伊吾
現在のハミ(哈密)。
古くはサカ族の住地として“昆莫”と呼ばれ、B2世紀初頭には匈奴に服属していた。
B60年に西漢が西域都護府を設置して伊吾盧と改称し、東漢では宜禾都尉を置き、北魏は伊吾郡を設け、隋は柔遠鎮を加え、唐の時に伊州の下に伊吾・納職・柔遠の3県を設けて伊吾軍を置いた。12世紀にはカラ=キタイに支配され、元朝ではアルマリク行中書省に属した。
ドゥア=ウルスの崩壊後はチャガタイ家が拠って独立した哈密国となり、1404年に明朝に帰属して哈密衛が設けられた。
ジュンガル王国の崩壊後は清朝に属し、中華民国の下で庁から県に改められたが、チャガタイ王家は1930年まで存続した。
楼蘭
B2世紀後期の西漢の西域進出の際に、最東端の西域の門戸として知られた。
B108年に武帝が匈奴を駆逐してより漢に服属し、位置関係から西域諸国でも最も親漢的だった。
B77年に匈奴への転向を図った王が漢使の傅介子に殺されてより鄯善と改称したが、楼蘭の称は以後も長らく使用され、伊吾とともに西域経略の橋頭堡として重視された。
鄯善 ▲
ロブ=ノール南辺のオアシス国家。旧名は楼蘭。
嘗てはロブ=ノールの遷移によって楼蘭都城が移設された後の呼称とされた。1世紀頃には西方の莎車に接する西域屈指の領域国家で、東漢勢力が後退した後も版図を保ち、4世紀には河西政権に入貢していたが、河西を失った沮渠氏に制圧された。
この時、住民の過半は王を奉じて且末(チェルチェン)に移住し、楼蘭故城は445年に北魏に征服されて傀儡化された。630年頃にはロブ=ノールの遷移によって住民は伊州に移住し、644年に玄奘が通過した際には廃墟となっていたという。
楼蘭都城はクロライナのLA遺跡に比定されるが、これは3世紀の遺構であるため、それ以前の都城の位置については結論が決していない。
于闐
ホータン、于田。盆地南縁のオアシス都市。西域南道の要衝を占め、B2世紀に漢人に知られた頃には大いに繁栄し、于闐の玉は月氏の交易品の重要品目として中国の絹と交易された。
アーリア系の原住民は“ヴィジャヤ”を姓とする王家に治められ、その勢力は南道一帯に及んでいた。
北道の亀茲とともにインド・ペルシア文化圏の東限でもあり、仏教東伝にも重要な役割を果たし、于闐仏教と中国仏教との関係は注目されている。
唐朝の下で安西四鎮の1つに数えられ、以後、ウイグル・吐蕃の支配を経てカラ=ハン朝の治下でイスラム化が進行したが、その過程で古来の都市は荒廃し、その東方に新市街が造られた。
莎車
ヤルカンド。カラ=コルム山に発するヤルカンド河畔の西域南道のオアシス都市。
疏勒・于闐に挟まれた小国で、1世紀頃には勢力を強めて南道の大国となったものの、内紛と于闐との抗争で班超の西征の頃には衰えていた。
モンゴル時代には東トルキスタン西部のアルティ=シャフル(六城)の1つとして知られ、東チャガタイ=ハン国ではさらに重要視され、ホージャ時代には黒山党の根拠地とされた。
疏勒
カシュガル。タリム盆地の西端に位置する北道の要衝で、西域諸国の中でも代表的存在とされ、唐代の安西四鎮にも数えられた。カシュガルの称は現地では8世紀頃から使用されたが、中国では11世紀頃まで疏勒と呼んだ。
唐勢力の撤退後はカラ=ハン朝、次いでカラ=キタイに支配され、東トルキスタンのイスラム勢力の中心的拠点となった。
モンゴル時代にはチャガタイ家に属し、17世紀後期までその裔が拠ってヤルカンド=ハン国を形成していたが、1680年頃からジュンガル王国の保護領となり、1759年以降は清朝に属した。
