▽ 補注:秦・西漢/人物

先漢  西漢前期  西漢後期
 

葛嬰  〜B209
 符離の人。陳勝に従い、淮北を経略して人心安定のために襄彊を楚王に立て、陳勝の称王に接して襄彊を殺したが、大逆として殺された。

項伯
 項梁の弟。項羽の叔父。嘗て張良とは同窓で、殺人を犯して張良に救われたことがあった。 鴻門の会の直前に劉邦の危機を張良に報じ、又た項羽にも劉邦の事を釈明し、会盟では樊噲とともに剣舞して劉邦を護った。 英布が項羽に叛くと九江の兵を悉く収めて英布の妻子を殺したが、項羽が滅ぼされると旧恩から射陽侯とされた。

司馬卬
 滅秦後、河内平定の功で殷王とされ、朝歌に都した。劉邦が東進を始めると諸将に倣って劉邦に転じ、陳平の説諭で項羽に帰したが、B205年に劉邦に伐たれて降り、廃国されて河内郡が置かれた。

司馬欣  〜B203
 B209年、関東に進んだ章邯の増援として董翳とともに派遣された。 項羽に対して劣勢になると求援使として咸陽に還ったが、趙高に面謁を拒まれると讒言の生じることを察し、前線に戻って章邯を説いて共に項羽に降った。 滅秦後は内史東部の塞王に封じられて櫟陽(西安市臨潼区)に鎮し、B206年に劉邦に敗れて降ったが、劉邦が彭城で敗れると楚に帰し、成皋で劉邦に大敗して自刎した。

董翳  ▲
 司馬欣とともに長史として章邯の増援となり、滅秦後は上郡の翟王として高奴に鎮した。B206年に劉邦に敗れて降り、翌年に彭城で劉邦が大敗すると復た楚に帰した。

周市
 魏の人。陳勝に従い、魏を平定した後に淮北攻略を進めて豊邑の雍歯を劉邦に背かせ、斉経略に転じて狄で田儋に敗れて魏に戻り、称王の勧進を固辞して陳勝に強く勧めて魏咎を立てた。 陳勝を大破した章邯が逼ると、斉に求援して田儋の援軍を得たが、魏都臨済(河南省陳留)の近傍で章邯に大破された。

周章  〜B208
 陳(河南省淮陽)の人。楚で春申君や項燕に仕えたことがあり、軍略を以て陳勝に自薦して将軍とされた。 伐秦で函谷関を破って戯(西安市臨潼)に達したが、章邯に大破されて澠池に逃れ、敗れて自殺した。

鐘離昧  〜B201
 西楚の将軍。しばしば劉邦を苦しめ、項羽が敗滅した後は旧知の韓信に匿われた。韓信に謀叛の嫌疑が生じると自殺を諷勧され、韓信を罵って自刎した。

宋義  〜B208
 嘗て楚の令尹だったことがあり、項梁の挙兵後は懐王に従った。項梁が敗死すると項羽の上席の上将軍とされ、項羽らを率いて救援に北上したが、秦趙競食を謀って滞留し、又た斉相となった子の宋襄の送別宴を雨中に開き、救趙を急ぐ項羽に利敵として斬られた。

陳嬰
 東陽県の令史として謹厳で、輿望が高く長者と称された。陳呉の乱に応じた郷士が県令を殺すと首領に推されたが、後に称王の議が生じると母の誡めに従って固辞し、項梁に投じた。懐王が立てられると上柱国とされて5県を領し、懐王に随って盱眙に鎮した。

李由  〜B208
 李斯の子。三川郡の郡守とされ、呉広から滎陽を堅守して章邯の来援で張楚軍を破ったが、賊との通謀を誣されて李斯ら一族は鏖殺され、自身は雍丘で項羽に敗死した。

李良
 秦末の乱で官職を捨てて武臣に投じた。 常山攻略の帰途に武臣の姉を武臣と誤認して拝礼したところ、車上から返礼された事で激怒し、偶々秦から帰順を誘われていたこともあり、姉を殺して邯鄲を襲い、武臣を殺した。信都で陳餘に大破されて章邯に投じた。

韓広  〜B206 ▲
 秦末の乱で吏職を捨てて武臣に従い、燕を平定して燕王を称した。 滅秦後は遼東王に徙されたが、燕王臧荼が就国しても動かず、無終で殺された。

龍且  〜B203
 項羽の部将。関中を平定した劉邦を魏と結んで迎撃したが、定陶の南で灌嬰に敗れた。B204年に項羽に背いた英布を大破した。翌年、臨淄を抜いた韓信を討つために北上したが、佯敗する韓信を追撃して濰水の半ばで堰を決壊され、同時に逆撃されて敗死した。

呂臣
 陳勝が殺されると新陽で一軍を編成し、城父の荘賈を攻殺し、英布に合して陳を回復した。 項梁の敗死で彭城に入った懐王は項羽と呂臣の兵を併せ、宋義を上将軍、項羽を次将、劉邦を武安侯とし、呂臣は司徒とされて父の呂青は令尹とされた。

 
 

