東トルキスタン.2

オゴデイ  チャガタイ  オイラート  ホシュート  ジュンガル  トルグート
 
 

オゴデイ=ウルス

 オゴデイ=ハン国と呼ばれる場合、オゴデイ=ウルスとカイドゥ=ウルスの総称として用いられるが、両者に連続性は乏しい。 チンギス=ハーンの第3子オゴデイが封じられたイルティシュ上流域〜アルタイ西南麓の草原地帯を中心とし、エビ=ノールが王庭とされた。 オゴデイグユクの大ハーンを連続して輩出したが、モンケ=ハーンの選出に頑強に反対した為にウルスは分解され、アルタイのオゴデイ=ウルスは事実上消滅した。
 河西ではトゥルイ家に通じたコデンが東方オゴデイ=ウルスを形成した一方、アルタイ方面ではモンケの死に伴う混乱に乗じてカイドゥが独自にウルスを再興し、チャガタイ家当主のバラクを滅ぼした後は中央アジアの支配勢力となった。 1301年にカイドゥが歿した後はチャガタイ家のドゥアの干渉で生じた内訌で分裂し、ドゥア家と元朝に挟撃されて最終的にドゥア=ウルスに吸収された。

カイドゥ  〜1301
 オゴデイ=ハーンの孫。モンケ=ハーンの即位でカヤリクの領主とされたが、モンケの死に伴う内戦で勢力を蓄え、1268年にチャガタイ家のバラクジュチ家当主のモンケ=テムルとのタラス会盟で独自の勢力圏を形成した。 フレグ=ウルス攻略に失敗したバラクを1271年に襲って殺し、これよりチャガタイ=ウルスの混乱に介入して最終的にドゥアを傀儡君主とすることに成功し、1275年にはウイグル王国を攻略して中央アジアをほぼ支配した。 クビライの主権を認めなかったもののシリギの乱には介入せず、1287年にナヤンの乱に応じて東征した折もクビライがカラ=コルムに進出すると戦わず後退して元朝との全面対決を避け、アルタイが両者の国境となっていた。
 クビライに対するモンゴル王公の強い反感を背景として勢力を維持し、そのためクビライが歿すると元朝への投降者が絶えず、カイドゥと元朝の全面衝突にはカイドゥの自衛的攻勢の面があった。 1301年にはカラ=コルム・タミルなど高原各所で大会戦を演じたが、キプチャク兵団を中核とするカイシャンに大破され、この時の負傷がもとで間もなく歿した。
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 カイドゥは生前にオロスを嗣子に指名していたが、ドゥアがカイドゥの庶長子チャバールを立てたことでカイドゥ家は分裂した。 チャバールはドゥアに従って1305年に元朝と講和した後、ドゥアとカイシャンに挟撃されて所領と牧民の殆どを失い、1310年に元朝に投降した。

 
 

チャガタイ=ウルス

 チャガタイ=ハン国と呼ばれる場合は、チャガタイ=ウルスとドゥア=ウルスの総称として用いられる。 チンギス=ハーンの次子チャガタイセミレチエ地方に封じられたもので、イリ流域のアルマリクを王庭とし、オゴデイ=ハーン時代には中央アジアのほぼ全域に主権を行使した。
 グユク=ハーンの死後はオゴデイ家と結んだために一族の多くが粛清され、ウルスも細分化されたが、クビライの造叛に乗じたアルグによって再興され、アルグの死後はバラクによって内陸ステップの支配を回復した。 フレグ=ウルスに敗れた後にオゴデイ家のカイドゥに征服されたが、カイドゥの死後に当主のドゥアが元朝と提携して中央アジアの支配権を回復した。 ドゥアとその諸子の支配によってハン国としての実質を備え、以後もドゥアの血統が独占したため後期チャガタイ=ウルスはドゥア=ウルスとも呼ばれる。
 ドゥアの死後、チャガタイ家はセミレチエで遊牧社会を堅持する勢力とマーワランナフルで定住イスラム化を受容する勢力への分化が急速に進み、マーワランナフル南部のカルシに居したケベク=ハン(ドゥアの子)が1326年に歿すると東西に分裂した。 両者とも内部で有力首長が主導権を争い、14世紀後期に西方ウルスはアミール(首長)として抬頭したティムールに支配され、東方ウルスでも次第にイスラム化が進行した。

