革命後.2
袁世凱 1859〜1916
河南省項城の人。字は慰亭、号は容菴。
郷紳の家に生まれ、郷試に失敗したのち淮軍に投じ、朝鮮問題で李鴻章に認められて東学党の乱では朝鮮駐箚公使とされた。
日清戦争後に天津で新建陸軍を養成し、戊戌変法でも当初は変法派を支持したが、変法派の兵変の露見を懼れて保守派に通じ、以後は西太后に信任された。
程なく山東巡撫に進められて義和団を弾圧し、義和団事変では両江総督劉坤一らの東南互保協定に加わって兵力を温存し、翌年(1901)に李鴻章の後任の直隷総督・北洋大臣となって北洋新軍を創建した。
日露戦争では秘密裏に日本軍を支援し、又た借款によって北洋軍や管内インフラの整備を進め、1907年には外務部尚書に軍機大臣を兼ねた。
西太后が歿すると醇親王に排斥されたが、辛亥革命が勃発すると内閣総理大臣・湖北総督に起用され、段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に派兵しつつ革命派と交渉し、宣統帝の退位を条件に中華民国臨時大総統とされた。
翌年に第二革命を武力鎮圧すると国会・国民党を解散させて正大総統に就任するなど専制化を強め、1914.05には新憲法を発布したが、翌年に日本の強要する二十一箇条を受諾して求心力が低下した後は帝政の復活を画策し、1916.01には即位建元を断行した。
これは列強に無視されただけでなく反対諸省による第三革命を惹起して内部からも批判が噴出し、桂軍が転向して間もなくの03.22に帝政を廃止して程なく憂死した。
北洋軍閥 ▲
辛亥革命に於いて袁世凱を支持した北洋軍出身の将校を戴く諸軍の総称。
北洋軍は袁世凱が育成した新建陸軍を核とし、袁世凱の私兵集団と化して奉天・直隷・山東省に展開して清末最大の兵団となり、袁世凱の専制の源泉となって第二革命討伐を通じて全土に影響力を拡大した。
袁世凱の死によって直隷派と安徽派に分裂し、安徽派は奉天派と結んで日本とも通好し、直隷派はイギリス・アメリカとの提携に活路を求めた。
はじめ安徽派の段祺瑞が国務総理となって北京政府を掌握したが、1920年に安直戦争で敗壊して直隷派が奉天派と並立し、1924年の奉直戦争中に馮玉祥が起した北京政変で直隷派が分裂し、奉天派が北京政府を支配した。直隷派は以後も複数の地方軍閥が存続し、国民党との合流を表明した馮玉祥の他は概ね北伐によって壊滅した。
黎元洪 1866〜1928
湖北省黄陂(武漢市区)の人。字は宋卿。天津水師学堂を卒業して日清戦争ののち張之洞に従って南京・武昌で新軍の創成に携わり、革命派の弾圧などで混成協統領に進んだが、武昌起義で強請されて革命軍の湖北都督に就き、上海派と正統性を争ったのち革命政府が南京に置かれると副大総統とされた。
そのため反孫文に傾斜して袁世凱政権でも副総統に留任し、章炳麟・伍廷芳らと共和党を結成して第二革命でも袁世凱を支持した。
袁世凱の死で大総統に就任した後は国務総理段祺瑞との政争が深刻で、段祺瑞を罷免した事で北洋軍閥が離背し、次いで張勲の復辟事件を惹起して1917.07.14に下野した。
第一次奉直戦争後の1922.06に大総統に擁立されたが、直隷派内部の調整に奔走したすえ翌年には曹錕に逐われて下野し、天津に引退して実業家として終わった。
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府院之争 :袁世凱の死後の、黎元洪(大総統府)と段祺瑞(国務院)の政争。
軍事力を持たない黎元洪の大総統就任は、内訌回避の目的で北洋軍閥が主導して政事堂国務卿(国務総理)による執権を意図したもので、両者は政権と政策を争って対立が深化した。
