孫靜字幼臺、堅季弟也。堅始舉事、靜糾合郷曲及宗室五六百人以為保障、衆咸附焉。策破劉繇、定諸縣、進攻會稽、遣人請靜、靜將家屬與策會于錢唐。是時太守王朗拒策於固陵、策數度水戰、不能克。靜説策曰:「朗負阻城守、難可卒拔。查瀆南去此數十里、而道之要徑也、宜從彼據其内、所謂攻其無備・出其不意者也。吾當自帥衆為軍前隊、破之必矣。」策曰:「善。」乃詐令軍中曰:「頃連雨水濁、兵飲之多腹痛、令促具甖缶數百口澄水。」至昏暮、羅以然火誑朗、便分軍夜投查瀆道、襲高遷屯。朗大驚、遣故丹楊太守周昕等帥兵前戰。策破昕等、斬之、遂定會稽。表拜靜為奮武校尉、欲授之重任、靜戀墳墓宗族、不樂出仕、求留鎮守。策從之。權統事、就遷昭義中郎將、終於家。有五子、暠・瑜・皎・奐・謙。暠三子:綽・超・恭。超為偏將軍。恭生峻。綽生綝。
これは曹仁の家と同じパターンですね。放蕩兄が郷里を飛び出したんで、苦労性の弟が実家をまとめ上げるの図です。孫堅が董卓討伐に加わったもんだから自衛まで講じなければならなくなった。両者が役割分担として了承した訳ではないのは、孫堅が死んだ時に孫策・孫賁が実家を頼らなかった事に示されています。
孫策が劉繇を破り(呉景・孫賁を還してから)、諸県を定めて会稽に進攻すると人を遣って孫静に(援軍を)請い、孫静は家属を率いて銭唐で孫策と会同した。この時、太守王朗は固陵で孫策を拒ぎ、孫策はしばしば河水を渡って戦い、勝つ事が出来なかった。孫静が孫策に説くには 「王朗は険阻を負って城を守り、即座に抜く事は難しい。查瀆はここを南に去ること数十里で、しかも道の要径(要衝)であり、彼の地よりその内部に拠るのが妥当である。所謂るその備えざるを攻め、その意(おも)わざるに出るというものだ。私が自ら手勢を率いて軍の前隊となり、きっと破ってみせよう」 孫策 「善策です」 かくして詐って軍中に布令するには 「近頃の連日の雨で河水は濁り、兵が飲んで腹痛となる者が多い。督促して甖缶数百口を具えて水を澄ませ」 昏暮に至り、燃火を羅(なら)べて王朗を誑かし、ただちに軍を分けて夜間に查瀆への道に投じ、高遷の軍屯を襲った[1]。王朗は大いに驚き、旧の丹楊太守周昕らに兵を帥いて進んで戦わせたが、孫策は周昕らを破って斬り、かくて会稽を平らげた[2]。上表して孫静を拝して奮武校尉とし、重任を授けようとしたが、孫静は墳墓・宗族を恋うて出仕を楽しまず、留まって鎮守する事を求めた。孫策はこれに従った。確かに郷里の治安も気になってはいたんでしょうが、それよりも色々と危なっかしい甥っ子の風下に置かれるのが嫌だったんでしょう。この時点で孫策は袁術の部将に過ぎず、しかも兵力の工面にも四苦八苦している体たらくです。転覆の危険が無いのかどうかを見極めるまで、孫静としては乗る気は無かった筈です。
孫権が事を統べると(官に)就いて昭義中郎将に遷り、(無官のまま)家で終った。五子があり、孫暠・孫瑜・孫皎・孫奐・孫謙といった。孫暠の三子は孫綽・孫超・孫恭といい、孫超は偏将軍となった。孫恭は孫峻を生み、孫綽は孫綝を生んだ。孫策が歿した時、定武中郎将孫暠は烏程から兵を率いて会稽を支配しようとした。虞翻の説得で帰還した。 (虞翻伝より)
瑜字仲異、以恭義校尉始領兵衆。是時賓客諸將多江西人、瑜虚心綏撫、得其歡心。建安九年、領丹楊太守、為衆所附、至萬餘人。加綏遠將軍。十一年、與周瑜共討麻・保二屯、破之。後從權拒曹公於濡須、權欲交戰、瑜説權持重、權不從、軍果無功。遷奮威將軍、領郡如故、自溧陽徙屯牛渚。瑜以永安人饒助為襄安長、無錫人顏連為居巣長、使招納廬江二郡、各得降附。濟陰人馬普篤學好古、瑜厚禮之、使二府將吏子弟數百人就受業、遂立學官、臨饗講肄。是時諸將皆以軍務為事、而瑜好樂墳典、雖在戎旅、誦聲不絶。年三十九、建安二十年卒。瑜五子:彌・熙・燿・曼・紘。曼至將軍、封侯。
