府兵制
西魏で始められて隋唐で整備された、兵戸制に代る兵制。
北魏の分裂後、元々兵力で大きく劣っていた西魏/宇文泰が邙山の敗戦後の深刻な兵力不足に対処したもので、在地の漢人豪族を郷帥に任じて郷兵を組織させた事に始まり、550年に96団に編成して中央の24軍に所属させ、6人の柱国を最高指揮官とした。
団は儀同将軍に、軍は開府将軍に率いられ、12大将軍がそれぞれ2軍を率い、柱国大将軍が各2大将軍を統轄するとともに中央の六官に就いて国家の首脳部を形成した。
府兵は通常の戸籍から除外されて租調庸を免除され、武具・糧食なども民間の負担となって兵の地位向上と政府の負担軽減を両立し、北周の覇業の源泉となって平斉後は関東にも拡大した。
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西魏と指導勢力を同じくする隋・唐も府兵制を継承し、儀同府は整理縮小されつつ隋で驃騎府・車騎府、次いで煬帝が鷹揚府に、唐で折衝府に改編され、中央の十二衛府と六率府(東宮の衛)に分属して衛士を供給した。
府兵は3年ごとに、開元6年(718)以降は6年ごとに選抜され、10名で1火(火長)、5火で1隊(隊正)、4隊で1国(校尉)を編成して農閑期に府で訓練を受け、30日間の番上=京師警備中は衛士と呼ばれた。
隋唐の府兵は良民と戸籍上で区別される事はなくなったが、年に2〜3回の番上に京師までの往復期間を加えると柤調庸が全免される計算となる。
又た在役期間中1回、辺境の鎮・戍に配属されて防人となる義務もあり、任期は3年とされた。
折衝府が置かれたのは90州程で、殊に首都圏に集中し、府兵は租調庸が全免されたものの食糧・武具は自弁であり、課役は折衝府の置かれた州民にのみ負わされた為に府州からの逃民が絶えず、均田制と府兵制の崩壊は相互に作用した。
辺防の主力は防人から募兵制の長征健児制に移行し、中央でも十二衛の弱体化に対して張説が開元11年(723)に募兵制の彍騎を提議したが、畿内の下等戸からの徴兵制に変質して定員も衛士に比して大きく縮減され(計12万が30日/半年の輪番)、宦官の掌握する北衙禁軍が有力で永続しなかった。
折衝府 ▲
隋代の鷹揚府が改称されたもので、折衝都尉を長官として21〜59歳の丁男の徴兵・訓練、京師や防人への派遣などを司掌し、府兵制運用の柱となった。7割近くの400余が関中・河東・河南に集中配備され、辺境の200程と併せて95%を占め、規模によって上中下の別があり、兵力は各1000〜1200・800〜1000・600〜800程だった。
折衝府による丁男の徴発は設置の州に対してのみ行なわれ、そのため過重な負担を嫌って府州からの逃戸が絶えず、制度の中に自壊の要因を含んでいた。
長征健児制
羈縻政策の破綻に直面した唐が辺防の常備軍確保の為、開元25年(737)に定めた募兵制。
唐での募兵自体は、有事の際の“行軍”を組織する半ば徴兵的な兵募(臨時募行者)として確認でき、唐の辺防政策が7世紀後期に大軍が常駐する軍鎮制に移行した後、その主力は兵募や健児が担った。
駐兵中は租調庸の免除だけでなく家族に対する衣食の官給も行なわれたが、下等戸への徴募の集中や任期(6年)の延長、官給の停滞や軍事の頻発などから逃戸(背軍)が激増し、維持が困難となっていった。
長征健児制では鎮兵・客戸から募兵し、任地への家族での移住や衣食住の保証などが定められ、客戸の運用を認めた事で均田制の原則の崩壊が公認されたと見做される。
開元末期には60以上の軍鎮が計50万近くの兵力を擁し、これを節度使が地域ごとに管轄し、軍の駐屯地である鎮が地方都市として勃興した。
又た中央でも募兵で編成された神策軍が禁軍の主力となり、募兵は中唐・晩唐では藩鎮の支柱となって五代の乱世を招来したが、中央政府が統制に成功した宋では君主独裁制の軍事的基盤となった。
都護府 唐
漢の西域都護に発祥し、唐代に羈縻支配と属領の経略を担い、要地の都護府は特に大都護府と呼ばれた。羈縻州とその上位の都督府を統轄し、諸民族の慰撫・警戒・討伐にあたった。
朔漠担当の安北都護府・単于都護府、西域担当の安西都護府・北庭都護府、東方担当の安東都護府、ベトナム担当の安南都護府があった。
