唐.2

玄宗  粛宗  代宗  徳宗
 

玄宗  685〜712〜756〜762
 唐の第六代天子。諱は隆基。睿宗の第3子。はじめ楚王、ついで臨淄郡王に封じられた。 710年に韋后とその一党を滅ぼし、睿宗を復辟させて皇太子とされた後は叔母の太平公主と対立し、睿宗に譲位された後も実権に乏しかった。 即位の翌年に太平公主派を滅ぼして全権を掌握すると姚崇宋m張説ら多くの人材を起用し、節倹を奨励して政務に精励し、体制の再建と軍事の抑制に努めて政情を安定させ、又た風流を好んで多くの文人を優遇した為に文運も隆盛し、“開元の治”と呼ばれる唐朝の極盛期を現出した。
 開元年間(713〜41)には武后期に露呈しつつあった律令体制の崩壊も進行し、府兵制は募兵制に、羈縻制は藩鎮制に移行し、均田制の破綻に対しても括戸制が試行され、多くの使職(令外官)が常設化された。 玄宗の倦怠期ともされる天宝年間(742〜56)は楊貴妃を得た翌年に始まる点でも象徴的で、国政を李林甫楊国忠らに委ね、放埓な財政と酷吏的な財務官僚の進出、綱紀の弛緩と楊氏の横恣などから政情不安となり、節度使の軍閥化も進行した。 天宝14年(755)に始まる安史の大乱では長安を放棄して成都に蒙塵したが、その際に叛兵の民に対する掠奪を抑える為に府庫の焼却を許さず、退路の遮断も認めなかったと伝えられる。
 蒙塵の途上で楊貴妃が殺されると、反転攻勢を唱える太子に譲位し、757年に長安に帰還した後は復辟を謀ったとして幽閉され、挙兵前からの腹心の高力士とも隔離されたまま病死した。

高力士  684〜762 ▲
 潘州(広東省)の人。本姓は馮。 戦利品として去勢されて武后期に宮中に献上され、高延福の養子とされて高姓を襲いだ。李隆基と親交を結び、韋氏や太平公主の粛清に内通・参画して絶大に信頼され、玄宗が集権体制を確立すると右監門衛将軍・知内侍省事とされて禁軍を掌握し、又た上奏の検閲を託され、常に宮中に宿衛して絶大な実権を有した。 玄宗の治世を通じて寵愛・権勢の衰えなかった唯一人で、寵遇に狎れる事がなく温順・謹粛を保ち、張説を讒言から救った事もあり、開元26年(738)には李林甫の反対を排して年長の李璵を太子に推し、宇文融李林甫李適之韋堅楊国忠安禄山高仙芝らの立身も高力士の介在が不可欠だった。 時に楊国忠の放恣を玄宗に諫める事もあり、安史の乱が生じると玄宗に扈随して斉国公とされたが、760年に李輔国の讒言で巫州に流され、赦されて帰京の途上で玄宗の訃報に接して嘆死した。

姚崇  650〜721
 陝州z石(河南省)の人。旧諱は元崇。父の恩蔭で任官し、契丹対策を以て狄仁傑に薦挙されて武則天にも認められ、侍中、同鳳閣鸞台平章事と進み、中宗が復辟すると地方に出されたが、睿宗の即位で中書令とされた。 太平公主に忌まれて失脚したが、玄宗が即位すると兵部尚書・同中書門下三品に迎えられ、節倹の奨励や賦役の軽減、刑政の粛正などを進言して開元の治の基を築き、救時宰相とも称された。 開元4年(716)に下属の収賄に連坐すると宋mを後任に推して致仕し、後に太子少保に直され、死後に揚州大都督・太子太保を追贈された。
 姚氏は有力な名流でもあり、在任中は張説ら寒門出身の科挙官僚は不遇だったという。

宋m  663〜737 ▲
 邢州南和の人。字は広平。 高宗のとき弱冠で進士科に及第し、武周で張易之らを批判して名を知られ、睿宗の下で吏部尚書・同中書門下三品とされて改革を志向したが、太平公主に忌まれて楚州刺史に出され、玄宗の即位とともに京兆尹・御史大夫に直された。 玄宗の奪権で刑部尚書に進み、失脚した姚崇に後任に推されて吏部尚書・黄門監(侍中)に転じ、宰相の事を行なった。 法規を遵守して堅実に運用し、軍事を抑えて奢侈を戒め、人事や刑政の粛正を進めて開元の治を軌道に乗せ、応変の才に長じた姚崇との対比は、貞観年間の房玄齢杜如晦に比して“姚宋”と称された。 厳格に過ぎる事が朝野に忌まれて開元8年に開府儀同三司に遷されたものの信任は変らず、吏部尚書を経て開元17年(729)に尚書右丞相とされ、同20年に致仕した後は洛陽に隠居し、死後に太尉を追贈された。

宇文融  〜729
 京兆万年の人。北周の宇文氏と出自を同じくし、家は歴世で顕官に任じられ、祖父の宇文節は高宗の世に侍中に至ったが、房遺愛の事に連坐して配流先の桂州で歿した。
 宇文融は名流の子弟として夙に声望があり、開元年間に監察御史とされ、土地兼併の進行と逃戸の増加による均田制崩壊の対策を上奏し、開元11年(723)に勾当租庸地税兼覈田使として括戸政策を推進した。 張説と争って魏州刺史に出されて程なく鴻艫卿・戸部侍郎に復し、開元17年には黄門侍郎・同中書門下平章事とされたが、讒言から百日で汝州刺史に出され、さらに厳州に流される途中で歿した。

李思訓  651〜718?
 字は建見。皇祖李虎の玄孫。 30歳頃に揚州の江都令とされ、武后期には粛清を避けて棄官し、神仙・画業を求めた。 中宗の復辟で出仕し、韋氏平定に功があって開元中に左武衛大将軍・彭国公に進み、死後に秦州都督を追贈された。
 雄渾精緻な筆致と華麗な彩色の宮廷的絵画を好み、殊に山水に優れて唐朝第一とも称され、玄宗からは「通神の佳手」と讃えられた。 大同殿に描いた飛泉が夜に音を発したという伝説があり、又た呉道玄と同題の山水を描いたところ、1日で完成させた呉に対して数ヶ月を費やし、玄宗から同様の評価が与えられたとも伝えられる。 子の李昭道とは大李将軍・小李将軍と並称され、後に董其昌によって北宗画の祖とされた。
飛泉の事や呉道玄との競作はいずれも天宝年間の事とされ、名人にありがちな「あり得そうな」伝説や、『旧唐書』の歿年の記載ミスや、李昭道の誤伝などの解釈があります。
  
李昭道 :李思訓の子。李林甫の従弟。官は太子中舎人に至り、将軍とはならなかったものの父同様に山水画に長じて“小李将軍”と呼ばれる。父の筆勢に工夫を加えて父以上の名手とも評され、ともに北宗画の祖とされる。

