南朝.2

  西梁  
 

 502〜557
 南斉の宗室の蕭衍が、東昏侯に対する造叛を成功させた後に自ら立てた和帝から簒奪したもの。 蕭衍による官制・貨幣制度の改正などで長らく安定を保ち、仏教・学問も大いに隆盛したが、貨幣経済の破綻や蕭衍自身の仏教狂信などから財政が悪化し、魏から来降した侯景の造叛によって支配体制が崩壊した。
 侯景の乱の後は諸王や在豪が軍閥化して割拠し、巴蜀は西魏に奪われ、江陵に拠って王朝を再興した元帝も雍州の岳陽王を支援する西魏に敗死し、南朝の貴族社会はほぼ壊滅した。 建康では敬帝を擁した陳覇先が北斉の介入を排除して王朝を保ったが、威令は江東と両広の一部にしか及ばず、まもなく陳覇先に簒奪された。
 

蕭衍  464〜502〜549
 梁の高祖、武帝。字は叔達。南蘭陵(江蘇省常州市区)の人。南斉の臨湘県侯蕭順之の子。 詩文や楽府に長じて三教にも通じ、書・楽・囲碁などの技芸にも秀で、王倹王融らに認められて竟陵八友にも連なった。 明帝の簒奪を扶けて寿春に鎮し、497年に沔北に侵攻した北魏軍を撃退した事で雍州刺史とされて襄陽に遷ったが、兄の蕭懿東昏侯に殺されると江陵の南康王を擁して挙兵し、翌年(501)の末には建康を制圧して中書監・都督揚南徐二州諸軍事・大司馬・録尚書事・驃騎大将軍・揚州刺史として全権を掌握した。 502年に相国・梁公、ついで梁王に進んで夏には和帝に禅譲させたが、和帝とその兄弟以外を殺さなかったことは南朝の革命では稀有の佳話と賞賛された。
 建国間もない505年に梁州を失ったものの、翌年の北伐では合肥を回復して洛陽に肉迫し、翌年にも鐘離で北魏軍を撃退するなど武威を示したが、以後は概ね内治に注力し、寒士の任用と貴族との協調で九品官人制の修正や鉄銭の流通を主体とした財務の改正、土断の実施などを行なって社会を安定させた。 経済の好況から文運も隆盛して“南朝の極盛”と謳われる盛時を現出し、又た仏教への信奉から数多の寺塔を建立して建康は“南朝四百八十寺”と称され、戒律を厳守や盛大な捨身から“皇帝大菩薩”とも呼ばれた。
 北伐を失敗させた臨川王を優遇するなど夙に賞罰の貴寛賎急があったが、捨身を始めた頃から恩倖を重用して諫言を嫌うなど綱紀を弛緩させ、貨幣政策の失敗と放縦の蔓延などから民生が悪化した後も捨身を続けて政情の悪化を助長した。 六鎮の乱に乗じて行なわれた北伐の多くも国策や主体性に欠けるもので、晩年は外交でも一貫性を欠き、547年に侯景の帰順を認めながらもまもなく東魏と和したことで侯景の乱を招いた。弊政に苦しむ城内外の下層民の呼応で建康が落城した後、幽閉2ヶ月で憂死した。

范雲  451〜503
 南陽順陽の人。字は彦龍。晋の平北将軍范汪の裔。 8歳で豫州刺史殷琰に認められて宋で出仕し、沈攸之の乱の翌年に会稽太守となった竟陵王に迎えられて竟陵八友にも連なり、492年には遣魏使とされた。 内史を歴任して能名があったが、広州刺史の時に在豪との諍事に連坐して帰京し、東昏侯が殺されると蕭衍への使者となって大司馬参軍とされた。禅譲で右僕射・太子中庶子・霄城県侯とされ、宰相として武帝に篤く信頼されたが、背勅の人事を行なって領選は免じられた。
 実務に練達して裁察は神の如しと称され、厳格で権威に阿らなかったが、威厳に欠けることと感情を露呈しやすいことで譏議されることもあった。 文事・政事とも沈約と並称されることが多く、殊に文章に長じて起草には草稿を必要とせず、詩も『詩品』で中品に位して「清敏宛転、流風の雪を廻らす如し」と評された。
諡号は礼官が示した“宣”に対し、武帝から“文”と定められました。 『通志』諡略では文・宣はどちらも上諡ですが、文は第四等、宣は第十五等で、この処置は双璧と謳われた沈約とは好対照です。

沈約  441〜513
 呉興武康の人。字は休文。淮南太守沈璞の子。貧苦しつつ精学して文才を蔡興宗に認められ、利欲には恬淡ながらも名声を求めて争論を好んだことから世に山濤に喩えられた。 斉では文恵太子竟陵王に厚遇されて著作郎・中書侍郎・司徒右長史などを歴任し、竟陵八友にも数えられて范雲蕭衍らと交わった。
 建康を制圧した蕭衍に招かれて文書を司掌し、古儀に通熟した事もあって禅譲後に左僕射・領軍将軍・侍中・建昌県侯とされて枢機に参与し、世に范雲とは双璧と謳われた。 武帝にも識見は敬重されたが相器に不足とされ、范雲の死後は尚書令に進んだものの徐勉周捨らと枢機を分掌した。
 左眼の重瞳を特徴とし、2万巻近い蔵書を有して西邸では永明体を領導し、詩は謝朓と“冠冕”、任ムとは“任筆沈詩”と称されて北朝文壇にも多大な影響を与え、文名も任ムに亜いだ。 又た西邸での王融謝朓らとの声律の研究の成果である“四声八病説(単漢字の声調の4分類と、作詩で回避すべき8種の作法)は近体詩への影響も多大で、「千古の詞人の悟らざるを一人妙旨を究む」と自賛したが、蕭衍や鍾エからの評価は低く、『詩品』でも中品に位したものの「謝朓未だ迫らず、江淹尽才し、范雲もとより微名にして独歩を評さる」とある。 史家でもあり、『宋書』を編纂したほか『晋書』『斉紀』を著した。
武帝に対して寵遇に狎れた無思慮な言動が散見され、栗の典拠を競って負けた際に「譲らざれば羞死せん」と余計な一言を呟いて、この時は徐勉が武帝を宥めて不問とされましたが、後に張稷の死を蔑して赫怒を招き、恐懼呆然として帝の退出も悟らなかったそうです。 この後に体調不良を和帝の呪祟と占判されると、祈祷して禅譲の勧進を謝罪したそうで、これが露見して譴責から懼死したといいます。
上位散官も晩年にようやく特進が認められただけで、諡号も礼官が示した上諡の“文”に対し、武帝は中諡の“隠”を採用しました。 失言癖と云うよりも、学究が間違って閣僚になってしまった感が漂っています。

