袁術字公路、司空逢子、紹之從弟也。以侠氣聞。舉孝廉、除郎中、歴職内外、後為折衝校尉・虎賁中郎將。董卓之將廢帝、以術為後將軍;術亦畏卓之禍、出奔南陽。會長沙太守孫堅殺南陽太守張咨、術得據其郡。南陽戸口數百萬、而術奢淫肆欲、徴斂無度、百姓苦之。既與紹有隙、又與劉表不平而北連公孫瓚;紹與瓚不和而南連劉表。其兄弟攜貳、舍近交遠如此。引軍入陳留。太祖與紹合撃、大破術軍。術以餘衆奔九江、殺揚州刺史陳温、領其州。以張勳・橋蕤等為大將軍。李傕入長安、欲結術為援、以術為左將軍、封陽翟侯、假節、遣太傅馬日磾因循行拜授。術奪日磾節、拘留不遣。
『魏書』および袁山松『後漢書』は、袁術の異母兄の袁紹が伯父の家を嗣いだとしています。
『後漢書集解』は洪吉亮の説として、「『英雄記』および范曄『後漢書』では袁紹は幼時に父を喪ったとあるが、袁逢は178年には司空として存命しており、一方の袁紹は188年に佐軍校尉となっている。この年齢差で“幼にして孤”は成立しない故、袁紹と袁術を異母兄弟とする説は成立しない」 としているそうです。
諸公子と与に鷹・狗を好んだが、後に改心して孝廉に挙げられた。後に河南尹、虎賁中郎将を歴任した。 (『後漢書』)
孝廉に挙げられて郎中に叙され、内外の職を歴任し、後に折衝校尉・虎賁中郎将となった。董卓が帝を廃そうとした時に袁術を後将軍とした。袁術も亦た董卓が禍う事を畏れ、南陽に出奔した。折しも長沙太守孫堅が南陽太守張咨を殺した処で、袁術はその郡に拠る事ができた。 袁術は上表して孫堅に中郎将を仮した。北上した孫堅は南陽太守張咨に兵糧を求めたが、得られなかった。 (『献帝春秋』)
袁術は上表して孫堅を領豫州刺史とし、荊・豫の兵を率いて董卓を陽人で撃破させた。 (『後漢書』)
別に批判されるべき政略じゃありません。遠交近攻策は秦が諸国を統一した成功例なので、結果から批判しているだけです。批判するなら寧ろ 「捨親交疎」 と云うべきでしょう。
袁紹が袁術・孫堅の留守に乗じて会稽の周マを豫州刺史とした為、これを撃破した。袁紹より劉虞擁立を諮られたが、袁術は放縦を好んだので拒んだ。これらによって両者は不和となり、各々外に党援と交わった。豪傑の多くが袁紹に附した為、袁術は 「群豎は家奴に従うか!」 と怒り、又た公孫瓚に与えた書では 「袁紹は袁氏の子ではない」 と云った。 (『後漢書』)
(193年の春、)軍を率いて陳留に入った。曹操が袁紹と合して討ち、大いに袁術の軍を破った。劉表に逐われて陳留に進んだとありますが、寧ろ出征した処で糧道を断たれ、これが重大な敗因になったものと思われます。因みに、袁術と陶謙が同じ閥内にいた事を直接表記しているのは『三國志』ではこの一節だけです。
袁術は領揚州刺史を称し、又た徐州伯とも称した。 (『後漢書』)
これ以後、袁術伝に橋蕤は出てきませんが、 1.建安十八年の曹操への策命で、非群雄でありながら袁術と併記されるという扱いを受け、何夔伝でも 「袁術が橋蕤と倶に蘄陽を攻囲した」 と異例の書き方をされています。又た『後漢書』では、 2.袁術が使者の韓胤を殺された報復として呂布を撃った時、捕虜とされながらも釈放されたと解釈できる書き方がされています。
1.からは袁術の勢力が橋蕤との連合同然であったこと、2.からは橋蕤が徐州の勢門の出身、もしくは呂布の袁術に対する敵対行為が本意ではなく、当初から和解を模索していた事が想像できます。
