東漢.3

霊帝  献帝
 

霊帝  156〜168〜189
 第十二代天子。諱は宏。河間孝王の孫/解涜亭侯の嗣子。桓帝の族子。章帝の玄孫。 桓帝が無嗣で歿したために迎立された。 即位直後に大将軍竇武・太傅陳蕃らによる宦官誅滅が失敗し、翌年には党錮の獄が再発して宦官の未曾有の専横をもたらした。 殊に中常侍の張譲・趙忠を阿父・阿母と尊称して政事を一任し、永安宮の教唆もあって蓄財・土木に熱中し、売官修宮銭などを行なった。
 宦官と結託した官吏の収奪によって民乱が絶えず、中平元年(184)には太平道を核とした黄巾軍が蜂起し、宦官の呂彊の進言で党錮を解き、皇甫嵩らによって平定が進められた。 以後も弊政を更めず、板楯蛮北宮伯玉黒山張純・張挙などの叛抗が相い次ぎ、匈奴の離叛鮮卑烏桓の活発化なども加わって隴右・遼東を失った。
 中平5年(188)の州牧制の採用は地方長官の軍閥化をもたらし、宦官の専横に対する朝野の反撥は死の直後に大将軍何進と司隷校尉袁紹による兵変を惹起して幷州刺史董卓の奪権を結果し、東漢は霊帝の代で事実上終った。

党錮の獄
 党獄とも。宦官派による、反対派士大夫に対する弾圧。 桓帝の末の延熹の獄と霊帝の初の建寧の獄があり、一般には大規模な死錮を伴う建寧の獄を指す。
 五侯による政事の壟断と紊乱に対し、士大夫の間で活発化した清議と郷論(人物評)は名望家(人格的士大夫)の出現と、全国規模での名士・士大夫層の交流と同朋意識をもたらした反面、同朋と非同朋を峻別するようになり、自らを清流派と称して宦官を濁流と指し、殊に宦官と太学閥との対立が尖鋭化した。
 朋党は政府の厳禁するところで、宦官は反対派を朋党として断罪することに成功し、太学生や名士を対象とする一大疑獄に発展した。 張倹に対する幇助を典型として名士への支持は強かったが、清流派には売名家も多く、現在では政争の一類型との見方が主流となっている。
   
延熹の党獄 (166〜167):河南尹李膺が、宦官と親交のあった風角師の張成を刑誅したことを宦官が誣告し、併せて李膺派による“朋党誹朝”として太学生を中心に名士200余人が繋獄されたもの。
辞述の宦官派への波及を避けるために追及が中断されて禁錮に処され、尚書霍諝・城門校尉竇武の請減もあって翌年には禁錮も解かれ、霊帝の即位に伴って多数の名士が挙任された。この間に人物評が昂揚して名士の階級化が行なわれ、太学でも三君八俊の号を生じた。
   
建寧の党獄 (169〜184):竇武・陳蕃が敗死した翌年の建寧2年(169)、兗州人の張倹と中常侍侯覧の対立を発端とした、空前の大疑獄。 大長秋曹節が便乗した事で、太学閥を標的とした延熹の獄の再燃・徹底となり、殆どが禁錮に処された前獄に対し、故の司空虞放・長楽少府李膺ら百余名が獄死した。 又た些細な怨恨でも党人のレッテルで報復されるようになり、州郡は中央の意向に過剰反応して冤獄が絶えず、罰は五属(十年後に三属に縮小)に及ぼされて官人の死徙禁廃は数百千人に及び、「党事は甘陵汝南に始まり、李膺と張倹に成る」と称された。
 中平元年(184)の黄巾軍の蜂起を機に、中常侍呂彊や公卿将校が党人と黄巾の連和の可能性を指摘したことで解錮されたが、政治批判に直結し易い清議は忌避されて清談が好まれるようになり、名士も慷慨型から隠逸型へと変質していった。

范滂  137〜169
 汝南征羌(安徽省太和)の人。字は孟伯。清節・廉直で輿望が高く、冀州に清詔使とされた際には貪汚の守令は自ら棄官したという。 光禄勲陳蕃の疎礼を憤って棄官し、郭泰の仲介で謝罪されても就官せず、後に太守宗資に郡功曹として迎えられると郡事を委任され、范滂の挙吏を指して世に“范党”と称した。 范滂の公正平理は広く知られ、宗資が中常侍唐衡からの請託を范滂に拒まれたことで書佐に遷怒すると、「范君の清裁は利刃を以て腐朽に歯す如く、今日寧ろ笞に死すとも范君には違う可からず」と諭され、宗資も怒りを収めたという。
 延熹の獄では、獄中の病人を庇って袁忠と争って掠拷を受け、建寧の獄では督郵が伝舎で号泣した事から党獄の再発を知り、県令の同遁を辞して自ら下獄して殺された。

岑晊  ▲
 南陽棘陽(河南省新野)の人。字は公孝。貪惨として刑誅された南郡太守岑予の子。太学で郭泰朱穆らと交友し、李膺王暢から“輔国の器”と称された。 太守成瑨に功曹とされ、賊曹史張牧と倶に郡事を委任されて善政を讃えられたが、宦官派の奸商を大赦後に誅戮して侯覧らに誣罔され、張牧と倶に斉・魯に隠遁した。
 赦免後は出仕せず、建寧の獄でも逃竄して江夏山中で歿した。

陳寔  104〜186
 潁川許(許昌市区)の人。字は仲弓。貧寒でありながら郷里の信望が篤く、郡功曹の時に中常侍侯覧の嘱託を敢えて受けて太守の汚名を避け、後に太守が実情を開陳したことで義人として天下に知られた。 沛国の太丘長(河南省永城)に進んで治績があったが、国相の苛斂を忌んで棄官し、延熹の獄では奔遁を拒んで繋獄され、赦免後に大将軍竇武の掾属とされた。 同郷の中常侍張譲の父の喪には名士として唯一人弔問し、その為に建寧の獄を免れ、以後は郷里で多くの訴訟を判正して平明を讃えられ、「刑罰を加えられるとも陳君の謗る所とはならじ」と称された。
 高い声望から名士の宗と目され、太尉楊賜・司徒陳耽にも私淑され、解錮の後は三公を欠く毎に擬されたが悉く固辞し、葬儀には3万余人が会葬した。 凶年に偸盗が梁上に潜隠したことがあり、陳寔は密かにこれを知ると梁下に子と孫とを呼んで「不善の人は未だ必ずしも本より悪ならざるも、習いて以て性成り、遂に此に至る。梁上の君子是なり」と諷訓し、偸盗が自ら罪を請うと、絹二匹を贈って赦したという。
 子の陳紀は九卿に、孫の陳羣は三公に至ったが、素行を以て「公は卿に恥じ、卿は長に慙ず」と揶揄された。