孫瑜に対する評価は、周瑜伝からも伺う事ができます。周瑜の構想では孫瑜を奉じて益州を征服し、揚州の孫権、荊州の周瑜、そして益州の孫瑜が北伐して中原を定める予定だったそうです。少なくとも周瑜は、孫権に匹敵する権力を与えるに相応しい人物だと見ていたようです。但しこの構想が実現した場合、周瑜の動向次第で孫静家に主権が遷っていた可能性もあります。
因みに孫瑜の北来名士厚遇は、弟の孫皎にも継承されました。
孫皎字叔朗、始拜護軍校尉、領衆二千餘人。是時曹公數出濡須、皎毎赴拒、號為精鋭。遷都護征虜將軍、代程普督夏口。黄蓋及兄瑜卒、又并其軍。賜沙羨・雲杜・南新市・竟陵為奉邑、自置長吏。輕財能施、善於交結、與諸葛瑾至厚、委廬江劉靖以得失、江夏李允以衆事、廣陵呉碩・河南張梁以軍旅、而傾心親待、莫不自盡。皎嘗遣兵候獲魏邊將吏美女以進皎、皎更其衣服送還之、下令曰:「今所誅者曹氏、其百姓何罪?自今以往、不得撃其老弱。」由是江淮間多歸附者。
程普・黄蓋とも死亡時期は不明ですが、孫瑜は建安二十年だと明記があります。前後の事情を考えると、213~15年に夏口督に就いたものと思われます。食邑も程普のものを引き継いだのでしょう、呉の慣例として。以後、夏口督は孫壹の亡命事件まで孫静の家門が独占、もしくは世襲します。
財を軽んじて能く施し、交結に善く、諸葛瑾とは至厚であり、廬江の劉靖に得失を、江夏の李允に衆事を、広陵の呉碩・河南の張梁に軍旅の事を委ね、(何れも)心を傾けて親しく待し、自ら尽さない者は莫かった。孫皎が嘗て兵に斥候をさせ、(候兵が)魏辺の将吏の美女を獲て孫皎に進呈した事があったが、孫皎はその衣服を更めてこれを送還し、下令して 「今、誅しようというのは曹氏であり、百姓に何の罪があろう? 今より以降、老弱を撃ってはならない」 これにより江淮の間からの帰附者が多くなった。嘗以小故與甘寧忿爭、或以諫寧、寧曰:「臣子一例、征虜雖公子、何可專行侮人邪!吾値明主、但當輸效力命、以報所天、誠不能隨俗屈曲矣。」權聞之、以書讓皎曰:「自吾與北方為敵、中閒十年、初時相持年小、今者且三十矣。孔子言『三十而立』、非但謂五經也。授卿以精兵、委卿以大任、都護諸將於千里之外、欲使如楚任昭奚恤、揚威於北境、非徒相使逞私志而已。近聞卿與甘興霸飲、因酒發作、侵陵其人、其人求屬呂蒙督中。此人雖麤豪、有不如人意時、然其較略大丈夫也。吾親之者、非私之也。我親愛之、卿疎憎之;卿所為毎與吾違、其可久乎?夫居敬而行簡、可以臨民;愛人多容、可以得衆。二者尚不能知、安可董督在遠、禦寇濟難乎?卿行長大、特受重任、上有遠方瞻望之視、下有部曲朝夕從事、何可恣意有盛怒邪?人誰無過、貴其能改、宜追前愆、深自咎責。今故煩諸葛子瑜重宣吾意。臨書摧愴、心悲涙下。」皎得書、上疏陳謝、遂與寧結厚。
甘寧伝では触れられてもいない事件です。甘寧伝と孫皎伝で人物比較をすると、どうしたって甘寧が悪役です。これを甘寧伝で扱わなかったのは、もうお腹いっぱいだったのか、甘寧にとって茶飯みたいなものだと判断したのかは知りません。ですが両者の年齢差とか、孫静の諸子に対する不自然な持ち上げっぷりを考えると、わりと孫皎の方も我儘を通そうとしたんじゃないかって気がしてきます。何でこの三兄弟をこうも人格者に書き上げたのか…。孫峻・孫綝の負の面を際立たせる為とか?
