三国時代.2

  
 

 221〜263
 季漢・蜀漢。 西漢景帝の裔を称した劉備が、赤壁の役の後に荊南と巴蜀を統べて樹立した政権。 219年に荊南を失って益州のみを支配し、漢室の正統を称して221年にに対抗して称帝したが、翌年には猇亭の役で呉に大敗して人材・物資共に深甚な損失を招いた。
 劉備の死後は摂政とされた諸葛亮が雲南地方の安定と開発、呉との修好、益州人士の挙用などに注力し、中原回復を国是としてしばしば北伐を行なったが、既に荊州を失っていたことで戦略が限定され、又た兵站の問題もあって悉く失敗した。 諸葛亮の死後は外征を控えて国力の涵養と人材育成につとめて小康を保ったが、大将軍費禕の横死後は劉禅に寵遇された宦官黄皓の朝政壟断と、大将軍姜維の度重なる北伐で国力が著しく疲弊し、263年に魏軍によって滅ぼされた。
 

劉備  161〜221〜223
 昭烈帝・先主。涿郡涿(河北省涿州)の人。字は玄徳。“先主”の称は、蜀漢を非正統とする派による敬称。 中山靖王の裔を称し、正業を嫌って遊侠との交際を好み、黄巾の乱では私兵を組織して微官に叙されたものの程なく棄官し、洛陽での同窓だった公孫瓚に依って平原国相とされた。 ついで徐州牧陶謙を助けたことから使職を譲られて呂布を庇護したものの、袁術との抗争の中で呂布に逐われて曹操を頼り、左将軍・豫州刺史とされた。 呂布が平定されると徐州で自立を図ったものの曹操に敗れて袁紹に投じ、官渡の役に先んじて荊州牧の劉表を頼り、荊州で諸葛亮龐統馬良ら在地の名士を迎えたことで傭兵集団からの脱却が可能となった。
 荊州が曹操に降ると江夏に奔って江東の孫権と結び、赤壁の役の後は荊南4郡を得、214年には益州を征服して三国鼎立の形勢を定めたが、荊州の帰属をめぐって孫権との関係は悪化した。 219年に漢中から曹操軍を撃退すると漢中王を称したが、曹操と孫権の共闘で荊州を失い、漢魏禅譲の翌年(221)に漢帝の喪を発して称帝すると荊州の復仇を宣して東征を行ない、猇亭で陸遜に惨敗して白帝城で諸葛亮に後事を託して歿した。
 諸葛亮との関係は“水魚の交”と評され、「太子が輔佐に値しなければこれに代れ」と遺言したことは、君臣の信頼関係の理想として後世まで賞讃された。
   
猇亭の役 (221〜222):夷陵の役とも。猇亭・夷陵はともに現在の湖北省宜昌市区。 荊州の帰属問題に端を発した劉備の東征を、呉の陸遜が大破した戦役。三国時代の三大戦役の1つとされる。
 劉備は219年に荊州牧関羽が殺されてより呉への報復を国是とし、即位最初の事業として全軍を挙げて呉に親征し、鎮北将軍黄権を江北路の督とし、自ら江南路を進んだ。 呉の大都督とされた陸孫は朱然潘璋韓当ら宿将の積極策を抑え、半年以上撤退と避戦を続けて蜀軍を深攻させたうえ一戦で故意に敗れて蜀兵を油断させた後、火攻によって蜀軍の累営を覆滅して劉備を撃退した。 陸遜の兵力は約5万、劉備の総兵力は10万前後と推定される。
 蜀軍は江南路の将兵の大多数が戦死し、江北路の黄権は魏に投じ、白帝城(重慶市奉節)に退いた劉備もほどなく病死し、このときの人的損害が蜀の衰亡の遠因の1つに数えられるほどの痛手となった。 戦後、呉では徐盛・潘璋らが劉備の拠る白帝城攻略を主張したが、朱然らが予測した曹丕の南征への対処が是とされた。

関羽  〜219
 河東解(山西省運城)の人。字は長生、後に雲長。幽州に出奔して張飛とともに劉備の挙兵に従い、劉備の股肱として寝食を共にして「情は肉親に勝る」と称された。 武勇は“万人の敵”と評され、劉備が袁紹に奔った際には下邳の劉備の家族を守って曹操に従い、曹操にも高く評価されて厚遇されたが、袁紹軍の顔良を殺した事を報恩として劉備に帰参し、曹操も又た関羽の忠義を嘉して追討を厳禁した。
 周瑜の死後、南郡が劉備に貸与されると襄陽太守とされて劉備の入蜀には従わず、成都の陥落で改めて督荊州事とされ、宛の造叛を煽動するなど中原にも影響力があり、劉備の称王で仮節鉞・前将軍とされた。 兵卒を慰撫した半面で劉備以外には尊大で、列将や長吏と軋轢を生じただけでなく孫権との外交をも損ない、樊城を攻略して于禁を擒えて曹操に遷都を思案させたものの、呉の呂蒙の侵攻と南郡太守麋芳らの離背で江陵を失い、魏の徐晃にも敗れ、退走した麦城で呉軍に擒われて処刑された。
 関羽の死後まもなくに曹操・呂蒙・孫翊と、関羽の死に関わった魏呉のトップが相次いで歿した為に民間崇拝が昂まり、唐以降は軍神として官祭に加えられた。

法正  176〜220
 扶風郿の人。字は孝直。建安の初めに同郡の孟達とともに蜀に動乱を避けたが、重用されないことを不満として別駕従事の張松と共に外将の奉戴を謀り、曹操の張魯遠征の際に劉備への求援使となって簒奪を強く勧め、劉備の入蜀に同道した。 成都が陥落すると蜀郡太守とされ、軍政両面で枢機に参与して謀主となり、張魯を降した曹操が南征に着手しない事から内訌の存在を指摘して劉備に北伐を勧め、219年には定軍で夏侯淵を敗死させ、漢中奪取を成功させた。
 劉備の称王で尚書令・護軍将軍とされ、諸葛亮はその功績と智術を高く評価して、私怨に対する報復が微細に及ぶことも黙過し、猇亭の敗戦では法正の不在を痛惜した。 陳寿からは程c・郭嘉の輩と評された。