アルグ  〜1266
 チャガタイの孫。チャガタイ=ウルスの解体後は庶出の故に小領主として存続を許されたが、クビライが挙兵するとアリクブカによって中央アジアからの物資補給を条件に当主とされた。 アリクブカが劣勢になるとクビライに通じ、アリクブカに敗れて王庭を逐われた後も補給路を押えてクビライの優位に貢献した。 チャガタイ家当主だったカラ=フレグの妃/オルクナを娶ることで正統性をも強め、中央アジアを安定させた。

バラク  〜1271
 チャガタイの曾孫。チャガタイ家当主だったカラ=フレグの甥。 アルグの死後、中央アジアの安定維持を図るクビライによって当主とされたが、程なく反クビライの諸勢力と結んで中央アジア支配を進め、1268年にはジュチ家当主のモンケ=テムル、オゴデイ家のカイドゥとタラスで会盟し、マーワランナフルの権益を再配分するなど独自の勢力を形成した。 第三勢力の確立を図り、カイドゥの勧めもあって1270年にフレグ=ウルスに侵攻したもののヘラート近郊で大敗し、東部天山に帰着したのち急死した。カイドゥに暗殺されたと伝えられる。
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 チャガタイ家は以後、カイドゥの介入によって内戦状態となり、1282年に至ってカイドゥによる支配がほぼ確立し、ドゥアが当主に擁立された。 チンギス=ハーンの西征に責任が帰せられてきた中央アジアの諸都市の破壊と荒廃は、『集史』や『ヴァッサーフ史』ではチャガタイ家の内戦にカイドゥやフレグ家が介入した結果とされ、百万人以上が殺されたというサマルカンドブハラなどは、そもそも最盛期すら人口は20万前後に過ぎなかった。

ドゥア  〜1306 ▲
 チャガタイの玄孫。バラクの子。バラクが横死した当初はアルグの諸子と結んでカイドゥに抵抗したが、後にカイドゥと結んで1282年にチャガタイ家の当主とされた。 カイドゥの死後はその遺志を無視した後継者を立てる事でカイドゥ家の内訌を演出・助長して中央アジアの主導権を得、元朝との講和を成立させた翌年(1306)にはカイドゥ=ウルスを併合してチャガタイ=ウルスを再興した。
 ドゥアの死後はその諸子が順次当主となってウルスを安定させ、アフガニスタン方面にも進出した。


 

東チャガタイ=ハン国

 1326年に分裂したチャガタイ=ウルスの東方政権。 遊牧生活を堅持してモグールを称し、モグーリスタン=ハン国とも呼ばれる。 当初はビシュバリク地方を王庭とし、イスラムに改宗したトゥグルク=ティムール(1346〜63)によって内部および東西政権の統合にも成功したが、その死後は西ウルスに抬頭したティムールによってマーワランナフルを失い、15世紀初頭にアルマリクに遷移したヴァイス=ハンの死後はオイラート・カザフ・キルギズの圧力で南部に縮小して定住化・ムスリム化が進行した。
 ヴァイス=ハンの曾孫のサーイード(在:1514〜33)の時代にはヤルカンドからタリム西半を支配してヤルカンド=ハン国、又はカシュガルで即位した事に因んでカシュガル=ハン国とも呼ばれ、一時はトゥルファンやセミレチエ・フェルガナにも支配を及ぼした。 16世紀後期になるとナクシュバンディー教団の浸透によってホージャ家が実権を掌握し、1680年にホージャ家の内訌に介入したジュンガルのガルダンによって解体された。