任ム  460〜508
 楽安博昌(山東省博興)の人。字は彦昇。宋で劉秉王倹の丹陽府の幕僚を歴任して文才を絶賛され、斉では竟陵八友に連なったが、蕭鸞の鬱林王殺害を修飾しなかった事で明帝一代は疎んじられた。 蕭衍の開府後は沈約とともに文翰を宰領し、禅譲後は義興太守・秘書監・御史中丞などを歴任して劉峻到漑らと親交した。507年に寧朔将軍・新安太守に転じ、在任中に歿すると吏民からも大いに哀惜された。
 明帝の時代には既に文名が高く、特に表奏に秀で、“一代の詞宗”と謳われていた沈約にも絶賛されて世に“任筆沈詩”と称されたが、詩を文の上位とする当時においてこの評を不満とした。 『詩品』では中品とされながらも、王融と並んで典故多用の弊風を開いたと酷評されたが、同時期に北朝詩壇を二分していた魏収に敬慕され、「邢劭魏収の優劣は沈約と任ムとに如かず」とされた。
 清廉で蓄財には無頓着で、一族・知友に散財して裴楷に喩えられ、また挙材を好んで多くの賓客が集まったが、死後に遺族を援ける者がないことを劉峻に嘆かせた。 又た稀少本を含む万巻の蔵書は宮中蔵書の不足分に借取された。

何遜  467?〜518?
 東海郯の人。字は仲言。何承天の曾孫。 20歳で范雲に激賞されて忘年の交が結ばれ、天監年間に奉朝請で起家した。 范雲の死後は寒門の故に不遇で、建安王に厚遇されて武帝の宴席に侍った際に「呉均は不均、何遜は不遜」と不興を蒙って廬陵王の記室で終わった。
 文は劉冉、詩は陰鏗と並称され、叙情性に優れた自然描写は綺靡を競う斉梁詩では珍しく、謝朓と唐詩とをつなぐ存在とされる。

呉均  469〜520
 呉興故鄣の人。字は叔庠。貧寒の出で、詩と駢文を沈約に絶賛されて柳ツ建安王の府で文章を掌り、後に奉朝請に進んだが、かつて上呈した『斉春秋』で、武帝が蕭鸞の簒奪を援けたことを隠さなかった事が指摘されて罷免された。
 鮑照同様に叙情詩を得意とし、古雅で軽艶な“呉均体”は一世を風靡したが、文学での立身を断念した後は史書著述に傾斜し、勅撰の『通史』の編纂中に歿した。

周捨  469〜524
 汝南安成の人。字は昇逸。斉で出仕して太学博士とされ、梁では昭明太子に親しんで東宮職・尚書官を歴任し、范雲の死後は沈約徐勉らと枢機を分掌して太子・事に至った。 父の周顒とともに音律の理解に優れ、文恵太子の門に連なって声律のほか仏教の転読・梵唄にも秀で、沈約の“四声八病”にも大きく影響を与えた。 “四声八病”に否定的な武帝に四声の理を「天子聖哲(平上去入)」と説くと、「天子寿考(平上上上)は可ならんか」と難じられた。

蕭宏
 梁の臨川王。字は宣達。武帝の異母弟。武帝即位とともに臨川郡王とされた。 怯懦貪欲で知られ、505年の北伐では北討都督とされながら洛陽近郊に滞留して遊宴に耽り、奇襲を受けて棄兵遁還して北伐軍を壊滅させ、深甚な軍事的損失をもたらしたが、罪を問われないまま厚遇が続いた。 30間に達する庫屋には贈賄や横領などで得た財貨が満載され、銅銭だけでも3億万銭を数えたと伝えられる。
 晩年には武帝の娘の永興公主と密通して弑簒をも謀ったが、このときも不問とされた。臨川王の謀逆に対する措置は、後に武帝の治世が寛容から放縦へ転換した象徴的な事件とされるようになった。

韋叡  442〜520
 京兆杜陵の人。字は懐文。宋で仕官し、斉末には建威将軍・上庸太守に進み、蕭衍の挙兵に従って禅譲とともに輔国将軍・豫州刺史とされた。 505年の臨川王の北伐では別将となって南朝懸案の合肥攻略を成功させ、507年の鍾離城救援では統帥の曹景宗の副弐とされて魏軍を大破し、通直散騎常侍・右衛将軍を加えられて永昌侯に進封された。
 為人りは温和・清廉で、気象や地勢を利用した戦術に長じ、虚弱な体質から騎乗できずに輿に乗って如意で軍を指揮したが、北人からは“韋虎”と畏れられた。 509年にも中山王を撃退して邵陽を回復し、後に車騎将軍に進号された。

昌義之  〜523
 烏江の人。斉で仕官して兵略で知られ、雍州刺史となった蕭衍に信任された。 禅譲の翌年には仮節北徐州都督・輔国将軍とされて鐘離城(安徽省鳳台)に鎮し、505年の北伐では前軍を指揮し、戦後に再び鍾離城に鎮守した。 506年冬、魏軍80万に攻囲されると城兵3千を以て半年間の攻囲に耐え、曹景宗韋叡らの来援で救われて持節・督南兗兗徐青冀五州諸軍事・輔国将軍・南兗州刺史に直された。 一時は朝廷で衛将軍とされたが、後に都督北徐州淮諸軍事・平北将軍・北徐州刺史に転じて522年に護軍将軍を加えられた。
  
鍾離の役(506〜507):鐘離城(安徽省鳳台)での北魏と梁の戦。南朝は瓜歩の難で淮北を喪ってより淮南も蚕食され、梁が505年に興した北伐も歴朝懸案の合肥攻略には成功したが、主帥の臨川王の失策から洛陽近郊で惨敗した。
 北魏は報復に中山王元英を統帥として80万と号する南伐軍を起し、淮北を回復して冬には淮河に浮橋を架けて南岸の鍾離城を攻囲し、梁は平西将軍曹景宗を統帥とする20万の援軍を投入した。 梁軍は翌年の雨季に淮河の増水に乗じて艦船で浮橋を破壊すると共に火攻を用いて魏軍を大破・撃退し、北防の要衝である鍾離城を保持した。

