三國志修正計画

三國志卷六 魏士六/董二袁劉傳 (五)

袁術

 袁術字公路、司空逢子、紹之從弟也。以侠氣聞。舉孝廉、除郎中、歴職内外、後為折衝校尉・虎賁中郎將。董卓之將廢帝、以術為後將軍;術亦畏卓之禍、出奔南陽。會長沙太守孫堅殺南陽太守張咨、術得據其郡。南陽戸口數百萬、而術奢淫肆欲、徴斂無度、百姓苦之。既與紹有隙、又與劉表不平而北連公孫瓚;紹與瓚不和而南連劉表。其兄弟攜貳、舍近交遠如此。引軍入陳留。太祖與紹合撃、大破術軍。術以餘衆奔九江、殺揚州刺史陳温、領其州。以張勳・橋蕤等為大將。李傕入長安、欲結術為援、以術為左將軍、封陽翟侯、假節、遣太傅馬日磾因循行拜授。術奪日磾節、拘留不遣。

 袁術、字は公路。司空袁逢の子で、袁紹の従弟である。侠気によって世に聞こえた。

 『魏書』および袁山松『後漢書』は、袁術の異母兄の袁紹が伯父の家を嗣いだとしています。
『後漢書集解』は洪吉亮の説として、「『英雄記』および范曄『後漢書』では袁紹は幼時に父を喪ったとあるが、袁逢は178年には司空として存命しており、一方の袁紹は188年に佐軍校尉となっている。この年齢差で“幼にして孤”は成立しない故、袁紹と袁術を異母兄弟とする説は成立しない」 としているそうです。

 諸公子と与に鷹・狗を好んだが、後に改心して孝廉に挙げられた。後に河南尹、虎賁中郎将を歴任した。 (『後漢書』)

孝廉に挙げられて郎中に叙され、内外の職を歴任し、後に折衝校尉・虎賁中郎将となった。董卓が帝を廃そうとした時に袁術を後将軍とした。袁術も亦た董卓が禍う事を畏れ、南陽に出奔した。折しも長沙太守孫堅が南陽太守張咨を殺した処で、袁術はその郡に拠る事ができた。

 袁術は上表して孫堅に中郎将を仮した。北上した孫堅は南陽太守張咨に兵糧を求めたが、得られなかった。 (『献帝春秋』)
 袁術は上表して孫堅を領豫州刺史とし、荊・豫の兵を率いて董卓を陽人で撃破させた。 (『後漢書』)

南陽の戸口(戸籍登録された人口)は数百万だったが、袁術は奢淫にして欲心を肆(ほしいまま)にし、徴斂(徴収)には度(かぎり)が無く、百姓はこれを苦しんだ。既に袁紹とは隙があり、又た劉表とも平らかでなく、北のかた公孫瓚と連なり、袁紹は公孫瓚と不和だったので南の劉表と連なった。兄弟は携弐(背き合い)し、近きを捨てて遠きと交わるのはこの通りであった[1]

 別に批判されるべき政略じゃありません。遠交近攻策は秦が諸国を統一した成功例なので、結果から批判しているだけです。批判するなら寧ろ 「捨親交疎」 と云うべきでしょう。

 袁紹が袁術・孫堅の留守に乗じて会稽の周マを豫州刺史とした為、これを撃破した。袁紹より劉虞擁立を諮られたが、袁術は放縦を好んだので拒んだ。これらによって両者は不和となり、各々外に党援と交わった。豪傑の多くが袁紹に附した為、袁術は 「群豎は家奴に従うか!」 と怒り、又た公孫瓚に与えた書では 「袁紹は袁氏の子ではない」 と云った。 (『後漢書』)

(193年の春、)軍を率いて陳留に入った。曹操が袁紹と合して討ち、大いに袁術の軍を破った。
 公孫瓚・陶謙は袁術に応じて兵を冀州・兗州に進めたが、曹操・袁紹に撃退された。初平四年(193)春、劉表が袁術の糧道を絶った。袁術は黒山賊や南匈奴らと呼応して陳留郡に進み、将軍の劉詳を匡亭(新郷市長垣)に遣った。劉詳が曹操に撃たれた為、これに来援して匡亭(長垣西南)で大破された。封丘(河南省新郷市)を逐われ、襄邑(商丘市睢県)に走り、寧陵(商丘市)でも敗れて九江郡(治所は寿春)に遁れた。 (武帝紀)

 劉表に逐われて陳留に進んだとありますが、寧ろ出征した処で糧道を断たれ、これが重大な敗因になったものと思われます。因みに、袁術と陶謙が同じ閥内にいた事を直接表記しているのは『三國志』ではこの一節だけです。

袁術は残余の軍兵を以て九江に奔り、揚州刺史陳瑀を逐ってその州を領有した[2]。張勲・橋蕤らを大将とした。

 袁術は領揚州刺史を称し、又た徐州伯とも称した。 (『後漢書』)

 これ以後、袁術伝に橋蕤は出てきませんが、 1.建安十八年の曹操への策命で、非群雄でありながら袁術と併記されるという扱いを受け、何夔伝でも 「袁術が橋蕤と倶に蘄陽を攻囲した」 と異例の書き方をされています。又た『後漢書』では、 2.袁術が使者の韓胤を殺された報復として呂布を撃った時、捕虜とされながらも釈放されたと解釈できる書き方がされています。
1.からは袁術の勢力が橋蕤との連合同然であったこと、2.からは橋蕤が徐州の勢門の出身、もしくは呂布の袁術に対する敵対行為が本意ではなく、当初から和解を模索していた事が想像できます。

李傕は長安に入ると袁術と結んで援けにしようとし、袁術を左将軍とし、陽翟侯に封じ、節を仮して太傅馬日磾を遣り、循行に因んで拝授させた。袁術は馬日磾の節を奪い、拘留して遣らなかった[3]

 時沛相下邳陳珪、故太尉球弟子也。術與珪倶公族子孫、少共交游、書與珪曰:「昔秦失其政、天下羣雄爭而取之、兼智勇者卒受其歸。今世事紛擾、復有瓦解之勢矣、誠英乂有為之時也。與足下舊交、豈肯左右之乎?若集大事、子實為吾心膂。」珪中子應時在下邳、術並脅質應、圖必致珪。珪答書曰:「昔秦末世、肆暴恣情、虐流天下、毒被生民、下不堪命、故遂土崩。今雖季世、未有亡秦苛暴之亂也。曹將軍神武應期、興復典刑、將撥平凶慝、清定海内、信有徴矣。以為足下當勠力同心、匡翼漢室、而陰謀不軌、以身試禍、豈不痛哉! 若迷而知反、尚可以免。吾備舊知、故陳至情、雖逆于耳、骨肉之惠也。欲吾營私阿附、有犯死不能也。」

 時の沛相である下邳の陳珪は、故太尉陳球の弟の子である。袁術は陳珪とは倶に公族の子孫であり、若き時より共に交游しており、陳珪に書簡を与え 「昔、秦はその政事を失い、天下の群雄は争ってこれを取り、智勇を兼ねた者が卒(つい)にその帰結を受けた。今、世事は紛擾し、復た瓦解の情勢にあり、誠に英乂(英傑)が為すべき時だ。足下とは旧交があり、左右の者となる事を肯んじて頂けようか? (そうしてもらえれば、)もし大事を集成した時には、子はまことに吾が心膂となろう」
陳珪の中子の陳応は時に下邳に在り、袁術は同時に脅迫して陳応を質とし、陳珪が必ず来致するよう図った。陳珪は答書にて 「昔の秦末の世は、暴や情をほしいままにし、暴虐は天下に流れ、毒は生民を被い、下は命に堪えられず、そのため遂に土崩しました。今は季世(末世)とはいえ、未だ亡秦の苛暴の乱には至っていません。曹将軍の神武は期待に応えるもので、典刑を復興し、凶慝を撥平(討伐)して海内を清定せんとし、まことに徴(しるし)があります。足下は勠力(合力)同心して漢室を匡翼(輔弼)するかと思えば、不軌を陰謀し、身を以て禍を試されようとはなんと痛ましい事でしょう! もし昏迷しても反いている事を知るなら、尚お免れましょう。吾が旧知であると思えばこそ至情を陳べたもので、耳に逆らおうとも骨肉に対する恵なのです。吾営(自陣営)に阿附させようとも、死を犯しても叶わぬ事です」

