五代十国

 907〜960/979
 唐の滅亡から宋の建国までの分裂期。 中原には主に開封を国都とした五王朝が興亡し、その他の地でも十数の王国が乱立した。 五代とは後梁・後唐・後晋・後漢・後周を、十国とは呉・南唐・呉越・閩・南漢・前蜀・荊南・楚・後蜀・北漢を指し、他にも劉守光の燕・李茂貞の岐などがあった。
 五代王朝は概ね経済都市の開封を国都とした事や、門閥主義が否定された事などに象徴される隋唐体制からの脱却と、太原地方を基盤とする突厥系の沙陀族の盛衰を大きな潮流とした。 開封に拠って旧制からの脱却を標榜した後梁と復唐を唱えた沙陀族の後唐の攻防は後者の勝利で終わったが、後唐でも唐制への回帰は否定されるようになった。 後唐に続く後晋後漢の興亡は沙陀族内部の抗争の側面があり、契丹の動向に対して敏感で、殊に後唐を滅ぼした後晋の建国と滅亡には契丹の直接介入があり、後晋の建国に際しては後世の懸案となる燕雲十六州問題が生じた。
 沙陀政権を太原地方に追いやった後周は五代最高の明君とされる世宗の時代に中央集権と君主権の強化に一定の成果を挙げ、江北を征服して国力の増強にも成功したが、960年に禁軍を掌握する趙匡胤に簒奪され、この趙匡胤の興した宋朝によって中国は再統一された。

 諸国の多くは黄巣の乱を機に生じた兵団を中核とした藩鎮の延長線上にあり、最有力の藩鎮が大小の藩鎮を従えて勢力を構築しているに過ぎず、そのため藩鎮の旧事が往々にして用いられ、特に中原の五代王朝では短命な政権が相次いだ。 又た部族連合体として分権的性格の強い遊牧勢力が時代を担った事も、五代王朝の短命を助長したものと考えられる。
 黄河流域以外に諸国が割拠するという前代未聞の状況は、各地域の経済力がそれぞれの政体を支えられるほど発展していたことを示し、殊に南唐は淮塩と江左の農産力を背景に中原を凌ぐ経済力を有し、南唐文化と呼ばれる過渡期文化を開花させた。 江南諸国による開発は宋朝における江南の飛躍的発展を準備したが、各地域の成長の研究は途上段階にあるとされている。
 

後梁  後唐  後晋  後漢  後周
  
  南唐  呉越     荊南     前蜀  後蜀  南漢  北漢

 
 

後梁

 907〜923
 黄巣の部将から唐朝に転向した朱全忠が、唐朝を簒奪して樹立した政権。門閥主義や宦官の重用などの唐制を否定し、交易都市の開封を国都として華北の主権者となったが、太原や関中・幽州などには号令が及ばず、河朔三鎮などの順地藩鎮の多くにも直接支配は行なえなかった。 建国前から太原の晋王国と攻伐し、911年の柏郷の役と翌年の朱全忠の横死の後は守勢に転じて内訌が続き、遼と和して後顧の憂を除いた後唐=晋国に滅ぼされた。

朱全忠  852〜907〜912
 後梁の太祖。宋州碭山の人。旧諱は温。唐朝より全忠と賜名され、即位後に晃と改めた。 黄巣の乱に投じて一方の将に進んだが、朝廷の招撫に応じると全忠と賜名されて節度使に任じられ、黄巣平定に大きく貢献した。 乱後は中原各地の対抗勢力を平定して梁王に封じられ、殊に経済の大要衝である開封に拠ったことは華北に支配権を確立する上で大きく作用し、対立する晋王李克用を圧倒し、朝廷を制圧するに至った。 904年に昭宗を殺して哀帝を立て、翌年に謀臣の李振の勧めで宦官貴戚を鏖殺し、907年には哀帝に禅譲させた。
 晋王を襲いだ李存勗にしばしば敗れ、藩鎮に対する統制力も強固ではなく、又た晩年には感情の起伏が激しくなり、仮子の博王友文への継承を図った事で不和となっていた実子の友珪に病床で斬殺された。 実効を重視して口舌の徒を排し、長安で宦官とともに寄生地主化していた貴族層を一掃したことで貴族制社会を完全に終焉させたが、黄巣からの離叛と唐朝簒奪によって中国では悪評が高い。

楊師厚  〜915
 潁川斤溝の人。李罕之に従って李克用に降り、やがて朱温に投じた。 武勲によって篤く信頼されて朱全忠の遠征では常に先鋒とされ、山南東道節度使・同平章事に至った。 909年には晋の周徳威を撃退したこともあり、柏郷の役以後は北面招討使として大名府(魏博)に拠って晋軍を禦いだ。 建国初期に朱全忠が、人心鼓舞のために洛陽で復した正月の燃燈行事を大名府でも恒例とし、その景観は「千ス万炬、一城を洞照す」と称され、戦時中でも続けられた。
 朱全忠に最も信頼された反面、その才功から朝臣に猜疑され、常に暗殺を警戒していたという。 晋の攻略に乗じて冀中を略定し、朱全忠の死後には魏搏の天雄軍節度使に任じられ、末帝の簒奪を輔けて鄴王・検校太師・中書令ほか様々な恩典が加えられた。
  
銀槍効節都:後梁の楊師厚が、朝臣による粛清を警戒して旧魏博牙兵を中心に組織した牙軍。楊師厚の死後、魏博軍の分割を嫌って大名府を挙げて李存勗に帰順した事で、後梁の劣勢が決定的なったという。 李存勗の近衛兵に加えられたものの、親軍の新設によって契丹と対峙する瓦橋関に移されて沙陀軍の督下に置かれ、更に貝州(冀州)に転配されたことを不服とし、郭崇韜造叛の噂に応じて大名府を占拠したことで、李嗣源の出征と造叛に繋がった。 戦後再び瓦橋関守備とされて叛し、殲滅された。

朱友珪  〜912〜913
 後梁の第二代君主。朱全忠の第3子。 建国で郢王に封じられたが、凡庸・粗酷として夙に朱全忠に疎まれていたと伝えられる。 莱州刺史に出された事を機に寝所で朱全忠を暗殺して簒奪したが、直後に河中の朱友謙を晋に奔らせ、翌年には兇暴・荒淫を忌まれて侍衛親軍に宮中で殺された。

朱友貞  888〜913〜923
 後梁の第三代君主。末帝。朱全忠の第4子。 建国で均王に封じられ、朱友珪を殺した禁兵に擁立された。 915年に魏搏の天雄節度使楊師厚が歿した事を機に天雄軍の分割を進めた為に離叛され、翌年には劉鄩が晋に大敗したことで黄河以北を悉く失った。
 又た宗室・功臣を疎んじて側近を重用し、921年に従兄の朱友能が謀叛を起した後は血族の粛清を進め、契丹と和した李存勗の攻勢で敗滅した。

王彦章  862?〜923
 鄆の人。字は賢明。武勇・武略に優れ、軍卒から累進して後梁建国後に開国侯に封じられた。 常に先鋒として勇戦して“王鉄鎗”の異名があり、後唐の周徳威と並称されて李存勗にも畏れられ、妻子を人質とされて帰順を求められると使者を斬って拒んだ。 常に君側を糾弾したために久しく要職に就けず、923年になって宣義軍節度副大使に北面招討使を兼ねて晋軍の撃退に成功したが、末帝の側近の讒言で弱兵のみが与えられ、後唐軍と戦って擒えられた。降伏を求められると「豹は死して皮をとどめ、人は死して名をとどむ」と拒んで斬られた。

張全義  852〜926
 濮州臨濮の人。字は国維。本名は言。農民の出で、黄巣の下で民生の安定に尽力して重んじられ、黄巣が敗死すると官軍に降って賜名された。 後に河陽節度使を逐って洛陽令とされると、黄巣の部将の孫孺の劫掠で興廃の極にあった洛陽の復興を李罕之と共に進め、私財を投じて帰農を奨励して数万戸を招来し、都城の体裁を整えた。 後に李罕之との対立から朱全忠に降り、経営力を以て朱全忠の勢力強化を輔け、建国とともに魏王とされた。 滅梁で後唐に降って河南尹・斉王とされたが、明宗の即位後に憂懼から病死した。