諸葛亮  181〜234
 琅邪陽都(山東省臨沂)の人。字は孔明。呉の諸葛瑾の次弟。夙に父を喪い、叔父の諸葛玄を頼って荊州で名士と交わった。 劉備の三顧の礼に応じて幕僚に迎えられると主に政略を担当し、孫権との同盟や荊南の獲得を進め、孫権を牽制しての益州征服を成功させた。 龐統法正の死後は軍事をも管掌して劉備の登極で丞相とされ、車騎将軍・司隷校尉の張飛が横死すると司隷校尉を領した。
 猇亭の役の後は蜀漢の国策の殆どを指導し、劉備の死に際しては簒奪すら認められるほど信頼され、劉禅が即位すると益州牧を兼ねて摂政を行なった。
 225年に南中の叛乱を平定し、227年からは中原回復を標榜して自ら北伐を指揮したが、補給難と正攻法のみの戦略によって229年に陰平・武都郡を接収した他は成果を挙げられず、司馬懿と対陣中に五丈原で病死した。 陳寿の「応変の将才はその長ずるところに非ずか」という評価のある一方、蜀の布陣を観察した司馬懿が「天下の奇才である」と讃嘆した事実もある。

馬謖  190〜228
 襄陽宜城の人。字は幼常。馬良の弟。 荊州従事として劉備の入蜀に随い、緜竹令・成都令・越雟太守を歴任して諸葛亮から高く評価されたが、劉備からは「大言壮語」として諸葛亮に対しても重用が戒められた。 南中平定では諸葛亮の帷幄にあって再評価され、228年の北伐では衆議を排して蜀軍の先鋒とされたが、敵を軽視して張郃に大敗して街亭(甘粛省秦安?)を失い、北伐失敗の主犯として処刑された。 この第一次北伐では南安・天水・安定郡が蜀に呼応したが、いずれも大将軍曹真の進出で魏に帰した。
 馬謖処刑の故事は至上を一切挟まない苦渋の選択として“泣いて馬謖を斬る”と後世にまで伝えられ、諸葛亮も自ら右将軍に降格したが、過剰な厳罰として批判も多い。

劉禅  207〜223〜263〜271
 蜀の後主。劉備の嗣子。劉備の死後は丞相の諸葛亮が執政して大過なかったが、諸葛亮の後任の蒋琬費禕らが歿した後は陳祗・黄皓らが執権する朝廷と軍の対立が深刻となり、姜維の度重なる外征と相俟って蜀を急衰させた。 263年にケ艾率いる魏軍に成都を包囲されると光禄大夫譙周の勧めもあって抵抗せず降伏し、以後は安楽県公として洛陽に留められたが、洛陽の生活を楽しんで司馬昭・司馬炎にも猜疑されなかったという。

蒋琬  〜246
 零陵湘郷の人。字は公琰。荊南を接収した劉備の幕僚となって諸葛亮にも大器と認められ、入蜀に随って広都県長とされると酒に溺れて公務を視なかったために罷免されたが、程なく挙用されて劉備が称王すると尚書郎とされた。 劉備の死後は諸葛亮の丞相長史・撫軍将軍に進み、北伐では概ね成都に留まって丞相府の事と兵站を担当した。
 諸葛亮が歿すると後任として仮節大将軍・録尚書事・領益州刺史とされ、238年に漢中に進駐して開府が認められ、翌年には大司馬を加えられた。 水軍による魏興・上庸への進出を企図したが、退路の確保を危ぶむ百官の反対と病のために実行できず、更迭同然に涪に遷されてまもなく歿した。
 嗣子の蒋斌は後に漢城護軍となり、成都が開城すると鍾会に詣降して礼遇され、成都で鍾会と共に殺された。

費禕  〜253
 江夏鄳県の人。字は文偉。養父の叔母が劉璋の母であったことから劉備の平蜀に前後して入蜀し、劉備に仕えて董允と名声を斉しくして劉禅に近侍し、後主の即位で黄門侍郎とされた。 諸葛亮や孫権にも高く評価されて呉との修好を果たし、諸葛亮の参軍に転じた後もしばしば呉に使し、又た魏延と楊儀の調整にも尽力して諸葛亮からは蒋琬の後任に擬され、諸葛亮の死後は蒋琬に替って尚書令とされた。
 244年に曹爽を撃退し、蒋琬の後任として大将軍・録尚書事・領益州刺史に進み、248年より漢中に進駐したが、自ら諸葛亮に及ばないことを自覚して外征には消極的で、積極派の姜維を能く抑えた。
 記憶と決断に秀で、公務の傍らで遊興も楽しみ、業務を代行した董允は遊興を控えても積務に苦しんで「遠く及ぶところに非ず」と賛嘆したという。 小節に拘泥しない質で、張嶷らから降将への警戒を求められても更めず、253年に正月の宴席で魏の降将郭循に刺殺された。
 次子の費恭は公主を降嫁され、長女は皇太子妃とされた。

馬忠  〜249
 巴西閬中の人。字は徳信。旧名は狐篤。 建安の末に孝廉に挙げられ、猇亭の敗戦の際に白帝城への増援を率い、劉備から黄権の後任と絶賛された。 諸葛亮の南中遠征に従って牂柯太守とされ、恩威兼備の統治を讃えられた。
 230年より北伐軍の実務を担ったが、233年に南中の大酋の劉冑が庲降都督張翼に叛くと後任とされて平定し、都督府を平夷から昧県に遷して張嶷と共に越雟郡を回復し、安南将軍に進められた。 242年に帰朝して鎮南将軍に進み、244年の北伐では成都の平尚書事とされ、費禕の帰還で再び南中に帰任した。 南中で歿し、葬儀には多くの異民族が参列して廟祀が建立された。

