清朝.2

乾隆帝  嘉慶帝  道光帝  咸豊帝 / 太平天国

 

高宗 / 乾隆帝  1711〜1735〜1795〜1799
 清朝の第六代天子。諱は弘暦。世宗雍正帝の第4子。幼時から聖宗に将来を嘱望され、ジュンガル親伐や苗族平定にも随った。 即位後は『四庫全書』に代表される文化の振興や十全武功、減税措置を可能とした経済の発展などで清朝極盛の名君と謳われて十全老人と矜号し、聖祖の在位期間を越えることを憚って乾隆60年(1795)を以て退位した。 22年(1757)に海禁策を再開し、貿易港を広州1港に限定して公行体制が始められ、又た思想統制を目的とした“文字の獄”は、歴朝で最も周密かつ徹底したものとされる。
 中期以降は寵臣の和珅の壟断と綱紀の弛緩による人事の紊乱、度重なる外征と内廷の奢侈化・豪奢な巡幸による財政の悪化が進行し、退位後も院政によって体制を保持して清朝没落の原因を醸成し、苗民白蓮教徒の大乱を惹起した。 探求心・器量・視野においては聖祖に劣り、細心・勤勉・洞察力では世宗に及ばず、前二帝に比して克己心が弱かったと評される。
   
十全武功 :高宗が乾隆年間の外征の勝利を自賛したもの。実際には交渉による協定の成立や実質的な敗戦など強引な解釈が含まれ、“十全”の呼称に対する拘りは高宗の老耄の象徴でもある。

  • 乾隆14年(1749)/金川按撫使(大金川)と小金川ら周辺諸国との紛争の鎮圧。12年に貴州総督が敗退し、川陝総督傅恒・四川提督岳鍾hらが出征して大金川降伏の形式で停戦。
  • 乾隆20年(1755)/ジュンガル王国の内訌に乗じたオイラートの征服と解体。
  • 乾隆22年(1757)/オイラートの再統合を図るアムルサナーの討伐。アムルサナーはロシアに遁れたのち客死したが、多数のオイラート人が清軍に虐殺された。
  • 乾隆24年(1759)/回部(回疆のトルコ系ムスリム)の乱の平定。ジュンガルに従属していたホージャ家のブルハン=ウッディーン・ホージャ=ジハーン兄弟が独立回復を求めて挙兵したもので、回疆全域に拡大したものの翌年までに清軍に征圧され、バダフシャンに逃れたホージャ兄弟は清朝の要求で処刑された。
  • 乾隆34年(1769)/コンバウン朝ビルマへの遠征。両国の関係は両属状態のシップソーンパンナ(雲南タイ族)の帰属問題から30年(1765)より武力衝突を生じていたが(清緬戦争)、清朝は32年にコンバウン朝によるタイのアユタヤ朝征服に乗じて雲貴総督明瑞に遠征させ、この時はゲリラ戦によってアヴァで壊滅した。 大将軍傅恒の第二次遠征も霖雨と疫病の蔓延で停滞し、ビルマを朝貢国とすることで講和が成立した。
  • 乾隆40年(1775)/金川諸国への遠征。大金川と諸小国が36年に同盟して清朝に抵抗し、四川総督による平定が失敗したことで伊利将軍阿桂が出征して大小金川を平定したが、多大な損失を強いられた。
  • 乾隆52年(1787)/福康安による、台湾の林爽文の乱の鎮圧。
  • 乾隆54年(1789)/西山党に制圧されたベトナムへの遠征。黎帝の要請に応じたもので、1789年元旦、奇襲によってハノイのドンダーで兵力の大半を喪い、西山朝の成立と朝貢を認めた。
  • 乾隆55年(1790)/ゴルカ朝ネパールに対する遠征。パンチェン=ラマ家の内訌に武力介入したネパールに対し、チベットの宗主国としての出征で、将軍巴忠がチベットからの歳幣供出によって講和させ、朝廷にはネパール撃退と報告した。
  • 乾隆57年(1792)/ネパールに対する再征。歳幣を停止したチベットに対するネパールの侵攻に応じたもので、巴忠は自殺し、四川総督・四川将軍が敗退した後に起用された大将軍福康安がカトマンズを包囲し、ネパールの朝貢を承認して講和した。

岳鍾h  1686〜1754
 成都の人。字は東美、号は容斎。岳飛の裔を称した。 康熙59年(1720)にチベットからのジュンガル撃退で先鋒の功を認められて四川提督とされ、青海ホシュートを平定した翌年(雍正3/1725)に年羮堯の後任の川陝総督に進んだ。 7年に寧遠将軍に転じてイリに進駐し、10年にジュンガルに敗れて罷免されたものの、乾隆13年(1748)に四川提督に復して川陝総督傅恒に従って大金川遠征を成功させた。

傅恒  1721〜1770
 フーヘン。満洲鑲黄旗人。字は春和。高宗の孝賢純皇后の弟。乾隆8年(1743)に戸部右侍郎・山西巡撫に抜擢され、11年(1746)には軍機大臣に列して内大臣を加えられ、翌年に戸部尚書に進んだ。 13年に兵部尚書・協辧大学士を兼ね、間もなく川陝総督に転じて大金川を平定し、ダワチ=ハーンの討平やアムルサナーの追討などオイラートの征圧に大功があって一等忠勇公とされた。 33年(1768)よりビルマに遠征して清緬戦争を指揮したもののゲリラ戦と疫病の蔓延で苦しみ、自身も罹病して副将の阿桂を留めて帰国したが、天津巡幸への随従で重篤となって歿した。社稷の臣と称され、鎮国公を贈られた。

張廷玉  1672〜1755
 安徽桐城の人。字は衝臣、号は硯斎。康熙39年(1700)の進士。聖祖の下で直南書房・侍講学士などを、世宗の下で礼部尚書・戸部尚書・吏部尚書などを歴任して太子太保・保和殿大学士などを加えられ、軍需房(軍機処の前身)が創設された際には怡親王胤祥・大学士蒋廷錫と並ぶ統事とされた。 上奏や軍機房の運用を改制するなど皇帝秘書としての業績が多く、世宗から「器量純全、抒誠供職」「大臣中第一宣力者」と讃えられ、その遺詔でオルタイと共に高宗の宰輔とされた。 総裁官として乾隆元年(1736)に『明史』を完成させ、『康煕字典』『雍正実録』『清会典』の編纂にも携わり、乾隆14年(1749)に戚族の匿喪赴考に連坐して失脚したが、死後は漢人として唯一、太廟に祀られた。

王倫  〜1774
 寿張(山東省陽谷)の白蓮教系の八卦教徒。断食・拳棒・煉気による癒病を唱えて清水教を称し、信徒を集めて乾隆39年(1774)に寿張県城を占拠した。陽穀・堂邑・臨清を攻略して運河を阻害したが、大学士舒赫徳(シュヘデ)に鎮圧された。 清水教の乱とも呼ばれ、母体とされた八卦教・義和教に対する弾圧が強化された。

唐岱  1673〜?
 満洲正藍旗人。字は毓東、号は静巖・黙荘。 王原祁に師事して聖宗から画元状と賞され、雍正年間に入宮して乾隆年間に画院供奉となった。 南画山水を専らとしたが、西洋画の影響も受け、カスティリオーネとの合作もある。

ジュゼッペ=カスティリオーネ  1679〜1764
 郎世寧。ミラノ出身のイタリアのイエズス会修道士。 康熙54年(1715)に中国に渡来し、画才を認められて世宗・高宗に仕え、西洋の画法を画院に伝えた。 『乾隆帝馬上観馬図』が代表作として知られ、ベルサイユ宮殿に模して円明園を設計したことでも知られる。

