▽ 補注:地理.2

朔方  満洲  華北  関西  華中  嶺南  関塞他
 

上都
 開平府。内蒙古自治区東南部、シリンゴル盟正藍旗南部の灤河上流左岸(ドロン=ノール西北隣)。 モンゴルの漠南漢地大総督となったクビライが造営し、クビライの即位後は元朝歴代の夏都とされたが、元末の動乱で廃墟となった。
マルコ=ポーロが紹介した事で、西欧では“ザナドゥ”の名で知られる。

応昌
 内蒙古自治区の中部南辺、シリンゴル盟ドロン=ノール(多倫)北方のタール=ノール湖畔の地。 1214年の封建でオンギラト部に下賜され、以後、元朝と盛衰を与にし、大都を逐われた元朝が拠点とした。 応昌の名は、1270年にオラチンに降嫁したクビライ汗の皇女の要請で城邑が建設された際に与えられた。

オルド=バリク
 8世紀後期にウイグル帝国の牟羽可汗がオルコン川畔に建設した城壁都市。「宮殿の街」と訳され、富貴城とも呼ばれた。 定住社会に対する依存度を強くしたウイグル帝国が、行政機構の集中と通商団の逗留の為に造営した。 キルギズ族がウイグル帝国を滅ぼす際に破壊されてよりカラ=バルガスン(廃城)と呼ばれるようになり、その遺構から、外城は約5km四方、内城は420×335mの二重都城だったと推定される。 一帯は高原の中心にもあたって古くから遊牧に好適で、モンゴル時代にオゴデイ汗がカラ=コルムを、16世紀にアバダイ=サイン汗がエルデニ=ズー寺院を造営した。

カラ=コルム  ▲
 哈剌和林、和林。直訳は「黒い砂礫」。 オルコン川畔のカラ=バルガスン(旧オルド=バリク)の近郊に位置し、モンゴルのチンギス汗が大西征の際に兵站基地を営んだ故地に、1235年にオゴデイ汗が行政都市として造営した。 カラ=コルムを起点として駅伝が整備され、ユーラシア各地から人物が活発に往来し、大いに繁栄したという。 クビライが元朝を開いて大都に遷都した後も高原の中心として重んじられ、中国を逐われた元朝が首都としたが、北元の衰微とともに凋落してエルデニ=ゾー寺院造営のための資材調達によって荒廃した。

綏遠
 アルタン=ハーンの営んだ帰化城の東北2kmに、清代に築かれた都城。山西省綏道に属して綏遠将軍が進駐し、革命後の1914年に帰綏県と改称され、綏道12県と烏蘭察布盟・伊克昭盟を以て成立した綏遠特別区の中心として綏遠都督が駐署した。 綏遠特別区は山西省・陝西省の北辺に接して現在のウランチャブ市、呼和浩特市、包頭市、オルドス市、バヤンノール市を含み、1928年に綏遠省に改編され、1954年に廃止されて帰綏県は呼和浩特市と改称された。

大同
 山西省北辺の都市。漢代は平城県が置かれて雁門郡に属した。 北魏初期には国都が置かれて432年に万年と改称され、493年の洛陽遷都後は平城に復したが、その間に近郊には雲崗石窟が営まれた。北斉で太平県、隋では雲内県とされ、唐が640年に定襄県と改めて雲州の治所とされ、682年に廃止されたものの732年に雲中県が置かれた。
 五代期に燕雲十六州に含まれて契丹に割譲され、遼が1044年に陪都の1つとして西京大同府を置き、治所も大同県と改められ、金もこれを踏襲した。 元の大同路、明清の大同府の治所が置かれ、殊に明朝では長城方面に対する物資の集散地として重視された。

盛楽  ▲
 内蒙古自治区呼和浩特市南方のホリンゴル(和林格爾)県。 漢代には定襄郡に属して成楽と記され、雲中郡に転属した東漢で盛楽と改称された。 3世紀後期に鮮卑の拓跋力微が拠り、代王となった拓跋猗盧が北都として盛楽宮を営み、340年に拓跋什翼犍が代の国都に定めて翌年には故城の南方8里に盛楽城を造営した。 政権を再興した道武帝も398年に平城に遷都するまでは盛楽を国都とした。

楡林
 陝西省北辺の都市(楡林市楡陽区)の俗称。 秦漢では上郡に属して亀茲県が置かれ、5世紀に赫連夏が拠った事で北魏では夏州に属した。河套に接している事から関中の北防の最前線とされ、明代に楡林衛、清代に楡林府とされ、常に総兵を配置して北防の拠点とした。

統万城  ▲
 陝西省楡林市靖辺県の北辺、紅墩界郷の無定河の北岸に位置する。 匈奴の赫連勃勃が413年頃に国都として造営し、城壁に錐が一寸通れば工人を殺して壁に埋めたと伝えられるが、そのため城壁は堅牢で、現在でも白い城壁の一部が残って“白子城”と呼ばれている。 内城の規模は縦横530x610m程で、北魏に征服された後は統万鎮が置かれ、487年に夏州に改編されると共に岩緑県とされて州治が置かれた。

 

奴児干
 ヌルガン。明代に置かれた、満洲鎮撫の都司。 永楽年間に拡張策に転じた明朝は女真が招撫に応じる都度に衛所を置き、1409年(永楽7)に至って黒竜江口の奴児干に諸衛統轄のための都司を設置し、永寧寺を併建した。 奴児干都司は地理的条件から有名無実化しやすく、1411年には宦官の亦失哈が再建のために派遣され、宣徳年間(1426〜35)にも経略が行なわれたが、正統年間(1436〜49)以降は国力の衰退・政策の内向化などによって放棄された。

大寧
 泰寧。ラオハ=ムレン上流の赤峰市寧城県大明鎮に比定され、遼代の中京大定府、金代の北京路大定府、元代の大寧路の故治。 一帯は古来から遊牧勢力と中国の係争地で、明朝が1387年に築城して大寧衛を置き、内地との駅馬も整備されて北辺政策の重要拠点となった。 1393年に皇子の寧王朱権が就国してより北伐の拠点とされたが、1403年、靖難の変で永楽帝に協力した三衛に与えられ、衛所は内地に遷された。

襄平
 遼寧省遼陽市。満洲最古級の中国人植民都市で、戦国燕の長城東部に位置し、秦漢を通じて遼東郡治が置かれ、公孫氏慕容燕が政権の中心とした後、高句麗領となって遼東城と呼ばれた。 隋唐の高句麗遠征では激戦地となり、一時は安東都護府が設置された。
 契丹が渤海遺民統治の為に置いた東丹国の首府となり、次いで五京の1つの東京遼陽府となり、熟女真、特に曷蘇館女真統禦の中心とされた。 金朝でも遼陽府と呼ばれ、金末には蒲鮮万奴が拠り、元・明を通じて東北経営の拠点とされた。 1621年に一時後金国都とされ、日露戦争でも激戦地となった。

瀋陽
 盛京・奉天とも。遼寧省瀋陽市。渾河(旧瀋水)の北岸に位置し、漢で遼東郡や玄菟郡に属し、唐代に瀋州、元代に瀋陽路、明代には瀋陽中衛が置かれた。 一帯の主邑は久しく遼陽にあったが、サルフの役に勝利したヌルハチが1625年に国都とし、1634年に盛京(ムクデン)と改称した。 北京遷都後も陪都とされ、1657年に奉天府と改称されて府尹と将軍が置かれ、中央に準じた官制が整備された。19世紀に東北地方への漢人入植が解禁されると東北地方の中心として発展し、辛亥革命後は承徳県と改称されたが、河北省の同名都市との混同を避けて瀋陽県と変更された。