 袁術が下邳にまで出てきています! 前後の繋がりが正しければ、曹操の乱入で徐州が大混乱している最中でしょう。いわば火事場泥棒です。まだまだ曹操は“神武”と呼ばれるような働きはしておらず、もちろん典刑を興復だの漢室を匡翼だのとは無縁です。 呂布の簒奪がらみのドタバタに乗じて、という事なら許遷都後となり、「曹将軍の神武は〜」 というのも妥当になりますが、どちらにしても下邳陳氏は根っから袁術に従ってはいませんよー、という主張以外に意義は無さそうです。

 興平二年(195)十二月、(揚州刺史劉繇を江東から逐った)孫策を上書に行殄寇将軍とした。 (『呉録』)

 興平二年冬、天子敗於曹陽。術會羣下謂曰:「今劉氏微弱、海内鼎沸。吾家四世公輔、百姓所歸、欲應天順民、於諸君意如何?」衆莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王、積コ累功、三分天下有其二、猶服事殷。明公雖奕世克昌、未若有周之盛、漢室雖微、未若殷紂之暴也。」術嘿然不ス。用河内張烱之符命、遂僭號。以九江太守為淮南尹。置公卿、祠南北郊。荒侈滋甚、後宮數百皆服綺縠、餘粱肉、而士卒凍餒、江淮闍盡、人民相食。
術前為呂布所破、後為太祖所敗、奔其部曲雷薄・陳蘭于灊山、復為所拒、憂懼不知所出。將歸帝號於紹、欲至青州從袁譚、發病道死。妻子依術故吏廬江太守劉勳、孫策破勳、復見收視。術女入孫權宮、子燿拜郎中、燿女又配於權子奮。

 興平二年(195)冬、天子が曹陽で敗れた。袁術が群下を会集して謂うには 「今、劉氏は微弱で、海内は鼎沸している。吾家は四世の公輔で、百姓が帰している。天に応じ民に順おうと思うが、諸君の意(おもい)はどうか?」 人々には対えようとする者は莫なかった。主簿閻象が進み 「昔、周は后稷より文王に至るまで、徳を積み功を累ね、三分した天下のその二を有しても、猶お殷に服事しました。明公は奕世でよく昌んとはいえ、未だ周の盛時の如くではなく、漢室は衰微したとはいえ、未だ殷紂の暴の如くではありません」 袁術は嘿然(黙然)として不悦(不快)となった。

 張範は袁術の召しに応じず、弟の張承を遣って諫めさせたが、袁術は悦ばなかった。 (張範伝)

 袁術は建安元年に董承と協力して、献帝を迎えに来た曹洪を撃退しています。董承といえば献帝の東帰を主導した一人ですが、これは天子や百官の望京の念だけで行なえるものではなく、相応のアテがあった事は容易に想像できます。朝廷の重鎮の楊彪は袁術の妹婿なので、その伝手でも介して連絡を取り合っていたのでしょうか。そうであれば楊彪に対する曹操の警戒感も理解できますし、曹操が殺した侍中台崇・尚書馮碩が袁術派だったという想像も膨らみます。
 では袁術はこの時点でも献帝を奉じる気があったのかというと、非常に微妙です。なにせ献帝の帰京前から表立った動きも無いまま、許遷都を妨げもせずに、翌春には僭称していますので。本伝では曹陽の敗戦から僭称までを連続して描いていますが、実際には1年以上のインターバルがあります。
 尚お、『後漢書』では孫堅の妻を人質にして伝国璽を奪った逸話を採用し、それ以前から舜に連なる血統や讖緯を語らせて僭逆の意図があったとしています。

 袁術は劉備が徐州を領したと聞き、これを攻めた。盱眙(淮安市)・淮陰(淮安市楚州区)で攻防した。この歳は建安元年(196)である。 (先主伝)

河内の張烱の符命を用い、遂に僭号した[4]。九江太守を淮南尹とした。公卿を置き、南郊・北郊を祠った。荒侈は滋(いよい)よ甚だしく、後宮の数百人は皆な綺縠を服(まと)い、粱・肉は余ったが[5]、士卒は凍餒(飢え凍え)、江淮の一帯は空尽して人民は相い食んだ。
 建安二年(197)春、袁術は韓胤を使者として呂布に帝号の事を報じ、併せてその娘との通婚を求めた。呂布は沛相陳珪の勧めで韓胤を曹操に送った。袁術は張勲らに呂布を撃たせたが、韓暹・楊奉らが呂布に与した為に大敗した。 (呂布伝)
  袁術は大将の張勲・橋蕤らを遣り、歩騎数万で七道より呂布を攻めた。 (『後漢書』)
 九月、袁術が陳を侵し、曹操に討たれた。 (武帝紀)
  袁術は陳に糧を求めたが、国相の駱俊に拒まれた為、客を遣って駱俊と陳王劉寵を殺させた。 (『後漢書』)
 曹操が東進むと袁術は後退し、橋蕤・李豊・梁綱・楽就らが壊滅させられると淮南に遁走した。 (武帝紀)
  袁術は橋蕤・張勲を蘄陽(宿州市区)に留めて曹操を拒がせた。 (『後漢書』)
 建安三年(198)、呂布が再び通誼して沛の劉備を逐った。十月、呂布は曹操に攻囲されたが、袁術は救えなかった。 (呂布伝)
  沛相の舒仲応は袁術より与えられた軍糧十万斛を悉く飢民に給した。袁術は怒って斬った。 (『後漢書』)

 僭称してからの動きが超省略されていたので、各書各伝から補いました。許のある潁川郡に隣接する陳王国に対して 「糧を求めた」 という事から、豫州のかなりの部分に影響力を及ぼしていた事が観取できます。曹操と呂布との抗争で勢力を回復できたのでしょう。本当に呂布に大敗したのか、そもそも本当に決裂したのかと疑い出すとキリがありません。

袁術は前(さき)に呂布に破られ、後に曹操に敗れ、その部曲の雷薄・陳蘭の(拠る)灊山(安慶市潜山西北界)に奔ったが、復た拒がれ、憂懼して身の置き所も分らなかった。帝号を袁紹に帰そうとし、青州に至って袁譚に従おうとしたが、病を発して道中で死んだ[6]

 袁術は劉備に遮られて寿春に還った。六月に江亭で病を結び、血を吐いて憤死した。 (『後漢書』)

妻子は袁術の故吏の廬江太守劉勲に依り、孫策が劉勲を破ると、復た収視(収養)された。袁術の娘は孫権の宮に入り、子の袁燿は郎中に拝され、袁燿の娘は又た孫権の子の孫奮に配偶された。

 袁術は漢にとっても曹魏にとっても孫呉にとっても批判する上で一切の容赦を必要としない点、董卓・李傕・郭・呂布と同様です。謂わば史家にとってのサンドバッグ。殊に僭称してしまったのは致命的で、全ての史書で悪い方向に書かれ、逆に事績が見えにくくなっています。 例えば袁術伝本文の素っ気なさは、陳寿なりの 「分不相応な行ないには報いがある」 という事の究極的表現でしょう。又た南陽や淮南の荒廃についても、時期的に戦乱と天候不順が悪循環となって何年も不作の年が続いている時期で、曹操と呂布が蝗害で引き分けた一件はその一例に過ぎません。袁術にも原因はありますが、袁術だけに原因を負わせていると、江淮の長期にわたる荒廃が見逃されてしまいます。
 袁術は後世、末期の僭称によって都落ちをした頃から異志があったとされていますが、孫堅を擁して最も積極的に董卓を攻撃し、献帝からは劉虞との協働を打診されています。董卓・献帝をまとめて否定して独自の天子を立てようとした袁紹とは一線を画していて、当時は反董卓ではあっても反献帝ではないと認識されていたようです。そんな袁術は何処で宗旨替えをしたんでしょう。陳寿の謂う通りに曹陽の難が原因だとしたら、それは献帝一行が惨敗した事ではなく、尊王に動いた勢力が余りにも少なかった事で漢の求心力が失墜している事を理解したからではないでしょうか。
 ただ、僭称そのものについては、献帝が曹操に庇護された事で自棄になった結果だと思われます。袁紹をすら「家奴」と呼ばわる四世三公の正嫡としてのプライドが、宦官の孫に頭を下げる事を認めなかったのでしょう。