呉道玄   ▲
 陽翟の人。初諱は道子。 書に挫折して韋嗣立(654〜719)に就いて画を学び、小吏として河南・山東を移転する中で玄宗に画名を知られて召され、道玄と賜名されて翰林供奉に加えられた。そのため在任中は勅命以外で執筆せず、後に寧王友(従五品下)に進んだ。 人物・仏像・鬼神・鳥獣画では唐朝随一と評され、特に地獄変を得意としたが、彩色は専ら弟子が行ない、又たその真蹟は現存しない。
 六朝風の流麗繊細な筆法を脱して、線の肥痩抑揚による運動感・量感・体感を表現する皴法を始め、『歴代名画記』では顧ト之陸探微と同格の“画聖”と絶賛されて張僧繇の上位に置かれ、「六法倶に全く、万象必ず尽し、神人手を仮し、造化を窮極す」「山水画法の変革は呉道玄に始まり、李父子に成る」と評された。

善無畏   637〜735
 東インド烏荼国(オリッサ)の王。善無畏三蔵とも。 13歳で即位したが、兄弟との争いを厭って出家し、ナーランダ寺院で密教を修めた後、伝法の為に天山を経て開元4年(716)に長安に到った。 真言密教を伝えて玄宗に厚遇され、金剛智不空一行らが師事し、『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)』などの密教経典を両京で訳出し、臨終に際して鴻臚卿が贈られた。

金剛智  669〜741
 南インドのバラモン出身。大弘教三蔵。ナーランダ寺院で大乗・上座部の戒律を学んだ後に龍樹の弟子にあたる龍智に師事し、密教を修めた。伝教のためにセイロン・広州を経由して開元8年(720)に洛陽に到り、仏典の漢訳にも従事し、帰国直前に洛陽で客死した。 真言密教の第五祖であるとともに、中国密教の祖とされる。

一行  683〜727
 魏州昌楽の人。大慧禅師。俗名は張遂則。凌煙閣二十四功臣の張公謹の孫。 禅を嵩山の普寂禅師に、律を荊州当陽の沙門悟真に学び、開元5年(717)に玄宗に召されて諮問に応じ、善無畏金剛智から密教を学ぶ傍らでその翻訳事業に参与したが、当時の密教が呪術と混同されていたのを憂え、呪術を外道の幻術として批判し、医術・薬理・冶金の科学技術とは異なることを主張した。又た天文・暦象・陰陽五行にも精通して大衍暦の策定にも主力となり、草稿完成直後に歿した。 偉大な業績を遺した科学者の姓名を記すパリのサント=ジェヌヴィエーヴ科学館の外壁には、中国人では一行のみが刻されている。

張説  667〜730
 洛陽の人。字は道済、あるいは説之。689年に科挙に及第して累進したが、鳳閣舎人(中書舎人)となった翌年(703)に張易之兄弟を批判して欽州に流され、復辟した中宗に徴還されて同中書門下平章事とされた。 太平公主に忌まれて東都留守に遷されたが、玄宗に決起を促して粛清後に中書令・燕国公とされ、貴族派の姚崇宇文融に忌まれて失脚したものの開元7年(719)に御史大夫に直され、同9年に兵部尚書・同中書門下に進み、同11年に中書令に至った。 寒門出身者を多く起用・育成して開元の盛世を支えたが、一方で貴族派と科挙派の対立を醸成し、反対派から朋党と批判されて開元14年(726)に罷免された。 同17年に尚書右丞相に復し、程なく左丞相に進んだ。

張均  691〜760 ▲
 燕国公張説の嗣子。 太子通事舎人・中書舎人などを歴任して能名があり、父の死後に兵部侍郎・刑部尚書を歴任したが、李林甫楊国忠によって宰相に昇れず、756年に長安が陥されると安禄山に降って中書令とされた。 翌年に洛陽が回復されると陳希烈らと唐軍に降り、張説の旧功によって減死に処され、配流先の合浦で客死した。

張九齢  673〜740
 韶州曲江(広東省)の人。字は子寿。 寒門の出で、702年に進士科に及第し、東宮時代の玄宗にも知られて校書郎から右拾遺に進んだ。 中書令張説にも認められて開元11年(723)に中書舎人に進み、宇文融の政策を批判して地方に逐われたが、復帰した張説に徴還されてその死後に中書侍郎に進み、開元21年に同中書門下平章事を加えられて翌年(734)には中書令・兼修国史に進んだ。 玄宗に挙措や風采を喜ばれて張曲江公と尊称されたが、李林甫との対立や玄宗への直諫によって疎まれ、牛仙客の抜擢を強諫して開元24年には知政事から除かれ、翌年に李林甫の讒言もあって荊州大都督府長史に左遷された。 「開元最後の賢相」として王夫之にも清貞を絶賛され、又た伝書鳩を初めて用いたことでも知られる。

李適之  〜747
 旧諱は昌。太宗の廃太子承乾の孫。 開元年間に地方官を歴任し、寛簡を旨として治績を挙げ、河南尹・御史大夫・刑部尚書などを歴任して天宝元年(742)に牛仙客の後任の左相(侍中)に進んだ。 右相(中書令)の李林甫に謀られてしばしば粗忽な上奏を行なった為に玄宗に疎まれ、韋堅らが李林甫に枉陥されると危惧して宰相を辞したが、不正人事を誣告されて宜春太守に出され、追訴を懼れて服毒自殺した。 夜宴で一斗酒を飲んでも翌日に障らぬほどの酒豪で、杜甫の『飲中八仙歌』では賀知章李白らと共に詠われている。

李林甫  〜752
 李淵の従弟/長平王叔良の曾孫。李思訓の甥。 開元14年(726)に宇文融の推挙で御史中丞となり、武恵妃高力士に通じて玄宗への迎合で累進し、開元23年(735)には礼部尚書に同中書門下三品を加えられた。
 「口有蜜、腹有剣」と評された陰謀家で、他者を正面から批判・弾劾する事は稀で、知政事に反対した張九齢に対しても恭遜しつつ徒党を用いて誣し、牛仙客の起用や廃太子の事で玄宗を支持して張九齢・裴耀卿を失脚させた。 中書令に進んだ後は有能な地方官の中央進出を妨げて朝廷を壟断し、開元27年には吏部尚書を兼ねた。 高力士すら李林甫の秉政を諫めて叱責された事があり、天宝5年(746)に李適之らを失脚させた後は自邸で国事を決裁し、楊国忠と結んで太子の枉陥にも腐心した。 又た閣僚を漢人に制限する不文律を利用し、武功による漢人官僚の立身を遮る為に節度使に異民族出身の武将を積極的に用い、節度使の兼任と任期の長期化は安史の乱を醸成したが、安禄山も李林甫に対しては畏憚の念が強かったという。
 やがて楊国忠とも権勢を争うようになり、朔方節度副使とした阿布思の造叛を機に玄宗に疎んじられ、死後に阿布思との通謀が誣されて一切の官爵を剥奪され、家産も没収されて一族は辺地に流された。 『唐律疏義』の撰者でもあるが、その学識については肯否両論がある。

