東トルキスタン

 狭義の中央アジアの東半。トルコ人の住地としてのトルキスタンの東半を指し、地勢的にはアルタイ山脈と崑崙山脈に挟まれ、概ね現在の新疆ウイグル自治区に重なる。 中央を東西に走るボグダ=ボロホロ山脈以北のジュンガル盆地と西のイリ盆地、天山山脈以南のタリム盆地と東のトゥルファン盆地に大別され、概ね前者は遊牧社会、後者はオアシス都市社会と定義する事もでき、北疆・南疆とも区分される。
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 ジュンガル地方には古くはキルギズ族が拠り、又た突厥ウイグル興隆の地でもあり、ウイグル帝国崩壊後は西ウイグル王国の勢力圏となり、並立したカラ=ハン朝と与に一帯のウイグリスタン化を進めたが、それまでは北アジアの遊牧国家によるタリム支配や西方進出の前線拠点としての役割が求められる事が多く、以後も契丹やモンゴルなどの遊牧勢力の強い影響下に置かれた。
 元朝が北帰した後はオイラートの本拠となり、17世紀にオイラートの指導勢力となったジュンガル部が王庭を置いた事が現今の名称の由来となった。
西域  高昌  イリ  西突厥  西ウイグル  西遼  チャガタイ  オイラート  ジュンガル
 
 

タリム盆地

 天山山脈と崑崙・アルティン山脈に囲まれた、東トルキスタンの南半地区。 中央の大部分をタクラマカン沙漠が占め、周縁の山麓部には融雪河水によるオアシス都市が形成されている。 山麓河川の殆どが沙漠中に没し、南縁のホータンヤルカンド・アクスを流れるものは地下水脈となり、北縁を流れるタリム河に合してロブ=ノールに流入する。 タクラマカン沙漠を囲むオアシス幹線路は古来から東西交渉の幹線として重視され、東方では河西廻廊によって黄河流域に連結し、中国人からは“西域”と呼ばれた。
 本来はアーリア人が主要種族だったが、9世紀以降のウイグル人の西遷と定着によって次第にトルコ化が進み、モンゴルのチャガタイ家が支配する15世紀にはイスラム教も浸透し、清代には“回部”“回疆”と呼ばれた。 18世紀には北接する準部(ジュンガリア)を併せて新疆省とされ、トゥルファン盆地は東路としてウルムチ都統が、タリム盆地は南路としてカシュガル参賛大臣が管轄した。 回部とは、トルコ系ムスリムが大多数を占めることに由来する清代の称で、漢族系ムスリムの回族とは明確に区別された。
 

伊吾
 現在のハミ(哈密)。 古くはサカ族の住地として“昆莫”と呼ばれ、B2世紀初頭には匈奴に服属していた。 B60年に西漢が西域都護府を設置して伊吾盧と改称し、東漢では宜禾都尉を置き、北魏は伊吾郡を設け、隋は柔遠鎮を加え、唐の時に伊州の下に伊吾・納職・柔遠の3県を設けて伊吾軍を置いた。12世紀にはカラ=キタイに支配され、元朝ではアルマリク行中書省に属した。 ドゥア=ウルスの崩壊後はチャガタイ家が拠って独立した哈密国となり、1404年に明朝に帰属して哈密衛が設けられた。 ジュンガル王国の崩壊後は清朝に属し、中華民国の下で庁から県に改められたが、チャガタイ王家は1930年まで存続した。

楼蘭
 B2世紀後期の西漢の西域進出の際に、最東端の西域の門戸として知られた。 B108年に武帝が匈奴を駆逐してより漢に服属し、位置関係から西域諸国でも最も親漢的だった。 B77年に匈奴への転向を図った王が漢使の傅介子に殺されてより鄯善と改称したが、楼蘭の称は以後も長らく使用され、伊吾とともに西域経略の橋頭堡として重視された。

鄯善  ▲
 ロブ=ノール南辺のオアシス国家。旧名は楼蘭。 嘗てはロブ=ノールの遷移によって楼蘭都城が移設された後の呼称とされた。1世紀頃には西方の莎車に接する西域屈指の領域国家で、東漢勢力が後退した後も版図を保ち、4世紀には河西政権に入貢していたが、河西を失った沮渠氏に制圧された。 この時、住民の過半は王を奉じて且末(チェルチェン)に移住し、楼蘭故城は445年に北魏に征服されて傀儡化された。630年頃にはロブ=ノールの遷移によって住民は伊州に移住し、644年に玄奘が通過した際には廃墟となっていたという。
 楼蘭都城はクロライナのLA遺跡に比定されるが、これは3世紀の遺構であるため、それ以前の都城の位置については結論が決していない。

