陰皇后(和帝)
陰識の曾孫。永元8年(96)に皇后とされた。
ケ貴人が納れられた後は驕恃を忌避され、又たケ氏が和帝に才人を薦めたことも怨恚し、外祖母/ケ朱と巫蠱を為したとして14年(102)に廃され、桐宮で幽死した。弟の陰輔は獄死、父の陰綱は自殺し、一族は日南に徙された。
袁敞
字は叔平。袁安の子、袁京の弟。
家学を修め、安帝の元初3年(116)に司空に進んだ。勁直でケ氏に与しなかったために枉陥されて自殺したが、死因を匿されて三公の礼で葬られた。
子の袁盱は桓帝の世に光禄勲とされ、梁冀誅殺では廷尉邯鄲義と同道して大将軍印を没収した。
王渙 〜105
広漢郪(綿陽市三台)の人。字は稚子。太守陳寵の功曹となって豪姓の糾察で名を顕し、長吏に進んだ後はしばしば厳急を弾劾されたが、姦伏の発摘は神算と称され、死後は安陽亭の西に祠を建てられた。
黄老に傾倒した桓帝が延熹年間(158〜167)に民の祠堂を悉く廃した際も、密の卓茂廟と洛陽の王渙祠のみは残された。
王平 〜70
阜成侯王梁の孫。
楚王謀逆の謀首とされ、兄の王堅石と共に棄市された。
何煕 〜110
陳国陽夏(太康)の人。字は孟孫。
御史中丞・司隷校尉・大司農を歴任し、永初3年(109)に行車騎将軍事として南単于檀を討破したが、翌年に曼柏(烏拉特前旗)で病死した。
梁慬 ▲
北地弋居(甘粛省寧県)の人。字は伯威。父の梁諷は車騎将軍竇憲に憎まれて殺された。
竇氏が敗れると挙用され、延平元年(106)に西域都護任尚が召還されると西域副校尉として亀茲に進駐し、翌年の都護の廃止後は叛羌の討伐などによって西面の諸軍を節度した。
永初3年(109)に南単于檀が叛くと行度遼将軍事とされ、行車騎将軍何煕らと美稷(准格爾旗)で匈奴を大破した。
三輔の群盗討伐中に病歿した。
桓栄
沛郡龍亢(安徽省懐遠)の人。字は春卿。
寒貧の出で、長安で客傭しつつ『欧陽尚書』を学び、建武年間に召されて欧陽博士とされ、篤学の長者として敬重された。
建武28年(52)に太子少傅とされ、明帝が即位すると師礼を執られて東面が許された。
桓郁 〜93 ▲
字は仲恩。桓栄の嗣子。父業を伝えて『尚書』を侍講し、章帝・和帝に師とされた。
質倹を好み、和帝が即位すると竇憲の薦挙で長楽少府とされ、太常として歿した。
門下から楊震・朱寵らを輩出した。
寒朗 25〜109
魯国薛(山東省滕州)の人。字は伯奇。経書に博通して『尚書』を教授した。
楚獄では顔忠・王平らを糾案したが、辞述が勲戚貴顕に及ぶと、厳断を重んじる時俗に背いて訟冤し、明帝の再審を得て千余人が赦免された。永元年間(89〜105)に博士に叙された。
耿恭
扶風茂陵の人。字は伯宗。耿況の孫。耿広の子。
奉車都尉竇固の車師遠征で、関寵と倶に戊己校尉とされて車師後部に駐屯した。
翌年には明帝が歿し、匈奴の反攻で西域都護が陥没して車師前部の関寵同様に攻囲されたが、飢餓で数十人に減じた吏士に二心を生じさせず、井戸に再拝して湧水を得たとの逸話は長らく辺地の軍士に信奉された。
建初元年(76)の車師前部回復で救出されたものの、関寵は既に陣歿し、玉門関に達した耿恭の扈従も13人に過ぎなかった。
忠勇を蘇武に比されて騎都尉に進み、翌年には行車騎将軍馬防の西征に従ったが、馬防を“飾威”と評して将帥に竇固を薦めたことが露見し、枉陥で罷免された。
孫の耿曄は順帝の初に護烏桓校尉とされ、鮮卑を大破して北辺に名を知られ、後に度遼将軍に進んだ。
耿秉 〜91
字は伯初。大司農耿国の子。
軍略を好んで辺事に通暁し、永平16年(73)の北伐では功がなかったが、翌年には奉車都尉竇固に倶行して車師を降し、明帝の死で戊己校尉が車師に孤立すると酒泉に進駐し、従弟の耿恭を収容した。
章和の北伐(88)では征西将軍を拝して車騎将軍竇憲の副となり、功によって光禄勲・美陽侯とされたが、死後に竇憲の阿党として劾され、嗣子耿沖は剥封された。
兵吏や降虜を慈しみ、軍旅では自ら被甲して先行し、儀礼は簡易だったが軍紀は明らかで、遠く斥候を派して不覚を取らなかった点は李広に通じるところがあった。訃報に接した匈奴は、国を挙げて号哭したという。
永平の車師遠征は円滑なものではなく、耿秉は車師の本幹である車師後部の討伐を唱え、遠険を厭う竇固と対立しました。
後部王の攻略は耿秉の独走によるもので、その後の受降の儀では、竇固派の部将に欺かれた後部王から竇固の部将として遇され、これに激怒して竇固の営で攻城を宣言し、恐懼した後部王が改めて耿秉の営に詣降しました。
耿紀 〜218 ▲
美陽侯耿秉の玄孫。耿沖の曾孫。夙に美名があり、建安年間(196〜220)に少府に至った。
建安23年(218)に曹操の簒奪を危ぶんで太医令吉平・丞相司直韋晃と結び、密かに荊州牧関羽にも通じて許(許昌市区)で挙兵して敗れた。耿況の嫡統の耿援を除いて族滅され、多くの勢門が累坐した。
耿氏は東漢で2大将軍、9将軍、13卿、3駙馬、19列侯を輩出し、史書では「遂に漢と興衰を与にす」と評された。
耿夔
扶風茂陵の人。字は定公。耿秉の弟。夙に勇決を讃えられて竇憲の北伐に従い、永元3年(91)には大将軍左校尉として居延塞(額済納旗)より8百騎で北上し、南匈奴と合して北単于を大破した。
竇憲に累坐して罷免されたが、後に長水校尉・五原太守・遼東太守を歴任し、永初3年(109)に南単于檀が叛くと、車騎将軍何煕の前鋒となって日逐王を大破した。建光元年(121)にも度遼将軍として鮮卑を撃退したが、後に復た法に坐して罷免され、家で歿した。
崔駰 〜92
涿郡安平の著姓。字は亭伯。
祖父の崔篆は兄が王莽の大司空となった事を愧じ、光武帝の挙任に応じなかった。
崔駰は『詩経』『易経』『春秋』に通じて文章に能く、太学では班固・傅毅と名声を斉しくした。
