三國志修正計画

三國志卷五十一 呉志六/宗室傳

孫静

 孫靜字幼臺、堅季弟也。堅始舉事、靜糾合郷曲及宗室五六百人以為保障、衆咸附焉。策破劉繇、定諸縣、進攻會稽、遣人請靜、靜將家屬與策會于錢唐。是時太守王朗拒策於固陵、策數度水戰、不能克。靜説策曰:「朗負阻城守、難可卒拔。查瀆南去此數十里、而道之要徑也、宜從彼據其内、所謂攻其無備・出其不意者也。吾當自帥衆為軍前隊、破之必矣。」策曰:「善。」乃詐令軍中曰:「頃連雨水濁、兵飲之多腹痛、令促具甖缶數百口澄水。」至昏暮、羅以然火誑朗、便分軍夜投查瀆道、襲高遷屯。朗大驚、遣故丹楊太守周昕等帥兵前戰。策破昕等、斬之、遂定會稽。表拜靜為奮武校尉、欲授之重任、靜戀墳墓宗族、不樂出仕、求留鎮守。策從之。權統事、就遷昭義中郎將、終於家。有五子、暠・瑜・皎・奐・謙。暠三子:綽・超・恭。超為偏將軍。恭生峻。綽生綝。

 孫静、字は幼台。孫堅の季弟(末弟)である。孫堅が始めて事を挙げると、孫静は郷曲(郷里)および宗室五・六百人を糾合して障塞を保(まも)り、衆人が咸な帰附した。

 これは曹仁の家と同じパターンですね。放蕩兄が郷里を飛び出したんで、苦労性の弟が実家をまとめ上げるの図です。孫堅が董卓討伐に加わったもんだから自衛まで講じなければならなくなった。両者が役割分担として了承した訳ではないのは、孫堅が死んだ時に孫策・孫賁が実家を頼らなかった事に示されています。

孫策が劉繇を破り(呉景・孫賁を還してから)、諸県を定めて会稽に進攻すると人を遣って孫静に(援軍を)請い、孫静は家属を率いて銭唐で孫策と会同した。この時、太守王朗は固陵で孫策を拒ぎ、孫策はしばしば河水を渡って戦い、勝つ事が出来なかった。孫静が孫策に説くには 「王朗は険阻を負って城を守り、即座に抜く事は難しい。查瀆はここを南に去ること数十里で、しかも道の要径(要衝)であり、彼の地よりその内部に拠るのが妥当である。所謂るその備えざるを攻め、その意(おも)わざるに出るというものだ。私が自ら手勢を率いて軍の前隊となり、きっと破ってみせよう」 孫策 「善策です」 かくして詐って軍中に布令するには 「近頃の連日の雨で河水は濁り、兵が飲んで腹痛となる者が多い。督促して甖缶数百口を具えて水を澄ませ」 昏暮に至り、燃火を羅(なら)べて王朗を誑かし、ただちに軍を分けて夜間に查瀆への道に投じ、高遷の軍屯を襲った[1]。王朗は大いに驚き、旧の丹楊太守周昕らに兵を帥いて進んで戦わせたが、孫策は周昕らを破って斬り、かくて会稽を平らげた[2]。上表して孫静を拝して奮武校尉とし、重任を授けようとしたが、孫静は墳墓・宗族を恋うて出仕を楽しまず、留まって鎮守する事を求めた。孫策はこれに従った。

 確かに郷里の治安も気になってはいたんでしょうが、それよりも色々と危なっかしい甥っ子の風下に置かれるのが嫌だったんでしょう。この時点で孫策は袁術の部将に過ぎず、しかも兵力の工面にも四苦八苦している体たらくです。転覆の危険が無いのかどうかを見極めるまで、孫静としては乗る気は無かった筈です。

孫権が事を統べると(官に)就いて昭義中郎将に遷り、(無官のまま)家で終った。五子があり、孫暠・孫瑜孫皎孫奐・孫謙といった。孫暠の三子は孫綽・孫超・孫恭といい、孫超は偏将軍となった。孫恭は孫峻を生み、孫綽は孫綝を生んだ。

 孫策が歿した時、定武中郎将孫暠は烏程から兵を率いて会稽を支配しようとした。虞翻の説得で帰還した。 (虞翻伝より)

 
孫瑜

 瑜字仲異、以恭義校尉始領兵衆。是時賓客諸將多江西人、瑜虚心綏撫、得其歡心。建安九年、領丹楊太守、為衆所附、至萬餘人。加綏遠將軍。十一年、與周瑜共討麻・保二屯、破之。後從權拒曹公於濡須、權欲交戰、瑜説權持重、權不從、軍果無功。遷奮威將軍、領郡如故、自溧陽徙屯牛渚。瑜以永安人饒助為襄安長、無錫人顏連為居巣長、使招納廬江二郡、各得降附。濟陰人馬普篤學好古、瑜厚禮之、使二府將吏子弟數百人就受業、遂立學官、臨饗講肄。是時諸將皆以軍務為事、而瑜好樂墳典、雖在戎旅、誦聲不絶。年三十九、建安二十年卒。瑜五子:彌・熙・燿・曼・紘。曼至將軍、封侯。

 孫瑜、字は仲異。恭義校尉として始めて兵衆を所領した。この時、賓客・諸将の多くが江西人(淮南・廬江人)で、孫瑜は虚心に綏撫してその歓心を得た。建安九年(204)に領丹楊太守となると帰附する者が衆(おお)く、万余人に至った。綏遠将軍を加えられた。十一年、周瑜と共に麻・保の二屯を討ってこれを破った。後に孫権に従って濡須で曹操を拒いだ。孫権は交戦を欲し、孫瑜は孫権に自重を説いたが、孫権は従わず、軍は果たして功が無かった。奮威将軍に遷り、領郡は元の通りで、溧陽(常州市溧陽)より徙って牛渚に駐屯した。
孫瑜は永安人の饒助を襄安県長とし、無錫人の顔連を居巣県長とし、廬・江の二郡を招納させて各々降附を得た。済陰人の馬普は篤学で古事を好んでいたが、孫瑜は厚く礼遇し、(郡と将軍の)二府の将吏の子弟数百人に学業を就受させ、かくて学官を立て、講肄(講学)に臨饗した。当時、諸将は皆な軍務を事としていたが、孫瑜は墳典(古籍)の事を好楽し、戎旅に在っても(経学の)誦声が絶えなかった。齢三十九で建安二十年(215)に卒した。孫瑜の五子には孫彌・孫熙・孫燿・孫曼・孫紘があった。孫曼は将軍に至り、封侯された。

 孫瑜に対する評価は、周瑜伝からも伺う事ができます。周瑜の構想では孫瑜を奉じて益州を征服し、揚州の孫権、荊州の周瑜、そして益州の孫瑜が北伐して中原を定める予定だったそうです。少なくとも周瑜は、孫権に匹敵する権力を与えるに相応しい人物だと見ていたようです。但しこの構想が実現した場合、周瑜の動向次第で孫静家に主権が遷っていた可能性もあります。
 因みに孫瑜の北来名士厚遇は、弟の孫皎にも継承されました。

 
孫皎

 孫皎字叔朗、始拜護軍校尉、領衆二千餘人。是時曹公數出濡須、皎毎赴拒、號為精鋭。遷都護征虜將軍、代程普督夏口。黄蓋及兄瑜卒、又并其軍。賜沙羨・雲杜・南新市・竟陵為奉邑、自置長吏。輕財能施、善於交結、與諸葛瑾至厚、委廬江劉靖以得失、江夏李允以衆事、廣陵呉碩・河南張梁以軍旅、而傾心親待、莫不自盡。皎嘗遣兵候獲魏邊將吏美女以進皎、皎更其衣服送還之、下令曰:「今所誅者曹氏、其百姓何罪?自今以往、不得撃其老弱。」由是江淮間多歸附者。