焉耆
カラ=シャール。タリム盆地北辺、カラ=シャール川末端のオアシス都市。
北道の要衝で、住民はアーリア系でトハラa語を使用していたと推定されている。
古来、北方遊牧勢力の南下経路にあたり、1世紀には匈奴と強く結び付いて亀茲と与に班超の経略に頑強に抵抗した。
唐代には安西四鎮に数えられたこともあり、9世紀後期以降は西ウイグル王国の所領となって次第にトルコ化し、12世紀頃からはイスラム化も進行した。
16世紀には東チャガタイ=ハン国の1基地としてチャリシュと呼ばれた。現在の城邑は18世紀のもので、往古の焉耆国はその南方に比定される。
亀茲
クチャ。清朝以降は庫車と記される。もとはアーリア系を住民としたタリム盆地北辺のオアシス都市で、古代の王家の姓は白・帛と伝えられる。北道の重要な中継市場・隊商宿駅として栄え、南道の于闐と共に仏教文化の一中心でもあった。
漢は付近の烏塁(チャーディール/ブグル)に西域都護を置き、唐代には安西都護府が設置された。
9世紀後期以降は西奔したウイグル、さらにカラ=ハン朝に支配され、11世紀中頃からトルコ=イスラム化が進んだ。
13〜17世紀はチャガタイ家に属し、1680年頃にジュンガル王国に征服され、1759年に清朝の領有となった。
車師
トゥルファンの王国。天山北道の起点でもあり、西漢宣帝代には前国・後国など6ヶ国に分かれ、宗家である車師前国はトゥルファン盆地を支配して交河城を都とした。
しばしば漢と匈奴の係争地となり、漢は元帝代に高昌城に戊己校尉を置き、以後も西域経略では最も重視されたが、情勢に応じて匈奴に附す事が常だった。
4世紀に前涼が高昌郡を併置すると漢人の入植が活発となったが、車師王国は北魏に滅ぼされた北涼の残部によって450年に滅ぼされた。
沮渠無諱 〜444
沮渠蒙遜の子。北涼の沙州刺史・領酒泉太守。
姑臧の陥落後も酒泉に拠って抵抗を続け、441年に北魏に臣属して酒泉王とされたが、程なく叛いて翌年には鄯善・高昌を陥して南朝宋に称藩し、都督涼河沙三州諸軍事・征西将軍・涼州刺史・河西王に冊立された。
死後は弟の安周が嗣ぎ、南朝宋からも位号の継承を認められたが、460年に柔然に敗死した。
闞伯周 〜477?
高昌王。沮渠無諱に逐われた高昌太守闞爽の一族とされる。
沮渠王朝を滅ぼした柔然によって擁立された。以後、闞義成・闞首帰が王統を嗣いだが、481年に高車に滅ぼされ、敦煌人の張孟明が国王とされた。
馬儒 〜501?
高昌王。496年頃に張孟明が国人に殺されて立てられた。
翌年に北魏に求めて伊吾への移住が認められたが、実行直前に離郷を嫌う国人に殺された。
麹嘉 〜523
麹氏高昌国の開祖。金城楡中の漢人の裔。国王の馬儒を殺した国人に擁立された。当時の高昌は柔然・高車の影響下にあり、麹嘉は初めは柔然に、可汗の伏図が高車に敗死した後は高車に服属した。
エフタルと接する焉耆を属国とし、又た北魏にも朝貢して平西将軍・瓜州刺史・高昌王に冊立された。
麹文泰 〜624〜640
高昌王。
630年に唐に入朝したものの、以後は西突厥と結んで伊吾を侵し、オアシス=ルートを阻害するなど唐に敵対し、入朝を拒んだ事で討伐されて大軍を前に憂死した。
嗣子の麹智盛が継嗣とされたものの、程なく遠征軍に開城して中原に徙され、左武衛将軍・金城郡公とされた。
安西四鎮
唐が西域鎮撫のために亀茲・于闐・疏勒・砕葉に置いた都督府。