和帝が即位すると車騎将軍竇憲の掾とされたが、しばしば竇憲の驕恣を諫めたことで忌避され、楽浪郡の県長とされた事を機に致仕した。
朱寵
京兆の人。字は仲威。ケ隲の掾属から潁川太守に転じて、能名を称された。
後に大司農に転じ、ケ氏粛清を訟冤して罷免されたが、順帝の世に召されて太尉・録尚書事に至った。
任隗 〜92
南陽宛の人。字は仲和。任光の子。
黄老を好んで静謐で、宗族の孤児・寡婦を収養して節義を讃えられた。
章和元年(87)に司空に至り、和帝が即位すると司徒袁安と与に大将軍竇憲の専断を該奏した。
任尚 〜118
永元元年(89)に護羌校尉ケ訓の長史として、湟中胡を率いて楡谷に焼当羌の迷唐を大破し、大将軍竇憲の北伐にも従って“竇憲の爪牙”と称された。
永元5年(93)に使匈奴中郎将として北単于を討滅し、護烏桓校尉に転じた後に匈奴が叛くと行車騎将軍ケ鴻の支軍として逢侯を大破した。
西域都護に転じると班超の訓勧を聴かずに厳政を行ない、諸国の離叛を招いて西域都護が廃止され、翌年(107)からは主に先零羌討伐に従事した。
車騎将軍ケ隲の西征では副帥とされ、平襄(甘粛省通渭)での大敗は滇零の僭称を結果したが、ケ隲の昇任と併せて楽亭侯に封侯された。
元初4年(117)には購募を用いて杜季貢・零昌を殺し、馬賢と倶に北地で狼莫を大破するなど先零羌の平定に大功があったが、行車騎将軍ケ遵と功を争って首級を詐増し、臧賄・枉功を該されて棄市に処された。
司馬鈞 〜115 ▲
河内温県の人。字は叔平。殷王司馬卬の裔とされる。
永初元年(107)の車騎将軍ケ隲の西征に従事中郎として従い、後に先零羌の攻勢に伴って左馮翊に進められた。
元初2年(115)に行征西将軍に叙されて安定太守・北地太守・右扶風・右扶風都尉・京兆虎牙都尉らを率い、別路の護羌校尉龐参と連動して先零羌を伐ったが、諸将が統制に従わずに佯退を追った事に激怒して援兵を出さず、諸将の敗滅で退還した。
司馬鈞は獄中で自殺を命じられ、龐参の後任の護羌校尉には馬賢が挙げられ、三輔には中郎将任尚が進駐した。
第五倫
京兆長陵(咸陽市区)の人。字は伯魚。左馮翊蓋延の非法を諫めたために昇任できなかったが、後に光武帝に認められて会稽太守に抜擢されると、淫祠を廃して民衆に帰依された。
章帝が即位すると司空に進み、内治を優先して西域問題からの撤退を主張した。
法に峻烈でありながらも俗吏の苛刻を忌み、又た王侯貴顕の踰制驕奢を憎み、馬氏の後は竇氏の伸長を警戒した。
質倹・貞白を讃えられた反面、威儀・寛雅に欠ける点で軽視された。
張酺 〜104
汝南細陽(河北省太和)の人。字は孟侯。張敖の裔と称した。
祖父に『尚書』を学び、桓栄に師事して太子に侍講した。
章帝の即位後は大郡の尹守を歴任し、豪強・長吏を剛断してしばしば竇景を挫いたが、竇氏の刑誅後は竇氏に阿諛した者が極譏に転じる時俗を不快として、竇瓌の忠善を上疏した。太尉・司徒を歴任した。
曾孫の張済は光和2年(179)に、その弟の張喜も初平4年(193)に司空に至った。
竇景は竇憲の弟で、竇憲一党でもとりわけ悪評高い人物です。
しばしば小吏に報復する際に、人事を用いて麾下に異動させた為、張酺の上言で竇景の一切の辟召が無効とされました。
趙曄
会稽山陰(紹興市区)の人。字は長君。和帝の頃の人。
吏職を愧じて棄官した後、『韓詩』を究奥して『詩細歴神淵』を、又た別に『呉越春秋』著し、布衣のまま歿した。『詩細』は蔡邕によって、王充の『論衡』に優ると絶賛された。
陳禅 〜127
巴郡安漢(四川省南充市区)の人。字は紀山。車騎将軍ケ隲に召されて漢中太守とされ、後に諫議大夫に転じ、西南夷の幻術を安帝が喜ぶと、夾谷の盟(春秋斉と魯の会盟。斉は小国の魯を辱めるために侏孺の楽を奏し、孔子に一喝された)に譬えて諫めた。
ケ隲の故吏として罷免されたが、後に車騎将軍閻顕に長史とされ、順帝が即位すると司隷校尉とされた。
陳寵 〜106
字は昭公。沛国校(安徽省霊璧)の人。律法を家業として司徒府に辟召され、当時の三公の掾属が事務を執らずに交遊することを高尚とする風に従わなかったことで能吏と称され、獄訟を担当して著した事類集『辞訟比』は公府の法とされた。
為人りは周密・畏慎で、尚書として枢機に参与してより私交を断ち、寛政を章帝にも嘉された。
人事で侍中竇憲と争議したために枉陥され、竇瓌の仲介で泰山太守に転出し、竇憲が誅されると大司農に進み、永元16年(104)には司空に至った。
鄭弘 〜85
会稽山陰(紹興)の人。字は巨君。西域都護鄭吉の従孫。
太守第五倫に薦挙され、建初8年(83)に大司農とされると、交趾からの貢納の沈溺を防ぐため、零陵と桂陽の間の漕運を開通した。
元和元年(84)に太尉とされると、司空となっていた第五倫と同座することを憚り、これより雲母の屏風で三公の席を隔てるようになった。
竇憲に対する劾奏を窃読され、枉陥されて憤死した。
『会稽記』によれば、少壮時に山中で薪を採って神仙に遭い、若耶渓の風を朝に南風、暮に北風とすることを求め、これより朝暮の風を“鄭公風”と呼ぶようになったという。
竇瓌 〜98
大将軍竇憲の末弟。
好学で謙退の風があり、節を守って一門の驕奢には倣わなかったために竇憲への累坐は免れたが、翌年に官倉から貧人に稟仮したことで羅侯(汨羅/長沙)に徙封され、九真から還洛する途上の梁棠(梁竦の子)に逼られて自殺した。
竇氏の禁錮は永初3年(109)に解かれ、後に桓帝の皇后が立てられた。
竇穆
竇融の長子。内黄公主を娶り、中元元年(56)に叔父の竇友が歿して城門校尉を継いだ。
しばしば郡県に嘱託し、亦た偽勅を以て封地の六安侯劉盱を離縁させて娘婿としたが、永平5年(62)に露見して竇氏は悉く排斥された。
