チベット.2

 俗称はラマ教。大乗系密教に顕教や上座部仏教の諸要素を包摂させた総合仏教で、チベットのほか内外モンゴル・ネパール・シッキム・ブータンで信奉されている。 “ラマ(Bla ma/喇嘛)”の本義は“師”であり、師を三宝(仏・法・僧)と等視する密教の特徴を以て、中国がチベット仏教僧を喇嘛と称した事が一般化したもの。 チベットでの“ラマ”はトゥルクと呼ばれる高僧や老碩学の尊称で、一般の僧侶はトラパと呼ばれて区別される。
 吐蕃王国時代にチベットに公伝した仏教は衰退期の仏教を支える為にヒンドゥー教要素を摂取した呪術的タントラ密教であった為、護国宗教として期待されてチソン=デツェン時代には中国禅宗を排除して国教的立場を確立した。 吐蕃末期のダルマ王の徹底した弾圧で低迷し、土着のボン教との交渉によって呪術的・密儀的な側面が促進されたが、11世紀には教義粛正と顕教回帰の機運が生じ、11世紀にアティーシャによって戒律の厳格化・修学不二によるチベット仏教の再興が図られた。
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 アティーシャの門下からはカダム派・カギュ派サキャ派などが生じ、又た12世紀にはカギュ派からパクモドゥ派カルマ派が分離するなど、18派と称されるチベット仏教の殆どは13世紀末頃までに成立した。 当初はモンゴル政府の優遇によってサキャ派が圧倒的優位にあり、明代にはパクモドゥ派、次いでカルマ派が支配勢力となったが、明朝は諸派の平等待遇を羈縻支配の原則として特定門派のみを優遇する事はなかった。 中国政権との接触は諸派の世俗化・密儀化をさらに促進し、殊に元朝・明朝の宮廷で呪術的チベット仏教が喜ばれた結果、チベット仏教は長らく異端的な神秘主義と誤解されるようになった。
 14世紀末にツォンカパの興したゲルク派は厳格な戒律から従来の諸派とは峻別され、モンゴルのアルタン=ハーンとの接触によって16世紀より急速に教勢を拡大した。 清朝ではモンゴルを同盟者とした事もあり、ジョナン派のジェプツンダンバをチベット仏教の首席、ゲルク派のダライ=ラマを第二席としたが、ラサに拠るダライ=ラマをチベットの主権者としては認め、又たカルマ派も侮りがたい教勢を保っていた。
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 チベットはオイラートと清朝の抗争から18世紀に分割が進められ、理藩院の統制下に一定の自治が認められたが、辛亥革命後のチベット動乱(1959)や文化大革命の大弾圧の結果、ダライ=ラマのみならずカルマパ・サキャ=トリジンなどの諸派の座主・高僧の多くが海外に亡命し、寺院の多くが破壊された。 20世紀後期には中国での民主化運動の昂揚もあって諸寺院の復興が進められたが、1997年から再開された愛国運動によって多数の寺院が閉鎖され、多くの僧侶が転向と亡命の選択を迫られている。
 尚お、チベット語の名詞の語尾の“パ”は「人々」の意で、往々にして“派”“党”“家”と記される。

諸派  ダライ=ラマ  パンチェン=ラマ  諸寺

 

アティーシャ  982〜?
 チベット仏教中興の祖。本名はディーパンカラ=シュリー=ジニャーナ。インドのパーラ朝のベンガル王家に生まれ、ナーランダ学院で密教・ヒンドゥー教など64学科を22歳で修得し、29歳で得度した後はスマトラ・セイロンなど各地を遊学して顕教をも修めた。 その学識から“光明辺照”と称され、異教徒との論戦などを評価されてヴィクラマシラー寺院の座主とされた。 後に西チベットのグゲ王の再三の招請に応じて1042年に入蔵し、1046年からは中央チベットに移り、小乗・大乗・金剛乗の統合思想によってチベット仏教の再興・布教に尽力し、ラサ近郊のリタンで歿した。
 アティーシャは言行一致によって自らの説く菩提心を示しただけでなく、菩提心を理解するための手法を整理・体系化するなど、以後のチベット仏教に重要な影響を遺し、その修学不二の姿勢は後のツォンカパの教学にも踏襲された。 高弟のドムトンがカダム派を、マルバがカギュ派を開き、孫弟子のコンチョ=ギェルポはサキャ派の開祖となった。アティーシャの説く禁欲と菩提心は門下の諸派だけでなく、旧教を遵守するニンマ派にも採用された。

