唐.3

憲宗  文宗  武宗  僖宗
 

憲宗  778〜805〜820
 唐の第十一代天子。諱は純。順宗の長子。順宗が病臥した後に太子とされ、宦官によって立てられた。 宦官権力を抑え、財政の好転の成果を背景に禁軍を拡充して藩鎮抑圧を進め、西川・夏綏・浙西・昭義の諸藩を鎮圧し、元和12年(817)に淮西節度使を、819年に平盧節度使を討滅し、河朔三鎮にも一定の統制を及ぼした。 又た各藩鎮内の州刺史に朝臣を充て、兵権・財政権を強化して節度使鎮将の権力分散を図り、杜黄裳・武元衡李吉甫裴度など賢相にも恵まれて中興の英主と讃えられた。
 その基本理念は両税法と同様に現状を肯定した改革主義で、藩鎮対策の成功も、8世紀末頃から表面化した節度使権力の不安定に乗じて藩鎮を廃止せずに分割・縮小に限定した為でもあり、藩鎮抑圧を主導したのが何れも山東を本貫とする貴族宰相だった点には注意を要する。 晩年は仏教や神仙に傾倒し、丹薬の濫用から感情の起伏が激しくなって側近の宦官を虐待するようになり、王守澄・陳弘志らに暗殺された。

武元衡  758〜815
 河南緱氏(河南省偃師)の人。字は伯蒼。武則天の一族にあたる。 徳宗の建中4年(783)に科挙に及第し、御史中丞に累進して徳宗にも真宰相の器と評され、順宗の時には劉禹錫と対立して右庶子に降職されたが、憲宗が即位すると抜擢されて元和2年(807)には門下侍郎・同平章事とされた。 一時は剣南西川節度使を兼領して出鎮し、元和8年(813)に徴還されて淮西藩討伐の準備を進めたが、淮西節度使、或いは平盧節度使の放った刺客に暗殺された。一説には、避戦派の朝臣の関与もあったという。

裴度   765〜839
 河東聞喜の人。字は中立。徳宗の貞元5年(789)の進士。 元和6年(811)に知制誥に任じられ、武元衡を輔けて刑部侍郎に累進した後、武元衡が暗殺された際に負傷したものの門下侍郎・同平章事に進められて強硬姿勢を堅持し、12年(817)に李愬を督して淮西藩の征討に成功して晋国公に封じられた。
 剛直かつ激越な言辞を忌まれて河東節度使に出され、穆宗の時に反側化した成徳藩盧龍藩鎮圧のために鎮州四面行営招討使として迎えられて同平章事に復したが、元稹との対立を李逢吉に乗じられて3ヶ月で山南西道節度使に出され、朝廷の藩鎮政策は徳宗の時代に復旧した。 敬宗の宝暦2年(826)に再び知政事に復し、文宗の擁立にも参与したが、李宗閔らとの政争に敗れて山南東道節度使に出され、834年には東都留守に転じた。
 憲宗の藩鎮抑圧を成功に導いた中興の功臣として『旧唐書』では王導謝安にも比せられるが、その一方で矜剛の質からしばしば憲宗と衝突して全幅の信頼は寄せられず、憲宗の死後に再挙された後は党争の一翼を担って朝政の停滞と宦官勢力の伸長を助長した。 晩年は洛陽に隠棲して白居易劉禹錫らとの交流を楽しみ、死後に太保を追贈された。

李愬  773〜821
 洮州臨潭の人。字は元直。太尉李晟の子。 恩蔭によって任官して衛尉少卿・坊晋二州刺史・太子・事などを歴任し、淮西藩の討伐が難航した元和11年(816)に自薦して唐ケ節度使に抜擢された。 翌年、兵事を控えるべき黒道凶日に蔡州城を奇襲して年来の懸案だった淮西藩を討平し、検校尚書左僕射・襄州刺史・山南東道節度使・涼国公とされ、820年には同平章事を加えられた。
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 曾孫の李係は黄巣の乱のとき湖南観察使として潭州にあったが、黄巣が広州から北上すると単身城を棄て、このため潭州は1日で陥落して5万の守兵は悉く殺された。

韋応物  735〜?
 京兆長安の人。若い頃は任侠を好み、三衛郎(近衛士官)として玄宗に仕えたが、安史の乱後は節を改め、困窮の中で放浪しつつ精学した。洛陽丞・徐州刺史・蘇州刺史を歴任し、蘇州では善政を慕われて韋蘇州と尊称され、蘇州刺史を以て致仕し、後任の白居易とも交際があった。
 五言詩に優れ、詩風は孟浩然王維柳宗元と並称され、陶淵明と並べて“韋陶”と称される事もある。歿年は不明で、貞元年間(785〜805)とも大和年間(827〜835)とも伝わる。