安西都護・安西節度使に統括され、後には吐蕃防衛を任とした。
安西都護府は西方情勢の変化とともに遷移し、高昌王国の征服による設置当初は西州都護府として高昌城に置かれ、648年に亀茲に進められ安西都護府と改称したが、以後は西突厥に対処して高昌と亀茲を転遷した。
阿史那賀魯が鎮圧されたことで安定したものの、670年には吐蕃に陥されて四鎮も順次廃止された。
安西都護府・安西四鎮は692年に再興されたが、719年に砕葉鎮が突騎施に占領されると都護府は焉耆に移転され、安史の乱後は隴西を占領した吐蕃に対してウイグル・沙陀などの協力で本国との連絡を保ったが、790年までに全鎮が吐蕃によって陥された。
北庭
ビシュ=バリク、別失八里。東部天山の北麓の故都。トルコ語で“五つの城”を意味し、突厥オルコン碑文に初見する。640年、高昌王国を滅ぼした唐が庭州を置き、702年に北庭都護府を設けたことで北庭と呼ばれるようになった。
以後も長らくトルコ系牧民の中心地の1つであり、突厥、バシュミル、沙陀などが拠り、8世紀後半以降はウイグル族の勢力下に置かれた。
9世紀半ばにウイグル帝国が崩壊すると西ウイグルの主要な通商都市として繁栄し、13世紀後期にモンゴルの内戦が生じるとウイグル王族は高昌に遷都した。
その比定地はかつてはジムサ説が有力だったが、現在ではその東の古城とされている。
イリ ▲
伊利・伊犂。天山北麓から西北流してバルハシ湖に注ぐ主要河川の1つ。流域一帯、もしくは盆地の名称。
上流域一帯は水草に恵まれた大渓谷で、セミレチエ地方の中心として古くから多くの遊牧勢力が牙庭を営んだ。
18世紀にジュンガル王国が滅ぼされた後は清朝によって新疆統治の中心とされ、寧遠城・恵遠城などの城堡が築かれ、恵遠城に伊犂将軍が進駐し、清朝によって移民と開発が進められた。
19世紀後半に回民起義が発生すると1871年にロシア軍に占領され、1881年のイリ条約で東南部のみが返還された。
ユルドゥズ
天山山脈の東北麓、焉耆県の西北に連なる焉耆盆地(バインブルク草原)を流れる開都河の中〜上流域。
一帯は現在でも四国を凌ぐ面積の一大草原地帯で、セミレチエの遊牧種の多くがイリ渓谷と共に好んで牙庭を設けた。
アルマリク
弓月城、イリ=バリクとも。イリ地方の主要都市の1つ。
古くから天山北路の重要な結節点と見做され、モンゴル時代にはチャガタイ=ウルスの中心都市として繁栄した。
後にモンゴル族を逐ったウズベク族に破壊された為に比定は困難だが、伊寧〜霍城間と予想されている。
ベラサグン
スィーアーブ(砕葉)。チュー川下流、キルギズ共和国首都ビシュケク東方。天山北路の要衝の1つで、灌漑農耕も可能なことから古くから著名な都市が営まれ、西突厥の拠った砕葉城や唐が西方支配の拠点のひとつとした裴羅将軍城などが数えられる。
唐末にウイグル族が拠ってよりベラサグンと呼ばれるようになり、カラ=ハン朝の中心となった。
カラ=ハン朝を征服したカラ=キタイは、ベラサグンをグズ=オルドと改めて国都とした。
チェルチェン
千泉。イッシク=クル西方のオアシス都市。中国史書の表記はトルコ語の意訳とされる。
ビシケク西方120kmほどの、カザフスタン共和国のメルケにあたる。
チュー川の支流沿いに多くの湖沼を伴う平原と豊かな森林を擁し、西突厥の統葉護可汗など遊牧勢力の君長が好んで王庭を設けた。
烏孫
B2世紀中頃、大月氏を逐ってセミレチエを占拠した遊牧種。