金農  1687〜1764
 仁和(杭州市区)の人。字は寿門、号は冬心。金石・考証を学んだのち諸方を遊歴し、晩年は揚州に寓居した。 詩人・書家・画家として知られ、その書風は特に刷毛風の隷書やゴシック風の楷書で知られ、50余歳で始めた画は古拙な画風を特徴として竹梅・羅漢を好み、石濤八大山人に迫ると称される。倣岸狷介で揚州八怪の筆頭にも数えられている。

鄭燮  1693〜1765 ▲
 江蘇興化の人。字は克柔、号は板橋。乾隆元年(1736)の進士。山東の知県を歴任して17年に致仕した。 明代の徐渭の画風を学んで蘭・竹を最も得意とし、書は隷書・楷書・行書に優れ、流行の董其昌王鐸とは一線を画す独特の風格があり、詩文にも通じていた。 揚州八怪に数えられ、殊に書画に於いては金農と並称された。

曹霑  1715?〜1763
 正白旗人。字は雪芹。曹雪芹として知られる。 長編小説『紅楼夢』の作者。赤貧のなか息子の死を嘆いて急死した。
 曹家はヌルハチによる瀋陽征服で正白旗の包衣(家奴)とされ、順治年間に世襲侍従に転じた。 曾祖父の曹璽の妻女が聖祖の乳母となり、その子の曹寅が聖祖の伴読(学友)とされた事から、康熙2年(1663)に創設された江寧織造とされて南京に移住した。 江寧織造署は内務府に直属し、御用衣料を司った他に江南の諜報や情報操作を担って役益が多く、三代に亘って世襲して諸王と通婚し、聖祖の6度の江南巡幸のうち4度まで署庁を行宮とするほどの富財を誇った。 世宗が即位すると諸王との通謀を以て罷免・没財のうえ北京に遷され、高宗の即位で赦免されたものの没落した家運は回復しなかった。

恵棟  1697〜1758
 呉県(蘇州市区)の人。字は定宇、号は松崖。 経学を家学として諸学に博通し、祖父の恵周タ・父の恵士奇と併せて三恵と呼ばれたが、生涯任官しなかった。博引傍証を旨とする漢学呉派の祖でもあり、閻若璩に触発されて『古文尚書考』を著すなど、殊に漢代易学の研究で一家を為した。 精研を讃えられた尚古主義者で漢代の資料を全肯定し、考証的研究を重んじて黄宗羲顧炎武ら啓蒙的学者を批判した。

戴震  1723〜1777
 安徽休寧の人。字は東原。極貧にあって江永に師事し、後に北京に出て銭大マ紀ホ王鳴盛らに尊重されて名を知られた。 乾隆27年(1762)に挙人となり、特に翰林院庶吉士待遇で四庫全書の纂修に参与した。
 論証による研究成果を重んじて実証された定理と仮説を峻別し、聖人・先賢に対する無批判な信奉を戒めて皖派考証学を大成させ、門下から段玉裁王念孫らを輩出した。 考証学者中では稀な哲学者でもあり、宋学の偏理・厳格主義を非人道的として批判し、情を重視する気一元論を展開した。 又た周代器物の製法・用途から当時の実像を探求し、『周礼』考工記を研究したことでも知られる。

江永  1681〜1762 ▲
 安徽婺源(江西省)の人。字は慎修。 同郷の朱子を尊崇し、『儀礼経伝通解』を補って『礼書綱目』を著した。礼学だけでなく音韻学にもに優れ、戴震程瑤田らを輩出した事から後に皖派の祖とされた。

沈徳潜  1673〜1769
 長洲(蘇州市区)の人。字は確士、号は帰愚。乾隆4年(1739)の進士。 詩友として高宗より大老と尊称され、致仕の際には礼部尚書を贈られて死後に太子太師を追贈された。詩壇の旗手として袁牧の性霊説に反対して“格調説”を唱え、形式を重視して漢魏の古詩・盛唐の近体詩を理想とした。

袁枚  1716〜1797 ▲
 銭塘(浙江省)の人。字は子才、号は簡斎・随園老人。乾隆4年(1739)の進士。 翰林院庶吉士を初任としたが、転出後は地方官の歴任を厭って18年に致仕し、江寧の随園に隠棲して文筆業と文人との交際を楽しんだ。 “神韻説”・“格調説”を否定して“性霊説”を奉じ、作法や形式に拘泥しない自由な詩作を主張して新興層に支持され、特に女性門人を多く擁して『随園女弟子詩選』を刊行した事は当時にあっては批判されたものの注目に値する。 又た古文・駢文にも長じ、蒋士銓・趙翼と並ぶ乾隆三大家と称される。

趙翼  1727〜1814
 湖陽(江蘇省武進)の人。字は耘松、号は甌北。乾隆26年(1761)の探花進士。 翰林院で『通鑑輯覧』などを編纂したのち地方に転出し、両広総督李侍堯のビルマ遠征に幕僚として従い、貴西道台を以て致仕したが、林爽文の乱でも李侍堯の求めで幕僚に連なった。 文才に長じ、応試前には軍機処章京にあって即座に数千言の草案を作成したと伝えられ、袁枚・蒋士銓とともに乾隆三大家と称された。 考証学者として『廿二史箚記』を著し、各正史の矛盾を指摘・考証し、独自の史観を展開した事で中国史概論の筆頭とされる。
   
廿二史箚記 :『史記』〜『明史』の22正史を考証して問題点を論じた書。全36巻。箚記は読書で得た感想・意見を箇条書きしたもの。 各史の矛盾点だけでなく編纂の経緯や思想、治乱の得失などにも言及し、通読することで中国史の概観を知ることができるとされている。 資料の殆どを正史に頼っている点で銭大マの『廿二史攷異』に及ばないという。

畢沅  1730〜1797
 鎮洋(江蘇省太倉)の人。字は穣蘅、号は秋帆・霊巌山人。乾隆25年(1760)の状元進士。 挙人の時に内閣中書として軍機処に入署し、後に陝西按察使・河南巡撫などを歴任して湖広総督まで進んだ。 沈徳潜恵棟に学び、多数の学生を養成して金石学隆盛の端緒を拓き、又た宋・遼・金・元史を通史化した『続資治通鑑』220巻を著した。 太子太保が追贈されたが、高宗が歿すると嘉慶元年(1796)の枝江の白蓮教徒の鎮圧に懈怠したとして剥職・没財に処された。

阿桂  1717〜1797
 アゲイ。満洲正白旗人。字は広庭。大学士阿克敦の子。蔭によって大理丞となったのち乾隆3年(1738)に挙人となり、20年に甘粛の回民を討平し、次いで新疆遠征に従ってアムルサナーホージャ家を伐ったのちイリに進駐して新疆の安定に尽力し、正藍旗から正白旗に昇格された。 27年に徴還されたのち軍機大臣・四川総督・伊犁将軍を歴任し、33年に兵部尚書・雲貴総督として傅恒ビルマ遠征に従い、次いで定辺将軍として41年に金川を平定して第一等誠謀英勇公に進封された。 後に武英殿大学士と首席軍機大臣を兼ね、死後に賢良祠に合祀された。