熱河
 河北省承徳の旧称。もしくは同都市を省都とした省。漠南〜北京間の要衝に位置し、清代には承徳府庁が置かれ、文津閣などを含む離宮避暑山荘や八大ラマ寺院などが建造されて、現在まで清朝文化の一半を伝えている。 1928年に河北省北部・遼寧省西部・内蒙省東南部を以て熱河省が設置されると省都とされた。
 熱河省は1914年にゾーオド・ゾスト両盟とチャハル盟の一部を以て2盟19旗14県を管轄する熱河道として成立し、1928.09に承徳県に省会を置く熱河省に改編され、15県20旗を管轄した。 中華人民共和国では2市16県4旗を管轄したが、1955年に廃止され、承徳市を含む1市8県が河北省へ、朝陽県・喀喇沁左旗を含む5県1旗が遼寧省へ、赤峰県・喀喇沁旗・翁牛特旗を含む3県3旗が内モンゴル自治区へ移管された。


燕京
 薊・大都・北平府とも。現在の北京。 一帯は太行山脈・燕山山脈に囲嶢され、西周初期に召公が封建されてより北辺の中心として発展し、前燕では国都とされた。 長らく幽州の治府が置かれた為に幽州城とも呼ばれ、唐代には大都督府が置かれ、五代後晋によって契丹に割譲されると南面の副都として南京とされ、金では海陵王の遷都によって中都大興府と改められた。
 遼金の都城が現在の北京の祖型とされるが、当時の境内の東部が現在の外城の西半と重なっているのみで、荒廃した燕京の上に元朝が造営した大都が現在の北京の直接の前身となった。 明朝が1421年に応天府(南京)から正式に遷都して北京順天府と称し、嘉靖年間(1522〜66)のモンゴルの来襲で南部が拡張された。
 20世紀になって北京市南郊の琉璃河地区で830x500m規模の西周燕都(琉璃河遺址)が発見され、北京市の伝統がB2000年紀末期まで遡ることを証明し、文化的には現地民と商民・周民の共生から出発して次第に周文化に同化していったことが明らかになっている。

天津市
 北京市の東南に隣接する海港都市。北運河南運河の交差する三会海口(金鋼橋三岔河口)が発祥となり、当初は江南からの物資の中継地とされ、金代に直沽寨、元代に海津鎮が置かれた。 明の靖難の変で燕王朱棣が渡河したことが天津の名称の由来となり、程なく3衛所が設置され、清朝が1652年に統合して天津衛となり、雍正年間には府に昇格して7州県を管轄し、李鴻章・袁世凱ら洋務派の拠点となった。
 1860年に北京条約によって開港し、これより北京の外港として急速に発展して諸外国の租界が設置され、1927年に市に昇格した。

范陽
 初置は秦代に遡り、隋が581年に遒県と改称し、これは現在の河北省保定市の定興県にあたる。
 范陽県の属した涿郡は涿県を治所としたまま曹魏の文帝が范陽郡に改称し、607年に幽州、燕州の5郡を以て涿郡に再編されてに治所が置かれ、唐の為州で幽州となった。 624年に涿県が范陽県と改称され、712年には諸軍鎮中で最も強力と称された范陽節度使が置かれ、天宝年間(742〜56)の廃州為郡の際には范陽郡の称も復活した。安史の乱後に涿県に戻り、1986年には県級市に昇格して涿州市が成立した。

中山
 河北省保定市の定州。戦国時代の中山国に属し、漢では盧奴県として中山国都が置かれた。 十六国時代には後燕の国都とされ、中山の失陥が後燕の南北分裂となり、400年には北魏によって定州の治所とされ、太行山脈越えの要衝の1つとして重視された。 北斉によって安喜県と改称され、以後も定州・定州路・中山府の治所とされ、1370年に安喜県が廃されて定州直轄となった

博陵  ▲
 河北省保定市の蠡県。漢では陸成県と呼ばれて中山国に属し、158年に博陵郡を分立する際に郡治として博陵県と改称された。晋では博陸県と改称されて博陵国都は安平に遷され、北魏が博野と改称し、明朝の洪武年間に県治が現在の博野県に遷された後、故地に蠡県が置かれた。
 北斉〜唐朝を通じて、博陵の崔氏は范陽の盧氏とともに第一級の家門とされた。

鉅鹿
 河北省邢台市平郷県。秦漢の鉅鹿郡の郡治。 黄河の分流地を内包していた為に県城は黄河が氾濫するたびに遷移し、北魏時代に東方15kmに移設され、北斉によって廃された。 隋が北郊の嘗ての南䜌県を巨鹿と改称して復置したが、以後も洪水を原因とする遷移は続き、1108年の県城の陥没によって現在の丘陵地に移された。

襄国
 河北省邢台市邢台県。殷が邢都を営んだとの伝説があり、周代には邢国が置かれた。 秦の信都県を西漢が襄国と改称し、十六国時代には建国期の後趙が国都を置き、589年に隋によって龍岡県と改称され、程なく邢州治が置かれた。 1120年に宋が邢台県と改称し、1913年の府制廃止まで信徳府・信徳路の治所とされた。

邯鄲
 河北省南部の中心都市。殷代には城壁都市が形成され、B4世紀初頭には趙が遷都し、中原の一角に位置していた事もあって臨淄大梁と並ぶ名都とされた。 秦末の戦乱で秦将章邯によって徹底的に破壊されたが、以後も大邑として存在したらしく、B198年には趙王国の首都とされ、趙王劉如意に対する寵遇もあって「富冠海内、天下名都」と称された。 漢末の戦乱で一帯の中心は鄴に遷り、6世紀半ばには東魏に廃止されて臨漳県に併合され、596年に復置された後も小県に留まり、宋代には東南の大名府が繁栄した。近代にはしばしば鎮に降格されたが、1983年の地区・県級市合併と伴に地級市に昇格された。


 河北省南端部の邯鄲市臨漳県。 漳河北岸に斉桓公によって造営され、戦国時代には魏に属して漳河を利用した灌漑で発展し、漢では魏郡の治所となって漢末に袁紹・曹操が拠点とした。335年に後趙の国都となって縦横5里x7里(1700x2400m)に拡張され、前燕でも国都とされた。
 6世紀に北魏が東西に分裂すると東魏の国都となり、漳河を挟んだ南岸に縦横8.6里x6里(3454x2600m)の南城を造営したが、北周末の尉遅迴の乱で徹底的に破壊され、復興した後は地方都市に過ぎなくなった。 後趙の鄴都は北部は王宮と正殿・戚里(皇族宅)など、南部は主に官署から成っていた。

磁州
 河北省邯鄲市の磁県の俗称。西方の磁山で磁石を産した事が名称の由来とされる。 北周が置いた滏陽県を治所として590年に磁州が置かれ、唐以降、付近の彭城鎮で良質の陶磁器が生産されたために有名となった。 滏陽河・漳河・太行山脈に囲まれた戦略的要地でもあり、南方に磁州炭坑を控え、宋代には代表的製陶地となり、明初に滏陽県が廃されて磁州直轄となった。

澶州
 河南省濮陽市域。唐初に置かれて頓丘(河南省清豊)を治所とした。 938年に頓丘ごと徳勝北城(濮陽市城)に移鎮し、翌年には濮陽県治でもある南岸の徳勝南城(濮陽治)に移鎮し、以後、治所は南北で遷移した。 1004年に西南郊の澶淵で宋と契丹の和議が結ばれた。 1073年に頓丘県は廃止され、1077年に水害によって州と濮陽県は徳勝北城に移鎮し、1106年に開徳府に昇格し、或いは澶州、或いは開州と改称した。

朝歌
 河南省鶴壁市淇県。 殷末の紂王の都と伝えられ、周初の践奄の役の後に康叔が衛侯に封じられた。 一帯は経済・文化の中心として諸国の係争地となり、秦による統一後も歴朝で朝歌県が置かれたが、元が淇州治を置いた後、明によって淇県と改名された。