ホージャ  ▲
 和卓。イスラム社会での身分称号の1つ。ペルシア語の“身分ある人”が原意。 オスマン朝では教役者の敬称に過ぎなかったが、トルキスタンでは宗教貴族の家系を指し、特にブハラのナクシュバンディー教団のアフマド=カサーニーの子孫は東トルキスタンに絶大な影響力を有し、カシュガル=ホージャ家と呼ばれた。
 カサーニーの諸子は16世紀後半から東トルキスタンに進出し、ヤルカンドの黒山党(黒帽回子)とカシュガルの白山党(白帽回子)に分れて抗争したが、チャガタイ家に帰依されて東トルキスタンのイスラム化を大きく進展させ、政情をも左右した。 白山党を支持して介入したジュンガルのガルダンによってチャガタイ家が滅ぼされた後も権勢を維持し、1755年にジュンガル王国が清朝に滅ぼされるとカシュガル・ヤルカンドの統治を委任されたが、清朝に叛いたアムルサナーに呼応してコーカンド=ハン国に逐われ、フェルガナで清朝への抵抗を続けた。
 1826年、白山党系のホージャ=ジハーンギールはコーカンドの兵力を以て一時はヤルカンド・ホータンの占拠に成功し、1864年の回民起義ではジハーンギールの子のホージャ=ブズルグが迎立され、ヤクブ=ベクの乱に発展した。

 
 
 
 
 瓦剌。12世紀にはエニセイ上流域にて半猟半牧生活を送る剽悍不羈の森の民として知られ、1207年にチンギス=ハーンの遠征軍に降伏して以来姻族として遇された。 モンケ=ハーンの死後は姻族の筆頭としてアリクブカを強力に支援した為に元朝を通じて不振だったが、元朝が北還した後、イェスデル(アリクブカ家)の簒奪を援けて有力となり、アルタイのナイマン部、ハンガイのケレイト部、バイカルのバルグート部と結んでドルベン=オイラート(四オイラート)と称する部族連合を形成し、時に明朝とも結んで高原東部のモンゴルと大ハーンの選出を争った。 15世紀半ばには高原牧民の慣例を破ってエセンが自ら大ハーンとなって北アジア全域を支配したが、即位の翌年(1454)には内訌から暗殺されてオイラートによる統合も崩壊した。
 15世紀末頃のダヤン=ハーンによるモンゴルの統一と、その孫のアルタン=ハーンの西征で16世紀半頃に壊滅的打撃を受けて再編を余儀なくされ、高原西部を失った後はハルハ諸部、特に右翼のジャサクト家に伐たれて服属した。 1623年に独立を回復したが、1625〜28年にホシュート部の相続紛争に端を発する内乱の結果、オイラート系のホイトなど4集団が壊滅し、ケレイト系のトルグートが内戦を避けて西遷した結果、アルタイ地方にはナイマン系のジュンガルとドルベト、三衛系のホシュートのみが残った。 オイラートはハルハの指示でチベット仏教のゲルク派を信奉していたが、この頃にはモンゴルと隔別された帰属意識が明確となり、ザヤ=パンディタによってトド文字が創案され、1640年にはハルハとの和を謳った『モンゴル=オイラート法典』も締結された。
 ホイト部が壊滅した後はホシュート部が強盛となってチベットをも支配し、17世紀後期にはジュンガル部がチベットのダライ=ラマV世と結んだガルダンの下で東トルキスタンをも支配する勢力を形成したが、清朝との直接対峙の中で内外とも安定せず、1755年に討滅された。 以後も清朝に対する抵抗が続き、1757年に行なわれた第二次ジュンガル遠征で同地のオイラートは徹底した虐殺と清軍から感染した天然痘の流行で壊滅したと伝えられる。 ほぼ無人となったイリ渓谷には満州人・シベ人・ソロン人・ダグール人などが屯田兵として入植し、1771年に帰還したトルグートは天山の南北を牧地とした。 

マフムート  〜1416
 オイラートのチョロス部長ナイマンの後身)。 当時のオイラートでタイピン・バト=ボラトと並ぶ有力な首長で、最も優勢かつ不羈的だった。1409年に明朝に朝貢して順寧王とされ、永楽帝の親征で没落したベンヤシリ=ハーンを殺し、アリクブカ家のダルバク=ハーンを擁して高原中部をも支配した。 アルクタイ討伐とトクトア=ブハの送還が聴かれなかった事から北辺を寇掠し、そのため1414年に永楽帝に親征されてヘンティー山中で大敗した。ダルバク=ハーンの死後は同家のオイラダイ=ハーンを擁立し、1416年にアルクタイに敗死した。