福康安  〜1796
 フカンガ。満洲鑲黄旗人。字は瑶林。大学士傅恒の子。 乾隆32年(1767)に雲貴尉を襲ぎ、37年には戸部侍郎・満洲鑲黄旗副都統となり、領隊大臣として阿桂を援けて金川遠征を成功させ、奉天将軍・雲貴総督・内務府総管大臣などを歴任した後、49年にも参賛大臣・陝甘総督として阿桂に従って甘粛の回民の叛乱を討平した。
 台湾の林爽文の乱を討平して第一等嘉勇公に進封され、54年に両広総督孫士毅がベトナムの阮文恵に大敗すると後任とされたが、阮氏の請降を以て和した為に横領を誣されて功罪相殺とされた。 57年(1792)にチベットに進攻したネパールを撃退し、カトマンズを攻囲して掠奪品の返還と朝貢を誓わせ、領侍衛内大臣とされて武官の筆頭に置かれ、歴功は王爵に値するとされたが、一族の顕職に配慮して公爵に留められた。 60年に苗民の大乱が生じると鎮圧にあたったものの地理に対する不明などで成功せず、翌年に陣中で病死した。

林爽文  〜1788
 漳州平和(福建省)の人。 台湾に渡って彰化県の吏となり、天地会に加わって北部の領袖となった。 乾隆51年(1786)に散解令が発せられると挙兵して彰化を抜き、政府・移民と対立する先住民に支えられ、南部の領袖の荘大田らの呼応もあって淡水・嘉義など陥して台湾全土を覆う大乱となったが、53年には清軍の福康安に平定されて北京で処刑された。

ジョージ=マカートニー  1737〜1806
 アイルランド出身のイギリス人。 アイルランド上院議員当時の1793年(乾隆58)に最初の中国派遣大使として来朝し、高宗に対して対等の交渉を要求するとともに三跪九叩頭の礼を拒絶し、清朝の譲歩によって謁見には成功したが、開港貿易その他の通商条約締結は一切果たせずに帰国した。後に新領土となった喜望峰の知事とされた。

王鳴盛  1722〜1797
 嘉定(上海市区)の人。字は鳳喈、号は礼堂・西沚。乾隆19年(1754)の榜眼進士。 内閣学士・礼部尚書まで進んだのち光禄寺卿に貶降されて致仕し、蘇州に隠棲した。 夙に詩を沈徳潜に、経を恵棟に学んで博学多才で知られ、漢学者として馬融鄭玄の解釈を重んじて朱子学を強く批判し、漢代学問を無条件肯定する呉派の弊風を決定的にした。 又た正史だけでなく類書・注・野史・金石などを渉猟して異同を精研し、史学者として趙翼や妹婿の銭大マと並称されるが、在官当時から貪官としても知られた。

銭大マ  1728〜1804 ▲
 嘉定(上海市区)の人。字は暁徴、号は竹汀。乾隆19年(1754)の進士。 清行を以て知られた漢の邴丹を追慕して「四品に至らば致す」と公言し、広東学政使を以て致仕した。南京の鍾山書院の院長として招かれ、晩年は蘇州の紫陽書院で講学した。 恵棟・沈彤に師事し、殊に史学や金石学に優れ、『廿二史攷異』などを著して義兄の王鳴盛と並称され、漢代偏重の思想に捉われなかった事もあって清代特有の純考証学的史学の創始者とすら称される。 元史研究の先駆者でもあり、又た小学・目録・暦学・数学などにも多大な業績を遺した。
   
廿二史攷異 :二十二史考異。全100巻。廿二史から『旧五代史』『明史』を除き、『続漢書』『旧唐書』を含めて『資治通鑑』の体裁に倣って正史を吟味したもの。文字の校勘を主として語句・年次の考証や地名の変遷にも言及し、精緻な考証姿勢は極めて高く評価されている。

章学誠  1738〜1801
 会稽(浙江省紹興)の人。字は実斎、号は少巌。 乾隆43年(1778)に科挙に及第した後も任官できずに各地を転遷し、不遇のまま歿した。夙に劉知機の『史通』に接して史学に志し、黄宗羲の影響もあって各地の地方志を編纂しつつ六経皆史を唱える独自の史学論を構築し、浙西学派には批判的だった。 その歴史哲学の集大成でもある『文史通義』8巻は道光12年(1832)に刊行され、歴史理論家として劉知幾と双璧とされた。

紀ホ  1724〜1805
 直隷献県(河北省)の人。字は暁嵐・春帆、号は石斎。乾隆19年(1754)の進士。 侍講学士まで進んだのち刑事の漏洩に問われて新疆のウルムチに流されたが、程なく召還されて38年には四庫全書館総纂官とされ、嘉慶10年(1805)に協辨大学士・礼部尚書・太子太保に進められた。 多くの学士を庇護し、四庫全書事業に戴震を抜擢した事などで先見・大度を称されるが、『四庫全書総目提要』を校閲して大部分を修正した事で邵晋涵ら編纂官との軋轢もあった。 文名が高く、『四庫全書簡明目録』『閲微草堂筆記』などを著したが、詩文集や論文の類は遺さなかった。

邵晋涵  1743〜1796
 浙江余姚の人。字は与桐、号は二雲。乾隆36年(1771)の状元進士。 銭大マの推薦で翰林院庶吉士として『四庫全書』の編纂に加わり、後に文淵閣直学士・国史館纂修に進み、史学の考証に長じて経学の戴震と並称された。 『旧五代史』を編集し、又た『四庫全書総目提要』の史部を担当したが、これは総纂官の紀ホによって大きく加筆訂正され、原稿を自費刊行して優劣を世に問うたと伝えられる。

劉墉  1719〜1804
 諸城(山東省高密)の人。字は崇如、号は石庵。乾隆16年(1751)の進士。翰林院庶吉士・侍講から内外の諸官を歴任して乾隆41年(1776)に南書房に入り、直隷総督・協辧大学士、礼部尚書、吏部尚書などを歴任して嘉慶2年(1727)に体仁閣大学士となった。 経史全般に通じて詩文・題跋に長じ、殊に帖学を大成した書法の大家として張照と並称され、濃墨を用いた事から“濃墨宰相”とも称された。

ケ石如  1743〜1805
 安徽懐寧の人。元諱は琰、字は頑伯、号は完白山人。 篆刻・書写をしつつ各地を逍遥し、江寧で先秦の金石や秦漢の瓦当文、篆文の書法など古文字を臨模して研究し、篆隷書を復古させた。 程瑶田・金榜・張恵言らとの交誼から京師に招かれて「千数百年この作なし」と絶賛されたが、内閣学士翁方綱との交際を避けた事などから京師を逐われ、畢沅を頼ったのち51歳頃に帰郷した。 書・刻とも従来の風を打破して豪気・雄渾を特徴として一家を為し(新徽派)、死後程なくに包世臣に称揚されて高名となり、後に康有為から碑学派の開祖と讃えられた事で近代新風の起点と目された。

程瑤田  1725〜1814
 安徽歙県の人。字は易田・易疇。 江永に師事し、乾隆35年(1770)に挙人となって教導官を歴任し、嘉定県教諭に終わった。 篤学の人として知られ、その精緻な考証は同門の戴震王念孫らに感服され、篆刻にも長じ、又た詩人としても多くの文人に絶賛された。晩年には失明したが、孫に口授して『琴音記』を著した。

姚鼐  1731〜1815
 安徽桐城の人。字は姫伝、号は惜抱。乾隆28年(1763)の進士。 官は刑部郎中まで進んで『四庫全書』編纂にも加わり、完成から程なくに病を理由に致仕した。 劉大櫆や叔父の姚範に桐城派の古文を学んで高簡深古と評され、又た漢学に反対して朱子学を擁護した。能書家としても知られ、殊に行書は董其昌に比すと評された。