臨淄
 山東省淄博市区。淄水に臨み、先秦時代には営丘とも呼ばれて斉が国都とし、春秋時代に管仲の指導によって大都市に発展し、戦国時代には四周21km、戸数7万を擁した世界屈指の都市となっていた。 全土を統一した秦も斉郡治を置き、漢代でも踏襲されて斉の国都として臨淄県が置かれた。 東漢初期の張歩討平で城壁が破壊された後も斉郡の治所が置かれ、隋代に城郭が修築されて北海郡に属し、唐宋では青州に、金代には益都府に属した。 元末に旧城が放棄されて東南の現在位置に移設され、明清では青州府に属した。


開封
 河南省東部の黄河南畔の都市。春秋鄭の荘公が啓封を置いたことに始まり、後に漢景帝の諱を避けて開封と改められた。 又た戦国魏が啓封の近傍に国都として大梁を造営し、漢では浚儀県が置かれて梁国の王都とされた事もあったが、漢魏を通じて一帯の中心は多く陳留(開封市開封)に置かれ、北周では汴州と改められた。
 汴州城(旧大梁)は隋代に大運河が開かれると物資の大集散地として急速に発展し、五代・北宋では概ね国都とされて開封府が置かれ、汴京、或いは洛陽に対して東都と呼ばれた。 北宋の治下において夜間通行の禁・城坊制が廃されて空前の繁栄に達し、人口も100万を超え、殊に庶民文化が大きく発展した。 京杭大運河の開通で江南と幽州が直接された事もあり、以後は地方都市となって河南省の治所にとどまった。

鄭州
 河南省の省都。黄河南畔にあって洛陽と開封の中間に位置し、殷の時代には王都が置かれた事もあった。 周初に管叔鮮が封じられ、そのため久しく管城と呼ばれ、漢では河南郡の中牟県に属した。 596年に管城県が置かれて鄭州に属し、唐代に鄭州の治所が置かれ、明初に廃県されて鄭州の直轄となって現在に至っている。
 1954年に省都が開封より移され、その際に市城に半ば重なる二里崗遺跡=鄭州商城遺跡が発見され、その南半を利用して造営された城壁が現存の鄭州城壁である事が確認された。

洛陽
 河南省の黄河南畔、洛河に臨む洛陽盆地の中心都市。 東西・南北交通の要衝として、五代期までしばしば国都が置かれて長安と並称された。 周初には洛邑と呼ばれ、東方経営の拠点として邙山南麓の瀍河と洛河の合流点に王城(洛陽市区)が、15km東方の洛河北岸には八師が駐留する成周城(偃師市)が建設され、B770年に平王が立てられてより王城が東周の国都とされたが、敬王の時代の王子朝の乱よりは概ね成周城が王都とされた。 王城の規模は縦横3700x2890mで、各面に3門を有した。西漢では王城一帯は河南県となり、成周城が洛陽県城と呼ばれて河南郡治を兼ね、東漢では国都とされるとともに火徳に因んで水を忌み、雒陽と記された。
 漢末の董卓の破壊から復興した雒陽城は縦横9里x6里(3900x2600m)の規模で九六城と通称され、洛河による侵蝕で南壁を失って北壁3700m、東壁3895m、西壁4290mが現存する。 北魏が洛陽遷都後の501年より旧城を内包して縦横15里x20里の外城を造営し、城内は一辺300歩の牆壁により320余坊に区画され、盛時には戸数11万、仏寺1367を数えた。中国最初の大規模な計画都市でもあり、北魏末の兵乱で荒廃したが、横長の矩形や条坊制は、隋唐長安城や日本の藤原京にも衍用された。
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 現在の洛陽市街は隋が河南県城の東隣に瀍河と洛河を跨いで造営した新都城の宮城部分で、605年に洛陽県・河南郡治が移設されて東都と呼ばれ、大運河の集散地として交易経済の心臓部となり、唐でも東都として繁栄した。 隋唐洛陽城の規模は東壁7312m、西壁6776m、北壁6138m、南壁7290mで南北二城から成り、北城の瀍河西岸に宮城・皇城が営まれ、北城東部に北市が、南城には南市・西市が置かれた。 安史の乱と開封の抬頭によって地方都市に没落したが、漢魏城西方の白馬寺や、南郊の龍門石窟など旧跡も多く、観光都市として注目されている。

応天府
 河南省商邱市睢陽区。 太古に帝嚳の子の契(殷の遠祖)が封建されたとの伝説があり、先秦の宋の国都が営まれ、漢では睢陽県が置かれて梁国に属し、隋唐では宋州が置かれた。即位前の趙匡胤の封地として宋の王朝名の由来となり、北宋四京の1つとして南京応天府と呼ばれ、高宗即位の地でもあった。
 明朝では江蘇省南京市に国都を置いて応天府と改称し、北京遷都後に南京の呼称が定着した。


 白河(淯水)の北岸に面した河南省南陽市街(宛城区)の古称。 春秋楚が北上の拠点として宛邑を置いたことに始まり、秦が南陽郡を置くとその治所とされて漢でも踏襲され、主に南北交通の要衝として発展し、又た鉄官・工官が置かれて産業都市としても知られた。 東漢では帝郷として重んじられて数多の豪族が姻戚に連なり、南都とも呼ばれた一方で難治の地でもあった。 『後漢書』によれば、南陽郡は37城を擁し、盛時の戸数は52万8551、人口は243万9618を計上して最も富強な郡の1つだった。


 安徽省亳州市区(譙城区)の旧称。春秋陳の焦邑に由来し、秦が譙県を置き、東漢では沛郡に属して豫州の治所となり、漢末に譙郡が新設され、曹魏では帝郷として五都の1つに数えられた。 北魏が507年に南兗州を置き、北周が亳州と改め、隋の廃州為郡では譙郡に改編されて6県を統轄した。 唐が再び亳州に再編して譙を治所に8県を統轄し、開元年間には戸数7万、郷数138を数えた。

彭城
 江蘇省の省都/徐州市の旧称であり、同都城を治所とした郡国名でもあった。黄河と淮河の中間に位置し、丘陵に囲まれて泗河が近傍を流れていた事もあって、軍事拠点としても交通の要衝としても古くから重視された。 春秋宋の彭城邑に始まり、始皇帝が彭城県を置き、秦末には項羽が西楚国の国都とし、漢でも楚国・彭城国の治所が置かれた
 曹魏より徐州の治所を兼ね、南北朝時代には屈指の係争地となり、通済渠の開通で南北中継の要衝としても重視されるようになった。

下邳
 江蘇省徐州市にあった故県。現在の睢寧県古邳鎮にあたる。 往古に薛人が建てた邳国の地と伝えられ、春秋楚の圧迫で国人が薛に遷移した後、薛を上邳、邳と下邳と称したという。始皇帝が下邳県を置き、漢で韓信の楚王国が廃された後は臨淮郡に属し、東漢で臨淮郡・下邳国の治所が置かれ、漢末には徐州の治所とされた。 曹魏・晋では徐州治は彭城に遷されたが、北魏・東魏で東徐州の治所とされ、北周が邳州とし、隋の為郡で下邳郡の属県とされた。 唐代に邳州が廃された後は徐州に属し、金元では復た邳州の治所となり、明初に邳州直轄として下邳県は廃された。 1668年に大地震と黄河の決壊によって陥没し、治所が現在の邳州の地に移設された。

 

太原
 山西省の省都。汾河盆地の北端に位置し、春秋晋の趙鞅がB497年に晋陽城(晋源区晋祠鎮)を築いた事に始まり、秦漢で太原郡治が置かれ、東漢以降は幷州の治所とされた。 東魏・北斉で陪都とされ、唐では太祖李淵の挙兵の地として北都・北京とも呼ばれ、長安・洛陽と並ぶ要衝とされた。 762年には河東節度使の治所となり、一帯では鉄・石炭を産した為に唐末五代には沙陀政権の根拠地とされ、北漢が国都を置いた為に晋陽の称は廃された。 北漢が滅ぼされると東北郊に現在の太原城が造営されて陽曲県に属し、以後も宋の河東路、元の太原路、明清の山西省の治所として府署が置かれた。