[1] 時に議者は、「霊帝が道を失って天下を叛乱させ、少帝は幼弱で賊臣が立てたものであり、又た母氏の出自も識られない」 と論じた。
幽州牧劉虞にはかねて徳望があり、袁紹らはこれを立てて時勢を安んじようとし、使者を立てて袁術に報じた。袁術は漢室の衰陵を観、陰かに異志を懐いており、そのため外面では公義に託して袁紹を拒んだ。
袁紹は復た袁術に書簡を与え、「以前に韓文節と共に永世の道を建て、海内に再興の主を出現させようとした。今、西には名分として幼君がいるが、血脉の属(宗属としての血縁)が無く、公卿以下は皆な董卓に媚び事え、どうして復た信じられようか! ただ兵を関要に駐屯させて、皆な自ずと西方に死を逼るのだ。東に聖君を立てて太平を冀うのに、どうして疑うのか! 又た室家(宗族)が戮されたのに、伍子胥を念わずに、復た北面するのか? 天に違える事は不祥である。願わくば詳らかにこれを思わん事を」
袁術が答えるに 「聖主は聡叡で、周成王の資質がある。賊の董卓は危乱の際に乗じて百寮を威服した。これは漢家が小厄に会ったというものだ。乱は尚お未だ罷んでいないのに、復た興そうというのか。今上を指して“無血脉之屬”と云うが、どうして誣謗でないと謂えようか! (袁家は)先人以来、累世で相い承けて忠義を先としてきた。太傅公袁隗は仁慈にして惻隠(憐憫)し、賊の董卓が必ず禍害を為す事を知りながらも義に殉じる事を信義とし、去るに忍びなかったのだ。門戸は滅絶し、死亡・流漫したが、幸いにも遠近から助けに赴く者が来てくれたのだ。この時に上は国賊を討たず、下は家恥を雪がずにこの様な事を図るとは、とうてい聞けるものではない。又た“室家見戮、可復北面”と云うが、これは董卓の為した事で、どうして国家の為した事であろうか? 君命とは天であり、天に讐なす事はできず、ましてや君命ではなかったのだぞ! 赤心は慺慺(慎み勤め)とし、志は董卓を滅ぼす事に在り、その他の事は考えていない」 (『呉書』)

 『呉書』の見解としては、袁術は董卓の存命中から異志満々だったとしております。孫堅は漢朝の為だと騙され、態よく利用された挙句に荊州でドジ踏んだ非業の最期を遂げた事にしたいんでしょう。奇しくも百十余年後、西晋の混乱は長安遷都が強行されて本格化し、僭称者が乱立しましたが、それは『呉書』の編者である韋昭も知らない事です。この当時から袁術の僭意を示すものは確認できず、陳寿すら、きっかけは曹陽の役に設定しています。

[2] 陳温、字は元悌。汝南の人である。揚州刺史となった後、自ら病死した。袁紹が袁遺をやって領州させたが、敗散して沛国に奔り、兵に殺された。袁術が更めて陳瑀を用いて揚州刺史とした。
 陳瑀、字は公瑋。下邳の人である。陳瑀が州を領した後、袁術は封丘(の匡亭)で敗れ、南の寿春に向った処、陳瑀は袁術を拒いで納れなかった。袁術は退いて陰陵(滁州市定遠)を保ち、更めて軍を糾合して陳瑀を攻め、陳瑀は懼れて下邳に走帰した。 (『英雄記』)
―― この通りなら、陳温は袁術に殺されたのではなく、本伝とは同じでない。

 陳瑀は陳登の動向を理解する上で欠かせませんが、ここの他、孫策伝、呂範伝、さらに『後漢書』陳球伝にバラけてしまっています。残念なのでまとめてみました。

陳瑀

 陳瑀、字は公瑋。下邳の人である。 (『英雄記』)

 (太尉)陳球の子であり、弟の陳jは汝陰太守。陳球の弟の子の陳珪は沛国相、陳珪の子の陳登は広陵太守。揃って名を知られた。 (范曄『後漢書』)

 陳瑀は孝廉に挙げられ、公府に辟され、洛陽の市長となった。後に太尉府に辟されたが、なかなか上京せず、永漢元年(189)に議郎に就いた。次いで呉郡太守に遷されたが、就かなかった。 (謝承『後漢書』)

 許靖は…豫州刺史孔伷が死ぬと揚州刺史陳禕に依った。陳禕が死ぬと呉郡都尉許貢・会稽太守王朗に往った。 (『三國志』許靖伝)

 揚州刺史陳温が病死した。袁紹によって領揚州とされた袁遺が敗走し、袁術は陳瑀を用いて揚州刺史とした。陳瑀が揚州を領した後、袁術は封丘で敗れて寿春に向ったが、陳瑀は袁術を納れなかった。袁術は陰陵に退き、兵を糾合して陳瑀を攻めた。陳瑀は懼れて下邳に奔った。 (『英雄記』)

 初平三年(192)、揚州刺史陳禕が死に、袁術は陳瑀を領揚州牧とした。
後に袁術が封丘で曹操に敗れると、陳瑀は南人の造叛に対処した。袁術は陰陵に敗走すると好辞にて陳瑀に遜ったが、陳瑀は権謀を知らず、又た怯えた事もあり、即座には袁術を攻めなかった。袁術は淮北で兵を集めると寿春に向い、陳瑀は懼れて弟の陳jを使者として和を請うたが、袁術はこれを執えて進軍した。陳瑀は下邳に退走した。(『九州春秋』)

 当時、下邳の陳瑀は呉郡太守を自称して海西に駐まり、強族の厳白虎と交通していた。孫策は自ら厳白虎を討ち、別に呂範と徐逸を遣って陳瑀を大破させた。 (『三國志』呂範伝)

 袁術が僭称した後、詔書にて領会稽太守孫策および平東将軍・領徐州牧呂布と行呉郡太守・安東将軍陳瑀とに袁術を討つことが命じられた。 この時、陳瑀は海西に屯していたが、孫策の襲撃を図って都尉万演らを密かに渡江させ、江東の諸々の険悪な県の大帥の祖郎・焦已および呉郡烏程の厳白虎らに印章を与えて内応させ、孫策が軍を動かすと同時に諸郡を攻取しようとしていた。孫策はこれを覚り、呂範・徐逸を遣って海西に陳瑀を大破させ、吏士とその家族四千人を獲た。 (『江表伝』)

 陳瑀は単騎で冀州に走り、自ら袁紹に帰順し、袁紹は故安都尉とした。 (『山陽公載記』)

 揃いも揃って信憑性に難有りな資料なのが難点ですが、孫策を讃える記述と小説っぽい部分を警戒すればそれなりのものは見えてきます。焦点は陳瑀が揚州刺史に就いたかどうかですが、ダブスタと云われようと、私は就いた方を支持します。袁術の陳瑀との確執は極言すれば内輪揉めなので、朝敵袁術を強調するなら陳温を殺させるべきです。陳禕=陳温は確定させて良さそうですが、許靖伝で“殺”ではなく“死”とあるのも、病死説を補強します。何より、陳瑀が揚州刺史を逐われた方が陶謙vs袁術が盛り上がるじゃないですか! 陳瑀の背後には陶謙がいた! これは私の中でほぼ確定事項です。

[3] 馬日磾、字は翁叔。馬融の族子である。若くして馬融の学業を伝え、才と学によって進挙された。楊彪・盧植・蔡邕らと中書の校訂を典り、九卿を歴任し、遂に台輔(三公)に登った。 (『三輔決録』注)
―― 袁術は馬日磾より節を借りて観、奪って還さず、軍中の千余人を記して、辟するよう督促させた。馬日磾が袁術に謂うには 「卿の家の先の世の諸公は、士を辟すのにどうしたのか。言葉でこれを促すとは、公府の掾を脅して得ようと謂うのか!」 袁術より去る事を求めたが、袁術は留めて遣らなかった。既に節を失った屈辱があり、憂恚して死んだ。 (『献帝春秋』)

 『後漢書』では、そもそも馬日磾が袁術に追従の色を示したのがイケナイとし、同書の孔融伝では、孔融は馬日磾の行為を 「奸臣に媚びて上表の類いには全て署名した」 事を理由に国葬を諫め、最後に 「陛下が追慕しているのなので罪の追及はしませんよ」 とまで云わせています。

