卿大夫
周制での上級禄位の称。天子の閣僚が卿、諸侯の閣僚が大夫。
周制では卿・大夫・士の禄位があり、『周礼』によれば、西周では天官/大宰・地官/大司徒・春官/大宗伯・夏官/大司馬・秋官/大司寇・冬官/大司空の六卿や、少師・少傳・少保を加えた九卿があり、六卿には各60の属官があって1年の日数に対応されている。
又た諸侯の臣は大夫と士に分かれ、上大夫は卿と称されて公族とともに閣僚層を形成し、特に晋の六卿が知られる。
統一秦では奉常・郎中令・衛尉・太僕・廷尉・典客・宗正・治粟内史・少府の九寺の長官を以て九卿と総称し、清に至るまで官名・職責が変化しながらも九卿の称は存続し、六卿の思想も尚書の六部に継承された。
南朝梁より九寺の長官は官名+卿で呼ばれ、後世では士大夫の高位者を特に卿大夫と呼ぶこともあった。
三師 周〜
三司の上位に置かれた本義の三公。太師・太傅・太保を指す。
漢では天子の教導を担う非常置とされ、少傅を加えて“四輔”と呼ぶ事もあり、最上位の太師の位は諸侯王の上に置かれた。
晋では太師は避諱によって太宰と改称された。
三公 周〜
周では太師・太傳・太保、あるいは司馬・司徒・司工を指し、西漢では大司馬・丞相・御史大夫を指したが、通常は漢が丞相制を廃した後の大司馬・大司徒・大司空、もしくは東漢の太尉・司徒・司空を指す。
太尉(大司馬)が軍事を、司徒が行政を、司空が監察を担当し、秩禄は同等ながら司徒が実質的な首班として機能したが、丞相制が廃止された頃には天子の秘書官である尚書・中書に実権があり、東漢では録尚書事によって宰相としての実態を保った。
三国魏で中書・尚書が独立機関となった為、名誉職としての贈官・加官に変じたが、三公制自体は唐朝まで存続し、南朝宋以降は太師・太傳・太保が三公とされた。
丞相 秦〜元
万機を統べる百官の筆頭として天子を輔佐した。
統一秦では左右両員が置かれて相国に代わる最高の行政官とされ、西漢でも蕭何・曹参が相国と呼ばれた他は秦制を踏襲し、文帝以降は一員制が定着した。
朝議の主宰や人事の掌管などで大権があったが、武帝の世に実権は次第に御史大夫に移って陰陽の調和を任とする名誉職と化し、B1年の三公制で廃止された。
漢末の208年に権力集中を図る曹操が三公制を廃止して丞相に就き、次いで相国と改称し、漢魏革命・魏晋革命では九錫とともに簒奪準備者に加えられたために非常置の尊位とされ、丞相実務は秘書官たる中書令・尚書令・秘書監に移管された。
唐になると玄宗が尚書僕射を左右丞相に改称したが、宰相としての執政権を失い、天宝改元と伴に僕射に戻されて侍中が左相、中書令が右相とされた。
南宋では正宰相として左右丞相が復活し、元朝でも踏襲されて中書省に左右両員が置かれたが(中書令は太子の位)、明初の胡惟庸の獄を機に廃止された。
御史大夫 秦〜宋
官僚の監察を担当する御史台の長官。
西漢では丞相の副官として政策立案にも参与し、やがて丞相の名誉職化に伴って丞相の実務を行なったが、程なく領尚書の出現で名誉職化した。
又た御史大夫の首班化によって御史中丞の監察権が増大し、司法官たる廷尉への検察権の移行が強まった。
九寺 秦〜宋
丞相に直属し、行政実務を分掌した機関の総称で、長官は九卿と総称された。
少府 秦〜宋
九寺の1つ。漢代では帝室財政を管掌し、当初は塩・鉄の税収をも管理して大司農を大きく凌ぐ規模があったが、桑弘羊の進める財政の分割・再編で鋳貨権や塩鉄の専売収入などを失い、東漢では司財権すら失って宮中の食膳や服飾が主務となった。
隋唐以降は鉱山・鋳銭・互市なども監督して長官は監と呼ばれ、北宋代に次第に工部に吸収された。
給事中 秦〜清
秦・漢では天子に近侍する顧問職として主に博士・大夫に対する加官だったが、晋より正員化し、隋では門下省に属して上奏文書を審査した。
明朝では諫言を任として言官とも呼ばれ、宦官・内閣に比肩する絶大な発言権を有したが、売名の為の批難・批判に終始する者が多く、党争の使具となって問題を激化・長期化させ、王朝後期には政務を阻害・混乱させることが多かった。
御史台 秦〜明
本来は君主に侍する史官の官署だったが、秦以降は監察官の署とされて御史大夫を長官とした。
漢代に御史大夫が行政実務の長となると御史中丞が実質的な長官となり、中丞は殿中の蔵書所でもある蘭台にあって殿中の侍御史15名と州刺史を督し、他の御史30名は御史大夫寺(御史府・憲台)にあって百官を監察した。
東漢以降の御史府は御史中丞を長官として御史台・蘭台寺と改称された。
六朝では南台、北周では司憲属秋官府、唐高宗代に憲台、武周代に粛政台と改称され、遼朝では御史中丞を御史大夫と改めた。
唐・宋の御史台は台院・殿院・察院に分かれ、台院は侍御史を長として百官を監察し、殿院は殿中侍御史を長として殿中儀礼の非違を糾察し、察院は監察御史を長として州県を巡察した。元朝では察院中心に再編され、明初に御史台が廃されて都察院が創設された。
元朝は地方にも行御史台を設置したが、これは後の総督巡撫制の先駆となった。
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侍御史 :監察・弾劾を任とした御史台の官。西漢では御史中丞に属し、天子に近侍して上奏文の不備や宮城内の非違を糾察し、東漢では法律に通暁した治書侍御史2員が加えられて案件の是非を判断し、又た殿中侍御史2員は殿中の儀礼・服飾を糾察した。
唐では百官を糾察する台院の長官とされ、元朝では中央・地方の御史台の長官とされたが、明朝で御史台と共に廃された。
録尚書事 漢〜陳
領尚書事・平尚書事・省尚書事とも。西漢昭帝の領尚書事に始まる臨時の兼官。
大将軍霍光が尚書の業務を総裁する領尚書事を加えられた事が初出とされ、尚書は上奏文に対して可否権を有していた為に実権が重く、霍光の専権の源泉となった。
そのため宣帝は尚書の検閲を廃して中書を重用したが、成帝が外戚の王鳳を領尚書事として中書を廃した事で領尚書事の権力が確立した。
東漢では専ら録尚書事と呼ばれてほぼ常置され、太傅や三公の複数人が兼務する事を常態として宰相の実権を保証したが、宦官勢力の抬頭と伴に尚書職は次第に実務機関に変質し、曹魏の再編によって主導権を回復した。
劉宋の録尚書事劉義宣の叛乱を機に非常置となり、隋で廃された。
尚書省 東漢〜南宋
東漢では尚書台・中台、魏晋では尚書省、南朝宋では尚書寺・内台と呼ばれ、梁以降に尚書省に定着した。
