棠に伐たれて関中を逐われ、10年に甘粛霊州(寧夏自治区霊武)の金積堡で新教の主力の1つが潰滅され、次いで西寧の集団が制圧され、12年の粛州(酒泉市区)陥落を以て陝甘の回民の組織的叛抗は終息した。
 新疆に逃れてヤクブ=ベクに合流した回民も多く、陝甘の回民は招撫に応じた河州(臨夏市)の老教以外は洗回と称して甘粛南部に分散徙民され、新疆との連携を断つために河西回廊部から徹底的に排除された。

伊犂条約  1881
 イリ条約。サンクトペテルブルク条約とも。 ヤクブ=ベクの乱の後にイリ地方の権益を定めたリワディア条約を訂正したもの。ロシアが実効支配しているイリ流域のうち東半部分の900万ルーブルでの中国への返還、粛州・トゥルファンへのロシア領事館の開設、各種貿易特権が承認された。 北京条約の後に締結された塔城条約は事実上破棄され、清朝では新疆の支配強化が唱えられて1884年に新疆省が発足した。

郭崇Z  1818〜1891
 湖南省湘陰の人。字は伯琛。道光27年(1847)年間の進士。 喪中に太平天国が興って湘勇の水帥として功があり、同治2年(1863)に広東巡撫に進んだ。芝罘条約が結ばれると謝罪使として渡英してそのまま初代の駐英公使とされ、しばしば近代化政策を上申した。 曾国藩に就いて桐城派の影響を強く受け、帰国後は郷里に城南書院を興した。

薛福成  1838〜1894
 無錫の人。字は叔転。太平天国の平定後に曾国藩の幕僚に連なり、寧紹台道・湖南按察使などを経て光緒15年(1889)にイギリス・フランス・イタリア・ベルギー四国公使とされた。 イギリスとの交渉でチベットでの国境と通商問題、仇教事件の解決に尽力して20年に帰国し、右副都御史とされて程なくに上海で病死した。

洪鈞  1839〜1893
 呉県(蘇州市区)の人。字は陶士、号は文卿。同治7年(1868)の状元進士。内閣大学士・礼部侍郎まで進んだ後、光緒13年(1887)にロシア・ドイツ・オーストリア・オランダ四国公使とされ、堪能な語学と妻女/賽金花の存在が話題となった。 在欧中に各種のモンゴル史研究書を学んで『元史訳文証補』を著し、モンゴル史研究に一時期を画した。

賽金花  1872〜1936 ▲
 蘇州の人。15歳で妓女となり、程なくに洪鈞に請われて側室となり、洪鈞に従って渡欧した際には公使夫人として注目された。洪鈞の死後は上海・天津で妓楼を営み、義和団事変に際しては北京で8ヵ国連合司令官のドイツ人ワルデルゼーに交渉して北京市民との軋轢を極力回避させた。

日清戦争  1894〜95
 朝鮮の宗主権を巡る日本と清朝の戦争。 朝鮮を宗主権下に置く清朝は、明治維新後に朝鮮の属国化を図る日本の進出を悉く撃退し、東学党の鎮圧後も駐留する日本軍と牙山・豊島沖で交戦した後、08.01に正式に宣戦を布告した。
 清軍は9月の平壌陥落で朝鮮から駆逐され、翌日には黄海で北洋水師が大破されて制海権を失い、11月に金州を抜かれて旅順要塞も陥落し、翌年の2月には威海衛が陥されて北洋軍が降伏した。 3月には遼東半島も占領され、直隷決戦が示唆された後に開始した講和交渉中にも台湾の澎湖諸島が占領され、4月に下関条約が締結された。
   
下関条約 :(1895):馬関条約とも。日清戦争で北洋大臣李鴻章と日本の外務大臣陸奥宗光が締結した。 清朝の朝鮮に対する宗主権の放棄、遼東・台湾の割譲、償金2億両、沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、通商等の最恵国待遇などが定められた。 間もなくロシア・ドイツ・フランスの三国干渉で遼東半島が有償で返還されたが、極東最強と謳われた北洋水師が日本に惨敗した事で「眠れる獅子」と称されていた清朝の無力が再確認され、列強の中国進出と分割支配が露骨に進められるようになった。