姜維  202〜264
 天水冀県の人。字は伯約。鄭玄の学を好み、郡の参軍だった228年に蜀の北伐に遭い、太守に猜疑されて諸葛亮に降った。 諸葛亮に高く評価され、諸葛亮が歿すると右監軍とされて護軍を統べ、蒋琬が漢中から退くと鎮西大将軍・領涼州刺史とされ、247年には衛将軍に進んで大将軍費禕とともに録尚書事とされた。
 北伐の急先鋒でもあり、軍事に対する矜持も強く、羌族との連和による隴西支配を唱えたが、蒋琬・費禕の存命中は1万以上の兵力は託されなかった。 253年に費禕が歿した後は頻繁に隴右に出征し、魏の郭淮陳泰と攻伐して督中外軍事を加えられ、256年には大将軍に進み、同年に段谷の役ケ艾に大敗して後将軍に降格された後も大将軍の事を行なって北防の再編を進め、魏の諸葛誕の乱に呼応した北征で大将軍に復した。
 頻繁な北伐は成果を挙げないまま徒らに国力を損耗させ、尚書令陳祗の死後は避戦論の昂揚や黄皓との対立もあって朝廷から忌避されたが、兵からの信望は篤かった。 263年に魏が征蜀軍を興すと沓中から剣閣に退き、鍾会と対峙中に成都が開城した為に鍾会に降って厚遇され、自立を勧めて共に敗滅した。
   
段谷の役 (256):隴西に進出した蜀の姜維を、魏のケ艾が大破した戦。 当時、未だに魏の経営が確立していない隴右に対し、姜維は費禕の死後より連年進出し、255年には洮水で雍州刺史王経を大破し、征西将軍陳泰の来援で狄道城(甘粛省臨洮)攻略を断念したものの魏の隴右経営に強い危機感を抱かせた。
 翌年、大将軍に進んだ姜維は鎮西大将軍胡済と連動しての北伐を行なったが、上邽(天水市区)で胡済と会同できずにケ艾に撃退され、更に退走中の段谷で大破されて多数の将官と外軍の精鋭を喪った。 同戦役は蜀に深甚な軍事的損失をもたらしただけでなく魏の隴西経営を本格化させ、蜀は北防体制の根本的な修正を迫られるに至った。
 尚お、戦後にケ艾は鎮西将軍に進められ、姜維は後将軍・行大将軍事に貶されたが、胡済に対する問責記事がない事から姜維の立案に根本的な欠陥があったものと考えられている。
段谷の役の後に姜維が進めた北防体制の再編は、漢中防衛のために要衝に重兵を配置した旧来のものを、漢中自体を蜀の防壁と考えて南鄭盆地東端の楽城(成固=城固)、西端の漢城(沔陽=勉県)および陽平関、陽平関の南西の盆地の出口を扼す関城(陽安関=陽平関鎮)での重点防御に変更したものです。 堅壁清野策と地勢を利用した遊撃戦を併用して撃退殲滅戦を構想しましたが、姜維の性分というより、当時の蜀の国力低下に逼られた消去法的選択肢だったようで、魏軍の隴西からの南下が可能となった事で隴南にも配慮が必要という無茶っぷりでした。
 楽城・漢城への防御戦力の集中は244年の曹爽の伐蜀時にも唱えられましたが、督漢中の王平は双城が陥された場合のリスクを勘案して採らず、駱谷方面に進出して防衛線を張っています。
 263年の征蜀では関城が先に陥された為に双城は意味を失い、隴南から後退した姜維は漢寿(葭萌=広元市区)も維持できず剣閣で鍾会を防ぐことになります。

夏侯覇  〜258?
 字は仲権。魏の征西将軍夏侯淵の次子。生母の姉は曹操の夫人。 黄初年間に偏将軍となり、230年の曹真の南征では先鋒とされ、曹爽の伐蜀では右将軍に征蜀護軍を加えられて征西将軍夏侯玄に属した。 249年に曹爽が殺されて族子の夏侯玄が召還され、更にかねて不仲だった郭淮が征西将軍とされたために蜀に亡命した。
 後主の皇后の生母である張飛の夫人が夏侯覇の従妹でもあることから蜀でも厚遇され、姜維の北伐を扶けて車騎将軍まで進んだが、255年以降の記録は無く、259年には廖化張翼が車騎将軍に任じられている。
 魏の諸子は夏侯淵の旧功を以て減死に処された。

陳祗  〜258
 汝南郡の人。字は奉宗。外祖父の弟の許靖に養育され、多芸多才で費禕に認められて董允の死後に侍中に抜擢され、費禕の漢中進駐が増えたために権を集め、251年に費禕が歿すると守尚書令として鎮軍将軍が加えられた。 宦官の黄皓と結んで費禕の死後は朝政を壟断し、席次では姜維に劣ったものの、常に朝廷で近侍したために実権は姜維より重く、その死に際しての後主の痛惜は比類なかったという。
   
 黄皓董允の死後、陳祗の薦挙もあって黄門令とされて政務に参画するようになり、陳祗の死後は中常侍・奉車都尉に進み、後主の寵愛を独占して国政を壟断した。 費禕・姜維に憎まれながらも地位を保ち、成都が開城するとケ艾の側近に重賄を贈って処刑を免れた。

霍弋
 南郡枝江の人。字は紹先。梓潼太守霍峻の子。 劉備の末年に太子舎人とされ、後に諸葛亮に丞相記室とされて北伐に従った。 諸葛亮の死後に太子中庶子に転じ、直諫を忌まれて庲降の副弐都督として出され、永昌太守を兼ねて境内を平定すると監軍・翊軍将軍を加えられて南中の6郡を統督した。 263年に魏軍が南下すると安南将軍に進められ、成都の陥落後も武装を解かず、劉禅の安全を確認してから帰順して南中都督とされた。
 呉に叛いた交阯の呂興を支援し、呂興が殺された後も太守を送るなど交阯の掌握を進めた。

羅憲  〜270
 襄陽郡の人。字は令則。譙周に師事して夙に文学と才幹を讃えられ、東宮職や尚書吏部郎を歴任したが、宦官の黄皓に睦まなかったことで巴東太守に出され、巴東都督・右将軍の閻宇の節度を受け、263年に魏軍の南下で閻宇が召還されると永安城に鎮守した。
 成都の陥落に乗じて呉軍が来攻すると魏に求援し、半年の攻囲の後に荊州刺史胡烈が来援したことで呉の陸抗らは撤退した。 以後も永安の守備を委ねられ、武陵郡の4県が呉に背くと武陵太守・巴東監軍に転じ、267年に入洛して冠軍将軍・仮節に進み、死後に安南将軍を追贈された。