尚書は元来は少府に属した天子の直属秘書官で、上奏文の上達可否と詔勅の下達を担当したことで大権を有したが、漢武帝による中書謁者の創設と天子専権を進める宣帝による検閲権の剥奪で権限を縮小された。
東漢では尚書令を常置の長官として左右僕射が輔佐し、奏議を典る一方で書式の定型化・厳格化などから尚書官の昇任は年功序列が一般的となり、後には昇任に要する期間も定められた。
魏晋では詔勅を管掌した中書の権限が増大して尚書省は実務機関となり、隋唐に至って最高の行政機関として確立し、長官の尚書令は中書令・侍中とともに宰相と称されたが、太宗の前職だったために左右僕射を実際の長官とした。
実務機関の六部を統轄し、各部には尚書・侍郎・郎中・員外郎が属したが、唐末五代に形骸化して北宋で廃止された。
金朝・モンゴル帝国では行政府として復権して尚書令が宰相とされ、元朝では財務を担当して廃置が繰り返され、明朝で解体されて六部尚書が天子に直属した。
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僕射 :尚書令に亜ぐ尚書省の次官。左右2員。唐代では太宗の前職だった事を憚って左右僕射が尚書省の長官として宰相に列し、玄宗の時代に左右丞相と改称された一方で宰相としての執政権を失い、天宝年間に旧称に復した。
北宋では尚書省が廃止されたが、元豊改革で左右僕射が同平章事に代って宰相とされ、正宰相の左僕射は門下侍郎を、副宰相の右僕射は中書侍郎を兼帯した。
北宋末には左僕射が太宰、右僕射が小宰と改められ、南渡から暫くして丞相制が復活した。
中書省 三国魏〜
後宮に滞在する時間の多かった漢武帝が、内廷での奏達の迅速化を図って宦官に上奏の検閲権を認めた中書謁者を発祥とし、宣帝が尚書の権限を大きく移管して長官の中書令・中書僕射は三公を凌ぐ実権を有したが、成帝によって廃され、東漢では置かれなかった。
魏文帝に至って秘書から独立し、詔勅を司掌した事で尚書を凌ぐ権力を得て“相職”と呼ばれたが、晋での門下省の設置によって抑制された。
唐朝では詔勅の起草、上奏に対する答草の作成を担当し、長官の中書令は侍中・尚書僕射と並んで宰相に列したが、皇帝権力の確立と伴に同平章事や翰林院に職責が分散されて名誉官化した。
宋朝では門下省を吸収した実態を以て中書門下省とも呼ばれたが、中書令は追贈官・兼官に過ぎなくなった。
元朝では中央の執政機関として行政・財務を統轄して大権を有し、地方の広域行政区の統轄機関も行中書省と呼ばれて財務を兼ねた。
これを継いだ明朝は1376年の空印の獄で行中書省を、1380年の胡惟庸の獄で中央の中書省を廃し、行政面の中央集権と天子の独裁権を確立した。
門下省 晋〜宋
曹魏の侍中府を前身とし、絶大な権力を有した中書省の抑制機関として上奏文および中書省が起草した詔勅の審議を行ない、門下の認印を備えない書類は無効とされた。
長官の侍中には名流貴族が任じられて南朝では中書令とともに宰相と呼ばれ、北朝でも清要官の筆頭とされ、隋では納言と改称された。
唐でも中書省・尚書省と並立して吏部とともに貴族勢力の牙城的存在だったが、皇帝権力の拡大と伴に実権を失って中書省に吸収され、北宋では中書門下省として存続した。
北宋の元豊改革では正宰相の尚書左僕射の兼官として門下侍郎が名目のみ復活し、元朝まで続いた。
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侍中 :もとは秦代に丞相の属官として奏事を典り、漢代には天子に近侍する高級諮問官としての加官となり、三国魏で府署が設けられて参政権を帯びる専任の侍中も置かれ、次第に清要官として上位貴族に独占された。
隋代では納言と呼ばれ、唐では門下省の長官として宰相に列し、上位貴族が任じられる事が殆どで、玄宗の天宝改元と伴に左相と改称(右相は中書令)された。
同中書門下平章事 唐〜宋
同中書門下三品・同平章事とも。
唐制では正宰相ではない中書・門下・尚書省の次官級/侍郎が宰相職を行なう際に官品を調整する為に与えられた加官で、やがて宰相資格の意味を備えて尚書僕射や部尚書にも加えられるようになり、代宗のとき中書令が二品官とされると伴に同中書門下平章事と改称されて正式に宰相資格とされ、使職に加えられる場合もあった(唐の官品は尚書省の格式が高く、尚書令は正二品、尚書僕射は従二品、中書令・侍中・部尚書は正三品で、侍郎は正四品)。
北宋では正宰相の官職となって複数名が常置され、神宗の元豊改革で廃止されて左右僕射が宰相とされたが、南宋の建炎3年(1129)には左右僕射の加官として復活した。
南宋の宰相は程なく左右丞相となり、元朝では同平章事は中書令の下の左右丞相の補佐とされ、明朝では用いられなかった。
政事堂 ▲
宰相会議場。初めは門下省に置かれ、683年に裴炎が侍中から中書令に転じた際に中書省に移設され、723年に中書門下と改称された後も政事堂と俗称された。
吏房・枢機房・兵房・戸房・刑礼房があり、正宰相以外が参議する場合は同中書門下三品・参知政事などの資格を必要とした。
六部 隋〜清
唐代に定まった吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の総称。
六朝期を通じて尚書の曹掾として発達し、隋代に正式に官庁となって唐代に完成し、清末まで行政の要とされた。
唐では尚書省に属して長官を尚書、次官を侍郎とし、下部に各四曹があって郎中・員外郎などが属した。
宋で一時廃されたものの元豊改革で再置され、元朝では行政府たる中書省に属し、明朝の胡惟庸の獄で中書省が廃止された後は天子に直属し、やがて宰相たる内閣大学士に統轄された。
1895年に尚書を管理事務大臣と改称し、1906年の官制改革で11部に改編された。
吏部 隋〜清
尚書六部の1つ。
漢の尚書四曹の吏曹に起源し、六朝を通じて発展して組織化され、任免賞罰など文官人事を司掌した。
唐制では吏部(位階)・司封(封爵)・司勲(勲等)・考功(考課成績)の四曹が属し、初めは科挙の最終試験を主管したが、開元24年(736)に礼部に移管され、律令体制の崩壊と伴に人事権も失って唐末五代に断絶した。
北宋の元豊改革で復した後は歴朝で継続され、1911年の内閣官制実施で廃止された。
兵部 隋〜清
尚書六部の1つ。魏晋の五兵曹にあたり、南北朝を通じて発達して軍事や武官人事を司掌した。
唐制では兵部(武官人事・勲禄)・職方(地図・城隍鎮戌など)・駕部(輿車・駅伝牧馬)・庫部(軍器)の四曹が属し、吏部と並んで六部の筆頭とされ、同平章事は両部の閣僚が兼ねる事が多かった。