何休  129〜182
 任城樊(済寧市兗州)の人。字は邵公。為人りは朴訥だったものの六経を精研して通儒と讃えられ、太傅陳蕃に辟されて枢機にも参与したが、陳蕃が敗れると党人として禁錮された。 禁錮中に『左伝』の盛行に対抗して『春秋公羊解詁』を著し、又た李育の意を体して『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廃疾』などを著して古文学を批判した。 『春秋』によって漢の事を解釈して『公羊』の妙意を得たと称されたが、悉く鄭玄に論破され、「康成は吾が室に入り、吾が矛を以て吾を伐つ」と歎じた。解錮の後は議郎・諫議大夫を歴任した。

鄭玄  127〜200
 北海高密(山東省濰坊市)の人。字は康成。寒貧ながらも太守の援助で太学に学び、諸学に博通して盧植の薦めで馬融に師事し、辞去に際して馬融に「吾が道、東す」と嗟嘆された。 建寧の獄では杜密に連坐し、解錮の後も仕官に応じず、国相孔融に甚だ敬重されて高密に鄭公郷が立てられ、青州黄巾も高密を侵す事は避けたという。青州刺史袁譚に従軍を迫られ、元城(邯鄲市大名)で病死した。
 古文学に今文学をも採り入れ、五経の体系化によって一家をなし、公羊学派の何休を論破したことは古文学の優位を確立した象徴とされる。 経伝に忠実な注訓は時に煩瑣と譏られたが、六朝を通じて屈指の通儒・純儒として帰依され、後の漢学にも多大な影響を遺し、『毛詩』『周礼』『儀礼』『礼記』の注は今なお必読書とされている。馬融の学説には批判的で、『周礼』注には馬融の説を用いなかった。
 門人の郗慮は後に御史大夫に至り、王基・崔琰も名を知られた。

支婁迦讖
 大月氏の人。桓帝の末年に洛陽に到り、霊帝期に大乗仏教系の経典翻訳に尽力した。 特に『道行般若経』は、当時の中国で好まれた呪術仏教とは一線を画す哲学的なものとして重視される。

張倹  114?〜197?
 山陽高平(済寧市鄒城)の人。字は元節。趙王張耳の裔を称した。 郡督郵として太守翟超を佐け、同郡の侯覧の家を貪残として挙劾したが、上奏は遮断されて侯覧に怨恚された。 建寧2年(169)、かねて張倹に軽視されていた同郷の朱並が、侯覧に阿附して張倹ら郡人24人を朋党として誣告し、建寧の大獄に発展した。
 奔遁した張倹は名声の故に多くの家に匿われたが、投宿した家は連坐して破毀され、「重誅に伏する者は十を以て数え、里邑の残破するあり」という惨状を呈した。 解錮後は帰郷し、曹操から衛尉とされると受諾しても出仕はしなかった。

侯覧  〜172
 山陽防東(済寧市金郷)の人。 桓帝に中常侍とされ、佞猾貪放と称されたが、梁冀誅殺に参与して高郷侯に封じられた。 実家による郡政横乱を劾奏した郡督郵の張倹を憎み、建寧2年(169)に張倹を鉤党と挙奏して建寧の獄に発展した。 霊帝元服の翌年に政争に敗れ、弾劾されて自殺した。

曹節  〜181 / 王甫
 南陽新野の人。字は漢豊。 もとは魏郡の著姓で、順帝の世に宦官となって歴遷し、霊帝奉迎では陪乗して長安郷侯とされた。竇武らの鏖閹の謀に対し、長楽宮の宦官と結んで機先を制し、偽勅で王甫を黄門令として竇武・陳蕃らを戮した。 曹節は大長秋・育陽侯、王甫は中常侍とされ、霊帝元服の翌年に侯覧を粛清し、御史中丞段熲劉猛に替えて司隷校尉として太学生を弾圧し、亦た渤海王の大逆を誣奏して敵性勢力を排除した。
 王甫が179年に司隷校尉陽球に誅され、“賊臣王甫”と大書されて北西の夏城門に磔曝されると、程なく陽球らを枉陥して報復した。後に尚書令を領し、死後に車騎将軍を追贈された。

段熲  〜179
 武威姑臧(武威市区)の人。字は紀明。弓馬を好んで遊侠と交わったが、後に修身して孝廉に挙げられた。 159年に護羌校尉に転じると義従胡を用いて叛羌を破り、功の独占を図る涼州刺史郭閎に枉陥されたが、護羌校尉に復した後は諸羌の叛抗を悉く撃破して167年までに西羌を平定した。
 度遼将軍皇甫規・使匈奴中郎将張奐の招撫策を不満とする朝廷に対し、東羌の禍を「癰疽の伏疾の胸下に留滞する如し」とし、自薦して168年よりしばしば東羌を大破して破羌将軍とされたが、段熲の軽突を危ぶむ張奐の進言で招撫が併用されたことから、両者の不和が表面化した。 段熲は結局、官庫の欠糧から降羌が盗賊と化すことを察して討伐を進め、射虎山(天水)で先零羌を大破して東羌をも平定した。
軍中では「士卒には仁愛、労苦を共にして褥を用いず、以て皆な欣びて死戦す」と伝えられ、その功は「建寧より180余戦して38千余級を斬り、軍費は44億、死卒は4百余」と讃えられ、万戸侯とされた。
 170年に召還された後は中常侍王甫との結託を強めて太尉に至り、刑事を濫用することも多く、王甫に連坐して獄中で自殺すると、世人は蘇氏の報いと噂した。中常侍呂彊は段熲の軍略を高く評価し、段熲の繋獄を諫争した。

陳球  118〜179
 下邳淮浦(江蘇省漣水)の著姓。字は伯真。経書を渉猟して律令にも明るく、延熹年間の荊南の大乱では零陵太守とされ、中郎将度尚の節度下に乱を平定した。南陽太守に転じて豪強を多く糾挙したことで枉陥され、廷尉のときには竇太后の桓帝陪葬を是として中常侍曹節趙忠らと対立した。後に司空・太尉を歴任し、太尉を罷免された翌年に司徒劉郃・衛尉陽球らの鏖閹の謀に参画したが、漏洩して悉く刑戮された。
 子の陳瑀は呉郡太守、甥の陳珪は沛相に至った。 亦た陳珪の子の陳登も文武兼備を称されて広陵太守に至り、後に伏波将軍を加えられた。
陳登の死因は華佗の逸話にもあり、華佗の処方で寄生虫を吐瀉して快癒したものの三年後の再発を告知され、その時には名医を得られずに齢39で病死したとの事です。

