唐
618〜907安史の乱を境に各地に軍閥である藩鎮が割拠して地方に対する朝廷の統制力は大きく後退し、宮中では宦官の優位を背景として官僚間の党争が絶えず、反側藩鎮に対しても方針を定める事が出来なかった。 又た朝廷は体制再建の為に両税法や塩の専売などの後世まで続く新政策を実施したが、いずれも藩鎮や官吏の搾取と相俟って民生を圧迫し、黄巣に代表される民衆的叛乱が頻発するようになった。 安史の乱後も一定の権威を保っていた朝廷は、黄巣の乱後は関中の一部のみを支配する存在となり、黄巣軍から帰順した朱全忠によって貴族勢力もろとも滅ぼされた。
高祖 565〜618〜626〜635
唐の初代天子。隴西成紀の人。諱は淵、字は叔徳。北周の唐国公李モの嗣子。柱国大将軍李虎の孫。
西涼王李ロの裔を称した。
楊堅の外甥でもあり、隋では州刺史を歴任した後に第一次高句麗遠征は督糧を司り、第二次遠征では弘化留守(甘粛省慶陽)とされて楊玄感鎮圧にも功を挙げ、617年に突厥に備えて太原留守に転じた。
煬帝の逃れた江都が孤立すると、晋陽宮副監の裴寂・晋陽令の劉文静や次子の李世民らの勧めもあって挙兵し、周辺豪族や突厥の援助を得て3ヶ月で長安を占領、代王を擁立した。
翌年(618)に煬帝が殺されると禅譲によって登極し、王世充・竇建徳らを平定して関中と中原を確保し、624年までに全国を平定したが、太子と李世民の処遇の調整に失敗し、626年の玄武門の変で軟禁されて間もなく李世民に譲位し、太上皇とされた。
裴寂 570〜629
蒲州桑泉の人。字は玄真。
晋陽宮副監の時に李世民と通じて太原留守の李淵に挙兵を促し、長安陥落で大丞相府長史・魏国公とされた。
禅譲を成功させた元勲として尚書右僕射とされ、“裴監”と呼ばれるなど甚だ厚遇され、劉武周や夏県の民乱を伐って惨敗した際にも咎められず、後に左僕射に進んだ。
太宗が即位した後、629年に仏僧の法雅の揺言に連坐して罷免・帰郷に処され、次いで奴婢の誣告で静州に徙されたが、偶々生じた山羌の乱を家僮を以て平定した事で帰朝が認められた。
劉文静 568〜619 ▲
彭城郡の人。字は肇仁。歴世で京兆武功に居した。
大業の末に晋陽令に叙されて裴寂と親交し、又た李世民とも交わって共に李淵に蜂起を促し、突厥との連和を果たして長安で大丞相府司馬・魯国公とされた。
屈突通擒獲の功もあり、禅譲で納言に直され、李世民の薛挙伐撃に従って民部尚書・陝東道行台左僕射に進み、次いで李世民に従って長春宮に鎮したが、才略に劣る裴寂のみ李淵に重用される事を不服として怨言を漏らすようになり、側妾の訴えで呪詛を理由に処刑された。
才略に長じていた点は裴寂にも認められていたが、「性復粗険、醜言悖逆」と評された。貞観3年(629)に官爵を追復された。
羅芸 〜627
襄州襄陽の人。字は子延、或いは子廷。京兆雲陽に居した。
豪胆で弓と槊に長じ、高句麗遠征では上官の武衛大将軍李景を頻りに凌侮したと伝えられる。
隋末の紛乱では涿を堅守して勇名を謳われ、やがて幽州各地を経略して幽州総管を称したが、隋臣を称して宇文化及・竇建徳らとの連和を峻拒し、招撫を機に619年に長安の李淵に帰順して燕王とされ、李姓を下賜された。
劉黒闥攻略に従って左翊衛大将軍に進み、殊に突厥に対する威名から倨傲は黙認され、後に領天節軍将として州に駐屯したが、太宗が即位すると粛清を猜疑して挙兵し、豳州(陝西省彬県)を陥したものの討伐が到る前に豳州の官民に背かれ、敗走中に殺された。
屈突通 557〜628
昌黎徒何の人。字は坦豆抜。
屈突氏は庫莫奚の支族が慕容氏に従って内遷したもので、北魏に降った後に長安に移住したという。
武略に長じ、法紀に厳獅ナ、楊玄感討伐で左驍衛大将軍に進み、614年より関内討捕大使とされて煬帝の南奔後も長安に鎮した。
唐公李淵が太原で挙兵すると河東に出鎮し、長安が陥落した後も李淵に激しく抵抗したが、劉文静に敗れて擒われると忠節を嘉されて兵部尚書・蒋国公・秦王府行軍元帥長史とされた。
以後は李世民の征旅に従い、王世充と結んだ竇建徳が南下すると李世民の兵の半ばを預けられて斉王李元吉と共に洛陽攻囲を続け、平定後に首勲として陝東道大行台右僕射とされて洛陽に鎮した。太宗の即位後に行台が廃された後は洛州都督とされ、洛陽で歿した。
裴矩 548〜627
絳州聞喜の人。字は弘大。博学で知られて楊堅に側近し、平陳の役では元帥記室として晋王に随った。
煬帝の即位後に張掖での西域諸国との互市の監事とされて西方事情に通じ、西域諸国の朝貢促進に尽力して大業3年(607)の西域27ヶ国の朝貢を成功させた。
しばしば吐谷渾遠征を進言し、又た煬帝の北巡に随って啓民可汗の帳幕で高句麗使と遭遇した際には、遼東が孤竹の故地であるとして頻りに征伐を勧めたと伝えられる。
民部侍郎・銀青光禄大夫に進んで煬帝の南奔にも随い、江都の変の後は宇文化及・竇建徳に従い、竇建徳の下で朝儀や法律・憲章を定めた事で重んじられたという。竇建徳が敗れて唐に投じ、太子左庶子・太子・事などを歴任し、玄武門の変後に諭旨に応じて宮城の兵を解き、民部尚書に転じた。
李孝恭 591〜640
河間王。高祖の族甥。
長安制圧の翌年(618)に山南道招討大使とされ、巴蜀の30余州を略定して信州総管とされ、621年に李靖を副将として蕭銑を平定し、次いで荊州大総管に転じて嶺南の49州を招降した後、李勣・李靖らを督して輔公祏を征圧した。