平陽
 山西省臨汾市街(堯都区)を治所とした故県。汾河の東岸に位置して堯の故都と称され、春秋晋が対岸南郊の金殿鎮を治所に初めて置き、曹魏では新設された平陽郡の郡治とされた。309年に匈奴の劉淵が遷都し、以来、匈奴・鮮卑系勢力の重要拠点の1つとされた。 528年に現在の白馬城に治所が遷され、隋で臨汾県と改称されて臨汾郡・晋州の治所とされ、五代後梁が定昌軍節度使を置いた。 宋の平陽府、元の晋寧路、明清の平陽府の治所が置かれ、2000年に地級市の臨汾市が成立すると市轄区の堯都区に改編された。

左国城  ▲
 山西省呂梁市街(離石区)の東北約10kmにあった故城名。東漢の初期に匈奴南単于の王庭とされ、晋代には匈奴左部の居城とされた。晋の成都王頴より離れた劉淵が拠り、建国と伴に国都とした。


 春秋晋の首邑。もとはと呼ばれ、B7世紀前期の簒奪で改称された後も晋の首邑とされた。B585年に曲沃を挟んで西の新田に遷都した後は、新田が新絳、翼は故絳と呼ばれた。
 新絳は汾河に臨み、戦国魏では汾城と呼ばれ、現在の侯馬市西部の侯馬晋国遺址に比定される。 隋が正平県を新設して絳州に属し、後に絳州の州治が置かれた。中華民国の州制廃止により新絳県とされ、1958年に曲沃県・新絳県と絳県の一部を以て侯馬市が新設され、1963年に曲沃県に改編されたが、1971年に侯馬県が分離された際に晋国遺址は侯馬に属した。
  
 故絳の翼は臨汾盆地東南部の浍河畔に位置し、現在の翼城県にあたる。 漢で絳県に属し、北魏が北絳県を新設し、隋が翼城県と改めて翼城郡治が置かれ、唐以降は浍と呼ばれ、宋代になって翼城県に戻された。県城東南の南梁鎮故城村の城壁跡は翼邑址と伝えられてきたが、これは隋代の翼城県跡と考えられている。

曲沃  ▲
 春秋晋の都邑。臨汾盆地の南端に位置して浍河が横貫し、現在の臨汾市曲沃県にあたる。 春秋初期には首邑の翼より繁栄していたことが曲沃による簒奪を促したが、首邑とはされなかった。 西漢では降県に属し、北魏が487年に曲沃県を新設し、隋代に県治が10km程遷されて現在の場所に定まった。 1958年に廃されて侯馬市に編入されたが、1963年に曲沃県に改編され、1971年に侯馬県の分離に際して曲沃城が県治とされた。


長安
 陝西省都の西安市の旧称。渭河の南岸に営まれた中国歴朝の首都。 関中盆地の中心都市でもあり、開封が抬頭するまでは洛陽と“両都”“二京”と並称されたが、シルク=ロード東端の一大集積地でもあることから、長安を国都とした王朝は該して国粋意識が稀薄で対外活動に活発だった。 はじめ漢高祖が周の鎬京の北郊(未央区西部)に国都として造営し、この長安城は不整形な矩形で周囲28km、東壁は5940mに達し、城内は東西両市の他は殆どが宮殿で占められ、盛時の人口は城内外で20万を越えたと推測されている。 赤眉の乱で荒廃してより長らく本格的な再興が為されず、隋の大興城遷都に伴い徹底的に破壊・池沼化された。
 大興城=隋唐長安城は隋文帝が583年に、長安城の東南の龍首原に北魏洛陽城に倣った計画都市として造営したもので、着工の翌年には遷都が強行され、唐玄宗代に最盛期を迎えた。 隋唐長安城は縦横8652x9721mの規模で、北部に縦横3336x2820mの内城を置き、内城は北の宮城と南の皇城(朝廷+官署)に分けられて宮城の両翼に東宮と掖庭を配し、城外に接する北門として玄武門が置かれた。 内城は低湿で、663年には城外東北隅の高台に大明宮が造営され、そのため隣接する城内が貴顕の居住区となり、曲江池を擁する南東部が遊覧地となって東高西低の傾向を強め、殊に西南部は一部が耕地化されるなど過疎化が顕著だった。
 運河網も整備強化され、諸外国との国交・交易などによって国際都市として繁栄し、百万都市と号した城内人口は唐末まで50万前後を維持した。 唐以降は水環境の劣化と、漕運網の変化などによって地方都市に没落した。
  
鎬京:灃河畔の豐邑(岐周の都邑)の対岸に、周の武王が造営した国都。 西安市街の西南郊に比定され、周代には宗周とも呼ばれた。東周の初めに放棄され、漢武帝が一帯に昆明池を造営させた際に水没した。

咸陽
 陝西省咸陽市。 戦国秦の孝公がB350年頃に造営して国都とし、渭河の北、九嵕山の南に位置した為に「咸(みな)陽」として咸陽と命名された。 始皇帝の天下統一後に渭河の南岸にも及ぶ大規模な拡張工事・宮殿造営が行なわれて巨大都市となったが、B206年に項羽によって徹底的に破却されて小都市に没落し、西漢では新城・渭城と呼ばれて右扶風に属し、一帯には帝陵が多く営まれた。


仇池
 河池とも。甘粛省西和県南郊の大橋郷の、西漢水東岸のカルデラ状の地形に由来し、四方壁立した山に囲繞されて漢晋時代には氐族が居住し、十六国時代には政権が建てられた。歴史的県治は現在の徽県に置かれた。

天水
 漢が隴西郡から分置した郡。東漢の漢陽郡。 当初は渭北を領して現在の天水市街(上邽県)は含まず、治所は平襄(定西市通渭)や冀(天水市甘谷)に置かれた。 西晋では上邽を治所とし、恵帝が秦州を復置するとその治所を兼ね、以来、概ね秦州の中心となった。

姑臧
 甘粛省武威市区。河西を征服した漢が武威郡の治所として置き、これより河西の中心として曹魏・晋では涼州の治所とされ、十六国時代には姑臧の獲得が河西の主人を意味して諸涼が奠都を争った。 北周・隋でも涼州・武威郡の治所とされ、吐蕃・西夏に没した後、元朝では西涼州とされ、明は涼州衛を置き、清は涼州府治とした。

敦煌
 漢武帝が置いた河西四郡の1つ。 甘粛省の最西端に位置し、西辺に設けられた玉門関まで長城が延長され、西域への門戸として発展した。東西文化の接触地として独自の文化を発展させ、5世紀初には中心都市の敦煌を国都として西涼が樹立され、北魏の下で敦煌を中心とする沙州と東部の瓜州が並立した。 唐代に吐蕃に占領され、唐末に奪還されると帰義軍が置かれて土豪の自治が追認され、宋代には西夏領となった。
 従来、敦煌郡の設置はB111年とされてきたが、B93〜B92年に李広利の大宛遠征の前進基地として設置されたとする説が有力になりつつある。

 

寿春
 寿陽。安徽省六安市寿県の旧称。淮河と東肥水の合流点南岸に位置した要衝で、B3世紀には戦国楚が一時国都とし、西漢の淮南国(九江郡)、曹魏・晋の淮南郡の治所が置かれ、曹魏では揚州の治所を兼ねた。 晋の南遷後は豫州の治所が置かれた事もあったが係争地の1つとして帰属が定まらず、383年の淝水の役、507年の鍾離の役も近傍で行なわれた。 隋代に寿州・淮南郡の治所とされ、唐代には淮南道に属し、宋では寿春府に昇格されて淮南西路の治所とされ、元でも安豊路の治所とされたが、明では寿州の直轄となって鳳陽府に属した。
 近年までは宋代の風情を善く遺し、1986年には国家歴史文化名城に指定された。又た県城の南には春秋時代に拓かれた芍陂(安豊塘)が現存し、北宋代に築かれた城壁も好く保存されて七大古城牆に数えられ、1991年の江淮地区の大洪水でも城壁として機能した。

