▽ 補注:南朝/人物.2

斉蕭氏

蕭長懋  458〜493
 南斉の文恵太子。字は雲喬。武帝の長子。 次弟の竟陵王と並んで仏教を信奉し、文学を愛好して声律への理解も深く、将来を嘱望されて482年に太子に立てられた。 484年には司徒とされたが、生来多疾で父に先立った。

蕭子敬  472〜494
 南斉の安陸王。字は雲端。武帝の第5子。撫軍将軍・丹楊尹、都督・南兗州刺史などを歴任し、海陵王の時に蕭鸞の諸王粛清で中護軍王玄邈・平西将軍王広之に殺された。

蕭子懋  472〜494 ▲
 南斉の晋安王。字は雲昌。武帝の第7子。 兄弟で最も清恬好学で、485年より南豫州・南兗州・湘州・雍州・江州の刺史・都督を歴任した。 蕭鸞の集権と一族粛清に抗って494年に江州で挙兵を謀り、中護軍の王玄邈に討平された。

蕭子隆  474〜494 ▲
 南斉の随郡王。武帝の第8子。武帝から「当家の東阿(曹植)」と讃えられて王倹の娘を娶り、490年に荊雍梁寧南北秦六州都督・鎮西将軍・荊州刺史とされた。 海陵王の時に簒奪を進める蕭鸞によって司徒の鄱陽王と共に殺されたが、蕭衍も陰謀に参画したという。 蕭衍からは「美名のみにして庸劣」と評された。

蕭子琳  485〜498 ▲
 南斉の南康王。字は雲璋。武帝の第19子。 武帝存命中(〜493)は母の故に寵遇されたが、明帝によって他の兄弟同様に殺された。

蕭嶷  444〜492
 南斉の豫章文献王。字は宣儼。武帝の次弟。 禅譲後まもなく荊州刺史から驃騎大将軍・揚州刺史に転じ、482年に太尉とされた。16子の多くが文才に恵まれた。

蕭子恪  478〜529 ▲
 字は景沖。豫章文献王の子。 夙に詩文の才を讃えられて竟陵王王倹に将来を嘱望され、明帝にも敬重された。 梁では寧遠将軍・呉郡太守に至った。作品の完成度を追及して随作随棄した為に文集などは遺さなかった。

蕭宝義
 南斉の晋安王。字は智勇。明帝の長子。 明帝の即位とともに晋安王とされ、翌年に鎮北将軍・南徐州刺史とされた。 501年には司徒を遥授されたが、廃疾のため幼時から公場には出ず、禅譲後は巴陵郡王として斉の祭祀を行なった。

梁蕭氏

蕭順之  〜492?
 蕭道成と高祖父を同じくする族弟。 若冠より蕭道成と親しく、高帝が即位すると累功から太子・事・領軍将軍・丹陽尹などを歴任して臨湘県侯に封じられた。 武帝には疎んじられ、490年に謀叛の嫌疑が生じた武帝の第4子/魚腹侯子響を討伐したが、武帝がこの処置を後悔したことから憂死した。

蕭懿  〜501 ▲
 南蘭陵中都里の人。字は元達。蕭順之の子。豫州刺史のとき、崔慧景の乱を鎮圧したことで尚書令とされたが、権臣の存在を嫌う東昏侯によって暗殺された。

蕭偉  476〜533
 梁の南平王。字は文達。武帝の異母弟。はじめ建安王に封じられて揚州刺史・江州刺史を歴任し、518年に南平王に更封された。文学を愛好し、何遜ら多くの文人を庇護した。死後、子の蕭恪(〜552)が襲爵した。

蕭綜  502〜532
 梁の豫章王。字は世謙。武帝の第2子。 生母が東昏侯の宮女だった事から出生を疑って武帝に隔意を生じ、魏の蕭宝寅を叔父として慕ったという。 性は聡敏で長じて文章に善く、又た驍勇でもあって北中郎将・南徐州刺史・南兗州都督などを歴任した。
 525年に魏の元法僧が彭城を挙げて来降すると都督・徐州府事とされて彭城に入城したが、魏に投じて侍中・司空・高平公・丹陽王とされ、諱を贊、字を徳文と改めた。 蕭宝寅の造叛では連坐を免れ、孝荘帝の時に司徒・太尉を歴任して帝姉の寿陽公主を降嫁された。死後に南人に柩が盗まれて江東に渡り、武帝の子として葬られた。

蕭綸  507?〜551
 梁の邵陵王。字は世調。武帝の第6子。514年に邵陵王とされた。 性放逸で、524年に南徐州刺史となると非法を恣にして免官・削藩され、532年には横領の告発者を暗殺させて庶人に貶された。 546年に鎮東将軍・南徐州刺史に復し、後に中衛将軍に進み、侯景の乱では郢州で義兵を募ったが、湘東王と争って王僧辯に大破され、汝南に逃れて西魏に討滅された。

蕭正徳  〜549
 梁の臨賀王。武帝の弟/臨川王の子。 一時は武帝の太子に擬され、晋安王(簡文帝)が立てられたことを怨恚し、寿春で叛いた侯景と結んで帝位を窺ったが、侯景が梁廷と妥協したために廃された。

蕭範  499〜550
 梁の鄱陽嗣王。字は世儀。武帝の弟/鄱陽忠烈王恢の嗣子。 雍州刺史・征北大将軍などを歴任し、北朝から帰順する侯景を援けて魏軍に大敗した後は合肥に進駐した。 侯景の乱に乗じた東魏軍に囲まれ、侯景挟撃を条件とする魏収の説得に応じて開城したが、援を得られずに当陽公を頼ったものの江州に孤立して悶死した。

蕭大器  523〜551
 梁の哀太子。字は仁宗。簡文帝の長子。 531年に宣城王とされ、簡文帝の即位で皇太子とされたが、簒奪を急ぐ侯景によって兄弟19人と共に殺された。

蕭大心  523〜551 ▲
 梁の当陽公。簡文帝の次子。547年に江州刺史とされ、侯景の乱では大兵を集めて一度は侯景を撃破したが、任約に敗れた。550年に降って尋陽王とされ、翌年には兄弟と共に殺された。

