▽ 補注:西方アジア

ペルシア  アラブ  イラン  トルクメン  トハーリスタン  インド

 

メソポタミア

 ティグリス川・ユーフラテス川流域一帯の沖積平野の古称。ギリシア語で「複数の川の間」を意味する。 北半のアッシリア地方と南半のバビロニア地方に大別され、バビロニア地方は北部がアッカド、南部がシュメールと呼ばれた。 B4000年紀にシュメール地方に都市文明が発生し、河川沿いに北上して世界最古級の大文明圏を形成した。数多の民族が去来・興亡して“民族の坩堝”とも称され、アカイメネス朝の下でも文化が保持されたが、アレクサンドロス大王の征服で断絶した。

ヒッタイト
 B3000年紀末頃にアナトリアに現れ、B2000年紀初頭には支配種族となったインド=アーリア系種族。 B17世紀に東部のハットゥシャを中心に王国を形成し、バビロニアに侵攻する実力を具えていた。この旧王国はまもなく小勢力に分解したが、B15世紀半頃に新王国が成立し、B1330年頃には頃にミタンニを大破してアナトリアを再統一し、シリアをも征服してヒッタイト帝国を建設した。 B1285年頃にカデシュでラメセスII世のエジプト軍を撃退してシリアの支配を保ったが、アッシリアの抬頭と内訌によって凋落し、B12世紀初頭に“海の民”に滅ぼされた。 ヒッタイトの強盛は滲炭鋼技術の独占と馬を用いた戦車戦術に負うところが大きく、ヒッタイトの崩壊によって製鉄技術は西アジア世界に普及した。

ミタンニ王国
 ユーフラテス川中流域を中心に繁栄した、フルリ人系ミタンニ族の王国。 戦車戦術によってB16世紀にはオリエント最強と謳われ、エジプトと提携してヒッタイトに対抗した。 B15世紀にはアッシリアも支配下に置いてバビロニア・エジプトと並ぶ強国として知られたが、B14世紀には再興したヒッタイト帝国の属国となっただけでなくアッシリアにも独立され、B1270年頃にアッシリアに滅ぼされた。

ウラルトゥ
 B13世紀頃からヴァン湖周辺に存在したフルリ系の種族が、B9世紀半頃にトゥシュパ(ヴァン市)に拠って一帯の諸部族を統合した王国。ウラルトゥはアッシリアによる他称で、ビアイニリを自称し、『旧約聖書』ではアララト王国とある。 B9世紀末〜B8世紀前半の盛時にはザカフカス一帯からシリア北部にまで拡大したが、アッシリアの攻勢とキンメリ人の侵攻で衰退してB714年にはアッシリアに大破され、B585年頃にスキタイ族メディアによって滅ぼされた。

アッカド
 メソポタミア中部の地域と、ティグリス河畔のアガデを中心に同地に興ったセム系種族の国家。 南東にシュメール、北西にアッシリアと接し、B24世紀頃のサルゴンI世の時代にシュメール地方を征服し、盛時にはエラム(イラン西南部)やレバノンを支配する大帝国に発展してアナトリアにも進出した。 シュメール文化を吸収してサルゴンI世の時代より楔形文字による記録が残され、軍事的成功は騎兵戦力に負うところが大きかったと伝えられる。
 アッカド王は「世界の王」を称し、アッカド語が用いられたアッカド帝国の基幹部は後にバビロニアと呼ばれ、後世ではバビロニア王はしばしば「世界の王」「シュメールとアッカドの王」を称した。 グティ人・アムル人・フルリ人などの周辺諸種族の活発化と諸都市の離叛でB22世紀頃に解体した。

アッシリア
 メソポタミア北半の洪積台地と、同地に存在したセム系種族の王国。同地は天水農耕が可能で、又たアルメニアやアナトリア・シリアとメソポタミアを結ぶ要路に当たっていた為、古来から諸民族の係争地となった。 B3000年紀にセム系のアッシリア人がティグリス河畔に諸都市を建設してより通商によって発展し、アッカドやミタンニに征服されながらもアッシュルを中心とした政体を保ち、B14世紀にミタンニ王国の没落に乗じて独立した。 やがてミタンニ王国を滅ぼしてシリア・バビロニアなどにも遠征したが、ヒッタイト・エジプトとの抗争や周辺諸族の活性化で凋落した。
 B8世紀後期に再び抬頭して短期間でバビロニア・シリアを征服してイスラエル王国を属国とし、サルゴンII世・エサルハッドンの盛時にはエジプトをも属州とし、ニネヴェを首都に大帝国に発展した。 ヒッタイトから導入した鋳鉄技術がその拡大の原動力とされたが、属州とした征服地には総督や徴税官を派遣する一方で諸文化を尊重し、通商路の整備確保やアラム商人の保護など通商(通関税)を重視した統治様式は共にカルデア王国アカイメネス朝にも踏襲された。 被征服民の集団徙民や厳罰主義などの強圧政治が却って叛乱と有力都市の離叛を続発させ、B612年にメディア・カルデア王国の連合軍によって首都ニネヴェが破壊され、B606年のアッシュル陥落で完全に滅ぼされた。

サルゴンII世  〜B721〜B705 ▲
 アッシリア王。アッシリアを再興したティグラト=ピレセルIII世(在:B744〜27)の庶子とも、アッシュルの下級貴族の出身ともいわれ、簒奪者としてサルゴン王朝の創始者とも称される事がある。 即位直後に離叛したシリア諸国を征服してイスラエル王国を滅ぼし、B714年にウラルトゥ王国を属国化し、B709年にはバビロニアの再征服にも成功した。新都ドゥル=シャルキンを造営したが、治世の殆どを征戦に費やし、キンメリ人に侵入されたアナトリアへの征途で歿した。

リュディア
 サルディスを国都としたアナトリア西部の古代王国。 領内に金を産し、東のフリュギアと西のギリシア世界との交易を仲介して強盛となった。 しばしばキンメリ人に侵されてアッシリアの属国となっていたが、B7世紀後半にアッシリアの衰退によって飛躍的に発展し、アッシリアが滅んだ後は四大王国としてメディアカルデア・エジプトと並称され、世界で最初に鋳造貨幣(エレクトロン貨幣)を発行した。 B6世紀前期には西岸のギリシア植民都市を征服する一方でイランのメディア王国と抗争し、B585.05.28の日蝕でハリュス川を国境として和したが、メディアがアカイメネス朝に滅ぼされるとカッパドキアに侵攻してB547年に国都サルディスを陥された。

カルデア王国  B625〜B538
 新バビロニアとも。セム系アラム人の一派のカルデア人のナボポラッサルが、アッシリア帝国の末期にバビロンに拠って独立し、メディアと結んでアッシリアを滅ぼした。 嗣子のネブカドネザルII世の代(B604〜B562)にはリュディアメディア・エジプトと並立して四大王国中最も富強で、首都バビロンは商工業・芸術・科学の中心として繁栄を続けたが、メディアに次いでアカイメネス朝に滅ぼされ、西アジアの中心もメソポタミアから離れた。 ネブカドネザルII世はバベルの塔と俗称されるジグラトの完成や空中庭園でも知られ、エジプトに内通して叛いたユダヤ人を強制徙民した“バビロン幽囚”によって、キリスト教典では悪徳の象徴と記されている。

 
 

ペルシア

 イランに対する旧称・他称。本義的には現在のファールス地方の古名で、アカイメネス朝が興って西アジア世界を支配する大帝国を築いた為にイラン世界と同義的に用いられるようになった。1935年にアーリアに因んでイランが公称の国名として定められた。

ザカフカス
 正しくはザカフカジエ。ロシア語での「カフカスの向う側」の意で、ラテン語ではトランス=コーカシアとなり、概ね南カフカスのアゼルバイジャン・アルメニア・グルジア共和国を包括する地域を指すが、時に北カフカスを指す場合もある。 地勢的にはアジア圏に属するが、長らくソ連領だった事から歴史学的地理学では西アジアに含めない事が多い。一部地域を除けば概ね山岳地帯で、主要3民族のほか多くの少数民族が混在し、それぞれ自立性の高い集団を維持して文化面での共通点も少なく、しばしば紛争を起している。

アゼルバイジャン  ▲
 カフカス山脈の南麓、カスピ海の西南岸の地方、クラ川下流域一帯を指し、バクーを首都とするアゼルバイジャン共和国とタブリーズを中心とするイランの3州に分割されている。 東西交易路と南北交易路の交差点にあたり、又た遊牧にも好適な環境の為に古来から地方政権的小王朝が興亡し、ローマ帝国とペルシア王朝・イスラム王朝、キプチャク=ハン国とイル=ハン汗国の係争地でもあった。 トルクメン族の進出とモンゴルの征服によってトルコ=イスラム化が進み、16世紀にはサファヴィ朝の勢力下にあったが、19世紀にロシアに征服された際にアラクス川を境に分割された。

アルメニア  ▲
 カスピ海の西、ウルミエ・ヴァン・セヴァンの3湖を中心とする高原地帯。現在はアルメニア共和国・トルコ・イランに分割されている。アルメニア人は印欧語族に属し、38文字からなる固有のアルファベットを有する。 国際交易の要衝に位置してアカイメネス朝の時には既に有力な1州に数えられ、セレウコス朝の崩壊によってB2世紀初頭より1世紀以上独立していた。 B66年にローマ帝国に征服された後もペルシア勢力と宗主権が争われ、アラブ=イスラムが衰えた後はトルコ族やモンゴル族が進出し、16世紀以降はオスマン朝サファヴィ朝が支配を争って1636年に分割支配された。 1828年にベルシア領アルメニアがロシア領に編入され、オスマン領では開明化と不羈の気風が醸成されてオスマン帝国から弾圧され、多くのアルメニア人が故国から脱出した。
 アルメニア人は同族意識と固有の伝統を重んじ、商業民として進出した各地でも紐帯を保ち、殊にアメリカのアルメニア人ロビーは強い発言力を有している。 キリスト教を信奉し、アルメニア教会は東方教会の有力な一派となっている。

