西漢
B206〜A8B141年に始まる武帝の治世には嶺南・河西を征服し、儒教の有用性を認めて博士枠を拡大するなど、以後の中華帝国の祖形を定め、殊に匈奴に対して優位に立った事で、後世では西漢の盛時と賛美された。
武帝の大事業で進行した財政難は、塩鉄会議に象徴される社会構造の変化を伴い、宣帝による中興の後は儒教への傾倒と外戚の王氏による換骨奪胎が進み、A8年に王莽に簒奪された。
高祖 〜B206〜B195
西漢の開祖。沛郡豊邑(江蘇省)の人。諱は邦、字は季。諡号は高皇帝。
中農の出身で、無頼と交わって遊侠を好み、泗水亭長として辺戍兵の護送にあたった処、逃亡者が続発した事で盗匪に転じた。
B209年に陳呉の乱に乗じて挙兵して沛公を称し、項梁を通じて懐王に帰順してB206年には咸陽を陥落させ、項羽によって漢中王とされた。
就国の途上で得た韓信を大将軍として関中を征圧し、B205年には洛陽を占領して諸侯の大半を従えたものの、彭城で項羽に惨敗して滎陽も失った。
以後は兵站を整えて辺冦と調略を併用しつつ頽勢を挽回し、斉の征服と越の帰順で項羽を包囲し、B202年に鴻溝を国境として和睦した直後に項羽を急襲して垓下で滅ぼし、全土を統一した。
初期の統治は秦末の厳罰主義に鑑みて法三章などで民の負担を軽減し、又た諸侯王の大幅な自治を認める郡国制を実施したが、次第に秦律を復活させて官僚機構も秦制を踏襲した。
又た猜疑心もあって韓信・彭越・英布・盧綰ら異姓諸王を粛清して同姓諸侯王を藩屏に立て、晩年には腹心の樊噲すら粛清の対象となった。
B200年に韓王信討伐の余勢を駆って匈奴を伐ったものの白登山で大敗し、以後は弟国として歳幣を贈るなど和平に徹し、英布討伐での戦傷が悪化すると、呂后に丞相人事を託して歿した。
蕭何 〜B193
沛の人。郡吏として劉邦とは旧知で、陳呉の乱が起こると県令に劉邦との合流を勧めたが聴かれず、逃れて劉邦に合流した。
以後、一貫して内務と兵站を担当し、咸陽入城の際には秦の律令や図書戸籍を保存して政戦両略に活用した。
漢中では韓信を大将軍に推挙し、関中平定後は一族悉くを従軍させるとともに自身は後方経略と兵站を担当して遺漏がなく、統一後は功績第一として丞相・酇侯とされたが、それでも劉邦の猜疑を躱すことには腐心し、敢えて民と利を争う事もあった。
秦律を基に法を制定して帝国の安定に多大に貢献し、B196年に相国とされ、“参拝不名、剣履昇殿、入朝不趨”の特典を認められた。
晩年は曹参と不和だったが、後任には曹参を推挙して讃えらた。
漢三傑に数えられ、「国家鎮撫・民生安定・糧道確保を以って勲功第一」と評された。
張良 〜B186
韓の宰相家の出身。字は子房。博狼沙での始皇帝暗殺に失敗した後に兵法を修め、この間に黄石老から太公兵書(六韜)を授けられたという。
劉邦に客将として迎えられると軍師として信任され、韓王成が立てられると韓の司徒に転じたが、西進する劉邦に合流して咸陽攻略を成功させ、鴻門の会でも劉邦の危難を救った。
滅秦で韓王に帰参したが、韓王が項羽に殺されると劉邦に臣属し、英布・彭越との提携や韓信の斉王封建を勧め、鴻溝の和の直後には項羽急襲を主唱した。
統一後は斉の3万戸を辞退して留侯(江蘇省沛県)とされ、雍歯封建や関中奠都を進言し、以後は仙道を志して致仕・隠棲したが、四皓を太子盈の傅に迎えさせて廃嫡を断念させるなど、その発言は大きな影響力を有した。
漢三傑に数えられ、「帷幄に籌策を巡らせ、千里の外に勝敗を決す」と評された。
韓信 〜B196
淮陰(江蘇省淮安市区)の人。はじめ項梁に従い、ついで項羽の郎中となったものの用いられず、滅秦後に劉邦に転じて夏侯嬰・蕭何に認められ、その薦挙で漢中で大将軍とされた。
彭城から敗走する劉邦を迎えて滎陽で楚軍を撃退し、離叛した魏豹を平定して河東郡を置き、張耳を率いて趙・代を平定し、成皋を逐われた劉邦を迎えたところ軍を奪われたが、更めて趙で徴兵して斉攻略に転じた。
斉は既に酈食其に降伏していたが、蒯通の進言によって臨淄を攻陥し、援軍の龍且を敗死させて斉王とされた。蒯通からは自立して鼎立の一足となることを勧められたが、従わなかった。
項羽が平定されると楚王とされて下邳に拠り、軍才を畏れられて謀叛の讒が生じると、庇護していた鍾離昧の首を献じたものの淮陰侯に貶され、樊噲からは王礼を以て遇されたが、樊噲と同列にあることで怏怏とした。
後に陳豨と通謀しながらも陳豨の暴発に対応せず、処罰を逃れた家令の密告で謀叛が露見し、呂后に謀られて陳豨平定の祝賀に参内したところを処刑された。漢三傑二数えられ、「兵百万に将たり、百戦して百勝す」と評された。
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井陘の役(B205):井陘(河北省井陘県)で韓信が趙歇・陳餘を大破した戦。
韓信の率いる新兵3万余に対し、趙軍は30万と号して井陘口を扼したが、国体を重んじた陳餘が李左車の唱える隘路での奇襲を用いず、谷口での会戦となった。韓信は背水に布陣した主力を陽動として趙軍と交戦し、別軍の2千を以て城砦を陥落させ、混乱する趙軍を襲って壊走させた。
この一戦で趙軍は壊滅し、趙を平定した韓信は李左車の進言に従って燕を説得して帰順させ、斉攻略に転じた。
兵家の忌む絶地を「死地に投ずれば勇を生ず」理で逆転させたことが強調されますが、韓信の背水の陣の成功は、情報操作と別働隊の活用を必須とするもので、戦力としての死兵に頼るものではありません。
蒯徹 ▲
武帝に避諱した蒯通として知られる。斉の范陽出身の遊説家。
武臣の趙攻略では范陽県令に説いて無血開城させ、武臣に県令を優遇させたことで趙・燕の30余城が降ったという。