後に揚州大都督とされたが、謀叛を誣告されると宗正卿に直され、涼州都督・晋州刺史を歴任し、太宗が即位すると礼部尚書・河間郡王とされた。
豪奢を好んだが、寛仁謙譲で驕ることがなく、太宗にも重用されて凌煙閣廿四功臣の第2位に挙げられた。
杜順 557〜640
諱は法順。18歳で出家して因聖寺の僧珍に師事し、後に終南山で華厳を講じて道俗の教化につとめ、多くの奇跡を顕わして篤く尊崇された。隋の文帝・唐の太宗にも帰依され、朝臣にも信者を有し、後世で華厳宗の開祖とされた。
李建成 589〜626
李淵の嫡長子。李淵の挙兵の際は左領軍大都督として左軍を統督し、右軍を統督する弟の李世民と共に李淵を支え、禅譲と共に太子に立てられた。
群盗の討平や稽胡の撃退、劉黒闥の平定などの軍功もあったが、弟の李世民の偉勲から廃黜を猜忌して党争に発展し、626年に玄武門で李世民らに殺された。
諸子も連坐して殺されて属籍から除かれたが、李世民の即位後に息隠王に追封された。
「酒色を好んで倫節に欠け、傲慢で狩猟を好んだ」とある一方、「寛簡・仁厚」との評もある。
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玄武門の変 (626):秦王李世民が、実兄の太子建成、実弟の斉王元吉を襲殺した兵変。李世民は創業時の抜群の軍功によって特に天策上将の位号が贈られ、又た広壮な弘義宮が築造されるなど太子に伍す待遇が与えられ、そのため太子と、太子に与する斉王との関係が険悪となっていた。
李世民は王府の首席の房玄齢・杜如誨が更迭された後、房玄齢・杜如誨や義父の長孫無忌らと謀って玄武門で参内途上の太子・斉王を襲って殺し、2ヶ月後には軟禁した李淵から譲位された。
太子派による秦王暗殺の機先を制した事件とされ、謀首の魏徴すら赦免されて李世民の閣僚に列した事などから被害者である李世民の大度が強調されるが、政変ではなく家内問題として処理された点などから、太子らによる暗殺計画の虚実を含めて双方の主導性は疑問視される。
太宗 598〜626〜649
唐の第二代天子。諱は世民。高祖の次子。太原で李淵を挙兵させ、薛仁杲・王世充・竇建徳・劉武周・劉黒闥ら群雄の平定や突厥の撃退など軍事面で抜群の功績を挙げ、そのため特に神策上将の職が設けられ、李淵が即位すると秦王・尚書令とされたが、太子派との対立が尖鋭化して626年に玄武門の変で太子を殺し、程なく高祖から譲位された。
即位後は賦役・刑罰の軽減、奢侈の禁止、官制の整備、人材の登用などと平行して対外策を進め、貞観4年(630)に東突厥の羈縻支配化に成功して漠北の鉄勒諸部から“天可汗”と尊称され、640年には高昌王国を攻滅して西域経営も本格化させ、鉄勒・吐蕃・西突厥なども服属させて北アジア〜中央アジアにも支配力を及ぼした。
文事にも深い理解を示し、儒学・文学を奨励して弘文館を設置し、国子監を拡張するとともに『五経正義』編纂によって儒経の解釈を統一し、『晋書』をはじめとして南北朝史を編纂させ、玄奘の仏典漢訳にも様々な便宜を図らった。
又た『晋書』編纂では自ら王羲之伝を著述し、『蘭亭序』を陪葬するよう遺言するなど王羲之の書蹟を熱烈に愛好した。
宰相の房玄齢・杜如誨のほか王珪・魏徴・李靖・李勣ら“凌煙閣二十四功臣”に代表される名臣名将に輔佐され、安定したその治世は“貞観の治”と讃えられたが、晩年には宮殿拡張を好み、又た高句麗遠征の失敗と被害は全国に波及して各地に暴動が発生し、後継問題でも太子の処遇に失敗してその謀叛を招来した。
太宗個人の資質は素より、諫臣を能く用いて唐朝隆盛の基を築いた事で清朝聖祖と並んで中国最高の名君に数えられ、百官との問答である『貞観政要』は後世、帝王の必読書とされた。
房玄齢 578〜648
斉州臨淄の人。字は喬。開皇15年(595)の進士。
隋末に李世民に仕えて深謀で知られ、621年に秦王府十八学士に加えられると冠首とされ、626年に太子建成の提言で地方転出を命じられたことを機に李世民らと謀って玄武門の変を成功させた。
東漢のケ禹に譬えられて貞観4年(630)に尚書左僕射に進み、太宗の宰相として右僕射の杜如誨と並称された。
又た監修国史を兼ねて『北斉書』『梁書』『陳書』『隋書』『周書』を総監して完成させ、褚遂良とともに『晋書』を撰し、後に太子太傅に転じ、死後に太尉・幷州都督を追贈された。
杜如誨 585〜630 ▲
京兆杜陵の人。字は克明。隋末に下野したところを房玄齢の推挙で秦王府参軍とされ、決断力で知られた。
房玄齢と共に秦王府十八学士の筆頭とされ、秦王削権を謀る太子建成の提言で罷免されたが、房玄齢・長孫無忌らと謀って玄武門の変を起し、太宗が即位すると兵部尚書とされ、629年には尚書右僕射に進んだ。
左僕射の房玄齢とともに貞観の治の筆頭功臣とされ、後に蔡国公に封じられ、台閣の規模や典章文物を制定し、死後は司空を追贈された。
李靖 571〜649
京兆三原の人。字は薬師。舅の韓擒虎に養育され、夙に兵法を好んだという。
隋では長らく微官にあり、馬邑県丞のときに李淵の挙兵に遭うと江都への急報を図って執えられたものの李世民に助命され、以後は李世民に従い、蕭銑をはじめとする江南平定では李孝恭を輔けて全軍を運用し、625年に突厥が入冦すると北辺に転じて悉く撃退した。