 孫皎、字は叔朗。始め護軍校尉を拝し、手勢二千余人を所領した。この時、曹操はしばしば濡須に出征し、孫皎は毎々に赴いて拒ぎ、号して精鋭とされた。都護・征虜将軍に遷り、程普に代って夏口を督し、黄蓋および兄の孫瑜が卒すると、又たその軍を併せた。沙羨・雲杜・南新市・竟陵を賜って奉邑とされ、自ら長吏を置いた。

 程普・黄蓋とも死亡時期は不明ですが、孫瑜は建安二十年だと明記があります。前後の事情を考えると、213~15年に夏口督に就いたものと思われます。食邑も程普のものを引き継いだのでしょう、呉の慣例として。以後、夏口督は孫壹の亡命事件まで孫静の家門が独占、もしくは世襲します。

財を軽んじて能く施し、交結に善く、諸葛瑾とは至厚であり、廬江の劉靖に得失を、江夏の李允に衆事を、広陵の呉碩・河南の張梁に軍旅の事を委ね、(何れも)心を傾けて親しく待し、自ら尽さない者は莫かった。孫皎が嘗て兵に斥候をさせ、(候兵が)魏辺の将吏の美女を獲て孫皎に進呈した事があったが、孫皎はその衣服を更めてこれを送還し、下令して 「今、誅しようというのは曹氏であり、百姓に何の罪があろう? 今より以降、老弱を撃ってはならない」 これにより江淮の間からの帰附者が多くなった。

嘗以小故與甘寧忿爭、或以諫寧、寧曰:「臣子一例、征虜雖公子、何可專行侮人邪!吾値明主、但當輸效力命、以報所天、誠不能隨俗屈曲矣。」權聞之、以書讓皎曰:「自吾與北方為敵、中閒十年、初時相持年小、今者且三十矣。孔子言『三十而立』、非但謂五經也。授卿以精兵、委卿以大任、都護諸將於千里之外、欲使如楚任昭奚恤、揚威於北境、非徒相使逞私志而已。近聞卿與甘興霸飲、因酒發作、侵陵其人、其人求屬呂蒙督中。此人雖麤豪、有不如人意時、然其較略大丈夫也。吾親之者、非私之也。我親愛之、卿疎憎之;卿所為毎與吾違、其可久乎?夫居敬而行簡、可以臨民;愛人多容、可以得衆。二者尚不能知、安可董督在遠、禦寇濟難乎?卿行長大、特受重任、上有遠方瞻望之視、下有部曲朝夕從事、何可恣意有盛怒邪?人誰無過、貴其能改、宜追前愆、深自咎責。今故煩諸葛子瑜重宣吾意。臨書摧愴、心悲涙下。」皎得書、上疏陳謝、遂與寧結厚。

嘗て小事から甘寧と忿争した事があり、或る者が甘寧を諫めた処、甘寧は 「臣と公子とは一列であり、征虜将軍は公子とはいえ、どうして専らに人を侮る事が出来ようか! 吾れは明主と遭遇し、ただまさに一命を輸して效力とし、天に報じようというのだ。世俗に随って屈曲する事などできぬ」
孫権はこれを聞き、書簡にて孫皎を責譲した
「私が北方を敵としてより十年を閲した。当初は年少だとして互いに助けたが、今は三十歳になるのだ。孔子が言う『三十而立』とは、ただ五経の事を謂うのではないのだ。卿に精兵を授け、卿に大任を委ね、千里の外に諸将を都護させているのも、楚が昭奚恤に任せて北境に威を揚げた様にして欲しいからで、徒らに私志を逞しうさせる為ではない。近頃聞けば、卿は甘興霸と飲んで酒に因んで発作し、その人を侵凌し、その人は呂蒙の督中に属す事を求めているという。この人は麤豪で人の意の通りにならぬ時があるとはいえ、較略(大局的に)は大丈夫である。私が親しむのは私心からではない。私が親愛し、卿が疎憎している。卿の考えは毎々に私に違えるが、久しくそうしていられるか? 敬虔に居して行ないを簡素にすれば民に臨めよう。人を愛し多くを容れれば衆心を得られよう。二者の事を尚お能く知らずにどうして遠くに在って董督(統督)し、寇を禦し難を救済できようか? 卿は行く行くは長大となり、特に重任を受け、上には遠方からの瞻望の視線があり、下には部曲が朝夕に従事する事になろう。どうして恣意から盛怒していられようか? 人として誰が過たずにおられよう。貴ぶは能く改めることであり、前愆を追って深く自ら咎責するのが妥当である。今、それゆえ諸葛子瑜を煩わせて重ねて吾が意を宣ぶるのだ。書に臨んで摧愴し、心は悲しみ涙下している」
孫皎は書簡を得ると上疏して陳謝し、かくて甘寧と厚誼を結んだ。

 甘寧伝では触れられてもいない事件です。甘寧伝と孫皎伝で人物比較をすると、どうしたって甘寧が悪役です。これを甘寧伝で扱わなかったのは、もうお腹いっぱいだったのか、甘寧にとって茶飯みたいなものだと判断したのかは知りません。ですが両者の年齢差とか、孫静の諸子に対する不自然な持ち上げっぷりを考えると、わりと孫皎の方も我儘を通そうとしたんじゃないかって気がしてきます。何でこの三兄弟をこうも人格者に書き上げたのか…。孫峻・孫綝の負の面を際立たせる為とか?

後呂蒙當襲南郡、權欲令皎與蒙為左右部大督、蒙説權曰:「若至尊以征虜能、宜用之;以蒙能、宜用蒙。昔周瑜・程普為左右部督、共攻江陵、雖事決於瑜、普自恃久將、且倶是督、遂共不睦、幾敗國事、此目前之戒也。」權寤、謝蒙曰:「以卿為大督、命皎為後繼。」禽關羽、定荊州、皎有力焉。建安二十四年卒。權追録其功、封子胤為丹楊侯。胤卒、無子。弟晞嗣、領兵、有罪自殺、國除。弟咨・彌・儀皆將軍、封侯。咨羽林督、儀無難督。咨為滕胤所殺、儀為孫峻所害。

 ここに至るまでの間に、魯粛と関羽が荊南を争った時、増援の呂蒙を輔けて零陵で関羽を拒いでいます。上記の甘寧との紛争や、下記の関羽攻滅の事といい、呂蒙と接点の多い御仁です。周瑜は孫瑜とツルみたそうにしていましたが、荊州方面の統督に対しては、孫静の家が絡まなければならない不文律があったとか?

後に呂蒙が南郡を襲おうという時、孫権は孫皎を呂蒙と左右部の大督にしようとしたが、呂蒙が孫権に説くには 「もし至尊が征虜将軍を能とするなら、これを用いるのが宜しい。呂蒙を能とするなら、蒙を用いるのが宜しい。昔、周瑜・程普を左右部の督とし、共に江陵を攻めました。事は周瑜が決したとはいえ、程普は自身が久しく将である事を恃み、しかも倶に督だというので遂に互いに睦まず、国事を敗りかけた事がありました。これは目前の戒めであります」 孫権は寤(さと)り、呂蒙に謝して 「卿を大督としよう。孫皎には後継を命じる」 関羽を禽えて荊州を平定するのに、孫皎の力があった。建安二十四年(219)に卒した。
 孫権は追ってその功を録し、子の孫胤を封じて丹楊侯とした(夏口の守備は孫皎の弟の孫奐が嗣いだ)。孫胤が卒し、子が無かった為に弟の孫晞が嗣ぎ、兵を領したが、罪があって自殺して国は除かれた。弟の孫咨・孫彌・孫儀は皆な将軍となり、封侯された。孫咨は羽林督、孫儀は無難督となった。孫咨は滕胤に殺され、孫儀は孫峻に害された。
 