王仲
 琅邪不其(青島市即墨市)の人。道術・天文に通じ、呂氏誅滅を図る斉王の帷幄に連なった。 後に済北王より軍師に擬されると楽浪に奔った。

夏侯嬰  〜B172
 沛県の人。元は県吏で、劉邦と親交が篤く、劉邦の挙兵後は御者として常に随った。彭城から敗走する際に、劉邦が同乗する太子と公主を突き落とすと、都度、救い上げて窮地を脱した。高祖の即位後も外征では太僕のことを行ない、韓信の捕縛後に汝陰侯に更封された。 恵帝にも太僕として仕え、故恩から北門に至近の邸を賜り、文帝にも太僕として仕えた。

郭解
 河内軹(河南省済源)の人。字は翁伯。父は侠客として文帝の世に刑戮された。 夙に暴侠として知られ、些事から人を殺すことも多かったが、老いてからは謹慎となって義侠を好み、大侠と謳われた。
 武帝B127年に大姓・豪家の茂陵徙民が行なわれた際には資産が満たなかったものの、車騎将軍衛青の仲介で選に加えられ、餞別は千万に達したという。 姉の子が横恣の故に殺された際、出頭した犯人の理を認めて逃走を黙認したことがあったが、一族や食客の非法が絶えず、郭解の移住に反対する楊季主が殺された後、郭解を批判する老儒生が郭解の食客に殺されると、御史大夫公孫弘の指示で族滅された。

韓成  〜B206
 戦国韓の横陽君。 張良の進言で項梁に韓王とされ、張良を司徒として韓を経略したが、秦との攻伐中に項梁が敗死すると楚に遁れた。 韓の略定を進める劉邦に迎えられて陽翟に鎮したが、滅秦後に項羽に召還されて殺された。

韓頽当
 韓王信の末子。匈奴の頽当城で生まれて諱とした。 B166年に信の嫡孫の韓嬰とともに漢に降って弓高侯とされ、呉楚の鎮定では斉兵を統べる膠西王を降す殊勲を挙げた。

韓嫣  ▲
 韓頽当の孫。武帝に近侍して寵を集めたが、皇族を凌ぐ権勢を太后に憎まれて刑戮された。

韓説  ▲
 韓嫣の弟。 匈奴・東越の討伐に功があったが、後に江充に与したために戻太子に殺された。

季心
 季布の弟。義侠で名高く、剛胆かつ恭謙であり、楚では「勇の季心、諾の季布」と称された。 殺人を犯して袁盎に匿われ、後に中司馬とされると郅都をも憚らせ、世に季心の舎弟を称す者が少なからずあった。

四皓
 商山に隠棲する4人の老賢士。 劉邦の招請にも一貫して応じなかったが、太子盈の求めで出仕したことで劉邦に廃嫡を断念させた。

  〜B146
 河東楊の人。景帝の世に中郎将に進んだ。狷介で直言を好み、上林苑での遊猟中に野猪に襲われた寵妃を救わずに景帝に自重を促したことから、竇太后と景帝に重んじられるようになり、勢門が跋扈する済南太守に叙されると特に悪辣な家を族滅し、隣郡からも懼れられた。
 B148年に中尉とされ、その審理は苛烈かつ厳酷で皇族や貴顕にも忌憚せず、臨江閔王と栗氏に対する厳酷な糾察から“蒼鷹”と懼れられたが、審案中の臨江王が自殺したために竇太后に憎まれ、景帝に雁門太守に叙されて独断専権すら認められたものの、召喚されて市で斬首された。
 公平かつ質朴で蓄財を考えず、天子と職務を何よりも重んじ、『史記』では酷吏の先蹤の一人として酷吏伝の筆頭に置かれている。

朱家
 魯の人。大侠として天下に知られた。 恭謙で質倹を旨とし、困窮者の援助を好んで報恩されることを嫌い、季布の助命嘆願を夏侯嬰に依頼した後も会うことはなかった。 司馬遷からは有志の侠客として、郭解と共に高く評価された。

周苛  〜B203
 周昌の従兄。 周昌と共に劉邦に従い、漢中で御史大夫とされた。彭城から敗走した劉邦を逃がして滎陽を守り、項羽に陥されると罵倒して烹殺された。

審食其  〜B177
 沛の人。劉邦が沛公を称した後は太公・呂后に近侍し、B201年に辟陽侯に封じられた。 呂后に信任され、B187年に左丞相となった後も外朝と内朝を仲介して絶大な権力があり、呂氏誅滅で罷免された。 嘗て生母の助命を呂后に求めなかった事を恨む淮南王に殺された。

申屠嘉  〜B155
 梁の人。弩弓手として劉邦に随い、英布討伐の功で都尉となり、文帝のとき御史大夫を経て張蒼の後任の丞相とされた。 廉直を嘉され、天子の寵臣の太中大夫ケ通と雖も非礼を許さずに死刑を宣し、ケ通の叩頭流血と文帝の謝意によって漸く赦免した。
 景帝の即位後は晁錯の重用と共に疎んじられ、晁錯が独断で太上皇の廟に面して門を穿つと大不孝との劾奏を準備したが、食客から漏れて景帝に聴かれず、退出後に憤死した。

