南北朝

 420〜589
 劉裕による東晋簒奪から隋朝による中国統一までの期間を指し、南朝では宋・斉・梁・陳が、北朝では魏と斉・周が興亡し、この時代の国境線は北魏の華北統一より侯景の乱までは概ね秦淮地帯にあった。尚お、中国では周から興った隋朝までを北朝に数える。
 南北朝時代の特色とされる貴族制度は南朝と北朝とでは背景や運用が異なり、西晋から続く南朝の貴族制度は九品官人制によって強化されて社会身分の階層化と固定化が進行したが、北防の必要から、貴族の支持を得た軍人による易姓革命が肯定された。 このため貴族勢力には皇帝権力の介入すら否定する一種の治外法権が生じ、王朝の興亡と貴族の家門の興廃とは必ずしも連動しなかった。 貴族・豪族は多くの佃客衣食客部曲を擁する大土地所有者でもあり、広域の山沢封固による荘園経営は閉鎖的な自給性を伴って貨幣経済を停滞させ、貴族や大商人による貨幣退蔵も加わって自営農の没落と商人層の抬頭を促進した。
 南朝社会の特徴などは東晋で既に顕著で、江南開発の飛躍的進展によって南北の経済力は逆転したと見られるが、恒常的な係争地となった淮河流域の荒廃などによって総体的な経済力は低迷した。 流通経済の低迷に対して諸外国との交流は活発化し、北魏は柔然対策として高車や西域諸国と活発に交渉した他に高句麗を朝貢国とし、南朝も東南アジア諸国や朝鮮諸国・日本と冊封関係を結んだほか、青海の吐谷渾を介して西域と交流した。
 歴朝天子の寒門寒人重用は、門地二品に偏重した貴族主義に対する一種の抵抗でもあり、梁武帝の官制改革もその一環とされるが、実効力には乏しかった。 南朝の貴族社会は侯景の乱と承聖の江陵陥落でほぼ壊滅し、湖北・四川の喪失と併せて南朝の没落を決定的にした。

 貴族文化とも称される南朝文化は、老荘思想が哲学的に特化した玄学と、華美な修辞と対句を特徴とする四六駢儷体を代表的なものとし、謝霊運鮑照謝朓らの中国を代表する文化人を輩出した。 『文心雕龍』『詩品』『文選』などの評論書も編集され、声律や修辞の追究は、後代に律詩や絶句の近体詩を成立させた。 又た南北朝ともに仏教が隆盛し、北魏では太武帝の廃仏はあったものの曇曜の再興運動や雲崗・竜門石窟の開削、曇鸞の浄土教創始などがあり、南朝でも格義仏教の盛行や梁武帝の信仰などが知られるが、北朝に於いては護国宗教、南朝に於いてもその哲学性やサンスクリット語の発音・建築様式などの異国情緒が喜ばれた側面が強い。
 

劉宋   南斉        /  北朝

 
 
 

南朝宋

 420〜479
 東晋の寒門軍人の劉裕が、北府軍と貴族層の支持を背景に樹立したもので、軍人天子の武力と貴族の政治力が結合した、南朝独特の社会体制の嚆矢となった。 寒士寒人と貴族層を併用する事で政権を安定させた劉裕に対し、嗣子の文帝は文人貴族を重用して“元嘉の治”を現出したが、貴族偏重に批判的な彭城王との確執の後は君主専制を強め、又た華北統一を達成した北魏の外圧が強まり、451年の瓜歩の難で淮北を喪失した。
 文帝横死後の混乱を鎮めた孝武帝は貴族抑制・仏教統制や行政単位の細分などで専制化と集権化を図ったが、軍費の増大と宮廷の奢侈化、綱紀の弛緩などで人心を失い、王朝の権威も明帝後廃帝の濫刑・同族粛清で凋落し、内乱鎮圧で抬頭した蕭道成に簒奪された。
 中国史料で確認できる倭の五王の朝貢の殆どが行なわれた(8/9回)王朝としても知られる。
武帝  文帝  孝武帝  明帝
 

劉裕  356〜420〜422
 南朝宋の高祖、武帝。彭城(江蘇省銅山)の人。字は徳興。寒門出身で、東晋の北府軍で抬頭して孫恩討平で認められ、桓玄討滅を主導して北府軍を掌握した。 南燕の討滅による斉魯回復や嶺南の盧循鎮圧で武威を示す一方で、江州刺史劉毅ら反対派を粛清して西府をも掌握し、後秦を滅ぼして洛陽・長安を回復した翌年(417)には輿論を背景に相国・宋公となり、晋帝の廃立と宋王への進爵を経て420年に禅譲を行なった。
 刁氏・虞氏などの京畿の大荘園を没収して貧民に分配し、又た僑郡僑県の併省や土断の全国的な実施で財政を好転させ、短期間で宋朝の基盤を確立した。 土断の徹底や質倹の率先などは、東晋朝廷の奢侈放縦や過度の名族偏重の体制に批判的な輿論に配慮したものだったが、即位直後には名族の白籍化を認めるなど僑姓との妥協を余儀なくされ、北府・西府などの軍府の統帥を宗室に限定することで簒奪の防止を図った。

劉穆之  360〜417
 東莞莒の人。字は道和。漢の斉悼恵王の裔。 世々京口に住し、404年に義兵を興した劉裕に招かれて主簿とされ、回復された建康の朝廷の再建・粛正に大功があって劉裕に信任された。 劉裕の謀首として政略を定め、劉裕の外征の際には建康に留守して後事を宰領し、416年の後秦遠征に際しては領選のまま尚書左僕射に進められて領軍と中軍を司掌したが、劉裕から九錫を求める使者が送られると愧じて病死した。 侍中・司徒・南昌県侯が追贈され、禅譲で南康郡公に改封された。

徐羨之  364〜426
 東海郯(山東省)の人。字は宗文。劉裕の幕僚として信任され、416年の北伐では劉穆之と共に建康に鎮し、尚書僕射に進んで劉裕の禅譲を準備した。 禅譲後は司空・録尚書事・揚州刺史とされ、劉裕の死後は託孤六傅の筆頭として傅亮らとともに少帝を後見したが、424年に不行跡を理由に廃弑して文帝を迎立し、司徒に昇った。後に専権を忌まれ、弑逆を理由に自殺を命じられた。

傅亮  374〜426 ▲
 北地霊州(寧夏霊武)の人。字は季友。晋の御史中丞傅咸の玄孫。経・史に精通し、文辞を能くした。 劉裕の中原回復に従軍した後に禅譲の準備を進め、宋朝が興されると中書監・尚書令・建城県公とされた。 劉裕に託孤されて徐羨之・謝晦らとともに少帝を後見し、廃弑と文帝迎立にも参与して散騎常侍・左光禄大夫・開府儀同三司を加えられた。 後に弑逆を理由に処刑された。