丁汝昌  1836〜1895
 安徽省廬江の人。字は禹廷。咸豊4年(1854)の廬江陥落とともに太平天国に投じたが、咸豊末年の安慶奪回で曾国藩に降って湘軍に加えられ、次いで淮軍捻軍平定に従って総兵に進んだ。 光緒元年(1875)に直隷総督李鴻章の参与に列し、6年に巡洋艦“超勇”“揚威”受領のために派英され、帰国後に北洋水帥を率いて朝鮮の内訌を制圧した。 14年(1888)の北洋水師の正式発足と伴に海軍提督とされ、17年には艦隊を以って対日示威を2度行なったが、日清戦争では黄海海戦で日本水軍に大敗し、翌年の威海衛陥落で乗員の助命を条件に降伏して服毒自殺した。

呉大澂  1835〜1902
 呉県(蘇州市区)の人。字は止敬、号は恒軒。同治7年(1868)の進士。 光緒10年(1884)に朝鮮の甲申事変に欽差大臣として出張し、翌年(1885)には吉林でロシアとの国境問題の折衝にあたった。 広東巡撫・河道総督・湖南巡撫を歴任し、日清戦争では志願して出征したものの海城で大敗した。 金石学者としては天才的解読者で、従来の伝統化していた誤謬をしばしば訂正し、又た蒐集家としても著名で、同時に篆書も能くした。

翁同龢  1830〜1904
 翁同和とも。蘇州常熟の人。字は叔平、号は松禅・瓶庵。 文宗・恭親王の師傅でもある大学士翁心存の子。咸豊6年(1856)の状元進士。 光緒帝の師傅として信任され、光緒8年(1882)には工部尚書に軍機大臣を兼ねたが、兄の翁同書が咸豊10年(1860)の寿州陥落を曾国藩ら湘勇幹部に弾劾されて安徽巡撫を罷免されていた為、湘勇系、殊に李鴻章と対立して北洋水師にも批判的だった。 日清戦争では陸上戦を図る李鴻章を批判して北洋水師を出撃させ、戦後に総理衙門大臣に就き、23年(1897)には戸部尚書・協辧大学士とされた。
 かねて馮桂芬の著作を以て徳宗に洋学と改革を説き、24年に康有為の召見を実現したが、西太后の指示で変法実施の直前に罷免され、政変後は一切の官爵を剥奪された。西太后の死後に原官に復され、文恭の諡号を追贈された。

康有為  1858〜1927
 広東省南海(仏山市区)の人。字は広厦、号は長素・更生。光緒21年(1895)の進士。 夙に洋学に触れて改革の必要性を説き、14年の順天郷試でも変法を唱えて落第しており、16年には広州に万木草堂を開き、及第後は洋務運動を不徹底なものとして立憲君主制の導入を含む変法を唱えた。 24年に翁同龢を介して徳宗に謁見し、その信任を背景に6月より戊戌変法を指導したが、西太后ら保守派の反動によって9月には頓挫して海外に亡命した。
 その後は日本・東南アジア・インド・欧米を巡り、保皇派として立憲帝制たる開明専制論を展開して革命派と対立した。 辛亥革命で帰国した後も拝孔教を論じて立憲君主制を主張し、1917年の張勲による宣統帝の復辟事件にも連なったが、五四運動では学生を支持したという。以後の政治活動は低調で、青島で病死した。
 伝統的な古文経学を偽学と断じて公羊学をはじめとする今文経典を尊重し、思想面では人類平等の大同社会の到来を信奉した。 又た書法に於いては模写を累歴した帖学を真筆から乖離したものとして否定し、碑学を宣揚してケ石如の篆書と楷書を最も高く評価した。
   
戊戌変法 (1898):変法自強運動・百日維新とも。康有為梁啓超譚嗣同らが推進した近代化改革。 日清戦争後に日本の明治維新を範として具体性を帯び、洋務運動を不徹底なものとして国家制度の根本的変革を目的とした翁同龢を通じて徳宗に支持され、康有為が北京に組織した保国会を介して張之洞・文廷式・厳復らにも賛同され、光緒24年の4月(新暦6月)に開始されて科挙の廃止、京師大学堂以下の新式中小学堂の設立、冗官の淘汰、新式軍隊の組織、実業の奨励、翻訳局の開設、新聞の発行、上書の自由、国家予算の公表などが決定された。
 事前の活動期間が短かったこともあって支持基盤は弱く、急進的な改革は守旧派を西太后の下に結集させ、又た拝孔教(孔子教)を唱えた事は譚嗣同・張之洞らからも批判された。 栄禄による北洋軍の掌握に対抗して守旧派の武力排除を謀ったが、袁世凱の密告で露見して西太后が主導する戊戌政変が起され、光緒帝の幽閉、譚嗣同の処刑と翁同龢の罷免、康有為・梁啓超の海外亡命などで100日間で挫折した。