ニンマ派
 紅教とも。カギュ派サキャ派ゲルク派と並ぶチベット仏教四大学派の1つ。“ニンマ”とは“古”の意で、吐蕃時代の教義を奉じている事に由来する。 最初期のインド密教の伝統を伝え、一人一派・一寺院一派の傾向が強く、宗派としての結束には欠ける。 吐蕃王国崩壊後のチベット仏教の主流だったが、ボン教との混交の進展などによって釈迦の教義との乖離が著しくなり、アティーシャの粛正運動が結実した後は旧派=ニンマ派と呼ばれるようになった。
 14世紀には教義の粛正と体系化が図られたが、四大学派中で唯一、政権組織とはならなかった。 17世紀にカルマ派の牽制を図るダライ=ラマV世に保護されると多くの大寺が建立され、政治勢力としても一定の発言力を有するようになり、今日ではチベット東部のカムが活動の中心となっている。

カダム派
 カダムとは戒教を意味し、グゲにアティーシャを迎えた最初期の高弟のドムトンによってラサの北のラディン寺に興された。 アティーシャの『菩提道灯論』を奉じ、僧侶の戒律と修行を強調する教義は後のツォンカパの教団形成にも大きく影響を及ぼし、やがてゲルク派に吸収された。

サキャ派
 花教とも。チベット仏教四大宗派の1つ。 サキャとは“白土”を意味し、大本山がシガツェ南西80kmの白土の地に建立された事に由来する。 創始者のコンチョ=ギェルポ(1034〜1102)は西部/ツァン地方の有力氏族のクン族の出で、アティーシャ門下のドクミより『カーラチャクラ=タントラ』を相伝され、これが後にサキャ派の教典となった。
 第六代座主のサキャ=パンディタが1244年にチベット攻略中のモンゴルのコデンに謁見して中部・西部(ウィ・ツァン)の行政権を与えられ、その甥のパスパも第七代座主としてクビライ=ハーンに厚遇され、これより元朝中国におけるチベット仏教と、チベットにおけるサキャ派の優位が確立した。 チベットの各領主が13の万戸長に分封された後も概ねはサキャ派の座主が帝師と宣政院の長官を兼ねてチベットの政務を統轄したが、チベット仏僧は特権階級化して陵墓盗掘・公金横領などすらしばしば黙認され、元朝中枢の奢侈や漢族の民族主義を助長した。
 サキャパ政権は元朝と共に衰退して1347年には四家に分れて抗争し、1358年にサキャ寺座主が大臣に暗殺されてパクモドゥ政権が確立した。 以後のサキャ派は大きくゴル派とツァル派に分れ、現在はサキャ派寺院の85%がゴル派に占められているが、両派の教主はともにチベットから亡命している。 妻帯厳禁のサキャ派にあって、教主のサキャ=トリジンのみは血統維持のために妻帯が認められ、現在もクン氏の血統を保っている。

カギュ派
 白教とも。チベット仏教四大宗派の1つ。 アティーシャに師事したマルパと、その弟子で宗教詩人としても知られるミラレパを宗祖とし、四大宗派中最多の支派を有する。 12世紀頃には諸派の分立が始まり、元末〜明初ではパクモドゥ派が最有力だったが、内訌やゲルク派との抗争からカルマ派が抬頭し、現代に至るまでカルマ派が主流となっている。 共通の管主はなく、又た黒帽派・赤帽派・ディクン派など多くの法主がインドに亡命している。
 支派のドゥク派はブータンでは国教格とされ、ブータン宗教界の最高指導者ジェケンポも、同派から選出されている。

パクモドゥ派
 チベット仏教カギュ派の支派。 カギュパのドルジェ=ギェルポが、1158年に中部/ウィ地方のパクモドゥにデンサ=ティル寺院を建立したことに始まる。 13世紀初頭よりラン氏が指導氏族となり、モンゴル時代の1322年に漸く万戸長とされたが、既にヤルンツァンポ南岸のネドン(乃東)をも支配してしばしばサキャパ政権とも衝突した。 元朝末期のサキャ派の分裂とサキャパの横死によってチベットの主権者となり、ネドンを首都として西部/ツァン地方をも支配し、独自の法体系を定めるなどモンゴル支配からの決別を顕示して1406年(永楽4年)にはタクパ=ギェルツェンが明朝から闡化王に冊封されたが、チベットの一元支配は認められずに明朝の羈縻支配を受容した。
 初代闡化王の死に伴う内訌で外戚のリンプン家が実権を掌握し、シガツェ東方のリンプン(仁布)に拠ってツァン地方をも支配するようになると、パクモドゥ派は地縁から新興のゲルク派と結び、リンプン家はゲルク派と対立するカルマ派と提携した。 1480年代にラサでゲルク派とカルマ=シャマル派(紅帽派)が衝突すると、武力介入したリンプン家によってネドン政権が解体されてリンプンパ政権が確立したが、1506年に当主が歿すると急速に衰え、1565年にはカルマ派の執政官に簒奪された(=ツァントェ政権)。