後呂蒙當襲南郡、權欲令皎與蒙為左右部大督、蒙説權曰:「若至尊以征虜能、宜用之;以蒙能、宜用蒙。昔周瑜・程普為左右部督、共攻江陵、雖事決於瑜、普自恃久將、且倶是督、遂共不睦、幾敗國事、此目前之戒也。」權寤、謝蒙曰:「以卿為大督、命皎為後繼。」禽關羽、定荊州、皎有力焉。建安二十四年卒。權追録其功、封子胤為丹楊侯。胤卒、無子。弟晞嗣、領兵、有罪自殺、國除。弟咨・彌・儀皆將軍、封侯。咨羽林督、儀無難督。咨為滕胤所殺、儀為孫峻所害。
ここに至るまでの間に、魯粛と関羽が荊南を争った時、増援の呂蒙を輔けて零陵で関羽を拒いでいます。上記の甘寧との紛争や、下記の関羽攻滅の事といい、呂蒙と接点の多い御仁です。周瑜は孫瑜とツルみたそうにしていましたが、荊州方面の統督に対しては、孫静の家が絡まなければならない不文律があったとか?
奐字季明。兄皎既卒、代統其衆、以揚武中郎將領江夏太守。在事一年、遵皎舊迹、禮劉靖・李允・呉碩・張梁及江夏閭舉等、並納其善。奐訥於造次而敏於當官、軍民稱之。黄武五年、權攻石陽、奐以地主、使所部將軍鮮于丹帥五千人先斷淮道、自帥呉碩・張梁五千人為軍前鋒、降高城、得三將。大軍引還、權詔使在前往、駕過其軍、見奐軍陳整齊、權歎曰:「初吾憂其遲鈍、今治軍、諸將少能及者、吾無憂矣。」拜揚威將軍、封沙羨侯。呉碩・張梁皆裨將軍、賜爵關内侯。奐亦愛樂儒生、復命部曲子弟就業、後仕進朝廷者數十人。年四十、嘉禾三年卒。子承嗣、以昭武中郎將代統兵、領郡。赤烏六年卒、無子。
封承庶弟壹奉奐後、襲業為將。孫峻之誅諸葛恪也、壹與全熙・施績攻恪弟公安督融、融自殺。壹從鎮南遷鎮軍、假節督夏口。及孫綝誅滕胤・呂據、據・胤皆壹之妹夫也、壹弟封又知胤・據謀、自殺。綝遣朱異潛襲壹。異至武昌、壹知其攻己、率部曲千餘口過將胤妻奔魏。魏以壹為車騎將軍・儀同三司、封呉侯、以故主芳貴人邢氏妻之。邢美色妒忌、下不堪命、遂共殺壹及邢氏。壹入魏三年死。
※ 蜀漢同様に、四鎮将軍より鎮軍将軍の方が上位の模様です。これは魏制とは異なり、漢制を踏襲した為だと思われます。
孫綝が滕胤・呂拠を誅したが、呂拠・滕胤は皆な孫壹の妹の夫であり、孫壹の弟の孫封も又た滕胤・呂拠の謀議に関知していたとして自殺した。(太平二年/257、)孫綝は朱異を潜行させて孫壹を襲わせた。朱異が武昌に至ると、孫壹は己を攻めるものだと知り、部曲千余口を率いて通過しがてら滕胤の妻を率いて魏に奔った。魏は孫壹を車騎将軍・儀同三司として呉侯に封じ、故主の曹芳の貴人であった邢氏を妻(めあわ)せた。孫静自身は出仕らしい出仕はしませんでしたが、その子弟、特に孫皎以降は夏口督という重任をほぼ独占し、半ば独立勢力を形成していました。最終的に孫静家の内訌によって失われるのは切ないものがありますが、夏口が孫静家の小王国だと考えると、独立維持派の孫壹が、家門内での朝廷集権派との政争に敗れて逐われたという考え方も可能です。孫皓の時代にも疎族の孫秀が夏口督になっていますが、やはり中央に疑惑されて270年に晋に亡命する破目に陥ります。荊州に対する睨みを兼ねて宗室を置いたのに…。