王忠嗣   705〜749
 太原祁の人。旧諱は訓。 太子右衛率の父/王海実が吐蕃との交戦で戦死した為、玄宗に賜名されて禁中で養われ、玄宗と兵法を論じて絶賛されたと伝えられる。 主に吐蕃との戦で勇名を顕して開元末(741)に朔方節度使とされ、翌年には登利可汗横死の混乱に乗じて突厥から抜悉密・葛邏禄・回紇を離叛させ、天宝4年(745)に河東節度使を、その翌年には河西・隴右節度使を兼ねてしばしば吐蕃を撃破した。
 安禄山を猜忌してしばしば該奏した為に李林甫にも憎まれ、天宝6年には朔方・河東節度使を辞退した。 又た吐蕃攻略の方針で玄宗とも対立し、石堡城の奪還に際して「勝っても中国に益はなく、攻めれば数万の兵が失われ、拒めば自身が罷免されるだけで済む」として援兵を出さず、そのため李林甫から謀叛の枉陥もあって極刑すら諮られたが、哥舒翰の諫争で漢陽太守に左転された。

孟浩  689〜740
 襄陽の人。字は浩然。孟浩然として知られる。各地を遊歴したのち襄陽の鹿門山に隠棲し、40歳頃に科挙に応じて落第したが、王維との親交によって玄宗に謁見し、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失って郷里に隠棲した。 中央を逐われた張九齢の幕下に加わって李白とも交際し、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐の田園詩人として王維と並称され、共に山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。後代の韋応物柳宗元と併称される事も多い。

賀知章  659〜744
 越州永興の人。字は季真。夙に文人として著名で、科挙に及第して太常博士・太常少卿などを歴任し、開元13年(725)に礼部侍郎・集賢院学士に進んだ。 酒と交際を好み、晩年は遊興を楽しんで“四明狂客”と称し、天宝3年(744)に病むと道士を志して長安の邸宅を道観として寄進し、帰郷して程なくに歿した。 詩の他に草隷に善く、書家の張旭とも親交があり、杜甫の『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられている。

王昌齢  〜755
 江寧、或いは太原の人。字は少伯。開元15年(727)の進士。 水県尉・龍標県尉を歴任したが、細行を守らなかった為に立身できず、安史の乱を機に帰郷したところ、刺史の閭丘暁と反目して暗殺された。 詩人として当時から著名で、辺塞詩に佳作が多く、七言絶句においては李白と並称された。

楊貴妃  719〜756
 蒲州永楽(山西省芮城)の人。幼名は玉環。 幼時に父を喪って叔父に養われ、開元23年(735)に玄宗の子/寿王の王妃とされたが、武恵妃死後の玄宗の寵妃を探していた高力士に認められ、開元28年に勅命で出家したのち後宮に納れられた。 歌舞音律への通暁や応変の応対が喜ばれ、天宝4年(745)には皇后に亜ぐ位として新設された貴妃とされた。 朝政に容喙する事は少なかったが、宰相に昇った従祖兄の楊国忠など一族は無原則に高位高官とされ、国夫人とされた3人の姉をはじめとする一族の横恣・驕慢は世人の怨嗟を集めた。 安史の乱が起ると玄宗の蒙塵に随行したが、同行する禁兵の要求で馬嵬駅(陝西省興平県馬嵬鎮)の仏寺で殺された。
 楊貴妃が新鮮な茘枝を好んだ為に、嶺南から長安まで早馬で送らせた事は有名で、又た楊家の車馬が玄宗の娘の広平公主と道を争い、公主を庇った夫の程昌裔が罷免されて朝見を禁じられた事は、楊氏の横暴と玄宗の老耄を伝える格好の事例とされる。 後に白居易が長編詩『長恨歌』に詠い、陳鴻によって『長恨歌伝』として小説化された。

楊国忠  〜756 ▲
 本諱はサ。楊貴妃の従祖兄。無学無頼で遊侠に投じていたが、楊貴妃との類縁と算術・巧言によって玄宗に寵任され、監察御史に累進すると李林甫に与してその政敵を排斥した。 天宝7年(748)に給事中・御史中丞に進み、この頃より李林甫と権勢を競うようになり、同9年には“国忠”と賜名され、翌年に剣南節度使に挙げた鮮于仲通が南詔に惨敗すると自ら剣南節度使を兼ねて事態の隠蔽を図った。 11年に朔方節度副使阿布思が離叛すると李林甫を該奏し、偶々李林甫が歿した為に中書令・文部尚書(吏部)に進み、李林甫派の排斥を進めて朝政を壟断した。 又た安禄山とも寵を争い、哥舒翰と結んでの讒誣は悉く聴かれなかったものの、安禄山に好意的な官僚の排斥を進めた為に安禄山の造叛を招来し、哥舒翰に出戦を強いて潼関を失うと玄宗の蒙塵に扈随したが、馬嵬駅で楊貴妃ら一族とともに殺された。

 

安史の乱

 755〜763
 北辺の3節度使を兼ねた安禄山が起し、その部将の史思明が継続した大乱。 安禄山と宰相楊国忠の対立を直接の原因とし、挙兵から1ヶ月で洛陽を陥し、潼関攻略は兵站の不備で中断したものの、唐朝の拙劣な対処(誣告による高仙芝の処刑と哥舒翰に対する出塞の強制)もあって翌年の夏には潼関を陥し、玄宗を蒙塵させて長安を占拠した。 顔真卿ら河北各地での抵抗や雎陽(河南省商丘)攻略が長期化した事は、穀倉の淮南へ進出する機を逸して戦線を拡大できず、その間に霊武で即位した粛宗を中心に抵抗の組織的が進み、又た回紇兵の参戦もあって戦線が膠着し、安禄山は太子の安慶緒に弑簒され(757)、范陽では史思明が自立した。
 官軍は広平王(代宗)を都元帥として郭子儀僕固懐恩らを副帥とし、回紇兵を主力として秋には長安を回復し、間もなく洛陽も奪還したが、史思明の離叛を惹起して安慶緒の兵が併合された為に乱は長期化し、史思明の死後、招撫と回紇兵の再度の投入などによって平定に至った。
 朝廷の招撫の濫発は内地にも多数の藩鎮を成立させて中央の統制力が大きく後退し、殊に河北では安禄山と史思明を“二聖”と尊称する反側的な河朔三鎮が蟠居して唐朝最大の懸案となった。 更に乱の平定に多大に寄与した回紇は再援の当初、史朝義の乞援に応じて南下したところを僕固懐恩の説得で援唐に転じたもので、以後の横恣も甚だしく、又た吐蕃も敵対的となって763年には一時的に長安を占拠し、河西・西域の争奪も熾烈となった。 安史の乱によって貴族勢力の多くが在地基盤を失い、又た均田制に立脚した唐の律令体制も完全に破綻して社会は構造的な変質を余儀なくされ、両税法の実施や科挙官僚の進出の拡大など、以後の中国社会の方向性が明確となった。 内面を重視する水墨画の抬頭や、質実を旨とする禅宗の興隆も顕著となり、朝廷で喜ばれた密教も不空の死後は急衰した。