時沛相下邳陳珪、故太尉球弟子也。術與珪倶公族子孫、少共交游、書與珪曰:「昔秦失其政、天下羣雄爭而取之、兼智勇者卒受其歸。今世事紛擾、復有瓦解之勢矣、誠英乂有為之時也。與足下舊交、豈肯左右之乎?若集大事、子實為吾心膂。」珪中子應時在下邳、術並脅質應、圖必致珪。珪答書曰:「昔秦末世、肆暴恣情、虐流天下、毒被生民、下不堪命、故遂土崩。今雖季世、未有亡秦苛暴之亂也。曹將軍神武應期、興復典刑、將撥平凶慝、清定海内、信有徴矣。以為足下當勠力同心、匡翼漢室、而陰謀不軌、以身試禍、豈不痛哉! 若迷而知反、尚可以免。吾備舊知、故陳至情、雖逆于耳、骨肉之惠也。欲吾營私阿附、有犯死不能也。」
袁術が下邳にまで出てきています! 前後の繋がりが正しければ、曹操の乱入で徐州が大混乱している最中でしょう。いわば火事場泥棒です。まだまだ曹操は“神武”と呼ばれるような働きはしておらず、もちろん典刑を興復だの漢室を匡翼だのとは無縁です。 呂布の簒奪がらみのドタバタに乗じて、という事なら許遷都後となり、「曹将軍の神武は〜」 というのも妥当になりますが、どちらにしても下邳陳氏は根っから袁術に従ってはいませんよー、という主張以外に意義は無さそうです。
興平二年冬、天子敗於曹陽。術會羣下謂曰:「今劉氏微弱、海内鼎沸。吾家四世公輔、百姓所歸、欲應天順民、於諸君意如何?」衆莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王、積コ累功、三分天下有其二、猶服事殷。明公雖奕世克昌、未若有周之盛、漢室雖微、未若殷紂之暴也。」術嘿然不ス。用河内張烱之符命、遂僭號。以九江太守為淮南尹。置公卿、祠南北郊。荒侈滋甚、後宮數百皆服綺縠、餘粱肉、而士卒凍餒、江淮闍盡、人民相食。
術前為呂布所破、後為太祖所敗、奔其部曲雷薄・陳蘭于灊山、復為所拒、憂懼不知所出。將歸帝號於紹、欲至青州從袁譚、發病道死。妻子依術故吏廬江太守劉勳、孫策破勳、復見收視。術女入孫權宮、子燿拜郎中、燿女又配於權子奮。
張範は袁術の召しに応じず、弟の張承を遣って諫めさせたが、袁術は悦ばなかった。 (張範伝)
袁術は建安元年に董承と協力して、献帝を迎えに来た曹洪を撃退しています。董承といえば献帝の東帰を主導した一人ですが、これは天子や百官の望京の念だけで行なえるものではなく、相応のアテがあった事は容易に想像できます。朝廷の重鎮の楊彪は袁術の妹婿なので、その伝手でも介して連絡を取り合っていたのでしょうか。そうであれば楊彪に対する曹操の警戒感も理解できますし、曹操が殺した侍中台崇・尚書馮碩が袁術派だったという想像も膨らみます。
では袁術はこの時点でも献帝を奉じる気があったのかというと、非常に微妙です。なにせ献帝の帰京前から表立った動きも無いまま、許遷都を妨げもせずに、翌春には僭称していますので。本伝では曹陽の敗戦から僭称までを連続して描いていますが、実際には1年以上のインターバルがあります。
尚お、『後漢書』では孫堅の妻を人質にして伝国璽を奪った逸話を採用し、それ以前から舜に連なる血統や讖緯を語らせて僭逆の意図があったとしています。
袁術は劉備が徐州を領したと聞き、これを攻めた。盱眙(淮安市)・淮陰(淮安市楚州区)で攻防した。この歳は建安元年(196)である。 (先主伝)