何進  〜189
 南陽宛の人。字は遂高。何皇后の異母兄。 屠家の出で、宦官に阿附して顕官を累進し、184年の黄巾軍蜂起で大将軍・慎侯とされて禁軍を総領した。 188年に西園八校尉が新設されてより董太妃や小黄門蹇碩との対立が深刻化し、少帝を擁立して録尚書事を兼ねると両者を粛清したが、袁紹の唱える宦官誅戮には消極的だった。
 太后を威圧するために外将を召集した後も決断できず、袁紹の督促で奏請した宦官誅戮が窃聴され、偽制に応じて参内したところを宮内で斬殺された。
何進の召集では前将軍董卓は関中の上林苑に、東郡太守橋瑁は成皐に、武猛都尉丁原は孟津に進駐し、袁紹は司隷校尉に、王允は河南尹とされました。 結局、何進は宦官の陳謝と太后らの仲介で一切を不問とし、宦官の権勢は殆ど損なわれませんでした。

張角  〜184
 鉅鹿(河北省南部)の人。道士于吉の『太平清領書』を得ると太平道を興して大賢良師を称し、符呪による療病で10余年間で全国に信徒数十万を得た。 後にこれを数千〜万余の集団を以て“方”として36方に組織し、「蒼天已死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉」と唱え、“甲子”を標語に一斉蜂起を謀って中常侍封諝・徐奉らの内応すら得た。
 大方の馬元義が密告から刑戮されると、光和7年(184)に諸方を一斉蜂起させて自ら天公将軍を、次弟の張宝は地公将軍、末弟の張梁は人公将軍を称し、黄巾を標識としたことで世に黄巾軍・黄巾賊と呼ばれた。 華北を席捲して一時は大勢力となったが、広宗で病死した後に張宝・張梁も皇甫嵩に敗死し、屍体を暴かれて誅罰を加えられた。
 乱後、信徒の多くは五斗米道を受容し、道教の全国拡大の布石となった。
   
黄巾軍 (184):東漢末、太平道の信徒を主力とした農民起義。 光和7年(184)に全国で一斉に蜂起すると長吏の多くが逃亡し、幽・冀・青・徐・豫・兗・荊・揚州を席捲し、殊に張角の拠る広宗(邢台市威県)と豫州の潁川が強盛だった。
 朝廷は何進を大将軍とし、洛陽を囲嶢する八関(函谷・広成・伊闕・大谷・軒轅・旋門・小平津・孟津)に都尉を置くと共に党錮を解き、霊帝の私財や西園の厩馬を放出し、盧植皇甫嵩朱儁らを実戦の将帥として中郎将に任じた。
 黄巾軍は郷村秩序の破壊を嫌う地方豪族とも対立し、張角の病死と、左中郎将皇甫嵩・騎都尉曹操による潁川黄巾の鎮圧などで衰えた。 年末には広宗黄巾も平定されて全国規模の叛抗は終息したが、朝廷の無為無策などによって各地に大小の匪賊が蜂起し、白波黄巾・青州黄巾・黒山衆義従胡などは大勢力となり、牧守の軍閥化を招いて東漢の分解を決定的にした。
 尚お、朝廷は黄巾軍の平定を以て光和7年の12月に中平と改元した。

皇甫嵩  〜195
 安定朝那(甘粛省平涼市区)の人。字は義真。度遼将軍皇甫規の甥。 経書と弓馬に親しみ、黄巾軍が挙兵すると党人の解錮と霊帝の私財放出を建議し、中郎将となって豫州を、ついで東中郎将董卓の後任として冀州を平定し、左車騎将軍・領冀州牧・槐里侯とされたが、黄巾討伐中に中常侍趙忠の舎宅を没入したことから枉陥された。 温恤で厳罰を避けたことで士望があり、又た黄巾の三首を平定したことで当代の名将と謳われ、湟中胡の離叛に隴右の諸豪が呼応すると長安に進駐し、188年には左将軍に叙されて陳倉から王国を撃退した。
 翌年に董卓から城門校尉に叙されると、挙兵の勧めを斥けて入京し、子の皇甫堅寿が董卓と親しかったことから刑戮は免れたが、李・郭の秉政下で献帝や百官を掠質する横暴を歎いて憂死した。
 上表は500余事に及んだが、全て手書して草稿は破棄し、功を後世に伝えなかった。
188年の西征では、陳倉への急馳策を唱える前将軍董卓の策を城の堅壁を理由に用いず、80余日で後退する王国を追撃・大破しましたが、董卓は反抗を危ぶんで追撃せず、短慮怯懦の自愧が皇甫嵩への意趣となったとされます。 翌年に幷州牧への転赴を拒む董卓の誅殺を勧められると、専断を憚って劾奏しましたが、内情を知らない董卓から更に怨恚され、結果的に董卓を殺す好機を逃しました。
長安遷都では御史中丞に叙されたために入城する董卓を制度上已む無く奉迎し、「服せしや未だしや」と問われると、自嘲して謝したと伝えられます。 これが『献帝春秋』になると、「燕雀は鴻鵠の遠志が解らないのだ」と董卓に云われ、「嘗ては明公と倶に鴻鵠だったが、明公が鳳凰に変じてしまったのだ」となります。

朱儁  〜195
 会稽上虞(紹興氏)の人。字は公偉。 県長の度尚に義侠を認められて異能を讃えられ、178年に南海太守孔芝が叛くと交趾部刺史に抜擢され、旬月で悉く平定した。 黄巾軍が蜂起すると右中郎将とされ、左中郎将皇甫嵩と共に豫州を平定し、ついで南陽を経略して右車騎将軍・銭塘侯とされた。
 以後は顕職を歴任し、宿将としての名声から董卓の長安遷都に異を唱えても害されず、董卓が洛陽を棄てると荊州で兵を募って河南尹を制圧し、程なく李傕・郭に敗れて退いた。 徐州刺史陶謙からは西征の盟主に擬されたものの、董卓が誅されて程なくに朝命を重んじて長安に詣降し、郭の公卿拘禁で憤死した。