于闐
 ホータン、于田。盆地南縁のオアシス都市。西域南道の要衝を占め、B2世紀に漢人に知られた頃には大いに繁栄し、于闐の玉は月氏の交易品の重要品目として中国の絹と交易された。 アーリア系の原住民は“ヴィジャヤ”を姓とする王家に治められ、その勢力は南道一帯に及んでいた。
 北道の亀茲とともにインド・ペルシア文化圏の東限でもあり、仏教東伝にも重要な役割を果たし、于闐仏教と中国仏教との関係は注目されている。 唐朝の下で安西四鎮の1つに数えられ、以後、ウイグル・吐蕃の支配を経てカラ=ハン朝の治下でイスラム化が進行したが、その過程で古来の都市は荒廃し、その東方に新市街が造られた。

莎車
 ヤルカンド。カラ=コルム山に発するヤルカンド河畔の西域南道のオアシス都市。 疏勒・于闐に挟まれた小国で、1世紀頃には勢力を強めて南道の大国となったものの、内紛と于闐との抗争で班超の西征の頃には衰えていた。
 モンゴル時代には東トルキスタン西部のアルティ=シャフル(六城)の1つとして知られ、東チャガタイ=ハン国ではさらに重要視され、ホージャ時代には黒山党の根拠地とされた。

疏勒
 カシュガル。タリム盆地の西端に位置する北道の要衝で、西域諸国の中でも代表的存在とされ、唐代の安西四鎮にも数えられた。カシュガルの称は現地では8世紀頃から使用されたが、中国では11世紀頃まで疏勒と呼んだ。 唐勢力の撤退後はカラ=ハン朝、次いでカラ=キタイに支配され、東トルキスタンのイスラム勢力の中心的拠点となった。
 モンゴル時代にはチャガタイ家に属し、17世紀後期までその裔が拠ってヤルカンド=ハン国を形成していたが、1680年頃からジュンガル王国の保護領となり、1759年以降は清朝に属した。

焉耆
 カラ=シャール。タリム盆地北辺、カラ=シャール川末端のオアシス都市。 北道の要衝で、住民はアーリア系でトハラa語を使用していたと推定されている。 古来、北方遊牧勢力の南下経路にあたり、1世紀には匈奴と強く結び付いて亀茲と与に班超の経略に頑強に抵抗した。
 唐代には安西四鎮に数えられたこともあり、9世紀後期以降は西ウイグル王国の所領となって次第にトルコ化し、12世紀頃からはイスラム化も進行した。 16世紀には東チャガタイ=ハン国の1基地としてチャリシュと呼ばれた。現在の城邑は18世紀のもので、往古の焉耆国はその南方に比定される。

亀茲
 クチャ。清朝以降は庫車と記される。もとはアーリア系を住民としたタリム盆地北辺のオアシス都市で、古代の王家の姓は白・帛と伝えられる。北道の重要な中継市場・隊商宿駅として栄え、南道の于闐と共に仏教文化の一中心でもあった。 漢は付近の烏塁(チャーディール/ブグル)に西域都護を置き、唐代には安西都護府が設置された。 9世紀後期以降は西奔したウイグル、さらにカラ=ハン朝に支配され、11世紀中頃からトルコ=イスラム化が進んだ。 13〜17世紀はチャガタイ家に属し、1680年頃にジュンガル王国に征服され、1759年に清朝の領有となった。

 
 

トゥルファン

 東部天山の盆地・都市。海抜-280mに位置して“アジアの井戸”とも呼ばれる。古くから物産が豊富で一帯の政治・文化の一中心であるだけでなく、大陸交易路の交差点でもあり、北方遊牧勢力は西域に南下する際の拠点とし、中国王朝は西域経営の基地とした。
 西漢に知られた当時は車師王国が西北の交河城(ヤルホト)に都し、漢は東南の高昌城(カラホト)に屯田した。 高昌城は車師を滅ぼした高昌王国の都となり、唐代には西州都護府が置かれ、9世紀からは西ウイグル王国の首府とされた。 15世紀、チャガタイ家の一拠点となってから名が知られ、トゥルファン盆地の中心都市となっただけでなく、東トルキスタンのイスラム文化の中心としてカシュガルと並立した。