トゴン  〜1439
 マフムートの子。1418年に明朝に朝貢して順寧王を襲ぎ、1425年にアタイ=ハーンを擁するアルクタイを大破して興安嶺東麓に逐い、トクトア=ブハ=ハーンを迎立して1434年にアルクタイを攻滅した。 オイラート内部でも賢義王(タイピン家)・安楽王(バト=ボラト家)を殺してオイラートを統合し、1438年にはアタイ=ハーンを滅ぼしてモンゴルに対しても支配権を及ぼし、明朝との交易権を独占した。

エセン=ハーン  〜1454
 トゴンの子。モンゴルの太師として高原全域に号令しただけでなく、ハミや三衛を服属させ、モグーリスタン=ハン国女真を圧してウズベクや朝鮮にも臣従を迫る勢力を有した。 明朝との朝貢貿易では規定数を無視した使節団員を送って粗悪品を献上し、そのため1449年(正統14)に通婚の拒絶と朝貢の大幅な制限が加えられると大挙南下して土木堡で明軍の主力を殲滅し、英宗を捕虜とした。 更に北京を攻囲して交易の再開を求めたが、これは北京城の堅守によって成功せず、翌年には英宗も送還した。
 明朝との交渉の不首尾で権威が低落した為に立太子問題で姉婿のトクトア=ブハ=ハーンが公然と対立し、トクトア=ブハ=ハーンの攻滅(1451)とモンゴル王公の粛清、1453年の簒奪によって威信の回復を図り、チンギス裔はオイラートを母とする数人の王子だけが残ったと伝えられる。 エセンの簒奪は血統を重視する遊牧社会では稀有の事態で、ウイグル帝国の氏族交代を凌駕する未曾有事だったが、虐殺を伴う牧民の慣習に外れた行為は却って輿望を失わせ、大元天聖大可汗を称した翌年には太師への昇格を拒まれた部下のアラク知院に殺された。
 エセンの大粛清とその後の混乱によってモンゴル社会は再編を迫られ、現在のモンゴル族の家系もエセン時代以前に遡るものは皆無で、エセンの同時代人が実際上の始祖となっているという。
 朝貢は使節団員の員数で恩賜が左右されるので、員数の制限無視や詐称は南北の実力比のバロメーターでもあって、唐代のウイグル使節団のゴリ押しなどはよく知られています。 トゴン時代に50人内外だったオイラートの朝貢人員はエセン時代になると1千人を超え、土木の変の原因となった1448年の人員は3598人に達していました。 これはエセンの死後も同様で、ボライは1465年に2200人を派遣して660人が入国を認められ、ダヤンエセン=ハーンの朝貢団も1千人超えが常態で、1498・1504年には6千人に達しながらも明朝は実検せずに2千人の入国を許可しています。

アロチュ
 オイラートの部酋。モンゴルのボライ太師に属し、土木の変後の明朝北防の空隙に乗じて中国の西北辺を劫略した。1472年頃、ベク=アルスランに駆逐された。

ベク=アルスラン  〜1479
 ベケリスンとも。オイラート系、或いはウイグル系ムスリム。 1459年頃からハミ地方で交易路を掌握して強大となり、アロチュを駆逐してオルドス部を征した。 1475年にチャハール部長のマンドールンを大ハーンに擁立して頻りに中国の北辺を寇掠し、不和となったマンドールンを殺した後、トゥメット部長トローゲンと結んだ族弟のイスマイルに殺された。
   
 イスマイルはウリヤンカ部のボルフを擁立して太師を称し、1483年頃に不和となってボルフを逐ったが、1686年にボルフの子のダヤン=ハーンに敗死した。 オルドス部・トゥメット部は以後もオイラートの影響力が強く、容易に大ハーンの統制には服さなかった。

 

ホイト部


 四オイラートの1つ、オイラート部の後身。15世紀前期にはケレイト系のチョロス部に圧倒されていたが、エセン=ハーンの死後に勢力を回復させてモグーリスタン=ハン国をタリム盆地に逼塞させ、16世紀にはオイラートの中心勢力となっていた。 1552年にアルタン=ハーンに征服され、部長マニ=ミンガトは敗死した。

 