合肥
 安徽省の省都。伝統的に“ガッピ”と訓まれる。 淮西平野の中央、巣湖の北岸に位置して古来より軍事の要衝とされ、秦が合肥県を置き、三国時代や十六国時代、南北朝、唐末五代など南北対立の時代においては常に必争の地とされた。 南北朝では南豫州・合州・廬州などの治所とされ、隋以降は概ね廬州と呼ばれ、五代の呉国・南唐でも重要拠点であり、南宋では対金の最前線とされた。 廬州は元代には路、明清では府とされた。
 233年頃に曹魏が旧城の西北郊に新城を造営し、これは晋の平呉によって棄てられたが、市街西北郊の蜀山湖西北に三国遺址公園内に三国新城遺址として整備されている。


建康
 現在の江蘇省の省都/南京市。秣陵・建業・江寧・金陵とも。 長江の東岸に位置する天然の要害で、古くは金陵と呼ばれ、秦が秣陵と改称して鄣郡(丹楊郡)に属し、漢末に建業と改められて孫呉の国都が置かれ、西晋で建康と改められた後、江南政権でも歴代で国都が置かれた。 東に鍾山(蒋山・紫金山)、北に玄武湖を控えて秦淮河を外濠とし、当時の城域は2200m四方の方形を為し、城外西郊の秦淮河東岸には石頭城が置かれていた。
 隋で江寧県と改称されて蒋州の、唐では金陵県、次いで上元県とされて昇州の治所が置かれ、大運河の発展によって一帯の中心は北岸の揚州に遷ったが、五代南唐が国都として金陵府が置かれ、南宋では建康府の、元朝では建康路、後に集慶路の治所とされた。 尚お、唐末には上元県から西南部を以て江寧県が分置され、この体制は1912年に江寧県に統一されるまで続いた。
 1356年に朱元璋が応天府と改称して国都とし、周囲34kmの都城を造営したが、永楽帝の北京遷都(1421年/永楽19)とともに副都とされ、宮廷や百官を備えたものの行政的には地方都市に過ぎなくなった。 永楽帝の死後には南京還都の議も生じたが、1441年(正統6)には北京奠都が最終的に決した。清朝では江南省都として江寧府が置かれ、1667年の江蘇・安徽分割で江蘇省都となって両江総督の駐在地となり、1853〜1865年には太平天国に占領されて天京と呼ばれた。 1860年の北京条約で開港され、民国初期には孫文が総統府を開き、1927年には国民政府が奠都している。

広陵
 現在の江蘇省揚州市江都区。 古くは邗と呼ばれて春秋呉が邗城を築き、呉王夫差が斉を伐つ為に邗江を開鑿して長江と淮河を結んだ。 B4世紀後期に楚が広陵邑を置き、秦が広陵県とし、漢では江都国・広陵国の治所が置かれ、晋の南遷後は徐州・兗州・南兗州などの治所とされた。
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 大運河の開通によって対岸の江都(邗江区/旧維揚区)が急成長し、唐以降は江都に揚州の治所が置かれ、五代呉では国都、南唐でも東都とされた。 中唐期には外国海商の寄港地としても繁栄して城市の規模は周囲20kmに達し、明以降は中国第一の産額の両淮塩業の中心となり、塩商が学者文人に出資して文化の一大中心地となったが、太平天国の乱で大打撃を受けた。

京口
 江蘇省鎮江市。長江を挟んで広陵の南対岸に位置する。 漢が丹徒県を置き、三国呉で毗陵郡、晋では晋陵郡に属し、東晋で京口と呼ばれて北府軍が進駐し、晋陵郡の開発によって南徐州が僑置されると治所とされた。
 一帯は三国時代に大規模な屯田が実施されながらも人口稀薄と称されたが、西晋末には陳敏が曲阿に建設して数百頃を灌漑したとされる練塘の他にも新豊塘なども設けられ、永嘉以来の流民の大規模な収容地となり、南朝の皇族や武将の多くを輩出した。 北宋の時に鎮江と改称された。

江陰県
 江蘇省の長江南岸の無錫市の都市。明清期には常州府に属し、現在は県級市。 1645年に清軍に占領された際、住民は辮髪令に抵抗して典史陳明遇・前典史閻応元を擁して抗戦し、太湖方面の諸商の援資もあって24万の清軍を81日間支え、ドルゴン・ドドらの招撫にも応じず、南京から搬送された西洋砲10数門によって落城した。 清軍の損害は3王18将7万5千人に達し、戦後の屠城によって住民17万2千が虐殺され、投降した53人のみが生存した。 陳明遇は戦死し、閻応元は捕われた後に降伏を拒んで殺された。

上海市
 長江河口部南岸に位置し、戦国楚の春申君の封邑に属していた事から“申”とも略称される。唐代までは漁村で、宋代に上海鎮が置かれ、南宋で上海県に昇格された。 1842年の南京条約での開港と、1865年に香港上海銀行が設立されたことから欧米の金融資本が本格的に進出して急成長し、20世紀に入るとアジア金融の中心として極東最大の都市に発展し、「東洋の魔都」・「東洋のパリ」との異称も生じた。 浙江財閥の抬頭と労働者層の困窮化が社会問題化し、1925年の五.三〇運動を機に浙江財閥と蒋介石による反共クーデターが発生した

姑蘇
 江蘇省蘇州市区。太湖の東岸に位置して古くは良渚文化が栄え、春秋呉が国都を置いた。 秦・西漢で会稽郡、東漢で呉郡、隋唐以降は蘇州の治所とされ、宋神宗の時代に府に昇格されて平江府と呼ばれ、明が蘇州府を置いてより蘇州の称が定着した。
 江浙の中心に位置して江南の開発や隋の大運河の開通によって発展し、南宋では首都の杭州と並称されるに至った。 元末には張士誠が拠り、明初は搾取の対象とされたが、絹織物業綿織物業・綿布加工などを中心とした産業が発展して万暦年間には絶頂期を迎え、中国最大の商業軽工業都市・文化都市となり、城内は呉・長洲・元和3県に分割された。 太平天国の後は上海の抬頭によって政治・経済面での影響力が低下したが、文化の中心としてヨーロッパからは“中国のパリ”と呼ばれ、近年では観光都市としても伸長している。

銭唐
 浙江省の省都/杭州市区の古称。銭塘江の西岸に秦が置き、漢では会稽郡に属した。 隋より余杭郡あるいは杭州の治所とされ、大運河の運用と伴に交易地として大きく成長して“天に天堂、地に蘇杭”の俚諺を生じ、対外貿易港として広州・交州(ユエ)と並称された。 五代呉越が国都を置いて整備も進み、県域は銭塘県と塩官県に分割され、南宋では高宗が長江を信頼しなかった事もあり、行在所とされて臨安府が置かれた。
 南に山地が迫り、西湖と銭塘江に挟まれている地勢上の制約から面としての拡大は不可能だったが、成都同様に高層建築が櫛比し、南宋〜元で経済・文化の一大中心地に成長し、マルコ=ポーロ・イヴン=バットゥーダらをして世界最大と称された。 城壁の総延長は160km、大道は石で舗装され、城内は溝渠が主要交通路となって東洋のヴェニスとも称され、最盛期には戸数30万を数え、城外人口を加えると150万人に達したと目される。
 元では杭州路の治所とされ、明清でも浙江省の首府として経済的重要性を保ったが、上海開港や太平軍の破壊活動で没落し、下関条約で開港場とされても往時の盛勢は回復できなかった。 滅清によって仁和県と統合されて杭県に、次いで杭州市に再編され、人民共和国の成立と伴に地級市としての杭州市が成立した。