 
 

 222〜280
 呉郡の孫氏が江東に樹立した政権。始祖とされる孫堅は定まった地盤を持たず、荊州攻略中に戦死し、遺児の孫策が呉会を経略して江東支配の基礎を築いた。 孫策を嗣いだ弟の孫権が在地・北来の名士を積極的に挙用し、赤壁の役で曹操を撃退して江南の独立と土豪に対する求心力を確立した。
 とは荊南の帰属で対立したが、猇亭の役の後は概ね連和してに対抗し、山越の征服と拓屯によって国力の増強を進めたものの、戸口の中原回帰や山越の反抗などに苦しんだ。 又た孫権の晩年に二宮の変として顕現した新旧勢族の対立は政権を通じての宿痾となり、挙国的な軍事行動を困難として蜀との連携も円滑を欠いた。 末期には魏の征蜀に呼応した交州の離叛孫皓の失政があり、半ば自壊的に晋の南征軍に征服された。
大帝  廃帝  景帝  末帝
 

孫策  175〜200
 呉郡富春の人。字は伯符。漢の烏程侯孫堅の長子。 父の死後は徐州牧陶謙の迫害を避けて袁術に依り、淮南の経略に従って絶賛された。 ついで揚州刺史劉繇を逐い、会稽太守王朗を降して会稽太守とされ、袁術の僭称を機に朝廷に通誼して討逆将軍・呉侯とされた。 揚州の主要都市に太守を配して江東制圧を進めたが、曹操と袁紹の衝突に乗じた広陵攻略の途上で旧怨により暗殺された。
 弟の孫権が即位すると長沙桓王と追諡され、嗣子の孫紹は上虞侯とされたが、その嗣子の孫奉は、孫皓に簒奪を疑われて殺された。

孫権  182〜222〜252 ▲
 呉の開祖、大帝。字は仲謀。孫策の次弟。兄の死後、張昭程普らに輔佐されて統事と称し、南遷名士の協力も得て江南の開発を進め、山越討伐と荊州の攻略を主眼とした。 赤壁の役で曹操を撃退して江南の自立を確保し、蜀を平定した劉備から荊南を奪うと魏に臣属して呉王とされたが、劉備を大破した猇亭の役の後は蜀との同盟を回復して魏を牽制し、229年には天子を称した。
 称帝の頃には人口の中原還流と山越の抵抗が深刻となって外事を避けるようになり、公孫淵との連和の模索も魏の軍事を分散させる事を目的とした。 増兵の一環として夷州・亶州への遠征や交州の直轄化も進めたが、海外遠征は失敗し、交州支配も安定しなかった。
 世兵制に象徴される分権体制からの脱却を図った諸改革で呉会の大姓と対立し、晩年には二宮の変に発展して国論が二分され、大将軍諸葛恪・中書令孫弘らに後事を託して歿した。

周瑜  175〜210
 廬江舒(安徽省廬江)の勢族。字は公瑾。漢の太尉周景の従孫。 袁術が淮南に進出すると孫策と結び、その江東平定を輔けて江夏太守とされ、劉勲を破って豫章・廬陵を経略した。 孫策の死後も主に豫章で江夏と山越対策を担当し、曹操が荊州を接収すると徹底抗戦を唱えて大督とされ、西面の全軍を指揮して赤壁の役で曹操を撃退した。 戦後は南郡太守を領して江陵に鎮し、劉備の排除と荊州・益州併合による南北体勢を構想したが、実行直前に病死した。
 孫策との交誼は“断金の交”と呼ばれ、ともに喬家の姉妹を娶った。 又た容姿に秀でて周郎と称され、音楽にも堪能で、奏者が誤ると宴中でも気付いて指摘したという。
 子の周循は孫権に婿とされ、娘は太子孫登の妃とされた。

魯粛  172〜217
 臨淮東城(安徽省定遠)の人。字は子敬。素封の家に生まれて名士と交流し、居巣県長となった周瑜に穀倉を提供したことから交際が始まり、袁術の招聘を避けて周瑜を頼った後に劉曄との連和を図った事もあったが、周瑜の説得で孫権に仕えた。 漢室の護持を標榜する孫権に対して覇業を勧めて聴かれず、張昭からは傲慢未熟として任用が諫められたが、孫権の厚遇は変わることがなかった。
 荊州を接収した曹操への対応では主戦論を堅持して劉備との合作を成立させ、以後も劉備への荊州貸与を認めるなど、曹操への抵抗に劉備との提携を唱えたことで周瑜とは戦略を異にしたが、周瑜から後継に挙げられて部曲と漢昌の奉邑を継いで陸口に駐した。 後に横江将軍に進み、劉備が益州の共同征服を反故にして荊南の帰属が争われた際にも、荊州牧関羽に湘東を返還させて衝突を回避した。
 遺児の魯淑は孫権の死後、武昌督・夏口督を歴任した。

呂蒙  178〜220
 汝南富陂の人。字は子明。漢末に江南に遷って姉の夫/ケ当の軍営に随い、猛果を以て孫策に近侍してケ当の部曲を継ぎ、孫権が統領となった当初に軍団の統廃合が行なわれると、部曲の調練の徹底と戎装を赤で統一した事で悦ばれて認められた。 208年の黄祖討伐では先鋒となって落城の功を挙げ、赤壁の役に続く南郡攻略後は尋陽令に転じ、214年の廬江攻略では甘寧を先鋒として皖城を陥し、廬江太守を領して廬陵の平定に従事した。
 孫権と劉備が荊南を争った際には魯粛の下で長沙・零陵・桂陽を接収して湘東割譲の折衝を成功させ、217年には濡須に曹操を撃退し、魯粛が歿すると兵営と奉邑を継いで陸口に進駐した。 関羽を曹操に対する防壁と見做す魯粛と異なり、夙に関羽の雄志を危惧して荊州攻伐を唱え、関羽の襄樊攻略を機に江陵を陥して南郡太守・孱陵侯とされたが、まもなく病死して孫権を痛惜させた
呂蒙が長足の進歩を魯粛に絶賛されたのは尋陽令の頃の事で、関羽対策五ヶ条を述べて魯粛に「もはや呉の阿蒙に非ず」と讃えられ、「士は別れて三日すれば刮目すべし」と応えたとの有名な会話は『江表伝』由来です。 又た呂蒙と蒋欽が孫権から三史(『史記』『漢書』『漢記』)や兵書などを薦められ、後に孫権から「長じても研鑽を倦まないことで呂蒙・蒋欽に及ぶ者はいない」と讃えられたというのも『江表伝』由来です。