陶弘景  452?〜536
 丹陽秣陵の人。字は通明、号は華陽隠居、諡は貞明。『神仙伝』に接してより道士を志し、蕭道成に仕えて斉で奉朝請に進んだものの492年に致仕し、江蘇の句曲山(茅山)に隠棲して茅山派道教を開いた。 梁の武帝の出仕要請には畢に応じなかったが、山中で諮問には応えたので“山中宰相”と称され、昭明太子をはじめ貴顕の多くに師事された。
 儒仏道の三教に通暁し、仏教の影響下に老子を神格化した『真誥』は当時の道教経典の代表とされた。 医薬にも詳しく、従来行われていた『神農本草経』に注を施して薬類を730種に倍加し、新案の分類法は現在も参考にされている。 又た書は鍾繇王羲之の書法に学んで後世への影響も大きく、北宋の黄庭堅にも師事された。
 尚お、陶弘景に至って確立した茅山派道教は葛洪の一派とは互いに強く影響し、ともに後世道教の主流となった。

蕭統  501〜531
 梁の昭明太子。字は徳施。武帝の嫡長子。禅譲で太子とされ、成人後は庶務を武帝とを分掌した。 博覧強記で儒・仏に通じ、公正・仁慈の君として将来を嘱望されたが、遊苑中に池に転落して罹病した後も武帝に配慮して執務を続けた為、翌月に病死した。 母の喪中、哀悼から衰弱して武帝に叱責される繊弱な一面があった。
 武帝の諸子中最も充実した文苑を擁して蔵書は3万点に近く、劉冉らと典籍を討論して『文選』を著した。 女色を好まなかったとも伝えられ、艶麗な詩文は「麗にして淫ならず」と評され、又た陶潜の詩を愛好して『陶淵明集』を編纂しながらも、『文選』には陶潜の詩を採録しなかった。
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 歓・・警・譼の5子はいずれも大郡に封じられ、諸娘も公主として遇されるなど遺族は殊遇されたが、諸子は太子を襲げなかった事を不満とし、後に湘東王(元帝)と対立した。

徐勉  466〜535
 東海郯の人。字は修仁。礼制に明るく、夙に王倹に宰輔の器と評され、斉では領軍長史に進んだ。 梁になって吏部を領し、508年に九品官人法を改正して十八班を定め、ついで東宮職を兼ねて昭明太子にも厚遇されて太子・事に累進し、釈奠の儀にも関わった。 後に尚書僕射に中書令を領して特進・右光禄大夫・中衛将軍を加えられたが、清貧を楽しんで蓄財をしなかった。
釈奠の儀は元は神の祭祀の1つだったものが、やがて学師孔子を祭る儀礼となり、晋武帝のときより太子が経伝を講じた後に行ない、太子成人の儀の一環とされるようになったものです。

張僧繇
 呉の人。武帝に仕えて右軍将軍・呉興太守まで進んだ。仏画・人物画を得意とし、勅命などで仏寺の壁画を多数描画し、人物画では晋の顧ト之・宋の陸探微と並ぶ“三大家”と呼ばれた。

劉冉  481〜539
 彭城安上里の人。字は孝綽。劉孝綽として知られる。宋の司空劉勔の子。幼少より伯父の王融に神童と喧伝され、范雲沈約任ムらにも愛された。 梁初に著作佐郎で起家し、太子洗馬・秘書丞などの清要官を歴任して殊に昭明太子に重んじられ、『文選』をはじめ太子の文化事業の殆どを主宰した。
 才を恃んだ譏辞から軋轢も多く、罷免は5度に及んだが、奏詔の第一人者として免官中もしばしば諮問され、武帝や太子・諸王に重んじられたものの官は秘書監で終った。 詩文は「旦に成れば暮には遍し」の観があったが、時代に象徴的な作風のために後世早くにその評価は下落した。
 近親はいずれも文才に長け、徐悱に嫁した妹が夫の為に作った祭文は、岳父の徐勉をして筆を措かしめたという。
寒門の何遜と比較されることを殊に嫌い、『詩苑』編纂にあたっても何遜の詩は2篇しか採録せず、当時も狭量と批判されました。 亦た到洽(到漑の弟)に対する軽侮は、妾だけを伴って入舎したことを不孝と弾劾される結果を招き、この時は武帝の擁護も罷免の文書の“姝(妾)”を妹と筆削させることが限界でしたが、晋安王(簡文帝)幕下の諸弟は到洽を不正と糾弾し続けたそうです。 公卿に至れない不遇を屈原・賈誼に譬えて知音の不在を嘆きましたが、『南史』『梁書』ですら自業自得と断じています。

蕭子顕  489〜537
 字は景陽。斉高帝の孫。豫章文献王の第8子。好学で姿才ともに秀でて沈約にも讃えられ、蕭衍の簒奪に与して武帝の宴席には常に連なったが、為人りは驕慢に近く、人事を掌るに及んで多くの士大夫に憎まれた。 太子にも重んじられ、侍中・吏部尚書を経て537年に仁威将軍・呉興太守とされ、着任ほどなくに歿して侍中・尚書令を追贈されたが、諡号は驕と定められた。編著の『後漢書』・『南斉書』はやや公正に欠けるという。

蕭子雲  487〜549 ▲
 字は景喬。斉高帝の孫、蕭子顕の弟。性は沈靜で権勢を好まず、夙に文藻を知られて昭明太子湘東王と親交があり、26歳のときには『晋書』百余巻を完成させた。 30歳で秘書郎で起家して太子舍人に進み、湘東王に親任されて丹陽尹・臨川内史・東陽太守などを歴任し、梁末に侍中・国子祭酒に転じたが、侯景に台城が陥されると晋陵に逃れ、顕雲寺で餓死した。
 鍾繇王羲之の書法を学んで草書・楷書は当世の宗と讃えられ、殊に飛白体を善くして唐代にも絶賛されたが、唐太宗からは「蚓蛇の如し」と酷評された。 東陽太守に赴任する際、たまたま入朝していた百済国使が書を求めて渚まで追い、3日間停船したと伝えられる。

陳慶之  483〜539
 字は子雲。義興国山の人。斉末から蕭衍に近侍して将才を認められ、525年に豫章王による徐州接収では武威将軍に叙されて従い、豫章王が離背すると軍を全うして帰朝した。 527年の渦陽攻略では主戦論を堅持して200騎で北軍15万を翻弄するなど大功を挙げ、翌年に北魏の北海王が来降すると、7千余の軍兵で北海王を援けての北伐を命じられ、47戦に全勝して32城を抜き、元天穆爾朱兆らを大破して洛陽に入城した。 洛陽では猜疑されて増援を得られず、北海王を滅ぼした爾朱栄の追撃と洪水で兵を失い、江南に帰還すると右衛将軍・永興県侯とされた。
 寡兵で衆を撃つ用兵に長じ、以後もしばしば江淮で北魏と対峙して都督南北司西豫豫四州諸軍事・南北司二州刺史まで進み、536年にも侯景を大破して仁威将軍とされた。