[4] 袁術は、袁姓が陳氏に出自し、陳氏は舜の後裔であり、土が火を承ける事から(漢は火徳、舜は土徳)、五行の運行の順次に相応していると考えた。又た讖文が 「代漢者、當塗高也」 と云っているのを見て、自らの名字がこれに当ると考え、かくして号を建てて仲氏と称した。 (『典略』) 『後漢書』にて採用

 こんなで理解すると思うなよ、魚眷と裴松之め! “塗”は途の事で、術のかまえの“行(ゆきがまえ)”と公路の“路”が同じ意味であることから、「漢に代って高くなるのは袁術に該当する」 と考えたそうです。仲は“沖(のぼる)”だとするテキストもあるそうです。

[5] 司隸の馮方の娘は傾国の容色で、乱を揚州に避けていた。袁術は城に登って見ると悦び、かくて納れて甚だ愛幸した。諸婦はその寵愛を損なおうと馮娘に語るには 「将軍は志節ある人を貴ばれます。時時(おりおり)に涕泣・憂愁すればきっと長らく敬重されましょう」 馮氏は然りとし、後に袁術にまみえる都度に垂涕し、袁術は心に志があると考え、益々これを哀れんだ。諸婦人はこのため共に絞殺し、厠の梁に懸けた。袁術はまことに志を得ずに死んだのだと考え、かくして厚く殯斂を加えた。 (『九州春秋』)
[6] 袁術は帝号を袁紹に帰すにあたり、「漢が天下を失って久しく、天子を提挈(引き連れ)する家門に政事は在り、豪雄は角逐して疆宇(天下)は分裂し、これは周の末年に七国に分れた情勢と異ならず、ついに彊者が兼併するだけです。加えて袁氏が王たるの天命を受けていること、符瑞にも炳然(歴然)としています。今、君は四州を擁有し、民戸は百万。強き事は大きさを比較する相手とて無く、徳を論じて高さを比較する相手もおりません。曹操は衰弱を扶拯しようとしていますが、どうして絶命したものを続かせ、已に滅んだものを救えましょうか?」 袁紹は陰かに然りとした。 (『魏書』) 『後漢書』にて採用
―― 袁術は雷薄らに拒がれた後、留駐すること三日。吏士・軍兵の糧が絶え、かくして還って寿春を去ること八十里の江亭に至った。厨房に問うた処、麦屑三十斛があるだけだった。時に盛暑であり、蜜漿を欲したが、又た蜜は無かった。櫺子の牀上に坐し、歎息することやや久しく、かくして大きく叫んだ 「袁術がここに至ろうとは!」。牀下に頓伏し、嘔血すること一斗余にして死んだ。 (『呉書』)
 

劉表

 劉表字景升、山陽高平人也。少知名、號八俊。長八尺餘、姿貌甚偉。以大將軍掾為北軍中候。靈帝崩、代王叡為荊州刺史。是時山東兵起、表亦合兵軍襄陽。袁術之在南陽也、與孫堅合從、欲襲奪表州、使堅攻表。堅為流矢所中死、軍敗、術遂不能勝表。
李傕・郭入長安、欲連表為援、乃以表為鎮南將軍・荊州牧、封成武侯、假節。天子都許、表雖遣使貢獻、然北與袁紹相結。治中ケ羲諫表、表不聽、羲辭疾而退、終表之世。

 劉表、字は景升。山陽高平の人である。少(わか)くして名を知られ、八俊と号(よ)ばれた[1]。身長八尺余、姿貌は甚だ雄偉だった。大将軍掾として北軍中候となった。霊帝が崩じ、王叡に代って荊州刺史となった。このとき山東で兵が起り、劉表も亦た兵を糾合して襄陽に駐軍した[2]

 時系列をご覧ください。王叡が孫堅に殺されてから山東起兵という流れになっていて、孫堅の挙兵が袁紹らとの動きとは無関係である事が示されています。『劉鎮南碑』では劉表の着任は初平元年(190)の十一月となっています。劉表の叙任は董卓の政権下で行なわれ、襄陽を治所としたのは袁術を拒ぐ為かと思いますが、実際に朝廷と山東のどちらに与したかは定かではありません。というより、荊州の鎮撫に奔走している間に世間が次のステージに突入してしまったのでしょう。

 劉表は上書して袁術を南陽太守とした。 (『後漢書』)

 一体どこ由来の情報なのか。范曄が『三國志』を読んで、劉表も山東に呼応して襄陽に兵を進めたと解釈できる事に注目し、“恩人を攻撃させた袁術”にしたものと思われます。

袁術は南陽に在って孫堅と合従し、劉表の州を襲奪しようとし、孫堅に劉表を攻めさせた。孫堅が流れ矢に中って死んだ為に軍は敗れ、袁術はかくて劉表に勝てなかった。
李傕・郭は長安に入ると、劉表と連なる事で支援させようとし、かくして劉表を鎮南将軍・荊州牧とし、成武侯に封じ、節を仮した。天子が許に都すると、劉表は遣使して貢物を献じはしたが、北のかた袁紹と相い結んだ。治中ケ羲が劉表を諫めたが、劉表は聴かず[3]、ケ羲は疾病を理由に退き、(そのまま)劉表の世を終えた。

 『後漢書』では李傕らが長安に入った冬に劉表の方から奉献しています。そして、許への通献は無かった事にされています。

張濟引兵入荊州界、攻穰城、為流矢所中死。荊州官屬皆賀、表曰:「濟以窮來、主人無禮、至于交鋒、此非牧意、牧受弔、不受賀也。」使人納其衆;衆聞之喜、遂服從。
長沙太守張羨叛表、表圍之連年不下。羨病死、長沙復立其子懌、表遂攻并懌、南收零・桂、北據漢川、地方數千里、帶甲十餘萬。

張済が兵を率いて荊州の界内に入り、穣城を攻め、流れ矢に中って死んだ。荊州の官属は皆な慶賀したが劉表は 「張済は困窮して来たのに、主人としての礼を為さずに鋒を交えるに至った。これは私の意図ではない。私は弔辞は受けても慶賀は受けぬ」 人にその軍兵を納めさせた。その衆はこれを聞いて喜び、かくて服従した。

 張済の族子の張繡がその衆を領し、劉表の為に宛に駐屯した。 (張繡伝)

長沙太守張羨が劉表に叛き[4]、劉表はこれを囲んだものの連年下せなかった。張羨が病死すると、長沙では復たその子の張懌を立てた。劉表はかくて攻めて張懌を併せ、南は零陵・桂陽を接収し、北は漢川に拠り、地は方数千里、帯甲兵は十余万[5]
 范曄『後漢書』では、張羨の挙兵は建安三年(198)の事で、他の資料から建安六年までは生きていた事が確認できます。劉表は官渡の役をのらりくらりと望見していた訳では決してありませんでした。又た孫呉サイドの資料では交州刺史張津として現れています。
  • 桓階伝:(桓階は嘗て孫堅により孝廉に挙げられた。)曹操が袁紹と官渡で対峙すると、長沙太守張羨は桓階の勧めで長沙および隣接する三郡を挙って劉表を拒ぎ、曹操に遣使した。劉表は急しく張羨を攻めた。張羨は病死した。城が陥ちた。
  • 孫策伝注『江表伝』:孫策曰く 「南陽の張津は交州刺史になると聖王の典訓を捨てて漢家の法律を廃し、邪俗の教えに親しんで天祐を恃んだが、たちまち南夷に殺された」。
  • 孫策伝注『士林』:官渡の役の後に夏候惇が送った石威則への手紙には 「孫賁に長沙を授け、張津の業務を零陵・桂陽とする」 とある。
  • 孫策伝注『交広二州春秋』:建安六年に張津は猶お交州牧であった。
  • 士燮伝:朱符の死後、漢は張津を遣って交州刺史とした。張津は後にその将の區景に殺され、荊州牧劉表が零陵の頼恭を代りとした。
  • 薛綜伝:薛綜曰く 「(朱符に)次いで南陽の張津が刺史となったが、荊州牧劉表と不和となり、実力比を顧みずに連年軍事を興したので諸将は厭戦した。張津はやや監察を強めたものの却って陵侮され、遂には殺された」。