又た韓信には酈食其を無視した斉攻略や、燕・趙を併せて楚・漢と鼎立することを勧め、劉邦に従った場合は功績と才能の故に粛清されると警告したが、韓信が拒んだために狂人を装って逐電した。
韓信が殺される際、蒯徹の策を用いなかったことを悔いたために捕縛されたが、忠の所在の正当性を主張して赦された。
彭越 〜B196
昌邑(山東省金郷)の人。字は仲。鉅野沢で漁労を生業としていたが、秦末に群盗に加わって首領とされ、昌邑攻略の劉邦を扶けた後は鉅野に拠って万余の兵を擁し、斉王田栄より将軍とされて項羽に抵抗した。
挙兵の際に狎情から遅参する者が多かったが、一罰百戒として1人を刑戮してから背く者がなくなったという。
B205年に劉邦に属して魏相とされ、ゲリラ戦によって項羽を苦しめ、固陵で破れた劉邦より雎陽以北を以て王とされ、項羽が平定されたB202年に梁王とされて定陶(山東省)に都した。
陳豨討伐への従軍を拒んで猜疑され、韓信誅殺後まもなくに謀叛の枉誣で庶民に貶されたが、呂后に冤罪と隠棲を嘆願したところ、洛陽に伴われて呂后の進言で処刑され、肉は醢とされて諸侯王に送られた。
英布 〜B195
六安(安徽省)の人。壮年で黥刑を受けてより黥布と称した。
驪山の懲役を脱走して江淮で盗賊となり、番君呉芮に陳勝への呼応を勧めてその娘婿とされ、呉会を平定した項梁に従った。
項羽に亜ぐ猛将と称され、殊に奇襲戦を得意として章邯撃破や函谷関突破にも大功があり、滅秦後は六安を都に九江王に封じられた。
項羽に信任されて義帝弑殺も行なったが、田栄討伐や彭城救援に少兵しか供出しなかった為に疑われ、B204年に劉邦に転じて龍且に大破され、劉邦の許に逃れて淮南王とされた。
B202年には九江を平定して垓下に参陣し、戦後は六に都して九江・廬江・衡山・豫章を領した。
韓信・彭越の処刑で造叛を準備し、侍臣の密告に遭って挙兵すると荊王・楚王を大破して淮南を征圧したが、来征した高祖を負傷させながらも惨敗し、長沙王(番君の子)を頼って鄱陽で暗殺された。
呉芮 〜B202
秦の番陽県令で、善政を慕われて“番君”と称された。陳勝が挙兵すると英布の勧めで呼応し、共に越人を率いて参戦した。
B206年に衡山王とされ、長沙に遷された懐王を英布と共に暗殺したが、後に項羽により王位を剥奪されて劉邦に与し、項羽が平定されて長沙王に封じられた。
長沙王家は異姓王として例外的に存続し、嗣子の呉臣は劉邦に敗れて来奔した英布を暗殺し、五代目の呉差が無嗣でB157年に歿して廃された。
臧荼 〜B202
元は燕の将だったが、項羽に従って滅秦後に燕王とされ、遼東を併せて燕を一統した。
B204年に趙・代を平定した韓信に帰順し、項羽平定後も燕王を安堵されたが、まもなく叛いて劉邦の親征に敗死した。
子の臧衍は匈奴に亡命し、又た武帝の実母/王皇后の母の臧児は臧荼の孫にあたる。
曹参 〜B190
沛の人。字は敬伯。沛の獄掾で、かねて劉邦と交流があって蕭何とともに劉邦を擁立し、一族すべてが従軍した。劉邦の関中平定後は右丞相として韓信に従い、天下平定後は平陽侯に封じられて斉王の丞相に遷された。
B193年に相国の蕭何が歿するとその遺言で後任とされ、在任3年で歿した。
晩年は蕭何と不和だったが、自ら及ばないことを認め、相国就任後は祖法を遵守して内治安定に徹した。
樊噲 〜B189
沛県の人。狗屠を生業とし、劉邦に随って山間に逃れ、挙兵後は舎人として身辺を警護し、鴻門の会では剣舞で劉邦を護り、項羽を叱咤して劉邦の退去を成功させた。
統一後に臧荼討伐の功で舞陽侯に徙封され、韓王信討伐では左丞相とされて周勃とともに代を平定し、盧綰追討でも功があり、劉邦政権下では武勇第一と評され、寵信も比類なかった。
盧綰討伐中に讒言によって斬首が命じられたが、陳平の機転で長安に護送され、入京時に高祖が歿していたために赦免された。
正夫人は呂后の娘の呂須であったため、嗣子樊伉の代に呂氏鏖殺で廃された。
張耳 〜B202
魏の大梁(開封市区)の人。信陵君の食客から外黄令に進んで賢者として知られ、陳餘とは刎頚の交誼を結んでいた。
陳勝が挙兵すると陳餘とともに合流して武臣の副官として征趙に従い、後に武臣を趙王に立てて右丞相となったが、鉅鹿で秦軍に包囲された際に陳餘が救援しなかったことで決裂し、滅秦後に張耳のみ常山王とされたことで不倶戴天となった。
田栄と結んだ代王趙歇と陳餘に敗れて劉邦に降り、韓信の東征に従って代・趙を平定し、B203年に趙王とされた。
韓王信 〜B196
韓襄王の庶孫。項梁が敗死して韓王成が逃れた後、韓地攻略中の張良に見出されて劉邦から韓の太尉とされ、韓王成の死後、B205年に陽城の韓王鄭昌を降して韓王とされた。
全国が平定されると潁川を都としたが、軍才と地勢を警戒されて太原郡の馬邑(朔州市区)に遷された。
B202年に来冦した匈奴との講和を模索したことを劉邦に猜疑されて匈奴に亡命し、王黄や曼丘臣を介して戦国趙の王族の趙利や陳豨とも通じてしばしば漢辺を劫略したが、柴武に伐たれて敗死した。匈奴の家族は後に漢に帰降した。
陳豨 〜B195
宛の人。かねて韓信に私淑し、鉅鹿太守に転じる際に造叛を約束したとされる。
韓王信が叛くと陽夏侯とされ、代国の相と将軍を兼ねて北防を統轄したが、北地での活発な交際を猜疑されて韓王信の遺臣の王黄や曼丘臣と通じ、B197年に召喚されて造叛した。
一時は趙の殆どを支配して代王を称したが、次第に劣勢となって霊丘で樊噲に斬られ、代王には高祖の庶子の劉恒が立てられた。
盧綰 〜B194 ▲
豊邑の人。劉邦とは同郷の同日生れとして親交が篤く、常に劉邦と行動を共にし、関中平定後に太尉・長安侯とされた。