申培
 魯の人。申公とも。荀子学派で、『』を修めて礼と『穀梁伝』にも通じた。 長安での同窓の劉郢が楚王となると太子の傳とされたが、学問を厭う太子が襲爵すると斥けられ、以後は閉門して魯恭王の諮問にのみ応じたという。
 『詩経』は師伝のみを口授して疑わしきは伝えず、著作も行なわなかったが、『詩』の大家として知られ、文帝の詔で著した家学は『魯詩』と呼ばれた。武帝より太中大夫とされたが、竇太后による儒者排斥で罷免され、数年後に歿した。
古文経伝とは切っても切れない魯恭王ですが、およそ学問とは無縁そうなボンボン皇子サマが経学の重要ポイントにこうもほいほい出てくると、痛かろうが痛くなかろうが腹を撫でてみたくなるものです人情として(笑)
 この人はどちらかというと『三国演義』絡みで有名ですね。 劉焉劉表のご先祖として。 それにしてもこの魯恭王といい中山靖王といい、景帝の子で『三国演義』絡みのご先祖って、どうしてこんな人ばかりなんだ…。

曹時
 平陽侯。曹参の嫡曾孫。武帝の姉の平陽公主を娶ったが、後に罹病して離縁させられた。
 祖父の曹窋は呂后の御史大夫。父の曹奇は呉楚の乱で欒布に従った。 嗣子の曹襄は武帝の娘の衛長公主を娶り、その嗣子の曹宋の代に戻太子に連坐して廃された。

荘助  〜B122
 会稽呉の人。明帝に忌諱して厳助と記される。 賢良から中大夫に抜擢され、信任は比類なかった。閩越に伐たれた東甌からの求援に対し、放置を主張する太尉田蚡に反駁して自ら招討使となり、会稽では郡司馬を斬って供兵を拒む太守を恫喝し、閩越を撤退させた。 後に会稽太守から侍中に転じたが、淮南王が平定されると親交が露見し、廷尉張湯の提言で誅された。

趙堯
 符璽御史のとき、趙王如意の傅役に周昌を推挙した。 若年ながらも才幹に長け、周昌からは有才非器と評されていたが、趙相に転じた周昌の後任の御史大夫とされ、陳豨討伐に従って江邑侯とされた。 周昌を趙相に薦めたことで呂后に憎まれ、庶人に貶された。

張辟彊
 張良の子。恵帝の葬儀で、哭礼でも落涙しない呂后を憂える陳平に対し、呂氏に軍事権を渡して呂后の猜疑を解くよう勧め、又た誅呂に先立っては周勃と和解することも勧めた。

馬通  〜B88
 扶風茂陵(陝西省興平)の人。馬服君の裔で、名家として邯鄲より徙された。 武帝に近侍し、巫蠱の乱では太子派の将を捕えて重合侯に封じられたが、兄の馬何羅と親交のある江充が誅されたことで累坐を懼れ、宮中での挙兵に失敗して誅された。このため馬氏は西漢一代を通じて禁錮の家とされた。

伏勝
 済南の人。伏生とも。元は秦の博士で、壁中に『尚書』を隠匿し、後に28篇を発掘して斉・魯で教授した。 伏勝が伝えた『尚書』は後に“今文尚書”と呼ばれ、門弟の張生と欧陽生から兒寛に伝えられ、又た別に勅命によって晁錯にも相伝された。
「秦の博士」で「秘匿した『尚書』を後に発掘したところ、数十篇が失われていて29篇を得、これを斉・魯で講義した」と伝えられていますが、秦で博士を務めるほど『尚書』に精通していた人が、発掘できた分しか教授しなかったとは… 失くした分は全スルーなんでしょうか。
 それに、発掘分をわざわざ今文に直して伝えてるのも変っちゃあ変なんです。 儒家的な発想なら、たとえ今文を作ったとしても、古文も秘伝にする筈です。ところが、実際には発掘できた分のみ、今文のみ伝えています。
 お弟子さん達には憶えてる全文こっそり伝授したってのなら、斉人っぽい反漢骨もステキなんですが、実際のところ、『尚書』がもともと29篇しか無かったか、博士ってのが嘘っぱちで、憶えてた分しか伝えられなかったかの二択になるのではないでしょうか。 勿論、もともと隠してもなければ発掘もしてないのはデフォルトで(笑)
 それに孫弟子の兒寛が、孔安国にも師事している事も引っ掛かります。 『壁中古文』を今文に直したという、あの孔安国にですよ(笑)。 恐らく、時系列的には『古文尚書』発掘前の師弟関係なんでしょうけど、な〜んか胡散臭いんですよねぇ、発見の経緯も似ているし。

雍歯  〜B192
 沛県豊邑の大家。隣郷の劉邦とは不和で、劉邦の挙兵に従って豊を委ねられたものの、魏の周市に帰順して劉邦に抗い、後に趙を経て劉邦に帰し、しばしば戦功を挙げた。 項羽平定の後、論功行賞の遅れから謀叛を図る諸将の存在を知った劉邦は、確執が周知されている雍歯を什方侯に封じて諸将の不安を解消した。
 劉邦は雍歯に従った豊邑も恨んだが、沛の徭役を恒久的に免除した際、沛の人の懇請で豊も同様の待遇とした。

欒布  〜B145
 梁の人。布衣の頃の彭越と親交があり、彭越が鉅野沢に奔った後は赤貧に苦しみ、燕に奴隷に売られた。 後に主家のために報仇したことで臧荼に認められて燕の将軍に進み、臧荼が敗滅すると彭越に贖われ、梁の大夫とされた。 彭越が殺されると禁に背いて哀哭し、彭越の旧功を訟えて劉邦の猜疑を諫め、却って節義を嘉されて都尉に叙された。
 文帝の世に燕の将軍になると恩讐に悉く報じ、呉楚の乱では斉・趙を平定して兪侯とされた。 燕や斉では存命中から祀廟が建てられた。