ホシュート部


 オイラート。部長はチンギス=ハーンの同母弟/ジョチ=カサルの裔を称したが、実際にはオジエト氏で、トゴン・エセン父子によるオイラートの拡大期にオイラートに属したものと考えられている。 ホイト部がアルタン=ハーンに大敗してより有力となってアルタイ山脈の南北にまたがる勢力を築いていたが、1606年にハルハのジャサクト家に敗れて服属し、1615年にジャサクト家の命令でゲルク派に改宗した。
 オイラートがモンゴルからの独立を果たした直後(1625)に遺産相続から内訌を生じ、これが姻族を通じて全オイラートに波及して大乱となり、オイラートは再編を余儀なくされた。 この内戦を生き残ったトロバイフ(グシ=ハーン)は17世紀中頃に南征して青海ホシュートとして分立し、青海ホシュートは1717年にジュンガルに大敗した後に清朝とも対立し、1724年に年羮堯に平定されて旗制に編入された。
 本土の宗家はオチルト=ハーンが1677年にガルダンに敗死した後はジュンガルに従い、1755年に清軍の虐殺と天然痘の蔓延で壊滅した。

ザヤ=パンディタ
 ホシュート部のバイバガス=ハーンの養子。 チベット仏教ゲルク派の高僧。1616年に出家し、外ハルハにジェプツンダンバが立てられると1638年よりダライ=ラマV世の指示でハルハ・オイラートで布教し、又たモンゴル文字を改良してトド文字を創案し、多量の仏教経典をオイラート語に翻訳してオイラート文学の基礎を築いた。 同時にハルハ・オイラートの和解にも尽力して1640年のハルハ・オイラートの大会議の開催を実現し、各部長が出席して同盟条約『モンゴル=オイラート法典』が締結され、部族間紛争を平和裏に解決することが規定された。

グシ=ハーン
 青海ホシュートの初代チベット王。本名はトロバイフ。 遺産相続問題で1625年に兄のバイバガス=ハーンが敗死した後、1630年までに内訌を終結させ、バイバガス=ハーンの嗣子/オチルトが幼少のためにホシュート部長に就いた。 1636年頃ハルハのチョクト=ハーンの弾圧に苦しむゲルク派の要請で青海に遠征し、翌年にウラン=ホシューでチョクト=ハーンを敗死させたのちラサに入ってダライ=ラマV世からグシ=ハーンの称号を贈られた。 この頃にオチルトに部長を譲り、チョロス部長ホトゴチンを婿としてバートル=ホンタイジの称号を与えて帰国させ、以後は自身の部衆を以てチベット征服を進め、1642年のシガツェ陥落を以てチベットのハーンを称して青海に王庭を定めた。 又たダライ=ラマV世をチベットの元首として“ヤルツァンポ流域の十三万戸”を寄進し、これよりゲルク派はチベットで最有力の宗派となった。

ラサン=ハーン  〜1717
 第四代チベット王。グシ=ハーンの曾孫。 ガルダンの侵攻以来形骸化していた王権回復を図り、清朝の承認下に1705年にラサを制圧して摂政サンギェ=ギャムツォを殺したが、ダライ=ラマVI世の改廃を強行した為に却って輿望を失い、ジュンガルのツェリン=ドンドブに敗死した。
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 青海ホシュートはジュンガルへの抵抗を続ける一方で清朝に乞援し、これに応じた清軍によってチベット支配を回復したが、チベット王の選出で紛糾した末にロブサン=ダンジンが1723年に独立を唱えて挙兵し、再度の清軍の介入を惹起して翌年には討平された。 ロブサン=ダンジンはジュンガルに逃亡し、青海はチベットから分離されて清朝の藩部として旗制が施行され、青海のオイラート人は全て清朝の臣民となった。

 
 

ジュンガル部

 四オイラートの1つ、ナイマン部の後身のチョロス部の別称。 モンゴル語での左翼(ジュウン=ガル)が、オイラート左翼のチョロス部の呼称になったとされる。 17世紀初頭にバートル=ホンタイジがホシュート部のトロバイフと結んでより隆盛に向かい、その死後の内訌を経て子のガルダンの代にダライ=ラマV世の支持を背景にオイラートを統合し、高原中部〜東トルキスタンを支配した。 ガルダンが内紛と清朝の攻勢で敗死した後も清朝の主権下にオイラートの盟主を保ち、しばしば継承の際に内紛を生じながらも一時はキルギズやチベットにまで勢力を伸ばした。 ガルダン=ツェリンがハルハ部と争ったことで清朝の介入を招き、青海・チベットの主権を失った後も抵抗を続けたために1755年に征服・解体された。