メディア
 イラン人と親近関係にあったメディア人がイラン北西部に建てた王国。 アルメニア地方のウルミエ湖付近に定住し、B8世紀前期に統合されてエクバタナ(ハマダーン)に国都を営んだとされる。 程なくアッシリアのサルゴンII世に大破され、B7世紀半頃にペルシア地方をも支配したが、再びアッシリアのアッシュル=バニパルに敗れ、その後はスキタイ人によって28年間支配されたという。 スキタイからの独立を果たしたキュアクサレスII世の時(B625〜B584)にカルデア王国と結んでアッシリア帝国を滅ぼし、バクトリアに達する大王国を建設してカルデア・リュディア・エジプトと勢力を競ったが、B550年に独立したアンシャン王国(アカイメネス朝)に滅ぼされた。アカイメネス朝の地方統制の柱とされるサトラップ制は、メディア王国で原型が形成されていたと推定されている。

アカイメネス朝  B550〜B330
 アケメネス朝とも。メディア王国の治下にイラン南西部のパールス地方に興り、アンシャン王(旧エラム領)を称したキュロスII世がB550年にメディア王国を滅ぼして興した王朝。 イラン高原を支配したのちB538年までにアナトリアのリュディア王国、バビロニアのカルデア王国征服して西アジア世界を統一し、嗣子のカンビュセスの時代(B529〜B522)にはエジプトをも征服したが、間もなく各地で叛乱が頻発して政治的大混乱に陥った。 事態を収拾して新王朝を創始したダレイオスI世の時代(B522〜B486)にスキタイ族の駆逐や統治体制の整備などで最盛期を迎え、西北インドやバクトリア・トランス=オクシアナをも支配した。
 アカイメネス朝は多くの異民族を内包し、全国を23サトラプ(州)に分けて総督が統治したが、各州に貢納と軍役を課した他は習俗や言語などには殆ど干渉せず、監察官の派遣によって中央集権の実を挙げた。 統一貨幣の鋳造や軍用公路の整備なども中央集権化に大きく寄与し、国都のスサからアナトリアのサルディスに至る“王の道”と、この幹線から全国に展開された道路網には駅逓制度が完備されていた。 又た海上交通も発達し、フェニキア人を主体とするペルシア商船とギリシア人による地中海の制海権争いは、2度に亘るギリシア遠征を招来した。
 ギリシア遠征には両度(B492・B480)とも失敗したものの帝国本土の大勢には大きな影響はなく、対ギリシア政策は内訌の助長と植民地経営に転じた。 B5世紀末頃より内訌で弱体化して辺境総督の自立化が進み、アナトリア西岸のギリシア人の独立運動に介入したマケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされた。

セレウコス朝  B305〜B130
 アレクサンドロス大王の死後、バビロニア総督のセレウコスがシリアに拠って西アジア領の殆どを支配した王朝。 初期にはアナトリア〜バクトリアに及ぶ大領域を有したが、マケドニア王国・エジプト王国との抗争が絶えず、B3世紀半頃にバクトリアパルティアが相次いで独立して東方領を失い、アナトリアはローマ帝国に奪われた。 イスラエルのユダヤ人が独立した翌年(B141)にパルティアによってセレウキアが、その翌年(B140)にはスサが陥されてメソポタミアをも失い、B130年にアンティオコスVII世がパルティアに敗死してシリアのアンティオキア周辺を支配する小政権に没落した。 アルメニアの属国となった後、ローマ帝国によってアルメニア王国と共に征服されてシリア属州に再編された。 セレウコス朝の財政は東西交易の仲介によって支えられ、又たギリシア人の為の植民都市を積極的に建設してアジアのヘレニズム化を大きく進展させた。

パルティア王国  B247?〜A226
 イラン高原東北部のパルサワ地方に、イラン系遊牧種ダーハ族のパルニー氏族が興した王国。 アルサケス朝(中国名は安息)とも。開祖アルサケスがバクトリア王国の独立に乗じてセレウコス朝の総督を殺して独立したもので、エルブールズ東南麓のヘカトンピュロスを国都とし、ミトラダテスI世(在:B171〜B138)がイラン高原をほぼ制圧した後、B141年にはセレウコス朝の陪都セレウキアを陥落させてメソポタミアをも支配した。 メディア・バビロニアに対する支配はミトラダテスII世の時代(B123〜B87)に確立されてセレウキアの対岸のクテシフォンに遷都し、アルメニアの属国化やクシャーン朝との和議も成り、最盛期を現出して「諸王の王」を号した。
 歴王はアルサケスを称号とし、シルク=ロード交易をほぼ独占した事で繁栄したが、遊牧社会から発展した為に各地の大小領主の割拠性が高く、軍事的成功とは対照的に中央権力はきわめて脆弱だった。 又た氏族内でも王統が定まらず、ミトラダテスII世の死後はしばしば国内を二分する内戦を生じてローマ勢力に介入され、亦た王権が貴族勢力に左右され、1世紀前期にはスーレーン氏族が西北インドを以て分立した。 ローマ勢との戦場はB1世紀はシリア方面が主だったが、1世紀になるとアルメニアの帰属問題が主因となり、2世紀にはしばしばクテシフォンが陥されてユーフラテス川以西と北メソポタミアとが失われた。 この頃にはアラン族の入冦にも苦慮し、3世紀初頭にはメソポタミアとイラン政権に分裂して諸侯の自立も進み、224年までにパールス王アルダシールに滅ぼされた
 ギリシア文化の保護者を以て任じた事でササン朝には非ペルシア社会として否定されたが、イランの伝統文化を重んじてゾロアスター教を保護し、またペルシア語(パフラヴィー語)の普及など、後にペルシア様式と称される文化の多くがこの時代に萌芽・確立した。

ササン朝  226〜651
 サーサーン朝とも。 アカイメネス家に連なるというササンを名祖としたパールス王家のアルダシールI世が、アルサケス朝を滅ぼして西アジア世界を支配した王朝。 アルダシールI世がアカイメネス朝の復興とゾロアスター教の庇護を求心力として分裂状態にあったイランを平定した後、パルティア系貴族に推戴されてシャーハン=シャー(諸王の王)を称した事に始まり、一代でメソポタミアをも征服してクテシフォンに奠都し、アルメニアトランス=オクシアナクシャーン朝にも宗主権を及ぼした。 盛時にはローマ帝国に対しても優位に立ったが、ゾロアスター教の神官や貴族勢力の掣肘で王権は不安定で、3世紀末には東メソポタミア・アルメニアを失った。 5世紀に入るとエフタル族の圧迫が始まり、国内は反エフタルと親エフタルに分裂し、貢納の代償を西征に求めた事でローマ帝国との関係が悪化した。
 ホスローI世の時代(531〜79)には大貴族とマヅダク教の統制を進め、新興の突厥の西面可汗と結んでエフタルを滅ぼすことにも成功し、ローマ帝国の分裂にも助けられて最盛期を現出し、ビザンツ帝国の異端排斥から逃れた学者を庇護した事で学問も興隆した。 ホスローII世の時代(590〜628)にはビザンツ帝国のアジア領の多くを征服してコンスタンティノープルを攻囲する事もあったが、黒海方面からのビザンツ軍の奇襲とこれに呼応したクテシフォンの内乱で国内は混乱状態に陥った。 633年よりアラブ=イスラムの侵攻が始まり、636年にはクテシフォンが陥され、ヤズデギルドIII世が642年にニハーヴァンドでイスラム軍に大破された事が王朝の事実上の終焉と見做される。 ヤズデギルドIII世は東方で再起を図ったものの651年にメルヴのホラサーン総督に殺され、中国に投じて唐朝に支援を求めた王子の要請は果たされなかったが、中国でゾロアスター教が普及するようになり、主要都市には祅教寺院も建立された。
 ササン朝はゾロアスター教を国教として尊重しながらも仏教やユダヤ教・キリスト教なども公認し、それらの影響下にマニ教・マズダク教やイスラム教などの新興宗教が誕生した。 パルティア文化を否定しながらもアルサケス朝の七大貴族が権力中枢に残るなど、ササン朝は物心両面でパルティア王国の影響を強く残し、その中央集権制はきわめて不完全なものだった。 パルティア文化に発するササン朝芸術は後にペルシア様式と呼ばれるようになり、東方世界の芸術にも甚大な影響を与えたが、ササン朝が伝統的ペルシアへの回帰を強く主張・実践するようになったのは、エフタルの圧迫が強まった5世紀頃に始まるものとされる。

 
 
 

アラブ=イスラム

クライシュ族
 アラビアの一部族で、メッカ地方を支配した名族。 アラビア人の伝承ではアブラハムの子イスマーイールの後裔とされ、5世紀初頭頃にメッカの支配勢力となり、カーバ神殿を中心に一帯の宗教と通商を独占した。 指導部は十家より構成され、後にイスラム教を興したムハンマドはそのハーシム家の出身で、当時最も強力だったウマイヤ家とは事毎に対立した。 イスラム教国家が確立すると、クライシュ族はカリフの選出部族として特権階級化した。

イマーム
 案内人・指導者・嚮導者。イスラム教団の成立後は、信者に礼拝の指導をする宗教指導者の称号とされた。 イスラム世界の元首はアッラーのみであり、神の代理であるイマームが地上世界を統治し、ムハンマドや歴代カリフはもとより、地方諸州の州知事・総督もイマーム権限の委託者とされた。 後にシーア派が確立すると、その総帥の名称にもなった。