車師
 トゥルファンの王国。天山北道の起点でもあり、西漢宣帝代には前国・後国など6ヶ国に分かれ、宗家である車師前国はトゥルファン盆地を支配して交河城を都とした。 しばしば漢と匈奴の係争地となり、漢は元帝代に高昌城に戊己校尉を置き、以後も西域経略では最も重視されたが、情勢に応じて匈奴に附す事が常だった。 4世紀に前涼が高昌郡を併置すると漢人の入植が活発となったが、車師王国は北魏に滅ぼされた北涼の残部によって450年に滅ぼされた。

 

高昌

 5〜7世紀、トゥルファン地方に存在した漢人植民都市、王国。 B1世紀に漢が高昌壁に屯田兵を置いたことに始まり、2世紀末以来の本土の動乱によって移住者が増え、4世紀中ごろに前涼が高昌郡を設置した。 北涼が北魏に滅ぼされると、遺族の沮渠氏は部衆の一部とともに高昌に逃れ、450年には土着の車師王国を滅ぼして高昌国を樹立し、以後、北方遊牧勢力の支配下に沮渠・闞・張・馬・麹氏の王朝が興亡した。
 499年に興った麹氏王朝は640年まで存続し、中国文化と西方系・北方系文化を融合させた独自の文化を発展させた。 唐朝に滅ぼされた当時は3州5県22城に8千戸・3万口を擁し、5県を以て西州に属した。 9世紀中頃よりは西ウイグル王国の重要拠点の1つとなり、モンゴル時代以降はカラ=ホジョと呼ばれた。

沮渠無諱  〜444
 沮渠蒙遜の子。北涼の沙州刺史・領酒泉太守。 姑臧の陥落後も酒泉に拠って抵抗を続け、441年に北魏に臣属して酒泉王とされたが、程なく叛いて翌年には鄯善・高昌を陥して南朝宋に称藩し、都督涼河沙三州諸軍事・征西将軍・涼州刺史・河西王に冊立された。
 死後は弟の安周が嗣ぎ、南朝宋からも位号の継承を認められたが、460年に柔然に敗死した。

闞伯周  〜477?
 高昌王。沮渠無諱に逐われた高昌太守闞爽の一族とされる。 沮渠王朝を滅ぼした柔然によって擁立された。以後、闞義成・闞首帰が王統を嗣いだが、481年に高車に滅ぼされ、敦煌人の張孟明が国王とされた。

馬儒  〜501?
 高昌王。496年頃に張孟明が国人に殺されて立てられた。 翌年に北魏に求めて伊吾への移住が認められたが、実行直前に離郷を嫌う国人に殺された。

麹嘉  〜523
 麹氏高昌国の開祖。金城楡中の漢人の裔。国王の馬儒を殺した国人に擁立された。当時の高昌は柔然高車の影響下にあり、麹嘉は初めは柔然に、可汗の伏図が高車に敗死した後は高車に服属した。 エフタルと接する焉耆を属国とし、又た北魏にも朝貢して平西将軍・瓜州刺史・高昌王に冊立された。

麹文泰  〜624〜640
 高昌王。 630年に唐に入朝したものの、以後は西突厥と結んで伊吾を侵し、オアシス=ルートを阻害するなど唐に敵対し、入朝を拒んだ事で討伐されて大軍を前に憂死した。
 嗣子の麹智盛が継嗣とされたものの、程なく遠征軍に開城して中原に徙され、左武衛将軍・金城郡公とされた。

安西四鎮
 唐が西域鎮撫のために亀茲于闐疏勒砕葉に置いた都督府。 安西都護・安西節度使に統括され、後には吐蕃防衛を任とした。 安西都護府は西方情勢の変化とともに遷移し、高昌王国の征服による設置当初は西州都護府として高昌城に置かれ、648年に亀茲に進められ安西都護府と改称したが、以後は西突厥に対処して高昌と亀茲を転遷した。 阿史那賀魯が鎮圧されたことで安定したものの、670年には吐蕃に陥されて四鎮も順次廃止された。
 安西都護府・安西四鎮は692年に再興されたが、719年に砕葉鎮が突騎施に占領されると都護府は焉耆に移転され、安史の乱後は隴西を占領した吐蕃に対してウイグル沙陀などの協力で本国との連絡を保ったが、790年までに全鎮が吐蕃によって陥された。