宋・元では枢密院に職掌を奪われ、枢密院を廃した明朝では天子に直属して軍事を管掌したが、清朝では武官人は確保したものの兵権を失い、1906年の官制改革で廃止されて陸軍部が機能の多くを継承した。
礼部 隋〜清
尚書六部の1つ。
東晋・南北朝の祠部にあたり、国家祭祀・礼楽儀杖・教育・宗教・外交などを司掌した。隋が礼部と改め、唐制では礼部(礼楽・儀仗・学校など)・祠部(国家祭祀・天文・医薬・宗教)・主客(外交)・膳部の四曹があり、初めは科挙の学術試験を、開元24年(736)からは身言書判の四試をも管掌した。
唐末五代に廃絶し、北宋の元豊改革で復し、1911年の内閣官制実施で廃止された。
戸部 隋〜清
尚書六部の1つ。
六朝の度支曹、北斉の民部にあたり、財務一般を司掌して初唐に太宗の諱を避けて戸部と改称された。
中唐以降は使職の塩鉄使・度支使が財政の中心となって五代・宋初には三司使が財務を担当したが、元豊改革で復置され、明朝の中書省廃止によって天子に直属した。
初めは六部の通例として四曹があり、戸部が土地・戸口・賦役を、度支が財政支出を、金部が庫蔵の出納と度量衡を、倉部が穀物の出納を扱ったが、明朝以降は刑部と共に曹数を増し、明代に12曹、清代には14曹となり、1906年の官制改革で度支部と改称された。
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度支使 :玄宗の末期に新設された財務使職。
各藩鎮(道)の収支を管掌して賦税を徴収し、第五gの山南等五道度支使を初出とする。
戸部の閣僚や同平章事が塩鉄使をはじめとする財務系の使職と兼務する事で事実上の財務長官となり、度支使は塩鉄使・判戸部と併せて三司と呼ばれた。王安石の改革で三司が解体された後は、清末の官制改革まで度支の称は用いられなかった。
刑部 隋〜清
尚書六部の1つ。六朝の都官曹にあたり、司法を司掌した。
司法は本来は大理寺の所轄だったが、尚書の抬頭とともに職能が移管され、隋代に刑部に改称・一本化された。
下部の四曹には律法と諸州からの勅裁を扱う刑部曹、非良民の事を扱う都官曹、諸官庁の経理を監督する比部曹、関門を取締る司門曹があり、明朝では大理寺・都察院と併せて三法司とも称された。1906年の官制改革で法部と改称されたが、司法権は大理院所管となった。
工部 隋〜清
尚書六部の1つ。少府の水部曹に起源し、主に土木事業や開墾を司掌した。
三省六部制の整備に際して『周礼』に準じて設置され、下部には工部曹(城池土木の工役)、屯田曹(屯田・職田・公廨田)、虞部曹(京師街巷・苑囿など)、水部曹(津済・船艫・堤堰など)があったが、六部中最も閑職で発言力も軽微だった。清朝の1906年の官制改革で新設の農工商部に併合された。
枢密院 唐〜元
唐代宗が創設し、宦官に機密文書を扱わせた内枢密使に始まる。
帝と翰林学士とを仲介したことで大権を有して護軍中尉とともに“四貴”と呼ばれ、宦官の全盛時には宰相人事のみならず天子の廃立すら左右した。
唐を反面教師とした後梁で廃され、後唐で復置されたが、これは藩鎮で軍政を管掌した中門使に起源する後梁の崇政院を改称したもので、文官を任用して軍務を司掌し、兵の指揮権は持たなかった。
枢密使/知枢密院事を長官、枢密副使/同知枢密院事を副官とし、宋では軍政の総轄のみならず一般政務にも参与して宰相が枢密使を兼務することもあり、中書門下とともに“二府”と称されて国家の最高機関とされた。
軍閥色の強かった南宋では多分に名誉職的で、12世紀末に執政した韓侂胄が属官の枢密都承旨に留まり、側近官として権勢を維持した例もある。遼・金・元でも軍政を掌握し、元朝では地方にも行枢密院が置かれた。
塩鉄使 唐〜宋
758年に塩の専売開始と共に創設された使職。塩の専売制を建議した第五gが初就し、漕運の財源捻出のために塩の専売制を整備した劉晏も就いた。
歳入に於ける塩課の増大と伴に要職となって戸部侍郎や同平章事が度支使・転運使・租庸使などの財務使職と共に兼領する事が多く、淮南節度使・浙西節度使が帯びる場合もあった。
度支使・判戸部と併せて三司と呼ばれ、五代に官衙化した三司を構成して元豊改革で戸部戸曹に吸収された。
参知政事 唐〜元
宋の副宰相。唐では三品未満の官が政事堂会議に列する際に加えられたが、宋では964年に枢密使趙普を同平章事に昇せる際に権限抑制の為に副宰相として設けられた。
位階は同平章事に劣るものの権限は同等で、同格の枢密使と共に“執政”とも呼ばれて数名が任じられた。
元豊改革で廃されて左右の尚書丞が充てられたが、南宋初頭の建炎3年(1129)に中書門下侍郎を改称して副宰相に復し、元朝では中書省の属官となり、明初に廃止された。
三司使 宋
財政を統轄した三司の長官。
唐では安史の乱の後、財務官の要職化と伴に塩鉄使・度支使・判戸部が三司と呼ばれ、これらを兼務した閣僚が事実上の財務長官となり、五代後唐で三司使を長官とする官衙が置かれて戸部・度支部・塩鉄部を統轄した。
宋でも財政を担い、“計相”とも呼ばれて参知政事に亜ぐ要職とされたが、御史台に財務の監査能力が乏しかった為に内部で処理され、更に太宗期に南唐出身の陳恕が三司使に就くなど計才に秀でた南人官僚の牙城となり、宰相すら容易に干渉できなかった。
制置三司条例司の設置で権限の殆どを司農寺・軍器監・将作監・大理寺・刑部・工部などに移管されて経済事務のみが残され、これも元豊改革で戸部に吸収された。
制置三司条例司 ▲
新法の審議の為に、1069年に王安石の建議で創設された。
天子に直属する独立機関で、同様に宰相とは統属関係にない三司の業務の改制を眼目とした。
参知政事王安石と知枢密院事陳升之が責任者となって新法を立案・実施し、翌年に王安石が同平章事となると自動的に消滅した。
榷貨務 宋
茶・塩などの専売業務を管掌し、殊に在京の榷貨務は塩鈔や茶引などの交引(手形)の発行も行なって極めて重視された。官界の北尊南卑の一環として、江南商人の進出の抑制が眼目だったとの説もある。
元豊改革
王安石の下野後、神宗が主導した官制改革。
宋では唐代の使職(令外官)から発展した官署が制度化した一方で、旧来の三省六部九寺も存続し、煩雑な官職と冗官の増大が財政圧迫の一因となっていた為、元豊3年(1080)より三司の解体・人事権の整理・唐制官職への回帰・寄禄官の一元化を主幹とする官制改革が進められた。