周昕の曹操への協力は、徐栄に惨敗した曹操の募兵に協力したというもので、能動的に派兵したものではありません。又た弟の周昴は、董卓が洛陽を放棄した後に豫州刺史もしくは九江太守として孫堅と争っているので、周氏は淮南が侵される前から袁紹閥系の人物として袁術と対立していたものと思われます。
孫賁字伯陽。父羌字〔聖臺〕、堅同産兄也。賁早失二親、弟輔嬰孩、賁自贍育、友愛甚篤。為郡督郵守長。堅於長沙舉義兵、賁去吏從征伐。堅薨、賁攝帥餘衆、扶送靈柩。後袁術徙壽春、賁又依之。術從兄紹用會稽周昂為九江太守、紹與術不協、術遣賁攻破昂於陰陵。術表賁領豫州刺史、轉丹楊都尉、行征虜將軍、討平山越。為揚州刺史劉繇所迫逐、因將士衆還住歴陽。頃之、術復使賁與呉景共撃樊能・張英等、未能拔。及策東渡、助賁・景破英・能等、遂進撃劉繇。繇走豫章。策遣賁・景還壽春報術、値術僭號、署置百官、除賁九江太守。賁不就、棄妻孥還江南。
霊柩を送った後、どこにいたのか。郷里に帰ったと書かれていないので、叔父の孫静を頼った訳ではなさそうです。
袁術の従兄の袁紹が会稽の周昂を用いて九江太守とした。袁紹は袁術とは不協で、袁術は孫賁を遣って陰陵(九江郡治/滁州市定遠)の周昂を攻破させた。袁術は上表して孫賁を領豫州刺史とした。 (後に)丹楊都尉に転じて行征虜将軍となり、山越を討平したが、揚州刺史劉繇に迫逐され、そのため士衆を率いて歴陽に還住した。しばらくして袁術は復た孫賁と呉景に共に樊能・張英らを撃たせたが、未だ抜けずにいた。孫策が東渡するに及んで孫賁・呉景を助けて張英・樊能らを破り、進んで劉繇を撃った。劉繇は豫章に走った。ちょっと前後しますが、袁術は陳留で曹操に大敗した後、ほうほうの態で九江に逃れ、ここで体制を立て直して揚州刺史陳瑀を逐い、寿春という拠点を手にします。武帝紀と袁術伝の表現が正しければ、九江を陥した孫賁は袁術にとって命の恩人に近い存在となります。さらに揚州攻略を任されてもいるので、孫賁は袁術閥では重く評価されていたものと思われます。