譚嗣同  1865〜1898
 湖南省瀏陽の人。字は復生、号は壮飛。少年期に家庭的に不遇だった事から夙に蓄妾制を容認する伝統的家族制度に懐疑的で、公羊学や『墨子』『荘子』を好み、又た著名な標客に就いて刀術をも修めた。 日清戦争後は経世致用の学を志して梁啓超と交わり、< href="#ywi">康有為の強学会や陳宝箴の主唱する維新運動にも参加し、光緒24年(1898)に唐才常らと南学会を組織した。 戊戌変法にも参画したが、儒教の枠内での改良主義的な康有為の姿勢には批判的で、改革派の最右翼として戊戌政変で処刑された。王船山黄宗羲に思想的影響を多大に受け、三教と欧米思想を総合した独特の思想体系を唱えた。

唐才常  1867〜1900 ▲
 湖南省瀏陽の人。字は仏塵。長沙の時務学堂の教員となった翌年(光緒24年/1898)に同郷の譚嗣同らと南学会を設立して変法思想の普及につとめ、上京途上で戊戌政変の報に接すると上海から日本に亡命し、康有為梁啓超孫文らと交わった。 翌年に上海に戻った後は南中国の独立を目的に哥老会と通じて“自立軍”を結成し、義和団事件の後に容閎・厳復・章炳麟らとも結んで各地での一斉蜂起を謀ったが、密告によって湖広総督張之洞に逮捕され、同志20余名とともに処刑された。

王先謙  1842〜1917
 湖南省長沙の人。字は益吾、号は葵園。同治4年(1865)の進士。国子監祭酒・国史館総纂・江蘇学政などを歴任して主に学問・教育に尽力し、光緒15年(1889)に致仕した後も思賢講舎などの書院で教育にあたった。 科挙の廃止・洋学の習得などを唱え、23年には湖南巡撫陳宝箴に支援を仰いで時務学堂を開設したが、戊戌変法には批判的だった。28年に湖南煉鉱公司を設立して鉄道敷設にも参与し、革命後は変名して平江に隠棲した。
   
時務学堂 :光緒23年(1897)に湖南巡撫陳宝箴・前国子監祭酒王先謙らが設立した開明派人士の養成機関。 洋務的な中体西用を旨としたが、譚嗣同唐才常ら教員の殆どが康有為の門人だった為に変法派の拠点となり、郷紳の葉徳輝だけでなく創始者の王先謙にも批判された。

大刀会
 白蓮教系の秘密結社。呪術系の離門と拳棒を修得する坎門より成り、導引や符呪による不死信仰によって華北平原に拡大した。 掃清滅洋を唱え、光緒22年(1896)の教案を機に山東省各地で仇教闘争を展開し、兗州府ではドイツ人宣教師2名を殺してドイツ軍による膠州湾占領を惹起し、官憲に弾圧された。 義和団でも重要な一翼を担い、辛亥革命に際しては宋教仁ら革命派を支持し、山東人の満洲流入に伴って東北地方にも広がった。 やがて土匪・軍閥に対する抵抗によって組織化され、1928年の東辺道蜂起など地主的自衛団として反軍閥農民運動を展開し、満州事変後は抗日闘争も行なった。

義和団
 義和拳と呼ばれる拳法を修得し、仇教闘争を行なった集団。 義和拳は山東省で仇教に与した梅花拳が名称を変えたものとされ、大刀会の合流で宗教色を濃くして多くの貧民を吸収し、仇教を主な活動とした事もあって山東巡撫毓賢によって保甲・団練に採用され、これより義和団と称した。 毓賢の後任の袁世凱の弾圧で直隷省に流入すると、鉄道・汽船の登場で失業した輸送業者などを吸収して却って勢力を拡大させ、“扶清滅洋”を唱えて教会や鉄道・電信施設を破壊し、官軍と結んで北京の日本・ドイツ公使館を襲撃するに至った。
 朝廷から拳匪・団匪を認定された後は“掃清滅洋”を唱え、官軍と連合軍によって掃討された。