劉栄  〜B147
 臨江閔王。景帝の長子。B153年に太子とされたが、生母の栗姫の失寵と、景帝の実姉/館陶公主が劉徹(武帝)を支持したことから、B150年に臨江王に貶された。 就国後、宗廟の地に宮殿を造営したために中尉に召喚され、郅都の過酷な審理に苦しみ、嘗ての傅役だった竇嬰から送られた刀筆で釈明書を記した後に自殺した。無嗣だったために廃国され、南郡が置かれた。

劉賈  〜B196
 荊王。劉邦の宗族。 劉邦の北伐では塞王司馬欣を平定し、ついで盧綰と共に彭越と結んで楚を苦しめ、英布が来降すると、共に九江を平定した。 韓信が楚王を廃されると淮東の52城を以て荊王とされ、淮西36城には劉交が楚王に立てられた。英布の叛乱で敗死した。

劉交  〜B178 ▲
 楚元王。字は游。高祖の同母弟。 B201年に韓信が楚王を廃されると、淮西の36城を以て楚王に封じられ、彭城を都とした。 英布が叛いて荊王劉賈が敗死すると薛に遁れたが、英布が平定されると国を安堵された。

劉喜  〜B193
 劉仲。高祖の次兄。 謹直な為人りで、劉邦は比較されて窘められることがしばしばだったという。 B201に代王に封じられたが、匈奴が入冦すると戦わず逃げ、減死に処されて郃陽侯に貶された。 B196年に子の劉濞が呉王に封じられ、死後に頃王と追諡された。

劉建  〜B121
 臨江易王非の嗣子。景帝の孫。B127年に襲封し、服喪中に父の側室や実妹と姦淫したことは不問とされたが、以後も淫虐を恣にし、淮南王への謀応が発覚して自殺した。

劉次昌  〜B127 
 斉脂、。懿王寿の嗣子。孝王の孫。母の姪の紀氏を妃としたが、実姉の紀翁主と姦淫して王太后に知られ、主父偃が国相として赴任すると糾問を懼れて自殺した。

劉勝
 中山靖王。景帝の子。趙敬粛王の同腹。B154年に封王された。 B138年に諸王と入朝した折、諸侯王に対する糾察の厳酷を訴えてよりやや緩和されたという。酒色に淫し、子は120人を超えていたと伝えられる。

劉遂  〜B154
 趙幽王の嗣子。趙王呂禄が誅されて襲封した。 B154年に晁錯の劾奏で常山郡を削られ、呉楚の乱に呼応して匈奴にも通じたが、酈寄に敗れて邯鄲に篭城し、欒布に平定された。

劉沢  〜B178
 燕敬王。劉邦の疎族。郎中として劉邦に随い、陳豨討伐での功で営陵侯とされ、呂須(樊噲の夫人)の娘を娶ったことでB181年に琅邪王とされた。 呂后が歿して斉王が挙兵すると、欺かれて兵権を奪われたが、劉氏の宗としての輿望を強調し、釈放されて長安に入った。 呂氏が誅滅されると、斉王の姻戚の駟氏の横恣を指摘して代王擁立を主唱し、功によって燕王に紹封された。

劉定国  〜B129 ▲
 燕康王嘉の嗣子。敬王の孫。B170年に燕王を襲いだ。 父弟の夫人だけでなく自身の娘とも姦淫し、殺人などの非法も多く、元朔年間に兄弟から該奏されると有罪として賜死され、国は廃された。

劉徳
 河間献王。景帝の子。臨江閔王の実弟。B155年に封王された。 古籍の蒐集に熱心で、手写した写本に礼賜を加えて返し、そのため蔵書は朝廷の秘書に伍し、淮南王と双璧だった。 礼制に詳しく、武帝に諮問されることもあり、蔵書の古文経伝は東漢の古文学隆盛の基となった。

劉如意  B206〜B195
 趙隠王。劉邦と戚夫人との子。 母への寵遇によって太子に擬された事があり、呂后に甚だ憎まれた。周昌を国相として就国したが、後に入京を強いられ、恵帝が寝食を共にして暗殺を防いだものの、帝の出狩中に呂后に殺された。

劉友  〜B181 ▲
 趙幽王。劉邦の子。梁王彭越が殺されて淮陽王とされ、翌年に趙王如意が殺されて趙王に移封された。 B178年に河間郡を以て子の辟彊が立てられた。呂氏を妃としながらも寵姫があったために誣され、召喚されて餓死した。

劉恢  〜B181 ▲
 劉邦の子。B196年に彭越が殺されて梁王とされ、B181年に趙幽王が廃されて趙王に移封された。 帝側に侍し、呂産の娘を妃とされたが、寵姫を悉く殺されて自殺した。

劉発  〜B127
 長沙定王。景帝の子。生母の唐姫は景帝の程姫(魯恭王の生母)の侍嬪で、景帝の進御を厭う程姫が偽って侍枕させたもの。B155年に立てられたが、微賤かつ薄倖の故に僻遠の地に封じられた。

劉肥  〜B189
 斉悼恵王。劉邦の庶長子。項羽平定後に70余城を擁する斉王とされ、英布討伐にも従った。 B194年に参朝し、恵帝の兄事の礼を受けたことで呂后に憎まれ、城陽郡を魯元公主の湯沐料に献じて許された。