政策の相違は主に約法選択・人事問題・第一次大戦への参戦にあり、約法問題では段祺瑞の国務総理就任を条件に臨時約法が採用され、人事問題では段祺瑞が腹心の徐樹錚を国務院秘書長とする事に成功して国務院が段祺瑞派の牙城となり、黎元洪は馮国璋を副大総統とする事で均衡を図った。
黎元洪は対独参戦を否決した国会が北洋軍に包囲されると段祺瑞を罷免して落着を図ったが、北洋系督軍の離背を招いて非戦派の張勲に仲裁を依頼し、張勲による復辟事件を結果した。
徐世昌 1855〜1939
直隷省天津の人。字は卜五、号は菊人・東海。光緒13年(1886)の進士。
袁世凱とは出仕前から交誼があり、折衝能力などからも信任されて民政部尚書・東三省総督などを歴任し、袁世凱が失脚した後も北洋新軍とのパイプ役を期待されて閣僚に置かれ、袁世凱が復帰すると軍諮大臣に直され、革命後の1914年には政事堂国務卿(国務総理)とされた。
1918年に馮国璋が失脚すると後任の大総統に就いて安徽・直隷派の和解に尽力し、革命派との妥協も図って上海に南北和平会議を開催したものの成功しなかった。
当時の北京政府の実権は安徽派の段祺瑞にあり、1922年の第一次奉直戦争での奉天派の失権で引退した。
王士珍 1861〜1930
直隷省正定の人。字は聘卿。天津武備学堂を卒業したのち山海関や朝鮮に進駐し、日清戦争後に袁世凱に属して北洋新軍の構築に尽力し、内政にも才幹を示して信任された。
清末に袁世凱が復権すると陸軍大臣とされ、革命後に下野したものの復帰した翌年(1915)から陸軍総長・参謀部総長を歴任し、段祺瑞・馮国璋と共に“北洋三傑”と称された。
府院之争では黎元洪を支持し、又た復辟事件では賛同派に与したが、歴功と声望によって留任が認められ、1918年には国務総理に就いたものの安直の抗争を忌避して下野した。
奉直戦争の後は善後会議議員・軍事整理委員長・京師治安維持会長などとして諸派の調停や京師の安定に努めた。
宗社党
辛亥革命に応じて清朝護持と奪権の為、宣統3年(1912)1月に良弼・恭親王溥偉ら清朝皇族を中心として組織された。
宣統帝の退位と伴に解党されたが、党員は各地で小組織を構えて活動を続け、満洲では粛親王善耆らが日本の支援を背景に満蒙独立運動を展開し、北京では張勲が政府の内訌に乗じて復辟事件を惹起した。
粛親王は蒙古旗人升允や川島浪速らと結んで1912年には日本の参謀本部と大陸浪人の後援で挙兵を準備し、この時は日本政府の命令で中止されたが、第二革命後の封地没収令に対する反袁運動の高揚に乗じて再び日本の支援で独立運動を進め、内蒙古の巴布札布とも結んで1916年にも挙兵した。
張勲 1854〜1923 ▲
江西省奉新の人。字は少軒。清仏戦争に従軍したのち袁世凱に用いられて徳宗の侍衛に列し、清末に両江総督とされ、第二革命を制圧したのち江蘇都督・安徽都督を歴任した。
宗社党の巨頭でもあり、辛亥革命後も清朝に忠誠を誓って辮髪を残し、軍兵にも辮髪させて辮子軍・辮髪将軍と呼ばれた。
反革命を唱えて北洋軍閥系の督軍連合にも影響力があったが、対独参戦には反対していた為に府院之争で北洋軍閥と決裂した黎元洪に調停を依頼され、上京と伴に北京を武力制圧して07.01に復辟事件を起し、議政王大臣・直隷総督・北洋大臣に就任した。
13日間で制圧されるとオランダ公使館に逃れ、翌年の特赦の後は天津に隠棲した。
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復辟事件 (1917.07.01):宗社党の安徽都督張勲が、府院之争に乗じて北京に宣統帝を復辟させた政変。
張勲は府院之争での混乱の収拾を黎元洪に依頼されると06.08に北京を制圧して国会を解散させ、次いで康有為・労乃宣らの支持を得て07.01に宣統帝の復辟を宣言して清朝の中央官制を復活させた。