三司の解体や人事の一元化を好例として同改革は新法の一環でもあり、枢密院などの例外を除いて同平章事・参知政事などが廃止されて官名は三省六部制に回帰し、人事権は吏部にほぼ一元化され、使職や寄禄官は大幅に削減された。
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北宋では人事権は審官院(京朝官/中級官僚)・流内銓(選人/下級官僚)・三班院(下級武官)・枢密院(上級武官)が分掌していたが、王安石が審官院を東西に二分して枢密院の人事権を西院に移しており、元豊改革では殆どを吏部に移管して東院人事を尚書左選、西院人事を尚書右選、流内銓を侍郎左選、三班院を侍郎右選が担当した。例外として上級文武官の人事権は中書省に移され、枢密院にも若干の人事権が残された。
又た三省制は形式上の回帰にとどまり、正宰相だった中書令・尚書令・侍中は空席とされ、尚書左僕射が門下侍郎を、尚書右僕射が中書侍郎を兼ねて正副宰相とされ、左右の尚書丞が参知政事を担った。
宣政院 元
チベットの行政および中国の仏教の統制機関。国師の輔佐を兼ねて元初の1264年に総制院として発足し、初代の総制院使にはサンガが就き、唐が吐蕃使節を謁見した故事に因んで1288年に宣政院と改称された。
元朝がチベット仏教を尊崇した為に絶大な権力を有し、改称当時は2員だった院使は1323年に6員に増員され、天暦2年(1329)には10員に達し、又た杭州には1334年に江南の宗教の統轄機関として行宣政院が置かれ、1336年のチベットの動乱の際にも討平の為にチベットに行宣政院が置かれた。
太監 遼〜明・清
明清の宦官の長官職。遼朝では太府・少府・秘書監などの長官を、元朝では太府・度支・中尚・章佩・秘書監などの次官を指したが、嘗て唐高宗が殿中省を中御府と改称した際に宦官を任用し、長官の監を“太監”と俗称した事に由来して明朝でも宦官長官の呼称となった。
明朝では司礼監を筆頭とする内官・御用・司設・御馬・神宮・尚膳・尚宝・印綬・直殿・尚衣・都知の12監の長官を太監としたが、惜薪・鐘鼓・宝鈔・混堂の4司、兵杖・銀作・浣衣・巾帽・鍼工・内職染・酒醋麪・司苑の8局の長官をも太監と俗称し、以上が二十四衙門と総称された。
洪武帝は宮門に鉄牌を掲げて宦官の識字・参政を厳禁し、これは恵帝にも遵守されたが、宦官の内通などで簒奪に成功した永楽帝は江南士大夫の協力が期待できない事もあって宦官を信任し、要職に就けて宦官専横の端緒を開いた。
殊に司礼監は東廠を掌握し、宣徳年間(1425〜35)に批答を代筆した事で内閣に対する掣肘権を得、成化年間(1464〜87)には京営や錦衣衛を含む軍の統帥権をも掌握したことで絶大な権力が集中した。
宦官の権力は内閣を凌ぎ、天子の寵愛を背景に国政を壟断し、官僚とも癒着して朋党禍を混迷化させて明朝衰亡の大要因となった。
清朝でも太監は置かれたが、実権は殆ど伴わなかった。
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司礼監 :明朝の宦官の官衙の筆頭。儀礼と印璽・詔勅を管掌した。
監内に秉筆太監や各監に掌印太監が置かれると司礼監の主管は提督太監と呼ばれたが、司礼掌印太監が諸掌印太監の首座とされて宦官の筆頭として司礼太監とも呼ばれ、批答を扱い東廠すら統帥した首席秉筆太監がこれに亜いだ。
内書堂 ▲
宣徳年間に設立された宦官の教育機関。洪武帝が厳禁した宦官の読書は永楽年間には空文化し、宣徳帝が宦官に批答権を与えたことで多数の宦官官僚を必要としたために開設された。
司礼提督太監が総責任者とされて年長有力な宦官6〜8名が学長とされ、最初の教師は1429年に礼部尚書で大学士の陳山が任じられ、以後は翰林学士が選抜された。
宣徳年間(1425〜35)だけで200〜300人が教育を受け、内書堂出身者は“正途”と称されて要職をほぼ独占した。
東廠 明
永楽18年(1420)に新設され、宦官が提督した特務警察。
東安門の北に置かれて憲兵組織の錦衣衛より選抜された人員で構成され、錦衣衛とは“廠衛”と並称された。
官吏の不敬・不正の内偵・摘発を任として宦官の権勢の一助となり、西廠や内行廠が並立した後は功を争って民間にも及び、魏忠賢の執権でも活用されてしばしば疑獄を惹起した。
西廠 ▲
成化13年(1477)、李子龍の宮中侵入未遂を機に増設された特務警察。太監の汪直を提督として規模は東廠に倍し、密偵を駆使した摘発網は全国の王府〜民間を対象としてしばしば大獄を起こしたが、汪直の失脚した1482年に廃止された。
正徳元年(1506)に太監の劉瑾が再興し、翌年には宦官の監督強化を称して内行廠が設置され、三廠が並立して摘発を競ったが、1510年に劉瑾が処刑されると両廠ともに廃止されて東廠が警察・諜報の中心となった。
都察院 明〜清
洪武15年(1382)に、御史台に代わって置かれた司法・監察機関。左右都御史以下、副都御史・僉都御史・監察御史などがおり、百官の非違の弾劾や重大刑案の審議を行ない、六部・五軍都督府と共に三権の1翼を為し、刑部・大理寺とともに三法司とも呼ばれた。
総督・巡撫が派遣される際には都御史を兼ね、督撫権力を強化する一助となった。
清朝でも明制が継承されたが、後に僉都御史を廃して左都御史・左副都御史を都察院の専官とし、右都御史・右副都御史を督撫の兼官とし、雍正元年(1723)には独立の官庁監察機関だった六科も都察院の所属とされた。
通政使司 明・清
上奏文の取次を司掌する察言司が洪武10年(1377)に改称されたもの。
通政使を長官とし、上奏文の受理・検閲だけでなく各地からの陳情申訴を受けての不法究明や、大政・大獄の評議、文武大臣の推挙などにも参与して大権を有した。
明朝での専権に鑑みた清朝では上奏文の規格検閲に制限され、1902年の官制改革で冗官として廃止された。
議政王大臣 清
議政大臣。国政を審議する会議の構成員。
ヌルハチの創設になり、崇徳2年(1637)に拡充されて有力皇族と旗王で構成された。入関以降は八旗出身の文官も加えられて皇帝の最高諮問機関となったが、一般政務が内閣に移行された後は軍事のみを審議し、軍機処の設置とともに名誉職となって乾隆57年(1792)に廃止された。
内三院 清
内国史院・内秘書院・内弘文院の総称。文書の翻訳を職掌とした後金の文館を天聡10年(1636)に再編したもので、内国史院は起居・詔令・実録などを担当し、内秘書院は対外詔冊や各衙門への奏疏を録し、内弘文院は天子・諸王への経史の進講と制度の頒行を行なった。