河内の張烱の符命を用い、遂に僭号した[4]。九江太守を淮南尹とした。公卿を置き、南郊・北郊を祠った。荒侈は滋(いよい)よ甚だしく、後宮の数百人は皆な綺縠を服(まと)い、粱・肉は余ったが[5]、士卒は凍餒(飢え凍え)、江淮の一帯は空尽して人民は相い食んだ。僭称してからの動きが超省略されていたので、各書各伝から補いました。許のある潁川郡に隣接する陳王国に対して 「糧を求めた」 という事から、豫州のかなりの部分に影響力を及ぼしていた事が観取できます。曹操と呂布との抗争で勢力を回復できたのでしょう。本当に呂布に大敗したのか、そもそも本当に決裂したのかと疑い出すとキリがありません。
袁術は劉備に遮られて寿春に還った。六月に江亭で病を結び、血を吐いて憤死した。 (『後漢書』)
妻子は袁術の故吏の廬江太守劉勲に依り、孫策が劉勲を破ると、復た収視(収養)された。袁術の娘は孫権の宮に入り、子の袁燿は郎中に拝され、袁燿の娘は又た孫権の子の孫奮に配偶された。 袁術は漢にとっても曹魏にとっても孫呉にとっても批判する上で一切の容赦を必要としない点、董卓・李傕・郭・呂布と同様です。謂わば史家にとってのサンドバッグ。殊に僭称してしまったのは致命的で、全ての史書で悪い方向に書かれ、逆に事績が見えにくくなっています。
例えば袁術伝本文の素っ気なさは、陳寿なりの 「分不相応な行ないには報いがある」 という事の究極的表現でしょう。又た南陽や淮南の荒廃についても、時期的に戦乱と天候不順が悪循環となって何年も不作の年が続いている時期で、曹操と呂布が蝗害で引き分けた一件はその一例に過ぎません。袁術にも原因はありますが、袁術だけに原因を負わせていると、江淮の長期にわたる荒廃が見逃されてしまいます。
袁術は後世、末期の僭称によって都落ちをした頃から異志があったとされていますが、孫堅を擁して最も積極的に董卓を攻撃し、献帝からは劉虞との協働を打診されています。董卓・献帝をまとめて否定して独自の天子を立てようとした袁紹とは一線を画していて、当時は反董卓ではあっても反献帝ではないと認識されていたようです。そんな袁術は何処で宗旨替えをしたんでしょう。陳寿の謂う通りに曹陽の難が原因だとしたら、それは献帝一行が惨敗した事ではなく、尊王に動いた勢力が余りにも少なかった事で漢の求心力が失墜している事を理解したからではないでしょうか。
ただ、僭称そのものについては、献帝が曹操に庇護された事で自棄になった結果だと思われます。袁紹をすら「家奴」と呼ばわる四世三公の正嫡としてのプライドが、宦官の孫に頭を下げる事を認めなかったのでしょう。
『呉書』の見解としては、袁術は董卓の存命中から異志満々だったとしております。孫堅は漢朝の為だと騙され、態よく利用された挙句に荊州でドジ踏んだ非業の最期を遂げた事にしたいんでしょう。奇しくも百十余年後、西晋の混乱は長安遷都が強行されて本格化し、僭称者が乱立しましたが、それは『呉書』の編者である韋昭も知らない事です。この当時から袁術の僭意を示すものは確認できず、陳寿すら、きっかけは曹陽の役に設定しています。
陳瑀は陳登の動向を理解する上で欠かせませんが、ここの他、孫策伝、呂範伝、さらに『後漢書』陳球伝にバラけてしまっています。残念なのでまとめてみました。