謝晦  390〜426 ▲
 陳郡陽夏(河南省太康)の人。字は宣明。晋の太保謝安の兄/謝據の曾孫。 太尉となった劉裕の求めで枢機に参画し、劉裕の義熙土断は謝晦が揚・豫州に行なったものを参考にしたとも伝えられる。 416年の北伐では太尉主簿とされ、受禅においては警固を司り、禅譲後は領軍将軍・総統宿衛などを歴任して枢機に参与した。 武帝の死後は六傅に連なって領中書令を加えられ、少帝廃弑に参画した後は荊州刺史に転出したが、廃弑の罪を問われると挙兵して巴陵で檀道済に敗れ、建康で処刑された。

王弘  379〜432
 琅邪臨沂の人。字は休元。晋の司徒王cの子。 会稽王道子の驃騎主簿で起家し、劉裕の腹心として九錫授与や禅譲文などを起草して禅譲に正統性を附与し、禅譲後に衛将軍・開府儀同三司・華容県公とされた。 文帝擁立にも功があって侍中・司徒・揚州刺史・録尚書事から太保・領中書監に進められた。
 刑理に厳正で、晋末に側女と通じた門生を殺した謝霊運を弾奏し、不問を図る御史中丞王准之と併せて罷免させた。

王鎮悪  370〜418
 北海劇の人。前秦の宰相王猛の孫。 淝水の敗戦で南渡して荊州に客居し、南燕を伐った劉裕に招かれた。 速戦の用兵に長じて劉裕の前鋒として盧循劉毅を平定し、416年の北伐では許昌・洛陽を抜き、翌年には長安を陥して後秦を滅ぼした。 劉裕の帰還後は征虜将軍に都督雍秦二州諸軍事を加えられ、長安に劉義真を奉じて赫連勃勃を拒いだが、対立する参軍従事の沈田子に殺され、程なく関中は赫連勃勃に征服された。 貪欲で、入関後は子女や玉帛を私服したとも伝えられる。

劉義真  406〜424
 南朝宋の廬陵王。武帝の次男。『宋書』では「聡明にして文義を愛すれど、軽佻にして徳なし」と評された。 417年の関中回復後は長安に駐したが、翌年に内訌で王鎮悪が殺されると軍に長安を逐われ、劉裕の即位で廬陵王とされた。 後に南豫州刺史に叙されたが、夙に帝位への志向が強く、篤交した謝霊運顔延之慧琳らに即位後の顕官を保証していたことで徐羨之ら託孤六傅に忌まれ、少帝廃黜後の混乱を避けるために少帝に先立って殺された。

少帝  404?〜422〜424
 南朝宋の第二代君主。諱は義符。武帝の長子。膂力に秀でて騎射を善くし、音律も解したという。 即位後は徐羨之檀道済ら託孤の六傅に後見されたが、親政を志向した為に不行跡を理由に廃弑され、常陽王に貶された。

文帝  407〜424〜453
 南朝宋の第三代君主、太祖。諱は義隆。武帝の第3子。少帝の実弟。少帝を廃弑した徐羨之ら六傅に宜都王から迎立された。 六傅を粛清した後は王華王曇首殷景仁ら文人貴族を挙用し、又た従来の経学偏重の官学制を改めて儒・玄・史・文の四学館を建てて学術を奨励し、442年には国子学を復興させた。 当時、北魏は華北統一と塞外対策を急務とし、宋も林邑などの南方経略と国内安定を優先させた事から河南・淮北の四鎮を争った後は大規模な会戦はなく、約20年間に江南の開発が飛躍的に進展した。
 政情の安定から文芸・仏教も盛行し、元嘉暦を作成した何承天や文人貴族の謝霊運、黒衣宰相と称された僧慧琳などを輩出して“元嘉の治”と称される盛世を実現した。 南朝仏教は既に貴族社会との癒着が著しく、435年には僧尼の綱紀粛正が図られ、同時に寺院建立にも公許が必要とされた。
 450年の“瓜歩の難”に象徴される北伐の失敗は、淮南の喪失のみならず国子学の廃止など国力に甚大な影響を及ぼし、文帝自身もまもなく巫蠱の再審を懼れる太子に弑された。
  
瓜歩の難(450):華北統一と漠北経略を成功させた北魏による、宋軍の大破と長江臨江。
 431年以来沈静化していた宋魏の対立は、両者の体制整備が一段落したことで再燃し、宋が蓋呉を冊封したことで先鋭化した。 450年に北魏が淮北を劫略した事で宋でも北伐論が昂揚し、帝意に承旨した王玄謨袁淑ら貴族系官僚が沈慶之柳元景ら軍人の強い反対を排して決行した。
 河南経略を成功させた宋に対し、北魏は冬に百万と号する大軍を南下させて各地で宋軍を大破し、建康対岸の瓜歩(南京市六合区)に達して宋廷を震撼させ、関中経略を優位に進めていた柳元景にも撤退を余儀なくさせた。 この敗戦で宋は淮北を失って国力を大いに損い、北魏に徹底的に劫掠された淮南の維持も困難となった。

王華 385〜427
 琅邪臨沂の人。字は子陵。太保王弘の庶弟。晋の司徒王cの子。 晋末に劉裕の幕僚となり、禅譲後は宜都王(文帝)に従って江陵に駐し、即位の勧進に応じることを強く勧めて文帝の即位を実現させた。 文帝の即位とともに侍中・右衛将軍とされ、託孤が粛清された後は腹臣として執政した。

檀道済  〜436
 高平金郷(山東省)の人。桓玄討伐で劉裕に認められ、王鎮悪の先鋒として洛陽・長安攻略を成功させて征虜将軍・琅邪内史とされ、劉裕が即位すると護軍・散騎常侍・永脩県公が加えられた。 託孤六傅にも連なって424年の少帝廃立にも加わり、謝晦を平定すると征南大将軍・江州刺史に進み、431年の北伐では総督征討諸軍事とされて歴城(済南市区)まで不敗で進み、兵糧不足による滑台(河南省滑県)からの撤退では帰師を全うして司空・永脩郡公に進められた。 “宋の長城”を自認する矜持からしばしば文帝と衝突し、文帝病臥の際に後難を猜疑されて部将もろとも族滅された。 後に文帝は瓜歩の難に際し、檀道済の不在をおおいに悔やんだと伝えられる。
南朝屈指の名将として長らく認識されていたようで、『南宋書』では諸葛亮と檀道済を以て岳飛を形容しています。又た滑台からの撤退の判断は、南斉の王敬則から「檀公三十六策、走是上計」と絶賛され、明末清初に編纂された『兵法三十六計』でも「走為上」として敗戦計に数えられていますが、檀道済の三十六計については不明です。

蕭思話  406〜455
 南蘭陵の人。劉裕の父の後妻/孝懿蕭皇后の甥。騎射を能くし、隷書に巧みで弾琴にも長じた。 羽林監・青州刺史を歴任し、檀道済の北伐の失敗で棄城したが、433年に梁南秦二州刺史とされると仇池の楊難当を伐って梁州を回復し、後に雍州刺史・吏部尚書を歴任した。 文帝が弑されると武陵王(孝武帝)の挙兵に応じて中書令・丹陽尹・江州刺史に叙され、都督・郢州刺史に至った。