賀琛
 会稽山陰の人。字は国宝。晋の光禄大夫賀循の裔。家学を伝えて武帝に認められ、臨川王国侍郎・太学博士などを歴任した。 545年に官貴の奢侈・放縦と搾取を制限するよう建議して武帝に譴責されたが、これは臨川王への対応と並んで、武帝の政略の根本的欠陥を象徴するものとされる。建康を攻囲する侯景軍に捕われて金紫光禄大夫とされ、まもなく病死した。 賀琛の上書に対し、武帝は「自分の節倹は徹底している」と激怒し、搾取や放縦を行なっている者や冗費を全て列挙してみせろと息巻いて総論を細目に矮小化させ、史家にも“護短矜長”の典型と評されています。

朱异  483〜549
 呉郡銭塘の人。字は彦和。五経を修めて易に明るく、文史にも博通して諸芸に優れた。21歳で五経博士明山賓の薦で武帝に近侍すると寵遇され、主に近侍の官を歴任して内省の事を宣掌し、国政の枢機にも参与して武帝への迎合によって徐麟・陸験らとともに朝政を壟断した。 侯景の帰順と東魏との修好を積極推進したことで侯景の乱を惹起し、侯景からは“君側の奸”と討伐の名目とされ、建康籠城中に慙憂から病死した。 日本の『平家物語』では過大評価されて趙高王莽安禄山と並称されている。

侯景  503〜552
 朔方懐朔鎮(包頭市?)の人。字は万景。葛栄討伐で爾朱栄に認められ、後に高歓の爾朱氏討滅に従った。 梟雄として警戒されながらも武略を愛され、代表的な勲貴として司徒・河南道行台まで進んだが、高歓の死後は勲貴粛清に傾く高澄と反目し、管下の州郡を以って梁に称藩したものの慕容紹宗に大敗して寿春に逃れた。
 翌548年に梁が東魏と講和したことで挙兵して臨賀王を奉じ、弊政に苦しむ民衆が応じた事と藩屏の諸将が猜疑心から消極に転じた事で短期で建康を攻囲し、偽和によって援軍を散解させた後に内城を陥すと武帝を幽閉して丞相を称し、武帝が歿すると簡文帝を即位させて相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事を称した。 551年には湘東王を伐って巴陵で胡僧祐に大破され、来討した王僧辯に湓城(江西省九江市区)を奪われると簡文帝とその諸皇子を殺して豫章王を立て、冬には弑簒を行なって漢帝を称したが、翌年にも王僧辯に大敗し、逃亡中に海上で殺された。
 侯景の乱によって大多数の貴族が基盤を失って没落し、以後の戦乱で江南社会も著しく荒廃した。

簡文帝  503〜549〜551
 梁の第二代君主、太宗。諱は綱、字は世纉。武帝の第3子。昭明太子の同母弟。 506年に晋安王とされ、525年には雍州刺史・安北将軍として北伐し、南陽・新野などを略定した。 昭明太子の死で皇太子とされ、武帝が歿して侯景に立てられたが、各地で内戦と北朝による蚕食が進み、翌年には鄱陽嗣王範が合肥を、司州刺史柳中礼が鄂東を失い、郢州の邵陵王は湘東王(元帝)に滅ぼされた。 湘東軍に大敗した侯景に廃黜され、諸皇子と前後して土嚢で圧殺された。
 文学を好んで夙に徐摛庾肩吾ら多くの文人を集め、東宮の文苑では艶麗な“宮体詩”が盛行し、『玉台新詠』を撰した。 子の当陽公には「立身の道は文章と異なる。立身は須らく謹重なるべし。文章は須らく放蕩たるべし」と誡めており、自身の即位を含め、天子主導の宮廷文学については肯定的ではなかった。
  
宮体詩:簡文帝の東宮時代に、宮廷で盛行した詩風。東宮で盛行していた“徐庾体”の影響下に、声韻を追及して女性の内面や容姿を詠ったもの。 徐摛徐陵父子や庾肩吾庾信父子が主導し、艶麗な詩風は一世を風靡したが、後世では虚構の恋愛詩として“浮華”と評された。

庾肩吾 487〜551
 南陽新野の人。字は子慎。晋安王(簡文帝)の国常侍で起家し、これより常に王に従って太子中庶子に進み、簡文帝の下で散騎常侍・中書令に進んだ。 江州の当陽公への諭降使とされて建昌に逃れ、後に江陵に戻って歿した。
 徐摛と並んで“徐庾体”と称された軽妙艶麗な文章は一世を風靡し、書にも巧みで、書評である『書品』を著した。又た声律を追及し、宮体詩の代表的人物でもある。
侯景の乱中、当陽公は太子洗馬の韋臧に四川の建昌を攻略させていたので、庾肩吾は韋臧を頼った可能性もあります。 韋臧は尋陽陥落の直後、江陵帰還の準備中に部下に殺されました。

蕭棟  〜552/552
 梁の豫章王。字は元吉。昭明太子の嫡孫。 簡文帝を殺した侯景に立てられたが、冬には淮陰王に貶されて幽閉され、侯景の敗滅後に江陵に送られる途上で元帝に暗殺された。