段玉裁  1735〜1815
 金壇(江蘇省)の人。字は若膺、号は懋堂。乾隆25年(1760)に挙人となったものの科挙には及第できず、川貴の知県を歴任して46歳を以て致仕した。 戴震に師事して小学に通じ、特に『詩経』『楚辞』などの古音の分類を明確にし、音韻学を指して“戴段の学”とすら称された。 『説文解字注』などの著述は殆ど小学に立脚してなされ、一部門専念型の考証学の典型とされる。

王念孫  1744〜1832 ▲
 江蘇高郵の人。字は懐祖、号は石臞。乾隆40年(1775)の進士。 工部主事・給事中をへて永定河道台に転じ、治水に失敗して致仕した。 戴震に師事して小学、特に訓詁・音韻学に優れて『爾雅』『説文解字』に精通し、戴震・段玉裁と並称される事もある。 古書の解読を、仮借字の字形ではなく字音に求める事を唱え、『管子』『墨子』『淮南子』などを復元した事は高く評価される。

和珅  〜1799
 ヘシェン。満洲正紅旗人。卑賤ではあったが、乾隆37年(1772)に侍衛となってより高宗への阿諛と機知によって寵任されて顕職を歴任し、41年には軍機大臣・内務府大臣に至って朝政を壟断した。 高宗が退位した後も議政大臣として大権を保ち、政情の著しい悪化から各地に苗民の乱や白蓮教徒の乱などを誘発し、高宗が歿すると弾劾が集まって自殺させられ、没収財産は8億両以上に達したという。

仁宗 / 嘉慶帝  1760〜1796〜1820
 清朝の第七代天子。諱は顒琰。高宗乾隆帝の第15子。父帝に譲位された直後から貴州苗族の乱白蓮教徒の大乱が生じ、上皇の死と共に権臣の和珅を誅殺した。 以後も艇盗の乱や直隷山東の天理教徒の乱など各地に紛乱が頻発し、『己罪詔』を発して綱紀粛正・事態収拾につとめたが、人口の激増に対する可耕地の限界、八旗緑営の弱体化など乾隆年間以来の諸問題が表面化し、構造的な変化に対応する事ができなかった。

李長庚  1751〜1807
 泉州同安(福建省廈門市区)の人。乾隆36年(1771)の武進士。46年に福建壇鎮総兵とされ、西山朝討伐に従って名を挙げた。嘉慶2年(1797)以降は艇盗の蔡牽討伐を指揮して累功があり、12年には浙江提督に進んだが、寡勢での出戦を強いられた広東潮州沖での海戦で蔡牽を大破したものの流弾で戦死した。

苗民の乱  1795〜1796
 貴州の松桃庁と湖南の永綏庁の苗族が「駆逐客民、回復故土」を唱えて挙兵したもの。 鳳凰庁・乾州庁の同族が呼応して拡大した為に政府は招撫から掃滅に転じたが、頑強な抵抗に直面した閩浙総督福康安・四川総督和琳らが陣中で病死するなど容易に鎮圧されなかった。

劉之協  〜1800
 安徽の人。乾隆末期、白蓮教系の混元教教主劉松の子/劉四児を弥勒仏の転生として「牛八(朱の解字)」と呼び、陝川湖3省の交界部で教勢を拡大した。 同地方は明末清初の人口激減によって入植が奨励され、乾隆年間には移民の窮乏化と先住苗族との軋轢が常態化しており、混元教は苗族や棚民などの被圧迫層に信仰され、嘓匪と呼ばれる武闘集団を吸収して軍事化していた。 1794年に弾圧されて劉松・宋之清らは捕縛され、劉之協は護送中に脱走したものの河南葉県で捕らえられて処刑された。
   
牛八の乱 (1796〜1804):嘉慶白蓮教徒の乱、川楚白蓮教起義とも。牛八は朱の解字。 劉松・劉之協の唱える白蓮教系の混元教を紐帯とし、劉之協追捕に際しての過酷な誅求と収奪によって、嘉慶元年に襄陽で信徒の王聡児・姚之富らが蜂起した事に始まる。 四川・陝西の宗徒が呼応し、多数の貧農や塩徒なども参加して翌年には河南・甘粛にも拡大し、組織化はされなかったものの八旗緑営の著しい弱体化で容易に鎮圧されなかった。 郷兵の投入や清野策などによって各個撃破され、1798年に王聡児・姚之富が自殺し、1800年に劉之協が再逮捕され、1801年には四川集団の主力も壊滅して鎮静化した。
 叛乱鎮圧に投じられた巨費は増税による社会不安を醸成し、又た投入された郷兵は四川だけで30万に達したが、解体後の草賊化を回避する目的で緑営に編入され、事後処置が施されなかったために緑営兵の劣化をさらに助長した。

林清  〜1813
 直隷大興(北京市区)の人。卯金刀、劉安国とも。 八卦教(白蓮教)を奉じて一帯の領袖となり、託宣によって信徒を増して天理教を称した。 河南滑県の李文成と通じて嘉慶17年(1813)の蜂起を約し、李文成が捕縛されると仁宗の北巡に乗じて北京城内で蜂起したが、2日で殲滅されて処刑された。
   
天理教徒の乱 (1813):癸酉の変、八卦教起事とも。天理教教主の林清が、河南滑県の李文成との蜂起に失敗した後、仁宗の熱河避暑に乗じて信徒70余名と倶に北京城内で蜂起したもの。 皇子旻寧(宣宗)らによって2日間で制圧されたが、紫禁城の養心殿付近まで達した事、宦官や宗室に内応者がいた事で重視された。
 滑県城に獄されていた李文成は同胞に救出され、滑県を拠点に蜂起して河南・山東・直隷を蹂躪したが、同年末までにほぼ平定された。

劉逢禄  1776〜1829
 武進(江蘇省常州市区)の人。字は申受、号は思誤居士。嘉慶19年(1814)の進士。 経書への造詣を以て22年より礼部に在籍し、礼部郎中として歿した。 外祖父の荘存与やその甥の荘述祖から『公羊伝』を学び、『左氏伝』が『春秋』とは無関係で劉歆の偽作であることを論証し、今文学への回帰を唱えて一派を為した。 門下からは魏源龔自珍らを輩出し、清末改革派の康有為梁啓超などにも影響を及ぼした。

改g  1774〜1829
 松江華亭(上海市区)の人。字は伯韞、号は香白・玉壺。元代に移住した回族。 仕女美人画を得意とし、山水・花卉は小品に多い。李公麟趙子昂唐寅などの画風を学んで独自の風を拓き、『紅楼夢』の挿画によって広く知られ、清代美人画の二大流派の代表として費丹旭と並称された。

宣宗 / 道光帝  1782〜1820〜1850
 清朝の第八代天子。諱は綿寧、即位後に旻寧。仁宗嘉慶帝の第2子。 陶祜の塩法改革を採用して財政再建を図ったものの実効を挙げ得ず、満洲旗人の堕落と漢化、官吏の腐敗、銀価高騰が進行し、農民の経済的困窮が深刻となった。 殊に銀価高騰の原因となった阿片の禁絶を徹底した事で阿片戦争を生じ、その敗北によって欧米諸国による植民地的侵略が始まって政治・経済の各方面に方針転換が求められ、清朝の国内統制も大きく後退した。

趙金龍  〜1833
 湖南江華の瑤族。 嶺南の瑤族は明代以降、漢人資本の侵出に圧迫されてしばしば蜂起していたが、その中でも最大規模の瑤民の乱とされる。 これは漢人に対する反感に会党・鉱賊による瑤族虐待が加わった結果で、嶺南各地の瑤族が呼応し、湖広総督盧坤が5省の兵力を投入した事で趙金龍は4ヶ月で討平されたが、完全平定には1年近くを要した。