謝霊運  385〜433
 陳郡陽夏の名族。字は不伝。“謝康楽”とも。晋の車騎将軍謝玄の孫。 秘書郎で早世した父の謝瑍は不慧として有名で、そのため殊に謝玄・謝混から絶賛された。 康楽公を襲いで琅邪王劉毅の幕僚となり、劉毅の敗死後は劉裕に従ったが、不倫として尚書僕射王弘に罷免された後、禅譲後に貶侯削封された。
 褊激な性格と放恣な言行もあって昇任が滞り、廬陵王と親交して執政の徐羨之らを批判し、423年の永嘉太守転出を機に下野して会稽の山水に遊び、作詩が都に伝わると上下挙って筆写したという。 徐羨之らが誅されると秘書監に就き、文帝から詩・書の“二宝”と絶賛されて『晋書』編纂にも着手したが、文士としての待遇と官品ともに劣る王曇首らの秉政を不満として出仕を怠り、文帝の諷誡で休職した後に弾劾で罷免された。
 会稽では野盗と見紛う豪遊や山沢開発で太守のと鋭く対立し、叛意を誣告されると文帝の配慮で臨川内史とされたが、再び豪遊を弾劾されると家人を挙げて抵抗して収捕された。 厳罰を主張する彭城王に対し、文帝の意向で広州流謫とされたが、護送中に脱走を謀って処刑された。
 六朝のみならず中国を代表する大詩人に数えられ、博学で三教に通じて書画にも長けたが、強い矜持から他者との衝突が絶えなかった。 山水詩の確立者として著名でありながら隠士の風はなく、奔放豪奢の風は“康楽風”と称されて世人に模倣された。 『詩品』では上品に位し、後世への影響力や知名度は六朝詩人の三傑に数えられる。

顔延之  384〜456
 琅邪臨沂の人。字は延年。東晋の光禄勲顔含の曾孫。 はじめ無頼奔放で、長じて精学して謝晦傅亮に認められて学館の上席を許されたが、傅亮と文名を争い、廬陵王との親交を以て始安太守に出されると自身を屈原に擬え、謝晦や殷景仁らに同情された。 陶潜と連飲したのはこの赴任の途上で、2万銭を贈られた陶潜は悉く酒代に充てたという。
 同県の王球には私淑したが、褊激な性格と酒乱から軋轢が絶えず、傅亮らが誅された後も劉湛殷景仁慧琳らの重用を批判して罷叙が続き、九卿を歴任しながらも閣僚には進めなかった。 致仕の直後に太子の大逆に遭い、子の顔竣武陵王の謀首であることを詰問されると「老父すら顧みず、まして陛下をや」と応じて赦され、孝武帝からは金紫光禄大夫とされた。 致仕後も陋居を替えずに顔竣の面会も稀にしか認めず、顔竣の驕慢を危惧しつつ歿した。
 元嘉三大詩人として謝霊運鮑照と並称され、精緻な詩風は潘陸の再来とすら謳われ、『詩品』では中品に位して「情瑜深淵、一字一句にも意を致す」と評された一方で典故や対句の多用が批判され、技巧偏重の詩風から後世の評価は低く、寧ろ文章が高く評価されている。 高名な宮廷詩人の常として速筆で、遅筆の謝霊運との比較は生前から行なわれ、「謝は蓮華の水中より起る如し、顔は錦を敷き繍を連ぬ」との評を終生気に病んだという。又た家訓書『庭誥』では、自身の言動を悪行と認識しながらも抑制できなかった事を述べている。

劉義慶  403〜444
 南朝宋の臨川王。武帝の弟/長沙王道憐の子。 420年に叔父の臨川王位を襲ぎ、侍中・尚書僕射・荊州刺史・江州刺史・南兗州刺史などを歴任した。 文学を愛好して袁淑鮑照ら多数の文士を召集し、『世説新語』などを著した。

何承天  370〜447
 東海郯の人。儒学と史学、特に礼・暦に通じ、宋朝樹立に際しては尚書祀部郎として朝儀を撰し、439年に著作郎とされて史学館を主宰する一方で国史撰述を管掌し、後に国子博士・御史中丞などを歴任して元嘉暦・元嘉律を考定した。 慧琳の“白黒(均善)論”に共鳴して“達性論”を著し、奉仏家の宗炳・顔延之と論争した。

袁淑  408〜453
 陳郡陽夏の著姓。字は陽源。太尉袁湛の甥。夙に姑夫(父の姉妹の夫)の王弘に賞賛されて彭城王の司徒祭酒とされたが、従母兄の劉湛の謀議に加わらなかったことで罷免され、程なく臨川王の薦挙で中書侍郎・太子中庶子・尚書吏部郎などを歴任した。 壮言を好み、王玄謨とともに文帝に北伐を強く勧め、瓜歩の難でも突攻による劣勢打開を主張した。 元嘉の末には太子左衛率に進み、太子劭の大逆を諫めて殺され、後に侍中・太尉を追贈された。
 諧謔に富む詩を得意として建安詩風への回帰を志向し、『詩品』では中品に位し、元嘉三大詩人(謝霊運顔延之鮑照)には数えられないが、詩文の才は「当時に冠絶す」と評された。

裴松之  372〜451
 河東聞喜(山西省)の人。字は世期。晋では尚書祀部郎まで進み、宋で国子博士・中書侍郎・永嘉太守などを歴任した。 429年に勅命で『三国志』に注を加えたが、本文との整合性は重視せず、又た出典を明記した為に副次史料の存在や輿論の変遷を知る上でも『三国志』の価値を高めた。他に『晋紀』を著したが、これは散佚した。

劉義康  409〜451
 南朝宋の彭城王。武帝の第4子。文帝の異母弟。420年に彭城王とされた。実務に長け、元服後は文帝の下で司徒・侍中・録尚書事に至って王弘とともに輔政したが、王弘が病弱だった事もあって大権が集中し、寒士を積極的に挙任して文帝の側近と対立した為、劉湛の処刑と併せて都督江州諸軍事・江州刺史に遷された。 445年に謀大逆として王籍を剥奪され、以後も擁立の動きが絶えなかったため自殺を命じられた。

范曄  398〜446
 南陽順陽の人。字は蔚宗。光禄大夫范泰の子。家学を修めて経と史に通じ、文章・音律にも長じて琵琶に巧みだったが、洒脱を好んで奇行が多く、432年に彭城王の母の通夜で宴飲して宣城太守に出され、『後漢書』を撰述した。 後に左衛将軍・太子・事に進み、江州で彭城王の謀逆に参与し、文帝の甥/丹陽尹徐湛之の密告で族滅された。
彭城王の好感度が低い筈の范曄は、首謀者の孔煕先にも銜意があったそうですから、范家の名勢や范曄の能力を考えると、結託するメリットはどちらサイドにもあまり感じられません。 范曄は軽佻な性格ですから、政治的な判断をせずに何度か“お呼ばれ”に顔を出していたら、いつの間にか仲間扱いされていたという可能性もあり得ます。 少なくとも、経学者のくせに主筋の母親の通夜でドンチャン騒ぎするようなヤツに、まともな神経をしていれば謀議は打明けません。

