高岳
清河王。字は洪略。高歓の従父弟。
高歓の挙兵に従い、韓陵の役では右軍を督し、高歓の中軍が崩れると爾朱兆を横撃して転機を為し、戦後に衛将軍・左光禄大夫・清河郡公とされた。鄴奠都後に京畿大都督に進み、孝静帝の下で執政して高隆之らと与に“四貴”と呼ばれた。
高歓の死後、侯景の離叛と梁の貞陽侯の来攻に対して諸軍を総督して南討し、行台の慕容紹宗が梁軍を大破し、渦陽では左衛将軍劉豊が侯景を大破し、次いで両軍を率いて長社に王思政を攻略し、高澄の親征を得て潁川を平定した。
禅譲で清河郡王に進爵され、554年に太保を加えられ、西魏による江陵攻略では西南道大行台となって赴援したが、及ばずに郢州刺史陸法和を帰順させて帰還した。
華侈を好んで酒食を悦び、嘗て高帰彦を冷遇した事を恨まれて第宅の壮麗を誣されてより文宣帝の猜忌も強まり、文宣帝の嗜殺を強諫したところ高帰彦が使者となって賜死された。
高渙 533〜558
上党王。高歓の第7子。夙に将器を自任して高歓に愛され、長じて挙鼎の豪力を備えた。
高澄の死後に冀州刺史に叙されて恵政を称された一方で、鄴に軽薄の徒を集めて郡県の害を為したとも伝えられ、側近数名を刑戮された。
555年に梁王蕭淵明を護送して東関を抜き、557年に録尚書事とされた。
嘗て「亡高者黒衣」の託宣があってより高氏は沙門を忌避していたが、漆を黒の最たるものとして漆と七を同音類語とした文宣帝に召喚され、捕吏を殺して遁走したものの黄河の南岸で捕われて鄴で殺された。
高湝 〜577
任城王。高歓の第10子。禅譲で封建され、孝昭帝・武成帝の入鄴の際には常に晋陽に鎮して総幷省事とされ、562年より三公・三師・左右丞相を歴任し、576年に後主が鄴に奔ると大丞相を加えられた。
清廉ではなかったものの寛恕で、高歓の諸子の唯一の存命者としても輿望があり、晋陽で僭称した安徳王からも与力が求められ、又た済州に奔った幼主より譲位が諮られたものの、使者の斛律孝卿が周に投じた為に果たされなかった。
広寧王孝珩と倶に冀州で宇文憲に敗れて擒われ、長安で後主らとともに殺された。
高紹義
范陽王。文宣帝の第3子。
576年に晋陽が陥されると尚書令・定州刺史とされ、鄴の落城後に幷州回復を図ったものの果たせず、宇文神挙に伐たれて突厥に奔入した。営州の高保寧と結び、佗鉢可汗に支援されて幽州に進んだが、盧昌期らの敗報に接して塞外に退いた。
後に突厥に騙されて北周に捕われ、蜀に流された。
高百年 〜564
楽陵王。孝昭帝の子。墓誌によれば、百年は字とされる。
孝昭帝が即位すると婁太后の令で太子とされ、孝昭帝の臨終に際して長広王による弑殺を防ぐために楽陵王に貶されたが、後に謀逆に枉陥されて殺された。
王妃の斛律氏は悲嘆して1と月後に絶食死し、父の斛律光の来臨で漸く玉玦を握った掌を解いたとされるが、墓誌では前年(563)の秋の死亡となっている。
高儼 557〜571
琅邪王。字は仁威。後主の実弟。はじめ東平王に封じられ、後主の即位で改封された。
胡皇后に鍾愛されて武成帝の継嗣に求められ、そのため武成帝は太子の存立を危ぶんで譲位を急いだと伝えられる。
京畿大都督・領軍大将軍、司徒・尚書令、大司馬などを歴任し、侍中の馮子jと謀って571年に和士開に対する該奏が裁可されると領軍の厙狄伏連を率いて和士開を誅し、同時に恩倖の粛清を図ったが、領兵の逡巡と斛律光の介入で果たせなかった。
以後は胡太后・趙彦深に庇護されたが、趙彦深が兗州刺史に転出されて間もなくに劉桃枝に殺された。
高儼は史書では「聡明雄勇」で「後主や和士開らに忌まれていた」とあって、憂国のクーデターを起すに相応しい人物像が与えられていますが、年齢を考えると、首謀者は恩倖として和士開の追い落としを図るようになっていた馮子jなのでしょう。
史書によれば後主の廃位をも視野に入れていたようですが、単に和士開憎しで動いただけらしく、高儼にしても胡太后に責められて馮子jに煽られたとあっさり白状している事からも、あまり物事を深く考える質ではなかったようです。
和士開の失脚で浮上した祖珽や高阿那肱が関与していたかどうかも興味深いところです。
厙狄伏連 〜571 ▲
代の人。
爾朱栄に仕えて直閣将軍に進み、後に高歓の挙兵に従い、禅譲後に鄭州刺史に叙されて開府を加えられた。
長広王に親しまれて領軍とされ、武成帝の死後には領軍大将軍・宜都郡王に進められたが、和士開の誅殺に際して琅邪王に従って禁兵を動員した為、琅邪王の代替として処刑された。質朴・謹直と評された反面で漢人士族に対しては厳酷だったとも伝えられる。
高元海 〜578
高歓の従子/上洛王高思宗の子。はじめ仏教に志して2年で挫折し、還俗後は酒色に流れたものの智謀を以て自任した。
孝昭帝の簒奪後は鄴の長広王に通款し、武成帝の即位に功があって侍中・太子・事とされた。
563年に和士開に枉陥されて兗州刺史に出され、陸太姫の姪を後妻としていた為に和士開が誅されると徴還されて祖珽と与に執政したが、祖珽の領軍兼任を否定した事から不和となって鄭州刺史に出された。
亡国の際に尚書令とされ、平斉の翌年に鄴での謀叛を理由に殺された。
高綽 556〜574
南陽王。字は仁通。武成帝の庶長子。
後主とは同年同日の生まれで、はじめ漢陽王に封じられ、564年に南陽王に改封された。
狂虐の質で、猛犬に人を殺させる事を悦び、又た蠍で満たした槽桶に人を沈める事を後主に教えて寵遇された。
韓長鸞の進言で斉州刺史に出され、赴任の際に謀叛に枉陥されて殺された。
王軌 〜579
太原祁の人。
夙に宇文邕に近侍して宇文護の粛清にも参与し、賜姓では烏丸氏とされた。
東征では晋州城攻陥の功で上大将軍・郯国公とされ、呉明徹の北伐に徐州総管梁士彦が累敗すると行軍総管として救援し、淮河で陳の水軍を大破して呉明徹を擒え、柱国・徐州総管・七州十五鎮諸軍事に進んだ。
王マ
北海劇の人。字は元景。王猛の裔。
北魏では著作佐郎・金紫光禄大夫などを歴任し、分裂後の538年に魏収を副として梁に使し、斉では七兵尚書とされた。
清談を好み、楊愔からは“人の師表”と評されたが、放埓な為人りから讒言によって殺された。
魏収とは不和だったと伝えられる。
可朱渾元
遼東の人と称した。字は道元。可朱渾道元とも。
曾祖父の代より懐朔鎮に居し、武略を認められて爾朱栄に別将とされ、爾朱天光の西征に従った。
孝武帝が立てられた後に累遷して渭州刺史に進んだが、高歓との旧知を以て孝武帝に猜疑されると霊州刺史曹泥に依り、ついで東奔して高歓に投じた。
幷州刺史・司空を歴任し、禅譲で扶風郡王に封じられ、太師に進位した後に歿した。
弟の可朱渾天和は東平長公主を降嫁されて禅譲で駙馬都尉が加えられ、高殷の即位で特進・博陵郡公に進んだ後、楊愔の党人として誅された。
韓軌 〜554?