孫奐

 奐字季明。兄皎既卒、代統其衆、以揚武中郎將領江夏太守。在事一年、遵皎舊迹、禮劉靖・李允・呉碩・張梁及江夏閭舉等、並納其善。奐訥於造次而敏於當官、軍民稱之。黄武五年、權攻石陽、奐以地主、使所部將軍鮮于丹帥五千人先斷淮道、自帥呉碩・張梁五千人為軍前鋒、降高城、得三將。大軍引還、權詔使在前往、駕過其軍、見奐軍陳整齊、權歎曰:「初吾憂其遲鈍、今治軍、諸將少能及者、吾無憂矣。」拜揚威將軍、封沙羨侯。呉碩・張梁皆裨將軍、賜爵關内侯。奐亦愛樂儒生、復命部曲子弟就業、後仕進朝廷者數十人。年四十、嘉禾三年卒。子承嗣、以昭武中郎將代統兵、領郡。赤烏六年卒、無子。

 孫奐、字は季明。兄の孫皎が卒すると、代ってその手勢を統べ、揚武中郎将として江夏太守を兼領した。事に在ること一年、孫皎の旧迹に遵い、劉靖・李允・呉碩・張梁および江夏の閭挙らを礼遇し、揃ってその善言を納れた。孫奐は造次(短時間の応酬)には訥弁だったが、官事に当っては敏速で、軍民ともこれを称えた。
黄武五年(226)に孫権が(江夏郡の)石陽を攻めた時、孫奐は土地の太守である事から、部下の将軍の鮮于丹に五千人を帥いて先行して淮道を断たせ、自ら呉碩・張梁ら五千人を帥いて軍の前鋒となり、高城を降して三将を得た。大軍が引き揚げて還る時、孫権は詔にて整列して出迎えさせ、駕がその軍を通過した時、孫奐の軍陣が整斉しているのを見た。孫権は歎じ 「かつて私はその遅鈍さを憂えたが、今、治軍の様は諸将の中でも能く及ぶ者は少ない。私の憂いは無くなった」 揚威将軍に拝して沙羨侯に封じ、呉碩・張梁を皆な裨将軍とし、爵関内侯を賜った[3]
 孫奐も亦た儒生を愛楽し、復た部曲の子弟に学業に就く事を命じ、後に朝廷に仕進した者が数十人あった。齢四十にて嘉禾三年(234)に卒した。 子の孫承が嗣ぎ、昭武中郎将として代って兵を統べ、郡事を領した。赤烏六年(243)に卒し、子が無かった。

孫壹

封承庶弟壹奉奐後、襲業為將。孫峻之誅諸葛恪也、壹與全熙・施績攻恪弟公安督融、融自殺。壹從鎮南遷鎮軍、假節督夏口。及孫綝誅滕胤・呂據、據・胤皆壹之妹夫也、壹弟封又知胤・據謀、自殺。綝遣朱異潛襲壹。異至武昌、壹知其攻己、率部曲千餘口過將胤妻奔魏。魏以壹為車騎將軍・儀同三司、封呉侯、以故主芳貴人邢氏妻之。邢美色妒忌、下不堪命、遂共殺壹及邢氏。壹入魏三年死。

 (孫承の死後、)孫承の庶弟の孫壹が封じられて孫奐の後を奉じ、業を襲いで将となった。孫峻が諸葛恪を誅した時、孫壹と全熙・施績とは諸葛恪の弟の公安督諸葛融を攻め、諸葛融は自殺した。孫壹は鎮南将軍より鎮軍将軍に遷り、節を仮されて夏口を督した。

※ 蜀漢同様に、四鎮将軍より鎮軍将軍の方が上位の模様です。これは魏制とは異なり、漢制を踏襲した為だと思われます。

孫綝が滕胤呂拠を誅したが、呂拠・滕胤は皆な孫壹の妹の夫であり、孫壹の弟の孫封も又た滕胤・呂拠の謀議に関知していたとして自殺した。(太平二年/257、)孫綝は朱異を潜行させて孫壹を襲わせた。朱異が武昌に至ると、孫壹は己を攻めるものだと知り、部曲千余口を率いて通過しがてら滕胤の妻を率いて魏に奔った。魏は孫壹を車騎将軍・儀同三司として呉侯に封じ、故主の曹芳の貴人であった邢氏を妻(めあわ)せた。
邢氏は容色は美しかったが妒忌で、下々は命令に堪えられず、遂に共に孫壹および邢氏を殺した。孫壹は魏に入って三年で(魏の甘露四年/259に)死んだ。

 孫静自身は出仕らしい出仕はしませんでしたが、その子弟、特に孫皎以降は夏口督という重任をほぼ独占し、半ば独立勢力を形成していました。最終的に孫静家の内訌によって失われるのは切ないものがありますが、夏口が孫静家の小王国だと考えると、独立維持派の孫壹が、家門内での朝廷集権派との政争に敗れて逐われたという考え方も可能です。孫皓の時代にも疎族の孫秀が夏口督になっていますが、やはり中央に疑惑されて270年に晋に亡命する破目に陥ります。荊州に対する睨みを兼ねて宗室を置いたのに…。

[1] 裴松之が調べた処、今の永興県(杭州市蕭山区)には高遷橋がある。
[2] 周昕、字は大明。若くして京師に游学し、太傅陳蕃に師事して群書を搏く閲覧し、風角に明るく、善く災異を推察した。太尉府に辟されて高第に挙げられ、丹楊太守に漸遷した。曹操が義兵を起すと、周昕は前後して兵万余人を遣って曹操の征伐を助けた。袁術が淮南に在るようになると周昕はその淫虐を嫌悪し、絶交して通行しなかった。 (『会稽典録』)
―― 袁術は呉景を遣って周昕を攻めさせたが、抜けなかった。呉景はかくして百姓を募集し、周昕に従う者は死罪を赦さないとした。周昕 「私は不徳であるが、百姓に何の罪があろう?」 かくて兵を散じて本郡(の会稽)に還った。 (『献帝春秋』)

 周昕の曹操への協力は、徐栄に惨敗した曹操の募兵に協力したというもので、能動的に派兵したものではありません。又た弟の周昴は、董卓が洛陽を放棄した後に豫州刺史もしくは九江太守として孫堅と争っているので、周氏は淮南が侵される前から袁紹閥系の人物として袁術と対立していたものと思われます。

[3] 嘗て孫権は武昌に在り、建業に還都したく思ったが、(夏口へは)水道を遡流すること二千里であり、一旦警報があっても赴及できない事を慮って懐疑していた。夏口に至ると塢中にて大いに百官を会して討議させ、詔した 「諸々の将吏は官位や職掌に拘ってはならぬ。計りごとがあれば国の為に発言せよ」 諸将の或る者が陳べるには柵を立てて夏口を防禦するのが妥当であるとし、或る者が言うには(水中の)鉄鎖を重ねて設けるのが妥当だとしたが、孫権は全てを良計ではないとした。時に張梁は小将であり、未だに名を知られていなかったが、席次を越えて進言するには 「臣は香餌が泉魚を惹きつけ、重幣は勇士を購うと聞きます。今は明らかに賞罰の信を樹て、将を遣って沔水に入らせ、敵と利を争っております。形勢が既に成功すれば、彼とて干渉はしますまい。武昌には精兵万人を備えさせ、智略の者を将に任じ、常に厳整にさせ、一旦警報があれば声に応じて赴かせるのです。甘水に城を作り、軽艦数千と諸々の宜しき用具を全て備具させるのです。かようにすれば開門して敵を招いたとて、敵の方からは来ますまい」 孫権は張梁の計を最も我が意を得たものとし、即座に張梁の位を超えて増した。後に功によって進位して沔中督(仙桃市)に至った。 (『江表伝』)
 

