王閎
魏郡の人。王莽の叔父/平阿侯王譚の子。王磐の叔父。
哀帝に大司馬董賢の寵任を切諫し、哀帝が董賢に遺託した璽綬を奪って王太后に奉じたが、後に王莽に忌まれて東郡太守に出され、このとき誅戮を懼れて常に袖中に毒を携行したと伝えられる。
王莽が敗死すると東郡30余万戸を以て更始帝に帰順し、琅邪太守に転じて張歩と対峙したが、張歩が劉永の制詔を享けたことで和し、礼遇されて郡事を総管した。張歩が敗走した後も劇を守り、張歩の帰順を以て光武帝に詣降した。
謝躬
南陽の人。字は子張。更始帝の尚書令として冀州を按撫し、王郎討伐には失敗したものの、王郎の敗滅後は劉秀と倶に邯鄲に署を構えた。
後に鄴に遷り、劉秀の勧めで謝犬の役に応じて出兵して隆虜山(安陽市林州)で大敗し、その間に鄴を呉漢・岑彭に陥され、帰城したところを殺された。
朱鮪
淮陽の人。新市軍の渠帥として更始帝の即位や劉縯謀殺を推進したが、長安では漢の祖法を以て王爵を固辞し、左大司馬として李軼らと共に洛陽に鎮守した。
更始帝に劉秀の北伐を強諫したこともあり、報復を惧れて光武帝に頑強に抵抗したが、助命を保障する岑彭の招降に応じて開城し、後に少府に至った。
申屠建
緑林の渠帥。夙に劉縯を畏忌し、宛陥落後の宴席では、玉刔を挙げて劉玄に鴻門の会を暗喩した。
李松と共に武関(陝西省丹鳳)から関中を攻略して長安を陥し、長安遷都で平氏王とされた。張卬らとの宛遷都の強行が露見した際に刑戮された。
曹竟
山陽の人。字は子期。更始帝の許で左丞相とされ、子の尚書曹詡と倶に大権があった。
曹詡は劉嘉と並んで北伐の主帥に劉秀を強く推したが、長安陥落で戦死した。
荘尤 〜23
字は伯石。『漢書』以降、明帝に避諱して厳尤と記される。
将略に定評があり、王莽の天鳳3年(16)に大司馬とされたが、匈奴遠征を諫めて罷免された。
地皇3年(22)に納言将軍として荊州を討ち、下江軍を破って司徒王尋・大司空王邑に合したが、昆陽で劉秀に大破され、汝南の劉聖に帰順した。
趙萌
棘陽(南陽市新野)の人。妹が更始帝の寵姫となった事で親任され、長安遷都後は右大司馬として秉政し、官爵を濫授して「竈下の中郎将、羊胃を炙る騎都尉、羊頭を炙る関内侯」と囃された。
赤眉が関中に入ると比陽王王匡らと新豊(西安市臨潼区)に進駐し、張卬に敗れた更始帝が来奔すると、丞相李松と合して長安を回復した。
ケ曄
弘農析(南陽市浙川)の人。更始元年(23)に李松の関中攻略に呼応して武関・弘農を抜いて李松を迎え、長安を陥して執金吾とされた。更始帝が敗れると光武帝に詣降し、建武4年(28)にはケ禹に従って延岑を大破した。
李軼 〜24?
李通の従弟。計策に長じ、劉氏への通誼を模索する李通に劉秀を介することを勧め、劉秀の説得に成功して舂陵劉氏の挙兵に大きく寄与した。小長安の役の後は更始帝を支持して劉縯謀殺に与し、長安遷都後は舞陰王として洛陽に鎮守して大権を揮った。
馮異に招降されると城門を閉じて馮異の軍事を黙認したが、河北略定中の劉秀に離背を喧伝されたことで朱鮪に殺された。
李松 ▲
李通の従弟。武関を抜いて長安を陥し、長安遷都で丞相とされた。
翌年(25)、弘農で朱鮪と共に赤眉に大敗して新豊(西安市臨潼区)に屯し、張卬らに逐われた更始帝と合して長安を奪還したが、来攻した赤眉に敗れ、弟/城門校尉李汎が開門したことで長安が陥落した。
劉紆
劉永の子。劉永の死後に蘇茂・周建によって梁王に立てられたが、馬武・王覇に敗れて西防の佼彊に依り、29年に驃騎大将軍杜茂に伐たれると董憲と合した。
光武帝の親征で呉漢に大破され、郯で斬られた。
劉盆子 11〜
泰山式の人。式侯劉萌の少子。城陽景王の裔。
王莽の簒奪で庶人とされ、赤眉に虜掠されて牧童として従軍していたが、入関後に籤によって天子とされた。
繊弱・痴愚で、即位後も衣冠束帯を嫌って牧童と遊ぶ事を好み、諸将の諍いに直面した後は出御を拒んだ一方で、幽閉されていた多数の宮女を憐れんで稟給したが、宮女は長安放棄に伴われずに餓死したという。
建武3年(27)に光武帝に降って趙王の郎中とされ、後に病で失明すると滎陽の商税を禄とされた。
劉恭 ▲
劉盆子の長兄。式侯劉萌の嫡子。
樊崇らの洛陽詣降に同行して更始帝より侍中・式侯とされ、以後も更始帝に随った。
劉盆子が登極すると自ら下獄し、長安陥落後は劉玄に侍衛し、赤眉の謝禄と協議して劉玄の待遇を保証させた。
劉玄の死後も赤眉に従って光武帝の受降を成立させ、後に劉玄の仇として謝禄を殺したが、劉玄に投降を勧めた事から寿光侯劉鯉に殺された。
劉鯉 ▲
更始帝の末子。
光武帝への帰順後は寿光侯に封じられて沛王に親しまれ、後に劉玄の讎仇として劉恭を殺した。
当時は諸侯王に対する律法は緩寛で、劉鯉に累坐した沛王は3日で赦免された。
廉丹 〜23
廉頗の裔。漢初に関中に徙された武門として、父の廉褒は右将軍に至った。
地皇3年(23)に更始将軍とされて太師王匡(王舜の子)と共に赤眉を討ち、「寧ろ赤眉に遭うとも太師には遭わじ、更始に遭えば殺されるのみ」と称された。
董憲討伐の途上、王匡の軽進によって東平郡の無塩で赤眉に敗死した。
王遵
覇陵(西安市区)の人。字は子春。豪侠で才機があり、隗囂と与に挙兵したが、しばしば光武帝への帰順を勧め、又た知己の来歙が隗囂の首鼠両端を罵って王元に追討されると、収兵に奔走した。
隗囂が洛陽と断交すると光武帝に帰順して太中大夫・向義侯とされ、翌年(32)の隴右親征では持節として長安で諸軍を監し、旧知の牛邯を招降した。