カリフ  ▲
 正しくはハリーファ。原義は“継承者”“代理者”で、「アッラーの使徒(=ムハンマド)の後継者」を意味した。 ムハンマドが後継者を指名せず歿した後、アラブ系族長の互選によって選出されたアブー=バクルがカリフを称した事に始まり、第二代カリフのウマルより“アミール=アル=ムウミニーン(信徒の長)”とも称した。 コーランの解釈にかかわる宗教的権限は持たなかったが、後にイスラム帝国の世俗化とともに“(地上における)アッラーの代理者”を意味するようになり、又たイマームとして聖俗両権を兼ねた。 アッバース革命でイラクのアッバース朝とイベリアの後ウマイヤ朝にカリフが並立し、10世紀に入るとエジプトに興ったシーア派政権/ファーティマ朝もカリフを称し、アッバース朝のカリフはモンゴルに滅ぼされた後はその一族がマムルーク朝に擁立され、1517年にオスマン朝に滅ぼされるまで存続した。

スルタン  ▲
 イスラム世界における世俗権力者。 初期には抽象的な政府権力もしくはカリフの俗称の1つだったが、アッバース朝カリフの形骸化とともに地方政権の首長が称するようになり、アッバース朝カリフを援けたセルジュク朝のトゥグリル=ベクに贈られたものが正式の称号の最初といわれる。 後には濫用されて大小首長の自称となった。

アリー  603〜656〜661
 第四代正統カリフ。 イスラム教の開祖ムハンマドの従弟にして娘婿で、最初の改宗者の1人でもあり、夙にムハンマドの正統後継者と目されていた。 ウスマーンを継ぐカリフに選出されるとイラクのクーファに都したが、ウスマーンを輩出してシリアを基盤としたウマイヤ家の抬頭が著しく、またクーファに拠ったことをアラブ軽視と見做す者の多くがウマイヤ家に与し、両家に反対する原理主義者によって暗殺された。
  
シーア派 :第四代カリフ=アリーと、その直系のみを正統イマームとするイスラム教の第二勢力。 “シーア”はアラビア語で“党派”を意味し、アリーの死後、アリーの支持派を分派として「シーア」と呼んだ事に始まる。 680年にカルバラーでアリーの2子がウマイヤ家に殺されると、アリー派は各地で秘密結社を組織してウマイヤ朝に抵抗し、アッバース革命でも重要な位置を占めた。 アリー崇拝はスンナ派政権下での弾圧を経て宗派化し、ムハンマドの死後に立てられた正統カリフを否定しただけでなく聖者崇拝や神秘主義を肯定し、スンナ派と激しく対立してしばしば強力な政権を樹立した。

ウマイヤ朝  661〜750
 クライシュ族の名門ウマイヤ家が、カリフ=アリーを暗殺してシリアのダマスクスを首都に樹立したイスラム史上最初の世襲王朝。 ムハンマドの宗教活動に頑強に抵抗したウマイヤ家は、630年にメッカを開城してムハンマドに投じた後もアラブ=イスラム社会に隠然たる勢力を保ち、王朝樹立後はカリフの選挙制を廃して血統世襲とし、統治体制もビザンツ文化・ペルシア文化の影響で専制化した。
 ウマイヤ朝はアリーを奉じるシーア派を徹底的に弾圧した一方で聖戦(ジハード)を称した征服戦争を積極的に推進し、マーワランナフル・インダス流域からイベリア半島に達する空前の大版図を現出したが、アラブ至上主義を基調として徹底的にアラブ=ムスリムを差別化し、一般ムスリムはマワーリーと呼ばれ、非ムスリムのズィンミーと同様に兵役を含む公職から排除されてジズヤ(人頭税)・ハラージュ(地租)などの重税が課された。 又たギリシア語・ペルシア語に代ってアラビア語が公用語とされ、駅伝制の整備やアラビア文字を刻印したディーナール金貨・ディルハム銀貨の流通と併せてアラブによる中央集権化が進んだ。
 王権の世俗化はシーア派に代表される宗教運動を各地に蜂起させただけでなく、アラブ至上主義に反抗するマワーリー解放運動が発生し、両者の提携に成功したアッバース家によってウマイヤ朝は滅ぼされた。ウマイヤ家の成員は徹底的に弾圧されたが、北アフリカに逃れた王族によってスペインに後ウマイヤ朝が再興された。 白色を貴んだため、中国では白衣大食と呼ばれた。
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大食 :ペルシア語でアラブ人を示すタージーク・タージーを、唐代の中国人が音訳したもの。 アラブ=ムスリムによるペルシアの征服後はイラン=ムスリムをも指し、又たトルコ族がペルシア人を指してタージークと呼んだ事からムスリム全体を指す呼称としても用いられた。

アッバース朝  749〜1258 ▲
 アッバース革命と呼ばれる大規模な反ウマイヤ運動によって成立した、第二のイスラム世襲帝国。 アッバース家はムハンマドの血統を信仰する風潮に乗じ、アリー家とも結んで反ウマイヤ勢力の組織化に成功し、ホラサーンを基盤に747年に挙兵して750年にはウマイヤ家のカリフを滅ぼしたが、その前年にはカリフを称する過程でアリー家とは訣別していた。 イラン世界に支えられたアッバース朝体制ではアラブの特権は否定され、マワーリー(非アラブのムスリム)が積極的に聖俗両面で要衝に据えられ、アラブとイランの対立が潜在化した。
 東西交易などで発達した経済体制によって8世紀後期〜9世紀前期に最盛期となり、762年に造営された国都のバグダードは世界最大級の都市となって学問も世界の最先端に発達し、ヨーロッパ文明や近代科学にも多大な影響を及ぼした。 同じ頃にアフリカでは地方政権の独立が続き、又たホラサーン兵の驕慢と戦力低下が顕著となって9世紀中葉にはトルコ系奴隷戦士=マムルークが採用されたが、マムルークはやがて軍事力を背景にカリフの廃立すら行なうようになり、辺境諸州の半独立化やイラクでの黒人奴隷=ザンジュの大叛乱(869〜83)など、カリフの権威の失墜が急速に表面化した。 又た宮廷では官僚組織の膨張や奢侈化が進み、軍費の増大と政府直轄地の減少と相俟って10世紀には財政は完全に破綻した。
 945年にシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領した事でカリフの政治力は完全に失われ、アッバース朝カリフは権威の象徴としてのみ存続を許されたものの王朝は事実上滅んだといえる。 ブワイフ朝の後、軍事や行政・徴税などを行なう軍事政権と、宗教や法・教育を担当するカリフ当局との並存が始まり、この体制は次のセルジュク朝にも継承されたが、1258年にモンゴル軍によってバグダードは破壊されてカリフも処刑され、マムルーク朝に遁れた一族がオスマン朝に征服される1517年までカリフ位を保った。
  
マムルーク :アラビア語の「所有されたもの」が原義で、初期にはもっぱら白人奴隷を意味したが、通常は遊牧トルコ種の奴隷出身の軍人を指す。 騎射に優れ、また奴隷である点から忠誠心を期待され、アッバース朝で9世紀半頃にマムルークによる親衛隊が編成され、マーワランナフルのサーマーン朝から大量に供給されるようになって軍事の中心となり、総督に任じられるマムルーク軍人も現れた。 マムルーク軍人は次第に横暴となり、カリフの傀儡化や独立政権の樹立などから「マムルークが世界を動かす」とすら称され、マムルーク軍人の秉権はアッバース朝の崩壊の大きな要因となった。 アッバース朝が事実上滅んだ後はマムルークやトルコ系による独立王朝がイスラム世界の主流となり、エジプトにマムルーク朝、中央アジアにガズナ朝セルジュク朝などが樹立された。

 
 

イラン

ホラサーン
 イラン東北部地方、ヘラートを中心都市として東はバクトリア、北はアム=ダリアに接し、漠然とイラン東部地方を指すことも多い。 メソポタミアと関わりの深い西方イランとは一線を画した一世界で、パルティア発祥の地でもあり、8世紀にはイラク政権に対抗するアッバース朝が興り、以後もターヒル朝サッファール朝サーマーン朝が興亡した。 セルジュク朝以来トルコ=モンゴル系の支配が続き、サファヴィ朝の進出でイラン世界に帰属したが、1747年に東方を構成するヘラートがアフガニスタンに奪われ、1884年にはロシアにメルヴを占領され、現在の国境線は1886年に画定された。

ターヒル朝  820〜873
 アッバース朝のホラサーン総督のターヒルが開いた世襲政権。 ターヒルはカリフ継承の内乱の際に軍功によってホラサーン総督とされ、支配基盤を固めた後にアミール(首長)を称して自立した。 バグダードへの貢納やマムルークの供給を請負う一種の冊封政権でもあり、南隣のシースターン地方に興ったサッファール朝に滅ぼされた。

サッファール朝  867〜903 ▲
 シースターン総督ヤークーブの興した王朝。 サッファールとはヤークーブの前職である“銅細工師”を意味する。ヤークーブは盗賊からアッバース朝の招撫に応じて867年にはシースターン総督とされ、ターヒル朝を滅ぼしてホラサーン地方を併せたのちバルチスタン・トハーリスタンやファールス地方に支配権を拡げた。 バグダード攻略に失敗したヤークーブが879年に歿すると急速に衰え、サーマーン朝に滅ぼされた。