孫策が孫賁・呉景を寿春に還して袁術に報告させた処、袁術の僭号と百官の署置に直面し、孫賁は九江太守に叙された。孫賁は就任せず、妻孥(妻子)を棄てて江南に還った[1]。同じ頃、呉景も広陵太守の官を棄てて孫策に合流しています。“僭称した袁術に対抗する孫策”という構図の為には、ぜひとも孫策の主導で同族を糾合してもらわなければなりません。孫賁の切羽詰まった行動は孫策と袁術が断交したという前提で成立しますが、あの絶交書を見た限りだと、そこまで険悪になっているとも思えません。まあ、朝廷に叛いた袁術に対し、孫賁が独断で三行半を叩きつけたのかもしれませんが。
時策已平呉・會二郡、賁與策征廬江太守劉勳・江夏太守黄祖、軍旋、聞繇病死、過定豫章、上賁領太守、後封都亭侯。建安十三年、使者劉隱奉詔拜賁為征虜將軍、領郡如故。在官十一年卒。子鄰嗣。
建安十三年という事で、恐らく黄祖討伐に関連した拝命かと思われます。三国魏の官職表を参考に孫賁の位階を論じる事はできませんが、少なくとも、将軍としても統治官としても孫権と同格の存在として公認された事になります。
鄰年九歳、代領豫章、進封都郷侯。在郡垂二十年、討平叛賊、功績脩理。召還武昌、為繞帳督。時太常潘濬掌荊州事、重安長陳留舒燮有罪下獄、濬嘗失燮、欲寘之於法。論者多為有言、濬猶不釋。鄰謂濬曰:「舒伯膺兄弟爭死、海内義之、以為美譚、仲膺又有奉國舊意。今君殺其子弟、若天下一統、青蓋北巡、中州士人必問仲膺繼嗣、答者云潘承明殺燮、於事何如?」濬意即解、燮用得濟。鄰遷夏口沔中督・威遠將軍、所居任職。赤烏十二年卒。子苗嗣。苗弟旅及叔父安・熙・績、皆歴列位。
果たして郷里の汝南太守に異姓を任命するのか? と思いましたが、袁術が律儀に、本籍地に叙任しないという漢法を守っているのなら有り得る措置です。『江表伝』としては、袁術に従った孫氏には“やんごとなき理由”が欲しい処でしょうが、自由意思という可能性も大いにあります。なんたって皇帝直属になれるんですから。孫氏が全員、袁術を見限って孫策に随わなきゃならない理由もありませんし。
孫輔字國儀、賁弟也、以揚武校尉佐孫策平三郡。策討丹楊七縣、使輔西屯歴陽以拒袁術、并招誘餘民、鳩合遺散。又從策討陵陽、生得祖郎等。策西襲廬江太守劉勳、輔隨從、身先士卒、有功。策立輔為廬陵太守、撫定屬城、分置長吏。遷平南將軍、假節領交州刺史。遣使與曹公相聞、事覺、權幽繋之。數歳卒。子興・昭・偉・昕、皆歴列位。
ここで『江表伝』は自己矛盾を生じています。孫策伝では祖郎を煽ったのは、孫策と組んで袁術を倒す筈の揚州刺史陳瑀だと云っています。どっちが正しいか、ではなく、独自に孫策に抵抗していた祖郎を、『江表伝』の著者がそれぞれの伝の状況に応じて孫策の敵と組ませたのでしょう。
面白い事に、『江表伝』の著者は祖郎と太史慈を同列に扱っています。この点については同意します。太史慈は劉繇や士燮とはカテゴリが違いすぎます。