元帝  508〜552〜554
 梁の第三代君主、世祖。諱は繹。武帝の第7子。簡文帝の異母弟。514年に湘東王に封じられ、547年に鎮西将軍・都督・荊州刺史とされて江陵に鎮した。 王僧辯胡僧祐王琳ら驍将を擁して軍事的に強力で、武帝の死後も改元せずに簡文帝豫章王を認めず、王沖が密勅をもたらした事で大都督中外諸軍事・司徒を称して承制を行なった。
 夙に昭明太子の諸子とは不和で、侯景討伐に先んじて湘州の河東王を滅ぼした事で雍州の岳陽王の西魏称藩を惹起して漢水流域を失い、552年に王僧辯らの東征軍が侯景を滅ぼして建康を回復すると江陵で即位したが、巴蜀では弟の武陵王が僭称し、嶺南でも蕭勃が自立した。 武陵王を滅ぼした翌年に蕭詧を擁した魏軍に江陵を陥されたが、城内守備の構成や広州刺史王琳への求援は江陵攻囲後に漸く行ない、また落城で宮殿と書画典籍に放火したものの自殺できず、土嚢で圧殺された。
 14歳で左眼を失明したこともあってか自閉的かつ狷介で、苛烈・偏執的で猜疑心も強く、短所としての自覚はあったものの武帝寛政への反省を称して更めなかった。 文学を愛好して自身も優れた文学者で、詩文だけでなく書画にも巧みで、自作の孔子像に賛を加えて三絶と称したが、自らを諸葛亮・桓温に比す矜持は他者の比肩を許さず、王銓のの名を貶し、劉之遴の暗殺を指示したとも伝えられる。
侯景の謀首の王偉の文才を惜みながらも、眇眼を誹った檄文を知るや生きたまま車裂したり、魏軍の南下中も『老子』の講義を続けて百官に戎装での聴講を命じたり、篭城中の大火で数千戸が焼失しても詩作を止めなかったりと、確かに偏執的ですが、王偉以外の件は寧ろ最後の拠り処的なスタンドプレー臭を感じます。

蕭詧  519〜555〜562
 西梁の中宗、宣帝。梁の岳陽王。字は理孫。 昭明太子の第3子。太子が歿した531年に岳陽王とされ、546年に雍州刺史となって襄陽に鎮した。 湘東王(元帝)とはかねて不和で、549年に湘東王に攻められた実兄の河東王を援けて江陵で敗れ、河東王が滅ぼされると西魏に称藩して梁主とされた。 西魏の南征を先導して554年に江陵を陥し、翌年に江陵で梁帝に立てられて西魏の正朔を奉じた。
  ▼
 西梁は概ねは江陵周辺一帯を支配する小政権に終始し、北周・隋の主権下に明帝嶷(562〜585)、末帝j(585〜587)へと父子相続され、隋の南征に先駆けて587年に平和裏に接収されたが、それでも十余万人が陳に亡命したという。

蕭紀  508〜553
 梁の武陵王。字は世詢。武帝の第8子。 為人りは寛和で表情が少なく、514年に武陵王に封じられて会稽太守・東揚州刺史などを歴任し、537年に都督・益州刺史に転じて開府儀同三司を加えられた。 建康が侯景に陥されると密勅を称して登極し、ついで侯景討伐を宣したが、かねて不和だった実兄の湘東王(元帝)との合作を拒み、元帝の即位に異を唱えて長江を東下して敗死した。この間に益州は西魏に占領され、北周の発展と隋による南北統一を可能とした。

敬帝  542〜555〜557
 梁の第四代君主。諱は方智。元帝の第9子。元帝の即位で晋安王とされ、江州刺史に叙された。 元帝の死後に陳覇先に擁立され、北斉と結んで貞陽侯を奉じる王僧辯が敗滅した後に建康で即位した。557年に陳覇先に簒奪されてまもなく殺された。

蕭淵明  〜556
 梁の貞陽侯。武帝に兄(蕭懿)の遺児として厚遇された。 547年に帰順した侯景を支援するために北進して東魏に大敗して擒われたが、西魏が江陵に蕭詧を立てると、対抗措置を模索する斉と王僧辯の合意で555年に建康に迎えられた。王僧辯の敗死によって北走する途上で病死した。

王僧辯  〜555
 太原祁県の人。字は君才。右衛将軍王神念の子。父に従って北魏から投じ、湘東王(元帝)に仕えて河東王討伐で竟陵太守に領軍将軍を加えられ、侯景討伐の大都督とされた。 広州から北上した陳覇先と合して巴陵で侯景を大破し、552年に建康を解放するなど侯景平定に最大の功があって開府儀同三司・永寧郡公を加えられたが、軍兵の略奪には寛容で、殊に建康の略奪を容認したために輿望を失った。 元帝の即位後は湘州の陸納や益州の武陵王を討平し、北斉軍を撃退して太尉・車騎大将軍に進んだ。
 江東略定中に江陵の元帝が敗死すると晋安王を奉じて太宰とされたが、北斉から貞陽侯が送還されると北斉との同盟による江陵奪回を図り、淮南割譲・蕭方智立太子を条件に貞陽侯を立てて大司馬・太子太傅・揚州牧とされた。 晋安王の正統を唱える陳覇先に建康を急襲されて敗死した。

王琳  526〜573
 会稽山陰の人。字は子衎。旧諱は衎だったが、湘東王(元帝)の私怨から琅邪の王琳を貶める目的で改められた。 姉妹が湘東王に幸されて重用され、王僧辯に従って江淮の群盗を招撫して郢州を奪回し、侯景が平定されると杜龕と並ぶ首勲として湘州刺史に叙された。 一時は驕横として徴檻されて陸納の騒乱を治めて赦されたが、後に再び猜忌されて衡州刺史から広州刺史に遷され、このため江陵の救援には間に合わなかった。
 以後は荊南の盟主に推されて敬帝を認めず、禅譲後に沌口(武漢市区)で陳軍を大破すると湓城(九江市区)に入って斉に称藩し、永嘉王を迎立した。 武帝の死に乗じた東征が蕪湖で侯瑱らに大破されると斉に逃れて驃騎大将軍・揚州刺史とされ、寿陽(寿春)に鎮してしばしば江北の諸将を招降した。 呉明徹の北伐に際して巴陵郡王に進められたが、援軍を得られないまま4ヶ月の籠城の後に開城し、軍士の声望を忌懼した呉明徹に殺された。
 王琳は喜怒を表すことが少なく、無学ではあったが強記聡敏で、軍史千余名の顔と姓名を違えることがなく、又た刑罰を濫用せず民にも愛慕され、その死に対する哭号は雷の如くだったと伝えられる。
  
蕪湖の役(560):長江を東下する王琳の水軍を、侯瑱を大都督とする陳軍が大破した水戦。 王琳は武帝の死に乗じて東下して柵口(濡須口の東)で陳軍と対峙して越冬した後、濡須水の増水で巣湖の水軍が合流し、虎檻洲(蕪湖の西南)に西下した陳軍を追ったところ突風で艦船の半ばを失った。 この為、浦を水塞化して水軍の再編を進めたが、西魏が郢州を攻囲した事と斉の来援を得た事で建康襲撃に転進し、蕪湖を過ぎたところで西南風に乗じて追撃する陳軍からの火攻と章昭達の大鑑の突入で大敗した。

 
 