言語・始祖伝説などはトルコ系に類似するが、容貌に関する記録や遺骨の調査ではユーロポイドと推測されている。
B121年に張騫が派遣されてより中国とは友好関係を維持し、匈奴の西域進出も共同して抑えたが、5世紀初頭に柔然に大敗してパミール山中に逃れた後は記録に現れない。
月氏
B3世紀頃、モンゴル高原西部にあって河西を介した東西貿易を独占的に中継し、タリム盆地東部やアルタイ地方をも支配した遊牧種。
一時は北アジアで最も強盛だったが、B2世紀前期に匈奴の冒頓単于・老上単于に惨敗を重ねてイリ地方に退き、間もなく匈奴と結んだ烏孫にも逐われてソグディアナに遁れた。
河西を逐われた後は2部に分れた為にイリ地方の集団は漢によって大月氏と呼ばれ、南遷した後はバクトリアをも支配して中継貿易で繁栄した。
1世紀中頃に土侯のクシャーン侯が抬頭し、大月氏に代わって同地方を支配したが、中国では貴霜、あるいは大月氏と呼び続けた。
月氏はしばしばスキタイ=サカ族とも呼ばれるが、民族的帰属はチベット説・モンゴル説・トルコ説・イラン説など諸種あり、その名称の原音も解明されていない。
康居
5世紀頃までシル=ダリア上流域に拠った遊牧種。
大月氏・大宛と争ってソグディアナの主要部を支配し、そのため中心都市のサマルカンドは後に康国と表記されるようになった。
烏孫との対立が熾烈になるとB44年に匈奴の郅支単于をタラス河畔に招致し、郅支単于が漢に敗死すると中国に朝貢するようになり、1世紀頃にはタリム盆地西部にも影響力を及ぼしていた。
5世紀にはエフタルに臣属し、7世紀の西突厥の内訌では肆葉護可汗を庇護したもののその後の活動は確認できず、永徽年間(650〜55)に唐の羈縻州としての康居都督府がサマルカンドに置かれた。突厥碑文のケンゲレス、イスラム史料のカンリー族はその後裔とされる。
奄蔡
アラン人。B2世紀頃からカザフ=ステップに拠ったイラン系遊牧種。
ギリシア語史料のアオルソイと同一とされ、3世紀頃の中国では阿蘭とも記された。中国語資料では10余万の兵力を有したと伝えられ、サルマトの西遷と伴に拡大して1世紀頃にはシル=ダリア下流域に王庭を営み、アゾフ海方面にも進出してサルマトを西方に圧迫した。
フン族の進出と西遷によって一部がヨーロッパに移動したが、大部分はカフカス北方に残留し、イスラム時代にはキリスト教を受容していた。13世紀にモンゴル軍に征服され、元代史書では阿速=Asと記された。現在のオセット族の祖とされる。
室点蜜可汗 〜575
イステミ可汗。突厥の初代西面可汗。初代の大可汗伊利可汗の弟。
ビザンツ史料ではディザブロス。伊利可汗の在世中より西面可汗として中央アジア経略を担い、ササン朝との協働でエフタルを大破してソグディアナに進出し、567年にはエフタルを滅ぼしてカスピ海北方にまで及ぶ大勢力を築き、ユルドゥズ渓谷を王庭とした。
後に絹貿易の利権をめぐってササン朝と対立し、ソグド人マニアクを使節団長としてビザンツ帝国と絹貿易を含む攻守同盟を締結し、ステップ=ルートを介しての貿易を活発化させた。
達頭可汗 〜603
タルドゥ可汗。突厥の第二代西面可汗。室点蜜可汗の子。
本国を逐われた阿波可汗を支持した事で多くの勢力が帰附し、しばしば大可汗の都藍可汗とも攻伐したが、599年には都藍可汗を支援して親隋派の突利可汗を大破し、都藍可汗が殺されると大可汗として歩迦可汗と号した。
これより突利可汗を支持する隋に連年伐たれ、積敗した事で鉄勒諸部にも離叛され、吐谷渾に遁れて歿した。
射匱可汗 〜619?