カルマ派
 チベット仏教カギュ派の一派。 ミラレバの弟子によって12世紀に創始され、宗家(黒帽派)とシャマル派(紅帽派)が最大流派となっている。 紅帽派の分離は、カルマパII世(〜1283)が2名の転生者を予言した事に基づいてカルマパIII世とシャマルパI世が選出された事によるもので、これがチベット仏教独特の転生活仏制の嚆矢とされる。
 15世紀には新興のゲルク派と対立して1480年代のラサでの武力衝突に発展し、カルマ派と結ぶリンプン家によるパクモドゥ政権の解体を結果し、1565年にリンプン政権を簒奪したシガツェのツァントェ政権もカルマ派を奉じた。 ゲルク派のソェナム=ギャムツォに対抗して主にモンゴル左翼に布教し、両者の抗争は支持勢力のチャハール=モンゴルとホシュート=オイラートの武力介入を促し、最終的にゲルク派支持のホシュートのグシ=ハーンが1642年にシガツェを陥してゲルク派の優位が確立した。
 カルマパXVI世(〜1981)は1959年にインドに亡命し、ダライ=ラマによってカギュ派の管長とチベット仏教の第三席が認められ、欧米での布教活動によってカルマ派の国際的教勢はゲルク派を凌ぐとも評されている。XVII世も又た、2000年にチベットからインドに亡命し、ダライ政権に合流した。

転生活仏制  ▲
 13世紀後期にカルマ派によって創始された、チベット仏教独特の継承方式で、同教の影響が強いネパールなどでも同様の存在が認められる。活仏とは高位の転生僧を指し、チベット語でトゥルク、モンゴル語でフトクト。
 政治勢力とは不可分でありながら明確な法統継承法が確立していなかったチベット仏教界にあって、諸勢力が乱立する中で混乱の少ない継承法として師資相承のニンマ派や改革派のゲルク派などでも採用され、ボン教でも世襲と同等の権威を保つ継承方法として認められた。 高僧は死歿前に転生の方面を予言し、高弟らが1年以内にその地方で誕生した嬰児を審査して転生者を決定する。 清朝の理藩院の監督下にあった活仏はチベット・モンゴルで150名に達し、ダライ=ラマパンチェン=ラマジェプツンダンバ=フトクト・ギャルワ=カルマパ・シャマル=リンポチェなどが最も著名だった。

ゲルク派
 黄教・黄帽派とも。 1409年にツォンカパによって興されたチベット仏教の改革教団。アティーシャの戒律主義を徹底的に追求し、タントラや無上瑜伽を否定して禁欲主義を標榜したもので、チベット仏教を密教的禅定体系に変質させた。 ツォンカパは自らの教義を「小乗・大乗・密教を統合した究極のインド仏教」「チベット仏教の正統」としてゲルクパ(浄行派)を称し、戒律主義への回帰は多数のカダム派の転宗を促して急速に教勢を拡大し、他派との対立を惹起した。 黄帽を用いたことで“黄教/黄帽派”とも通称され、最大の対立宗派のカルマ=シャマル派が“紅帽派”と呼ばれていた事、アティーシャ以前の旧派/ニンマ派が紅教と呼ばれていた事などから、両者が混用されてゲルク派以前のチベット仏教を一括して“紅教/紅帽派”と呼ぶ事もある。
 カルマ派との抗争中に転生制を導入する事で教勢を維持し、初めて同派で転生認定されたダライ=ラマIII世の代に右翼モンゴルのアルタン=ハーンを通じて漠南にも教勢を拡大し、以後の教主はいずれもダライ=ラマを称した。 カルマ派との抗争は17世紀には左翼モンゴルの武力介入を招いたものの、オイラートと結んでチベットの支配的宗派としての立場を確立し、18世紀には清朝にも支配権が追認された。
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 ゲルク派の教学はガンデン寺セラ寺デプン寺タシルンポ寺などの学問寺で行なわれ、チベット仏教諸派中で最も顕教を重視し、顕教を修了した者のみが密教を学べることがゲルク派最大の特徴ともされる。 又た般若・中観などの修学後に倶舎・律に及び、経より論が重視されるが、その研究は徹底した暗誦と問答を中心に行なわれ、これは伝来当時のインド教学の方法が遵守されている為とされる。