蕭誉  〜549
 梁の河東王。字は重孫。昭明太子の次子。 531年に昭明太子が歿して枝江公から河東王に進封され、累遷して南中郎将・湘州刺史に進んだ。 驍勇を知られて騎射に能く、建康救援から帰還した後は江陵の湘東王と対立し、湘東王世子の方等を敗死させたものの王僧辯に敗れて殺された。

蕭方等  528〜549 ▲
 字は実相。梁元帝の長子。 実母の徐妃が疎んじられていたために太子とされず、そのため湘州の河東王討伐を志願し、突出して戦死した。

蕭方諸  〜551
 字は智相。梁元帝の第2子。容姿に優れ、玄学にも長じて父帝に愛され、550年に郢州刺史とされて江夏に鎮した。武昌の徐文盛を恃んで軍備を怠り、侯景軍の宋子仙に敗死した。

徐文盛  ▲
 彭城の人。字は道茂。水戦に長じ、寧州刺史・左衛将軍などを歴任した。侯景の乱では武昌に進駐して任約を撃退したが、侯景に執われた妻女が送還されてより怠戦するようになり、郢州刺史の蕭方諸を敗死させた。後に元帝に召喚されて獄死した。

蕭荘  548〜578
 梁元帝の嫡孫。 554年の江陵陥落では民間に秘匿され、王琳に発見されて建康に送られると北斉に質子とされた。 陳覇先の簒奪後に王琳に迎えられて郢州で即位したが、560年の蕪湖の水戦で郢州を陥され、王琳と与に斉に亡命して梁王とされた。

蕭勱
 字は文約。梁武帝の従兄弟/呉平侯蕭景の嗣子。 太子洗馬・豫章内史・広州刺史などを歴任して恵政を以て民に慕われ、太子左衛率に叙された上京の途上で歿した。 裴子野張纉のみを知音とした。

蕭勃  〜557 ▲
 広州刺史蕭勱の弟。侯景の乱では陳覇先の支持で広州刺史とされ、陳覇先の北上後は軍閥化し、梁末に司徒から太尉・太保に進められた。梁陳禅譲に反対して挙兵したものの、兵の支持がなく敗死した。

欧陽紇  〜569 ▲
 潭州臨湘の人。 梁の広州刺史蕭勃と親交があり、蕭勃の敗死後に広州刺史となって569年に造叛したが、敗れて処刑された。


 

譙縦  〜413
 巴西南充の人。桓玄の乱で益州刺史の東征の徴発に抵抗して挙兵し、梁秦二州刺史を称した。 成都を占領すると成都王を称して後秦に称藩し、大都督・相国・蜀王とされたが、413年に晋の益州刺史朱齢石らに討平された。

鍾エ  468?〜518?
 潁川長社の人。字は仲偉。晋の侍中鍾雅の裔。 宗家が夙に没落したために不遇で、『周易』に通じて国子祭酒の王倹に認められた後も諸王の参軍・記室を歴任した。 晋安王(簡文帝)の下で著した『詩品』で沈約の評価が低いのは、仕官の斡旋を断られた故という俗説がある。

鍾雅  〜329 ▲
 字は彦冑。永嘉の戦乱を避けて琅邪王(元帝)に投じ、成帝の下で御史中丞に進んで威名があった。 蘇峻が叛くと西奔する庾亮を責めて最後まで成帝に側侍し、翌年に殺された。 光禄勲が追贈された。

焦僧度
 王僧辯の部将。江陵失陥の前後は湓城に屯して動かなかった。 王僧辯の敗死後は陳に仕え、蕭勃討伐や周迪鎮圧にも従軍したが、旧知の侯瑱が来降した際には斉への亡命を勧めた。

真諦  499〜569
 西インド出身。548年に扶南から渡来し、建業で摂論宗(摂大乗論に基づく唯識説)を布教した。 他宗による排斥や侯景の乱に遭い、広州の王園寺で不遇のまま歿したが、『摂大乗論』をはじめ『倶舎論』『金光明教』など76部315巻を翻訳し、鳩摩羅什玄奘三蔵不空金剛と共に“四大訳経家に数えられる。

沈恪  509〜582
 呉興武康の大姓。字は子恭。梁の新渝侯蕭映の幕僚として広州に従った際に陳覇先と交際し、陳覇先と王僧辯が決裂した後は武康で募兵して長城県の陳蒨を援け、556年には杜龕の平定に従った。 陳の建国後は呉興太守・会稽太守・郢州刺史などを歴任し、宣帝の下では不遇だったが、江北が失われた翌年に衛尉卿として復し、護軍将軍・金紫光禄大夫として歿した。

沈客卿  〜589
 呉郡武康(浙江省徳清)の人。陳後主の代表的な狎客。 群籍を博渉し、施文慶の薦挙で太子叔宝に仕えて寵遇され、後主が即位すると中書舎人に歩兵校尉を兼ねて施文慶とともに朝政を壟断し、賦税を管掌して加税を行なった事で特に百姓に怨恚された。 施文慶とともに建康で処刑された。

陳暄  ▲
 陳慶之の少子。好酒無礼の故に梁では不遇だったが、陳では陳叔宝に寵遇された。後主即位後は通直散騎常侍とされたものの軽佻浮薄を改めず、後主に嬲られて心労で歿した。

孔範  ▲
 会稽山陰の人。字は法言。陳後主の狎客。容姿に優れ、孔貴人と義兄妹を結盃をしていたために後主に寵遇され、詩文に於いても江総に亜ぐ名声があった。

沈勁  〜365
 呉興武康の人。字は世堅。父の沈充が王敦の造叛に与して敗死した為に禁錮されたが、常に雪辱を期して太守の王胡之(王廙の子)に認められ、桓温の北伐で司州刺史に転じた王胡之の上書で解錮されて洛陽に鎮戌した。 慕容恪が来攻すると冠軍長史とされ、鎮将の陳祐が奔遁した後も洛陽を死守して壮志を讃えられたが、帰順を拒んで殺された。 東陽太守が追贈された。

沈璞  419〜456
 呉興武康の大姓。 少時より才学を賞賛されながらも官には恵まれず、劉濬に重用されたため刑死した。

任忠
 汝陰(安徽省阜陽)の寒門。字は奉誠。梁の鄱陽嗣王の軍事に従って盪冦将軍とされ、陳では右軍将軍・霍州刺史などを歴任して後主が即位すると梁信郡公に封じられた。 かねて孔範とは不和で、隋軍の渡江で召還されて鎮東大将軍とされたが、韓擒虎に朱雀門を開いて諸将の追従を促し、隋で開府儀同三司とされた。