各院には大学士や学士が配されて国家の枢機にも参与させ、順治年間には内三院大学士に票擬権を与え、同時に六部に対する批答への参議も認められた。
順治15年(1658)に内閣に改編され、順治帝死後の修正運動の一環として復置されたが、康熙帝が親政を開始した翌年(1669)に内閣制に移行した。
理藩院 清
モンゴル・青海・チベット・回部などの藩部統治の為の執政機関。
モンゴル諸部族を綏撫するための蒙古衙門を崇徳3年(1638)に改称したもの。
漢制に傾斜する順治帝によって入関とともに長官を尚書、次官を侍郎と改称し、16年には礼部の管轄となったが、順治帝の歿した1661年には独立官庁に復した。
下部機構として旗籍・王会・典属・柔遠・徠遠・理刑の六清吏司が設置され、後に対外貿易や対露外交も管掌した。
軍機処 清
雍正7年(1729)のジュンガル遠征に際して機密保持と翻訳事務の迅速化を目的に、臨時的に内閣の分局として開設された軍需房を発祥とし、10年に軍機処と改名され、乾隆2年末(1738)より責任者を軍機大臣と呼んだ。
常設機関となった事で庶政の重要案件をも扱い、従来の八旗の合議体制を代弁する内閣に代わる国家最高機関となった。
軍機大臣は内閣大学士・尚書侍郎から選出された3〜6名で構成され、満漢各16名の軍機章京が文書を処理して胥吏は存在せず、又た皇帝独裁強化の過程で発生した為、軍機大臣には満人・漢人の定員は設定されなかった。
散官 漢〜明
品階のみで実職のない官。存在は漢代にも確認され、当初は待任者を指したが、後に位階を示す加官の如くなり、南北朝で貴族制と伴に発達して多くの官人が帯び、無任者が帯冠した場合には官吏待遇を保証した。
唐代に文散官・武散官に大別されて勲官が独立し、実職を完全に失った一方で本品として全ての官に与えられ、後には品階調整の機能も有した。
散官の制は明朝まで続き、清朝では封贈官と称した。
勲官 唐〜清 ▲
武勲に対して与えられる散官。唐代に武散官より独立し、上柱国(従二品)〜武騎尉(従七品)の12等があって兵卒にも下賜されたが、後に濫綬の傾向が生じて天宝年間(742〜56)には上柱国を帯びる一兵卒すら存在した。
勲は歴朝で吏部司勲郎中が司掌し、明朝では文・武にそれぞれ設けられた。
職事官 唐〜清
散官に対し、実職を伴う官職の称。
正一品から従九品下までの品階があったが、いずれも散官を帯びた。本来は散官(本品)との品階一致が原則とされたが、往々にして品階が異なる事が生じ、その際には散官が高位なら“行”、散官が下位なら“守”を職事官に冠して調整した。
寄禄官 宋
品階の代用として宋代に用いられた散官。宋代の官号は実官(差遣:某使・知某・同知某など)と、官名を以て品階・俸禄を表わす寄禄官、更に上位進士は学士号として“館職”を冠し、そのため上級進士官僚は差遣と館職・寄禄官号を有した。
寄禄官は同一階梯に複数官が並立し、実官の職掌とは無関係に科挙の成績などによって官名が決し、元豊改革で文官・武官ともに1品階1官職が原則となった。
太学
古代中国の官僚養成機関。儒学の拡大を図る董仲舒の建議でB124年に国都に置かれ、太常に属して五経博士が配された。
定員は当初は50人だったが、儒学の普及と伴に拡充されて元帝の時に千人となり、成帝の末には3千人に及んだ事もあった。
儒学を国学とした東漢で盛行して桓帝の時には3万余人に達し、学生は専ら時政を論じ宦官を糾弾して輿論にも大きく影響を及ぼし、士大夫層の牙城的存在と見做されて党錮の獄を惹起した。
又た東漢後期には精学を軽んじて浮華に流れる者が多く、伝統的な経学が低迷した曹魏では賦役免除の特典を求めて入学する者が増え、そのため入学を恥じる風潮が昂まって晋武帝の咸寧2年(276)には国子学が創設された。
以後も南北朝で最高学府の地位は保ったものの往時の権威は失い、唐では国子監に属する諸学の1つに過ぎなくなり、上級品官の子弟が学ぶ一種の経書研究機関となった。
北宋の三舎法で選挙枠外の任官ルートが提示されて往時の官僚養成学校としての機能を回復したが、徽宗の頃には形骸化した。
国子監 晋〜清 ▲
晋武帝が咸寧2年(276)に貴族子弟の教育機関として創設した国子学に起源し、北斉で太学から独立し、これを継承した隋が大業3年(607)に国子監と改称して国子学・太学・四門学などを統轄した。
唐では東都洛陽にも置かれて国子祭酒を長官とし、国子学が官僚養成機関とされて父祖の品階で入学を制限したが、科挙の盛行と伴に衰微し、明朝では国子監が最高学府を兼ねて国子監祭酒を長官とし、北京と南京に設置された。1903年に京師大学堂に統合された。
翰林院 唐〜清
翰林学士院。本来は文章・絵画・医薬などの学芸に長じた内廷供奉官の詰所だったが、玄宗が激務となった中書舎人から制誥業務の一部を移管する為に開元26年(738)に翰林院の傍らに学士院を新設し、以後は翰林学士院を指して翰林院と呼んだ。
翰林学士には尚書〜校書郎の文詞経学に秀でた者が選ばれて兼務し、初めは口頭での制誥(内制)の起草を担当したが、粛宗の頃には制誥全般を扱って内相とも呼ばれ、永貞元年(805)に憲宗が設けた翰林学士承旨(筆頭学士)に至っては枢機にも参画し、宰相に進む登竜門とされた。
宋では科挙及第の上位数名に限られたが、制誥の事は知制誥に移管され、元朝では国史纂修を主任とした。
明朝は学士承旨を廃して位階を降し、外廷に移設するなど抬頭を予防したが、永楽帝以降は翰林院から抜擢した大学士を以て内閣を組織した。
清朝でも翰林院は存続したが、諸書の撰修を担当するのみだった。
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知制誥 :詔勅の起草者。詔勅は唐制では册・制・勅に分類されて詔を総称としたが、古称である制・誥を以て名とした。
中書舎人から翰林学士院に制誥業務が移管された後、入院1年を経過した学士が任じられれ、宋朝になって翰林から分離された。
唐制では封爵や正三品以上の叙任などの重大事を册、外交・大赦や五品官以上の叙任を制、一般の詔書を勅と呼んだ。
殿閣大学士 宋〜清 ▲
京師内城の諸殿閣に置かれた大学士・学士の総称。
北斉の文林館学士・北周の麟趾殿学士を先蹤とし、唐の中宗が708年に集文館(後の弘文館)に特に文学に秀でた者を大学士として置いた事が起源となり、中唐以降は宰相が弘文館大学士・集賢殿書院大学士を兼ねる事が慣例となった。