孫賁

 孫賁字伯陽。父羌字〔聖臺〕、堅同産兄也。賁早失二親、弟輔嬰孩、賁自贍育、友愛甚篤。為郡督郵守長。堅於長沙舉義兵、賁去吏從征伐。堅薨、賁攝帥餘衆、扶送靈柩。後袁術徙壽春、賁又依之。術從兄紹用會稽周昂為九江太守、紹與術不協、術遣賁攻破昂於陰陵。術表賁領豫州刺史、轉丹楊都尉、行征虜將軍、討平山越。為揚州刺史劉繇所迫逐、因將士衆還住歴陽。頃之、術復使賁與呉景共撃樊能・張英等、未能拔。及策東渡、助賁・景破英・能等、遂進撃劉繇。繇走豫章。策遣賁・景還壽春報術、値術僭號、署置百官、除賁九江太守。賁不就、棄妻孥還江南。

 孫賁、字は伯陽。父の孫羌は字を聖臺といい、孫堅の同母兄である。孫賁は早くに二親を失くし、弟の孫輔が嬰孩(嬰児)だった事から孫賁は自ら贍育し、友愛すること甚だ篤かった。郡の督郵として県長を守した。孫堅が長沙で義兵を挙げると孫賁は吏職を去って征伐に従った。孫堅が薨じると孫賁は余衆を摂帥し、霊柩を送る事を扶けた。後に袁術が寿春に徙ると、孫賁は又たこれに依った。

 霊柩を送った後、どこにいたのか。郷里に帰ったと書かれていないので、叔父の孫静を頼った訳ではなさそうです。

袁術の従兄の袁紹が会稽の周昂を用いて九江太守とした。袁紹は袁術とは不協で、袁術は孫賁を遣って陰陵(九江郡治/滁州市定遠)の周昂を攻破させた。袁術は上表して孫賁を領豫州刺史とした。 (後に)丹楊都尉に転じて行征虜将軍となり、山越を討平したが、揚州刺史劉繇に迫逐され、そのため士衆を率いて歴陽に還住した。しばらくして袁術は復た孫賁と呉景に共に樊能・張英らを撃たせたが、未だ抜けずにいた。孫策が東渡するに及んで孫賁・呉景を助けて張英・樊能らを破り、進んで劉繇を撃った。劉繇は豫章に走った。

 ちょっと前後しますが、袁術は陳留で曹操に大敗した後、ほうほうの態で九江に逃れ、ここで体制を立て直して揚州刺史陳瑀を逐い、寿春という拠点を手にします。武帝紀と袁術伝の表現が正しければ、九江を陥した孫賁は袁術にとって命の恩人に近い存在となります。さらに揚州攻略を任されてもいるので、孫賁は袁術閥では重く評価されていたものと思われます。

孫策が孫賁・呉景を寿春に還して袁術に報告させた処、袁術の僭号と百官の署置に直面し、孫賁は九江太守に叙された。孫賁は就任せず、妻孥(妻子)を棄てて江南に還った[1]

 同じ頃、呉景も広陵太守の官を棄てて孫策に合流しています。“僭称した袁術に対抗する孫策”という構図の為には、ぜひとも孫策の主導で同族を糾合してもらわなければなりません。孫賁の切羽詰まった行動は孫策と袁術が断交したという前提で成立しますが、あの絶交書を見た限りだと、そこまで険悪になっているとも思えません。まあ、朝廷に叛いた袁術に対し、孫賁が独断で三行半を叩きつけたのかもしれませんが。

時策已平呉・會二郡、賁與策征廬江太守劉勳・江夏太守黄祖、軍旋、聞繇病死、過定豫章、上賁領太守、後封都亭侯。建安十三年、使者劉隱奉詔拜賁為征虜將軍、領郡如故。在官十一年卒。子鄰嗣。

孫策が呉・会稽の二郡を平定した後の事、孫賁は(199年に)孫策と廬江太守劉勲・江夏太守黄祖を征伐し、軍が凱旋した処で劉繇の病死を聞き、通過しなに豫章を平定し、上書にて孫賁は豫章太守を領し[2]、後に都亭侯に封じられた。建安十三年(208)、使者劉隠が詔を奉じて孫賁を征虜将軍に拝し、領郡は以前の通りだった。在官十一年で卒し、子の孫鄰が嗣いだ。

 建安十三年という事で、恐らく黄祖討伐に関連した拝命かと思われます。三国魏の官職表を参考に孫賁の位階を論じる事はできませんが、少なくとも、将軍としても統治官としても孫権と同格の存在として公認された事になります。

孫鄰

 鄰年九歳、代領豫章、進封都郷侯。在郡垂二十年、討平叛賊、功績脩理。召還武昌、為繞帳督。時太常潘濬掌荊州事、重安長陳留舒燮有罪下獄、濬嘗失燮、欲寘之於法。論者多為有言、濬猶不釋。鄰謂濬曰:「舒伯膺兄弟爭死、海内義之、以為美譚、仲膺又有奉國舊意。今君殺其子弟、若天下一統、青蓋北巡、中州士人必問仲膺繼嗣、答者云潘承明殺燮、於事何如?」濬意即解、燮用得濟。鄰遷夏口沔中督・威遠將軍、所居任職。赤烏十二年卒。子苗嗣。苗弟旅及叔父安・熙・績、皆歴列位。

 孫鄰は齢九歳で(父の孫賁に)代って豫章の事を領し、都郷侯に進封された[3]。郡に在ること二十年に垂(なんな)んとし、叛賊を討平して理治の功績を修めた。(武昌遷都を機に)武昌に召還されて繞帳督(親衛軍団長)とされた。
時に太常潘濬は荊州の事を掌っていた。重安県長の陳留の舒燮が有罪となって下獄したが、潘濬は嘗て舒燮に失(そむ)かれた事があり、法によって寘(さば)こうとした。論者の多くが(弁明の)言辞を為したが、潘濬は猶おも釈放しなかった。孫鄰が潘濬に謂うには 「舒伯膺(舒邵の兄)の兄弟が死を争った事で海内はこれを義とし、美譚(美談)としました。舒邵も又た国に奉ぜんとの旧来から意があります。今、君がその子弟を殺し、もし天下統一の後に青蓋が北巡すれば、中州(中国)の士人は必らず仲膺(舒邵)の継嗣を問いましょう。答える者は潘承明が舒燮を殺したと云いましょうが、どう致します?」 潘濬の意は即座に解け、舒燮は救済された[4]
孫鄰は夏口沔中督・威遠将軍に遷り、居る所で職に任じた。赤烏十二年(249)に卒し、子の孫苗が嗣いだ。孫苗の弟の孫旅および叔父の孫安・孫熙・孫績は皆な列位を歴任した[5]
[1] 袁術は呉景を守広陵太守とし、孫策の族兄の孫香も亦た袁術に用いられて汝南太守とされ、孫賁を将軍として兵を所領させて寿春に居らせた。孫策が呉景らに与えた書には 「今、江東を征し、未だ諸君の意がどういうものか分らないのだが?」 呉景は即座に守職を棄てて帰り、孫賁は困じたものの後に免れ、孫香は遠方に在る為に独り還る事が出来なかった。 (『江表伝』)
―― 孫香、字は文陽。父の孫孺は字を仲孺といい、孫堅の再従弟である。郡に出仕して主簿・功曹となった。孫香は孫堅の征伐に従って功があり、郎中に拝された。後に袁術の為に駆馳して征南将軍を加えられ、寿春で死んだ。 (『呉書』)

 果たして郷里の汝南太守に異姓を任命するのか? と思いましたが、袁術が律儀に、本籍地に叙任しないという漢法を守っているのなら有り得る措置です。『江表伝』としては、袁術に従った孫氏には“やんごとなき理由”が欲しい処でしょうが、自由意思という可能性も大いにあります。なんたって皇帝直属になれるんですから。孫氏が全員、袁術を見限って孫策に随わなきゃならない理由もありませんし。