北庭
 ビシュ=バリク、別失八里。東部天山の北麓の故都。トルコ語で“五つの城”を意味し、突厥オルコン碑文に初見する。640年、高昌王国を滅ぼした唐が庭州を置き、702年に北庭都護府を設けたことで北庭と呼ばれるようになった。 以後も長らくトルコ系牧民の中心地の1つであり、突厥、バシュミル、沙陀などが拠り、8世紀後半以降はウイグル族の勢力下に置かれた。 9世紀半ばにウイグル帝国が崩壊すると西ウイグルの主要な通商都市として繁栄し、13世紀後期にモンゴルの内戦が生じるとウイグル王族は高昌に遷都した。
 その比定地はかつてはジムサ説が有力だったが、現在ではその東の古城とされている。

 
 

セミレチエ

 七河地方の意。天山西北のバルハシ水系やチュー・タラス流域の総称で、イリ地方として扱われる事も多い。 境内にはイリ渓谷・ユルドゥズ渓谷千泉など放牧の好適地を多く擁し、東西のステップをつなぐだけでなく東西交易の幹線であるオアシス地帯に隣接するため、古来より多くの遊牧勢力に好まれ、月氏烏孫西突厥ウイグルモンゴルオイラートなどが興亡した。
 主要都市として古くはアルマリクや、チュー河畔のスィーアーブ(砕葉城)があり、国際戦争として知られるタラス会戦の戦場もチュー川西方のタラス河畔のジャンブル近郊にある。

イリ  ▲
 伊利・伊犂。天山北麓から西北流してバルハシ湖に注ぐ主要河川の1つ。流域一帯、もしくは盆地の名称。 上流域一帯は水草に恵まれた大渓谷で、セミレチエ地方の中心として古くから多くの遊牧勢力が牙庭を営んだ。
 18世紀にジュンガル王国が滅ぼされた後は清朝によって新疆統治の中心とされ、寧遠城・恵遠城などの城堡が築かれ、恵遠城に伊犂将軍が進駐し、清朝によって移民と開発が進められた。 19世紀後半に回民起義が発生すると1871年にロシア軍に占領され、1881年のイリ条約で東南部のみが返還された。

ユルドゥズ
 天山山脈の東北麓、焉耆県の西北に連なる焉耆盆地(バインブルク草原)を流れる開都河の中〜上流域。 一帯は現在でも四国を凌ぐ面積の一大草原地帯で、セミレチエの遊牧種の多くがイリ渓谷と共に好んで牙庭を設けた。

アルマリク
 弓月城、イリ=バリクとも。イリ地方の主要都市の1つ。 古くから天山北路の重要な結節点と見做され、モンゴル時代にはチャガタイ=ウルスの中心都市として繁栄した。 後にモンゴル族を逐ったウズベク族に破壊された為に比定は困難だが、伊寧〜霍城間と予想されている。

ベラサグン
 スィーアーブ(砕葉)。チュー川下流、キルギズ共和国首都ビシュケク東方。天山北路の要衝の1つで、灌漑農耕も可能なことから古くから著名な都市が営まれ、西突厥の拠った砕葉城や唐が西方支配の拠点のひとつとした裴羅将軍城などが数えられる。 唐末にウイグル族が拠ってよりベラサグンと呼ばれるようになり、カラ=ハン朝の中心となった。
 カラ=ハン朝を征服したカラ=キタイは、ベラサグンをグズ=オルドと改めて国都とした。

チェルチェン
 千泉。イッシク=クル西方のオアシス都市。中国史書の表記はトルコ語の意訳とされる。 ビシケク西方120kmほどの、カザフスタン共和国のメルケにあたる。 チュー川の支流沿いに多くの湖沼を伴う平原と豊かな森林を擁し、西突厥の統葉護可汗など遊牧勢力の君長が好んで王庭を設けた。


烏孫
 B2世紀中頃、大月氏を逐ってセミレチエを占拠した遊牧種。 言語・始祖伝説などはトルコ系に類似するが、容貌に関する記録や遺骨の調査ではユーロポイドと推測されている。 B121年に張騫が派遣されてより中国とは友好関係を維持し、匈奴の西域進出も共同して抑えたが、5世紀初頭に柔然に大敗してパミール山中に逃れた後は記録に現れない。