劉邦からの信愛は蕭何や張良も及ばず、寝室への出入りすら自由だった。
B202年に臧荼が平定されると燕王に立てられたが、陳豨討伐の最中、匈奴に亡命していた臧衍(臧荼の子)に「叛臣の次は異姓諸王」と指摘されて匈奴に内通し、露見して樊噲に討たれると塞外に逃れた。
以後も縁辺で釈明のために劉邦の平癒を待ったが、劉邦が病死したために匈奴に亡命して東胡の盧王とされ、侮蔑からの心労で年余で歿した。
孫の盧他之も匈奴の東胡王とされたが、B144年に文帝に降って亜谷侯とされた。
婁敬
斉の人。B202年、戍兵として隴西に赴く途上の洛陽で羊裘のまま劉邦に謁し、四周を要害に囲まれた関中奠都を是とした。
劉邦の近臣の多くは郷里に近い洛陽を是としたが、張良も亦た長安を支持したことで決し、劉姓が下賜された。
韓王信と結んだ匈奴への使者となり、老弱兵のみを沿道に置いた匈奴の詐計を唯一人看破して出征を非としたが、通敵として投獄され、白登山の後に高祖に謝されて関内侯とされた。
後に朔方の白羊王・楼煩王が関中とは一昼夜の距離にあることと、関中の過疎を危ぶんで六国の王族の徙民を勧め、十余万人が徙された。
叔孫通
薛の人。学識によって秦で仮博士とされ、陳勝が挙兵すると叛ではなく盗賊と称して二世皇帝を喜ばせ、直ちに郷里に逃亡して懐王に仕えた。
B205年の彭城陥落で劉邦に降り、儒服を楚服に替えて劉邦を喜ばせ、博士とされて稷嗣君と号した。
弟子よりも勇士の類を推挙して門人に難じられたが、統一後に劉邦が殿中での諸将の狼藉を厭うようになると自薦して儀礼を制定し、秦制から取捨した即位式を執行して奉常に叙されると初めて弟子を推挙し、悉く郎とされた。後に太子太傅に転じ、太子の改廃を諫め、恵帝が即位すると再び奉常とされた。
王陵 〜B180
沛県の大家。直言を好んで雍歯とも親しく、劉邦に兄事されたこともあり、秦末には南陽に拠って劉邦に従わなかったが、後に劉邦に帰し、項羽が母を人質とした時も母の自殺により劉邦から離れなかった。
B201年に安国侯に封じられ、相国の曹参が歿して右丞相とされ、恵帝の死後に呂后から呂氏の王爵のことを問われると冒面直諫して、迎合した陳平・周勃を詰った。呂后元年(B187)に太傅とされて実権を失うと致仕し、憂憤の裡に病死した。
酈商 〜B180
高陽の人。酈食其の弟。陳留で劉邦に帰順し、劉邦の北上後は隴西都尉に叙されて北地・上郡を平定し、梁の相国に転じて項羽討伐に従った。
臧荼討伐では先陣の功があり、右丞相に転じた後の韓王信討伐では趙の相国を兼ね、陳豨討伐や英布討伐にも従って曲周侯に更封された。
呂后が臨朝すると病と称して出仕せず、呂后の死後、子の酈奇に呂禄を説かせて北軍の権を周勃に譲らせ、呂氏鏖殺を成功させた。
陳平 〜B178
陽舞(河南省原陽)の人。正業を嫌い、兄に寄食しつつ貴顕と交流していた。
秦末に魏王に仕えたが、誣されて項羽に投じ、殷王を降して都尉とされたものの、まもなく殷が背いたために劉邦に奔った。
劉邦に信任されて不義・収賄などは不問とされ、項羽と范増の不和の醸成や、滎陽で包囲された劉邦の脱出、匈奴に包囲された白登山からの脱出の策などを献じ、奇計を以て重んじられた。
北伐中の樊噲誅殺を命じられた時は独断で長安に護送し、劉邦の訃報を受けるや京師に馳せて宿衛し、讒言の発生を防いだ。
右丞相王陵の後任とされ、呂后の死後は太尉の周勃らと謀って呂氏を鏖殺し、文帝を迎えて漢朝の基礎を固めた。
文帝即位とともに左丞相を辞して周勃を立てたが、周勃が致仕すると単独の丞相となり、文帝の2年に病死した。
周勃 〜B169
沛の人。養蚕を生業としていたが、劉邦に従って将軍とされ、統一後に絳侯に更封され、恵帝の6年(B189)に太尉に進められた。
呂后の死後に陳平と謀って呂氏を滅ぼし、文帝を迎立して右丞相とされたが、まもなく陳平に及ばないことを悟って致仕した。
陳平の死後に丞相に復すと次第に尊大となり、殊に文帝側近の袁盎と不和になったが、後に讒言で投獄されると袁盎の弁護と薄后への贈賄で赦免され、袁盎と親交を結んだ。中央には復帰できず、地方の国相として終わった。
灌嬰 〜B176
雎陽の人。元は帛沽だったが、夙に中絹(近侍の雑務担当)として劉邦の征旅に随い、滎陽では騎兵の巧者として将軍とされて楚兵を却け、敖倉に劉邦を迎えて御史大夫とされた。
韓信に従って斉を平定し、彭城で劉邦に合し、垓下から敗走する項羽を追討して斬り、ついで呉会を経略した。
臧荼討伐には車騎将軍として従い、韓信捕縛後に潁陰侯に更封され、韓王信・陳豨・英布討伐にも功があった。
呂后が歿して斉王が挙兵すると大将軍とされて東行したが、周勃らと諮って滎陽で留まり、斉にも軍を退かせて事態を静観した。文帝迎立に参与して太尉とされ、周勃が丞相を罷免されると後任とされた。
匈奴迎撃中に済北王が叛いたので帰還し、翌年に歿した。
恵帝 B210?〜B195〜B188
第二代天子。諱は盈。生母は呂后。夙に太子に立てられたが、晩年に戚姫・如意母子を寵愛する高祖に廃黜を図られ、張良らの諫言と商山の四皓を幕賓に迎えたことで事なきを得た。
相国蕭何の死後、後任の曹参と共に祖法を遵守したので民生は安定し、秦の酷律、殊に焚書の元となった挟書律を除いたことは高く評価される。
呂太后の発言力はきわめて強く、庶兄の斉王は救えたものの、如意母子が呂后に殺されてよりは一切の公務を放棄し、嗣子なく歿したことで呂氏の専横を招いた。
周昌 〜B191
沛の人。劉邦が沛を陥すと従兄の周苛とともに泗水の吏を棄てて従い、漢中で中尉とされた。
周苛が項羽に殺されると御史大夫とされ、B201年に汾陰侯とされた。