 557〜589
 梁末に広州で抬頭した陳覇先が湘東王侯景討伐に呼応して江東に進出し、王僧辯を攻滅した後に簒奪したもの。 当時、巴蜀は既に西魏に、湖北は西魏の傀儡である西梁に占められ、湖南・江北には王僧辯系の部将が割拠し、侯景の乱での江東の荒廃もあって南朝歴代で最も劣弱だったが、殆どの貴族が没落していたことが禅譲成功の一助になった。
 継嗣の文帝の時代には反抗勢力の討平も進んで小康を得たが、宣帝の北伐の失敗に後主の失政が加わって隋に滅ぼされた。後主の時代は南朝宮廷文化の爛熟期とされる。
武帝  文帝  宣帝  後主
 

陳覇先  506〜557〜559
 陳の高祖、武帝。呉興長城(浙江省長興)の人。字は興国。漢の太丘長陳寔の裔を称した寒門の軍人で、548年に広東の李賁の叛乱を鎮圧して認められた。 武平太守の時に侯景の乱に遭うと、侯景と通じた広州刺史元景仲を殺して蕭勃を迎え、北上して王僧辯に合流して侯景を平定し、乱後は征北大将軍として京口に鎮した。 元帝の死後に北斉と結んだ王僧辯を討滅して敬帝を立て、杜龕の討滅や北斉軍の撃退などで輿望を高め、江州や嶺南を帰順させて557年に太傅・陳王をへて簒奪を実現した。
 その治世は王琳ら王僧辯系勢力への対応に終始し、国制再建には着手できなかった。

侯滇  510〜561
 巴西充国の人。字は伯玉。累世の酋豪で、益州刺史となった鄱陽王範に従って勇名を知られた。 鄱陽王が江州で横死した後は湓城(江西省九江市区)に拠り、一時は侯景に従って同姓として厚遇されたが、巴陵で侯景が敗れると湘東王に称臣し、松江での侯景の大破に至る王僧辯の前鋒としての功で南豫州刺史に叙されて姑孰に鎮した。
 晋安王の承制で都督・江州刺史・康楽県公に直され、蕭勃討伐の途上で王僧辯の訃報に接すると豫章に割拠したが、新呉(江西省奉新)に拠る豫章太守余孝頃との攻伐中に造叛に遭って湓城の焦僧度に投じ、斉への投降を勧められたものの陳覇先に詣降して官爵を安堵された。 文帝が即位すると太尉に進められ、王琳の東下に対して大都督とされて迎撃し、蕪湖で王琳を大破して都督湘巴郢江呉五州諸軍事とされて湓城に鎮した。ついで巴・湘州より周軍を撃退して湘州刺史・零陵郡公に転じ、翌年に歿した。

文帝  〜559〜566
 陳の第二代君主、世祖。諱は蒨。武帝の兄/始興王道譚の長子。侯安都らの支持により、武帝の子を措いて即位した。 即位直後に湖南を領する王琳が北斉と呼応して湓城より東下したが、短時日で鎮圧して北朝の介入を防ぎ、翌年には北周と和して北斉に対抗した。江州各地の叛抗勢力を討平する傍らで賦の軽減と奴婢の解放、節倹の奨励などを行ない、創業間もない王朝の安定につとめて小康を得た。

侯安都  520〜563
 始興曲江(広東省)の人。字は成師。郡の大姓で、騎射のみならず余芸にも巧みで、侯景の乱で陳覇先に従ってより腹心として親任された。 水軍を率いて建康で王僧辯を擒え、杜龕討伐では建康に留守して徐嗣徽・任約や斉軍を撃退し、南徐州刺史・丹陽尹・南豫州刺史を歴任した。 武帝が歿すると按剣上殿して文帝を立てて司空・南徐州刺史に叙され、翌年の蕪湖の役では大都督の侯滇に代って多く立案指揮して王琳を大破し、又た文帝の承旨で衡陽王を暗殺し、第3子の侯秘が9歳で始興内史に叙されるなど甚だ重んじられた。
 周軍の撃退や留異の討破で侍中・征北大将軍を加えられたが、驕矜と徒党の横恣から嫌忌されるようになり、周迪討伐に挙げられなかった事や麾下に対する検按が強まった末に謀叛が密奏され、征南大将軍・江州刺史に叙されて上京したところで賜死された。 571年に宣帝によって陳集県侯に追封された。

章昭達  518〜571
 呉興武康の人。字は伯通。財を軽んじて気概があり、侯景の乱では義兵を募って台城に馳せ、流矢で一眼を失った。 侯景の平定後は陳蒨(文帝)の軍事に従って重んじられ、禅譲後は東陽の留異に備えて長山令・武康令を歴任した。 文帝の即位に乗じた王琳の東下では、水軍の前鋒となって蕪湖で大破し、又た臨川の周迪・建安の陳宝応を討って閩中を平定し、廃帝の時には征南将軍・使持節・都督江郢呉三州諸軍事・江州刺史となった。
 文帝の旧臣でありながら宣帝にも重んじられ、嶺南で叛いた欧陽紇を平定して車騎大将軍・司空に進められ、570年には西梁の水軍を覆滅して長江南岸を制圧した。
 神速の用兵を尚んで軍令は厳酷だったが、膳は士卒と同様であり、功将は必ず挙げて将兵に心服された。 又た戦場にも女伎の雑楽と羌胡の歌舞を伴い、飲会の音律と姿容は一時の妙だったという。

陳宝応  〜564
 晋安候官(福建省福州)の人。閩中四姓に数えられ、父の陳羽は反官的な気風の郷里で官軍を支援したことから威勢を増し、侯景の乱で太守の蕭雲(蕭子雲とは別人)に代って郡事を掌握した。
 陳宝応は父の軍事を司掌し、呉会の飢饉に乗じて交易や掠奪を行ない、又た多くの舟夫を得て強盛となった。 執権した陳覇先に通じて郡事の継承を認められ、禅譲で晋安太守に持節・閩州刺史・領会稽太守が加えられ、文帝が即位すると宗族に加えられた。 留異周迪に通じて叛くと属籍から除かれて討たれ、建安(福建省南平)では水陸に柵を設けて章昭達と対峙したが、豪雨に乗じて水柵を破られて大敗し、建康で斬られた。

留異  〜564 ▲
 東陽長山(浙江省金華)の人。郡の強姓で、侯景の乱に乗じて東陽郡を制圧すると侯景に称臣して東陽太守を追認され、侯景が平定されると王僧辯に降って郡事を安堵された。 梁末には持節・縉州刺史・領東陽太守となり、第3子の留貞臣が陳蒨(文帝)の婿となったこともあって文帝が即位すると都督縉州諸軍事・安南将軍を加えられたが、一方で王琳とも通じ、王琳に呼応して敗れた後も帰順を称して勢力を保った。
 王琳を破った侯安都に伐たれて娘婿の陳宝応に投じ、陳宝応と共に章昭達に擒われて建康で斬られた。