陸軍総長王士珍ら北洋軍閥の一部を除いて支持されず、黎元洪は奉還を拒んで日本大使館に奔り、日本と提携していた段祺瑞の討逆軍に敗れて07.12には溥儀が退位と張勲の辞職を宣言して終結した。07.14には黎元洪も辞任し、北京政府は北洋軍閥に掌握された。
安徽派
北洋軍閥の一派。安徽省出身の段祺瑞を中心に、徐樹錚・靳雲鵬・呉光新・傅良佐・楊士奇らが指導した。
袁世凱の死後に国務院を牙城として勢力を培い、復辟事件の後に護法軍政府への対応を巡って大総統馮国璋を支持する直隷派と分裂した。
奉天派と結んで南征を強行し、又た国会の多数派工作にも成功して1918年には馮国璋を失脚させたが、南征の失敗や西原借款に象徴される依日姿勢で支持を失い、1920.07の安直戦争での敗北で崩壊した。
段祺瑞 1865〜1936
安徽省合肥の人。字は芝泉。北洋武備学堂を卒業後ドイツに留学し、帰国後は新建陸軍に入って袁世凱の北洋新軍の構築を輔け、王士珍・馮国璋と共に“北洋三傑”と称された。
辛亥革命では湖広総督を代行して武昌鎮圧にあたり、袁世凱政権で国務総理・陸軍総長を歴任したが、帝制復古には棄職で応じた。
袁世凱が歿すると黎元洪を大総統に立てて国務総理に就き、府院之争で失脚したものの復辟事件を制圧して国務総理・陸軍総長に復帰し、親日姿勢と張作霖との提携で基盤を強化して孫文の護法軍政府と対決したが、この南征によって馮国璋とは決裂した。
南征の失敗で馮国璋と共に辞職した後も安徽派の総帥として北京政府の実権を掌握したが、1920年に安直戦争に敗れて下野し、1924年の第二次奉直戦争で北京政府の臨時執政とされたものの実権は張作霖と馮玉祥にあり、両者の衝突によって1926年に引退した。
徐樹錚 1880〜1925 ▲
江蘇省蕭県の人。字は又錚。清末より段祺瑞に従って日本の陸軍士官学校に留学した事もあり、帰国後は段祺瑞の側近として思想喧伝や仕官養成に尽力し、袁世凱の帝政復古では段祺瑞に離背を勧めて与に辞職した。
袁世凱の死後の段祺瑞内閣では国務院秘書長とされて府院之争の一端となり、復辟事件の後に陸軍部次長とされ、護法軍政府の武力討伐を強硬に唱えて張作霖との合作や和平派の陸建章暗殺などで南征を実現したが、パリ講和条約を支持して五四運動を弾圧した為に反安徽の輿論が沸騰し、これに乗じた直隷派の要求で罷免された。
奉直戦争の後、陸建章の親族の馮玉祥の刺客によって上海で暗殺された。
直隷派
北洋軍閥の一派。安徽派の段祺瑞と対立した直隷省出身の馮国璋を総帥とし、その死後は曹錕(保定派)と呉佩孚(洛陽派)が並立した。
馮国璋の失脚と死で雌伏したが、イギリス・アメリカの後援と張作霖(奉天派)の転向で1920年に安直戦争で安徽派を崩壊させて奉天派との連立政権を樹立し、1922年には第一次奉直戦争で奉天派を破って単独政権となった。
呉佩孚の融和策によって黎元洪を大総統に迎えたが、曹錕が自ら大総統に就いた事で反対派の連和を招いて翌年には第二次奉直戦争が勃発し、国民党と通じた馮玉祥の北京政変が重なって崩壊した。
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安直戦争 (1920.07):北京政府の主導権を争った北洋軍閥内での安徽派と直隷派の抗争。
袁世凱の死後は内務院を掌握した段祺瑞の安徽派が政権を主導したものの直隷派を代表する馮国璋との関係も良好だったが、両者は広州の護法軍政府への対応で対立し、国会で敗れた直隷派は馮国璋の病死もあって勢力を後退させていた。
直隷派の曹錕・呉佩孚らは奉天派の転向に成功した後、1920.07に宣戦して呉佩孚を討逆軍の前線総司令官として保定より軍を進め、入関した奉天軍と呼応して安徽軍を大破し、07.19には段祺瑞を下野させた。
奉天派は一躍中央勢力となって直隷派と連合政権を形成し、直隷派を支援するイギリス・アメリカが勢力を伸張したものの、安徽派を支援してきた日本も奉天派を通じて影響力を保った。