太安狄那(山西省寿陽)の人。字は百年。晋州に進駐した高歓に辟招されて鎮城都督とされ、高歓の挙兵後は広阿・韓陵に従い、秀容から敗走する爾朱兆の追討にも加わった。
妹が高歓の側室となった事もあって親任され、禅譲で安徳郡王に進封されたが、常に謙恭だったという。
後に大司馬に進み、文宣帝の北伐中に軍中で急病死した。
元景安
拓跋什翼犍の玄孫。爾朱栄の下で寧遠将軍とされ、高歓が爾朱氏を討平して上洛した際に婁昭の薦挙で京畿都都督・代郡公とされた。
孝武帝の入関に従ったが、537年に高歓が関中に来攻した際に東投して爵位を安堵され、禅譲で征西将軍を加えられて高氏を賜姓された。
しばしば塞外に遠征して武衛大将軍・兼七兵尚書に進み、突厥が強盛となると北防に連なったが、鎮将の収斂や横領が横行する中で廉潔を保って文宣帝に顕彰され、都官尚書・七兵尚書を歴任して車騎大将軍が加えられた。
572年に行台尚書令に進んで歴陽郡王に進封され、北周の攻勢が本格化した575年に鄴に召還されて領軍大将軍に転じ、北周では大将軍・大義郡公とされ、稽胡討伐中に戦死した。
厙狄干 〜553
善無郡の人。
朔方郡に居し、そのため酷暑を嫌って軍功で宿衛の将軍に叙された後も夏期は朔方で過ごした。
鎮民の乱が再発すると雲中に逃れて爾朱栄に帰し、後に高歓の挙兵に従って広平郡公に封じられ、高歓の妹婿として厚遇された。
543年に虎牢の高愼が叛いた際には大都督とされて討伐の前鋒となり、強行軍を侯景に窘められたものの、率先して渡河して邙山で後続の高歓らと与に宇文泰を大破した。
戦後に定州刺史に叙されると、事務の煩瑣を厭って属僚に委任し、禅譲で太宰・章武郡王に進められた。
胡長仁 570
安定臨の人。字は孝隆。武成帝の胡皇后の兄。外戚として顕職を歴任し、武成帝が歿すると隴東王に封じられて朝政を壟断した。和士開に憎まれて斉州刺史に出され、570年に和士開暗殺の謀計が露見して賜死された。
和士開が殺された翌年(572)に娘が後主の皇后に立てられた。
高阿那肱 〜580
善無の人。高歓の勲貴の常山郡公高市貴の子。
父と共に高歓の蜂起に従い、文宣帝の征伐にも従って武衛将軍に進んだ。無学だったものの騎射と阿諛によって武成帝・後主に寵遇され、和士開にも通じて565年に侍中・驃騎将軍に領軍を兼ね、570年には淮陰郡王に進封された。
幷省尚書令・領軍大将軍・幷州刺史に累進し、和士開の死後に宰輔に置かれて573年に録尚書事とされ、次いで領軍・刺史のまま司徒公・右丞相に至った。
斉末、後主が平陽奪回に失敗した頃から通敵の毀議が絶えなかったが、後主が鄴に遁還すると大丞相に進められた。
後主の南奔に扈随して黄河を渡ると青州での募兵を勧めて済州関に留まった後、北周に投じて周兵の追走を扶け、大将軍・郡公とされた。
隆州刺史に叙され、益州総管王謙の造叛に与して処刑された。
高乾 497〜533
渤海蓚の人。字は乾邕。北魏の渤海太守高翼の子。
侠風があって多く人士と交結し、領軍の元叉に親遇されて朝廷に侍したが、爾朱栄が挙兵すると渤海に奔って父を輔け、孝荘帝の諭旨に応じたものの出仕はしなかった。
奪権に成功した孝荘帝より撫軍将軍・金紫光禄大夫・河北大使とされて弟の高昴とともに郷里で募兵し、孝荘帝が弑されると前河内太守封隆之と結んで冀州を制圧して高歓に帰順し、殷州攻陥や魏主擁立にも参与して侍中・司空公とされた。
孝武帝の即位で長楽郡公に封じられ、孝武帝と高歓が険悪となると首鼠を持したものの、賀抜勝が荊州刺史に転出すると高歓に対策を求め、高歓の勧めで徐州刺史に直されたが、出立直前に高歓との通謀が露見して賜死された。
高翼 〜530 ▲
字は次同。
豪侠かつ威風があり、鎮民の乱では山東の豪右として朝廷より渤海太守とされ、黄河・済水の間に蟠居して東冀州刺史・定州刺史を歴任したが、爾朱栄には従わなかった。
孝荘帝の死後も自立を保ったまま、高乾が魏主を立てた頃に歿した。
高愼
字は仲密。高仲密とも。高乾の弟。
経史を渉猟して文士の風があり、高翼に鍾愛された。高歓が魏主を立てると滄州刺史・東南道行台尚書、翌年に驃騎大将軍・光州刺史とされ、部曲数千を擁して厳酷な為政と左右の放縦は吏民を苦しめたという。
高乾が殺されると晋陽の高歓に奔って大行台左丞とされ、歴遷して538年に御史中尉に進んだ。
高澄に近侍する崔暹の妹を離縁して趙郡李氏と通婚した事から崔暹と反目し、近親を多く御史に任用して高澄に改選された事や、高澄が李夫人に淫通を逼った事、崔暹を弾劾して誣妄として高歓に譴責された事などから粛清を猜懼するようになり、北豫州刺史に転出すると虎牢に拠って西魏に称藩し、邙山の役を惹起した。
西魏では司徒・太尉などを歴任したが、関東に残された一族は高氏の勲功によって高愼の子孫以外は赦された。
高徳正
渤海蓚の人。字は士貞。高洋に近侍して寵遇され、晋陽で高澄が歿すると楊愔・杜弼・崔季舒らと与に嗣業を勧進した。