 太祖與袁紹方相持于官渡、紹遣人求助、表許之而不至、亦不佐太祖、欲保江漢間、觀天下變。從事中郎韓嵩・別駕劉先説表曰:「豪傑並爭、兩雄相持、天下之重、在於將軍。將軍若欲有為、起乘其弊可也;若不然、固將擇所從。將軍擁十萬之衆、安坐而觀望。夫見賢而不能助、請和而不得、此兩怨必集於將軍、將軍不得中立矣。夫以曹公之明哲、天下賢俊皆歸之、其勢必舉袁紹、然後稱兵以向江漢、恐將軍不能禦也。故為將軍計者、不若舉州以附曹公、曹公必重コ將軍;長享福祚、垂之後嗣、此萬全之策也。」表大將蒯越亦勸表、表狐疑、乃遣嵩詣太祖以觀虚實。嵩還、深陳太祖威コ、説表遣子入質。表疑嵩反為太祖説、大怒、欲殺嵩、考殺隨嵩行者、知嵩無他意、乃止。表雖外貌儒雅、而心多疑忌、皆此類也。

 曹操と袁紹とが官渡で相い対峙した時、袁紹は人を遣って助けを求めさせ、劉表は許諾したものの至らず、亦た曹操を佐けず、江漢の間を保って天下の変異を観ようとした。

 このころ劉表は荊南の張羨と絶賛抗争中で、中原の事に介入する余裕はありません。

従事中郎韓嵩・別駕劉先が劉表に説いた

「豪傑が揃って争い、両雄が相い対峙しており、天下の重責は将軍に在ります。将軍が何かを為そうとするならその疲弊に乗じるべきで、もしそうでないなら、従う先を何としても択ぶべきです。将軍は十万の軍兵を擁し、安坐しつつ観望しております。そも賢者を見ながら助けもせず、和を請うても得られないとなれば、この両者の怨みは必ず将軍に集まり、将軍は中立出来なくなりましょう。曹公の明哲と、天下の賢俊が皆なこれに帰している事から、その形勢として必ず袁紹を挙(おと)し、然る後に兵を称えて江漢に向う事になりましょう。恐らく将軍では禦ぐ事はできますまい。そのため将軍の為に計れば、州を挙げて曹公に附すに越した事はありません。曹公は必ず重く将軍を徳としましょう。長らく福祚を享け、後嗣に垂る、これぞ万全の策というものです」

劉表の大将の蒯越も亦た劉表に勧めたが、劉表は狐疑し、かくして韓嵩を遣って曹操に詣らせてその虚実を観察させた。 韓嵩は還ると深く曹操の威徳を陳べ、劉表に子を遣って入質させるよう説いた。劉表は韓嵩が反いて曹操の為に説いているかと疑い、大いに怒り、韓嵩を殺そうとし、韓嵩に随行した者を拷殺したが、韓嵩に他意が無い事を知り、かくして止めた[6]
劉表は外貌は儒雅とはいえ心中では疑忌が多く、皆なこの類いであった。

 劉備奔表、表厚待之、然不能用。建安十三年、太祖征表、未至、表病死。

 劉備が劉表に奔ると、劉表は厚く待遇し、しかし用いる事ができなかった[7]
 建安八年(203)八月、曹操が南征して汝南の西平(河南省駐馬店市)に駐軍した。袁譚が救援を請うたため軍を反した。 (武帝紀)

 以後、曹操は曹仁・夏侯惇らを河南に留め、自身は河北四州の経略に集中します。劉表の消極性を指摘するなら、この袁紹の死後に関してとなります。ただ、“何もしない”消極性ではなく、天下を争うより荊南支配の確立と交州への進出を優先させたもので、両面作戦をやって失敗していたら 「根本の確立を疎かにした愚か者」 という事になっていたでしょう。

建安十三年(208)、曹操が劉表に遠征し、未だ至らずして劉表は病死した。

 『後漢書』ではこの後に「荊州に二十年近くいたが、家に余財は無かった」 と、間接的に劉表の僭儀を否定しています。

 初、表及妻愛少子j、欲以為後、而蔡瑁・張允為之支黨、乃出長子g為江夏太守、衆遂奉j為嗣。g與j遂為讎隙。越・嵩及東曹掾傅巽等説j歸太祖、j曰:「今與諸君據全楚之地、守先君之業、以觀天下、何為不可乎?」巽對曰:「逆順有大體、彊弱有定勢。以人臣而拒人主、逆也;以新造之楚而禦國家、其勢弗當也;以劉備而敵曹公、又弗當也。三者皆短、欲以抗王兵之鋒、必亡之道也。將軍自料何與劉備?」j曰:「吾不若也。」巽曰: 「誠以劉備不足禦曹公乎、則雖保楚之地、不足以自存也;誠以劉備足禦曹公乎、則備不為將軍下也。願將軍勿疑。」太祖軍到襄陽、j舉州降。備走奔夏口。

 これより前、劉表の妻への愛は少子の劉jに及び、後嗣にしようと考え、しかも蔡瑁・張允はその支党となり、かくして長子劉gを出して江夏太守とし、人々はかくて劉jを奉じて後嗣とした。劉gと劉jとはかくて讐隙を為した[8]

 劉表は初めは劉gが自分に似ているから愛したが、後妻の蔡氏の姪を劉jに娶らせた事で蔡氏が劉jを支持し、劉gを事毎に讒言した。蔡氏の弟の蔡瑁と、外甥の張允が寵遇された。劉gは諸葛亮に諮り、殺された黄祖の江夏太守に転出した。
 劉表が歿すると劉jは劉gに侯印を授けたが、劉gは怒って地に擲ち、喪に乗じて挙兵しようとした。たまたま曹操が新野に達したので江南に走った。 (『後漢書』)

蒯越・韓嵩および東曹掾傅巽らは劉jに曹操に帰すよう説いた。劉j 「今、諸君と全楚の地に拠り、先君の業を守って天下を観望しているのに、どうしてダメなのか?」
傅巽 「逆順には大体(道理)があり、彊弱には定まった勢いがあります。人臣として人主を拒ぐのは逆であり、新造の楚にて国家を禦ぐのは、その勢いとして当る事はできず、劉備によって曹操に敵しようにも又た当れません。三者は皆な短く、王兵の鋒に抗おうとしても必ず亡びるのが道理です。将軍は自らを料(はか)って劉備とはどうでしょう?」
劉j 「私は及ばない」
傅巽 「まことに劉備で曹操を禦ぐのに足りないなら、楚の地を保ったとしても自ら存続するには足りません。まことに劉備によって曹操を禦げるのなら、劉備は将軍の下とはなりません。願わくば将軍よ、狐疑する勿れ」
曹操の軍が襄陽に到ると、劉jは州を挙って降った。劉備は夏口に走奔した[9]

 赤壁の役の後、劉gは劉備の上表で荊州刺史となり、明年に歿した。 (『後漢書』)

 太祖以j為青州刺史・封列侯。蒯越等侯者十五人。越為光祿勳;嵩、大鴻臚;羲、侍中;先、尚書令;其餘多至大官。

 曹操は劉jを青州刺史とし、列侯に封じた[10]。蒯越ら侯となった者は十五人。蒯越を光禄勲[11]、韓嵩を大鴻臚[12]、ケ羲を侍中[13]、劉先を尚書令とし[14]、その他の多くが大官に至った。
劉鎮南碑