曹景宗  457〜508
 新野の人。字は子震。宋の徐州刺史曹欣之の子。夙に騎射に長じて勇猛を知られ、司馬穰苴楽毅を敬慕した。 宋で出仕して斉では遊撃将軍とされ、497年に太尉陳顕達の北征に従って馬圏で魏の中山王を破り、孝文帝に敗れた諸軍を先導して帰師を全うした。
 雍州刺史となった蕭衍に帰服して挙兵の際には先鋒を務め、禅譲後に平西将軍とされた。 507年の鍾離城救援では統帥とされて魏軍を大破し、領軍将軍・江州刺史に進められたが、赴任途上で歿した。
 韋叡には私淑したものの矜持が強く横慢で儀礼を軽んじ、公卿を侮ることが多かったが、武帝に対する非礼は笑って寛恕された。 又た財貨に貪欲で奢侈・酒色を好み、部曲も驕慢だったために世評も芳しくなかった。

曹義宗  ▲
 江州刺史曹景宗の弟。 525年の晋安王の北伐に振遠将軍として従い、撃退こそされたものの順陽を確保した。 梁州刺史・秦州刺史を歴任した後、陳慶之の北伐でも陽動を兼ねて北伐したが、穣城で敗れて擒われ、北魏で歿した。

臧盾  444〜510
 東莞莒の人。字は宣卿。宋の太常卿臧Zの族裔。 幼時より諸葛璩に就いて五経を修め、姿貌にも秀でて梁武帝に「為人り篤実」と信任され、領軍将軍として近侍した。 貴族的機智は不得手で、劉冉ら名流からはしばしば侮られた。

臧Z  ▲
 字は徳仁。経学を好んで三礼に通じ、謝安が復置した国学の助教に挙げられたが、後に致仕して久しく在野した。 桓玄討伐の劉裕に投じ、禅譲で姉が皇后とされて太常卿に進んだ後も謹貧を保ち、武帝が歿して致仕した。

臧熹  ▲
 字は義和。臧Zの弟。経学を好んで騎射にも長じ、兄と共に劉裕の軍旅に従った。 412年の朱齢石の伐蜀に従って領建平・巴東二郡太守とされ、蜀で病死した。後に光禄勲を追贈された。

孫綽  314?〜371?
 太原中都(山西省平遥)の人。字は興公。孫楚の孫。 許詢・支遁らと会稽の山水に遊んで山濤の処世を批判したが、佐著作郎に叙されて長楽侯を襲いでより庾亮殷浩らの招請にも応じ、後に永嘉太守・散騎常侍を歴任し、桓温に疎まれて廷尉卿で終わった。
 玄言詩の名手として許詢と並称され、張衡左思の賦を重んじて修辞に優れたが、玄言詩の廃没後に著された『詩品』では「平典にして道徳論に似、建安の風力尽く」と評された。 碑・誄でも第一人者として温嶠王導郗鑒庾亮らの碑文を多く手がけ、三教に通じた思想家でもあったが、思節を欠く言動と譏誹を好んだ事から「穢行多し」と評された。
唐代の『建康実録』の卒年から逆算した生年314年説が一般的ですが、この場合は温嶠・桓彝らの碑文を15〜16歳で作ったことになるので、近年では310年説が唱えられています。 『文心彫龍』では桓彝以外の碑文を「枝雑多し」としていますが、温嶠・桓彝の碑の内容は伝わっていません。

孫盛
 太原中都の人。字は安国。孫楚の孫。 晋末に父/潁川太守孫恂が戦死して10歳で江東に遁れ、長じて博学と弁才で知られて佐著作郎で起家した。 陶侃の幕僚となってより西府の参軍に留まり、桓温の征蜀や北伐にも従って呉昌県侯に封じられ、長沙太守・秘書監などを歴任した。 庾翼の引退後は貨殖を好んで汚行もあったが、桓温には黙認された。
 『魏氏春秋』・『晋陽秋』などの著作でも知られる。

孫楚  〜293 ▲
 太原中都の人。字は子荊。魏の驃騎将軍孫資の子。 40歳を過ぎて出仕したが、府将の石苞に対する傲岸不遜を弾劾され、これより参軍が府将を敬することが令定された。
 詩才は高く評価され、理解者の王済には私淑したが、“漱流枕石”を誤って“漱石枕流”と引用したことを王済に指摘されても牽強付会して誤りを認めないなど傲慢狷介であるため悶着が絶えず、恵帝のはじめにようやく馮翊太守とされた。『詩品』では中品に位する。

孫泰  〜398
 字は敬遠。天師道に帰依して呉会に多数の信者を擁し、そのため王cの告発で広州に流されたが、後に養生術への精通を以て太子少博王雅の進言で徴還された。 やがて輔国将軍・新安太守に進み、司馬元顕ら多くの貴顕にも帰依され、王恭らの兵変に乗じた謀叛を会稽内史謝輶に劾奏されて誅された。

戴淵  〜322
 広陵の人。字は若思。“戴若思”とも。 孫呉の左将軍戴烈の孫。遊侠を好んで操行を修めず、上洛する陸機の船団を襲った際に指揮の非凡を讃えられて私淑した。 孝廉に挙げられて東海王の下で豫章太守・治書侍御史・散騎侍郎などを歴任した後、琅邪王に招請されて近侍し、護軍将軍の時に王府制圧を謀る建康尉に兵を掌握されて劉隗に弾劾された事もあった。 後に征西将軍・仮節都督兗豫幽冀雍幷六州諸軍事として劉隗とともに寿春に出鎮し、王敦が叛くと驃騎将軍とされて建康に戻ったが、石頭城奪回に失敗し、建康を制圧した王敦に輿望を憚られてとともに殺された。

檀和之  〜456
 高平金郷(山東省)の人。443年に交州刺史とされ、446年に林邑を撃って首都チャキェウ(ダナン近郊)で国王范陽邁を大破し、以後、林邑は従順となった。諸官を歴任し、南兗州刺史のときに罷免禁錮されて同年に歿した。