劉鄩  858〜921
 密州安丘の人。はじめ淄青節度使王師範に属し、王師範に従って朱全忠に降り、後に鎮南軍節度使・開封尹に至った。 915年に魏搏藩の帰属を李存勗と争った際には、漳河での対峙中に晋陽急襲に転じたが、霖雨で果たせず貝州(山東省淄博市区)に撤収し、翌年に末帝からの出征督促に将兵が和すと、「上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、兵は怠惰」と歎き、李嗣源の守る魏州を攻めて来援した李存勗に大敗し、以後は滑州で守勢に徹して中央の召還にも応じなかった。 梁軍を代表する将として楊師厚王彦章と並称されたが、謀叛を疑われて暗殺された。

 
 

後唐

 923〜936
 黄巣を平定して抬頭した突厥沙陀族の朱邪赤心を始祖とし、その子の李克用が晋王に封じられて太原一帯の支配を承認され、これを嗣いだ李存勗が後梁と抗争しつつ樹立した政権。 称帝の直後に開封の後梁を滅ぼして中原を支配したが、唐制への回帰と弊政で内訌を生じ、李嗣源の簒奪後に勢威を回復したものの、その死後に再び内訌を生じ、契丹と結んだ太原の石敬瑭に滅ぼされた。

沙陀族
 天山東部に遊牧していた西突厥の一派。処月種とも。 唐初に置かれた沙陀州に由来し、7世紀頃に吐蕃に圧迫されて北庭方面に遷り、後に吐蕃に服して甘州に徙されたが、808年に唐に奔って塩州(五原)に置かれた。
 夙に勇兵として知られ、龐平定で勇名を馳せた李国昌が大同節度使に任じられたが、程なく盧龍節度使の圧迫で漠南に逐われた。 李国昌の子の李克用が河東軍節度使とされてより沙陀部は太原を中心とした一帯を根拠地とし、鉄鉱・石炭の産出で強盛となり、後梁を滅ぼして中原を支配するに至った。
 後唐・後晋後漢はいずれも沙陀系の晋陽(太原)地方の節度使が同族の勢力によって樹立したもので、太原に拠った北漢が北宋に滅ぼされたことで沙陀政権は終焉した。

李克用  856〜908
 大同軍節度使李国昌の子。黄巣の平定に苦慮する朝廷の要請で討伐に加わって雁門節度使とされ、黄巣を関外に退けたことで河東軍節度使に転じ、884年に黄巣を敗死させて平定の武勲第一と讃えられた。 眇目だったために“独眼竜”の異称があり、また軍兵全員が黒衣を纏っていたので“鴉軍”と呼ばれ、猛兵として畏怖された。
 黄巣敗滅の頃より開封に拠る朱全忠とは不倶戴天となって河北の支配を争い、895年には晋王に封じられたが、朝廷工作などには疎く、又た鴉軍の粗暴を忌まれて与勢が得られず、901年に朱全忠が河中を制圧した事で中原への進出も困難となって太原で病死した。 後に嗣子の李存勗によって太祖・武帝と追尊された。

李存勗  885〜923〜926
 後唐の初代君主。荘宗。晋王李克用の嗣子。晋王を襲いだ後、913年に劉守光の幽州を征服し、915年に魏搏節度使を接収して黄河以北を抑え、胡柳陂の役や、又た契丹の興隆期に重なっていた事で張文礼の乱などで契丹に介入されて南進が停滞したが、契丹と修好した後は南征を本格化し、923年に称帝して汴梁に拠る後梁を滅ぼした。 924年に陝西西部に拠る李茂貞を、翌年には四川のを併合し、五代最大の版図を領して南方諸国を藩属させた。
 父を凌ぐ武将と評されたが、即位後は同姓に因んで国号を唐と改めて唐の陪都の洛陽に奠都するなど唐の遺風を慕い、歌舞音曲や酒色に耽って宦官・伶人など佞人を重用して政治を顧ず、特に宦官を監軍とした事で軍部の輿望を失った。 側佞の讒言で刑戮を用いる事も増え、晩年には軍兵の蜂起が続発し、大名府で叛いた銀槍兵討伐に向かわせた李嗣源にも叛かれ、補給を絶たれた事で親率する禁軍によって殺された。
  
胡柳陂の役(918):汴梁攻略に向う晋王李存勗と、梁軍との戦。 李存勗は総兵力にあたる10万の兵を動員して南下し、濮州攻略を図ったものの梁軍の堅壁によって対陣が百余日に及び、老弱兵を帰国させて汴梁直撃に転じ、胡柳陂(河南省濮陽東南)で追撃の梁軍を迎撃した。
 営柵の堅守と騎兵での撹乱による以逸待労策を唱える周徳威に対し、決戦に逸る李存勗は親軍を以て突撃して劣勢となり、後退するところを輜重隊と遭遇して大混乱に陥り、諸将の奮戦で梁軍を撃退したものの周徳威をはじめ多くの将兵を失った。 夜襲によって梁軍を大破したが、晋軍も又た汴梁への進攻は継続できず撤収した。

周徳威  〜918
 朔州馬邑の人。字は鎮遠。夙に騎兵戦の驍将として知られ、910年に成徳軍の王鎔から乞援された際には寡勢で柏郷に梁軍を大破し、この時の戦術は五代戦史上の白眉と讃えられる。 913年に劉守光を滅ぼすと盧龍節度使とされ、契丹の入冦に対しては苦戦しつつも李嗣源の援軍で撃退し、918年の南伐に従った際、胡柳陂で突出した李存勗を救援して勇戦の末に戦死した。
  
柏郷の役(911):河朔三鎮の動向を巡って行なわれた、後梁と晋(後唐)の戦。 魏博軍に受降を求められた梁軍が隣接する成徳軍にも兵を進めた事で、成徳軍が李存勗に乞援し、両軍の武力衝突に発展した。周徳威の騎兵戦術によって晋の大勝に終わり、これより後梁は守勢に転じるようになった。

張承業 845〜922
 字は継元。宦官として唐の僖宗に仕え、李茂貞に圧迫された昭宗が太原への蒙塵を図った際に河東監軍とされて先行し、これより太原に留まり、崔胤・朱全忠の宦官掃滅でも李克用に匿われた。 李克用に信任されて軍政の事を宰領し、託孤の後は李存勗にも尊重され、社稷の臣を自任してその華北制覇を実現させたが、僭称を極諫して絶食死した。

郭崇韜 〜926
 代州雁門の人。字は安時。郭子儀の裔を称した。 李克用・李存勗に仕え、建国で兵部尚書・枢密使とされて廟堂の首座に列し、滅梁の首勲として侍中・成徳軍節度使を加えられ、唐の旧官僚を積極的に登用して宦官と対立した。 荘宗の浪費を補填する目的を兼ねて征蜀の議を主導し、925年に李継岌の副として率軍したが、戦後に鹵獲品の横領と謀叛を誣告され、成都で殺された。事件は郭崇韜造叛の噂となって伝わり、貝州の銀槍兵の造叛を惹起した。

李嗣源 867〜926〜933
 後唐の第二代君主。明宗。非漢人の部酋の子だったものが李克用の仮子とされ、即位後に亶と改名した。 夙に勇略を讃えられ、契丹の撃退や後梁攻略など建国期の征旅で大功があり、麾下の横衝隊を用いた神出鬼没の用兵から“李横衝”と畏怖され、李存審と双璧と謳われた。 926年に大名府で叛いた銀槍兵を討伐した際、叛兵に同情した禁軍に推戴されて京師を攻囲し、荘宗が殺されると即位して開封に遷都した。
 征蜀から反転した魏王李継岌を関中で攻滅し、又た成都尹孟知祥を猜疑して離叛させたが、馮道を宰相に迎えて自ら節倹に努め、宦官を粛清し、伶人・宮女を削減し、全国に検地を行なって課税の公平化を図るなど時流に応じた朱全忠の政策の多くを継承し、又た財務機関として三司使を創設した。 文盲ではあったが、側近に史学を講義させて統治に活用し、民力の回復を重視して五代屈指の名君と謳われたが、即位の経緯から軍部を優遇て驕兵を生み出した事で、以後の軍による簒奪傾向が助長された。