牛邯 ▲
狄道(甘粛省臨洮)の人。字は孺卿。勇力と才気を以て隴右で名高く、隗囂が光武帝と断交した後、旧知の王遵に招降されると10余日の沈吟の末に応じ、13将16県が応じたことで「隗囂の右臂を断つ」と称された。護羌校尉とされて来歙の隴右平定を援け、牛邯の死と共に護羌校尉は一時廃された。
隗恂 〜32
隗囂の長子。来歙・王遵らの勧めで建武5年(29)に洛陽に入質し、胡騎校尉・鑽羌侯とされた。
隗囂の離叛では連坐を赦されたが、西城に遁れた隗囂が招降を拒んだことで殺された。
隗純 〜42
隗囂の嗣子。隗囂が病死して王元らに擁立された。
建武10年(34)に冀県(甘粛省甘谷)で来歙らに大敗して降り、弘農に徙されたが、後に北奔して武威で斬られた。
王元 ▲
隗囂に親任され、夙に函谷関封鎖による関西自立を唱え、建武6年(30)に隗囂が討蜀を拒んだ後、諭使来歙を隴山(宝鶏市隴県)に襲って却けた。
隗純が漢に降った後は蜀に帰順して河池(甘粛省徽県)に拠り、後に巴に転じ、延岑を破った臧宮に降った。
高峻 ▲
隗囂の部将。馬援の招撫に応じた後、建武8年(32)に漢軍が退くと高平(寧夏固原市区)の第一城に拠って再び隗囂に帰属した。
隗囂の死後も抵抗を続けたが、徹底抗戦を主唱する謀首の皇甫文が諭使の寇恂に斬られると、畏れて即日に開城した。
公孫恢 〜36
公孫述の弟。更始2年(24)に緜竹(徳陽市区)で李宝を撃退して大司空とされた。
岑彭が荊門を奪回すると広漢(広漢市区)を固めたが、翌年に涪城(綿陽市区)で臧宮に敗死した。
任満 〜35 ▲
蜀将。公孫述が称帝すると、江州(重慶市区)から扞関(湖北省長陽)に進駐した。
後に大司徒とされ、建武9年(33)には岑彭の不在に乗じて田戎らと荊門山(湖北省宜都)に進出したが、後に岑彭に敗死した。
田戎 〜36
汝南西平の人。夷陵(湖北省宜昌市区)に拠って衆数万を擁した。
黎丘の秦豊を大破した岑彭に詣降したが、財物を掠奪して背いた義兄/辛臣が岑彭からの諭使となったことで陥策を疑って秦豊と合した。秦豊が敗れると蜀に降って翼江王とされ、任満に従って荊門を奪ったが、後に岑彭に敗れて江州に退き、馮駿に敗死した。
延岑 〜36
南陽筑陽(襄樊市谷城)の人。字は叔牙。冠軍(南陽市ケ州)で劉嘉に敗れて帰順したが、建武2年(26)に叛して漢中に拠り、李宝に逐われて扶風に割拠した。
長安に還った赤眉を大破したものの疲弊し、翌年に馮異に敗れて南陽の秦豊に依り、秦豊が滅ぶと蜀に降って大司馬・汝寧王とされ、略陽で来歙と対峙した。
後に巴で臧宮に敗れて成都に却き、呉漢を城下で大破して臧宮にも優勢を保ったが、公孫述の死で呉漢に降り、公孫氏と倶に殄戮された。
呂鮪
陳倉の人。更始帝の敗滅後、陳倉に拠って公孫述と結んだ。
建武3年(27)に蜀兵と長安進出を図って馮異・隗囂に敗れ、漢中に奔って公孫述に帰属した。
陰麗華(光烈陰皇后) 5〜64
南陽新野(河南省)の人。母はケ氏。劉秀とはかねて懇意で容色を讃えられ、長安で執金吾の儀杖に接した劉秀は「官は執金吾、妻は陰麗華」と嘆じたという。
更始元年(23)に宛で劉秀に嫁し、建武元年(25)に貴人とされ、彭寵征伐にも扈随し、17年(41)に郭皇后が廃されると皇后に立てられた。
恭倹で笑謔を好まず、宗族の驕恣を常に誡め、死後は原陵(光武帝陵)に合葬された。
陰識 〜59 ▲
南陽新野の人。字は次伯。光烈皇后の異母兄。
陰氏は斉の管仲を祖とし、秦漢の間に新野に遷ったという。
かねて舂陵劉氏と親交があり、長安遊学中に劉縯が挙兵すると直ちに家属を率いて従った。
光武帝が即位すると陰郷侯とされ、建武15年(39)に執金吾を領し、陰氏立后の後も人事に容喙しなかった。
後に曾孫が和帝の皇后とされた。
『捜神記』によれば、「祖父の陰子方は宣帝の世に至孝・仁恩を讃えられ、黄羊を竈神に祀って顕現があってより栄え、700余頃の田地を有して“富は邦君に斉し”と称され、これより臘日には竈を祀って黄羊を供るようになった」そうです。
陰興 9〜47 ▲
字は君陵。光烈皇后の同母弟。膂力に秀で、武騎を典将して常に光武帝に扈随した。
交際を好み、他人を誹毀することがなく、常に外戚の驕慢を危ぶんで封爵を受けず、陰后が人事に容喙しなかったのも陰興の旨を察したためといわれる。
呉漢の死後には大司馬に擬されたが、畢に受けなかった。
陰就 〜59 ▲
陰興の弟。談論に長じながらも剛傲なために衆望に乏しく、明帝が即位すると特進・少府とされた。
子の陰豊は明帝の妹/酈邑公主を娶ったが、共に狷急・驕妬であり、永平2年(59)に公主を殺して刑誅され、陰就も累坐して自殺した。
朱暉 11〜89? ▲
南陽宛の著姓。字は文季。早逝した父/朱岑が長安で劉秀と同窓だったことから徴任されたが、辞して太学に学び、矜厳守礼を讃えられた。
驃騎将軍の東平王に挙用され、少府の吏が陰就の権勢に驕って儀璧の支給を怠ったところ、主簿を瞞いて璧を奪い、藺相如に比せられた。
この時、陰就は嘗て朱暉に交際を許されなかったにも拘らず、義士として不問に付して大度を示した。
剛直を忌まれて罷免されると、邑里との交通を絶ったことで郷党から狷介と謗られた。章帝に召されて尚書令に至り、塩の専売・均輸法の再開や竇憲の北伐を諫争した。
王常 〜36
潁川舞陽(河南省漯河市)の人。字は顔卿。官憲に追われて江夏郡に逃れ、緑林に投じた。