後に不遇を誹謗して追放されると、郷里の郡県に追求されて子の竇宣と倶に処刑された。
竇勲 ▲
竇穆の嫡子。東海恭王の娘婿だったが、竇穆に累坐して京師で処刑された。
後に娘が章帝の皇后とされると、安成侯に追封された。
竇林 〜59
扶風平陵の人。竇融の従兄の子。
羌胡に威望があり、永平元年(58)に竇固が焼当羌を大破すると護羌校尉とされて狄道に進駐したが、永平元年(58)に来降した滇岸(滇吾の弟)を渠帥と誤奏し、涼州刺史からの臧賄の劾奏もあって刑戮された。後任の郭襄は羌を恐れて遁還し、護羌校尉は再び廃された。
ケ畳 〜92
太傅ケ禹の宗族。永平年間(58〜75)には豪戚の糾察で名を挙げたが、後に竇憲に阿附して行征西将軍・穣侯に至った。長楽少府郭璜・射声校尉郭挙父子らと交通して大権を弄し、郭挙に累坐して誅された。
郭璜 〜92 ▲
陽安侯郭況の子。光武帝の淯陽公主を娶っていたことで明帝・章帝にも親任された。子の郭挙が大将軍竇憲の婿であり、共に竇憲に親しんだことから累誅された。
傅毅 ▲
扶風茂陵(咸陽市興平)の人。字は武仲。
博学で、建初年間(76〜84)に班固・賈逵らと校書を典って文雅を讃えられた。
永元元年(89)に車騎将軍竇憲の主記室とされ、主簿崔駰・中護軍班固と倶に盛名を謳われた。
ケ鴻 〜95
南陽新野の人。太傅ケ禹の少子。
計策に長け、辺事への通暁を以て永平年間(58〜75)に将兵長史として雁門に進駐した。
章帝の世に度遼将軍に進み、大将軍竇憲の北伐でも功があり、匈奴の逢侯討伐では行車騎将軍とされたが、塞外に追撃して捕捉できなかったことを逗留と見做され刑戮された。
ケ彪 〜93
南陽新野の人。字は智伯。太傅ケ禹の宗族。
諸官を歴任して章帝の建初6年(81)に太尉に至り、謙譲と清白を以て“百官の範”と称された。
元和元年(84)に致仕した後も二千石の歳俸があり、和帝が即位すると竇憲によって太傅・録尚書事とされたが、諾々とするのみで世に譏られた。
竇氏が誅戮されると録尚書事を辞した。
ケ康 〜134
ケ皇后の従兄弟。父の夷安侯ケ珍はケ禹の子。
宗門の盛盈を危ぶんでケ太后に還政を勧めたことがあり、後に累を懼れて病と称して朝見を廃したが、嘗ての婢が太后の名代として中大人を称して慰問したことを叱責した為に誣罔され、就封・剥籍に処された。ケ氏の排斥で召還され、順帝の世に方正を称された。
杜根 ▲
潁川定陵(河南省舞陽)の人。字は伯堅。
為人り急直で、安帝の元服を以てケ太后に還政を奨めたために殿上で殴撲され、死を偽って隠遁した。ケ氏の排斥で召還され、順帝の世に済陰太守に至った。
馬厳 17〜98
字は威卿。馬援の甥。父を喪うと姉の義父/平阿侯王仁を頼り、王莽が敗れると馬援を頼った。
家令として信任され、馬援が死後に枉陥されると訟冤すること6度に及び、馬援の葬送が認められた。
永平15年(72)に北地より召還されて明帝に近侍し、校書郎班固と与に東観に署し、章帝のとき竇氏の驕恣を諫めたために誣罔されて罷免された。
7子あり、中でも馬続は博覧で『九章算術』に通じただけでなく、順帝の世に護羌校尉・度遼将軍を歴任して永和5年(140)には匈奴の吾斯らを大破し、その弟の馬融は儒宗として知られた。
王磐 〜46 ▲
字は子石。王莽の従兄/平阿侯王仁の子。王閎の甥。馬厳の姉婿。
王莽が敗れると富財を擁して平阿(安徽省懐遠)に遷り、江淮に侠名を謳われた。後に京師で衛尉陰興・大司空朱浮・斉哀王らと交際したが、司隷校尉蘇鄴に累坐して獄死した。
馬援は廃姓が京師で横遊することを夙に危ぶみ、亦た諸侯王の交友を禁じる旧制を重んじ、一族賓客に対して王磐父子との交際を誡めていた。
王粛 ▲
王磐の子。父の死後も諸侯王と交わり、沛太后が歿すると貫高に擬されて訴えられ、これにより諸侯王の賓客数千人が収捕され、諸侯王に対する統制強化と就国が進められた。
馬廖 〜92
字は敬平。馬援の長子。
禁兵の将校を歴任し、明帝が歿すると衛尉とされ、誠実・謹慎で権勢の声名を厭って章帝からも重任された。
建初4年(79)に順陽侯とされた後も太后に倣って簡約を重んじたが、寛弘優柔で宗族を教導することができなかった。
太后の死後、嗣子の馬予が一門の失寵を誹謗したことから一族の奢侈踰僭と併せて弾劾され、8年(83)に馬氏は悉く罷免・就封に処された。
馬予は順陽で拷死したが、馬廖は後に赦免されて京師で歿した。
馬防 〜101 ▲
字は江平。馬援の子。馬廖の弟。
戚族として顕官を歴任し、建初2年(77)に隴右の叛羌を耿恭と倶に大破して車騎将軍とされた。
貴戚の最たるものとして朝廷で重んじられ、重篤となった馬太后によって潁陽侯とされた。
党与を長吏に任じ、一族で奢侈を競って多数の賓客を擁したが、太后の死後は羌胡からの賦斂でしばしば譴責された。
8年(83)に甥の馬予に累坐して就封し、永元6年(94)には弟の馬光に累坐して丹陽の郷侯に徙封された。
馬光 〜94 ▲
馬防の弟。小心周密を章帝に嘉されて衛尉・許侯に至り、馬氏の排斥後も京師の残留が認められた。
和帝が即位すると太僕とされたが、竇憲との親交を以て就封に処され、竇憲の奴僕から同謀と誣告されて自殺した。
後に証冤が認められ、永初7年(113)には馬氏の帰洛・朝見も許された。
馬賢 〜141
任尚の先零羌討伐で認められ、元初2年(115)に護羌校尉龐参の後任とされた。
零昌平定後も抵抗を続ける諸羌を討伐し、再叛した麻奴の平定と隴西鍾羌の制圧で隴道を回復し、永和5年(140)に諸羌が三輔を侵すと征西将軍とされて漢陽に屯したが、翌年に北地の射姑山で敗死した。
皇甫規からは拙策が指摘され、敗績が予言された。