安禄山  〜757 ▲
 営州柳城の人。本姓は康(サマルカンド)。突厥とソグド人の混血とされる。6ヶ国語に通じていたので范陽節度使の互市郎(貿易官)とされ、軍功で累進して天宝元年(742)には平盧節度使に進み、玄宗・楊貴妃に寵されて李林甫にも通じ、同3年に范陽節度使を、東平郡王に封じられた翌年(751)には河東節度使を兼ねる大軍閥となった。 利財にも長け、宮人らへの賄賂や麾下の異民族兵への俸賞と、通例を大きく越える長期の任期によって父子軍を組織するなど勢力を強化した為に王忠嗣などにも叛意を該奏され、王忠嗣の後任の哥舒翰とも対立した。
 李林甫の失脚後は寵敵の楊国忠との党争が激化し、朝廷の動静を伝えていた武部侍郎(兵部)の吉温が天宝13年(754)に放逐されると粛清に対する猜疑を強め、翌年の冬に楊国忠の誅伐を唱えて挙兵した。 1ヶ月で洛陽を陥し、踰年とともに大燕皇帝を称し、夏には哥舒翰を撃滅して潼関・長安を占領したが、江淮進出の遅滞や河北諸郡の抵抗もあって本拠と前線を結ぶ兵站が貧弱で、朝廷の組織的な反抗も始まって戦局が膠着し、又た失明による兇暴化や廃嫡を図ったことから太子の安慶緒らに殺された。 挙兵前から北平には江南からの物資を大量に集積し、そのため積年の朝廷工作は造叛を前提としていたともされる。
  
 安慶緒には輿望がなく、実力者の史思明に離叛されて范陽を失い、757年の冬には唐軍によって長安と洛陽を奪回されて鄴に却き、758年末に窮して史思明を頼ったものの、翌春に殺された。

史思明  〜761 ▲
 営州の人。本姓は萃干。同郷の安禄山と同様に突厥系の混血で、夙に安禄山と親しく、6ヶ国語に通じたために互市郎とされ、幽州節度使の下で戦功を累ねた後、天宝11年(752)に平盧節度使安禄山の都知兵馬使とされた。 安禄山の挙兵後は河北を転戦して主に顔真卿郭子儀李光弼らと戦い、安禄山が殺されると范陽に拠って朝廷に帰順したが、暗殺を謀られて再び叛き、安慶緒を救った翌春に殺して大聖燕王を称した。 洛陽を抜き、しばしば官軍を圧倒して一時は長安に逼ったが、養子を嗣子とした為に実子の史朝義に殺された。
  
 史朝義は翌年(762)には洛陽を奪還されて莫州(河北省任邱)に却き、部将の李懐仙張忠志田承嗣らが唐の懐柔に応じたために窮して763年に自殺し、安史の乱は終焉した。

高仙芝  〜755
 高句麗人。騎射に巧みで、河西節度使・安西都護の下で転戦して開元末(741)に安西副都護・四鎮都知兵馬使に抜擢され、天宝6年(747)には吐蕃に与した小勃律を討破して唐の権威を再建したが、独自に戦勝を上奏した為に都護に誣され、監軍の辺令誠の仲介で却って四鎮節度使に進められた。 アッバース朝と石国(タシュケント)の支配を争って751年にタラス河畔で大敗したが、贈賄によって免責されただけでなく右羽林大将軍・密雲郡公とされ、葱嶺(パミール)越えの壮挙によって声望が高まった。
 安禄山が叛くと討賊副元帥とされ(元帥の栄王李琬は玄宗の子)、陜郡で封常清と合流して潼関を死守したが、監軍の辺令誠への贈賄を拒んだことで横領に枉陥され、陣中で封常清と共に処刑された。 高仙芝の処刑は潼関の士気を大いに損ね、後任の哥舒翰が失敗する一因となった。
  
タラス会戦 (751):唐とアッバース朝による中央アジア争覇戦。 唐の西域への宗主権の再建を図る高仙芝がタシュケントを攻陥した事を発端とし、難を逃れた王子がホラサーン総督に支援を要請した事で将軍のズィヤード=ビン=サーリフが派遣され、両軍はセミレチエのタラス河畔で対峙した。 ムスリム軍の陣容は不明ながらも唐軍の兵力は3万と伝えられ、先鋒のカルルク族の離叛によって帰還兵数千の大敗を喫し、直後の安史の乱や吐蕃の勃興もあって唐の西方経略は急速に後退し、中央アジアのムスリム化が進行した。 このときムスリム軍の捕虜となった職人によって製紙法が西アジアに伝播し、後の西欧の印刷術発達の重要な要因となった。

哥舒翰  〜756
 突騎施の哥舒部の裔。安西副都護哥舒道元の子。『左伝春秋』『漢書』に親しみ、40歳を過ぎで軍に入ると王忠嗣の衙将とされ、剛勇と侠気で士心を得た一方で軍律の運用は厳格だった。 しばしば吐蕃を撃退して玄宗にも名を知られ、失脚した王忠嗣の後任として天宝8年(749)には隴右節度使に進み、数万の兵を失いながらも石堡城を攻陥した。 天宝12年に河西節度使を兼ねて西平郡王に封じられ、安禄山を政敵と見做して楊国忠に通じ、翌年には太子太保・御史大夫を加えられたが、酒色で身体を損って長安に住した。
 安史の乱で高仙芝が処刑されると皇太子先鋒兵馬元帥とされて潼関に進駐し、叛軍を撃退して尚書左僕射・同中書門下平章事を加えられたが、将兵を統制できず、又た軍中での楊国忠誅殺論の昂揚を猜忌されて決戦を強要され、大敗して擒われたのち諸将の招降に失敗して殺された。

張巡  709〜757
 ケ州南陽の人。開元末(741)の進士。太子通事舎人から清河・真源の県令を歴任して能名があり、安禄山が叛くと雍丘(河南省杞県)を数ヶ月間堅守した後に睢陽太守許遠に合し、城を固守して頑強に抵抗したものの援軍を得られず、落城と伴に殺された。 睢陽で燕軍の南下が阻止されたことで穀倉である淮南・江南が保持され、これが安史の乱が成功しなかった最大の要因とされる。
 篭城中に糧食が尽き、愛妾を殺して軍糧としたことが讃えられ、唐の象徴的な忠臣として伝説化した多くの逸話があるが、清代の『池北偶談』では、この妾の幽鬼が張巡の転生した書生を憑り殺した話が紹介されている。

顔杲卿  692〜756
 琅邪臨沂の人。北斉の顔之推の裔。武后期の進士として毫州刺史まで進んだ父/顔元孫の蔭で任官し、范陽節度使安禄山に認められて天宝14年(755)に常山太守とされた。 性剛直で、洛陽の陥落で安禄山の造叛を知ると義兵を組織し、族弟の平原太守顔真卿らとの連携で河北17郡を回復して安禄山の潼関攻略を中断させたが、間もなく史思明に敗れて洛陽で処刑された。

粛宗  711〜756〜762
 唐の第七代天子。初諱は嗣昇、即位後に亨。玄宗の第3子。2歳で陝王に、開元15年(727)に忠王に改封され、武恵妃らによって太子瑛が廃された翌年(738)、李林甫の反対を排して太子とされ、そのため李林甫の抑圧に苦しめられた。 諱は忠王に改封された際に浚と改め、23年に璵、26年の立太子で紹と改名した。
 安史の乱では蜀に逃れた玄宗と別れて隴東の平涼に進み、霊武の朔方留守杜鴻漸に迎えられると側近の宦官李輔国の勧めで即位し、翌年に玄宗から正式に譲位された。 安禄山の横死後に朔方節度使郭子儀を副元帥(元帥は広平王=代宗)とし、回紇などの援兵を得て757年には長安・洛陽の奪回に成功したが、安史の乱を平定できないまま玄宗に遅れる事13日で歿した。 財政再建の為に第五gの建言で塩の専売制を始めたが、朝廷は張皇后や李輔国らに壟断され、又た帰京した玄宗の復辟を猜疑して確執を生じた。