太宗の即位で検校中書令とされて刑部尚書・兵部尚書を兼歴し、貞観3年(629)より代州道行軍総管に出鎮して突厥に対し、翌年には李勣と共に寡勢で突厥の王庭を急襲し、頡利可汗を擒えて突厥の羈縻支配を実現し、貞観9年にも吐谷渾に遠征・大破して西辺を安定させた。
李靖はあらゆる戦局に対応したが、殊に騎兵を用いた以寡制多の奇襲戦に長じ、その威名は突厥や鉄勒・吐谷渾にも畏憚され、中国最高の名将と評される事も少なくない。
常勝不敗として太宗にも絶大に信頼されたが、軍事のみならず閣僚としても信頼され、貞観18年(644)に衛国公・開府儀同三司を加えられ、死後に司徒・幷州都督を追贈された。
李靖と太宗の兵法論をまとめたとされる『李衛公問対』は兵家必携の書の1つされる。
魏徴 580〜643
魏州曲城の人。字は玄成。隋末に道士から転じて李密に随い、後に竇建徳に擒われて起居舎人とされ、竇建徳の敗滅で唐に帰順して太子洗馬とされた。
秦王粛清を強く進言しながらも、玄武門の変後に赦されて諫議大夫に抜擢され、後に左光禄大夫に鄭国公を加えられ、貞観16年(642)には特進・治門下省事のまま太子太傅に任じられた。
直言を任とし、しばしば太宗と衝突ながらも信任され、唐代諫官の代表的人物とされる。その死は太宗をして「三鑑のひとつを失った」と大いに嘆かせ、太宗によって紀功碑が建てられたが、諫言を記録していたことが発覚して碑石はいちじ破却された。
虞世南 558〜638
越州余姚の人。字は伯施。兄の虞世基とともに顧野王に師事し、陳・隋では二陸に比せられた。
後に宇文化及・竇建徳をへて李世民に仕え、清官を歴任して弘文館学士を兼ねて秘書監・永興県公に至り、638年に致仕すると銀青光禄大夫を加えられ、死後は礼部尚書を追贈された。
太宗から、徳行・忠直・博学・文辞・書翰の“五絶”と讃えられ、又た王羲之の裔である智永禅師に書を学んで楷書を能くし、唐初三大家の1人に数えられる。『北堂書鈔』の著者でもある。
欧陽詢 557〜641
潭州臨湘(湖南省長沙)の人。字は信本。欧陽紇の子。
父の死後、父の友人の江総に養育され、隋では太常博士とされ、唐の高祖に給事中に抜擢されて『芸文類聚』を編纂した。太宗の弘文館設置の際には虞世南とともに館学士とされ、627年以降は指導者とされた。
王羲之の風に倣って楷書に優れ、初唐三大家、楷書の四大家に数えられる。
容貌が猴猿に似、これが政敵によって潤色されて志怪小説『補江総白猿伝』に発展したとされる。
子の欧陽通も書に秀でて“小欧陽”とも称され、高宗・武后に仕えて司農卿まで進んだが、武承嗣立太子の動きに反対して殺された。
孔頴達 574〜648
冀州衡水の人。字は仲達。孔子32世の裔と称した。
隋の大業元年(605)に明経科に及第して大学助教まで進み、唐では国子博士・国子監祭酒・東宮侍講をへて貞観年間に右庶子・国子司業を歴任した。
当時、経学の流派が濫立して解釈が混乱していた為、勅命で諸学者とともに五経の義疏を撰して『五経正義』を編纂し、経書の解釈を統一して儒教の普遍化と拡大をもたらした。又た魏徴とともに『隋史』の編纂にも携わった。
太宗に篤く信任され、陪冢への埋葬が特に命じられた。
顔師古 581〜645
京兆万年の人。字は籀。顔之推の孫。
学識文才に富んで殊に経学に精通し、高祖の中書舎人として詔勅を起草した。太宗の即位後は中書侍郎・秘書少監とされ、五経の校訂と『五経正義』の編纂に加わり、次いで『漢書』に注を施して班固の忠臣とも称された。官は秘書監・弘文館学士に至った。
姚簡 557〜637
京兆万年の人。字は思廉。姚思廉として知られる。
陳の吏部尚書姚察の子。はじめ陳に仕え、隋では不遇だったが、長安の代王侑の侍読として最後まで君側に侍して李淵に臣礼を執らせた。
秦王十八学士に加えられ、太宗の即位後は著作郎・弘文館学士とされ、父の遺した『梁書』『陳書』を勅撰として完成させた。
秦瓊 〜638
斉州歴城の人。字は叔宝。秦叔宝として知られる。
はじめ隋の来護児に仕え、後に張須陁に属して各地を転戦し、張須陁の死後は李密・王世充をへて李世民に仕えた。
大軍を指揮することはなかったものの驍勇は尉遅恭と並称され、凌煙閣廿四功臣にも数えられて左武衛大将軍まで進んだ。
民間での人気が高く、門神として尉遅恭と対で描かれた。
尉遅恭 585〜658 ▲
朔州善陽の人。字は敬徳。尉遅敬徳として知られる。
はじめ隋に仕えて叛乱討伐で武勇を顕し、隋末に劉武周の偏将となって驍勇で知られ、620年に劉武周が敗れると李世民に仕えた。
王世充・竇建徳・劉黒闥・徐円朗らとの歴戦で武勲を累ね、玄武門の変では李元吉を射殺して李世民の急を救い、太宗が即位すると右武候大将軍・呉国公とされた。
貞観元年(627)に州より突厥を撃退したが、矜持の強さから長孫無忌・房玄齢と不和となって襄州都督に遷され、刺史・都督を歴任して貞観17年に致仕を求めると開府儀同三司に直された。
高句麗親征に反対しながらも決定すると従容と従い、帰還後は張良に倣って隠棲して神仙道を慕ったという。
王玄策
唐の官僚。貞観17年(643)に戒日王/ハルシャ=ヴァルダナへの答礼副使となって訪印し、647年には正使として再訪したが、この時、ハルシャの死後に簒奪したアルジュナに掠奪されると吐蕃のソンツェン=ガンポに支援を求め、吐蕃・ネパールの混合兵を指揮してインド兵を大破し、王統を正してアルジュナを長安に送った。