宋でも宰相は昭文館大学士か集賢殿大学士を兼ね、前宰相を礼遇するために観文殿・資政殿なども設けられ、真宗が龍図閣にも学士を置き、外任の翰林学士に対しても遙授するようになった。
龍図閣は太宗の蔵書所に建立されたもので、これより宋では先代の蔵書所を閣とする事が通例となり、閣学士は濫造の傾向を生じて宦官が帯びる事もあった。
明初の殿閣大学士は政治顧問にすぎず位階も低かった(正五品)が、仁宗が内閣の大学士に尚書を兼ねさせてより実質上の宰相と認識されて内閣大学士と称された。
明では中極殿・武英殿・文華殿・建極殿・文淵閣・東閣などがあり、清朝では保和殿・文華殿・武英殿・文淵閣・東閣・体仁閣などがあった。
内閣大学士 明〜清
明朝で閣僚を担った大学士。
永楽帝が1402年に文淵閣に内閣を置き、翰林院出仕から選抜した大学士を入閣させた事に始まる。洪煕年間(1425)に尚書を兼ねてより内閣大学士と呼ばれ、宣徳年間(1426〜35)には票擬権が与えられて宰相としての実質を備えるようになった。
入閣には翰林院出仕であることが資格とされ、院生となるのは進士に限られていた事から明朝の科挙盛行の原因となった。
閣臣の筆頭は“首輔”と呼ばれ、嘉靖の頃(1522〜66)より票擬を独占して丞相に等しい存在となったが、権力の法的根拠に欠けて皇帝の信任に頼る部分が大きく、皇帝の趣味に迎合した者が抜擢された時期もあった。
又た権力の主導権は概して司礼監にあり、正徳帝の頃より内閣と司礼監の癒着が慢性化して内閣の腐敗が助長され、万暦年間(1573〜1620)には首輔の優位性も後退した。
清朝では1658年に内三院が内閣と改称されて大学士が任じられ、1729年に軍機処が常設されるまで最高機関とされた。
票擬 ▲
内外からの章奏に対し、内閣が天子の決裁(=批答)の原案として準備した文案。
票擬権を得た事で内閣は天子の秘書官的立場から中書省の代替機関に発展し、事実上の宰相職と目されるようになったが、宦官の最高機関である司礼監の秉筆太監に批答の代筆が委ねられた為、士大夫は宦官に対して劣勢に甘んじた。
画院 唐〜清
翰林図画院。唐玄宗の時代に翰林院に創設された宮廷画の製作機関。画人は漢では黄門・尚方などに、六朝では秘閣に、唐では翰林院に属したが、このとき初めて独立機関が置かれ、画人は当初は供奉・待詔などと呼ばれた。
五代の前蜀・後蜀・後唐にも置かれて北宋では図画院と称し、官として侍詔・祗候・芸学・画学諭を置いて画学生を指南させ、文人天子として名高い徽宗に至って養成機関を拡充して試験による任用も行ない、画院の全盛期となった。
元朝では工作署に画家を配属させたにとどまり、明朝でも内侍官の管下に画家を配属させて武英殿・仁智殿などに出仕させ、祗侯・供奉などに任じて画家である事を識別した。
文人皇帝の宣徳帝・成化帝・弘治帝の時代に画家は優遇されたが、宮廷画=院画には表現法などに制約も多く職人的・工匠的技法が求められ、奔放を風潮とした時流の中で沈滞した。
沈周・文徴明・董其昌らによる復古運動はこうした画院派に対するものであり、院画を指す院体画や北宗画、対する文人画や南宗画などの造語も定着した。
明制を継承した清朝では康熙・雍正・乾隆年間に宋の宣和時代と並ぶ最盛期を現出したが、以後は西洋画家・文人画家の出仕によって画風が一新した。
工部局 清
咸豊4年(1854)に上海市議会が改編された、上海共同租界の行政機関。
初期に租界の建築・土木工事を主な任とした事が名称の由来となったが、後に警察行政の比重が増し、その他一切の租界行政も担当するようになった。
高級職員は英米人に独占されたが、後に日本人・中国人も採用された。
総理衙門 清
総理各国事務衙門。総署・訳署とも。咸豊11年(1861)、外国公使の北京駐在に対応して創設された。
恭親王を首班として軍機大臣ら政府高官が総理衙門大臣を兼ね、その合議によって運営された。
外交事務の他に海関・海軍事務を統轄し、更に電信・鉄道・鉱山をも管轄するようになり、通商事務は広州から上海に移された五口通商大臣(南洋大臣)と天津の三口通商大臣(北洋大臣)が担い、それぞれ両江総督、直隷総督が兼務した。
同治9年(1870)以降は直隷総督・北洋大臣の李鴻章が実質的な外務大臣となり、総理衙門は北京議定書に遵って1901年に外務部に改組された。
江南製造局 清
江南機器製造総局。曾国藩が立案し、同治4年(1865)に李鴻章が上海に設立した官弁軍事工場。
アメリカ資本の造船工場/旗記鉄廠を買収し、蘇州洋炮局と金陵の安慶内軍械所を合併したもの。清末最大級の軍事工場で、経常費として上海海関収入の2割が充てられたが、製品は粗悪で製造速度も低く、採算性も度外視された。付帯施設の繙訳館・広方言館では洋書の翻訳や外国語の訓練が行なわれた。
民国以降は江南造船廠と呼ばれ、海軍部に直属した。
資政院
光緒33年(1907)に立案された憲政化の一環で、国会の準備機関として宣統2年(1910)10月に北京に設置された。
官制改革委員会が英・独・日の制度を参項に組織・権限を定めた後に各界から議員が選出され、国家歳入出の予算・決算、憲法以外の法律の制定・改正、税法・公債関連などを審議した。清朝が延命の対症療法として開設したにすぎず、予算審議も有名無実で国会の機能を果たさず、辛亥革命で崩壊した。
諮議局 ▲
光緒33年(1907)に立案された憲政化の一環で、宣統元年(1909)に開局された省単位の地方議会。
各省の督撫の駐在地に置かれて複選法で議員を選出し、本省歳入出予算・決算に関する審議、資政院議員の選挙、督撫・資政院の諮詢事項の答申などが認められた。
有産者のみを代表とし、督撫の掣肘も絶えなかったので近代的議会の機能は果たさなかった。
刺史 漢〜五代
秦の監御史の後身。
漢武帝代に創設された地方監察官で、全国を13に区分した州内を巡察して太守・令長の監察や豪族の糾察を行なった。
当初の禄位は県令と同格(年俸600石)だったが、成帝の綏和元年(B8)に太守と同格(2000石)となり、東漢では州内に治所を構え、民政に関与しただけでなく太守の上位官としての実を備え、188年には刑政・兵権を認められた“牧”も現われ、州の事実上の長官となった。
三国魏では将軍号を帯びる事が常態化して都督が兼ねる事が多く、東晋からは都督府に属する民政官とされた。