柳宗元  773〜819
 河東解の人。字は子厚。徳宗の貞元9年(793)の進士。徳宗の死後、順宗に近侍する王叔文・韋執誼らに与して監察御史から礼部員外郎に転じたが、順宗の退位で永州司馬に出された。 元和10年(815)に柳州刺史に転じ、土俗の改正に注力して在任中に歿した。
 文人として著名で、韓愈と同じく西漢以前の達意的な散文体への復帰を主張(古文復興運動)し、後に唐宋八大家にも数えられた。 学術的議論文に優れた韓愈に対して叙景文に優れ、又た自然詩にも長じて王維孟浩然韋応物らと並称される。

韓愈  768〜824
 昌黎(河北省)の人。字は退之、諡号は文公。貞元8年(792)の進士。 既に文名が高かった一方で時に褊僻と称されるほど剛直で、徳宗の晩年に宮市の弊を直言して監察御史から江陵府掾曹に左遷され、憲宗が即位すると徴還されて知制誥、中書舎人とされたものの元和14年(819)にも憲宗の奉仏を強諫して潮州刺史に出された。 穆宗の下で兵部侍郎、吏部侍郎、京兆尹・御史大夫などを歴任し、死後は礼部尚書を贈られた。
 文人として著名で、経学への回帰運動の一環として、修飾に傾いた四六駢儷体を批判して古文復興を唱導し、柳宗元と並ぶ古文の大家として唐宋八大家に数えられた。 詩人としても著名で、平俗的な詩風の白居易に対して新奇な語句を多用する難解な詩風を特徴とし、門下から李賀賈島など多数の文人を輩出した。

李賀  790?〜816?
 福昌(河南省宜陽)の人。字は長吉。 李淵の伯父/鄭孝王の裔にあたり、早くから才能を称揚されたが、性は偏狭狷介で軋轢が絶えず、父の諱(晋粛)と同音である事を理由に進士の受験を拒まれ、官人としては不遇だった。 一説では、元稹への通謁を拒んだ事への報復ともいう。 韓愈に“鬼才”と絶賛され、華麗で幻想的かつ陰鬱・晦渋な独特の詩風は李商隠をはじめ多くの文人に支持され、後世でも沈徳潜譚嗣同、魯迅・毛沢東らに愛好された。

薛濤  768〜831
 長安の良家の出だったが、父が蜀で歿した為に零落して芸妓となり、詩、特に絶句に長じて西川節度使韋皋の側室となった。 元稹白居易牛僧孺劉禹錫杜牧らと交流し、王羲之風の書家としても知られて女校書と呼ばれ、晩年は浣花渓に居し、渓水で製した小箋は“薛濤箋”と呼ばれて世人に愛用された。 魚玄機とは唐代女流詩人の双璧とされる。

法照  〜838
 浄土僧。 慧遠を追慕して廬山に入り、次いで衡山の承遠に師事し、代宗の大暦2年(767)に天感を称して五会念仏を提唱した。太原や長安で浄土教を広く宣布して“後善導”とも呼ばれ、五台山に竹林寺を建立し、五会念仏は円仁によって日本にも伝えられた。

穆宗  794〜820〜824
 唐の第十二代天子。諱は恒。憲宗の第3子。兄の恵昭太子が歿した元和7年(812)に太子とされ、憲宗を弑した宦官の王守澄・梁守謙らに擁立された。 即位の経緯から宦官の発言力が極めて強く、藩鎮に対しては宥和派が朝廷を主導して党争も激化した。仙丹の誤用で歿した。

敬宗  809〜824〜826
 唐の第十三代天子。諱は湛。穆宗の長子。即位するや裴度を召還して信任した反面、性放縦と称されて遊楽に耽り、好んで宦官を虐待した為、劉克明らに寝所で殺された。
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 劉克明は穆宗の弟の絳王悟の擁立を図ったが、神策軍を擁する枢密使の王守澄や裴度らに制され、李悟とともに殺された。

王守澄  〜835
 来歴不詳の宦官。遂王(穆宗)と太子を争った澧王や憲宗を暗殺したと伝えられ、穆宗策定の功で知枢密事となると外朝の李逢吉と結び、敬宗が劉克明に弑されると文宗を擁立して驃騎大将軍・右神策軍中尉とされた。 3帝を通じて朝政を壟断したが、文宗からは憲宗を弑した元和の逆党として憎悪され、左神策軍中尉に抜擢された仇士良との政争に敗れ、軍権を奪われて自殺を命じられた。

李逢吉  758〜835
 隴西成紀の人。字は虚舟。秦王十八学士の李玄道の曾孫。貞元年間(785〜805)の進士。 侍御史・太子侍読・中書舎人などを歴任して元和11年(816)に門下侍郎・同平章事とされたが、淮西討伐に反対したことで令狐楚らと共に朝廷を出されて節度使を歴任した。 権謀を好んで権勢欲が強く、穆宗との旧縁から兵部尚書として徴還されると裴度元稹の対立に乗じ、822年に両者を排斥して門下侍郎・同平章事に復した。 王守澄らと結んで朝政を壟断し、826年に文宗が即位して裴度が復帰すると山南東道節度使に出されたが、甥の李訓の秉政によって左僕射とされ、司徒を以て致仕した。後に甘露の変に連坐して殺された。