馮国璋 1859〜1919
直隷省河間(河北省)の人。字は華甫。北洋武備学堂を卒業後に新建陸軍に入って袁世凱の北洋新軍の構築を輔け、王士珍・段祺瑞と共に“北洋三傑”と称された。
武昌起義が生じると第一軍司令官として段祺瑞と与に鎮圧に派遣され、袁世凱の臨時大総統就任で直隷都督とされ、張勲と与に南京の第二革命を制圧して江蘇都督に転じた。
帝政復古では袁世凱を批判し、袁世凱の死後に府院之争が生じると黎元洪によって副総統とされ、復辟事件後に黎元洪が失脚すると後任の大総統とされた。
間もなく護法軍政府に対する南征問題で和平を主張して段祺瑞と対立し、政争に敗れて南征が行なわれたのち南征失敗の引責で段祺瑞と共に下野し、翌年に北京で歿した。
曹錕 1862〜1938
直隷省天津の人。字は仲珊。北洋武備学堂を卒業したのち北洋新軍に入り、
第三革命では呉佩孚らと与に四川に進攻して敗れたが、袁世凱の死後に直隷省長兼督軍に進み、1919年の馮国璋の死によって直隷派の総帥となった。
1920年に張作霖と結んで安直戦争で勝利すると直魯豫巡閲使となり、1922年には第一次奉直戦争で張作霖を排除して大総統徐世昌を失脚させたが、翌年に呉佩孚の抑圧を兼ねて黎元洪を逐って大総統に就いた事で却って反直派の連和を招来し、又たアメリカ依存の体質や買収などの金権政治から“賄選”“猪仔”などと揶揄された。
第二次奉直戦争中の北京政変で幽閉され、1926年に解放された後は天津に閑居した。
呉佩孚 1874〜1939 ▲
山東省蓬莱の人。字は子玉。挙人となったのち聶士成の淮軍に投じ、保定武備学堂を卒業後は曹錕に属して累進した。
段祺瑞内閣の南征では前鋒となって湖南省で護法軍を大破したのち独断で停戦して和平を模索し、安直戦争や第一次奉直戦争では前線総司令官として全軍を指揮して勝利を収め、又た広東政府の内訌に乗じて福建・四川を勢力下に置くなど直隷派の覇権確立に大きく寄与して曹錕に斉しい発言力を有した。
後に陸軍総長・直魯豫巡閲使を歴任したが、第二次奉直戦争で敗れて湖南省に奔り、翌年には奉天派や浙江督弁孫伝芳らと討赤聯軍を結成して馮玉祥を失脚させたものの北伐軍の進攻で四川省に遁れた。
1932年に張学良に北京に迎えられ、日中戦争中に急死した。
孫伝芳 1885〜1935
山東省歴城(済南市区)の人。字は馨遠。
北洋武備学堂・日本陸軍仕官学校を卒業して北洋陸軍の仕官となり、湖北省に進駐して長江上遊総司令に進んだ翌年(1921)より両湖巡閲使呉佩孚に属し、福建督理に転じた翌年(1924)に江蘇督軍斉燮元と与に安徽派の浙江督軍盧永祥を破って閩浙巡閲使兼浙江督理に進んだ。
第二次奉直戦争の後に段祺瑞の招撫に詐応して勢力を保ち、馮玉祥と張作霖が衝突すると山東・江蘇の奉天軍を破って南京で浙閩蘇皖贛五省聯軍総司令を称したが、国民党政府が北伐を始めると呉佩孚と与に抵抗して江西省で敗れ、張作霖と結んで安国軍副司令兼五省聯軍総司令とされた。
1927.03に南京を失った後もしばしば敗れ、1928年に再開された北伐に山東省で大敗した後は張学良に投じ、天津に隠退したのち旧仇に暗殺された。
奉天派
奉天を中心とする東北地方を地盤とし、張作霖・張学良父子が指導して帝国主義日本に支援された軍閥。
1920年の安直戦争で北京政府の与党となり、1924年の第二次奉直戦争で直隷派を破り、次いで南北和議を唱える馮玉祥の排除にも成功したが、1928年に国民政府の北伐軍に逐われて東北地方に却いた。
張作霖は程なく日本の関東軍に爆殺され、跡を継いだ張学良は12月に蒋介石に降ったが、以後も東北辺防軍=東北軍として軍閥体制を保持した。
東北軍は中原戦争でも蒋介石に与して閻錫山・馮玉祥らを撃破し、山西・西北軍を吸収して華北の大勢力となったが、翌年の満州事変で本拠の東北地方を喪失した。