ブワイフ朝  932〜1062
 エルブールズ北麓のダイラム出身のシーア教徒アブー=シュジャー=ブワイフを祖とし、その3子が南下して932年にファールス地方を支配した事に始まる。末弟のムィッズ=ウッダウラは945年にバグダードに入城して“庇護者”の称号を得、イラク地方の大アミールとして認められ、バグダードのカリフは世俗権を全く失った。 イラク政権・ファールス政権・ジバール政権による連合政体を形成したが、建国の経緯から一族間の紛争も多く、ハマダーン朝・ガズナ朝による蚕食とマムルーク軍人による秉権で凋落し、ガズナ朝が1029年にジバール政権を滅ぼした後、セルジュク朝によって1055年にイラク政権が、1062年にはファールス政権が滅ぼされた。


 

イル=ハン国

 フレグ=ウルス。“イル”は国民・衆(を集めた)の意味。モンゴルのモンケ=ハーンの時代、皇弟フレグの西征の結果として形成された。 モンゴルの慣行上から西征の目的がフレグ=ウルスの形成にあった可能性は低く、又た当時既にイラン・アナトリアが半ばモンゴルの属領化していた事などから、バトゥ=ウルス同様にハーンの急死による西征の中断とその後の中央の混乱によって、フレグが非公認のまま成果を独占したものと考えられる。
 イラン・イラクを平定した後、1260年にタブリーズ地方を王庭とした事で、アゼルバイジャンの領有を求めていたジュチ=ウルスとの軍事衝突を伴う確執を生じ、又たマムルーク朝に敗れてシリアの支配には失敗した。 フレグを嗣いだアバカ=ハンがチャガタイ家のバラクを大破した事でウルスの存在が公認され、マムルーク朝と提携したバトゥ=ウルスに対抗してフランスなどヨーロッパ諸国と同盟し、ヨーロッパ商人・宣教師を庇護した事は陸上での東西交通の活況に一助をなした。 時に兄弟相続を原因とした内訌も生じたが、フレグの曾孫のガザン=ハンの時にイスラムを国教とし、又たラシード=アッディーンを宰相に迎えて財政を中心として内政を整備し、文芸・文化も隆盛して全盛期を迎えた。
 フレグ=ウルスは1335年にアブー=サイード=ハンが歿してフレグの直系が絶え、アリクブカ家のアルパ=ハンが立てられたものの内乱状態となり、ジャライル朝クルト朝などの在地勢力が乱立した。 アルパ=ハンは即位の翌年には殺され、1353年にホラサーンのトガ=ティムール=ハンが殺されてチンギス=ハーンの血統は断絶し、1381年よりティムールによるイラン遠征が開始された。

フレグ  1218〜1265
 フレグ=ウルスの創始者。トゥルイの末子。モンケ=ハーン・クビライ=ハーンの弟。 モンケより西征の主将とされて1256年正月にアム=ダリアを渡り、1258年までにエルブールズ山中に拠るイスマーイール教団と、バグダードに拠るアッバース朝の、西アジア=ムスリムの二大中心を滅ぼしたが、モンケの訃報とモンゴル本土での内戦の報に接すると独断でアゼルバイジャンを王庭に定め、このためバトゥ=ウルスと激しく反目することとなった。 又たダマスクスに進駐したキト=ブカが独断で進軍してマムルーク朝に惨敗したことでシリアを失い、体制を整備する前に急死した。
 北・西の二面作戦を強いられた後は「大ハーンのビチクチ(代官)」と公称するなどクビライとの協調を公示し、これが後にフレグの親クビライ説の根拠となるが、国内に於いてはハン(君主)を称していたことがほぼ定説となっている。

ナースィル=ウッディーン=トゥースィー  1201〜1274
 ホラサーンのトゥース出身。シーア派の神学者、数学者、天文学者。 他に哲学・倫理学・医学などにも精通し、モンゴルの侵攻を避けてホラサーン南方のクーヒスターンのニザーム派太守に依ったが、後にフレグの西征軍が到来した際には同派のアラムート政権(所謂るイスマーイール教団)によってマイムン=ディズに幽閉されていた。 救出された後はフレグに仕え、1259年にはマラガに天文台が建造されて天文学の進歩に大いに貢献し、その惑星運行理論は地動説の出現まで最も先進的なものとされた。 又た1272年には惑星の位置を予測した『イル=ハン天文表』を作成した。

アバカ=ハン  1234〜1265〜1282
 第二代イル=ハン。フレグの嗣子。フレグの西征に従い、アゼルバイジャンでジュチ家のノガイを撃退した後、ホラサーンにあってウルス左翼を統轄した。 父の死後にその正妃のオルジェイトゥ=ハトンを蒸してタブリーズで即位し、ジュチ=ウルスとの確執は即位翌年のベルケ=ハンの急死で小康状態となったが、チャガタイ家のバラクがジュチ家・オゴデイ家と結んで来攻し、これを1270年にヘラート南郊のカラ=スゥ平原で大破してウルスの存続を確立し、元朝からも公認された存在となった事でオゴデイ家・ジュチ家とも和解した。 又た1275年頃よりシリアでのマムルーク朝との衝突も始まり、景教を信奉していた事もあってビザンツ帝国との通婚やイングランド王エドワードI世との国交で対処を模索したが、シリアの保持は果たせなかった。アルコール中毒で歿したと伝えられる。
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 死後に弟のテグデル派と長子のアルグン派が反目し、フレグのオルド勢力はアルグンを推したものの、年長者の継承を規定する大ヤサもあって諸王・諸将の支持するテグデルが選出された。テグデル=ハンはイスラムを信奉し、スルタン=アフマドを称した。

アルグン=ハン  〜1284〜1291
 第四代イル=ハン。アバガ=ハンの長子。 叔父のテグデル=ハンの即位を認めず、カラウナス軍団を中心に挙兵して簒奪した。仏教徒であったものの父同様にキリスト教を保護し、バチカンやイングランド・フランスとの提携によるシリア奪還を模索してラッバン=ソーマらをヨーロッパに派遣した。
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 アルグンの死後、カラウナス軍団はホラサーンのガザン(アルグンの長子)と対立していた為にアナトリアに拠るガイハトゥ(アルグンの弟)を推戴したが、アナトリア勢力の進出を嫌うイラク勢力との確執が潜在化した。 ガイハトゥ=ハンは遊興によって財政を悪化させ、元朝の交鈔に倣って西アジアで初めて紙幣を発行したものの、これは異常なインフレを惹起して2ヶ月で失効した。イラク勢力に支持されたバイドゥ(アルグンの従弟)が挙兵すると、カラウナス系の諸将にも離叛されて敗死した。

ガザン=ハン  1271〜1295〜1304
 第七代イル=ハン。アルグン=ハンの長子。 アルグンの下でホラサーン総督とされ、アルグンの死後、かねて不和だったカラウナス軍団に支持されていたバイドゥ=ハンを攻殺して即位した。 ムスリムの支持を期待してイスラムに改宗していた為、即位と同時にイスラム教を国教としてマフムード=ガザンと号し、ラシード=アッディーンを宰相に迎えて土地制度や税制を改革した。 又た学問・文芸を保護奨励するなど先住民との融和を図ってイスラム文化を興隆させたが、その一方でモンゴルとしての意識の維持と自身の正統性を喧伝する目的で歴史書『モンゴル史』を編纂させた。

ラシード=アッディーン=ハマダーニー  1247〜1318
 ハマダーン出身の医学者・政治家。 はじめアバガ=ハンの侍医となったが、ガザン=ハンに執政の才を認められて宰相に抜擢され、その治世を支えつつ『集史』の編纂を進めた。 又たワクフ寄進によって文化特区ともいうべきラシード区を建設し、『集史』のアラビア語訳など多くの編纂事業が行なわれた。 嗣代のオルジェイトゥ=ハンにも重用されたものの政争が続き、オルジェイトゥが歿すると毒殺、或いは誤診の嫌疑で処刑された。
  
集史 :イル=ハンの勅撰で、宰相のラシード=アッディーンがペルシア語で編纂した世界史。 はじめガザン=ハンがモンゴルの紐帯と自身の正統性とを宣揚する目的で『モンゴル史』を編纂させ、ガザン死後の1307年に完成して『ガザンの祝福されたる歴史』としてオルジェイトゥ=ハンに奉献されたが、続いてイスラムやトルコ・中国・フランク(ローマ教皇・フランク王国・神聖ローマ帝国)・インド史の編纂が行なわれ、1314年に合版されて『集史』と命名された。 政治目的で編纂されてはいるが、同時代のアジア情勢についての第一級の資料であり、モンゴル史を研究する上での必読書とされる。


 

クルト朝  1331?〜1389
 カルト朝とも。フレグ=ウルスから分立した土着政権の1つ。 クルト家はゴール朝貴族の出身を称し、モンゴルの西征とインド攻略に協力してヘラートを中心とする今日のアフガニスタンのほぼ全域の支配権を認められたという。 フレグに臣属してヘラートの繁栄とペルシア文学の保護につとめ、フレグ=ウルスが崩壊するとホラサーン・アフガニスタンを支配し、西チャガタイ=ハン国に臣属したのち1381年にティムールに征服された。

ムザッファル朝  1335?〜1393
 フレグ=ウルスから分立した政権の1つ。フレグ=ウルスの崩壊後にケルマーン地方を支配し、次いで宗主国のジャライル朝の混乱に乗じてシーラーズ・イスファハーンを陥してファールス地方を征服した。盛時にはアゼルバイジャン・イラクにも進出したが、内訌と内乱が絶えず、1387年にティムールに大破されて属国となり、叛乱に失敗して滅ぼされた。 ハーフィズら優れた詩人や文化人を輩出してペルシア文学史上で重視されている。