郗愔  313〜384
 字は方回。郗鑒の嗣子。 南昌公を襲いだ後に臨海太守まで進んだが、弟の郗曇の死後は妹婿の王羲之らと交遊して天師道や黄老術に傾倒し、やがて致仕して十数年間隠棲した。 司馬c(簡文帝)の招聘に応じた後に都督・徐州刺史に進んで京口に鎮し、桓温によって会稽内史に遷されたが、桓温の死後は鎮東大将軍・司空を歴任した。
 書家として庾翼と並称され、特に章草に優れた。

  468〜499
 高平金郷(山東省済寧)の人。宋の太子舎人郗Yの娘。宋文帝の外孫。宋の後廃帝や斉の安陸王の求に応じず、建元(479〜482)末に蕭衍に嫁したが、3娘を遺して499年に雍州で歿し、禅譲後に皇后を贈られた。

刁協  〜322
 渤海饒安の人。字は玄亮。 好学・博覧強記で旧儀に通じて太常博士・本郡大中正に進み、八王の乱中も朝臣として潁川太守・河南尹を歴任した。 琅邪王(元帝)の南遷に棄官して従い、承制で尚書左僕射に直されて荀ッと共に典儀を制定し、元帝が即位すると尚書令とされたが、酒席でしばしば公卿を侵毀し、又た剛悍で他者との軋轢が絶えないながらも元帝には信任されたことから、佞人と評されることもあった。 王敦が挙兵すると禁軍を督して敗れ、元帝の勧めで逃亡する途中に長江で殺された。
 孫の刁逵は桓玄に与して劉裕に殺され、その甥の刁雍は後秦に奔り、北魏で征南将軍・徐豫二州刺史に至った。

張敬児  〜485
 南陽冠軍の人。夙に弓馬に長じて明帝に愛され、桂陽王討伐に大功があって驍騎将軍・輔国将軍に叙され、これより蕭道成に認められた。 ついで荊州刺史沈攸之に備えて雍州刺史とされ、沈攸之を討平して征西将軍・持節督雍梁二州郢司二州軍事・雍州刺史に進められて襄陽県公に進封された。 禅譲後に散騎常侍・車騎将軍に進んで高帝の遺詔で開府儀同三司を加えられたが、叛意を誣されて武帝に殺された。

張弘策  456〜502
 范陽方城の人。字は真簡。蕭衍の母の従弟である事から童時から親交し、蕭衍が雍州刺史となると録事参軍・襄陽県令とされて挙兵の事を諮議し、和帝を立てた後に建康襲撃を強く勧め、建康が陥されると先行して府庫を封じた。 禅譲で衛尉卿に散騎常侍を加えられて洮陽県侯に封じられたが、建康での斉の遺兵の乱で戦死した。

張纉  499〜549 ▲
 范陽方城の人。字は伯緒。衛尉張弘策の子。 好学の士として知られ、裴子野とは忘年の交があり、武帝の駙馬とされて吏部尚書、湘州刺史などを歴任した。 侯景が叛くと旧交のあった湘東王(元帝)に投じて雍州刺史とされたが、蕭詧に捕われて殺された。 元帝の自賛「武侯・桓温に比す」を唯一認めていたという。

張稷  451〜513
 呉郡呉の人。字は公喬。夙に令名があり、衛尉のときに蕭衍の挙兵に遭うと北兗州刺史王珍国らと東昏侯を斬り、范雲・裴長穆にその首級を石頭城の蕭衍に届けさせ、侍中・左衛将軍に叙された。 後に青冀二州刺史・鎮北将軍・尚書左僕射に至ったが、直言を忌まれて鬱州刺史に遷され、北魏に通じた民乱で戦死した。
 鬱州は交易路を介して北魏の影響が強く、魏の調略によって常に政情が不安定だったが、特に備えることがなかったという。 張稷の死後、武帝は左転の処遇を強く悼み、張氏の姻戚の沈約の冷淡な応対に激怒した。

張正見
 清河東武城(山東省武城)の人。字は見賾。 祖父の張蓋之は北魏の散騎常侍・渤海長楽二郡太守。父の張脩礼は梁に帰して懐方太守に至った。
 13歳で詩文の才を東宮(簡文帝)に絶賛され、547年に邵陵王国常侍で起家して元帝の下で通直散騎侍郎に進み、江陵陥落の混乱で彭沢令を棄官して難を逃れた。 陳では撰史著士のまま諸官を歴任して通直散騎侍郎に至り、太建年間(569〜82)に49歳で歿した。 即興詩を重視した文会での詩作が主潮だった当時の典型的な詩人で、「南北朝で詩最も多くして最も省発に足る無し」と酷評される。

陳宗室

陳叔陵
 陳の始興王。後主の次弟。宣帝の歿した翌日に剃刀で後主を襲い、失敗して誅された。

陳昌  〜560
 陳の衡陽王。字は敬業。武帝の第6子。 江陵の落城で陳頊(宣帝)と共に長安に拉された。 武帝が歿して帰国が認められ、王琳の北奔で建康との往来が可能となると湘州牧・衡陽郡王を遥授されたが、武帝に将来を嘱望されていた為に入京の途上で文帝に承旨した侯安都に暗殺された。

陳深
 字は承源。陳後主と張貴妃の子。後主の第4子。はじめ始安王とされ、588年に太子胤が廃されて立てられた。 入城した隋兵に対し、泰然として慰労して敬されたという。

沈皇后  ▲
 陳後主の皇后。呉興武康の人。武帝の外孫。「性端静にして嗜欲寡く、聡敏にして博覧強記。書翰に巧みなり」と『陳書』にあり、後主には疎まれた。建康陥落のおりには、太子と共に沈着を保って大いに讃えられた。

柳太后  534〜616 ▲
 河東解の人。諱は敬言。陳宣帝の皇后。柳世隆の曾孫。梁武帝の外孫。侯景の乱で江陵に逃れて元帝に厚遇され、陳頊に嫁して後主を産んだ。 江陵の落城で叔宝と共に穣城に徙され、561年に帰国した。後主が即位すると皇太后として垂簾し、平陳で長安に徙されて後に洛陽で歿した。

陳道譚
 陳武帝の兄。文帝・宣帝の父。侯景の乱で戦死した。後に始興昭烈王を追贈された。


 