劉襄  〜B180 ▲
 斉哀王。悼恵王の嗣子。呂台・劉沢のために済南・琅邪郡が割かれた。 呂后が歿すると弟の朱虚侯東牟侯と通じて挙兵し、琅邪王の兵を併せて済南を伐った後、討伐の大将軍灌嬰に諮って兵を境内に留めた。
 呂氏の誅滅後、姻戚の駟氏の横恣を指摘する琅邪王の反対で即位できず、城陽琅邪済南の3郡が返還された。
 嗣子の文王がB166年に無嗣で歿すると、嫡子相続を原則とする漢法を枉げて悼恵王の6子による分割相続が認められ、済北済南膠西膠東甾川国が分離された。

劉将閭  〜B154 ▲
 斉孝王。悼恵王の子。宗家が断絶して紹封された。 呉楚の乱への与力を逡巡して膠西王らに臨淄を攻囲され、平定後に通謀が発覚すると自殺したが、赦されて嗣子による襲封が認められた。

劉卬  〜B154 ▲
 膠西王。斉悼恵王の子。B165年に立てられた。 B154年に売爵の不正を以て6県を削られ、呉王に通じて共に挙兵すると斉兵の帥となって臨淄を攻囲したが、欒布らに敗れると韓頽当に開城して自殺した。

劉志  〜B119 ▲
 済北王。斉悼恵王の子。B165年に立てられた。 呉楚の乱に通謀しながらも郎中令に阻まれ、平定後に甾川王に徙封された。

劉戊  〜B154
 楚夷王郢の嗣子。元王の孫。 B155年に喪中の姦淫を理由に東海郡を削られ、呉王に通じて翌年に共に挙兵したが、攻略に失敗して太尉周亜夫に大破され、自殺した。乱が平定されると叔父の劉礼が紹封された。

劉彭祖  〜B92
 景帝の子。中山靖王の同腹。 B155年に広川王とされ、翌年に呉楚の乱が平定されて趙王に移封された。 律法に通じて枉陥を好み、国相・二千石の瑕言を捉えて該奏したために2年以上在任した者がなかった。 太子が同母姉妹と姦淫し、問責使を殺したために廃太子が命じられた。又た吏職を好み、しばしば中山靖王と相い誹毀した。

劉餘
 魯恭王。景帝の子。B155年に淮陽王とされ、翌年に呉楚の乱が平定されると魯王に移封された。 学問を好まず造営や苑遊・狗馬・音律を好み、宮殿を拡張するために孔子の旧宅を毀ち、壁中から古文経伝を発見した。

呂産  〜B180
 呂后の甥。 恵帝が歿すると兄の呂台とともに禁兵を統御し、B184年に呂嘉(呂台の嗣子)が廃されて呂王に紹封され、ついで梁王に更封された。 呂后が歿して斉王が挙兵し、呂禄が兵権を返上したために宮内に入れず、郎中府内で朱虚侯に殺された。

呂禄  〜B180 ▲
 呂后の甥。朱虚侯の婿。B181年に趙王が廃され、代王が趙王への転封を辞退したため、呂産・陳平らの勧めで趙王とされた。 呂后が重篤になると上将軍とされて北軍を統御したが、斉王が挙兵すると酈商の勧めで就国のために将軍印を返上し、兵権を回復した周勃らに斬られた。

酈食其  〜B204
 陳留高陽の人。好学の儒生で、生業に就かず狂生と揶揄された。 陳勝に呼応した諸将を観察して劉邦のみを認め、儒者を嫌う事を知りながら敢えて面謁すると非礼を叱責したが、方略が喜ばれて上座に据えられ、陳留を開城させた。 以後、諭使として諸国を巡り、滎陽を奪われた劉邦に奪回を強く勧め、自らは斉に使して田横に帰順を決断させたが、東征中止の命令がない事を理由に韓信が斉を襲ったために烹殺された。

酈奇
 酈商の嗣子。 呂后が歿して斉王が挙兵すると、酈商の指示で呂禄の北軍の権を周勃に返上させ、呂氏鏖殺を成功させたが、世人からは売友と誹られた。 曲周侯を襲ぎ、呉楚の乱では将軍として趙を攻囲し、斉を平定した欒布と合して平定した。 B148年に王后の母との通婚を求めて庶人に貶され、庶弟の酈堅が繆侯に立てられた。

魯元公主  〜B187
 劉邦と呂雉との子。恵帝の同母姉。 劉邦が即位した後に趙王張敖に降嫁し、張敖が謀叛の嫌疑で貶爵された際には匈奴への降嫁も議されたが、呂后の奔走で廃議され、娘は恵帝の皇后とされた。 劉邦の死後、斉王より城陽郡が献上された。

張敖  〜B182 ▲
 趙王張耳の嗣子。 B199年に劉邦暗殺を謀った家令の貫高に連座したが、魯元公主を娶っていたために宣平侯への貶爵で赦された。
 嗣子の偃は呂氏との係累で魯王とされ、呂氏覆滅で廃されたが、文帝によって南宮侯に紹封された。

貫高  〜B199 ▲
 張耳の旧臣で、張耳の死後は張敖に仕えて家令と国相を兼ねた。 剛直な質で、B201年に来訪した高祖が張敖を下僕同様に扱った事を憤慨し、翌年に柏人での襲撃が密告で失敗して共謀者がすべて自殺すると、趙王の無罪を釈明する為に敢えて長安に護送された。頑強な人格が高祖に認められたが、趙王が赦免されると節を守って自殺した。