月氏
 B3世紀頃、モンゴル高原西部にあって河西を介した東西貿易を独占的に中継し、タリム盆地東部やアルタイ地方をも支配した遊牧種。 一時は北アジアで最も強盛だったが、B2世紀前期に匈奴の冒頓単于老上単于に惨敗を重ねてイリ地方に退き、間もなく匈奴と結んだ烏孫にも逐われてソグディアナに遁れた。
 河西を逐われた後は2部に分れた為にイリ地方の集団は漢によって大月氏と呼ばれ、南遷した後はバクトリアをも支配して中継貿易で繁栄した。 1世紀中頃に土侯のクシャーン侯が抬頭し、大月氏に代わって同地方を支配したが、中国では貴霜、あるいは大月氏と呼び続けた。 月氏はしばしばスキタイ=サカ族とも呼ばれるが、民族的帰属はチベット説・モンゴル説・トルコ説・イラン説など諸種あり、その名称の原音も解明されていない。

康居
 5世紀頃までシル=ダリア上流域に拠った遊牧種。 大月氏大宛と争ってソグディアナの主要部を支配し、そのため中心都市のサマルカンドは後に康国と表記されるようになった。 烏孫との対立が熾烈になるとB44年に匈奴の郅支単于をタラス河畔に招致し、郅支単于が漢に敗死すると中国に朝貢するようになり、1世紀頃にはタリム盆地西部にも影響力を及ぼしていた。 5世紀にはエフタルに臣属し、7世紀の西突厥の内訌では肆葉護可汗を庇護したもののその後の活動は確認できず、永徽年間(650〜55)に唐の羈縻州としての康居都督府がサマルカンドに置かれた。突厥碑文のケンゲレス、イスラム史料のカンリー族はその後裔とされる。

奄蔡
 アラン人。B2世紀頃からカザフ=ステップに拠ったイラン系遊牧種。 ギリシア語史料のアオルソイと同一とされ、3世紀頃の中国では阿蘭とも記された。中国語資料では10余万の兵力を有したと伝えられ、サルマトの西遷と伴に拡大して1世紀頃にはシル=ダリア下流域に王庭を営み、アゾフ海方面にも進出してサルマトを西方に圧迫した。 フン族の進出と西遷によって一部がヨーロッパに移動したが、大部分はカフカス北方に残留し、イスラム時代にはキリスト教を受容していた。13世紀にモンゴル軍に征服され、元代史書では阿速=Asと記された。現在のオセット族の祖とされる。

 
 
 北アジアの突厥帝国の西面可汗が中継貿易での富を背景に、本国の内紛と隋の離間策によって6世紀末頃に独立したもの。 セミレチエに拠ってシルク=ロードの幹線を押え、当初から本国を凌ぐ実力を有し、7世紀に入ると鉄勒諸部を伐ち、ササン朝を圧して中央アジアを支配した。 統葉護可汗の時に可汗庭を西方の千泉に遷し、東面可汗が旧王庭に、西面可汗が石国(タシュケント)の北方に置かれた。
 西突厥の中心は十姓とも呼ばれる十部で構成され、沙鉢羅可汗の時に各部に設が置かれるとともに左廂の五部咄陸=五大啜と、右廂の五部弩失畢=五大俟斤に分けられた。大可汗はしばしば十姓可汗とも称し、又た各設は箭を以て標識とした事から十箭とも呼ばれた。
 可汗権力は東突厥以上に脆弱で、沙鉢羅可汗の時に分裂した後は統一を回復できずに西域諸国に対する宗主権も失い、唐の羈縻支配下に弱体化して突騎施が抬頭した。
 

室点蜜可汗  〜575
 イステミ可汗。突厥の初代西面可汗。初代の大可汗伊利可汗の弟。 ビザンツ史料ではディザブロス。伊利可汗の在世中より西面可汗として中央アジア経略を担い、ササン朝との協働でエフタルを大破してソグディアナに進出し、567年にはエフタルを滅ぼしてカスピ海北方にまで及ぶ大勢力を築き、ユルドゥズ渓谷を王庭とした。 後に絹貿易の利権をめぐってササン朝と対立し、ソグド人マニアクを使節団長としてビザンツ帝国と絹貿易を含む攻守同盟を締結し、ステップ=ルートを介しての貿易を活発化させた。

達頭可汗  〜603
 タルドゥ可汗。突厥の第二代西面可汗。室点蜜可汗の子。 本国を逐われた阿波可汗を支持した事で多くの勢力が帰附し、しばしば大可汗の都藍可汗とも攻伐したが、599年には都藍可汗を支援して親隋派の突利可汗を大破し、都藍可汗が殺されると大可汗として歩迦可汗と号した。 これより突利可汗を支持する隋に連年伐たれ、積敗した事で鉄勒諸部にも離叛され、吐谷渾に遁れて歿した。