陳伯之
 済陰睢陵(江蘇省睢寧)の人。 鍾離の強盗だったが、斉明帝のとき車騎将軍王広之に降り、安陸王の平定で冠軍将軍・魚腹県伯とされた。 斉末に都督前駆諸軍とされて尋陽で蕭衍と対峙し、招諭に応じて安東将軍・江州刺史を安堵されて建康攻囲にも功があったが、建国早々に文盲を侮られて叛き、王茂に敗れて北奔して使持節都督淮南諸軍事・平南将軍とされた。 505年に梁の臨川王の北伐で諭旨に応じて寿陽(寿春)を以って帰朝し、通直散騎常侍・驃騎将軍とされ、後に太中大夫に転じた。

杜龕  〜556
 京兆杜陵の人。杜岑の子。杜崱の甥。 驍勇で用兵に長じ、江陵で岳陽王を撃退した後は王僧辯の西征に従い、建康回復の勲第一として東揚州刺史とされた。 武陵王平定にも従い、江陵の陥落後に貞陽侯が迎立されると震州刺史・呉興太守とされ、後に鎮南大将軍が加えられた。
 王僧辯の婿でもあり、呉興での統制は陳覇先の一族にも厳格だった事から仇を結び、王僧辯が滅ぼされると呉興を挙げて抵抗してしばしば陳蒨(文帝)を破ったが、過酒癖があり、部将が陳蒨に内応して殺された。

杜崱  〜553 ▲
 京兆茂陵の人。梁の梁秦二州刺史杜懐宝の子。元は北朝に仕えた家系で、父に従って襄陽に移り、岳陽王に与して新興太守とされたが、湘東王(元帝)の招撫に応じて一族を挙げて帰順し、岳陽王の勢力を大きく削いだ。

杜曾  〜319
 新野の人。夙に驍勇は衆に卓絶して被甲しての水泳が可能で、鎮南将軍の新野王歆の下で勇は常に三軍に冠絶した。 312年に竟陵で自立した故の鎮南府牙門将の胡亢より竟陵太守とされたが、王沖の造叛に乗じて胡亢を殺し、南中郎将・領竟陵太守を称して沔漢に割拠した。
 愍帝の任じた荊州刺史第五猗と結んで勢力を保ち、杜弢を破って進出した陶侃を撃退した後は平南将軍荀ッに帰附しつつ襄陽攻略を図り、荊州刺史王廙を撃退して江沔を震撼させたが、周訪の奇襲と部将の離背で敗死した。
この時期、長安政権(愍帝)と王敦が荊州の主導権を争っています。 第五猗は愍帝の侍中で、梁州刺史張光の死を機に征南大将軍・監荊梁益寧四州とされたもので、上記の杜曾の動きは第五猗の尖兵としてのものでもあります。 因みに、即位直後の愍帝の詔勅では「琅邪王を左丞相・陝東大都督に、南陽王を右丞相・陝西大都督に」任じていますが、荊州の担当については言及がありません。 琅邪王が都督諸軍事に任じられるのは315年春で、杜曾が荀ッに通誼したのもその為かもしれません。

荀ッ  263?〜329? ▲
 潁川潁陰の人。字は景猷。漢の尚書令荀ケの玄孫。濮陽王允の文学で起家し、累遷して侍中・中護軍に進んだ。 永嘉の乱で洛陽が陥されると密に遁れて荀藩の承制で仮節監江北軍事・南中郎将・後将軍・襄城太守とされ、ついで都督荊州江北諸軍事・平南将軍に進んで宛に鎮し、曲陵公に進封された。 315年に南中郎将周訪の来援で杜曾を撃退し、間もなく杜曾に帰附された。
 元帝が即位すると尚書僕射として徴還されて刁協と共に朝廷の礼儀を定め、成帝の下で右光禄大夫・開府儀同三司・秘書監に進み、蘇峻の乱で成帝に扈随する中で重病を患い、解放から程なくに歿した。

杜弢
 蜀郡成都の人。字は景文。秀才に挙げられた事があり、益州が乱れると南平郡に逃れて醴陵令とされた。 311年、巴蜀からの流民が、荊州湘州の先住との軋轢から造叛すると首領に推され、梁益二州牧・平難将軍・湘州刺史を称し、一時は征南将軍山簡に降って広漢太守とされたが、流民に対する圧政が続いたために再び叛き、荊南を席捲して荊州刺史を武昌より逐った。 315年に征南将軍王敦・荊州刺史陶侃に討たれると朝廷に招撫を求めたが、陶侃に大破されて行方を晦ました。

陶範
 字は道則。陶侃の第10子。尚書郎・秘書監・光禄勲を歴任した。 陶侃を渡江の名士に加えなかった袁宏を刃を以て難詰した。 当時の北来貴族には陶氏を谿蛮と蔑む風潮がまだ強く、困窮する王胡之に糧米を贈ったところ、「寧ろ謝尚に求めん」と拒絶された事もあった。
王胡之は王廙の子ですから、紛う方なき名門です。童児だった車胤を絶賛して勉学を勧めたり、沈勁の解錮を上奏するなど、知人の才の人である事が散見できますが、謝尚との不和の経緯は不明です。

到漑  477〜548
 彭城武原(江蘇省邳州)の人。字は茂灌。 幼少で孤貧となったが、任ムに認められて名を広めた。 弟の到洽(477〜527)とは“二到”と称されて二陸に比せられたが、祖父の到彦之がいちじ糞尿の処理を生業としていたことから、しばしば貴人に蔑まれた。
 任ムによって立身した代表的な人物で、御史中丞任ムの許での文士の集いは“蘭台の聚”と称された。 蘭台に連なった劉峻の、世人の任ムの遺児に対する薄情への憤りは、直接には二到に宛てたものとされる。

裴忌  522〜594
 河東聞喜の人。字は無畏。 呉明徹の北伐に軍師将軍として従軍して豫州刺史とされたが、後に共に周に捕われて長安で歿した。

裴子野  469〜530
 河東聞喜の人。字は幾原。博学で多くの著作があり、特に当時の浮華の文風を批判した『雕蟲論』は名高い。 官は鴻臚卿に至った。

裴邃  〜525
 河東聞喜の人。字は淵明。寿陽(寿春)に住した事で豫州刺史裴叔業の北投で魏に移り、魏郡太守に進んだ。 梁が興ると南奔して輔国将軍・廬江太守に叙され、鍾離の役では戦艦を建造して韋叡を援け、冠軍長史・広陵太守に転じた。 讒言で始安太守に遷赴する途上で宿預が攻略されると徴還され、歴遷して給事中・朱衣直閤将軍に進み、521年に義州刺史文僧明の離叛を征討して義州を回復し、ついで都督・豫州刺史に進んで合肥に駐した。
 524年の北伐では元樹の前軍の督征討諸軍事となって寿陽を攻略し、安成・馬頭・沙陵などを抜いた後に西進して汝潁の間を席捲し、寿陽から出攻した河間王琛を大破したが、程なく軍中で歿した。