 君諱表、字景升、山陽高平人也。君膺期誕生、瑰偉大度、黄中通理、博物多識。為郡功曹、千里稱平。上計吏辟大將軍府、遷北軍中候、在位十旬、以賢能特選拜荊州刺史。初平元年十一月到官、清風先駆、莫不震肅、奸軌改節、不仁引頸。君乃布ト悌、流惠和、慕唐叔之野棠、思王遵之驅策、賦政造次、コ化宣行。
 俄而漢室大亂、禍起蕭墻、賦臣專政、豪雄虎爭、縣邑閭里、奸仇煙發、州縣殘破、天下土崩、四海大壞。當是時也、雖有孔・翟之聖賢、育貴之勇勢、無所措其智力。君遇險而建略、遭難而發權、招命英俊、援得驍雄、謀臣武將、合策明計。出次北境、遷屯漢陰、因滄浪以為隍、即春葉以為庸。南撫衡陽、東綏淄沂、西靖巫山、保乂四疆。選才任良、式序賢能、簡將命卒、棋布星陳、備要塞之處、戍八方之邊;勸穡務農、以田以漁、稔粟紅腐、年谷豐夥。江湖之中、無劫掠之寇、沅湘之間、無攘竊之民。郡守令長、冠帶章服、府寺亭郷、崇棟高門、皆如其舊;當世知名、輻輳而到、四方襁負、自遠若歸;窮山幽谷、于是為邦。百工集趣、機巧萬端、器械通變、利民無窮。鄰邦懷慕、交揚益州、盡遣驛使、冠蓋相望。下民有「康哉之歌」、群后有歸功之緒;莫匪嘉績、克厭帝心、即遷州牧、又遷安南將軍、領州如故。
 于時諸州或失土流播、或水潦沒害、人民死喪、百遺二三、而君保完萬里、至于滄海。聖朝欽亮、析圭授土、俾揚武威、遣御史中丞鍾繇即拜鎮南將軍、錫鼓吹大車、策命褒崇、謂之伯父;置長史司馬從事中郎、開府辟召、儀如三公。上復遣左中郎將祝耽授節、以揶ミ重、并督交・揚・益三州、委以東南、惟君所裁。雖周召授分陜之任、不過遠也。
 交州殊遠、王途未夷、夷民歸附、大小受命、其郡縣長吏有缺、皆來請之、君權為選置、以安荒裔、輒別上聞、齊桓遷邢・封衛之義也。武功既亢、廣開雍泮、設俎豆、陳壘彝、親行郷射、躋彼公堂、篤志好學、吏子弟受祿之徒、蓋以千計。洪生巨儒、朝夕講誨、ァァ如也。雖洙泗之間、學者所集、方之蔑如也。深愍末學遠本離質、乃令諸儒改定五經章句、刪劃浮辭、芟除煩重、贊之者用力少、而探微知機者多。又求遺書、寫還新者、留其故本、于是古典墳集、充滿州閭。及延見武將文吏、教令温雅、禮接優隆、言不及軍旅之事、辭不遷官曹之文。上論三墳八索之典、下陳輔世忠義之方。内剛如秋霜、外柔如春陽、不伐其善、不有其庸、如彼川流、毎往茲通、可謂道理丕才、命世希有者已。
 仁者壽、宜享胡考。昊天不吊、年六十有七、建安十三年八月遘疾殞薨。耕夫罷耜、織女投杼、老幼哀號、若喪父母。時道路難險、留墳州土、轉移葬歸立墓。父勉其子、妻勉其夫、欲共扶送、至于郷里。南陽太守樂郷亭侯旻等言及志在州里者、自各發卒、具送靈柩之資、授征拜五官中郎將、乃共上歸本縣葬、見聽許。太和二年、葬于先塋。于是故臣懼淪休伐、以為申伯・甫侯之翼周室、受輅車・乘馬・玄袞・赤舃之賜、詩人詠功、列于《大雅》、至令不朽、況乎將軍牧二川二紀、功載王府、賜命優備。ョ而生者、毓子孕孫、能不歌嘆?乃作頌曰:
 猗歟將軍、膺期挺生。桓桓其武、温温其人。初干千里、允顯使臣。幕府禮命、集于北軍。督齊禁旅、如羆如熊。眷然南顧、綏我荊衡。將軍之來、民安物豐。江湖交壤、刑清國興。蔽芾甘棠、召伯聽訟。周人勿劃、我ョ其禎。欲報之コ、胡不億年。如何殂逝、孤棄萬民!鐫勒墓石、以紀洪。昭示來世、垂芳后昆。 (『蔡邕集』載録)

 死者の生前の功業を称える“誄”というもので、過剰に装飾するのが通例です。又た蔡邕は劉表よりずっと前に殺されているので、荊州の蔡氏が作ったものを、誰かが『蔡邕集』に載録したのでしょう。全文訳は勘弁なので、本伝を補えそうな部分だけ抜粋します。

為郡功曹、千里稱平。上計吏辟大將軍府、遷北軍中候、在位十旬、以賢能特選拜荊州刺史。初平元年十一月到官

 十旬は百日もしくは十ヶ月。スピード出世のような印象ですが、北軍中候は校尉がそれぞれ領する五営を監督する官なので、六百石を以て二千石を監察するという点では横滑りです。
 むしろ着任時期に注目。王叡が殺されたのが山東起義とは関係なかった事が判ります。

南撫衡陽、東綏淄沂、西靖巫山、保乂四疆。

 淄沂は青州・徐州の界隈。東方にだけ随分と大きく出たものです。袁術包囲網の一環として陶謙と提携していたか、それを朝廷から促されていた可能性を示しています。

克厭帝心、即遷州牧、又遷安南將軍、領州如故。

 州牧に遷ったのは李傕らのバラ撒き政策によるものですが、『三國志』とは将軍号が違います。

遣御史中丞鍾繇即拜鎮南將軍、錫鼓吹大車、策命褒崇、謂之伯父;置長史司馬從事中郎、開府辟召、儀如三公。

 鍾繇が御史中丞に就いたのは洛陽還御後なので、董承・趙岐の要請で洛陽の再建に協力した返礼措置か、本文で触れられている許遷都後の貢献の報答でしょう。鎮南将軍でありながら開府儀同三司とか錫鼓吹大車とか破格の厚遇なのは、当時は上位の将軍号が埋まっていた為かと思われるので、やはり洛陽再建への返礼でしょう。

上復遣左中郎將祝耽授節、以揶ミ重、并督交・揚・益三州、委以東南、惟君所裁。

 これも上記の措置とそれほど隔たっていない時期のものと思われますが、鎮南将軍・領荊州牧・仮節が別々に授けられた事が判ります。陳寿ってば本当にまとめ癖がついてるんだから…。
荊州に并督交・揚・益三州ということで、周瑜・甘寧らの天下二分の計の源かもですが、これら朝廷に背いている各州を討てという事でもあり、袁術の存命中の事となります。思わぬところで孫策に 「曹操・董承・劉璋と合力して劉表・袁術を討て」 との詔勅があったという『江表伝』への反証が出てきました。

交州殊遠、王途未夷、夷民歸附、大小受命、其郡縣長吏有缺、皆來請之、君權為選置、

 どこまで信じていいか判断に困りますが、張懌を滅ぼした劉表が交州へも影響力を及ぼしつつあったという傍証にはなるかと思われます。何度も云いますが、官渡〜赤壁の間、劉表は決してのんべんだらりとしていた訳ではありません。

乃令諸儒改定五經章句、刪劃浮辭、芟除煩重、贊之者用力少、而探微知機者多。

 洛陽では霊帝の時代、当時の錚々たる学者を集めて『五経石碑』なるものが建てられました。謂わばその荊州バージョンを作ったというものです。当時の荊州には太学系の学士が大量に流入し、荊州側でも洛陽の学統を正しく継ぐのは吾らだ! という機運が昂揚していたからこその措置でしょう。王暢の孫の王粲などはその代表格です。

年六十有七、建安十三年八月遘疾殞薨

 『三國志』『後漢書』とも記さない劉表の享年が、これによって判ります。

[1] 劉表は同郡の人の張隠・薛郁・王訪・宣靖・公緒恭・劉祗・田林と八交を為し、或る者はこれを八顧と謂った。 (張璠『漢紀』)
―― 劉表は汝南の陳翔(字は仲麟)・范滂(字は孟博)、魯国の孔c(字は世元)、勃海の苑康(字は仲真)、山陽の檀敷(字は文友)・張倹(字は元節)、南陽の岑晊(字は公孝)と八友を為した。 (『漢末名士録』)

 前者は山陽郡の、後者は全国版の番付ですが、范曄『後漢書』が載せる太学の番付も又た違っています。郷党意識の盛り上がりにより、さまざまな集団が独自の番付を作っていたんでしょう。范曄『後漢書』はこの情報をもとに劉表も党錮の獄に遭い、解除されるまで逃げ切ったとしています。

―― 劉表は同郡の王暢に学問を受けた。王暢は南陽太守となり、行ないは倹約に過ぎた。劉表は時に齢十七であったが、諫言を進めて 「僭上ではない奢侈、下に逼らない倹約こそ中庸の道であり、だから蘧伯玉は独り君子でいる事を恥じたのです。府君は孔聖(孔子)の明訓を師とせず、伯夷・叔斉の末操を慕い、皎然として自ら世に遺失されるおつもりか!」 王暢 「倹約で失った者は少ない。これによって風俗を矯めるのだ」 (謝承『後漢書』)

 王暢は二世三公の名門で、三国志的には王粲の祖父にあたります。帝郷として豪族が好き放題をやっている南陽を統治する上で相当苦労した人です。劉表に諫められる以前、法を厳格に改正して奢侈や非法を取り締まった処、「豪族は宗室との繋がりが強く、一たび謗られたらイチコロですよ」 と忠告されて率先倹約に転じたそうです。
 ただ、劉表17歳というと158年となりますが、范曄『後漢書』によると、王暢は陳蕃が太尉の時代に南陽太守に就いているので、その就任は早くとも165年となります。范曄が挿入箇所を間違えたとするのが無難です?