下山後は成丹らと下江軍を称し、昆陽の役では劉秀を扶けて城を死守し、長安遷都後は劉姓を下賜されてケ王とされた。
更始帝即位の議では劉縯を推したと伝えられ、更始帝が敗れると光武帝に詣降し、ケ奉討伐・徐州経略を経て横野大将軍とされた。
嗣子の王広は永平14年(71)に楚王に累坐して廃された。
王覇 〜59
潁川潁陽(許昌市襄城)の人。字は元伯。律法を家業とし、潁陽で劉秀に帰属して北渡に随った。
薊から落ちる途上、呼沱河で気象を案じて結氷を予言し、渡河を果たして神佑と称された。
邯鄲攻略で王郎を斬り、常に臧宮・傅俊と営を共にしたが、光武帝が即位すると先んじて偏将軍とされた。
劉紆討伐では、来援を恃む馬武を救わず、死戦させた後に蘇茂を挟撃して撃退し、垂恵(亳州市区)を降して討虜将軍とされた。
建武9年(33)に呉漢が盧芳攻略に失敗すると討虜営を領したまま上谷太守となり、翌年に盧芳討伐に失敗した後は杜茂と共に専守に転じ、永平2年(59)に病を以て罷免された。
王梁 〜38
漁陽要陽(河北省承徳市区)の人。字は君厳。
狐奴令(北京市順義)として耿況に従って劉秀に降り、野王令(河南省沁陽)とされて河内太守寇恂を扶けた。
光武帝が即位すると、『赤伏符』の「王梁衛を主り玄武と為る」に依って大司空とされ(野王は衛の故都。玄武は水神で、司空は水土を司る)、屡々恣意で兵を動かしたために罷免されたが、蘇茂・龐萌討伐での力戦を嘉されて前将軍・河南尹・済南太守を歴任した。
欧陽歙 〜39
楽安国千乗(淄博市高青)の人。字は正思。
伏勝から『尚書』を伝授された欧陽生の裔で、『尚書』を家学として累世で博士とされた。
劉秀に詣降して河南尹・揚州刺史・汝南太守などを歴任し、建武15年(39)には韓歆に替って大司徒に至ったが、汝南での臧賄を弾劾されて獄死し、掾の陳元の訟冤で棺木が下賜された。
郅ツ ▲
汝南西平(河南省駐馬店市)の人。字は君章。『韓詩』『厳氏公羊』を修め、天文暦数にも通じた。
王莽の簒奪直後から復漢を唱え、伊尹を自認して王莽に還政を上書して投獄されたが、讖緯を典拠としていたために大赦で釈免された。
積弩将軍傅俊に長史とされたものの、軍官を卑しんで県吏となり、太守の欧陽歙の人事賞罰の偏頗を忌んで江夏に去った。
後に上東城門候に叙され、光武帝の夜猟を暴虎馮河の類と極諫して嘉納され、長沙太守に至った。
賈復 〜55
南陽冠軍(ケ州)の人。字は君文。剛毅方直で、『尚書』を修めて“将相の器”と評された。
緑林軍に呼応して挙兵し、後に漢中王劉嘉に帰順して劉秀に薦挙され、光武帝が即位すると執金吾とされた。
洛陽攻略の翌年には急務とされた郾攻略を成功させ、ついで淮陽・汝南を経略し、帰途に潁川太守寇恂と諍ったものの御前で和解した。
将器を謳われながらも恃勇軽突を危ぶまれて軍将とはされず、光武帝に常に近侍したために将帥としての勲功は少なかったが、歴戦で12創を負い、13年(37)には膠東侯に封じられて6県が食邑とされた。
天下平定後は京師の功臣が大兵を擁する事を喜ばない光武帝の意を察し、ケ禹と倶に印綬を奉還して私交を絶ち、朝請を奉じた。
蓋延 〜39
漁陽要陽(河北省承徳市区)の人。字は巨卿。剛力と勇侠を知られ、漁陽の郡吏として呉漢に同行して劉秀に詣帰した。
光武帝が即位すると虎牙将軍とされ、兗・豫州を平らげて劉永を敗死させたが、劉永討伐で蘇茂に、董憲討伐では龐萌に離叛され、光武帝の親征を迎えて桃聚で龐萌を、昌慮(山東省滕州)で董憲を大破した。
隴右征伐後、河池(甘粛省徽県)攻略中に来歙に後事を託されたが、自身も陣中で病臥して左馮翊に転じ、在任のまま歿した。
孫の蓋側は、永平13年(70)の楚獄で舅の王平に連坐し、剥爵された。
しばしば敵を侮っての軽挙を光武帝に窘められています。
又た左馮翊時代には第五倫に非法を諫められていますが、改悛しないばかりか第五倫を恨んで昇任を停滞させたそうです。
そんな為人りですから、蘇茂や龐萌の離叛についてもかなりの原因を負っている筈です。
賁休 〜28 ▲
董憲の部将。蘭陵城(臨沂市蒼山)に鎮し、彭城を陥した蓋延に帰順して董憲に囲まれたが、囲魏救趙策を棄てて来援した蓋延が董憲に敗れたため、賁休は蘭陵の陥落で殺された。
郭聖通(光武郭皇后) 〜52
真定藁(石家荘市)の人。真定恭王劉普の外孫。
更始2年(24)に薊から来奔した劉秀に嫁し、光武帝即位の翌年(26)には皇后に立てられ、皇子彊が太子とされた。
これは真定の豪姓である郭氏と真定王家の人脈・資力が期待されたもので、劉秀が元来陰麗華を重んじていたこともあり、統一後の建武17年(41)に怨言を理由に廃された。
以後も実子の輔が中山王に昇されるなど一門は厚遇され、20年(44)に劉輔の徙封によって沛太后とされた。
郭況 10〜59 ▲
沛太后の同母弟。
謹慎を嘉され、郭后廃黜の代償に兄弟と共に封侯されて大鴻臚に進められ、光武帝の臨御の毎に篤賜があったことから、京師では“金穴”と称された。
明帝の即位後も陰氏と並ぶ外戚として重んじられた。
景丹 〜26
馮翊檪陽(西安市臨潼区)の人。字は孫卿。
王莽の世に朔調副弐(上谷長史)とされ、耿弇に随って劉秀に帰し、屡々殊勲を挙げた。
呉漢と衆望を二分し、光武帝の即位後に幽州平定の功を以て呉漢が大司馬とされると、衛青と霍去病が同列とされたことに倣って景丹は驃騎大将軍とされた。翌年、病中に弘農征伐を強いられ、郡に達して十余日で歿した。