[2] 時に丹楊の僮芝は自ら廬陵太守に就いた。孫策は孫賁の弟の孫輔に領兵させて南昌に留め、孫策が孫賁に謂うには 「貴兄は今豫章に拠り、これは僮芝の咽喉を扼してその門戸を看守するものです。その形勢の便宜を伺い、(情勢に)因って孫輔に命じて杖兵を進めさせ、周瑜には援軍の態を執らせれば、一挙で平定出来ましょう」 後に孫賁は僮芝が病んだと聞くと、即座に孫策の計略の通りにした。周瑜は巴丘(吉安市峡江)に到り、孫輔はかくて進んで廬陵(吉安市吉安)に拠る事が出来た。 (『江表伝』)
[3] 孫鄰、字は公達。雅性は精緻慧敏で、幼くして令名・声誉があった。 (『呉書』)
[4] 舒仲膺の名は邵といった。嘗て(兄の)伯膺の親友が人に殺されると、仲膺は怨みを報じた。事が発覚すると兄弟で死刑を争い、皆な赦免された。袁術の時、舒邵は阜陵県長となった。亦た『江表伝』にも見える。 (『博物志』)
[5] 孫鄰には又た子があり、孫述は武昌督となって荊州の事を平理した。孫震は無難督、孫諧は城門校尉、孫歆は楽郷督となった。孫震は後に晋軍を防禦し、張悌と倶に死んだ。孫賁の曾孫の孫恵は、字を徳施といった。 (『呉歴』)
―― 孫恵は好学で才智があり、晋の永寧元年(301)に斉王司馬冏の義挙に赴き、功によって晋興侯に封じられ、大司馬に辟されて賊曹掾に属した。司馬冏は驕矜僭侈となり、天下は失望した。孫恵は司馬冏に献言して五難と四不可を以て諷諫し、万機の委譲と青岱への帰潘を勧め、言辞は甚だ深切だった。司馬冏は納言できず、やがて果して敗れた。成都王司馬穎が召して大将軍参軍とした。この時、司馬穎は長沙王に対して事を構えようとしており、陸機を前鋒都督とした。孫恵は陸機とは郷里で親厚があり、禍を致す事を憂えて謂うには 「子はどうして王粋に都督を譲らないのか?」 陸機 「私が賊を避けて首鼠を持していると謂われてしまい、却って害を速やかにしてしまう」 陸機は尋いで戮され、二弟の陸雲・陸耽も亦た殺された。孫恵は甚だ傷恨(痛恨)した。
永興元年(304)、乗輿が鄴に臨幸し、司空の東海王司馬越が下邳にて治兵した。孫恵は書簡を司馬越に送ったが、その姓名を偽って自ら南岳の逸民の秦秘之だと称し、勤王匡世の方略に勉めるよう勧め、言辞と義は甚だ美しかった。司馬越はその書を省みて道衢(街路)に牓題(高札の掲示)し、その人を招求した。孫恵はかくして出見して、司馬越は即座に記室参軍として専ら文疏の事を掌らせ、謀議に参与させた。事毎に書檄を造り、司馬越は時に駅馬でこれを催促したが、命に応じて忽ちに成り、皆な辞旨(論旨)があった。顕職を累遷して後に広武将軍・安豊内史となり、齢四十七で卒した。孫恵の文翰は凡そ数十首がある。 (『孫恵別伝』)
 

孫輔

 孫輔字國儀、賁弟也、以揚武校尉佐孫策平三郡。策討丹楊七縣、使輔西屯歴陽以拒袁術、并招誘餘民、鳩合遺散。又從策討陵陽、生得祖郎等。策西襲廬江太守劉勳、輔隨從、身先士卒、有功。策立輔為廬陵太守、撫定屬城、分置長吏。遷平南將軍、假節領交州刺史。遣使與曹公相聞、事覺、權幽繋之。數歳卒。子興・昭・偉・昕、皆歴列位。

 孫輔、字は国儀。孫賁の弟である。揚武校尉として孫策の三郡平定を佐けた。孫策が丹楊の七県を討つ時、孫輔に西のかた歴陽に駐屯して袁術を拒がせ、併せて余民を招誘させ、遺散を鳩合させた。又た孫策の陵陽討伐に従い、祖郎らを生け得った[1]。孫策が西のかた廬江太守劉勲を襲う時、孫輔は随従し、身ずから士卒に先んじて功があった。孫策は孫輔を立てて廬陵太守とし、属城を撫定して長吏を分置した。平南将軍に遷り、仮節として交州刺史を兼領した。遣使して曹操と相聞した事が発覚し、孫権はこれを幽繋した[2]。数年で卒した。子の孫興・孫昭・孫偉・孫昕は皆な列位を歴任した。
[1] 孫策は江東を平定すると袁胤を逐った。袁術は孫策を深く怨み、陰かに間者を遣って印綬を丹楊の宗帥である陵陽の祖郎らに与え、山越を激動(煽動)して大いに手勢を合せ、共に孫策を攻囲させた。

 ここで『江表伝』は自己矛盾を生じています。孫策伝では祖郎を煽ったのは、孫策と組んで袁術を倒す筈の揚州刺史陳瑀だと云っています。どっちが正しいか、ではなく、独自に孫策に抵抗していた祖郎を、『江表伝』の著者がそれぞれの伝の状況に応じて孫策の敵と組ませたのでしょう。
 面白い事に、『江表伝』の著者は祖郎と太史慈を同列に扱っています。この点については同意します。太史慈は劉繇や士燮とはカテゴリが違いすぎます。

孫策は自ら将士を率いて祖郎を討ち、これを生け獲った。孫策が祖郎に謂うには 「汝は嘗て孤を襲撃し、孤の馬鞍を斬った。今は創軍立事の時であり、宿恨を除棄してただ能を取って用い、天下を与にするだけである。汝だけではないのだ。汝は恐怖しないでくれ」 祖郎は叩頭して謝罪した。即座に枷を破り、衣服を賜い、門下の賊曹に署した。軍が還るに及んで祖郎と太史慈を倶に軍の前導に置き、人々はこれを栄誉とした。 (『江表伝』)
[2] 孫輔は孫権が江東を保守できない事を恐れ、孫権が東冶に出行した事に乗じ、人を遣って曹操に呼び掛ける書を齎した。行人(使者)がこれを告げ、孫権はかくして還り、偽って知らぬふりをし、張昭と共に孫輔と会見した。孫権が孫輔に謂うには 「卿は楽しみを厭うのか。どうして他人に呼び掛けるのか?」 孫輔は肯定しなかった。孫権はそこで書状を投げて張昭に与え、張昭が孫輔に示すと、孫輔は慙愧して返辞をしなかった。かくして孫輔の親近を悉く斬り、その部曲を分け、孫輔を徙して東方に置いた。 (『典略』)

 袁術の死後、孫策が正式に曹操に帰順した時、孫賁の娘が曹彰の妻とされました。孫輔が曹操に通じようとしたのには赤壁以前の方針を是とした事の他に、この関係も影響したのでしょう。これを踏まえて陳寿の評を読むとしょっぱいものがあります。

 

孫翊

 孫翊字叔弼、權弟也、驍悍果烈、有兄策風。太守朱治舉孝廉、司空辟。建安八年、以偏將軍領丹楊太守、時年二十。後卒為左右邊鴻所殺、鴻亦即誅。

 孫翊、字は叔弼。孫権の弟である。驍悍果烈で兄の孫策の風があった。太守朱治が孝廉に挙げ、司空に辟された[1]。建安八年(203)、偏将軍となり(呉景の後任として)丹楊太守を兼領したが、時に齢二十だった。後に左右(近侍)の辺鴻に殺されて卒し、辺鴻も亦た即座に誅された[2]
孫松

 子松為射聲校尉・都郷侯。黄龍三年卒。蜀丞相諸葛亮與兄瑾書曰:「既受東朝厚遇、依依於子弟。又子喬良器、為之惻愴。見其所與亮器物、感用流涕。」其悼松如此、由亮養子喬咨述故云。

 (孫翊の)子の孫松は射声校尉・都郷侯となり[3]、黄龍三年(231)に卒した。蜀の丞相諸葛亮が兄の諸葛瑾に与えた書には 「東朝の厚遇を受け、子弟とは依依(離れ難い)たる思いです。又た子喬は良器であり、惻愴(哀しみ歎く)する次第です。亮に与えられた器物を見ると、感情が動いて流涕するばかりです」 孫松を悼む事はこの通りで、諸葛亮の養子の諸葛喬に咨(たず)ね述べた為に云ったのだという。

 孫松の字を子喬だとする根拠は、本文のこの但し書きだけです。又た諸葛喬の字は伯松で、喬・松の字と、諸葛亮に先んじて歿している点が共通しています。これって養子の諸葛喬の訃報を実父の諸葛瑾に告げた文書なんじゃないですか?