文宗  808〜826〜840
 唐の第十四代天子。諱は昂。穆宗の子、敬宗の次弟。 敬宗の横死後、宦官の王守澄らに擁立された。 その治世は宦官の跋扈と牛李の党争に終始し、党争と距離を措く礼部侍郎李訓・太僕卿鄭注らと謀って王守澄の粛清には成功したが、甘露の変で宦官の仇士良に軟禁され、失意の裡に歿した。 史伝では「文学に造詣あり。正義を好むも小心で定見に欠けた」とある。
 晩年に太子とされた陳王成美(敬宗の子)は文宗の柩前で仇士良らに殺され、叔父の潁王炎(武宗)が立てられた。
  
甘露の変 (835):王守澄の粛清に続く、文宗と李訓鄭注による宦官排斥の失敗。 仇士良を用いて王守澄を自殺させた文宗らは、王守澄の葬儀で内外呼応して宦官を制圧する為に鄭注を鳳翔節度使に出していたが、功を急ぐ李訓が金吾衛の兵力のみでの宦官鏖殺を謀り、宮苑に兵を隠して甘露が降ったと偽って宦官を集めた処、直前に露見して失敗した。文宗は幽閉されて李訓・鄭注を含む公卿の半ばが殺され、宦官の跋扈はさらに傍若無人になった。

仇士良  781〜843
 循州興寧(広東省)の人。字は匡美。 東宮時代から憲宗に親侍し、御史の元稹と席次を争って負傷させた際には却って元稹が罷免された。 文宗の擁立後、王守澄に権勢が集中したことを不満とし、李訓らの薦めで左神策軍中尉に抜擢されると王守澄の失脚に尽力して自殺させ、甘露の変で文宗を拉致・幽閉して反対派を粛清した後は朝政を専断した。
 文宗が不予となると太子を殺して武宗を立て、驃騎大将軍・楚国公とされて大権を保ったが、歿した翌年には邸での武器隠匿が発覚して官爵を削られた。 天子の操縦術として、「財貨を尽して遊興を勧め、外事には興味を持たせず、学問や学者に接する余暇を与えてはならない」と後進の宦官に伝授したという。

李宗閔   〜843
 元和年間の宰相李夷簡の甥。李淵の子/鄭恵王の裔。貞元21年(805)の進士。 憲宗の諮問に応じて同期の牛僧孺と与に時政を批判した為に宰相の李吉甫に忌まれ、李吉甫の死後も藩鎮強硬策を是とした憲宗の時代は任用されず、穆宗が即位すると中書舎人に進んだが、821年に科挙の不正に連坐して剣州刺史に貶され、この時より李吉甫の子の李徳裕との党争が始まったとされる。
 程なく中書舎人に復して文宗の大和3年(829)に同平章事とされ、裴度を排斥するなど李徳裕の党与を朝廷から逐って牛僧孺を知政事に迎え、833年に李徳裕が宰相となると山南西道節度使に出されたが、李訓・鄭注の薦めで程なく中書侍郎・同平章事に直された。 835年に京兆尹の処分を諫めて潮州司戸に出され、そのため甘露の変に連坐する事は免れ、後に太子賓客に直さたが、武宗が即位すると李徳裕が秉政した為に郴州司馬として歿した。

牛僧孺  779〜847 ▲
 安定鶉觚の人。字は思黯。代宗末年(805)の進士。 時政を批判した為に宰相の李吉甫に忌まれて元和年間は不遇だったが、穆宗が即位すると知制誥・御史中丞・戸部侍郎を歴任し、822年に李逢吉が宰相となると同平章事に進められて藩鎮宥和策を主導した。 敬宗のとき裴度の復帰で武昌軍節度使に出され、宦官が主導した文宗の治世では李吉甫の子の李徳裕との党争で一時期(830〜32)を除いて地方に置かれ武宗が即位して李徳裕が執政すると太子少保に転じて兵権を奪われ、太子少師で歿した。 『杜子春伝』の作者として有力視される。