班勇
字は宜僚。班超の少子。
西域諸国が都護任尚に背くと、兄の班雄に従って敦煌に屯した。
棄西論が主潮となっていた朝廷にあって、延光2年(123)に漸く西域長史とされて屯兵500で楼蘭に進駐し、鄯善・亀茲・姑墨・温宿の詣降もあって、永建元年(126)までに車師を悉く平げて匈奴の呼衍王を大破した。
翌年(127)には敦煌太守張朗と倶に焉耆を挟撃したが、以功贖罪を図る張朗は独走して焉耆を降し、班勇は遅滞として罷免されて家で歿した。
費長房
汝南の人。市で老翁が壺中に入ることを視、師弟の礼を執って仙境に随った。
この時、青竹を軒に懸けて屍形とし、旬日を過ごして試練の最終に適わずに還俗したが、俗世では十余年を閲していたという。
符を用いて百鬼社公を使役し、魑魅を鞭責して医療を行なったが、後に符を喪って衆鬼に殺されたと伝えられる。
時代不祥の人です。正直、『後漢書』に載せられた理由も不明ですが、南朝宋代といえば『捜神記』も敷衍していた頃ですし、志怪小説から逆に採用されたのではないかとも思います。いわゆる“壺中天”の出典で、有名人である事は確かです。
傅育 〜87
北地の人。
明帝の初の捕虜将軍馬武の西征では「功は諸軍に冠たり」と謳われ、辺地の長吏を歴任して匈奴・羌に威声があった。
領護羌校尉とされると購募を用いて西羌の迷吾からの離背を図って失敗し、功を焦って独進急討し、建威(青海省貴徳)で夜襲されて敗死した。
伏恭 B6〜84
琅邪東武(山東省諸城)の人。字は叔斉。司徒伏湛の甥。
『斉詩』を以て博士に叙され、常山太守の時に学校を振興して北州での伏氏学隆盛の基となった。永平4年(61)に司空に進み、在任9年で致仕した後は終禄千石を下賜された。
鮑c
鮑永の子。
理劇の才を讃えられ、明帝の永平17年(74)に司徒に進み、章帝が即位すると旱害を理由に楚獄の赦免を勧めた。建初4年(79)には太尉に至った。
龐参
河南緱氏(偃師)の人。字は仲達。
棄西論の主唱者の1人で、車騎将軍ケ隲の西征を諫め、後に漢陽太守(天水郡)・護羌校尉を歴任して恩信を讃えられ、元初2年(115)には令居塞(甘粛省永登)を陥して隴道を回復した。
同年の征西将軍司馬欣と連動した零昌討伐は勇士(甘粛省楡中)で杜季貢に敗れたものの、馬融の請願で度遼将軍梁慬と倶に赦され、外夷への通暁を以て度遼将軍・遼東太守・大鴻臚を歴任した。後に太尉に至ったが、忠直を忌まれて罷免された。
劉彊 25〜58
東海恭王。光武帝と郭皇后の子。
建武2年(26)に太子とされたが、郭后が廃されると降格を求め、19年(43)に東海王とされて魯郡を併食し、曲阜に都した。
謙恭を嘉されて終生厚遇され、葬儀には天子の儀杖が用いられた。
東海王家は漢末まで続き、建安5年(200)に懿王を嗣いだ劉羨は、漢魏禅譲を以て崇徳侯とされた。
劉輔 〜84 ▲
沛献王。東海恭王の同母弟。郭后が廃されると中山王に更封され、20年(44)に沛王に徙封された。
京師で多数の賓客を擁し、寿光侯に累坐しても3日で釈免されたが、沛太后が歿すると諸侯王への統制が強化されて就国した。
沛国は漢末まで献王の裔が嗣ぎ、沛王契は漢魏禅譲を以て崇徳侯とされた。
劉延 〜89 ▲
阜陵質王。東海恭王の同母弟。建武28年(52)に淮陽王として就国したものの驕奢・厳酷で、永平16年(73)に巫蠱を告発され、司徒邢穆が累坐する事態に発展したが、自身は2県を以て阜陵王に徙封された。
建初元年(76)には子の劉魴と謀逆して阜陵侯に貶されたが、章帝の章和元年(87)に阜陵王に直されて寿春遷都が認められた。
阜陵王家は建安年間(196〜220)に無嗣を以て断絶した。
劉蒼 〜83
東平憲王。明帝の同母弟。美髯と思略に定評があり、明帝が即位すると驃騎将軍に叙され、三公の上位に置かれて輔政した。
巡狩の毎に京師を留守したが、声望を危ぶんで致仕を求め、永平5年(62)に驃騎将軍のまま就国した。
明帝一代を通じて厚遇され、11年(68)には諸王子の為に列侯の印綬19枚が託され、王の5娘は皆な県公主とされ、章帝からもしばしば諮問された。
東平王家は玄孫の劉凱の代に、漢魏禅譲を以て崇徳侯とされた。
劉荊 〜67 ▲
広陵思王。明帝の同母弟。刻急陰害の性で、はじめ山陽王とされたが、光武帝が崩じると大鴻臚郭況の書と偽って東平憲王に簒奪を勧め、永平元年(58)に広陵王に徙封された。後にも2度にわたって謀逆し、減死に処されて自殺した。
劉京 〜81 ▲
琅邪孝王。明帝の同母弟。明帝に特に親愛され、陰太后の遺財を悉く下賜された。
後に城陽景王の託宣で東海国の開陽(臨沂市区)に遷都するため、領国の5県を開陽・臨沂(臨沂市区)と交易した。
琅邪王国は孝王の裔が漢末まで伝え、建安21年(216)に劉煕が孫権への帰降を謀って曹操に刑戮された。
又た劉煕の兄弟の劉邈は初平元年(190)に長安に使して九江太守・陽都侯とされ、東郡太守曹操の忠誠を称揚したことで曹操に敬重された。
劉党 56〜96
楽成靖王。明帝の子。信都に封じられて楽成と改め、章帝と同歳であることから親愛された。
3代で断絶し、紹封の際に安平国と改められた。
劉羨 〜97
陳敬王。明帝の子。
博覧を嘉されて白虎会議にも参与し、章帝の遺詔で淮陽郡を以て陳王に封じられた。
劉寵 〜197 ▲
陳愍王。陳敬王の曾孫。黄巾軍に射術を畏憚されて国を全うし、反董卓の関東諸将が挙兵すると陽夏(河南省太康)に屯して輔漢大将軍と号した。後に袁術への供糧を拒んで滅ぼされた。
劉暢
斉武王の曾孫。蕪湖侯晃の弟。章帝の大喪に来朝し、姻族の歩兵校尉ケ畳を介して竇太后に謁して信任されたが、権限の分散を忌む竇憲に唆嗾された弟/利侯剛に暗殺された。