王玄謨  388〜468
 太原祁県の人。字は彦徳。東漢の右扶風王宏の裔。 夙に名士の間で盛名が高く、劉裕の徐州従事史で起家して元嘉年間には汝陰太守に進んだ。 しばしば北伐を主張し、450年に先鋒となって自ら滑台を攻略したが、大敗して瓜歩の難を招き、沈慶之の擁護で減死に処された。
 以後も要路を歴任し、孝武帝の時に柳元景と与に南郡王を平定して輔国将軍・豫州刺史に叙され、後に金紫光禄大夫・祠部尚書とされた。 統制の厳酷な事でも知られ、雍州都督の時に境内で土断を強行すると怨嗟が昂じて造叛を疑われたこともあり、前廃帝にも厳直を忌まれて青冀二州刺史に出された。 明帝が即位すると叛鎮を伐って車騎将軍・江州刺史に直され、左光禄大夫・南豫州都督に至った。

劉劭  〜453
 字は休連。宋文帝の嫡長子。袁后の子。『宋書』では“元凶”と記される。 6歳で太子とされ、軍事に長じた事から太子府の増兵が為された。 姉の東陽公主の婢/王鸚鵡を介して巫覡の厳道育や次弟の劉濬と通じ、しばしば文帝に巫蠱を行なって一度は赦されたが、厳道育の隠匿が発覚して廃黜の議が生じると府兵を煽動して文帝や袁淑徐湛之らを殺した。 3ヶ月で武陵王(孝武帝)に応じた江夏王に討滅された。

劉濬  〜453 ▲
 南朝宋の始興王。字は休明。文帝と寵妃潘淑妃の子。資性端妍・博学多芸で、母妃の故に文帝に鍾愛され、名流との親交も広かったが、軽佻で揶揄を好み、袁淑との皮肉の応酬が伝えられている。 潘淑妃の寵幸で袁后が憂死した経緯から太子劭に阿諛して腹心となり、大逆に与して孝武帝に誅された。

孝武帝  430〜453〜464
 南朝宋の第四代君主、世祖。諱は駿、字は休龍。文帝の第3子。435年に武陵王とされた。 文帝が弑されると南譙王義宣随王誕・雍州刺史臧質らと挙兵し、劉劭を討滅して即位した。
 「機警勇決、博学能文。容儀粛然として威厳篤」かった反面、奢侈を好んで土木を盛んに興し、劉宋衰微の端緒と評されることも多い。 揚州の分割や地方官の任期の3年への短縮、寒士の積極挙用など中央集権化と貴族勢力の削減を図ったが、徴税権の中央回収と増税は南朝地方行政の宿痾と評される台使を生み出した。 反門閥的政策と朝臣を愚弄する悪癖などから貴族層の評判は悪く、南北朝史の多くが貴族によって書かれた点には注意を要する。

顔竣  〜459
 琅邪臨沂の人。字は士遜。顔延之の長子。 劉劭討伐の前後には病身の劉駿の軍務を代行し、孝武帝の下で侍中・散騎常侍とされて枢機に参与したが、次第に驕慢となって疎まれた。 457年に東揚州刺史に出されるとしばしば時局を誹謗し、王僧達の告発で罷免された後に竟陵王との通謀を理由に戮された。

謝荘  421〜466
 陳郡陽夏の人。字は希逸。太常謝密の子。才姿を以て文帝から“藍田の玉”に譬えられ、袁淑から「江右に我なくば卿のみ。卿なくば我のみ」と絶賛され、北朝でも王微と並称された。
 弑逆した太子劭に司徒左長史とされたものの密かに武陵王の為に城内に檄を流布し、戦後は吏部尚書・都官尚書を歴任した。 前廃帝に金紫光禄大夫を加えられたが、帝母の殷貴妃を漢昭帝の生母趙氏に譬えたことにより、帝を戻太子に擬したとして投獄され、明帝の簒奪で出獄して中書令に進められたものの生来の病身を獄中で損なって歿した。
 文学者として袁淑范曄と並称され、『左伝』の経と伝を分って国別に篇を分け、また作成した中国最古の木刻地形図“木方丈図”は州郡に分割可能だったという。 詩は典故を多用して小賦を能くしたことで顔延之と並称され、王融からは韻律の先駆者と讃えられた。

鮑照  414?〜466
 東海郡の人。字は明遠。文名を以て武陵王ら好学の王に仕えて太学博士・中書舎人などを歴任し、袁淑何長瑜らと交流した。 矜持が強く、若年で謝霊運顔延之の詩を批評したと伝えられるが、孝武帝の下では書法第一と謳われた王僧虔と同じく、帝の矜持を察して力を尽くさずに“尽才”と称された。 寒門故に官途は不遇で、荊州の臨海王子頊の参軍のときに王の挙兵で戦死し、“鮑参軍”とも呼ばれる。
 楽府に長じ、時流に反して悲苦を詠った抒情詩・情景詩が多かったにも関わらず『詩品』で中品とされたことは、六朝詩の評書にあっては奇異とされる。 謝霊運・顔延之と並ぶ元嘉三大家に数えられ、その詩風は唐詩に大きく影響を与え、杜甫が李白を絶賛するのに「俊逸なり鮑参軍」と喩えている。 現存する詩241首は六朝詩人では屈指の量で、全作は500首を超えると推定されている。

劉義宣  415?〜454
 南朝宋の南郡王。武帝の第6子。はじめ竟陵王に封じられ、後に南譙王に転じ、444年に荊州刺史とされて江陵に鎮した。 孝武帝の挙兵に従って劉劭を誅し、丞相・揚州刺史を拒んで湘州刺史を加えられ、南郡王に改封された。 翌春に江州刺史臧質・豫州刺史魯爽・兗州刺史徐遺宝らと挙兵したが、夏に江陵で敗死した。