霍彦威 872〜928
 洺州曲周(河北省)の人。字は子重。 梁将の霍存に仮子とされ、朱全忠の下で各地を転戦して邠州節度使・滑州節度使などを歴任し、後梁が滅ぶと後唐に仕えて荘宗から李紹真と賜名された。 潞州平定の頃より李嗣源に従い、契丹撃退の際には招討副使とされて建策の功で重んじられ、後に首都反抗や即位のことを勧めて明宗の政権で重権を委ねられ、検校太尉・兼中書令に進んだ。

李従厚  914〜933〜934
 後唐の第三代君主。愍帝。李嗣源の子。930年に宋王に封じられた。 李嗣源が歿すると鄴から迎立されたが、血統のみに依った継承を不服とした李従珂が鳳翔で挙兵し、棄都して衛州に遁れた後に殺された。

李従珂  885〜934〜936
 後唐の第四代君主。末帝。李嗣源の仮子。 驍勇を愛されて李嗣源が即位すると河中節度使とされ、鳳翔節度使に転じた翌年(933)には潞王に封じられ、李嗣源の死後、李従厚の進める藩鎮削権に叛抗して洛陽を陥し、李従珂を殺して即位した。 かねて軍事の双璧と称されていた河東節度使の石敬瑭を猜忌し、沙陀族と隔離する為に山東の天平節度使に遷した事で叛かれ、石敬瑭と結んだ契丹兵に洛陽を攻囲されて自殺した。

 
 

後晋

 936〜947
 太原を根拠地とした沙陀政権の第二。後唐の河東節度使石敬瑭が後唐を滅ぼして樹立した。 契丹の助力で成立した為に、従来蛮夷と蔑視してきた契丹に称臣する屈辱外交を強いられ、そのため各地で叛抗勢力の蜂起が絶えず、殊に燕雲十六州の割譲は以後200年近くに亘る中国の懸案事項となった。
 石敬瑭の死後に契丹と断交した為に契丹太宗の親征を受けて滅ぼされ、中国は一時的に契丹に支配された。

石敬瑭  892〜936〜942
 後晋の高祖。沙陀族の出身。李嗣源の親衛騎兵団/三討軍の長としてその即位を扶け、侍衛親軍馬歩軍都指揮使として新編禁軍を統率し、明宗の女婿とされて河東節度使に転じた。 潞王李従珂とは声望を斉しくし、即位した潞王に転藩を逼られた事で挙兵し、劣勢に陥ると契丹に臣従と歳貢、燕雲十六州の割譲などを条件に乞援し、その助力で936年に後唐を滅ぼして即位した。
 伝統的に軽侮していた契丹への屈従は当時から暴挙と非難され、そのため求心力に欠け、安遠藩や魏博藩・義成軍・山南東道・正徳軍などの有力藩鎮の叛乱が続き、内憂外患の中で憤死したと伝えられる。
  
燕雲十六州:南唐政権に叛いて劣勢となった石敬瑭が、支援の代償として契丹に割譲した華北北部の総称で、燕京(北京)・雲中(大同)を中心としたことに由来する。 燕雲のほかに長城以南の涿・薊・檀・順・瀛・莫・蔚・朔・応・新・嬀・儒・式・寰州を数えるが、早くから契丹領となっていた平・灤・営州は含まれない。後に後周の世宗によって瀛・莫2州が回復され、宋代に易州を失った。
 燕雲の称は北宋末期に用いられ、それ以前は燕代・燕薊・幽薊などと呼ばれたが、孰れにしても北宋一代を通じて国体問題の象徴となり、燕雲回復は澶淵の盟以降も最重要指針として標榜されたが、ついに果たされなかった。

桑維翰  899〜946
 洛陽の人。字は国僑。後唐で進士に及第して河陽節度使の石敬瑭の書記となり、李従珂に叛いて窮した石敬瑭に契丹への乞援を勧めて使者となり、後晋の建国後に中書侍郎・同中書門下平章事・枢密使に至った。 後に反契丹の輿論が高揚すると国力の涵養を最優先とする慎重論を唱え、出帝が立てられると失脚し、落城の際に獄中で殺された。

石重貴  914〜942〜946〜?
 後晋の第二代君主。出帝。石敬瑭の甥。石敬瑭の簒奪で北都留守とされ、後に斉王とされた。 石敬瑭が歿して立てられると契丹への臣従を廃し、そのため契丹太宗の大規模な親伐を受け、杜重威の離叛で開封を陥されて北方に幽囚された。後に建州で歿したと伝えられる。

 
 

後漢

 947〜951
 太原を根拠地とした沙陀政権の第三。契丹軍の帰国に乗じて樹立されたが、開祖の劉知遠が建国の翌年に歿して後継を得なかった為に短命で終わり、王統は北漢に継承されたものの沙陀族による中原支配は終焉した。

劉知遠  895〜947〜948
 後唐の高祖。沙陀族の出身。後唐の明宗に仕え、後に石敬瑭の侍衛親軍を指揮して後晋建国に大功があり、契丹への燕雲割譲を極諫したものの節度使を兼ねたまま軍の要職を歴任した。 出帝の下で北京留守・河東節度使に転じ、契丹侵攻の際には城を閉ざしたが、契丹の退却に乗じて追撃する一方で開封に入城して即位した。 節度使の職位の安堵と移鎮の併用で混乱の回避を図ったものの、杜重威の如く離叛者が絶えなかった。

劉承祐  931〜948〜950
 後漢の第2代君主。隠帝。劉知遠の第2子。 即位直後に河中・永興(京兆)・鳳翔の節度使に叛かれ、又た朝廷では勲臣の史弘肇蘇逢吉の対立が深刻で、側近勢力と結んだ蘇逢吉による勲臣の粛清が進められた。 史弘肇を殺した事で鄴都留守の郭威の造叛を招き、軍部がこれに呼応したために開封郊外で敗死した。
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 郭威によって高祖の甥の劉贇が徐州より迎立されたが、翌年には郭威に弑簒され、劉贇の父の河東節度使劉崇が太原で自立した。

史弘肇  〜950
 鄭州滎沢の人。字は化元。梁末に農夫から兵に転じて驍勇を以て石敬瑭の牙兵に加えられ、後晋では劉知遠の牙将となった。 太原で挙兵した劉知遠が洛陽へ向かう際の先鋒となって抗城の攻陥や契丹撃退などの大功から許州忠武軍節度使・侍衛歩軍都指揮使とされ、鄴の杜重威の鎮圧に従って同平章事・侍衛親軍都指揮使・宋州帰徳軍節度使に進み、劉知遠が危篤となると楊邠・郭威蘇逢吉と並んで託孤され、検校太師を加えられて兼中書令とされた。
 軍旅では兵に秋毫も犯させなかった一方で、僅かな忤意でも酷刑で殺すなど軍紀の運用は厳獅ナ仮借がなく、国事に携わった後は犯罪を悉く極刑に処し、冤訟も概ね認めず、そのため法を悪用して枉陥を用いる軍吏が多く、政情の悪化を助長した。 又た文士が執政に列する事を強く嫌忌して蘇逢吉を激しく憎み、勲貴排斥に傾く隠帝を諫める言辞が激越・暴戻だった為に次第に憎まれ、950年冬に入朝したところを楊邠らとともに殺された。

 
 

後周

 950〜960
 五代最後の政権。漢人の郭威によって樹立され、その死後は養子の柴栄が嗣いだ。 郭威・柴栄を通じて中央集権や文官の復権、藩鎮の削権や禁軍の精鋭化など次代の宋の先鞭となる改制が着手され、同時に廃仏などによる財政の健全化も図られた。 江北の征服にも成功したが、藩鎮的な気風の刷新には至らず、強化された禁軍を統べる趙匡胤に簒奪された。

郭威  904〜950〜954
 後周の太祖。字は文仲。兵卒から立身して劉知遠に認められ、後漢建国で枢密副使に進み、叛藩鎮圧などにも大功があって託孤に連なった。 隠帝が即位すると枢密使とされたが、声望を忌まれて天雄軍節度使(鄴)に出された後に自殺を命じられた事で挙兵し、隠帝を攻殺して劉贇を立てたものの、間もなく劉贇を殺して即位した。
 農村復興を柱とした民生の安定を重視し、賦役の公平化や営田の放出による自営農の育成、酷刑の緩和などは江南への人口流出の抑止となった。 又た晋末漢初の契丹に対する藩鎮の非力と弊害に鑑みて武器進奉を廃止して藩鎮から地方行政権を回収し、併せて文官による政策上奏を認可した事は、軍紀粛正と中央集権の上で旧制からの一大転換となった。 軍部出身の郭威の下での文官復権は、統一論の昂揚を背景として軍人の限界を輿論が認めた結果でもあり、馮道ら改良派は旧官僚として退場を余儀なくされた。