袁術の死後、孫策が正式に曹操に帰順した時、孫賁の娘が曹彰の妻とされました。孫輔が曹操に通じようとしたのには赤壁以前の方針を是とした事の他に、この関係も影響したのでしょう。これを踏まえて陳寿の評を読むとしょっぱいものがあります。
孫翊字叔弼、權弟也、驍悍果烈、有兄策風。太守朱治舉孝廉、司空辟。建安八年、以偏將軍領丹楊太守、時年二十。後卒為左右邊鴻所殺、鴻亦即誅。
子松為射聲校尉・都郷侯。黄龍三年卒。蜀丞相諸葛亮與兄瑾書曰:「既受東朝厚遇、依依於子弟。又子喬良器、為之惻愴。見其所與亮器物、感用流涕。」其悼松如此、由亮養子喬咨述故云。
孫策みたいに気分次第で人を殺したから側近に殺された、それだけの人でした。夫人の徐氏の報復譚が人生のクライマックスになってしまったのは、何よりも悪人のレッテルを貼られた側にとって不幸な事でした。
孫匡字季佐、翊弟也。舉孝廉茂才、未試用、卒、時年二十餘。子泰、曹氏之甥也、為長水校尉。嘉禾三年、從權圍新城、中流矢死。
泰子秀為前將軍・夏口督。秀公室至親、握兵在外、晧意不能平。建衡二年、晧遣何定將五千人至夏口獵。先是、民閒僉言秀當見圖、而定遠獵、秀遂驚、夜將妻子親兵數百人奔晉。晉以秀為驃騎將軍・儀同三司、封會稽公。
孫韶字公禮。
伯父河、字伯海、本姓兪氏、亦呉人也。孫策愛之、賜姓為孫、列之屬籍。後為將軍、屯京城。
超あっさりなので補足すると、孫堅が死に、陶謙に圧迫された孫策が丹楊太守呉景を頼った時、孫河と呂範だけが付き随ったと孫策伝にあります。そりゃあ殊遇もしますわ。
初、孫權殺呉郡太守盛憲、憲故孝廉媯覽・戴員亡匿山中、孫翊為丹楊、皆禮致之。覽為大都督督兵、員為郡丞。及翊遇害、河馳赴宛陵、責怒覽・員、以不能全權、令使姦變得施。二人議曰:「伯海與將軍疎遠、而責我乃耳。討虜若來、吾屬無遺矣。」遂殺河、使人北迎揚州刺史劉馥、令住歴陽、以丹楊應之。會翊帳下徐元・孫高・傅嬰等殺覽・員。
この丹楊の変の顛末を詳述した『呉歴』によって、特に媯覧の印象は最悪ですが、盛憲に推挙されているので呉郡のそれなりの家門で、人格的にも下劣ではなかったものと思われます。『呉歴』では孫翊殺害の黒幕だとありますが、それも疑わしく、本当に孫翊に責められていたのかも定かではありません。
注目すべきは寧ろ孫策以来の孫氏と盛憲の関係だと考えます。媯覧らは孫翊の要請に応じた時点で孫氏に対する蟠りを解いていたのに、それと孫翊殺害を結びつけた孫河が台無しにしてしまったんじゃないかと。なにせ孫河は孫策の最も忠実な部下でした。孫策が目の敵にしていた盛憲の故生というだけで、媯覧・戴員に対する色眼鏡はMAXだったとしても不思議はありません。昔の恨みがあるから孫翊を殺したんだろう!言いつけてやる!とか云ったんじゃないですか?