劉剛は主犯として刑戮されたが、朝野の嫌疑は竇憲に集中した。
劉晃 ▲
劉縯の曾孫。永平13年(70)に斉王を襲いだが、弟の利侯剛と与に母の太妃と不和で、互いに誣したことで章和元年(87)に蕪湖侯に貶され、利侯は削封され、太妃は璽綬を収没された。
嗣子/劉無忌は永元2年(90)に章帝の遺詔で斉王に復し、漢末まで続いて建安11年(206)に廃された。
劉伉 〜93
千乗貞王。章帝の庶長子。和帝より長兄として尊重された。嗣子の夷王寵のとき楽安国と改めた。
劉鴻 〜147 ▲
渤海孝王。楽安夷王の嗣子。千乗貞王の孫。
子の質帝の即位の翌年(146)に国の卑湿を以て渤海王に徙封されたが、死後は無嗣を以て廃された。
劉慶 78〜106
清河孝王。章帝と宋貴人の子。
建初4年(79)に太子とされ、竇后らの誣罔から清河王に貶された後も太子(和帝)に親任され、竇氏誅戮にも参謀した。
多病・繊細で、和帝の死を哀悼して発病し、就国後程なくに歿した。
長子祜は殤帝の不予に備えて京師に留められ、殤帝が歿して即位した(安帝)。
清河王家は3代で絶えて楽安(千乗)夷王の子/延平(恭王)が紹封され、その嗣子の劉蒜の廃された翌年(148)に安平孝王の子/理(威王)が紹封され、孝王の陵に因って甘陵国と改められた。建安11年(206)に無嗣を以て断絶した。
宋貴人 ▲
扶風平陵の人。馬皇后の姻戚として東宮に納れられ、章帝が即位すると貴人とされ、太子の生母として重んじられた。
馬太后の死後、太子廃黜を図る竇后に与した沘陽公主(竇勲の夫人)・蔡倫らに巫蠱を誣罔され、暴室で自殺した。
ケ太后の死後に安帝によって追尊された。
劉寿 〜120
済北恵王。章帝の子。永元2年(90)に立てられ、和帝に親信されて、和帝の死後に就国した。
死後、国庫の逼迫から諸侯王の賻賜を半減する慣例に反し、始封王の3倍の銭3千万・絹3万匹が供された。済北国は7代続き、建安11年(206)に無嗣を理由に廃された。
劉開 〜131
河間孝王。章帝の子。永元2年(90)に楽成・渤海・涿郡より分封された。河間国は5代続き、漢魏禅譲を以て崇徳侯とされた。
劉得 ▲
安平孝王。河間孝王の子。延光元年(122)に楽成王に紹封され、安平国と改めた。
嗣子の続は中平元年(184)に黄巾に拉質され、解放後に刑されて断絶した。
梁貴人 62〜83
梁竦の娘。夙に母を喪い、伯母の舞陰長公主(梁松の夫人)に養育された。
建初2年(77)に姉と共に貴人とされて和帝を生んだが、和帝を養子とした竇后に与する蔡倫らの讒誣で自殺した。
梁竦 〜83 ▲
字は叔敬。梁統の子。兄の梁松に累坐して九真に徙され、帰郷を許された後に2娘が共に章帝の貴人とされたが、小貴人が和帝を生んだことで竇后に梁氏の伸張を忌譏され、謀逆を誣されて漢陽で刑戮された。
生母の舞陰長公主は新城(洛陽市伊川)に徙され、和帝の出自は秘匿されたが、永元9年(97)に竇太后が歿すると九真の梁氏は召還され、梁竦の3子は皆な外戚として寵遇された。
魯恭 32〜112
扶風平陵の人。字は仲康。春秋魯の頃公を祖とする著姓で、西漢の末に魯より遷った。
礼制に通じ、学識を讃えられて白虎会議にも連なった。地方官としては刑治を否定して徳治を重んじ、和帝・安帝の二度にわたって司徒とされ、盛夏の断獄廃止を提言した。
▼
中国の伝統的刑制では、大逆無道を除く刑の裁断・執行は冬季に行なうものとされたが、“刑季”の定義化には常に異論を伴い、章帝は元和2年(85)に冬至〜立春の約40日間の刑事を禁じ、結果として年内裁決を急ぐ拷案の厳酷化をもたらした。
和帝は永元15年(103)に、薄刑については孟夏(4月)の執行を認めたが、累坐の恒常化によって審理は盛夏に及び、農事に支障を来していた。
袁彭
字は伯楚。袁京の子。
家学を伝え、順帝の初に光禄勲とされ、胡広からは清行質倹を以て第五倫に譬えられた。
袁京 ▲
字は仲誉。司徒袁安の子。『孟氏易』に通じ、蜀郡太守に至った。
閻姫(安思閻皇后) 〜126
河南滎陽の人。祖父の閻章は旧典に通暁し、2妹が明帝の貴人とされた。
閻姫は掖庭に入った翌年(115)に皇后に立てられると後宮を専断し、皇子保の生母を毒殺したことで死罪に問われたことがあった。
しばしばケ氏を誣して安帝のケ氏に対する嫌忌を助長し、ケ氏の排斥後は兄弟を要路に置き、太子保の廃黜にも成功した。
安帝の死後は北郷侯を迎立して垂簾したが、順帝を擁する宦官の兵変で離宮に幽閉されて歿した。
王龔
山陽高平(済寧市鄒城)の著姓。字は伯宗。
諸官を歴任して温雅と挙材で讃えられ、粗遇に憤って退去した陳蕃に謝罪してより後進の士が帰趨するようになったという。
永和元年(136)には太尉に至り、著名の人士を多く辟挙し、州郡からの私文書は一切受けなかった。
宦官の専権を極諫したことで誣罔されたが、故掾の李固が大将軍梁商を説いて釈免された。
王暢 〜169 ▲
字は叔茂。太尉王龔の子。
私交を慎み、南陽太守に転じると貪豪を赳発して大赦後も追窮したが、功曹の諫止で寛政に転じた。
亦た奢靡の風を忌んで自ら節倹の範を示し、17歳だった劉表から「夷斉の末操」と諷諫されたが、この時は更めなかった。建寧元年(168)に司空に至った。
子の王謙は大将軍何進の長史となったものの貴戚との通婚を嫌って棄官し、布衣のまま歿した。
応奉
汝南南頓(河南項城)の人。字は世叔。博覧強記で、囚徒数百千人の姓名・坐状を遺漏無く暗誦したという。
永興元年(153)に武陵太守とされて武陵蛮を招降し、延熹5年(162)の荊蛮討伐では車騎将軍馮緄の従事中郎とされ、功によって司隷校尉に進んで公正・厳獅讃えられた。党獄が起ると致仕し、屈原を悼んで畢に出仕しなかった。