臧質  〜454 ▲
 東莞莒の人。字は含文。光禄勲臧熹の子。夙に鷹犬と兵事を好み、後に文史を渉猟して世に認められた。 江夏王に挙用されて文帝にも将幹を讃えられ、都督徐兗二州刺史に進んだ後に范曄との親交から左遷されたが、南譙王の司馬に転じた直後に北魏の南征に直面し、盱眙から太武帝を撃退して寧蛮校尉・雍州刺史・監四州諸軍事とされた。
 文帝が弑されると江陵の南譙王の許に馳せ、劉劭誅殺の功で車騎将軍を加えられて都督江州諸軍事に転じ、孝武帝への憾意を漏らす王を説いて蜂起を決意させたが、豫州刺史魯爽の違期で大敗して尋陽に逃れて殺された。
劉劭討伐で江州に馳参した際には大事を勧めていたと伝えられます。 劉劭平定後の異動は昇格にあたりますが、政敵ともいうべき柳元景が雍州刺史の後任ですから、陰謀の捏造やら証拠の発見やらを危惧しなければならず、臧質としてはさぞ強迫観念を煽られたことでしょう。
 少し脱線しますが、南朝の雍州刺史は、そもそもは荊州に僑立された名目刺史です。 ですから、常に「荊州刺史に圧迫されている」という発想があって、このストレスで死んだっぽい刺史もいます。 ところが、449年に劉誕を雍州刺史とした事を機に、荊州の北部が雍州として分離されます。 襄陽の雍州刺史と、江陵の荊州刺史という図です。
 任期中の荊州分割が、劉義宣にとっては最大の痛恨事だったかもしれません。 劉劭の平定後に揚州刺史への栄転を拒んだのも、意外と荊州分割に対する駄々だったのかも(笑)。 で、劉誕の後任が臧質です。雍州が実土化しなければ、ひょっとしたら南郡王らの造叛は、別の経過と結果を示していたかもしれません。

劉義恭  413〜465
 南朝宋の江夏王。武帝の第5子。幼時より聡明で容姿も秀で、武帝に愛された。 424年に江夏王とされ、徐州・荊州・南兗州などの刺史を歴任し、450年には司徒・録尚書事に転じて輔政に列した。 謙恭に徹して孝武帝にも信任され、託孤の筆頭として中書監・太宰・太尉に進んだが、尚書令柳元景との謀叛が露見して前廃帝に殺された。 前廃帝の即位直後から元嘉への回帰を推進し、蔡興宗に批判された。

柳元景  406〜465 ▲
 河東解の人。字は孝仁。襄陽に遷移した武門で、歴世で太守を輩出した。弓馬に熟達して夙に荊州刺史謝晦に認められ、江夏王義恭に挙用されて文帝にも称揚され、武威将軍・随郡太守に進んで武陵王駿(孝武帝)の雍州鎮定にも従った。 449年より雍州刺史となった随郡王誕に属し、450年の北伐では雍州兵を統帥して関中を席捲し、452年にも司州刺史魯爽の虎牢攻略に従い、威名は北魏にも達した。
 劉劭討伐での先鋒の功で領軍将軍・都督雍梁南北秦四州竟陵随二郡諸軍事・雍州刺史に叙されて巴東郡公に封じられ、南郡王の平定にも功があり、後に驃騎大将軍・南兗州刺史に進んだ。
 孝武帝の託孤に連なって尚書令・領丹陽尹を加えられたが、前廃帝の暴虐を忌憂して顔師伯らと江夏王擁立を謀り、露見して族滅された。明帝より太尉を追贈された。

沈慶之  386〜465
 呉興武康(浙江省徳清)の人。字は弘先。 呉興沈氏は夙に“江左の豪門”と称されたが、家格は陽羨周氏と同じく呉姓の次席とされた。 夙に豪勇を讃えられ、元嘉年間に雍州刺史劉道彦の死に伴う雍州の紛乱を鎮定し、450年の北伐を無謀の暴挙として強諫しながらも、王玄謨の誅殺には強く反対した。
 孝武帝の劉劭平定に従って鎮軍将軍・南兗州刺史とされ、455年に老齢を理由に致仕したものの南郡王竟陵王平定に起用されて司空に至り、託孤に連なって江夏王平定にも従ったが、前廃帝に猜忌されて賜死された。 家財は千万金を積み、奴僕は千を数えたという。

薛安都  410〜469
 河東汾陰の強姓。字は休達。弓馬に長じて夙に勇略を知られ、444年に太武帝の柔然遠征に乗じて東雍州刺史沮渠秉と謀逆したが、露見して南宋に投じた。 主に柳元景の軍事に従い、454年に魯爽を平定して輔国将軍・竟陵内史・太子左衛率を加えられ、かねて“万人敵”と謳われていた魯爽を単騎で討取ったことは「顔良を斬った関羽以上」と讃えられた。 兗州・徐州の督諸軍事・刺史を歴任して平北将軍に進み、前廃帝に叛いた晋安王子に応じ、晋安王が平定されると青州刺史沈文秀・冀州刺史崔道固らと州を挙げて北魏に帰順した。北魏では徐州刺史・河東公とされた。
薛安都が南朝に亡命した経緯については、『魏書』・『北史』に準拠しました。 『宋書』では蓋呉の乱に薛永宗と与に呼応して弘農を制圧し、汾曲の永宗が討滅されて亡命した事になっています。 『宋書』は『魏書』より成立が若干早目で北朝の事情に配慮する必要がない半面、河東に対しては異国の立場なので、どちらが事実か定めることは難しそうです。 ただ『魏書』系に則ると、河東薛氏は444年に薛謹と薛安都が揃って不祥事を起した事になるので、より薛永宗の切羽詰まり具合が深刻にはなります。

求那跋陀羅  394〜468
 中インドの人。バラモン出身で諸学に通じたが、後に大乗に帰依して出家し、435年に広州に渡航して雲峯寺に住持した。 文帝の招請で建康に入って祇園寺などの住持を歴し、華厳経を講じて門徒は700人に及び、諸僧・諸王にも帰依された。 多数の経典を漢訳し、北宗禅の第一祖とされる。

前廃帝  449〜464〜465
 南朝宋の第五代君主。諱は子業。孝武帝の長子。即位まもなくに劉義恭ら託孤の遺臣の謀叛に直面し、これより淫虐遊興に耽って政事を顧みなくなった。 晋安王に自殺を命じたことで王の叛乱を招き、討伐の準備中に湘東王ケ(明帝)を擁する禁兵に殺された。

劉子  456〜466
 南朝宋の晋安王。字は孝徳。前廃帝の弟。461年に晋安王とされ、464年より都督・江州刺史とされて潯陽に鎮した。 眼疾のために孝武帝には愛されなかったものの夙に声望があり、新帝排除の謀議で盟主に擬された事で自殺を命じられると鎮軍長史ケ琬の勧めで挙兵し、雍州刺史袁と合して郢州刺史の安陸王・会稽太守の尋陽王・荊州刺史の臨海王らが呼応した。 翌年に称帝すると徐州刺史薛安都の他に豫州・湘州・広州・益州・梁州などが呼応して明帝を大きく凌ぐ勢力があったが、一戦で沈攸之に大敗して平定された。

明帝  439〜465〜472
 南朝宋の第六代君主、太宗。諱はケ。文帝の第11子。孝武帝の弟。 はじめ淮陽王、ついで湘東王に封じられ、孝武帝の即位後に累遷して鎮軍将軍・雍州刺史に進んだ。 京師では前廃帝に虐待され、晋安王の乱に乗じて廃弑して即位し、晋安王の平定には成功したものの徐州刺史薛安都の更迭を図ったことで離叛されて淮北を失った。
 孝武帝の政策を継承して謀首の阮佃夫ら寒士・恩倖を重用し、名流の首領と目された王ケすら些事にも明帝の指示を仰いで嫌疑を避けたという。 帝位保持のために実弟3人を含む血族28人を殺して孝武帝の裔を鏖殺し、忌字忌言を理由に朝臣を処刑するなど迷信を篤信して呪術の一環として仏教を信仰した。 又た北魏の南辺から支援を求められると巨細なく出兵して国庫を枯渇させ、宋朝没落の原因をなした。