バートル=ホンタイジ  〜1653
 本名はホトゴチン。ジュンガル部長。トルグート部長ホー=オロクルやホシュート部長トロバイフの娘婿。 トロバイフの青海征圧に従ってバートル=ホンタイジの称号を与えられ、帰国後はしばしばカザフの中オルダに遠征して1643・1652年には大勝し、ロシアとも外交を行なった。
 死後は嫡出のセンゲと庶出のチェチェンが対立し、ハルハのジャサクト家とも提携したセンゲがホンタイジの号を襲いで勢力を拡大したが、1670年に暗殺された。

ガルダン=ハーン  1645〜1697
 ジュンガル王。バートル=ホンタイジの末子。ゲルク派の高僧ウェンサ=トゥルクの転生としてダライ=ラマV世に師事していたが、ジュンガル部長を嗣いでいた同母兄のセンゲが暗殺されると還俗して帰国し、ホシュート部長オチルト=ハーンにも支援されて内訌を鎮め、嫂(オチルトの孫)を娶ってチョロス部長となった。 イリ地方に拠るオチルト=ハーンを1677年に撃滅した事でオイラートの最有力者となり、ダライ=ラマV世からボショクト=ハーンの称号を贈られ、1680年にはヤルカンド=ハン国の内訌に介入してタリム諸国を支配し、西トルキスタンにも支配を拡げた。
 ホシュートとの抗争でチャグンドルジ=ハーンに介入されて以来ハルハのトシェト家との関係は悪化しており、ハルハの内訌の調整を目的とした1686年のクレーンベルチル会議でのガンデンチパ(ゲルク派)とジェプツンダンバI世(トシェト家)との席次問題や会議後のチャグンドルジ=ハーンの和約不履行、更には弟が殺された事で1687年に武力進攻を行なってトシェト=ハーンを大破したが、ハルハ人の大量南奔と清朝の介入をもたらした。 ガルダンも又た教勢拡大を図るダライ政権の摂政サンギェ=ギャムツォの煽動で1690年には漠南に侵攻し、理藩院尚書アラニ率いるモンゴル人部隊を撃滅したが、赤峰近郊のウラン=ブトンで裕親王福全と激突して痛み分け、本国では甥のツェワン=ラブタンが離叛した。 1696年に康熙帝に親征され、ジョー=モド(昭莫多)で撫遠将軍フィヤングの西路軍に大破され、敗走中に病死した。

ツェワン=ラブタン  1663〜1727
 ジュンガル王。センゲの長子。ガルダンの甥。ジュンガル王国の拡大とともにガルダンと不和となり、1689年に襲撃されて次弟ソノム=ラブタンが殺されたが、翌年に始まったガルダンの東征に乗じて父の旧領ボロ=タラからアルタイ以西の全土を征圧し、1691年に清朝との交易を再開したことで支持を集めた。 ロシアと提携して工業化や軍の近代化も試行され、清朝とは哈密の帰属を巡って1715年より開戦し、1717年にラサのチベット王ラサン=ハーンを敗死させた。 チベットは1720年に清軍に奪回され、翌年にはトゥルファンを陥されてアルタイ・バルクルにも清兵が進駐したが、康熙帝の死によって清兵は1725年までにチベット・アルタイ・バルクルから撤退して講和した。

ツェリン=ドンドブ  ▲
 ツェワン=ラブタンの従弟。 1717年に青海に遠征してチベット王ラサン=ハーンを滅ぼし、翌年には清軍とホシュートの援軍を殲滅したが、ゲルク派以外を弾圧した為に輿望が集まらず、1720年に清軍が青海と四川から侵攻してくると東トルキスタンに逃れた。 清軍の撤収で帰国し、ガルダン=ツェリンの東征ではホブドに進駐する靖辺大将軍フルダンをホトン=ノールで撃滅したが、サイン=ノヤンに撃退された。