李徳裕  787〜849
 趙郡の人。字は文饒。趙国公李吉甫の子。 『漢書』『左伝』に精通し、学生と共に郷試に応じる事を愧じて恩蔭によって任官した。 穆宗が即位すると翰林学士とされて知制誥・中書舎人を兼歴し、李宗閔の婿の不正を指弾してより党争が本格化したとされる。 藩鎮宥和策を唱える李逢吉の秉政で浙西観察使に遷されたが、軍紀の粛正や巫祝を盲信する弊風の教化に成功し、徐州からの私度僧の進奉を敬宗に断念させるなどの成果があった。
 文宗の時には剣南西川節度使として南詔吐蕃の撃退に成功して一時は同平章事とされたが、概ねは李訓らや宦官の勢力が強く、興元節度使・鎮海節度使・淮南節度使などを歴任した。 武宗には同平章事として信任され、藩鎮抑制や中央集権の回復に尽力して太尉・衛国公に至ったが、廃仏令によって著しく世評を損ない、宣宗が即位すると東都留守に出され、間もなく潮州司馬、潮州司戸と貶されて崖州司戸の時に歿した。
  
牛李の党争 :穆宗期〜文宗期の、李宗閔牛僧孺李徳裕を中心とした政争。“牛李”とは本来は「牛僧儒と李宗閔の朋党」と李徳裕が蔑称したもので、当時は李宗閔が首領と目されていた。 両者の対立の原因は李徳裕の父の李吉甫が、自身の政策を糾弾した新進の李宗閔らを朝廷から逐った事とされ、李逢吉の主導で藩鎮宥和策に転じた穆宗の時代に党争として顕現した。 宦官が朝廷を壟断した文宗の時代には、両派とも宦官と結んで党争は熾烈となり、宦官対策に苦慮する文宗をして「河北の賊を去るは易く、朝廷の朋党を去るは難し」と嘆かせて李訓・鄭注らを重用させ、文宗を嗣いだ武宗の時代は李徳裕が政策を主導した。
 党争は宣宗の即位と領袖の相次ぐ死によって終焉したものの、政策の頻繁な変更は宦官勢力の伸長と民力の疲弊をもたらし、唐朝衰亡の大因となった。
この党争、一時期は牛僧孺と李徳裕の出自によって「科挙官僚vs貴族勢力」という某国が好みそうな階級闘争と見做されましたが、李宗閔・牛僧孺の親分的な李逢吉の存在や反側藩鎮の立地を考えると、むしろ「政権基盤を安定させたい関隴勢力vs大地主としての利権を回復したい山東勢力」という構図の方が近いようです。 いずれにせよ、文宗の頃には感情先行の党争に堕していた事は確かで、どちらも宦官の意を迎えることに汲々とし、文宗が最大の懸案とした宦官の抑制は完全に疎外されていました。

李紳  772〜846
 潤州無錫の人。字は公垂。趙郡李氏の支族で、武周朝の趙国公李敬玄の玄孫。 憲宗の元和元年(806)に進士に及第して国子助教とされたが、微職を厭って棄官し、穆宗より翰林学士とされて李徳裕元稹とともに“三俊”と称された。戸部侍郎に進んだ後、穆宗が歿すると李逢吉によって端州司馬に出され、文宗の下で観察使・節度使を歴任し、武宗の会昌元年(841)に兵部侍郎・同平章事に直された。4年(844)に病を以て淮南節度使に転じ、そのまま歿した。

蒋防
 義興(江蘇省宜興)の人。字は子徴。詩文に能く、李紳元稹らの推挙で821年に翰林学士とされ、後に知制誥を加えられたが、李逢吉らによって824年に汀州刺史、さらに連州刺史に遷された。 政敵の李益の薄情を描いたとされる『霍小玉伝』が広く知られる。

李益  748〜827 ▲
 隴西姑臧の人。字は君虞。李逢吉の宗族。 大暦4年(769)に進士に及第し、吏職を卑しんで棄官した後は節度使の幕僚を歴任したが、後に文名が揚って憲宗に迎えられ、礼部尚書まで進んだ。 才を恃んで傲慢で、亦た猜疑心が強く、外出のときは妻妾の部屋に施錠して戸口に灰を撒くなどし、“妬癡尚書李十郎”と揶揄された。 政敵の蒋防の『霍小玉伝』のモデルとされる。

元稹  779〜831
 洛陽の人。字は微之。拓跋氏の裔という。 元和元年(806)に制挙に及第して右拾遺(君側の諫官)に叙され、監察御史に転じて諸藩を糾察したが、宦官の劉士元と諍って江陵府士曹参軍に貶され、穆宗の下で知制誥、中書舎人・翰林院承旨などを経て、822年に同平章事とされた。 権勢への希求の強さから「猜忌・浮薄」と評されることもあり、為相についても知枢密魏弘簡との親交が作用し、これを批判した裴度との対立に乗じた李逢吉によって在任4ヶ月で排斥された。 浙東観察使・尚書左丞などを歴任し、鄂州の武昌軍節度使に転じた翌年に同地で歿した。
 詩人としても著名で、白居易同様の平易な詩風は韓愈と好対照をなし、“元和体”と呼ばれて広く好まれた。 親交のあった白居易とは任地が近接した浙東でも親密に交際し、824年に白居易の詩文を集めて『白氏長慶集』を纂した。