陳瑀、字は公瑋。下邳の人である。 (『英雄記』)
(太尉)陳球の子であり、弟の陳jは汝陰太守。陳球の弟の子の陳珪は沛国相、陳珪の子の陳登は広陵太守。揃って名を知られた。 (范曄『後漢書』)
陳瑀は孝廉に挙げられ、公府に辟され、洛陽の市長となった。後に太尉府に辟されたが、なかなか上京せず、永漢元年(189)に議郎に就いた。次いで呉郡太守に遷されたが、就かなかった。 (謝承『後漢書』)
許靖は…豫州刺史孔伷が死ぬと揚州刺史陳禕に依った。陳禕が死ぬと呉郡都尉許貢・会稽太守王朗に往った。 (『三國志』許靖伝)
揚州刺史陳温が病死した。袁紹によって領揚州とされた袁遺が敗走し、袁術は陳瑀を用いて揚州刺史とした。陳瑀が揚州を領した後、袁術は封丘で敗れて寿春に向ったが、陳瑀は袁術を納れなかった。袁術は陰陵に退き、兵を糾合して陳瑀を攻めた。陳瑀は懼れて下邳に奔った。 (『英雄記』)
初平三年(192)、揚州刺史陳禕が死に、袁術は陳瑀を領揚州牧とした。
後に袁術が封丘で曹操に敗れると、陳瑀は南人の造叛に対処した。袁術は陰陵に敗走すると好辞にて陳瑀に遜ったが、陳瑀は権謀を知らず、又た怯えた事もあり、即座には袁術を攻めなかった。袁術は淮北で兵を集めると寿春に向い、陳瑀は懼れて弟の陳jを使者として和を請うたが、袁術はこれを執えて進軍した。陳瑀は下邳に退走した。(『九州春秋』)
当時、下邳の陳瑀は呉郡太守を自称して海西に駐まり、強族の厳白虎と交通していた。孫策は自ら厳白虎を討ち、別に呂範と徐逸を遣って陳瑀を大破させた。 (『三國志』呂範伝)
袁術が僭称した後、詔書にて領会稽太守孫策および平東将軍・領徐州牧呂布と行呉郡太守・安東将軍陳瑀とに袁術を討つことが命じられた。 この時、陳瑀は海西に屯していたが、孫策の襲撃を図って都尉万演らを密かに渡江させ、江東の諸々の険悪な県の大帥の祖郎・焦已および呉郡烏程の厳白虎らに印章を与えて内応させ、孫策が軍を動かすと同時に諸郡を攻取しようとしていた。孫策はこれを覚り、呂範・徐逸を遣って海西に陳瑀を大破させ、吏士とその家族四千人を獲た。 (『江表伝』)
陳瑀は単騎で冀州に走り、自ら袁紹に帰順し、袁紹は故安都尉とした。 (『山陽公載記』)
揃いも揃って信憑性に難有りな資料なのが難点ですが、孫策を讃える記述と小説っぽい部分を警戒すればそれなりのものは見えてきます。焦点は陳瑀が揚州刺史に就いたかどうかですが、ダブスタと云われようと、私は就いた方を支持します。袁術の陳瑀との確執は極言すれば内輪揉めなので、朝敵袁術を強調するなら陳温を殺させるべきです。陳禕=陳温は確定させて良さそうですが、許靖伝で“殺”ではなく“死”とあるのも、病死説を補強します。何より、陳瑀が揚州刺史を逐われた方が陶謙vs袁術が盛り上がるじゃないですか! 陳瑀の背後には陶謙がいた! これは私の中でほぼ確定事項です。
『後漢書』では、そもそも馬日磾が袁術に追従の色を示したのがイケナイとし、同書の孔融伝では、孔融は馬日磾の行為を 「奸臣に媚びて上表の類いには全て署名した」 事を理由に国葬を諫め、最後に 「陛下が追慕しているのなので罪の追及はしませんよ」 とまで云わせています。
こんなで理解すると思うなよ、魚眷と裴松之め! “塗”は途の事で、術のかまえの“行(ゆきがまえ)”と公路の“路”が同じ意味であることから、「漢に代って高くなるのは袁術に該当する」 と考えたそうです。仲は“沖(のぼる)”だとするテキストもあるそうです。