堅鐔 〜50
潁川襄城(許昌市)の人。字は子伋。
河北で薦挙されて劉秀に近侍し、光武帝の即位後は万修と倶に南陽を経略した。
この時、宛城では董訢が叛き、呉漢はケ奉に敗れ、万修が病死したために孤絶すること年余に及んだが、常に陣頭で矢石を冒し、士卒と苦楽を共にして軍を全うした。以後も征伐に従い、6年(30)に合肥侯に更封された。
厳光
会稽余姚の人。字は子陵。夙に高名で、劉秀とは同窓生だったが、光武帝が即位すると姓名を変じて隠遁し、後に安車で迎えられること三度で応じて頗る礼遇された。
旧知の司徒侯覇を痴と呼んで奉迎使にも応えず、応辞を求める使者に対しては、「買菜なるか。益さんことを求むるか(おかずを買いに来たのか。オマケが欲しいのか)」と揶揄した。
これを伝聞した光武帝は「狂奴の故態なり」と笑って即日に臨幸したが、厳光は腹を撫でられても臥したまま“巣父の志”を称し、夜には共に偃臥して帝の腹上に脚を載せたという。
光武帝を評しては「往時に差増あり(多少はマシになった)」とするのみで畢に仕官を肯ぜず、齢80で家で歿した。
巣父 ▲
伝説上の賢人。世俗を厭い、帝堯から譲位を聞かされた許由が川で耳を漱ぐと、その川を穢れているとして終生渡ろうとしなかったという。
古来、高潔な隠者の代名詞として許由と並称された。
耿況 〜36
扶風茂陵(咸陽市興平)の著姓。字は侠游。
王莽の従弟/王伋の同門として朔調連率(上谷太守)とされ、王莽が敗れると子の耿弇の勧めで漁陽太守彭寵と合して劉秀に帰順した。
彭寵が叛くと、彭寵との懇意を危ぶんで京師に少子/耿国を入侍させ、彭寵が平定されると朝請を奉じた。
重篤になると少子耿広・耿挙が中郎将とされ、「6子皆な青紫を垂る」と讃えられた。
耿氏は河北平定の中核となった上谷兵の代表であり、また著姓でもあって東漢一代を通じて寵遇された。
耿舒 ▲
耿況の子。耿弇の弟。郡にあって父を輔け、匈奴や群賊を悉く撃退し、彭寵平定を援けて牟平侯とされた。
伏波将軍馬援の五谿蛮討伐には副として従い、難路を進む馬援に異を唱えて速戦を是とし、軍の停滞を馬援の失策として耿弇に伝え、これが上書されて梁松の下向となった。
耿国 〜58 ▲
字は叔憲。楡麋侯耿況の少子。
彭寵の乱に際して洛陽に入侍し、後に五官中郎将に進んだ。
しばしば北辺の事を上書して度遼将軍の復置や日逐王の受降を勧めた。
耿純 〜37
鉅鹿宋子(河北省趙県)の大姓。字は伯山。王莽政権の納言(尚書)。
王莽が敗死すると舞陰王李軼に降って趙・魏への諭使となったが、北渡した劉秀に宗族賓客を率いて帰順し、赤眉の支軍と青犢・五幡ら群賊が合した射犬の役(河南省沁陽)では、夜襲を却けて戦勝の転機を為した。
傷病によって軍務を退き、建武2年(26)に諭使となって外叔の真定王劉揚を誅し、ついで東郡太守に転じて能治を称されたが、発干県長が糺察中に自殺したことから罷免されると列侯として朝請を奉じ、建武6年(30)には諸侯に率先して就国した。
8年(32)の東郡・済陰の群盗討伐に太中大夫として同道し、耿純が東郡に到るや悉く帰降し、再び東郡太守とされて在職のまま歿した。
嗣子の耿阜は、一族の耿歙が楚王に連坐したことで廃された。
侯覇 〜37
河南密(鄭州市新密)の人。字は君房。宦官/侯淵の族子。
公正矜厳で、成帝に仕えて『穀梁伝』を学び、王莽の世には理劇の才を称されて淮平大尹(臨淮太守)に至った。
更始帝の徴召には応じず、建武4年(28)に尚書令とされ、故事への通暁から令制整備を任され、翌年には大司徒とされて在任のまま歿した。
名士として知られた王丹は、侯覇が王莽に仕えた事を卑しんで終始交誼を許さなかった。
王丹 ▲
京兆下邽(渭南市区)の人。字は仲回。方直清潔で強豪を憎み、王莽の簒奪で下野した。
夙に高名で、同郡の河南太守陳遵が大侠であることから交誼を認めなかったが、大司馬護軍として匈奴に出征する陳遵は王丹の一揖を得て欣喜したと伝えられる。
亦た知人の薦めで薦挙した士に累坐して罷免されたところ、愧じた知人から絶交されたが、渝わらず交誼を続けたという。
ケ禹の西征に麦二千斛を給したものの左馮翊を受けず、後に太子少傅に叙され、太子太傅を以て致仕した。
祭遵 〜33
潁川潁陽(許昌市襄城)の人。字は弟孫。潁陽で劉秀に帰して渡北に従い、劉氏と雖も軍法を枉げなかったことで認められた。
建武4年(28)の彭寵討伐では涿郡太守張豊を平定し、隗囂が叛くと汧(宝鶏市隴県)に進駐して漆(彬県)の耿弇・旬邑(咸陽市)の馮異と連携して撃退したが、略陽(天水市秦安)攻略の途上で病んで汧に退き、隴下で蜀兵と対峙中に病死した。
性は謹慎で賞賜は悉く士卒に散じ、節倹を貫いて夫人の衣服にも繍縁を施さず、家には余財を遺さなかったという。
そのため光武帝に甚だ哀憐され、霍光に倣った葬儀が営まれ、後々まで追歎された。
朱祜 〜48
南陽宛の人。字は仲先。劉縯の挙兵に随い、劉秀の河北経略で建義大将軍とされた。
ケ奉討伐では捕虜とされながらもケ奉の帰降を仲介した功で位を保ち、建武5年(29)には岑彭の後任として秦豊を降して荊北を平定した。
性は質直で儒学を尚び、攻伐では城邑の降定を重んじて首級を競わず、虜掠を禁じたこともあって軍には信望が無かったが、旧恩と仁慈の性を光武帝に重んじられた。
15年(39)に将軍印を奉還した後は朝請を奉じた。