剛直によって蕭何・曹参にも憚られ、妾と戯れる高祖を指して桀紂と評した際にも、苦笑されただけで渝わらず重んじられた。
高祖の太子改廃を極諫して呂后からは篤く感謝されたが、戚姫の子の如意が趙王とされると、自身の死後を危ぶむ高祖によって敢えて趙の相とされた。
高祖の死後、如意の召還を悉く拒んだが、自身が召されると長安に赴いて呂后に面罵され、趙王が殺された後は出仕を廃した。
呂后 〜B180
諱は雉。高祖劉邦の皇后。劉邦が吏員だった頃からの伴侶で、恵帝と魯元公主の生母。
楚漢抗争の時期には項羽の捕虜とされたこともあり、韓信の捕縛や彭越の処刑を演出するなど漢王朝初期の安定に貢献したが、統一後は劉邦の寵妃の戚夫人・如意母子の抬頭に苦しんだ。
恵帝が即位すると皇太后として臨朝し、趙王母子を惨殺して恵帝の政務放棄を招き、呂氏の封建を進めて反対勢力の多くを弾圧したが、民間は安定していたという。恵帝が歿すると、少帝を相い次いで立てて垂簾を続けた。
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呂后の死後は一族の呂産・呂録が長安の軍権を握って権勢を保ち、恵帝の治世後半から文帝即位までは呂后時代と呼ばれる。
B180年に呂后が歿すると斉王が挙兵し、丞相陳平・太尉周勃らが禁軍の指揮権を呂禄より奪って朱虚侯と共に呂氏を鏖殺し、代王恒が迎立された。
少帝 〜B188〜B184 ▲
諱は恭。恵帝の庶子とされるが、女官の子という以外は不明。生母が呂后に殺されたことを知って不満を漏らしたため、呂后に廃弑された。
少帝 〜B184〜B180/B180 ▲
諱は弘。恵帝の庶子とされる。呂后によって常山王より迎立された。呂氏の誅滅で廃され、恵帝の実子ではないとして殺された。
季布
下相(江蘇省宿遷市区)の人。
短気ながらも信義と侠気で知られて「勇の季心、諾の季布」と称され、その一諾は千金に優るとされた。
項羽の将軍として屡々劉邦を苦しめた為、戦後に千金が懸けられ、隠匿者は三属累及とされたが、奴僕を装って魯の大侠の朱家に匿われ、後に夏侯嬰を介して赦免されて郎中とされ、恵帝の世に中郎将となった。
匈奴からの書簡に激怒した呂太后の北伐を諫め、後に河東太守に進み、文帝の世には御史大夫に擬されたが、嘗ての粗暴を誣されて挙げられなかった。
外叔の丁公も項羽の将軍として劉邦を苦しめたが、彭城で劉邦に肉迫した際に、両英雄と呼ばれると敢えて劉邦を逃し、これを以て統一後の劉邦に謁したところ、逆臣として刑された。
夏侯嬰は季布の赦免を求める際に、丁公の処刑を反例として季布の忠心を強調し、劉邦を納得させた。
文帝 B202〜B180〜B157
第三代天子。諱は恒。廟号は太宗。高祖の庶子。B195年に陳豨が滅ぼされて代王とされ、呂氏誅滅で迎立された。
黄老学を重んじ、節倹と民力の休養で帝国の基盤を安定させ、殊に租税をしばしば減免したことは極めて高く評されてきた。
当時、諸侯王の自立化、商人による土地兼併と農民の圧迫、匈奴・南越の入寇などが問題視され、賈誼・晁錯らは諸侯領削減・重農抑商・対外積極策などを上奏したが、斉・淮南の分割相続、辺防策としての納粟売爵を行なったのみで、抜本的対応は行なわれなかった。
尚お、中世までの中国で民の最も過重な負担となったのは役税で、文帝を含めてこれが減免された時代は殆どない。
劉章 B200〜B177
斉哀王の弟。劉邦の孫。B186年に入京して朱虚侯とされ、呂禄の娘を娶った。
嘗て宮中の宴席を軍律で宰領した事があり、無断で退席した呂氏を斬ってより憚られるようになった。
呂后が歿すると弟の東牟侯とともに斉王を挙兵させ、討伐将軍の灌嬰とも通じ、長安で周勃が挙兵すると入京して呂産を斬り、共に呂氏を平らげた。
一時は趙王に擬されたものの、斉王家の拡大を危ぶまれて斉を割いて城陽王に立てられ、死後に景王と諡された。
斉では城陽景王への信仰が盛んとなり、新末の赤眉軍の劉盆子擁立にも関与したが、東漢末に済南国相となった曹操により邪宗として禁絶された。
劉興居 〜B177 ▲
斉哀王の弟。東牟侯に封じられ、呂后が歿すると兄の朱虚侯と共に斉王に通じ、呂氏誅滅に加わって少帝を玉座から下ろした。初めは梁王に擬されたが、斉王家の伸長を厭う文帝の判断で、斉を割いて済北王とされた。
匈奴の入冦に文帝が親征すると造叛したが、大将軍柴武に平定された。
柴武 〜B163
秦末の動乱では将軍として薛を守り、高祖2年(B205)になって漢に帰し、項羽平定の翌年(B201)に棘浦侯とされた。
B196年に入冦した韓王信を討滅し、呂氏が粛清されると大将軍として文帝策定に参与した。
B177年に済北王を討平したが、B174年に世子の柴奇が淮南脂、との共謀を以て誅され、そのため封国は柴武の死を以て断絶した。
陸賈
楚の人。しばしば高祖の使者となり、南粤の趙佗を藩属させて太中大夫とされた。
呂氏封王に反対して罷免されたが、陳平に周勃との親善を勧めて呂氏誅滅に参画し、文帝より太中大夫とされて再び趙佗の朝貢を促した。
賈誼 B200〜B168
洛陽の人。詩・文を以て夙に名高く、20余歳で博士として招聘された。
文帝に太中大夫に抜擢されると諸礼制を整備すると共にしばしば時局を上疏し、改革案こそ旧臣を憚る文帝に用いられなかったものの信任された。
後に誣されて長沙王太傅となり、ついで梁懐王の太傅とされ、諸侯削藩を上書したものの、王の落馬死を悼んで1年余で憂死した。
張蒼 〜B152
陽武(河南省原陽)の人。律暦に精通し、図書計籍にも明るく、秦の御史から劉邦に転じ、張耳が帰順した後に代・趙の国相を歴任した。B201年に主計・北平侯とされて全国の租税事務を掌り、度量衡の整理と律暦や音階の制定を主掌した。