達頭可汗の孫。阿波可汗の遺衆を率いる処羅可汗の対抗馬として煬帝に支援され、610年に処羅可汗を大破した。程なく隋の混乱に乗じて大可汗を称し、鉄勒を破って西突厥の勢力を回復し、亀茲の北の三弥山に可汗庭を定めた。
統葉護可汗 〜628
トン=ヤブグ可汗。射匱可汗の弟。
鉄勒諸部を服属させ、ササン朝を大破してトハーリスタンをも支配し、王庭を西方のの千泉に遷した。
唐との修好を保ち、後に渡印途上の玄奘も寄依するなど西域道の守護者を自任する強盛を誇ったが、離叛したカルルク族討伐の途上で伯父の莫賀咄に殺された。
▼
統葉護可汗の死後、阿史那氏に従う十姓部族は咄陸集団と弩失畢集団に分れてそれぞれ可汗を立てて抗争し、唐の支援を求めて半ば藩属状態となり、西域諸国に対する影響力も著しく後退した。
7世紀中頃には阿史那賀魯によって一時的に再統一されたが、数年で唐に滅ぼされ、以後は阿史那氏の2都督が可汗号を許されて唐の羈縻支配を受けた。7世紀末頃から突騎施が抬頭して影響力を失い、741年頃に滅ぼされた。
莫賀咄 〜630
統葉護可汗の伯父。統葉護可汗を殺して簒奪し、唐にも朝貢したものの、弩失畢部や鉄勒に離叛されて西域諸国に対する影響力も著しく後退した。肆葉護可汗を擁する弩失畢部に大破されてアルタイ山中で殺された。
肆葉護可汗
統葉護可汗の子。
父が莫賀咄に殺されると康居に奔り、次いで弩失畢部に迎立されて莫賀咄と対立した。
西突厥の正統として支持者が多く、630年に莫賀咄を敗死させて大可汗を称したが、薛延陀を伐って大敗した後は狭量を忌まれて輿望を失い、離叛した諸部に敗れて放逐された。
咄陸可汗 〜634 ▲
大渡可汗とも。
統葉護可汗が殺された当初は弩失畢部から可汗に擬されたが、肆葉護可汗を推戴し、アルタイに敗走した莫賀咄を討滅した。
632年に肆葉護可汗と対立して焉耆に奔り、肆葉護可汗が放逐されると迎立された。唐に臣礼を執って諸部の安定を図った。
沙鉢羅可汗 〜634〜639 ▲
咄陸可汗の弟。
唐への臣礼を保ったものの通婚は許されず、欲谷設=乙毗咄陸可汗を擁した諸部に離叛され、弩失畢部・処密部などに支えられて西域諸国への影響力の保持を図ったが、翌年(639)には乙毗咄陸可汗への内通者に逐われてフェルガナで歿した。
子の莫賀咄乙毗可汗(屈利失乙毗可汗とも)が弩失畢部に擁立されたものの翌年に歿し、次いで立てられた乙毗沙鉢羅葉護可汗(沙鉢羅可汗の甥)も641年に乙毗咄陸可汗に敗死した。
乙毗射匱可汗 〜641〜651? ▲
莫賀咄乙毗可汗の子。
乙毗咄陸可汗に抑圧された弩失畢部が唐の支援下で擁立した。
乙毗咄陸可汗を奔走させた後、拘束されていた唐使を649年に悉く送還するなど唐に臣従して通婚も認められたが、阿史那賀魯に敗れて部衆を悉く奪われた。
乙毗咄陸可汗 〜638〜653
欲谷設。夙に弩失畢部と反目し、638年に咄陸諸部に支持されて乙毗咄陸可汗と号して沙鉢羅可汗に対抗し、バシュミル・キルギズなどにも影響力があった。
翌年に離間策によって沙鉢羅可汗を放逐させるなど弩失畢諸部の分裂・弱体化に成功してオアシス地域にも支配力を及ぼし、641年には西突厥の再統合に成功したが、程なく弩失畢諸部に叛かれ、又た唐の安西都護とも攻伐し、乙毗射匱可汗を擁した弩失畢に伐たれて吐火羅国へ亡命した。
その故地は阿史那賀魯に支配され、乙毗咄陸可汗の子の真珠葉護は唐に与して阿史那賀魯を攻伐した。
阿史那賀魯 〜659
639年に乙毗咄陸可汗より葉護(副可汗)とされてタラス河畔に拠り、五部弩失畢を総べた。乙毗射匱可汗に敗れて648年に唐に内属すると庭州に置かれ、翌年に高宗が即位すると左驍衛大将軍に進位されたが、651年に西走して乙毗咄陸可汗の故地を占め、雙河(ボロ川)・千泉に拠って沙鉢羅可汗を称した。