文宣帝が即位した後は楊愔らと朝政を綱紀して尚書右僕射・兼侍中・藍田県公に至ったが、後に文宣帝の酒淫を諫めて嫌忌されると病を称して出仕せず、楊愔の指摘で詐病が露見して殺された。遺財は悉く高帰彦に下賜された。
この高徳正、文宣帝の皇后を定める際に、趙郡李氏を指して「漢族から皇后を迎えるなど以てのほか」と漢人名族とは思えない発言をかまして高隆之と与に段昭儀を推し、楊愔ら漢人士族と対立しています。
高徳正は高允や高乾の同族と称し、『魏書』にも立伝されている高祐を曾祖父としています。
ところが高徳正本人の立身が門地ではなく高洋に対する恩倖的なものである事を考えると、高歓と同じで家系がアヤカリなのが濃厚です。
おそらく高隆之も文宣帝や魏収との確執がなければ系譜が保証されていた事でしょう。因みに、高歓が曾祖父とした高湖は高允の叔父にあたり、高祐・高湖とも“その後”が曖昧なので曾祖父に選ばれたっぽいです。
高允基準で観ると、高允の祖父と高歓の高祖父が同一(高泰)で、高允の従祖弟が高祐です。
高允を直系とした場合、高徳正の家系は高氏傍流となり、ここいらに高徳正の配慮が窺えます。因みに、正しく渤海高氏だと思われる高乾ですが、高允との繋がりが今一つハッキリしません。父の高翼が「高祐の従父弟」だそうで、日本的意味だと父方のイトコですが、この場合は恐らく「父が高祐の従弟」です。
高祐の“従祖弟”にしても、日本ではマタイトコですが、祖父がイトコ同士という解釈も充分ありです。
斛律羨 〜572
字は豊楽。斛律光の弟。夙に機略に長けて騎射に能く、高澄に近侍して認められ、征西将軍・顕親県伯に進められた。564年に使持節・都督幽安平南北営東燕六州諸軍事・幽州刺史に転じ、突厥を撃退すると2千里に亘って長城を修築して10の城砦・50の屯所を設けるなど北防を強化し、このため翌年より木杆可汗による朝貢が始められた。
又た灌漑路を整備して公私ともに利を得て吏民に慕われ、北斉の北防を担って突厥にも畏憚された。
一門が貴盛にあることを危ぶみ、567年に父が歿した事を好機として致仕したものの間もなく復任されて燕薊に鎮し、翌年に行台尚書令に転じ、570年には位爵を驃騎大将軍・荊山郡王に進められた。兄の斛律光が殺されると吏卒の抵抗を禁じ、捕吏を迎えて従容と処刑された。
崔暹 〜559
博陵安平の著姓。字は季倫。
漢の尚書崔寔の裔。渤海に避難して高乾に依ったのち妹婿となった高愼の州事を輔け、高歓にも認められて上洛の際には丞相長史を兼ねて晋陽留後高琛を輔佐した。
専ら高澄に寵遇されて高愼が叛いた際も庇護され、御史中尉に遷ると尚書令司馬子如、太師・司州牧の咸陽王元坦、幷州刺史可朱渾元、冀州刺史韓軌ら勲貴を多く該奏して高歓からも綱紀の鑑と讃えられた。
高澄が嗣業すると度支尚書・兼右僕射とされて腹心の任を委ねられ、しばしば高澄の奢侈と濫刑を諫めるなど天下の事を任として家産を顧みなかったが、過度の大言と毀戯はしばしば批判された。
高澄が歿すると司馬子如らに誣されて徙役に処され、さらに謀叛に枉陥されて晋陽に繋獄されたが、嘗て高洋の韜晦を高澄から擁護した事を恩として赦免され、後に右僕射に至った。晩年は頻りに文宣帝の溺酒を強諫して忌避された。
崔季舒 〜573 ▲
字は叔正。崔暹の族弟。
経史を渉猟して17歳で州主簿とされ、やがて高歓にも認められ、高澄に親任されるようになり、高澄の執権後は勲貴粛清などの密謀大計の殆どに参与して寵遇・勢威は宗家の崔暹を凌ぎ、そのため高洋が嗣業すると司馬子如ら勲貴の該誣で徙役に処され、文宣帝の即位で徴還された。
後主の親政後に侍中に直されたが、文林館待詔に連なった事や、多く漢族士人を奨薦した事で祖珽の党人と見做され、573年の寿陽陥落に際して晋陽行幸に対する諫表に署名した事から謀叛として粛清された。
北徙の間に医術に熟達し、済民して篤く帰慕されたという。
崔㥄 495〜555
字は長孺。清河東武城の人。
高歓の挙兵に従って孝武帝擁立などを画策し、車騎大将軍・左光禄大夫・武城県公に進んだ。
門地と声望を恃んで甚だ倨傲で、天下の名族を清河崔氏と范陽盧氏のみと公言して搏陵崔氏や趙郡李氏すら認めず、殊に盧元明のみを知音とし、起居注の編修官を募った際に魏収を「軽薄のみ」と一蹴して盧元明を中書郎とした。
崔暹をはじめ名族・勲貴に憎まれ、又た高澄をすら黄頷小児と侮り、名望の故に死罪は免れて禅譲で侍中・監起居とされたものの、東兗州刺史に出された翌年に寵妾の狼藉に連坐して詔獄で病死した。
司馬子如 489〜553
字は遵業。河内温の人。晋の南陽王司馬模の裔。
晋末に涼州に遷居し、北涼の平定で雲中に徙されたと称した。
爾朱栄の上洛に随って厚遇され、爾朱世隆の下で侍中・驍騎大将軍とされたが、高歓が挙兵すると懐朔鎮での旧交を疑われて南岐州刺史に出され、高歓の入洛で大行台尚書とされて軍政に参与した。
鄴奠都後は尚書左僕射に進んで高隆之らと四貴と称され、禅譲で司空に直されたが、崔暹・崔季舒と対立し、太尉に進位されて間もなくに歿した。
徐子才 493?〜572?