呂彊
 河南成皐(鄭州市滎陽)の人。字は漢盛。為人り清忠と称され、しばしば霊帝の貪銭・奢侈を諫め、士大夫の為に訟冤することも多かった。 184年に黄巾軍が挙兵すると中常侍曹節張譲・侍中許相らを趙高の類と指弾し、官界の粛清と党人の解錮を勧めたため、程なく中常侍趙忠・夏ツらに枉陥されて自殺した。徴旨不明のまま自殺したことで、姦の明証とされた。

張譲 / 趙忠  〜189
 張譲は潁川、趙忠は安平(河北省)の人。ともに梁冀誅刑に参与して都郷侯とされ、霊帝の世に中常侍に進んで曹節・王甫らと結び、世に列侯の中常侍12人を指して“十常侍”と呼ばれた。 宦官と黄巾軍との内通が発覚すると、罪を王甫・侯覧に帰して追求を断ち、霊帝からは張譲が阿父、趙忠は阿母と尊称された。 霊帝と朝臣を隔てて驕奢を恣にし、大将軍何進が外将に上洛を促したことで逼塞したが、張譲の子が何太后の姪婿であることから復権した。
 189年に少帝が即位すると、宦官鏖殺を密奏した何進を偽制で参内させて殺したが、司隷校尉袁紹・虎賁中郎将袁術らの挙兵を招いて趙忠らは鏖殺され、少帝を拉致した張譲も城外で殺された。

羊続
 泰山東平陽(山東省新泰)の人。字は興祖。累世の吏二千石でありながら父祖の蔭を辞し、大将軍竇武の辟召に応じたことで建寧の獄に連なり、解錮の後に累遷して廬江太守に進み、境内の黄巾を悉く討平した。 186年に江夏の趙慈に敗死した南陽太守秦頡の後任となり、潜行して郡情を採問した後に赴任して貪猾を糾罰し、荊州刺史王敏と与に趙慈を討って郡界を平らげた。 常に敝衣薄食して時流を諷刺し、189年に太尉に擬された際には修宮の余財が無いことを中使に示して回避した。

弘農王  176〜189/190
 第十三代天子。諱は辯。霊帝の長子。霊帝が歿すると何太后と大将軍何進によって擁立された。 袁紹・袁術による宦官鏖殺の混乱で城外に逃れたところを董卓に庇護され、程なく廃黜されて弘農王に貶されると全ての年号が抹消されて幽閉された。翌年(190)に関東の諸将が反董卓を唱えて挙兵すると、長安遷都に先んじて毒殺された。

献帝  181〜189〜220/〜234
 第十四代天子。諱は協。字は伯和。霊帝の子。 生母の王美人が何后に殺されたために董太妃に養育され、少帝が即位すると陳留王とされた。 袁紹らによる宦官鏖殺の混乱で少帝と倶に董卓に庇護され、程なく天子に立てられた。
 董卓に対する朝野の反撥は、黄巾軍の討伐過程で進行した地方の長官・豪族の軍閥化を起義の名の許に決定的にし、翌年に反董卓を唱えて挙兵した関東の諸将には、献帝の正統性を否定する論が根強く、幽州牧劉虞の推戴も図られた。 関東の離叛は董卓による長安遷都の強行となり、董卓の死後の建安元年(196)に洛陽に還御したが、間もなく鎮東将軍曹操の勧めで許遷都が行なわれ、以後は曹操が万機を総裁した。
 曹操を18年(213)に魏公、21年(216)には魏王とし、延康元年(220)に魏王を襲いだ曹丕に禅譲すると山陽公(河南省修武)に封じられて濁鹿城に居し、“朕”の自称と天子の儀杖を使うことが許された。
 死後は孫の劉康が嗣ぎ、劉康の孫/劉秋が永嘉3年(309)に胡兵に殺されて断絶した。

董卓  〜192
 隴西臨洮(甘粛省岷県)の人。字は仲穎。権謀に長け、卓越した膂力と侠気から夙に羌胡に畏憚された。 良家の子弟として羽林郎に挙げられ、しばしば羌を伐って功があり、幷州刺史・河東太守を歴任した。 広宗黄巾軍の張角討伐では敗れて罷免されたが、隴右が乱れると常に起用され、188年には前将軍とされた。
 隴西の沈静後も私兵を解くことを嫌って異動を拒んだものの、大将軍何進に応じて洛陽に馳赴したところで少帝を奉迎して司空となり、虞詡に倣った兵力擬装で何進の部曲を従わせ、執金吾丁原を殺して金吾衛を併せ、司隷部で最大の兵力を擁するに至った。 ついで尚書盧植・司隷校尉袁紹を逐って少帝の廃黜と献帝の擁立を強行し、自ら相国を称して入朝不趨・剣履昇殿を加えたが、何太后を殺し、荀爽何顒ら名士を挙任するなど輿論に配慮し、己が掾属・部曲将は顕職には就かせなかった。
 翌年(190)に山東の牧守が挙兵すると廃帝を弑して長安遷都を強行し、その際に洛陽の全戸を徙したことで、道中は“人相い蹈躪し、飢餓と寇掠で屍は路傍に盈”ち、併せて洛陽を灰燼に帰した。長安では諸侯王の上位の太師を称し、刑獄を濫用して部曲将の些過すら赦さなかった。 192年に司徒王允らに通じた腹心の中郎将呂布によって参内の途上で誅され、一族は悉く皇甫嵩によって殄戮され、百姓は酒肉を以て歌舞・慶賀したという。 市に晒された董卓の臍に火を灯したところ、流れる脂によって数日間消えず、後に袁氏の門生は諸董の屍灰を集めて路に撒いたと伝えられる。
董卓の悪行としては、陵墓を発掘し、通敵を理由に富家を掠奪し、社祭を祝う里民を殺掠して討賊を称し、五銖銭を廃して悪貨を流通させて貨幣経済を崩壊させ、宴席で叛徒を虐殺して泰然と飲食をしていたなど、『後漢書』の記述がほぼそのまま『三国志演義』に衍用されて過剰表現は殆ど行われていません。
董卓は、『三国志』でこそ袁術・袁紹・劉表と一括にされていますが、『後漢書』では皇帝以外で、一人一伝を立てられた9人に数えられています。 李・郭伝を内包するとはいえ、元勲や名士以外でこの扱いという事は、范曄が董卓の歴史的行為を如何に嫌悪していたかを示しています。 ちなみに他の8人は、耿弇竇融馬援梁統班固崔駰楊震張衡で、耿・竇・馬・梁・崔・楊伝は一族を網羅し、張衡伝は作品紹介の場と化しています。