藩鎮
唐〜宋の軍事使職が一地方の兵・民・財政権を掌握した状態を指し、一般的には節度使・観察使の俗称。
殊に節度使は親衛隊である牙軍を中核として強大な兵力を擁し、要地に配した配下の駐屯軍は鎮(外鎮・巡鎮)と呼ばれ、鎮将は現地の団練使や刺史を兼ねて小軍閥を形成した。
藩鎮数は9世紀初頭には48を数え、河朔三鎮に代表される15の反側藩鎮で295州中71州を支配した。
廂軍
宋の官軍の一種。唐の軍隊編成用語に由来したもので、五代では都市鎮兵を指した。
宋では藩鎮解体の際に禁軍に選抜されなかった老若病兵を廂軍に再編して諸州に鎮守させ、知州の隷下の州兵として主に土木工事などを担当した。
郷兵
広義には郷里防衛の民兵を指し、府兵制の前身となった宇文泰の兵制も郷兵と呼ばれるが、通常は北宋の民兵組織を指す。
宋の兵制は禁軍・廂軍・郷兵・蕃兵から成り、郷兵は郷村防衛に組織された一種の自警団で、平時は耕作に従事し、維持費が低廉だった為に戦力と共に国防上重視された。
殊に北辺で発達して河北・河東の強壮・義勇、陝西の保毅が広く知られ、郷土防衛では絶大な威力を発揮して禁軍以上の成果を上げた為、西夏・契丹防衛では禁軍の補助として併用された。陝西・河東・河北では屯田組織を形成した弓箭手もあり、河北の民間では弓箭社も組織された。
大都督府 魏〜元
魏晋南北朝の大都督は刺史が数州の兵権を統轄した際の称で、方面軍総司令官として絶大な権限を有し、元朝では諸衛・万戸府を統率する中央の軍政機関として機能した。
明朝でも建国以前の1361年に元朝の枢密院に代る最高軍政機関とされたが、洪武13年(1380)に胡惟庸の獄を機に五部に分割された。
五軍都督府 明 ▲
明朝の最高統帥機関。
洪武13年(1380)の中書省の廃止と共に大都督府を前・後・左・右・中の五府に分割したもので、それぞれに左右都督・都督同知・都督僉事らを配し、兵部直属の親軍衛以外の都司・衛所を統轄した。
左軍都督は浙江・遼東・山東を、右軍都督府は雲南・貴州・四川・陝西・広西を、中軍都督府は直隷・河南を、前軍都督府は福建・湖広・江西・広東を、後軍都督府は北平・山西を管轄し、京営は五府に分属した。
世宗が京営を統轄する為に新設した戎政府に権限を移行されて実権を失った。
京営
明朝の永楽22年(1424)に成立した京師の三大営(五軍営・三千営・神機営)の総称。
五軍営は直隷とその隣接する都司から選抜された上番班軍、三千営はモンゴル騎兵団、神機営は火砲団。
土木の変で壊滅した後に兵部尚書于謙が兵15万で10団営を創設して以来、英宗の天順年間(1457〜64)を除いて概ね12兵団で編成される団営制が行なわれたが、世宗の嘉靖2年(1550)に京営制に復旧して三千営は神枢営と改称された。
初期の京営は勲臣が統率して宦官が節制したが、英宗以降は太監が三大営・12団営を統率し、その武力を背景に政治への容喙を強めた。
衛所制 明
明朝の兵制。衛は皇帝直属の親軍たる上十二衛(後に二十二衛)と、都司に属して国防と地方の治安維持を担当する外衛に大別され、外衛は地方州県の要害に設けられて指揮使を指揮官とし、選抜された精鋭は班軍として上番して京営を支えた。
所は守禦千戸所・守禦百戸所の略で、百戸所は里甲制の里に相当して小旗(10人隊)10隊で編成され、5小旗で総旗を、2総旗で百戸所を構成し、各旗に指揮官を置いて百戸所は兵112人を擁し、10の百戸所で千戸所、5の千戸所で衛となり、1衛の兵数は原則として5600名とされた。
洪武17年(1384)に全国に拡大され、同6年に169衛・84千戸所だったものが、同26年には329衛・65千戸所となっていた。
明朝の兵制は兵戸制を踏襲したもので、軍戸には屯田が支給されて自給自足が原則とされたが、従軍・屯田・労役の負担は過重で洪武の頃から逃戸が絶えなかった。
又た都司や内監による屯田侵掠や糧餉不足などから多くの軍戸が没落し、更に欠員を補充せずに定数を申告する事で俸給を横領する事が上下に蔓延し、正徳(1506〜21)の頃には衛所制は半ば形骸化していた。