嘗て長安に遊学した際、しばしば劉秀を待たずに講舎に昇ったことがあり、後に光武帝から「復た我を捨てて講すること無きを得んや」と揶揄された。
朱祜は『東観漢記』では安帝の諱を避けて“朱福”とあります。
袁宏の『後漢紀』・范曄の『後漢書』では“朱祐”と記されていますが、時代を異にしながら“祜”を避けた理由は不明です。
朱勃
扶風茂陵の人。字は叔陽。馬援とは同窓で、12歳で『詩経』『書経』を誦し、閑雅な言辞は馬援を自失させたという。
20歳前に渭城の県宰を試守したが、官歴は県令に終始した。
馬援とは互いに敬愛し、馬援への訟冤の事を自ら「欒布の彭越を哭す」と譬え、史書には「馬援との交誼を全うせしは、唯だ朱勃のみ」と評された。
章帝の世に馬援が追諡されると、朱勃の家には穀2千石が下賜された。
任光 〜29
南陽宛の人。字は伯卿。郡県の吏として緑林軍に執われたが、劉賜に救われ、更始帝より信都太守とされた。
北渡した劉秀に帰属して征旅に従い、建武2年(26)に封侯された。
李忠 〜43 ▲
東莱黄(煙台市竜口)の人。字は仲都。信都都尉として任光に従い、劉秀に右大将軍とされ、兵の虜掠を厳禁したことで信任された。
建武2年(26)に五官中郎将・中水侯とされ、6年(30)に丹陽太守に転じると招撫と討伐を用いて旬月で郡界を平らげ、風俗教化・人材挙用・墾田などを推進して考課第一とされた。後に病を以て召還され、京師で歿した。
万修 ▲
扶風茂陵(咸陽市興平)の人。字は君游。更始帝より信都令とされ、任光に従って劉秀に帰した。
劉秀の河北経略に従い、堅鐔との南陽経略中に軍営で病死した。
臧宮 〜58
潁川郟(鄭州市)の人。字は君翁。下江軍出身。
劉秀に勇猛と謹厳質朴を親愛されて河北に従い、光武帝即位後に江夏を平定して輔威将軍とされた。
建武11年(35)より岑彭の伐蜀に従い、荊門奪回の難航で生じた軍内の叛意を能く制し、奪回後に沈水(四川省射洪)で延岑を大破し、平陽(徳陽市区)では王元を降し、翌年には涪城(綿陽市)に公孫恢を斬った。
岑彭の横死後は呉漢を扶けて公孫述を滅ぼし、太中大夫とされた後も屡々叛賊を平定して左中郎将とされ、光武帝から常勝将軍と讃えられたが、匈奴の内訌に乗じての北伐の提言は聴許されなかった。
卓茂 〜28
南陽宛の人。字は子康。郡の著姓で、元帝の世に通儒と称された。
寛仁・恭謙で、諸官を歴任して輿望が高く、同県の孔休、安衆の劉寵、楚の龔勝、上党の鮑宣らと同志となって王莽には仕えなかった。
光武帝は即位すると直ちに卓茂を招聘して太傅・褒徳侯として厚遇し、このため多くの士大夫が光武帝に帰すようになった。
孔休は王莽への出仕を吐血して謝絶し、龔勝は上卿に擬されると羞じて絶食死し、鮑宣は獄死した。
劉寵 ▲
安衆侯劉崇の従弟。長沙定王の玄孫。
王莽の簒奪に先んじて姓名を易えて卓茂・孔休と隠遁し、漢兵起義や劉秀の河北経略に加わって忠壮を高く嘉され、建武2年(26)に安衆侯とされた。
銚期 〜34
潁川郟(鄭州市)の人。字は次況。
潁川で劉秀に召されて河北に随い、薊より遁れる際には戟を奮い警蹕を唱えて退路を開き、後に劉秀に即位を勧進すると、警蹕を遂げさせるのかと揶揄された。
光武帝が即位すると更始派の多い魏郡太守とされ、造叛を謀った豪姓の李陸を誅しながらも軍中の一族を安堵して郡中を威服させた。
建武5年(29)に衛尉に転じてからは光武帝の微行を止めるなど、しばしば諫争して重んじられた。
趙憙 B4〜80
南陽宛の人。字は伯陽。
15歳のときに従兄が殺されると報仇の同志を募り、仇家の癒病を待って殺したことで節義を讃えられ、後に更始帝に頑強に抵抗した舞陰県を、諭使となって即日に開城させたという。
更始帝が敗れると帰郷し、後に旧知のケ奉の背叛を責譲したことを嘉され、郡県の長吏を歴任して理劇の才を称された。
長安陥落時に劉氏の戚族を多く庇護していたことから建武27年(51)には太尉に至り、歴朝で敬重されて光武帝・明帝の葬儀を主宰し、章帝のとき太傅・録尚書事のまま歿した。
張堪
南陽宛の人。字は君游。郡の著姓でありながら財貨に拘泥せず、齢16で長安に遊学すると聖童と称され、劉秀とも交際した。
来歙の推挙で光武帝に仕え、呉漢の伐蜀で蜀郡太守とされ、成都が陥落すると真っ先に庫蔵を検閲・収蔵して秋毫も私蔵せず、多くの器物が掠奪を免れた。
後に杜茂の驃騎営を領して匈奴を破り、漁陽太守に転じて匈奴からも畏憚されたが、三公に擬された矢先に病死した。
陳俊 〜47
南陽西鄂(南陽市区)の人。字は子昭。
更始帝が即位すると劉嘉の長史とされ、劉嘉の薦挙で河北で劉秀に近侍し、建武2年(26)に強弩大将軍に進められて河内平定に従事した。
4年(28)からは耿弇に従って済南を平げ、張歩が来降すると領大将軍事のまま琅邪太守に転じた。
8年(32)に張歩を追捕して斬ると青・徐州の専伐を認められ、14年(38)に中央に徴されて朝請を奉じた。
丁恭
山陽東緡(済寧市金郷)の人。字は子然。
『厳氏公羊』を修めて大儒と称され、建武年間に博士とされて長水校尉樊鯈ら数千人が師事した。
建武20年(44)には侍中・騎都尉に転じ、劉昆と倶に諮問に応じた。
劉昆 〜57 ▲
陳留東昏(開封市蘭考)の人。字は桓公。文帝の子/梁孝王の裔。
『施氏易』に明るく、雅琴に通じ、累歴して建武22年(46)に光禄勲に進むと太子・諸王・小侯に教授した。
致仕後は京師に邸宅と終身の禄千石が下賜され、子の劉軼以降は宗正卿を家官とした。