丹陽の人。南斉の蘭陵太守徐雄の子。
梁の豫章王蕭綜に随って梁から魏に入り、孝静帝に従って546年に秘書監に進められたが、南人の抬頭を嫌う楊愔によって金紫光禄大夫に遷され、魏収が後任とされた。
父同様に医術に通暁し、高洋への即位の勧進や武明太后を治療した事、劇談謔語や和士開への附和などによって歴帝に寵遇を保ち、後主の下で尚書令・西陽郡王に至って80歳で歿した。
尚書僕射になった時、佞者の不在を歎いたと伝えられる。
宋欽道 〜560
広平の人。高歓の大将軍主簿として書記を典り、後に黄門侍郎に進んだ。
楊愔らと共に文宣帝の託孤に連なって秘書監に進み、常山王の排斥に失敗して刑死した。
孫搴
字は彦挙。
為人りは軽佻だったが、苦学して崔光に認められて修国史に連なり、後に西征の檄文で高歓に文才を認められて署相府主簿として文書の事を専典し、又た鮮卑語に通じていた事もあって重用された。
領主簿のまま左光禄大夫に叙され、又た高歓への進言で高澄の鄴での秉政が認められた事から散騎常侍が加えられた。
後に司馬子如・高季式と歓飲して52歳で酔死したが、高歓は「我が右臂を返せ」と両者に命じ、司馬子如の推した魏収は「収の文、皆な意に叶わず」とされて高季式の推した陳元康が用いられた。
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陳元康は高澄にも重用されて枢機にも参与し、549年に鄴で高澄と倶に殺された。
高季式 516〜553 ▲
字は子通。高乾の末弟。
鄴奠都の後、しばしば内乱を討って累功があり、兄の高愼の造叛を逸早く高歓に報じて嘉された。
蕭淵明撃退や侯景・潁川討伐にも従って衛尉卿・儀同三司に進位し、禅譲で乗氏県子に封じられ、密貿易に連坐して赦された後に病死した。
酒を好み、又た家勲を恃んで驕奢だったという。
孫騰 481〜548
咸陽石安の人。字は龍雀。
六鎮の乱で秀容に逃れ、爾朱栄の上洛に従って冗従僕射となり、次いで高歓の都督府長史に転じて吏事への通暁を以て重用された。
信都挙兵から間もなくに使持節・六州流民大都督・北道大行台を加えられ、次いで相州刺史・咸陽郡公とされ、侍中に転じて洛陽で斛斯椿とともに朝政を宰領したが、534年に異変を察して晋陽に奔り、孝静帝が立てられると尚書左僕射・兼司空・中書令に叙された。
やがて司徒に進み、奴婢の解放を私断で行なって司徒を解かれたが、武定年間(543〜550)に青州に派遣された際にも浮戸・逃戸の括戸を行ない、後に太保に進んだ。
鄴では倨傲と放縦によって高隆之らと“四貴”と呼ばれ、しばしば非法を高歓に譴責された。
奴婢解放の件は、正史では、六鎮の乱で生き別れた実娘を探すための願掛けとしての“千人救い”とされていてます。
まあ実際そうなのでしょうが、賦戸の充実を図って貴顕層と対立したんなら面白そうだなぁ、と。
段栄 478〜539
姑臧武威の人。字は子茂。五原に居し、北辺の争乱を予見して平城に移住した後に杜洛周の挙兵に従い、後に高歓と与に爾朱栄に投じた。
信都での挙兵では大略を定めて行台右丞とされ、西北道慰喩大使として各地を経略し、鄴攻略の際には信都に留守して鎮北将軍・定州刺史とされ、蕭何の功を嘉された。
孝武帝の即位で瀛州刺史・姑臧県侯とされたが、戚族(夫人は婁昭君の姉)である事に配慮して受けず、後に行相州事・済州刺史・行泰州事を歴任し、温順な為人りと寛簡な統治から吏民に帰慕された。
537年に山東大行台・大都督に転じて東面を総督し、死後に太尉・定州刺史が追贈され、武成帝が即位した翌年(562)に大司馬・尚書令・武威王が重贈された。
趙彦深 507〜576
南陽宛の人。
司馬子如に謹直を嘉されて任用され、その薦挙で高歓に近侍するようになり、大丞相功曹参軍に進んで文書の事を多く典った。
高澄の嗣業で安国県伯に封じられ、549年の潁川奪回に於いては王思政への諭使となって開城を果たした。
禅譲で秘書監・安国県侯とされ、文宣帝にも信任されて郊廟の毎に兼太僕卿となって陪乗し、又た巡幸の際には太子を輔佐して後事を委ねられた。
武成帝の下で尚書令・宜陽王に進められ、571年には司空に進み、間もなく祖珽に逐われて西兗州刺史に出されたものの祖珽の失脚で司空に復し、司徒に転じた後に暴疾で歿した。
竇泰 500〜537
大安捍殊(山西省寿陽)の人。字は世寧。後に清河郡観津を本貫とした。
高歓の妻女の妹婿でもあり、挙兵の謀議にも参与して親任が篤く、相州刺史・京畿大都督などを歴任し、御史中尉を領した間は厳粛を以て貴顕に畏れられた。536年の西征で潼関に進駐したが、翌年に宇文泰の急襲に大敗して自殺した。同年の沙苑の役は竇泰の復仇戦を兼ねて行なわれた。
封隆之 485〜545
渤海蓚の人。字は祖裔。北魏の司空封回の子。
名族の子弟として奉朝請で起家した後、汝南王元悦や征北大将軍元遙の幕僚を歴任し、爾朱栄を殺した孝荘帝より持節都督・河内太守とされた。
孝荘帝が弑された後は高乾と結んで冀州を陥し、高歓の挙兵を支持して元朗より左光禄大夫・吏部尚書とされた。
韓陵の役の後は侍中として洛陽に侍して安徳郡公に封じられ、孝武帝らが挙兵すると晋陽に奔って孝静帝の擁立や奠都にも参画し、鄴で侍中・吏部尚書・行冀州事に直された。
543年に高愼が背くと冀州の諸豪を慰撫して呼応させなかったが、乱後に連坐は免れたものの斉州刺史に転じて任地で歿した。
慕容紹宗 501〜549
昌黎棘城の人。字は紹宗。前燕の太原王慕容恪の裔。
六鎮の乱が起こると晋陽に遷って爾朱栄に投じ、後に邢杲平定に従って幷州刺史とされた。
爾朱栄の死後は爾朱兆に属して韓陵の敗戦後も随従し、夙に高歓の雄才を忌んで排除を進言していたが、爾朱兆が敗死すると高歓に降って官爵を安堵され、主に内乱鎮定で軍功を累ねて度支尚書・御史中尉・徐州刺史などを歴任した。
将幹は侯景と双璧と謳われ、547年に侯景が叛くと高歓の遺言によって討伐に起用されて東南道行台・燕郡公とされ、大都督高岳を輔けて梁の貞陽侯蕭淵明を大破して執え、渦陽に進んで侯景を大破した。
西軍の王思政が潁川に侵攻すると南道行台に転じて太尉高岳らと共に攻囲し、灌城の督戦中に艦上で暴風に遭って捕虜を嫌って溺死した。
劉豊 〜549 ▲
普楽郡の人。字は豊生。
破六韓抜陵の乱で抬頭し、528年に霊州鎮城大都督に任じられ、霊州刺史曹泥と与に賀抜岳・宇文泰に抵抗して536年に東魏に投じた。
南汾州刺史・殷州刺史などを歴任し、西魏の王思政が潁川の長社を占拠すると清河王高岳に従って伐ち、艦上で慕容紹宗と与に督戦中に暴風に遭って戦死した。
万俟洛
字は受洛干。万俟受洛干とも。
六鎮の乱で爾朱栄に従い、汾州刺史・驃騎将軍に累進した。信都で挙兵した高歓に通款して撫軍・兼霊州刺史とされ、孝武帝が入関した後、高歓の夏州進出に応じて秦州刺史の父と与に東投し、領軍将軍・建昌郡公に直された。
河橋の役では撤退の殿軍となって河橋に留まり、西軍を叱咤して追撃を断念させたと伝えられ、このため高歓は洛の布陣場所を回洛城と呼んだという。
陽休之 509〜582
北平無終(天津市薊)の人。字は子烈。
好学で、若冠から文藻を以て“後来之秀”と讃えられた。鎮民の乱を避けて洛陽に逃れ、李挺の下で起居注に参事し、節閔帝の下でも魏收・李同軌らと与に国史を編修した。
賀抜勝の荊州出鎮に長史・行台右丞として随った後、535年に鄴に投じ、魏収と倶に高澄の詔命を参掌して禅譲で散騎常侍・監修起居注とされたものの、軽佻疏放な為人りを忌まれて文宣帝の世は不遇だった。
後主の即位で監国史・吏部尚書とされ、祖珽の復帰した後に中書監に直されて文林館待詔にも列し、575年には特進・正右僕射・領中書監に進んだ。
斉末に後主の奔鄴に扈随して燕郡王に封じられ、平斉の後に盧思道・顔之推・李徳林・薛道衡ら18人と与に徴されて上開府とされ、和州刺史を以て開皇2年(582)に致仕して洛陽で歿した。
文章は典正ながらも華靡に欠けた事で魏収には軽視されたが、漢人文士として声望が高く、魏収の死後は詩賦の第一人と称された。
魏収の国史編纂を輔けた事で、陽国・陽休之父子の事績には粉飾が多いという。
陸令萱 〜576
鮮卑人。夫の駱超が謀叛で誅された為に官婢とされたが、高緯の乳母となった事で胡后に親寵され、後主が即位した後は長公主の上に位する太姫とされた。
572年に斛律皇后が廃されると穆昭儀を右皇后に立てることに成功し、又た祖珽の復帰や就相を支持するなど、子の穆提婆と並んで朝政を壟断して売官や貨賂が横行した。穆提婆が周に降った為に族滅された。
穆提婆 〜577 ▲
漢陽郡の人。父の駱超が謀叛で誅された為に奴僕とされたが、後主が即位すると母の陸令萱の縁故で恩倖に連なり、後に尚書左僕射・領軍大将軍・録尚書事・城陽郡王に至り、母が穆昭儀を養女とした事で穆氏を称した。
576年、晋陽で後主が敗れた為に北周に降って柱国・宜州刺史とされたが、翌年に謀叛として高氏と共に鏖殺された。
穆邪利 ▲
後主の皇后。宋欽道の下婢の娘。
宋欽道の伏誅で斛律皇后の侍婢となり、後主に寵愛されて斛律皇后の死後には胡皇后と後を争い、陸令萱の支持や実子の高恒が太子に立てられた事もあり、胡皇后が廃された翌年(573)に正皇后とされた。
盧思道 531?〜582?