張昭  156〜236
 彭城の人。字は子布。夙に好学博渉で王朗・趙cと並称されたが、徐州牧陶謙を避けて揚州に逃れ、孫策の長史に迎えられると“仲父”に擬されて実務一切を委ねられた。 孫策に後事を託され、属僚の長として孫権の統制の確立に程普とともに多大に貢献し、臣属を求める曹操に対しては帰順を肯定したものの、以後も孫権の長史として畏敬された。
 孫権の輔導を自負した強諫が累なって敬遠され、しばしば丞相に擬されながらも挙任されず、老病を理由に部曲と奉邑を奉還すると輔呉将軍を加えられて万戸侯とされた。

士燮  137〜226
 蒼梧広信(広西蒼梧)の人。字は威彦。士氏は王莽の混乱を避けて魯から移住したもの。 洛陽で劉陶に就いて『左氏伝』『尚書』に精通し、茂才から交阯太守に至った。
 漢末の混乱に乗じて諸弟を交州諸郡の太守に任じて半ば自立し、中原文化を扶植する名望として亡命漢人からも慕われ、勢威は尉佗を凌ぐと称された。 刺史の張津の死後に統督七郡とされ、南進を図る劉表と対立して孫権に通じ、210年に歩隲を刺史に迎えた後も実勢を保ち、建寧の雍闓の煽動に成功して衛将軍・龍編侯とされた。
  ▼
 士燮の死後は嗣子の士徽が交阯太守を称したが、嶺南の直轄化を図る孫権は東3郡を広州として分離して呂岱を広州刺史、戴良を交州刺史とし、又た陳時を交阯太守とした。 士徽が陳時らの受容を拒むと在豪の桓氏らが孫呉に通じて叛抗し、一族の離背もあって呂岱に討平され、交州は呉の直轄となった。

虞翻  164〜233
 会稽余姚の人。字は仲翔。はじめ会稽太守王朗に仕えて孫策との対立を諫め、孫策に敗れた後、王朗に老母の世話を諭されて会稽に戻り、孫策に仕えて礼遇された。 孫権より騎都尉とされたが、揶揄と直諫を忌まれて丹陽の県に徙され、呂蒙の仲介で侍医として関羽討伐に従軍した。 于禁麋芳を厳しく批判して折毀し、宴席では故意に孫権の酌を避けることもあり、神仙を論ずる張昭を死者と揶揄した事で交州に流され、70余歳で客死した。
 夙に狷介を謗られた一方で学識は高く評価され、『易経』の注釈は孔融にも絶賛され、交州で著した『老子』『国語』『論語』などの注釈も世に讃えられた。

支謙
 大月氏の人。6ヶ国語に精通したという。華北で支亮に師事して仏教を学び、建安年間に中原の混乱を避けて江東に逃れた。 孫権に招聘されて博士とされ、太子の輔導に当たるとともに黄武・建興年間に多数の経典を漢訳した。

諸葛瑾  174〜241
 琅邪陽都の人。字は子瑜。泰山丞諸葛珪の子、蜀の丞相諸葛亮の実兄。 京師に遊学した後、曹操の徐州屠掠に逐われて江東に遷り、統領を嗣いで間もない孫権に仕えて長史とされた。 呂蒙の死後は後任の南郡太守とされて公安に駐し、222年に左将軍・仮節公安督・宛陵侯とされ、軍事には長じなかったものの防戦では破綻を見せず、229年に孫権が称帝すると大将軍・左都護・領豫州牧とされた。
 意見を強く主張することは稀だったが、巧みな進言で承認されることが多く、沈静大度で平直なことから人士の信望も篤く、虞翻からも減死のための弁護を感謝された。 孫権の信頼も絶大で、東征途上の劉備への求和使とされた際に実弟の諸葛亮の存在を以て離背を誣された際にも、「子瑜が私に背かないのは、私が子瑜に背かないのと同様である」と猜疑されなかった。
 死後は次子の諸葛融が部曲と爵を襲いで公安に駐した。

顧雍  178〜243
 呉郡呉の人。字は元歎。 朔方から避難した蔡邕に学問と琴を学び、令長を歴任して能名があった。 会稽太守となった孫権の郡丞として太守の事を行ない、孫権の称王後に累進して尚書令とされた。 性は寡黙で酒を嗜まず、平素は温和で譏罵することがなかったため、畏敬されても忌憚はされず、張昭の提言を聴かなかった孫権が顧雍の同じ進言を受容することがしばしばあった。 225年に丞相・平尚書事・醴陵侯とされ、呂壹が抬頭した後は讒言で譴責されることもあったが、謝厷らの擁護もあって在任のまま歿した。

呂壹  〜238?
 呉の酷吏。孫権より中書典校(文書監査)とされると法制を厳格に適用して微罪でも該奏し、顧雍朱拠ら大官と雖も忌避しなかった。 しばしば私怨で刑事を行ない、又た専売を横領したために朝野の怨嗟の的となり、孫登・潘濬・歩隲らの劾奏と、朱拠の枉陥が露見した事で誅された。 裁断に際しては規定外の酷刑を求める声が強かったが、顧雍・闞沢の諫止で定法に則って執行された。
呂壹の寵任で孫権に対する信頼は失墜し、呂壹死後の対策を諮問された諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱らが陸遜・潘濬に丸投げして回答を避けた事で、孫権が逆ギレしたと伝えられます。