周迪  〜566 ▲
 臨川南城(江西省撫州)の人。弋猟を生業として膂力があり、挽彊弩に長じた。 侯景の乱で各地が乱れると郡中の大姓より渠帥に推され、朝廷から臨川内史を認められて江州刺史を加えられた。 禅譲後は王琳の進出を却ける一方で江州の南川八郡を経略して大勢力となった。 王琳が駆逐されると朝廷の圧迫を嫌って留異の挙兵に呼応して湓城の華皎を大破したが、翌年(562)には呉明徹に大破されて晋安の陳宝応に投じた。
 臨川郡では恩威並び行なって境内を安寧にし、又た質朴で施しを好んだこともあって、厳明な刑政や徴斂を行なって猶お郡人からは愛慕されていた。 そのため、563年に臨川に進出すると数県が応じ、この時は征討都督章昭達に撃退されたが、章昭達が陳宝応討伐に転じると再び臨川に進出し、宣城(安徽省南陵)を席捲して程なくに平定された。

陰鏗
 武威(甘粛省)の人。字は子堅。史書を博猟し、湘東王の参軍で起家した。 宴中に給仕にも酒肉を与えたことがあり、侯景に捕われた際にはこの人の援けで脱走した。 陳の天嘉年間(560〜65)に徐陵の薦挙で文帝に認められ、招遠将軍、晋陵太守、員外散騎常侍などを歴任した。
 五言詩に長じ、杜甫には「何遜と並ぶ」と高く評価され、胡応麟からも「近体(律詩)のあるは、五言の蘇武・李陵に始まる如し」と絶賛された。

廃帝  554〜566〜568/568
 陳の第三代君主、臨海王。諱は伯宗、字は奉業。文帝の長子。東宮時代から柔弱を危ぶまれ、即位当初は到仲挙と叔父の陳頊(宣帝)とに後見されたが、到仲挙を排除した陳頊に簒奪されて臨海王に貶され、まもなく殺された。

宣帝  528〜568〜582
 陳の第四代君主、高宗。諱は頊、字は紹世。文帝の次弟。 梁の江陵陥落で穣城(河南省ケ州)に置かれたが、559年に文帝が即位すると安成王を遥授され、562年に帰国を認められた。 565年には司空とされて大権を有し、一時は文帝の継嗣に擬されたものの固辞して粛清を逃れ、太子伯宗の後見を経て簒奪した。
 流民の安堵や税役の減免などによって国内の安定を図り、北周と通じて叛いた長沙の湘州刺史華皎の鎮圧や北周軍の撃退、573年の北伐での寿陽(寿春)を含む江北9郡の征服で武威を昂揚させたが、まもなく北斉を滅ぼした北周に江北を奪われ、呉明徹ら多くの将兵を失った。

華皎  〜567
 晋陵曁陽の人。寒貧の家の出で、侯景の下で虜囚の陳蒨(文帝)を礼遇したことがあり、文帝が即位すると左軍将軍に叙された。 王琳平定に従って江州刺史に叙されると王琳の残兵を接収し、呉明徹に従って周迪を駆逐した後は平南将軍・使持節都督湘巴等四州諸軍事・臨川太守・湘州刺史に転じ、事業を経営して朝廷にも多くを委輸した。
 陳頊(宣帝)の執権で韓子高ら文帝の恩顧が粛清されると州を挙げて叛き、西梁に帰順して巴州の呼応や北周の援軍による郢州攻囲などで建康を震撼させた。 華皎は水軍を親率して巴州の白螺に進んだが、決戦を急いで征討軍の先鋒の呉明徹に大破され、江陵に奔る途上で歿した。
華皎の水軍の中心となったのは、文帝の北伐・西征を期して建造していた御座船“金翅”を含む大艦200余艘です。 建康からの征討軍は撫軍大将軍淳于量を征討都督として呉明徹が前鋒となり、別路からは湘州に進んだ司空徐度の存在が華皎に決戦を急がせる要因となりました。 華皎と呉明徹の水戦は、呉明徹が中小艦で華皎水軍の統制を乱したことでほぼ決し、大艦を投入された華皎は火攻で頽勢挽回を図ったところ、東南風が起こって壊滅したそうです。『三国志演義』の赤壁の原話のような展開です。

呉明徹  512〜578
 秦郡(江蘇省六合)の人。字は通昭。はじめ梁の東宮に仕え、侯景討滅後に京口の陳覇先に投じ、王僧辯の遺将の杜龕王琳らを討ち、北周の撃退や、周迪の駆逐などで文帝の末には侍中・鎮東将軍・呉興太守に叙された。 567年に叛いた湘州刺史華皎およびこれに呼応して来攻した西梁と北周を大破して湘州を回復し、翌年の江陵攻略には失敗したものの、軍将としての名声は淳于量に斉しく、宣帝の即位にも功があった。
 573年の北伐では自推して大都督に選抜され、江淮の9郡を制圧して寿春の王琳を平定し、575年には北斉軍を呂梁で撃退して彭城に達し、司空・都督五州諸軍事・南兗州刺史に叙されが、578年に北周に大敗して囚われ、懐徳公とされて厚遇されながらも長安で憂死した。

顧野王  519〜581
 呉郡呉の人。字は希馮。幼時から好学で、経史・天文地理・卜占に通じた。博学万通で知られて538年に梁で太学博士とされ、宣城王の賓客となって王褒とともに“二絶”と称された。侯景の乱では郷党を集めて義軍を編成し、建康が陥落すると会稽を経て東陽に逃れた。 陳朝では国子博士から文武の顕職を歴任し、国史編纂を管掌して黄門侍郎・光禄卿・知五礼事に至った。