[1] 孫翊の名は儼といい、性は孫策に似ていた。孫策の死に臨んで、張昭らは孫策に兵を孫儼に属させようと謂ったが、孫策は孫権を呼んで印綬を佩びさせた。 (『典略』)
[2] 『呉歴』には孫翊の妻である徐氏の節行が載っている。媯覧らの事と相次がせるのが妥当なので、後の孫韶伝中に列べた。

 孫策みたいに気分次第で人を殺したから側近に殺された、それだけの人でした。夫人の徐氏の報復譚が人生のクライマックスになってしまったのは、何よりも悪人のレッテルを貼られた側にとって不幸な事でした。

[3] 孫松は人との交わりに善く、財を軽んじて施しを好んだ。巴丘に鎮し、しばしば陸遜に得失について諮った。嘗て小過があり、陸遜が孫松を面責した処、孫松には不平の色があった。陸遜が少や釈けたのを観て謂うには 「君がそれがしを鄙とせずに過失を聴き、しばしば訪れるので、来意を承けて進言を尽しているのに、色を変じるとはどうしたことか?」 孫松は笑って 「ただこの様な事を行なった自分に忿っているだけです。どうして怨望しましょう!」 (『呉録』)
 

孫匡

 孫匡字季佐、翊弟也。舉孝廉茂才、未試用、卒、時年二十餘。子泰、曹氏之甥也、為長水校尉。嘉禾三年、從權圍新城、中流矢死。

 孫匡、字は季佐。孫翊の弟である。孝廉・茂才に挙げられたが、試用される前に卒した。時に齢二十余だった[1]。子の孫泰は曹操の外甥であり、長水校尉となった。嘉禾三年(234)、孫権に従って合肥新城を攻囲し、流矢に中って死んだ。

孫秀

泰子秀為前將軍・夏口督。秀公室至親、握兵在外、晧意不能平。建衡二年、晧遣何定將五千人至夏口獵。先是、民閒僉言秀當見圖、而定遠獵、秀遂驚、夜將妻子親兵數百人奔晉。晉以秀為驃騎將軍・儀同三司、封會稽公。

孫泰の子の孫秀は前将軍・夏口督となった。孫秀は公室の至親であり、外に在って兵を掌握し、孫皓の意中は平静ではいられなかった。建衡二年(270)、孫皓は何定に五千人を率いて夏口での狩猟に遣った。これより先、民間では僉(みな)が孫秀が図られるであろうと言っており、何定の遠猟に孫秀はかくて驚き、夜間に妻子と親兵数百人を率いて晋に奔った。晋は孫秀を驃騎将軍・儀同三司とし、会稽公に封じた[2]
[1] 曹休が洞口に出征すると、呂範が軍を率いてこれを防禦した。時に孫匡は定武中郎将であり、呂範の軍令に違えて放火し、茅芒を焼損して軍用を欠乏させ、呂範は即座に孫匡を啓送して呉に還した。孫権は別けてその一族を丁氏とし、終身禁固とした。 (『江表伝』)
―― 裴松之が考えるに、本伝では 「匡未試用卒、時年二十余」とある。しかし『江表伝』では、呂範が洞口に在った時、孫匡は定武中郎将だったと云っている。定武中郎将であれば未試用ではない。しかも孫堅は初平二年(191)に卒しており、洞口の役は黄初三年(222)である。孫堅が卒してからここに至るまで三十一年であり、孫匡が尚お生存していたとしても、本伝で卒した時の齢が二十余だったとは云えない。これは恐らく孫権の異母弟の孫朗であり、『江表伝』が誤って孫匡だとしたのだ。孫朗の名と官位は『三朝録』および虞喜の『志林』に見える。
[2] 孫皓は大いに怒り、追って孫秀の姓を改めて厲とした。 (『江表伝』)
―― 孫秀は晋朝に在り、初めて孫皓の降伏を聴くと群臣は畢賀したが、孫秀は疾病を称して与にせず、南向して流涕するには 「昔、討逆将軍は弱冠の一校尉として創業した。今、後主は江南を挙げてこれを棄て、宗廟・山陵も廃墟となるだろう。悠悠たる蒼天よ、これはどういう人か!」 朝廷はこれを美えた。 ([干宝『晋紀』)
―― 呉が平らぎ、伏波将軍に降格されたが、開府は元の通りだった。永寧中に卒し、驃騎将軍・開府を追贈された。子の孫倹は字を仲節といい、給事中となった。 (『晋諸公賛』)
 

孫韶

 孫韶字公禮。

 孫韶、字は公礼。
 
孫河

 伯父河、字伯海、本姓兪氏、亦呉人也。孫策愛之、賜姓為孫、列之屬籍。後為將軍、屯京城。

 伯父の孫河は字は伯海といい、本姓は兪氏であり、亦た呉県の人である。孫策はこれを愛し、賜姓して孫氏として属籍に列した[1]。後に将軍となり、京城(京口/鎮江市京口区)に駐屯した。

 超あっさりなので補足すると、孫堅が死に、陶謙に圧迫された孫策が丹楊太守呉景を頼った時、孫河と呂範だけが付き随ったと孫策伝にあります。そりゃあ殊遇もしますわ。

 初、孫權殺呉郡太守盛憲、憲故孝廉媯覽・戴員亡匿山中、孫翊為丹楊、皆禮致之。覽為大都督督兵、員為郡丞。及翊遇害、河馳赴宛陵、責怒覽・員、以不能全權、令使姦變得施。二人議曰:「伯海與將軍疎遠、而責我乃耳。討虜若來、吾屬無遺矣。」遂殺河、使人北迎揚州刺史劉馥、令住歴陽、以丹楊應之。會翊帳下徐元・孫高・傅嬰等殺覽・員。

 嘗て孫権が呉郡太守盛憲を殺した時[2]、盛憲の故の孝廉の媯覧・戴員が山中に亡匿したが、孫翊が丹楊太守となると皆な礼遇して迎えた。媯覧は大都督の督兵となり、戴員は郡丞となった。孫翊が殺害されると、孫河は馳せて宛陵に赴き、媯覧・戴員を責怒し、職権を全う出来ずに姦変を施させてしまったとした。二人は議して「伯海は将軍とは疎遠だったのにこうも我らを責めている。討虜将軍がもし来たなら、吾が家属は遺されまい」 かくて孫河を殺し、人を遣って北のかた揚州刺史劉馥を迎えて歴陽に住(とど)まらせ、丹楊を以て応じようとした。たまたま孫翊の帳下の徐元・孫高・傅嬰らが媯覧・戴員を殺した[3]

 この丹楊の変の顛末を詳述した『呉歴』によって、特に媯覧の印象は最悪ですが、盛憲に推挙されているので呉郡のそれなりの家門で、人格的にも下劣ではなかったものと思われます。『呉歴』では孫翊殺害の黒幕だとありますが、それも疑わしく、本当に孫翊に責められていたのかも定かではありません。
 注目すべきは寧ろ孫策以来の孫氏と盛憲の関係だと考えます。媯覧らは孫翊の要請に応じた時点で孫氏に対する蟠りを解いていたのに、それと孫翊殺害を結びつけた孫河が台無しにしてしまったんじゃないかと。なにせ孫河は孫策の最も忠実な部下でした。孫策が目の敵にしていた盛憲の故生というだけで、媯覧・戴員に対する色眼鏡はMAXだったとしても不思議はありません。昔の恨みがあるから孫翊を殺したんだろう!言いつけてやる!とか云ったんじゃないですか?