義和団事変  1900 ▲
 義和団の乱、庚子事変、北清事変とも。義和団と清軍による北京の各国公使館襲撃に始まる一連の動乱。 義和団は山東省から直隷省に移動したのち甘軍に支援され、北京城に入城した翌日(1900.06.10)には日本公使館を襲撃したが、朝廷は17日の連合艦隊による大沽砲台の占領を直接の原因として排外に傾き、ドイツ公使館を襲撃させた翌日(06.21)に列国へ宣戦布告した。 北京城は08.15に連合軍に占領されたが、西太后らはその直前に西安に蒙塵して08.20には義和団を匪賊と認定し、翌年9月に辛丑和約が締結された。
   
辛丑和約 (1901.09):北京議定書。義和団事件後にイギリス・アメリカ・フランス・日本・ロシア・ドイツなど11ヶ国と締結。 清朝の全権大使は慶親王奕劻と直隷総督李鴻章。 日本・ドイツへの謝罪使の派遣、戦犯の処刑、外国人殺害地区での科挙の停止、総額45,000万両の賠償、北京での外国公使館区域の設定などが要求された。 賠償金の担保として関税・塩税の管理権が諸外国に掌握されたことで中国の植民地化はさらに進行し、1902.01に帰京した西太后によって光緒維新が進められた。

毓賢  〜1901
 漢軍正黄旗人。字は佐臣。捐納で挙人となったのち光緒15年(1889)に曹州知府となり、厳獅ネ捕盗の手腕を以て知られ、25年に江寧将軍から山東巡撫に転じた。 義和団を団練として認め、その仇教活動を黙認してフランス公使の抗議で罷免されたが、以後も朝廷に義和団の活用を提言し、翌年(1900)に山西巡撫に転じると提言を実行してキリスト教徒を徹底的に弾圧した。義和団事変の戦犯として罷免され、新疆流謫の途上の蘭州で処刑された。

剛毅  1837〜1900
 満州鑲藍旗人。字は子良。刑部の筆帖式から漸昇して光緒11年(1885)より巡撫を歴任し、オルドスでの屯田や江蘇南部の治水事業で成果を挙げ、20年に広東巡撫から礼部右侍郎に転じて軍機大臣に列した。 強硬な保守派で、戊戌政変では徳宗の廃黜を唱えて兵部尚書兼協弁大学士に進められ、義和団が北京に入城するとその活用を提言して荘親王載とともに統率義和団大臣とされた。西太后に随っての西奔の途上で病死し、義和団事変の戦犯の1人とされて全ての官爵を剥奪された。

董福祥  1840〜1908
 甘粛省固原(寧夏自治区)出身の回民。字は星五。陝甘回民起義に加わり、安化で劉松山に降ったのち董字三営を組織して回民平定に従い、左宗棠の新疆平定などにも随って光緒16年(1890)よりカシュガル提督・ウルムチ提督を歴任した。 偏狭的かつ徹底した排外主義者で、戊戌政変では栄禄の薦挙で甘軍を以て武衛後軍に改編され、聶士成(前軍)・袁世凱(右軍)と並称された義和団事変では朝廷の宣戦以前から義和団と協働して公使館襲撃でも積極的に関与し、戦後に戦犯に挙げられながらも新疆統治の要として李鴻章の判断で減死・禁錮に処された。

栄禄  1836〜1903
 満洲正白旗人、瓜爾佳氏。字は仲華。西太后の外甥。 蔭によって工部主事に就き、軍機大臣文祥や醇郡王奕譞(宣統帝の祖父)に激賞されて工部侍郎に抜擢され、光緒21年(1895)に兵部尚書兼歩軍統領に就くと袁世凱に定武軍を統領させた。 戊戌変法が始まると伴に文淵閣大学士に直隷総督を兼ねて変法派を牽制し、袁世凱を転向させて政変を成功させると軍機大臣となって兵部と武衛軍を統轄したが、義和団事変では列国との開戦に反対して公使館を保護し、辛丑和約を締結した後は劉坤一張之洞らの維新案を支持した。

王懿栄  1845〜1900
 山東省福山(煙台)の人。字は正儒、号は廉生。光緒6年(1880)の進士。 翰林庶吉士から諸官を歴任して国子監祭酒に進んだ。『書経』と金石学に通じ、骨董の蒐集家でもあり、甲骨文字の共同発見者でもある劉鶚ら多くの学者を養成して人望が篤かった。 義和団事変では京順団練大臣とされ、連合軍が北京城に入城すると服毒自殺した。