鄭興
河南開封の人。『公羊伝』『左氏伝』『周官』への精通で著名で、天鳳年間(14〜19)には劉歆と『左氏伝』『三統暦』を校正した。
更始帝の下では涼州刺史に至り、罷免後は隴右に客居しながらも隗囂の招聘には応じず、隗恂に随って入洛すると杜林の薦挙で太中大夫とされた。
正統の経学を重んじて讖緯には否定的で、そのため光武帝に激怒されたこともあり、文章を重んじられながらも任用されなかった。
後進からは賈逵と並んで左伝学の祖とされ、又た暦数にも長けて杜林・桓譚・衛宏らに私淑された。
陳元 ▲
蒼梧広信(広西省蒼梧)の人。字は長孫。『左伝春秋』に精通して“儒宗”と称され、桓譚・杜林・鄭興と並称された。
范升と争議して左伝学が立てられると博士に擬されたが、紛議に顧慮して次選の李封が用いられた。
高名の故に度々挙任されたが、上奏は概ね用いられなかった。
范升 ▲
代郡(大同市)の人。字は辨卿。『梁丘易』に精通し、建武2年(26)に徴挙された。
『費氏易』『左伝』博士の設置を求める尚書令韓歆・陳元と争議し、『史記』に『左伝』を多く引用した司馬遷をも“不明”と批判した。
杜茂 〜43
南陽冠軍(南陽市ケ州)の人。字は諸公。河北で劉秀に帰順し、累功により景丹の死後に驃騎大将軍とされた。
董憲の平定後は北防を担い、建武9年(33)に盧芳討伐に失敗した後は亭候・烽火の修繕や屯田開拓などを行なったが、15年(39)に軍資の割窃と殺人を問われて罷免・削封された。
嗣子の杜元は楚王に連坐し、減死・廃爵に処された。
郭涼 ▲
右北平の人。字は公文。壮猛で智略に長じて武将を自認したが、経書にも通じた。
北辺に名を知られ、彭寵平定の後に雁門太守に進み、杜茂を輔けて盧芳の部将の尹由と対峙した。
雁門の著姓は平城(大同市区)に拠った尹由に将帥とされたが、建武12年(36)に盧芳が九原を逐われると尹由を殺して郭涼に降り、多くの城邑がこれに応じて郭涼の統制に服した。
ケ晨 〜49
南陽新野の著姓。字は偉卿。劉縯・劉秀と親交があり、劉秀の姉を娶ったことで宗族に怨恚された。
更始帝の洛陽遷都に前後して常山太守とされ、北伐に転じた劉秀に委輸を絶やさず、光武帝の即位後に汝南太守に転じると鴻郤陂を修繕して数千頃を開墾し、「郡の豊饒は隣接に流出す」と讃えられた。19年(43)に西華侯に更封されて朝請を奉じた。
新野公主 ▲
劉秀の長姉。諱は元。ケ晨に嫁した。小長安の役では次妹/伯姫を伴う劉秀に敢えて同乗せず、末妹と共に追兵に殺された。
光武帝が即位すると新野節義長公主と封諡された。
ケ譲 ▲
ケ晨の宗族。陰麗華の姉を娶り、更始帝より交趾牧とされて南海・蒼梧・鬱林・合浦・九真・日南郡を領した。
建武5年(29)に旧知の岑彭の招撫に応じ、交趾部と荊南(江夏・武陵・長沙・桂陽・零陵)の諸太守と共に光武帝に帰順した。
董宣
陳留圉(開封市杞県)の人。字は少平。司徒侯覇に挙げられて北海相に進み、大姓の公孫丹を族滅して濫刑と該されたが、光武帝の再理で赦され、後に江夏太守とされると、群賊は風評で降散したという。
洛陽令のときに湖陽公主の奴僕が人を殺して公主邸に匿れると、奴の驂乗を捉えて格殺し、公主の面訴で笞殺に当てられたが、刑に臨んで国法の大義を説いて自殺を図り、畢に公主への叩頭を肯ぜず“強項令”と称された。京師の豪強からは“臥虎”と畏憚され、齢74で在任のまま歿した。
樊重
貨殖を好んで田土300余頃を拓き、邸宅には重堂楼閣が連なって巨万の財を擁したが、死に臨んで全ての債権を焚削したという。
又た邸に隣接する陂渠を“樊氏陂”と称したが、樊氏の没落後は庾氏が有して繁栄の基となったという。
樊宏 〜51 ▲
南陽湖陽(南陽市唐河)の著姓。字は靡卿。樊重の子。
姉妹は南頓君や劉賜に嫁し、光武帝の舅にあたる。
王莽の末に劉縯に随い、妻子は県に執われたものの、門勢が憚られて害されなかった。
宛の陥落後は劉縯に更始派への警戒を求め、劉縯が殺されると帰郷した。光武帝の世に光禄大夫・寿張侯とされた。
樊鯈 〜67 ▲
字は長魚。樊宏の嗣子。
諸侯王との交際を慎んで沛王への累坐を免れ、官は長水校尉に進んだ。
大儒と称された丁恭に師事し、後に『厳氏春秋』を刪定して世に“樊侯学”と称され、門生は前後3千余人に達した。
嗣子の樊は、従弟の樊賞が楚王の婿とをなることを窘めていた為、樊鯈の旧功が併慮されて累坐を免れた。
邳彤
信都の人。字は偉君。
王莽が鉅鹿郡から分割した和成郡(石家荘市)の卒正(太守)とされ、信都太守任光らと前後して劉秀に帰順した。
当時、鉅鹿郡は王郎に呼応し、また邳彤は妻子を伴って信都で劉秀と会していることから、和成郡は実質的に鉅鹿郡に制圧されていたと考えられる。征伐に従って行大司空事・太常・少府を歴任した。
傅俊 〜31
潁川襄城(許昌市)の人。字は子衛。王莽の末に劉秀に帰して一族を刑戮された。
劉秀を追って渡北して潁川兵を領し、建武3年(27)に積弩将軍とされて征南大将軍岑彭の荊州平定に従い、秦豊平定後は揚州を経略した。
馮勤 〜56
魏郡繁陽(河南省内黄)の人。字は韋伯。
計数に明るく、太守銚期の功曹となって征伐の毎に郡事を摂政したが、郡の大姓に叛かれて銚期に従った。
光武帝に近侍すると吏職の才を認められて尚書の庶事を総録し、かねて悪評のある人物を推挙したことで叱責された司徒侯覇を擁護した。
尚書官を累進して建武27年(51)に司徒に至り、在任のまま歿した。