ジャライル朝  1340〜1411
 フレグ=ウルスから分立した政権の1つ。 ジャライル家はキヤト氏の姻族でもあるモンゴルの名族で、フレグの西征やウルス形成にも深く参与した。 シャイフ=ハサンがイル=ハン国のアブー=サイード=ハンの死後にバグダードに自立したもので、嗣子のシャイフ=ウヴァイスがジュチ家から1357年にタブリーズを奪回し、旧フレグ=ウルスの西半を支配する勢力となった。 ウヴァイスは優れた文化人でもあり、宮廷には多くの文化人が雲集してイラン=イスラム文化を維持したが、政治や社会制度はフレグ=ウルス時代のものを踏襲してヤサ法を尊重し、軍は牧民を基幹とした。
 1374年にウヴァイスが歿した後は諸子が乱立し、ティムールの西征に対して黒羊朝と結んで対抗したものの主要拠点の殆どを陥され、ティムールの死後にはタブリーズの帰属を黒羊朝と争って敗亡した。

マムルーク朝  1250〜1390/1382〜1517
 エジプトに拠ってシリアをも支配した、トルコ系マムルークが開いたイスラム王朝。バフリー朝とブルジー朝に分けられる。 エジプトのアイユーブ朝末期、来攻した十字軍に対応してバフリーヤ(ナイルのローダ島進駐のマムルーク兵)司令官が樹立したもので、十字軍を撃退しながらも求心力に欠けていたが、モンゴル軍を撃退したバイバルスによってエジプト支配を確立した。 スルタンが世襲されることは少なく、しばしば簒奪が行なわれたが、1291年にはシリアから十字軍勢力を一掃し、又たジュチ=ウルスと親善してフレグ=ウルスに対抗し、エジプト・シリアを善く保った。
 14世紀半頃よりマムルーク将軍がスルタンを傀儡化し、アルメニア系のチェルケス人を主体とするブルジー軍団を統べるバルクークが1382年にスルタンを称し、程なくバフリー朝を滅ぼしてエジプト世界を支配した。 バフリー朝ではスルタンの世襲が否定されて互選が規定され、軍閥間の抗争が激化したもののインドとヨーロッパの仲介貿易によって繁栄した。 15世紀末にヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰経由のインド航路を発見したことが痛打となり、ポルトガル海軍に敗れたのち急衰してオスマン朝に征服された。

サファヴィ朝  1501〜1736
 アリーの正統後継者を称するサファヴィ教団が興したシーア派王朝。 サファヴィ教団はもとはスンナ派の神秘主義教団だったが、14世紀半頃にシーア派的な思想を導入し、西隣のトルクメン族=キジル=バシュの軍事力と結んで政権化していった。 白羊朝を滅ぼしてタブリーズに王朝を開いたイスマーイールI世(在:1501〜24)は、ウズベク族からホラサーンを奪回してイラン世界を統べた事と、十二イマーム派を国教とした事で現在に直接するイラン国家の建設者と称される。 又たスルタン号を用いずペルシア伝統の“シャーハン=シャー”を用いた事から民族主義の復興者とも称されるが、自身は白羊朝の外孫で、十二イマーム信仰もキジル=バシュとの妥協策の側面があり、セルジュク朝から続く遊牧主義的体制を踏襲するなど、建国時はペルシア的色彩は希薄だった。
 シーア派を国教とした事から隣接するオスマン朝やシャイバーニー朝・ムガール朝と対立し、殊にキジル=バシュの向背はオスマン朝との深刻な争点となり、1514年にチャルディラーンでオスマン朝に大敗した後はガズヴィーンに遷都した。 アッバースI世の時代(1587〜1629)が最盛期で、イスファハーン遷都とオスマン朝に倣った軍制の近代化改革によってキジル=バシュの影響力を排除し、東部ホラサーンやアゼルバイジャンを奪回して1624年にはバグダードをも回復した。 オランダ・イギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国はオスマン朝への対抗とアジア進出の為に積極的にサファヴィ朝と通好し、イスファハーンの人口は50万余に達して多くの宮殿や公共施設、各国の商館や居留地などが営まれ、「イスファハーンは世界の半分」とすら称された。
 シャー=アッバースの死後は急速に衰え、西方ではクルド人やバローチ人の活動もあってメソポタミア・アルメニアを失い、東方ではパシュトゥン人(アフガン族)が抬頭し、1722年にはパシュトゥン人に首都を陥され、アフシャール族の庇護下で再興したものの1736年に簒奪された。
  
キジル=バシュ :“紅帽”のトルコ語。14世紀にアゼルバイジャン〜アナトリア東部のトルクメン族が、サファヴィ教団に帰依した後に赤い頭巾を被ったことに由来し、シーア派を信奉するトルクメン騎兵の称となった。 サファヴィ朝の建国ではイスマーイールI世を神聖視する死兵として軍事の中核となり、軍の主力や封建領主として軍政両面に大きな勢力を保ったが、次第に世俗化するとともに専横となり、内訌や離叛によってサファヴィ朝の低迷を助長した。
 又たオスマン領アナトリアのキジル=バシュはしばしばサファヴィ朝に呼応してオスマン朝の深刻な内憂となり、オスマン朝のシーア派弾圧がチャルディラーン戦役に発展した。 このとき大敗したサファヴィ朝はしばらく国威が低迷したが、オスマン朝の軍兵もキジル=バシュの狂信的な戦意を忌み、サファヴィ軍との戦を忌避するようになったという。シャー=アッバースI世の近代化改革で特権的な勢力を失った。

 
 

トルクメン族

 オグズ族から分離したのちムスリム化し、中央アジア〜西アジアに拡がったトルコ種。10世紀頃からイスラム文献に現れ、セルジュク家に従ってセルジュク朝の成立に与した集団はセルジュク族と俗称された。 セルジュク朝の時代にはアナトリアにも拡大して同地のトルコ化を進行させ、その中からオスマン家キジル=バシュも抬頭したが、部族単位で分立して種族として合一する事はなく、オスマン朝とサファヴィ朝の対立はトルクメン族の内戦と見做す事も出来る。
 中央アジアのトルクメンは支配勢力のズベク族やイラン人との融合が進んだ後、19世紀末にロシアに征服されてよりは定住化が進み、1925年にソ連邦構成国のトルクメン共和国が成立し、ソ連崩壊後はトルクメニスタン共和国として独立した。

セルジュク朝  1037?〜1157?
 セルジュク家に従ったトルクメン族によるトルコ=イスラム国家。 最盛期にはイスラムの盟主としてアラブ・アフリカを除く西アジアの殆どを支配したが、牧民社会の体制を保持したために11世紀末には多くの政権が分離し、ケルマーン(1041〜1186)・アナトリア(1075〜1308)・シリア(1078〜1117)・イラク(1117〜1194)朝廷などが有力だった。
 セルジュク家は10世紀半頃にオグズ族の一部を率いて南下した後、10世紀末頃にはシル=ダリア中流域のジェンドに遷ってイスラム教に集団改宗し、11世紀前期にカラ=ハン朝を避けてホラサーンに進出した。 トゥグリル=ベクが1038年にニーシャプールに入城した事が王朝の創始とされ、1040年にはガズナ朝を大破してホラサーン支配を確立し、1055年にバグダードに入城してアッバース朝カリフからスルタンの称号を認められ、これがスルタン号が公認された最初とされる。 アルプ=アルスラーン・マリク=シャー父子の時代(1063〜72〜92)は宰相ニザーム=アルムルクの輔弼もあって最盛期を迎え、アナトリア・シリアを征服してビザンツ帝国やエジプトに対しても優位を保ち、国力・文化の充実はエルサレム占領とともに十字軍遠征の遠因となった。
 各地に分封された一門の有力者は広大な所領と大幅な自治を認められ、セルジュク朝は一種の連邦政権でもあったが、ニザーム=アルムルク・マリク=シャーの相次ぐ死によって一帯性が急速に失われた。 宗家の朝廷は12世紀前期にイラク支配を回復してガズナ朝・ゴール朝・カラ=ハン朝をも属国化したものの1141年カラ=キタイに大敗してマーワランナフルを失い、ホラサーンに流入したトルクメン族の叛乱によって断絶した。
 セルジュク朝時代はイラン=イスラム文化の最も繁栄した時代の1つとされ、歴代スルタンは善く文化を庇護奨励し、ニザーミーヤ(イスラム学院)の開設やスーフィー思想の体系化は後のイスラム文化の指標となり、多数の著名な科学者や思想家・文人を輩出した。

アタ=ベグ  ▲
 トルコ語で“父侯”“傅父”。 セルジュク朝のマリク=シャーの摂政となった宰相ニザーム=アルムルクに初めて授けられた称号で、以後は地方の領邦の有力者も後見人・代行者として称し、セルジュク朝の衰退と伴に軍団長の世襲称号と化して各地にアタ=ベグ政権が乱立した。 殊にイラク北部のモスルのアタ=ベグ政権は十字軍からシリアのほぼ全域を回復してザンギー朝と呼ばれ、又たアナトリア北東部ではシヴァスのアタ=ベグ政権(ダニシュマンド朝)が12世紀後期までアナトリア=セルジュク朝の最大の外敵として存続した。 又た中央アジアでは主にウズベク系諸国でアタリクと呼ばれ、19世紀頃まで存在した。

ニザーム=アルムルク  1018〜1092
 ホラサーン出身のイラン人法学者。 アルプ=アルスラーンに宰相として迎えられてマリク=シャーにもアタ=ベグ・大宰相として信任され、イクター制(徴税請負制)の軍人への適用による軍士封建制やマムルークによる禁衛兵の拡充など国家体制の整備や中央集権を志向した。 又た学芸を保護奨励し、主要都市に学院たるニザーミーヤを建設して人士を養成し、公共施設の充実やインフラの整備などイラン社会の発展に大きく寄与した。 晩年は過激シーア派のイスマーイール派を弾圧し、エルブルズ山地に独立勢力を形成していた過激イスマーイール派のニザール派信徒に暗殺された。