劉坤一  1830〜1902
 湖南省新寧の人。字は峴荘。太平天国の乱で同郷の江忠源・劉長佑に従って転戦し、軍功で累進して同治3年(1864)に江西巡撫となり、13年より両広総督・両江総督を歴任した。 殊に両江総督には4度就任して都合17年間在任し、南洋大臣を兼ねて洋務運動を推進し、日清戦争で淮軍が壊滅した際には現職のまま欽差大臣として山海関で帥軍した。 康有為の変法運動を支持し、義和団事変では湖広総督張之洞らとともに朝廷の宣戦布告を無視して列強と東南互保協定を結び、戦後に張之洞と連名で維新案を奏請した(江楚会奏)。

張之洞  1837〜1909
 直隷省南皮の人。字は孝達、号は香濤・抱冰など。同治2年(1863)の探花進士。 光緒7年(1881)に山西巡撫に抜擢され、10年に清仏戦争に備えて両広総督に就いてより湖広総督・両江総督を歴任し、特に湖広に在る事が最も長く、漢陽製鉄所・大冶鉄鉱、各種兵工廠・織布局などを設立・運営して洋務運動を推進した。 対外強硬派でもあったが、日清戦争後は融和的となり、義和団事変では東南各省の督撫と結んで列強と東南互保協定を結んだ。
 中体西用を唱えて変法運動に対しては批判的だったが、義和団事変後に両江総督劉坤一とともに政・軍・教育の改革を柱とした維新案を上奏し(江楚会奏)、管内での新軍の設立、鉄道敷設・借款導入などを行なって光緒33年(1907)に軍機大臣・管学部とされた。 曾国藩・李鴻章・左宗棠と並ぶ清末四大名臣とも称されるが、湖広での一連の改革は清朝の富国強兵には結実せず、新軍・鉄道は寧ろ武昌起義の契機となった。唐才常らを弾圧した事で文革の際には遺骸が発かれ、近年までその評価は低かった。

端方  1861〜1911
 満州正白旗人。字は午橋。光緒8年(1882)の挙人。戊戌変法を支持しながらも政変では栄禄らに庇護されて陝西按察使とされ、義和団事変では西太后らの保護に功があって河南布政使に転じ、間もなく湖北巡撫、次いで湖北総督に進んだ。 湖広の道府に師範学院を創設し、江蘇では中国初の幼稚園や公立図書館を開設するなど新式教育の推進に尽力し、光緒31年(1905)に憲政考察五大臣に列して欧米の10ヶ国を視察した。 帰国して立憲予備運動を指導したのち両江総督に転じ、宣統3年(1911)に四川で保路運動が起こると直隷総督から川漢・粤漢鉄路督弁に転じて鎮圧にあたったが、麾下の鄂軍が武昌起義に呼応して11月に資州で殺された。 古銅器・古書画の収集家としても知られた。

盛宣懐  1844〜1916
 江蘇省武進(常州市区)の人。字は杏蓀、号は愚斎。 父の縁故で李鴻章幕賓に連なり、電信・鉄道・汽船などの洋式企業を管理経営して巨富を築くとともに諸外国とのさまざまな交渉にもあたり、光緒28年(1902)より工部左侍郎・電報総局総弁・鉄路総局総弁・郵電部侍郎などを歴任した。 宣統3年(1911)には郵電部大臣に進んだが、鉄道国有化政策を進めて各地で暴動を惹起し、辛亥革命で日本に亡命した。 在官中から半官半民、あるいは純民営の銀行・工場などに大口出資しており、帰国後も事業を継続した。

慶親王奕劻  1838〜1917
 第三代慶親王。高宗の曾孫。 道光30年(1850)に輔国将軍を襲いだのち歴朝の慶事で郡王に進められ、恭親王奕訢の後任として光緒10年(1884)に総理衙門を統監し、西太后の還暦祝賀で慶親王に進封された。 義和団事変では北京に留まって李鴻章と与に辛丑和約を成立させ、翌年の外務部の設立と伴にその総理となり、29年に軍機大臣と財政処・練兵処(33年に陸軍部に改組)の総理を兼ね、宣統帝が即位すると鉄帽子王(世襲親王)とされた。
 北京議定書に遵って進めた光緒維新は保守派の既得権に配慮したもので、宣統3年(1911)の内閣開設で総理大臣とされたものの閣僚の殆どは満洲貴族や皇族で構成された。辛亥革命が生じると袁世凱を北京に招いて内閣総理大臣に任命したのち致仕し、天津に隠棲して病死した。 蓄財に奔走し、奢侈によってしばしば弾劾された。