劉表字景升、山陽高平人也。少知名、號八俊。長八尺餘、姿貌甚偉。以大將軍掾為北軍中候。靈帝崩、代王叡為荊州刺史。是時山東兵起、表亦合兵軍襄陽。袁術之在南陽也、與孫堅合從、欲襲奪表州、使堅攻表。堅為流矢所中死、軍敗、術遂不能勝表。
李傕・郭入長安、欲連表為援、乃以表為鎮南將軍・荊州牧、封成武侯、假節。天子都許、表雖遣使貢獻、然北與袁紹相結。治中ケ羲諫表、表不聽、羲辭疾而退、終表之世。
時系列をご覧ください。王叡が孫堅に殺されてから山東起兵という流れになっていて、孫堅の挙兵が袁紹らとの動きとは無関係である事が示されています。『劉鎮南碑』では劉表の着任は初平元年(190)の十一月となっています。劉表の叙任は董卓の政権下で行なわれ、襄陽を治所としたのは袁術を拒ぐ為かと思いますが、実際に朝廷と山東のどちらに与したかは定かではありません。というより、荊州の鎮撫に奔走している間に世間が次のステージに突入してしまったのでしょう。
一体どこ由来の情報なのか。范曄が『三國志』を読んで、劉表も山東に呼応して襄陽に兵を進めたと解釈できる事に注目し、“恩人を攻撃させた袁術”にしたものと思われます。
『後漢書』では李傕らが長安に入った冬に劉表の方から奉献しています。そして、許への通献は無かった事にされています。
張濟引兵入荊州界、攻穰城、為流矢所中死。荊州官屬皆賀、表曰:「濟以窮來、主人無禮、至于交鋒、此非牧意、牧受弔、不受賀也。」使人納其衆;衆聞之喜、遂服從。
長沙太守張羨叛表、表圍之連年不下。羨病死、長沙復立其子懌、表遂攻并懌、南收零・桂、北據漢川、地方數千里、帶甲十餘萬。
張済の族子の張繡がその衆を領し、劉表の為に宛に駐屯した。 (張繡伝)
長沙太守張羨が劉表に叛き[4]、劉表はこれを囲んだものの連年下せなかった。張羨が病死すると、長沙では復たその子の張懌を立てた。劉表はかくて攻めて張懌を併せ、南は零陵・桂陽を接収し、北は漢川に拠り、地は方数千里、帯甲兵は十余万[5]。太祖與袁紹方相持于官渡、紹遣人求助、表許之而不至、亦不佐太祖、欲保江漢間、觀天下變。從事中郎韓嵩・別駕劉先説表曰:「豪傑並爭、兩雄相持、天下之重、在於將軍。將軍若欲有為、起乘其弊可也;若不然、固將擇所從。將軍擁十萬之衆、安坐而觀望。夫見賢而不能助、請和而不得、此兩怨必集於將軍、將軍不得中立矣。夫以曹公之明哲、天下賢俊皆歸之、其勢必舉袁紹、然後稱兵以向江漢、恐將軍不能禦也。故為將軍計者、不若舉州以附曹公、曹公必重コ將軍;長享福祚、垂之後嗣、此萬全之策也。」表大將蒯越亦勸表、表狐疑、乃遣嵩詣太祖以觀虚實。嵩還、深陳太祖威コ、説表遣子入質。表疑嵩反為太祖説、大怒、欲殺嵩、考殺隨嵩行者、知嵩無他意、乃止。表雖外貌儒雅、而心多疑忌、皆此類也。
このころ劉表は荊南の張羨と絶賛抗争中で、中原の事に介入する余裕はありません。