桓焉 〜143
字は叔元。桓郁の子。碩儒として安帝に太子太傅とされ、太子廃黜を太僕来歴・廷尉張皓らと与に諫争したことで順帝から太傅・録尚書事とされたが、禁錮の人を辟召したことで罷免された。
門生には黄瓊・楊賜らがあり、永和5年(140)に太尉に至った。
桓曄 ▲
字は文林。桓焉の弟の孫。節義・質倹に偏執し、父の葬儀に列した叔母/楊賜夫人の従者の粧飾を忌んで楊氏との交際を絶った。
董卓を避けて江東に依ると揚州刺史劉繇・会稽太守王朗の賑恤を拒み、庭の熟橘が堕ちると枝に繋いで窃疑を避け、退去に際しては屋中の全てを目録にしたという。
後に交趾に遷り、誣告によって合浦で刑死した。
虞詡
陳国武平(河南省鹿邑)の人。字は升卿。
棄西論の主唱者の1人で、大将軍ケ隲に疎まれて劇賊の横行する朝歌(河南省淇県)の県長とされたが、間諜を用いて短時日で平定した。
羌胡の横行する武都太守に遷されると、赴途で増竈して兵数を偽って郡に入り、しばしば郡兵の衣を易えて出入りさせることで多勢を装い、恐れて退く羌を大破した。
郡界を平定した後は漕運の開拓に尽力し、「数年にして塩米の値は十分一」と讃えられた。
永建元年(126)に司隷校尉とされると太傅馮石・中常侍李閏らを該奏して枉陥されたが、孫程・高梵らの訟冤で尚書僕射に直された。
剛直で劾挙が多く、しばしば権戚に忤って譴罰され、永和元年(136)に尚書令に進んだものの、諫奏の多くは用いられなかった。
仕官以来家族が増えなかったことから、朝歌での追捕が平理を欠いたことを懐疑していたと伝えられる。
耿宝 〜125
牟平侯耿舒の孫。生母は明帝の隆慮公主。
妹が清河孝王の正妃だったことで安帝から帝舅として重んじられ、124年には大将軍に至った。
中常侍樊豊・大長秋江京・阿母王聖らに阿附し、車騎将軍閻顕・侍中周広・虎賁中郎将謝ツとも結託して、太子を讒誣して済陰王に貶し、太尉楊震を排陥するなど朝政を壟断した。
安帝が歿すると姦党として閻氏に排斥され、就国の途上で自殺した。
抗徐
丹陽郡の人。字は伯徐。
夙に胆略に定評があり、延熹3年(160)の泰山の叔孫無忌の乱では、中郎将宗資の別部司馬として殊勲を挙げた。
後に威名は度尚に斉しくなり、湖南が乱れると長沙太守とされ、度尚と共に平定した。
叔孫無忌の乱では泰山都尉が戦死し、宗資も果々しい戦果を挙げられず、平定には皇甫規が泰山太守に抜擢された事が大きかったようです。
衛羽の働きの位置づけも不明ですが、招降後に再叛して宗資の出征になったとか?
衛羽
兗州の人。刺史第五倫に抗獅フ性を讃えられ、捕吏として単匡の臧賄を糾発し、単匡の刺客を捕えて洛陽に押送した。
泰山都尉が叔孫無忌に敗死すると、自薦して叔孫無忌を説諭し、党与3千余人を招降した。
同年、単匡によって刺客が洛陽の獄から強奪され、河南尹楊秉が怠慢として罷免された。
第五種 ▲
京兆長陵の人。字は興先。第五倫の曾孫。夙に節義を讃えられ、姦吏の糾察で能吏と称されて兗州刺史に進んだ。
単超の弟の済陰太守単匡を劾奏したことで朔方に徙されると暗殺を逃れて亡命し、数年後に徐州従事臧旻の訟冤で赦免された。
黄瓊 86〜164
江夏安陸(湖北省孝感市)の人。字は世英。
はじめ仕官を肯じえず不敬と劾され、永建年間(126〜132)に議郎を拝した。台閣の事務に練達して尚書令に累進し、多くの名士を薦挙し、元嘉元年(151)に司空に進んだ。
大将軍梁冀を周公に擬す胡広らの建議を廃したために罷免されたが、永興2年(154)には太尉に至り、梁冀に忌避されながらも4年間在任した。
梁冀誅殺で太尉に復したが、五侯の壟断を危ぶんで職事を視ず、4年(161)に罷免された。
崔瑗 77〜142
涿郡安平の人。字は子玉。崔駰の子。
父業を修めて賈逵に師事し、天文・暦数・京氏易などに通暁して馬融・張衡らと親交し、40余歳ではじめて郡吏に就いた。
車騎将軍閻顕の招聘に応じたことで連坐したが、後に汲県令として治績を挙げて済北相に進んだ。
泰山太守李固と親交したが、光禄大夫杜喬からは梁冀の党人として挙奏された。
崔寔 ▲
涿郡安平(河北)の人。字は子真。崔瑗の子。
当世の便事数十条を論じた『政論』は、仲長統から「人主の座右」と絶賛された。
梁冀の故吏として禁錮された後は時世の阻乱を憂えて出仕せず、建寧年間(168〜172)に歿すると光禄勲楊賜・太僕袁逢・少府段熲・大鴻臚袁隗らの賻典によって葬儀が営まれた。
朱穆 100〜163
字は公叔。朱暉の孫。
好学専愚で、沈思すれば衣冠を失っても悟らず、路溝に顛墜することが度々あったという。
大将軍梁冀の故挙でありながら諷諫が重なって冀州刺史に出され、権貴を多く挙劾して令長40余人が棄官し、小黄門趙忠の実家を糾案したことで枉陥された。太学生劉陶らの訟冤で挙用されたが、誅閹を上書した為に誣罔が連なって憤死した。
周挙 〜149
汝南汝陽(河南省商水)の人。字は宣光。陳留太守周防の子。
博学洽聞によって儒宗と讃えられ、定策の功を大徳として孫程らの徙封を強諫した。
陽嘉3年(134)に尚書に転じると僕射黄瓊と同心して朝廷に威名があり、漢安元年(142)には杜喬・欒巴・張綱らと倶に守光禄大夫とされ、天下を按察した。
周防 ▲
字は偉公。夙に異才を謳われ、齢16で帝の臨試で讃えられて郡丞を仮守したが、未冠を理由に辞した。
『古文尚書』を修め、官は陳留太守に至った。
周景 〜168
廬江舒(安徽省廬江)の人。字は仲嚮。周栄の孫。大将軍梁冀に挙げられて豫州刺史・河内太守を歴任し、人材の挙任を好んで陳蕃・李膺・荀緄・杜密らを挙げたが、挙吏に対する破格の厚遇は、無私を旨とした司徒韓演が挙吏に一辞を送るのみだったことと毀誉相い半ばした。