 韶年十七、收河餘余、繕治京城、起樓櫓、脩器備以禦敵。權聞亂、從椒丘還、過定丹楊、引軍歸呉。夜至京城下營、試攻驚之、兵皆乘城傳檄備警、讙聲動地、頗射外人、權使曉喩乃止。明日見韶、甚器之、即拜承烈校尉、統河部曲、食曲阿・丹徒二縣、自置長吏、一如河舊。後為廣陵太守・偏將軍。權為呉王、遷揚威將軍、封建德侯。權稱尊號、為鎮北將軍。韶為邊將數十年、善養士卒、得其死力。常以警疆埸遠斥候為務、先知動靜而為之備、故鮮有負敗。青・徐・汝・沛頗來歸附、淮南濱江屯候皆徹兵遠徙、徐・泗・江・淮之地、不居者各數百里。自權西征、還都武昌、韶不進見者十餘年。權還建業、乃得朝覲。權問青・徐諸屯要害、遠近人馬衆寡、魏將帥姓名、盡具識之、有問咸對。身長八尺、儀貌都雅。權歡悅曰:「吾久不見公禮、不圖進益乃爾。」加領幽州牧・假節。赤烏四年卒。子越嗣、至右將軍。

 孫韶は齢十七にて孫河の余衆を収め、京城を繕治して楼櫓を起て、兵器・防備を修めて敵に禦(そな)えた。孫権は乱を聞くと椒丘(江西省南昌市新建)より還り、丹楊を通過しつつ平定して軍を率いて呉に帰った。夜間に京城に至って城下に設営し、試みに攻撃した処、兵は皆な城壁に乗って檄を伝えて警報して備え、讙声(喚声)は大地を動かし、頗る外の人を射ち、孫権は曉喩して止めさせた。明日に孫韶を引見すると甚だ器とし、即座に承烈校尉に拝して孫河の部曲を統べさせ、曲阿・丹徒の二県を食邑として自ら長吏を置き、一切を孫河の旧の通りとした。後に広陵太守・偏将軍となった。
孫権は呉王となると揚威将軍に遷して建徳侯に封じた。孫権が尊号を称すると鎮北将軍とした。孫韶は辺将たること数十年、善く士卒を養い、その死力を得た。常に疆埸(辺境)の警戒には遠くに斥候を出す事に務め、先んじて動静を知って備え、そのため負敗する事が鮮(すくな)く、青州・徐州・汝南・沛からは頗る帰附者が到来した。淮南や長江沿岸の屯所や斥候は皆な兵を徹去して遠くに徙し、徐水・泗水・長江・淮河の地で居者不在となった地は各々数百里あった。 孫権が西征から還って(220年に)武昌に都してより孫韶が進見しないこと十余年となり、(229年に)孫権が建業に還った事で朝覲することができた。

※ この一節が好例ですが、『三國志』では“十余年”とあった場合は“十年前後”となります。通常の感覚で“十数年”だと考えると思わぬ勘違いを生じてしまうので注意です。

孫権が青州・徐州の諸屯の要害、遠近の人馬の衆寡、魏の将帥の姓名を問うと、尽く具さに識っていて、問いに咸な対(こた)えた。(孫権が見れば孫韶の)身長は八尺、威儀・容貌は都(す)べて雅びやかだった。孫権は歓悦し 「私は久しく公礼を見なかったが、こうも進益していようとは思わなかった」 領幽州牧・仮節を加えた。赤烏四年(241)に卒した。子の孫越が嗣ぎ、右将軍に至った。

孫楷

越兄楷武衞大將軍・臨成侯、代越為京下督。楷弟異至領軍將軍、奕宗正卿、恢武陵太守。天璽元年、徴楷為宮下鎮驃騎將軍。初永安賊施但等劫晧弟謙、襲建業、或白楷二端不即赴討者、晧數遣詰楷。楷常惶怖、而卒被召、遂將妻子親兵數百人歸晉、晉以為車騎將軍、封丹楊侯。

孫越の兄の孫楷は武衛大将軍・臨成侯であり、孫越に代って京下督となった。孫楷の弟の孫異は領軍将軍に至り、孫奕は宗正卿、孫恢は武陵太守となった。天璽元年(276)、孫楷を徴して宮下に鎮する驃騎将軍とした。嘗て永安の賊の施但らが孫皓の弟の孫謙を劫質して建業を襲った時、或る者が白すには、孫楷が二端を持して即座には討伐に赴かなかったと。孫皓はしばしば使者を遣って孫楷を詰問した。そのため孫楷は常に惶怖しており、卒(にわか)に召されると遂に妻子や親兵数百人を率いて晋に帰順し、晋は車騎将軍として丹楊侯に封じた[4]
[1] 孫河は孫堅の族子である。(属籍を)出て姑(おば)の兪氏の後嗣となり、後に復姓して孫氏となった。孫河の質性は忠直で、訥言であって行ないは敏く、気幹があって能く勤務に服した。若年より孫堅の征討に従って常に前駆を為し、後に左右の兵を領し、内事を典知して腹心の任を以て侍った。又た孫策の呉会平定にも従い、孫権の李術討伐に従い、李術を破ると威寇中郎将に拝されて廬江太守を兼領した。 (『呉書』)
[2] 
盛憲

 盛憲、字は孝章。器量は正しく優れ、孝廉に挙げられて尚書郎に補され、呉郡太守に稍遷したのち疾によって官を去った孫策伝の注の『呉録』によれば、都尉の許貢に逐われた事になっています)。孫策は呉会を平定すると在地の英豪を誅戮し、盛憲は素より高名があったので孫策は深く忌んだ。かつて盛憲は少府孔融と親善があり、孔融は禍を免れない事を憂えて曹操に書簡を与えた 「歳月は居らず、時節は流れる如く、五十の年が過ぎて忽ちに至ってしまいました。公は五十となり、私は二歳を過ぎ、面識ある者は零落して尽きかけていますが、会稽の盛孝章は存命しています。しかしその人は孫氏に困窮させられ、家族とも別れて孤立して憂いいっぱいです。『公羊伝』には “諸侯に滅亡しかかっている者がいて桓公が救う事が出来なければ、それは桓公が恥とした” とか。盛憲を救えなければ貴方の恥であり、私のご先祖も“損益の友”[※1]を論ずる事が出来なくなります。朱穆が絶交した[※2]再現にもなりましょう。どうか使者を遣る労を惜しまずに盛孝章を誘致していただきたい。燕君は駿馬の骨を買った事で駿馬が集まりました。脛の無い珠玉ですら愛好者の許に集まります。ましてや賢者には足があるのです。燕昭王が郭隗を救わなければ楽毅も劇辛も鄒衍も得られなかった事でしょう。そこの処をよっくお考え下さい」
これにより徴して騎都尉としたが、制命が至る前に果たして孫権に害された。子の盛匡は魏に奔り、官位は征東司馬に至った。 (『会稽典録』)

 孔融のこの書簡は、孔融好き好きの曹丕が編んだ『文選』にも収められているそうなので、文章としての格調は高いんでしょうが、孔融の悪い点が滲み出ている一文でもあります。切々と訴えかければいいものを、曹操を脅したりご先祖の孔子の威光を持ち出したりと、これを素でやれるんだから大したものです。

※1 『論語』季友篇より。自身の益になる三種(実直・誠実・多聞)の友人と、自身を損う三種(不見識・不誠実・追従)の友人を論じたもの。
※2 桓帝の時代の人。梁冀の故挙ながらも厳厲で知られ、冀州刺史となった際には40人以上が棄官し、又た趙忠が踰制の葬儀を行なうと棺を発き、そのため讒言されて左校に輸されたが、太学生の抗議で赦された。後に宦官を重用する桓帝を諫めて聴かれずに憤死した。時勢の浮薄を歎いて匡正の為に著したのが『絶交論』で、これとは別に、嘗ての交誼を棄てて自身を一下吏として扱う劉伯宗に与えた『絶交書』もある。