[2] 劉表が初めて荊州刺史となった時、江南では宗賊(反政府的な宗族郷党)が盛んで、(加えて)袁術が魯陽に駐屯して尽く南陽の人々を所有していた。

 荊州の伝統的な治所は武陵郡の漢寿(常徳市)。つまり江南です。

呉人の蘇代は長沙太守を領し、貝羽は華容県長となり、各々兵を阻(たの)んで乱を作していた。劉表は初めて到るや単馬にて宜城(襄陽市宜城)に入り、中廬の人の蒯良・蒯越や襄陽の人の蔡瑁を延(まね)いて与に謀った。劉表 「宗賊は甚だ盛んで、しかも民衆は附属せず、袁術はこれに乗じ、禍は今にも至りそうだ! 私は徴兵したいが、恐らくは集まるまい。どうにか策はないか?」 蒯良 「民衆が附属しないのは仁が足りないからで、附属しても治まらないのは義が足りないからです。苟くも仁義の道が行なわれれば、百姓は水が下(ひく)きに赴くように帰しましょう。どうして至る所での従わざるを患(うれ)え、興兵と策を問うのでしょうか?」 劉表が顧みて蒯越に問うた。蒯越 「治平とは仁義を先にし、治乱とは権謀を先にするものです。兵事は多きに在るのではなく、人材を得る事に在るのです。袁術は勇者ではあっても決断が無く、蘇代・貝羽は皆な武人であって思慮に足りません。宗賊の帥は多くが貪暴で、下属が憂患しています。私が素より養っている者があり、その者に利を以て示させれば、必ず衆を率いて来るでしょう。君はその無道の者を誅し、(余衆を)撫して用いるのです。州の人は生存を楽しむ心を生じ、君の盛徳を聞けば、必ず襁を負って至るでしょう。兵が集まり民衆が附属し、南は江陵に拠り、北は襄陽を守り、荊州八郡に檄を伝えれば定まりましょう。袁術らが至ったとしても何も出来ますまい」
劉表 「子柔の言葉は雍季の論である。異度の計は臼犯の謀である」 かくして蒯越に人を遣って宗賊を誘わせ、至った者五十五人を皆な斬った。その手勢を襲取し、或る者には即座に部曲として授けた。ただ江夏賊の張虎・陳生は手勢を擁して襄陽に拠り、劉表はかくして蒯越と龐季を単騎で往ってこれを説いて降させ、江南を遂に悉く平らげた。 (司馬彪『戦略』) 『後漢書』にて採用
[3] 劉表がケ羲に答えるには、「内(朝廷)に貢職を失わず、外に盟主に背かず。これが天下の義に達したものである。治中は独り何を怪しむのか?」 (『漢晋春秋』)
[4] 張羨は南陽の人である。先に零陵・桂陽の県長となり、甚だ江・湘の間の人心を得たが、性は屈彊で順わないものだった。劉表はその為人りを軽薄視し、たいして礼遇しなかった。張羨はこれにより恨みを懐き、遂に劉表に叛いた。 (『英雄記』)
[5] 州の界内では群寇が尽き、劉表はかくして学官を開立し、博く儒士を求め、綦毋闓・宋忠らに『五経章句』を撰修させ、これを『後定』と謂った。 (『英雄記』) 『後漢書』で採用

 『後漢書』ではさらに、劉表が手懐けた賊を手駒として活用して治安維持に成功した事、荊州に流入した学士が“関西・兗州・豫州の数千人”だったとしています。

[6] あるとき劉表が韓嵩に謂うには 「今、天下は大いに乱れ、どのように定まるか分らない。曹操は天子を擁して許に都している。君は私の為にその隙を観察してくれ」
韓嵩 「聖者とは節を弁え、それに次ぐ者は節を守ります。私は守節の者です。君に臣事すれば君の為にし、君臣の名分が定まれば、死を以てこれを守りましょう。今策名委質、ただ将軍の命令によって熱湯に赴き火を踏もうとも、死んでも辞退するものではありません。私が観るに曹公は至明であり、必ず天下の事を達成しましょう。将軍は上は天子に順い、下は曹公に帰してこそきっと百世の利を享受するもので、楚国はまことにその祐を受け、(その為に)私を使者とするなら宜しいでしょう。計を設けること未だ定まらずに私を京師への使いとし、天子が私に一官を仮したら、則ち天子の臣となり、将軍にとってただの故吏となります。君が在って君に為す以上、則ち私は天子の命令を守り、義として復た将軍の為には死ねなくなるのです。ただ将軍は重ねて思われ、私が背かぬようにして頂きたい」
劉表は遂にこれを使者とし、果たして言う通りになった。天子は韓嵩を侍中に拝し、零陵太守に遷した。還ると朝廷・曹操の徳を称えた。劉表は弐心を懐いていると考え、大いに寮属数百人を集めると兵を陳べて韓嵩を謁見し、盛怒して節を持って斬ろうとし、責めるには 「韓嵩め、よくも弐心を懐いたな!」と。人々は皆な恐れ、韓嵩に謝罪させようとした。韓嵩は動じず、劉表に謂うには 「将軍が私に背いたのであって私が将軍に背いたのではない!」 と、具さに前言を陳べた。劉表の怒りは已まなかったが、その妻の蔡氏が諫めるには 「韓嵩は楚国の名望です。しかもその言葉は直しく、誅する理由がありません」。劉表はかくして誅せずに幽囚した。 (『傅子』) 『後漢書』にて採用
[7] 曹操が柳城遠征を始めた時、劉備は劉表に許を襲わせようと説いたが、劉表は従わなかった。曹操が還るに及び、劉備に謂うには 「君の言葉を用いず、そのためこの大いなる機会を失ってしまった」 劉備 「今、天下は分裂し、日々干戈は続いており、機会が来る事がどうして終極したと出来ましょう? もしこの後に応ずる事ができれば、今回の事は悔恨するに足りません」 (『漢晋春秋』)
[8] 劉表が疾を病むと、劉gは還って疾病を見舞った。劉gの性は慈孝で、蔡瑁・張允は、劉gが劉表に会うことで父子が相い感応し、更めて託後の意を持つ事を恐れた。(そのため劉gに)謂うには、「将軍は君に江夏に臨んで撫し、国東の藩屏たるを命じました。その任は至重であるのに、今、軍兵を解いて来たとなれば、必ず譴怒されましょう。親の歓心を傷ってその疾病を増すのは孝敬の道ではありませんぞ」 かくて戸外に遮り、通見できなくした。劉gは流涕しつつ去った。 (『典略』) 『後漢書』で採用
[9] 傅巽、字は公悌は、瓌偉(魁偉)にして博達で、知人の鑒(人物鑑識眼)があった。公府に辟されて尚書郎を拝命し、後に荊州に客居し、劉jを説いた功で爵関内侯を賜った。文帝の時に侍中となり、太和中(227〜33)に卒した。
傅巽が荊州に在った時、龐統を目して半英雄とし、裴潜が終には清行によって顕れると保証したが、龐統は遂に劉備に附いて諸葛亮に次いで待遇され、裴潜の位は尚書令に至り、揃って名と徳行があった。魏朝に在っては、魏諷は才智によって聞こえていたが、傅巽は必ず反くと考え、ついにその言葉の通りになった。傅巽の弟の子の傅嘏には、別に伝がある。 (『傅子』)
―― 王威が劉jに説くには 「曹操は将軍が既に降り、劉備を已に走らせた事で、必ず解弛して備えておらず、軽装で行動して単独で進んでまいりましょう。もし私に奇兵数千を給われれば、これを険阻に邀撃し、曹操を獲る事ができます。曹操を獲れば威は天下を震わせ、坐して虎歩できましょう。中夏が広いとはいえ、檄を伝えて定められます。これは徒らに一勝の功を収めて今日を保守するだけではありません。この難遇の機(千載一遇の機会)を失ってはなりません」 劉jは納れなかった。 (『漢晋春秋』)
―― 建安初、荊州童謡曰:「八九年間始欲衰、至十三年無孑遺。」言自〔中平〕以来、荊州独全、及劉表為牧、民又豊楽、至建安八年九年当始衰。始衰者、謂劉表妻死、諸将並零落也。十三年無孑遺者、表当又死、因以喪破也。是時、華容有女子忽啼呼云:「荊州将有大喪。」言語過差、県以為妖言、繋獄月余、忽于獄中哭曰:「劉荊州今日死。」華谷去州数百里、即遣馬吏験視、而劉表果死、県乃出之。続又歌吟曰:「不意李立為貴人。」後無幾、太祖平荊州、以涿郡李立字建賢為荊州刺史。 (『『捜神記』』)