1934年以降は西北地区での共産党掃討に参加したが、青年将校の和共抗日運動の昂揚に応じて停戦し、西安事件の後に解体された。
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奉直戦争 (1922.04〜05/1924.09〜11):奉天派と直隷派との2度に及ぶ内戦。
安直戦争後、奉天派は安徽派の梁士詒を内務総理として直隷派の牽制と親日姿勢の維持を図り、このため直隷派との関係が悪化すると、段祺瑞や孫文とも提携し、関内に進攻して第一次奉直戦争が勃発した。
イギリス・アメリカに支援された直隷派に敗れて撤退し、張作霖・徐世昌の辞任を結果した。
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戦後、直隷派は中国の武力統一を推進して1924.09に直隷派の江蘇督軍斉燮元と安徽派の浙江督軍盧永祥が衝突し、これに張作霖が乗じて直隷に進攻して第二次奉直戦争となった。
山海関で討逆軍司令呉佩孚と対峙している間に馮玉祥によって北京政変が起され、南北呼応して直隷軍を大破した。
直隷派の大総統曹錕が幽閉・罷免されて安徽派の段祺瑞が北京政府の臨時執政とされ、併せて南北和議が推進されたが、これは孫文の死によって頓挫し、張作霖と馮玉祥の対立が露呈した。
趙爾巽 1844〜1927
奉天鉄嶺(遼寧省)の漢軍正藍旗人。字は公镶、号は次珊。同治13年(1874)の進士。
翰林院から顕官を歴任して1905年に盛京将軍に叙され、1907年に四川総督とされると弟の趙爾豊を代理総督に推し、自身は張之洞の後任の湖広総督に転じて湖北法政学堂を開設した。
清末に東三省総督・欽差大臣とされ、馬賊の張作霖と提携するなど革命制圧の組織化に成功し、翌年には南京臨時政府にも体制を安堵されて奉天都督とされた。
東三省では漢人流民の為の農地確保や反革命の成功などによって安定をもたらしたが、東三省の漢化をも促進した。
青島に隠退した翌年(1914)に袁世凱の要請で清史館の館長に就き、『清史稿』が脱稿して程なくに北京で歿したが、その間にも奉直戦争後の段祺瑞政権では参政院院長に指名されている。
張作霖 1875〜1928
奉天省海城(遼寧省)の人。字は雨亭。日露戦争後に馬賊から転じて東三省総督趙爾巽に帰順し、組織を保ったまま勢力を拡大させて第三革命に乗じて段芝貴を逐って奉天督軍となった。
袁世凱の死後は段祺瑞に通じて東三省巡閲使などを兼ね、安直戦争では直隷派に与したものの安徽派の梁士詒内閣や張宗昌の任用によって直隷派を牽制した。
第一次奉直戦争では敗れたが、1924年の第二次奉直戦争で馮玉祥と与に直隷軍を大破して執政府を掌握し、馮玉祥と対立すると張宗昌や呉佩孚らと討赤聯軍を結成して馮玉祥の駆逐に成功し、1926年末に北伐軍に対抗して安国軍総司令とされ、翌年には大元帥(大総統)に就任した。
日露戦争の頃から日本軍と関係を築き、奉天派の躍進や討赤聯軍の結成も日本の支援が不可欠だったが、北伐を再開した蒋介石が日本軍の満洲支配を容認した事で関東軍の支援が停止され、06.04に北京を放棄して奉天に向う途上で関東軍に列車ごと爆殺された。
張学良 1898〜2001 ▲
張作霖の長子。字は漢卿。英語に堪能な秀才として知られ、東三省講武学堂を卒業して軍属となり、安直戦争や奉直戦争での指揮を通じて支持を集めた。
1928.06に父が殺されると軍閥を継承し、蒋介石に称降して東北辺防軍司令官とされて東北地方の自治を認められ、翌年には楊宇霆ら反抗的な旧臣派を粛清して支配を確立した。
1930年の中原戦争で蒋介石に与して陸海空軍副司令官とされ、山西・西北軍をも掌握して蒋介石に亜ぐ勢威を有したが、満州事変で蒋介石に承旨して無抵抗のまま関中に退いた事を汪兆銘らに糾弾され、1932年に下野した。