馮道  882〜954
 瀛州景城(河北省滄県)の人。字は可道、号は長楽。はじめ劉守光に仕え、次いで李存勗に認められて荘宗に翰林学士とされ、明宗のときに中書侍郎・平章事とされた。 以後、後周の柴栄に至るまで、後晋を滅ぼした契丹太宗を含む五朝八姓十一君に仕えてしばしば宰相の任に就き、歴朝で常に人民の安定に尽くし、時人からは寛厚の長者と讃えられた。 掠奪を回避するために契丹太宗を仏菩薩以上の存在と讃えた事など、『資治通鑑』・『新五代史』など朱子学が主潮となった後世からは破廉恥な無節操漢と排撃されたが、李卓吾などは「孟氏曰く、社稷を重しと為し君を軽しと為す。まことに至言なり。馮道、之を知れり」と、乱世限定の処世としながらも絶賛した。

柴栄  921〜954〜959
 後周の第二代君主。世宗。邢州龍岡の人。郭威の皇后の弟で、郭威の養子となってその成功を輔け、郭威の一族が隠帝に鏖殺されていたために太子とされた。 即位直後に入寇した北漢契丹を撃破したが、禁軍の脆弱を痛感して戦後は軍紀の粛正を進め、擢抜した精鋭を以て皇帝直属の殿前軍を編成し、禁軍の中核とした。 殿前軍によって強化された帝権は相対的に藩鎮権力を弱め、また対外面でも後蜀の渭南4州や南唐の江北を奪い、燕雲の回復を唱えて3州を制圧したが、幽州で病死した。
 軍事だけでなく内政の刷新にも注力し、廃仏によって宗教組織を統制粛正し、“大周刑統”を制定して国法を明らかにするとともに、租税の軽減や開墾・治水灌漑を振興して農業生産の回復と発展を進め、次の北宋による統一事業を準備した。 五代随一の名君と謳われ、中国史を通じても屈指の賢君とされる。

柴宗訓  953〜959〜960〜973
 後周の第三代君主。恭帝。 幼少の為に皇太后が臨朝したが、軍兵の輿望は殿前軍都点検の趙匡胤に集まり、契丹・北漢軍の侵犯の報に応じて進発した禁軍が開封郊外の陳橋駅で趙匡胤を天子に擁立して反転した為に、抵抗を放棄して禅譲した。 従来の例に反して鄭王に封じられた後も殺されず、房州(湖北省北房)に安置され、柴氏は宋一代を通じて勅命によって篤く庇護された。

韓通  〜960
 太原の人。劉知遠の下での杜重威討伐で認められ、郭威に従って勇猛を知られ、北漢を撃退した高平の役の後は北防を担ってしばしば契丹を撃退し、又た後蜀遠征では鳳州を陥落させた。 世宗末年の北伐では趙匡胤と禁軍を二分し、「水軍の趙・陸軍の韓」と称された。 趙匡胤の簒奪を認めず、陳橋駅から開封に先駆した王彦昇に斬られた。

李筠  〜960 
 幷州太原の人。原諱は栄。後に後周世宗に避諱した。騎射の名手として知られ、郭威の簒奪で潞州の昭義軍節度使に進んで累功があった。 趙匡胤が簒奪すると入朝を拒んで挙兵したものの、北漢や淮南の李重進の呼応を得られず、長平で石守信に大破された後に太祖の親伐を受けて沢州(山西省晋城)で自焚した。

李重進  〜960
 滄州の人。郭威の外甥。郭威が即位すると武信軍節度使とされ、世宗の南伐で江北諸州を陥落させた功で馬歩軍都指揮使を兼ね、世宗の末年には淮南節度使として揚州に鎮した。 趙匡胤の簒奪後に青州への移鎮が求められると粛清を猜疑し、太祖の送った不殺の鉄券を信用せずに揚州で挙兵したものの、内通によって李筠との呼応を放棄し、石守信を前駆とする親征に敗れて自焚した。

李成  919〜967?
 青州益都の人。字は咸煕、号は営丘。唐の宗室とも伝えられるが、仕官することなく布衣で終わった。 寒林と遠景の平原を描いて無限遠を表現した寒林平遠山水が士大夫層に支持され、北方山水画の大成者とも称される。 門下からは李迪・許道寧・郭煕らを輩出し、郭煕とは“董巨”に対して“李郭”と併称され、淡墨の画風は「惜墨如金」とも称されたものの作品数は極めて少なく、米芾などには『無李論』が唱えられた。

 
 
 

李茂貞  856〜924
 岐王。梁州博野(河北省)の人。字は正臣。本名は宋文通。神策軍の兵卒より累進して田令孜に仮子とされ、朱玫の乱で僖宗を護衛した功で賜名されて武定軍節度使とされた。 888年に鳳翔節度使を討平して簒奪した後に楊復恭追討の功で節度使の兼領を認められ、次いで検校太尉・侍中・隴西郡王を加えられ、領内の再建に成功した事もあってほぼ自立し、891年には興元節度使(漢中)をも制圧支配した。 地利から朝政に容喙して不遜横暴な言動は昭宗の二度の棄京をもたらし、二度目の896年には長安を劫掠して荒廃させ、李克用に大破されて朝廷とも和した。
 901年に岐王とされたが、鳳翔に昭宗を拉致したことで903年に朱全忠王建の挟撃に大破されてより不振となり、管下20余州は後梁・前蜀に分割されて7州まで減少した。 唐が滅んだ後は朝廷の体裁を整えたものの、後梁が滅ぼされた翌年に後唐に献土して秦王に封じられ、程なく病死した。

劉仁恭  〜914?
 深州楽寿(河北省献県)の人。人心収攬に長け、攻城戦、特に掘坑戦を得意として“劉窟頭”と称された。 唐末に李克用と結んで幽州の盧龍節度使を簒奪し、李克用が劣勢になると管内の沙陀勢力を排除して自立した。 906年に滄州で朱全忠に大敗したが、会戦に先んじて管内の15歳〜70歳の男子20万全てに黥面を施したという。 朱全忠と李存勗の抗争が激化すると享楽に耽るようになり、907年に実子の劉守光に幽閉・簒奪された。

劉守光  〜914 ▲
 盧龍節度使劉仁恭の子。父の妾と密通して追放されたが、907年に父を襲撃・幽閉し、909年に兄の義昌節度使劉守文を攻滅して幽州一円を支配した。 911年には燕帝を称したが、父同様に享楽に耽り、勢力拡大を図って易定節度使を攻略したところ来援した李存勗に敗れて擒われ、翌年に殺された。

 
 

 902〜937
 叛徒から官に転じた廬州の楊行密が樹立した政権。 黄巣系の勢力と抗争して江淮〜江西にまたがる大勢力となったが、牙軍である黒雲都の勢力が強くなり、楊行密の死後は黒雲都を指揮する張・徐温が執権し、徐温の子の徐知誥に簒奪された。 楊氏は後に後周の南伐に際して徐知誥の子の李mに鏖殺された。

楊行密  852〜902〜905
 呉の太祖。武帝。廬州合肥の人。字は化源。群盗から官兵に転じながらも朔方で兵乱を起こして郷里に奔り、麾下を率いて廬州を占拠した後、883年に招撫に応じて廬州刺史とされて淮南節度使高駢に属した。 高駢が殺された後、兵乱を鎮定して揚州で淮南留後を称し、蔡州の秦宗権・孫儒と抗争しつつ江淮一帯の支配を進めて892年に淮南節度使とされ、895年には弘農郡王を加えられ、朱全忠が昭宗を洛陽に遷した902年に呉王を称した。 孫儒を滅ぼした際に接収した精鋭を“黒雲都”と呼んで軍の中核とし、朱全忠とは淮河を境にしばしば争った。