李輔国  704〜762
 本諱は静忠。 玄宗のとき宦官となって高力士に仕え、才を認められて太子(粛宗)に近侍した。安史の乱が生じて玄宗らが蜀に奔ると太子に楊国忠の誅殺を進言し、又た霊武に迎えられた太子に即位を勧進して元帥府行軍司馬とされ、百官の上奏をすべて閲覧するなど大権を掌握した。 長安の回復後に郕国公に封じられ、張皇后と与に朝政を壟断して高力士の流謫や玄宗の幽閉を行ない、粛宗が不予になると張皇后越王を殺して代宗を擁立し、司空・中書令となって宦官で初めて宰相職に就いた。 やがて専権を憎まれ、程元振の抬頭とともに実権を奪われて暗殺されたが、太傅を追贈された。

王維  699?〜759?
 太原祁の人。字は摩詰。開元9年(721)の進士。 夙に文名が高く音律にも通じ、博学多芸で風采も瀟洒だった事から宗室や貴顕と親交し、右拾遺・監察御史・左補闕・庫部郎中・吏部侍郎をへて天宝14年(755)に給事中とされた。 翌年、玄宗の棄京で安禄山に捕われて給事中に補され、洛陽が回復されると弟の王縉らの奔走で減死に処され、やがて給事中をへて尚書右丞に進められた。
 自然を詠った五言詩に長じ、陶淵明謝霊運を継ぐ山水詩人として孟浩然韋応物柳宗元と並称され、水墨画家としては呉道玄李思訓と名を斉しくし、蘇軾からは「詩中に画あり、画中に詩あり」と評され、後に南宗画の祖と目された。 嵩山の普寂禅師に帰依した母の影響で仏教を信奉し、諱と字を合せると仏典中の居士として著名な維摩詰となることは有名で、李白の“詩仙”、杜甫の“詩聖”に対し、その典雅静謐な詩風から“詩仏”と呼ばれる

李白  701〜762
 隴西成紀の人と伝えられる。字は太白、号は青蓮。 綿州昌隆の青蓮郷(四川省江油)で生まれ、剣術を好んで侠士と交わり、各地を遊歴したのち42歳頃に上京して仕官を求め、賀知章より“謫仙人”と賞讃されて翰林供奉に列し、宮廷詩人として活動した。 泥酔中に牡丹宴に呼ばれて即興詩を作って激賞されたが、その際に高力士に自分の靴を脱がさせた為に讒言されて3ヶ月で罷免され、以後は各地を流浪して杜甫高適らと交流した。
 安史の乱が起ると永王の幕僚とされ、そのため処刑されるところを郭子儀の嘆願で助命され、夜郎に流される途上で大赦に遭った後は主に江南を遊覧し、宗族の当塗令李陽冰を頼って同地で歿した。一説では、酒に酔って水面の月を掬おうとして溺死したという。
 中国最高の詩人として“詩仙”と呼ばれ、“詩聖”杜甫と並称・対比される事も多く、自由・率直・明朗にして雄大な絶句を得意とし、古体詩形を愛好して陳子昂に始まる古典復帰を完成させた。

杜甫  712〜770 ▲
 襄陽の人。字は子美、号は少陵野老。杜審言の孫。 河南鞏県で生まれ、天宝初(742)に進士に落第した後は各地を歴遊し、李白・高適らと交わった。 天宝10年に献上の賦によって集賢院侍制とされ、安史の乱での長安陥落で捕われながらも霊武に脱出して左拾遺とされたが、安禄山に敗れた宰相の房琯の罷免を諫めた為に華州司功参軍に出され、関中が飢饉に襲われた759年に棄官して蜀に遷った。 成都では浣花里に草堂を結び、旧知の剣南節度使厳武に厚遇されたが、褊躁かつ奔放な質は治まらず、765年に厳武が歿すると湖南に遷り、零落の中で帰郷を志したものの湘江を遡行する船中で歿した。
 五言律詩・七言律詩の完成者とされ、中国詩人の最高峰として李白と並称され、現実を直視・批判するその詩風は、時に“詩史”とも呼ばれる。 中央を逐われた後に傑作が多く、『兵車行』は李白の『子夜呉歌』に比す代表的作品とされ、従来の外形美を排して現実を直視した気魄を表現して芸術の域まで昂めたが、宋初に於いても尚お、“村夫子”と呼ばれるなどその評価は定まっていなかった。

高適  〜765
 滄州渤海の人。字は達夫。性磊落で官途に就かず、詩名を知られて有道に挙げられたものの李林甫の亶権を厭って棄官し、以後は地方を歴遊したが、河西節度使哥舒翰の求めで幕僚となり、侍御史に進んで玄宗の蒙塵にも随った。 間もなく諫議大夫とされたが、直言を権臣に憎まれて揚州大都督府長史・淮南節度使として永王の討伐に出され、次いで蜀州・彭州刺史を歴任し、761年に成都尹・剣南西川節度使に直され、代宗の即位後に吐蕃が強盛となると徴還されて刑部侍郎・渤海県侯とされた。
 50歳を過ぎてから詩作を始めたが、程なく高名となって李白杜甫とも親交し、享年は60余歳とされる。

徐浩  703〜782
 越州紹興の人。字は季海。宰相張九齢の外甥。玄宗期に明経科に及第し、粛宗初期に中書舎人とされて多くの詔勅を起草し、代宗が即位すると吏部侍郎・集賢殿学士とされたが、嶺南節度使以来の汚職を糾弾されて失脚し、徳宗期に彭王傅を以て終わった。 草書・隷書に優れた。

代宗  726〜762〜779
 唐の第八代代天子。諱は豫。粛宗の長子。粛宗が即位すると天下兵馬元帥とされ、副帥の郭子儀と協力して長安・洛陽を安慶緒から奪回し、その功で758年に太子とされた。 宦官の李輔国が定策を主導した事もあって宦官の権臣化が著しく、そのため藩鎮に対しても有効な抑制策が採れず、宦官による軍部の抑圧は志気を低下させて吐蕃の優勢や763年の長安陥落にもつながった (このとき代宗は陝州に蒙塵し、雍王适(徳宗)・郭子儀を関内元帥・副元帥として1ヶ月余で長安を回復)。 財政難に対しては塩の専売の制度化と共に地税戸税への依存が高まり、第五g劉晏などの財務官僚が抬頭した。

程元振  〜764
 京兆三原の人。宦官として李輔国に仕えて認められ、粛宗が不予になった際には張皇后と越王による兵変を密告し、皇后派の粛清に成功して重用された。 李輔国の専横を憎む代宗に通じて禁軍の指揮権を得、李輔国の追放に成功して驃騎将軍まで進んだが、朝政を壟断して各地の武将を排斥弾圧するなどその弊害は李輔国より甚だしく、763年に長安が吐蕃に占拠されて代宗が陝州に逃れた際、諸将は程元振が放逐されてようやく救援に参集したという。 後に密かに長安に帰還したことが露見し、流謫の途上で憂死した。