白居易  772〜846 ▲
 太原の人。家は下邽(陝西省渭南)に居した。字は楽天、号は香山居士。 徳宗の貞元年間(785〜805)の進士。夙に文名が高く、翰林学士から左拾遺に進んだが、武元衡の暗殺者の追捕を急請した事が越権に問われて江州司馬に降格され、このときに香炉峯下に草堂を建てた。 憲宗の末に徴還されて元稹と共に知制誥として同在したが、821年に転出を求めて杭州・蘇州の刺史を歴任し、文宗の大和2年(827)に徴還されてより刑部侍郎・太子少傅などを経て会昌2年(842)に刑部尚書を以て致仕した。
 当初は経世済民を志して諫官を自任したが、江州以降は地方行政に尽くして善政を讃えられ、西湖の治水・干拓で築かれた“白堤”は現代に至るまで西湖名勝の1つとなっている。 嘗ては楽府によって時相を批判する新楽府運動を展開もしたが、江州時代より詩風も一変し、簡適系と呼ばれる平易・写実的なものが多くなって元稹と並称され、玄宗と楊貴妃を題材とした『長恨歌』などは生存中から人口に膾炙し、日本に伝えられた文集は平安文学に多大な影響を与えた。
 弟の白行簡も文人として知られ、官人としては不遇だったが、『李娃伝』は秀作として後世まで広く知られた。

宗密  780〜841
 果州西充(四川省)の人。圭峰禅師とも。俗姓は何。科挙を志しながらも元和2年(807)に遂州の道円に接したことで禅を学び、後に上洛して清涼澄観の華厳経疏に接すると華厳経を学び、教禅一致を説いて朝野の帰崇を受けた。 華厳宗第五祖として終南山の草堂寺に住して著述に専念し、828年には文宗の招請に応じて紫衣が下賜された。

武宗  814〜840〜846
 唐の第十五代天子。諱は炎。穆宗の第5子。文宗の死後、太子を殺した宦官の仇士良らに擁立された。 即位の年にウイグル帝国の崩壊があり、吐蕃も又た分裂期にあり、李徳裕を信任して北辺の安定や沢邕鎮(山西省)の平定・宦官抑制に一定の成果を挙げた。 道教に傾倒し、道士の趙帰真の進言から財政再建を兼ねて廃仏を断行したが、後に丹薬を乱服して狂死した。
  
会昌の廃仏 (843〜46):武宗による仏教弾圧。“三武一宗の法難”の1つ。 当時の仏教教団は税役の減免を目的とした出家や地主層の寄進で肥大化し、又た国家的祭祀を受けて財政の悪化を助長していた為、道教に傾倒した武宗と財政再建を図る李徳裕により、崇仏派の仇士良の死を機として未曾有の規模の廃仏が実施された。 仇士良の死の前年には僧尼の私財の没収と私度僧の追放が行なわれ、会昌5年(845)には天下の無額寺院4600余寺が廃されて4万余の仏堂類が毀たれ、26万余の僧尼が還俗し、没収された寺田は数千万頃・奴婢は15万に達し、寺社は公共事業場に、仏像器具は銭・農具に改鋳された。
 仏教は長安・洛陽の両都に4ヶ寺が、各州の州都にも1寺が遺され、河朔三鎮には廃仏が及ばなかったが、それでもこの徹底した廃教運動で中国仏教界は壊滅に瀕し、翌年の武宗の死で廃仏が解かれた後も、唐朝の衰退と重なって従来の宗派は教勢を回復できなかった。 景教(キリスト教ネストリウス派)・祅教(ゾロアスター教)・摩尼教(マニ教)など道教以外の宗教は悉く禁圧され、多くが廃滅した。

趙帰真  〜846 ▲
 武宗即位とともに入宮した道士の1人で、武宗に師淑されて仏教を排撃し、会昌の廃仏を煽動した。宣宗即位による仏教復興令の発布とともに処刑された。

宣宗  810〜846〜859
 唐の第十六代天子。諱は忱。穆宗の弟。武宗の叔父。 韜晦によって魯鈍と評されていたため、武宗の不予に乗じた宦官の馬元贄に擁立された。即位するや武宗の廃仏を撤廃して開山・剃髪に一定の制限を設け、君主専制によって牛李の党争を終わらせて宦官の抑制にも一定の成果を挙げ、苛察・刻薄と評されるほど法治主義に傾きながらも政情安定に尽力して“小太宗”と称された。 宣宗の治世は長安の安定を第一義としたもので、朝廷での貴族勢力の復権と寒門進士の地方流出は地方の文化水準の上昇と中央に対する求心力の低下を結果し、最晩年には裘甫の乱に繋がる民乱・兵乱が江南で頻発した。又た晩年には道教を篤信し、不老長生薬の誤用で歿した。