会稽
 浙江省紹興市および一帯の古称。紹興市南部の山麓で禹王が諸侯に会計報告をさせた事が地名の由来とされ、禹の墓陵や、夏を再興した少康の庶子/無余の封地とする伝説を遺すなど夏王朝との関連が強く、そのため先住の甌越族は禹の裔を称した。 春秋越が国都を営み、越が呉を滅ぼした後はいちじ遷都先の姑蘇の称でもあり、秦が江南の大部分に立郡した際には呉(姑蘇)に郡治を置きながらも会稽郡と命名された。 会稽郡は129年に浙東に縮小されて会稽に治所が置かれ、漢末より新県の増設と郡の分割が続いて呉末には杭州湾南岸地方に縮小し、江左政権の中枢の一角を占めただけでなく文人貴族の遊山地としても好まれた。
 隋以後も会稽郡の後身の越州の治所が置かれ、1131年(紹興元年)には南宋によって紹興府が置かれ、次第に都市名としても定着していった。 浙東地方の中心として、竹紙・酒・陶器の産地として知られ、明清代には胥吏幕賓の出身地としても著名だった。

柴桑
 漢高祖が鄱陽湖口の西に置いた県。県城の位置は江西省九江市の九江県や星子県に比定される。 東漢では豫章郡、孫呉では武昌郡に属し、晋以降は概ね尋陽郡に属して江州治所とされ、隋が潯陽県と改称した。
 江州は607年の廃州為郡で九江郡に改編され、唐の天宝年間に潯陽郡とされた他は概ね江州と呼ばれ、明代になって江州路が九江府に改編されて現在に至っている。
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 南朝で江州の治所が置かれた湓口城(湓城)は元は柴桑県に属し、清湓山(瑞昌市西郊)を発した湓水が長江に注ぐ地(現在の九江市街)に置かれたもので、隋唐で潯陽県治が置かれてより潯陽城とも呼ばれた。

武昌郡  ▲
 孫権の武昌遷都(221)に伴い、武昌(旧鄂県/湖北省鄂州市鄂城区)・沙羨・下雉・陽新・柴桑・尋陽の6県を以て江夏郡豫章郡廬江郡から分離された。 317年に江州治とされ、454年に郢州が新設された際にも首郡とされたが、州治は江夏県の夏口城(武漢市武昌区)に置かれ、隋で江夏郡を併せて鄂州に改編された。
 武昌県は近代までその名を保ったが、江夏県を治所とした鄂州路が1301年に武昌路と改称され、これを明初に武昌府に改編した後は江夏県が上武昌、武昌県は下武昌と呼ばれるようになり、民国の廃府で江夏県が武昌県とされた事から武昌県は1914年に鄂城県と改称され、鄂城市、次いで鄂州市に再編された。

江夏郡
 西漢が南郡の東部を分離した、湖北省東部の郡。治所は西陵(黄岡市黄州区)、次いで沙羨(武漢市江夏区)に置かれ、三国時代には東部の武昌郡、沔北の蘄春郡が分離し、西晋では安陸(孝感市)が治所とされた。 南朝では郢州に属し、隋が鄂州に改編して江夏県(夏口)を治所とし、明以降は武昌府と呼ばれた。 古くから長江中流域最大の要衝としてしばしば係争地となり、宋元の攻防では鄂州陥落が南宋滅亡を決定的にした。

夏口  ▲
 湖北省武漢市街。嘗て漢水の河口部が夏水と呼ばれたことに由来する。漢代に沙羨県に属し、湿地帯にあって耕作には適さなかったものの交通の要衝として重視され、孫呉が223年に南岸に夏口城を造営して県治が遷された。 南朝の郢州、隋以降は鄂州の治所が置かれ発展し、元以降は武昌路・武昌府の治所とされた。
 明代になると対岸の漢陽と併せて武漢と呼ばれるようになり、1926年には武昌・漢陽・漢口を併せて武漢市が発足し、翌年〜1929年に一部を除いて城壁が撤去された。 夏口城は黄鶴山(蛇山)を背に造営され、附随した楼閣の1つが黄鶴楼と呼ばれて歴朝で修築されつつ現存している。
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 漢口は漢水と長江の合流北岸を指し、明代にに成長して明末には漢陽・武昌を凌ぐ商業都市に発展し、清代では景徳鎮・朱仙鎮・仏山鎮と並ぶ“四大鎮”に数えられた。 天津条約で開港場とされてより諸外国の進出も著しく、各国の租界が置かれて“東洋のシカゴ”とも称された。 漢口地区は現在は江岸区・江漢区・礄口区・東西湖区に分れている。

襄陽
 湖北省北部の地級市、漢水と唐白河の合流点西南岸に置かれた都市。 中原と湖南を結ぶ交通路を扼し、対岸の樊城との呼応によって全国屈指の堅城として知られた。 漢初に襄陽県が置かれて南郡に属し、漢末・曹魏では荊州治が置かれて襄陽郡として分立し、六朝時代を通じて北防の要衝として重視され、449年には雍州の分離と伴にその治所が置かれた。 唐以降は襄州が置かれ、宋代に襄陽府、元代に襄陽路、明清で襄陽府の治所とされた。 1951年に対岸の樊城と合併して襄樊市とされたが、2010年末に襄陽市に、南岸の襄陽区は襄州区に改称された。

竟陵
 湖北省天門市。漢水北岸に位置し、春秋では鄛と呼ばれ、戦国楚で竟陵邑と改称された。秦が竟陵県を置き、晋代には竟陵県を治所とした竟陵郡が江夏郡から分置された。後晋の時に景陵と改称され、清朝では康熙帝の景陵に憚って天門と改められた。 境内では石家河遺跡が発見されている。
 竟陵郡は南梁の末に廃され、隋の廃州為郡で復置されたが、これは西魏の郢州を再編したもので、治所が置かれた長寿県は往古の楚の陪都/郊郢、漢の郢県、南朝の萇寿県、現在の鍾祥市にあたる。

江陵
 湖北省南部、長江中流北岸の都市。 先秦時代には北郊の紀南城に楚の郢都が置かれ、戦国時代には臨淄・邯鄲・大梁と並称される大都市に発展した。 秦が南郡の治所を置き、漢が州制を行なった後は概ね荊州の治所を兼ね、梁元帝西梁が国都とした。 五代には荊南が国都を置いたが、宋以降は鄂州の発達で地方都市に没落した。
 江陵県の称は現代まで続いているが、1994年の荊州市の発足とともに分割され、江陵城を含む中心部は荊州区の管轄となって江陵県から分離された。

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 楚都の称。楚は春秋戦国時代を通じて何度か遷都したが、国都はいずれも郢と呼ばれ、最も一般的なのは湖北省荊州市区北郊の紀南城を指し、戦国時代に鉄工業が盛んとなってより交通商業都市に変貌した。 昭王が呉に惨敗して一時北方の鄀(鄢郢)に遷ったものの程なく還り、B278年に秦の白起に大敗して陳に遷り、B241年には寿春に遷都した。
 後代、安徽省寿県近郊から“郢爰”銘のある古金が出土し、これは寿春遷都後の鋳金とされ、中国でも類例のない金貨として楚の経済力が再認識された。

岳陽
 湖南省北部、洞庭湖と長江の合流点東岸。漢では長沙国の羅県や下雋県に属し、西晋で巴陵県が置かれ、439年に新設の巴陵郡治とされた。南梁が巴州を置き、隋の廃郡で岳州とされ、元で岳州路、明清で岳州府の治所が置かれた。 県城の西門楼が岳陽楼と呼ばれている。