阮佃夫  427〜477
 会稽諸曁(浙江省紹興市)の人。 寒門の出で、卑官を歴任したのち前廃帝のときに湘東王ケ(明帝)に見出され、まもなく世子の傅役とされた。 明帝に簒奪を勧めて顕官を歴任し、信任を恃んで専横のことが多く、収賄によって諸王と贅を競った。 後廃帝のときには南豫州刺史・歴城太守などを務めたが、後廃帝と併せて殺された。

陸探微
 呉郡の寒士。人物画を得意として明帝に仕え、鳥虫画を描くこともあった。 晋の顧ト之、梁の張僧繇とは“六朝三大家”と称され、「張はその肉を得、陸はその骨を得、顧はその神を得た」と評された。草書の様式が完成した時流に乗じ、鋭利な線描による一筆画を行なったとも伝えられる。 謝赫の『古画品録』では「上上品の上、他に寄言なし」として第一品(陸探微・曹不興・衛協・張墨・荀勗)の筆頭に置かれ、張彦遠の『歴代名画記』でも「画の六法全部を備えた稀材」と師の衛協とともに絶賛された。

後廃帝  463〜472〜477
 南朝宋の第七代君主。諱はc。明帝の長子。蒼梧王。 即位直後に一族の造叛を警戒して明帝の弟ら諸王十数人を刑戮し、474年に叔父の桂陽王休範の乱を招いた。 乱が蕭道成によって鎮圧された後も刑罰の濫用や宮外での游行乱暴が修まらず、蕭道成処刑を謀って廃弑され、蒼梧王に貶された。

順帝  469〜477〜479
 南朝宋の第八代君主。諱は準。明帝の第3子。沈約の『宋書』后妃伝では、桂陽王休範の子とある。 はじめ安成王に封じられ、兄の後廃帝が即位すると揚州刺史とされた。 後廃帝を殺した蕭道成に立てられた傀儡君主で、蕭道成に譲位した後に族滅された。

袁粲  420〜477
 陳郡陽夏(河南省太康)の人。字は景倩。袁淑の甥。揚州従事で起家して明帝の末には尚書令・領丹陽尹まで進み、託孤にも連なって後廃帝より吏部尚書・侍中とされ、母の喪中に桂陽王の挙兵に遭うと出仕して動揺する諸軍を叱咤した。 蕭道成の廃帝に反対した為に順帝が即位すると中書監に転じて石頭に遷され、荊州刺史沈攸之の挙兵に乗じて蕭道成誅殺を謀ったが、褚淵の内通で露見して処刑された。

沈攸之  〜478
 呉興武康の人。字は仲達。沈慶之の従兄の子。沈慶之の下で武勲を累ね、明帝と晋安王の衝突で南討軍の前鋒都督に抜擢され、晋安王を平定して監郢州諸軍事・前将軍・郢州刺史に進められた。 薛安都討伐には失敗したが、北魏撃退や内乱鎮圧で北辺の刺史を歴任して明帝の託孤にも連なり、明帝が歿して益州が乱れると使持節都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・鎮西将軍・荊州刺史とされた。
 江州刺史の桂陽王が叛くと郢州の晋煕王燮を援けて平定後に征西大将軍に進められ、順帝が即位すると車騎大将軍に進号されたが、蕭道成の専権を不服として挙兵し、郢州攻略に失敗した翌年に江陵で張敬児に敗死した。 剛勇かつ吏事に長じた反面で統制は刻暴かつ賦斂が厳しく、士大夫を鞭打つこともしばしばだったという。
荊州に隣接する郢州の実権は当初、晋煕王の長史の蕭賾(蕭道成の世子)にあり、8歳の武陵王が刺史とされると郢州司馬の柳世隆が長史とされました。 沈攸之が挙兵すると武陵王は荊州刺史に転じましたが、後任の黄回の赴任前に郢州が包囲された為、城内の柳世隆が蕭賾の来援を恃みに頑強に抗戦し、沈攸之の戦略を狂わせました。 黄回は沈攸之に呼応した袁粲に通じたものの、未然に防がれた事で不問とされました。

 
 

南斉

 479〜502
 寒門軍人の蕭道成が、宋の後廃帝を廃した後、順帝に禅譲させて樹立した。 三代目の前廃帝の治世より乱れ、前廃帝が廃弑されてより血縁に対する粛清が続き、一族を鏖殺した明帝や、常軌を逸した惨虐を行なった東昏侯は南朝暴君の典型とされる。 東昏侯の治世で急速に紊乱して各地で叛乱が頻発し、荊州で挙兵した宗族の蕭衍によって簒奪された。
高帝  武帝  明帝  東昏侯
 

蕭道成  427〜479〜482
 南斉の太祖、高帝。字は紹伯。南蘭陵(江蘇省常州市区)の寒門。漢の相国蕭何の裔を称した。446年に雍州刺史蕭思話の参軍となり、明帝の下で驍騎将軍・南兗州刺史・西陽県侯に進んで淮陰に鎮し、北魏を防ぎつつ軍閥化した。 474年に桂陽王を平定すると褚淵の推挙で中領軍となり、禁軍を掌握して朝廷を宰領するようになった。
 477年に後廃帝を弑して順帝を立てると侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍となり、荊州の沈攸之袁粲ら反対勢力を鎮圧粛清する一方で王倹ら貴族勢力と結び、479年に禅譲を実現させた。 即位の前後に多くの前朝皇族を殺したことは性急・残忍な革命として世人に誹られたが、450年以前の黄籍を白籍に再編し、武将の部曲募集を制限するなど社会体制の是正を意図した。

褚淵 435〜482
 河南陽翟の人。字は彦回。晋の太傅褚裒の裔。祖父の妹は晋恭帝の皇后となったが、その兄弟はいずれも武帝の奪権に尽力して重んじられた。
 褚淵は武帝の外孫にあたり、文帝の公主を娶って清官を歴任し、明帝の下で吏部尚書まで進んだ。 袁粲とともに託孤にも連なったものの後廃帝の暴虐に失望し、桂陽王を平定した蕭道成を中領軍に挙げて兵権を掌握させ、477年には蕭道成と結んで後廃帝を廃し、荊州刺史沈攸之が叛いた時も蕭道成に与して袁粲を平定した。 蕭道成の簒奪を扶けて司空・驃騎将軍・録尚書事に至り、王倹とともに斉の草創期を支えたが、家に余財は遺さなかった。