B193年に御史大夫に遷り、文帝の策定にも参与し、B176年に非軍人で最初の丞相となった。
南陽で斬刑とされた時、秀雄な容姿から王陵の助言で赦免されたことがあり、終生王陵に父事し、王陵の死後は夫人に謁してからでないと帰宅しなかったという。
張蒼の定めた暦法は、劉邦が十月に咸陽を陥したことから十月を歳首とする秦暦を踏襲し、水徳として黒色を重んじ、晩年に土徳を唱える魯人の上書を一蹴したが、予言に応じて黄竜が出現して暦の改正が進められたことを愧じ、結局、挙任した人物の不正に連坐して罷免された。
劉長 B199〜B174
淮南脂、。高祖の子。張敖の女官だった生母は張敖に連座し、劉長を生んでから自殺した。
英布が滅ぼされて淮南王に封じられたが、成人するまでは呂后に側近し、文帝を「大兄」と呼び、封国では天子の儀杖を用いるなど僭越のことが多かった。
旧怨から審食其を殺しても罰されず、驕恣が昂じて柴武との造叛を謀って失敗し、このときも減死に処されて蜀に流されたが、これを愧じて自殺した。
B164年、嫡子相伝の祖法を枉げた文帝によって3子による分割相続が認められ、衡山・廬江国が分置された。
景帝 B188〜B157〜B141
第四代天子。諱は啓。文帝の子。生母は竇后。晁錯を信任して中央集権化を進め、特に諸侯王の削藩はB155年に呉楚の乱を招いたが、平定後は諸国の人事権と鋳銭権を回収し、封国の分割などによって中央の権威を大いに高めた。
又た文帝の政策を継承して重農節倹につとめ、文景の治と呼ばれる大型の安定期を現出した。
呉楚の乱は、景帝が皇太子時代に博戯(双六)の進行を巡って呉王の太子を殺したことも一因となっていた。
晁錯 〜B154
潁川の人。古典に精通してに挙用され、文帝の勅により伏生に『尚書』を、張恢に刑名学を学んだ。後に太子家令とされて“智嚢”と称され、しばしば匈奴対策を上書して中大夫とされ、景帝が即位すると内史として側近して信任された。
丞相申屠嘉の死後のB155年に御史大夫に進むと中央集権化を進めたが、眼目の諸王削藩が急進的に過ぎて“誅晁錯”を名とする呉楚の乱を惹起し、竇嬰や袁盎らの密奏で、欺かれて朝服のまま市で処刑された。
袁盎 〜B148 ▲
楚の人。字は絲。文帝に郎中とされ、周勃を「功臣にして社稷の臣に非ず」と評し、周勃への殊遇の廃止を進言して憎まれたが、後に周勃の冤を唯一人主張して私淑された。
又た淮南王の寵遇を諫めて聴かれず、その配流には矜持を慮って反対し、その死後は文帝に3子の分封を勧めた。
しばしば直諫して地方に出され、呉王の丞相に転じると、王の驕慢と側佞を警戒して直言を控えた。
晁錯とは不仲で、呉楚が叛くと呉王との密通を誣されたが、逆に叛徒の名分を失わせることを理由に晁錯の処刑を進言した。
乱後は楚の丞相とされ、程なく致仕してしばしば国の大事を諮問されたが、梁王を皇太弟にすることに反対して暗殺された。
劉濞 〜B154
劉邦の甥。郃陽侯劉仲の子。
英布討伐に従って勇名を顕し、沛に都する呉王に封じられて3郡53城を領した。豫章の銅山と会稽の塩によって住民への課税を必要とせず、銅銭を私鋳して最も富強だったが、上京した太子が皇太子(景帝)と諍って殺されたことで入朝を廃した。
皇太子が即位し、御史大夫晁錯の削藩策で会稽・豫章郡を没収されると、削藩を不満とする諸王と結んで挙兵したが、梁の攻略に固執して太尉周亜夫に糧道を断たれて大敗し、東越に逃れて東甌王に殺された。
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呉楚の乱(B154):景帝の時代の、呉を中心とする諸侯王の叛乱。
高祖は秦の短命に鑑みて、郡を単位に諸子一族を藩屏として分封したが、景帝の即位当時は16王国を数え、諸侯王の総収入は政府歳入の2倍に達し、殊に呉は3郡を支配し、塩池・鉱山を擁して最も富強だった。
景帝の諸王削藩に対し、呉王は楚・趙・膠西・膠東・淄川・済南と結び、晁錯誅殺を唱えて挙兵した。
呉楚軍は梁攻略に固執して戦線が膠着し、その間に態勢を整えた周亜夫に大破され、斉軍も臨淄攻略に失敗して欒布・酈寄らに各個撃破され、挙兵より3ヶ月で平定された。
以後、諸侯王は権限を大きく制限されて領域も縮小され、武帝の推恩の令以降、地方統治は秦の郡県制と殆ど異ならなくなった。
劉武 〜B144
梁孝王。景帝の同母弟。B178年に代王とされ、B168年に梁王に転じた。呉楚の乱では王都を堅守して叛軍の西進を妨げ、糧道を絶たれた呉楚軍は周亜夫に大破されたが、篭城中に官軍の援兵がなかったことを恨み、しばしば周亜夫を讒誣した。
呉楚平定の功によって太后・景帝の寵遇が増して驕慢となり、B150年に栗太子が廃されると皇太弟に擬され、これを諫止した袁盎らを暗殺させても不問とされたが、以後は景帝への陪乗や長安滞留は認められなかった。
死後、梁国は5子によって分割相続され、山陽・済川・済東・済陰国が分離された。
周亜夫 〜B143
絳侯周勃の嗣子。B158年、北防の陣中を文帝が訪れた際、「軍中で令旨がなければ詔勅も受けず」と入営させなかったことで真将軍と讃えられ、有事の材として景帝に遺薦された。
景帝が即位すると車騎将軍に進められて太尉の事を行ない、B154年に呉楚の乱を鎮圧して太尉とされた。
B150年には丞相に進められたが、匈奴政策などで景帝と衝突し、王夫人(武帝の母)の立后に反対して罷免され、後に子の不祥事に連座して逮捕されると、自殺に失敗して獄中で絶食死した。
劇孟