 建安の初めに、荊州が劉表の妻の死で衰え、劉表の死で終わるとの童謡が流行った。華容の女子がある日突然、劉表が死んだと泣いた。数百里離れた襄陽に確認すると事実だった。後に李立が刺史になる事を予言して当った。

[10] 布令 「(嘗ての)楚には長江・漢水の山川の険阻があり、強国として長らく秦と争衡したものであり、荊州とはその故地である。劉鎮南は久しくその民を用いた。死後は諸子が鼎峙し、全土を保つ事は難しかったが、引き延ばしは可能だった。青州刺史劉jは高潔で(いろいろと美辞麗句)鮑永竇融が領地を捨てた事でも及ぶまい。封列・州刺史では不足だと考えていたが、帰郷を求めてきた。監史は尊位だが秩禄はそうでもない。それゆえ諫議大夫・参同軍事にしよう」 (『魏武故事』)
[11] 蒯越は蒯通(蒯徹)の後裔である。充分な智があり、魁傑(大柄)で雄姿があった。大将軍何進がその名を聞き、辟して東曹掾とした。蒯越は何進に諸々の閹官の誅戮を勧めたが、何進は猶豫して決断しなかった。蒯越は何進が必ず敗れると知り、転出を求めて汝陽令となり、劉表が境内を平定するのを輔佐し、劉表は彊大になる事ができた。詔書にて章陵太守を拝命し、樊亭侯に封じられた。荊州が平らぐと、曹操は荀ケに与えた書簡で 「荊州を得た事は喜ばないが、蒯異度を得た事だけは喜ばしい」 建安十九年(214)に卒した。臨終に曹操に書簡を与え、門戸を託した。太祖の報書 「死者が生き反っても、生者とは愧じぬようにするものだ。孤の挙げた者は少ないが、多くの事は行なった。魂に霊があるなら、亦た孤の言葉を聞く事になるだろう」 (『傅子』)
[12] 韓嵩、字は徳高。義陽の人である。若きより好学で、貧しくても志操を改めなかった。世が乱れようとしている事を知ると、三公の辟命にも応じず、同好の士の数人と酈西の山中に隠居した。黄巾が起ると、韓嵩は南方に避難し、劉表が逼って別駕とし、従事中郎に転じた。劉表が天地を郊祀すると、韓嵩は諫めて従わず、ようよう違忤するようになった。使命を奉じて許に到った事は前注にある。荊州が平らいだ時、韓嵩は疾を病み、在所にて大鴻臚の印綬を拝授された。 (『先賢行状』)

 劉表が“天地を郊祀”した事は、この『先賢行状』の他、『零陵先賢伝』の劉先伝で言及されています。天地郊祀は天子の儀式であり、そのため范曄『後漢書』では 「劉表の僭儀」 が詳細に語られています。又た同書では劉焉と劉表が互いに相手の僭儀を謗った事にも触れていますが、いくら両者が感情的に対立していたとはいえ、劉表が荊南を接収する以前に僭儀を用いては不自然なので、こちらは范曄お得意の 「順わない者は徹底的に貶める」 筆法かと思われます。

[13] ケ羲は章陵の人である。
[14] 劉先、字は始宗。博学彊記で尤も黄老の学を好み、漢家の典故に明習(熟達)していた。劉表が別駕とし、章を奉じて許に詣り、曹操に通見した。時に賓客が揃って会同していた。曹操が劉先に問うには 「劉牧が郊天(郊外での天祀)したのはどうしてか?」 劉先 「劉牧は漢室の肺腑(血縁)であり、牧伯に位に居り、しかし王道は未だに平安とはならず、群凶が路を塞ぎ、玉帛を抱いても聘頫(奉献)できず、章表を修めても上聞に達する事ができず、そのため郊天祀地して赤誠(赤心)を昭らかに告げたのです」
曹操 「群凶とは誰だ?」 劉先 「目を挙げれば全てです」 曹操 「今、孤には熊羆の士(猛兵)、歩騎十万がある。命を奉じて罪人を伐てば、誰が服さずにおれようか?」 劉先 「漢道は陵遅(漸衰)し、群生(百姓)は憔悴し、天子を翼戴して海内を綏寧し、万邦を徳に帰させる忠義の士とて無く、兵を阻(たの)んで残忍に安んじ、己のような者は莫いと謂っています。蚩尤[※]智伯が今に出現したようです」 曹操は嘿然(黙然)とした。劉先を武陵太守に拝した。荊州が平らぐと劉先を始めは漢の尚書とし、後に魏国の尚書令とした。 (『零陵先賢伝』)

※ 黄帝と天下を争った、中国神話で最兇とされる悪神。

―― 劉先の外甥でもある同郡の周不疑は字を元直といい、零陵の人である。
―― 周不疑は幼にして異才があり、聡明敏達、曹操は娘を娶せようとしたが、周不疑はどうにも受けなかった。曹操の愛子の曹倉舒は夙に才智があり、周不疑とは同輩になると考えた。曹倉舒が卒するに及び、曹操は心中に周不疑を忌んで殺そうとした。曹丕がダメだと諫めたが、曹操は 「この人は汝の御せるような相手ではない」 と、かくして刺客を遣って殺させた。 (『零陵先賢伝』)
―― 周不疑が死んだ時の齢は十七で、文論の四首を著していた。 (摯虞『文章志』)
―― 劉表の死後八十余年、晋の太康中に至り、劉表の冢が発かれた。劉表および妻の身は生きているようで、芬香は数里に及んだ。 (『魏晋世語』)

 評曰:董卓狼戻賊忍、暴虐不仁、自書契已來、殆未之有也[1]。袁術奢淫放肆、榮不終己、自取之也[2]。袁紹・劉表、咸有威容・器觀、知名當世。表跨蹈漢南、紹鷹揚河朔、然皆外ェ内忌、好謀無決、有才而不能用、聞善而不能納、廢嫡立庶、舍禮崇愛、至于後嗣顛蹙、社稷傾覆、非不幸也。昔項羽背范摧V謀、以喪其王業;紹之殺田豐、乃甚於羽遠矣!

[1] 昔大人見臨洮而銅人鑄、臨洮生卓而銅人毀;世有卓而大亂作、大亂作而卓身滅、抑有以也。 (『英雄記』)
[2] 臣松之以為桀・紂無道、秦・莽縱虐、皆多歴年所、然後衆悪乃著。董卓自竊權柄、至于隕斃、計其日月、未盈三周、而禍崇山岳、毒流四海。其殘賊之性、寔豺狼不若。「書契未有」、斯言為當。但評既曰「賊忍」、又云「不仁」、賊忍、不仁、於辭為重。袁術無毫芒之功、纖介之善、而猖狂于時、妄自尊立、固義夫之所扼腕、人鬼之所同疾。雖復恭儉節用、而猶必覆亡不暇、而評但云「奢淫不終」、未足見其大惡。

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