梁冀の請託で州従事橋玄に沛相羊昌の釈放を求めたこともあり、誅梁で禁錮された。
後に九卿を歴任して司空に進み、太尉楊秉と与に姦猾を糾該し、中常侍侯覧・具瑗を累坐させて世人に讃えられ、延熹9年(166)には太尉に至った。
従孫(兄弟の孫)の周瑜は漢末に袁術と対立し、孫氏を支援した。
周忠 ▲
字は嘉謀。周景の子。初平3年(192)に太尉・録尚書事に至り、後に衛尉として献帝の東帰に随った。
子の周暉は洛陽令を棄官して江淮に雄居したが、京師に父を訪ねたところを董卓に殺された。
周栄 ▲
字は平孫。司徒袁安に腹心とされて多くの奏稿を起草し、竇氏の敗滅後に名を顕した。
尚書令・潁川太守・山陽太守などを歴任して随所で能名があった。
鍾皓
潁川長社(許昌市長葛)の著姓。字は季明。
両兄に先んじての任官を拒んだことで世に知られ、同郡の陳寔とも親交があった。郡功曹を棄官した後は畢に仕官せず、名は荀淑と並称され、李膺からは「荀君は清識の至にして、鍾君は至徳なること師の如し」と評された。
鍾瑾 ▲
鍾皓の甥。李膺の叔母の子。
同齢の李膺と声名を斉しくし、太尉李修(李膺の祖父)から「邦に道有れば廃てられず、道無くば刑戮を免る」と評され、家風を具える者として娘婿とされた。
辟召を悉く辞したことで李膺に難詰されたが、鍾皓からは保身全家の道と認められた。齢69で家で歿した。
孫寿 〜159
梁冀の妻女。
容姿美麗で装粧・挙措は世の範とされ、梁冀とは街路を挟んで邸を別にして贅巧を競い、桓帝の即位に伴い長公主の儀杖が許された。
鉗忌の質でありながらも媚態に長じ、梁冀を能く制馭して寵憚され、梁冀が梁商の喪中に妾を得たことを不敬として脅迫し、後にこの妾が梁冀の子を産むと妾の家を滅ぼしたが、いずれも梁冀は謝罪するばかりだったという。梁冀は後に一族よりも孫氏を挙任し、一族の貪叨凶淫なことは梁氏を凌いだと伝えられる。
亦た梁冀に親任された監奴の秦宮は孫寿とも淫通して寵遇・権勢は絶大で、刺史二千石は赴還に際して必ず謁辞したという。
种ロ 103〜163
河南洛陽の人。字は景伯。
至仁の人として知られ、貴寵の人事請託が横行していた当時にあって、河南尹田歆は稍く6孝廉から1席を人士に充てて种ロを薦挙した。
順帝の末に侍御史とされ、守光禄八使の糾奏に依って長吏を多く劾奏し、益州刺史の時に永昌太守が大将軍梁冀に鋳金の蛇を献じたことを糾発した処、巴郡の擾乱を理由に罷免された。
後に涼州刺史・漢陽太守・使匈奴中郎将・遼東太守などを歴任し、随所で羌胡に帰服されて辺防を軽減し、延熹4年(161)には司徒に至って在任のまま歿した。
中子の种払は献帝の世に司空に至り、長安遷都後に太常とされ、李傕・郭の乱で戦死した。
永昌太守と梁冀を弾劾した時、劾奏を握りつぶしたのが胡広・趙戒で、減死に奔走したのが李固と梁太后だそうです。
曹騰との因縁もある人ですし、梁太后の李固支持を考えると、李固派と宦官の仲介者だった、というのは穿ちすぎでしょうか…
趙戒
字は志伯。蜀郡成都の人。
博識で経学に明るく、荊州刺史に進むと大将軍梁商の弟/南陽太守梁譲の放縦を劾奏し、亦た南陽太守として貴戚の糾察を断行するなど、随所で厳獅ネ刑政を行なった。
尚書令・河南尹・太常などを歴任して141年に司空に進み、146年に胡広の後任として司徒となり、翌年には杜喬に替って太尉に至った。
長吏時代の実績から硬派の印象が漂っていますが、高潔の士が年功を重ねて庸懦になったわけではなく、どうもただの酷吏のようです。
荊州〜南陽時代が温厚な梁商の執政期という点がポイントです。
趙典 ▲
字は仲経。廚亭侯趙戒の子。篤行静廉で、博学を讃えられて桓帝に侍講し、しばしば直諫しながらも九卿を歴任した。
忤旨を以て就国に処された後、桓帝が歿すると諸侯の来弔の禁を犯した事で義を嘉され、国租を以て罪を贖った。霊帝が即位すると長楽衛尉に叙され、国師に擬された直後に病死した。
『後漢書』では、三君八俊の「趙典の事績は不明」と、言外に、蜀郡の趙典は八俊ではないと言っています。
蜀郡の趙典と太学との繋がりは不明ですが、時期的にも本人の事績でも、八俊を肯定する素材に欠きません。
趙戒に極めて批判的な范曄が、意図的に外した説を提示してみます。
趙宣
楽安郡(山東省高青)の人。
親の冢中で20余年間服喪して至孝と謳われたが、服喪中に5子を為した事を太守陳蕃に指摘され、誑時惑衆として断罪された。
陳亀
上党泫氏(山西省高平)の人。字は叔珍。歴世の武門として北方に雄名を知られ、永和5年(140)に五原太守から使匈奴中郎将に転じ、匈奴句龍の背叛の罪を問迫して単于と左賢王を自殺させたことで、刑の濫用として罷免された。
後に京兆尹に進んで強豪に対する糾案が厳獅ニ称され、度遼将軍に転じると、前の涼州刺史祝良に倣って姦猾の長吏を多く挙劾し、州の綱紀を粛正した。
大将軍梁冀とは不和で、梁冀に対する劾奏が遮られたことに抗議して絶食死した。
祝良 ▲
長沙の人。字は邵平。博学で清廉平明を讃えられた。
洛陽令に叙されると、平素不和だった太尉龐参を後妻による継子殺しで劾奏し、独断で太尉府を糾査したことで投獄されたが、多くの吏人の訟冤で釈免された。
象林の区憐の叛抗が拡大した永和2年(137)に九真太守とされ、賊中に単行して説諭し、交趾刺史張喬と倶に嶺南を平らげた。
張喬 ▲
益州刺史尹就の暴政に叛抗する越雟の夷の叛乱が南中全域に拡大した元初5年(119)、尹就の後任の益州刺史とされ、招撫と恵政を併用して旬月で乱を平定し、長吏の姦猾90人を誅罰して南中を安定させた。
区憐の大乱でも益州での手腕が評価されて交趾部刺史とされ、九真太守祝良と与に嶺南を安定させた。
杜喬 〜147