 
 

于定国  〜B40
 東海郯の人。字は曼倩。公正な審理で著名だった父の于公より法を学び、獄吏から御史官を歴任し、宣帝が迎立されると昌邑王を諫めた功で光禄大夫に抜擢された。官となってからは儒者を重んじて『春秋』を学び、又た刑理には細心に対処して冤罪の回避に注力した。 B51年には丞相に至って西平侯とされ、B43年に日蝕を理由に致仕したが、丞相が天災地変で辞職する嚆矢となった。

王音  〜B15
 魏郡元城の人。大司馬王鳳の従弟。 京兆尹王章による劾奏を窺聴して王鳳に告げ、この功と、王鳳が兄弟の驕横を危ぶんでいたことから、B22年に遺言で大司馬を継いだ。 王鳳の兄弟の驕横をしばしば咎めて成帝に対して謝罪させたこともあり、忠節の風ありと佳賞された。

王立  〜A4 ▲
 魏郡元城の人。字は子叔。王政君・大司馬王鳳の異母弟。 B27年に兄弟4人とともに封侯されて紅陽侯となり、世に“五侯”と称され、奢侈を競って驕恣であり、賓客の行ないは盗賊に斉しかった。 従兄弟の王音がB15年に歿して兄の王商が執政を嗣ぐと、特進を加えられて禁兵を統御したが、少府の財を侵して成帝に憎まれ、3年で王商が歿した後も大司馬とはされず、淳于長に連坐して罷免された。王氏の宗として王莽に憚られ、呂寛に連坐して賜死された。
 封国が南陽に位置したことから南陽劉氏とも交誼があり、孫の王泓は光武帝より武桓侯に封じられた。

王根  〜B6 ▲
 魏郡元城の人。字は稚卿。王立の同母弟。五侯の1人。曲陽侯。 B12年に兄の大司馬王商が歿すると、兄の王立を措いて後任とされ、驃騎将軍が加えられた。 定陶王(哀帝)を成帝の継嗣に推し、王莽を後任に推して致仕したが、哀帝が即位すると封国に放逐されて憂死した。

王嘉  〜B2
 平陵の人。字は公仲。経書に明るく、時局の対策が成帝に認められて太中大夫に抜擢され、太守を歴任した。 大鴻臚・京兆尹を経てB4年に丞相に至ったが、董賢の寵任を強諫して哀帝にも畏憚され、董賢の増邑の詔を棄却したことで投獄され、絶食死した。

王舜  〜A16
 魏郡元城の人。安陽侯王音の嗣子。中山国に平帝を奉迎して車騎将軍とされ、A1年に王莽が太傅となった際には太保を加えられて上三公に列し、禅譲の際には王太后に璽綬を求める使者となった。
 腹臣の功が認められて新朝では太師・安新公とされ、四輔の筆頭とされたが、信任は劉歆に劣ったとされる。

王邑  〜A23
 魏郡元城の人。成都侯王商の子。王莽の従弟。平帝の下で王氏が復権した後は王莽の腹心として信任され、A7年の翟義討伐では虎牙将軍として起用された。
 新朝では大司空に叙され、14年には洛陽に宗廟・社稷の地を求め、一時は三公の職を兼摂したこともあり、緑林軍が宛を攻囲すると洛陽の大司徒王尋とと共に出征したが、昆陽攻略に拘泥して劉秀に惨敗した。 長安に還ると大司馬に直され、更始軍による長安攻略で奮戦の末に戦死した。

夏侯勝
 東平の人。字は長公。家業の斉詩や『尚書』を修め、博士・光禄大夫を歴任し、災異を以て帝賀を諫めて詔獄に下されたが、却って廃黜を謀っていた大将軍霍光に重んじられた。 宣帝が即位すると上官太后の長信少府とされたが、武帝の廟号を不要と論じ、これを弾劾しなかった丞相長史の黄覇とともに投獄され、獄中で黄覇に尚書を講義した。大赦の後に諫大夫・給事中となり、しばしば宣帝から直言を求められ、太子太傅に進んで『尚書』を講じた。
 従兄の子の夏侯建は、夏侯勝の解釈に諸派の学説を折衷して一家を立て、夏侯勝とは互いに誹毀したが、夏侯勝の学は“大夏侯”、夏侯建の学は“小夏侯”として、それぞれ学官に立てられた。

魏相  〜B59
 字は弱翁。宣帝の世に定陶から扶風平陵に徙った。『易』に通じ、刑理の厳正さで河南太守に進み、丞相車千秋の子が父の死で洛陽武庫令を棄官すると、霍光に迫害を疑われて繋獄されたが、吏民や軍士の嘆願は万を超えたという。 宣帝の即位後に御史大夫に進められ、霍光の死後は宣帝の奪権を支持して丞相とされた。 寛容に欠けたものの厳格・剛毅で、御史大夫丙吉と善く宣帝を輔け、在職のまま歿した。