洛陽の人。文帝・景帝の時代に侠客として広く知られ、呉楚鎮圧途上の周亜夫が、劇孟が呉楚に呼応していないことを知ると狂喜したと伝えられることから、中原一帯に隠然たる勢力を有していたものと思われる。
枚乗 〜B140
淮陰(江蘇省淮安市区)の人。字は叔。はじめ呉王濞に仕えて郎中とされ、造叛の諫止を聴かれず去って梁王武に仕えた。
乱後、景帝より弘農都尉とされたものの病を理由に致仕して梁に仕え、武帝即位と共に安車蒲輪を以て迎えられたが、途上で歿した。
詩賦を能くし、武帝代の宮廷文学の先駆とされる。
武帝 B156〜B141〜B87
第五代天子。世宗。諱は徹。景帝の子。祖母の竇太皇太后の意向で即位したために当初は実権に乏しく、太后の死後は生母の王太后とその一族、姻戚の田氏に権力があった。
親政をはじめると儒学の学官を増員し、又た推恩令などによる諸侯王の弱体化、郷挙里選による新官僚の登用を定めた。
又た累積された国力を背景に積極外征に転じ、衛青・霍去病らを起用して河西・河套を確保するなど初めて匈奴に対して優位に立ち、朝鮮・南越・雲貴の直轄化を試み、大宛遠征の成功は西方に漢の威名を認識させた。
連年の遠征と奢侈化によって財政が悪化すると各種専売や貨幣の改鋳、算緡・告緡や車船税など賦税の増徴などで財政再建を図ったが、豪商・官吏の不正や治水政策の無策から農民叛乱が発生した。
晩年には直情短慮となり、酷吏によって生じた疑獄では皇太子・皇后も犠牲となり、末子弗陵を太子として霍光・金日磾・上官桀に後事を託したが、生母の趙夫人に対しては外戚の進出を断つために自殺させた。
武帝の治世はしばしば唐の盛時と並称され、後世の専制国家に物心両面で多大な影響を与えたが、多種の社会問題が表面化した転換期でもあった。
治世の初めに濮陽で決壊した黄河は23年間も放置されて中原に深刻な被害をもたらし、B115・B102年にも河川改修の放置に起因する大規模な水害があり、発生した流民は数百万とも伝えられます。その為もあって、宣帝の時代に廟号が議された際、不徳の故に廟号は不要とする儒家も存在しました。
尚お、B113年に汾陰から銅鼎が出土したことによって、同年を元鼎4年として初めて年号が定められ、遡って建元・元光・元朔・元狩の元号を定めたとされてきましたが、建元銘の武器・甎が出土した事から再考を迫られています。
竇嬰 〜B131
観津(河北省武邑)の人。字は王孫。文帝の竇皇后の従兄の子。
景帝が宴席で弟の梁王に譲位を仄めかしたことを諫めた為、竇皇后に忌まれて罷免された。
呉楚の乱では大将軍とされ、袁盎を推挙して晁錯の排斥を支持し、乱が平定されると魏其侯とされが、重んじられながらも軽薄を理由に丞相には就けなかった。
武帝が即位すると田蚡の進言でB140年に丞相とされ、田蚡と共に儒者を積極的に任用したが、そのため黄老派の竇太后に厭われ、翌年に儒派の御史大夫趙綰が皇太后への上奏の廃止を進言したことで悉く罷免された。
やがて田蚡とは権勢を競って廟堂を二分し、罷免されて憤死した。
田蚡 〜B130 ▲
長陵(陝西省咸陽市区)の人。武帝の生母/王太后の実弟。
弁に長じて博識で、景帝の晩年に太中大夫・武安侯となり、武帝擁立に参画してB140年には太尉とされた。
魏其侯竇嬰とともに武帝の新政を支持して竇太后に罷免されたが、武帝から非公式に諮問されることが多く、士大夫との交際も活発だった。
B135年の竇太后の死で丞相とされた後は血縁に驕った専横が多く、武帝をして「朕の任免できる役職はどれほど残っているのか」と嘆かせ、考工室の敷地の委譲を求めて「なぜ武器庫(の土地)が欲しいと云わぬ」と叱責されてより幾分は控えるようになったという。
後に竇嬰と不和となり、B131年にその賓客の灌夫を族滅して竇嬰を憤死させたが、その翌月に頓死した。
董仲舒 B176?〜B104?
広川(河北省景県)の人。『公羊伝』を修めて声望が高く、景帝に博士とされ、武帝に政術としての儒学の有用性を認められ、B136年には五経博士が立てられた。
公羊学に陰陽五行などを交えて休祥災異の天人感応説を展開したが、B135年の遼東高廟の火災を天譴と解釈したことで減死に処された。
後に中大夫に進み、公孫弘と衝突した後は国相を歴任し、病を理由に致仕した後は修学著作に専念したが、多数の門生を擁し、朝廷に大議があるたびに張湯を介して諮問されたという。
儒学に存在しなかった皇帝の定義を定めて体系化し、儒学が国学とされる基礎を拓いたが、同時代史でもある『史記』では董仲舒には独立した伝は立てられず、また儒学を国学とする決定的な上奏や詔勅も遺されていないことから、董仲舒によって儒学が国学化されたとの旧来の説は否定されている。
孔安国
曲阜の人。字は子国。孔子の11世と称した。『詩経』を申公に、『尚書』を伏生に学び、魯恭王が孔子の旧宅を破壊した際に出土した蝌蚪文の『尚書』『礼記』『論語』『孝経』を今文(隷書)に直し、古文学の端緒となった。官は諫大夫・臨淮太守まで進んだ。
古文『尚書』は都尉朝・司馬遷・倪寛に、都尉朝から賈徽へと相伝され、賈徽の門下から賈逵・許慎らが出た。
劉安 〜B122
淮南王。脂、の子。父の死後、B164年に淮南王に紹封され、呉楚の乱では呼応を謀ったが、国相の張釈之に妨げられた。以後も父の死を無念とし、学士招聘や古籍蒐集、法術への傾倒は造叛準備の韜晦ともいわれる。
読書を好み、武帝の儒学尊重に反撥した黄老の学士数千人が参集し、議論を通じて『淮南子』62篇を著述し、最初の入朝の際に内篇を献上して称賛された。
B124年に太子遷と郎中雷被の反目に端を発した騒動で削藩され、翌年には孫の劉建が太子遷を告発したことで本格的に挙兵を準備したが、家臣の伍被の告発で露見して自殺し、一族も処刑された。
主父偃 〜B126?