帰国後に朝散大夫とされ、658年にも正使として訪印し、帰国後に左驍衛長史とされた。
法琳 572〜640
初唐の仏僧。俗姓は陳。
621年に元道士の太史令傅奕が廃仏を進言すると、『破邪論』を上呈して廃仏のことを却下させ、杜如晦から“護法沙門”と絶賛された。
後に『弁正論』を著して道教を排撃したが、その舌鋒は同門からも忌まれ、貞観11年(637)に貞観律令と併せて道先仏後の勅が下されると、唐室と老子の関係を否定する為に李氏の祖を鮮卑の拓跋達闍である事を論証して太宗を激怒させ、蜀への流謫の途上で憤死した。法琳の著作・伝記は唐朝一代を通じて禁書とされた。
道綽 562〜645
幷州汶水の人。俗姓は衛。号は西河禅師。
14歳で出家して『涅槃経』を研究したが、曇鸞の住した玄中寺の碑に接して609年に浄土教を奉じた。
仏教を聖道と浄土の二門に分け、浄土門こそ末法に応じた唯一の教法であると説いて称名念仏を唱え、多くの道俗の帰依を受けた。
高名な弟子として善導・僧衍などを輩出し、浄土の第二祖とされる。
玄奘 602〜664
陳留の人。俗姓は陳。『経蔵』『律蔵』『論蔵』に精通した事から三蔵法師とも呼ばれる。
兄の長捷法師とともに洛陽浄土寺で経論を学んだ後、隋末の混乱を避けて長安・成都を巡って研鑽して“釈門千里駒”と称されたが、原典に依った探究を志して貞観3年(629)に禁を犯して出国した。
高昌王麹文泰や西突厥の統葉護可汗の庇護もあって3年後に入印し、総本山ナーランダ寺では瑜伽唯識論を修めて十賢の1人に数えられ、戒日王/ハルシャ=ヴァルダナに進講するなど最高待遇を得たが、各地を巡って多数の仏典を得ると天山南道を使って同19年(645)に長安に帰着した。
以後は太宗の庇護下に弘福寺・慈恩寺・玉華堂で訳経に従事し、『大般若波羅蜜多経』『瑜伽師地論』『唯識論』『倶舎論』など76部1335巻を翻訳し、忠実な逐字訳は新訳と称され、又た旅行記として『大唐西域記』を著した。
門弟の窺基・円測・普光らを介して法相宗・倶舎宗の祖とされ、日本に法相宗を伝えた入唐僧の道昭の師でもある。
道宣 596〜667
丹徒(江蘇省鎮江)の人。俗姓は銭。陳の遺臣の子で、16歳で出家し、20歳で具足戒を受けて長安で律を学び、各地を遊学したのち玄奘の訳経事業に参画し、652年の西明寺落成とともに上座とされた。
具足戒を受けた後に南山で著した『四分律行事抄』は律の研究者の必読書とされ、訳経事業の傍らで『続高僧伝』を著述し、後に著した『大唐内典録』『広弘明集』『仏道論衡』なども名著とされる。律宗の研究の多くを南山で行ない、後に南山律宗の開祖とされた。
高宗 628〜649〜683
唐の第三代天子。諱は治。太宗の第9子(長孫皇后の第3子)。
太宗の晩年、太子と魏王の両実兄が継嗣を争って失脚した為、外叔の長孫無忌の強い薦めで立てられた。
朝廷は始め長孫無忌を筆頭とする関隴閥や太宗の勲貴が主導したが、655年の武氏の立后に伴って旧臣の多くが排除・粛清され、科挙制度の改正によって大地主・商人などの新興層が次第に政界の指導層を形成した。
658年に阿史那賀魯を討平して西トルキスタンにも羈縻支配を及ぼし、668年には隋朝以来の懸案だった高句麗を滅ぼしたが、朝鮮半島の羈縻支配は新羅の抵抗によって失敗し、東方支配の要である安東都護府を遼東に後退させた。
664年頃に武后の廃黜に失敗した後は眼疾を患った事もあって武后が万機を決裁し、晩年には突厥に対する羈縻支配も破綻した。
李勣 〜669
曹州離狐(山東省単県)の人。字は懋功。本名は徐世勣。
十代で翟譲の挙兵に投じて謀首となり、619年に李密と共に唐朝に帰順すると李世民から「純臣」と讃えられて李姓を下賜され、後に太宗が即位すると避諱して李勣と称した。
秦王の軍事の中核として竇建徳・王世充を降し、貞観4年(630)には李靖と共に遠征して東突厥を討平し、貞観19年(645)の高句麗遠征に従軍した翌年には薛延陀を討平した。
英国公に封じられ、太子・事・同中書門下三品に至り、凌煙閣二四功臣にも数えられたが、太宗の末年、太子への忠勤を期待する太宗によって故意に畳州都督に降格されて高宗によって尚書左僕射に復帰し、四輔の1人として後に司空に進位した。
『永徽律令』の刪定では総刪定官として参与し、666年に始まる第三次高句麗遠征を成功させるなど名将として李靖と並称されたが、翟譲いらい太宗に至るまで才能を警戒されて全幅の信頼が得られず、そのため保身を優先する傾向があった。
武氏立后について「陛下の家事」として是認したために忠臣とは見做されないが、常に士卒と労苦を与にし、私財を擲って飢民数十万を賑恤したこともあり、多くの者がその死を嘆いた。
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孫の徐敬業は、中宗の廃黜に伴って眉州刺史から柳州司馬に左転されると揚州大都督を称して駱賓王らと挙兵したが、2ヶ月で鎮圧された。
長孫無忌 〜659
洛陽の人。字は輔機。隋の右驍衛将軍長孫晟の子。太宗の文徳皇后の兄。
関隴閥の有力氏族で拓跋氏の支族でもあり、李淵の挙兵当時から旧友の李世民に謀臣として随い、房玄齢らとともに太子の排除を勧めて玄武門の変を成功させた。