羅思挙  〜1840
 東郷(四川省宣漢)の人。字は天鵬。 夙に賊となったが、嘉慶元年(1796)の白蓮教徒の乱では郷勇に加わり、豊城の賊を壊走させて四川総督英善に認められた。以後は随征郷勇として川陝甘を転戦して勇名は上聞にも達し、11年には涼州鎮総兵に進んだ。 沈勇俊敏で嘗ては血気から突出することも多かったが、後には招撫を重んじ、首魁のみを罰して刑の濫用を戒めるようになった。 道光元年(1821)には貴州総督に抜擢され、四川・雲南・湖北の提督を歴任し、瑤民の乱を平定すると世襲一等軽車都尉とされ、その軍事的成功によって郷勇の存在意義が公認されるようになった。

阮元  1764〜1849
 江蘇儀徴の人。字は伯元、号は芸台。乾隆55年(1790)の進士。 嘉慶4年(1799)より各地の巡撫・総督を歴任して道光18年(1838)に太子太保・太傅・体仁閣大学士を以て致仕したが、その間に浙江巡撫には2度就いて李長庚と与に艇盗の掃討を進めた。 又た天地会と英国の活動を危険視し、両広総督の道光元年(1821)には阿片の禁絶を奏請した。
 皖派の学統にあって杭州では詁経精舎、広東では学会堂を建てるなど後進の育成と編纂事業にも尽力し、孟子ではなく著作を遺した曾子をこそ孔子の学の正統と唱えるなど独自の説を展開し、考証学の集大成者と評される。 ケ石如同様に帖学(南派)ではなく漢隷の風を遺す碑学(北派)を尊重し、『南北書派論』を提唱した事で碑学が伸長しただけでなく金石学の進歩にも多大に貢献した。

阿片戦争  1840〜42
 清朝による阿片の没収と商館閉鎖に対する、イギリスによる報復戦争。当時の清朝は海禁策によって海上交易は広州の公行のみを窓口としていたが、阿片貿易の拡大によって様々な社会問題が深刻化し、道光17年(1838)に阿片厳禁策が決定された。 欽差大臣として広州に赴任した林則徐は猶予期限付きで販売人・吸引者に死刑を宣告するとともに阿片供出を解除条件として各国の商館を封鎖し、これを拒んだイギリス商館から2万余箱を没収・焼却した。
 イギリスによる報復攻撃は道光19年(1839)には現地の武装艦船によって行なわれたが、翌年には本国の開戦決議によってブリューマー=エリオットを提督とする艦隊が派遣され、この時は九龍・厦門・寧波・舟山を封鎖したのち大沽砲台を陥して天津に逼り、21年に川鼻条約が締結された。 北京ではイギリス艦隊の撤収と共に強硬論が抬頭して条約の批准を拒否したが、イギリス軍に主要諸港を制圧され、翌年(1842)に鎮江が陥されて大運河が封鎖されると南京条約を締結した。 24年には同様の条件でアメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を締結し、中国の植民地化が始まった。
   
南京条約 (1842):阿片戦争の後、清朝全権大使の耆英伊里布とイギリス全権ポッティンジャーが締結し、翌年に香港で批准された。

  • 相互和親と生命財産の保護。
  • 両国官憲の対等。
  • 賠償金600万ドルと戦費1200万ドル、華商の負債300万ドルの支払い。
  • 広州・福州・厦門・寧波・上海の開港、イギリス人居住地の設定および該地のイギリス人監督官・領事官の任命。
  • 香港の割譲。
  • 公行主導貿易の廃止。
  • 関税の一律化と軽減。
などが規定され、翌年の虎門寨追加条約で領事裁判権(治外法権)・片務的最恵国待遇・関税自主権の放棄が追加された。条約内には阿片に関する一切の条項がなく、関税自主権の喪失は萌芽期にあった近代産業の育成を阻害し、開港地のイギリス人居留地は後に租界に発展し、中国植民地化の端緒となった条約とされる。

林則徐  1785〜1850
 侯官(福建省福州市区)の人。字は元撫・少穆、号は竢村老人。嘉慶16年(1811)の進士。 地方官として治水政策などで認められて道光17年(1837)に湖広総督に抜擢され、管内での阿片根絶に成功すると鴻臚寺卿黄爵滋に続いて阿片厳禁論を上奏し、具体的な内容と実績を認められて翌年に阿片問題の欽差大臣とされ、両広総督に転じた。 広東では阿片の所持・交易の厳禁や商館封鎖・貿易停止などの強硬策で阿片2万箱を押収・焼却し阿片戦争に発展した。
 管内からイギリス艦隊を撃退したものの艦隊が直隷に逼った為に罷免され、新疆のイリに左遷されたが、農地改革などの善政によって官民に慕われ、ロシアをこそ外患の最たるものとして認識を革めた。 25年(1845)に赦されて雲貴総督を以て29年に致仕帰郷したが、翌年に太平天国対策の欽差大臣とされ、赴任途上の潮州で病死した。

平英団
 道光21年(1841)に広州を陥したイギリス兵による劫掠に対し、城外西南郊の三元里周辺の郷紳が100余郷の民衆から組織した民間反英組織。 三元里でイギリス軍を攻囲し、雨天にも佑けられて来援したエリオットをも窮させたが、広州知府の命令で解散した。

g善  〜1854
 満洲正黄旗人。鈕祜禄氏。字は静庵。 嘉慶11年(1808)に蔭によって刑部員外郎とされ、後に督撫を歴任して道光18年(1838)に直隷総督に文淵閣大学士を加えられた。 阿片戦争が勃発すると林則徐の後任として広州でイギリス軍提督エリオットと交渉し、翌年に川鼻条約を締結したが、香港割譲を指弾されて罷免・流謫に処された。 23年に駐藏大臣に直されて四川総督・陝甘総督などを歴任し、咸豊2年(1852)に太平天国に対する欽差大臣とされると揚州城外に江北大営を新設して南京に備え、陣中で歿した。

伊里布  1772〜1843
 満洲鑲黄旗人。愛新覚羅氏。字は莘農。嘉慶6年(1801)の進士。雲貴の治官を歴任して政・軍ともに治績があり、道光5年(1825)より巡撫を歴任して清名を称され、13年には雲貴総督に進んだ。 協辧大学士を加えられた翌年(1839)に両江総督に転じ、阿片戦争では欽差大臣として江浙の沿海防備を担い、定海回復に失敗して失脚したが、川鼻条約が決裂すると欽差大臣耆英の下に派遣されて南京条約の締結に参与した。 間もなく広州将軍・欽差大臣として通商約款交渉を担ったが、輿論の批判とイギリスの強要で憔悴して歿した。

耆英  〜1858 ▲
 満洲正藍旗人。愛新覚羅氏。字は介春。道光22年(1842)に盛京将軍から広州将軍、次いで杭州将軍・両江総督に転じてイギリス軍に対応し、欽差大臣として伊里布と与に対外折衝を担って南京条約と翌年の虎門追加条約を締結した。 24年に両広総督に転じた後も通商事務を担って対米/望厦条約・対仏/黄埔条約を結び、28年に協辧大学士から文淵閣大学士に進められたが、朝廷での対外強硬派の抬頭で降職され、アロー号戦争での交渉の不調を以て自殺を命じられた。