范陽涿の著姓。字は子行。
北魏の秘書監盧淵の孫。隠士盧道亮の子。夙に“盧家の千里駒”と称され、邢・魏収に学んで名を顕し、宣武帝の挽歌を徴した際に魏収・陽休之を大きく凌ぐ8首が選ばれるなど詩文の才は当代無双と絶賛されたが、為人りは不羈傲慢で毀議を好み、公開前の『魏史』を誹って譴責され、又た機密漏洩や横領など非法が多かった為にしばしば降格・罷免された。
後に文林館待詔に加えられて薛道衡・李徳林らと声名を斉しくし、平斉で儀同三司を授けられ、帰郷した際に盧昌期らの叛乱に加担したものの、宇文神挙に文才を惜しまれて赦された。
隋では散騎侍郎・行内史侍郎とされ、大理寺の存続や廷笞を罰金に替えることを唱えて聴許された。
北朝を代表する文人として南朝でも広く知られ、殊に詩『従軍行』は唐代の玄宗や明代の胡応麟にも絶賛され、文章に於いても宗族の盧詢祖との比較で「詢祖は規検ある禰衡、思道は圭角なき文挙」と称賛されたが、庾信には「薛道衡に斉しくも、温子昇には遠く及ず」と評された。
『北斉興亡論』・『後周興亡論』は名著とされ、又た顔之推らと音律を論じた『切韻』は、六朝の韻書の殆どを駆逐した。
盧昌期 〜578 ▲
盧思道の従兄。平斉の翌年、武帝の死に乗じて同郡の祖英伯・宋護らと共に挙兵し、黄龍の営州刺史高保寧を介して塞外の范陽王高紹義とも通じたが、宇文神挙に討平された。
婁昭
代郡平城の大族。字は菩薩。高歓の正室(婁昭君=武明婁皇后)の弟。
かねて高歓と親しく、信都での挙兵で中軍大都督とされ、後に領軍将軍に叙され、孝武帝の入関後に兗州刺史樊子鵠が叛くと東道大都督となって討平した。
大司馬・司徒を歴任した後に定州刺史に転出し、州事の煩瑣を厭って大綱のみを執り、痛風に苦しんで歿した。禅譲後に太原王に追封された。
婁昭君 501〜562 ▲
武明皇后。代郡平城の人。微役だった高歓に押して嫁し、高歓の諸豪との交結を経済面で支援し、又た高歓が柔然の可汗阿那瓖の婿となる事を支持して正室を降りるなど内助の功が多大にあった。
高澄・高洋・高演・高湛らの生母でもあり、高歓の死後は太妃・皇太后として歴帝に重んじられた。
高殷を殺した高演を面罵し、又た高百年の立太子を進めた事から高湛には怨恚されたとも伝えられる。
八柱国十二大将軍
宇文泰軍閥を構成する軍国の最高幹部。柱国大将軍と大将軍。
府兵制の制定の際に柱国大将軍の経験者8人を以て統帥とした事による。
柱国大将軍は孝荘帝の時に爾朱栄の為に丞相の上位として創設され、爾朱栄の死で廃されたものが537年に宇文泰の為に復置されたもの。
宇文泰と元氏の宗である広陵王元欣を除く6人が各2大将軍を督して軍事を分掌し、大将軍は各2開府を督し、計24開府が府兵制の基幹となった。
柱国大将軍と大将軍はともに使持節と大都督を帯びた。
六官 ▲
『周礼』にある西周の閣僚。
天に対応した太宰=冢宰を首班とし、以下、地官の大司徒、春官の大宗伯、夏官の大司馬、秋官の大司寇、冬官の大司空がある。
西魏末にはいずれも柱国大将軍が就き、太師の宇文泰が大冢宰、李弼が大司徒、太保の趙貴が大宗伯、独孤信が大司馬、于謹が大司寇、侯莫陳崇が大司空とされ、各官の職能は吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部に相応した。
宇文肱 〜526
代郡武川の人。
破六韓抜陵が蜂起した翌年、武川鎮・懐朔鎮を陥した衛可孤を賀抜度抜・独孤信らと討平した。
戦乱を避けて中山に遷り、鮮于修礼に逼られて軍事に従い、定州で戦死した。
宇文招 〜580
趙王。宇文泰の子。大司馬・雍州牧などを歴任して東征にもしばしば行軍総管として従い、後に太師に進んだ。
宣帝の死後、謀逆に枉陥されて族滅された。
宇文神挙 532〜579
宇文泰の族子。
武帝に親任されて宇文護粛清にも参与し、平斉や突厥遠征にも従って柱国大将軍・東平郡公に進んだ。
文学を愛して経史にも通じ、盧昌期の乱を鎮圧した際に盧思道を助命して礼遇した事で讃えられた。
かねて王軌・宇文孝伯らと太子の資質を危ぶんでおり、宣帝が即位すると声望を忌まれて賜死された。
宇文導 511〜554
字は菩薩。宇文泰の甥。
夙に宇文泰に従い、西魏の成立で饒陽県公に進爵され、537年に領軍将軍・大都督に進んだ。
翌年の東征では華州刺史とされ、東征に乗じた趙青雀らの乱を平定するなど、宇文泰の軍事では関中を留守して後事を安泰にし、侍中・隴右大都督・秦州刺史・章武郡公に進んで上邽で歿した。
宇文盛 〜580
代郡武川の人。字は保興。本姓は破野頭氏。
沃野鎮の生まれで、夙に宇文泰の軍事に従って沙苑の役の後に漁陽県公に進封され、宇文泰の死後は宇文護を支持し、趙貴の謀叛を密告した功で大将軍・州都督・忠城郡公とされ、570年に大宗伯に進んだ。
翌年の東征では斉公宇文憲に従い、汾州を救援した後に姚襄城(山西省吉県西端)に段韶を撃退し、平斉の役では汾水関を守り、宣帝が即位すると上柱国に進位された。
宇文貴 〜567
昌黎大棘の人。字は永貴。
夏州で育ち、学問を厭って軍事を志し、六鎮の乱では夏州刺史源子雍を扶け、後に爾朱栄に属して武衛将軍・閤内大都督に進んだ。
孝武帝の入関に従って化政郡公に進み、宇文泰からも同族として信任され、537年に車騎大将軍・儀同三司に進位して独孤信と共に洛陽に進駐し、潁川の賀若統が受降を求めると歩騎2千を以て東軍6万余を大破した。
夏州刺史・岐州刺史などを歴任して550年に中外府左長史・大将軍に進み、宕昌羌の内乱を豆盧寧・史寧を率いて討平して岷州を置いた。
尉遅迥の巴蜀経略を援けて隆州(巴西)の動乱を鎮定し、禅譲で柱国に進位し、559年に賀蘭祥と共に吐谷渾を伐って許国公に進封された。大司空・大司徒・太保などを歴任し、突厥に阿史那皇后を奉迎した帰途に張掖で歿した。
王雄 507〜564
太原郡の人。字は胡布頭。