1934年に外遊から帰国して豫皖剿匪総司令・西北剿匪司令として解放軍と攻伐したものの連敗と日本軍の満洲征服から厭戦的となり、共産党との折衝を経て1936.12に蒋介石を拉致する西安事件を起こし、翌年に逮捕されて貴州に軟禁された。
国民党の台湾退去に帯同された後も監視が解かれず、蒋経国総統(蒋介石の子)の死後に解放されて1991年にハワイに移住したが、西安事件については一切言及せず、2001.10.15にホノルルの病院で歿した。
中国本土では、第二次国共合作・統一抗日の実現者として「千古の功臣」「民族の英雄」と高く評価されている。
郭松齢 1886〜1925
奉天省承徳(遼寧省瀋陽市区)の人。字は茂辰。陸軍速成学堂・北洋陸軍で学んだのち四川省で革命同盟会に加入し、辛亥革命に乗じて奉天起義を画策した為に逮捕されものの同窓生の運動で釈放され、北京で将校研究所・陸軍大学に学んだ。
護法運動の頓挫で奉天に帰還すると東三省陸軍講武堂の戦術教官に就き、1920年に張学良の求めでその衛隊旅の参謀長とされ、旅団の精鋭化を指導して安直戦争ののち張作霖にも認められた。
以後も張学良の副官として奉天軍の中核を担い、そのため学堂派将校の中心となって楊宇霆ら宿将派と対立し、又た張作霖の親日姿勢にも批判的で、第二次奉直戦争の直後から馮玉祥に通誼していたとも伝えられる。
1925年に奉天派と馮玉祥が決裂すると張作霖の下野を求めて離叛し、東北国民軍司令官を称して奉天に進んだが、満洲での権益喪失を嫌う日本軍の干渉で大敗し、遼中県で銃殺された。
張宗昌 1882〜1932
山東省掖県(莱州市)の人。字は効坤。馬賊から軍人に転じて辛亥革命では陳其美の滬軍に属したが、第二革命で馮国璋に投じたのち陳其美を暗殺して信任された。
呉佩孚に疎まれて安直戦争の翌年(1921)に張作霖に奔り、離叛者の討伐やロシアから流入した白軍を吸収した事で有力となり、第二次奉直戦争での功で1925年に山東督弁とされ、苛酷な支配から“狗肉将軍”と憎まれた。
馮玉祥と張作霖が対立すると直魯聯軍総司令を称して1926.04に北京より馮軍を駆逐し、反革命の安国軍が組織された際には孫伝芳と並んで安国軍副司令とされたが、北伐軍に連敗して山東省に退いたのち大連に遁れた。
1929年に煙台制圧に失敗して日本に亡命し、1932年に帰国して張学良の参謀に連なったが、韓復を訪ねた帰途に済南駅頭で暗殺された。
馮玉祥 1882〜1948
安徽省巣県(巣湖市)の人。字は煥章。
直隷省青県で生まれ、武衛右軍で陸建章に認められて外姪の婿とされた。
又た孫文の革命思想に共感し、武昌起義に呼応した灤州起義には失敗したが、革命後に陸建章に挙任されて兵団を組織し、このとき全兵をキリスト教に改宗させて日曜礼拝などを欠かさなかった事から、後にクリスチャン=ジェネラルと呼ばれた。
陸建章の陝西討伐に従って第十六混成旅長に進み、安直戦争後も陸建章との係累から冷遇され、第二次奉直戦争の最中に北京政変を起して国民軍の結成を宣言し、孫文・張作霖らと交渉して南北和平を模索した。
孫文の死と前後して西北辺防督弁に転じ、甘粛督軍をも兼ねる西北面の大勢力となって張作霖ら討赤聯合と武力衝突し、郭松齢の離叛が失敗してモスクワに逃亡したが、9月には五原に帰還して西北軍の国民党加入を宣言し(五原誓師)、北伐に呼応して革命軍第二集団軍総司令官とされて統一後は行政院副院長・軍政部長とされた。
1929.05に軍閥削兵を進める蒋介石に対して李宗仁と結んで反蒋運動を起し、翌年には中原戦争を惹起したが、悉く敗れて汾陽に隠棲した。