斉国臨淄の人。百家の学を学んだが、諸侯に遊説して悉く失敗し、衛青の客となった後に武帝にも認められた。
推恩令や茂陵徙民、衛子夫の立后を勧めるなど発言力が強く、燕王の廃藩も審理し、主父偃の刺察を懼れて通誼する百官も多かった。
朱買臣とともに朔方経営を支持して御史大夫公孫弘の反対を排し、元朔年間に斉国相となったことで糾問を懼れた斉王が自殺したが、累を懼れた趙王に収賄を誣され、公孫弘に斉王自殺の責を問われて族滅された。
公孫弘 B200〜B121
薛の人。字は季。海浜で養豚を営み、40余歳から『春秋』を独学してB140年に賢良文学に推され、2度目の推挙で武帝に絶賛されて博士となり、B124年には功臣や外戚以外で最初の丞相となり、恩沢侯の嚆矢となった。
武帝を諫めることは稀で迎合することも多く、董仲舒・汲黯ら学者や硬骨派からは性陰険・曲学阿世と激しく批判されたが、蒼海郡・朔方部・南中経営の並行が負担となり、廃止を求めて主父偃・朱買臣に論破された際には、匈奴対策としての朔方経営を称揚して蒼海郡と南中経営を放棄させるしたたかさがあった。
東閣を開いて人士を養成し、武帝の治世で治績を挙げつつ処刑されなかった数少ない丞相でもある。
汲黯 〜B109
濮陽(河南省)の人。字は長孺。景帝に太子洗馬とされ、武帝代に謁者として河東の災害を視察し、独断で倉粟を民衆に供出し、後に東海太守から主爵都尉に転じた。
黄老を尊び、直諫の士を自認して公孫弘とは好対照をなしたが、剛直を忌まれて淮陽太守に転出し、10年で歿した。
李広 〜B119
隴西成紀(甘粛省秦安)の人。弓術の家に育ち、その技倆は虎と見誤った石を穿つほどだったという。
B166年の匈奴討伐より功を累ね、文帝に「万戸侯の才」と評され、北辺の太守を歴任して匈奴から“飛将軍”と畏れられたが、B129年の北伐では捕虜とされ、逃帰して平民に貶された。数年後に召されて右北平太守とされると、匈奴に憚られて右北平は安泰だったという。
衛青が大将軍とされた後も匈奴に最も畏れられ、B121年の北伐では匈奴の主力に遭遇して大破され、功罪相殺とされた。
B119年の北伐では遊兵となることを嫌い、独自に行動して期会に遅れ、兵営で自殺した。
景帝の時代、北防の人物として程不識と双璧とされ、程不識が万事に細心厳正だったのに対し、李広の軍は平時は放埓に近かったが斥候を重視し、匈奴も李広をより憚ったという。李広の子の李敢は衛青を恨んで酒宴で殴打し、これを知った霍去病に猟場で射殺された。
衛青 〜B106
平陽(山西省臨汾市区)の人。字は仲卿。本姓は鄭。平陽侯の婢の衛媼の私生児。
はじめ僮僕として匈奴に混じって牧羊し、成人すると平陽公主の家人とされた。
同母姉の衛子夫が武帝の寵妃となった為に登用されて衛氏を称し、B129年に従軍した匈奴遠征に唯一人成功して車騎将軍とされた。
以後は匈奴遠征の中心となり、B127年にオルドス奪回の功で長平侯とされ、B124年には大将軍とされた。
甥の霍去病の登場後は好機に恵まれなかったが、匈奴戦の柱石として重んじられ、B119年には霍去病とともに匈奴の本拠を衝き、大司馬とされた。
温和な性格で諍いを好まず、旧主の平陽公主を降嫁された。
霍去病 〜B117 ▲
衛青の姉の子。18歳で武帝の侍中となって覇気を愛され、衛青に従って抜群の功を挙げて冠軍侯となり、B121年には驃騎将軍とされて北伐を成功させ、渾邪王の来降を導いた。
名声は衛青を凌いで兵の支持も絶大だったが、自尊心が強く損害を軽視する傾向があり、兵が飢えていても豪奢な兵舎で飽食していたという。
B119年の北伐では匈奴の主力を大破して漠北に駆逐し、衛青と並んで大司馬とされた。
早逝を惜しまれ、武帝の陵墓の傍らに、単于の拠った祁連山を模した墓が造営された。
張騫 〜B114
成固(陝西省城固)の人。建元年間に郎となり、匈奴討伐に大月氏との同盟を図る武帝の召募に応じ、B139年に遣月氏使に自薦したが、河西で匈奴に捕われ、十余年間の抑留を経て脱出するとアム=ダリア北岸に移動していた大月氏に到達したものの、攻守同盟は成らなかった。
帰途は天山南路から羌族の住地を通って再び匈奴に囚われたが、年余で軍臣単于死歿の内紛に乗じてB126年に長安に帰着し、太中大夫とされた。
帰国後に参加した匈奴遠征で地理知識を以て衛尉・博望侯とされたが、B121年の北伐では失敗して庶民に貶された。
同年、中郎将として遣烏孫使とされてB115年に帰国し、多くの西方知識をもたらして武帝後期の大規模な西征の原因を為した。
又た遣烏孫使に伴って西域諸国に派遣された多数の副使は、張騫の死後に答礼使を伴って帰国し、西域諸国に漢の国力を伝えるとともに、東西交流の活発化に大いに貢献した。
烏孫公主
和蕃公主の1人で、武帝の甥の江都王建の娘。
烏孫の昆莫単于の要請と、匈奴牽制の目的で元封年間(B110〜B105)に降嫁され、単于の右夫人とされた。
言語・習俗の相違に苦み、昆莫を襲いだ孫の岑陬の閼氏とさると武帝に帰国を訴えたが、烏孫の習俗に従うことを命じらた。
細君とも呼ばれ、しばしば王昭君・蔡文姫と比較される。
楊僕 〜B108
宜陽(河南省)の人。南越攻略・朝鮮征服の将軍で、『漢書』では酷吏列伝に名を連ねる。
主爵都尉のとき南越攻略に起用され、楼船将軍とされて豫章より発し、桂陽から進む伏波将軍路博徳とともに番禺を陥して将梁侯とされが、武力開城に拘って越人の多くが路博徳に投じ、武帝にも叱責された。
B109年に朝鮮が遼東を侵すと斉の海上から王険城(平壌?)を攻めたが、講和開城を優先させた為、功に逸る左将軍荀彘に捕縛された。王険城陥落の後、不和独走として荀彘は処刑され、楊僕は死を贖って庶人に貶された。
司馬相如 〜B118
蜀郡成都の人。字は長卿。景帝の武騎常侍となったが、文学を好む梁孝王の食客に転じ、鄒陽・枚乗・荘忌らと交流した。孝王の死後は帰郡して臨姚県の王吉に寄寓したが、富豪の卓王孫の娘を奪って成都に戻り、後に女婿と認められた。
文名を知られて武帝に招聘されるとしばしば諷諫し、南中攻略では中郎将として滇・夜郎を招撫した。後に病で到仕し、茂陵に隠棲した。
辞賦の最盛期とされる東漢でも最高の作詞家といわれ、その文辞は六朝文人が好んで模倣した。
東方朔 B154〜B93
平原富平(山東省恵民)の人。字は曼倩。博覧強記で、自薦して武帝に登用され、能弁で機知に富んでいたために寵愛された。
その言説は諧謔が多く、奔放ですらあったが、諷諫は概ね受け入れられ、太中大夫・給事中まで進んだ。
司馬遷 B145〜?