長沙
 湖南省東部、湘江東岸に位置する省都、河港都市。 春秋後期頃から知られ、楚の黔中郡を祖形として秦が長沙郡を置き、漢では臨湘県として長沙国都が置かれた。 以後、長沙は臨湘の代名詞となり、晋以降は湘州の治所とされ、隋で潭州に改編されてより潭州治が置かれた。 五代ではが国都を置き、宋の荊湖南路、元の湖広行省の治所とされ、明清では長沙府が置かれた。 一帯は殷周時代には独自性の強い青銅器文化が栄え、楚の発展を支えたが、秦漢代に中原文化が波及し、と呼ばれた先住民と中央政府との軋轢が絶えなかった。

 

泉州
 福建省東南部の晋江に面した海港都市。呉が置いた東安県(南安市東郊の豊州鎮)を前身とする。 秦の閩中郡、漢の会稽郡、孫呉の建安郡、晋の晋安郡、南梁の南安郡に属し、南安郡のときに郡治が晋安県(旧東安)に置かれた。 隋の廃郡で一帯は泉州が統轄したが、治所は侯官(福州市区)に置かれ、684年に南安(旧晋安)を治所に武栄州が分置され、711年に泉州と改称された。
 閩越の地は陸路に乏しかった為に海運が発達し、泉州も交易港として抬頭し、五代の内乱で福州からの避難民を受容して閩浙地方の代表的な港市となった。 北宋では広州に亜ぐ国際交易港に成長し、南宋にかけて主に陶磁器の輸出港としてインド・アラビア半島に達する交易網を確立した。 宋末には元朝に協力した蒲寿庚が海港都市としての発展に尽力した事もあって世界最大級の貿易港となり、多数のアラブ人などが居住する中国屈指の大都市に成長し、西方ではザイトンと呼ばれた。 明朝でも市舶司が置かれて三仏斉・琉球などと交易したが、海岸線の後退や架橋によって港湾都市としての機能と地位を大きく損なった。

番禺
 広東省都/広州市の古名。又は旧広州城の俗称。 B214年に秦が征服して一帯を南海郡とし、治所として番禺県を置いた事に始まり、遠征軍の主将の任囂が郡尉となって楚庭城を県城に修築した為、任囂城とも呼ばれた。 秦末に独立した南粤王国も番禺城を国都とし、南粤を滅ぼした漢によって一帯が交趾刺史部に再編されると番禺は交阯郡の治所とされ、漢末には交州の成立と伴に蒼梧から州治が遷された。
 秦に征服される以前から貿易港として栄えていたらしく、しばしば日南(ユエ)と並称され、三国末に呉が交州を分割した後は広州の治所となって海上交易港として発展し、中唐の714年(開元2年)には市舶司が置かれた。 黄巣の乱で大打撃を受けたものの、南漢国の国都として前代を凌ぐ発展を示し、泉州が代表港となった元代を除いて清末まで中国最大の貿易港であり、市舶司もほぼ常置され、清代には粤海関も設置された。
 広州の繁栄は歴朝の統制貿易に負う面も大きく、殊に清朝が18世紀中頃に貿易港を広州1港に限定したことによって極盛期を迎え、阿片戦争後の諸港開港で独占的な立場は失ったものの、国際的な経済都市として成長を続けている。
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 番禺城は歴朝で拡張が行なわれて宋代には中城(小城)・東城・西城が並立し、西城だけでも市壁は7.5kmに及び、壁材に磚が用いられるようになった。 明では三城を合一して城壁の総長は12kmに達し、1563年(嘉靖42)には城南に城壁を拡張する事で新市街=新城が形成された。 革命後の環状道路建設の為に1922年までに城壁は撤去され、一部が越秀公園に遺されている。

澳門
 マカオ。広東省の珠江デルタ南端の小半島と2島より構成され、現在2島は干拓によって合一し、半島とも3橋で連結されている。澳門の称は地形に由来し、呼称のマカオは媽姐を祀った媽閣廟に由来するポルトガル語とされる。 もとは漁村から発展した海商の中継地で、1535年に官憲がポルトガルに買収されて通商場の移設を認めてより対ポルトガル交易の拠点となった。 ポルトガル勢力は朱紈の倭寇対策の一環として1549年に閩浙方面から一掃されたが、1553年に再び贈賄によって難破を理由に澳門の一部賃借が認められ、1557年には海賊討伐の代償に居住権を獲得し、居留区の拡大や要塞化などによって植民地化を進めた。 以来、ゴア・マラッカとともに東洋貿易の一大拠点となり、明朝の関閘設置などに対しては贈賄で応じ、以来、地方官への500〜1千両の歳幣が慣行化して中国皇帝に対する借地料と見做され、清朝でも1727・1753年に再確認された。
 マカオは本国の国際的地位の低下に伴って英仏に対しては清朝に与して対抗したが、阿片戦争後は英国に倣って1845年にはマカオ自由港の成立を宣言し、1887年に至って割譲条約が成立した。1999.12に中国に返還され、特別行政区に指定された。

 

象郡
 南海郡・桂林郡とともに秦が置いた嶺南三郡の1つ。 広西西南部〜ベトナム北部に比定されるが、中国の最南部とベトナム地方を漠然と指した為にその境域については諸説あり、『漢書』に「漢の日南郡は秦の象郡の故地」とあり、日南郡の南端に象林県があることから、象郡の南界をベトナム中部とする説や、逆に雷州半島に限る説もある。

交趾郡
 漢武帝の交趾九郡の1つ。 ヴィン地方の九真郡・ユエ地方の日南郡とともに現在のベトナムに置かれ、ソンコイ=デルタ地方を支配して中国のベトナム支配の前線基地として重視された。 隋文帝の廃郡後は県名として遺され、煬帝が交州を交趾郡に改編し、唐代に再び廃郡されると交州の治所としてハノイ近郊に825年まで存続した。
 後に明がベトナムの内乱に乗じて占拠して1407年に交趾承宣布政使司を置いたが、黎利の独立運動のために1427年に廃された。

珠崖郡
 漢武帝の交趾九郡の1つ。元鼎6年(B111)に海南島の北部海岸平野東部に置かれた。 住民の抵抗などによってB46年には放棄され、三国呉が雷州半島部に復置したものの滅呉によって合浦郡に併合された。
 南梁が同島北部に置いた崖州が607年に珠崖郡に改編され、610年には治所を顔盧県(海口市東南郊の美蘭区霊山鎮)に移設して儋耳郡・臨振郡が分離され、唐代に崖州と改称されて632年には北部を以て瓊州が分離され、北宋によって972年に寧遠県(三亜市西北郊)を治所とする振州の地に遷された。 崖州は歴朝で必死の地・僻南の流謫地とされ、李徳裕蘇軾など多くの政治犯が流された。

儋耳郡  ▲
 漢武帝の交趾九郡の1つ。 海南島の北部海岸平野西部に置かれ、B82年に隣接する珠崖郡に編入された。
南梁が義倫(旧儋耳県/儋州市三都鎮)を治所に崖州を置いて旧珠崖郡域をも管轄し、崖州が隋の廃州為郡で珠崖郡に改編された後、610年に儋耳郡と改称されて東部の珠崖郡(崖州)、東南部の臨振郡(振州)が分離され、唐の廃郡為州で儋州とされた。

日南郡
 漢武帝の交趾九郡の1つ。九郡中最南に位置してユエ地方を支配した。ダナン北方のハイヴァン峠が南境で、南端部の象林県では東漢末に区連が独立して林邑を樹立し、以後は林邑に蚕食されて南梁の時に放棄された。 605年に隋の劉方が遠征して沖州を置き、程なく林邑郡と改称されたものの林邑国の再興によって北遷し、玄宗の日南郡の前身とされる驩州は漢代の九真郡の南部に相当するゲアン省のヴィン地方に置かれたものだった。

 
 