蔡邕  133〜192
 陳留圉(河南省杞県)の人。字は伯喈。 胡広に師事して夙に碩学として敬され、特に書・音律に造詣が深く、時の士大夫が理想とした“通人”を体現した。 175年に議郎とされて五経の正定に参画し、五経石碑には自ら丹碑した。 妖異の多発を理由に鴻都門生や恩倖を劾奏して中常侍曹節らに怨恚され、属僚の人事を巡っては大鴻臚劉郃とも不和だったが、程璜に枉陥されると中常侍呂彊の請願で朔方配流に減死され、大赦の後も江東に12年間客居した。
 189年に司空董卓に迫られて出仕した後は敬重され、尚父の号や僭儀を用いることを断念させたが、そのために董卓の腹心と目され、董卓の遺骸に嘆息したことを司徒王允に咎められ、太尉馬日磾らの請願も及ばず獄死した。
 娘の蔡文姫も博学で書・音律に精通した。
蔡邕の音律に対する造詣の深さを示す逸話として、江東に亡命中、桐木を焚く音に感じてその樹から琴を作らせたところ果たして美音を発し、尾に焦痕が残った事から“焦尾琴”と命名したことが知られています。

李傕・郭
 共に董卓の部曲将。長安遷都後は中郎将牛輔に従って陝に駐し、董卓・牛輔の死後、長安に赦免を拒まれると張済胡軫樊稠らと合して長安を陥し、王允ら多くの公卿を殺して朝廷を睥睨した。
 194年に李傕が樊稠を暗殺してより互いに攻伐し、李傕は天子を、郭は百官を監禁して長安は“禁制無く、董党は盗賊と鈔掠を争い、穀価は暴騰して人相い食み、白骨は委積して臭穢は路に盈”ちた。 兵力面で優勢だった李傕は鬼道へ傾倒して部曲将に離叛され、張済の勧告で和して献帝らの東帰に合意したが、程なく後悔して郭・張済らと合して車駕を追ったものの捉えきれず、関中に退いた。
 郭はこの年に部将の伍習に殺され、翌年には張済が荊州を侵して敗死し、李傕は198年に段煨に滅ぼされた。

公孫度  〜204
 遼東襄平の人。字は升済。初め玄菟郡に客居して小吏となり、太守公孫琙の遺児と同名の誼で親遇された。 尚書・冀州刺史を歴任し、同郡の徐栄の推挙で董卓より遼東太守とされると著姓百余家を殄戮し、高句麗・烏桓を討って威は境外にも伝わった。 中原の混乱に僻遠を恃んで専縦となり、遼東郡を分けて中遼郡を新設し、東莱郡を攻めて営州刺史を置き、平州牧・遼東公を称して僭儀を用いた。 後に曹操により奮威将軍・永寧郷侯とされたが、密かに遼東王を称して印綬を一顧だにしなかった。

応劭
 汝南南頓(河南省項城)の人。字は仲遠。応奉の子。早くから篤学博覧を称されて孝廉に挙げられ、189年に泰山太守に進んだ。 191年には青州黄巾30余万を撃退したが、194年に郡界で前の太尉曹嵩が賊に殺された為に曹操の報復を懼れ、冀州牧袁紹に投じて軍謀校尉とされ、後に鄴で歿した。
 董卓の乱で典憲の多くが焚佚したことから、律令を刪定して『漢儀』を、翌年には旧章を遺聞して『漢官礼儀故事』を著し、「漢廷の制度・典式の多く存するは応劭の功なり」と讃えられた。他に『風俗通義』が知られる。
 甥の応瑒応璩は、倶に文名を知られた。

許劭
 汝南平輿(河南省汝南)の勢族。字は子将。許相の再従弟。 知人の才に於いて郭泰と並称され、従兄の許靖と与に行なった月朔毎の人物評は“月旦”と称され、人物評の代名詞となった。 袁紹は帰郷の際、許劭を憚って郡界で賓客らを悉く帰して粗衣単車で入界したという。
 陳寔の大度を「周到たらず」、陳蕃の峻厳を「融通たらず」として交誼を避けるなど偏狭な一面があり、曹操を「清平の姦賊にして乱世の英雄」と評したが、脅迫されるまでは祖父を卑しんで通見を認めず、従兄の許靖とも不和だった。
 畢に仕官を肯んぜず、中原が乱れると広陵に客居し、徐州刺史陶謙を賤しんで曲阿(鎮江市丹陽)の揚州刺史劉繇を頼り、倶に孫策に逐われて豫章で客死した。

劉焉  〜194
 江夏竟陵(湖北省天門)の人。字は君郎。景帝の子/魯恭王の裔。 賢良方正から諸官を歴任し、紊乱する朝廷や群賊の横行する中原からの避難を図って188年に牧伯制を建議し、宗正劉虞(幽州牧)、太僕黄琬(豫州牧)と並んで益州牧とされた。
 入蜀後は五斗米道に漢中を奪わせて中原との往来を絶つ一方、荊州・三輔の流民から“東州兵”を組織して反抗的な豪姓を滅ぼし、191年に犍為郡の叛抗を平定した後は僭儀を用いるようになり、この頃から荊州刺史劉表との確執が顕著となった。 諭使として来訪した末子の劉璋を留めた後、194年に馬騰らの李傕討伐に加わった長子劉範・劉誕の敗死と、綿竹の大火が続いて消沈し、成都に遷って程なくに背に疽を発して歿した。
「僭儀を用いる」のは、虚栄心を満足させたい場合か、京師の天子を否定する場合か、その両方です。 そういえば、同じ魯恭王の裔でありながら劉焉と反目した劉表も、僭儀を用いています。意外と、第二の中興の主導権争いを意識していたとか?(笑)  それはともかく、僭儀の件を考えると、劉範らの行動は劉焉による献帝排除の実力行使と考えられなくもありません。