ツォンカパ  1357〜1419 ▲
 ツォンカ(青海省湟中)の人。本名ロサンタクパ。 7歳頃に出家して16歳頃から中部/ウィの各地を遊学し、従来の呪術的・淫靡的なチベット仏教を排撃してカダム派からアティーシャの戒律主義を学び、36歳頃に独身禁欲などの厳格な教義を定めてゲルク派を確立した。 チベット仏教の綱紀粛正を提唱してカダム派の大部分が転宗し、53歳頃にガンデン寺を創建し、その二大弟子は後にダライパンチェンの両ラマの初代とされた。

 
 

ガンデンポタン

 ダライ=ラマを長とし、1642年にラサのデプン寺に成立したチベットの政府。 ガンデンとは兜率天を指し、ダライ=ラマが執務した兜率宮殿に由来する。 オイラートのグシ=ハーンダライ=ラマV世に寄進したチベット十三万戸の統治機関として発足し、ダライ=ラマの下に政府首班たるデシーとホシュート=オイラートのチベット王が並立し、1660年にポタラ宮殿に移設された。 1705年にホシュートのラサン=ハーンに制圧され、清朝の影響下に置かれた1720年より摂政のカンチェンネーを首班とする合議制となり、1727年にカンチェンネーが2大臣に暗殺されると事態を収拾した郡王ポラネーに権力が集中し、嗣子のギェルメ=ナムギェルがチベットの独立を志向して1750年に駐藏大臣に暗殺された。
 以後はダライ=ラマもしくは摂政を首班とし、3貴族1僧侶と駐蔵大臣によるカシャク(内閣)制が行なわれたが、ダライVII世の死後は摂政後見制の確立によって摂政の独裁が定着し、駐藏大臣の統制も強化された。 ダライXIII世の下でダライ=ラマの指導力が回復したが、1959年の中国軍のチベット征圧によるダライXIV世の亡命と伴にインドに移設され、現在はダラムサラでチベット亡命政府として十数万人から成るチベット難民組織の頂点に位置し、国際的には“中央チベット行政府”の呼称が用いられている。
ダライ=ラマ
 チベット仏教ゲルク派の教主であり、チベットの聖俗両面の最高主権者。 開祖ツォンカパの高弟/ゲンドゥン=ドゥパの転生活仏として法統を維持する。 dalaiはチベット語のギャムツォ(rgya mtsho/大海)と同義のモンゴル語で、ゲルク派法主が累代でギャムツォを称した為にモンゴル人からはダライ=ラマと呼ばれ、モンゴルとの関わりが深かった清朝中国でもこの称が用いられた。 標準チベット語では「ターレ=ラーマ」と発音し、チベット人は「ギェルワ(勝利者)」「リンポチェ」「クンドゥン」と尊称する。
 ダライ=ラマの称は、ソェナム=ギャムツォが右翼モンゴルのアルタン=ハーンに贈られた尊号で、ゲンドゥン=ドゥパと、その後の法主として明朝の武宗に招請されながらもその荒淫を忌避して応じなかったゲンドゥン=ギャムツォに遡って追贈された。 アルタン=ハーンと結びついたIII世、アルタン=ハーンの曾孫のIV世の時代にチベット・モンゴルに於けるゲルク派の教勢は著しく強化され、ダライ=ラマV世はホシュート=オイラートのグシ=ハーンや法弟でもあるジュンガル=オイラートのガルダンと提携してチベット支配を確立しただけでなく一大宗教王国の建設を構想し、清朝とも潜在的に対立した。
 ダライV世の死後は摂政制に移行し、VI世の抛位と青海ホシュートの支配を経たVII世の時代には内訌もあって清朝の統制が強化され、摂政制の確立で実権を失ったXII世までのダライ=ラマには早逝者が多く、摂政による暗殺が疑われる例もある。 XIII世は英国との提携を背景に中国の宗主権を否定し、XIV世は1951年に人民軍の進駐を受容したものの、後に独立運動を主唱して1959年にインドに亡命政権を樹立した。