従事中郎韓嵩・別駕劉先が劉表に説いた「豪傑が揃って争い、両雄が相い対峙しており、天下の重責は将軍に在ります。将軍が何かを為そうとするならその疲弊に乗じるべきで、もしそうでないなら、従う先を何としても択ぶべきです。将軍は十万の軍兵を擁し、安坐しつつ観望しております。そも賢者を見ながら助けもせず、和を請うても得られないとなれば、この両者の怨みは必ず将軍に集まり、将軍は中立出来なくなりましょう。曹公の明哲と、天下の賢俊が皆なこれに帰している事から、その形勢として必ず袁紹を挙(おと)し、然る後に兵を称えて江漢に向う事になりましょう。恐らく将軍では禦ぐ事はできますまい。そのため将軍の為に計れば、州を挙げて曹公に附すに越した事はありません。曹公は必ず重く将軍を徳としましょう。長らく福祚を享け、後嗣に垂る、これぞ万全の策というものです」
劉表の大将の蒯越も亦た劉表に勧めたが、劉表は狐疑し、かくして韓嵩を遣って曹操に詣らせてその虚実を観察させた。 韓嵩は還ると深く曹操の威徳を陳べ、劉表に子を遣って入質させるよう説いた。劉表は韓嵩が反いて曹操の為に説いているかと疑い、大いに怒り、韓嵩を殺そうとし、韓嵩に随行した者を拷殺したが、韓嵩に他意が無い事を知り、かくして止めた[6]。劉備奔表、表厚待之、然不能用。建安十三年、太祖征表、未至、表病死。
以後、曹操は曹仁・夏侯惇らを河南に留め、自身は河北四州の経略に集中します。劉表の消極性を指摘するなら、この袁紹の死後に関してとなります。ただ、“何もしない”消極性ではなく、天下を争うより荊南支配の確立と交州への進出を優先させたもので、両面作戦をやって失敗していたら 「根本の確立を疎かにした愚か者」 という事になっていたでしょう。
『後漢書』ではこの後に「荊州に二十年近くいたが、家に余財は無かった」 と、間接的に劉表の僭儀を否定しています。
初、表及妻愛少子j、欲以為後、而蔡瑁・張允為之支黨、乃出長子g為江夏太守、衆遂奉j為嗣。g與j遂為讎隙。越・嵩及東曹掾傅巽等説j歸太祖、j曰:「今與諸君據全楚之地、守先君之業、以觀天下、何為不可乎?」巽對曰:「逆順有大體、彊弱有定勢。以人臣而拒人主、逆也;以新造之楚而禦國家、其勢弗當也;以劉備而敵曹公、又弗當也。三者皆短、欲以抗王兵之鋒、必亡之道也。將軍自料何與劉備?」j曰:「吾不若也。」巽曰: 「誠以劉備不足禦曹公乎、則雖保楚之地、不足以自存也;誠以劉備足禦曹公乎、則備不為將軍下也。願將軍勿疑。」太祖軍到襄陽、j舉州降。備走奔夏口。
劉表は初めは劉gが自分に似ているから愛したが、後妻の蔡氏の姪を劉jに娶らせた事で蔡氏が劉jを支持し、劉gを事毎に讒言した。蔡氏の弟の蔡瑁と、外甥の張允が寵遇された。劉gは諸葛亮に諮り、殺された黄祖の江夏太守に転出した。
劉表が歿すると劉jは劉gに侯印を授けたが、劉gは怒って地に擲ち、喪に乗じて挙兵しようとした。たまたま曹操が新野に達したので江南に走った。 (『後漢書』)
赤壁の役の後、劉gは劉備の上表で荊州刺史となり、明年に歿した。 (『後漢書』)
太祖以j為青州刺史・封列侯。蒯越等侯者十五人。越為光祿勳;嵩、大鴻臚;羲、侍中;先、尚書令;其餘多至大官。
死者の生前の功業を称える“誄”というもので、過剰に装飾するのが通例です。又た蔡邕は劉表よりずっと前に殺されているので、荊州の蔡氏が作ったものを、誰かが『蔡邕集』に載録したのでしょう。全文訳は勘弁なので、本伝を補えそうな部分だけ抜粋します。
十旬は百日もしくは十ヶ月。スピード出世のような印象ですが、北軍中候は校尉がそれぞれ領する五営を監督する官なので、六百石を以て二千石を監察するという点では横滑りです。
むしろ着任時期に注目。王叡が殺されたのが山東起義とは関係なかった事が判ります。