陸遜  183〜245
 呉郡呉の大姓。字は伯言。旧諱は議。 夙に父を失って従祖父(父の従兄弟)の廬江太守陸康に依り、陸康と袁術が険悪となると呉に帰されて一族を綱紀した。 203年に出仕し、令長の任と山越討伐で孫権に認められ、孫策の遺児の婿とされて孫権直下の右部督となり、曹操に内通する丹楊・会稽の山越を討平して蕪湖に進駐した。 蜀の荊州牧関羽が敗死した後は右護軍・宜都太守・鎮西将軍として西辺を経略し、猇亭の役では仮節大都督とされて蜀軍を殲滅して輔国将軍・領荊州牧を加えられたが、この戦勝で朱然ら諸将に漸く都帥として認められた。
 228年に魏の揚州牧曹休を石亭で大破し、孫権の称帝で西陵から武昌に移駐すると上大将軍・右都護とされて鄱陽以西を総督し、234年に孫権の合肥親征が失敗した際には、諸葛瑾と共に襄陽からの撤退を成功させただけでなく、帰途に江夏の諸城を劫掠して巴蛮を帰順させた。
 軍将として孫権の信頼は篤く、武昌に移鎮した際には太子の輔をも兼ねたが、244年に顧雍の後任の丞相とされた後は二宮問題で孫権に憎まれ、罷免・流謫の後に譴責が続いて憤死した。

呂岱  160〜256
 広陵海陵の人。字は定公。郡県の吏となった後に戦乱を江東に避け、孫権の下で会稽南部の山越の鎮定や荊南3郡の奪取に従い、220年に歩隲を継いで交州刺史とされた。 交阯太守士燮が歿すると交州の分割を上奏して広州刺史となり、士氏の討平を指揮して交州の直轄化に成功し、扶南林邑などの朝貢を促して鎮南将軍・番禺侯に進んだ。
 231年に召還されてより長沙・廬陵・会稽などの山越討平に転じ、潘濬の死後は陸遜の副弐を継いで武昌に移り、湘南地方の内乱を鎮圧して交州牧を加えられた。 陸遜が歿すると武昌の軍事は諸葛恪と二分されて右部(西部)を担い、上大将軍に進められ、孫亮の即位で大司馬とされた。

二宮の変  242〜250
 孫権の太子孫登の死後、太子に立てられた孫和の党と、魯王孫覇の党の政争。 孫権が諸子のうち孫覇のみを封王して太子と斉しい待遇を与えたことに起因し、全公主全jらが孫覇を支持した上に、孫権が長らく解決を避けたことで朝野を二分する深刻な政争に発展し、丞相の陸遜すら厳しい讒陥されて憤死した。
 250年に孫和を廃して孫覇に賜死し、8歳の孫亮を太子とすることで決着が図られたが、廃太子の際にもこれを諫めた督官の陳正・陳象や驃騎将軍朱拠が殺されるなど孫和を支持した勢族高官の多くが粛清され、孫権の死後は宗室内での抗争に変じて孫呉の国力を低迷させた。
同時代に著された『通語』では、陸遜・諸葛恪・顧譚・朱拠・滕胤・施績らが太子を支持し、歩隲・呂岱・全j・呂拠・孫弘らが魯王と結託し、孫権は孫峻に相談した結果、太子廃立を考えるようになったとあります。

孫亮  243〜252〜258〜260
 第二代君主。廃帝。字は子明。孫権の末子。二宮の変の決着後に太子とされた。 太傅の諸葛恪が粛清された後は、宗族の孫峻孫綝による執政が続き、魏の毌丘倹諸葛誕の乱との呼応はいずれも成功しなかった。
 驃騎将軍呂拠・太常滕胤の挙兵が鎮圧された翌年に親衛兵の組織に着手して奪権に備えたが、太常全尚・将軍劉承らとの孫綝誅罰の謀計が露見して廃され、会稽王に貶された。 後に復辟が噂され、巫蠱のことを誣告されて侯官侯に貶され、就封の途上で自殺した。

諸葛恪  203〜253
 字は元遜。大将軍諸葛瑾の長子。 夙に才名を知られ、はじめ学識を以て太子孫登の賓友とされ、後に丹楊の山越攻略を成功させて高く評価された。 陸遜が斥けられると仮節大将軍に進められて武昌に鎮し、危篤となった孫権より中書令孫弘・太常滕胤らとともに後事を託されて太傅を加えられた。
 孫亮の執政として校官(監察)や関税の廃止、延滞税の減免などを行なって支持を集め、同年(252)末には東興の役で魏軍を撃退して荊揚二州牧・都督中外諸軍事を加えられたが、魏を軽んじて翌春に起した合肥攻略に失敗して急速に独裁化した。 帰国後は地方官人事の刷新や刑理の厳格化などで威信の保持を図ったが、孫亮の黙認を得た武衛将軍孫峻に宮中で殺されて族滅された。
 才気を過信して細部を疎かにする点は夙に諸葛亮・陸遜から指摘され、諸葛瑾からは家を滅ぼしかねないと案じられていた。 後に孫綝が誅殺されると名誉を回復された。

孫峻  219〜256
 字は子遠。孫静の曾孫。 騎・射に長じて果断を知られ、二宮の変の後に孫亮の輔政に連なって武衛将軍を兼ねた。 諸葛恪を粛清した後は丞相・仮節大将軍として万機を総覧して横恣の行ないが多かったが、禁兵を掌握して宗室の叛抗は悉く失敗した。 255年に魏の毌丘倹の造叛に乗じた寿春攻略が不発に終わり、翌年に鎮北大将軍文欽の建議で北伐を起したが、閲兵の翌月には重篤となって従兄弟の孫綝に後事を託して歿した。
 征北大将軍文欽・驃騎将軍呂拠・車騎将軍劉纂・鎮南将軍朱異・前将軍唐咨らの北伐軍は、執政となった孫綝によって召還された。