劉璋  〜219 ▲
 字は季玉。益州牧劉焉の末子。 献帝に奉車都尉として近侍していたが、勅使となって益州に下向すると劉焉に留められ、劉焉が歿して大吏の趙韙に擁立された。 威令に欠けた為に張魯や東州兵を統制できず、200年に張魯の母と弟を殺して五斗米道と敵対し、東州兵の横恣を原因とした趙韙の乱を惹起した。 趙韙は間もなく平定したが、龐羲による漢中攻略は悉く失敗し、張魯の部曲の多くが本籍とする巴西(合川以北)も失陥し、このため別駕従事張松の勧めで荊州の劉備と結んだ。
 211年に曹操が西征軍を興すと、主簿黄権・従事王累らの切諫を排して劉備を葭萌(広元市)に進駐させ、張松と劉備の通謀が露見すると諸関戍を閉ざして抗戦したが、214年に馬超が劉備に従ったことを知ると開城し、公安(湖北省)に徙された。 後に荊州が陥されると孫権より益州牧とされ、秭帰(湖北省)で病死した。

公孫瓚  〜199
 遼西令支(河北省遷安)の人。字は伯珪。郡の名望の傍流で、太守に婿とされ、盧植劉寛に師事した。 張純討伐の功で遼東属国長史に中郎将を加えられ、麾下の損耗を厭わない苛烈な用兵は「警報に応ずること讎敵に赴くが如し」と評された。 烏桓からの憎忌は深く、公孫瓚が白馬兵数十騎で白馬義従を編成すると“白馬長史”と呼び、公孫瓚の姿を描いて騎射の的としたと伝えられる。
 191年には渤海から黄巾軍を撃退して青州にも進出し、袁術に従軍させていた従弟の公孫越が袁紹との豫州の争奪で戦死すると袁紹に宣戦し、一時は袁紹を圧倒したが、翌年に界橋(河北省威県)で大破され、この頃から幽州牧劉虞との反目も表面化した。 193年に朝廷の勧告に従って袁紹と講和して前将軍・易侯とされたが、劉虞を滅ぼした事から劉虞の故属と烏桓が袁紹に与し、更に青州を喪った翌年に鮑丘水(北京市密雲)で大敗し、易に造営した京(大塁)に篭城した。
 睚眥にも必ず報じ、宿臣すら遠ざけたために郡県の離背が続き、198年に袁紹が来攻すると黒山賊に求援したが、挟撃を約した密書を奪われて大敗し、城内で姉妹妻子を扼殺して焚死した。
 公孫瓚の方面官としての地位は、一貫して幽州管下の遼東属国の長官に過ぎず、軍事権については幽州長官の監下という制限がありました。劉虞がノーと云えば軍を動かせない立場です。公孫瓚の軍事や劉虞との対立関係などは、劉虞の外交方針とセットで見直すべきで、『後漢書』劉虞伝に引きずられると危険です。とりあえず、界橋までの公孫瓚は強かった。

劉虞  〜193 ▲
 東海郯の人。字は伯安。東海恭王の裔。 五経に通じ、幽州刺史の時には塞外の異民族にも慕われて仁慈の長吏として能名が高く、張純・張挙の造叛が拡大した188年に宗正から幽州牧に転じ、張純誅伐の功で太尉を遥授され、董卓の秉政で大司馬に直された。
 討董の諸将が蜂起すると、冀州牧韓馥・渤海太守袁紹らから即位を勧進されたが、峻拒して献帝に通誼する一方で袁術との提携を模索した。 公孫瓚の劣勢が確定的になると幽州の一括掌握を図ったものの一戦して惨敗し、偶々下向していた勅使の前で大逆として棄市された。
 劉虞に対する吏民の痛惜は公孫瓚への反発となり、遺児の劉和を援けて公孫瓚の敗滅にも大きく影響した。
『後漢書』では、着任当初から公孫瓚と反目していた風に述べられています。これに限らず、『後漢書』の劉虞公孫瓚伝は、公孫瓚に対する悪評の多くを『英雄記』『魏氏春秋』などに取材し、善悪の明確化を図っています。劉虞が恵政型の名牧なのは信用して良さそうですが、公孫瓚との関係は界橋の役の頃まではそれほど悪くはなかったように見えます。

張燕
 常山真定の人。本姓は褚。黄巾軍が興ると群盗の張牛角に投じ、張牛角が戦死すると推されて渠帥となって張姓を称し、軽捷剽悍を以て飛燕と号した。 戦術に長けて衆望も篤く、太行一帯の群賊の総帥とされて衆は百万に達し、太行山脈の南端、三州の交界する黒山(河南省安陽市)に拠って黒山衆と号した。
 朝廷は討伐に悉く失敗したことで招撫に転じ、平難中郎将とされて境域の支配を公認され、孝廉・計吏の薦挙をも認められた。 袁紹との抗争で衰え、曹操の冀州平定に先んじて鄴に詣降して平北将軍・安国亭侯とされた。

笮融  〜195
 丹陽(安徽省当塗)の人。徐州刺史陶謙に依り、州内の漕運を司掌して富財を為し、余財で中国人による最初の仏教伽藍を建立した。 伽藍は楼閣を伴って3千人の収容が可能で、錦綾で黄金の仏像を飾り、完成の際には民衆を集めて酒食を与え、役を免除したという。
 曹操の徐州襲撃で南方に奔り、広陵を劫略して揚州刺史劉繇に依ったが、先鋒となって豫章太守朱皓を殺すと南昌(江西省)で自立を図り、劉繇に討滅された。

袁術  〜199
 汝南汝陽(河南省商水)の人。字は公路。司空袁逢の嫡子。袁紹の従弟。 夙に侠名があって交誼を好み、河南尹・虎賁中郎将を歴任し、大将軍何進が殺されると袁紹と与に宮中の宦官を鏖殺した。 秉政した董卓に後将軍とされると出奔して南陽太守を称し、討董では長沙太守孫堅を豫州刺史に叙して洛陽を回復したが、長安遷都で諸将が分散した後は袁紹との反目が深刻となり、袁紹派の豫州刺史周ミを伐った際に従軍していた公孫越が戦死したことで、公孫瓚と袁紹の攻伐も激化した。
 袁紹と並ぶ二大領袖と目され、洛陽を逐われた朱儁を支援するなど董卓への叛抗を続けたが、193年に陳留を襲って匡亭(豫北長垣)で曹操に敗れると寿春に遷り、孫策から伝国璽を得た後は讖書の「代漢者当塗高」を盲信して197年に天子を僭称した。 徐州攻略に失敗した後は虚飾を尽くして酒色に耽溺し、搾取による淮南の荒廃や部曲将の離背を招き、199年に袁紹を頼る途上を劉備に遮られ、寿春で失意から病死した。
 妻子は故吏の廬江太守劉勲に依り、劉勲が孫策に敗れると江南に徙され、は孫権の夫人とされた。
汝陽袁氏は陳国の裔と伝えられ、陳の遠祖とされる帝舜が黄徳の王だったことが袁術の正統論の一因でした。 “当塗高”は、「高き当塗」とも、「塗に当って高し」とも訓まれます。 袁術は、塗を途(ミチ)と同視し、自身の字に路があるだけでなく、術の部首の行もミチを意味し、さらに陳の大夫に轅濤塗がいることから、当塗高を己に擬したといいます。 後の解釈では、ミチに当って高きものとは“巍闕”=宮門外の双楼で、巍=魏とされましたが、そもそも“代漢者”を「漢に代る者」と確定すること自体、この時代でなければ通用しない発想です。