粛親王善耆  1866〜1922
 第十代粛親王。粛武親王豪格の裔。 光緒24年(1898)に粛親王を襲ぎ、翌年に護軍統領とされ、義和団事変では御前大臣として両宮に随い、33年(1907)に民政部尚書、次いで慶親王内閣で民政大臣・理藩大臣とされた。 開明派・親日家として知られ、川島浪速に北京警務学堂の創設を委ね、又た摂政王暗殺未遂事件では犯人とされた汪兆銘の助命を運動したとも伝えられる。 宗社党の一員で、辛亥革命後に川島の支援で旅順の日本租界に亡命した後も宣統帝の復辟を画策し、義契を結んだ川島を介して日本政府に通じて満蒙独立運動を進めたものの、悉く頓挫して旅順で歿した。 第14王女顕㺭は1914年(大正3)に川島の養女となって川島芳子を名乗り、又た外孫の1人は川島家の養女となって川島廉子として入籍した。

梁啓超  1873〜1929
 広東省新会(江門市区)の人。字は卓如、号は任公。 皖派を学んで光緒25年(1889)に挙人となり、翌年の会試に失敗して帰郷すると康有為に師事して革新運動に志し、北京で譚嗣同とも交流した。 下関条約に痛憤して上海で『時務報』の主筆を務めると共に長沙の時務学堂の主講となって改革の必要性を喧伝し、康有為と与に変法自強運動を主唱して戊戌変法を推進したが、保守派の反動で頓挫して日本に亡命した。
 日本では横浜で文筆活動によって「新民説」を鼓吹し、西洋の文化・学説を紹介すると共に封建専制の打破を唱えて渡日留学生の共鳴を得たが、その政体思想は二転三転して保皇思想に落着した。 辛亥革命後に進歩党を結成して袁世凱を支持し、北京政府では司法総長・財務総長とされたが、帝政復活で袁世凱を批判して雲南の護国運動に投じた。 晩年は唯物的な西欧文明に懐疑的となってマルクス主義を批判し、教育と文筆活動に専念した。

陳天華  1875〜1905
 湖南省新化の人。字は星台・過庭、号は思黄。 光緒29年(1903)に官費留学生として渡日し、黄興らと交流して帰国後に華興会創設に参加したが、間もなく武装蜂起計画が露見して日本に亡命し、東京で中国同盟会の発起人に連なった。 文筆活動を通じて排外排満を煽動したが、清朝の要請で日本政府が留日学生取締規制を制定した事に抗議して東京の大森海岸に投身自殺した。

秋瑾  1877〜1907
 浙江省山陰(紹興市区)の人。字は璿卿、号は競雄・鑑湖女侠。 光緒22年(1896)に王廷鈞と結婚して北京で2児を得たが、慷慨の質もあって30年に中国人女性として初めて単身日本に留学し、直ちに天地会に入会した。 中国同盟会にも参加し、女性会(共愛会)を組織する傍らで浙江人と同盟会の提携を推進し、蔡元培に光復会への加入を拒まれたものの徐錫麟に認められ、留学生取締規制が発せられると全留学生に一斉退学を求めて帰国した。 32年には大通学堂の堂長とされて光復会の革命活動に従事したが、徐錫麟による安徽巡撫暗殺事件に連座して処刑された。死に臨んで遺した「秋風秋雨、人を悠殺す」の七言は人口に膾炙し、その死は革命運動の鼓舞に絶大な影響を及ぼした。

宣統帝  1906〜1908〜1912〜1967
 清朝の第十二代天子。諱は溥儀。徳宗光緒帝の甥。大学士栄禄の外孫。 西太后の遺言で立てられ、父の醇親王載澧が摂政王とされた。当時の清朝は義和団事変の賠償金と改革資金の為に増税を濫発し、満洲人の要職独占を伴う不徹底な改革と、庶民の貧困化から各地で革命運動が活発化していた。 醇親王内閣も現状を改革できず、国有化した鉄道を担保とした借款で財政補填を図ったが、却って保路運動を激化させて武昌蜂起を招来し、各地で新軍を中核とする革命運動に発展した。 憲法19条を発布するとともに軍部に影響力の強い袁世凱を内閣首班とすること事態の収拾が図られたが、孫文と袁世凱との折衝で溥儀は退位させられ、同時に帝制が廃止されて清朝は滅んだ。
 溥儀は紫禁城に軟禁され、張勲の復辟運動(1917)をへて1924年に馮玉祥によって紫禁城を逐われると日本公使館に退避し、天津の日本租界に移った。 1932年に日本の関東軍が満州国を樹立すると執政に迎えられて1934年には皇帝とされたが、第二次大戦の終結とともにソヴィエト軍に捕われてハバロフスクに拘留され、後に中国に移送されて1959年末に釈放された。