孫綝  241〜258 ▲
 字は子通。孫静の曾孫。従兄の孫峻が歿すると武衛将軍・領中外諸軍事を継ぎ、驃騎将軍呂拠・大司馬滕胤を鎮定して仮節大将軍となったが、士を疎んじて礼に外れる行ないが多かった。 魏に叛いた諸葛誕の求援に応じたものの寿春の救援に失敗しただけでなく、朱異を斬り、唐咨全懌らを魏に奔らせたことで威信を失墜した。
 帰国後は偏猜となって孫亮との対立が尖鋭化し、粛清の機先を制して建業を制圧して孫亮を廃し、琅邪王孫休を擁立して丞相・荊州牧とされたが、程なく朝会で左将軍丁奉・輔義将軍張布に誅された。 家は属籍から除かれ、孫峻は棺を削られて庶人として改葬され、諸葛恪・滕胤・呂拠らの名誉が回復された。
孫綝伝によれば、建康の不穏な空気を察して武昌出鎮を願い、そうこうするうちに謀叛の密告が続いて誅殺されたとあります。 武昌出鎮が造叛準備の格好の口実にされた形ですが、そもそも出鎮要請は自分を切るか和解するかを試す孫綝からの踏み絵だったっぽく、これを承諾した孫休サイドの理解度が興味のあるところです。

呂拠  〜256
 字は世議。大司馬呂範の嗣子。 呂範が病臥すると軍務を代行し、呂範の死後は山越討伐で累功を挙げた。 孫権に幹事の才を認められて孫亮の輔政にも連なり、孫峻の兵変で右将軍から驃騎将軍に進み、魏の毌丘倹の造叛に呼応した北伐では仮節を加えられた。
 翌年の北伐が孫峻の死で撤退となり、たまたま武昌の大司馬呂岱が歿したことで滕胤を丞相に推したものの、孫綝の執政が決したことで挙兵した。 石頭城の滕胤とも通じたが、文欽劉纂唐咨らが捕縛令に応じ、孫慮丁奉らに江都を抑えられたことで窮して自殺した。

孫休  235〜258〜264
 第三代君主。景帝。字は子烈。孫権の第6子。孫亮の兄。 孫権の末年に琅邪王とされて虎林に鎮したが、丹楊太守李衡に圧迫されて会稽郡に遷り、孫亮を廃した孫綝に迎立された。 即位の年のうちに孫綝を誅して親政を始め、重農抑商と綱紀粛正を図ったが、苦言より甘言を好んで次第に政事に倦み、学問に傾倒して丞相濮陽興・左将軍張布を執政とし、賞罰人事の不公正から組織の腐敗が進んだ。
 263年には交阯太守の暴政に抵抗する呂興の叛乱が発生して交州全域に拡大し、蜀を征服した魏が介入したために再び東半を広州として分離して交州の帰属を争った。又た蜀が征服されると巴東の接収を図ったが、巴東太守羅憲の抵抗で成功しなかった。

張布  〜264
 はじめ琅邪王孫休の督として信任され、孫休の即位後に左将軍に累進して丁奉とともに大将軍孫綝を誅殺し、丞相となった濮陽興とともに朝政を壟断した。 君寵を恃んで不正・非礼のことが多く、これを孫休が黙認したことで弊風が蔓延したという。
 264年に孫休が歿すると濮陽興・万ケと図って烏程侯孫皓を擁立して侍中・驃騎将軍に進められたが、独裁を図る孫皓に迎合した万ケに誣告され、広州に流される道中で殺された。

呂興  〜264
 交阯の人。交阯の郡吏だったが、263年に太守孫諝の過重な徭役に叛抗して挙兵すると南中の霍弋に庇護を求め、蜀を征服した魏から使持節・都督交州諸軍事・交阯太守・南中大将軍とされた。孫諝を攻殺して九真郡・日南郡の呼応も得たが、翌年には部下に殺された。
 呂興の死後、晋は霍弋を介して爨谷・馬融・楊稷を相次いで後任に送り、交阯の確保を図った。
   
 呉は霍弋の死に乗じて268年より交阯奪回を進めたものの、交州刺史劉俊・前部督脩則が晋の交阯太守楊稷・鬱林太守毛Q・九真太守董元らに敗死し、271年頃にようやく蒼梧太守陶璜によって回復に成功した。

施績  〜270
 朱績。字は公緒。朱然の嗣子。 太常潘濬の五谿蛮討伐に従って胆略を認められ、又た礼節と律法を重んじた事でも称賛され、建業では孫覇との交誼を避け、朱然が歿すると平魏将軍・楽郷督(松滋市涴市鎮)とされた。 公安督の諸葛融とは不和で、250年に魏の征南将軍王昶の南征を失敗させた際には、追討に同意した諸葛融が兵を動かさなかったことで両者の関係はさらに悪化した。 諸葛恪の北伐(253)では半州に留められて諸葛融のみが漢水を進み、諸葛氏の粛清では孫壱・全煕とともに諸葛融を討った。
 257年に驃騎将軍に進められ、孫綝の失政に魏が乗じることを憂えて蜀に牽制を求め、そのため右将軍閻宇が巴東都督となって白帝城に進駐した。 翌年に上大将軍・都護督に進んで巴丘以西を総督したが、魏の伐蜀では北上しての牽制を求められて蜀を支援できず、孫皓が即位すると左大司馬を加えられた。
 父の朱然の遺志を重んじて施姓への回帰を求め、孫権の死後の五鳳年間(254〜256)に認められた。
施績の依頼で蜀が永安に増兵した件ですが、施績の依頼が密書で行なわれた点はまだ解るとして、蜀は閻宇に「施績の指示」を待たせています。これって施績の密書の内容が「孫綝や魏に滅ぼされるくらいなら、いっそ蜀に…」って仄めかしだと思うのですが。
魏の咸煕元年(264)十月の詔勅では「賊之名臣」「孫皓に懐疑し、深く忌憎されている」と指摘されていて、朝廷との乖離はかなり公然だったようです。 尤も、この詔勅は呉からの転向者を讃えるものなので、離間の一つとも見えますが。