咄陸・弩失畢の十姓を統領して西域諸国の多くが附属したが、三次に及ぶ唐の遠征と乙毗咄陸可汗の遺児/真珠葉護の挟撃で657年に大破され、石国(タシュケント)で擒われたのち長安に送られて歿した。
突騎施
トゥルギシュ族。西突厥の五部咄陸に属した十姓の1つで、7世紀前期にはイリ上流域に拠り、阿史那賀魯が滅ぼされた後、吐蕃の進出による唐の統制の後退で抬頭した。
首領の烏質勒が690年頃に砕葉より西突厥可汗を逐って十姓部族を支配し、アルタイ西麓のカルルクを従え、十四姓可汗を称してしばしばタリム地方に侵寇した。
烏質勒の嗣子の娑葛は弟に叛かれて711年に東突厥のカパガン可汗に敗死したが、残部の糾合に成功した別部の蘇禄がカパガン可汗の死後に可汗を称し、吐蕃とも結んで唐辺を劫掠した。
蘇禄の晩年には蘇禄の部(黒姓)と娑葛の系統(黄姓)が攻伐して738年に蘇禄は黄姓の莫賀達干に敗死し、翌年にも黒姓は磧西節度使蓋嘉運と結んだ莫賀達干に大破されたが、莫賀達干は唐の分治方針に叛抗した為に744年に安西節度使夫蒙霊詧に大破された。
突騎施はイスラム軍の西進に対して防波堤の役割も果たしてきたが、この唐の一時的な回復によって勢力を失い、唐も程なく安史の乱と吐蕃の拡大で中央アジアを顧みる余裕を失い、カルルクやウイグルが影響力を強めていった。
トクズ=オグズ ▲
中国史料の九姓鉄勒。
九=トクズ、部姓=オグズの意で、オルコンの突厥碑文にも見える鉄勒内部の部族連合体。
迴紇(ウイグル)・僕骨(ボクト)・拔野古(バイルク)・同羅(トンラ)・思結(シキトゥ)・渾(クン)・契苾・多覧葛(テレンギュ)・斛薛・奚結・阿跌(エディズ)・思結別部・白霫・都播(トゥバ)・骨利幹(クリカン)部が挙げられるが、前7部以外は確定していない。
8世紀に構成部族の一員のウイグル族が強盛となって漠北の覇権を握ると、西方ではしばしばウイグルの別称としても用いられた。
バシュミル
抜悉密。バイカル湖西北に拠って突厥に服属していた鉄勒で、649年には唐に来朝した。
8世紀頃に北庭に移って勢力を増し、ウイグル・カルルクと結んで突厥帝国を滅ぼした。
部長の阿史那施が九姓可汗に立てられたが、翌年にはカルルクとウイグルに滅ぼされ、部民はウイグル帝国の構成民となった。
バシュミル部長の称号のイドゥクートは“神の恩寵”を意味し、以後も鉄勒系君主の称号として用いられ、高昌国や西ウイグルでも国王の世襲称号とされた。
カルルク
葛邏禄。アルタイ西方に遊牧した鉄勒諸部の1つで、謀落 bulaq・熾俟 chigil・踏実力 tukhsi部に分かれていた。
東西両突厥の間に介在して叛服常なく、744年にウイグルと合して突厥帝国を滅ぼし、後に主力はセミレチエ地方に遷って突騎施に替わってトルキスタンを支配した。
ウイグル帝国の崩壊後は西遷してきたウイグル族を受容して国家制度を摂取し、カラ=ハン朝を樹立した。
耶律大石 1087〜1143 ▲
遼の太祖の裔。遼の天祚帝が金に敗れて西奔した後に燕京に拠って天錫帝を擁立したが、金に大敗して漠北に逃れ、糾合した7州の契丹人とタタール18部族から可敦城で可汗に推戴された。
まもなく金の追撃を避けてビシュ=バリクに入り、1132年にベラサグンのカルルク王ビルゲを降し、カラ=ハン朝・西ウイグル王国に君臨してグル=ハンを称した。
後に南下して西域諸国とホラサーン=セルジュク朝の連合軍を大破し、サマルカンドに入って東西トルキスタンを領有したが、故地回復を図る東征途上で歿した。