太宗が即位すると尚書右僕射に累進して斉国公に封じられ、元勲かつ外戚として寵遇され、後に趙国公に改封されて司徒に進位し、太子が廃嫡されると外甥の李治を太子とする事に成功して太子太師とされた。
高宗が即位すると宰輔として検校中書令・太尉に進み、『永徽律令格式』や『唐律疏議』の編纂にも参与したが、王皇后廃黜と武昭儀の立后に褚遂良とともに強く反対した為、武后が立てられた後の659年に許敬宗らの讒言で罷免され、黔州に流されて自殺を命じられた。
褚遂良 596〜658
杭州銭塘の人。字は登善。
始め薛挙に従い、その敗滅で唐に降って秦王府の鎧曹参軍とされた。
書名が高く、貞観12年(638)に魏徴の推挙もあって起居郎のまま虞世南の後継として侍書を兼ね、太宗に信任されて同15年に諫議大夫に進み、同17年(643)年の立太子問題では晋王を支持して太子の傅役に連なった。
高宗が即位すると中書令から尚書右僕射・同中書門下三品に進み、長孫無忌・李勣・于志寧とともに宰輔に列したが、廃后問題では高宗を極諫した事から許敬宗らに讒誣され、太宗の遺詔で死刑を免じられていた為に愛州刺史(タインホア)に転配されて病死した。
書家としては夙に父の友人の欧陽詢に絶賛されて初唐三大家の1人に数えられ、侍書の時の王羲之の書蹟蒐集の際には鑑別にあたって過誤がなかったという。
欧陽詢の雄渾、虞世南の安定を融合させた新風(褚法)を興して楷書の第一人者とされたが、追随者によって形骸化した。
李義府 614〜666
瀛州饒陽(河北省)の人。寒門の出で文章を能くし、太宗に認められて監察御史・太子舎人・中書舎人などを歴任し、弘文館学士として『晋書』編纂にも加わった。
高宗のとき武昭儀の腹心として武氏立后を推進し、その後は長孫無忌・褚遂良ら宿臣や反対派を排除して勢力確立に奔走し、武氏とも結んで中書侍郎・同中書門下三品に至り、後に吏部尚書を兼務した。
保身と追従に巧みで性陰険と評され、収賄・売官が公然と行なわれたが、663年に糾弾されて崔州に配流された。
許敬宗 592〜672 ▲
杭州新城の人。字は延族。大業年間に秀才に挙げられて文才を知られ、江都の変で李密に投じ、次いで唐に降って李世民に招聘され、秦王府十八学士にも数えられた。
太宗の下で著作郎・給事中・太子右庶子などを歴任し、高宗が即位すると中書令に進み、李義府と結んで武后擁立や反対派の排斥を進めて同中書門下三品に昇った。
権勢欲が強く、修国史に就いた際に『高祖実録』『太宗実録』を贈賄や怨讐・縁故によって改竄したとも伝えられる。
蘇烈 592〜667
冀州武邑の人。字は定方。蘇定方として知られる。
隋末に逸早く自衛団を組織した父に従って軍功を挙げ、父の死後は軍を継いで竇建徳に帰順し、劉黒闥が敗れると帰郷したが、630年の突厥遠征では李靖の先鋒となって頡利可汗を大破した。
阿史那賀魯を討平して左驍衛大将軍・邢国公とされ、翌年(659)に西突厥の離叛を鎮圧して左武衛大将軍に進み、660年には熊津道大総管として百済を平定した。
翌年の第二次高句麗遠征では平壌を包囲しながらも悪天候で失敗したが、以後も涼州で吐蕃・吐谷渾と攻伐し、死後に左驍衛大将軍・幽州都督を追贈された。
薛礼 614〜683
絳州龍門の人。字は仁貴。薛仁貴として知られる。
太宗の第一次高句麗遠征の徴募に応じ、安市城攻略では白衣の盛装で奮闘したことで「遼東を得しに勝る」と太宗に喜ばれ、帰国後に右領軍中郎将に任じられた。
660年に離叛した契丹を討って松漠都督阿卜固を擒えて左武衛将軍とされ、661年に鉄勒道行軍副総管として九姓鉄勒を討ち、翌年に天山で3矢で3将を射殺して鉄勒を服従させ、「三箭で天山を定む」と讃えられたが、この時に降兵を悉く坑殺している。
第三次高句麗遠征では扶餘城方面を略定して初代の安東都護に就き、670年には吐谷渾復興を名とした吐蕃遠征に行軍大総管として従ったものの大敗して庶人に貶された。
新羅との攻伐では鶏林道総管とされたものの事に連坐していちじ象州に流され、681年に瓜州長史・検校代州都督とされ、翌年には雲州で暾欲谷を撃退し、死後に左驍衛大将軍・幽州都督を追贈された。
裴行倹 619〜682
絳州聞喜の人。字は守約。
科挙の名経科に及第して657年に長安令とされ、武后冊立に反対して西州都督府長史に更迭されたが、蘇烈に兵略を認められ、西域での累功で665年には安西大都護に昇った。麾下に多くの異民族を収め、『孫子』に学んで攻伐より招撫を重んじて高宗に激賞された。
669年に吏部侍郎とされた後もしばしば軍事に起用され、676年にはササン朝から亡命していたフィーローズ皇子の護送を名として西突厥を討破して吐蕃を威圧し、679年に帰国すると礼部尚書・検校右衛大将軍とされた。
680年には東突厥を討って24州を回復し、682年にも西突厥に遠征して砕葉に達し、常勝不敗のまま辺境の確保に大きく貢献したが、帰途に病死した。
草書にも巧みで、褚遂良・虞世南と並称されたが、手蹟や著作は現存しない。
裴炎 〜684
絳州聞喜の人。字は子隆。
好学で夙に『左伝』に通暁し、明経科に及第すると高宗に信任されて680年には同中書門下三品を加えられ、翌年に侍中に進んだ。