楊渥  886〜905〜907〜908
 呉の第二代君主。烈祖、景帝。楊行密の長子。西方に進出して洪州(南昌)・鄂州・岳州を併合したものの、倨傲かつ奢侈で人心を失い、907年に左衙指揮使張・右衙指揮使徐温によって幽閉され、翌年に殺された。 朝廷から淮南節度使・弘農郡王の継承は認められたものの、自身から呉王とは称さなかった。

楊隆演  897〜908〜920
 呉の第三代君主。高祖、宣帝。楊渥の弟。楊渥の死後に張・徐温に擁立された。 唐の正朔を奉じて淮南節度使・東南諸道行営都統・弘農郡王を襲いだが、910年に呉王を称し、919年には呉国王として正朔を立てて自立した。 実権は張を殺害した徐温に掌握され、そのため酒色に溺れて病死した。

楊溥  900〜920〜937〜938
 呉の第四代君主。睿帝。楊隆演の弟。徐温によって立てられ、927年には皇帝を称した。 937年に徐温の子の徐知誥に譲位し、翌年に歿したが、徐知誥による暗殺とされる。

徐温  862〜927
 海州朐山(江蘇省東海)の人。字は敦美。楊行密の下で黒雲都の右衙指揮使として抬頭し、楊渥の弊政に対して左衙指揮使張と共に蜂起して廃立を行ない、間もなく張をも殺して国権を掌握した。 915年に斉国公に封じられ、潤州(江蘇省鎮江)に拠って揚州の朝廷を統制し、919年に楊隆演が国王を称した際には大丞相・都督中外諸軍事・諸道都統・鎮海寧国節度使・守太尉兼中書令・東海郡王とされた。後に仮子の徐知誥より義祖・武皇帝と追尊された。

 

前蜀

 907〜925
 黄巣討伐で立身した神策軍出身の王建が樹立した政権。蜀には中原から避難していた有力者も多く、これら文人の保護優遇と、塩鉄に代表される蜀の豊かな物産や独特の風俗などが相俟って五代蜀文化が発展し、後唐の征服を経て後蜀に至って最盛期を迎えた。 又た木版印刷の普及と絹織物業の振興は高く評価される。

王建  847〜903〜918
 前蜀の高祖。許州舞陽の人。字は光図。塩徒から官兵に転じて黄巣討伐に従って神策軍の将校となり、宦官の田令孜の仮子とされ、昭宗の蜀への蒙塵に従って田令孜より璧州刺史(通江県)とされた後は四川各地を経略して勢力を拡大し、891年には成都の西川節度使陳敬瑄を降して成都尹・剣南西川節度使とされた。 田令孜誅殺によって人望を集め、901年までに剣南東川・山南西道を併せて四川のほぼ全域を統一し、903年に朝廷より蜀王に封じられ、907年に梁が建国されると称帝した。
 水利の整備を交えた農業の振興など民力の涵養を旨として産業を発展させ、又た両川に避難していた文人名士を保護・優遇した事で蜀文化が開花した。 915年にから渭南4州を奪ったことで巴蜀の門戸である大散関・桟道の天険を押さえたが、晩年には政務に倦み、後宮勢力が政事に容喙して国力を弱め、徐妃に暗殺された。

王衍  〜918〜925〜926
 前蜀の後主。王建の第11子。はじめ鄭王に封じられていたが、太子が廃された後、諸仮子を制して継嗣とされた。 即位後は宦官を寵任し、王建以来の秘密警察“尋事団”の横恣化や放漫政治などで民心を失い、925年に郭崇韜らの率いる後唐軍6万に成都を陥されて降伏した。長安への護送の途上で明宗によって族滅された。

 

荊南

 912〜963
 南平・北楚とも。五代中最も狭小だったが、交通の要衝にあって交易で栄え、中原諸王朝や隣接諸国への称藩によって独立を保った。

高季興  858〜912〜928
 荊南の開祖。武信王。陝州z石(河南)の人。字は貽孫。汴州の富豪/李譲の家奴だったが、後に才幹を認められて養子とされた。 朱全忠の軍将として功を重ねて後梁建国とともに荊南節度使とされ、朱全忠の死で湖北の荊州(江陵)・帰州(秭帰)・峡州(宜昌)を以て自立し、末帝に通じて渤海郡王とされた。 925年には後唐に称藩して南平王とされたが、明宗によって蜀への進出を阻まれたことから断交してに称藩した。

高従誨  891〜928〜948
 荊南の第二代君主。高季興の長子。中原の後唐に通じて渤海郡王、ついで南平王に冊封された。 後唐・後晋・後唐および呉・南漢・閩・後蜀に称藩し、巧みな外交によって独立を保った。

高保融  920〜948〜960
 荊南の第三代君主。高従誨の第3子。 後漢に称藩して荊南節度使とされ、後周より渤海郡王、後に南平王に冊封された。

高保勗  924〜960〜962
 荊南の第四代君主。高保融の弟。 父の高従誨に将来を嘱望されて凡庸な兄を支え、その死後は継嗣の幼少を理由に王位を継いだ。酒色を好み、奢侈と造築によって国力を著しく衰えさせた。

高継沖  943〜962〜963〜973
 荊南の第五代君主。高保融の長子。 963年に湖南の内訌を討伐する宋軍に貸道して征服された。開封で厚遇されて武寧節度使とされた。

 

 907〜951/952〜963
 黄巣軍を出自とする馬殷が湖南の潭州(長沙)に拠って樹立した政権。 独自の貨幣制度や茶を主力とした流通などによって湖南を支配したが、その死後は諸子の内訌が続いて分裂し、951年に南唐に征服された。
 馬氏政権が滅んだ翌年には朗州(武陵)に拠った王逵・周行逢が湖南の独立を回復し、後に内乱鎮圧を名とした宋に征服された。

馬殷  852〜896〜930
 楚の開祖。武穆王。許州鄢陵の人。字は覇図。はじめ秦宗権の部将の孫儒に従い、孫儒が呉を攻めて敗死すると劉建峯に従って南下し、その死後に湖南に蟠居して896年に潭州(長沙)に拠って湖南留後を称した。 嶺南にも進出して20余州を支配し、湖南茶の最大の販路が華北だったことから、中原王朝への称藩を国策とし、建国した朱全忠に通じて楚王に冊立された。
 唐太宗を範として国家組織を整備し、鉛銭の鋳造や製茶・売茶の奨励などによって湖南のほぼ全域を保ち、後唐からも楚王とされた。 諸子に兄弟相続を遺言した事で、死後の内訌を招来した。

馬希声  898〜930〜932
 楚の君主第二代。衡陽王。馬殷の第2子。 暗愚として知られていたが、馬殷の寵姫の子だった為に立てられた。王号を用いずに後唐に称藩し、武安・静江節度使とされた。

馬希範  899〜932〜947
 楚の第三代君主。文昭王。馬希声の弟。 後唐に称藩して武安(潭州)・武平節度使(朗州)とされ、934年に楚王に冊立された。 奢侈を好んだ好学の文人君主で、正夫人が歿した後は驕奢の抑制を失い、重税や汚職の横行で国力を疲弊させた。

馬希広  〜947〜950/950
 楚の君主。馬希範の同母弟。兄弟順相続を無視して軍部に立てられた為に異母兄の馬希萼と弟の馬希崇が連和して背き、両者の撃退に成功したものの兄弟間の攻伐を厭って追討を控えた為、翌年に南唐の支援を得た両者に潭州(長沙)を陥され、逼られて自殺した。

馬希萼  〜949〜951〜?
 楚の君主。恭孝王。異母兄の馬希範が歿した当時は兄弟中最年長だったが、異母弟の馬希広が擁立された為、弟の馬希崇と結んで949年に朗州(武陵=常徳市域)で挙兵した。 国都の潭州(長沙)攻略に失敗して南奔した後、荊蛮の懐柔や南唐への称藩で勢力を回復させ、翌年に潭州を陥して馬希広を自殺させた。
 簒奪後は中原王朝には称藩せずに楚王を称し、反対派を弾圧する一方で酒色に耽溺し、軍部を疎遇した事で翌年には王逵・周行逢らに背かれ、程なく牙軍に廃されて衡山王として衡山に軟禁された。楚を滅ぼした南唐に楚王・江南西道観察使とされた後、金陵で客死した。