中子の馮順は明帝の娘を降嫁されて大鴻臚に至り、馮順の子の馮由は章帝の娘を降嫁された。
伏隆 〜27
字は伯文。伏湛の長子。建武2年(26)に太中大夫とされて青・徐州を招撫し、張歩を帰順させて光禄大夫に進んだが、張歩の叙任に入斉した処、劉永に帰順した張歩への合力を拒んで殺された。光武帝から節操を蘇武に譬えられて哀惜された。
鮑永 〜42
上党屯留(山西省長治市)の人。字は君長。鮑宣の子として都尉に迫害されたものの太守に庇護され、後に更始帝より行大将軍事とされて河東・幷州・朔方を按撫した。
更始帝が敗れると光武帝に帰順して揚州牧とされ、強豪・渠帥のみを刑するなど寛治で臨んで呉会を安定させたが、建武11年(35)に司隷校尉に転じると、城門で右中郎将と道を争って門候を叩頭させた趙王を不敬として劾奏した。これより京師は粛然とし、光武帝は讌席で貴顕に対し、鮑永には忤わぬよう訓戒したと伝えられる。
後に更始帝の陵墓に哀哭し、この時は張湛の弁護で不問とされたが、大司馬韓歆の罷免を諫めて左遷され、兗州牧として歿した。
張湛 ▲
扶風平陵の人。字は子孝。矜厳で礼を墨守し、人に偽善と譏られると「悪を詐るより優る」と笑って首肯したという。
王莽の世に吏二千石を歴任し、光武帝に詣降して光禄勲に進み、常に光武帝の懈怠を諫め、白馬に騎乗したことから「白馬生、復た諫めんとす」と称された。
太子太傅に転じた後に郭后が廃黜されると朝見を廃し、太中大夫に更められた
李通 〜42
南陽宛の人。字は次元。新の宗卿師李守の子。劉縯に弟を殺されていたことで劉氏とは隔意があったが、従弟の李軼の勧めで劉氏の挙兵に従い、更始帝から西平王とされて荊州を鎮撫すると、劉秀の妹/伯姫(寧平長公主)を娶って劉秀の家属を庇護した。
夙に治才を称され、光武帝の即位後は専ら京師に留守して蕭何の功を讃えられ、関東が平定された建武7年(31)に大司空とされた。
元勲かつ姻族の寵臣でありながら謙恭に徹し、12年(36)に致仕した後は朝請を奉じた。
李守 〜22 ▲
家は著姓かつ富商で、星暦讖記を好み、王莽の宗卿師(宗正)とされながらも、讖記によって密かに劉氏復興・李氏輔政を称した。
後に李通から劉氏挙兵の計を報じられると棄官を図ったが、知人に魁異な面貌を指摘されて潜遁を断念し、自訴したものの李通らの挙兵で刑戮された。
劉縯 〜23
字は伯升。南頓君劉欽の長子。舂陵節侯の玄孫。
剛毅・慷慨でかねて豪侠と交通し、郷里での輿望もあり、劉秀らと図って劉祉の挙兵に従った。
育陽(南陽市区)の小長安聚で前隊大夫甄阜に大敗して姉の劉元と弟の劉仲ら宗族数十人を喪ったが、後に緑林軍に合して甄阜らを殲滅し、荘尤らを大破して宛を攻陥したことで、王莽からも緑林の首魁と目された。
劉玄を擁する新市系将領に畏憚されたが、更始帝が擁立された後も更始派を警戒せず、麾下の劉稷を擁護したことで不敬に陥されて刑戮された。
建武15年(39)に斉に追封され、19年(43)の宗室昇王の際に武王と諡された。
劉稷 〜23 ▲
舂陵侯の宗族。劉縯と親しく、「勇は三軍に冠たり」と評されたが、更始帝への抗意を公言したことで李軼・朱鮪らに謀られ、抗威将軍への叙任を拒んだことを理由に劉縯と倶に殺された。
劉嘉 〜39
字は孝孫。光武帝の族兄。父/劉憲は劉敞の同母弟。
幼少で父を喪って南頓君に養育され、劉縯と共に長安に遊学して仁厚と称された。
小長安の敗戦で妻子を喪い、冠軍(南陽市ケ州)で延岑を降すと漢中王とされて南鄭(漢中市区)に拠ったが、翌年(26)に延岑の離叛で漢中を逐われ、蜀軍と武都郡(甘粛南東部)の帰属を争った。
長安陥落後に陳倉(宝鶏市区)で赤眉を破り、長安を退いたケ禹に雲陽(咸陽市淳化)で帰降した。建武13年(37)に順陽侯とされた。
李宝 ▲
更始帝の柱功侯。離叛した延岑を武都で破って漢中王劉嘉に国相とされ、延岑追撃中に赤眉に遭遇すると延岑と合して赤眉を大破した。
劉嘉の光武帝への帰順を諫争してケ禹に斬られ、李宝の弟は部曲を率いてケ禹に叛き、赤眉将軍耿訢(耿純の従弟)を敗死させた。
劉祉 B8〜35
城陽恭王。字は巨伯。舂陵康侯の子。光武帝の族兄。
舂陵侯の嫡統として南陽で輿望があり、舂陵劉氏の挙兵を主導していたと思われる。宛の家族の刑戮と小長安の敗戦で族勢を著しく損い、傍流の劉玄・劉縯が抬頭した。
更始帝より定陶王とされ、長安陥落で直ちに洛陽に詣降して城陽王とされた。舂陵への合葬は認められず、洛陽に葬られた。
劉敞 ▲
舂陵康侯。南陽に徙封された舂陵考侯仁の嗣子。交誼のあった族兄/安衆侯劉崇が挙兵すると、自ら長安に謝罪して赦免された。
劉崇が敗れると支党を欲して高陵侯翟宣の娘を嗣子/劉祉に妻せ、未月で翟宣の弟/翟義が挙兵したために累坐したが、劉氏の懐柔を図る王莽によって宥恕された。王莽の簒奪で剥爵された。
劉順 〜35 ▲
字は平仲。劉敞の同母弟/劉慶の子。同郷の劉秀と親交があり、更始帝が即位すると劉慶は燕王、劉順は虎牙将軍とされた。
長安陥落で劉慶は戦死し、劉順は洛陽に詣帰して南陽太守・成武侯とされ、宗室諸侯最大の邑戸・租入が与えられた。
建武8年(32)に六安(安徽西部)を平定して太守とされ、恵政を謳われた。
舂陵侯 ▲
長沙定王の子/節侯買を祖とし、はじめ零陵郡泠道(湖南省寧遠)の舂陵郷に封じられたが、孫の考侯仁が舂陵の湿瘴を厭い、元帝の初元4年(B45)に求めて南陽の白水郷(襄樊市棗陽)に減邑・徙封された。