アナトリア=セルジューク朝  1077〜1308
 ルーム=セルジューク朝とも。 マリク=シャーの時代にアナトリアのトルクメン族を統禦する為に置かれた領邦。 創建当初から乱立する小領主に対する宗主権は脆弱で、1096年に始まる第一次十字軍では首都のニカエア(ブルサ)を棄ててアナトリア中部のコンヤに遷都し、1147年に第二次十字軍を撃退して漸くアナトリア中部の支配を確立し、ザンギー朝・ビザンツ帝国と和したのち1178年に東北に接するアタ=ベグ政権(ダニシュマンド朝)を滅ぼしてアナトリアに主権を確立した。 1189年に始まる第三次十字軍で再び分裂したが、13世紀初頭に統一を回復すると地中海・黒海交易の開始やトレビゾンド帝国の朝貢国化で最盛期を現出し、1227年にクリミア地方のキプチャク族を征服し、1230年にはアイユーブ朝と結んでホラズム=シャー朝の亡命政権を滅ぼしてアルメニア地方をも併せた。 以後は内訌や内乱が絶えず、1243年にモンゴルに降伏して属国となり、フレグの西征後はフレグ=ウルスに属したもののマムルーク朝との間で去就が定まらず、内訌と分裂が続いて1308年に断絶した

黒羊朝  1375?〜1468
 カラ=コユンル。アルメニア地方のヴァン湖西部に拠るトルクメン族から興り、フレグ=ウルスの崩壊後は部族連合“カラ=コユンル”を形成しつつアルメニア西部を支配してジャライル朝に服属した。 カラ=ユースフの時代(1389〜1420)にティムールのアナトリア遠征で大破されたが、ティムールの死後にジャライル朝を滅ぼしてザカフカス・イラクを支配した。 イラン遠征中にカラ=ユースフが歿するとティムール朝のシャー=ルフに伐たれ、アゼルバイジャン以東を失って属国化されたが、程なくアゼルバイジャンを安堵されて東隣の白羊朝に優位を保った。 ウルグ=ベクの横死でティムール朝が混乱すると再びイランに遠征してホラサーンを征服したが、離叛した白羊朝の討伐に失敗して崩壊した。

白羊朝  1378〜1502 ▲
 アク=コユンル。フレグ=ウルスの衰退期、トルクメン族のバヤンドル部が東部アナトリアのディヤルバクル一帯に勢力を扶植して部族連合を形成し、ティムールのアナトリア遠征に協力して一帯の支配権を確立したもの。 1435年に東隣の黒羊朝に大破されて服属したが、ウズン=ハサン(在:1453〜78)がティムール朝と黒羊朝の抗争に乗じて黒海沿岸のキリスト教勢力と同盟したのち黒羊朝を滅ぼし、1469年にはティムール朝のサマルカンド政権をも大破して西アジアの雄となった。
 同じ頃、アナトリア西部ではコンスタンティノープルを征服したオスマン朝の再興が著しく、1473年に大破され、ウズン=ハサンが歿した後は内訌から各地に王族が自立して急速に瓦解が進んだ。 1499年にサファヴィ教団がトルクメン族を糾合して叛き、1502年に国都のタブリーズが陥され、各地の王族も1508年までに滅ぼされた。

オスマン朝  1299〜1922
 アナトリア・バルカンを中心に、トルクメン系のオスマン家が建てたイスラム国家。 13世紀後期のアナトリア辺境では、アナトリア=セルジュク朝の衰退に乗じてトルクメン系のガーズィー集団が自立化を進めていたが、その1君長のオスマン=ベイが1299年に自立したことに始まり、通常これはオスマン侯国と呼ばれる。 オスマン侯国は1396年にはバルカンの大半を征服したが、1402年にアンカラでティムールに大破されると諸侯国に分割されて君主不在となった。
 1413年に再興されて1453年にはメフメトII世がビザンツ帝国を滅ぼし、コンスタンティノープルをイスタンブールと改称してアナトリアとバルカンにまたがる帝国に発展した。 16世紀のセリムI世(在:1512〜20)はサファヴィ朝を大破し、エジプトのマムルーク朝を併合し、メッカ・メディナ両聖都の保護権を得て名実ともにイスラム世界の盟主となり、“壮麗王”の異称を持つ嗣子のスレイマンI世(在:1520〜66)はシリア・イラク・エジプトをも支配して東地中海の制海権も掌握し、1529年にはウィーンを攻囲するなどオスマン朝の極盛期を現出した。
 オスマン朝は強力な専制体制と出自を問わない人材登用、常備歩兵イェニチェリ軍の存在などによってヨーロッパ諸国からは「オスマンの脅威」と恐れられた半面で理想ともされたが、帝位継承に際しては“兄弟殺し”が成文化され、この悪弊は17世紀まで続いた。 国内には多数のギリシア正教徒が存在し、異教徒を積極登用する独特の諸制度も整い、イスラム内部では神秘主義的な教団組織が民衆に支持された。
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 16世紀末よりサファヴィ朝での軍制改革やヨーロッパ社会の発展などで征服事業が停滞するとともに新大陸からの銀の流入も加わって社会・経済各方面で問題が露呈し、17世紀末にウィーン遠征に失敗してハンガリーの大部分を失い、18世紀後期にはロシアの南下政策が露骨となって1783年に保護国として紐帯の強かったクリム=ハン国すら奪われた。 1798年のナポレオンのエジプト遠征こそイギリスの支援で撃退したものの、19世紀に入るとギリシアやエジプトが独立し、1878年には露土戦争でバルカン領の殆どを喪失した。
 中央主導の専制的改革に対し、立憲派は青年トルコ党を組織してエンヴェル=パシャの指導下に1913年には立憲君主制を樹立したが、経済政策には無関心だったために事実上ヨーロッパ資本に支配された。 第一次大戦ではドイツに与してアナトリアすら分割され、トルコの完全独立を求めるアタテュルクらが1922.11.01にスルタン制の廃止を宣言したことでオスマン朝は名実ともに滅んだ。

ガーズィー
 アラビア語で、“略奪者”“襲撃者”を意味し、異教徒に対し聖戦を行なう辺境のイスラム戦士を指した。 ホラサーン方面では10世紀頃より存在し、アナトリアではビザンツの辺境戦士アクリタイと抗争した。 マムルーク兵の普及と前後してトルコ的要素が強くなり、11世紀にアナトリアに進出したトルクメン族は多分にガーズィー的性格を有し、特にアナトリア=セルジュク朝の衰退期にアナトリア各地に興ったベイリク(君侯国)などはその代表とされる。 初期オスマン朝の君主は好んでガーズィーを称号とし、又た1921年にギリシア軍を撃退したアタテュルクにもガーズィーの称号が贈られた。

 
 

トハーリスタン

 ギリシア名はバクトリア、中国名は大夏・吐火羅。 ヒンドゥークシュ山脈北麓、マザリ=シャリフ西郊のバルフを中心としたアム=ダリア上流域地方の古名。 タリム盆地からインド・イランに抜ける幹線が通り、B6世紀にアカイメネス朝が征服してバクトラ州を置き、アレクサンドロスに征服されたのちセレウコス朝の下でヘレニズム化が進んだ。 B255年頃にギリシア人太守ディオドトスが興したグレコ=バクトリア王国インダス流域にも進出して大勢力となったが、パルティア王国サカ族などの遊牧勢力の圧迫やインド経略の失敗からB2世紀半頃には各地に僭主が割拠し、程なくトハラ族に滅ぼされ、次いで大月氏に征服された。 その後、トハーリスタンはインド=パルティア王国の支配をへてクシャーン朝が成立し、5世紀半頃よりエフタル西突厥の支配が続き、アラブ=イスラムに征服された後はホラサーン地方に含まれてトハーリスタンの称は次第に使われなくなった。
ガンダーラ
 パキスタン西北部ペシャーワル地域の古名。 古来からイラン勢力と遊牧種の係争地となり、時にインド勢力も進出して支配種族が錯綜し、各種の文化が混交した。 特にバクトリア王国から分離したインド=グリーク朝のミリンダ王ことメナンドロスI世(B2世紀後期)は仏僧との対論『ミリンダ王の問い』と仏教への帰依で知られ、やがてガンダーラ様式と呼ばれるヘレニズム様式の仏教芸術が興り、2世紀頃には上座部仏教の説一切有部の根拠地となってクシャーン朝の仏典結集にも貢献した。
 ガンダーラ地方への仏教の伝来はB3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王の頃とされ、その後ギリシア系勢力やサカ族パルティア族などによってヘレニズム文化がもたらされ、両文化が混融してガンダーラ美術に昇華した。 ガンダーラ美術はクシャーン朝の治下で1世紀〜2世紀前半に最盛期を迎え、このとき誕生した仏像崇拝は東アジア全域の仏教美術の祖型となった。 5世紀半頃にエフタル族が侵入した事で、仏教の退潮と伴にガンダーラ美術は急速に衰亡した。

サカ族
 シャカ族・塞族とも。内陸アジアに広く分布したイラン系遊牧種の総称で、ギリシア人はスキタイの派生種と見做し、しばしばスキタイ=サカと呼んだ。 匈奴に敗れた大月氏バクトリア王国を滅ぼしたトハラ族、B2世紀前期にシンド地方にサカ王朝を開いたものなどもサカ族の一派とされるが、相互の相関関係は不明。 インド=サカ王朝はパルティアに圧されてギリシア人勢力を征服しつつシンド地方に進出したもので、新興のクシャーン朝に征服された後も地方藩侯として4世紀頃まで存続した。