馬希崇  〜951/〜? ▲
 楚の君主。留王。馬希萼・馬希広の異母弟。輩行を無視した馬希広の嗣業に異を唱え、朗州の馬希萼を擁して造叛し、潭州を陥して簒奪を成功させた後は国事を総裁したが、側近に庶政を一任して政情の混乱をもたらした。 馬希萼を廃した牙軍に擁立されたが、程なく軍による廃弑を懼れて南唐に庇護を求め、進駐軍に投降して揚州(江蘇省)に遷された。後周が江北を征服した事で大梁(開封市)に遷され、羽林統軍に任じられた。

王逵  〜956
 王進逵とも。朗州武陵の人。楚王を称した馬希萼の下で静江指揮使に進んだが、楚王府の修築に際して過重な労役と賞賜の停滞から副使の周行逢らと与に朗州に奔り、馬殷の長孫の馬光恵を武平節度使に擁立した。 程なく馬光恵の暗弱を嫌って辰州刺史劉言を立て、湖南より南唐軍を駆逐した後、劉言を殺して後周に通じて武平節度使とされた。 956年に後周の南唐攻略に参赴する途上で岳州団練使の潘叔嗣が叛き、朗州城外で敗死した。

周行逢  〜962 ▲
 朗州武陵(湖南省常徳)の人。王逵の副使としてその造叛に従い、953年に王逵が後周に称藩した際に知潭州事とされ、翌年に武清節度使(鄂州)を加えられ、956年に王逵が殺されると朗州に入って嗣業し、後周からも武平節度使を追認された。 猜疑心が強く、諸州に密偵を出して不穏に対しては誅戮を以て対処し、又た驕兵の弊風に鑑みて軍紀の執行は厳獅セったが、馬氏の雑税を廃し、法規を簡素化し、節倹を旨として人事にも意を用いた為に湖南は安定したと伝えられる。
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 子の周保権が武平軍節度使を嗣いで間もなくに衡州刺史張文表が叛き、宋に討伐の援軍を求めたところ、張文表の平定後に征服された。 周保権は開封に遷されて知幷州に至り、985年に歿した。

 

呉越

 907〜978
 在地勢力による自警組織から発展した政権で、地域の開発と地域産業の振興などによって両浙の安定と発展に尽力した。 日用食品にも及ぶ徹底した課税政策により、欧陽脩ら南唐系の人士は呉越の風俗を指して「粗暴・狡猾・吝嗇・貪欲」と酷評した。
 北隣の南唐に対する敵性勢力として中原王朝から重視され、南方諸国の盟主として“真王”とも称され、末主が宋に献土した際には複数の王号を兼領した。 海上交易が活発で、後百済を冊封した他、渤海契丹・日本とも国交があり、日本と国交を開いた翌年より藤原忠平(936)、藤原仲平(940)、藤原実頼(947)、藤原師輔(953)らが遣使し、957年には呉越王から黄金が贈られた。

銭鏐  852〜907〜932
 呉越の太祖。武粛王。杭州臨安の人。字は具美。塩徒から転じて郷兵となり、黄巣討伐での功で887年に杭州刺史とされた。 秩序の安定を求める在地豪族の組織した杭州八都を核に勢力を拡大し、楊行密から蘇州・常州を奪って893年に浙西鎮海節度使・彭城郡王とされた後は浙西に進出して鎮東節度使をも兼ね、杭州に拠って両浙地方を支配した。
 中原王朝との連和を重視して称帝せず、907年に後梁より呉越王とされ、後には尚父の尊号を加えられ、後唐からは皇帝の儀仗も認められた。 海運の発達を背景とした海上交易の推進や、杭州城の大拡張や銭塘江の治水、太湖地区一帯の干拓事業、越州窯の振興など、両浙の開発・安定に注力した。

銭元瓘  887〜932〜941
 呉越の第二代君主。世宗、文穆王。銭鏐の子。 銭鏐が中原から質子を求められた際に志願して上京した事があり、そのため諸兄にも重んじられて継嗣とされた。 933年に後唐から呉王に冊立され、翌年より後唐・後晋を通じて呉越王とされ、呉・南唐の南下をよく防いだが、941年の大火での負傷が原因で歿した。

銭弘佐  928〜941〜947
 呉越の第三代君主。成宗、忠献王。銭元瓘の嗣子。 「有能にして徳望あり」と評され、年少で嗣業しながらも軍と協調しつつ叛乱を平定するなど君主権の確立に努め、945年には南唐と協働してを滅ぼし、呉越を大いに興隆させた。

銭弘倧  929〜947/947〜973
 呉越の第四代君主。忠遜王。銭弘佐の弟。弘佐の子が幼少だった為に嗣業した。 強大化していた軍部の削権に着手したが、年末の夜宴に乗じた禁兵の兵変で廃されて軟禁され、951年に東府(越州=紹興)に遷された。

銭弘俶  929〜947〜978〜988
 呉越の第五代君主。忠懿王。銭弘倧の異母弟。 銭弘倧を廃した内牙統軍使の胡進思らに立てられた。北朝に称藩して南唐の対抗勢力として重視され、又た南唐の凋落もあってその治世は比較的平穏だった。 南唐が滅ぼされた後の978年に開封に入朝すると平和裡に献土を行ない、淮海国王・漢南国王・南陽国王・許王・ケ王に封じられて優遇され、還暦の宴席で歿した。

 

 907〜945
 黄巣軍に属した王潮・王審知兄弟が福建に入って建てた政権。穏便な治世と地域の開発によって政情は比較的安定していたが、王審知の死後は後継者争いで国力を急速に消耗した。940年より内戦状態に陥り、混乱に乗じた南唐と呉越に滅ぼされて国土を二分された。

王潮  〜898
 光州固始(河南省)の人。はじめは群盗の王緒に従って秦宗権に属し、王緒に従って福建に入った後、衆望を得て王緒を殺すと泉州に迎えられ、福建観察使の陳巌より刺史を追認された。 886年に陳巖が病臥した後はその一族と勢力を争い、陳巖が歿すると福州城を抜き、893年までに福建のほぼ全域を征服した。 朝廷の招撫に応じて福建観察使とされ、896年には威武軍節度使とされた。

王審知  862〜909〜925 ▲
 閩の太祖。昭武帝。字は信通。兄の王潮の征戦を能く支え、兄が歿すると福建道観察使・威武軍節度使を嗣ぎ、後に琅邪郡王に封じられ、909年に後梁に称藩すると閩王に冊立された。 性恭謙で賦役の軽減や節倹による民力の涵養を旨とし、又た呉にも修好して極力軍事を回避し、海上交易の振興と地域開発に注力して名士を厚遇した事で学問も栄えた。 福建の急速な発展を指導したことで後世で高く評価され、宗族を多数率いて移住した事から、福建・台湾の王姓の始祖とされている。

王延翰  〜925〜927
 閩の第二代君主。嗣王。王審知の長子。 嗣業の翌年に後唐から閩王の襲位が認められた。驕傲荒淫・残忍兇暴と伝えられ、王延鈞ら諸弟の造叛で殺された。

王延鈞  〜927〜935
 閩の第三代君主。恵宗。王延翰の実弟。 王延翰の暴政に対し、仮弟の王延稟らと挙兵して弑簒し、程なく後唐から威武軍節度使・琅邪郡王・閩王に冊立された。 仙術に心酔して道士の陳守元を寵遇し、その進言で後唐と断交して933年に称帝したが、大事業を興さなかった為に国内は比較的安定していたとされる。 晩年は皇后に立てた陳金鳳の横恣に怨嗟が集まり、重篤となった後、陳氏排除を唱えて挙兵した実子の王継鵬に殺された。

王継鵬  〜935〜939
 閩の第四代君主。康宗。王延鈞の子。簒奪後に王昶と改名した。 父同様に道教に傾倒して道士の陳守元を寵信したが、大規模な道宮を造営する必要から売官を行なって人事を混乱させ、又た猜疑心から宗室を多く粛清した。 東宮以来の親軍/宸衛都を優遇して旧来の禁軍/拱宸都・控鶴都を疎遇し、王宮の放火事件を機に禁軍が蜂起して廃位の後に殺された。