爾朱天光の西征で賀抜岳に従い、孝武帝の入関後に武衛将軍・岐州刺史・大将軍などを歴任した。
552年に南朝の上津・魏興を陥して東梁州を置き、禅譲で少傅・柱国大将軍に進み、559年の称帝で庸国公に進封された。
次いで州総管諸軍事・州刺史に転じ、病をおして従軍した邙山の役で斛律光に射殺された。
王謙 〜580 ▲
字は勅万。庸国公王雄の嗣子。
父の功で驃騎大将軍・開府儀同三司に累進し、柱国大将軍・庸国公を襲いだ後、武帝の軍事に従って上柱国・益州総管・十八州諸軍事に進んだ。
580年に梁睿が後任とされると管区の28州を以て尉遅迥の挙兵に呼応したが、隆州刺史高阿那肱の勧める関中直撃の上策を棄てて険阻を恃んだ漸進策を用い、腹心の内応によって討平された。
王思政
太原祁の人。字も思政。漢の司徒王允の裔と称した。
籌策に長け、平陽王(孝武帝)に厚遇されて即位とともに安東将軍・祁県侯とされ、高歓討伐では中軍大将軍・大都督とされて宿衛兵を総べ、入関で太原郡公に進められた。
慷慨の志を宇文泰にも高く評価され、東征では独孤信に従って洛陽に駐し、河橋の役で重瘡を負った後、玉壁に築城・移鎮して幷州刺史とされ、542年に高歓を撃退して驃騎大将軍に進位した。
弘農の防備体制を強化した後、546年に荊州刺史に転じて荊州城の修築を進め、翌年に侯景に受降を求められると歩騎万余を以て潁川に進駐して大将軍・河南諸軍事とされたが、東魏の太尉高岳・行台慕容紹宗らに灌城され、慕容紹宗を戦死させたものの、高澄自らの増援が至って城兵の助命を条件に開城した。臣従を拒みながらも礼遇され、禅譲で都官尚書とされたが、数年で歿した。
王盟 〜545
楽浪系の高句麗人。字は子仵。六鎮の乱に加わったのち中山に徙され、蕭宝寅の西征に従ったものの、蕭宝寅が自立すると下野し、入関した爾朱天光に投じて賀抜岳の先鋒を務めた。
宇文泰にも信任され、侯莫陳悦討伐では留後大都督とされて原州の高平に鎮し、平定後に原州刺史とされた。
文帝の即位で車騎将軍・儀同三司を加えられ、537年より三公を歴任し、宇文泰の東征では留後大都督・行雍州事として李虎らと共に関中の騒乱を鎮定し、長楽郡公に進封されて拓王姓を下賜された。543年に太傅に進み、病臥すると度々文帝の臨駕があった。
王羆 〜541
京兆霸城の著姓。字は熊羆。
雍州別駕の時に刺史の崔亮に認められ、後にz石攻略の際には請われて長史として従軍した。
武興氐の反抗を鎮圧した後に荊州刺史に転じ、525年に梁の曹義宗を撃退して霸城県公に進封された。
行秦州事の時に宇文泰の挙兵に従って車騎将軍・華州刺史に進み、潼関を陥した高歓の西進を防いで驃騎将軍に進位され、翌年に竇泰敗死の報復に来攻した高歓も華州城を避けて沙苑に戦場を求めたという。
沙苑の役の後に扶風郡公に進爵され、河東に移鎮した後は高歓に畏憚されて軍事が控えられたと伝えられる。
為人りは厳急率情で、又た貴顕になった後も営利を行なわなかった事で世に清廉を讃えられた。
賀若敦 〜565
代の人。勇武で知られ、560年に武州(武陵)を襲って呉明徹を敗退させ、次いで湘州に来攻した侯滇と対峙し、巴陵の陥落と友軍の独孤盛の敗退の後、陳兵の増援と湘州刺史殷亮の降伏で撤退したが、陳軍に対して常に優位を保ち、撤退時に損兵を出さなかった事で讃えられた。
矜持が強く、大将軍に進めない不服を宇文護に憎まれて賜死された。死に臨んで子の賀若弼に舌禍を戒め、江南経略を遺言したと伝えられる。
賀蘭祥 517〜564
代郡武川の人。字は盛楽。拓跋氏の姻族の賀蘭氏=賀氏の出身。
夙に外叔の宇文泰に親愛されて征旅に従い、累功によって548年に都督十二州諸軍事・荊州刺史・博陵郡公に進み、又た軍中でも常に経史に親しみ、恵政と廉潔を讃えられた。
550年に大将軍に進位し、ついで尚書左僕射に転じ、禅譲で柱国・大司馬に進み、宇文泰の死後は宇文護を支えて趙貴や孝閔帝の排除にも参与した。
559年に涼州より吐谷渾を撃退して洮州を置き、涼国公に進封された。
元欣
字は慶楽。節閔帝の兄。
鷹犬や武事を好み、528年には東道副使となって斉州に高乾を降し、沛郡王とされた。
532年に司州牧に太師・開府を加えられて広陵王を襲ぎ、孝武帝の入関後は宗室の最上位に置かれて太宰・大宗伯・大冢宰などを歴任して八柱国に列し、554年に大丞相とされた。
侯莫陳崇 〜563
代郡武川の人。字は尚楽。侯莫陳順の弟。
驍勇で騎射に長じ、葛栄討伐の頃より賀抜岳に従って軍功を累ね、高平では先鋒となって万俟醜奴を擒え、安北将軍・臨県侯とされた。
賀抜岳が殺されると諸将とともに宇文泰に帰順して重んじられ、原州(寧夏固原市区)を抜いて行原州事とされ、文帝の即位で州刺史・彭城郡公に進んだ。
537年の東征では潼関に竇泰を、沙苑で高歓を大破する殊勲を挙げ、549年には柱国大将軍に進位し、556年の官制改革では六官の大司空とされ、禅譲で梁国公に進封されて太保を加えられた。
大宗伯・大司徒を歴任したが、宇文護の死を望む発言が暴かれて宇文護に迫られて自殺した。
侯莫陳順 〜557 ▲
爾朱栄・賀抜勝に従って孝武帝の下で衛将軍・閤内大都督に進み、入関後は宕昌羌討伐や沙苑の役に従った。
538年の東征では王盟らと共に関中に鎮して諸乱の討平に従事し、後に安平郡公に転封され、550年に大将軍・荊州総管・山南道五十二州諸軍事・荊州刺史とされた。禅譲で少師・柱国に直された。
史寧 〜563
涼州建康郡の人。字は永和。
軍功によって直閣・征東将軍・金紫光禄大夫に進んだ後、賀抜勝に従って荊州で沔北を略定し、その亡命にも従った。
帰朝して行州事・東義州刺史を歴任した後、546年に涼州刺史宇文仲和の造叛を鎮定して車騎大将軍・大都督・涼州刺史とされ、550年に宇文貴の宕昌羌討伐に従って乱兵の主力を討平し、鹵獲品の分配で公正と無欲を讃えられた。
柔然の余勢の撃退や吐谷渾の蠢動を抑えて安政郡公・大将軍に進み、突厥の木汗可汗に貸道して与に吐谷渾を大破し、突厥にも勇略を畏憚されて“神智人”と称された。