ダライ=ラマI世  1391〜1474
 ゲンドゥン=ドゥパ。ゲルク派の開祖ツォンカパの甥、高弟。 民衆の支持が篤く、教主を継ぐ予定だったガンデンチパ(ガンデン寺座主)に譲られて法統を継いだ。 当時は教主の継承法は確立しておらず、ゲンドゥン=ギャムツォ(1492〜1542)の死後、転生活仏制が導入されてソェナム=ギャムツォがゲンドゥン=ドゥパの転生者と認定された。

ダライ=ラマIII世  1543〜1588 
 ソェナム=ギャムツォ。 カルマ派との抗争の最中、ゲルク派として初めて転生活仏制によって認定された教主。 開祖ツォンカパの高弟/ゲンドゥン=ドゥパの転生者とされ、10歳でデプン寺の貫主に就き、16歳のときセラ寺の貫主を兼ねた。 1578年、青海に遠征したモンゴルのアルタン=ハーンに尊崇されて青海でダライ=ラマの称号を贈られ、ゲンドゥン=ドゥパら先達にもダライ=ラマの称号を贈ることで転生の証とした。 これよりゲルク派は漠南のモンゴル王公の多くにも帰依され、1585年の入蒙では外ハルハのアバダイとの会見も果たしてハーン号を贈り、続く訪中途上で歿した。

ダライ=ラマV世  1617〜1682
 ロサン=ギャムツォ。カルマ派に与したハルハ=モンゴルのチョクト=ハーンにチベットを制圧されるとホシュート=オイラートのトロバイフに乞援し、チョクト=ハーンの敗死後に“ヤルツァンポ流域の十三万戸”を寄進されてガンデンポタン(ダライ政府)を発足させた。 その支配力はチベット全域を覆い、同年に清朝にも通好し、1649年にはジェプツンダンバI世の転生の承認に加わるなどチベット仏教界に絶大な影響力を有し、「偉大なる五代」とも呼ばれた。 弟子のガルダンがジュンガル部長となったのちオイラートの主権者となると、ジュンガルと提携してチベット・モンゴルにまたがる大宗教王国の建設を模索したが、果たせずに病死した。
   
 チベット政府はダライV世の死を秘匿し、外ハルハの内訌の調停を清朝に求められるとガンデンチパを代理として派遣したが、ジェプツンダンバとの席次問題などからガルダンの漠北侵攻と清朝の武力介入を惹起した。 摂政サンギェ=ギャムツォはガルダンの死(1697)を機に、ダライV世の死とダライVI世の即位を公表して動揺の収拾を図ったが、ダライVI世は厳格な教義を嫌って酒色・詩作に耽溺し、1702年には正式に退位を宣言した。 程なく、チベット政府は王権回復を図るチベット王ラサン=ハーンに征圧されてサンギェ=ギャムツォは殺され、ダライVI世は逮捕・廃黜された後、北京護送中の1706年冬に青海南方のクンガ=ノールで病死した。 ラサン=ハーンが別に立てたダライVI世はオイラートにも支持されず、衆望は1708年にリタンに転生したダライVII世に集まった。

ダライ=ラマVII世  1708〜1757
 ケルサン=ギャムツォ。リタンの人。 青海ホシュートのラサン=ハーンが独自に立てたダライVI世の在世中からオイラートや清朝にも正統な転生者と認められ、ラサン=ハーンがジュンガルに敗死した後、チベットよりジュンガルを逐った清軍に護られて1720年にラサに入った。 1724年より清朝の理藩院の統制下に置かれてアムド/青海が分離され、実権は政府首班の摂政や駐蔵大臣にあったが、摂政たる郡王ギェルメの擾乱の鎮静化を評価されて政府首班に就き、ダライ直属の秘書処が僧官人事・公文政令・寺廟管理などを統轄した。
   