ガルダン=ツェリン  〜1745
 ジュンガル王。ツェワン=ラブタンの子。 清朝との和平を利用して西トルキスタンやカザフ=ステップを経略したのち1731年に漠北に侵攻したが、翌年の再征でエルデニ地方で大敗すると講和に傾き、1739年にハルハとの国境画定に合意し、ジュンガルの牧地はアルタイ以西に定まった。 以後は西方経略を再開させて交易路の掌握によって全盛期を現出したが、ウズベク族カザフ族のロシアへの帰順とロシアの進出を惹起した。
 嗣子ツェワン=ドルジナムジャルは嗜虐の性によって離背者を続出させ、1750年に庶兄ラマ=ダルジャに簒奪されたうえ両目を潰されて幽閉された。

ダワチ  〜1755
 ツェリン=ドンドブの孫。ガルダン=ツェリン死後の混乱を避けてカザフに逃れた後、ホイトの遺民を統べるアムルサナーと結んで1753年にイリにラマ=ダルジャを滅ぼしてハーンを称した。 アムルサナーやドルベト部に離背された翌年(1755)に内訌の沈静を名とした清軍に大破され、カシュガルに逃れる途中で捕われたが、北京では宗室を娶って親王として遇された。

アムルサナー  〜1757 ▲
 ガルダン=ツェリンの甥。ダワチの簒奪を積極的に支援し、ジュンガル王となったダワチと不和になるとホブドに奔って清朝に臣従した。 翌1755年、ウリヤスタイから発する清軍の北路副将軍としてジュンガル遠征に加わり、ジュンガル平定後にドルベン=オイラートが再興されるとホイト部長とされたが、オイラート王位を求めて叛し、トヴァの多羅郡王チングンザブ(ジャサクト家)、ホイトのバヤル=ハーン、チョロスのガルザン=ドルジ=ハーンらも呼応してジュンガルの故地の殆どを制圧した。 造叛の翌年には大破されてイリからカザフに逃れ、1757年にもイリ奪回を図って伊犂将軍ジョーホイに撃退されたが、オイラートの度重なる叛抗は清軍による大虐殺を惹起し、イリ地方のオイラート人はほぼ壊滅した。

 

トルグート部


 四オイラートの1つ、ケレイトの後身。1625年に始まるオイラートの内乱でホシュート・ドルベトの一部を併せた約5万帳が部長ホー=オロクルに従って1628年頃より西遷し、カザフ族に敗れたのち1630年にはヴォルガ河畔に到達してノガイ人を駆逐した。 ホー=オロクルは1644年にアストラハンでロシア人に敗死したが、嗣子のシクル=ダイチンはザカフカスに及ぶ勢力を樹立して1656年にロシア皇帝アレクセイと同盟し、これを嗣いだ子のプンツォクは1670年にホシュート部のオチルト=ハーンの弟のアバライ=タイシに殺された。
 トルグートはチベット仏教を奉じてダライ政権とも連絡を保ち、モスクワ政府へのトルグート騎兵供出で富強となったアユーキ=タイシ(プンツォクの嗣子)は1694年にダライ=ラマVI世より=ハーン号を認められた。 オイラートの制覇を図ったとも伝えられるが、17世紀末に子のサンジブが離背して15千帳を以てジュンガル部のツェワン=ラブタンに投じて勢力が減衰した。 アユーキ=ハーンの死後は継嗣に指名されていた長子のツェレン=ドンドクとその甥のドンドクオンブが争い、内訌を治めたドンドクダシ(アユーキ=ハーンの孫)の時代には清朝の虐殺を逃れた同族(新トルグート)も合流したが、ヴォルガへの入植を進めるロシアの干渉が強まった。
 1761年にドンドクダシが歿して嗣子のウバシが17歳で立てられると、ドンドクオンブ=ハンの孫のツェベクドルジがロシアに支援され、劣勢となったウバシ=ハンは部衆を率いて1771年にイリ地方に東帰して清朝に臣属し、進発当時は17万余だった部衆はロシアの追撃やカザフ族の襲撃で7万弱に減少していたという。
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 清朝はトルグートを新旧2部に大別して旧部を東西南北の4路に、新部を左右の2翼に分割し、それぞれに盟長を置いてイリ将軍が統轄し、ウバシ=ハンは天山南麓の南路4旗の盟主とされた。
 ヴォルガ河西に残留した部民はカルムィクと呼ばれ、現在のカルムィク共和国に至っている。 カルムィクとはトルコ語の「カルマク(留まった者)」のロシア語転訛で、1619年頃にハルハのウバシ=ホンタイジがロシア皇帝にオイラートの挟撃を要請する際、オイラートを「カルムィク」と呼んだ事に由来し、後にヨーロッパによるオイラートの呼称となった。
 