射匱可汗  〜619?
 達頭可汗の孫。阿波可汗の遺衆を率いる処羅可汗の対抗馬として煬帝に支援され、610年に処羅可汗を大破した。程なく隋の混乱に乗じて大可汗を称し、鉄勒を破って西突厥の勢力を回復し、亀茲の北の三弥山に可汗庭を定めた。

統葉護可汗  〜628
 トン=ヤブグ可汗。射匱可汗の弟。 鉄勒諸部を服属させ、ササン朝を大破してトハーリスタンをも支配し、王庭を西方のの千泉に遷した。 唐との修好を保ち、後に渡印途上の玄奘も寄依するなど西域道の守護者を自任する強盛を誇ったが、離叛したカルルク族討伐の途上で伯父の莫賀咄に殺された。
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 統葉護可汗の死後、阿史那氏に従う十姓部族は咄陸集団と弩失畢集団に分れてそれぞれ可汗を立てて抗争し、唐の支援を求めて半ば藩属状態となり、西域諸国に対する影響力も著しく後退した。 7世紀中頃には阿史那賀魯によって一時的に再統一されたが、数年で唐に滅ぼされ、以後は阿史那氏の2都督が可汗号を許されて唐の羈縻支配を受けた。7世紀末頃から突騎施が抬頭して影響力を失い、741年頃に滅ぼされた。

莫賀咄  〜630
 統葉護可汗の伯父。統葉護可汗を殺して簒奪し、唐にも朝貢したものの、弩失畢部や鉄勒に離叛されて西域諸国に対する影響力も著しく後退した。肆葉護可汗を擁する弩失畢部に大破されてアルタイ山中で殺された。

肆葉護可汗
 統葉護可汗の子。 父が莫賀咄に殺されると康居に奔り、次いで弩失畢部に迎立されて莫賀咄と対立した。 西突厥の正統として支持者が多く、630年に莫賀咄を敗死させて大可汗を称したが、薛延陀を伐って大敗した後は狭量を忌まれて輿望を失い、離叛した諸部に敗れて放逐された。

咄陸可汗  〜634 ▲
 大渡可汗とも。 統葉護可汗が殺された当初は弩失畢部から可汗に擬されたが、肆葉護可汗を推戴し、アルタイに敗走した莫賀咄を討滅した。 632年に肆葉護可汗と対立して焉耆に奔り、肆葉護可汗が放逐されると迎立された。唐に臣礼を執って諸部の安定を図った。

沙鉢羅可汗  〜634〜639 ▲
 咄陸可汗の弟。 唐への臣礼を保ったものの通婚は許されず、欲谷設=乙毗咄陸可汗を擁した諸部に離叛され、弩失畢部・処密部などに支えられて西域諸国への影響力の保持を図ったが、翌年(639)には乙毗咄陸可汗への内通者に逐われてフェルガナで歿した。
 子の莫賀咄乙毗可汗(屈利失乙毗可汗とも)が弩失畢部に擁立されたものの翌年に歿し、次いで立てられた乙毗沙鉢羅葉護可汗(沙鉢羅可汗の甥)も641年に乙毗咄陸可汗に敗死した。

乙毗射匱可汗  〜641〜651? ▲
 莫賀咄乙毗可汗の子。 乙毗咄陸可汗に抑圧された弩失畢部が唐の支援下で擁立した。 乙毗咄陸可汗を奔走させた後、拘束されていた唐使を649年に悉く送還するなど唐に臣従して通婚も認められたが、阿史那賀魯に敗れて部衆を悉く奪われた。

乙毗咄陸可汗  〜638〜653
 欲谷設。夙に弩失畢部と反目し、638年に咄陸諸部に支持されて乙毗咄陸可汗と号して沙鉢羅可汗に対抗し、バシュミル・キルギズなどにも影響力があった。 翌年に離間策によって沙鉢羅可汗を放逐させるなど弩失畢諸部の分裂・弱体化に成功してオアシス地域にも支配力を及ぼし、641年には西突厥の再統合に成功したが、程なく弩失畢諸部に叛かれ、又た唐の安西都護とも攻伐し、乙毗射匱可汗を擁した弩失畢に伐たれて吐火羅国へ亡命した。
 その故地は阿史那賀魯に支配され、乙毗咄陸可汗の子の真珠葉護は唐に与して阿史那賀魯を攻伐した。