禅譲で小司徒とされ、都督・荊州刺史に転じたが、奢縦貪濁かつ非法によって声誉を著しく損なった。
司馬消難
字は道融。司馬子如の子。
東魏で著作郎で起家して邢・魏収ら文士と交遊し、貴顕の子として高歓に駙馬とされて光禄勲・豫州刺史などを歴任したが、妻女とは険悪で、558年に上党王との通謀を猜疑されると長安に亡命して大将軍・滎陽郡公とされた。
静帝が即位すると大後丞とされて娘が皇后とされたが、間もなく鄖州総管に出され、9州8鎮を以て尉遅迥の乱に呼応したものの、襄州総管王誼に討たれると戦わずに陳に亡命した。
江南では車騎将軍・司空・随公とされ、平陳に際しては施文慶とともに大監軍とされ、長安に連行された後、嘗ての楊忠との義契を以て減死に処されて楽戸(官奴の一種)に貶され、20余日で赦されて良民として歿した。
若干恵 〜547
代郡武川の人。字は恵保。
爾朱栄に従って鎮民の乱を平定し、次いで賀抜岳の西征に従って累功があり、賀抜岳が殺されると趙貴らと与に宇文泰を推戴して直閤将軍とされた。
孝武帝の入関で右衛将軍・大都督・魏昌県伯に進み、文帝の即位で公に進爵し、沙苑の役の後に長楽郡公に進封された。
543年の邙山の役では右軍に位置し、左軍の敗退で全軍が壊乱すると追兵を一旦撃退した後、炊飯摂食してから隊列を整えて残兵を収容し、そのため高歓は伏兵を懼れて追討できなかった。
間もなく司空に転じ、546年に荊州に侯景を撃退し、翌年には侯景の帰順を受降する為に魯陽に進駐したが、程なく軍中で歿した。
宇文泰の挙兵に従った諸将で最年少で、その死は痛惜された。
達奚武 504〜570
代郡の人。字は成興。
爾朱天光の西征で賀抜岳の別将となって従い、賀抜岳が殺されると趙貴らと与に宇文泰を支持した。
537年の東伐で車騎大将軍・高陽郡公に進み、河橋の役での先鋒の功で驃騎大将軍に進位し、次いで大将軍となり、551年には江南の侯景の乱に乗じて剣閣以北の漢中一帯を征服した。
禅譲で柱国・大司寇に直され、帝号の採用で大宗伯・鄭国公に進み、武帝の下で太保・太傅を歴任した。
若年の頃は奢侈と華飾を好んだが、重任に就くようになってからは威儀を恃まず、門には戟を備えず外出の際の従者も二人のみだったという。
竇熾 507〜584
扶風平陵の人。字は光成。
容姿雄大で騎射に長じ、葛栄が討平されて爾朱栄に従い、薊城討伐では韓楼を手斬して揚烈将軍に叙された。
韓陵の役の後は樊子鵠に従って爾朱仲遠や譙城の元樹を伐ち、孝武帝より撫軍将軍・閤内大都督に叙されて入関に従った。
宇文泰の軍事に従って大将軍・安武県公に進められ、州刺史・原州刺史などを歴任して能治を称され、554年に広武郡公に進封され、同年、広武に来攻した柔然を趙貴と与に大破した。
武帝の即位で柱国大将軍・ケ国公に進み、564年に大宗伯となったが、570年に武帝の元服を機に宇文護に奉政を勧めた為に宜州刺史に出され、宇文護が殺されると徴還されて太傅に直された。
以後も元勲として重んじられて平斉の後に上柱国に進位して雍州牧を兼ね、楊堅への即位の勧進には宗室の歴恩を称して署名しなかったが、禅譲後にも太傅とされて贊拜不名の殊礼が加えられた。
豆盧寧 500〜565
昌黎徒何の人。字は永安。道武帝に帰順して豆盧姓を下賜された慕容氏の裔。
騎射に長じ、爾朱天光の西征に加わった後に侯莫陳悦に従い、賀抜岳が殺されると李弼と与に宇文泰に帰順した。
文帝が立てられると河陽県公に進爵されて撫軍将軍・鎮東将軍・武衛大将軍などを歴任し、宇文貴に従って宕昌羌の内乱を鎮定して大将軍に列した。
禅譲で柱国大将軍に進位され、559年に同州刺史に転じ、次いで稽胡を伐って大司冦・楚国公に進み、宇文護の東征に病をおして乗輿で従った翌年に病死した。
独孤永業 〜580
中山郡の人。字は世基。
高歓の挙兵に従い、事務への練達と歌舞によって高澄に器重され、禅譲で中書舎人・豫州司馬に直された。
文宣帝が歿すると河陽に出鎮し、招撫に成果を挙げる傍ら帰降者から簡抜した精鋭200人を先鋒に用いて周兵の東出を善く抑え、564年の邙山の役でも金墉城を堅守して援軍の到来とともに西軍を撤退させた。
武成帝の退位で鄴に徴還されて太僕卿に直された後、河洛の防備は弱体化して治安も悪化したと伝えられ、幽州の斛律羨誅殺の使者となった後に復た河陽道行台僕射・洛州刺史とされ、575年には金墉に宇文泰を撃退して臨川王とされた。
朝廷の棄鄴に憤慨して北周に帰順して上柱国とされ、襄州総管に転出した後、尉遅迥への呼応を猜忌されて行軍総管の崔彦睦に殺された。
楊忠 507〜568
漢の太尉楊震の裔として弘農華陰の人と称した。鮮卑姓は普六如。
524年に泰山で梁軍に執われた後、元の北伐に随って北帰し、孝武帝に従って入関して程なくに独孤信と共に荊州で敗れて再び南投し、537年に帰国した。
宇文泰の歴戦に従い、侯景の乱で江左が混乱すると都督三荊等十五州諸軍事として穰城に出鎮して江漢を経略し、554年には南征の前軍となって于謹らと共に江陵を陥した。
禅譲の翌年に達奚武と共に司馬消難を受降して柱国大将軍に進位し、明帝の称帝(559)で随国公に進封され、562年に大司空に進められた。
563年に突厥と連携して晋陽を攻略したが、突厥の退還を留める事が出来ずに平陽から後発した達奚武との期会を果たせず、又た突厥は退くに際して平陽に至る7百余里で殺掠を恣にした。州刺史に転じた後、病の為に徴還されて長安で病死した。
李虎
西涼王李歆の玄孫として隴西狄道の人と称した。
武川鎮の幢主の子に過ぎなかったが、宇文泰に従った累功で大野姓を下賜され、西魏の太尉に至って八柱国に列し、禅譲前に歿して後に唐国公に追封されたと伝えられる。
李虎の家は祖父の李煕の代に洛陽遷都の影響で零落したようですが、同時代の宗族である筈の李沖(李歆の弟/李翻の孫)が救済したという事跡は確認できません。