賈島  779〜843
 范陽の人。字は浪仙、号は無本。科挙に及第できずに青龍寺に居し、元稹白居易の平易な詩風に反対し、苦吟試行を重ねて作詩することを提唱した。 “推敲”の語の由来者でもあり、823年、詩中に用いる語(推・敲)の選定に没頭して京兆尹韓愈の車列を乱してより韓愈に師淑し、還俗して進士科にも及第したが、微官を歴任して歿した。五言律詩に長じ、孟郊と対比した蘇軾によって「郊寒島痩」と併称された。

孟郊  751〜814 ▲
 湖州武康(浙江省)の人。字は東野。貞曜先生とも。 徳宗の貞元14年(798)に3度目で科挙に及第したが、狷介不羈で交際を嫌ったために官途は不遇だった。奇異晦渋な詩風によって韓愈と並称される事もあり、貧苦や憂憤を詠った作品が多い事から、蘇軾から「郊寒島痩(孟郊は殺風景で賈島は貧弱)」と評された。

杜牧  803〜852
 京兆万年の人。字は牧之、号は樊川。杜佑の孫。文宗の大和2年(828)の進士。 美貌の風流才子として知られたが、名門の子弟の通例で遊興を好んでしばしば節度に欠け、そのため淮南節度使牛僧孺の幕僚だった間は将来を嘱望する牛僧孺によって密かに護衛が附されていた。 御史官を歴任して剛直かつ気節の人と評されたが、一族を養う為に転出して刺史を歴任し、上書した辺防策が認められて852年に中書舎人に転じた。
 “老杜”杜甫の対比で“小杜”とも呼ばれ、当時の技巧・繊麗を尊ぶ詩風に反撥して前期の平明の風を貴び、“情致豪邁”と称されて李商隠と並ぶ晩唐の代表的詩人とされる。

李商隠  812〜858 ▲
 懐州河内(河南省沁陽)の人。字は義山、号は玉渓子。 山南西道節度使令孤楚に見出されて文宗の開成2年(837)に進士科に及第したが、間もなく令孤楚が歿し、更に敵党の王茂元の婿となった事で変節を憎悪され、小官の歴任と罷免に終始して官界では不遇だった。
 早くから詩人として知られ、自然に情緒を託した艶情詩を好んだが、僻典からの故事熟語を多用した技巧重視の難解なものが多く、幻想的かつ耽美的な晩唐の詩風の代表者と称される。作詩に際しては周囲に古典資料を並べた為、魚を並べるカワウソに喩えて“獺祭魚”と呼ばれた。 『古今説海』収録の『雑纂』は日本文学に影響を与え、特に『枕草子』の文学的形式成立の重要な契機となった。
 李商隠の詩風は北宋前期に“西崑体”と称されて一世を風靡し、西崑体を批判した古文派の王安石も李商隠自身の詩については「杜甫に匹敵する人間洞察を含み、華麗な表現の底流には誠実な人格が存在する」と絶賛し、これが李商隠の詩評の定説となっている。

段成式  〜863
 斉州臨淄の人。字は柯古。父の段文昌(773〜835)は李吉甫の抜擢で翰林学士とされ、穆宗期に宰相まで進み、剣南西川・淮南・荊南の節度使を歴任し、多才・豪奢な趣味人としても知られた。
 段成式も博学多才で三教に精通し、思想的にも既存の概念に囚われず、晩唐の代表的文人の1人とされる。 代表的著作に『酉陽雑俎』がある。官は校書郎から刺史職を歴任して太常少卿で終わった。

懿宗  833〜859〜873
 唐の第十七代天子。諱は。宣宗の庶長子。 宣宗の嫡長子の死後も暗愚が忌まれて長らく継嗣に立てられず、宣宗の死後に宦官によって擁立されたといわれる。 奢侈遊興を好んで政務を顧みず、裘甫の乱・の乱など、小地域を越えた大規模な叛乱が続発した。

裘甫  〜860
 浙東の人。宣宗の末年(大中13年/859)に、江淮に対する苛斂誅求に対して百余名の農民を糾合して象山を占拠し、随所で官軍を破って剡県(浙江省嵊州)占領の頃には舟山の海賊なども併せて衆3万余に達し、天下都知兵馬を称した。 衢・明・台州を攻略して寧海に拠り、浙東節度使を圧倒したが、麾下に加えた士人層の献策によって拠点の分散防衛に転じ、浙東観察使とされた王式が率いる吐蕃・ウイグル・忠武軍・義成軍の混成軍によって3日で83戦して全敗し、剡県で擒われたのち長安で処刑された。

  〜869
 唐の武寧藩(徐州)の糧料判官。 徐州の銀刀都の解体後、南詔・安南対策の一環として864年に桂林に進駐したが、任期の2年を1年以上超過しても交替が認められなかった為、868年に守備兵800人に首領に推されて北帰した。 彭城を陥した後は主に淮南・淮西を転戦し、これに多数の農民が加わって大勢力となったが、しばしば節度使を条件として招撫を求め、又た驕兵の横恣に苦しんだ。掠奪などで人心を失ったのち突厥系の朱邪赤心や奚・契丹兵を主力とする官軍の攻勢と懐柔で討滅された。