王僧虔  426〜485
 琅邪臨沂の人。宋では御史中丞・会稽太守まで進んだが、前廃帝に失望して下野した。明帝のときに湘州刺史・尚書令などを歴任し、朝儀の正典からの逸脱を改め、斉では侍中・特進・左光禄大夫とされた。文史・音律に通じ、隷書は当代の冠とも評され、古今の書家の優劣を詳論した。

武帝  440〜482〜493
 南斉の第二代君主、世祖。諱は賾。高帝の長子。草創期に歿した父業を継いで国力再建に腐心し、大規模かつ厳重な検地はしばしば民乱を招きながらも多大な成果を挙げ、南朝の名君に数えられる。 竟陵王の建議で台使を廃し、併せて戸籍を整理して士庶の別を厳格にしたが、その目的は孝武帝の売爵で濫造された免税階級の制限にあったとされる。 元嘉への回帰を標榜し、実際には寒士の挙任などによる貴族の抑制や中央集権・君主専制の強化を進めて一定の成果を挙げたが、台使に代って地方の諸王・大官を監察する典籤が抬頭・恣横となり、魏の使節からは「政令は苛砕にして賦役は繁重。朝廷に股肱の臣なし」と評された。

王倹  452〜489
 琅邪臨沂の人。字は仲宝。王僧綽の子。王曇首の孫。宋武帝の外孫。 叔父の王僧虔に養われて礼制に精通し、宋明帝に駙馬とされた。宋斉禅譲に参与して領選し、武帝の時に侍中・尚書令に進んで国子祭酒・太子少傅・中書監などを領し、自邸に学士館を開いて儒学を振興した。
 当時の実権は非清官の中書舎人にあったが、門地二品かつ元勲として権威は絶大で、中書四戸の筆頭の紀僧真侍中叙任が諮られた際には一言で断念させた。

蕭子良  460〜494
 南斉の竟陵王。字は雲英。武帝の第2子。 宋では会稽太守まで進み、斉が興ると丹陽尹・聞喜公とされ、武帝の即位で竟陵郡王に進められた。 宗室で最も声望があり、南徐州刺史・南兗州刺史を歴任して484年に護軍将軍・兼司徒に進められると懸案だった台使の廃止を成功させ、486年には車騎将軍に進号された。
 学問・文芸を愛好し、487年に正司徒に進められると共に西邸を開くと傘下には多数の文士が雲集し、その代表は“竟陵八友”と呼ばれ、声律などの研究によって“永明体”を領導し、後の“四声八病説”の成立にも絶大な影響を及ぼした。 敬虔な仏教徒でもあったが、沙門の斎戒を受けたことは宰相の儀礼に反すると厳しく批判された。
 武帝から西昌侯蕭鸞とともに後事を託されたが、王融に引責して朝政に携わらず、まもなく憂死した。

王融  467〜493 ▲
 琅邪臨沂の人。字は元長。王倹の甥。竟陵王の幕僚を歴任して竟陵八友にも連なり、祖父の王僧達以来の宿願の三公復帰を冀希してしばしば北伐を求め、時に「好功」・「躁競」と評された。 武帝が不予となると皇太孫昭業の参内を妨げて竟陵王即位の偽勅を草したが、西昌侯蕭鸞の介入で果たせず、このため蕭鸞と並んで託孤されていた竟陵王は引責し、王融は即位した昭業により獄中で賜死された。 「公(子良)、我を過てり」と歎じていたという。
 文辞に長けて天下第一の才人と自負したが、任ムの文章に接して茫然自失したという。 また西邸で盛んだった梵唄の影響もあって音律にも通じ、范曄謝荘を先達とし、親交のあった鍾エから「声律は王融を始とし、沈約謝朓により発展す」とされた。 五言詩は得意とせず、『詩品』では独創性より典故の多用に傾いたと批判された。
武帝が病臥した当時、隔日に参内する昭業に対し、宮中に宿営する竟陵王の即位は半ば既定視されていたようで、こうした輿論も王融の暴走を助長したようです。 『南史』梁本紀によれば、蕭衍は王融に非常の才がないことを以て竟陵王擁立に従わなかったそうです。

鬱林王  474?〜493〜494/494
 南斉の第三代君主。諱は昭業、字は元尚。武帝の嫡孫。文恵太子の長子。文恵太子の死後、武帝の継嗣として皇太孫に立てられた。 幼時から聡明で将来を嘱望されたが、性劣悪で遊興・残虐を楽しみ、一説では武帝の呪殺を祈願させ、武帝の死が伝わると妃と喜び合ってから参内したという。 竟陵王の死後まもなく、惨虐・荒淫を理由に群臣の請願で皇太后令によって廃され、西昌侯蕭鸞の命令で寝所で暗殺された。

海陵王  480〜494/494
 南斉の第四代君主。諱は昭文、字は季尚。鬱林王の次弟。 鬱林王の即位により新安王とされ、翌年に鬱林王が廃されると宣城郡公蕭鸞に迎立されたが、即位年の冬には廃弑された。

明帝  452〜494〜498
 南斉の第五代君主、高宗。諱は鸞、字は景栖。高帝の兄/始安貞王道生の子。文恵太子に忌避警戒されていたが、その死後に武帝によって皇太孫昭業の後見とされ、王融の謀叛を防いで昭業を即位させ、軍権を掌握した。 しばしば昭業を諫めたが、竟陵王の死後は暗君放逐の大義を唱えて昭業を廃弑し、その弟の昭文を立てて侍中・中書監・驃騎大将軍・開府儀同三司・録尚書事・揚州刺史・宣城郡公となり、一族の叛抗を悉く鎮圧した後に昭文を殺して即位した。
 休遊公田の売却や献貢の緩和など民生の安定につとめたが、典籤・主師などによる諸王督察など専制集権を進めたために名族の支持は得られなかった。 又た猜疑心が強く陰険残忍で、498年に病臥した後は高帝・武帝に連なる一族29人を悉く処刑・暗殺させたが、熱心な仏教帰依者でもあり、同族処刑に先んじては必ず涕泣したという。臨終に際して太子宝巻に、「躊躇の故に我に廃された鬱林王に倣う莫れ」と遺言したという。

江淹  444〜505
 済陽考城(河南省)の寒門。字は文通。貧窮の中でも好学静謐で、宋の新安王始安王建平王の幕僚を歴任し、建平王の謀逆への諫言が聴かれないと敢えて柳世隆と南東海太守位を争って呉興令に遷され、連坐を避けた。
 摂政となった蕭道成に用いられて孔稚珪と文書を分掌し、禅譲後は豫章王の幕僚のまま詔勅と国史を司り、蕭鸞からは監察の才を「近世独歩」と讃えられて顕官を歴任した。 崔慧景の乱では通誼を控えて先見を賞され、斉末に領軍将軍王瑩の副となって蕭衍に投じ、梁では散騎常侍・左衛将軍とされ、致仕後は金紫光禄大夫・醴陵侯とされた。
 夙に詩名が高く、政争とは無縁だった前半生が高潮期で、『詩品』では中品に位した。 職事の増加とともに佳作が激減したことから“尽才”と称され、夢に郭璞に彩筆を返し、或いは張協に錦を返したとの逸話も生まれた。 “尽才”は、一般には永明体への時流に適応することができなかった為とされるが、宋末から既に私的な著作は激減し、寒門が政界で高位を保つことに精力を傾注し、詩作の余暇がなかったと見る向きもある。