インド=パルティア王国
 パルティア王国の東方総督のスーレーン家が、王朝の衰退に乗じて1世紀前期頃にトハーリスタン方面を以て独立した政権。程なく内訌を生じて旧来の在地領主が分立し、1世紀後期にはインド領の多くをクシャーン朝に征服されてヘラート一帯のサカスタンを支配する小勢力となり、2世紀前期頃に崩壊した。

クシャーン朝  
 バクトリアを征服した大月氏が置いた五翕侯の1つ、クシャーン侯が1世紀に4翕侯を併せたのちパルティア勢力を排除してバクトリアガンダーラを支配したもの。中国史料では“貴霜”と記される。 2世紀に入る頃にはパンジャブ地方を征服してヒンドゥスタン平原にも進出し、2世紀半頃のカニシュカ王の時代にはガンダーラ地方のプルシャプラ(ペシャーワル)を中心にインダス・ガンジス両川の流域や東西トルキスタンの一部をも支配する大帝国を現出した。 カニシュカ王は仏教教学の結集を行なった仏教の庇護者としても著名で、仏教の中国伝播にも大きく貢献して仏典の中でもしばしば讃美の対象として現れ、この時代には仏教詩人として有名な馬鳴(アシュヴァ=ゴーシャ)なども輩出した。 カニシュカの死後はインド化と分裂が進み、ガンダーラ政権は3世紀後期にササン朝に征服された後もキダーラ月氏(キダーラ朝)として存続し、5世紀半頃にエフタルに滅ぼされた。

エフタル族
 5世紀中葉〜6世紀中葉、トハーリスタンに拠って中央アジア〜北西インドを支配した遊牧種。しばしば白フンとも呼ばれ、王族はアルタイ方面から遷移したトルコ種と思われるが、被支配層は人種言語ともに土着のイラン系のトハラ族で、王族もイラン化が進んでいた。 5世紀半頃にトハーリスタン・ガンダーラを支配し、ササン朝グプタ朝を圧倒してホラサーンやパンジャブを併せ、中央アジアの大勢力となってマーワランナフルをも支配し、中継交易によって繁栄した。 又た東トルキスタンにも進出して高車と抗争し、柔然や中国北朝とも交渉を持った。
 マヅダク神・シヴァ神に相当する火神・天神を信奉し、又た遊牧社会の通例として分権化の傾向が強く、ヒンドゥークシュ以南のインド勢力は早くから半ば独立してガンダーラ文化を衰亡させていたが、仏教迫害者としても知られるミヒラクラ王(在:512〜30?)がグプタ朝に大敗した事でカシュミール地方に逼塞した。 中央アジアのエフタルもササン朝と西突厥の挟撃で558年に大破され、567年までに征服された。

ガズナ朝  962〜1186
 マムルーク出身でサーマーン朝のホラサーン総督/アルプ=ティギンが、アフガニスタンのガズナに拠って事実上独立したもの。 短命のマムルーク総督が続いた後、セブク=ティギン(在:977〜97)が立てられると体制を確立して勢力を拡大させ、パンジャブ地方にも進出してしばしばインド王侯を大破した。
 セブク=ティギンの嗣子マフムードの時代(998〜1030)にはホラサーンの支配を確立し、サーマーン朝を滅ぼしたカラ=ハン朝と抗争してソグディアナを支配する一方で、ジハード(聖戦)として17回に及ぶインド遠征を行ない、パンジャブの殆どを征服すると共にヒンドゥー教の聖地で大略奪を行なった。 スルタンを自称したマフムードの支配圏はヒンドゥスタンからクルディスタンに及び、ガズナに壮麗な建築物やモスクを造営して「ガズナのマフムード」は偉大な征服者としてイスラム圏で広く知られたが、その一方でイラン=イスラム文化を保護して文学・芸術を愛好し、ガズナの宮廷にはフィルドゥシー・ビールーニーなどが雲集して文化面でも最盛期を現出した。
 マフムードの死後は短命な君主が続き、1040年には新興のセルジュク朝に大敗してイランを失い、暫くはガズナ地方とパンジャブの一部を保ったものの、セルジュク朝に属国化されたのち1150年にゴール朝にガズナを逐われ、ラホールで滅ぼされた。

ゴール朝  〜1215 ▲
 ガズナ朝に服属していたヘラート東南のゴール地方の世襲領主が、ガズナ朝の衰退に乗じて樹立した政権。1121年にセルジュク朝に服属して属国として認められ、アラー=ウッディーン=フサインII世(在:1149〜61)が1150年にガズナを陥してアフガニスタンに支配権を確立するとスルタンを称した。 程なく斜陽のセルジュク朝に叛いて大破されたものの、セルジュク朝の断絶によって勢力を回復し、1173年にガズナを回復したギヤース=ウッディーン(在:1163〜1203)はホラサーン征服を進める一方で、弟のムハンマド=ゴーリーをガズナ総督として東国経営とイスラム教の弘布を兼ねたヒンドゥスタン征服を行なわせた。 西方ではホラズム=シャー朝を大破してカラ=キタイを撃退し、東方ではラージプート諸侯を大破したのちベンガル湾に達し、国内各都市で造営事業が盛んに興されて最盛期を現出した。
 ギヤース=ウッディーンの死後はホラサーンの殆どを失い、インドでもマムルーク総督が半ば自立し、土豪勢力とマムルークの対立で崩壊が進んでホラズム=シャー朝に滅ぼされた。

 
 

インド

 アジア大陸の南の半島状の亜大陸。南アジア、インド半島とも。ヒマラヤ山系とガンジス川・インダス川に画された比較的閉鎖された地で、古来から一世界として認識されてきたが、歴史的にはナルマダー川〜マハーナディ川を以て南北に大別され、北インドはガンジス川流域のヒンドゥスタンとインダス川流域の西北インドに、南インドはクリシュナ・トゥンガバドラー川を境に北のデカン地方と南のタミル地方に大別される。 インド全域が統一される事は稀で、その場合にも南インドは別世界を保持する事が殆どだった。

マウリヤ朝  B317?〜B180?
 孔雀王朝とも。マガダ王国(ヒンドゥスタンのビハール地方)に興った王朝。 パータリプトラ(パトナ)を国都とし、北インドを征服したのちセレウコス朝を撃退してパンジャブ地方をも支配し、アショーカ王の時代(B268?〜B232?)にはアッサムやタミル地方を除く全インド世界を征服し、インド最初の統一帝国となった。 アショーカ王は仏教への帰依と弘法でも知られ、仏教が世界宗教となる上で不可欠の存在とされる。アショーカ王の死後は急速に分裂が進んで衰亡した。

グプタ朝  320〜?
 4世紀に北インドを統合した王朝。 ヒンドゥスタン東部のマガダ地方に興り、チャンドラ=グプタI世がヒンドゥスタンの最有力者となって320年にマハー=ラージャ=ディ=ラージャを称した事に始まり、3代の間にオリッサ地方のマハーナディ河口部〜インダス河口部に達する大帝国となり、デカン諸国との通婚や西アジアとの海上交易などによって繁栄した。 しばしばエフタルを撃退して5世紀末には尚おも北インドに権威を保ち、ミヒラクラ王の撃退にも成功したが、各地の藩王の自立が進んで瓦解した。
 320年を元年とするグプタ暦の使用や、ヴェーダ教(バラモン教)に則ったアシュヴァメーダ(馬祀祭)の挙行などで知られ、宗教には寛容だったもののヒンドゥー教の興隆でインド仏教は衰退した。

ヴァルダナ朝  605〜647
 ハルシャ=ヴァルダナ(シーラ=アーディティヤ/戒日王)による一代王朝。 デリー北方のターネサルの小王家がグプタ朝が崩壊した後にエフタル・マールワ(ヴィンディア北麓)を抑えて国勢を拡大したもので、ハルシャ=ヴァルダナが嗣位した当時はヒンドゥスタン西部のマウカリ国王を兼ねていた。 ハルシャはマウカリ王国を併せてカニャクブジャ(カナウジ)を国都とし、即位から6年間で北インドをほぼ征服して南インドを支配するチャールキヤ朝と並立した。 北インドを統一した最後のヒンドゥー政権でもあり、専制的ではあったものの仏教への帰依や福祉への注力、中国僧/玄奘の歓待や中国唐朝との国交でも知られ、詩人としても名を遺した。
 継嗣を定めず歿したことで北方の藩王アルジュナに簒奪され、たまたま訪印していた唐使王玄策によってハルシャの王統が回復されたものの往時の勢威を再現することはなかった。 以後の北インドは西北方から侵入したラージプート族が主力となることから、“ラージプート時代”とも呼ばれている。

ラージプート族
 5世紀中葉、エフタル族とともにインドに侵入した、グルジャラ族などの中央アジア系種族の末裔。 ラージプターナに定着、在地勢力との融合と伴にヒンドゥー化が進み、インドの英雄伝説によって自らをラージャ=プトラ(王の子)と称した。 西北インド〜北インドに諸王国を樹立してイスラム勢力の東進を抑えたが、連帯性に欠けて統一行動を採ることは稀で、1192年には連合してゴール朝と対峙しながらも内訌によって大敗した。 デリー=サルタナト政権下でも各地で在地王侯として勢力を保ち、1556年に即位したムガール朝のアクバルの通婚策によって同盟者として遇され、帝国軍事の支柱とされたが、アウランゼーブ帝のイスラム至上主義によって離叛してムガール朝の弱体化を促した。 後のイギリスの進出にも激しく抵抗したが、戦争・懐柔によって次第に屈服し、1817年までにイギリスの保護下に置かれ、1947年のインド独立まで多くが藩王国として存続した。