1933年に組織した察哈爾民衆抗日同盟軍は日本軍と革命軍に挟撃されて失敗したが、1935年には党籍を回復して軍事委員会副委員長に就き、蒋介石との軋轢は除かれなかったものの抗日戦争では戦区司令官を歴任し、戦後は国共合作の維持を主張して内戦に反対した。
1946年以降は欧米諸国を歴訪し、中国和平を遊説して再び除籍され、帰国途上に黒海で船火事に遭って歿した。
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北京政変 (1924.10.23):第二次奉直戦争中に、直隷派の馮玉祥が起したクーデター。
当時、馮玉祥は討逆軍第三軍総司令として北上していたが、古北口で転進して北京の総統府を包囲し、停戦と曹錕・呉佩孚の罷免を宣言するとともに国民軍の成立を宣言し、同時に愛新覚羅溥儀ら清朝宗室を紫禁城から追放した。
前線の呉佩孚は奉天軍に敗れて湖南省に奔り、馮玉祥は孫文・張作霖・段祺瑞らに上京を促して南北和平を図ったが、孫文の死で頓挫して張作霖の影響の強い段祺瑞が臨時総統に就任した。
陸建章 1862〜1918 ▲
安徽省蒙城の人。字は朗斎。
淮軍・天津武備学堂教官を経て光緒21年(1895)に新建陸軍に加わり、各地の州鎮総兵を歴任した。辛亥革命後に北京総統府警衛軍統領・北京軍警執法処処長、陸軍第七師師長・豫陝剿匪督弁などを経て1914年に陝西将軍に進み、袁世凱の即位を支持して1915年に一等伯爵に封じられた。
そのため第三革命で陝西省を逐われたが、北京では第十六混成旅長の馮玉祥と結んで馮国璋の南北融和を積極的に支持・推進して信任され、総督府高等軍事顧問とされて直隷派の主要幹部に列し、南征を呼号する安徽派の徐樹錚によって暗殺された。
閻錫山 1883〜1960
山西省五台の人。字は百川・伯川。山西武備学堂や日本の陸軍士官学校で学び、在日中に中国同盟会に加入し、帰国後は山西軍への工作を進めて山西起義を成功させ、山西都督とされた。
以後は反袁運動には加わらず、「兵農合一・防共自治」の山西モンロー主義を以て省内開発を進め、実業の奨励・民治の発達によって模範省とされた。
北京政変では馮玉祥を支持したものの西北軍と討赤聯合の対立が不可避となると聯合に与し、綏遠省をも掌握して晋綏軍を称したが、国民政府の北伐に対しては協力を示して第三集団軍総司令とされた。
1929年に始まる反蒋運動の当初は馮玉祥を軟禁するなど蒋介石に与して陸海空軍副司令官とされたが、翌年に反蒋に転じて中原戦争を惹起し、敗戦で大連に奔って日本に庇護された。
1932年に太原綏靖主任に復帰し、1935年には軍事委員会副委員長となったが、翌年に人民解放軍に大敗した後は連共抗日を唱え、日中戦争の勃発で山西省主席とされた。
戦後に再開された内戦に敗れて1949年に太原を棄てて南京に遁れ、国民政府と倶に台湾に渡った。
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中原戦争 (1930):北伐完了後の蒋介石による軍閥削兵に対する、反対闘争のピークとされる戦。
1929年から新桂軍を中心とした護党救国軍や馮玉祥による反蒋戦争が始まっていたが、1930年になって閻錫山が反蒋の旗幟を鮮明にした事で閻錫山を総司令、馮玉祥・李宗仁を副司令とし、閻錫山を主席とする北平国民政府が組織されて国民党古参の汪兆銘なども参加した。
9月に南京政府擁護を表明した張学良が北平を攻撃した事で終結したが、翌年には広州に汪兆銘を首班とする反蒋政権が樹立され、国民党による内戦状態は両政府が合作する1932.01まで続いた。
韓復 1890〜1938
順天府覇州(河北省)の人。字は向方。清末に軍に入って馮玉祥に属し、1927年には国民革命軍第二集団軍の第六軍軍長に進み、国民党の北伐にも参加して同年末に河南省政府主席とされたが、軍権を奪われた事を不服として1929年に馮玉祥が反蒋軍を興した際に蒋介石に帰順した。