王延羲  〜939〜944
 閩の第五代君主。景宗。王延鈞の弟。王継鵬の粛清を避けるために狂人を装っていたが、王継鵬に叛いた朱文進らに推戴され、王曦と改名して威武節度使・閩国王を称し、間もなく後晋に称藩した。 即位後は奢侈と酒色に耽って宗族を冷遇し、弟の建州刺史王延政と反目して940年には武力衝突に至った。 941年に称帝した後、暴恣を危ぶむ禁軍の朱文進・連重遇に弑された。

王延政 〜943〜945〜951
 閩の第六代君主。殷帝。王延羲の弟。王延羲の暴政を諫めて憎まれ、940年に建州を伐たれた事で内戦となり、943年には殷国皇帝を称した。 翌年には泉州・漳州なども呼応し、王延羲・朱文進らが殺されると福州で閩帝として即位したが、混乱に乗じて来攻した南唐軍に投降し、一族と共に金陵に遷されて羽林大将軍とされた。

朱文進  〜945
 永泰(福建省)の人。王審知の禁衛として控鶴都と並称された拱宸都の軍使。 王継鵬が創設した宸衛都の優遇を不満とし、939年に北宮が焼失して控鶴都に嫌疑がかけられると控鶴軍使の連重遇と共に蜂起して王継鵬を攻殺し、王延羲を擁立して拱宸都指揮使とされた。 王延羲の暴恣から粛清を猜懼し、944年に王延羲を暗殺して閩帝を称し、王氏の粛清と並行して後宮の縮小や造営の停止などによって人心の収攬を図り、又た程なく後晋に称臣して閩国王・威武節度使に冊封されたが、間もなく王延政に呼応した部下に殺された。

 

南漢

 909〜958
 閩中での南海貿易による富を背景に、唐末の嶺南に移って勢力を培った劉氏が樹立した政権。 嶺南は唐代では官僚の配流地とされたことで中原文化が高水準で保たれ、中原名士の優遇や南海貿易によって繁栄し、科挙官僚による統治機構と藩鎮の不在、酷刑の濫用などが特徴とされる。 晩期には宦官が重用されてその数は2万余に達したとも伝えられ、殊に末主の劉eは宦官に対して偏執的に依存し、宋に併呑された際には7千人以上の宦官が拘束されたという。

劉隠  874〜909〜911
 南漢の開祖。烈宗、襄帝。河南の上蔡を本貫とし、父の劉謙は閩中での南海貿易による富財を背景に私軍を組織して黄巣に抵抗し、功が認められて封州刺史(広東省封開)とされた。
 劉隠は父が歿すると職位を襲ぎ、広州の静海軍の兵乱を鎮圧した事で在地勢力に支持されて嶺南一帯に勢力を拡大し、905年に静海軍節度使とされ、909年には後梁に称藩して南平王に冊立された。 中原の戦乱を避けて移住した名士を積極的に招聘して国政に参与させ、又た南海貿易によって国富を誇り、911年に南海王に進められてまもなく歿した。

劉龑  889〜911〜942
 南漢の第二代君主。高祖、天皇大帝。劉隠の庶弟。 兄の死で静海軍節度使を嗣いで劉巌から改名し、917年に大越皇帝を称し、翌年に国号を漢と改めた。 唐制に倣った官制を建て、刺史にはすべて文官を充てて科挙を行なうなど、南漢の国制を定めた。

劉玢  920〜942〜943
 南漢の第三代君主。殤帝。劉龑の子。 父の死で帝位を襲いで劉宏度から改名した。遊興と殺人を楽しんで国事を顧みなかった為に兵乱がしばしば生じ、翌年に弟の晋王宏煕に弑簒された。

劉晟  920〜943〜958
 南漢の第四代君主。中宗。劉玢の異母弟。乱政によって著しく人望を失った兄を殺して簒奪し、劉宏煕から改名した。酷刑を好んで一族や功臣の多くを粛清して君主権の強化を図り、又た諸弟の寡婦を後宮に納れて宦官を拡充・重用し、南漢衰退の弊風を開いたとされる。 楚の内訌に乗じて桂州・宜州など7州を奪って対外的には国威を伸長させたが、後周への朝貢は楚に阻まれて果たせなかった。

劉e  942〜958〜971〜980
 南漢の第五代君主。劉晟の長子。猜疑心が非常に強く宦官のみを信じ、讒言から多くの諸将・百官を殺しては後任には悉く宦官を充て、人材の登用も去勢させた後に行ない、科挙の状元にも自宮を強いたとの逸話を生じた。 970年より潘美を主帥とした宋の進攻が始まって嶺北を奪われ、翌年に国都に逼られると海上への逃亡を図ったものの失敗して開城し、一族と共に開封に遷されて左千牛衛大将軍・恩赦侯として遇された。

 

南唐

 937〜975
 呉を簒奪した徐知誥=李昪が樹立した政権。 建国時は外征には極めて消極的だったが、李mの代には一転して拡張策に転じ、福建のや湖南のを滅ぼたものの、後周に江淮を奪われて王号すら否定され、後周を継いだ宋に入朝拒否を理由に滅ぼされた。
 嶺南と並んで多くの文人を受容して唐文化を能く保ち、江南の産米と淮塩に支えられた豊かな経済力と安定した政情を背景に南唐文化を開花させ、後蜀と並んで文化が最も盛行した。 李mの下で隆盛を迎えた絵画は、鬼神道釈画や近世的な花卉山水画が好まれたほか没骨法のような特徴的な画法も生まれ、徐煕董源の名は後代まで伝えられた。 他に書家の徐鉉、文章では韓煕載などを輩出したが、殊に中国文学史上最高の詞人とされる李Uは文化事業の振興にも注力し、澄心堂紙や廷珪墨などは永らく最高級の品質として絶賛され、歙硯に代表される硯にも芸術的価値が与えられて名品が生まれた。

李昪  888〜937〜943
 南唐の開祖。烈祖。字は正倫。旧名は徐知誥。楊行密に仕えてその仮子に擬されたが、楊渥の反対で徐温の仮子とされた。 成人後は潤州(江蘇省鎮江市区)に鎮して徐温の勢力拡大を扶け、徐温の長子の徐知訓の死後は徐温の全権副使として揚州の朝廷を統制した。徐温の死後に昇州(金陵=南京)に移鎮して斉王に封じられ、937年に禅譲によって呉を簒奪した。 国号は初め斉と号したが、名を李昪と改めて唐室の裔と称した事で、翌年に唐と改めた。
 開墾の奨励や給田、灌漑の整備など民生の復興と涵養に注力し、呉越と和親するなど軍事は極力控え、殊に従来の銭貨偏重の税制を銭穀併用に改め、銭価を実情に合致させた事は高く評価される。 又た戦乱を避けて流入した多数の文人を庇護して文化振興にも注力したが、晩年は仙術に傾倒して不老長生薬の濫用で歿した。

李m  916〜943〜961
 南唐の第二代君主。元宗、中主。字は伯玉。李昪の長子。李昪の築いた国富を背景に対外拡張策に転じ、945年に福建のを滅ぼし、951年には湖南のの内訌に介入して一時的に併合して南方の大勢力となり、呉越ともしばしば攻伐した。 北防は淮河を恃む事が過剰で、そのため955年から始まる後周の南征によって寿州をはじめとする江淮を失い、957年には長江の水戦でも大敗して称臣を余儀なくされ、国号を江南、君号を国主とし、諱から王字を除かれて李景と改名し、961年以降は再征を懼れて南昌に移宮した。
 文芸を保護し、開設した画院は北宋の宣和画院に強く影響を及ぼし、又たの名手として子の李Uとは“二主”と称されるなど文人君主として高名だった一方で、後周の南征の最中に内応を猜忌して永寧宮に幽閉した楊氏とその郎党600余人を鏖殺した事は、五代史上最大の惨劇として“永寧宮の難”と称された。

馬延巳  903〜960
 広陵の人。字は正中。李昪に仕えて秘書郎とされ、李mが即位すると諫議大夫・同平章事に進み、いちじ詐報を弾劾されて昭武軍節度使に出されたが、952年には左僕射・同平章事に復して庶政の一切を宰領した。江北が失われて後周との折衝を終えると太子太傅に退いた。 宰相としては無定見で南唐の衰亡を早めたとされるが、文人として優れていたので李mに愛され、忠粛の諡号が贈られた。