山海関
 河北省秦皇島市の東北端、山海関区に位置し、明代には中国と女真の境として、山海関を境に“関東・関西”と呼んだ。 万里の長城の東端の関城として“天下第一関”の異名があり、遼寧省丹東市寛甸自治県虎山鎮東南端/鴨緑江に臨む虎山長城が公認されるまでは万里の長城の最東端とされていた。
 漢代に臨楡県が置かれて関塞は臨楡関と呼ばれ、隋唐でも長城と共に修築が行なわれ、明初に徐達が整備して山海衛が置かれてより山海関と呼ばれた。 清が1737年に臨楡県と改称した後も関城は山海関と呼ばれ、行政区画名として現在に至っている。 古くから契丹・女真防衛の要とされ、明代には後金が南下するうえで最大の障壁となり、呉三桂が開城するまで不落だった。

居庸関
 北京市西北郊の昌平区、北京市街と八達嶺を結ぶ峡谷に設けられた関塞。戦国燕が居庸塞を置いた事に始まり、『呂氏春秋』では既に「天下九塞、居庸其一」と記され、烏桓の活動が活発だった東漢で城砦として整備された。 北魏が長城と連結し、北京を国都に定めた明朝によって長城と共に堅牢に改修されて“天下第一雄関”とも称された。 満洲から興った清朝の下で荒廃が進んだが、1990年代以降は観光施設として修復が進められた。
 又た元朝では大都と上都の間に位置した事から、1343年に順帝の勅命で大理石製の仏塔である過街塔が建立されたが、1702年に焼失し、現在では台座のみが残っている。

雁門関
 山西省代県西北郊、勾柱山(西陘山・雁門山)上に位置する。 古来からの北防の要衝で、漢武帝代に北征路開拓の為に補修され、晋代には関を境に一帯を陘南・陘北と称した事もあり、北魏が関を二分して東陘・西陘とし、唐以降は西陘関を雁門関と呼んだ。 中唐以降はしばしば回紇に侵寇され、880年には突厥沙陀族の晋陽への侵略路となり、五代以降は契丹との攻防が激化して、980年に楊業の契丹遠征の前進基地とされた。
 両関とも元朝に廃されたが、洪武帝が1372年(洪武7)に西陘関の東郊に雁門関を復置し、ボライアルタン汗らモンゴルの南侵を善く阻止し、この頃より寧武関・偏頭関とともに山西三関・外三関と称された。

孟津
 盟津・河陽渡とも。河南省洛陽市孟津の対岸にあった渡津。周が平陰邑を置き、秦が平陰県を置き、三国魏が河陰と改称した。孟津県となったのは金代で、明代まで県城は現在の東方12kmにあったという。古くから洛陽を守る黄河の要害として知られ、周武王は孟津で八百諸侯と会盟したのち黄河を渡って殷に示威したと伝えられる。

函谷関
 河南省霊宝市北郊。戦国秦が国都防衛のために置き、中国屈指の要害としてしばしば激戦地となり、項羽によって破壊されたが、1992年に至って復元された。太行山脈と並ぶ華北の分水嶺と認識され、“関東・関西”は概ね“山東・山西”に重なった。
 漢武帝が弘農郡を置いた際に新安県の澗河北畔に移設され、以前の関門を故関と呼ぶのに対して新関とも呼ばれ、霊帝代に黄巾軍対策に新設された八関都尉の駐所にも数えられた。 長安を国都とした唐が潼関を重視した後は軍事上の重要性を失ったものの、歴史的な遺構として尊重され、1926年の内戦で損傷した際には特に修復が行なわれたが、1958年に製鉄場の建設で殆ど解体された。

潼関
 陝西省東端の潼関県北辺に位置する。南流黄河が渭河と合流して東転する南畔に位置し、秦に対する門戸として春秋晋が桃林塞を、戦国魏が寧秦県を置き、西漢の船司空県、東漢の華陰県に属した。 漢末に関門が置かれて以来、関中と中原を結ぶ要衝としてしばしば激戦地となり、安史の乱では長安最後の防壁として哥舒翰が駐屯し、潼関陥落の報によって玄宗らは長安を脱出した。

武関
 陝西省商洛市丹鳳県の東南郊、武関河の北岸に位置する。関中の南門として秦漢以前は函谷関・蕭関・大散関とともに“四塞”と呼ばれた。秦の王畿の南門で、楚懐王が秦に執われた地であり、劉邦や更始帝が関中進出の経路に利用した。

大散関
 散関、崤谷とも。陝西省宝鶏市渭浜区の西南郊、大散嶺中の清姜河畔に位置する。関中と漢中を結ぶ要路を扼し、三国蜀の諸葛亮がしばしば前線の拠点とし、宋金時代にも両国国境の西の起点となった。 南宋はここに大軍を進駐させて金に備え、明朝も四川平定に際してはここから兵を発した。

粤海関
 清朝が台湾を平定した後の展海令と並行して広州に置かれた監関。 海上貿易と朝貢貿易を管轄して海関税を徴収し、満洲人の専任とされた海関監督は役得が多い事でも知られた。 後に関税徴収は公行が代行し、1720年からは対外貿易港を広州港に制限する一種の鎖国政策によって広東貿易は空前の活況を呈した。 阿片戦争後に新たな粤海関が置かれると、旧関は常関、新関は洋関と呼ばれた。

 

芍陂
 安豊塘とも。安徽省寿県南郊の水利施設。陂・塘はともに堰堤によって囲まれた溜池。 春秋楚の荘王の令尹孫叔敖によって造営された、中国最古とも伝えられる水利施設で、漴水渠(霊渠)・都江堰・鄭国渠とともに中国の古代四大水利事業に数えられる。
 当時の堤長は150km、規模は現在の20倍以上と考えられ、水底を周囲の標高より高くする設計が行なわれ、湖底高調整の為に用いられた敷葉工法は日本最古(飛鳥時代)のダム式溜池として知られる狭山池にも衍用され、灌漑用水の他に洪水時の水量調節機能も備えていたとされる。 孫叔敖は芍陂の維持に個人的流用を厳禁したと伝えられるが、唐代には勢門による干拓や水門の濫造によって縮小・消滅し、一帯の経済を衰退させた。
 1972年より大規模な改修が行なわれ、現在は堤長25km、灌漑面積は1万haまで回復したが、人口増に伴う開墾の進展で水源確保が必要とされている。

馬王堆漢墓
 湖南省長沙市東郊、湘江と瀏陽河に挟まれた芙蓉区で発掘された西漢代の陵墓。 五代楚の馬殷の陵墓と伝えられた事が名称の由来。 1972〜1973年に3基の墓が確認され、1号墓からは50歳前後の女性の遺骸が埋葬当時の状態で発見されて話題となった。 1号墓は軑侯夫人、2号墓は軑侯利蒼、3号墓は子供のものとされ、それぞれ1000余点の副葬品が発見された。 1号墓の帛画・絹織物の蓋布などはよく知られているが、3号墓から出土した『相馬経』『内功』は散佚資料であり、『易』『戦国策』『老子』『春秋』は現存品の補完資料として、水系図である『湘漓地図』は現在中国最古の地図として、それぞれ貴重な資料価値がある。

満城漢墓
 河北省保定市満城県西郊で発見された西漢代の陵墓。陵山の岩壁を穿った洞室墓が1968年に2基発見されたが、被葬者が金鏤玉衣(玉匣)を纏っていたことで注目され、後の研究で景帝の子の中山靖王劉勝・竇綰夫妻とされた。 玉匣の状態はほぼ完全で、副葬品の合計は2800点に達した。

楼観
 老子が尹喜に『道徳経』を授けたとされる地に建てられた最古級の道観で、夙に道教の聖地として“天下第一福地”とも称された。 入関した李淵に率先して通款したことが、唐室の道教尊崇に作用したとされる。 一方、仏教勢力による唐朝への組織的な支援は、李世民による王世充討伐に嵩山少林寺の僧兵が応じたことが挙げられ、殊に僧兵13人が李世民を護衛した事は広く知られ、少林寺拳法が中国武術の代名詞となる契機ともなったが、李氏に対する貢献度と仏教特有の聖俗峻別は、“道先仏後”と称される唐朝の宗教政策に反映された。

△ 補注:地理.2

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