謝赫
 美人画家。作風は細密と評されたが、作品は現存しない。 『古画品録』の編纂によって著名で、記載される画評法は後世まで基準とされた。
 『古画品録』の中で“気韻生動・骨法用筆・応物象形・随類賦彩・経営位置・伝移模写”を画の六法とし、その筆頭とされた気韻生動が中国画の神髄とされるようになり、人物画が主流だった当時では、気韻生動は対象の神気を活写する事とされた。 気韻生動は後の文人画でも重視されたが、作者の先天的な主観精神を反映するものと理解された。

祖冲之  429〜500
 范陽逎県の人。字は文遠。数学・暦法・天文に明るく、実態からの乖離が顕著となっていた元嘉暦を改めて大明暦を作成し、一年を365.24281481日と算出してまた円周率を3.1415926から3.1415927の間と計算し、“祖率”と呼ばれた。宋では地方官を歴任した。 『述異記』の作者でもあり、曽祖父の祖台之も小説集『志怪』を著している。

蕭遙光  〜499
 南斉の始安王。字は元暉。高帝の孫でありながら明帝の腹心として同族虐殺の中心を担い、明帝崩御に際して撫軍大将軍・領揚州刺史とされ、徐孝嗣・蕭坦之・劉暄・江祏・江祀らとともに太子宝巻を託孤されて世に“六貴人”と称された。 硬骨の江兄弟は宝巻と対立して江夏王宝玄の擁立を図り、劉暄の反対で建安王宝寅が擬された後に蕭遙光の自薦が支持されたが、まもなく蕭遙光と対立した劉暄の密告で江兄弟が処刑され、挙兵した蕭遙光も領軍の蕭坦之に敗死した。

謝朓  464〜499
 陳郡陽夏の人。字は玄暈。呉興太守謝述の孫。文才に長けて豫章王随郡王の幕僚として貴重され、執政した蕭鸞の詔誥を司って宣城太守を経て中書郎に進んだ。 南徐州刺史のとき岳父王敬則の謀叛を告発して中央に転じたが、東昏侯のとき始安王らの告発を図って失敗し、却って始安王の党与として獄死した。
 五言詩を以て謝霊運とは“二謝”と称され、清澄流麗な文は沈約王融と並称され、草書・楷書にも巧みで“竟陵八友”に数えられた。 永明文学の旗手の1人でもあり、精緻と評される詩風は梁武帝や沈約からも絶賛されて一世を風靡し、『詩品』では中品に位し、後には李白の先蹤と讃えられた。 佳詩の多くが宣城時代のもので、謝朓を敬慕する李白がしばしば詩中で宣城にある“謝朓楼”と謝朓とを並詠したことから、“謝宣城”と呼ばれるようになった。

東昏侯  483〜498〜501
 南斉の第六代君主。諱は宝巻。明帝の第2子。 即位後まもなくに託孤の六貴人を殺して恩倖を重用し、朝野で享楽的に虐殺・略奪を行なった。 無原則な刑罰の濫用は豫州刺史裴叔業の離叛を惹起して東方最大の北防の要衝である寿春を失い、以後も陳顕達崔慧景らの叛乱が続き、平定に大功のあった豫州刺史蕭懿を殺したためにその弟の蕭衍の挙兵を招き、これに呼応した王珍国ら禁兵によって建康城内で殺された。
 父帝の柩を宮中に安置することを嫌い、哭礼に参内した太中大夫の羊闡の冠が外れると“禿鵜”と嘲笑し、また城中を騎馬で疾駆して民衆を轢殺し、妊婦の腹を裂いて胎児を殺すなど、南朝に典型的な暴君とされる。

陳顕達  428〜499
 南彭城の人。蕭道成の桂陽王平定に従って広州刺史とされ、斉では益州刺史・雍州刺史を歴任して能名があり、護軍将軍・鎮西将軍・車騎大将軍と進み、明帝が即位すると太尉に至って鄱陽郡公に進封された。 北魏の沔北侵攻の報復として翌年(498)に行なった北伐では、馬圏城の争奪で中山王を撃退したものの孝文帝の親征で大敗し、江州刺史に遷された。 かねて東昏侯の暴虐を忌んでいた事もあり、宿臣の粛清に抗って尋陽で挙兵し、石頭城を抜いて建康を震撼させたが、程なく敗死した。

裴叔業  〜500
 河東聞喜の人。晋の冀州刺史裴徽の裔。祖父の代に襄陽に遷った。 夙に将略を自負し、宋末より蕭道成に従って諸官を歴任し、蕭鸞に腹心として信任された。 495年に鍾離(安徽省鳳台)で魏軍を撃退すると督徐州軍事・徐州刺史に叙され、陳顕達の北伐では渦陽で魏軍を大破して義陽を救援したが、王粛楊大眼らに敗退した。 東昏侯が即位すると南兗州刺史とされ、宿臣の刑戮と陳顕達の挙兵で朝廷に絶望して500年に州を挙げて魏に投じ、征南将軍・豫州刺史に叙されたものの璽書の到る前に寿春で病死した。

崔慧景  438〜500
 清河東武城の人。字は君山。宋で挙用され、斉では梁南秦二州刺史・司州刺史・豫州刺史などを歴任してしばしば北魏を撃退し、東昏侯の即位で護軍将軍とされ、陳顕達の北伐ではケ州まで進んだ。
 陳顕達が叛くと平南将軍を加えられて征討軍を督したが、徐州刺史裴叔業が叛いて平西将軍・招討都督されると広陵に達して東昏侯の暴虐を指弾して叛し、京口の江夏王宝玄を擁立した。 建康に達すると直ちに外城を陥し、城内の官人の殆どが挙って名刺を投じて帰順の意を示したが、まもなく来討した豫州刺史蕭懿に敗死した。戦後、東昏侯は「江夏すら斯くの若し」と嘆じ、名刺を投じた件を不問とした。

和帝  488〜501〜502
 南斉の第七代君主。諱は宝融、字は智昭。東昏侯の弟。明帝の第8子。 494年に随郡王とされ、東昏侯即位の翌年に南康王に改封されて西中郎将・持節都督荊雍益寧梁南北秦七州諸軍事・荊州刺史とされた。 東昏侯の暴政を指弾して500年に江陵で挙兵すると、前後して挙兵した雍州刺史蕭懿と合し、翌年の東昏侯の横死で建康に入城・即位したが、大司馬となった蕭衍の傀儡に過ぎなかった。翌年には蕭衍に禅譲して巴陵王とされ、まもなく諸弟と共に殺された。


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