魚朝恩  722〜770
 瀘州濾川(四川省)の人。宦官。天宝の末頃に給事黄門となって粛宗に寵任され、監軍として長安回復に従って累進し、安慶緒の追討では自ら観軍容宣慰処置等使となって郭子儀李光弼ら9節度使を統監し、翌年には郭子儀の累功を妬忌して李光弼を天下兵馬副元帥に直した。 763年に吐蕃に長安を逐われた代宗に扈随して天下観軍容宣慰処置使とされ、長安回復後は麾下の神策軍の兵力を背景に程元振を凌ぐ驕横を示した。 宰相の元載とも対立し、宦官の劾奏で宮中での暗殺が黙認されたが、自殺として処理されて内侍監として葬られ、遺族には恩典が施された。

元載  〜777
 鳳翔岐山の人。字は公輔。天宝初(742)に科挙に及第した寒士で、好学博覧で文章に長じ、殊に道教に通じた。 粛宗の即位後に蘇州の江東採訪使李希言の副官に抜擢され、両京の平定で徴還されて度支郎中、戸部侍郎・度支諸道転運使を歴任して嘉され、李輔国に通じて762年に同中書門下平章事を加えられた。 代宗が即位すると中書侍郎に遷って修賢殿大学士・修国史を加えられ、李輔国程元振の排斥にも参与し、代宗と謀って魚朝恩を粛清した際には第五gが連坐した為に度支使を兼ねた。
 劉晏楊炎ら新進の官僚を任用して財政改革を推進させたが、王縉・杜鴻漸らと朋党を結んで顔真卿ら批判派を排斥し、収賄や横領などの醜聞が絶えないなど典型的な権臣として史評は芳しくない。 代宗朝では初の非宦官の権臣で、帝室を凌ぐ富財を蓄えたために謀叛を理由に族滅されたが、代宗が権臣を公式に処刑した最初でもあった。

李光弼  708〜764
 営州柳城(遼寧省朝陽)の契丹人。武后の羈縻に応じて朔方節度副使まで進んだ李楷洛の子。 弓馬に熟達し、王忠嗣に属して主に吐蕃防禦で武功を累ね、朔方節度副使の時に安禄山が叛くと朔方節度使郭子儀の薦挙で河東節度使に任じられ、郭子儀と共に常山・嘉山(河北省曲陽)で史思明を大破して河北の十余郡を解放した。 霊武の粛宗に徴還されて戸部尚書に叙され、次いで北都留守に転じ、太原でも史思明を大破したが、先の諸将の霊武への徴還によって河北諸郡は悉く失われた。
 758年に郭子儀ら8節度使と共に洛陽を回復し、翌年には天下兵馬副元帥に任じられ、次いで太尉・中書令に進められて安慶緒を伐ったが、来援した史思明に累敗して洛陽・河陽を失い、河南副元帥として臨淮に移駐した。 762年には臨淮郡王に進封されたが、この頃には宦官の掣肘・讒言が甚だしく、そのため長安を逐われた代宗の召集にも遅滞したものの、異母弟が朝廷で重用されていた為にそれ以上の反抗は自重した。

僕固懐恩  〜765
 鉄勒人。貞観20年(646)に羈縻に応じた僕骨歌濫拔延の孫。 夏州都督を世襲し、娘が回紇の牟羽可汗の妃とされていた為、安史の乱では援軍を折衝して回紇軍を指揮し、長安回復の殊勲者として757年に開府儀同三司を加えられて豊国公に封じられた。 以後も郭子儀の軍事に従って大寧郡王に進封され、郭子儀が失脚すると朔方節度使を継いで尚書左僕射兼中書令・霊州大都督府長史・単于鎮北大都護などを加えられた。 出自を卑しむ朝臣や宦官による譏議が絶えず、763年にかねて不和だった太原留守の辛雲京や宦官の駱奉仙らに吐蕃による長安占拠の教導を誣されて吐蕃に奔入し、翌年に吐蕃兵を以て入冦して奉天で郭子儀に撃退された。 765年には回紇とも連和して関中に兵を進めたが、陣中で病死して吐蕃兵は却き、回紇兵も郭子儀の出陣で収矛した。

岑参  715〜770
 荊州江陵の人。天宝3年(744)の進士。安西・河西節度使の幕僚として長らく塞外にあったが、安禄山が叛くと粛宗の拠る鳳翔に参じ、杜甫の推挙で右補闕とされた。 起居舎人・虞部郎中・嘉州刺史などを歴任し、致仕して帰郷する途上の成都で歿した。辺塞詩人としてしばしば高適と並称される。

晁衡  698〜770
 日本人。本名は阿倍仲麻呂。717年(開元5年)に留学生として吉備真備・玄ムらと共に第八次遣唐使に加わり、科挙に及第して名を挙げ、李白王維らとも親交した。 秘書監・衛尉卿まで進み、しばしば帰国を請願して翌年(753)に第十次遣唐使の藤原清河の帰国に同行したが、暴風雨に遭って驩州(ベトナムのヴィン)に漂着して長安に戻り、玄宗の入蜀にも随った。 760年には安南都護とされ、767年に召還されて潞州大都督に叙された後に長安で歿した。
 異国人が準閣僚に名を連ねた事は、非漢族政権に発祥した唐の国際性とその限界を示す好例とされる。

元結  723〜772
 汝州魯県(河南省魯山)の人。字は次山、号は漫叟。天宝12年(753)の進士。 安史の乱に際して粛宗に時議三篇を上書して右金吾兵曹摂監察御史とされ、史思明討伐での功で監察御史に進んだ。代宗の即位とともに著作郎となり、後に道州刺史・容管経略使を歴任して治績を挙げたが、母の死を理由に致仕隠棲し、死後に礼部侍郎を追贈された。 形式美を追求する当時の文壇を批判して古文体への回帰を唱え、韓愈柳宗元らに多大な影響を与えた。

不空  705〜774
 北インド出身。不空金剛・不空三蔵とも。中国に密教を伝えた金剛智に早くから師事してその訳経を佐け、金剛智の死後にセイロンに渡って密教経典1200巻を得、天宝5年(746)に長安に帰着した。 訳経に尽力する傍らで玄宗に灌頂を施し、粛宗・代宗に進講して帝師とされたが、呪術的護法宗教を期待され、774年には開府儀同三司に粛国公を加えられた。 漢訳した経典は110部143巻に及び、鳩摩羅什真諦玄奘と共に四大訳経家に数えられる。

顔真卿  709〜785
 琅邪臨沂の人。 顔之推の玄孫にあたり、経学を家学として“学家”とも呼ばれた。 開元25年(737)に進士に及第し、監察御史に累進したのち内外の諸官を歴任したが、楊国忠に剛直を忌まれて天宝12年(753)に平原太守に出された。 安禄山が叛くと常山太守の族兄/顔杲卿と結んで義兵を挙げ、その死後は郭子儀らと呼応して河北の維持に努めたが、756年に鳳翔の粛宗に徴還されて憲部尚書(刑部)に叙され、結果的に河北諸郡は再び安禄山に征服された。
 代宗期には太子少師に転じて顔魯公と呼ばれたが、李輔国元載らと対立して州刺史に出され、徳宗期には盧杞によって反側的な淮西節度使李希烈への慰諭特使とされ、臣従を拒み続けて3年後に殺された。
 多くの能書家を輩出した家系でもあり、王羲之の書法に異を唱えた張旭に学んで独特の楷書“蔵鋒”法を確立し、後世にも絶大な影響を及ぼして楷書の四大家にも数えられる。 又た毀誉褒貶が相半ばした楷書に反し、行書は当時から王羲之に伍す評価が与えられた。