韶年十七、收河餘余、繕治京城、起樓櫓、脩器備以禦敵。權聞亂、從椒丘還、過定丹楊、引軍歸呉。夜至京城下營、試攻驚之、兵皆乘城傳檄備警、讙聲動地、頗射外人、權使曉喩乃止。明日見韶、甚器之、即拜承烈校尉、統河部曲、食曲阿・丹徒二縣、自置長吏、一如河舊。後為廣陵太守・偏將軍。權為呉王、遷揚威將軍、封建德侯。權稱尊號、為鎮北將軍。韶為邊將數十年、善養士卒、得其死力。常以警疆埸遠斥候為務、先知動靜而為之備、故鮮有負敗。青・徐・汝・沛頗來歸附、淮南濱江屯候皆徹兵遠徙、徐・泗・江・淮之地、不居者各數百里。自權西征、還都武昌、韶不進見者十餘年。權還建業、乃得朝覲。權問青・徐諸屯要害、遠近人馬衆寡、魏將帥姓名、盡具識之、有問咸對。身長八尺、儀貌都雅。權歡悅曰:「吾久不見公禮、不圖進益乃爾。」加領幽州牧・假節。赤烏四年卒。子越嗣、至右將軍。
※ この一節が好例ですが、『三國志』では“十余年”とあった場合は“十年前後”となります。通常の感覚で“十数年”だと考えると思わぬ勘違いを生じてしまうので注意です。
孫権が青州・徐州の諸屯の要害、遠近の人馬の衆寡、魏の将帥の姓名を問うと、尽く具さに識っていて、問いに咸な対(こた)えた。(孫権が見れば孫韶の)身長は八尺、威儀・容貌は都(す)べて雅びやかだった。孫権は歓悦し 「私は久しく公礼を見なかったが、こうも進益していようとは思わなかった」 領幽州牧・仮節を加えた。赤烏四年(241)に卒した。子の孫越が嗣ぎ、右将軍に至った。越兄楷武衞大將軍・臨成侯、代越為京下督。楷弟異至領軍將軍、奕宗正卿、恢武陵太守。天璽元年、徴楷為宮下鎮驃騎將軍。初永安賊施但等劫晧弟謙、襲建業、或白楷二端不即赴討者、晧數遣詰楷。楷常惶怖、而卒被召、遂將妻子親兵數百人歸晉、晉以為車騎將軍、封丹楊侯。
孔融のこの書簡は、孔融好き好きの曹丕が編んだ『文選』にも収められているそうなので、文章としての格調は高いんでしょうが、孔融の悪い点が滲み出ている一文でもあります。切々と訴えかければいいものを、曹操を脅したりご先祖の孔子の威光を持ち出したりと、これを素でやれるんだから大したものです。
※1 『論語』季友篇より。自身の益になる三種(実直・誠実・多聞)の友人と、自身を損う三種(不見識・不誠実・追従)の友人を論じたもの。
※2 桓帝の時代の人。梁冀の故挙ながらも厳厲で知られ、冀州刺史となった際には40人以上が棄官し、又た趙忠が踰制の葬儀を行なうと棺を発き、そのため讒言されて左校に輸されたが、太学生の抗議で赦された。後に宦官を重用する桓帝を諫めて聴かれずに憤死した。時勢の浮薄を歎いて匡正の為に著したのが『絶交論』で、これとは別に、嘗ての交誼を棄てて自身を一下吏として扱う劉伯宗に与えた『絶交書』もある。
孫桓字叔武、河之子也。年二十五、拜安東中郎將、與陸遜共拒劉備。備軍衆甚盛、彌山盈谷、桓投刀奮命、與遜戮力、備遂敗走。桓斬上〔夔〕道、截其徑要。備踰山越險、僅乃得免、忿恚歎曰:「吾昔初至京城、桓尚小兒、而今迫孤乃至此也!」桓以功拜建武將軍、封丹徒侯、下督牛渚、作橫江塢、會卒。
評曰:夫親親恩義、古今之常。宗子維城、詩人所稱。況此諸孫、或贊興初基、或鎮據邊陲、克堪厥任、不忝其榮者乎!故詳著云。
ざっと見た感じ、夏口と京口が孫氏にとって軍事の生命線だったようです。夏口の方は主に孫静家が嗣いで257年に頓挫し、その後は孫秀による再鎮が試みられました。京口の方は孫河家がほぼ世襲しましたが、どちらも呉末に孫皓との対立から破綻しています。歩闡の事もありますが、重要な督の世襲が断絶したのが何れも孫皓の時代で、孫皓は末帝でなければ 「中央集権化に一定の成果を挙げた君主」 とか評価されたんだろうなぁ、と思う次第です。