藩部モンゴル


 1771年のトルグートの帰還を以って、バイカル湖以東のブリヤート人とヴォルガ=トルグートを除く全てのモンゴル系民族が清朝の臣民となり、基本的に同盟者として優遇された。 清朝のモンゴル行政は満州族同様に旗(ホシューン)を基本単位として旗ごとに牧地を指定して旗長(ジャサク)を置き、ジャサクには旧来の首長が任じられて世襲し、それぞれ和硯親王(ホショイ=ギュンワン)・多羅郡王(ドロイ=ギュンワン)・多羅貝勒(ドロイ=ベイレ)・固山貝子(グサン=ベイセ)・鎮国公(トシェグン)・輔国公(トサラフグン)などに封じられ、ジャサク以外の王族はスラ(闔U)と呼ばれた。
 各旗は地区毎に盟(チャールガン)を形成し、漠南49旗は6盟に分れ、漠北86旗はサイン=ノヤン部の成立を以て4部(アイマク)に編成されて一部が一盟を形成し、オイラートはホブド地区に30旗、天山地区に17旗、チベットのアムド地方に30旗が置かれ、1751年にチベット執政のギェルメが粛清された後にウィ地方のホシュート人が8旗に編成された。 王公は毎春に盟ごとに閲兵式を行ない、3年に1度は北京に朝貢し、漢人の旗地への入植は厳禁された。
 モンゴル・オイラートとも多くがチベット仏教のゲルク派を信仰し、漠南ではチャンジャ=フトクトを座主とするドロン=ノールの彙宗寺が、漠北ではジェプツンダンバ=フトクトを座主とするウラン=バートルのガンダン寺が信仰の中心となった。 僧侶は一切の公的負担を免除されて教育・科学技術・医療などの各方面の中心となったが、出家希望者の増加と大領主としての寺院の存在は中国同様に国力を減退させ、後の宗教弾圧の原因となった。
 
 

回民
 漢回とも。中国に在住し、漢語を用いるムスリムに対する清代の呼称。 その多くは唐〜元代にアラブ系・イラン系の外来ムスリムと通婚・改宗した漢族の後裔とされる。新附の新疆のトルコ系ムスリムをも包摂して用いられることも多かったが、新疆のトルコ=ムスリムは宗教・地縁意識に発した“ムスリム”“イェルリク(土地者)”を称した。 民族主義・民族自決が波及した20世紀になって、回疆のトルコ=ムスリムはロシアでの諸民族の創出の影響で“ウイグル”を自称するようになり、中国でも1934年には“維吾爾”との漢字表記が定められた。 又た人民共和国時代になって回民も民族として認定されたが、政策上の都合から血統原理が適用され、非ムスリムの回族も増加している。
 回族は本来はウイグル族(回鶻)を指し、ウイグル族の拠る河西方面から来朝するイスラム教徒の呼称が次第に拡大し、モンゴル時代には西方のムスリムの総称として用いられ、仏教徒であるウイグル族とは区別された。 現在では中国在住のムスリムの約半数を占め、言語・外貌面では漢族との識別は難しく、コミュニティ中のモスク(清真寺)やイスラム的生活文化を共通のアイデンティティとしている。
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 19世紀半ばの陝甘回民起義の後、中央アジアに逃れた回民はドンガン(東干)と呼ばれ、現在では民族認定されている。 ドンガンの語源は、テュルク諸語のdonghan「(正しきに)回帰した(者)」に由来するとの説が有力視されている。


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