高宗の巡幸の際には長安で太子を輔ける事が多く、中宗が即位すると中書令に転じ、執権を図る韋氏と対立すると武后に通じて睿宗の擁立に成功したが、やがて簒奪を準備する武后と対立し、徐敬業の挙兵に際して武后に還政を勧めた事で謀叛に枉陥され、処刑されたとも自殺したとも伝えられる。
閻立本 〜673
京兆万年の人。隋の画工/閻毗の子で、兄の閻立徳とともに宮廷装飾や建築の家業を継いだ。
656年に兄が歿すると工部尚書を継ぎ、668年に博陵県公とされ、670年には中書令に至った。
特に南朝風の観戒画に秀で、秦王府十八学士図や功臣二十四人図などの肖像画や朝貢図などを描いたが、太宗に召された際に侍臣から“画師”と呼ばれたことを慙じ、子弟には末技の修得を戒めた。
尉遅乙僧
于闐の人。本国の兄の甲僧に対して乙僧と称した。
凹凸画とも称される西域風の画風を能くし、隋代の画家だった父/尉遅跋賀那とは大尉遅・小尉遅と並称され、太宗に仕えて宿衛官とされ、後に郡公に封じられた。
その画は「用筆緊勁にして、鉄を屈し糸をわだかませる如し」と評され、西域画独特の陰影法による立体表現と相俟って絶賛された。
善導 613〜681
臨淄、あるいは泗州(安徽省)の人。本姓は朱。光明大師・終南大師と号した。
浄土絵図に接してより『観無量寿経』を学び、貞観15年(641)より幷州玄中寺の道綽に師事し、その死後は終南山悟真寺や長安の光明寺などに住持し、平易な“称名念仏”を唱えて多くの信者を得た。
曇鸞・道綽の念仏思想を継承し、浄土教の大成者として浄土宗の第三祖とされ、日本の法然・親鸞にも多大な影響を与えて浄土真宗では第五祖とされる。
窺基 632〜682
京兆長安の人。俗姓は尉遅。慈恩大師とも。648年に出家し、慈恩寺に住して梵語に熟達し、玄奘門下の俊足と称されて訳経事業を扶け、死後は玄奘塔に陪葬された。
著作の『法苑義林章』『成唯識論述記』から法相宗の宗義が形成された為、法相宗の開祖とされる。
王勃 647〜675
絳州龍門(山西省河津)の人。字は子安。
夙に神童と称されて20歳頃に進士に及第し、沛王李賢の侍読として寵遇されたが、倣岸不遜を高宗に忌まれて剣南に遷され、後に虢州(河南省霊宝)でひとたび罪人を匿いながらも発覚を懼れて殺し、これが露見して罷免された。大赦で釈放された後、連坐して交州に流された父を訪ねる途上の南海で溺死した。
詩文に長じて特に南朝風の即興詩を得意とし、楊烱・盧照鄰・駱賓王とともに初唐四傑に数えられる。
駱賓王 640〜684 ▲
婺州義烏(浙江省)の人。性は驕剛かつ奔放で遊侠との交際を好み、又た地方の小官を歴任しながらもしばしば武后に諫言を上書し、中宗の退位に伴い臨海丞(浙江)に遷されると致仕して徐敬業の幕僚となった。
徐敬業の挙兵の際に草した檄文は武后をすら賛嘆させ、「賢才を用いざるは宰相の罪なり」と文才を惜しまれた。
平定後の消息は不明で、隠遁説もある。詩にも長じて初唐四傑に数えられ、殊に五言律詩を得意とし、数字を用いた対句を好んだ事で“算博士”とも呼ばれた。
盧照鄰 638〜689
幽州范陽の人。字は昇之。
華麗な詩によって名声が高く、高宗の時にケ王に仕えて寵遇されたが、病のために致仕して太白山に篭り、片手両足が不具となって仕官を断念した。
以後、潁水の畔に起居して幽憂子と号し、自らの墓を作って寝所とし、身体の不自由を悲観して潁水に入水自殺した。初唐四傑の1人。
楊烱 650〜692
弘農華陰の人。夙に詩文の才で知られ、11歳で神童に挙げられて校書郎を拝し、681年に崇文館学士まで進んだが、徐敬業への内通を疑われて梓州司法参軍に遷され、さらに雲南の盈川令に遷されて歿した。傲慢苛烈で、意に沿わぬ相手の殺害も辞さず、盈川では厳政を以て怨嗟された。
文辞典麗で、特に五言律詩に秀で、初唐四傑に数えられる。
武則天 623〜690〜705/705
高宗の皇后にして中国唯一の女帝。則天武后とも。幷州文水の人。姓は武、諱は照。李淵の挙兵に参加して荊州都督に進んだ武士彠の娘で、太宗の才人とされた事で太宗の死後に坤道(道士)となったが、夙に晋王と通意していたために高宗に召されて還俗した。
王皇后と蕭淑妃の反目を利用して皇后を讒陥し、許敬宗・李義府らとも結んで655年に皇后とされた。
以後は長孫無忌ら貴族閣僚の排斥と科挙官僚の任用によって執政部の刷新を進め、660年には皇帝を天皇、皇后を天后と改称して両者の対等化を宣し、664年以降は病身の高宗に代わって万機を親裁して高句麗の攻滅を実現した。
高宗の死後は実子の中宗・睿宗を相次いで廃立し、徐敬業・越王貞ら勲貴・宗室の叛乱もいずれも大衆の支持を得られず短期間で鎮圧され、690年に登極して国号を周と改めた。
権勢を維持する為に太平公主・武三思ら親族や来俊臣などの酷吏を任用して密告を奨励し、時には実子をも弾圧する一種の恐怖政治を併用したが、門地主義を排した適材適所の人事は政情の安定をもたらし、登用された科挙官僚の多くは玄宗の開元の盛時を実現した。
又た当時は府兵制や均田制を柱とした律令体制の破綻が顕在化しつつあったが、東突厥の再興に直面しても大規模な軍事を控えた事で農民の叛乱も殆ど起らなかった。
現実主義者だった反面で文字を媒介した神秘主義を信奉していたらしく、往古の周の官制を復古しただけでなく、十数字の則天文字(圀・曌など)の新造や地名の改変、頻繁な改元などを行ない、又た民間の弥勒信仰を利用して弥勒の下生を自称した。