劉顕  481〜543 ▲
 沛国譙の人。字は嗣芳。博覧強記の学者で、『漢書』への造詣から“漢聖”とも称された。 親交のあった裴子野とともに湘東王(元帝)と交わり、平西諮議参軍・戎昭将軍に至った。

范汪  301〜365
 南陽順陽の人。字は玄平。『春秋穀梁伝』を家学とし、博学多通で庾亮・庾翼・桓温らの幕僚を歴任し、征蜀に従って東陽太守・武興侯とされた。 後に都督徐兗青冀四州晋陵諸軍事として北府を統轄したが、桓温の北伐で会期を失して罷免された。 東漢の黄憲を完璧な人格者として敬慕していたという。

范寧  339〜401 ▲
 字は武子。范汪の子。家学のほか諸学に通じて鄭玄に傾倒し、何晏王弼の思想をも修めた。 桓温の死後はじめて出仕し、地方官を歴任して中書侍郎に進むと孝武帝に親侍したが、外甥にあたる王国宝会稽王を嫌って豫章太守に転出し、後に丹陽に隠棲した。
 『左伝』の文辞を認めながらも神怪性を批判し、『穀梁伝』にのみ注がないことを嘆じて『春秋穀梁伝集解』を著した。

范泰  355〜428 ▲
 字は伯倫。范寧の子。劉裕に九錫授与の使者となって開国公に列し、426年には侍中・光禄大夫・国子祭酒とされたが、枢機に参与する事はなく、晩年は仏教に傾倒した。謝霊運とも交誼があり、文帝に再用を薦めた。

潘玉児
 本名は兪尼子。 王敬則の妓だったものが東昏侯の乳母となり、東昏侯の即位と共に貴妃に直されて寵愛された。 金造の蓮華の上を歩んで東昏侯が「歩歩蓮華を生ず」と喜んだ事から“潘金蓮”とも呼ばれた。 東昏侯の驕奢を助長したが、蕭衍にも納室を迷わせ、部将への下賜が決まると辱じて自殺した。

傅縡  530?〜585?
 北地霊州(寧夏霊武)の人。字は宜事。 幼時から聡敏好学で、7歳で詩賦十余万言を暗誦し、文章典麗と称されて国書の多くを草した。 北朝に使した際の薛道衡との唱和詩五十韻はともに“美”と讃えられたが、魏収には「縡は蚓を以て魚を得る類なり」と評された。 才を恃んで狷介傲慢で、讒言によって後主に投獄された後も獄中からも諫言を続けたために賜死された。

伏滔
 平昌安丘(山東省)の人。字は玄度。 才学を以て桓温に優遇されて聞喜県侯とされ、後に著作郎を本官としたまま遊撃将軍に至った。


 字は彦重。 太守や僕射・太子・事などを歴任したが、徐羨之に与した履歴によって会稽太守で終わった。 荘園開発を進める謝霊運と鋭く対立し、朝廷が認めた湖水の干拓を、水産への悪影響による民生の低下を理由に認めず、これを仏徒の故に殺生を嫌うのみと批難されると、謝霊運の叛意を劾奏した。

庾楷  〜402
 潁川鄢陵の人。征西将軍庾亮の孫。 司馬道子に阿附して累進し、侍中から仮節西中郎将・豫州刺史に進んで歴陽に鎮し、安帝が即位すると左将軍に進号された。 江州刺史王愉が豫州の四郡を兼督したことを怨恚して京口の王恭に挙兵を促し、司馬尚之・王愉の誅殺を唱えて西府軍の前鋒となったが、牛渚で司馬尚之に惨敗して桓玄の軍に投じ、桓玄と朝廷の和解が成ると桓玄の隷下の武昌太守とされた。
 後に桓玄の叛意を察すると連坐を懼れて司馬元顕に通じたが、桓玄の挙兵後に露見して司馬元顕らと共に殺された。

庾冰  296〜344
 字は季堅。庾亮の弟。 秘書郎の時に南渡して王導の司徒左長史に迎えられ、後に呉国内史に転じ、蘇峻の乱では会稽に遁れて王舒に従い、乱後に会稽内史に転じた。
 丞相の王導が歿すると入朝して中書監・揚州刺史・仮節都督揚豫兗三州諸軍事・征虜将軍とされて朝廷を宰領し、342年に成帝が不予となると国事多難を理由に幼少の皇子を措いて皇弟の琅邪王(康帝)を擁立し、中書令何充・会稽王司馬cらと輔政して車騎将軍に進められた。 弟の庾翼が北伐のために襄陽に進駐すると仮節都督・領江州刺史となって武昌に出鎮し、翌年に康帝が歿して褚太后が臨朝しても病を理由に還朝を拒み、まもなく急死して侍中・司空を追贈された。

庾懌  293〜342
 字は叔預。庾亮の次弟。明帝の外戚として諸官を歴任し、庾亮の北伐では輔国将軍・仮節監梁雍二州諸軍事・梁州刺史とされて魏興に鎮したが、程なく刺史を解かれて半洲に退き、翌年(339)の北伐の頓挫で豫州刺史に転じて蕪湖に遷り、西中郎将・仮節監宣城廬江鄱陽安豊四郡軍事とされた。後に江州刺史王允之の毒殺を謀って失敗し、自殺を命じられた。