自珍  1792〜1841
 仁和(杭州市区)の人字は璱人、号は定蓭。道光9年(1829)の進士。 外祖父の段玉裁章学誠劉逢禄らに学んで経世を志し、殊に公羊学に傾倒して官界の綱紀粛正と改革の急務を説き、その思想は公羊学の隆盛をもたらして康有為らに継承された。 又た西域経営を重視し、『西域行省議』『蒙古図志』は魏源の『海国図志』と並称されたが、時流と合わずに厭世的となって礼部主事で致仕した。 一時は学友の林則徐の幕僚となったものの広州入りの際には才能を惜しまれて同道を認められず、後に発作的に女妓と心中した。

魏源  1794〜1856 ▲
 邵陽(湖南省隆回)の人。字は黙深。法名は承貫。道光24年(1844)の進士。 劉逢禄に公羊学を学び、林則徐に私淑して龔自珍とも交際があった。 阿片戦争では浙江巡撫裕謙の幕僚に連なり、任官後は江蘇の知州・知府を歴任し、塩政や海運に対する知見で布政使に信任された。 太平天国が生じると団練を組織し、咸豊5年(1853)に知高郵府を以て致仕した後は杭州で仏教に帰依した。 阿片戦争後は実学に加えて国際社会を重視し、林則徐に譲られた『四洲志(世界地理大全)』を元に『海国図志』を著し、その中で唱えられた洋務による国防論は寧ろ日本で重視された。

湯貽汾  1778〜1853
 武進(江蘇省常州市区)の人。字は若儀、号は雨生・粥翁。 書画に巧みで詩文にも長じ、天文・地理・琴・簫・囲碁・撃剣などを能くした。董其昌を学んで山水花卉に優れ、特に梅画の評価が高く、同時代の戴熙とは双璧と謳われて最後の文人画家とも称される。 蔭で任官したのち浙江楽清協副将まで進み、晩年は南京に寓居したが、太平天国軍の南京占領に遭って入水自殺し、貞愍と追諡された。

戴熙  1801〜1860 ▲
 銭塘(杭州市区)の人。字は醇士、号は楡庵・鹿牀居士など。道光12年(1832)の進士。 翰林院編修から歴遷して兵部右侍郎に至ったのち病を以て致仕・帰郷し、太平天国が興ると団練を組織して抵抗したが、杭州を陥されて入水自殺した。虞山派を学んで柔軟な筆致を特色とし、特に小品に長じ、詩書画を以て湯貽汾と並称された。

文宗 / 咸豊帝  1831〜1850〜1861
 清朝の第九代天子。諱は奕詝。宣宗道光帝の第4子。 元年(1851)に広西で太平天国が興り、7年にはアロー号戦争が生じ、英仏軍に天津を占領されて天津条約を締結し、情勢に乗じたロシアとは璦琿条約を結ばされた。 10年にも英仏連合に北京を占領されて熱河に出奔し、北京条約を締結した翌年に熱河で歿した。 治世初期を除いて朝政は弟の恭親王や閣僚に託して観劇に傾倒し、結核による早逝は西太后の独裁を招来した。

江忠源  1812〜1853
 湖南新寧の人。字は常孺、号は岷樵。道光17年(1837)の挙人。 27年に県内で瑤族の雷再浩が青蓮教を唱えて蜂起すると団練を組織して鎮圧し、29年に浙江の秀水知県に抜擢された。 太平天国が蜂起すると友人の劉佑らとともに楚勇を組織して欽差大臣賽尚阿に従い、咸豊2年(1852)には南王馮雲山を敗死させて朝廷にも認められ、郷勇正式化の先駆となった。 翌年に南昌で太平天国軍を撃退して安徽巡撫に進んだが、先行して赴任した直後に廬州(合肥)に攻囲され、知府の内応で敗死した。

羅沢南  1807〜1856
 湖南湘郷の人。字は仲岳。 貧苦の中で精学して挙人となり、郷塾での講義の傍らで兵書や『左伝』『易経』を研究し、太平天国軍が湖南に進出した咸豊2年(1852)に曾国藩と協力して湘勇を組織し、3万余を率いる別将として各地を転戦した。 調練中にも経学の講義を怠らなかった事から“儒将”とも称され、直隷州同知に進んだ後も湖南・江西を転戦して勇烈を讃えられたが、武漢攻略中に戦死した。左宗棠ら湘勇幹部の多くが塾生で、湘勇の発展にも多大に貢献した。

アロー号戦争  1856〜1860
 第二次阿片戦争。 1856年(咸豊6)の清朝官憲による香港籍の中国人海賊船アロー号の乗員逮捕と、イギリス国旗降下に対する報復。双方ともアロー号の船籍登録期限の失効には気付かず、イギリス領事からの謝罪および釈放要求を両広総督葉名琛が拒絶した事で戦争に発展した。 現地イギリス海軍は同年に広州城を砲撃して住民による居留地襲撃を惹起したが、翌年には議会でも通商・外交の拡大を目的として開戦が決議され、これに広西省での宣教師殺害で交渉中だったフランスが同調して両国艦隊による広州城占拠と天津制圧に発展し、天津条約が締結された。
 連合軍の撤収後、北京では条約に対する批判が強まり、大沽砲台から調印使節船団を砲撃・撃退した為に翌年(1860)には再戦となり、文宗は熱河に避難し、円明園が徹底的に掠奪・破壊された後に北京が占拠され、天津条約の批准と併せて北京条約が締結された。
   
北京条約 (1860):第二次アロー号戦争後、ロシア公使ニコライ=イグナチェフの調停で恭親王と英仏軍司令官(イギリスのエギルン伯爵・フランスのグロ男爵)との間で締結されたもの。 天津条約の批准も併せて行われ、天津条約に償金の800万両への増額、九龍半島のイギリスへの割譲、天津の開港、ロシアへの沿海州の割譲などが加えられ、又た通訳のフランス人宣教師が追加した、キリスト教宣教師による内地での田地の租借・購買、家屋建造の承認条項は各国に便乗され、以後頻発する教案の発端となった。

璦琿条約  1858
 アイグン条約。伊犁通商条約に続き、ネルチンスク条約の黒龍江方面での約定を改正したもの。璦琿は現在の黒竜江省黒河市区。 アロー号戦争に乗じて東シベリア総督ニコライ=ムラヴィヨフが、武力恫喝を行使した後に清朝全権の奕山と締結したもので、黒龍江左岸がロシア領となり、黒龍江・松花江の航行と沿海州の管理は両国の共有とされ、沿海州は2年後の北京条約でロシアに移管された。

奕山  〜1878
 満州鑲藍旗人。世宗の同母弟/恂郡王允禎の玄孫。 道光7年(1827)頃より新疆に進駐して伊犁将軍に進み、阿片戦争が生じると徴還されてg善が罷免されたのち靖逆将軍として出征し、広州でイギリス軍に惨敗すると内密に償金600万ドルで講和した。 イギリス軍の北上によって罷免・投獄されたものの翌年(1843)には赦免され、新疆に派遣されて30年(1850)には伊犁将軍に復し、翌年(咸豊元年)に伊犁通商条約を締結した。 5年(1855)に黒龍江将軍に転じ、ロシアの武力恫喝に屈して8年に璦琿条約を締結し、次いで北京条約が締結されると革職徴還されたが、以後も御前大臣・内大臣などを歴任した。

鄒伯奇  1819〜1869
 南海(広東省仏山市区)の人。字は特夫。天文・数学・物理・地理などの学問や儀器製造に長じ、渾天儀・時鍾などの七政儀を製造し、欧州の銀版写真法の発明(1839)と同じ頃に一種の写真機を発明したという。 『墨経』『夢渓筆談』などから光学論を抽出し、望遠鏡・顕微鏡などの光学機器の基本原理をまとめた。 晩年の咸豊16・18年に北京の同文館教習として召されたものの、病を理由に応じなかった。