そのため嘉靖年間には北虜南倭のへの対応もあって募兵制が併用され、同時に辺防諸将は私費を投じて家丁(私奴隷)で私軍を編成し、明末まで牙軍的な存在として明の軍事力を善く支えた。
指揮使・都指揮使を羈縻した非漢族に土官として遙授する事もあり、その集団も便宜上“衛”と呼んだ。
錦衣衛 明 ▲
明朝の上十二衛の1つ。洪武15年(1382)に儀鸞司を再編・改称したもので、親軍指揮使司に属し、勲戚の都督の下に南北両鎮撫司・十四所を統轄して儀杖・宮禁守護が職務とされたが、実際には特務面が重視されて一種の秘密警察となり、北鎮撫司の処理する“詔獄”が別称となった。
洪武の末期に廃止されたが、建文帝捜索の為に永楽帝が復置し、同様の職責を有する東廠が設置された後はその官校を撥給するなど、東廠とは相い表裏して宦官の影響力が強くなった。
成化帝以降は廠権が強くなったが、錦衣衛は兵刑両権を行使する特殊官として、東廠とともに明朝の風潮の一面を代表する機関として存続した。
緑営 清
1644年の清朝の入関以降に帰降した漢人で編成された官軍。
衛所の兵力を半減して継承したもので、緑色旗を標として主要官は旗人が占め、八旗同様に在京・在外に分けられた。
在京緑営(巡捕営)は歩軍統領に属して北京内外の保安を任とし、在外緑営(標営)は総督・巡撫・提督・総兵・将軍などの指揮下に地方を警察した。
標営は三藩の乱を機に増強され、乾隆末期まで内外征戦の殆どに主力として投入されて19世紀前期には60万に達した。
乾隆年間(1736〜95)での戦力の著しい劣化は白蓮教の乱で内外に露呈し、太平天国の乱では軍として機能せず、郷勇・団練などが主戦力となった。
団練
清代に盛んとなった自警組織の一種。郷紳層が主宰して地縁性が強く、郷村防衛を任として経費も自弁とされ、郷里を離れて官軍の一翼として活動するものは郷勇と呼ばれた。
郷紳の私利追求の一手段とされ、農民叛乱の弾圧に利用されることが多かった。
郷勇
宋代の郷兵、明代の民壮。
清朝の正規軍たる八旗・緑営の乾隆年間(1736〜95)以降の機能不全に対し、嘉慶年間(1796〜1820)に各地の叛乱鎮圧のために団練と共に半官組織として公認された。
太平天国に対して組織された江忠源の楚勇、曽国藩の湘勇、李鴻章の淮勇、左宗棠の楚勇が代表的で、いずれも準官軍として官給を受け、太平天国鎮圧の主力として各地を転戦した。
郷紳層が幹部を構成して農民兵が主力となり、血縁・師弟・同郷などの関係を紐帯とし、基本的に郷里防衛から発祥した為に朝廷に対する忠誠心は概ね低く、軍閥割拠の先蹤となった。
練軍
緑営に代わる清末の軍制。太平天国の平定の主力となった郷勇の殆どが解体された後、同治5年(1866)頃より八旗・緑営から壮健な兵員を選抜して各省ごとに編成された。
練軍の運営は湘勇を参考にし、兵力の大部分は緑営から選抜されて八旗から編成されたものは特に八旗練軍と呼ばれたが、ともに日清戦争では戦力とならず、純洋式の新軍編成が進められた。
新建陸軍
日清戦争で壊滅した淮軍に代る洋装陸軍として天津で編成された定武軍を、提督となった袁世凱が1895.10に改称したもの。
ドイツより軍事顧問を招聘して7千人規模に拡大され、戊戌政変に際して栄禄が北洋陸軍を武衛軍に改編すると武衛右軍と改称された。
山東巡撫に転じた袁世凱に従って義和団制圧で威力を示したが、義和団事変に於いては東南互保協定に加わって武衛軍の中で唯一勢力を温存し、戦後には新建陸軍を核として北洋新軍が編成された。
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新軍 :袁世凱の北洋新軍、張之洞の南洋新軍を範として、光緒維新の一環として各省で編成が進められた洋装軍。
当初は36鎮が計画されたものの16鎮16混成協にとどまり、6鎮より成る北洋新軍が中央軍として練度・装備とも最も充実し、袁世凱の覇権の源泉となった。
兵の採用に際しては土着である事、前科や滞税が無い事、心身壮健である事など厳しい基準が設けられたが、現状に対する批判派を多く吸収して清末には革命・反革命の両面を有し、武昌起義に呼応して省ごとに独立を宣言して辛亥革命を成功させた。