羊侃  495〜549
 泰山梁父の人。字は祖忻。文史を渉猟して『左氏伝』や兵書を好んだ一方で剛弓で知られ、蕭宝寅の西征に従って莫折天生を射殺した功で征東大将軍・東道行台・領泰山太守・鉅平侯とされた。 河陰の変を機に造叛し、于暉・高歓に敗れると南奔して安北将軍・徐州刺史に叙され、532年に兗州刺史に転じ、使持節・都督瑕丘諸軍事を加えられて元法僧の北伐に従った際には、武帝から特に大軍司馬を加えられるなど篤く信頼された。
 晋安太守・太子左衛率・都官尚書などを歴任し、侯景が叛いて歴陽が陥されると采石の堅守と邵陵王による寿春の回復を主張したものの聴かれず、台城が攻囲されると都督城内諸軍事とされ、混乱する城内を統制しつつ防戦に奔走した。 捕虜となった長子を以て降伏が勧められた際にはの姿勢を示して拒絶したが、年末に過労から病死した。
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 第3子の羊鵾は落城で陽平に逃れたものの、侯景の徴還に応じて近侍して敗走にも扈随し、侯景の北奔を妨げて京口近郊で侯景を殺して通直散騎常侍・都督青冀二州諸軍事・明威将軍・青州刺史・昌国県公とされた。 後に信武将軍・東晋州刺史に進み、蕭勃討伐の途上で王僧辯の敗報に接して北上したが、豫章で侯瑱に敗死した。

姚察  533〜606
 呉興武康の名族。字は伯審。仏教を篤信して早くから梁の東宮(簡文帝)に近侍し、陳では吏部尚書に至った。 江総とは公表前の詩を必ず示される深い親交があり、吏部尚書叙任にも江総の強い推薦があったという。 隋では秘書丞とされたが、『梁書』・『陳書』編纂を未完のまま歿し、子の姚簡が完成させた。

蘭欽
 中昌魏県の人。字は休明。夙に剛果捷明で軍功で累進し、527年の北伐では蕭城を抜き、魏軍20万を大破して彭城に迫り、535年には北梁州刺史として襄陽から魏軍を撃退し、進んで梁州を回復した。
 後に都督衡桂二州諸軍事・衡州刺史となり、嶺南の陳文徹兄弟を平定して平南将軍に進められ、境内では恵政を行なって民に愛慕されたが、広州刺史に転じると、前任の広州刺史に妬まれて毒殺された。享年42歳。
補江総白猿伝で、冒頭で欧陽紇の主将として紹介される藺欽のモデルです。
  
 次子の蘭京は東魏との交戦で捕われ、高澄に給仕とされて帰国の請願が叶えられず、密議中の高澄を襲って殺して斬首に処された。

陸襄  480〜549
 呉郡呉の人。字は師卿。 昭明太子の求めで太子洗馬に迎えられ、太子の死後は金華宮家令として蔡妃(太子の寡婦)に仕えた。 後に鄱陽内史などを歴任した。

陸澄  425〜494
 字は彦淵。呉郡呉の人。 博学で、王倹から“書厨”と呼ばれた。度支尚書・光禄大夫まで進んだ。

陸納
 王琳の長史。王琳が江陵に徴喚されると湘州に潜還し、王琳の拘禁に抗議して挙兵した。 王僧辯に大敗した後は長沙に拠って王琳の無辜を訴え、王琳の招撫に応じて帰順した。

宋劉氏

劉道規  370〜412
 字は道則。劉裕の異母弟。劉裕の挙兵に従って振武将軍とされ、何無忌らと共に劉毅の桓玄追討に従って輔国将軍に進み、都督荊梁雍寧秦河南諸軍事・領南蛮校尉・荊州刺史に転じて桓玄の残党の討平を進めた。 411年に征西大将軍・開府儀同三司に進み、死後に司徒・南郡公が追贈され、禅譲後に臨川王に直された。

劉道憐  368〜422 ▲
 南朝宋の長沙景王。劉裕の弟。 劉裕が荊州の司馬休之を討ったときに留守を任され、後に驃騎将軍に進んだ。

劉秉  ▲
 長沙景王の孫。479年に丹陽尹とされ、簒奪を進める蕭道成排斥に失敗して処刑された。

劉誕  433〜459
 南朝宋の竟陵王。字は休文。文帝の第6子。 449年に広陵王から随郡王に更封されて雍州刺史に叙され、翌年の北伐には柳元景を派遣して威名があった。 慎寛で勇略があり、徐湛之の妹婿でもある事から劉劭の廃黜が議された際には継嗣にも擬され、孝武帝に呼応して竟陵王に進封された。 南郡王の平定後は荊州・南徐州・南兗州の刺史を歴任して江淮六州の軍事を督し、孝武帝の猜疑が強まると広陵で叛いて沈慶之に討平された。

劉休範  448〜474
 南朝宋の桂陽王。文帝の第18子。456年に順陽王に封じられ、翌年に桂陽王に更封された。 459年に江州刺史に叙され、晋安王が鎮圧されると南徐州刺史に転じ、督北討諸軍事・征北大将軍とされて薛安都を討った。 凡庸だったために明帝の粛清を免れ、470年に都督五州四郡諸軍事・江州刺史とされ、後廃帝が即位すると太尉に進められたが、入朝を拒まれて474年に挙兵し、建康に逼ったものの蕭道成張敬児らに平定された。

劉子頊  456〜466
 南朝宋の臨海王。字は孝列。孝武帝の第7子。 461年に歴陽王から臨海王に更封され、広州刺史・荊州刺史を歴任した。 晋安王に呼応して衛将軍・開府儀同三司とされたが、晋安王が敗死した翌月に鎮圧された。

劉子鸞  456〜465
 南朝宋の新安王。字は孝羽。孝武帝の第8子。460年に新安王とされ、翌年に南徐州刺史に叙された。 殷貴妃との子として最も孝武帝に愛され、帝に認められた人材はまず子鸞の幕下に配された。太子(子業)と斉しい待遇が与えられたため、子業が即位すると同産と共に賜死されて生母の墓も暴かれた。

殷貴妃  〜462 ▲
 南郡王の娘。南郡王が敗滅して後宮に納れられて殷氏を称した。 孝武帝に最も寵幸されて淑儀に立てられ、死後に宣貴妃と諡された。

劉子真  〜466
 南朝宋の始安王。字は孝貞。孝武帝の第11子。 広陵に鎮し、皇統の独占を図る兄の明帝によって、弟の邵陵王子元と共に賜死された。

劉景素  ▲
 南朝宋の建平王。文帝の孫。 明帝に賜死された始安王子真の後任として466年に南兗州刺史とされ、471年に荊州刺史に転じた。 当時、生存するほぼ唯一の文帝の孫として声望が高く、地勢を恃んでの謀叛を忌まれて472年に京口の南徐州刺史に遷されたが、以後も叛意を収めなかった。