京兆茂陵の人。字は子長。父の司馬談の時に茂陵に移住した。
成人後は各地の名所旧蹟を巡って伝説・碑史を収集し、父の死後、太史令を嗣いでB104年に太初暦を完成させ、『史記』を起稿した。
B99年に李陵を弁護したことで宮刑に処され、数年後に出獄して中書令となり、『史記』を完成させた。
歿年は武帝末〜昭帝初期に比定される。
張湯 〜B115
京兆杜陵の人。幼時から律・令を好んで長安の吏となり、田蚡に認められて侍御史に抜擢され、陳皇后の巫蠱では厳格な法の作成・獄務を以て趙禹と並称され、廷尉に進んだ。
峻烈酷薄として朝野の反感を集めたが、儒者を令史に任じて裁決に古典を流用し、しばしば帝意を伺う判決を下して武帝からは信任され、後に御史大夫に至って丞相の実務を行ない、桑弘羊の進める塩鉄専売を庇護した。
朱買臣らに収賄を誣告されて自殺したが、家には下賜された数百金しかなく、家財もすべて下賜品だった。
幼時に、父の留守中に肉を盗んだネズミを捕えて裁判を行なった処、その判決文は老練の獄吏同様だったという。
朱買臣 〜B115 ▲
会稽呉の人。字は翁子。極貧の中で読書に耽って妻にも去られたが、後に同郷の荘助の推挙で中大夫となり、東越が叛くと会稽太守とされ、韓説らと平定に従った。
後に丞相長史に進み、荘助の刑死を恨んで御史大夫張湯を弾劾して自殺させ、誣告罪で処刑された。
貧困の中で妻に離縁され、出世の後に復縁を求められると器の水を地に零して窘めた「覆水不返」の故事は、朱買臣と姜子牙に同様の逸話がある(出典は4世紀後期に編纂された『拾遺記』)。
公孫賀 〜B92
北地義渠(甘粛省寧県)の人。字は子叔。武帝が太子の頃から舎人として随い、即位すると太僕に進められ、、北伐では功に乏しかったものの衛皇后の姉婿でもあったので寵任が篤かった。
B103年に丞相に叙任された際、公孫弘の後任の李蔡・厳青狄・趙周が些罪で処罰され、前任の石慶もしばしば譴責されていたので泣いて辞退したという。
子の公孫敬声が横領で投獄されると大侠の朱安世を捕縛して贖罪を図り、安世から敬声と公主の淫通や巫蠱のことを告発されて族滅された。
江充 B91
邯鄲の人。趙王の太子妃の兄だったが、太子を告発して武帝に認められ、以後、繍衣直使(監察官)として警察権を行使した。
しばしば巫蠱を捏造して次第に貴顕を対象とするようになり、衛皇后の義兄の公孫賀の疑獄では、衛皇后の娘の2公主も自殺を強いられた。
公主に累を及ぼしたことで太子拠に憎まれ、翌年には太子の巫蠱を捏造し、挙兵した太子に斬られた。
劉拠 〜B128〜B91 ▲
戻太子。武帝の嫡長子。生母は衛皇后。公孫賀の疑獄を姉妹に及ぼした江充と対立し、翌年に巫蠱を捏造されると挙兵して江充・韓説を斬ったが、甘泉宮の武帝には造叛と伝わって丞相劉屈釐に討たれ、長安市街で敗れると湖県の泉鳩里に逃れて自殺した。
衛氏は2尺以上が殺され、衛皇后は廃されたのち賜死された。
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巫蠱の乱(B91):丞相公孫賀の巫蠱の獄に端を発した、戻太子による江充殺害と太子討伐。
巫蠱とは呪術の一種で、依代である人形に災厄を封じる一般的な厭勝法に発祥し、呪詛する対象の人形を地中に埋めるようになった。
方法が簡便で一般的な厭勝法でもあったために捏造も容易で、武帝の治世の後半には顕示欲と嗜虐心の強い法官に利用され、大規模な疑獄に発展すると“巫蠱の獄”と呼ばれた。
公孫賀の巫蠱の獄は、江充と太子の対立によって翌年には太子による江充殺害を惹起し、挙兵を伴って王宮に乱入したことで武帝からは叛乱と断じられた。禁軍に敗れた太子は湖県に逃れて自殺し、衛皇后も印綬を剥奪されて自殺を命じられた。
後に車千秋ら多数の上書で冤罪と判明して江家は族滅されたが、馬家の叛乱未遂を惹起した。
李広利 〜B90
中山の人。楽師李延年の弟。武帝の寵妃李夫人の兄。
妹の蔭で起用され、B104年に弐師将軍として大宛に遠征したが、行軍に難航すると帰還を求めて叱責された。敦煌で騎兵6千・歩兵数万を編成してB102年に再征し、包囲40余日で大宛城を陥落させ、良馬数十と中馬3千余匹を得て海西侯とされたが、帰還兵は万に満たなかった。
以後しばしば匈奴に遠征したが、B90年には7万騎を大敗させて降伏し、間もなく単于に側近する衛律の讒言で処刑された。
弐師城は当時、大宛一の名馬の産地とされていた。
李陵 〜B74
隴西成紀の人。字は少卿。李広の孫。幼時から騎射に長じ、人望があった。
匈奴戦の功で騎都尉に進み、B99年には歩兵5千で漠朔に深行したが、単于と遭遇して交戦しつつ後退し、糧器が尽きて囚われると勇戦が嘉されて厚遇された。
匈奴の軍師になったとの讒言で家族が処刑されるに及んで単于に降伏し、娘婿とされて右校王に立てられた。
蘇武 〜B60 ▲
京兆杜陵の人。字は子卿。衛青の北伐に従った蘇建の次男。
B100年に中郎将として匈奴に使者となったが、叛乱への内通を疑われて拘留され、自殺に失敗した後は単于への臣従を拒み通して北海(バイカル湖?)に徙された。
旧友の李陵からの降伏勧告にも肯わず、昭帝のとき、蘇武の生存を知る者が、雁の足に結ばれた蘇武の書を発見したと偽って匈奴に解放を求め、B81年に京師に入って典属国とされた。燕剌王に連坐したが、宣帝の策定に加わって典属国・関内侯とされた。
後世では蘇武と李陵の詩の贈答を以て五言詩の嚆矢とされたが、既に南梁の劉勰が後世の仮託を疑っており、宋の洪邁は李陵の詩中に恵帝の諱“盈”があることから、漢代の作ではありえないと断じている。
13世紀、モンゴルの使節として南宋に拘留された郝経は、蘇武の故事に倣って雁書を放ち、救出された年にその書も発見されて身の潔白が証明された。