都督 三国魏〜明
州の軍事を管轄した都督府の長官。
222年に創始された当時は将軍が帯びて州に駐留する禁軍を指揮し、開府を認められて独自に府官を任じ、“諸軍事”を冠する事で軍政・監察をも兼ねて1州以上の軍事を統轄し、複数の都督区を統轄した場合は特に大都督と呼ばれた。
刺史を兼ねる事も多く、州の細分化が進んだ南朝では郡都督が現れた一方、複数州を都督区として統轄することが常態化した。又た弱年の皇族都督の下では副官の長史が実務を代行し、長史が治所の太守を兼ねるなど都督府の官が管下の守令長を兼ねることも一般化し、都督区の軍閥化を助長した。
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北魏の行台を経て北周で総管と改称され、隋では特に幷・益・荊・揚に大総管府を置き、唐では要地に配置されて数州の軍政を統轄するとともに治所の刺史を兼任したが、唐初の武徳7年(624)に都督府に改称された。
都督は帰順した首長の中でも特に有力な者に授けられた羈縻官でもあったが、国内外とも節度使の列置に伴い順次廃止された。元朝では全国の軍政の統括機関として中央に大都督府が設けられたが、明朝では五部に分割された。
行台 三国魏〜金
行尚書台。
尚書省の高官が従軍・出征した際に軍中に臨時に置かれた事に始まり、北魏では後燕を征服した際に鄴・中山に臨時的に置かれたが、6世紀には尚書令・僕射が辺地巡察や出征軍を統督する際に行台とされ、六鎮の乱の後は州刺史や州都督・諸軍事を兼ねて地方の臨時的な軍政機関として機能した。
正光年間(520〜25)には複数の州を統轄する“道行台”や“大行台”も設定され、北斉では管区も定められて方面道行台と某州道行台が併用されたが、いずれも非常置で、北周では総管と改称された。
隋初・唐初にも要地の一帯には親王・勲臣を長官とする行台が置かれたが、いずれも程なく廃された。
金朝では斉国を廃した後に開封に行台尚書省を置いてその故地を管理したが、1150年に廃した。
元朝が各地に置いた行御史台も行台と呼ばれた。
経略使 唐〜宋
唐の使職の1つ。
貞観2年(628)に縁辺の州に軍事官として置かれた事が初出で、盛唐の十節度使のうち、広州には当初は嶺南五府経略使が置かれた。
安史の乱後は節度使・観察使が兼ねる事が多く、宋代には経略按撫使として辺路の軍政を司掌した。
団練使・防禦使 唐〜遼・金
唐の軍事使職の1つ。州の軍事を統轄し、複数州を領した場合は都団練使・都防禦使と呼ばれ、いずれも武則天の時代に置かれた事が確認されている。
安史の乱が起ると要地に置かれ、多くは観察使や刺史が兼務して藩鎮化し、殊に長江流域には団練使が多かったとされる。
鎮将が刺史と共に兼ねて節度使・観察使が勢威を保つ一助となり、そのため宋では欠員が生じると文官の知事を置く事で減滅が図られ、武官の寄禄官となった。
共に遼・金では防禦州や南辺の諸州に置かれて軍政を行なった。
節度使
羈縻制に代る国土防衛策として設けた辺境軍鎮の司令官を使持節都督としたことに起源し、複数の軍鎮を統禦する為に710年の河西節度使より順次増置され、721年(開元9)の朔方節度使を以て十節度使が成立し、軍鎮数も開元末には60余に増加して総兵力486,900が募兵で賄われた。
節度使の任期は当初は3年を期限とし、又た塞外の3鎮(安西・北庭・平盧)以外は高級官僚の経験職とされたが、異民族節度使の中央進出を制限した李林甫の施策によって任期の長期化や複数兼務が認められて次第に軍閥化し、三節度使を兼任した安禄山の叛乱は唐朝のみならず社会体制そのものの大転換をもたらした。
安史の乱を契機に内地にも節度使が設置されたが、招撫に応じた叛将を使君とした藩鎮は中央の統制に容易に従わず、河朔三鎮・淮西節度使の如く中央に敵対するものもあった。
乱後の唐朝は叛鎮問題を最大の懸案とし、概して藩鎮の廃止ではなく分割と順地化を旨とし、藩鎮の恣意的な地方支配が唐朝の崩壊を導いた。
続く五代十国はいずれも藩鎮国家の域を出ず、中国の再統一に成功して宋朝を開いた趙匡胤も後周の節度使の出身だった。