デリー=サルタナト  1206〜1526
 ゴール朝の末期に独立したインド=マムルーク朝からムガール朝の成立までの間、デリーを国都としてヒンドゥスタンを支配したムスリム歴朝の総称。 ムガール朝を中断させたアフガン系スール朝(1540〜55)を加える場合もある。 トルコ系・アフガン系のマムルーク貴族が宮廷を支配したため君主権が弱く、貴族層の内訌から政治的にも経済的にも安定性を欠く期間が多かったが、デカン高原にもムスリム政権が成立するなどイスラム教が南インドに進出する重要な画期を為した。 この時代はムスリムとヒンドゥー教徒の融和は進まず、ラージプート諸王は常に叛抗的で、又たムスリム間でも内訌が絶えなかった。

ムガール朝  1526〜1530/1555〜1858
 ティムール朝の亡命政権から発展したインド屈指にして最後の大帝国。 中央アジアを逐われたティムール朝の王族のバーブルが、インドのロディー朝を征服して建国したもので、当時の支配圏はヒンドゥスタンに限られた。 在来貴族を廃してモンゴル族による分割支配を行ない、死後まもなくアフガン系のシェール=シャーに簒奪された。
 サファヴィ朝に亡命した嗣子のフマーユーンがシェール=シャー死後の混乱に乗じてインド支配を回復し、嗣子のアクバルの時代(1556〜1605)にラージプート諸王の懐柔に成功して北インド全域を平定し、イスラム政権が割拠するデカン方面にも進出した。 アクバルを嗣いだジャハーンギール・シャー=ジャハーン父子の時代(1605〜27〜58)は、サファヴィ朝と抗争しつつデカン攻略を進め、政情の安定と国庫の充実からヒンドゥー・イスラム文化が融合したムガール文化が発達し、インド社会の極盛期と称される。
 シャー=ジャハーンの嗣子のアウランゼーブの治世(1658〜1707)は、タミル地方南半を除く全インドを支配する最大版図を示したが、偏狭なスンナ=イスラム主義は文化の発展を停滞させただけでなく、軍事の中核を担ってきたラージプート貴族の離叛やデカン諸国の叛抗をもたらし、以後はマラータ同盟の拡大に加えて宮廷紛争の激化と地方総督の自立化が顕著となり、急速に不安定なヒンドゥスタン政権に没落していった。 18世紀後半、ムガール皇帝はデリー周辺の支配と年金を条件にイギリス東インド会社軍に降伏し、19世紀中葉のセポイの乱に加わってイギリス軍によって廃された。

チャールキヤ朝  〜753
 前期チャールキヤ朝・西チャールキヤ朝とも。6世紀中葉〜8世紀のデカンを支配したヒンドゥー政権。 クリシュナ川上流のバーダーミを首都として6世紀半ばに独立し、プラーケシンII世の時代(609〜42)にはヴィンディア山脈以南〜クリシュナ川水系以北の中部インド全域を支配し、634年にナルマダー河畔でハルシャ=ヴァルダナを撃退してインドの強国として知られ、ササン朝との国交や中国の仏僧/玄奘の訪問などがあった。 南臨のパッラヴァ朝とは伝統的に抗争し、その北半を征服して程なくの642年に首都陥落とプラーケシンII世の敗死を伴う大敗を喫したが、655年にバーダーミを回復すると優位を確立し、8世紀前期に最盛期を現出した。 国内ではパッラヴァ様式のヒンドゥー寺院が多く建立され、シンド地方からのウマイヤ朝の南下を能く抑えたが、ベラール地方の封臣(ラシュトラクータ朝)に簒奪された。
  
 チャールキヤ家はラシュトラクータ朝の封臣に貶された後、973年にラシュトラクータ朝を滅ぼして再興され(後期チャールキヤ朝)、東チャールキヤ朝に対する宗主権をチョーラ王国と争った。 11世紀半頃にカリンガ地方を征服し、12世紀に入る頃に全盛期を迎えてチョーラ王国に対しても優位に立ったが、国内では諸侯の自立化が進み、1189年に崩壊した。

東チャールキヤ朝  642〜1279 ▲
 プラーケシンII世の弟が分封されたアーンドラ領が、プラーケシンII世の敗死と共に独立したもの。 ラシュトラクータ朝と激しく抗争し、973年に内訌から断絶したもののチョーラ王国の支援で1000年に再興され、以後は通婚を介して存続した。 チョーラ王国と後期チャールキヤ朝との間で宗主権争いが絶えず、1070年に王統が断絶したチョーラ王国と統合された後も係争は継続された。

ラシュトラクータ朝  753〜973
 ラージプート族に連なり、チャールキヤ朝に服属してベラール地方に封建されていたが、チャールキヤ朝の衰退に乗じて753年に簒奪した。 軍事拡大の一方でエローラ石窟寺院の発展の一翼を担い、9世紀に入る頃にはデカン高原の大部分を支配して東チャールキヤ朝を圧迫し、グルジャラやマールワを従属させてヒンドゥスタンやタミル地方にも進出した。 海上交易でも繁栄したが、10世紀半頃より内訌や内乱、東チャールキヤ朝やチョーラ王国との抗争で急衰し、再興したチャールキヤ家に簒奪された。

パッラヴァ朝  〜893
 クリシュナ川以南の南インドに、3世紀後期頃に興った王朝。 チェンナイ(マドラス)西南郊のカーンチプラムに興って海上交易で繁栄し、5世紀末頃に低迷したが、6世紀後期になると独立を回復してパーンディヤ王国を圧し、カーヴェリ河畔にまで進出した。 又たチャールキヤ朝とも抗争が続いて642年にはチャールキヤ朝を大破して一時断絶させたが、程なく復興したチャールキヤ朝に大敗し、海上交易で7世紀末頃に再興したものの740年にカーンチプラムを陥されて衰微した。 ラシュトラクータ朝との親善で再興した後、パーンディヤ王国との抗争を通じて抬頭したチョーラ王国に滅ぼされた。
 当初は仏教・ジャイナ教を信奉していたが、後にシヴァ信仰に転じ、7世紀末頃には石窟寺院に代って石造寺院が多く造営され、首都カーンチプラムはヒンドゥー教の聖地の1つとなった。

チョーラ王国  〜1279
 南インドの東海岸、カーヴェリ川下流域の王国。B3世紀のアショーカ王碑文にも現れ、2世紀半頃には南インドを支配してセイロン島にも進出したが、程なく衰微して地方政権として存続した。
 9世紀半頃にパッラヴァ朝の没落に乗じて独立し、893年にパッラヴァ朝を、920年にはパーンディヤ王国をも征服したが、949年にラシュトラクータ朝に敗れてパッラヴァ朝の故地の殆どを失った。 10世紀後期に失地の多くを回復し、11世紀半頃までにケーララ・パーンディヤを再征服し、後期チャールキヤ朝を破ってアーンドラ地方の東チャールキヤ朝に対する宗主権を確立しただけでなくクリシュナ川流域をも直接支配した。 又たセイロン島北部やガンジス河口に至るベンガル湾岸の主要部を制圧して南海航路の制海権をシャイレンドラ朝より奪い、シヴァ・ヴィシュヌ寺院を多く建立して極盛期を現出した。 1070年に王統が絶えると婚家の東チャールキヤ朝から嗣王を迎えて統合されたが、後期チャールキヤ朝との抗争で衰え、南方に再興したパーンディヤ王国に滅ぼされた。

パーンディヤ王国
 マウリヤ朝のアショーカ王の時代からインド南方の勢力として知られたヒンドゥー政権。 古くから真珠の産地として海外にも知られ、B20年にはローマ皇帝アウグストゥスに遣使している。 2世紀頃にはチョーラ王国に服属し、その後はパッラヴァ朝に従っていたらしいが詳細は伝わらず、7世紀頃からパッラヴァ朝に対する独立抗争が激化し、8世紀半頃にはパッラヴァ朝・チャールキヤ朝を撃破してセイロン島にも進出した。 パッラヴァ朝・ラシュトラクータ朝との抗争で衰え、再興したチョーラ王国に10世紀前期に国都を陥されると王府はセイロン島に亡命した。
 チョーラ王国の没落に乗じて1190年に南インドに再興され、13世紀前期にはチョーラ王国を大破し、海上交易によって経済的にも繁栄して南インドの雄となり、1279年にチョーラ王国を滅ぼした。 14世紀に入る頃から内訌を生じて瓦解が進み、1310年に北インドのハルジー朝に臣属したのち新興のヴィジャヤナガル王国に征服された。

マラータ同盟  1708〜1818
 デカン西部でムガール帝国のアウランゼーブ帝に抵抗を続けたヒンドゥー教徒のマラータ族が、アウランゼーブ帝の死に乗じてマラータ王国の宰相家(ペーシュワー)を中心に結成したもの。 マラータ王国は1674年に樹立され、ムガール帝国の南進に激しく抵抗したのち1689年に壊滅していた。
 マラータ同盟はマラータ王家を奉じたものの実権はペーシュワー家にあり、18世紀前期にはムガール帝国の混乱に乗じてクリシュナ・ゴーダヴァリ川以南とヒンドゥスタン・インダス川流域を除く全インドに勢威を及ぼし、18世紀半ばにはオリッサ・ベンガルの諸王にも支配権を及ぼしてムガール朝の内政にも干渉した。 1761年にアフガン勢力にパーニーパットで大敗してより有力諸家が分立し、内訌の解決にイギリスの支援を求めた事で3次に及ぶマラータ戦争が惹起され、ペーシュワー家がイギリスに降伏した事で同盟は崩壊した。藩王国に再編された諸侯国は、しばしば反英民族運動の中心となった。

△ 補注:西方アジア

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