淄沂は青州・徐州の界隈。東方にだけ随分と大きく出たものです。袁術包囲網の一環として陶謙と提携していたか、それを朝廷から促されていた可能性を示しています。
州牧に遷ったのは李傕らのバラ撒き政策によるものですが、『三國志』とは将軍号が違います。
鍾繇が御史中丞に就いたのは洛陽還御後なので、董承・趙岐の要請で洛陽の再建に協力した返礼措置か、本文で触れられている許遷都後の貢献の報答でしょう。鎮南将軍でありながら開府儀同三司とか錫鼓吹大車とか破格の厚遇なのは、当時は上位の将軍号が埋まっていた為かと思われるので、やはり洛陽再建への返礼でしょう。
これも上記の措置とそれほど隔たっていない時期のものと思われますが、鎮南将軍・領荊州牧・仮節が別々に授けられた事が判ります。陳寿ってば本当にまとめ癖がついてるんだから…。
荊州に并督交・揚・益三州ということで、周瑜・甘寧らの天下二分の計の源かもですが、これら朝廷に背いている各州を討てという事でもあり、袁術の存命中の事となります。思わぬところで孫策に 「曹操・董承・劉璋と合力して劉表・袁術を討て」 との詔勅があったという『江表伝』への反証が出てきました。
どこまで信じていいか判断に困りますが、張懌を滅ぼした劉表が交州へも影響力を及ぼしつつあったという傍証にはなるかと思われます。何度も云いますが、官渡〜赤壁の間、劉表は決してのんべんだらりとしていた訳ではありません。
洛陽では霊帝の時代、当時の錚々たる学者を集めて『五経石碑』なるものが建てられました。謂わばその荊州バージョンを作ったというものです。当時の荊州には太学系の学士が大量に流入し、荊州側でも洛陽の学統を正しく継ぐのは吾らだ! という機運が昂揚していたからこその措置でしょう。王暢の孫の王粲などはその代表格です。
『三國志』『後漢書』とも記さない劉表の享年が、これによって判ります。
前者は山陽郡の、後者は全国版の番付ですが、范曄『後漢書』が載せる太学の番付も又た違っています。郷党意識の盛り上がりにより、さまざまな集団が独自の番付を作っていたんでしょう。范曄『後漢書』はこの情報をもとに劉表も党錮の獄に遭い、解除されるまで逃げ切ったとしています。
―― 劉表は同郡の王暢に学問を受けた。王暢は南陽太守となり、行ないは倹約に過ぎた。劉表は時に齢十七であったが、諫言を進めて 「僭上ではない奢侈、下に逼らない倹約こそ中庸の道であり、だから蘧伯玉は独り君子でいる事を恥じたのです。府君は孔聖(孔子)の明訓を師とせず、伯夷・叔斉の末操を慕い、皎然として自ら世に遺失されるおつもりか!」 王暢 「倹約で失った者は少ない。これによって風俗を矯めるのだ」 (謝承『後漢書』) 王暢は二世三公の名門で、三国志的には王粲の祖父にあたります。帝郷として豪族が好き放題をやっている南陽を統治する上で相当苦労した人です。劉表に諫められる以前、法を厳格に改正して奢侈や非法を取り締まった処、「豪族は宗室との繋がりが強く、一たび謗られたらイチコロですよ」 と忠告されて率先倹約に転じたそうです。
ただ、劉表17歳というと158年となりますが、范曄『後漢書』によると、王暢は陳蕃が太尉の時代に南陽太守に就いているので、その就任は早くとも165年となります。范曄が挿入箇所を間違えたとするのが無難です?