孫堅  156?〜191
 呉郡富春の人。字は文台。孫武の裔を称した。172年の許昭討伐に従って勇名を知られ、下邳丞の時に黄巾軍が興ると中郎将朱儁招かれて討伐に従い、185年の西征でも車騎将軍張温に求められて参軍となり、しばしば董卓の倨傲を以て誅刑を進言した。
 長沙の混乱を平定して長沙太守・烏程侯とされ、董卓討伐に応じて挙兵すると荊州刺史王叡・南陽太守張咨を殺して兵を併せ、袁術より破虜将軍・豫州刺史に任じられた。 翌年には梁の陽人聚で胡軫・呂布を大破し、董卓に「関東の諸将は能く為さざるも、唯だ孫豎をば諸将宜しく之を慎むべし」と最も忌憚され、董卓を澠池(河南省)に逐って洛陽を回復し、この時に伝国の玉璽を着服したとされる。 魯陽に進駐して袁紹の任じた豫州刺史周昂を逐い、後に荊州の劉表を攻めて襄陽を囲んだ際、流矢に当たって戦死した。
 後に次子孫権が称帝すると、武烈皇帝と追尊された。

袁紹  〜202
 汝南汝陽(河南省商水)の人。字は本初。司空袁逢の甥。 名士との交際を好み、大将軍何進に信任され、新設の西園八校尉では副帥格の中軍校尉とされた。頻りに宦官誅戮を進言し、司隷校尉に転じた後に何進が殺されると宮中に乱入して宦官を掃滅したが、天子を確保できずに董卓に制され、廃黜を批判して冀州に奔遁して渤海太守とされた。
 翌年(190)には弟の南陽太守袁術・冀州牧韓馥らと董卓誅伐を唱えて挙兵し、盟主に推されて車騎将軍・領司隷校尉を称したが、成果のないまま長安遷都とともに解体し、翌年には冀州を奪って牧守の軍閥化を助長した。 冀州簒奪を機に遼東の公孫瓚と攻伐し、195年には公孫瓚を大破して冀・青・幽・幷州の刺史を制叙し、献帝の還御には関与しなかったものの、許遷都後に大将軍に叙されて冀青幽幷四州都督を加えられた。
 199年に公孫瓚を滅ぼし、遼東の公孫度を臣属させ、200年には曹操討伐の南征軍を興したが、官渡で大敗して軍の主力を失った。 帰国後は離背した冀州の城邑の平定には成功したが、落胆から発病して再起できなかった。
四世三公と称された門地と、寛雅大度を示して多くの士に慕われたが、優柔不断で矜恃が強く忠苦を忌み、軍師の田豊からも「外寛内忌」と評された。
討董の挙兵は冀州のみならず中原諸将とも合作したもので、袁紹は河内太守王匡と共に河内に進駐し、韓馥は鄴から動かず、豫州刺史孔伷は潁川の陽翟(禹州)に、臧洪の周旋で連盟した兗州刺史劉岱・陳留太守張邈・広陵太守張超・山陽太守袁遺・東郡太守橋瑁・済北相鮑信らは酸棗(延津)に駐しました。
   
官渡の役 (200):華北の4州を領する袁紹と、献帝を奉じる曹操の戦い。 袁術と並ぶ二大領袖と目されていた袁紹は、袁術の凋落と公孫瓚を大破したことで幽・青・冀・幷の4州を領する華北最大の勢力となったが、献帝を奉迎した曹操が自立の志向を明確にしたため、公孫瓚を滅ぼして後顧の憂いを断った後に曹操を伐ったもの。
 主力を動員して南下した袁紹は、緒戦で顔良・文醜の両帥を喪った後は大兵を以て曹操を官渡(鄭州市中牟)に圧倒したが、諸将の内訌が絶えず、審配との反目から曹操に降った許攸によって糧秣の集積地が暴露され、烏巣(延津)の糧秣を悉く焚却された。 督糧の淳于瓊は敗死し、曹操の本営奇襲に失敗した高覧・張郃も郭図の讒言を忌んで降り、袁紹軍は一夜で壊乱した。
官渡の役での袁紹の失敗は、恰かも田豊沮授の奔命策を排して強攻したことが敗因のように云われますが、内部の不和を統治できなかった事が敗因の第一だったといえます。 許攸が曹操に降った直接の動機こそ審配に家人を逮捕されたことですが、背景には讒言を聴きやすい袁紹に対する危惧があります。 高覧と張郃の投降にしても、曹操の本営奇襲は郭図の案になるもので、両者はこれを下策として烏巣救援を求めながら、よりによってその下策を命じられて失敗した以上、郭図の讒言と袁紹の反応は充分予測できました。 淳于瓊と高覧・張郃の失敗で軍が壊乱したという事は、当時はこの3人が袁紹軍の看板と見做されていたということでしょう。