河内林慮(安陽市林州)の著姓。字は叔栄。内外の諸官を歴任し、益州刺史种ロが収没した金蛇を無心する梁冀に応えず、或いは梁冀の娘の会葬に往かないなど、梁冀と鋭く対立した。
質帝の死後、梁冀の恫喝で諸官が蠡吾侯支持に転向する中で唯一人、李固の支持を貫き、罷免された李固の後任の太尉とされたものの数月で小黄門唐衡・左悺らに李固と同謀と誣罔されて獄死した。
滕撫
北海劇(山東省寿光)の人。字は叔輔。能名を謳われて6県を兼領し、後に九江都尉に叙され、御史中丞馮緄を佐けて群賊を平定し、功によって左馮翊に叙されたが、宦官に方直を怨恚され、太尉胡広の劾奏で罷免された。
▼
当時、九江郡は紊乱が著しく、順帝の末の建康元年(144)に范容らによって揚州刺史尹耀・九江太守ケ顕が敗死し、徐鳳・馬勉らは合肥を陥し、翌年には馬勉が当塗山中(懐遠東南)で僭称し、徐州の広陵(揚州市江都)では張綱に帰順していた張嬰が再叛した。
滕撫は馬勉・范容を斬り、揚州・徐州の軍事を統べて張嬰を大破し、徐鳳は下邳の謝安に斬られた。
ケ猛(ケ皇后) 〜165
和熹皇后の従兄の孫。梁氏に再嫁した母に随って梁姓を冒し、掖庭に納れられた。
旧姓への回帰を疑う梁冀による暗殺を逃れた母が省闕に奔って訴えたことで、梁冀誅殺が喫緊の問題となったとされる。
梁冀が誅殺されると皇后に立てられ、後にケ氏を称したが、郭貴人との争寵に敗れて廃黜され、程なく憂死した。
ケ后が廃されて叔父の河南尹ケ万世・従兄の虎賁中郎将ケ会は刑死し、一族は庶人に貶されて帰郷に処された。
竇章
字は伯向。竇勲の弟/安豊侯竇万全の子。
馬融・崔瑗らと親交があり、文章に長じて校書郎とされて東観に署した。
順帝の貴人とされた娘が早逝した後も少府・大鴻臚を歴任し、恭謙に徹して梁氏との軋轢を避け、建康元年(144)に梁太后が称制すると致仕した。
従弟の竇武は、霊帝が即位すると大将軍に至った。
馮石
南陽の人。馮魴の嫡孫。閻氏に阿って安帝に寵遇され、王侯の租秩が削減された当時にあって、他県の租税を充てて満額が供された。
延光3年(124)に楊震に替って太尉となり、北郷侯が立てられると太傅・録尚書事に至ったが、順帝が即位すると姦佞の阿党として罷免され、後に衛尉で終った。
来歴 〜133
字は伯珍。来稜と明帝の武安公主の子。来歙の曾孫。
父の早逝で祖父/来褒の征羌侯を襲封し、太僕に進んだ。中常侍樊豊・大将軍耿宝らの専権を憂え、太常桓焉・廷尉張皓・太中大夫朱倀らと太子廃黜を強諫して禁錮に処された。
順帝が即位すると衛尉とされ、永建元年(126)に車騎将軍に至り、大鴻臚として歿した。
張皓 50〜132 ▲
字は叔明。留侯張良の裔。
延光3年(124)に廷尉として太常桓焉・太僕来歴と倶に太子廃黜を諫争し、順帝が即位すると司空とされた。
李郃
漢中南鄭の人。字は孟節。太学で五経を学び、河洛・風星の占術にも通じた。
郡の掾史のとき、太守が大将軍竇憲に奉賀することを諫止し、自ら賀使となって竇憲の誅殺まで入洛せず、太守の累を免がれさせた。
孝廉から累遷して少帝の即位で司徒に叙され、済陰王迎立を謀ったが、孫程らの挙が先行して顕れなかった。
李雲 〜160
甘陵(山東省臨清)の人。字は行祖。白馬令の時、天災地異を以て五侯を劾奏して投獄され、これを訟冤した弘農五官掾杜衆と倶に刑戮された。大鴻臚陳蕃・太常楊秉ら百官の請赦が連なったが、悉く罷免・帰郷に処された。
劉瓌
穣侯劉茂の弟の曾孫。
延光年間(122〜125)に本家の朝陽侯劉護が無嗣で歿すると、安帝の阿母王聖の娘/王伯栄を娶り、劉護の弟を措いて紹封された。王聖らの敗没で亭侯に貶された。
劉ト
字は伯予。居巣侯劉般の子。西漢宣帝の裔。嗣封を弟に譲って“辞気高雅”と称され、好んで隠逸の士を薦挙した。
元初2年(115)に司徒に至り、任尚の赦免に同意しなかったことを嘉され、建光元年(121)に太尉とされた。
この時、衆議は太常朱倀・少府荀遷を推す者が多かったが、尚書陳忠は父の陳寵の掾属だった両者を、「朱倀は経書に能たるも偏狭、荀遷は厳毅剛直なるも芸文に薄し」と評して劉トを推した。
劉般 19〜78 ▲
字は伯興。宣帝の玄孫。西漢の楚王紆の嗣子。
新末の兵乱で武威に流寓し、永元元年(58)に居巣侯とされた。巡幸には常に屯騎校尉として随い、章帝の建初2年(77)には宗正に至った。
梁商 〜141
字は伯夏。梁竦の孫。和帝の生母/梁貴人の甥。
永建元年(126)に乗氏侯を襲いで顕官を歴任し、娘が順帝の皇后、妹が貴人となって大将軍とされた。
名賢を薦挙し、陳亀・李固・周挙らを属吏として良輔と称されたが、一族の放恣は矯正できなかった。
曹騰と通好したことで、対立する中常侍張逵らに大逆を讒誣されたが、張逵らが刑誅された後は、公卿への累坐が多いことを憂えて追求を中断させた。
梁不疑
梁冀の弟。大将軍を継いだ梁冀の後任として河南尹とされ、順帝が即位すると万戸侯に封じられた。
経書を好んで恭謙の風があり、輿望を梁冀に忌まれていることを察して致仕した後は交際を監視され、遷赴に際して伺候した馬融・田明は徙刑に陥された。梁冀に先んじて歿した。
梁妠(順烈梁皇后) 116〜150
大将軍梁商の子、梁冀の妹。
叔母と共に掖庭に入り、陽嘉元年(132)に皇后とされ、順帝の死後は梁冀に諮って冲帝・質帝を相次いで立てて臨朝した。宦官を寵任して封叙を濫発した一方で、太尉李固の処刑停止に尽力したと伝えられる。
梁瑩(懿献梁皇后) 〜159 ▲
大将軍梁冀・順烈皇后の妹。
梁冀により質帝の暗殺と並行して蠡吾侯との婚約が進められ、蠡吾侯の即位で皇后とされた。
権勢を恃んで奢靡放恣で、「調度の資は前代に倍す」と称され、順烈太后の死後は桓帝と疎隔を生じて憂憤から病死した。梁冀が誅されると貴人に貶された。