劉惔
 沛国譙の人。字は真長。 王導に認められて明帝の娘/廬陵公主を娶り、当代の代表的な名士に数えられた。簡文帝に桓温を弾劾した事がある。

劉勰  466?〜521?
 東莞莒の人。宋の司空劉秀之の弟/劉霊真の孫。 幼時に父を亡くし、僧に就いて学んだため仏教にも通じた。 梁初に奉朝請で起家し、ついで東宮通事舎人を本官として昭明太子に厚遇され、後に歩兵校尉を加えられた。 『文心彫龍』を著し、勅で経証を撰述した後に出家して慧地と号し、間もなく歿した。

劉秀之  389〜457 ▲
 東莞莒の人。字は道宝。宋の司徒劉穆之の従兄子。454年に右僕射とされ、後に散騎常侍・使持節都督雍梁南北秦四州竟陵随二郡諸軍事・安北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に叙されたが、着任前に歿して侍中・司空を追贈された。

劉之遴  477〜548
 南陽涅陽(河南省鎮平)の人。字は思貞。父の劉虯同様に博学な古典学者として名高く、裴子野の許で張纉らとともに経学を奨励した。 湘東王長史・通直散騎常侍・都官尚書などを経て太常卿に至り、侯景の乱で殺されると湘東王(元帝)によって墓碑銘が作られた。
 『南史』によれば、学者としての声望を湘東王に妬まれ、侯景の乱を避けて帰郷する途上の夏口で毒を贈られ、墓誌銘の件は湘東王が事実の隠蔽を謀ったものとある。

劉峻  462〜521
 平原郡の人。字は孝標。劉孝標として知られる 。貧家に育ちながらも好学で“書淫”と呼ばれ、仕官後は竟陵王に属し、後に東陽紫巌山に隠棲して講学した。 任ムの遺児が冬に葛衣を着ている事から世人の酷薄を嘆じ、『広絶交論』を著して隠棲したが、主客対論形式を採って「末世の小人の交わりは小利を争うのみ」と断じた同書は、任ムに厚遇されながらも遺族の困窮を放置する到漑を主な対象としたらしく、これを読んだ到漑は「几を地に擲ち、終身之を恨む」と伝えられる。 『世説新語』への施注は、今日まで重んじられている。

劉潜  484〜550
 字は孝儀。劉冉の弟。 襄陽に出征する晋安王(簡文帝)に招かれてより近侍し、後に東宮職を歴任して537年には北使に挙げられた。 徐陵とは不和だったが、御史中丞のときに弾劾しても“弾糾して顧望するなし”と称された。 従弟の劉遵(488〜535)は晋安王に最も寵遇された。

劉湛  392〜440
 南陽涅陽の人。字は弘仁。劉柳の子。 劉裕に重用され、禅譲で弱年の彭城王が豫州刺史とされると、長史として庶政を代行した。 431年に殷景仁の薦で太子・事とされたが、後に不和となって官界で不遇となると彭城王の擁立を謀り、破れて処刑された。

劉柳  〜416 ▲
 字は叔恵。清官を歴任して左僕射に至り、死後は左光禄大夫・開府儀同三司を追贈された。 『老子』を愛読してその奥旨に達したという。

柳世隆  442〜491
 河東解の人。字は彦緒。宋の尚書令柳元景の甥。夙に才幹を絶賛され、柳元景に連坐して罷免されたものの前廃帝の死後に明帝に通誼して諸王の幕僚を歴任し、蕭道成の長史に転じて重んじられた。 沈攸之の平定など斉創建に尽力して禅譲で使持節都督南豫司二州諸軍事・平南将軍・南豫州刺史・貞陽県公とされ、武帝の下で尚書令に至った。
 自らは馬槊第一、清談第二、彈琴第三と称し、朝廷に転じた後は鼓琴と談論を専らにして世務には携わらず、甚だ世誉があった。

柳ツ  465〜517 ▲
 字は文暢。斉の尚書令柳世隆の子。竟陵王に仕え、後に蕭衍の幕僚となって長史に進み、禅譲で呉興太守とされた。 貴族的教養や技芸だけでなく医学・占術にも通じ、武帝に寵遇されて「その才芸、十人に足了す」と讃えられた。

柳仲礼
 河東解の人。弟の柳敬礼と並んで梁の勇将として夙に名高く、北魏軍撃破の報が伝わると武帝はその肖像を描かせたという。 負傷後は喪気し、台城陥落後は侯景に降って司州刺史として鄂東(漢水流域東部)を守り、550年に西魏に敗れて擒われた。

魯広達  〜589
 扶風郿の人。字は遍覧。斉の通直散騎常侍魯斐の孫。 慷慨の志があって人士を愛し、江表屈指の部曲数を誇り、侯景の乱では当陽公に属して勇略を絶賛された。 陳になって東陽太守・呉州刺史・南豫州刺史などを歴任し、周迪討伐では呉明徹の下で抜群の功を示し、都督巴州諸軍事・巴州刺史に進んで北周と対峙した。 呉明徹の北伐では淮南を攻略して北徐州に達し、以後は北徐州・北兗州・晋州・合州の都督を歴任した。
 隋の南征に臨んで中領軍とされ、一度は前鋒を撃退したものの賀若弼に敗れて擒われ、長安に徙されて憂憤から病死した。 隋の南征に徹底抗戦を主張した少数派で、「陳の良臣」と讃えられた。

魯爽  〜454
 扶風郿(陝西省眉県)の人。北魏の襄陽公魯軌の嗣子。 武芸と軍事に長けて魏太宗に認められたが、451年に弟を伴って宋に帰順し、北防では“万人敵”と讃えられた。 劉劭の大逆では南郡王の下で臧質と共闘し、翌年の王の謀叛にも与したが、泥酔して期日を早誤し、挙兵した即日に鎮圧された。

魯宗之  ▲
 405年に桓玄の敗退に乗じて襄陽を回復し、劉毅の江陵攻略を支援して雍州刺史とされた。後に荊州刺史司馬休之に挙兵を促し、休之が敗れると後秦に亡命した。
  ▼
 子の魯軌は驍勇で知られ、父と共に司馬休之の挙兵に従って劉裕の前鋒の徐逵之を大破したが、劉裕に敗れて後秦に依り、417年に後秦が滅ぼされると北魏に奔って襄陽公に封じられた。
△ 補注:南朝.2

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