僧格林沁  〜1865
 センゲ=リンチン。モンゴルの科爾沁左旗の王族。道光5年(1825)に科爾沁郡王を襲ぎ、仁宗の婿の養子として殊遇されて14年に御前大臣とされた。後に満洲鑲白旗都統に進み、咸豊3年(1853)に参賛大臣とされ、太平天国軍が直隷に進攻するとその撃退に加わり、5年には北伐軍の主力を撃滅して親王に進封された。
 アロー号戦争では天津守備の欽差大臣とされて大沽に英仏艦隊を撃退したが、翌年の再攻でモンゴル騎兵が壊滅する惨敗を喫した。 以後は山東・河南・安徽を捻軍鎮圧で転戦し、同治2年(1863)には世襲親王に進封されたが、厳獅ネ軍紀と急迫・猛追を旨とする用兵は朝廷からも危惧され、曹州荷沢の高楼寨で捻軍の伏兵によって潰滅・敗死した。 清朝最後の勇将と謳われ、以後、清軍の主導権は完全に郷勇のものとなった。

小刀会
 匕首党とも。道光末年(1850)に厦門で成立した天地会系の秘密結社。 広東・福建人を主な構成員とし、咸豊3年(1853)に太平天国の南京占領に呼応して厦門・上海で蜂起し、厦門は半年ほどで鎮圧されたが、上海では劉麗川らが県城を制圧して上海道台・税関監督の呉健彰を執え、嘉定・青浦などを占領して大明国を号した。 排外を否定して諸外国の間接援助を得たが、太平天国との提携には成功せず、脱出した呉健彰の要請に応じたフランスが清朝に加勢した事で5年に殲滅された。
 呉健彰の要請は上海の税関と租界の権益を条件としたもので、イギリス・アメリカ・フランス人より成る関税管理委員会が設置された事は中国海関が外国人によって管理・税務司制される端緒となった。

 
 

太平天国

  1851〜1864
 広西の洪秀全が桂平金田村に興したキリスト教系の拝上帝会を母体とし、道光30年末(1851)に永安(広西自治区蒙安)を占領して成立した宗教王国。 拝上帝会の挙兵は、貨幣経済の発展や阿片戦争後の社会変化によって生じた大量の失業者(農村無産者・解兵・運搬業者など)の急増を背景に、客家郷紳との対立が尖鋭化した結果で、これら無産階層と天地会系会党や苗族などを吸収して大勢力となった。 建国後は洪秀全を天王に、楊秀清蕭朝貴馮雲山韋昌輝石達開を東・西・南・北・翼王に封じて独自の軍制を定め、阿片・賭博・掠奪・纏足や私財の厳禁など、厳格な規律で統制された。
 移動政権として根拠地を持たず、湖南では馮雲山・蕭朝貴が戦死したものの咸豊3年(1853)には武昌、次いで南京を陥し、南京を天京と改称して国都に定めるた。 次いで北伐・西征を行ない、西征軍は湘潭で曾国藩の湘勇に大敗したものの鄂東以東を確保し、李開芳・林鳳祥らの北伐軍は直隷総督を大破して天津に逼ったが、5年に桂良僧格林沁らに撃滅された。 諸外国に対しては同胞と認めながらも天王への拝跪を要求するなど伝統的な中華思想から脱却できず、又た南京占領直後から支配層の腐敗と対立を露呈し、韋昌輝による楊秀清粛清と韋昌輝誅殺、石達開の離脱など急速に瓦解が進行した。
 その後も官軍の厭戦やアロー号戦争などに助けられ、江北・江南の両大営を潰滅させるなど江浙の支配を維持したが、北京条約の締結(1860)で諸外国が既得権保護のために清朝擁護に転じると洋漢混成軍が投入されて劣勢に転じ、洪秀全が病死した同年(1864)の7月に天京が陥されて壊滅した。 遵王頼文光に率いられた1軍は捻軍と結んで抵抗を続け、天地会系諸派の反清活動も続き、ベトナム国境地帯には黒旗軍も残存した。

洪秀全  1813〜1864
 広東花県(広州市花都区)の客家。旧諱は仁坤。科挙に悉く落第したのちキリスト教の影響を受けて自らを天父(エホバ)の子、天兄(キリスト)の弟と確信し、同郷の馮雲山と拝上帝会を組織した。 同教は偶像破壊・孔子批判・平等思想によって郷紳・地主から弾圧された反面、貧窮層を中心に信徒を増し、両広地方の大飢饉に際して道光30年末(1851)に広西省桂平県金田村に挙兵し、拝上帝信仰・均分主義・滅満興漢を標榜した。 程なくに永安(広西自治区蒙安)を陥して太平天国の樹立を宣言し、咸豊3年(1853)には南京を占領して国都/天京とした。
 6年(1856)に東王楊秀清・北王韋昌輝を粛清した後は厭政傾向が強くなり、宮女を集めて出御する事も稀となり、血縁偏寵と一族の驕恣の放置などから翼王石達開の離背をはじめとして諸将の不信を醸成した。 族弟の洪仁玕を宰相に抜擢した後は王爵の濫発で求心力の回復を図り、劣勢が確定的になった後も天京に固執して棄京を拒み、同治3年(1864)6月に病死した。死後50余日で天京も陥落し、遺骸を暴かれて曾国藩によって自殺と報告された。

馮雲山  〜1852
 広東省花県の客家。 洪秀全とは学友で、拝上帝会の最初の信者となって広西で布教し、楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開・秦日綱ら後の幹部の多くを入信させた。 教団の組織化や運営などの実務を担当し、金田村起義で前導副軍師・後軍主将とされ、永安占領で南王に封じられた。 人望が篤く、幹事の才や組織力にも長けて太平天国初期の体制を構築したが、広西全州の攻略中に戦死した。

蕭朝貴  〜1852
 広西武宣の人。焼炭を生業としていた壮族。拝上帝会に入信した後、馮雲山の逮捕で信徒が動揺すると“天兄下凡”を行なって鎮静化に成功し、“天父下凡”を用いる楊秀清に亜ぐ権威があった。 金田村起義で右弼正軍師・前軍主将とされ、次いで西王に封じられたが、長沙攻略中に戦死した。

楊秀清  1821〜1856
 広西桂平の客家。 家業の製炭を継がず商沽を生業としたが、失業後に拝上帝会に入信し、馮雲山が逮捕されると“天父下凡”を用いて信徒の動揺を鎮めて幹部に列した。 謀略に長けた事と“天父下凡”の実績によって金田村起義では左輔正軍師とされ、建国と伴に東王に封じられ、馮雲山蕭朝貴の死後は実権を集めて太平天国の運営を主導した。 南京占領後はしばしば“天父下凡”を利用して独裁権の確立を図った為に諸将と反目し、簒奪を猜疑する洪秀全の密勅によって北王韋昌輝・燕王秦日綱に府兵2万余と共に攻殺された

韋昌輝  1823〜1856
 広西桂平の人。生員資格を購入していた金田村の壮族系地主・典当商で、拝上帝会に入信した後は多額の寄進を行ない、金田村起義で後護副軍師・右軍主将とされ、建国と伴に北王に封じられた。 天京奠都後は都城防衛を担って東王楊秀清と対立し、洪秀全の密勅で燕王秦日綱と結んで楊秀清を粛清したものの翼王石達開と対立し、洪秀全にも専横を忌まれて処刑された。