義渠安国
 神爵元年(B61)に羌族が不穏となると光禄大夫として斥候し、湟北に進出した先零羌の渠帥30余人を殺したことで西羌の斉挙を惹起した。

匡衡
 東海承の人。字は稚圭。農夫でありながら精学し、殊に『詩』に通じて弁論で名高かった。 蕭望之梁丘賀らに認められ、B36年には丞相に至って楽安侯とされ、成帝が即位すると郊祭制の整備や淫祀の排除を建議した。 又た石顕を弾劾し、却って元帝の世に石顕の横恣を黙認したとして司隷校尉王尊に弾劾され、この時は慰留されて、子の越騎校尉匡昌の殺人や脱獄未遂なども不問とされたが、B30年に横領を追求されて罷免・剥爵とされた。

王尊  ▲
 涿郡高陽の人。字は子贛。夙に両親を亡くして牧羊の傍らで精学し、才幹と直言を認められて長吏を歴任し、能名を謳われた反面で厳酷を以て罷免されたが、後に大将軍王鳳に認められて司隷校尉に抜擢された。 成帝の即位後、丞相匡衡を石顕への阿附で弾劾して却って左遷されたが、京兆の治安が乱れると王鳳の薦挙で守京輔都尉とされ、一月で治安を回復して京兆尹に進められた。 B27年に勅使に対する非礼を該奏された際には、輿論を代表した湖県の三老の上奏で徐州刺史に直され、太守を歴任した。

弘恭
 沛の人。罪を犯して腐刑に処され、中書官を歴任して宣帝に中書令とされ、中書僕射の石顕と共に有能を称された。 託孤の蕭望之を枉陥して自殺させ、元帝の治世の中書支配をもたらした。

侯淵  ▲
 元帝に才略を嘉されて中書令弘恭・僕射石顕を佐け、中書を宰領して大常侍と号した。

孔光  B65〜A5
 字は子夏。孔子の直系として元帝より褒成君とされた孔覇の子。 上書は常に経書に依り、又た論争を好まないことからも成帝に信任されて尚書官を累進し、御史大夫の時に成帝の継嗣に中山王を推して廷尉に左遷されたが、淳于長が破れると左将軍に進み、ついで翟方進の後任として丞相に至った。
 傅太后を皇太后と称することに反対して罷免されたが、B2年に傅太后が歿すると迎えられ、丞相王嘉が獄死して後任とされ、丞相制が廃されると更めて大司徒とされた。 平帝が迎立されると王莽の勧めで太傅とされ、A1年に王莽に譲って太師に転じた後は病と称して殆ど出仕しなくなった。

黄霸  〜B51
 淮陽陽夏(河南省太康)の人。字は次公。買官によって任官して清廉を讃えられ、酷吏が有能視される時流の中で寛大穏和に終始した。 宣帝が即位すると廷尉丞に進み、夏侯勝の不敬に連坐したが、B55年には丞相に至った。 地方官としては有能で大いに賞賛されたが、丞相となってからは威儀の面で批判されることが多かった。

淳于長  〜B8
 魏郡元城の人。王政君の甥。大司馬王鳳の病床に近侍したことで認められ、B13年には侍中・衛尉に累進した。 趙飛燕の立后に奔走して封侯され、翟方進とも交誼し、一時は王根の後任の大司馬にも擬されたが、廃后許氏の姉を娶った後、許后の復辟を謀ったとして獄殺された。 弁護を試みた王立は封国へ放逐され、廃后許氏は賜死された。

戴徳
 梁の人。字は延君。甥の戴聖とともに『礼』を后蒼に学んで一家を為し、礼学の大家と称された。 『大戴礼』85篇を編纂して大戴とも呼ばれた。

戴聖  ▲
 字は次君。戴徳の甥。『大戴礼』を校訂して現在の『礼記』である『小戴礼』49篇を編纂した。 礼学の大家として知られ、小戴とも呼ばれた。

翟方進  〜B7
 汝南上蔡の人。字は子威。微賎の家に生まれながらも好学で、些事に拘泥せず、長安で『穀梁伝』をはじめ諸経を学んで名儒と讃えられた。 丞相司直に叙されると二度までも司隷校尉を左転させて百官から畏憚され、B15年に丞相薛宣の後任とされた後は王氏に与する二千石や長吏を弾劾・廃黜し、殊に王立と対立した。 淳于長を利用した王氏の削権に失敗した翌年、天子大難の天象を以て厭勝として自殺を強いられ、朝廷は自殺を秘して丞相の儀杖で葬送した。

薛宣  ▲
 東海郯の人。字は贖君。律法に明るく廉潔で、御史中丞・左馮翊などを歴任して明察を謳われ、後に丞相に至ったが、経学に親しまなかった為に軽侮され、王太后の喪事の不備を理由にB15年に罷免された。 夙に翟方進を大器と認めて敬重し、後に翟方進の薦めで特進とされて宣帝の娘/敬武長公主を降嫁されたが、子の薛況の傷害事件に連坐して罷免された。

陳咸
 沛郡相の人。字は子康。剛直狷介で近臣の劾奏を憚らず、元帝に御史中丞に抜擢されて畏憚された。 中書令石顕と対立し、五鹿充宗を論破した槐里令朱雲が不敬で投獄されると、交友を以て連坐した。 成帝が即位すると、大将軍王鳳に長史とされ、長吏を歴任した後に故将の京兆尹王章に連坐して罷免され、B16年に車騎将軍王音の推挙で少府に至ったが、かねて不和だった翟方進が丞相となると罷免された。 紅陽侯王立に挙げられたものの、王立に連坐して郷里で憂死した。