張義潮  〜872
 沙州(敦煌)の人。 吐蕃のダルマ王暗殺後の混乱に乗じて848年に瓜州(酒泉)より吐蕃を逐って長安に帰順し、次いで沙州・西州(トゥルファン)などを回復し、851年に河西11州を以て帰義軍節度使に任じられて自治を追認された。 863年には涼州を占領し、族子の張淮深に節度使を委ねて867年に入朝して金紫光禄大夫・検校吏部尚書などを加えられ、長安の賜邸で歿した。

魚玄機  844?〜871?
 長安の人。字は幼微、または薫蘭。 懿宗の咸通年間(860〜74)に補闕李億の側室となったが、正妻に嫉まれて咸宜観で女冠(道士)となった。 読書を好んで詩才に長じ、温庭筠ら名流詩人と交際して名声を博したが、侍婢を杖殺したことで処刑された。

温庭筠  812〜872
 太原祁の人。旧諱は岐、字は飛卿。軽薄・放蕩無頼で科挙には及第できず、859年頃に詩名によって特に召されて及第したが、叙任前に微行中の宣宗に無礼があり、微職を歴した後に棄官して困窮の裡に歿した。 詩の構想に卓絶して独特の心理描写を駆使した艶体詩を好み、詩人としては李商隠と並称され、又た即興の作を得意とし、詞に芸術性を附与してその発展の基礎を築いた。

僖宗  862〜873〜888
 唐の第十八代天子。諱は剡。懿宗の第5子。宦官に擁立され、田令孜に朝政を一任して遊興に耽り、乾符2年(875)には黄巣の乱を招いた。 880年に黄巣に長安を陥されて蜀に逃れ、黄巣が自殺した翌年(885)に還都すると掠奪された宮女を不忠としてすべて処刑したが、密かに長安を放棄した事を女官に非難されて返答できなかったという。 朝廷の号令は関中を中心とした地域にしか及ばず、還都して程なくに田令孜と河中節度使王重栄の対立で鳳翔に蒙塵し、邠寧節度使朱玫が宗室を擁立するなど中央に対する軍閥の影響力も飛躍的に増大した。 2度目の棄京後は楊復恭が権を壟断し、還都して程なくに長安で歿した。

王仙芝  〜878
 濮州の塩徒。 875年に陳留長垣で挙兵して山東諸州を攻略し、天補平均大将軍・海内諸豪都統を称し、同業の黄巣と合流して大叛乱に拡大した。 科挙に落第したことがあった為か朝廷の招撫にしばしば動揺し、これが原因で黄巣とも分裂して次第に劣勢となり、江陵で荊南道節度使高駢に大敗し、黄梅(湖北省)で敗死した。

黄巣  〜884 ▲
 曹州の塩徒。王仙芝とほぼ同時に挙兵して合流し、副帥として従った。 王仙芝同様に科挙の受験経験があったが、朝廷の招撫に応じる事を拒んで王仙芝と別れ、根拠地を定めずに各地を転戦する中で他の塩徒や匪賊化した流民・逃兵、困窮する農民などを吸収し、殊に塩徒の組織力や逃兵の軍事力は勢力の爆発的拡大を支えた。
 878年に広州を占領し、880年には洛陽・長安を陥して斉帝を称したが、根拠地を定めた事による弛緩や統治能力の欠如などによって急速に紊乱化し、掠奪によって民心をも失った。 加えて有力部将の朱温が朝廷の招撫に応じ、883年に雁門節度使李克用に長安を逐われた後は華北・華中を流寇し、いちじ蔡州を陥して頽勢挽回を図ったものの中牟県北郊の王満渡で李克用・時溥に壊滅的大敗を喫し、泰山近郊で自殺した。
 黄巣の乱は漢末の黄巾軍以来の農民による大乱で、塩徒の組織力が加わった事で長期化した。乱後、朝廷の権威は完全に失墜して各地に軍閥が割拠し、経済都市の開封を得た朱温が朝廷を支配して華北の主導権を掌握した為、黄巣の乱を以て唐朝は実質的に滅んだとされる。

秦宗権  〜889 ▲
 許州、或いは上蔡の人。忠武軍節度使の牙将として黄巣軍に備えて蔡州に出鎮していた時、880年に周岌が節度使を簒奪した事に乗じて蔡州刺史を称し、翌年には楊復光の招撫に応じて奉国軍節度使とされた。 長安から却く黄巣に敗れて降り、翌年(884)に黄巣が敗亡すると洛陽を陥して称帝したが、朱温・楊行密らとの攻伐で衰えて888年に朱温に大破され、翌年に離叛した側近に捕われて長安で斬られた。
  