醇親王載澧  1883〜1951
 徳宗の弟。初代醇親王奕譞の嗣子。宣統帝の実父。 義和団事変後にドイツへの謝罪使とされるなど西太后に信任され、光緒維新にも参与したが、戊戌新政を頓挫させた元凶として慶親王袁世凱を嫌忌した。 実子の溥儀(宣統帝)の即位で監国摂政王とされると外務部尚書袁世凱を失脚させたが、辛亥革命が生じると袁世凱に全権を委譲して下野した。 以後も紫禁城内で溥儀を後見したが、溥儀が満州国執政となることに反対して北京に留まり、そのため共産党政権下でも生活を保障された。

趙爾豊  1845〜1911
 漢軍正藍旗人。字は季和。趙爾巽の弟。錫良幕賓として各地に従って義和団鎮圧でも功があり、光緒33年(1907)に錫良の異動に伴い四川総督を代行した。 翌年に正総督に進み、駐臧大臣と辺務大臣を兼ねてチベットの分離阻止に尽力し、ラサを制圧してダライ=ラマXIII世を出奔させ、間もなく川滇辺防大臣の専任となった。 四川で保路運動が激化すると署四川総督とされて鎮圧にあたったが、端方の来援と保路同志会幹部の逮捕によって暴動に発展し、成都に樹立された革命政権によって処刑された。

保路同志会
 1911.05に発令された鉄道国有令と、四国借款による川漢鉄道建設に反対する組織。 四川省の商紳階級が中心となって6月17日に成都に結成され、各地に分会を開設して反対運動を拡大させた。 罷課・罷市運動と並ぶ民衆による広範な反清活動を展開し、四川では総督の趙爾豊に対する武装蜂起を指導し、又た鎮圧に鄂軍が動員された事は武昌起義の契機となった。

羅振玉  1866〜1940
 浙江省上虞の人。字は叔言、号は雪堂・貞松。 劉鶚との交流から甲骨文字の研究を始め、又た日清戦争後の国力振興に農学を重視して日・欧の農書の翻訳者を育成する為に東文学社を設立し、宣統元年(1909)に張之洞の推薦で京師大学堂農科大学監督に就いた。 辛亥革命では娘婿の王国維と与に日本に亡命して内藤湖南・狩野直喜らの援助で京都に滞在し、多くの資料集を出版して清代考証学を日本に伝えた。 帰国後は天津に居住して溥儀の家庭教師を務め、満州国で参議・監察院長を歴任したのち旅順に隠棲した。
 殷墟や敦煌からの出土史料の収集・研究を通じて古典を校訂し、殊に殷墟では自ら発掘にあたって王国維とともに殷文化の研究に新時代を拓き、甲骨研究や敦煌学の振興に寄与した。清朝の遺臣を以て任じ、又た“甲骨四堂”として王国維・董作賓・郭沫若と併称されるが、王国維に研究成果を譲渡させるなど名利に奔走していた事も指摘されている。

王国維  1877〜1927 ▲
 浙江省海寧の人。字は静安、号は観堂。 光緒24年(1898)に東文学社に入学して羅振玉に師事し、はじめは西洋哲学・中国戯曲を研究し、又た上海の『時務報』で執筆した。 辛亥革命後は羅振玉に随って日本に亡命し、以後は考証学を以って経学・史学を研究し、甲骨文・金文研究では古代史学に多大な実績を遺したが、その成果の多くは羅振玉の名で公表された。 清朝に直接仕えはしなかったものの清朝の遺臣として辮髪を残し、1916年に帰国した後は上海聖明智大学教授となって『殷周制度論』を著し、羅振玉の薦挙で溥儀の南書房行走とされ、1925年より清華学院教授となって梁啓超・陳寅恪・趙元任とともに“清華四大導師”と称された。 頤和園の昆明池で入水自殺した。


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