郭子儀  697〜781
 華州鄭県の人。字も子儀。刺史を歴任した父/郭敬之の蔭ではなく武挙の上位及第で任官し、安史の乱が起ると朔方節度使とされ、河東節度使李光弼とともに平原太守顔真卿と呼応して河北諸郡の維持・解放を進めた。 粛宗が霊武で即位すると徴還されて兵部尚書に直され、天下兵馬副元帥として回紇の援兵を含む全軍を統帥し、両京の回復など安史の平定に殊勲があって中書令・汾陽郡王に進められたが、その間に軍功の突出を厭う魚朝恩によって副元帥を剥奪されて京師に徴還された。
 回紇人からは郭令公と呼ばれて絶大に畏敬され、そのため吐蕃と結んで離叛した僕固懐恩が回紇に乞援する際には郭子儀の訃報を偽り、765年に郭子儀が奉天に出鎮すると回紇は唐に帰順し、ともに吐蕃を撃退した。 当代の名将として李光弼と並称され、寛厚な人格から時人の尊崇も篤く、戦地で召還されれば戦中でも直ちに帰京して讒言の余地を作らなかった為に致命的な迫害も被らなかった。吐蕃撃退の功で太尉・尚書令に進められて尚父の尊号が贈られた後も、参政を避けて天寿を全うした。 『旧唐書』の評には、「権は天下を傾けたるも朝は忌まず、功は一代を蓋いたるも主は疑わず、侈は人欲を極めたるも君子これを罪とせず」とある。

第五g
 長安の人。字は禹珪。安史の乱で北海太守の幕僚としてその失地回復に大功があり、成都の玄宗に軍費調達による兵力増強を進言して監察御史・勾当江淮租庸使に抜擢され、江淮からの徴税を強化した。 次いで山南等五道度支使に進み、大運河が麻痺していた乱中、長江から漢水を経由する運路を開き、恰も西域からの来援と重なって士気高揚に大きく資したという。司金郎中・御史中丞・諸道塩鉄鋳銭使とされた後、758年に塩の専売を宣し、製塩者を雑徭免除として塩鉄使に隷属させたが、これは顔真卿が山東で行なった措置に倣ったものとも謂われる。 翌年、同平章事とされて2種の高額貨幣(開通元宝銭の10倍と500倍)を発行したが、穀価高騰と盗鋳の続発を問われて忠州刺史に左遷された。762年には判度支兼諸道鋳銭塩鉄転運常平等使に直されて京兆尹を兼ね、766年には戸部侍郎・判度支に進んだが、770年に魚朝恩に連坐して州刺史に出され、徳宗に招聘される直前に70もしくは71歳で歿した。

劉晏  715〜780 ▲
 曹州南華の人。字は士安。8歳で神童科に挙げられて秘書正字に叙され、後に度支郎中・河南尹・戸部侍郎・判度支などを歴任して財務官として能名を挙げ、763年に元載の薦挙で吏部尚書・同中書門下平章事に領度支塩鉄転運租庸使を兼ねて安史の乱後の財政再建に尽力した。
 第五gの始めた塩の専売制を整備して国庫を充実させ、併せて収益の一部を運糧や大運河の復旧に充てて雑徭の軽減と漕運の発達を実現し、乱後の財政を再建して唐代随一の財政官と称された。 764年に程元振に連坐して罷免されたものの、程なく御史大夫に直されて四道転運租庸塩鉄使を兼領し、後に吏部尚書に復したが、かねて対立していた楊炎が徳宗の宰相に抜擢されると忠州刺史に流され、讒言で自殺を命じられた。

徳宗  742〜779〜805
 唐の第九代天子。諱は适。代宗の長子。代宗が即位すると天下兵馬元帥を継ぎ、史朝義を討滅して安史の乱を終息させ、764年に太子とされた。 即位後は、臨時徴収が常態となっていた税制の抜本的改革に着手して楊炎の建議になる両税法を実施し、又た藩鎮の抑圧による朝廷の威信回復を図った。 特に藩鎮に対しては世襲禁止と削兵などの強行策を採ったが、反側藩鎮の大抵抗を生み、運輸の途絶と軍費の増大から早くも間架税・除陌銭などの雑税を付加しただけでなく、宮市などを行なって民生を圧迫した。 原の兵乱で長安を逐われると784年に“己罪詔”を発し、即位以来の政策を否定して事態を収拾せざるを得ず、乱後に陸贄が排斥されて裴延齢らの財務官が重用されるようになると与に、藩鎮・刺史による搾取が増大した。
 徳宗の治世は税制の改革と藩鎮に対する強硬姿勢から中興と称される事もあるが、藩鎮対策の挫折に加えて吐蕃に甘粛南部を奪われ、神策軍などの新設の禁軍を宦官に掌握させてその権力を更に増大させた。

楊炎  727〜781
 鳳翔天興の人。字は公南。文才によって知られ、宰相の元載と同郷だった為に吏部侍郎まで進み、大暦12年(777)に元載に連坐して道州司馬に左遷されたが、徳宗が即位すると門下侍郎・同平章事に抜擢され、前代の新税を整備して翌年(780)から両税法を実施した。 税収の増加と政府集権を目的とした両税法は利権を失った宦官や大地主・藩鎮から怨恚され、又た互いに矜持の強い徳宗とも衝突し、盧杞の登用と伴に崖州司馬に左遷され、途上で処刑された。

沈既済  ▲
 蘇州呉の人。 史家として楊炎に認められて左拾遺とされ、楊炎の改革を輔けたが、楊炎の失脚で処州司戸に遷され、後に中央に復したものの礼部員外郎で終わった。 本名・官歴よりも著作の『枕中記』が有名で、楊炎の失脚を諷刺したものとの解釈もあるが、寧ろ作中の盧生に自身を投影して不遇を慰めていたものと考えられている。

盧杞  734〜785
 滑州霊昌の人。字は子良。 范陽盧氏の支族にあたり、祖父の盧懐慎は開元元年(723)に同平章事に至り、父の盧奕は御史中丞まで進んだ。 父祖の蔭によって仕官し、州刺史を歴任したのち建中元年(780)に御史中丞、次いで御史大夫に進み、徳宗に承旨して宰相の楊炎を失脚させると門下侍郎・同中書門下平章事に至った。 口才と陰謀に長じて朝政を壟断し、酷吏を重用して顔真卿ら功臣を排斥し、郭子儀からも将来の禍根と見做されたという。建中4年(785)に朔方節度使李懐光の離叛を弾劾されて嶺南の新州司馬に出され、湖南の澧州別駕に徙される途上で歿した。