[3] 媯覧・戴員は辺洪らと親近し、しばしば孫翊に困苦されて常に叛逆を欲し、呉主の出征に乗じて姦計を実行した。時に諸県の令長が揃って孫翊に通見した。孫翊の妻の徐氏は頗る卜占に通暁しており、孫翊が入って徐氏に語るには 「私は明日、長吏の(宴席の)主人となろうと思うが、試みに卜ってくれ」 徐氏 「佳い卦が出ません。日を異にしてはどうでしょう」 孫翊は長吏が来訪して久しく、速やかに還すのが妥当だとして(予定通り)大いに賓客を招宴した。孫翊は出入に常に刀を持していたが、この時は酒色(酔色)があり、空手にて客を送った。辺洪は背後より孫翊を斬り、郡中は擾乱して孫翊を救う者は無く、遂に辺洪に殺され、(辺洪は)迸走して山に入った。徐氏は追捕を購募し、中宿(一晩)して得、媯覧・戴員は罪を辺洪に帰して殺した。諸将は皆な媯覧・戴員の為した事を知っていたが、実力的に討つ事が出来なかった。媯覧は軍府の中に入居し、孫翊の嬪妾および左右の侍御を悉く取り、復た徐氏を取ろうと欲した。(徐氏は)逆らって害される事を恐れ、欺いて 「晦日に祭を設けて喪服を脱ぐまでお待ちください」 その時に月は尽きようとしており、媯覧は祭の終りまでとして聴許した。徐氏は潜かに親信する者を孫翊に親近していた旧将の孫高・傅嬰らに遣って語らせ、説くには「媯覧は婢妾を虜略し、今又た逼ろうとしています。外面でこれを許して見せたのは、その意を安んじて禍を免れようとしただけなのです。微計を立てたいので、願わくば二君は哀れんで救いたまえ」 孫高・傅嬰は涕泣しつつ答えるには 「府君の恩遇を受け、即座に難に死ななかったのは、死んでも無益であり、計りごとを思惟したいと思ったからです。計りごとは未だ立たず、そのため夫人には申さなかっただけなのです。今日の事はまことに夙夜懐いている事であります」
かくして密かに孫翊が侍養していた二十余人を呼び、徐氏の意を語って共に盟誓し、謀議を合せた。晦日が到り、祭を設け、徐氏は哭泣して哀悼を尽し終え、かくして喪服を脱ぎ、薰香沐浴して更めて他室に入った。幃帳を施し、言笑歓悦して寂容を示さなかった。大小の者は悽愴としてこの様を怪しみ、媯覧は密かに覘視して復た疑おうとしなかった。徐氏は孫高・傅嬰を諸々の婢と与に呼んで戸内に並べ、人を遣って媯覧に告げさせ、既に凶は除かれて吉となり、ただ府君の敕命のままにと説いた。媯覧は意気盛んに入り、徐氏は戸口に出て拝礼した。媯覧の一拝を得るや徐氏はたちまち大呼して 「二君よ起ちなさい!」 孫高・傅嬰は倶に出で、共に媯覧を殺し、余人は即座に外に就いて戴員を殺した。夫人はかくして縗絰(服喪)に還り、媯覧・戴員の首を奉じて孫翊の墓を祭った。軍を挙げて震駭し、神異だとした。呉主が続いて至ると、媯覧・戴員の余党を悉く族誅し、孫高・傅嬰を抜擢して牙門将とし、その他も皆な金帛を加賜してその門戸を殊遇した。 (『呉歴』)
[4] 呉が平らぐと、降格して渡遼将軍とした。永安元年(304)に卒した。 (『晋諸公賛』)
―― 孫楷の事を処すに厳整な事は孫秀には及ばなかったが、世間の知名度では優っていた。 (『呉録』)
 

孫桓

 孫桓字叔武、河之子也。年二十五、拜安東中郎將、與陸遜共拒劉備。備軍衆甚盛、彌山盈谷、桓投刀奮命、與遜戮力、備遂敗走。桓斬上〔夔〕道、截其徑要。備踰山越險、僅乃得免、忿恚歎曰:「吾昔初至京城、桓尚小兒、而今迫孤乃至此也!」桓以功拜建武將軍、封丹徒侯、下督牛渚、作橫江塢、會卒。

 孫桓、字は叔武。孫河の子である[1]。齢二十五で安東中郎将に拝され、陸遜と共に劉備を拒いだ。劉備の軍兵は甚だ盛んで、山を彌(わた)り谷に盈ちていたが、孫桓は投刀奮命して陸遜と戮力(合力)し、劉備はかくて敗走した。孫桓は夔に上る道を斬ってその径要を截った。劉備は山を踰え険阻を越えて僅かに遁れる事ができ、忿恚して歎じるには 「吾れが昔に初めて京城に至った時、孫桓は尚おも小児であった。今は孤に迫ってこのようになろうとは!」 孫桓は功によって建武将軍を拝し、丹徒侯に封じられた。下って牛渚を督し、横江に塢を作ったが、たまたま卒した[2]
[1] 孫河には四子があり、長子の孫助は曲阿県長、次子の孫誼は海塩県長となり、揃って早くに卒した。次の孫桓は儀容が端正で器懐は聡明、博学強記で論議や応対に能く、孫権は常に宗室の顔淵だと称え、抜擢して武衛都尉とした。華陽での関羽討伐に従い、関羽の余党を誘致して五千人を得、牛馬や器械は甚だ多かった。 (『呉書』)
[2] 孫桓の弟の孫俊は字を叔英といい、性度は恢弘で才は文武を兼ね、定武中郎将となって薄落に屯戍し、赤烏十三年(250)に卒した。長子の孫建が襲爵し、平虜将軍となった。少子の孫慎は鎮南将軍となった。孫慎の子の孫丞は、字を顕世といった。 (『呉書』)
―― 孫丞は好学で文章の才があり、作品の『螢火賦』は世に流行した。黄門侍郎となり、顧栄と倶に侍臣となった。孫皓の時代には内侍の多くが罪尤(罪咎)を得たが、ただ顧栄・孫丞のみ独り全きを獲た。常に二人に事を記させ、丞答顧問(孫丞・顧栄が諮問に答え)し、かくして詔を下すには 「今より以後、侍郎の挙用は皆な宗室の孫丞や顧栄の如き輩でなければならない」 呉が平定されて洛陽に赴き、范陽の涿県令となり、甚だ称賛と治績があった。永安中に陸機が成都王の大都督となると、孫丞を司馬とする事を請うた。(そのため)陸機と倶に害を被った。 (『文士伝』)
 

 評曰:夫親親恩義、古今之常。宗子維城、詩人所稱。況此諸孫、或贊興初基、或鎮據邊陲、克堪厥任、不忝其榮者乎!故詳著云。

 評に曰く:親親の恩義とは古今の常である。宗子が維城であるとは『詩』の称している事である。ましてやこの諸孫氏は、或る者は初基を興すことに協賛し、或る者は辺陲に拠って鎮め、その任に克堪した。その栄誉を忝受せずにいてよかろうか! そのため詳述したのである。
 

 ざっと見た感じ、夏口と京口が孫氏にとって軍事の生命線だったようです。夏口の方は主に孫静家が嗣いで257年に頓挫し、その後は孫秀による再鎮が試みられました。京口の方は孫河家がほぼ世襲しましたが、どちらも呉末に孫皓との対立から破綻しています。歩闡の事もありますが、重要な督の世襲が断絶したのが何れも孫皓の時代で、孫皓は末帝でなければ 「中央集権化に一定の成果を挙げた君主」 とか評価されたんだろうなぁ、と思う次第です。


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