晩年には側寵の張易之・昌宗兄弟の横恣が甚だしく、又た武氏の世襲を進めた為に李氏復興の機運が昂まり、まず狄仁傑の進言で中宗が太子とされ、705年に病床で宰相の張柬之らに迫られて中宗に譲位した。
同年に上陽宮で歿すると皇后として高宗の乾陵に合葬され、後に玄宗から則天順聖皇后の諡号が追贈された。
女性の抬頭を否定する儒教社会では希代の悪女と見做されたが、それでも人材登用や育成については司馬光・李摯などから高く評された。
李賢 654〜684
章懐太子。高宗と武后の子。
実兄の李弘が頓死した為に替って太子とされ、文藻と学才から将来を嘱望されたが、武后が実母を殺したとの噂を病んで素行が悪化し、英王哲を太子に推す者が殺された事件で廃黜されて巴州に流され、武后の承制後に自殺させられた。
復辟した中宗によって改めて高宗の乾陵に陪葬され、睿宗より章懐太子と諡号された。学問に造詣が深く、676年には『後漢書』注を完成させ、又た1971年に発掘されたその墓室からは壁画をはじめとする貴重な文物が多数出土した。
武三思 〜707
則天武后の異母兄/武元慶の子。武后に信任されて執政後に夏官尚書とされ、簒奪で梁王に封じられて天官尚書・春官尚書などを歴任し、張易之兄弟とも結んで大権があった。
一時は従父兄の武承嗣と太子を争ったものの狄仁傑の諫言で実現せず、中宗の復辟と共に罷免されたが、子の武崇訓が安楽公主(中宗の娘)の夫である事や、中宗の寵妃の上官婉児・韋皇后と密通したことで復権した。
太子の廃黜を謀ったが、挙兵した太子に一族数十人と共に殺された。
狄仁傑 630〜700
幷州太原の人。字は懐英。夙に声望が高く、明経科に及第したのち大理丞・侍御史を歴任して平理を讃えられ、寧州刺史・江南道巡撫大使・豫州刺史などの地方官としても治績が高く、691年に武后に徴還されて地官侍郎・同平章事とされた。
翌年には来俊臣の誣告で彭沢令に左遷されたが、696年に契丹が冀州を侵すと魏州刺史に直され、これよりしばしば北面を担当し、698年には突厥を撃退して河北道按撫大使とされた。この間に鸞台侍郎・同平章事に進み、武后を諫めて武氏からの立太子を断念させ、廬陵王(中宗)が太子とされた。
700年には内史(中書令)に進み、社稷の臣・直諫の士として武后に最も信頼されて「国老」と尊称され、その死は武后を大いに歎かせた。又た張柬之・姚崇に代表されるその推挙・養成した人材の多くは要官に就いて李氏復権や開元の盛時を実現した。
蘇味道 648〜705
趙州欒城の人。早くから文才を知られ、武后に認められて694年に宰相に列したが、保身のために明確な政策は持たず、「宰相は決断せず模稜していればいい」と発言したために“模稜宰相”と嘲笑された。
一族の墓陵造営のために民間の墓を破毀した事もあり、中宗復辟とともに眉州刺史に遷され、益州長史に遷る途中で歿した。
張易之 〜705
定州義豊(河北省安国)の人。
697年に弟の張昌宗とともに入宮し、共に容色で武后に寵遇されて易之は麟台監(中書監)・恒国公に、昌宗は春台侍郎(礼部侍郎)・鄴国公に累進し、中宗の子の李重潤やその妹婿の武延基を讒言で殺すなど、その権勢は武三思らを凌いだ。
武后病臥のおりに張柬之らによって誅殺された。
陳子昂 661〜702
梓州射洪(四川省)の人。字は伯玉。富家の出で遊侠を好んだが、後に学問を修めて681年に進士科に及第した。
武后に登用されて右拾遺(從八品上)に進んだものの、直言が忌避されて致仕帰郷した後、家産の横領を図る県令の段簡に誣告されて獄死した。
沈佺期らに代表される南朝の宮体文学を否定して漢魏の古文体への回帰を主張・実践し、盛唐詩の基礎を準備した。
劉知幾 661〜721
徐州彭城の人。字は子玄。漢宣帝の子/楚孝王の裔を称した。国史編纂に関わっていた伯父の影響もあって、進士科に及第した後は修史の官に就いて古典・史書を研究し、独自の史論を展開する『史通』を著述した。
後に左散騎常侍に至ったが、長子に連坐して安州別駕に貶され、死後に玄宗によって『史通』が絶賛されて工部尚書が追贈された。
神秀 605〜706
陳留尉氏の人。俗姓は李。13歳で出家し、655年頃に禅宗五祖の弘忍に師事し、門下の秀逸と評された。
56歳で独立した後は荊州に住し、禅宗の六祖として尊崇を集め、700年に則天武后の招請で入京して武后・中宗・睿宗に国師とされ、長安・洛陽を中心に貴族層を教化して「両京の法主」とも称された。
その“漸悟”思想に対して同門の慧能が“頓悟”を唱え、禅宗は両者の死後に南北に分派して神秀の派は“北宗”と呼ばれた。北宗は南宗とともに天下に敷衍したが、後に南宗に圧倒された。
慧能 638〜713 ▲
范陽の人。俗姓は盧。父の流謫先の新州(広東省新興)で生まれ、貧苦の後に24歳頃に出家して蘄州黄梅の弘忍に寺男として師事した。やがて認められて具足戒を受け、曹溪宝林寺(広東省曲江)を中心に布教して武則天の招請にも応じなかった。
『金剛経』を重視し、実践主義的な頓悟禅を主唱して禅宗に新方向を与え、漸悟を唱えた同門の神秀に対して“南宗禅の祖”とも称される。
南宗は江南の士大夫層に支持されて軈て北宗を圧倒し、臨済宗・曹洞宗をはじめとする五家七宗が派生し、そのため神秀ではなく慧能を禅宗第六祖に数える事も多い。