孔融  153〜208
 魯国魯(曲阜)の人。字は文挙。孔子の裔。能弁博識で、10歳で老子と孔子の縁故を以て李膺との面謁を果たし、16歳の時には、兄の孔褒を頼って来奔した張倹を独断で匿い、家族と刑を争って名を顕した。 陶丘洪・辺譲と声名を斉しくして大将軍何進に挙任され、董卓には虎賁中郎将に進められたが、切諫を忌まれて黄巾軍の強盛な北海相に出された。 北海では鄭玄邴原らの礼遇や学問の振興などで讃えられたが、軍備を疎かにして黄巾に大敗した。 この時、孔融の求援に応じた平原相劉備は、孔融に名を知られていることで狂喜したという。
 建安元年(196)に袁譚に青州刺史を逐われて許都の献帝に帰参し、将作大匠・少府を歴任した。 漢朝の臣を公言し、曹操に対しては正論を装っての揶揄・嘲笑が多く、かねて不和だった御史大夫郗慮と丞相軍謀祭酒路粋の劾奏で、禰衡との誹聖(互いを仲尼・顔回と称し、父子の関係を「情欲の発露」、母子の関係を「瓶中の物を出す如し」と発言)を以て棄市に処された。
 詩賦は殆ど遺さなかったものの、文章は生前から極めて高く評価されて建安七子にも数えられ、曹丕の「文才は楊雄班固に比す」との絶賛は六朝でも支持されたが、同時に「高気を恃んで時務を識らず」「奇を好み名を求め、机上の空論に偏る」とも評された。
任官したてで大将軍何進に待たされたことで棄官したり、馬日磾の礼葬に反対して「陛下の哀悼に配慮して追訴はしません」と公言したりと、孔融の圭角の矛先は、非名門や物故者に対しては容赦ありませんが、荊州牧劉表の滞貢や僭儀については一貫して擁護に回っています。 九卿に連なった後の、曹操憎しが先行したかのような難癖レベルの発言は、名門の著名人として許されてきた過去の経験も踏まえているようで、相手を激怒させることが目的のような観すらあります。古制を理由に畿内封建に反対する建議が、国制の根幹にまで係わりだしたと忌まれ、孔融に対する措置が放置から処刑に転換したとされます。

劉表  142〜208
 山陽高平(山東省鄒城)の人。字は景升。景帝の子/魯恭王の裔。 姿貌温偉で、八及として建寧の獄に連なり、解錮後に大将軍何進の掾に辟された。 同郡の王暢に師事して南陽に随ったことがあり、荊州刺史王叡が長沙太守孫堅に殺されると、董卓に後任とされた。 赴任に際しては南陽の袁術を避けて南郡の宜城(湖北省)に単行し、勢族の蒯越・蔡瑁と結んで湖北を平定した後は襄陽に拠り、南陽の袁術と対立した。
 192年に孫堅を敗死させ、長安に通じて鎮南将軍・荊州牧とされ、袁術が東奔した後も益州や湖南との対立はあったが、荊州は最も安定した地域として各地から学士・名士が流入し、学芸が振興した。 198年には長沙太守張羨を滅ぼして荊南をも平定し、官渡の戦では従事韓嵩や蒯越らに曹操への与力を勧められたものの首鼠を持すことに徹した。
 晩年には後妻の蔡氏の一族に親しんで弟の蔡瑁と外甥の張允を寵任し、次子の劉jが蔡氏の姪を娶ったことで長子の劉gとの間に継嗣問題が生じ、曹操の荊州攻略の最中に背に疽を発して病死した。
 死後を襲いだ劉jは蒯越・韓嵩らの勧めで曹操に降り、青州刺史・諌議大夫を歴任した。
   
赤壁の役 (208):天下統一を図る曹操と、江東に割拠する孫権の戦い。 劉表の死亡直後に曹操に無条件降伏した荊州では、新野の劉備が降伏反対派と共に江夏に逃れ、柴桑に拠る孫権と結んで曹操に対抗した。
 曹操は荊州水軍を接収すると孫権に帰順を迫って赤壁(湖北省嘉魚)に布陣したが、軍中に疫病が流行して後退を図るところに火攻され、水軍の殆どを喪って撤退した。 この一戦で曹操の天下統一は頓挫して孫権の江東支配が確定し、劉備も荊州南部を獲得して三国鼎立の基盤を得た。
 一般に、赤壁の役は曹操軍の惨敗とされているが、主要な将官に戦死者はなく、帰還後ただちに銅雀台造営に着手しながらも増税もなかったことから、被害は荊州水軍に集中したものと思われる。

韓遂
 金城の勢族。字は文約。黄巾軍に乗じた北宮伯玉の乱に辺章と倶に呼応して諸郡を劫掠し、翌年には誅閹を唱えて三輔に寇した。 皇甫嵩張温に討たれたが、隴西太守李相如の呼応で涼州刺史耿鄙・漢陽太守傅燮らを殺し、州司馬馬騰や漢陽の王国らの呼応によって朝廷は隴右を事実上放棄した。 188年には陳倉失陥を理由に北宮伯玉・辺章・王国らを粛清し、入関した董卓に馬騰と通じて隴右支配を追認された。関中進出を図って194年に郭らに敗れたものの、李傕らの敗亡後は関中の領袖的存在となり、202年に曹操によって征西将軍とされた。
 211年に曹操の西征に対して馬騰の嗣子馬超と挙兵したが、曹操の離間によって馬超に伐たれ、214年には夏侯淵に敗れ、病死したとも、曹操の漢中攻略に応じた土豪に殺されたとも伝えられる。

宋建  〜214 ▲
 隴西郡の人。黄巾軍に前後して枹罕(甘粛省臨夏)で挙兵し、河首平漢王を称して朝廷を整え、正朔を定めた。 北宮伯玉や韓遂に与し、当時は韓遂や張魯・劉璋に伍す存在と目されていたが、張魯や韓遂との外交関係は不明。 214年に夏侯淵に伐たれ、1ヶ月の包囲の後に枹罕を陥されて殺された。

張魯
 沛国豊の人。字は公旗。五斗米道を興した張陵の孫。 益州牧劉焉に通じて漢中を占拠し、劉焉の死後は嗣子の劉璋と対立して漢中の独立を進めた。 関中からの流民を受容するとともに宗団を組織化し、漢中に独自の法を行なって師君と号し、地勢を利して討伐を悉く却けて鎮夷中郎将・領漢寧太守に叙されたが、玉印の発掘から漢寧王僭称の議が生じると、朝廷への称藩と政情安定が不可分とする閻圃に従った。
 215年に曹操に伐たれて巴中で降伏し、財貨を封蔵して去ったことを嘉されて鎮南将軍・閬中侯とされ、娘の1人は曹操の子の曹宇に嫁した。
 天師教の伝承では、張魯の四男が道統を継いで江西の龍虎山に遷り、“天師道”と改めたとされている。

華佗
 沛国譙(安徽省亳州市区)の人。字は元化。徐州に遊学して経学に通じたが、郡県には仕えなかった。 養生術に明るく、方薬・鍼灸に通暁し、深患には麻沸散を用いて切開手術を行ない、診病治癒の術技は伝説の神医扁鵲に比された。 後に曹操の侍医とされたが、医業のみを貴重されることを忌み、妻の病に託して帰郷した後は召還に応じず、後に露見して殺された。 著書は受ける者が無かったために自ら焚却したという。
 華佗に学んだ広陵の呉普・彭城の樊阿も、倶に俗医は遠く及ばない名医と称された。


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