阿史那賀魯  〜659
 639年に乙毗咄陸可汗より葉護(副可汗)とされてタラス河畔に拠り、五部弩失畢を総べた。乙毗射匱可汗に敗れて648年に唐に内属すると庭州に置かれ、翌年に高宗が即位すると左驍衛大将軍に進位されたが、651年に西走して乙毗咄陸可汗の故地を占め、雙河(ボロ川)・千泉に拠って沙鉢羅可汗を称した。 咄陸・弩失畢の十姓を統領して西域諸国の多くが附属したが、三次に及ぶ唐の遠征と乙毗咄陸可汗の遺児/真珠葉護の挟撃で657年に大破され、石国(タシュケント)で擒われたのち長安に送られて歿した。

突騎施
 トゥルギシュ族。西突厥の五部咄陸に属した十姓の1つで、7世紀前期にはイリ上流域に拠り、阿史那賀魯が滅ぼされた後、吐蕃の進出による唐の統制の後退で抬頭した。 首領の烏質勒が690年頃に砕葉より西突厥可汗を逐って十姓部族を支配し、アルタイ西麓のカルルクを従え、十四姓可汗を称してしばしばタリム地方に侵寇した。
 烏質勒の嗣子の娑葛は弟に叛かれて711年に東突厥のカパガン可汗に敗死したが、残部の糾合に成功した別部の蘇禄がカパガン可汗の死後に可汗を称し、吐蕃とも結んで唐辺を劫掠した。 蘇禄の晩年には蘇禄の部(黒姓)と娑葛の系統(黄姓)が攻伐して738年に蘇禄は黄姓の莫賀達干に敗死し、翌年にも黒姓は磧西節度使蓋嘉運と結んだ莫賀達干に大破されたが、莫賀達干は唐の分治方針に叛抗した為に744年に安西節度使夫蒙霊詧に大破された。
 突騎施はイスラム軍の西進に対して防波堤の役割も果たしてきたが、この唐の一時的な回復によって勢力を失い、唐も程なく安史の乱と吐蕃の拡大で中央アジアを顧みる余裕を失い、カルルクやウイグルが影響力を強めていった。

 
 古代の遊牧トルコ種の一分派。アラビア語ではグズ ghuzz。 語根の oghu は親族関係を示すとされ、隋唐の史書の烏護はその音訳ではあるが、族名の起源は不明。 突厥碑文ではテュルクと常に対抗する種族として記され、ウイグル族セルジュク族なども本来はその構成部族だった。 トクズ=オグズ(九姓鉄勒)など幾つかの部族連合を形成したが、主力は9〜10世紀頃カザフスタンに移動し、この頃からイスラム化が始まった。

トクズ=オグズ  ▲
 中国史料の九姓鉄勒。 九=トクズ、部姓=オグズの意で、オルコンの突厥碑文にも見える鉄勒内部の部族連合体。 迴紇(ウイグル)・僕骨(ボクト)・拔野古(バイルク)・同羅(トンラ)・思結(シキトゥ)・渾(クン)・契苾・多覧葛(テレンギュ)・斛薛・奚結・阿跌(エディズ)・思結別部・白霫・都播(トゥバ)・骨利幹(クリカン)部が挙げられるが、前7部以外は確定していない。 8世紀に構成部族の一員のウイグル族が強盛となって漠北の覇権を握ると、西方ではしばしばウイグルの別称としても用いられた。

バシュミル
 抜悉密。バイカル湖西北に拠って突厥に服属していた鉄勒で、649年には唐に来朝した。 8世紀頃に北庭に移って勢力を増し、ウイグルカルルクと結んで突厥帝国を滅ぼした。 部長の阿史那施が九姓可汗に立てられたが、翌年にはカルルクとウイグルに滅ぼされ、部民はウイグル帝国の構成民となった。
 バシュミル部長の称号のイドゥクートは“神の恩寵”を意味し、以後も鉄勒系君主の称号として用いられ、高昌国や西ウイグルでも国王の世襲称号とされた。

カルルク
 葛邏禄。アルタイ西方に遊牧した鉄勒諸部の1つで、謀落 bulaq・熾俟 chigil・踏実力 tukhsi部に分かれていた。 東西両突厥の間に介在して叛服常なく、744年にウイグルと合して突厥帝国を滅ぼし、後に主力はセミレチエ地方に遷って突騎施に替わってトルキスタンを支配した。 ウイグル帝国の崩壊後は西遷してきたウイグル族を受容して国家制度を摂取し、カラ=ハン朝を樹立した。