孫皓  242〜264〜280〜284
 第四代君主、末帝。字は元宗。孫権の廃太子の子。 孫亮が廃されて烏程侯に封じられ、景帝の死後に迎立された。 蜀の滅亡と交州の離叛に直面した当時、文武兼備の明君と期待され、即位してまもなく濮陽興張布らを粛清して親政を始めたが、武昌遷都や宮殿造営の強行、側近の重用などで朝野の信頼を失い、国力の回復を監察・徴発の強化に求めた事で民力の疲弊を助長した。 271年に漸く交州を回復し、翌年には西陵督歩闡の乱を鎮圧したものの、陸抗の死後に陸凱の遺族を弾圧するなど勢族との協調を図らず、何太后の一族の横恣を放任し、又た孫秀孫楷ら宗室の北奔が止まなかった。
 279年には交州が再び叛き、又た晋が征呉を起して降伏する軍が続出し、280年に建康を囲んだ王濬に開城して帰命侯とされた。 聡明な半面で讖緯に依拠し、強い矜持心と酒色への耽溺、奢侈への傾斜と酷吏の重用などから、後世の典型的南朝暗君の先駆とされる。

陶璜
 丹楊秣陵の人。字は世英。交州刺史陶基の子。269年の交州再征に際して蒼梧太守とされ、大都督の薛詡に従った。 晋の交阯太守楊稷に大敗して合浦に退いたが、271年に海上から九真郡を降し、北上して交阯城(ハノイ)を陥して交州刺史とされ、後に晋に降った九真郡を平定して前将軍・使持節・都督交州諸軍事・交州牧に進んだ。 征呉の後に孫皓の晨筆によって晋に降ると官職を安堵され、交州の安定に尽力して領民に愛慕された。
交阯城攻略では、百日を越えた篭城で援軍がなければ、降伏しても家族が連坐しないという魏晋の法を重んじ、交阯城が兵糧不足で受降を求めると糧食を送って包囲を続け、百日を越えてから投降を受けて敵兵の家族を救っています。
 後任となった顧秘から三代続いて顧氏が刺史となり、造叛に失敗した顧寿の後は陶璜の子の蒼梧太守陶威が刺史を領した。 陶威の死後、弟の陶淑、子の陶綏はいずれも交州刺史になった。

歩闡  〜272
 臨淮淮陰の人。丞相歩隲の子。 兄の歩協の死後に西陵督を継いで昭武将軍とされたが、272年に召還されると謀殺を猜疑して晋に受降を求め、都督西陵諸軍事・衛将軍・交州牧とされた。
 晋からは車騎将軍羊祜・荊州刺史楊肇・巴東監軍徐胤らが援軍とされたが、江陵に進んだ羊祜は陸抗の妨害で停滞し、徐胤も呉の水軍に東下を妨げられ、楊肇のみ西陵に到達した。
陸抗はかねて西陵を呉の西門と見做して城の防備を増強させており、そのため西陵を包囲すると攻城を厳禁して北に対する防衛網の構築を最優先とし、羊祜の向った江陵にも戦術を指示するに留まっていた。 西陵に到達した楊肇には呉から将軍朱喬・営都督兪賛の投降はあったものの、数月の対峙の末に大破して羊祜・徐胤らも撤収した。 歩闡は落城後に族滅されたが、歩協の諸子は晋に質子に送られていたために難を免れた。

陸抗  226〜274
 字は幼節。丞相陸遜の子。孫策の外孫。陸遜の部曲を嗣ぎ、孫権の陸遜に対する二十箇条の疑惑に逐一答えて嘉された。 246年より諸葛恪に替って柴桑に駐し、諸葛誕への増援にも加わり、孫綝が誅された翌年(259)に鎮軍将軍に進んで西陵以西を都督した。 孫皓が即位すると鎮軍大将軍に進んで仮節・領益州牧を加えられ、施績の死後はその軍事を継いで楽郷に駐し、272年に西陵督の歩闡の乱を鎮めると都護を加えられて大司馬・荊州牧とされた。
 左丞相陸凱と並んで孫呉の末期を支え、しばしば孫皓の人事の偏向や恩倖の重用、軍事の多用を諫め、西陵の防備増強と募兵制の改革を遺言して歿した。
 死後は嗣子の陸晏と陸景・陸玄・陸機・陸雲の5子が部曲を継ぎ、陸晏・陸景は征呉戦で宜都で戦死した。陸景の夫人は孫皓の同母妹で、共に張承の外孫にあたる。
荊州での陸抗は晋兵との軋轢を厳禁し、殊に羊祜とは互いに信義を重んじ、酒薬を贈られると疑うことなく口にし、牛馬や狩猟の獲物が逃れてきても送り返し、孫皓に詰問されても逆に信義の重要さを説いたそうです。
呉末の佳話として特筆される両者の交誼は『三国志』本文中にはなく、『晋楊秋』・『漢晋春秋』由来です。 この時点で眉に唾する癖がついてしまっているのですが(笑)、時候の挨拶を絶やさない程度の交流はあったと思われます。 『漢晋春秋』には、羊祜が呉人の輿望を晋に向けるために信義を示し、陸抗はその意図を洞察して信義合戦になったと云っています。 呉が終始、人口の還流に苦慮していた事を考えると、ありえそうな話です。

韋昭  〜273
 呉郡雲陽の人。字は弘嗣。一名は曜。好学で文章に能く、太子孫和の中庶子となり、孫亮が即位すると諸葛恪の薦挙で太史令とされ、華覈薛瑩らと『呉書』を撰述した。 孫休の下でも諸書を校訂して重んじられたが、張布の反対で近侍は認められなかった。
 孫皓にも学識を以て敬重されて左国史に侍中・中書僕射を加えられたが、瑞祥の解釈や呉書の扱いなどで忤意し、致仕を認められないまま処刑された。 『国語』の注釈者としても知られる。

康僧会  〜280
 康居の人。商賈の父に従ってインドから交阯に到り、父の死後に14歳で出家した。 天文・讖緯にも通じ、247年に孫権に認められて建業に建初寺を建立し、訳経と仏教の布教に尽力して江南弘法の嚆矢とされる。 又た著書の『六度集経』には、孫皓と因果応報を討論した事が記されている。


Back | Top | Next