石達開  1831〜1863
 広西貴県(貴港市区)の客家。牧畜を営む豪農の子として科挙に志していたが、父の死後に拝上帝会に入信して洪秀全に従い、金田村起義で左軍主将とされ、建国と伴に翼王に封じられた。 しばしば軍事に偉功を挙げ、天京奠都後の西征では安徽に鎮して均田制的な新税制を修正し、咸豊5年(1855)には武昌で曾国藩を大破した。 東王粛清の密勅で上京し、北王韋昌輝らの蛮行を批判して家族を鏖殺されると安慶に逃れて北王討伐の兵を挙げ、北王の粛清後は輔政を期待されたが、洪秀全の猜忌と血縁重視を厭って翌年には天京を離れ、畢に洪秀全の和解には応じなかった。
 以後は江西や湖広を転戦しつつ完全独立を図ったために諸将の離脱が続き、11年よりしばしば成都攻略を試み、同治2年(1863)に雲南から北上したところ大渡河の渡江に失敗して攻囲され、兵の助命を条件に清軍に降って成都で凌遅刑に処された。

秦日綱  1821〜1856
 広西貴県(貴港市区)の人。 初期の拝上帝会の信者で、咸豊3年末(1854)に翼王石達開に代って安慶に駐し、程なく燕王に封じられた。 5年より再び石達開に従って武昌を回復し、翌年には鎮江に転戦して清軍を殲滅し、次いで江南大営を撃滅して天京を解放した。 同年9月、東王誅殺の密勅を受けて北王韋昌輝と与に東王府の人員を鏖殺し、次いで翼王府をも襲撃し、北王が殺されると石達開の求めで処刑された。

林鳳祥  1825〜1855
 広西桂平の壮族。拝上帝会に入信して金田村起義に参加し、歴戦で常に前鋒を担って驍勇を知られた。 天京奠都後に李開芳らと北伐軍を指揮したが、山西から迂回して直隷に入ったために兵力を疲弊させ、直隷総督訥爾経額を破って天津に逼ったものの清軍の増援と厳寒によって連鎮(河北省東光)に退き、兵力を分散させたところを僧格林沁に撃滅されて北京で処刑された。
 援軍との合流を図って南下した李開芳も、高唐州(山東省)で僧格林沁に大敗して北京で処刑された。

羅大綱  〜1855
 広東掲陽の人。天地会系の海商として活動し、起義後の太平軍に加わって全州・武昌・南京などの戦闘で驍勇を評された。 天京奠都後に林鳳祥に従って鎮江に駐し、西征に加わって石達開と与に武昌を奪回した後は九江の湖口に鎮したが、翌年(1855)の蕪湖での負傷がもとで天京に戻って歿した。

陳玉成  1837〜1862
 広西藤県の人。叔父に従って拝上帝会の金田村起義に参加し、武昌攻略や鎮江救援、江南大営の攻略など秦日綱の歴戦に従って武勲があり、咸豊7年(1857)には捻軍とも連動して桐城で清軍を撃破した。 天京事変で翼王石達開が離脱した翌年(1858)の五軍再建で前軍主将とされ、次いで李秀成と与に江北大営を潰滅させ、翌年(1859)に英王に封じられて安慶守備に転じ、しばしば曾国荃と攻伐した。 10年の江南大営撃滅に加わった間に安慶を失い、武漢攻略による安慶奪回をイギリスの圧力で断念したのち李秀成が江浙に転戦すると廬州(合肥市区)、次いで寿州に却き、友軍の離背で捕われて延津で凌遅刑に処された。

李秀成  1823〜1864
 広西藤県の客家。挙兵直後の太平天国に参加して軍功によって累進し、五軍再建で後軍主将とされ、翌年(1859)に忠王に封じられた。 10年(1860)の江南大営の攻略では杭州攻略による営兵の分散を提言・実行して成功させ、次いで常州・無錫・蘇州など江南の主要都市を占領した。 武漢攻略による安慶救援がイギリスの介入で失敗した後は江浙の略定を大綱として東転し、洪仁玕の制止を聴かずに同治元年(1862)に上海を攻略して常勝軍に大破された。 末期には棄京を進言した事もあったが洪秀全に峻拒され、天京が陥落すると洪秀全の遺児を逃したものの同道に失敗し、曾国荃に捕えられて凌遅刑に処された。忠誠・才幹は外国人指揮官からも高く評価されていたが、死に際しては助命を嘆願したとも伝えられる。

洪仁玕  1822〜1864
 洪秀全の族弟。初期に拝上帝会に入信したが、金田村起義への参加に失敗して香港に逃れ、咸豊9年(1859)に天京に合流すると干王に封じられ、軍師として執政の筆頭に置かれた。 香港ではキリスト教の洗礼を受け、語学・医学・天文学などと共に西欧の思想を学び、そのため主にアメリカを範とした政治・社会体制の改編と対等の外交通商の確立などを提言し、上海攻略を否定して諸外国との融和を唱えた為に忠王李秀成とは鋭く対立した。 天京の陥落時には湖州に在り、洪秀全の遺児を迎えて江西省に逃れたが、間もなく捕われて南昌で処刑された。

 

江南大営
 太平天国軍による南京陥落の直後(咸豊3年/1853)に、欽差大臣向栄が南京郊外の孝陵に置いた軍営。 朝陽門外の沙子岡に南営を設けて総兵力10万を以て南京の包囲網を形成したが、ともに6年に淮西から急転した石達開・秦日綱・李秀成・陳玉成らによって攻滅され、太平天国軍の江南での活動を可能とした。
 8年に欽差大臣和春によって再建され、再び南京を圧迫したが、10年に李秀成・李世賢らによる杭州攻略に派兵したところを太平天国軍の総攻撃を受けて潰滅した。
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江北大営 :太平天国による南京陥落の直後に、欽差大臣g善が揚州城外に置いた軍営。江南大営が壊滅した後も南京を牽制したが、咸豊8年に攻滅された。

常勝軍
 上海防衛のために組織された、欧米人を将校とした中国人傭兵隊。 咸豊10年(1860)に上海の富商/楊坊らの要請に応じたアメリカ人ウォードが組織した外人部隊を中核とした。 ウォードは翌年から中国人に洋式訓練を加え、武装を一新して中外混成の“洋槍隊”に改編し、太平天国から松江府を奪回し、李秀成を撃退するなど列強の支持を背景に連勝し、1862年に上海防衛の功を認められて官軍待遇を受け、清朝より“常勝軍”と命名された。 ウォードは寧波奪回に参戦して同年9月に戦死し、後任のアメリカ人バージェヴィンは清朝官憲と対立したすえ翌年7月に江蘇巡撫李鴻章に解任されて太平天国軍に投じ、イギリス軍人ゴードンが3代目の指揮官となった。 最盛期には5000人を有し、李鴻章の淮軍と協働して江蘇回復の主力となり、1864.05の常州攻略後に解散した。 経費はすべて清朝が負担し、淮軍近代化の範とされたが、同時に実質的な指揮権を持つイギリスの中国での勢力拡大にも貢献した。

常捷軍
 常勝軍を模倣した中仏混成軍。 寧波駐在海軍司令ブルトンによって1862年に寧波で組織され、翌年に将校デギュベルが指揮を継いだ。 左宗棠の楚勇と連携して浙江から太平軍を駆逐し、1864.10に解散したが、後の左宗棠とフランス人との関係の端緒となった。

常安軍
 常勝軍を模倣した中英混成軍。緑勇とも。イギリス人デューが1862年に寧波で組織し、浙江の太平軍攻撃を任とした。 イギリス軍主力の江蘇移転とデューの転任によって解体した。


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