荊州の伝統的な治所は武陵郡の漢寿(常徳市)。つまり江南です。
呉人の蘇代は長沙太守を領し、貝羽は華容県長となり、各々兵を阻(たの)んで乱を作していた。劉表は初めて到るや単馬にて宜城(襄陽市宜城)に入り、中廬の人の蒯良・蒯越や襄陽の人の蔡瑁を延(まね)いて与に謀った。劉表 「宗賊は甚だ盛んで、しかも民衆は附属せず、袁術はこれに乗じ、禍は今にも至りそうだ! 私は徴兵したいが、恐らくは集まるまい。どうにか策はないか?」 蒯良 「民衆が附属しないのは仁が足りないからで、附属しても治まらないのは義が足りないからです。苟くも仁義の道が行なわれれば、百姓は水が下(ひく)きに赴くように帰しましょう。どうして至る所での従わざるを患(うれ)え、興兵と策を問うのでしょうか?」 劉表が顧みて蒯越に問うた。蒯越 「治平とは仁義を先にし、治乱とは権謀を先にするものです。兵事は多きに在るのではなく、人材を得る事に在るのです。袁術は勇者ではあっても決断が無く、蘇代・貝羽は皆な武人であって思慮に足りません。宗賊の帥は多くが貪暴で、下属が憂患しています。私が素より養っている者があり、その者に利を以て示させれば、必ず衆を率いて来るでしょう。君はその無道の者を誅し、(余衆を)撫して用いるのです。州の人は生存を楽しむ心を生じ、君の盛徳を聞けば、必ず襁を負って至るでしょう。兵が集まり民衆が附属し、南は江陵に拠り、北は襄陽を守り、荊州八郡に檄を伝えれば定まりましょう。袁術らが至ったとしても何も出来ますまい」『後漢書』ではさらに、劉表が手懐けた賊を手駒として活用して治安維持に成功した事、荊州に流入した学士が“関西・兗州・豫州の数千人”だったとしています。
建安の初めに、荊州が劉表の妻の死で衰え、劉表の死で終わるとの童謡が流行った。華容の女子がある日突然、劉表が死んだと泣いた。数百里離れた襄陽に確認すると事実だった。後に李立が刺史になる事を予言して当った。
劉表が“天地を郊祀”した事は、この『先賢行状』の他、『零陵先賢伝』の劉先伝で言及されています。天地郊祀は天子の儀式であり、そのため范曄『後漢書』では 「劉表の僭儀」 が詳細に語られています。又た同書では劉焉と劉表が互いに相手の僭儀を謗った事にも触れていますが、いくら両者が感情的に対立していたとはいえ、劉表が荊南を接収する以前に僭儀を用いては不自然なので、こちらは范曄お得意の 「順わない者は徹底的に貶める」 筆法かと思われます。
※ 黄帝と天下を争った、中国神話で最兇とされる悪神。
―― 劉先の外甥でもある同郡の周不疑は字を元直といい、零陵の人である。評曰:董卓狼戻賊忍、暴虐不仁、自書契已來、殆未之有也[1]。袁術奢淫放肆、榮不終己、自取之也[2]。袁紹・劉表、咸有威容・器觀、知名當世。表跨蹈漢南、紹鷹揚河朔、然皆外ェ内忌、好謀無決、有才而不能用、聞善而不能納、廢嫡立庶、舍禮崇愛、至于後嗣顛蹙、社稷傾覆、非不幸也。昔項羽背范摧V謀、以喪其王業;紹之殺田豐、乃甚於羽遠矣!