チベット分割 (1725〜1732):清朝による青海ホシュート征服の事後処理として、チベット南東部のカム地方の金沙江以東とタンラ(唐古拉)山脈以北のアムド全域をチベット政府から分離した一連の措置。 タンラ山脈を分水嶺の1つとする発想は明朝に起源し、明朝は帰属したチベット諸侯を烏斯蔵衛(ウィ・ツァン)と朶甘衛(アムド・カム)に大別・管轄したが、行政的画境の意図は示さず、清朝もチベットを征服したオイラートのグシ=ハーンをチベット全域の王と認めていた。
 チベット分割は撫遠大将軍年羮堯・川陝総督岳鍾hらの建議によって1725年(雍正3)より進められ、ダライ=ラマ領以外のチベットをグシ=ハーン家に強奪されたものとする事で、朶甘部のチベット領からの分離が正当化された。 朶甘部の再編は順次進められ、アムドの青海ホシュートはグシ=ハーン家の諸王を長とする30旗に再編されて西寧辧事大臣を介して理藩院の管轄下に置かれ、カム地方は金沙江以西がダライ=ラマに“賞賜”され、以東とアムドの一部は四川省・雲南省・甘粛省に分属された。 1732年に画境が定まり、タンラ山脈以北の玉樹40族が青海部に、以南の西藏39族がチベット政府に属し、清末には一時、カム地方全域を以て西康省が設けられたが、雍正年間の画境は現在の中華人民共和国にもほぼ踏襲されている。

ダライ=ラマXIII世  1876〜1933
 トゥプテン=ギャムツォ。ラサ東のコンボの貧農出身。時のダライ政府は芝罘条約(1876/光緒2)の遵守を拒んで清朝の要請やインド総督カーゾンの親書を悉く黙殺し、ダライXIII世も又た親露政策へ傾斜していた。 1904年(光緒29)にイギリス軍にラサを征圧されると漠北に亡命し、その間にガンデンチパによってラサ条約が締結され、1908年に北京から帰国したものの翌年にはチベット確保を図る四川総督趙爾豊に伐たれてインドに亡命し、清朝によって廃位が宣言されただけでなくカム地方は西康省として直轄化され、ラサにはパンチェン=ラマIX世が迎えられた。
 ダライXIII世は亡命中に親英に転じ、辛亥革命に乗じて帰国すると中国軍を駆逐して独立を宣言し、ダライ=ラマとパンチェン=ラマの反目が致命的になったのもこの時代で、ダライXIII世が復権すると親中的なパンチェンIX世は中国への亡命を余儀なくされた。 ダライXIII世は短気な反面で仁慈快活と称され、内外で困難な状況に翻弄されながらもチベット上下の信望は失わなかったという。
   
ラサ条約 (1904.09.07):英国の武装使節団長フランシス=ヤングハズバンド大佐とガンデンチパらダライ政庁代表の間で締結され、1906.04.27の清英間の“チベットに関する条約”で確認された。

  • チベット・シッキム間の国境の確定。
  • ギャンツェ・ガントク・ヤトンの通商的開放。
    • チベット領の外国への譲渡・売却・租貸の承認。
    • 外国勢力の内政干渉。
    • 外国代表の入国。
    • 鉄道・電信・鉱山などの利権の外国・外国への承認。
      以上には英国の同意を必要とする。
  同条約ではチベットに対する清朝の宗主権が無視され、チベットの対外関係を規制して英国の保護国化が行なわれ、これは1907年の英露協商で破棄されたものの宗主権問題は解決されず、1914年にはイギリスによって改めてチベットの独立が承認され、1951年の人民軍進駐まで中蔵紛争の原因となった。

芝罘条約  1876 ▲
 煙台条約とも。ビルマと雲南の国境地帯でイギリス人通訳官マーガリーが中国人に殺された事に対し、中英外交の改定を目的に締結された不平等条約。 雲南へのイギリス人駐在官の派遣(5年間)や賠償金20万両の他、北海・宜昌・蕪湖・温州の開港、重慶への駐在官の派遣、長江の寄港地の設置、租界での釐金免除、イギリス人のチベット通行の際の清朝政府による安全の保証などが定められ、阿片に対する釐金徴収にイギリスが難色を示した為に批准書交換は1886年に行なわれた。
 これよりイギリスのチベット進出は露骨になって1887年にはシッキムを占領し、チベット政府の対英感情を著しく悪化させた。

ダライ=ラマXIV世  1935〜
 テンジン=ギャムツォ。アムド地方の農民の子で、1940年に転生と認められた。 第二次大戦後の1951年に人民軍の進駐を認め、チベットの中国復帰やパンチェン=ラマX世の帰国などを承認した。 中国との関係は清代より密接で、チベット自治区準備委員会の委員長に就いて副委員長のパンチェン=ラマと共にチベットの近代化を図ったが、内地同様の封建闘争や唯物主義が導入された為に独立主義に転じ、1959.03の反中国暴動と人民軍による弾圧によってインドに出国し、ダラムサラーに亡命政府を樹立した。 以後はチベットの自治回復のみならず、全チベット仏教徒の指導者として人権問題などに積極的に関わり、1989年にはノーベル平和賞を授与された。