義浄 635〜713
済州の人。俗姓は張。7歳で出家し、インド取経を志して671年に広東から出帆し、25年間インドに滞在して各地の仏蹟を訪れ、仏教とインド学を研究した。
400部の経典と伴に695年に帰国すると洛陽の上東門外で武后直々に迎えられ、洛陽の福先寺や長安の西明寺などで律学を中心に訳経に従事し、又た帰途に著した『南海寄帰内法伝』『大唐西域求法高僧伝』は、当時のインド・東南アジアの情勢を知る一級資料とされる。
法蔵 643〜712
長安の人。俗姓は康。在俗のまま華厳経を学んで精通し、武后の太原寺建立に際して勅命で出家して同寺に入り、華厳経を講じて“賢首大師”と尊称された。『華厳経』80巻の新訳事業に参加し、又た同教の闕文を補うなど華厳経の大成と弘布に尽力し、華厳宗の第三祖とされる。
中宗 656〜683〜684/705〜710
唐の第四代天子。諱は顕。高宗の第7子。生母は則天武后。
実兄の李賢が廃された為に太子とされ、諱を哲から改めた。即位の翌年、類縁のみで韋后の実父を抜擢した事で宰相の裴炎と衝突し、韋氏への譲位をほのめかした為に54日で廃され、廬陵王に貶されて房州(湖北)に幽閉された。
狄仁傑らの尽力で699年に武后の太子とされ、705年に武后が廃されて復辟したが、韋后や安楽公主の容喙・専横を容認し、簒奪を謀る安楽公主に毒殺された。
韋后 〜710
中宗の皇后。京兆万年の人。配流先で中宗を慰撫激励し続けたために復辟後は国政への参与を容認され、又た武三思らと結んで売官などで朝廷を掌握し、第二の武后と称された。
710年に中宗を暗殺し、擁立した温王重茂からの譲位を謀ったが、太平公主や臨淄郡王隆基の兵変で殺されて中宗の弟の睿宗が擁立された。
安楽公主 〜710 ▲
中宗・韋后の娘。中宗の復辟後、武三思の次子/武崇訓に降嫁し、武崇訓の死後はその従祖弟の武延秀に嫁した。権謀を以て韋后を扶け、中宗の暗殺や温王の擁立などを主導し、臨淄郡王の兵変で長安東市に棄市された。
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武后の執政〜韋后誅滅の期間は、女性の政治的優位を拒絶する儒教的観点から“武韋の禍”とも称された。
その影響は韋氏が粛清された後も712年に太平公主が粛清されるまで続き、武氏・韋氏の勢力は大きく後退したものの、殊に武氏は李氏との縁戚が強く、玄宗の盛時にあっても武恵妃が後宮に隠然たる勢力を保った。
沈佺期 655〜714?
相州内黄(河南省)の人。字は雲卿。宋之問と同年に19歳で進士科に及第して給事中に進み、704年に収賄を弾劾されると張易之に通款して復帰したが、そのため翌年に中宗が復辟すると驩州に流された。
706年に恩赦に遭って帰京し、起居郎・修文館直学士から中書舎人まで進んだ。
品性下劣と評されながらも宋之問と並んで詩名が高く、六朝以来の詩律の成熟に大いに寄与し、共に律詩形式の完成者と評される。
宋之問 652〜712 ▲
虢州弘農、或いは汾州の人。字は延清。
進士科に及第して武后に認められ、張易之と結んでいたために中宗が復辟すると瀧州(広東省羅定)に流されたが、洛陽に潜行して張仲之に庇護され、仲之による武三思謀殺を密告して赦免・登用された。
太平公主に与して考功員外郎に修文館学士を兼ね、横暴・驕慢として709年に越州長史に遷されたが、以後も素行を修めず欽州・桂州に流され、「獪険盈悪」として玄宗に自殺を命じられた。
娘婿の劉希夷に、詩(代悲白頭翁)の「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」の句の譲渡を求めて拒まれ、人を遣って土嚢で圧殺させるなど品性陋劣だったが、越州では能吏と称されたという。五言詩に長じ、放逐後も詩作の毎に長安で流行し、沈佺期と共に初唐の律詩の完成者とされる。
郭震 656〜713
魏州貴郷の人。字は元振。18歳で進士科に及第して武后に認められ、しばしば吐蕃・西突厥を撃退して名将と謳われ、711年に同中書門下三品・吏部尚書に進んで翌年には朔方大総管とされた。
玄宗の即位後、閲兵時の兵装不備を理由に新州(広東省新興)に流され、翌年に饒州司馬に転赴する途上で歿した。
睿宗 662〜684〜690/710〜712〜716
唐の第五代天子。諱は旦。高宗の第8子。中宗の実弟。
684年に廃された中宗に替って立てられたが、一切の実権が認められず690年に実母の武后に譲位し、武姓を下賜されて太子とされた。
705年に中宗が復辟すると相王に封じられ、中宗が暗殺されると妹の太平公主や王子の李隆基による韋氏粛清が成功して復辟したが、公主と太子(隆基)の政争の激化を忌避して712年に太子に譲位した。
太平公主 〜712
高宗と武后の子、中宗・睿宗の妹。薛紹、次いで武承嗣、武攸曁に嫁した。
権謀に富み、武后に寵愛されてその垂簾を輔けたが、張易之兄弟の粛清にも参与して中宗の朝廷でも重んじられ、中宗が暗殺されると甥の臨淄郡王(玄宗)を扶けて韋氏の誅滅と睿宗の即位にも大いに貢献した。
そのため太子(玄宗)を凌ぐ権勢を有し、宰相の姚崇・張説らを排斥するなど太子との衝突が危惧され、事態の鎮静化を図る睿宗が玄宗に譲位したものの玄宗の廃黜を謀り、翌年に玄宗自ら指揮する兵変で誅戮された。