王章  〜B24 ▲
 泰山鉅平の人。字は仲卿。貧困の中で精学し、諫大夫に叙された後は直言で重んじられたが、御史中丞陳咸と結んで中書令石顕を弾劾した為に罷免された。成帝が即位すると司隷校尉に進み、ついで京兆尹に転じて威令があったが、故将の大将軍王鳳を弾劾して枉陥され、獄死した。

范明友  〜B66
 隴西の人。大将軍霍光の娘婿。B78年に度遼将軍に叙されて烏桓を大破し、平陵侯とされた。 昌邑王の廃黜や宣帝の策定にも参与し、本始2年(72)の烏孫救援に御史大夫田広明・後将軍趙充国・雲中太守田順・前将軍韓増らと出塞して匈奴を伐った。大将軍霍光の死の翌年(B67)には将軍印を没収され、霍禹らの大逆に与して自殺した。

傅介子  〜B65
 北地義渠(甘粛省寧県)の人。軍士の出で、B80年に遣大宛使に自薦して楼蘭・亀茲に対する問責使を兼ね、大宛からの帰途に亀茲の匈奴使を斬って中郎とされた。後に大将軍霍光に諮って楼蘭王を暗殺し、長安の質子を王に立てて帰国し、義陽侯に封じられた。

房鳳
 琅邪不其の人。字は子元。 治才には欠けたものの経書に明るく、『穀梁伝』に精通し、大司馬王根の長史に補された後、光禄大夫・五定中郎将を歴任した。光禄勲王龔・奉車都尉劉歆と秘書を校訂し、『左伝』の官学化を唱える劉歆に与したことで九江太守に出された。

楊敞  〜B74
 華陰の人。大司馬霍光に重用され、昭帝の世に大司農に進んだ。 上官桀らの謀叛を知ると病と称して諫大夫杜延年に上書させ、そのため封侯を逸したが、B75年に丞相に至って安平侯に封じられた。 明年に昭帝が歿し、霍光に昌邑王廃黜の事を諮られると狼狽するのみで、夫人に叱咤されて大事に参与した。

呂寛  〜A3
 王宇(王莽の子)の義兄。王宇は王莽が平帝の戚族の入京を拒むと、鬼神に託して王莽を脅迫することを謀った。 呂寛は王莽の門に血を灌いだが、事が露見すると謀首として刑戮され、漢の外戚を巻き込む疑獄に発展した。

薛況  〜A3 ▲
 薛宣の子。父と叔父との不和を譏った給事中申咸を傷害し、父と共に罷免された。 呂寛と親交があり、又た母の敬武長公主は哀帝の世に外戚の丁・傅氏に親しんで王氏を譏り、共に呂寛に連坐して殺された。

何武  〜A3 ▲
 字は君公。蜀郡郫の人。 『易』を修めて夙に学名があり、翟方進を志友とし、義節の士として戴聖からも敬重され、成帝の綏和元年(B8)に御史大夫とされた。 検察の能はしばしば薛宣に比せられたが、劾奏煩瑣として譏られる事もあり、哀帝が即位すると不孝を理由に罷免された。
 後に諫議大夫鮑宣らの推挙で御史大夫に復し、哀帝の外戚寵任を諫争して前将軍に遷され、哀帝が歿すると王莽を大司馬に推す事を肯じなかったために罷免され、呂寛の党人と誣されて自殺した。

鮑宣  〜A3 ▲
 渤海高城(河北省塩山)の人。字は子都。 経書に通じ、哀帝の初に大司空何武に挙任されて甚だ敬重されたが、諫奏を累ねたことで煩瑣と譏られ、丞相孔光と対立して上党郡に流された。平帝の時、呂寛の党人として追捕されていた辛興を止宿させた為に連坐し、獄中で自殺した。

劉康  〜B23
 定陶恭王。元帝と傅昭儀との子。B41年に済陽王に立てられ、山陽王を経て定陶王に移封された。 生母が寵愛されて重んじられ、重篤となった元帝に近侍して太子に擬せられたことから王氏に憎まれたが、成帝からも厚遇された。

劉興  〜B7
 中山孝王。元帝と馮昭儀との子。B37年に信都王に立てられ、B23年に中山王に移封された。 成帝の継嗣が議されると、御史大夫孔光に推されて定陶王と争ったが、成帝からは凡愚として否定された。

劉崇  〜A6
 南陽の安衆侯。長沙定王の玄孫。王莽が幼帝を立てて摂皇帝と称すと、王莽による平帝毒殺を喧伝して挙兵したが、敗死した。 これより王莽による劉氏圧迫が強まり、翌年にも厳郷侯劉信を擁した翟義が挙兵した。

梁丘賀
 琅邪諸県の人。字は長翁。暗算に長け、武騎となった後に太中大夫の京房に『』を学び、一家を立てて大家と称された。 後に罷免されたが、宣帝に召されて宮中での宣帝襲撃を的中させて重んじられ、B59年には少府に至り、後に梁丘易には博士が立てられた。
 家学を継いだ子の梁丘臨は石渠閣会議にも連なった。

五鹿充宗  ▲
 字は君孟。梁丘臨に易を学んで大家と称され、中書令石顕との親交から尚書令に至った。 B38年には少府に至り、京氏易の京房を排斥した後は、易学で論難されることは稀だった。 成帝が即位すると玄菟太守に遷された。

△ 人物補注:秦・西漢

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