劉仁贍  900〜957
 字は守恵。彭城の人。楊行密の下で勇名があった濠滁二州刺史劉金の子。 南唐で刺史として令名があり、兵書にも通じて李mの親軍を任され、後周の南伐に対して清淮軍節度使とされ、4ヶ月以上寿州を堅守して世宗を撤退させた。翌年の再征で李mが後周に臣従した後も開城せず、病臥しながらもしばしば周軍を撃退したが、副将の開城に遭って憤死した。 世宗から忠勇を絶賛されて検校太尉・中書令・天平軍節度使・彭城郡王を、南唐からは太師が追贈された。

徐煕
 鍾陵(江西省)の人。江南の旧族の出で、生涯仕官しなかった。 花鳥魚果画に長じ、その作品は南唐後主が蒐集し、後に宋の内府に収められた。「黄氏は富貴、徐氏は野逸」と蜀の黄筌と並称され、その手法は“徐氏体”と称されて後に文人画家に継承された。
 徐氏体は花鳥画の様式の1つとされ、徐煕の画風は写生主義の黄氏体に対して気韻を重んじて写意的傾向が強く、構図は自由で、墨と淡彩を交えた瀟洒野逸な趣きがあったという。
  
没骨法:徐煕の子とも孫とも伝えられる徐崇嗣の始めた画法。 水墨に替えて彩色を用い、輪郭線を除いたぼかしの技法を用いて徐氏体を完成させた。 徐氏体と黄氏体は宋代には共存すべき二類型としてそれぞれ模範とされたが、明清時代に文人画が高揚すると徐氏体は文人花鳥画の源流と視られるようになり、殊に清朝画院に絶大な影響を与えた。

董源  〜962?
 鍾陵(江西省)の人。字は叔達。李mに仕えて北苑使とされた。 水墨画を王維に、着色を李思訓に学び、その雄渾な筆勢と平淡な画法は特異なものとして称揚され、山水画の首峰として巨然と双璧とされる。

李U  937〜961〜975〜978
 南唐の第三代君主。後主。旧諱は従嘉、字は重光。兄5人が早世したために襲位し、Uと改名した。 文芸・仏教に熱心で自らも造詣が深く、特ににおいては中国最高の作者と評される。又た文芸振興にも尽力し、廷珪墨歙硯澄心堂紙など、後世絶品と評される文房四宝の開発改良に自ら加わり、多くの名匠を輩出した。 反面、政治に対しては全く無気力で、国費を遊興・技芸に濫費した。 後周に代った宋にも称臣して開戦の回避に腐心したが、朝見拒否を理由に征伐され、975年に曹彬に開城した。 後に隴西公とされ、まもなく毒殺された。
  
澄心堂紙:南唐の宮廷で作製された最高級紙。唐代には蜀郡成都の錦江浣花潭産が最高級とされたが、南唐後主は文化の振興・奨励政策の一環として新紙を研究・開発させ、完成品に初代烈祖の建立した堂の名を冠した。 これは桑皮を原料とし、厚手の大型牋と薄手の蔵経紙大の大判の2種があり、ともに当時から絶賛されて大判は北宋でも愛用者が多かった。 牋は清の乾隆帝が苦心の末に宮廷で復元させ、大判とともに最高級品として詩・画用に供された。

韓煕載  902〜970
 北海の人。字は叔言。後唐の同光年間(923〜26)に進士に挙げられ、文章と書画によって京洛で名を知られた。 父親が青州の乱に連坐して処刑されると江南に奔り、南唐に仕えて秘書郎とされ、李mの治世で知制誥まで進み、李Uのとき中書侍郎・光政殿学士承旨に至った。 書家として徐鉉と並称され、碑記銘文の依頼者が後を絶たなかったが、政治家としては李Uの遊惰を諌めず、また国難に直面しても無策だったという。

巨然
 鐘陵の人。江寧(南京)の開元寺で画僧として知られ、南唐が滅ぼされると開封に徙されて開宝寺に起居した。 同郷の董源の技法を学んで遠景の水墨山水画に長じ、殊に江南の景色を好んで晩年はさらに自然に親しみ、一代の宗匠と呼ばれて董源と並称された。

 

後蜀

 930〜965
 後唐の成都尹孟知祥が明宗との対立から自立したもの。唐文化を基礎とした五代蜀文化を開花させたが、やがて奢侈放縦に流れて宋に征服された。 成都陥落時に宋軍によってほぼ余さず掠取された人材・物資は、武人政権の延長である宋の文化を大きく発展させただけでなく宋の国力を著しく補強し、以後の統一戦争の軍費の半ばを購ったとも伝えられる。統一後も続いた被征服地に対する過酷な収奪は、均産一揆の原因となった。

孟知祥  874〜930〜934
 後蜀の高祖。邢州龍岡の人。字は保胤。李存勗の姪婿として太原尹・北京留守などの要職を歴任し、前蜀の征服で成都尹とされたが、軍備増強を明宗に猜疑され、荊南を介してもさまざまな謀略が行なわれた為に930年に造叛した。 932年までに蜀の全域を制圧して翌年には両川節度使・蜀王と認められ、933年に明宗が歿すると称帝した。

孟昶  919〜934〜965
 後蜀の後主。孟知祥の第3子。孟知祥の死で即位し、旧臣の横行を粛正して諫臣を起用し、農蚕の奨励や科挙の実施などで国内を安定させた。 前蜀の文化を継承発展させて五代蜀文化の全盛期を招来し、殊にが盛行し、又た成都の城壁は花で飾られて“芙蓉城”と呼ばれたという。 948年には中原の混乱に乗じて渭南の4州を奪ったが、後半生は厭政と奢侈に流れて奸臣が跋扈し、955年には後周に渭南を奪われ、965年に宋軍に降伏した。 開封に遷されて検校太師兼中書令・秦国公とされたが、間もなく頓死した。

黄筌
 成都の人。字は要叔。孟知祥に仕えて翰林侍詔から如京副使に進んだ。若年から画家として著名で、宮廷画家として花鳥画を得意とし、“富貴”の画風は徐煕と対比される。 その画風は宋朝の画院に継承されて従来の画風を一変させ、花鳥画時代をなした。

 

北漢

 951〜979
 後周に簒奪された後漢の一族が、沙陀族歴世の太原に拠って建てた最後の沙陀族政権。 称帝しつつも遼に臣属する事で後周・宋に対抗して中国の憂患となったが、宋の安定化に伴って国内輿論が分裂し、979年に宋太宗の親征によって滅ぼされた。

劉崇  896〜951〜954
 北漢の世祖、神武帝。後漢の高祖劉知遠の弟。後漢の建国より太原尹・河東節度使・河東留守を歴任して一貫して太原に鎮し、隠帝の死後に立てられた子の劉贇が郭威に殺されると自立して称帝し、劉旻と改名した。 遼と叔姪関係を結んで軍事支援を確保し、954年には郭威の死に乗じて南征したものの高平(山西省)で柴栄に惨敗し、程なく憂死した。 高平の敗戦より後周との勢力関係は完全に逆転したとされる。

劉鈞  926〜954〜968
 北漢の第二代君主。睿宗、孝和帝。劉承鈞とも。劉崇の子。 好学で書法に能く、即位後は国力の涵養に努めて軍事は極力控えた一方で、独自の元号を用いるなど遼からの離遠を図り、国内の混乱をもたらした。

劉継恩  〜968/968
 北漢の第三代君主。少主、廃帝。劉崇の娘婿/薛サの子。父が妻女を傷害した事で自殺を命じられた後は劉鈞の養子とされ、劉鈞の下で太原尹とされたが、父や宰相の郭無為から非才と評された。即位から60日程で宴席で供奉官の侯霸栄らに弑された。

劉継元  〜968〜979〜992
 北漢の第四代君主。英武帝。劉継恩の異父弟。両親の死後に劉鈞の養子とされた。 劉継恩が殺されると郭無為によって迎立され、遼との国交修復に努めたが、国内では劉崇の諸子や不平分子を誅戮して政情を徒に混乱させた。 975年には遼からの冊立を実現したものの、979年に宋太宗の親征に大破されて開城降伏し、開封で右衛上将軍・彭城郡公とされた。 後に保康軍節度使・彭城公に進められ、死後に彭城郡王に追封された。


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