このとき白水を舂陵と易め、又た従弟の劉回ら宗族も移住した。
劉玄と劉秀は同世代ですが、劉秀の家が初代の節侯から分れたのに対し、劉玄の家は二代目の戴侯から分れ、この一代の差が更始帝擁立の重要な要素になりました。
劉賜 〜52
字は子琴。西漢の蒼梧太守劉利の子。更始帝・劉址の従兄弟。
劉祉の挙兵に随い、劉縯が殺されると大司徒を継いで劉聖を討ち、長安遷都後は関東鎮撫のために宛王に就国した。
嘗て河北討伐の将帥に劉氏が求められた時、大司馬朱鮪らと争議して劉秀を推したことがあり、長安陥落で更始帝の妻子を伴って洛陽に詣降すると、殊遇が加えられて安成侯に更封された。
嗣子劉閔とは別に劉嵩が白牛侯とされたが、楚王に累坐して断絶し、劉閔の嗣子の劉商が白牛侯に徙封された。
劉信 ▲
劉賜の甥。王莽の世に父が獄死すると、劉賜と与に家財を投じて捕吏を殺し、倶に劉祉の挙兵に随った。
更始帝の洛陽入城に伴い、劉賜に替って汝南の劉聖を平らげて汝陰王とされ、豫章郡を経略して南昌に拠った。
光武帝の桂陽太守張隆に敗れると洛陽に詣降して汝陰侯とされた。永平13年(70)の楚王の獄で廃封された。
王莽の簒奪で廃された劉氏諸侯は各地で吏士に侮侵されましたが、劉玄の父は酔罵した亭長を殺し、後に亭長の遺児によって劉玄の弟が殺されました。
劉信の父はこの亭長の遺児を殺して繋獄されたらしく、劉玄が平林に遁れたのも、報復計画が食客と吏の諍いで露見した為です。
劉尚 〜47
経歴の詳細は不明。建武6年(30)には武威将軍として隴右に従軍し、後に呉漢の伐蜀に従った。
18年(42)に蜀郡の守将史歆が叛くと、臧宮と倶に大司馬呉漢に従って百余日で平定し、以後も蜀にあって益州郡・越雟郡を平定した。
武陵蛮経略で地理不祥のまま沅水を遡上し、欠糧して武谿から撤退するところを襲われて敗死した。
劉植 〜26
鉅鹿昌城(河北省冀州)の人。字は伯先。
王莽の末に、弟の劉喜・従兄の劉歆と宗族賓客を率いて昌城で王郎に抗い、劉秀に帰順して驍騎将軍とされ、真定王招降にも功があった。
密(鄭州市新密)討伐中に戦死した後、驍騎営は劉喜・劉歆へと継承された。
封国は孫の劉述の代に、楚王に連坐して断絶した。
劉茂
舂陵劉氏の宗族。光武帝の族父。齢18で天下の騒乱に乗じて潁川・汝南を経略し、敖倉(鄭州市滎陽)に拠って“厭新将軍”と称した。
建武元年(25)に河内に進んだ劉秀に降って中山王とされ、建武13年(37)の諸王貶号で穣侯とされた。
劉良 〜41
趙孝王。字は次伯。南頓君劉欽の弟。
劉秀ら南頓君の諸子を養育し、挙兵を諮る劉秀を叱責したが、結局従軍して小長安で妻子を喪った。
後に更始帝に随い、長安の陥落で洛陽に奔り、建武5年(29)に趙王に更封された。
趙王家は建安18年(213)に劉珪が博陵王に徙封され、漢魏の禅譲で崇徳侯とされた。
劉欽 〜A3 ▲
南頓君。鉅鹿都尉劉回の子。舂陵節侯の曾孫。
同郡の樊重の娘を娶り、劉縯・劉仲・劉秀・黄・元・伯姫の3男3女を得た。
元と仲は小長安で殺され、中興後に黄は湖陽長公主、伯姫は寧平長公主とされ、元には新野長公主、仲には魯哀王が追諡された。
舂陵は後に劉回・劉欽の陵墓(章陵)に因んで章陵県と易められた。
劉隆 B1〜57
字は元伯。安衆侯劉崇の宗族。父の劉礼は劉崇に与して誅されたが、劉隆は幼少の故に赦された。
後に更始帝に帰順し、劉秀を追って河北経略に従い、馮異と与に洛陽を攻略した際に洛陽の妻子を殺された。
岑彭の伐蜀で南郡太守とされ、建武16年(40)に検地の不正で投獄されたが、累功を以て赦された。
伏波将軍馬援の交趾遠征では副帥とされ、次いで呉漢の後任として驃騎将軍・行大司馬事とされ、27年(51)に大司馬が太尉に改変されると印綬を奉還して朝請を奉じた。
▼
郡の著姓と結託した官吏による墾田・戸籍年紀の偽装は夙に問題視され、15年(39)の実検でも勢族を優遇して「百姓の怨嗟は世を覆う」と称された。
偶々、陳留(開封県)からの牘に「潁川と弘農には問う可きも、河南と南陽には問う可からず」との郡の墾田を比較する際の私誡があった事から不正が上聞に達し、再実検によって河南尹張伋ら刺史長吏十余人が投獄され、劉隆のみが赦免された。
私誡が東海公(明帝)によって、「近臣が多い王畿の河南と、近親が多い帝郷の南陽は、共に私有の田地が制を踰えているために比較対象にならない」と解釈されたことは、両郡の実情が公然の秘密だったことを示している。
梁統
安定烏氏(陝西省平涼市区)の人。字は仲寧。更始2年(24)に酒泉太守とされて“政は厳猛にして威は隣郡に達す”と称され、更始帝が敗れると西州の帥に擬されたが、門地を重んじて竇融を河西大将軍に推し、武威太守とされた。
竇融らと与に光武帝に通誼し、建武12年(36)に入洛すると太中大夫とされ、後に九江太守(淮南)に転じて陵郷侯に更封された。
梁松 〜61 ▲
字は伯孫。梁統の嗣子。少時から光武帝に寵遇されて舞陰長公主を降嫁され、近侍官を歴任した。
経書に博通して故事に明るいことから、諸儒と共に明堂・郊祀・封禅の礼儀を定めて“寵幸比類無し”と称された。
貴顕の子弟の通例として驕恣かつ狭量で、馬援に父友の礼を欠いたために応辞が得られなかったことを怨恨し、軍中で歿した馬援に敗責を帰して馬氏を圧迫した。光武帝から輔政を遺詔されたが、郡県への度重なる請託が露見して永平2年(59)には罷免され、時政を誹謗したために刑誅された。