 奉国軍の残兵は孫儒に従い江淮に南下して楊行密と争い、孫儒の敗死で楊軍に編入された精鋭は“黒雲都”と呼ばれて楊軍の中核をなした。 更に逃れた一派は馬殷銭鏐に吸収され、建国の基となった。

高駢  821〜887
 幽州の人。字は千里。南平郡王高崇文の孫。 歴世で神策軍の将校を輩出した武門の出で、武芸を好んで儒学・文学にも造詣があり、党項南詔を撃退して秦州防禦使・安南都護・天平軍節度使・剣南西川節度使などを歴任した。 877年に諸道兵馬都統・江淮塩鉄転運等使とされて王仙芝を大破し、879年からは淮南節度使として黄巣討伐の全権を与えられたが、境内の保全に終始して黄巣の北上を黙過し、880年の潼関陥落と僖宗の四川蒙塵を招来した。 後に朝廷の弱体化に乗じて割拠を図り、妖宗のみ狂信して将兵を軽視したことで部下に殺された。

田令孜  〜893
 許州の人。字は仲則。本姓は陳。懿宗のとき宦官となって晋王(僖宗)に近侍し、僖宗が即位すると“阿父”と信任され、神策軍を統領して朝政を壟断し、宮市のほか収賄・横領などが常態化した。 黄巣に洛陽が陥されると僖宗を奉じて兄の西川節度使陳敬瑄を頼り、帰京後は解州塩の帰属を巡って河中節度使王重栄と対立し、885年の僖宗の棄京に発展した。 このため輿論を懼れて楊復恭へ譲権して成都に逃れ、王建ら禁軍将校を蜀の諸刺史に任じて勢力の扶植を図ったが、昭宗の即位と伴に反宦官の風潮が昂揚し、王建に討たれて殺された。

楊復恭  〜894 ▲
 閩の人。字は子恪。本姓は林。 幼時に宦官となり、累代で神策軍の護軍中尉を輩出した楊氏/楊玄翼の仮子とされた。 の乱での監軍として功から枢密使に進み、田令孜の秉政で失権したものの僖宗の華州蒙塵で田令孜から譲権され、王重栄と和して僖宗の還都を実現した。 以後は朝政を専断して昭宗を擁立したが、昭宗に通じた仮子の楊守立に排斥されて892年に致仕し、謀叛を誣されて興元(漢中)の山南西道節度使楊守亮を頼ったものの、李茂貞らの追討に敗れて長安で斬られた。

昭宗  867〜888〜904
 唐の第十九代天子。諱は曄。懿宗の第7子。僖宗の弟。宦官の楊復恭によって立てられた。 892年に楊復恭の排斥に成功した後、禁軍の増強を図り2度に亘って鳳翔節度使李茂貞に長安を襲われ、これより酒害が募って宦官の殺傷を嗜むようになったという。 宰相の崔胤と宦官粛清を謀って900年に退位・幽閉され、宦官の内訌と朱全忠の介入で翌春には復辟して天復と改元したものの、間もなく李茂貞と通じた宦官によって鳳翔へ遷され、翌年に李茂貞が朱全忠に大敗して還都した。天祐元年(904)正月に洛陽に遷され、秋に殺された。実質的な唐朝最後の天子とされる。

崔胤  〜904
 清河武城の人。字は垂休。宰相崔愼由の子。 進士に及第したのち中書舎人・御史中丞などを歴任し、昭宗の初期に戸部侍郎・同平章事に進んだ。 朝廷の主導権を宦官や李茂貞と争って朱全忠と結び、そのため昭宗廃黜の際にも害されず、神策軍を糾合して昭宗の復辟に成功すると参拝不名の特典が認められた。 又た昭宗が鳳翔に遷されると朱全忠の援けで長安の宦官の鏖殺や昭宗の奪還を果たし、903年には宦官誅滅令を全国に発した。
 4度宰相を務めたことから“崔四入”と称され、昭宗の奪還で魏国公に封じられ、朱全忠に備えて禁軍の拡充を図ったが、内通によって長安の邸内で族滅された。 朱全忠との結託から、『新唐書』では姦臣伝に列している。

荊浩
 沁水(山西省)の人。字は浩然。儒学を修め、唐末の戦乱を避けて太行山に隠棲し、用墨・用筆法を項容・呉道玄に学んで水墨山水に新風を加えた。後に北画中興の祖と呼ばれた。

哀帝  892〜904〜907〜908
 唐の第二十代天子。昭宣帝とも。諱は祝。昭宗の第9子。朱全忠による昭宗の暗殺後、禅譲のために立てられた。即位と共に兄弟悉く殺され、改元も許されずに天祐の元号を用い続け、禅譲後は済陰王に封じられて曹州で殺された。


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