李虎の祖父と李歆の孫が同名(李煕)だったことが利用された可能性が指摘されていますし、『周書』成立の背景などから、李虎を八柱国に数えている事も改竄が疑われています。
李賢 502〜569
字は賢和。
李陵の裔として隴西成紀の人と称し、隴中に居した。
原州主簿の時に爾朱天光の西征を迎えて高平令に遷り、賀抜岳が殺されると弟の李遠・李穆らと与に侯莫陳崇の原州攻略に内応して守原州事とされた。
孝武帝の入関で上邽県公に封じられ、後に原州刺史に進み、宇文泰が原州を訪れた際には必ず李賢の邸に幸し、又た宇文邕や宇文憲は褓襁の折に忌方として李賢の邸で養育された。
恭帝元年に西河郡公に進封され、禅譲直後に甥の李植の謀叛に連坐して罷免されたものの間もなく車騎大将軍に復し、562年に爵位を戻されて瓜州刺史に転じた。
564年の東征に際してより初代の河州総管・洮州総管を歴任して羌・吐谷渾に備え、大いに屯田を興して漕運を省き、西辺を安定させた。
後に徴還されて大将軍に叙され、長安で歿した。
李遠 507〜557 ▲
字は万歳。李賢の弟。童時より将幹を示して胆略があり、長じては群書を渉猟した。
六鎮の乱では兄弟宗族と共に胡琛に抵抗し、原州(=高平鎮)が陥されると京師に間行して爾朱天光の西征を先導し、賀抜岳の死後、侯莫陳崇に内応した功で高平太守に転じた。
537年の東伐では殊勲として車騎大将軍・陽平郡公に進封されて要衝の弘農太守とされ、543年に高愼の受降を強く唱えて東征の前鋒となり、続く邙山の役では殿軍を整えて帰帥を全うした。
宜陽に進出した段韶を撃退して大将軍に進位され、次いで左僕射に転じ、継嗣を決めかねている宇文泰に嫡庶の別を説いて宇文覚を支持し(対立候補の宇文毓の舅は独孤信)、禅譲で柱国大将軍に進位されたが、子の李植が宇文護粛清を謀った事が露見して逼られて自殺した。
征旅では常に間諜を用いて破綻せず、又た狩猟中に虎と誤って矢で石を穿った事で李広に比せられた。
梁禦 〜538
字は善通。
安定梁氏の人と称し、孝文帝の改姓までは紇豆陵氏だっとという。
歴世で武川鎮に住し、爾朱天光の西征で招引されて鎮西将軍・東益州刺史・第一領民酋長・白水県伯とされ、賀抜岳が殺されると諸将と共に宇文泰に従った。
侯莫陳悦が討平された後、大都督・雍州刺史とされて雍州刺史賈顕度を降し、車騎大将軍・儀同三司を授けられた。
文帝の即位で右衛将軍・信都県公に進み、次いで尚書右僕射とされ、東雍州刺史・広平郡公として歿した。
沙苑の役 537
関中に進攻した高歓を宇文泰が撃退した戦。
高歓は前年に夏州(陝西省靖辺)・霊州(霊武)を陥して秦州(天水市域)の万俟洛や豳州(慶陽市域)の叱干宝らの来附もあり、年末には関中の飢饉に乗じて蒲津・潼関・上洛から西進したが、潼関で竇泰が敗死した事で撤退していた。
秋に宇文泰が弘農(河南霊宝)を征服して河南経略を進めると、高歓は高昂に対処させる一方で自身は蒲津(山西省永済市蒲州鎮)から西渡し、関中に退いた宇文泰と沙苑で対峙した。時に高歓軍は20万、高昂軍は3万、弘農の駐兵は1万だったとされる。
李弼を右軍、趙貴を左軍として背水に布陣した宇文泰に対し、高歓軍は寡兵に対する軽挙などから大破され、軍の壊乱後も撤退を肯わなかった高歓を斛律金が強引に後退させた。
東軍の損失は兵8万余、武具18万領に達したと伝えられ、夏州・霊州を失っただけでなく汾州・絳州も奪われ、又た河南では弘農から退いた高昂を追って独孤信が洛陽を占拠し、梁州(開封)以西の多くが呼応した。
河橋の役 538
洛陽周辺での西魏軍と東魏軍の戦。虎牢の高昂・侯景が、金墉城の独孤信を攻囲した事に始まった。
西軍は前駆の李弼・達奚武が緒戦で勝利して東軍と河橋・邙山で対峙し、邙陰では高昂軍を壊滅させたものの、濃霧で諸軍の連携を失って左軍の趙貴・怡峯と右軍の独孤信・李遠とも河陰で劣勢となって撤退し、一時は宇文泰の所在すら不明となった。
東軍の死虜は2万5千余、西軍の俘虜は数万を数え、西軍は高昂らを敗死させたものの洛陽を失い、又た関中では守兵の寡勢に乗じて趙青雀ら俘虜兵が蜂起し、長安小城や咸陽が占拠された。尚お、金墉城は戦後程なくに高歓によって毀城された。
邙山の役 564
北斉より生母を送還された直後に北周の宇文護が起した東征。
北周は尉遅迥を前鋒に、宇文憲・王雄らが10万と称する兵力で洛陽を攻略した。
北斉は斛律光を統帥に騎兵5万を以て迎撃し、晋陽から転戦した段韶が加わった後に尉遅迥を大破し、このとき斛律光は自ら王雄を射殺している。
邙山に屯営した宇文憲は、敗兵を収容した事で全軍に動揺が生じ、達奚武の進言によってその夜のうちに撤退した。
玉壁城
山西省稷山県白家庄村の故城。538年に西魏の東道行台王思政の建議で汾河の南岸に築造された。
高氏に対する戦略拠点として重視され、殊に546年の攻防は高歓の親率する東軍10万に対して韋叔裕が2ヶ月に亘って抵抗を続けたもので、東軍の損兵は7万余に達し、撤退後ほどなくに歿した高歓の死因は敗戦の痛憤とも伝えられる。
北斉は後に斛律光が一帯に城砦を連ねる事で汾北の経略を進めたが、玉壁城を陥すことは畢に出来なかった。
はじめ玉壁総管が駐し、564年に勲州が新設され、577年に絳州に改称された。
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絳州は東魏の東雍州が改称されたもので、当初は龍頭城(山西省聞喜東北)を治所とし、後に柏壁城(新絳西南)に、次いで577年に玉壁城に遷された。
隋が583年に臨汾県(新絳)に遷し、境内には現在は曲沃・稷山・絳・新絳・翼城・万栄・河津・襄汾・夏・垣曲・聞喜県などがある。
次第に縮小が進み、1218年に晋安府とされ、元では絳州に戻されて晋寧路に属し、明では平陽府に属し、清が1724年に直隷化した。