隋の大業年間(607〜18)と唐の天宝年間(742〜56)に太守に廃置され、唐末〜五代では兵権を有した事もあったが、宋では武官の階級称に過ぎなくなって知州が長官とされた。
知州 ▲
権知軍州事。宋代に再構成された州知事。府の知事は“知府”と呼ばれた。
中央から派遣されて州の軍・政を総理し、人民に直接するので親民官・牧民官とも呼ばれ、按撫使・経略按撫使を兼務した場合は路・軍路の軍事を統帥した。
二品以上や中書門下・枢密院・宣徽使の職を帯びる時は判○府/州軍監と称した。
監察御史 隋〜清
始皇帝が諸郡監督の為に派遣した御史=監察史に始まり、漢代には刺史が職能を継承し、隋に至って地方統治の監督官を監察御史と呼び、唐では御史台を構成する察院に属した。
明代に察院は御史台に代る監察機関として都察院に再編され、監察御史は諸道に派遣されて監察業務を行なった。
太守
郡の長官。秦では全国を36郡に分割して長官を郡守と呼び、漢景帝がB148年に太守と改称して郡尉・監御史と三権を分掌したが、部刺史制の開始と伴に監御史が廃され、光武帝代に軍事を担当した都尉も廃されたために郡内の全権を管掌した。
又た国都を擁する郡(京兆・河南)の太守は尹と称され、品秩は九卿に準じた(太守は二千石/月俸120石、尹は中二千石/月俸180石)。
後に刺史が州の長官化した為に権限が縮小し、六朝で進行した州の分割で存在意義を失い、583年に隋文帝によって廃されて州に統一された。
隋の大業年間(607〜18)と唐の天宝年間(742〜56)は州を代行して復置されたが、宋以降は知府・知州の雅称となった。
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都尉は漢景帝代に、郡の軍事を担う郡尉が改称されたもので、これとは別に異種族の多い地にも置かれた。
一郡一都尉を標準としたが、東西南北の部都尉が置かれる事もあり、辺地=属国では太守の事を兼ねて属国都尉と呼ばれた。
部都尉・属国都尉は内地の郡尉が廃された後も中央の都尉と共に存続し、中央の都尉は天子に親侍したことで名誉官化した。
県令
地方行政の基礎単位である県の長官。
戦国時代に中央直轄の県の長官を、封君(小規模諸侯)と区別するために県令と呼ぶようになったとされる。
人民との関係が密接なので“父母官”“親民官”とも称され、秦漢の制では万戸以上の大県の長官を県令、未満の小県の長官を県長と呼んで禄高も異なったが、後に県令に統一された。
令長の下には尉・丞がおり、尉は警察権を行使し、丞は令長を補佐したが、尉は元来令長と同格で、相互に監視・牽制の役を負っていた。
令長は太守に属しているものの県政に対しては全責任を負い、太守と同様に天子の代理とされた。
宋朝では大県には中央から京官が派遣され、これを知県事と称して小県と区別し、元朝ではすべて県尹と称し、明清では知県と呼ばれたが、州と同様に府に直属した県と、州に属した県とがあった。
功曹 漢〜五代
州郡の属吏の1つ。長官が任免権を持つ現地雇用の胥吏でありながら、朝廷から俸禄が給された“長吏”であり、おもに人事を司掌して太守・相による官吏推薦や属吏任用の際にも人選にあたり、主簿とともに“綱紀”とも称された。
南朝で長吏の任免権が中央政府に回収され、以後は考課を主な任として祭祀・礼楽・学校・医薬・卜筮などを管掌した。
主簿 ▲
長官に直属して主に文書や印章を司掌した長吏。三公九卿〜郡県に広く配され、特に州郡の主簿は土豪が任用された事もあり、全官属を統率して功曹とともに“綱紀”と呼ばれた。唐以降の三省六部では主事と称された。
台使 南朝宋〜南斉
租税を滞納している地方に中央から派遣された徴税官。
南朝宋の孝武帝によって始められたが、天子側近の寒士・寒人が任じられて恣意的な収奪や不正を行ない、加えて地方の行政や軍事などにも容喙して宗室諸王や貴族官僚との軋轢が絶えなかった。南斉になって竟陵王の上疏によって廃された。
市舶司 唐〜明
海上貿易の事務や徴税・監査等を司掌した機関。唐の開元2年(714)に広州に初めて設置された。長官は市舶使・押蕃舶使・監舶使などと呼ばれて中央から派遣された宦官が就き、又は刺史・節度使が兼任した。
宋代に制度が改革整備されて広州・泉州・明州などの港市に提挙市舶司やその出張所の市舶務が置かれ、港ごとに交易国が指定され、長官の提挙市舶は中央に直属してしばしば転運使が兼務した。
海商の出入国事務や保護監視、貨物の検査・徴税、官買品の購入、官吏の監視などを職務とし、海上交易が活発だった宋・元では実利の多い要職だった。
明朝では市舶提挙司と呼ばれて広州・泉州・寧波に置かれ、勘合貿易の事務に限定されて薄利の閑職となったが、後の海禁緩和に伴って職利が増すと就任希望者が激増し、宦官が就いた場合の長官は市舶太監と呼ばれた。清朝では康熙24年(1685)の海関設置と伴に廃止された。
海関 ▲
清朝が海港に置いた税関。海禁を停止した翌年(康熙24年/1685)に粤(広州)・閩(漳州)・浙(寧波)・江(上海)に初めて置き、市舶司の職務が移管された。
公行制度廃止後は官吏による不正が横行し、小刀会による上海占領から逃れた上海道台呉健彰が租界・税関の権益を条件に支援を求めた事で咸豊4年(1854)に英・米・仏が共同で関税管理委員会を結成し、これを外人による海関管理の先例として同8年より英人の総税務司による海関業務の管理が全海関で認められ(洋関・新関)、従来の海関は常関・旧関と呼ばれた。
巡察使 唐
臨時に派遣される地方監察官。貞観20年(646)に大理卿以下22名を天下に派遣して、地方官を巡察させた事に始まる。
考課条項が繁過となって監察が疎かになり、又た巡察使に対する雑徭の過重などの弊害を生じた為、中宗の神龍2年(706)に道を監察区画とする十道巡察使の制が定められて各道2員とし、任期は2周年とされた。
睿宗の景雲2年(711)に按察使と改称されて1道1員とされ、開元21年(733)には採訪処置使と改称された。
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採訪処置使 :開元21年(733)に全国を15道に再編した際に、監察官たる按察使を改称したもの。
駐州の刺史を兼ねて道の行政長官の如くなり、安史の乱が生じると団練使などを兼ねて藩鎮化した。
観察使 唐 ▲
監察処置使とも。
採訪処置使を乾元元年(758)年に改称したもので、監察御史との混同を避けるために“観察使”と略称された。