辺鸞
 京兆の人。画家として花鳥に秀で、殊に折枝花・草木に於いては前人未到の境地を開いたと評される。徳宗の貞元年間(785〜805)、新羅から献上された孔雀を玄武殿で写生したところ、正面画・背面画ともに生動する如くだったと伝えられる。 官は右衛長史で終り、退官後は水滸で写生に費やしたという。

李希烈  〜786
 燕州遼西の人。安史の乱に与して董秦(李忠臣)に従い、蔡州の淮西節度使となっていた李忠臣を大暦14年(779)に逐って節度使を追認された。 徳宗の河朔討伐では官軍に与し、襄陽の山南東道節度使梁崇義を滅ぼして南平郡王に封じられたが、行賞の不満から翌年(782)に反側に転向して汴州で大楚皇帝を称し、に呼応して東都を攻略した。 河朔が帰順に転じた為に劣勢となり、敗退後に蔡州で部将の陳仙奇に殺された。
  
 陳仙奇の帰順を以て建中兵乱は終息したが、淮西藩は以後も自立を保ち、節度使の継承に朝廷の介入を排して追認させる事が続いた。 786年に陳仙奇を殺した呉少誠は内治にも長けて勢力を増し、799年に陳許節度使の死に乗じて豫南に出兵して討伐されたが、官軍を悉く撃滅して赦免と官職の安堵などが認められ、憲宗が即位すると検校司空に進位されて濮陽郡王に封じられた。 呉少誠は元和4年(809)に歿して義弟の呉少陽が簒奪し、その死(809)後は嗣子の呉元済が立ったが、朝廷が継承を認めなかった為に成徳藩平盧藩と結んで挙兵して容易に鎮圧されず、元和12年(817)に至って唐ケ節度使李愬の奇襲で平定された

李晟  727〜793
 洮州臨潭の人。字は良器。騎射に長じて将略に富み、18歳で河西節度使王忠嗣の軍に投じ、吐蕃・党項との歴戦を通じて“万人敵”と讃えられた。 建中の兵変では神策軍を率いて河北の叛鎮を討ち、次いで関中で叛いた滎朱李懐光を大破して長安を回復し、鳳翔隴右節度使・管内諸軍行営兵馬副元帥・西平郡王とされた。
 兵と辛苦を共にし、戦では先陣に立ち、長安回復では秋毫も侵さなかったことで名将と謳われ、吐蕃の貞元2年(786)には吐蕃を大破したが、功才を畏忌されて宰相の韓滉が歿した翌年(788)に兵権を奪われて太尉・中書令に直され、河・隴の多くが吐蕃に陥された。 以後は諫官を自認し、亦た在任中は公私を厳別して子の李愬を昇進させなかった。

韓滉  722〜787
 長安の人。字は太沖。開元年間(713〜741)の宰相韓休の子。恩蔭によって仕官して代宗の大暦6年(771)に戸部侍郎・判度支に転じてより財務官として評価され、鎮海軍節度使のとき李希烈より宋州・汴州を奪還するのに大功があった。 加えて原の兵乱で混乱する関中への運糧を整備・強化して785年には検校左僕射・同平章事に進められ、翌年に晋国公・浙江東西節度使とされて度支諸道転運塩鉄等使を兼ねた。

賈耽  730〜805
 滄州南皮の人。字は敦詩。天宝10年(751)に明経科に及第し、地方官を歴任して抜群の治績があり、徳宗の下で節度使を歴任したのち793年に左僕射・同中書門下平章事とされ、徳宗に信任されて13年間在職した。 地理学者としても著名で、方眼図法の元となった『海内華夷図』など多数の著・図があったが、殆ど散逸した。

陸贄  754〜805
 蘇州嘉興の人。字は敬輿。 大暦6年(771)に18歳で進士に及第して地方官を歴任し、徳宗が即位すると翰林学士とされた。性剛直で、帝寵篤い盧杞を弾劾してやまず、原の兵乱では徳宗に己罪詔を下すことを勧めて多くの藩鎮が帰順した。 常に帝側にあって制誥や政策を担った為に“内相”とも呼ばれ、朔方節度使李懐光が叛いた際にも帝に随って梁州に逃れ、792年に中書侍郎・同平章事に進んだが、794年に裴延齢に讒言されて忠州別駕に降格され、同地で歿した。 両税法に対しては、その原則が貨幣価値の騰貴と物価暴落を招来するとして実施に反対した。

杜佑 735〜812
 京兆万年の人。字は君卿。名家の出で恩蔭で任官し、宰相となった楊炎の下で水陸転運使、度支郎中・兼和糴等使などを歴任し、能名を称されて戸部侍郎・判度支に進んだが、楊炎の失脚で蘇州刺史に遷され、程なく嶺南節度使に転じた。 貞元3年(787)に尚書左丞とされ、陝州観察使、淮南節度使、刑部尚書などを歴任し、反側化の動きを示す徐州節度使に備えて濠泗等州觀察使とされた後、貞元19年(803)に徴還されて検校司空・同中書門下平章事とされた。
 性敦厚で社稷の臣を自任し、徳宗・順宗の冢宰を摂して司徒・弘文館大学士・岐国公などを加えられ、憲宗の下で実権は乏しかったものの避諱などの礼遇が加えられ、元和7年(812)に病臥して漸く骸骨が認められた。 唐代最高とすら評される進歩的学者でもあり、代表作の『通典』によって「司馬遷以後の第一人者」と評された。

悟空
 京兆雲陽の人。俗名は車奉朝。天宝10年(751)に国使張韜光の随員として罽賓(カシュミール)に向い、現地で病臥して757年に出家した。後にガンダーラにも留学して仏寺を巡礼し、790年に長安に帰還すると徳宗に尊信されて“悟空”と賜名され、章敬寺に住して訳経に従事した。 行程の図録を附した旅行記『悟空入竺記』を著した。

澄観  738〜839
 越州山陰(浙江省紹興)の人。11歳で出家し、律・禅・華厳などの大乗諸経論を研究して俊秀と称され、不空三蔵の訳経にも参加した。徳宗の命によって『四十華厳』を訳してよりは五台山清涼寺で華厳の研究と復興に尽力し、華厳宗の第四祖と称される。

順宗  761〜805/805〜806
 唐の第十代天子。諱は誦。徳宗の長子。王叔文を翰林学士として綱紀粛正や君主集権・財政再建などを試行したが、即位直後の大病で失語した事を理由に宦官に退位を迫られ、7ヶ月で太子に譲位して改革も頓挫した。

王叔文  753〜806 ▲
 越州山陰(浙江省紹興)の人。囲碁と書によって徳宗の東宮(順宗)に仕え、時局を論じて信任され、順宗が即位すると翰林学士・度支塩鉄転運使とされ、柳宗元劉禹錫らと結んで宮市進奉の廃止、神策軍の兵権移譲など宦官の利権縮小を図った。 進士ですらない寒士だったために要路の協力が得られず、殊に宦官の妨害が甚だしく、改革は順宗の退位で頓挫し、憲宗の即位とともに渝州司戸参軍に流されて翌年に殺された。
 恩倖型である為に史書では奸臣に分類され、順宗の在位が短い事もあって改革の詳細については殆ど伝わらず、現在に至るまで毀誉褒貶が分かれている。


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