パンチェン=ラマ
 チベット仏教ゲルク派第二位の転生ラマ。ゲルク派の開祖ツォンカパの高弟ケドゥプの転生として大日如来の化身とも見做され、ダライ=ラマに対して“副王”と呼ばれる事もある、 パンチェンとは、サンスクリット語のパンディタ(学匠)とチベット語のチェンポ(偉大)の合成語で、タシルンポに坐牀すことからタシラマ、モンゴル語の宝(エルデニ)を加えてパンチェン=エルデニとも呼ばれる。
 初期については不明な点が多く、ダライ=ラマV世と同時代のパンチェン=ラマIV世が真のI世と伝えられ、タシルンポに坐牀してチベット西部/ツァン地方を支配した。 初めてイギリスと交渉したパンチェンVI世は乾隆帝とも交誼があり、VII世の時代にはネパールによる略奪が機縁となって乾隆帝の十全功にも数えられるグルカ遠征が行なわれた。
 パンチェン=ラマの坐すシガツェはチベット第二の都市で、ラサとは古くからウィ地方の支配を巡る対立があり、ダライV世によってガンデンポタンが発足するとパンチェン=ラマはチベット仏教界の第二席を獲得したものの世俗権は認められず、伝統的な反ラサ感情も加わってダライ政府と反目するようになった。 両者の対立は清朝以後の中国政府にも利用され、清末にダライXIII世がインドに亡命するとパンチェンIX世が執政府首班とされ、そのためダライXIII世の帰国後の1923年には青海に出奔し、1951年の人民軍のチベット進駐に至ってパンチェンX世の帰国が果たされた

パンチェン=ラマVI世  1738〜1780
 ロサンペルテン=イェーシェー。清朝の招聘で1779年(乾隆44)に入京して乾隆帝との謁見を果たし、清朝の宗主権の確認や乾隆帝への受戒などで厚遇され、天然痘によって北京で客死した。 死後、莫大な賜与物の相続をめぐって兄弟間の内訌を生じ、ゴルカ朝ネパールの武力介入を招導して第一次ゴルカ紛争に発展した。
当時のネパールはゴルカ朝が統一を達成した直後で、交易の不振を補うためにチベットに対して蔵印交易路のネパール=ルートのみの使用、前王朝のマルラ銀貨の無効化と粗悪な新銀貨の使用、領土問題の全面譲歩、関税率の大幅増などを一方的に宣言してチベットと紛争を生じていました。
この時は遠征軍の到着前に現地司令部によってチベットからネパールへの歳幣を条件とする暫定講和が成立したが、ネパールが旧貨の切下げを行なったことでダライ政府が償金供出を拒み、1791年に第二次ゴルカ戦争に発展した。

パンチェン=ラマX世  1938〜1989
 ロブサン=ティンレー=チューキ=ギャルツェン。 青海省循化の出身。ガンデンポタンやタシルンポ寺の候補者を排して1949年にパンチェン=ラマとされ、共産党政権でも認められた。 1951年の人民軍進駐と伴に入蔵し、ダライ=ラマXIV世の出奔後はチベット仏教の統括者として期待されたが、1962年に「七万言上書」にて中国のチベット支配を批判したのち周恩来への譲権を試み、翌年に北京に召喚された。 又た1964年の大祈願祭ではダライ=ラマの主権と帰国の支持を表明し、そのため文化大革命では投獄(1968〜78)されて1982年まで北京に軟禁され、1983年に破戒行為である結婚と女児の存在が公表された。1989.01に公の場で中国によるチベット支配を批判し、その5日後に心筋梗塞で急死した。
 中国政府はダライ政権が1995.01に認定したパンチェンXI世(1995.01に認定)を拉致し(消息不明)、11月より独自にXI世を立てている。