 

西ウイグル


 天山ウイグルとも。10世紀初頭に北庭(ビシュ=バリク)に拠って天山方面を支配した、エディズ王統のウイグル王国。 ウイグル族は可汗国の崩壊後、主に南下集団と西奔集団に分かれたが、西奔した15部の一部は河西に入って甘州ウイグルと呼ばれ、主力の拠った天山方面には西ウイグル王国が成立し、ベラサグン方面に移動した集団は現地のカルルク族と融合してカラ=ハン朝の出現を用意した。
 西ウイグルはオアシス都市文化を受容して定住化し、農耕だけでなく東西貿易の仲介によって繁栄し、シャーマニズム・マニ教のほか景教・仏教も行なわれ、印欧語族の原住民と混在してパミール以東のトルキスタン化を進めた。 12世紀前期にはカラ=キタイに服属したが、13世紀初頭の国王バルジュックはいち早くモンゴルのチンギス=ハーンに臣属して本領を安堵され、第五太子の待遇を受けた。
 ウイグル人はソグド人とともにモンゴル帝国で要職を占めて行政・経済を担ったが、王国は1268年に始まるカイドゥの乱で衰退し、王族は高昌、さらに永昌(甘粛)に東遷して旧領を喪失した。 天山に残ったウイグル人は15世紀以降イスラム化し、現在は新疆維吾爾自治区の主要な住民となっている。

 

カラ=ハン朝


 イリク=ハン朝。チュー河畔のベラサグン一帯に拠るカルルク族の中から興ったが、建国当初から分化傾向が強く、又た未解明な部分が多い。 開祖とされるサトク=ボグラ=ハンは、はじめ西ウイグル王国に副王とされてカシュガルに拠り、初めてイスラム教に帰依して、960年頃には本家の拠るベラサグン方面も征服して20万帳を集団改宗させた。 継嗣のイリク=ハン=ナスルはサーマーン朝を滅ぼしてマーワランナフルを支配し、又た東部の諸王が仏教国ホータンを征服し、宗主国の西ウイグル王国と共に中央アジアのトルキスタン化を決定的にした。
 宗教問題から11世紀初頭には西ウイグル王国から完全に分離し、又た11世紀半頃にはベラサグン政権とカシュガル政権がパミールを境に東西に分裂したが、それぞれ急速な定住化と内部分裂で弱体化し、西王朝は1089年にはセルジュク朝のケルマーン政権に臣属した。東王朝は1130年代にカラ=キタイに征服され、西王朝の宗主権も程なくカラ=キタイに掌握された。 部族組織と王統はカラ=キタイを通じて維持され、西征途上のチンギス=ハーンに西ウイグル王国と前後して臣属した。

 
 

カラ=キタイ

 1124〜1211
 西遼。直訳の“黒契丹”は、契丹族の自称でもある。 金に滅ぼされたの王族の耶律大石が中央アジアに逃れ、西ウイグル王国カラ=ハン朝を征服してベラサグンに拠ったもの。 その版図は東西トルキスタンのほぼ全域に及び、オアシス都市からの貢納の他に東西の仲介貿易に依るところが大きく、最盛期にはナイマン族ホラズム朝をも臣属させ、イスラム文化と中国文化の交流に大きく寄与した。 13世紀初頭の大石の孫のチルクの時代、庇護したナイマン王子グチュルクによって簒奪された。
 西遼は自身の記録を遺さず、『遼史』天祚帝紀中の耶律大石の記事と、後世のイスラム史家の伝聞資料が記録の殆どとなっているため、建国期と末期以外の事跡は殆どが不明となっている。

耶律大石  1087〜1143 ▲
 の太祖の裔。遼の天祚帝が金に敗れて西奔した後に燕京に拠って天錫帝を擁立したが、金に大敗して漠北に逃れ、糾合した7州の契丹人とタタール18部族から可敦城で可汗に推戴された。 まもなく金の追撃を避けてビシュ=バリクに入り、1132年にベラサグンのカルルク王ビルゲを降し、カラ=ハン朝・西ウイグル王国に君臨してグル=ハンを称した。
 後に南下して西域諸国とホラサーン=セルジュク朝の連合軍を大破し、サマルカンドに入って東西トルキスタンを領有したが、故地回復を図る東征途上で歿した。


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