管轄区画の道は従来の道とは異なり、全国を40余に区画した藩鎮の境域を追認したもので、節度使が観察使を兼ね、或いは観察使が経略使・団練使・防禦使を兼ねることで藩鎮としての実質を有した。
按察使 唐・宋〜清
唐代には巡察使の後身として道の監察の為に派遣され、733年に採訪処置使、次いで758年に観察使と改称された。
宋代に観察使から復旧して概ね転運使が兼任し、遼代の按察諸道刑獄使よりは司法監察官とされ、元末には粛政廉訪使と改称された。
明朝では提刑按察使と呼ばれ、各省に置かれて布政使・都指揮使と並立し、清朝では巡撫の下に置かれた。
転運使 唐〜宋
玄宗の開元21年(733)に初置され、税糧運輸を司掌した。
初任の裴耀卿が就いた江南淮南転運使は、京師の税糧の江淮依存の増大に対処する為に江南からの漕運を司掌したもので、節度使の割拠とともに職責が拡大した。
殊に淮塩との繋がりから多く塩鉄使を兼ね、770年頃には江淮・江南の財務を統轄するようになって主に宰相が兼務し、関西の財務を管掌する度支使と並立した。
唐末〜五代には地方官化し、宋では路の監察官とされて漕司とも俗称され、後には路の長官の如くなった。
提点刑獄 宋
憲司・提刑とも。諸路の刑獄を糾察する為に中央から派遣された。992年に始められて翌年に廃止されたが、真宗のときに復して宋末まで変遷しながら存在した。時には勧農・徴税に当たることもあった。
通判 宋〜清
湖南平定の際に朝臣に府州の政事を司掌させたことに始まる。知事の権限分散を目的とした為に独自の官署を有し、知事に比して品階は低かったものの同等の権限が付与され、上下関係はなく、行政・財務・軍事・司法を管掌した。
大州には2員が派遣され、万戸未満の州には置かれなかったが、知事が武官の場合は特設された。
次第に知事の副官化し、元朝で断絶し、明清では宋制より権限が縮小されて同知(副知府)の下に置かれた。
土司・土官 元〜清
西南地方の土着豪族に与えられた官職の区分。
四川・雲南・貴州・湖南・広西地方の帰属酋長に与えられ、自治・世襲が承認されて嫡出の不在に対しては弟・妻による継承も認められた。
明朝で完成して清朝にも継承されたが、清朝では武職に属するものを土司とし、文官を土官と呼んだ。
雍正年間から内地に接する土司を流官とする改土帰流政策が推進された。
布政使 明・清
承宣布政使。洪武9年(1376)の行中書省廃止とともに設置された地方行政区画/布政使司の長官で、1省の行政を司掌して軍事の都指揮使・司法の提刑按察使と並立し、1381年に左右各1名に増員された。
明朝中期以降は巡撫・総督の常置化・権限増大とともに軽くなり、清朝でも巡撫の下で行政を担当して康熙6年(1667)には各省1名とされた。
巡撫 明・清
明清の地方長官。洪武〜永楽年間(1368〜1424)では有事に派遣される臨時の監察官だったが、宣徳年間(1426〜35)から常設化が進んで都御史を帯び、多くは軍事をも司掌して地方長官の実質を有した。明末には20余人に達して1省、或いはその一部を管轄した。
清朝では省の長官とされ、総督とほぼ同等の権限を有して天子に直属した。
総督 明・清
明清の地方長官。総督の称そのものは軍司令官として古くから存在したが、明朝の正統6年(1441)に麓川の乱に対処する為に兵部尚書王驥に雲南の軍務を総督させた事に始まり、広西の動乱を治めた韓擁を成化5年(1469)に両広総督に任じてより常設化が進み、巡撫を兼任して事実上の最高の地方長官となった。
清朝では1省以上を管轄し、格式では省長たる巡撫より若干の上位に置かれたが、上奏・属官の監督任免・軍隊の指揮・地方財政の監督・裁判・外交権などはほぼ同等だった。直隷総督は北洋大臣、両広総督は南洋大臣を兼ね、外交上で重要な権限を有するとともに海軍の司令官でもあった。
塩課司 明・清
塩場に設置され、塩の生産・販売を管掌した。長官は塩場大使(塩課司大使)。
両淮塩の産地では30余の塩場それぞれに置かれて泰州・通州・淮安に駐箚した三分司が塩務を分轄し、揚州に駐した都転運塩使司(塩運司)が統轄したが、最小規模の塩池には塩課司のみが設置されて塩務を管掌した。
欽差大臣 清
特定の事案に対して全権を委任された臨時官職の1つで、三品以上の大官が任じられた。
欧米列強との折衝に当たる欽差大臣は阿片戦争後に両広総督が兼任する事が常態化し、これは1859年以降は両江総督・江蘇巡撫が任じられて上海に進駐し、1861年に総理各国事務衙門が創設されると南洋大臣に吸収された。
太平天国や新疆・黒竜江方面での対露外交にも派遣され、諸外国の駐清外交使節も対等の資格を有することを示す為に欽差大臣を称した。
参賛大臣 清
外蒙古に派遣された行政官。
清朝は内蒙古に対しては各族長=札薩克(ジャサク)の自治に委ねたが、外蒙古に対しては中央から将軍もしくは参賛大臣を派遣し、札薩克を統率監督させた。
タタールの外カルカ四部と、オイラートのドルベト・トルグート・ホシュート部にそれぞれ各1名が派遣された。 ➤
ウリヤスタイ将軍 清
定辺左副将軍とも。雍正9年(1731)のジュンガルによるホブド占領に対し、同11年に置かれた。
ジュンガル解体後は漠北の軍政事務を統轄し、乾隆51年(1786)より西部のサイン=ノヤン部・ジャサクト部に限定された。
クーロン辧事大臣 清 ▲
オイラート平定後のモンゴル統制の再編の一環として乾隆27年(1762)に置かれた。
理藩院に属してロシアとの通商や外交事務をトシェト汗家より移管し、辺防・裁判などはウリヤスタイ将軍と共同で処理した。
同51年(1786)からはトシェト部・チェチェン部の事を統轄した。
イリ将軍 清
正しくは総統伊犁等処将軍。ジュンガル征服後の新疆統禦のために乾隆27年(1762)に設置された軍政官。
駐箚地として天山北部に恵遠城(霍城県)が築かれ、下部機構としてイリ・タルバガタイ・カシュガルの参賛大臣、ウルムチ都統などがあり、いずれも旗人官僚が任じられ、現地での徴税額が限られていた為に新疆経営には多額の内帑金(宮廷費)が投じられた。
又た末端行政は現地有力者に委ねられて社会構造は温存され、漢人の入植や軍士と現地民との接触は厳禁されたが、東部は漢人入植者が既に多かった為に内地同様の行政制度が行われて陝甘総督が管轄した。
光緒9年(1883)に新疆省に移行して内地同様の行政制度が導入されると新疆の中心は迪化(ウルムチ)に遷り、イリ将軍は主に新疆北部の防衛を担う名目的存在となった。