ポタラ宮殿
 ダライ=ラマの本地とされる観世音菩薩の住処=補陀落に由来する、ラサ郊外のマルポリ丘に建つ宮殿。 ダライ=ラマV世が1642年より吐蕃のソンツェン=ガンポの宮殿跡に建造を開始し、1660年にガンデンポタン(ダライ=チベット政府)がデプン寺の兜率宮から移され、サンギェ=ギャムツォの摂政期の1697年に完成した。 標高3700mに位置し、宗教宮のポタン=マルボ(紅宮)・政治宮のポタン=カルボ(白宮)などの様々な建物から成る。
 ダライXIII世は独立宣言とともにラサ西郊に夏宮のノルブリンカ宮を造営し、政庁としてポタラ宮と併用した。 1959年のダライ=XIV世のインド亡命と中国政府による接収を経て、現在は博物館として使用されている

ガンデン寺
 甘丹寺。ラサ東郊40kmのゲルク派の大寺院。 1409年に開祖ツォンカパが創建してゲルク派の大本山とされ、中央学堂にはツォンカパの遺骸が安置された。 後には学問寺として3千人以上の学僧を擁し、2学部に分かれて顕教を教え、ラサの三大学問寺としてセラ寺デプン寺と並称されたが、1959年以降のチベット動乱でダライ側の拠点となったことから文化大革命で徹底的に破壊され、1986年より修復が進められている。
   
ガンデンチパ :ゲルク派の総本山たるガンデン寺の座主。 ツォンカパの法坐を継承するゲルクパ教主として、ダライ・パンチェン両ラマの法師でもあり、学識徳行によってのみ選出された。政治権力に於いてもダライ=ラマに亜ぎ、しばしばダライ=ラマの助言者・代行者とされたが、7年の任期と再任禁止が厳守されたために政治勢力とはならなかった。

デプン寺
 ラサ西郊6kmのゲルク派の学問寺院。1418年頃に創建され、歴代のダライ=ラマが執務して初期のガンデンポタンも置かれ、以後もダライ=ラマの修行場としての宗教的格式を保って4学部7000千余の学僧が住んだ。 チベット動乱直前の最盛期には15千余の僧徒を擁し、宗教寺院として世界最大の規模があったが、文革で徹底的に破壊され、現在では数百人規模の巡礼寺院となっている。 寺僧の多くは南インドに亡命して活動を継続し、カルナータカ州のチベット人居留地に再建された寺院には5千人超の修行僧が起居している。

セラ寺
 1419年に創建された、ラサ北郊3kmのゲルク派の学問寺院。 創建者のサキャ=イェシェー(1354〜1435)はツォンカパの高弟で、永楽年間にツォンカパの名代として北京の招聘に応じ、大慈法王とされた。境内に薔薇科のセラが多かった事、或いは創建時にセラ(雹)が降った事が名称の由来と伝えられ、セラマと呼ばれる強力な僧兵を有し、セラマは後に僧兵の一般名詞となった。 3学部に分かれて学僧は5500人と称され、モンゴル・青海からの留学僧も多く、日本からも河口慧海・多田等観らが研学した。 チベット動乱と文革で多くの寺僧が出国し、南インドのカルナータカ州で活動を続ける一方、中国でも再建が進められている。

タシルンポ寺
 シガツェ南西郊のゲルク派の大寺院。 1447年にツォンカパの高弟のゲンドゥン=ドゥパが建立し、後にパンチェン=ラマの坐寺となった。パンチェン=ラマの別名のタシラマの名はこの寺院名に由来し、学問寺として4900名を収容し、歴代のパンチェン=ラマが巨費を投じて拡張を続けたことで壮麗さはチベット随一とも称される。 ラサの三大寺院と併せてゲルクパ四大寺院、青海のタール寺と甘粛のラブラン寺を併せてゲルクパ六大寺院とも呼ばれる。

西康省
 省都は康定(ダルツェンド)。怒江(タンルイン川)以東の伝統的チベットのカム地方に相当し、現在の四川省の甘孜チベット族自治州や雅安市、涼山イ族自治州・攀枝花市の一部の他にアムドの阿壩チベット族チャン族自治州も含んだ。
 1909年(宣統1)に清朝の四川総督趙爾豊がラサを占拠してチベットの全世襲封建領の廃止を宣言し、カム地方全域を以て成立させた。 辛亥革命後に金沙江以西はガンデンポタンによって奪回され、県城と主要街道のみが保たれた江東地域は長らく「特別地区」とされた。 日中戦争の勃発直後、国民政府は名目を優先して西康省を復活させ、人民政府は江西制圧後に江東のみを以て西康省蔵族自治区を発足させ、江西については親中国派を組織させた上で西藏省に帰属させた。1955年に西康省蔵族自治区は廃止され、甘孜チベット族自治州として四川省に編属された。


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