中原戦争での功で山東省政府主席とされ、皖州剿匪総予備軍総司令や軍事委員会分会委員などを兼ねつつ日本との提携や国民党勢力の排除を進め、山東省に独自の勢力を形成した。
西安事件では張学良らを支持し、日中戦争が勃発すると第三集団軍総司令兼第五戦区副司令に任命されたものの済南などを放棄し、翌年の開封での軍事会議で逮捕されたのち処刑された。
楊増新 ?〜1928
雲南省蒙自の人。字は鼎臣・子周。光緒15年(1889)の進士。
甘粛・新疆で地方官を歴任し、辛亥革命時には新疆巡撫袁大化の下で鎮廸道台にあり、翌年に袁大化が致仕すると後任の新疆省長兼督軍とされた。
典型的な官僚軍閥ではあったが、硬軟を併用して管内の統一を保ちつつ、ロシア白軍などの外敵の撃退やイギリス・ロシアとの外交などによって新疆を政治的に安定させた。1928.06に南京の国民政府に忠誠を誓って官職を安堵されたが、7月7日に部下の樊耀南に暗殺された。
馬家軍
辛亥革命後に甘粛・寧夏・青海地方を支配した集団。甘粛の河州回民の馬氏が主導し、袁世凱の死後は馮玉祥、次いで蒋介石に与して勢力の維持を図った。
境内の学校教育の向上やインフラ整備などにも一定の成果を挙げたが、反抗的回民を徹底的に弾圧した為、「馬氏の頂珠(官吏制帽の宝珠)は回回の血で染まった」と怨恚された。
寧夏の昭武軍系と青海の寧海軍系に大別され、特に馬鴻逵は寧夏王、馬歩芳は青海王とも称された。
馬福祥 1876〜1932
甘粛省河州(臨夏回族自治州)の回民。宣統2年(1910)に西寧鎮総兵から西路巡防統領に進んで蘭州に駐屯し、革命後に袁世凱に帰属して寧夏鎮総兵とされ、麾下の軍は“昭武軍”と呼ばれた。
ムスリム系学校や公共図書館の建設、地方志の編纂、古典籍の保護など教育の充実にも注力し、安直戦争に乗じて甘粛から安徽派を排除したのち綏遠都統に転じ、以後も子の馬鴻逵が寧夏の軍事を掌握した。
北京政変では馮玉祥に与したが、権限縮小に反発して北伐を完了させた蒋介石に接近し、1929年より青島市長・安徽省政府主席・蒙蔵委員会委員長を歴任して北平で歿した。
馬鴻逵 1892〜1970 ▲
馬福祥の嗣子。父に従って中原戦争で蒋介石に与して第十五路軍司令官に進められ、戦後に寧夏省主席に直され、従兄の甘粛省主席馬鴻賓との争いはあったが、昭武軍による安定した支配によって「寧夏王」と呼ばれた。
日中戦争では第十七集団軍総司令とされて馬家軍の主帥たる事を公認され、内戦で国民党の敗勢が必至となると蒋介石らと共に台湾に逃れたが、領内での敗戦責任を問われるとアメリカに亡命し、ロサンゼルスで牧場主として歿した。
馬麒 1869〜1931
甘粛省河州の回民。清末は父と共に董福祥に従って直隷に進駐し、辛亥革命では一族の馬安良に従って寧夏の革命軍政府を壊滅させた。
1912年からは西寧に駐屯して一族を中核に“寧海軍”を組織し、1915年に甘辺寧海鎮守使(旧青海弁事長官兼西寧鎮総兵)とされ、交易によって軍事力を強化して玉樹・昂欠(嚢謙)などを確保する一方、アヘン栽培の禁止、開墾の奨励、道路建設や水利など民政の充実も図って一定の成果を挙げた。
馮玉祥の国民軍に編入された翌年(1928)に青海省政府主席とされた。
馬歩芳 1903〜1975 ▲
馬麒の子。1936年に境内の人民解放軍の殲滅と並行して叔父の馬麟を逐って青海の軍・政の両権を掌握し、1938年には省主席とされ、長期の青海支配から「青海王」とも称された。
1949年に人民解放軍に蘭州を占領されると重慶に逃れて国民党政府と行動を倶にしたが、蒋介石に青海での抵抗を逼られるとサウジアラビアに亡命し、人民政府とエジプトの国交樹立を機に中華民国の駐サウジアラビア大使とされた。1961年に姪を側室としたことが露見して罷免され、サウジアラビアで客死した。