徐陵  507〜583
 東海郯の人。字は孝穆。徐摛の子。 12歳で老荘に通じ、諸書を渉猟して父と並んで晋安王(簡文帝)に仕えて宮体詩を盛んにし、『玉台新詠』を撰した。 又た庾信に亜ぐ駢文の名手でもあり、“徐庾体”と呼ばれる公文書式は一世を風靡して北朝でも貴重された。
 548年には遣魏使となって主客の魏収にも屈せず、侯景の乱と魏斉禅譲で鄴に抑留され、蕭淵明に随って帰国した後は尚書吏部郎として詔勅を掌った。 王僧辯が敗れると任約に奔ったが、陳覇先に赦されて禅譲の詔策も起草し、文帝の下では御史中丞を兼ね、司空の安成王(宣帝)を家人の放縦を以て弾劾して侍中・秘書監を返上させたことで朝廷を粛然とさせた。 吏部尚書に転じると公明を以て毛玠に比せられ、宣帝に敬重されて枢機にも参与し、581年には侍中・南徐州大中正に中書監・太子・事を兼ね、太子少傅で歿した。
 陳朝で稀少な名流文人として「一代の文宗」と讃えられ、その文は北朝でも競って書写されたが、陳末隋末の戦乱で殆どが散逸した。 『南史』によれば、後主が匿名で示した文を「総て辞句を成さず」と評してより疎まれたとあり、文学観にも隔たりがあったことを思わせる。 後進を好んで賞揚し、俸禄を親族に分って不足することもあり、また熱心に仏教を信奉し、経・論についても一家言があった。

慧思  515〜577
 南豫州武律(河南省)の人。俗姓は李。15歳で出家して法華・禅を学び、宗敵に迫害されて光州大蘇山(信陽市)に入り、568年に南岳(衡山)に到って陳の宣帝から大禅師とされた。天台宗の第二祖とされ、門弟には天台開祖となったがある。

陳叔宝  553〜582〜589〜604
 陳の第五代君主。後主・煬帝。字は元秀。宣帝の嫡長子。 宣帝の即位で太子に立てられ、宣帝の死後、始興王を鎮圧して即位した。 江総施文慶狎客との遊宴や造営を専らにして国事を顧みず、隋に対しては長江と王気の存在を恃んで備えず、そのため隋軍の渡江は容易に行なわれ、建康を包囲されると鎮東大将軍任忠の離背で落城した。 この時、隋軍を泰若と迎えた沈后太子に対比し、後主は僕射袁憲らの制止を聴かずに逃れ、張貴妃・孔貴人と井戸に隠れて捕われた。 晋王(煬帝)が入城したとき、京口陥落の報は未開封のまま牀下に棄てられていたという。
 太后・后妃・太子ら諸王28名と司空司馬消難・尚書令江総・僕射袁憲・驃騎将軍蕭摩訶・中領軍将軍魯広達・吏部尚書姚察ら200余名と共に長安に徙されたが、宴には常に侍って歓楽し、文帝から軽蔑されたものの警戒はされず、洛陽で歿すると長城県公に追封され、「礼を去り衆を遠ざく」と“煬”が追諡された。
 東宮時代から文苑を持ち、自身も梁の宮体詩をさらに発展させた艶詩の名手で、代表作『玉樹後庭花』は南朝文化の粋として長らく人口に膾炙した。王献之の『桃葉辞』は、桃葉山から陳船で渡江した晋王広を指す詩讖と称された。
隋軍の渡江は589年正月を以て行なわれ、賀若弼が広陵(揚州市江都)から、韓擒虎が横江浦(安徽省和県)から進みましたが、隋軍南征の報は施文慶や沈客卿が秘匿し、そのため隋軍の渡江はほぼ無抵抗で行なわれました。 ここに至って蕭摩訶・樊毅を大都督として司馬消難・施文慶が大監軍とされましたが、賀軍は17日には鍾山で魯広達を破って北掖門に達し、同日、南郊の石子岡に達した韓軍に任忠が投降して落城となりました。
  
狎客:陳後主の近侍のうち、特に君側に侍って忘位の交を許された者を指し、『南史』陳暄伝に名が挙げられている恩倖を指すが、文帝以来の大官の江総を加えることも多い。 首魁とされる施文慶沈客卿は建康に入城した晋王に誅され、孔範・王瑳・王儀・沈瓘は長安に徙された後、特に“四罪人”として流謫に処された。

施文慶  〜589
 呉興烏程の人。陳叔宝の代表的な狎客。宣帝のとき太子叔宝に仕えて寵遇され、後主が即位すると中書舎人に進められて沈客卿とともに朝政を壟断し、後主の遊興を助長した。 588年に湘州刺史とされながらも赴任せずに北防の建議を悉く妨げ、隋軍南下の報を上聞しなかった事もあって隋に内通していたとも称される。 平陳の後に沈客卿とともに建康で処刑された。

江総  519〜594 
 済陽考城の名族。字は総持。梁の光禄大夫江蒨の孫。 7歳で父を喪うと外叔の呉平侯家で養われ、蕭勱に将来を嘱望された。 武帝にも詩文の才を認められて張纉王筠劉之遴らと親交して清官を歴任し、侯景に台城が陥されると広州の蕭勃に依って欧陽紇と交わり、563年に陳文帝の招聘に応じて帰京した。
 太子叔宝の求めで・事とされた後は東宮職と南徐州大中正を兼ねたまま累進したが、夙に「潘陸の徒」と誹られ、太子に長夜の宴や同姓との淫通などを行なわせたことで罷免された。 後主が即位すると祠部尚書とされて選事をも参掌し、586年には参掌のまま宣恵将軍・尚書令に進んだが、国事に参与することは稀で文芸を専らにし、平陳で長安に徙されて上開府とされ、江都で歿した。
 自序では恥ずべき事として「仏教に帰依しながらも世俗から離れられなかった」ことのみを記し、陳での為政への言及はなく、『南史』には、平陳に際して施文慶からの賄賂で長江対岸への派兵を抑えたとある。 後主の狎客中では唯一の東宮時代からの側近で、亡国に際しての無自覚な処世は強く非難されるが、詩人としては浮薄艶麗に傾きながらも後世からも高く評価された。

蕭摩訶  532〜604
 南蘭陵の人。字は元胤。侯景の乱を初陣とし、夙に武勇絶倫と讃えられた。573年の呉明徹の北伐では先鋒として大功を挙げ、太守・刺史を歴任しつつ右衛将軍まで進み、呉明徹の後の陳軍の柱石と目されたが、北伐は悉く成功しなかった。 宣帝が歿すると始興王を制圧し、後主の下で驃騎大将軍・左光禄大夫まで進んだ。
 隋の南征に抵抗を試みた数少ない将軍の1人で、蒋山で賀若弼に擒われた後に長安で開府儀同三司を授けられ、まもなく漢王楊諒に属し、漢王の造叛に与して処刑された。 勇将として「勇は三軍に冠たり」、「関・張に伍す」と当時から絶賛されていたが、楊素からは「匹夫の勇のみ」と評された。


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