唐末の節度使29〜31に対し、華北のみを領した五代王朝では36〜39を数え、そのため後周・宋は軍閥抑制に腐心し、行財政権を分離して鎮将を次第に文臣に替え、節度使は名誉職となった。
鎮将 ▲
鎮使。唐〜五代、節度使が藩内の州県や関津険要に配し、軍務以下の庶政を担当させた軍将。
多くは団練使・防禦使を帯びて時に刺史を兼ね、朝廷の任命による民政官を監視掣肘して行財政の実質をも掌握し、節度使勢力の拡大・確立の一助となった。
その反面で節度使は最有力鎮将としての一面を脱せず、節度使侍衛の牙軍を指揮する鎮将による廃立・簒奪がしばしば行なわれた。
宋初には有名無実となってまもなく廃止され、小都市=鎮に名称が残された。
牙軍 ▲
将軍の親衛兵。牙は衙に通じ、将軍の旗の略称。唐〜五代の節度使直属の親衛兵も牙軍と呼ばれ、唐代にはしばしば節度使を廃立し、五代では簒奪に伴って侍衛禁軍とされ、伝統的に極めて驕横だった。
按撫使 隋〜清
北魏の酈道元が按撫大使とされた事に起源し、隋唐では天災の際に巡察使・存撫使とともに地方を巡監した臨時の使職。
宋では路の軍事を統轄して要地の知州が兼ね、遼でも置かれ、金朝では1208年に宣撫使から改称され、按察使が兼務して軍事と検察を司掌した。
元朝では宣慰使と改められて道の行政を監察し、辺地に置かれた場合は元帥府を兼管して行政・軍政を司掌した。
明清では宣撫使とともに西南夷に賜与される土司の武職名となった。
経略按撫使 宋 ▲
帥司とも。按撫使に経略使を兼ねさせて河東・陝西・嶺南など縁辺の路に置かれ、民政・軍事を司掌して有事の際の専断が認められていた。軍閥が地方の兵権を掌握した南宋では虚名のみとなった。
制置使 唐〜宋
唐の宣宗が851年に党項討伐軍を統制する為に置いた事が最初で、宋でも唐制に倣って専ら辺境の非常置官とされた。北宋末には各地に置かれ、南遷後は概して按撫大使を兼ねて複数の路の軍事を総督した。
宣撫使 唐〜元 ▲
軍道の軍事を司掌した臨時官。
唐憲宗のとき平盧節度使李師道が平定された後に楊於陵が淄青等宣撫使とされた事が最初で、宋でも宰相級が出征する際に帯びる臨時官とされた。南宋では宣撫処置使とも呼ばれて実戦指揮の軍団長に多く授けられ、概ねは路を単位とした軍事を司掌して制置使に統制された。
金朝では1205年に置かれ、程なく按撫使と改称し、元初には腹裏の諸路に置かれて民政を担当したが、後に廃されて四川・雲南・湖広の土司に与えられた。
都統 前秦〜清
前秦の苻堅が南征の直前、20歳以下の良家の子弟で新設した軍隊の指揮官を都統と呼んだことに起源し、唐の安史の乱では全軍の帥として天下兵馬都統諸道節度使があり、乱後は道内の討伐指揮官の称として用いられ、後に乱立の傾向を生じて都統の上位に都統制が設けられた。
道域を超えた討伐軍の総指揮官の呼号としては招討使があり、概ね他職を兼ね、宋・金にも踏襲された。清朝では1660年の官名改称の際に八旗の指揮官のグーサ=エジェンを都統と改め、副官のメイレン=エジェンを左右副都統と改めた。
都指揮使 明
省内の衛所を統轄して1省の軍政を司掌した。その官署は都指揮使司・都司と呼ばれ、13の都指揮使司と3の行都指揮使司で発足し、1382年に15都司、1430年に16都司となった。
五軍都督府に属して省内では布政使・按察使と並立し、属官に都指揮同知(2員)、都指揮僉事(4員)などがあった。
総兵
鎮守総兵官。明制では出征の際に置かれた臨時の軍司令官だったが、衛所制の形骸化が深刻になった正徳年間(1506〜21)頃より指揮使に代る常設官となり、協守副総兵・分守参将・游撃将軍などが属した。
清朝では省内の要地の鎮の緑営を指揮して提督・巡撫に属し、総兵の直轄する軍を鎮標、副将の軍を協標と呼んだが、いずれも兵数は一定しなかった。又た鎮内の要地には汛が置かれて千総が指揮した。
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提督 :明朝では京営を監督し、概ねは太監か勲戚大臣が任じられた。清朝では重要な省に置かれ、省内の緑営を統轄する武官の最高位として位階は総督と同格とされ、巡撫が帯びる事も多かった。